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阿修羅「空耳」板でも紹介された『なぜアメリカは、こんなにおかしいのだろう』(「株式日記と経済展望」ではなく原文の"アクエリアス"さんの方)をUPしている物理学者のサイトから紹介:
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Essay/Es020215.htm
こんな記事が、目にとまった。朝日新聞2月5日の「くらし」の欄、「言いたい」という小さな囲み記事である。まずそれを読んでいただきたい。
●世代間の不公平感じる
個人差はあるだろうが、私の知る年金生活者の多くは、家を持ち、金融資産が1千万ー2千万円あり、生活費としては潤沢すぎるほどの年金を受給している。税制や医療保険でも手厚い保護を受けている。
一方、働き盛りの現役世代の失業率は上がり、能力や意欲のある人たちがハローワークに詰めかけている。買い手市場の今日、労働条件・待遇は劣悪で、驚きを通り越して怒りさえ覚える。住居費・教育費の高い日本で、夫婦と子どもが十分に生活していける賃金を出す企業が、いったいどれだけあるのだろうか。
このような社会では、若者の多くは日本に失望し、近い将来、高い税金と社会保険料の負担に耐えかねて日本を捨て、将来性のある国へと流出するのではないか。
(東京都北区主婦46歳)
主婦が、言いたいことをいい放しに書いたものゆえ、こんなものだと、放っておけばいいのだろうが、問題を感じた。
こんな声が、表に出てきて、新聞に取り上げられること自体、日本の陥っている経済的苦境を反映している。経済が成長を続けていて、若い世代ほど、前の世代より、便利で豊かで恵まれた生活へとレベルが向上してきた時代が終わり、若い世代が、上の世代をうらやましく思う、退化の時代が始まっているのだろうか。
たしかに今の現役中高年サラリーマンは、賃金カットやリストラにあう一方、重い住宅ローンの返済や子供たちの教育費に苦労していることだろう。しかし現時点での不遇をかこち、上の世代をうらやむのは、筋違いではないだろうか。
今の40代。ようやく日本経済が復興し始めた昭和30年前後に生まれ、育ってきたきた時期は、日本の経済成長が最もめざましかった時代だろう。団塊の世代が通り過ぎたあとだから、進学も、就職も比較的楽だったことだろう。会社でも、上の世代が苦労して築き上げた路線に乗っていれば、何とかやってこれたのではないか。そんな苦労知らずでやってきたところに、十数年来の日本経済の不調の付けが、今にわかに身辺に押し寄せてきた。
先の投書のような泣き言を聞くと、このように言いたくなる。
われわれ世代は、もっと大変だったんだよ。戦争があり、親や親族を亡くし、家を焼かれ、戦後には食べるものがなく、学校だって整備されず、進学機会も乏しく、就職も難しく、そんな中で、どうにかこうにか自分や家族の暮らしを立て、子育てをしてきた。僕らの世代を見てごらん。食卓に出されたものを食べ残すなんて、誰もしやしない。もったいなくて、そんなことできないんだ。40代の人たちはどうなのだろう。平気で、食べ散らかして、残すんじゃないかな。近頃の若い人たちは、もっとひどいけれど。
まあ、もう少し苦労することだね。暮らしを立てていくのは、もともとそう楽なことじゃあないんだよ。今までが恵まれすぎた。それに甘えてきて、ちょっと悪くなったら、こんな不満をぶちまけて、世代間が不公平だ、なんて、よくいうよ。
人間の一生っていうのは、巡り合わせだね。人は歴史の大きな流れの中の小さな存在に過ぎない。歴史は時には大きく波動する。その波のどこに引っかかるかで、世代ごとの運命は、それぞれに違ってくる。
それぞれの世代は、それぞれの歴史状況の中で、ある時は苦難に直面し、ある時は繁栄を享受する。楽な世代もあるし、苦労する世代もある。でも、一生を統べくくれば、まあ、バランスはとれているんじゃないかな。たとえバランスを欠いていても、それは巡り合わせ、自分らの世代に与えられた運命だと、まずは受け止めなくちゃ。その上で、自分たちで、この事態をどうするか、考え、主張し、行動しなくちゃ。
それをあの世代はいい、だの、こんな日本なら若い世代は逃げ出しちゃうよ、なんて、なんと無責任ないいかただろう。
しかし、こんなことを世代間で言い合うことは悲しいね。日本が衰え、滅び行く国であることのしるしかもしれない。
少し別の話をしよう。たしかに、世代間の巡り合わせの損得がある。実は昨日、二人の友人と、東京で久しぶりに会い、食事をしながら話し合った。3人とも、かつて同じ職場で、役割は違うが、協力しあった仲である。私ともうひとりは、全くの退職者、もうひとりは第2の就職先でまだ頑張っている。
話題は自ずとかつての職場のことになる。それも回顧談よりも、いまそこがどうなっているのだろうかという話になる。かつての職場は今、組織の再編や統合の嵐にもまれている。今その現場で、苦闘を強いられている後輩たちの仕事ぶりを想像する。
「われわれの時代はよかったね」「この嵐の襲来を、ぎりぎりすり抜けて、辞めることができてラッキーだった。今現職にいたらどんなに苦労していることか」 と自分らの世代の恵まれていたことにほっとする。
その一方、今、後輩たちは、仕事にやりがいを感じて働けているのだろうかと心配する。われわれの仕事の最盛期には、事業をどの方向に発展させるか、つねに前向きにアイデアを凝らし、やりがいを感じて仕事に打ち込んでいた。いわば事業の攻めの段階を担った。後輩たちは、今いかに仕事と組織を守るかに、工夫を凝らす段階に巡り会っている。いわば守りの段階を担っている。
組織にしても、個人にしても、こういう時代の巡り合わせになるのは、仕方がないのだ。波動しながら、あるいは螺旋を描きながら、発展するのが歴史の姿なのだ。その宿命を背負って、それぞれの世代が真摯に立ち向かう。その先に、やがて再びいい時代がやってくるかもしれない。そのような巡り合わせになるかもしれないし、次の世代の捨て石になるだけかもしれない。それでも次の世代の幸せの礎を築くなら、それはそれでいいとしなければならない。
ひとりの主婦の繰り言をきっかけに、いろいろと考えてみた。ここでは話題にしなかったが、年金、税、その他社会保険などの負担と給付の公正の確保は、それ自体政治の問題として考える必要はあるだろう。
[2002/02/15]