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以下、1996年9月、ある掲示板に投稿した文です。現在領土問題をきっかけにナショナリズムを煽ろうとしているように感じられます。少しでもこの文が役に立てばと思います。
※それにしても、今読み返してみて、元資料を参照しながらですけれど、我ながらよく書いたと思います。確実に自分の脳細胞が萎縮しているのを感じます。
尖閣列島の名の由来
最近、尖閣列島絡みの掲示が多いので調べてみた。尖閣列島というのは、北緯25度40分から26度、東経123度20分から123度45分の間の中国東海に散在する小島嶼群である。中国名では釣魚台列島と呼ばれる。
日本でこれらの島嶼を尖閣列島と総称するようになったのは、1900年(明治33年)、沖縄県師範学校教諭・黒岩恒が校命によりここを探検調査し、「地学雑誌」に発表したその報告論文中で、名付けたことを明らかにして以降のことである。
その由来は、イギリス海軍の海図と水路誌である。そこには、釣魚島の東南東3浬半の二個の小島と数個の拳石を、その形状により「Pinnaclegroup」と名付けている。それに基づいて当時の日本海軍の水路誌に「ピンナックル島(尖頭諸嶼)」と記された。沖縄県師範学校教諭・黒岩恒は、その尖頭という形状は、釣魚島にも当てはまるので、釣魚島、尖頭諸嶼およびその東北13浬の黄尾嶼を総称して、尖閣列島と名付けたことが彼の書いた論文に見える。
翻って中国においてはどうだろうか。文献では、「使琉球録」(1534年)に出てくる釣魚嶼という呼び方が記録に出てくる最初ではないかと言われている。「使琉球録」と言うのは、明の嘉靖11年(1532年)、琉球中山王尚清が明の皇帝の冊封使を受けたとき、その冊封使として那覇に来た陳侃の著した記録である。そこに、「釣魚嶼」と言う言葉が出てくる。台湾近辺の漁民にとっては記録に出てくる遙か昔から釣魚嶼の近辺は良き漁場として利用されていたようである。何故なら福州或いは台湾の基隆あたりから中国東海に出漁すると風向きと潮流によって容易に釣魚列島に至るからである。またいくつか有る島嶼のうち釣魚島には小さい泊まりがあり、真水の湧くところもあるので、避難漁民がこの島を度々利用していた。
翻って琉球の漁民から釣魚嶼を見ると、沖縄群島の久米島や八重山群島から釣魚列島に至るのは風向きと潮流が逆で、当時の船では非常に困難だったようだ。冊封使の琉球往復も、通常ならば、夏至のころに福州から台湾の基隆沖、釣魚島の北側を通り赤尾嶼(釣魚島嶼の一番東端の島)付近で黒潮を渡り、久米島をへて那覇に入港したようである。また、帰りは冬至のころ、那覇から久米島をへて、ほとんど真っ直ぐ北上し、ついで西航するので釣魚島の島影を見ることもなかった。琉球人が釣魚列島を知る機会は、冊封使の来路、または琉球王の使節として中国に渡った者に従って帰路で見る以外は稀だったようである。だから一般の漁民などはほとんど知らず、明治に至って初めて尖閣列島という日本名が付けられた訳である。
日本人の著した著書に釣魚島嶼が最初に出てくるのは林子平の「三国通覧図説」
(1785年)である。その琉球分のところに釣魚、黄尾、赤尾の釣魚島嶼の名前が出てくる。残念ながら日本名の尖閣ではなくて(日本名の尖閣島が付いたのが明治33年だからあたりまえだが…)、しかも琉球36島とは明らかに区別して書かれている。また、この「三国通覧図説」は清の康煕58年(1719年)の冊封使徐葆光の「中山傳信録」によるものであり、この「中山傳信録」自体がまた琉球の大学者程順則の著「指南広義」(1708年)によっている。そして、琉球の大学者程順則はこの「指南広義」の中で、「琉球36島」と言って、その範囲を西は久米島、西南は八重山群島から以内の島々を上げるだけで、釣魚、黄尾、赤尾等は上げず、久米島を琉球の西南界だと言っている。琉球人自身にも釣魚島は中国領であることが意識されていたようである。
色々調べるほどに、釣魚島嶼(日本名尖閣列島)が中国の
領土である根拠が次々に出てくる。ヤ、ヤバイ。でも事実
は事実だ。