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(回答先: 尖閣列島の名の由来 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 3 月 24 日 22:48:52)
以下、1996年9月、ある掲示板に投稿した文です。現在領土問題をきっかけにナショナリズムを煽ろうとしているように感じられます。少しでもこの文が役に立てばと思います。
※それにしても、今読み返してみて、元資料を参照しながらですけれど、我ながらよく書いたと思います。確実に自分の脳細胞が萎縮しているのを感じます。
盗んだ物は返すべきだ、尖閣
以下の毎日新聞の記事を引用した投稿があった。
》「日本は1895年に閣議決定で尖閣諸島を沖縄県に編入、領土とした。戦前は
》カツオ節製造など入植事業も行われた。戦後、沖縄とともに米国の管理下に置か
》れ、一部の島は米軍の射爆撃場として使われた。1972年の沖縄返還で日本に
》施政権が返還された。日本政府は尖閣諸島はどの国にも属していなかった無人島
》であり、日本政府が「先占」することで領有権を得たと解釈。中国や台湾はもと
》もと台湾の一部だったと主張している。」
まず、
》「日本は1895年に閣議決定で尖閣諸島を沖縄県に編入、領土とした。
閣議決定で領土を増やせるというのは、すごい論理だ。この手で言ったら世界中日本の領土だらけになってしまう。釣魚台列島はもともと中国の領土であり無主ではない。だから、先占もあり得ない。
国際法上の「無主地」として「先占」の対象となる土地は住民が住んでいないだけでなく無名の島である場合が多い。釣魚台の場合はれっきとした名前が中国語で付いていた。そして台湾の漁民たちも漁場の基地として使っていたのだから「無主地」
「先占」の対象ではありえない。中国人が釣魚嶼という呼び方で呼んでいたのは、
「使琉球録」(1534年)で確認できる。日本でこれらの島嶼を尖閣列島と総称するようになったのは、たかだか1900年(明治33年)からの事だ。そして、中国は名前を付けていただけでなく、「実効的支配の痕跡」も文献で残している。陳侃や郭汝霖と同時代の胡宗憲が編纂した「籌海図編」(1561年の序文がある)だ。明の政府は倭寇の襲来に備えて、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防御策を系統的に述べ、釣魚諸島の位置とその所管区を示している。
台湾、澎湖島は日清戦争の講和条約(1995年4月17日調印、5月8日批准書交換)で取ったのだから強奪と言える。釣魚台列島の場合は、講和条約より前、同年1月の閣議で領有した言う。しかし、この閣議決定はむろん公表されたものではないので、いわば窃取と言えるだろう。日清戦争の圧倒的な勝利が決まりかけている時
に、こっそり取ったのであるから盗人の所業である。
》戦後、沖縄とともに米国の管理下に置かれ、一部の島は米軍の射爆撃場として使わ
》れた。1972年の沖縄返還で日本に施政権が返還された。
ここは、本来戦争終結時に中国に返還すべきものを、不法に管理下に置き、射爆撃場としていたのであって米軍には元々何の権利もない。元々権利のない者が勝手に日本に施政権を返還したからといって、釣魚台諸島を一緒に渡した事にはならない。中国のものはどこまで行っても中国のものである。
以上、参考資料は1972年、「中国研究月報」6月号、「釣魚諸島(「尖閣列島」など)の歴史とその領有権」井上清より
追記 前記資料には、幕末の知識人・林子平の『三国通覧図説』付図「琉球三省并三十六島之図」の現物のカラー写真が付録として付いている。鹿児島湾付近から南方のトカラ列島までを灰緑色に塗り、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領(※)は薄茶色に塗り、西方の中国領土は桜色に塗っている。そして、花瓶嶼、彭佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山を中国本土と同じ桜色に塗っている。
※沖縄本島の北側の与論島から鬼界島にいたる、奄美大島を中心とする群島は、もと琉球王国であった。しかし、1609年島津氏が琉球王国を征服した後、これらの島々は島津氏の直轄領地とされた。その事は、林子平もよく知っていたらしいが、それにもかかわらず、これらの島々を琉球三十六島のうちに入れるのが、中、琉、日、どの国の学者にも共通していた。
以上、日本の先覚的な知識人も釣魚台列島は中国領であると認識しているのであ
る。あまり愚かなことを言うと、先覚者たちに笑われるのではないだろうか。