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(回答先: 尖閣列島の名の由来 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 3 月 24 日 22:48:52)
以下、1996年9月、ある掲示板に投稿した文です。現在領土問題をきっかけにナショナリズムを煽ろうとしているように感じられます。少しでもこの文が役に立てばと思います。
※それにしても、今読み返してみて、元資料を参照しながらですけれど、我ながらよく書いたと思います。確実に自分の脳細胞が萎縮しているのを感じます。
尖閣、沖縄県令のためらい
1879年(明治12年)琉球藩が沖縄県とされる。そのころ、福岡県出身の古賀辰四郎が那覇に移り住み、沖縄近海の海産物の採取、輸出の業を始める。
1885年(明治18年)古賀は「久場島」(釣魚島)に航海し、ここに産卵期のアホウ鳥が群がることを発見し、それを採取し大いにもうけることを思いつく。那覇に帰ると早速事業の為の土地の貸与を沖縄県庁に願い出たようである。
かねてから、朝鮮・中国への侵略戦争を窺っていた天皇政府は軍事的見地から琉球を重視しはじめ、琉球と中国本土に散在する島々にも注目しはじめていた。古賀の願い出がきっかけになったのであろうか、そのころ内務省は沖縄県庁に同県と清国の間に散在する無人島の調査を「内命」した。その内命に対して、沖縄県令は9月22日付けで、内務卿山形有朋に上申をした。それが以下の文である。
「第三百十五号
久米赤島外二島取調べの儀に付上申
本県と清国福州間に散在せる無人島取調べの儀に付、先般、在京森本本県大書記官へ御内命相成候趣に依り、取調べ致し候処、概略別紙の通りこれ有り候。抑も(そもそも)久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県に於て称する所の名にして、しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近したる無人島嶼に付き、沖縄県下に属せらるるも、敢て故障これ有る間敷(まじく)と存ぜられ候へども、過日御届け及び候大東島(本県と小笠原の間にあり)とは地勢相違し、中山傳信録に記録せる釣魚
台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一なるものにこれ無きやの疑なき能はず。
果して同一なるときは、既に清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉せる、のみならず、それぞれ名称をも付し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり。依て今回の大東島同様、踏査直ちに国標取建て候も如何と懸念仕り候間、来る十月中旬、両先島
(宮古・八重山)へ向け出帆の雇ひ汽船出雲丸の帰便を以て、取り敢へず実地調査、御届けに及ぶべく候条、国標取建等の儀、なほ御指揮を請けたく、此段兼て申上候也 明治十八年九月二十二日
沖縄県令 西村捨三
内務卿伯爵 山形有朋殿」
なお原文は平仮名でなくカタカナ混じり文。
この上申書の大意は、────これらの島(久米赤島、久場島及び魚釣島)は「中山傳信録」に記録されている釣魚島等と同じものであると思われる。だとすると、これ等の島々は既に清国側でも「詳悉せる(詳しく知っている)のみならず、各々名称をも附し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり」。つまり、これは中国領らし
い。「依って」この島々に、無主地であることの明白な大東島と同様に、実地調査してすぐ国標を建てる訳にはいかないだろう。────である。
沖縄の役人は釣魚台列島が中国領であることを知っていた。そして、山形が調査を内命してきた島々がどうもその釣魚台列島と同一らしいと考えて、国標を建てる事をためらっている。出先の役人の困惑が目に浮かぶような文献である。(^^:
追記 正式の命令とせず「内命」と言うところにも注意すべきと思う。山形自身清国領であると考えていたことを窺わせる。かすめ取ろうという下心が感じられるのである。
実際、古賀辰四郎は、1885年に願い出た以降も、1894年(明治27
年)、つまり日清戦争開始の年にも釣魚島開拓の許可願いを沖縄県に出したが、県は「同島の所属が帝国のものやるや否や不明確なりし為に」、とその願いを却下した。その後、古賀は「さらに内務・農商務両大臣に宛て請願書を出すと同時に、上京して親しく同島の実況を具陳して懇願したるも」、なお許可せられなかった、と言う。
(以上、「沖縄毎日新聞」1910年(明治43年)1月1日〜9日号に連載された、「琉球群島における古賀氏の業績」より、記事は、那覇市編集「那覇市史史料集第二巻に収録)
古賀が借地権を認められたのは、実に最初の願い出から10年後、つまり日清戦争勝利後の事であった。