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(回答先: フリーズ・ダウン 投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 3 月 18 日 23:59:47)
ぷち熟女さん、どうもです。
最後の「あっしら様のおっしゃる『“触覚”の重要性と危険性』とはどんなものなのか
分かりやすく説明していただけますか」に応えさせていただきます。
“触覚”の重要性は、男の女の関係にとって不可欠のものというかそれこそが男の女の関係であると同時に、目に見えない壁を壊し素の相手を感じられるようになるきっかけになることにあると思っています。
“触覚”がない男と女の関係は、知り合い(友人やある目的をともにする人)であったり、共同生活関係ということになります。
セックスレスの共同生活関係は、それはそれでいいと思っていますが、男と女の関係ではありません。寂しさを遠ざけたり、利便性を評価したり、糊口をしのぐためであったり、楽しかったり、子供を育てたりする“場”です。ですから、共同生活関係性を満たす相手は、ホモセクシャル云々抜きで同性であってもかまわないものだと思っています。
恋愛関係では心ときめき何の不満もなかった相手でも、結婚して生活をともにするとイヤな部分が見え始めて嫌いになってしまうこともあります。
それで離婚したり、それでセックスレスになったり、それで口もロクにきかず顔も合わせないという共同生活関係になることもあるはずです。
現在のところ、パートナーシップには、男と女の関係と共同生活関係が混ぜこぜになっている側面があると思っています。(将来もそうかもしれませんが..)
さらに言えば、性的感覚のすばらしだけを求める関係性もあるはずです。
男と女の関係でも共同生活関係でもなく、セックス関係のみというものです。どのような関係性もロジカルには等価で、どれを重視するかは個人の好みです。
個人的には、男と女の関係と共同生活関係をともに充足できるパートナーシップがベストだと思っていますが、男と女の関係はあるが共同生活関係はなしだとか、逆に、共同生活関係だけど男と女の関係はなしでもまったく問題ないと思っています。
(男と女の関係だけの場合は子供に関する合意が必要です。共同生活関係だけど男と女の関係はなしの場合は、それぞれが別の時空間で男と女の関係があるというイメージです)
問題は、男と女の関係と共同生活関係のいずれに高い価値性を見出すのかということになります。
私は、男と女の関係性をより重視します。惚れた相手が、共同生活関係に向かないと判断したらそれを避けるか、自分の力で解消できそれを自分がイヤだと思わないのならそうするかたちで共同生活関係に入ります。
前置きが長くなりましたが、男と女の関係性を重視するのなら、“触覚”を通じてどうなのかを知らなければ始まりません。また、“触覚”なくして男と女の関係が深まることもないとも思っています。“触覚”だけが目に見えない壁を突き崩すことができる契機だし、“触覚”のときにそれまでは見えなかったものも見えることがあると思っています。
(“触覚”といっても、セックスがいいという意味ではなく、その相手とセックスをするなかで得る感応です)
まず、見知らぬ女性を目にします。ほとんど女性は意識にも上らないまま通りすぎていく存在で終わります。おおっと気になっても、わざわざ声をかけることはありません。
(面倒ですし、そのようなきっかけで口説くのは気が引けるということもあります。先方からなら大歓迎ですが(笑))
やはり、どういう場かは別にして、会話を交わしたり名前を知っていることが女性に近づくきっかけになります。それを通じていい女だと思ったら、“触覚”に行くしかありません。
「言葉の掛け合い」も重要だと思っていますが、それは入り口であり、“触覚”を経るなかで「言葉の掛け合い」もより深みがあるものになると思っています。
「言葉の掛け合い」は、絶対に“触覚”の代わりを果たすことができないものだと思います。
「言葉の掛け合い」と「身体の掛け合い」のシンクロこそが男と女の関係の在り様だと思っています。
このようなシンクロ的関係性のなかで生じる感応こそが、惚れるということだと思っています。
そこにおいては、相手が発する言葉も、論理ではなく、相手そのものを感じる媒介物になります。
※ そう言えば、あるとき昼飯を独りで食べているとき、一人の女性が私のテーブルに座りました。誰も座っていないテーブルがたくさんあるのにです。こういうときは声をかけるべきかそのまま黙って食べ続けるか迷ってしまいました。そのときの女性の意図はなんだったのか、そういうときは声をかけるべきなのか、どう思います?
“触覚”の危険性は、性的感覚の魅惑性と馴れ合いです。
男だけかもしれませんが、性的感覚はそれ自体として魅惑的なものですから、その感覚を味わうために関係性を維持しようという気持ちになります。
馴れ合いは、「身体の掛け合い」を経験したことで、分かり合えた気になれることや、相手が自分のものになったかのように錯誤したり、相手は自分のことに責任をもたなければならないと思うことです。
このような危険性が、結果オーライになることも無数にあるはずです。