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(回答先: おそレスすみません 投稿者 リーマン 日時 2004 年 3 月 18 日 02:17:53)
リーマンさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
思いがけずリーマンさんの当事者意識のようなものを問うことになってしまったようです。どうやら雑談板の趣旨を逸脱してしまったのかも知れません。現状の問題を意識するとき原因を求めぬことは変革を求めぬこと、すなわち問題解決の当事者意識がなきことと同義であると認識しています。当事者意識の所在については日頃日本人と接するなかで直面し当惑する問題でありますが、そんな私自身の心象が反映されたものですのであまり気に留めないで欲しいと思います。
しかしながら、リーマンさんの卓越したアナロジーを単なる思考実験で終わらせるとしたら、それもまた惜しいことであると思います。リーマンさんも私もマクロ的には21世紀ないしは2004年の同時代を生きているのですが、お互いがもう少し限局した情況下にはあらぬことが、少なからず接点の発見に際し齟齬をきたしてしまっていると感じます。つまり共有すべき情況の不在ということに尽きるのではないかと受け止めています。
>一方で、真正面から「理由とは何か」と問題を立てて、「理論」や「史観」や「主義」や「解釈」を回答としてどこからか持ってきて手のひらにのせてみる、ということは好きではありません。そういうものに寄りかかって物を見ようとすることは、一種の気力の衰えであり、自分という存在がキチンと大地に立つことを出来にくくさせる、と思っています。(騙されるモトです。)
私は他のスレッドで、“ability obliges”と提起していますが、能力のある人達には確固たる当事者意識を持って欲しいと願っています。そして、「理論」や「史観」や「主義」や「解釈」は価値観の形成のためにあるだけでなく、当事者意識を展開していく場合のメルクマール設営のためにあると思うのですが、如何でしょうか。
>もし、「日本(人)が自分の姿を冷静に認識するのが不得意だ」という主張に共感いただける方がいらっしゃったとしたら、「理由」とか「背景」とか「説明」等の出来合いのものに頼らずに、それぞれがその事実をじっと見据えてしばらく付き合ってみる、ということが大事なんじゃないかと思っています。
自身の30代前後を思い起こしてみますと、キャリアから見込まれたキャリア官僚の卵や出世頭の上司から見込まれた人物なればこそ、そのように諭されたものでした。つまり、あまり先鋭的にならず、ただし勉強だけは怠ることのないようにしておけという訓示です。(そうしているうちにコップの中の争いから抜け出せなくなってしまうのは、宮仕えの身の習い性が陥り易い甘い罠なのですが。)
少なくともリーマンはあちら側に立つ人ではないと信じていますし、いつの日か原因の究明までを眺望した批評を展開されることを期待しております。
また、会いましょう。