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(回答先: とんでもなく遅いレスになってしまいました 投稿者 リーマン 日時 2004 年 3 月 29 日 07:16:15)
リーマンさん、レスをありがとうございます。
さて、
>何度か、如往さんの直前の文章とその前の私の文章を読み返してみたのですが、話がよく繋がりません。如往さんは、文章をわりあい噛み砕いて書いてくださっているので、私の読み間違いは無いと思うのですが、そうだとすれば、如往さんが私の文章を間違って読んでおられるのでしょうか。私の文章を一回ぐらい読んで、すぐレスされたのかな。
全体をコピーして、少なくとも3回は通読し、関連事項を参照しながら、逐語的に回答すべきか、それとも表現方法を変えて文脈に込めた形でこちらの意向を伝えるべきかを検討するのが習い性になっています。リーマンさんへの回答の場合には後者の方法を採ることが多いかも知れませんし、さらに深く原因の究明をしていただければ喜ばしいとの思いを込めつつ、またその辺のニュアンスを汲んでいただけるものと期待しながらレスの文をおこしています。
ところで、少し横道に逸れるかも知れませんが、敢えて自分について語ろうとしたことがあるだろうかと自問すると、愚民党さんとの一聯の交信に最も表われているのではと思い当たります。遠い過去のことですが、多少の時差はあるものの互いに「戦う」ことにおいて、共有すべき時間と空間を追認できる地平(情況の記憶)があったからこそ語ることができたと思っています。その後も、愚民党さんは連合赤軍や左翼の「怨念」や「遺志」を受け留めては、ご自身のpathosの有らん限りを傾けて、今も尚「戦い」続けているように見えます。
私の方はどうかというと、個人的な経緯を傍らに置けばその後は世俗に埋没することになり、時々思い出したように他者主催の反戦パレードに加わってみたりと、ethosの延長線上に「戦い」の活路を日々見い出そうとしている、それが実情です。これがリーマンさんの云う「戦い」になっているのかどうか判りませんが、私は本音の部分ではpathosを介在とする「戦い」を真に創造的な「戦い」であると考えていますので、ご指摘の通り現状は「戦い」にはなっていないのかも知れません。ethosとpathosとを総動員して「戦い」に傾注して来た戦争板常連の木村愛二さんから見れば、まだまだ甘っちょろい青二才ということになるのでしょう。
マクロ的な世界認識の方法は、日本でも多くの名立たる社会学者や歴史家が提示しています。それに較べれば、私が為す解析などは、例えば丸山真男や吉本隆明や網野善彦の剽窃と語るのもおこがましいような貧弱なものです。もし、固有の内容を私自身の言葉で紡ごうとしたならば、多分題材は30年以上も前のことになると思いますが、遺憾ながらどれほど当時のpathosが現在に至るまで保持されているか自信がありませんし、またそれを公に問うに堪え得るような策術両面での蓄積があるとも自認してはいません。
リーマンさんもlogosの駆動力たりうるのはpathosであることは十分承知をされていると思います。もちろん、中にはlogos至上主義的な秀才の思考に馴染む人達も、あるいは、pathosの赴くままに任せた天才肌の筆致を称賛する人達もいるでしょう。少し前に、それを「呈上」及び「降服」をキーワードに弁別しようと試みましたが、必ずしも成功しているとは考えていません。そして今も尚、現実的には「呈上」も「降服」もできない私という存在が現前しています。
リーマンさんへの問いかけは、日頃の業務の中で痛感していることが素地になっています。すなわち、『当事者能力を有する者が何故当事者意識を持ち得ないか。』という疑問です。人事的な分野での経営コンサルタントの業務に求められるのは、主に(当事者)能力の活性化ないしは向上なのですが、しばしば、その契機や駆動力としての当事者意識の問題が表出して来ます。
日本の企業風土には社員という事実から当然のように当事者意識があるものと見做し、また管理者になれば必然的に管理者意識が備わって来ると見做してしまう傾向があります。さらに、経営者の意識にはテクニカルな能力の向上によって、同時に当事者意識も醸成されるとの想い込みの激しさもあります。ただし、不思議なことに当事者意識の何たるかは不明確なままでもその必要性についてはクライアントも意識しているようなのです。
実は、日本人にとっては戦術的(現場での)な能力の習得は容易であるし、その向上心からみても活性化は難しいことではありませんが、リーダーシップの要諦でもある当事者意識の涵養ほど難しいものはありません。『それは何故か。』とは、共有したいテーマでもありますが、リーマンさんはあまり力点をおかれないかも知れませんね。
最後に、メルクマールもethosもpathosもlogosもリーマンさんにとって馴染みのない言葉であるかも知れません。これらは学内外及び社会人の初期を通じて当時の諸先輩方から日常的に浴びせられたものの一部ですが、私が好んでこうした言辞を使用するのは断じて奇を衒ってのことではなく、リーマンさんにたいする最大限の敬意の表明であると受け留めていただけますならば幸甚の至りです。
また、会いましょう。