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(回答先: エンセンさんの「自己愛」遍歴を訊きたいなあ(^^; 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 03 日 16:19:20)
あっしらさん、このような呼び出しは大歓迎です。遠慮なくどうぞ。
あっしらさんのお書きになっている「自己愛」について先ほど読ませてもらいましたが、「愛はすべて「自己愛」である」と言い切られると、わたしとしては「本当にそう言い切れるのかなあ」と、思いました。
他者への愛=自己愛ではないと感じています。他者への愛=自己愛というのはほとんどがそうであっても全てがそうだとは思えないということです。
これについて思ったことは後ろの方で書こうと思います。
>最近のエンセンさんは遊びに忙しそうだなあと勝手に推察しています。
大当たりです(笑)
暖かくなってきたのでついどこかへ遊びに出たくなります。すると阿修羅へのアクセスも自然に減っていました。
今日は朝から新鮮なタケノコをたんまり持ってバーベキューなんかに大人数で遠出してきました。
タケノコの焼き物やら天ぷらはうまかったなあ。肉も……ビールも。
明日はゴルフです……何もわざわざ日曜日の高く(高額)て混み合う日に行かなくてもと思うんですが今年初なので楽しみです。
外出もしだすと癖になりますよね。なんか世界情勢も忘れていますが忙しいです(笑)
>私も含めて(?)ですが、阿修羅に集うほとんどの人は社会とか他者を気にかけ、
>自分勝手に生きるのはあんまりよくないと思いながら生きてきたのではないかと
>推測しています。
>少年期をワル(「自己愛」の権化(笑))として過ごしながら、今となっては、
>世界や社会のふざけたことに敏感に反応しできることならなんとかしたいと思う
>ようになっているエンセンさんは稀有な存在です。
>(エンセンさんの周りのひとがエェッという感じだそうですから確かです(笑))
これはいい変化なんでしょうか?
以前、アルファンドさんにも似たようなことを聞いたことがあったような気がしますが、あっしらさんにも聞いてみようかな。
社会の動きや世界情勢なんかをまったく気にせず知らぬまま生きていたときには「できることならなんとかしたいと思う」という感情は正直に言ってこれっぽっちもありませんでした。
「世界や社会のふざけたこと」等を知らなければ何が起こっているのか知らないんですから、知らぬままそれなりに幸せに生きていけるはずです。他国の戦争だって自分には関係ないと思い気にもしません。
しかし情報に接してしまいそこに何かを感じ取ってしまうと、世の中の何か嫌な面を見た気がして黙って見過ごしたくないという気持ちになります。昔はなんとも思いませんでしが……。
知らなければ幸せだったはずのある部分が、知ってしまったもしくは知ろうとしてしまったがゆえに悩みというか不幸というか何か嫌なモノを自分の中に生んでいます。
「自己愛」・「自分の周囲だけの幸せ・楽しさ」だけを考えるのなら世の中の不幸な出来事もそれは他人の不幸であって自分には関係ない・自分は巻き込まれない不幸だと思い無視することが可能です(でした)。
知ってしまった・知ろうとしてしまったという事実が、わたしにある種の悩みをもたらしています。
知ってしまったがゆえに、わたしの楽しみや幸福を多少は奪われているわけです。
知らなければもっと楽しく生活して死んでいけるはずです。
この変化はわたしにとって必要なものだったのかよくわかりません。
どう思いますか?
今からでも世界情勢等の情報を無視して(見ないで)生きていけるとは思います。
>自分の力(暴力を含む)と稼いだお金を頼り、社会(世界)とは無関係に
>「自己愛」まっしぐらの生き方をしていたエンセンさんが、「自己愛」を
>保持しながらも社会(世界)への目配り気配りをするようになった経緯などを
>当たり障りのある(笑)範囲で書いていただければ、違った視点から「自己愛」
>というものが見えてくるのではないかと思っています。
「自分の力(暴力を含む)と稼いだお金を頼り」にガキのときから必死に生きてきたのは事実です。それを精神的に支えてくれていたのが友人であったりその時の恋人であったりしたわけです。それと付け加えるなら「世の中の誰にも俺は負けん!」という強い意志・気持ちです。自分の持つこの誰よりも強い意志をわたしは信じていました。
友人は「エンセンに着いていけば失敗しない。間違えない」と、思っていたようです。
わたしは違った友人達とガキのときに出会っていたとしてもそれほど変わらない生き方・生活をしていたはずです。しかし友人達はわたしと出会わなければまったく違った人生になっていたはずです。わたしは影響を受けるよりも与える方が圧倒的に大きかったと思います。友人についていくんじゃなくて友人がついてくるんです……何をするんでも。
力の中で生きている(いた)わけですから、自分が信用できる(する)のは人を引っぱる(惹きつける)強い自分の意志・力であったり考えであったり、他人がわたしを指標・測る・評価する道具であるはずの稼いだ(稼げる)お金の量であったりするのは当然と考えていました。人を信じない(信じられない)からお金を信じるのではなく、お金の力が欲しかったというのが本音だと思います。人(友人等)は信用していますし、友人にも信用されていると思っています。
信用・信頼のできる友人というのは、わたしが絶対に裏切らない人物だと相手に理解してもらえればこちらが望まなくても自然と増えていきますから、友人を裏切る・密告(チクル)する行為は絶対にしません。わたしの生き方・モラルに反します。
友人が何か罪を犯しその友人に助けてくれと頼りにされたら、友人である犯罪者を庇うのではなく警察に突き出す(密告)のが正しい生き方であるというプロパガンダにはもの凄い嫌悪感を抱いています。わたしは突き出したり密告するような権力側の犬にはなりたくないです。これは自己愛なのかもしれません。
なんせ持っているもしくは稼げるお金の量が自分の力の現われだと思っていましたし、事実そのようなお金の量で幸せというか幸福感を満喫していました。以前のわたしですよ。
このようにわたしがお金を大好きに(笑)なった経緯は、自分の欲求を満たしてくれる最高の道具がお金であると思っていたし、またその通りの力がお金にはあったと今でも思っています。
それと、わたしは「欲しい・買いたい」と思ったものを我慢できるような性格ではありませんでした。欲しいと思えば何でも我慢をせずに買おうと努力しますし、お金がなく買えないと分ればお金を何とか作って買うという生き方をしてきました。買わない・我慢という選択がわたしにはありませんでした。手に入れたいものは絶対に手に入れるという生活をしていました。過去形ですよ。現在は電気代の節約に悩むような生活をしているんですから…(笑)
お金を稼ぐのは簡単でした。
ガキのときに何も貰わずに親に追い出されましたが、生活するお金に困った経験は皆無です。欲しいと思ったものは何でも買いましたし、博打で数千万円を1日で負けても気分は悪くなりましたが生活には何の影響もありませんでしたし……
二十歳以下のガキの時代に億のお金を稼いでいましたから、現在はその気がありませんがもし本気になって今からお金を稼ごうと思えば簡単に稼げるという自信があります。
私自身の生き方・考え方では、お金は労働と引き換えに貰うものだとは考えていませんので、貰うのではなく(出来るだけラクして)稼げばいいだけです。このように若いときから考えてきましたので、わたしは雇われて給与というものを貰った経験がないんです。誰かにこき使われるなんてわたしには耐えられません。
人を使って自分はラクして誰よりも稼ぐのが“美”だと思っていたのかも(笑)…これも自己愛なんだろうなあ。
お金は貰うのではなく稼ぐものなんだと信じています。方法は色々とありますが……
で、「社会(世界)への目配り気配りをするようになった経緯」というのはですね、実は自分でもよく分らないんですよ。
この辺りはもうちょっと、あっしらさんから質問をもっと具体的にくずしてくれると応えられそうな気がします。ちょっと質問がわたしから見て漠然としていてどう応えたらいいのかその答えが頭に浮かびませんです。申し訳ないです。
あっしらさんからの質問によってわたしの応えが導き出されれば簡単に応えられると思います。
まだ何も応えが浮かんできません。
あっしらさんがわたしから聞きたいことを質問の仕方によって引き出してくれると大変助かります。
お手数をお掛けしますが……
>ヤクザを暴力団と呼び社会のゴミやカスのように見る風潮もありますが、
>ヤクザになる前はそうであったであろうワルが“ヤクザ渡世”に身を置くことは、
>ワルを野放図にさせない野放しにさせないということでそれなりの意義が
>あると思っています。
>我がまま放題の「自己愛」で生きるワルが、ヤクザという家に入ることで
>「義理と人情」という他者との関係性の大事さを教えられる(叩き込まれる)
>ことは少年院や刑務所を超える“安全保障”だと半分冗談に思っています。
わたしは確かに「ちっちゃなころから悪ガキで」という歌をもっと極端にした生き方をしてきました。
「悪い」といわれることを、暴力を背景に「我がまま放題」によって「する・やる」人は「自己愛」の現われであり白い目で見られたり近づいてはいけないと思われたりしていると思っているんですが、それ以上にお金の力を持ってお金の力で「自己愛」を満喫する大人の方が「義理人情」を持ち合わせない「世の中の癌」だと思うようになりました。
「癌」といってもそれは個人レベルで見れば悪いことではなく、お金を持っている人に与えられた報酬・特権のようなものであると思うんですが、社会全体の目で見てみると「癌」だなあということです。
暴力という力を背景にした人たちは暴力を捨てることで変われますしそれが可能ですが、お金の力を知ってしまったら、そのお金を失えば別ですが、お金の力を捨てることはまずできません。
お金の力という暴力を使う人にも“安全保障”が必要です(笑)
>もちろん、「義理と人情」がヤクザ社会の話であって、個人の「自己愛」が
>組織の「自己愛」に吸収され、あるレベル以下の構成員は幹部の「自己愛」の
>道具になるという実態を承知の上での説明です。
>(個人の「自己愛」のためには幹部になるしかないという一般社会と同じ構造)
この辺まで読み進むと、わたしはやはりあっしらさんの言われる「自己愛」をよく理解していないことに気付きました。
もっと子供にでも理解できるように説明してー!
最初の方で書いた「他者への愛=自己愛ではないと感じています。他者への愛=自己愛というのはほとんどがそうであっても全てがそうだとは思えないということです。これについて思ったことは後ろの方で書こうと思います。」
と、思っていたことも書けなくなりました(笑)
あっしらさんの言う「自己愛」をもうちょっと噛み砕いて理解したいんですけど、説明可能ですか?
漠然としていて「自己愛」の何をわたしがあっしらさんに聞きたいのかも分りません。困りました。理解力の無さがこういうところで現われてしまいます。
>愛する人との出会いと結婚その後(?)のお子さんの誕生、
>そしてご不幸などが「自己愛」の変化に影響を及ぼしたのだろうと
>勝手に推測していますが、エンセンさんの「自己愛」について
>少し晒していただければと思っています。
言われるようなことを晒すのは抵抗ないんですけど、あっしらさんの言う「自己愛」という表現がわたしにはちょっと難しいです。理解できていません。
もうちょっと違った言葉とか表現とかもしくはもうちょっとわたしが理解しやすい解説なんかがあると助かります。
小学生に語りかけるような解説をお願いしたい気分です(笑)
あっしらさんの言う「自己愛」を理解していないのに無駄に長いレスになってしまいました(笑)ご勘弁を。