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(回答先: あっしらさんが満足するためにはもうちょっとわたしの理解が必要です 投稿者 エンセン 日時 2004 年 4 月 03 日 22:52:25)
エンセンさん、レスありがとうございます。
唐突に自分の「自己愛」について書いてよとお願いしたことを反省しています(笑)
エンセンさんのレスを読んで、ぷち熟女さんへのレスで「女性は観音菩薩」だから、「自己愛」なんてばかばかしい反省(分析的な捉え直し)をしないと書いたことを思い出し、エンセンさんも「観音菩薩」なのかもしれないと思っています。
自然にやり取りことをやってきたら現在に至ったと推察しています。
ガキのころはやりたい放題の「自己愛」に走っていたが、いつの間にか他者のことをあれこれ思うようになり社会や世界の出来事にも感応するようになった自分に気づいたという経緯なのかなと思っています。
褒め言葉ではないのですが(笑)、やりたい放題の「自己愛」に走りながら他者(周りの悪ガキ)を救済?していることで「観音菩薩」に違いないなんてことを...
「観音菩薩」の目に見える世界が広がるなかで、悪ガキの支えになるだけではなく、生の付き合いがない社会や世界のことも気にかかるようになったのではと勝手に推測しています。
ややこしい「自己愛」という言葉を持ち出したのは、端的には善意の長壁さんにまつわる問題を別の切り口から答えていこうとしたもので、善意に衝き動かされて行動するのも「自己愛」であることを自覚したほうがいいと言いたかったからに他なりません。
「自己愛」とはつまるところ、エンセンさんが“力なき市民”というHNのときに書かせていただいた「客観的な真理はない。世界はどのようなものかとか、何がいいことで何が悪いことかはひとり一人の内にしかない。世界はひとり一人にとって違うもの。世界は人の数だけある。だから、ひとり一人が自分で判断し、それを他人にぶつけ合うことで物事を決めなければならない」という考え方の延長線の表現です。
ひとのために..と思っていることは、自分がそれを良かれと判断していることでしかなく、普遍的な善意とか正義とかがあるわけではないということを言いたいために、「自己愛」というこなれていない言葉を持ち出しました。
(長壁さんがそういう体験をされたかどうかわかりませんが、世のためひと(他者)のためと思いながら活動しているひとのなかには、こんな辛いことばかりするんじゃなくてぱっぱと楽しいことをしたいなと思う気持ちを「それは恵まれている自分の甘えで、日和見だ。多くの人が殺されたり苦しんでいる現実を忘れるな。正義の戦いに対する裏切りだ。そんなものに流されたら尊く生きることに敗北する。必ず真理や正義は実現されるのだから頑張らなくちゃあ」と自分で説得して払拭する経験があるはずです。左翼や反戦平和の運動が低迷しているここ数十年はそのような傾向が強まって当然です。全共闘時代のように運動が活発なときには、気分も高揚しそのような迷いもなく運動に没頭できます。その分、敗北後の喪失感は強くなります。参考までに...)
そして、「自己愛」だからといって、自分を対象にしたり自分のなかで完結するものに限定しているわけではなく、他者や自然を通じて感じる喜びも含むものとして持ち出しています。
物事を判断するのも自己、考えたことに従って何かをやってその結果に涙したり歓喜するのも自己、物事をどう判断したらいいかやどうやったら何ができるかなどは他者とのやり取りのなかで身につけるとしても究極の絶対的な存在は自己(個)だと考えの“奇妙な”表現が「自己愛」です。
「自己愛」とはという点は、とりあえずここまでにさせていただき、エンセンさんのレスに応えるかたちで説明をさせていただきたいと思っています。
お願い事に戻ると、とりあえず「自己愛」を自分可愛さのわがままの追及と考えていただき、それが、他者への愛(社会や世界のデタラメさにふざけるなと思う)に至った経緯を書いていただければと思っています。
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>私も含めて(?)ですが、阿修羅に集うほとんどの人は社会とか他者を気にかけ、
>自分勝手に生きるのはあんまりよくないと思いながら生きてきたのではないかと
>推測しています。
>少年期をワル(「自己愛」の権化(笑))として過ごしながら、今となっては、
>世界や社会のふざけたことに敏感に反応しできることならなんとかしたいと思う
>ようになっているエンセンさんは稀有な存在です。
>(エンセンさんの周りのひとがエェッという感じだそうですから確かです(笑))
>>これはいい変化なんでしょうか?
>>以前、アルファンドさんにも似たようなことを聞いたことがあったような気がしま
>>すが、あっしらさんにも聞いてみようかな。
良いも悪いもありません、「自己愛」のなせるわぜです(笑)
こうであらねばならないという理屈(イデオロギー)でそうなってしまったんですから、素直に自分の感応に委ねれればいいのだと思います。
逆に言えば、そうなってしまったんですから、仕方がないのです(笑)
>知ってしまった・知ろうとしてしまったという事実が、わたしにある種の悩みをもた
>らしています。
>知ってしまったがゆえに、わたしの楽しみや幸福を多少は奪われているわけです。
>知らなければもっと楽しく生活して死んでいけるはずです。
>この変化はわたしにとって必要なものだったのかよくわかりません。
>どう思いますか?
自分の感応を理屈で制御するのは難しいことです。
たぶん、エンセンさんは、その悩みを苦悩として感じているわけではないと思います。
(考えてみればそうだよなという感じではないでしょうか)
なんでこんなことをかんがえなきゃならんのだと思いながらも魅かれているはずですから、それも「自己愛」の“歪んだ”現れと言えます。
そうなのかどうかは、「知ってしまった・知ろうとしてしまったという事実」を忘れ去ったり放棄することができるかを試すとわかります。
たぶん、暇な時間にそれ(阿修羅へのアクセスなど)をしないようにするほうが“苦悩”だと思いますよ。
さらに、心底楽しい時間を過ごし続けているときにも「知ってしまった・知ろうとしてしまったという事実」が気になるのなら、苦悩ではなく快楽(「自己愛」)に間違いありません(笑)
「今からでも世界情勢等の情報を無視して(見ないで)生きていけるとは思います」が、今の感応状況ではそれをつまんないと思うでしょうね(笑)
もちろん、今後いつか、「知ってしまった・知ろうとしてしまったという事実」を放棄してすっきりできる(「事実」は続いているのに)日が来る可能性もあります。
最後に、いただいたレスで、エンセンさんの「自己愛」遍歴はそれとなく理解できました。
このレスで思うところがあれば、続編をお願いします。