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大東亜戦争敗北の反省点 日本のエリート官僚は --- なぜ大所高所の国家戦略が立てられないのか。
2004年2月24日 火曜日
◆第七話 ガダルカナル戦
どうして日本軍が補給に無関心だったのか?結局、日本本土付近での短期決戦のみを戦略の前提にしていたので、敵の補給をどうするかなんて、考えるだけ無駄だと思っていたのです。
なにもかも、大所高所に立って国家戦略を考える人材がいなかった事が原因なのです!
悲劇を更に拡大したのは、陸軍省の不見識でした。前線の兵士たちが、武器弾薬の枯渇や食糧不足を訴えても、東京に座すキャリアどもは、「根性が足りん」「敵の食糧を奪えばいいじゃん」などと、訳のわからぬことをほざいて、有効な対策を立てようとはしなかったのです。
現場を知らぬキャリアがもたらす悲劇。この傾向は、ますます拡大していくのでした。
さて、ガ島の戦局も終盤に向かったところで、少し欧米のエリートと日本のエリートの違いについて考察して見たいと思います。というのは、あの戦いの勝敗を決したのは、戦争指導者の資質によるものだと考えるからです。
まず、勝海舟の『氷川清話』を見てみましょう。
老中「そちは、一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡ってから、何か目をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」
勝「アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全く我が国と反対のように思いまする」
勝のこの言葉は、現在の日本に当てはめても十分に成立すると思います。
日米のこの差はどこから来るかといえば、エリートというものに対する考え方の相違なのでしょう。
日本におけるエリートは、「社会的な権威のある人」です。家柄や財産、受験の成績や卒業した大学といった形式基準にクリアした人が、エリートと見なされるのです。つまり、その人の人生経験や能力といった実質的な部分は、あまり重視されないのです。
これに対してアメリカでは、形式よりも実質を重んじます。その人が、どのような人生経験をしてきたのか、どれくらい広い見識を持っているのか、どのような考え方をするのかを重視するのです。
私自身も、外国人と接して、いろいろと考えさせられる事がありました。私は、前の会社にいたとき、5年間連続で、「社内英会話教室」に通っていました。ちゃんと、外人講師が来てくれる奴です。私はこういう性格なので、教室だけで付き合いが終るのが我慢できず、講師と積極的に仲良くなって、授業の後で一緒に飲みに行ったりしたのです。そこでプライベートな話をしていると、外国人と日本人の考え方の違いが良く分かりました。
まず、私の能力は「公認会計士」という肩書きだけでは評価されません。例えば、私が同じ会社に5年もいると知ると、講師(アメリカ人)は「君は体が悪いのか?」と聞いてくるのです。どういう意味かというと、アメリカのエリートは、若いうちに色々な職種を転々とし、経験と見識の幅を広げるものなのだそうです。エリートのくせにそういう努力をしない者は、「怠け者」か「身体障害者」のレッテルを貼られるのです。つまり、人間の能力を評価する上で、肩書きよりも経験を重視する伝統があるということです。私は、「怠け者」だと思われたのです。
また、別の講師(オーストラリア人)とは、こんな会話をしました。
私 「オーストラリアって、どんな所ですか?」
講師「日本と全く同じさ」
私 「そんなことは無いでしょう」
講師「いや、同じだ。人間よりも羊が多い」
私 「え?」
講師「日本人なんて、ほとんどが羊と同じじゃないか。メエメエ鳴いているだけで、自分の考えを持っていないから」
私は、カチンと来たので、激しく反論したのですが、内心では彼の言うことももっともだと思っていました。さて、議論をふっかけられた講師は、気を悪くするどころか大いに喜び、前よりも私に心を開いてくれました。欧米の文化圏では、自分の考えをしっかり持ち、それを表現できる者でないと評価されないし、下手をすると人間扱いすらされないのです。私は、ディベートの能力を評価されて、ようやく人間と認められたのでした。
このように、アメリカのエリートは、人生経験の豊富さと能力を基準に評価されます。ビル・クリントンが、大多数のアメリカ国民からBランクと思われていた理由は、おそらく彼がベトナム戦争を徴兵忌避した事にあるのでしょう。戦争がどうのこうのと言うよりは、若い頃に貴重な経験を積むチャンスをフイにした点が問題視されたのだと思います。
アメリカの大統領の中には、太平洋で日本軍と戦った人もいます。JFKは、魚雷艇の艇長として、ソロモン海で日本海軍と戦いました。彼の船は、日本駆逐艦「天霧」の体当たりを受けて沈没するのですが、JFKは、卓抜した判断力で、生き残りの乗員を全て生還させたのです。また、ジョージ・ブッシュ(もちろんパパの方)は、爆撃機のパイロットとして小笠原諸島で戦い、日本の高射砲によって撃墜されましたが、味方の潜水艦によって救出されたのでした。彼らのこのような経験が、大統領選で好影響を与えたことは間違いないでしょうね。
さて、我が日本はどうか?エリートの基準は、江戸時代までは門閥家柄でしたが、明治時代以降は、受験勉強の成績になりました。そして、この傾向は現代でも変わっていません。ここで注意すべきは、日本における受験勉強というのは、その人に能力を与えることを目的にしているのではないという点です。あくまでも、「権威」を与えるためのツールなのです。
だから、難解だけど実社会で役に立たない事が出題されるのです。例えば、大学の入試試験で、古文や漢文の文法を覚えたところで、学生生活や社会で何の役にも立たないでしょう?これが、日本の受験教育の本質なのです。そして、日本のエリートの多くは、この異常な本質に気付かずに、自分が偉いものだと思い込んでしまうのです。
しかし、言うまでもないですが、受験勉強の能力は人間の能力を表彰しないのです。私は、仕事柄、キャリアや東大卒と接する機会が多かったのですが、頭の良い人もいれば、どうしようもないバカもいましたね。どういう具合にバカかというと、要するに世間並みの一般常識が無いのです。人生の中で、受験勉強しかしたことが無いので、それ以外の能力が中学生レベルという人が少なからず実在するのです。こういう人は、想像力も状況判断力も応用力もありません。だけど、こういう人たちが、日本を実質的に支配していたりするのだから恐ろしい・・・。
太平洋戦争当時の日本のエリートも、これと同じ事でした。キャリア軍人は、士官学校での試験の成績と年功序列だけで昇進できる仕組みになっていましたから、教科書に書かれていることには詳しいのですが、具体的な実務の事を何も知らなかったのです。教科書に書いてあるとおりの事をすれば、戦争に勝てると思い込んでいたのです。
当時の士官学校の教科書では、何を教えていたのか?実は、「日露戦争」の戦術を教えていたのです。
「日露戦争」では、補給線の遮断があまり問題になりませんでした。実際には、日露両軍は、相手の補給を断とうとして奮闘したのですが、どちらも成功しなかったので戦訓から忘れ去られてしまったのです。海軍のキャリアが、敵の補給に無関心だったのは、「教科書に書いてなかった」というのが主な理由だったのでしょう。
歴史ぱびりおん 概説 太平洋戦争
(私のコメント)
私が小さい頃から疑問に思っていたのは、なぜ日本はアメリカと戦争をしたのだろうか?ということだった。陸軍は専ら中国との戦争に明け暮れてアメリカと戦争をするなどと考えるゆとりは無かった。中国とは泥沼に陥って百万近い軍隊が釘付けになり、国際舞台からは袋叩きにされ孤立状態に陥っていた。
当時の日本にとっては戦争が一種の公共事業だったから、今日の公共事業が止められないがごとく陸軍も面目上止められなかった。その時点で当時の陸軍にものを言える政治家はおらず、結局は東条英機を首相にして止めさせようとしたが無駄だった。そこでアメリカがハルノートで中国から引き上げろと言われて、バカ陸軍は切れてしまったということだろう。
当時も今も日本のエリート官僚は自分の過ちを認めたがらない。過ちであると気付いても、それを誤魔化すために問題を先送りしたり、より大きな深みにはまり傷口を大きくしていった。当時も今も政治家に力なく、エリート官僚が権力の実権を握っており、日本の金融破綻はより大きくなっていった。政治家に力がありエリート官僚の誤りを正すことが出来たら、二つの日本の危機は避けることが出来たはずです。
しかしいくら政治家に強大な権力を与えたとしてもそれは機能しないだろう。日本になぜ独裁者が出ないのかという疑問にも共通するのですが、原因は救いようのないバカもいない代わりに超人的天才も出ない国民性があります。だから目標がはっきりした課題には対応が出来ても、何が問題の原因か分からないといった事には日本の知的エリートは対応できないのです。
私は「失われた10年」とか「第二の敗戦」と言われる日本の閉塞感をなんとか打開するために「株式日記」を書いているのですが、何が日本の停滞の原因であり、どうしたらその問題を解決できるかいろいろ書いてきた。私がこのようなことが出来るようになったのもインターネットのお陰ですが、一般市民レベルで情報交換出来る事により、草の根シンクタンクが出来るようになって来た。
日本のシンクタンクといわれる中央官庁の機能低下はひどいものだ。いわゆるキャリア官僚はほんとに知的エリートなのだろうか。大学の教授達も現実の経済問題や政治問題に適切な問題提起や政策提言が出来ないでいる。それは本屋へ行って見れば分かる。有名な評論家や学者の本が出ているがろくなものがない。翻訳されて海外で評価されるような本が日本にはないのだ。ノーベル経済学賞をとるような学者は日本から出ないだろう。
日本が第三の敗戦を迎えないためには世界的視野に立った戦略が必要です。しかし日本人はオーストラリア人が指摘したごとく自分の考えを持たないメエメエ鳴くおとなしい羊ばかりだ。自分で考えないから余計に学歴信仰になってゆく。学歴が一種の宗教になり東大法学部教が信者を集めている。しかし中味は何もない。ではどうしたら日本の戦略を作ることが出来るようになるのだろうか。以下のサイトを紹介します。
◆大学にシンクタンク機能を 山内直人教授
かつて、霞が関の中央官庁は日本最大のシンクタンクといわれた。実際、重要な政策やそれを実行するための予算・法律は、国会ではなく、官僚によって作られてきた。
国会議員が政策を作らないのなら、政策秘書の制度を持て余したとしても不思議はない。官の地盤沈下が言われて久しいが、これに代わる有力なシンクタンクはまだ現れていない。
アメリカには「政策産業」があるといわれる。ワシントンには、ブルッキングス研究所、アーバン・インスティテュートなどの大手シンクタンクが軒を連ね、それぞれ数百人規模の政策研究者を抱えている。彼らは、政党や行政機関から政策研究を受託したり、財団の助成により自主研究を行ったりしている。
日本にもシンクタンクが存在しないわけではないが、企業や行政が設立したいわゆる「総研」の類が多く、独立系のものはほとんどない。行政は、委託調査の形で結論の半ば決まったような調査報告書を総研に書かせて、政策評価の客観性を装うという慣行が今でも続いている。
もし、実力のある独立シンクタンクが日本の政策を客観的な目で評価していれば、これほど巨額の財政赤字をたれ流し、日本国債の格付けがボツワナ以下になることもなかったかもしれない。もっとも、独立シンクタンクを育てるには莫大な費用と長い時間が必要で、昨今の経済情勢をみるとそう簡単なことではない。
そこで現実的な選択肢として提案したいのは、既存の有力大学にシンクタンク機能を持たせることである。これまで、大学教授が審議会の委員などの立場で個人的に政策形成にかかわることは多かったが、大学が組織として政策研究に取り組むことはあまりなかった。
また、政策研究の担い手を育成することも大学に期待される重要な役割である。最近では、日本でも政策系学部を持つ大学が増えているが、政策研究のプロの育成には、大学院レベルの教育プログラムを充実させる必要がある。
かつては、「よらしむべし、知らしむべからず」のことば通り、官僚が政策評価に必要な情報を独占していたために、官の外で、説得的な政策研究を行うことは困難であった。
しかし、二つの点で事態は変わりつつある。一つはインターネットの急速な発達であり、もう一つは情報公開法の施行である。これらによって、官と民との情報格差は大きく縮小することが期待されている。
納税者であれば、誰しも巨費を投じた景気対策の効果があったかどうかを知りたいし、ゆとり教育が日本の国際競争力をどう変えるかも知りたいだろう。
今こそ、大学を核とした政策産業を興し、こうした市民の問いに科学的な回答を与えるべきだと思う。
(私のコメント)
大学が一つのシンクタンクの役割を果たすというのもアイデアですが、大学教授やスタッフは世間知らずになりやすく秀才バカの集まりになっている。工学系の大学は良くても人文系の大学は腐りきっている。研究論文をろくに書かずとも教授でいられるし、最近は役人達の天下り先になっている。
若い生徒達を教えていく分には、単なる秀才でもいいのでしょうが、海外の天才的戦略家に対抗できるような人材は現在の大学からは出るはずがない。年功序列が幅を利かして学歴社会だからだ。しばらくはボランティア的に民間から研究者を育成するしかないのだろう。先日の日曜日に岡崎氏と寺島氏が対談していましたが、岡崎氏が日米同盟しかないと繰り返して言っていましたが、残念ながらこれが日本の戦略家のレベルなのだ。