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カーター・J・エッカート著「日本帝国の申し子」 --- 日本の植民地史の知られざる一面を著した本
2004年2月17日 火曜日
◆朝鮮資本主義と帝国資本主義との緊密な協力関係
京城紡織株式会社(京紡)の発展は、朝鮮資本主義が一九四五年以前に開花したことを如実に物語っており、同社の業績は通説(萌芽説)を完全にくつがえすものである。通説によると、朝鮮の資本家成長の萌芽は一七、一八世紀に初めて見られたが、一八七六年以降は日本の帝国主義にほぼ根絶され、再び出現するのは一九四五年以後であるとされている。だが先にも述べたように、朝鮮資本主義のルーツを一八七六年以前に設定するのは、学者の希望的観測の産物にすぎない。
いっぽう、一八七六年をさかいに朝鮮人資本家が出現し、ようやく産業に目を向けはじめたということには疑いの余地がない。植民地支配は資本家の成長を抑えるどころか、むしろ大きく前進させた。すでに述べた政治的および経済的理由によって、日本は朝鮮人資本家階級の発達を容認し、これを支援したのである。こう主張したからといって、日本の帝国主義を弁護するものでは決してない。
私の意図は、今なお多くの韓国人学者のあいだに充満している植民地神話の一つを払拭することにある。植民地支配がなければ、朝鮮人が自力で資本家階級を生み出したという可能性もないとは言いきれない。しかし、実際にはそうならなかった。朝鮮の資本主義は、植民地支配という環境のなかで最初の真の成長を遂げたのである。確かにこれは不幸なことであり、多くの朝鮮人には認めがたい不快な指摘かもしれない。しかし、それはまぎれもない事実なのである。
朝鮮の資本主義が植民地時代に発展したことを確認し、その発展の程度を検討したうえは、この現象の性質を考察する必要がある。これまで使ってきた「資本主義」という言葉は、市場経済と財産の私有を特徴とする工業社会または工業化しつつある社会を意味する、この定義は、朝鮮の新興資本家の起源を突き止めその発展について述べるには役立ったが、朝鮮で発展した独特の資本主義についてはほとんど何も語らない。朝鮮資本主義の発展に特有のパターンとはどのようなものか。
もっと具体的にいえば、朝鮮資本主義の発展に国家はどのような役割を果たしたのか。さらに、植民地に誕生し発展した資本主義と、日本本国の資本主義とのあいだにはどのような関係があったのか。植民地時代の資本主義を完全に理解するには、これらの問題を検討することが不可欠である。だがこの問題を検討していくと、植民地時代について根強く残っているもう一つの神語と真っ向から対立することになる。それは、一九四五年以前の朝鮮の資本家階級は「民族資本」によって発展したという考えである。
すでに第一部で述べたように、趙磯溶のような萌芽派の韓国人学者は、日本の庇護のもとで著しい社会経済的発展があったという考え方を否定する。しかし、それでは京城紡織株式会社(京紡)に代表される朝鮮人資本家の発展にっいてはどう考えればよいのか。あまりにも明白なこのような発展の現実を説明しようとすれば、植民地支配の影響を認めざるをえないのではないか。
この明白な矛盾に対する巧妙な解決策として、趙をはじめとする韓国人学者は「民族資本」という概念に注目した。今日韓国で使われている多くの歴史用語と同様に、この表現はマルクス・レーニン主義にルーツがある。厳密な意味では、「民族資本」とは植民地下の朝鮮人プチブル(小市民階級)を指すが、彼らは本国の支配的な帝国主義ブルジョアジーと、帝国主義と結託した朝鮮の強大なブルジョアジー(いわゆる「買弁」資本家)の両方と競争し対抗する人々のことである。
北朝鮮の学者たちは「民族資本」と「買弁資本」を使い分け、さらに研究を進めている。金日成に対するうんざりするような大賛辞にもかかわらず、この区別によって彼らの研究にはある種の分析的な明断さと深みが加えられている。韓国も最近になってようやく追いついてきた。韓国では一九八○年代になるまで民族資本と買弁資本の区別はほとんどなされておらず、概して、すべての朝鮮の資本は区別なく民族資本と呼ばれていたのである。
さて、ここからが神話の核心部分である。この陳腐な説によると、植民地時代の朝鮮の資本はすべて民族資本ということになるので、当然ながら反日的で、植民地の権力構造とも日本の資本主義とも対立していたということになる。趙機溶は、おそらく朝鮮の資本主義の発展に関しては韓国で最も権威ある学者であるが、植民地時代の民族資本の典型として、京紡の業績について次のように述べている。
京紡は、朝鮮の資本(民族資本)と朝鮮の工業技術のみに基づいて経営された。植民地支配のもとで、朝鮮の企業が支配国からの資金援助を受けたり日本の民間資本と提携したりすることなく存続することは困難だった。だが、京紡は朝鮮資本のみによって創設され、経営された数少ない朝鮮企業の;だった。技術者や経営に関しては、発展の遅れた国の企業は少なくとも数人の外国人スタッフを雇うのが一般的だが、京紡は意識的にこれを避けた。
しかし、問題はこのような偉業がどうやって達成されたのかである。どのようにして必要な資金を調達し、必要な原料や工業技術を確保し、朝鮮だけでなく満洲や中国にまで及ぶ巨大な販売網を確立することができたのか。しかも完全に孤立した状態で、あるいは植民地の権力構造と日本の資本主義システムに逆らってである。この難問に答えるのは、どれほど想像力に秀でた学者であっても難しいだろう。だが、この問題が提起されることは決してない。たとえば趙は次のように述べるのみである。日本の植民地支配のもとでは「日本の大資本と競争しながら会社を成功に導くことは、確かに簡単なことではなかった」が、京紡のめざましい業績は経営陣の「合理的な経営手腕」の結果であった。
神話というものがすべてそうであるように、この話も一片の真実を含んでいる。京紡の株主の大部分が朝鮮人であったことは事実である。また、可能なかぎり朝鮮人技術者を使っていたことも事実である。さらに、この会社について調べた者なら、金季沫とその部下の経営手腕を否定することはないだろう。しかし、京紡クラスの規模と資力を誇る企業が、植民地政府や日本の民間資本と緊密な協力関係をもたずに発展し生き残ったというのは、まさに理性と常識に反する主張である。それどころか、朝鮮の民族資本といえるものが、少なくともある一定の期間、日本の政治的・経済的支配の枠組みのなかで、はたして存在したか(あるいは存在しえたか)どうかは重大な疑問なのだ。
神話から事実へと目を向けると、京紡の物語は神秘性を失うが、より興味深く意義のあるものになる。京紡という企業は植民地の権力構造から孤立し、日本の資本主義と対立していたのではない。それどころか両者との緊密な関係のなかで成長を遂げ、一九四五年には、日本から朝鮮、アジァ大陸にまで広がる帝国主義経済ブロックの重要な一部となっていたのである。
第三章と第四章では、京紡の資金調達と経営を検討することによって、植民地時代の政府と実業界の関係を考察する。第五章と第六章では、朝鮮の資本主義が、日本の根幹をなす資本主義および帝国主義全体とどのような関係にあったのかを検討しよう。(P94−P97)
◆事大主義の遺産
朝鮮の学者は南北を問わず、ナショナリズムという見地から朝鮮の歴史を説明しようとする。しかし朝鮮におけるナショナリズムは歴史が浅く、一九世紀後半に帝国主義への反動から生まれ、植民地統治の経験を経て強まったものである。もちろんそれまでにも、朝鮮人は民族、言語ともに周囲の国とは異なることを自覚していたし、王や支配王朝に対しても忠誠心を抱いていた。しかし一九世紀後半までは、国家としての「朝鮮」という概念や、同じ半鳥に住む同胞の「朝鮮人」に対する忠誠心はむしろ希薄だった。それよりはるかに強かったのは、王に対する忠誠心に加えて、村や地域、そしてなによりも氏族、家系、肉親、血縁集団への帰属意識だったのである。
とくに支配階級にとっては、ナショナリズムという概念はなじめないどころか、野蛮なものにさえ映ったことだろう。少なくとも七世紀以降、支配階級は文化的にはみずからを朝鮮人というより、中国を中心とする大きな世界文明の一員と考えていた。朝鮮の王位は、かたちのうえでは中国の皇帝によって与えられる地位であったし、宮廷人や貴族のあいだでは中国語が書き言葉として用いられた。また中国の哲学や文学の古典が、あらゆる教育の基礎となっていた。朝鮮の支配階級にとって、中国文化に触れないことは野蛮人となるに等しかったのである。
李朝の初期、こうした中国文化崇拝は、事大主義と呼ばれる外交政策として具体化する。事大とはつか「偉大なるものに事えること」で、「偉大なるもの」とはすなわち中国にほかならなかった。ある意味で、事大主義は巧妙な外交戦術ともいえ、これによって朝鮮は偉大なる国家(当時の一般的な儒教用語でいうところの「兄」)から恩寵、庇護、そして洗練された文化を手に入れたのである。
しかし一方で、外国に対するこのような崇拝と服従は、朝鮮の支配階級に存在しえたかもしれない民族意識を大いに弱めるところとなった。たとえば一五世紀、中国語の押韻辞典をハングル(新しく作られた朝鮮独自の表音文字)に翻訳する試みがあったとき、名高い集賢殿で最高位の学者であった崔萬理は、これに対して激しく反対する文書を世宗に奏上している。この奏状には両班階級のあからさまで過激ともいえる世界観がはっきりと表われている。
「古より」と崔は書き出している。
九州はそれぞれ独自の慣習や言語を有してきましたが、これまでどの民族もモンゴルみずからの言語をもとに固有の文字を作ったことなどありません。蒙古、西夏、女真、日本、吐蕃などでは独自の文字を使っていますが、この者たちは夷秋(野蛮人)であり、語るに値しません。古典に、夷秋を中華に変えるとは申しますが、中華を夷荻に変えるなどという話は聞いたことがありません。
歴代の中国では、わが国をもって箕子の遺風があり、礼楽と文物が中華に比肩するといっているのに、いま別に朝鮮固有の文字(諺文=ハングル)を作るのは、中国を捨てて、夷秋と同じくなることにほかなりません。すなわち「蘇合の香を捨て、蟷螂の丸薬をとる」ということです。これはまさに我々の文明にかかわる由々しき事態です。
一八七六年以降、ナショナリズムが成長する一方で、みずからのアイデンティティを異文化の枠組みのなかに見出すという支配階級の伝統的な傾向は、植民地時代にも引き継がれたようだ。彼らは文明の中心を中国から日本におきかえ、日本を朝鮮の「兄」とみなした。そのプロセスは、中国の世界秩序が崩壊のさなかにあった一九世紀後半にすでに始まっていた。
支配階級のなかの革新派は中国に見切りをつけ、新たな世界文明の模範として西洋と日本に目を向けはじめたのである。日本を理想と仰いだ初期の両班階級の改革派の人々は、日本と朝鮮の正式な政治的合併など考えてもみなかったのだが、一九〇四年から一九一〇年のあいだに出現した「一進会」と呼ばれる過激な改革派は、日本を反西洋文明、汎アジア文明の中心に据え、朝鮮の保護国化と日韓併合を公然と支持したのである。
この姿を変えた事大主義は、韓相龍をはじめとする植民地時代の著名な実業家のスピーチや文書、談話などによく表われている。彼らが日本の役人や実業家と話すときに用いな言葉は、戦前の日本の標準から考えても過度に慇懃なものだった。日本語が不得手で、さまざまな修辞や細やかな表現を駆使できない場合でも、「弟」が「兄」につかえるという儒教の事大主義がはっきりと認められる。むしろ、日本語がつたないほど、事大主義がはっきりと見てとれるといえよう。
たとえば、一九三八年の時局対策調査会では、湖南銀行の頭取であり、高散の金一族と公私にわたり深い付き合いのあった玄俊鏑が、日本人出席者を前にたどたどしい日本語で、未熟な「弟」である朝鮮人に対し日本人はもっと寛大であってほしいと訴えている。
朝鮮人を、いつも弟分又は乾分と思って、大きな包容力を有って、間違ったら、指導誘液してそれを許してやる、というような、寛大な気持を有って頂きたい。朝鮮人のような教育の足らない者を相手にして、お互喧嘩して争うことは内地人の恥と思って、寛大なる包容力を有ってあたれと希望したいのであります。(P294−P297)
カーター・J・エッカート著 「日本帝国の申し子」
◆江藤会長、「植民地時代には日本が韓国にいいこともした」
自民党衆院議員で江藤・亀井派の江藤隆美会長は12日、福井市内であった党支部定期大会で講演し、「新宿の歌舞伎町見てみなさい。第三国人が支配する無法地帯。最近は中国やら韓国やらその他の国々の不法滞在者が群れをなして強盗をやってる」と発言した。教育基本法の改正について国家のあり方を問う中で語った。
また国内の治安体制に関連して「朝鮮半島に事が起こって船で何千何万人と押し寄せる。国内には不法滞在者など、泥棒や人殺しやらしているやつらが100万人いる。内部で騒乱を起こす」とも述べた。
さらに南京大虐殺について、「教科書問題でも中国大使にいんちき言うなと。犠牲者30万人などというのはでっちあげのうそっぱち。違うと私が説明してやる」と語った。
江藤会長は、総務庁長官だった95年、「植民地時代には日本が韓国にいいこともした」との発言で国会が混乱した責任を理由に辞任している。
[毎日新聞7月12日] ( 2003-07-12-23:24
(私のコメント)
江藤元総務長官は95年に「植民地時代には日本が韓国にいい事もした」との発言で引責辞任しましたが、当時は本当の事を言っても大臣の首が飛ぶ時代でした。当時のマスコミは一斉に暴言扱いの報道で政治家を血祭りにあげることで得意になっていた。確かに韓国人が聞けばカチンとくる発言ですが、間違いではないにもかかわらず大臣の首が飛ぶというのは異常であった。
当時のマスコミは北朝鮮をわざわざ「朝鮮民主主義人民共和国」と言い直していたことからも、当時は朝鮮総連から不当な圧力が加えられいたことが想像できます。政治家達も朝鮮総連のシンパが自民党の実力者としていた事から政界も朝鮮半島のことは、たとえ事実でも触れてはならない、とされたタブーが存在した。
最近は北朝鮮の拉致問題が表面化して、噂のあった自民党の実力者も引退し、風向きも大分変わってきました。しかしマスコミはいまだに南北朝鮮のシンパが、報道に様々な偏向を加えている形跡があり、いまだに朝鮮半島の植民地時代の公正な時代評価は出来ないようだ。
カーター・J・エッカート氏はハーバード大学の教授であり、コリア・インスティチュートの所長でもある朝鮮史の権威でも有ります。そして「日本帝国の申し子」という著作はアメリカの歴史学会などの受賞作でもあり権威のあるものです。しかし発刊されてから10年も経つのに韓国ではまだ翻訳された本が発行されておらず、韓国にはかなり反発があるらしい。
韓国は48年に独立してまだ間もない国ですからナショナリズムを高揚させる必要があるのは分かりますが、日本の歴史教育にまで干渉してくるのはやりすぎであり、強制連行問題や従軍慰安婦問題や創氏改名問題など、問題が起こるたびに私は反論して来ましたが、韓国人たちが歴史を直視しようとしないのは、彼らにとって不幸な出来事だ。
韓国における歴史教育において、日本の植民地支配を批判するのは理解できますが、ある事ない事をでっち上げて反日教育をしているのは、日韓関係に一つもプラスにならない事だ。そのことで韓国のナショナリズムは盛り上がるかもしれませんが、それが間違った教育の為だったと分かった時は、彼らはどのような思いを抱くだろうか。
それよりも問題なのは彼らに迎合して、日本は植民地支配をして悪い事ばかりしてきたと、日本の歴史教育で教えられていることだ。マスコミの記者たちもそれに同調しているような報道をしている。もっと悪いのは文部省もそれに同調していることだ。先月大学入試センターが行った世界史の問題で強制連行が行われたとする問題が正解とされた問題があった。西尾幹二氏のホームページから引用します。
5 それは、日本統治下の朝鮮について述べた文として正しいものを、四つの選択肢から選ばせるという形式の問題で、正解とされたのは、「第二次世界大戦中、日本への強制連行が行われた」(本件設問)というものである。これは、以下のとおり、選択肢中に正解がない設問である。
1) ここで使われている「強制連行」という悪質な違法行為を意味する用語は、最近になってから日本を糾弾するための政治的な意味合いをもって造語された言葉であって、事実をあらわすものではない。
2) 日本統治下の朝鮮においては、「国民徴用令」にもとづく徴用が昭和19年9月から実施されたので、設問は、対応する歴史事実としては、この徴用を想定していると推定される。しかし、当時は朝鮮半島の人々も日本国民だったのであり、徴用は国家による合法的行為であった。この設問は、日本政府が第二次大戦中、朝鮮人に対して違法行為を行ったという虚構の歴史を、大学受験という制度を利用して日本国民に押しつけようとするものである。
西尾幹二のインターネット日録 2004・02・04
(私のコメント)
ここまで来ると日本の文部省は一種の思想統制をしているのであり、自国民への歴史的罪悪感の刷り込みであり、事実として間違っている。戦時中の軍事徴用は強制連行とは全くの別のものであり、これは北朝鮮が言い始めたことを、韓国や日本の進歩的文化人が同調して言い始めたことである。
しかしながらこの事は日本のニュースにはならず、ネットなどで指摘されて問題になった。歴史を見る上で様々な立場から様々な見方があるのは当然である。私が「株式日記」で書いたことも一つの見方として書いている。ところが文部省のバカ官僚は教科書を通じて国民へ間違った歴史教育を生徒達に教え込んでいるのだ。