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(回答先: アインシュタインの科学と生涯 目次I 第二部 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:26:46)
●特殊相対性理論(1905年:奇跡の年)
1905年のアインシュタイン
1905年(アインシュタイン26才)この年はアインシュタインにとって「奇跡の年(miracle
year)」と呼ばれている。この年、彼は「光」の粒子としての性質から得られた「光量子仮説」原子の存在を探求して得られた「ブラウン運動の理論」そして「特殊相対性理論」を完成させたのだ。
アブラハム・パイスは、次のように語っている。
「1905年のアインシュタインのように、あれほど短い間に物理学の地平を拡げた人は前にも後にも一人もいない。」
アインシュタインの回想「16才のとき、初めてそのイメージが浮かびました。『光』に乗ったら、いったいどんなふうになるのだろうか。16才の私に答えは見つかりませんでしたが、それから10年、同じ問いを続けました。単純な質問こそが最も難しいのです。まあ、私に何か才能があるとすれば、それは『ラバのような強情さ』です。」
彼は「光」の性質を理解するために、人生のすべてを費やしたと語っている。
アインシュタインは、16才のとき「光に乗る」というイメージを思い浮かべた。それは、
彼の頭の中で行われる有名な実験(思考実験)の最初のものである。複雑きわまりない概念を理解するための非常に単純なシナリオ。たとえば、もし「光」が「波」であるとすれば、それが、たとえどんなに速く移動しようとも、波の頂きや谷間に追いつくことは可能に違いない。「しかし」とアインシュタインは続ける。その時いったい何が見えるのだろう。「光」は止まって見えるのか。時間が止まってしまうのか。「光」の波の頂きに、ずっと乗り続けたとしたら、
凍りついた一瞬が、かいま見えるのだろうか。16才のアインシュタインは、答えを見いだせなかった。彼はまだ、訓練された科学者ではなかったのだった。
「チューリッヒ連邦工科大学(ETH)」で、アインシュタインが行おうとしていた実験は、未解決の「光」の問題に関するものだった。「光」に乗るというイメージは「光」の速度では、非常に奇妙な事態が生じるに違いないという直感から生まれたものだった。
同時代の人は「光」は「波」として伝わっていくと考えていた。「光」が「波」ならば、空間の中でその「波」が次から次へと伝わっていくための物質が必要である。当時、その物質は「エーテル」と呼ばれていた。「エーテル」の存在は、19世紀物理学のまさに土台であり常識であった。なぜなら、相対性理論以前の物理学においては「ニュートン」=「絶対空間」=「エーテル」であったからだ。
「エーテル」という物質は、あらゆる空間に満ちていると考えられていた。「光」の動きを日常の経験と一致させるために考え出されたのが「エーテル」だった。普通の状況であれば、動きを分析するのは簡単である。たとえば「船の速度」は、動かない湖の岸と比較すれば、簡単に測ることができる。同様に、船のデッキにいる「乗組員」の速度も測ることができる。
その「乗組員」が、舳先(へさき)に向かって歩いていれば、船の速度より、やや速く、船尾に向かっていれば、船よりやや遅い。この地球上では「速度」は相対的なものである。他の動く物体に対して、どちらの方向に動くかによって、速度を足したり引いたりすればよい。しかし「光」が「エーテル」に対して同様にふるまうかどうかは、大きな謎だった。「光」の速度も相対的であり、速くなったり遅くなったりするのだろうか。研究者たちは「エーテル」をとおる「光」の速度を測ろうと試みた。地球は、太陽の周りを秒速およそ30kmでまわり、同時に「エーテル」の中を猛烈な勢いで動き、「エーテル」の風がおきる。「光」の速度が変化するならば、「エーテル」の中を追い風で進む「光」は、反対に「エーテル」の中を向かい風で進む「光」よりも速くなるはずである。
しかし「光」の速度の変化を測定する実験は、全て失敗した。どの実験でも「光」の速度は、常に同じだったのだ。アインシュタインは、他の物理学者たちよりも、はるかに早い時期に「エーテル」という考え方を捨て去っていた。「エーテル」が存在しないとなれば、その意味するところは一つである。「光」の速度は一定であり不変である。「光」は、地球上の出来事を支配するあらゆる運動法則の唯一の例外なのだ。
1905年、アインシュタインは、「光」の速度は「一定不変」であると確信する。運動の問題が、まだ残っていた。地球上で、通常の速度の運動を分析することは、何の難しいことでもない。たとえば、双子の兄弟のジャグラー(juggler:こんぼう、ナイフ、ピンなどを空中で投げたり受け止めたりする曲芸師)がいるとする。お城にいる双子の兄のジャグラーは動いてはいないが、船の上にいる双子の弟のジャグラーは、5ノットの速度で動きながら、ジャグルをしている。船の弟のジャグラーから見れば、事態は逆である。自分は動いていないが、岸辺のお城にいる兄のジャグラーは、5ノットの速度で後方に動いている。これが「相対性理論」の基本原理だ。双子のジャグラーは、投げているピンの運動を述べるのに、同じ物理法則を使うことができる。ところが「光」は別である。止まってるジャグラーと、動いているジャグラーの両方を「光」が通り過ぎても、アインシュタインによれば「光」に対するそれぞれの速度は、まったく同じなのだ。
なぜ、そんなことになるのだろうか。「速度」とは、ある時間内で移動した距離のことだ。そこでアインシュタインは気づいた。「光」の速度が不変であるならば、他の何かが変化しているに違いない。アインシュタインは自問自答する。「光」の速度は、一定不変で、時間の流れこそが変化するのだ。「時間の進み方が変化する」それはまさに、根本をくつがえすような発想だった。アインシュタイン以外のすべての人にとって、時間とは絶対的かつ不変の流れであり、着実に刻まれる宇宙の鼓動であった。時間の一刻みが、伸び縮みしたり、ゆらいだりするという考えは、最初、アインシュタイン自身にとってさえ、受け入れ難いものだった。
アインシュタインの回想「大変な道のりでした。『光』に関する最初の疑問から、私の『相対性理論』にたどり着くまで10年かかったわけです。あらゆる精神的葛藤をくぐり抜け、その果てに、突然答えが浮かびました。よく晴れた日でした。友人のミケーレ・ベッソと、散歩に出かけました。しゃべるのは、もっぱら私で『きみの助けが必要なんだ』とベッソに言っていたんです。その時、答えが浮かんできました。私は、黙って家へ駆け戻りました。翌朝、ベッソを訪ねて、こう言いました。『ありがとう。完全に問題を解決したよ』」
どんな解決なのか。時間が不変ではないとしたら---動いている人と止まっている人には、それぞれ違う速さで時間が過ぎていることになる。アインシュタインは、これを次のようなパラドックスを用いて証明した。二つの出来事が、正確に同じ時点で起きたとき、すべての人が、それを同時だと認めるだろうか。実は認めないのだ。アインシュタインの頭の中で、実験の舞台は線路が選ばれた。線路沿いに二本の棒をたて、その間の距離を測る。次に、中間の地点を見つけて、そこに印をつける。適切な角度のついた鏡を使えば、中間地点にいる観察者は二本の棒を、一度に見ることができる。
さて、雷が二本の棒に同時に落ちれば、鏡でそれを見ることができる。観察者は、二つの出来事が、まったく同時に起きたのだと認めることであろう。
しかし、同じことを列車の中から見た場合は、どうだろう。彼も同じ鏡を持っている。
二本の棒の中間点に来たとき、同じように雷が落ちる。
動いている観察者には、同時には見えない。前方にある棒に落ちた雷を先に見るのだ。「光」は棒から鏡までの距離を移動するのに、時間がかかる。その間に、列車は前方の棒に向かって移動する。
つまり、前方の棒からの「光」は、目に届くまでの距離が短くてすむわけだ。そうすると、止まっている観察者と動いている観察者では、雷がいつ落ちたのか意見が一致しない。時間は「相対的」なものなのだ。
アインシュタインの回想「謎の不合理もあります。私の理論は、時間は私たちそれぞれに、違った速度で流れているということを示しただけです。きわめて単純な話なのだと説明しても、信じる人は、ほとんどいませんでした。」
時間は変化するという最初の直感から、現在「特殊相対性理論」として知られる完成した形まで持っていくのに5週間かかった。そのアインシュタインの理論は、速く動けば動くほど、静止した場合に比べて、時間の流れは遅くなることを明らかにした。彼は最初の論文で、自分にとって相対的に動いている時計は、自分から見ると遅くなっているはずだと述べている。さらに、赤道においた時計と極点おいた時計を比べれば、赤道の時計の方が、遅くなるとも述べている。1905年に彼はすべてを見通したのだ。
信じがたいことだが、車に乗って仕事に行くときは、机に向かっているときよりも、時間はゆっくり進む。速度が上がると長さも縮まる。時速50kmで走る車の中では、時間と長さの変化は、まったく分からないが、もし、車が「光」の速度の90%の速さで走れば、横から見ている者にとって、長さは通常の44%に縮まってしまうのだ。ここで、ようやく「光」に関するアインシュタインの最初の疑問に答えが出る。もし「光」に乗ることができたら何が起きるのだろうか---答え---何も起きない---なぜなら、それは、不可能だから。「光」の速度に達したとき、長さはゼロに縮まり、時間は停止する。
最初は、ほとんど、ばかげていると思える---そんなことあり得ない、これはみんなでたらめだ---と。しかし、よく考えると首尾一貫し、美しく調和し、矛盾のかけらもない。それが「特殊相対性理論」なのだ。
1905年6月30日、アインシュタインは、ドイツの一流学術誌に、「運動する物体の電磁気学」と題する論文を発表する。この論文には、参考文献も脚注も、いっさい付いてはいなかった。アインシュタインは、論文執筆までに、よく話を聞いてくれた友人ミケーレ・ベッソに謝辞を捧げている。しかし、妻ミレーバの名前は出てこない。かつて、アインシュタインとミレーバは、「光」と運動の問題について一緒に研究しようと約束していた。初期の手紙に、そのことははっきりと書かれている。
アインシュタインの手紙「可愛い子猫ちゃん きみは、ぼくにとっての神殿です。ほかの人は、その神殿に近づくことはできません。きみは誰よりも、ぼくを愛し、だれよりもぼくを理解してくれる。ぼくたちの『相対性運動』に関する研究が、すばらしい結論を得たならば、ぼくは喜びと誇りに満たされることでしょう。」
「特殊相対性理論」に関して、妻ミレーバは、どのような貢献をしたか。異論はあるだろうが、ミレーバは、実質的な貢献をしていないと考えられる。彼女は、アインシュタインの考えを、理解することや批評することはできた。しかし、彼女自身の新しい発想というものはなかった。残された手紙を見ても、彼女は一度も知的な問題を語っていない。結婚して二年、ミレーバの役割は変わっていた。彼女は、家事や子供の世話におわれていたのだった。
「特殊相対性理論」を発表した4ヶ月後、追加の短い論文が出された。そこには、あの最も有名な公式が登場する。「E=mc2(下の写真はアインシュタインの直筆)」あらゆる物体に含まれるあらゆるエネルギーは、質量×「光の速度」の二乗という、途方もない数字になることが明らかにされた。わずか、1gの物質にも、莫大なエネルギーが秘められている。しかし、もし、そのエネルギーが放出されないならば、そのエネルギーは、まったく観測されない。ちょうど、決して、お金を使わない大金持ちのようなものである。どれほど貯め込んでいるか、誰にも分からない。
世界は、はじめ、アインシュタインの発見の驚くべき意味には、まったく気づかないかのようだった。特許局につとめ、余暇に物理を研究する26才の若者が、宇宙全体に関する認識を、完全に変えてしまったのだ。
アインシュタインの回想「なぜ私に、それができたんでしょう。普通の大人は決して立ち止まって『時間』や『空間』について考えたりしません。子供だけが、そういうことをします。私の秘密は、子供のままでいたことです。私は、単純きわまりない質問を続けてきました。そして今も、問いかけています。」
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