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ベルンからチューリッヒそしてプラハへ
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投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:38:43:YTmYN2QYOSlOI
 

(回答先: 特殊相対性理論(初期の反応) 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:31:27)

●ベルンからチューリッヒそしてプラハへ
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity7.html


 1905年、アインシュタインと妻のミレーバは、幼い息子とともに、スイスのベルンで静かに暮らしていた。「特殊相対性理論」の発表後も彼は相変わらず、ベルンの特許局で働いていた。
 アインシュタインの手紙「親愛なる友へ。私は未だにスイスの公務員として、インクを消費しています。給料はまあまあです。特許局で毎日8時間働きますが、大学でも少し教えるようになりました。」
 1907年12月になってまもなく、アインシュタインは学究としての人生のスタートを切った。
 彼の第一歩は、当時として普通のことで、大学の私講師を出願することであった。これは教授職ではなく、そして大学あるいは何か他の公的団体によって俸給が支払われるものではなかった。私講師であることは任命された大学で教える権利をもつことを意味するにすぎなかった。唯一の給料は各コースの出席者の支払う小額の授業料であった。大学人としての経歴を考えうるのは、その人個人が富裕であるか、または裕福な人物と結婚している場合だけだと当時しばしば言われたものである。どちらも彼にはあてはまらなかった。多分これが、このような職を捜し求める意志が早くからありながら、なぜ何事も起きなかったのかの理由である。
 1907年、それにもかかわらず、彼は特許局の職に就いたままで出願する決心をした。6月17日に彼はベルンの州当局に、PhD学位論文、17の発表済み論文(もちろん、1905年の成果を含む)、そして履歴書とを同封した手紙を送った。しかし、規則は規則である。というのは、理由は何であれ、アインシュタインは、「大学教職就任論文」として未発表の科学論文を、申請書に添えて送るという要請に従うのを省いてしまったのであった。1908年の初めに彼はやっと「大学教職就任論文」を作り、そして2月28日に、若いアインシュタイン博士に、彼の申請が受理され、そして教授権が許可された。アインシュタインは初めて学問的世界の一員となった。
 1909年7月、アインシュタインは最初の名誉博士号をジュネーブ大学で授与された。10月には、チューリッヒ大学の準教授として働きはじめた。
 「私は十中八九、今もらっているよりずっと良い俸給で正教授になるようにという、ある大きな大学からの招きに応じることになるでしょう。それがどこの大学であるか話すのをまだ許されておりません。」そうアインシュタインが母に宛てて書いたのは、チューリッヒで準教授職についてまだ半年もたたない1910年4月4日のことであった。彼が期待した招聘は、プラハにあるドイツ系大学、カール=フェルディナンド大学から来ることになると思われていた。1月に召集された調査委員会は教授会に提案することさえ、まだしてなかったので、彼は慎重でなければならなかった。委員会の委員長でかつアインシュタインの強力な支持者であった実験家アントン・ランパは、あらかじめ彼の意向を打診していた。1910年4月21日付の委員会報告は、3人の候補者を提案し、彼らは皆正式の申し出を受諾する意向であると述べた。アインシュタインは第1位に選べれていた。この報告はプランクの熱烈な推薦状を引用している。「相対論に関するアインシュタインの仕事は、おそらく、今までに純理論的科学さらには認識論において、成しとげられえたすべてのことを大胆に凌駕している。非ユークリッド幾何学は、それに比較すれば子どもの遊びである。」彼は続けて、アインシュタインをコペルニクスにたとえた。
 その後、紆余曲折はあったが、1911年1月6日、「皇帝・教皇フランツ・ヨゼフ陛下」は4月1日付の任命を正式に承認した。アインシュタインは1月13日付の手紙で通知を受けた。任命の発令に先立って、彼は自分の宗教の帰属認定を登録しなければならなかった。彼は「モーゼ教」と書いた。3月に彼と家族はプラハに到着した。  

 *(プラハ大学とその教授職について)
 ヨーロッパで最も古い大学の一つであるプラハの大学は、ドイツ人の教授とチェコ人の教授をもっており、これらの教授は、それぞれ自分の言葉で講義していた。しかし、ドイツ人はチェコ人に対して、自らを優秀民族であると主張してチェコ人を蔑視し、ドイツ人とチェコ人は、いつも政治的な争いを起こし、それがプラハの大学を二つに分け、その一つをドイツ大学、他をチェコ大学と呼んだ。このドイツ大学の初代の総長は、エルンスト・マッハであった。
 このプラハのドイツ大学の理論物理学の講義の講座に、1910年に一つの空席ができた。このとき、教授選出を任されていたのは、アントン・ランパであったが、ランパは、マッハの実証哲学を信奉するマッハの熱狂的な崇拝者であった。そこで、ランパは、このマッハの精神で物理学を教え得る教授を物色して、二人の候補者を見いだした。
 その一人はアインシュタイン、他はグスタフ・ヤウマンであった。このような場合には、候補者の名前と、その科学的業績とが大学当局へ提出される慣例であったが、1905年にベルンで発表された論文と、それから1910年までに発表された論文とによって、すでに名声の高まりつつあったアインシュタインが、第一の候補とされ、ヤウマンは第二の候補者とされていた。
 しかしながら、オーストリアの政府は、外国人(つまりオーストリア国籍を持たない人)を、プラハのドイツ人大学の教授に任命することを好まなかったので、ドイツ大学当局は、まずこの地位をヤウマンの方へ申し込んだ。ところが、アインシュタインが第一の候補にあげられていることを知ったヤウマンは、アインシュタインのように、新しいかも知れないが、わけのわからぬことをいう者を第一の候補にあげて、自分の仕事の真の評価を認めないような大学の教授にはなりたくないと、この申し入れをけってしまった。そこでオーストリア政府とドイツ大学当局は、悪しき前例「外国人嫌い」をあえておさえて、この地位をアインシュタインに申し込んだのであった。
 アインシュタインは、彼の故郷となったチューリッヒの町を非常に愛していた。そして、その町をはなれて外国の町に行くことに不安を感じていたし、彼の妻ミレーバも、このチューリッヒの町を去ることを、のぞまなかった。しかし、彼が、このチューリッヒの大学から受けとっていた報酬と、彼がプラハのドイツ大学で受け取るべき報酬との間には、あまりに大きな差があったので、彼は、ついにこの申し出を受諾して、プラハへ行く決心をしたのであった。
 このプラハのドイツ大学の教授の地位は、時の皇帝フランツ・ヨーゼフによって任命されることになっていたが、皇帝は、認定された教会(カトリック、プロテスタント、ユダヤ教会など)に、属する人たちだけが、大学の教授になる資格をもつと信じていたので、そうでないような人を大学の教授に任命することを拒んでいた。ところが、アインシュタインは、ミュンヘンのギムナジウムを去るときに、ユダヤ人の宗派に属する正規の帰依を捨ててしまっていたので、当時はいかなる宗教団体にも属していなかった。しかし、アインシュタインは、友人たちの忠告にしたがって、彼の調査書に彼の宗教はモーゼの宗教であると書き込んで、皇帝フランツ・ヨーゼフによる任命式を無事にすませたのであった。(*アインシュタイン伝 矢野健太郎 新潮文庫より)

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