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愚民党さん、マルハナバチさん、おはようございます。
これまで、阿修羅サイトでは勝手にそして唐突に、「降服」、「呈上」、「Matrix」なる言葉を理論展開の結節点に散りばめるように提示してきました。それには、本格的な展開を企図すると際限なく続いてしまうと考えられること、また辞書的な解説では私自身もおそらく阿修羅に集う諸氏も満足しないのではと考えたこと、しかし何よりも特に「Matrix」それ自体を語るための論理技術的な熟練度に自分が達しているのかといった内省が少なからず関与してもいます。それゆえ、愚民党さんやマルハナバチさん等の感応をたよりにしていたところが大いにあります。
私事ですが、高校の時、何事もたった一人から始まるとの矜持(高橋和己の影響か)を得てガリ版刷りのアジビラを携えて街頭に立ちました。もう一つの動機を挙げればサルトル流実存主義に傾倒していましたので、自分なりのアンガージュマン(社会参加)の表出でもあったのでしょう。大学時代は押し寄せた潮流の飛沫を受けてそこそこの新左翼活動家であったのですが、中心部にいた訳ではありません。入学後にオルグされた者がすぐに実績を作り組織内の出世(?)を果たすことなどは稀で、実際には幹部の多くが60年安保闘争の残党か彼等から指導を受けた人達で構成されていたと記憶しています。
こうした経緯と専攻(哲学)も関係して、卒業後も私は実存主義をラボ(擬似体験)化できないかといったテーマを抱えることになるのですが、同時に文献研究を拠り処に実存主義を探究することの無意味性と、さらに世に問うための思想として構築するのには不十分な自らの非才を覚ってもいました。
しかし、卒業後はまったくの実業の世界に入ることになり、この学生時代のテーマからは次第に遠ざかってゆき、すでに15年近くの年月が経っていました
やがて、80年代後半から90年代を並走するようにいつの間にか私もニューエイジ思潮の中にいました。スタニスラフ・グロフ、ケン・ウイルバー等の所謂トランス・パーソナル心理学系の著作を主体に、量子力学、タオ自然学、チベット密教に関する書物を読み漁っていたものです。
マルハナバチさんのご指摘の通り、自身のMatrixの体験を敷衍するものとしてJ.C.Pearce “MAGICAL CHILD”から多くの示唆を受けたのは確かです。その本に出遭ったのは今から10ほど年前だったと思います。それより4,5年前に縁あって教師の職に就いていたのですが、教授法について色々と模索している最中のことでした。
国分康孝氏(心理学−教育分析−)は著書の中で、人間の「教育」には二つの相があると述べていたと思います。すなわち、事物にたいする構えや道具使いを習得させる「調教」と、たとえば種子が萌芽し花開きやがて実を結ぶように養分を与える「滋養」です。Matrixは正に後者と附合するものでありました。
「調教」はよりア・ポステリオーリな事象であり、「滋養」はよりア・プリオーリにMatrixとの関係性に起因し、さらにこの「教育」の相が創出する人間の成長過程は、原初的なMatrixの磁場に基づいたMatrixの磁界のホログラフィックな展開を表象していると捉えています。
しかしながら、今現在もMatrixを構造的に解析することの困難性を強く意識していますし、でき得るのは精々機能的な面から入ってその本質ににじり寄ることでしかないと考えています。
「Matrix」に関しては色々と書きたいことがあるのですが、年の瀬に向いつつあることからさては身辺が忙しくなり、何処から始めるべきか迷うことしきりです。さらにまた、イラク問題は喫緊のテーマとの認識を私も共有していますことから、本来の脈絡を外すことを承知で今回は想いつくままの一言で括りたいと思います。
誰であったか失念しましたが、セム語系に代表される宗教を荒野(砂漠)の宗教、たとえば日本におけるような八百万の神を拝する宗教を森の宗教と語っていたような記憶があります。私はこれをMatrixと切断された記憶をもつ民と、Matrixとの繋がりを未だに意識下に収蔵している民の関係として捉えています。しかし、この関係性の発生状況は偶然としか言いようがなく、殊更に宿命的なものであるとする選民思想に絡めとられることを潔しとはしていません。ただし、おそらく前者を済うことができるのは後者をおいては他にないとも、それが結果として(地球という)Matrixを済うことになると夢想してもいます。
また、会いましょう。