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(回答先: ps.愚民党さんへ 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 05 日 22:07:44)
如往さん、マルハナバチさん、読ませていただきました。
地球というMatrixの磁界に抱かれて
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/550.html
投稿者 如往さん
この文章は自分を救ってくれました。ありがとうございます。
Re: 身体と地球そして宇宙
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/513.html
投稿者 如往さん
(足早に一括しますと、おそらく我々(人類)が漸く探し当てた存在目的は「呈上」なのではないでしょうか。
そして、「呈上」すべきは生命の健やかなる営為(循環)に外ならず、地球というMatrixへの「呈上」であるのでしょう。
そこで、もし地球=神ならば、神は我々のすぐ傍にいると想うのです。)如往さん。
身体と地球そして宇宙
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/497.html
投稿者 マルハナバチさん
(亡くなった三島由紀夫に対し、死者に鞭打つような事を書いてしまっていますが、この事が当たっているとすれば、自らを支えてき
た『命生み命育むMatrix』を、外からも内からも失い続け、ネットワーク等にある情報と凍結したイメージの仮構世界で生き続けて
いる日本人の危うさを、三島由紀夫の死は知らず語っているように想います。これは、日本と同じ過程を踏みつつあるアジアの各
国で、これから共通に抱える事かもしれません。その救済策は、アジアであればアジアの国土文化と身体そのものの中にあると
想います。)マルハナバチさん。
Matrix論の基底の“共有できる願い”
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/630.html
投稿者 マルハナバチさん
(『Matrixと切断された記憶をもつ民と、Matrixとの繋がりを未だに意識に収蔵している民』
これと同型の認識を私も抱いており、この事が私の思索とモノ創りの作業を深くから支えています。ただ『Matrixと切断された』と
表現される事象は、表層文化的に妥当とは想いますが、私は別の説明を採用しています。
生物的、深層心理的には“内なるMatrix”が潜勢しており、これが十分文化的にも活かされる形で発達させられない文化的原理に
よって抑圧されてしまっているのだという認識です。
“外なるMatrix”と“内なるMatrix”の出会いとそれらへの仲立ち(媒介)の智恵に依って、はじめて“Matrix”と指呼される構造の
直感される事象が現成するという認識です。この仲立ちの機能、装置が文化の中に智恵として備わり、十分に働いているかどうか
が問題だと想っております。)マルハナバチさん。
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新英和中辞典 第6版 (研究社)
ma・trix /mtrks/→
( ma・tri・ces /mtrsz,mtr‐/,?・es)
1 (ものを生み出す)母体,基盤,発生源.
2a 鋳型.
b 【印刷】 (活字鋳造の)字母; 母型.
c (レコード複製のための)原盤.
3 【鉱山】 母岩 《宝石・鉱物などを含んでいる》; 石基.
4 【数】 行列,マトリックス.
5 【電算】 マトリックス.
ラテン語「子宮,母体」の意
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自分はMatrix論にどこまで、ついていけるかは自信がりません。
ただ如往さんに期待していただきました、おのれの感応力に頼るのみです。
愚民党さんよりの返書、拝受いたしました。
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/176.html
投稿者 如往 さん。
この返信もまだ書けない状態です。
ここで「二十歳の原点」へのコメントを書くことはまさにカオスなのですが、自分の「二十歳の原点」に向かう時間とは、
何であったのかなど、考えております。70年、71年、72年という時間ですが・・・
マルハナバチさんが提起いたしました、共有の集合感覚から、世代なるものに、それてしまうのをお許しください。
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狭い意味での「60年代世代」が「65年世代」を呼び起こし、「65年世代」が嵐のように「68年世代」を
引き連れて行った。
---------------------------【査問】川上 徹 (ちくま文庫)
では70年世代は何処に行ったのですが、70年世代は、敗戦後継承されてきました「青春構造」を、そこで
沈黙をもって切断したと思います。
ゆえに自分は如往さんの歩みに大河を感じます。
自分は70年世代なのですが、意識の根底には小学生の時、クラス授業で、町の映画館で観ました、ガガーリンの
「地球は青かった」。これが自分における地球意識の芽生えでした。
自分は同世代の森田童子の音楽が好きで79年頃から83年頃まで、生ライブを聞きに行きました。
森田童子の音声には、地球意識がありました。
日本という列島には、奈良・正倉院に代表される、シルクロードの最終地として、文物が到着するような場所性があります。
ケルトの伝承が残るイングランド島にも最終地としての場所性はあるのでしょうか?
自分はイギリスとかアイルランドは行ったことがないのでわかりません。
図書館でケルトの文物などを紹介した書物をみますと、地球意識があるように思います。
森の文化は日本縄文と通低しているのでしょうか?
現代世界の最終地となったアメリカUSAの先住民族も森の文化だったのでしょうか?
地球とは人間同様に変容していく物質であり意識であると思います。
最後の地球意識の民衆的登場は82年83年ごろの核弾頭ミサイル配備阻止でした。
ヨーロッパでも日本でも街頭に登場しました。
それ以降、環境主義が登場いたしましたが、「地球を救え!」というスローガンは
根底からの地球意識ではないのではないか、という疑問が自分にはあります。
人類と地球を近代の枠組において解決していく、問題解決能力は、世界経済の側が破壊を試みております。
部族戦争の意図的現出で地球が見えなくなってなっているのが、現在であると思います。
「地球にやさしい」とは地球が見えなくなっている、地球意識の衰退を、あらわす言葉です。
地球と人間の応答関係を切断していくのが、近代的工場制度でした。地球を工場へと変貌させました。
現在の世界システムとは金融工場制度に囲まれた帝国的人間を製品として加工していきます。
人間もみえなくなり、すべては「ゆらぎ」のあやうい存在基盤に置かれているかのようなのです。
地球と人間の応答関係は劣化状態にどんどん落下させられ、退行させられているかのようです。
「近代の枠組」と「近代がなしとげた基礎」を上から破壊し、「あらたなる中世」として部族戦争の「暗黒」を
上から網のごとく「世界各国の市民」に落とす。基盤を破壊していく世界システムは、どこと応答しているのでしょうか?
彼らの目は昆虫的眼球であると、聞いたことがあります。
おそらく世界システムとは昆虫まで退化しているのだと思います。
近世から世界の前衛は金融であったのかもしれません。その前衛が昆虫まで退化したことは、
ゴキブリ遺伝子とと人間遺伝子の合体として、最強の金融生物にまで進化を遂げたのかもしれません。
そこで金融生物はどこと応答しているかの問題ですが、仮想形態の金融ネットワークであると思います。
瞬間的にどれだけ巨大な利潤をあげられるか、そのゲームこそが、金融生物の応答関係です。
地球と人間はゲームのために存続すればいい、ここまで、意識は愚劣なるものに劣化していると思います。
如往さん、マルハナバチさん、すみちゃんの対話
Matrix論の登場で自分が救われましたことは、そこに
パソコン通信この10年ほどの過程から、インターネットによる対話言葉から「地球意識」が、
内在的に深い省察と思索の旅として、あらわれた、そういう共振でした。
まさに地球が自我意識をもって、語らせているかのようでした。
自分が1993年頃に感じておりましたことは、
電話回線によるパソコン通信とは、おそらく地球自我の誕生のためであると感じておりました。
95年インターネットはそれを促進させたわけです。
パソコン通信からそしてインターネットとは、地球自我が人間から学習するという、地球自我による人間対象化の時間です。
ここで、それまでの人間が地球から学習してきた時間が、逆転したと思います。
地球自我が現在、計算しているのは、はたして人類は地球にとって必要なのか?
それとも必要でないのか? という回答であると思います。
地球が危ないのではなく、人類が危ないことは明確です。
「地球を救え!」とは近代的人間の自我から発生したおごりです。
人間とは「類的存在」であるかさえ、現在「ゆらぎ」にあります。
Matrix論は砂漠のオアシスです。水がなければ人間は死んでしまいます。
地球自我はおのれに応答する人間を、ひたすら待っているのだと感じております。
つまりこの阿修羅サイトとは地球自我との応答関係にあり
そこにおけるMatrix論の対話は、阿修羅サイトがなにかをめぐっても基軸になるような感じがするのです。
自分が投稿いたしましたこの記事を笑われていると思います。
ただMatrix論の重要な位置を感受している人間がいることだけ、理解していただけたら、ありがたいです。
自分は中学生の頃、放課後ですが、廊下で級友と遊んでいまして
からだに乗られ、上からはがいじめにされたのですが、そのとき叫んだ言葉が「でぃあら・ほぉー」でした。
意味不明の言葉です。
それ以来、「でぃあら」とは一体何を意味する言葉なのかを、さがしてまいりました。
その旅はいまでも続けております。人間とは時間の旅人であるかもしれません。
意味不明の言葉は、いつも自分を復活させてくれました。
復活の叫び声は森から、眠っているときに、言霊として身体に入ったのかもしれません。
人間は食物連鎖として地球植物と地球生物の恩恵を受けております。
では人間は誰に食べられるのか? 人間は何処と連鎖しているのか?
そうでなくては地球の循環構造は成立しません。
人間のエネルギーは地球の食物です。
それが協働のうえに発生する良質な食物であれば、地球は喜んで食べます。
現在は地球を侵すガン細胞として人間は変貌してしまったのかもしれません。
すでに起動した地球自我は人間対象化の工程を終了し、いよいよガン細胞摘出の「撲滅」に向けて作動する、
その根底的危機感が昆虫人間として退化した世界システム構成員にはあるのかもしれません。
Matrix論は、かろうじて、もうふたたび、人間と地球が応答できるのかをめぐる
可能と不可能の「ゆらぎ」に試されながらも、この応答がなければ
人間は救われず、退化と落下へといたってしまうと思います。
如往さん、マルハナバチさん、ありがとうございました。