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(回答先: Matrix論の基底の“共有できる願い” 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 05 日 21:16:34)
マルハナバチさん、レス有り難うございます。
とり立ててイベントが多くなったとの自覚なきままにても、忙しくなりましたね。でも、もう一息です。
>生物的、深層心理的には“内なるMatrix”が潜勢しており、これが十分文化的にも活かされる形で発達させられない文化的原理によって抑圧されてしまっているのだという認識です。
“外なるMatrix”と“内なるMatrix”の出会いとそれらへの仲立ち(媒介)の智恵に依って、はじめて“Matrix”と指呼される構造の直感される事象が現成するという認識です。この仲立ちの機能、装置が文化の中に智恵として備わり、十分に働いているかどうかが問題だと想っております。
これと同じ事の抑止を『切断』という形で表現されたのでしたら、抱いている認識にさほど異なる事はそう無さそうですね。繋がれる事が期待されうる“遮断”“抑止”が私のイメージでした。
私自身は特定の宗教の信者ではありませんので、切断のイメージは、誕生に関わる子宮からの分離と産道を抜けるときの原初的体験を論じたスタニスラフ・グロフに多くを負うています。そして、潜在意識にまで深く刻印された「切断」、つまり象徴的にはキリスト教的原理による「切断」をモメントにしていると想いますが、そうでなければ神による救いや贖いや恵みといった原理は生まれて来なかったと考えます。また、それゆえに人々は自然を人為的に加工(人工)することを許可されたと受け取ることができたのではないでしょうか。
無論、私も“内なるMatrix”の存在を強く思念していますが、欧米のキリスト教徒達は“遮断”や“抑止”以上にMatrixとの隔絶感を抱懐していると想っています。内村鑑三や新渡戸稲造等の札幌農学校出身者がキリスト教に帰依しつつも日本的なものとの擦り合せに腐心したのにも拘わらず、「切断」を解明でき得ぬまま結局は武士道等の日本的な倫理観を基底に措かざるを得なかったのは、彼等を含めて日本人が「切断」の風土的体験から縁遠かったことに起因していると見ています。
>人格性は無く、生命/意識の成長の手掛かりの格子(Matrix)であるが生物的プログラム性があり、生命性の原基のようなもの…。人格性は無いにもかかわらず、その智慧の母体的性質により母神的印象を抜きがたく帯びるもの…。
Matrixが持つ諸相に生物的プログラムの原基としての相が含まれるという見解に賛同したいと思います。またそれが、本質的には母体的性質を帯びるものであり、男性的原理もその変形(ある種の畸形)であると見ていますし、時限的存在様態の男性性を受けとめその呪縛から解き放ち安寧に導き得るのも母性的原理ではないかと推量しています。
私にとってMatrix論との暗合は、自分が雄なる存在様態を有すること、たとえば時間限定的に表出する存在であることを覚り、せめて死するときにはMatrixに抱かれて最期を迎えたい、少なくともそうした感覚を全身で受けとめながら虚時間の地平に還りたいと望んだことによります。そして、常にMatrixとの絆を感じながら実時間の河を渡ることができたら、確実にある種の幸福ではないでしょうか。
他方、雌なる存在としての自己を意識する者にとっては、Matrixと共に在ること、すなわち置き去りにされた雄を腕(かいな)に抱く自己を感覚することも、至福と同義ではないかと思います。
>このような立場ですから、地球そのものをMatrixと表現するにはためらいがあります。(内在はしている)
しかし、信頼に足るリアリティと強度を持っている事象を、共有のまなざしの下に、ここで確認できていると感じております。
確かに、地球そのものが現在でも尚解明できていないのですが、それ以上に不明な宇宙を措定することは暴挙に近いと思い、少なくとも我々が地球の磁場上にあることは確かなようですから、地球というMatrixというような表現を用いています。勿論それは、もはや日本というMatrixといった視点ではこの日本の問題でさえ解決でき得ないとの認識にも繋がってもいます。
>このMatrixに上向の階梯性をもって重なってくるもうひとつの原理を想定しているのですが、これには手をつけたばかりです。
私は思索をしつつも、現実にモノを創り、コトを起こしてゆく立場なので、思索の厳密化や社会科学的理論になる形を追求・精錬するよりも、直感を確かめつつ実践に向かいます。
多分、人類として呈上すべきものは何か、それをどのようにして実現していくかということにも重なると想いますが、私はマルハナバチさんや愚民党さん達が降服せずに呈上を志向していくことにおいて同志であると感じ、互いの道行を尊重し大切にしていきたいと考えています。
(地球あるいは日本という)Matrix は循環のホメオスターシスを創出する基体としての意味ばかりではなく、同時に人類の活動(創造)に意味を与える源泉と言えるのではないでしょうか。そして、人類は意識の深いところで自らの存在意義の解明を希求するからこそ、それがMatrixにたいする呈上の企図へと繋がっていくと想うのです。
それにはやはり、おそらく阿修羅の諸氏の多くが共有する自覚として、衆の覚醒に依拠しようとするのではなく、ひたすら個の覚醒を問い求めることから始めなければならぬと思料します。(加えて日本人は先ず、『無菌質性なるが故に思考停止し易いのか、そもそも何故自立思考を苦手とするのか、そのように歴史的に仕込まれてしまったのか。』と、自問する必要性を強調してもし過ぎることはないと感じています。)
また、会いましょう。