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戦争屋は嫌いださん、はじめまして、こんにちは。これは、【Nobles Obligeについて --- マルハナバチさんへの返答http://www.asyura2.com/0311/war41/msg/458.html投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2003 年 10 月 19 日 19:41:01:d/vusjnSYDx0. 】への横レスです。加えて、私の勝手な判断で議論板にもってきたことをご容赦のほどを宜しく御願いします。
阿修羅に寄稿するようになって以来、過去に読み漁った書物をあらためて紐解いてみたり記憶を辿ったりすることが多くなりました。そして、noblesse obligeに関して、直ぐに思い当たるのがW.S.モームの『剃刀の刃』です。モームはその中で貴族階級の末裔とその伝統を背景にするnoblesse obligeの末路を描き、臨終までを看取ろうとしているようにも見えます。それでも善導の煌きを見出そうした主人公にたいし、「人心を導くは剃刀の刃の上を往くが如し」(うる憶えですので、ご確認いただければ幸いです)と、チベットの高僧に語らせています。
ところで、日本にnoblesse obligeを涵養するような土壌が存在したかどうか、少なくとも明治期までは西欧的な流儀を醸成するような歴史過程ではなかったことから、おそらく同質のものではあり得ないでしょう。それ故、粗製濫造の華族の子弟に如何ほどnoblesse obligeの自負があったかどうか大きな疑念を懐いています。
しかし、たとえばnoblesse obligeに対置され日本に固有の精神の一つとも云われる「義」の高潔さも、戦争屋は嫌いださんが他所で指摘されているように昭和天皇が敗戦責任をとられずご退位されなかったことで失墜してしまったと考えています。
貴族階級社会の泡沫が今日的意味に適わぬ現在では、広田弘毅や井上茂美をnoblesse oblige「高貴なる者は相応(道徳上)の義務を負う」を自覚していたと見るよりも、ability obliges「能力ある者は相応(道徳上)の義務を負う」を体現した人物と見るほうが、より正確ではないだろうかと考えています。少なくとも、我々庶民には「高貴なる」ことの意味を現実的なものとして把捉できませんが、「能力ある者」の意味を捉えることは可能でしょう。
しかしながら、「能力ある者」が「相応(道徳上)の義務を負う」のを待っているだけでは、庶民側の怠慢であるでしょう。庶民側からも「能力ある者」にたいし負うべき相応(道徳上)の義務を提示し、絶えず彼等を鼓舞していく必要があると考えます。
noblesse obligeとユダヤ人(ユダヤ教徒)とは本来無縁であろうと考えています。無論、彼等の内部世界では同様な規範の存在を否定できないかも知れませんが、おそらくこの事に関して普遍性(外部世界への援用)をユダヤ教徒は特段に志向してはいないでしょう。
ユダヤに関してここ阿修羅には過去にも今にも相当な碩学がいると想われますので、そちらにお任せしたいと考えますが、ユダヤ人を一括りにすることの困難性や誤解を孕む危険性を阿修羅の諸兄諸氏から教わったような気がしています。
米国に関し、私が意識しているのはアングロサクソン・アメリカンですが、とりわけ約一世紀にわたっての一説には4千万人に及ぶ先住民族の殺戮の事実を贖うことのないままでは、noblesse obligeを唱導できる資質など産出される事由があろうはずがありません。ですから、如何にブッシュ一族が自身の責務をそれらしく脚色して語ろうとも、アングロサクソン・アメリカンにnoblesse obligeは全く無縁であると裁断しているような次第です。
また、お会いしましょう。