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(回答先: Re: 訂正 王権を拡大 とあるのは 王権を制限 の間違いです 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2003 年 10 月 28 日 10:02:26)
戦争屋は嫌いださん、こんにちは。
>ご指摘の天皇の政治責任ですが、天皇をどのように捉えるかによってくると思うのです。美濃部達吉よろしく天皇を行政機関(institution)と捉えれば、おっしゃるとおり政治責任ないし行政責任を問うのことができると思いますが、戦前の天皇は現人神であったわけで、本当に神だとは信じている人はほとんどいなかったとは思いますが、神道の頂点に立つ祭司という位置づけもあり(この点ではローマ法王と同様の権威があったはず)、俗世界の権力関係を超越した権威をもつ存在とみなしていたのではないか、と思います。その場合政治責任という概念がなじむのかどうか、とはいえ大日本帝国憲法の体系の中で実体的に政治機関として機能していたこともまちがいないので、この観点からはあっしらさんの言う「敗戦責任」という形の政治責任を問うことができるでしょうね。
天皇や天皇制それ自体に及ぶ論考には私なりの想いや見識(?)といったものを抱懐していますが、一端開始すると際限がない展開になると推測されますので、意識的に迂回しているような次第です。つまり、あっしらさんと同様に政治責任に焦点を集約し、それを梃子にして戦後日本人の精神性の進化に資するモメントを探索しようと試行しています。そして、私が昭和天皇にたいしごく平易な敬意を表しているのは、私自身に愛憎合いまみえるほどの実体験が全くないこととはいえ、如何なる経緯にせよ昭和天皇にたいして何かしらの想い入れをもっている人達の心情を慮ってのことですし、それ以上の想いはありません。
>丸山真男の「日本の思想」中に「権利の上に眠るものはその権利を喪失する」ので、不断の検証が必要だ。という議論があったと思います。戦前の日本人は天皇の臣民「である」ことに安住し、近代国家の国民としてその権利を主張・検証「する」ことを怠っていたことがファシズムを招いた最大の要因と思います。端的に言えば日本人には主体性・当事者意識が欠けていたし、今日もこの状況はあまり変わっていないのではないでしょうか。例えば有権者「である」ことに甘んじて、肝心な選挙権を行使「する」ことを怠れば、それは権力者に対するチェックの放棄、ひいてはファシズムに繋がるわけです。
戦争屋は嫌いださんの書架に丸山真男のものがあるだろうとは想像していました。ナショナリスト達からの誹謗中傷に如何に晒されようとも、日本人の思想性に関する丸山真男の解析に何ら揺らぎを検出することはできないでしょう。『日本の思想』の中では天皇の大権行使にかかわる過程において、「輔弼」をキーワードに日本的意思決定の無責任な構造が浮き彫りにされています。しかしながら、戦争屋は嫌いださんが指摘される日本人の主体性・当事者意識の欠如の問題も、(日本に存在したかどうかは別にして)所謂思想界の形骸すら跡形もなくなってしまったような日本の現状では、丸山真男が遺した宿題に誰が応答すべきかを含めて難しい課題である事実を、(60年代後半の学生運動を社会問題から政治問題に転化できずに終わったという)自省を込めて痛感しています。
>日本の民主主義について言うなら、やはり王様のクビをちょん切って王権を制限して今日に至っている英国などとは、やはり気合いが違うな、というのが正直な印象です。戦後の民主主義にしても基本的にマッカーサーによって天下り的に与えられたもので、勝ち取ったものではない、という点がすべてだと思います。ありがたみが本当には噛みしめられていないのでは。自分で勝ち取ったものではないから、ファシズムの中で民主主義のもたらす特権を奪われても、それについての責任者に対して追求が甘くなるのではないでしょうか。
同様のことが戦後の農地改革にも言えるでしょう。不在地主の土地の収用と小作農民への払い下げはGHQの占領政策の一環として言わば賦与されたもので農民自ら勝ち取ったとは到底言えるものではなく、それは後に自民党の農政議員による農家の懐柔政策に絡めとられていく元凶にもなりました。そこでは、土地を与えられ生存基盤を手に入れたものの、政治的な自立の精神が涵養されるはずがありません。
>つまるところ自分の責任でもないのに理不尽な目に遭ったときには、素直かつしたたかに「ふざけるな」と怒る姿勢が重要なのではないかと思います。これを怠れば戦前の皇国臣民やドイツ国民のように権力をもつ側から、サンドバッグのように叩かれ続けることになります。所詮政治とは統治者と非統治者との間の闘争なのではないでしょうか。一人一人の有権者の意識と「闘争心」が一定の水準に達していないと、いつでもファシズムの危険がつきまといます。最近も日教組のオフィスが銃撃されたとのことで、昭和初期にそっくりになってきましたね。恐ろしいことです。
ここには重要なモメントが潜んでいると想います。それは「抵抗権」の問題です。私は民主主義と併置されるべきものが抵抗権であると考えていますが、民主主義を付与されたことにも気づかない日本人には抵抗権の重要性の認識は難しいでしょう。左翼にしろ右翼にしろ平和運動の活動家にしても、実際に国家権力による蹂躙や国家権力の壁に対峙しない限り、それに対置するものが抵抗権であることを自覚できないのではないでしょうか。
独立戦争や内戦を経る中で自決権の意味を骨身に染み込ませていった米国人には自明である抵抗権への想念が日本人のマインド形成過程に顕在化して来ないのは、これまた道理であるかと諦念にも紛う気分にさせられます。それでも、日本人の伝統的な思想的無責任性を真っ向から引き受け、遅まきながら様々に抵抗を重ねていくこと等によって、日本が新たな発信地になるのは難しいだろうけれど、諦めずに日本における民主主義の展開の方向を模索していかねばならないと考えているような次第です。
また、お会いしましょう。