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(回答先: 敗戦責任を問うということ 投稿者 如往 日時 2003 年 10 月 27 日 21:05:35)
如往さん
ご指摘の天皇の政治責任ですが、天皇をどのように捉えるかによってくると思うのです。美濃部達吉よろしく天皇を行政機関(institution)と捉えれば、おっしゃるとおり政治責任ないし行政責任を問うのことができると思いますが、戦前の天皇は現人神であったわけで、本当に神だとは信じている人はほとんどいなかったとは思いますが、神道の頂点に立つ祭司という位置づけもあり(この点ではローマ法王と同様の権威があったはず)、俗世界の権力関係を超越した権威をもつ存在とみなしていたのではないか、と思います。その場合政治責任という概念がなじむのかどうか、とはいえ大日本帝国憲法の体系の中で実体的に政治機関として機能していたこともまちがいないので、この観点からはあっしらさんの言う「敗戦責任」という形の政治責任を問うことができるでしょうね。
丸山真男の「日本の思想」中に「権利の上に眠るものはその権利を喪失する」ので、不断の検証が必要だ。という議論があったと思います。戦前の日本人は天皇の臣民「である」ことに安住し、近代国家の国民としてその権利を主張・検証「する」ことを怠っていたことがファシズムを招いた最大の要因と思います。端的に言えば日本人には主体性・当事者意識が欠けていたし、今日もこの状況はあまり変わっていないのではないでしょうか。例えば有権者「である」ことに甘んじて、肝心な選挙権を行使「する」ことを怠れば、それは権力者に対するチェックの放棄、ひいてはファシズムに繋がるわけです。
昔地方の選挙区でおにぎりに一万円札を入れて有権者にくばる、という選挙違反がありました。当時この話を知り合いの米国人にしたところ、「選挙権みたいな大切なものをたった1万円で売り渡すなんて信じられない。自分なら100万円でもいやだ。」という反応でした。米国が真の民主主義国家であるかどうかは、議論が(大いに)分かれますが、この発想は重要ではないかと思います。
日本の民主主義について言うなら、やはり王様のクビをちょん切って王権を拡大して今日に至っている英国などとは、やはり気合いが違うな、というのが正直な印象です。戦後の民主主義にしても基本的にマッカーサーによって天下り的に与えられたもので、勝ち取ったものではない、という点がすべてだと思います。ありがたみが本当には噛みしめられていないのでは。自分で勝ち取ったものではないから、ファシズムの中で民主主義のもたらす特権を奪われても、それについての責任者に対して追求が甘くなるのではないでしょうか。
つまるところ自分の責任でもないのに理不尽な目に遭ったときには、素直かつしたたかに「ふざけるな」と怒る姿勢が重要なのではないかと思います。これを怠れば戦前の皇国臣民やドイツ国民のように権力をもつ側から、サンドバッグのように叩かれ続けることになります。所詮政治とは統治者と非統治者との間の闘争なのではないでしょうか。一人一人の有権者の意識と「闘争心」が一定の水準に達していないと、いつでもファシズムの危険がつきまといます。最近も日教組のオフィスが銃撃されたとのことで、昭和初期にそっくりになってきましたね。恐ろしいことです。