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(回答先: 価値観問題や「開かれた共同体」の仕事や土地について 投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 26 日 19:40:30)
あっしら様へ
「開かれた共同体」に関する一連のご投稿を読ませていただいて(必ずしも十全に理解したことを意味しないことが悲しいところですが・・・)思うことは、
キーワードは“自活”だな、という事です。
やがて到来する「利潤なき経済社会」において、人々は「開かれた共同体」の一員として生活していくわけですよね。
各個人も、均田制で自営農民で自給自足の生活であることが望ましく、つまり“自活”しており、
その「開かれた共同体」自体も、(どうしても不可能なものは除いて)その共同体内で生活必需品は生産・供給できることが望ましい、
つまり共同体としても“自活”しているわけですよね。個としても自活、家族としても自活、地域集団としても自活・・・・・
自活、自活、自活、どこまで行っても“自活”というポリシーに貫かれているように感じます。
「開かれた共同体」における“社会的弱者(心身障害者etc.)”について、私が拘るのは、取りも直さず、自活できない者=弱者だからです。
「開かれた共同体」において、現在の社会より弱者が不利な取り扱いを受けるのではないかと危惧します。
「開かれた共同体」において弱者の存在と取り扱いがどうなるのか、そのあたりの具体的なイメージがまだ湧きません。
「活動証書」や「労働証書」というネーミングからしてが、活動力や労働力を源泉とした概念であることを示唆しているのであり、
活動力や労働力を先天的にあるいは後天的に失った者がその社会でどのような生活を送ることができるのか?知りたいです。
以前の質問で、大資本に支えられた現在の高度な医療体制・環境が「開かれた共同体」では維持できるだろうか?と尋ねた記憶があります(答えはYESでした)。
例えで考えましょう。
同じがガンを患ったとしても、金持ちは治療費の嵩む高度な医療を受けて生きながらえることができるが、
貧しいものはそのような治療を望むすべはなく、それなりの治療を受けるのがせいぜいで、死んでいかざるを得ない状況です。
(これはあくまでも一例で、これに類する事例には事欠かないでしょう。)
さて、「開かれた共同体」では、医療はどうなるのでしょうか?
金持ちならぬ「活動証書持ち」は高度な医療を受けることができて健康な人生を全うし、
貧乏ならぬ「活動証書欠乏者」は十分な量の「活動証書」さえあれば治療を受けて生き延びることができたのにもかかわらず、
人生途上で死んでいかねばならないのでしょうか?
また、今までは健康で「活動証書」も生活に必要なだけ手に入れることができた者が、
いったん怪我や病気になって労働(活動)出来なくなった途端に、生活が成り立たなくなってしまいます。そして待っているのは死でしょうか?
共同体が価値を認める活動の出来ない者(=弱者)は「開かれた地域共同体」では余計物になってしまうのでしょうか?
私には、活動や自活に価値の基礎を置くポリシーよりも、ただ生きている(生存している)だけで価値があるというポリシーに基礎を置く世界のほうが魅力的です。
先天的・後天的な心身障害者の人々など、労働や共同体維持活動に従事できない人達も、
“生きている”というそのことが尊いとされ尊重される世の中が私の理想です。
いろいろなことをゴチャゴチャと書いてしまいました。
つたない表現力で恐縮ですが意図を汲み取っていただければと思います。