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五 代 目 山 口 組
五代目山口組は、神戸市に本拠を置く、我が国で最大の広域暴力団で、その勢力範囲は、1都1道2府39県に及び、平成11年末現在で、その構成員(組員)と準構成員(準組員)をあわせると約3万5,100人に達するといわれています。
五代目山口組の沿革についてみますと、初代山口組組長、山口春吉が大正4年、約50人の沖仲仕を集めて、神戸市内で山口組の代紋をかかげたのが始まりといわれています。
その後、大正14年、山口春吉は、長男の山口登に跡目をゆずり引退しました。
二代目山口組組長を襲名した山口登は、新設された神戸中央卸売市場の運搬権を独占したほか、浪曲興行界にも進出してその勢力を拡大して行きました。
しかし、山口登は、昭和15年、広沢虎造の興行権をめぐって、東京浅草で斬られた傷が原因で、昭和18年に死亡しています。
そして、戦後の昭和21年に至り、田岡一雄が山口組の三代目組長を襲名しました。
田岡一雄は、昭和56年7月に病死するまでの35年間、文字通り山口組のカリスマ的な支配者として君臨しましたが、とくに、昭和30年代から40年代にかけて、地元暴力団との間で数々の対立抗争事件を引き起しながら全国各地に勢力を拡大し、現在の広域暴力団山口組を築き上げました。
これも、田岡一雄の抜群の統率力と組織力、賭博に依存しない資金源を確立した先見性と、この豊富な資金力と強力な戦斗部隊が全国制覇の原動力となったといわれています。
ところが、田岡一雄の死後、四代目組長選出をめぐって、山口組内部において深刻な対立が生じ、ようやくにして、昭和59年6月、竹中正久が四代目山口組組長を襲名しました。
しかしながら、これを不服とする者が大量に山口組を脱退して「一和会」を結成しましたが、山口組と一和会は長期にわたり対立抗争を繰り広げ、結局その過程で、竹中正久は、昭和60年1月に射殺されてしまいました。
この、山口組と一和会との対立抗争が収拾をみた、平成元年4月、四代目山口組の若頭の地位にあった渡辺芳則が五代目山口組組長に就任し現在に至っています。
渡辺芳則が五代目山口組組長襲名後も、山口組は他の暴力団の勢力範囲に積極的に進出して勢力拡大を図っており、他の暴力団との間で多くの対立抗争事件を引き起してきています。
また、平成9年8月には、五代目山口組若頭の宅見勝が射殺されるなど内紛とおぼしき事件も起こしています。
なお、五代目山口組は、現在、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律に基づく「指定暴力団」に指定されています。