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(回答先: 《共同的資本主義論》理解のためのすり合わせ 投稿者 あっしら 日時 2003 年 8 月 03 日 19:09:32)
※投稿が遅れたことをお詫びします.内容も濃淡があるかもしれませんがお許しを.
※サーバがダウンしたため、このポストもインターネット・カフェから送っています。
※ようやくプロバイダとの電話連絡はつきましたが、まだ復旧の目処は立っていません。
> 馬場さん、こんばんわ。
こんばんは.
> レスありがとうございます。
夕べは乱れた手紙を失礼しました.
> しばらくは理解のすり合わせという感じで論議をさせていただきます。
お願いします.
論稿を査読(レビュー)して頂くとき,「私の主張」と「モデルについての記述」を弁別して頂くのがよ
いと思います.私が最終的に提示しているのは「モデル」であり,「モデルの評価」はある意味で,
一旦「モデルの内容」を理解してしまえば,私の説明が無くとも独自に(客観的に)行なうことが可
能です.モデル自体はきわめてシンプルなものなので,誤読のおそれはほとんどないと思います.
私の論稿で分りづらいところがあるとしたら,私が何かを「主張」している部分だと思いますが,特
に「証明」を試みている部分かもしれません.この辺は追々書き改めてゆきたいと思っています.
> そのようなことから前後の脈絡で不整合になっている説明もありますが、個々のテーマを断片的に考える段階の議論だとご理解ください。
あっしらさんのテキストについて言うと,私の論稿についての批判・評価の部分,現実の内政(財政)
に関わる現在形の議論,近未来的な政治変革プログラムについての論議の3つが唐突に交代・出
現するという感があります.「個々のテーマを断片的に考える段階」というのは分りますが,「個々の
テーマを現実政治に断片的に適用する」という発想は《共同的資本主義論》には本来ありません.
かつ私見ではその発想はかなり危険を孕んでいるように思われます.そのような議論はむしろもっ
と大きい場,例えば破産版などで別途行なって頂くのがよろしいかと思います.この雑談版ではで
きるだけ《共同的資本主義論》自体の批判・評価の範囲に留めて頂ければと思います.
「理解のすり合わせ」はお受けしますが,「政治路線のすり合わせ」にならないようお願いします.
> 貨幣について:貨幣の根源的定義は、相互関係性を持ちながら互いに独立して生産(供給)活動を行っている経済主体の交換を媒介するというもので、一般的交換価値性や富の蓄積手段といった役割定義は二義的なものだと捉えています。
よろしいと思います.ただし,《共同的資本主義》で想定している電子貨幣では,すでに貨幣は実態
を持たない単なるデジタルな数字にまで抽象化されています.これはもはや古典的な貨幣の概念
を逸脱しています.交換を媒介するトークンから流通を可視化するメディアに進化したと言えるかも
しれません.つまり,貨幣は既に個物ではなくある場所(シチュエーション)であると言うべきでしょう.
実際共同的資本主義では貨幣は運命共同体を結合する(精神的)靭帯のようなものに変化します.
冷たい電子的メディアが精神的靭帯に転ずるのは事実それが経済母体の血流でもあるからです.
> (すべての交換は個別具体的なものであり、それが貨幣を媒介にして可能であるという経験から一般性が導き出されたのであり、先んじて一般的交換性があるわけではない。富の蓄積手段という認識も、守銭奴的錯誤意識でない限り、貨幣が個別具体的な財と交換できるということを支えにしている。管理通貨(ペーパーマネー)が通用することで、価値形態という貨幣の特性は消滅した)
貨幣はその端緒から一般交換性として導入されたものではないでしょうか?
> これは、所有貨幣の増殖を目的とする近代経済システムが転倒したものであることを示唆し、貨幣は、生産活動に後行するものであり、社会的分業(社会的に必要なものを独立した供給主体が生産していること)を条件にしていることがわかります。
貨幣の物神性が倒錯であるというのは分ります.それが逆に人間に自然的制約条件からの
(イメージの)解放をもたらしたという可能性もあります.
> (土地を取得するためには貨幣が必要だということから、生産に先行して貨幣が必要だという意識にもなりますが、労働成果物ではない自然的生成物が財となっていることが“歴史的に特殊な状況”です。貨幣がなくとも、土地(自然)と人が労働過程的に結びつけば財(有用物)の生産は可能です)
(複雑すぎて)貨幣なしに実現可能でなかったもの・ことというのもあると思います.
> >理論的には銀行券は自由通貨であるとして,債務行為の媒介なしに市場に日銀券を投
> >入する方法があるでしょうか?
>
> 債務行為を幅広い概念で捉えると、債務行為の媒介なしに市場に日銀券を投入する方法はありません。
狭い意味での債務行為と取っていただきたいのですが.
> 道路などの建設も、日銀券の受領に伴う反対給付としての債務です。
日銀は国庫を管理していますから,歳入の中から(政府に代わって)支払いを行なうことはでき
ますが,それは私のお尋ねしている「債務行為の媒介なしに市場に日銀券を投入」には当たり
ません.むしろ「債務行為の媒介なしに貨幣を創出」とお聞きすべきだったのかもしれませんが.
> ここで問題になっている貨幣返済債務については、日銀券の流通始源が政府支出であれば、実質的に債務なしで市場に日銀券を投入することはできます。
「日銀券の投入」という私の表現がまずかったようで,本意が伝わっていなかったようですね.
確かに政府支出を日銀は管理していますが,それは日銀の中にある特別勘定であって,日
銀券の発行には当たりません.(むしろ公共セクタという「市場」の一部であり,外部)
> 中央銀行が紙幣を発行管理するとしても、経済社会での貨幣流通は政府支出を端緒とすればいいわけです。(形式的には返済期限・利払いなしの国債発行で政府が日銀券を手に入れるものでかまいません)
政府支出を端緒として中央銀行が紙幣を発行するとしたら,政府貨幣発行になります.
政府支出を端緒として中央銀行の管理する国庫から支払いを行なうとしたら,それは
中央銀行の紙幣発行ではなく,単なる移転です.
> これを中央銀行から見たときは、政府以外に発行した銀行券を渡せないことになります。
償還期限無期限・無利子の国債(による銀行券の発行)は政府貨幣と論理的に同等です.
ただ,証書が中央銀行の金庫の中にあるか否かという違いだけで,実質的には同じです.
> (過渡的には、政府以外にも貸し出しを通じて銀行券を渡してもいいと思っています。それは利子取得の容認につながるものですが、貨幣取引(借り入れ)税として政府の歳入になります)
ご趣旨は政治プロセス的にまず政府が自由貨幣発行権を握り(それ以外はそのままで)漸進
的に変革を進めるということと理解します.私は政府が単純に自由貨幣発行権のみを掌握する
というのは最悪だと考えていますが,中央銀行が(市中)銀行に融資を行なうというのはそれに
輪をかけてまずいと思います.もっとも問題なのはその政府の根性で,根性の悪い政府に自由
貨幣発行権を渡すくらいなら,餓死した方がよほどましだと思います.理論的には大変興味深
いパターンで大いに研究する必要があると思います.
日銀から超低利の貸出を受けて国債を購入し,それをまた日銀に買い取ってもらうなどという
虫のよいこれ以上ぼろい商売があるでしょうか?(国債に限りませんが)結託したただの転がし
です.日銀が市中銀行に貸し出しを行なうことは禁止はされていませんが,現行でも日銀特融
など極めて特殊で緊急性の高い場合に限定されています.それを日常化するなどということは
考えられません.自由貨幣を利子付きで貸し出すという構想は↑上のスレッドで論じた劣化す
る貨幣を適用した徴税システムを先取りするような側面があることは認めます.(政府貨幣を
発行する政府では歳入を増やしても<物価安定以上の>意味がありません.)
《共同的資本主義》では特に説明していませんが,この都市国家の政府が民主的なものであ
ることはもちろん,それ以上のものであることが暗黙に予定されています.つまり,国民と政府
の間には相当強い(運命共同体に近い)信頼関係があって,政府自体が非常に道義性の高い
ものでなくてはならないと考えています.今の日本の政治環境でこれをやったらおそらく政治
は限りなく腐敗の泥沼の中に落ち込んでゆくと思います.政府がドラエモンのポケットを持って
いるのに,それに手を突っ込みたくならないという人が(特に政権の周辺に)いるでしょうか?
私の個人的意見はどこかで述べていると思いますが,単発の政府貨幣発行による国債整理
すら,現在の政権ないしその継承者の手に委ねるべきでないと思っています.それは日本を
一層悪くなる方向に加速するだけだと思います.対案を示せというのなら,私はあえて銀行を
すべてつぶして一からやり直すのがもっともよいと主張します.(盗人に追い銭を呉れてどう
しようというのでしょう?展望がありますか?100歩ゆずってやるにしても,やるならやるでし
かるべき手順<終戦処理>があると思います.それができますか?)
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《あっしらのテーゼ》つまり政府貨幣発行権の定立は我々の橋頭堡です.
なぜそれを易々と戦う前に明け渡す必要があるのでしょうか?
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> >日銀券は国民になじんでいるし,自販機やATMのプログラミングの問題もあることか
> >ら,政府貨幣を日銀券のデザインで発行するという提案は確かにあります.政府が日
> >銀に手数料を支払って発行を委任するなどのやり方です.
>
> 前述の内容とつながるものですが、「近代経済システム」をすっぱり切り捨てたかたちの経済システムの導入は、「近代経済システム」を作り上げた勢力との関係で無理だと踏むからです。
ここでは「現在話題の政府貨幣で国債を償却」を考えていて,将来的なシステムに論を拡大
するつもりはありませんでした.あっしらさんは近代経済システムがシームレスに次世代シス
テムに接続できるとお考えなんですね?あっしらさんが「ソフトランディング」を志向されてい
るのは存じていますが,近代経済システムと共同的資本主義の間には深い断絶があります.
> 彼らもアホではないので実質を見抜きますが、形式だけは現行のシステムを踏襲しているかのように見せたほうが軋轢は少ないだろうという政治的判断です。
私の論稿はもちろん完全に理論的な経済モデルの提示に留まり,どのようなプロセスでそれ
を実現するかということは示していないし,(今のところ)考えてもおりません.現在の作業は
そのモデルが論理的に矛盾していないか?理論的にでも実現可能なものか?どうかを評価
している段階ですが,もしあっしら氏が現実的な実現可能性までお考えになっているのなら,
大変光栄です.もちろん,私もオモチャで遊んでいるつもりはありません...ただし,この場
で直ちにその議論に飛び込んでしまうというのもいささか性急の感を否めません.
> >このシステムでは中央銀行という唯一の銀行しか存在しないので,「信用創造」とい
> >う現象は(絶対に)発生しません.「信用創造」が発生するためには複数の銀行の存
> >在が必要です.ただし,原理的にはこの世界でも約束手形,社債などの証券を発行で
> >きることになっているので,借入した金を又貸しするということは可能であり,その
> >限りにおいて擬似的な信用創造が発生する余地はあります.
> >とは言え,銀行のように「安い金を仕入れる」ことができないので,仮にそのような
> >ことがあったとしても大規模なものに発展する可能性はないように思われます.も
> >し,債券市場で地域的・時間的などの理由から金利差が発生するようなことがあれ
> >ば,それを悪用?して銀行類似業務を営むことは考えられるかもしれません.
>
> 自由貨幣を基礎とした銀行(中央銀行)は、無規制の「信用創造」ができるとも言えます。
多分用語の定義の問題だと思いますが,私の念頭にある「信用創造」は分数準備率銀
行(除分準備銀行改め)が貸し出しを反復して架空の信用を創造する操作に限定してい
ます.自由貨幣を発行する中央銀行の「信用創造」は私の用語では多分「貨幣創出」と
いうことになると思います.→→→失礼しました.↓下記が言えますので,論理的には
中央銀行は無制限の信用創造が可能です.^^;
ただし,実務的には貸付は等価な資産ないし商品の購入に宛てられることになってい
ますから,借入を(流用して)預金することはできませんので,中央銀行による信用創
造のようなことは起きません.
(信用創造は西欧型資本主義のもっとも危ういメカニズムで,潜在的な「パニック」という
グラグラする亀の甲羅に乗っているようなものです.中でもこれら亀属の一種である日本
亀の場合には転んだまま起き上がることもできず,短い脚をバタバタさせながらもがき回
る状態がかれこれ10年以上続いていることは皆さんご承知の通りです.)
> 現在のシステムでも、「信用創造」は、単一の銀行しか存在しない条件でも可能です。逆に言えば、単一の銀行のほうがスムーズに「信用創造」が行えます。
確かにそうですね.初歩的に勘違いしてました.
> 「信用創造」が預金準備率で規定されるのか自己資本比率で規定されるのかは別として、単一の銀行であればほとんどの決済がその銀行を通じて行われることになりますから、1億円の貨幣を原資に8億円の貸し出しを行うことが貨幣の移転なしでスムーズにできます。
その通りです.
> 「信用創造」ができないのは、街金のように貸し出しだけが行えるだけで、預金受け入れや決済機能を持っていない金融機関であり 、預金準備率100%もしくは自己資本率100%の規制が銀行に課せられているときです。(街金は1億円の原資で1億円の貸し出ししかできない)
そうですね.
> 無利子貸し出し制度が存在する《共同的資本主義》において、約束手形や社債などの証券が必要なのかどうか別途検討する必要があると思っています。
手元キャッシュが足りなくて,売り掛け回収の見込みがあるとき,期日を約束した手形を発行
できる機構は必要だと思います.ビジネスとは時間を引数とする函数です.株式は償還期限
無期限なので,スポット的な資金を集めるのには適していません.この意味で社債も必要で
あると思います.逆にこれら(とそのバリエーション)があれば銀行融資は不要です.
基本的に中央銀行の無利子金融はリスクマネーではありません.これらをすべて中央銀行
の無利子融資に委ねるというのは実務的にも無理があるし,市場経済の枠を逸脱してしまい
ます.リスクを自分が背負う,つまり自己責任が市場経済の根本ルールです.約束手形に関
わる金利は割引料ですから,あまり問題ないと思いますが,社債を操作して有利子貸し出し
のスキームを捏造することは考えられます.別途検討の必要性は大いにあると思います.
> >中央銀行で行なう無利子金融はすべて「自由貨幣の発行」として行なわれるので,融
> >資が活発に行なわれればそれだけ通貨の流通量は増加します.政府と中央銀行は同じ
> >ものと思惟しているので,通貨発行量は政府が予算に従って執行する政府通貨の発行
> >と中央銀行の融資額の和ということになり,それ自体大枠を決めることはできたとし
> >ても一般的には不確定です.
>
> 前回書いたように家計に対する無利子金融は必要だと考えていますが、経済主体に対する無利子金融が必要不可欠かどうかは、政府支出の在り方に関わる問題だと思っています。(投資すなわち生産設備が政府の責任と所有権で担われるのであれば、無利子金融の必要性は大きく減少します。原材料の仕入れや賃金・給与の支払いは、政府支出の先払いやつなぎ融資で対応できます)
そこまでやってしまうと,資本主義というよりは社会主義になってしまうのではないでしょうか?
私のイメージではこの社会は100%自由市場制資本主義社会で任意の個人,法人は誰の指
図も受けず,自分の思うままに思うことを実行する権利と責任を持っています.従って,ある企
業がある設備を購入しようとするときの中央銀行の与信審査は可能な限り形式的なものであ
るべきだと考えています.もちろん与信審査の実務がそれでは不十分であることは認めます.
イスラム銀行家が銀行家と投資家と企業家の役割を兼ねなくてはならないというのはその辺り
のことを言っています.(共同的資本主義ではさらに政策担当者の面も加わるでしょう.)
しかし,お説のように設備投資が政府の生産計画に従って行なわれるとしたら,その企業の
経営者にとって,自己責任でやれることとして何が残るでしょう?私自身はこの辺りにはまだ
まったく具体的なイメージは湧いていないのですが,中央銀行と呼んでいるもの特にその無
利子金融を担当する部門は官と民の中間にあるような(おそらくまだ試みられていないような)
かなり風変わりなものになるのではないかという気がしているのですが...
ただし,鉄道や道路,橋梁などのインフラストラクチャなどは国民の共有財産として保持す
べきであると思っています.これらを安易に私企業に廉価で払い下げるというのは問題です.
それは共有物の私物化であり,国庫からの窃盗です.運営を民間に委託するなり,第3セク
タが経営するという方向には賛成できます.《あっしらのテーゼ》からの論理的な帰結として,
自由貨幣は主として資産形成に向けられるべきであり,経費的使用は極力抑制すべきであ
るという指針が導かれます.ここから,以下の2点が最重点項目として確認されます.
@インフラストラクチャは可能最大限公有
A公共サービス(政府のすべての事業・実務を含む)は可能最大限民営化
自由貨幣を使ってインフラストラクチャの整備を大胆に進めることができます.これらは国民
の共有財産となりますから浪費ではありません.しかし,いくら自由貨幣は使い放題だから
といって,無規律に散財すればあっという間に国民経済は破綻してしまいます.従って,自由
貨幣によって賄われる経費は最小限に食い止める必要があります.もっとも効果的なのは,
その事業部門を民営化することです.つまり,共同的資本主義では政府の行なう事業のうち
民営化可能な部分はできるだけ外部に出すというのが正解です.
ただし,もしその民営化された部門の売り上げが100%政府からのものであるとすれば,それ
は単なる偽装的民営化であり,もしかすると政府貨幣を外部に持ち出すためのトンネル会社
である可能性すらあります.(民間なら営業の秘密という口実で監査を免れることができる.)
この種の犯罪を防止することは,官僚制の不経済をどのように克服するかという問題ととも
に,共同的資本主義の抱える大きな課題(西欧型資本主義にも同根の問題がある)です.
少なくとも,政府貨幣による支払いを受ける企業は会計帳簿の公開を義務付けるなどのこと
が必要であるように思われます.もちろん,政府の会計帳簿はすべて完全公開です.
インフラストラクチャが公有されるように生産設備も公有されるというのは悪い考えではあり
ません.実際,私のイメージでは無利子金融というのはほとんどリースと同義と言ってもよ
いもので,所有権と使用権の分離を(強制はされないが)暗黙に含意します.しかし,リース
対象の選択はリース会社ではなく,リースの利用者にあるように,企業の設備投資計画は
企業の経営者が自己責任で決めるべきものであると思います.
共有的資本主義社会は,公共セクタ・第3セクタを含む独立した多様な経済主体が完全な
自由主義経済的独立経営から計画経済的産業政策までの幅広いスペクトラムに拡がる中
で,それぞれの固有のメリットを活かしつつ共存するシステムです.より自由を求める方向
とより計画性を求める方向に分裂する可能性はありますが,個人(独立経済主体)の自主
的な決定権はあらゆる局面で最大限尊重されるべきであると思います.
(それにしても,インフラストラクチャは可能最大限公有という重点の配りからは,いかにも
業界との癒着,族議員の跳梁跋扈が蔓延しそうな気配がある.これを防止する妙手がある
だろうか?幸いこの社会では余暇時間はたっぷりありそうなので,カウンターパワーを育成
するという方策は考えられるかもしれない.政党助成とは正反対の市民運動家,市民政治
経済研究者への助成・活用のようなことがあってもよい.さしずめ阿修羅などは真っ先にそ
の助成対象になるだろう.いずれにせよ,政府貨幣発行が許されるミニマムな条件は,私
企業を含み政府支出に関わるすべての経営主体の会計帳簿の完全公開である.)
> >> 徴税は、貨幣発行残高の調整(物価変動率の調整)のためだけと受け止めてもい
> >>いのでしょうか。
>
> >もし,この命題が正しいとすれば(経済学上の)大変な発見になるかもしれません.
> >つまり,「政府は自由に通貨を発行できる.政府は通貨流通量調整ため,それだけの
> >ためにそれを回収する.」ということになります.これは既に「税ではありません」.
> >確かに誰からどれだけ回収するか?を決めなくてはならないので,結局は「税に類似
> >するもの」ということになりますが...つまり,回収の基準=税(制)ということ
> >になります.この意味では取引税という選択はまったく正しかったのではないかと思
> >います.
> >ほとんどコインの裏と表くらい緊密に照応しています.
>
> >我々の通貨は電子貨幣で,実際にはデータベース上のビット値であるに過ぎません.
> >従って,自由貨幣を発行するという行為はどこかのビットをオンにしたりオフにする
> >という行為に過ぎず,税の徴収も同様です.自由貨幣の発行には何かしらの対向的な
> >取引(公務員給与,道路工事支払いなど)がありますが,税の徴収ではそれがありま
> >せん.納税者は所有していると(思っている)通貨を失いますが,政府側から支払う
> >ものは何もないので,「何の効果もありません」.
> >つまり,この操作は明らかに通貨量を減少させる以上のことはやっていません!
>
> 「政府は自由に通貨を発行できる.政府は通貨流通量調整ため,それだけのためにそれを回収する」ということであれば、取引税がなくとも、政府支出量の調整や無利子金融量の調整でもある程度可能です。
そうですね.何を不変量と見るかによりますが...
通貨流通の上流で調整することはもちろん可能です.
★問:通貨の回収を行なわないとしたとき,通貨の供給量(政府支出・無利子融資額)の調整
のみで自律的に物価安定を維持することは可能か?
> 経済活動の起動因が「利潤の獲得」なのか「政府支出への対応」なのかという問題にも関わるテーマだと思っています。
私は一義的にはこのシステムは完全に自由な個人からなる典型的な資本主義社会であると
考えていますが,最終的にはそこに現に住む住民が決定(選択)すべき問題であると思います.
> 自由貨幣(政府貨幣)制度により徴税が不要になるという見方は論理的な整合性があります。
その通りです.しかし,本当にそれが実現可能であるかどうかということは数理経済学的に
検証される必要があります.租税というのが発生したのは相当昔だと思いますが,もし,本
当に租税の無い国というのが実現可能なら,それこそエルドラドなのではないでしょうか?
⇒これが理論的に可能であることについては↑上のスレッドの別稿で証明された.
★問:自由貨幣経済では徴税不用である可能性がある.銀行の存続を認め,かつ政府支出を
自由貨幣で行なう経済でも徴税不用なシステムを構成可能であると言えるか?
> (債務を伴わない政府貨幣による支払いは税金の先取り性を含意しているということです。ただし、徴税がないことが国民の財的生活条件を必ずしも増加させるというわけではありません)
自由貨幣により徴税が不要になるという命題は《あっしらの原理》に含まれます.(今後は
今ひとつぴんとこないので,《あっしらのテーゼ》を《あっしらの原理》と言い換えます.)
> >おっしゃられるように,「徴税の目的は物価の安定にある」ということになります.
> >すばらしい!
> ><<<<<どれほどこれまでの政治が間違っていたかよく分ります.>>>>>
> >これから色々のことが考えられると思います.たとえば,物価が安定圏にある限り政
> >府が発行できる自由貨幣の量は相当な裁量が認められることになりますが,その限度
> >はとか...投入する自由貨幣の量と物価の関係.これだけでも経済学者100人を
> >養えるテーマになります.
>
> 管理通貨制度やドル紙幣国際基軸通貨制は、経済社会が世界的に自由貨幣の成立基礎を持っていることを示唆しています。(ベースは、社会的分業の密度の濃さです)
むう...世界通貨をイメージされてるのでしょうか?あるいは共同的資本主義世界革命?
初代ロスチャイルドは「我に国貨の発行と管理をゆるせ,されば立法者が何者なるかに我関
せず」と言明していますが,実に神のごとき洞察です.事実,世界はそのようにして支配され
てきました.自由貨幣思想はこの国際金融資本による世界支配にまっこうから反逆するもの
です.国家金融資本家が国際金融資本家の支配化にあり,彼らに従属する使い走りに過ぎ
ないということは厳然たる事実です.貨幣発行権を国際金融資本家の手から恒久的に奪還
するという以外の方法では,自由貨幣を国民のものとすることはできません.よってここに,
確立された経済理論的礎石としての《あっしらの原理》の上に,以下の綱領が定立されます.
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阿修羅テーゼ2003:万国の自由人へ,貨幣発行権をロスチャイルドから奪回せよ!
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この革命を遂行するのに,流血も独裁も不要です.実施されるのはすべての銀行を国有化
し,無利子金融を実施する中央銀行のもとに統合するという制度改革のみです.すべての
普通銀行員は中央銀行職員としての地位を得ます.固定資産税・相続税・所得税・消費税
は廃止され,すべての個人資産はまるごと相続人に継承されます.高額所得者には手付か
ずの名目所得がそっくり手渡されます.つまり,この革命で不利益をこうむる人々はほんの
一握りの国際金融資本家とその執事たちに限定されます.新たなるこの国の民に栄えあれ!
国際金融資本家がたとえば日本政府に政府貨幣の発行を許す可能性はあると見ています.
しかし,そのような策謀は阿修羅テーゼとは何のゆかりもない「反動」でしかありません.
彼らはそれをある種の人体実験として遂行するでしょう.しかし,それが最悪の事態,
>>>>>政府貨幣という名の軍札のばら撒き<<<<<
という破滅的終局をもたらすであろうことは火を見るより明らかです.私は前の方で,対案と
して,「あえて銀行をすべてつぶして一からやり直すのがもっともよい」と主張しました.破綻
銀行をすべてつぶして国有化するというのは現実的な政策です.一部優良銀行は暫時生き
延びるかもしれませんが,中央銀行の無利子金融によってほどなく駆逐されることになるで
しょう.高利金融集団などの抵抗は続くかもしれませんが,陥落は時間の問題です.
※ドルに代わる真に普遍的な世界通貨つまり,世界貨幣が必要とされるようになることは論を
待たないと思われます.なぜなら,連邦準備銀行で発行するドル紙幣の地位は,諸外国の目
から見れば政府貨幣以上のものではないからです.世界通貨の問題は《共同的資本主義論》
の範囲を超えるものですが,近未来における世界貨幣システムの確立を視野に入れるならば,
普通銀行員が中央銀行に職場を見つけることができたように国連・世銀・IMFその他の国際金
融テクノクラートも,彼らの能力を活かす新たな職場をそこに見出だすことでしょう.丸裸にさ
れ孤立したほんの一握りの国際金融資本家と世界全民衆の戦いの帰趨は自ずと明らかです.
> 「どれほどこれまでの政治が間違っていたか」は、政治が個々の経済主体が利潤を追求することを通じて国民経済の成長を達成するという“近代原理”を標榜するものであれば、間違っていたとは言えません。
本意が伝わっていないのではないかと思います.<徴税の目的は物価の安定にある>という
言明は提唱(thesis)であって,証明可能な命題ではありません.私が言わんとしたことは,
この提唱が正しいとするならば,これまで政府のやってきたことは完全に間違っているというこ
とです.なぜなら,彼らはつねに経済成長とインフレーションがあたかも同義であるように吹聴
してきたからです.しかし,インフレーションは資産家にとってのぼろ儲けではあっても,勤労
者にとっては収奪以外の何物でもありません.現在,インフレなき成長というイメージを持って
いる政治家・経済学者がどこにいるでしょうか?
> 国民経済の成長を達成するために個々の経済主体を巧く動かすというのが政治の目標であれば、ある時期以降の政治は大きく誤っていると言えます。
多分私はちょっと言い過ぎたのかもしれません.<物価の安定が最善の目標である>という
テーゼはまだ発見されたばかりだからです.しかし,このテーゼは何と呼ぶのか分りませんが,
相対的に低成長でエコロジカルな持続可能社会というかなりの人たちがうすうすと考えている
これからの路線(マルハナバチさんのことばで言えば定常状態)の正当性を経済理論の側か
ら裏書するものではないかと思います.
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エコロジストの目標が「持続可能な社会」であるとすれば,共同的資本主
義者の目指すものは「永続可能な社会」であり,連帯することが可能です.
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> (後進国が国際的に置かれた条件や近代の歴史過程性も考慮する必要があります)
共同的資本主義は完全に電子化された決済システムなど高度に発展した社会的基盤を必要
としますが,ある種ポスト近代というか超近代というか原始的氏族社会への回帰のような側面
がほの見えます.共同的資本主義は地域通貨と親和性があります.共同的資本主義国の内
部でバラエティに富んだ地域通貨システムが花開く可能性はあります.これから類推できるこ
とは,共同的資本主義国は後進諸国とも相互扶助的なよい関係を結ぶことができるのではな
いかという期待です.たとえば,アフリカには低利小口金融の興味深い実践例などもあります.
> 《共同的資本主義》では投入(支出)する自由貨幣の量と物価の関係はけっこうシンプルなものなので、経済学者があれこれ研究するほどのものではないと思っています。
シンプルであるということは認めますが,研究に値しないというのは暴言だと思います.
> (貨幣から投機性・利子取得・蓄財性が薄れれば薄れるほど、貨幣量と物価の関係はシンプルなものになります)
我々(の大半)は明日のことなど誰もしらないような予測不能な世界に住みたいと思っている訳では
ありません.むしろシンプルでピュアな社会に回帰することを望んでいるのではないでしょうか?
英治
ps: できれば少しポイントをまとめてみたいと思っています.