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(回答先: PRIDE GRANDPRIX 投稿者 エンセン 日時 2003 年 7 月 28 日 03:16:50)
やあ、エンセンさん。
俺は格闘技のファンじゃないからよく分からないが、10日の放送は楽しみにしとくよ。
教えてくれてありがとう。
ところで、そういう業界はやはりヤクザな世界である以上半島系の力は相当なものなんだろうな。そいつらを日本の「闇の主役」と呼ぶのは妥当だろう。そしてそいつらがどの程度『奴ら』と手を組んでいるか、というのは瑣末な問題とは言えるものの、なかなかに重要なポイントだ。まあ、そういう裏事情は俺みたいな部外者にはとんと知るスベがないから他の詳しいヤツに任せるとして、エンセンさん、あんたに少し聞きたいことがある。
あんたは自分の好きなもの、好きな娯楽なんかが『奴ら』(広義の「侵略者」)の手に握られてることに関して、悩んだことはないだろうか。
自分の払った金が『奴ら』を肥え太らせ、日本への麻薬流入などを一層盛んにするのではないか。そうでなくとも例えば北朝鮮の民衆の困窮・飢餓の拡大に何らかのカタチで協力してしまっているのではないか。
俺もよく悩んだ。
ハッキリ言ってフツーの生活を送るだけでも、電気やら何やら、『奴ら』の支配を逃れている「生活必需財・サービス」は存在しない。文明の根幹である石油はもとより、電気・ガス・水・ガソリン・金属・塩・・・数え上げればホントにキリがなくなるからやめとくが、そこから逃れて完全な「支配脱出」を目指すのは、今のこの日本ではあまりにも難しい。しかも俺にとって一番キツイのは、それが実現できても大して面白そうに思えない、という点だ。なんだかんだ言おうと、俺はこの「世界」が好きだ。“みんな”で頑張って創り上げてきたこの「世界」はやっぱり素晴らしい。だからこそ、“つまらない”のには猛然と腹が立つ。
しかし、俺がここに留まるとして、『奴ら』の支配を受け入れるべきなのだろうか。それとも『奴ら』のことを全く気にしないで自分の生活を第一に考えるべきなのか。俺はどちらも嫌だ。両方とも、俺を“摩り減らす”生き方だ。俺は『奴ら』のことを脳裏に留めつつ、なお『奴ら』に支配されないで生きようと思う。ハタから見りゃあ何も変わってないとしか思えないかもしれないが、俺は『奴ら』の提供するものを自分の意志で択び取ることにする。もちろん、その選択の幅は限られている。その中で良いものがあるならばそれを。そうでなければ自分で新しい選択肢を創る。要するに主導権を取り戻すということだ。
「自分」とは何だろうか? 俺はよく悩んだ。テレビで新しい車の宣伝を見て「欲しい」と思ったとき、それは「俺が自分で思った」のか? それとも「宣伝に思わされた」のか? 考えても答えは出ない。確かなのは「欲しい」と感じたことだけだ。あとは通帳と相談するなり、詳しい性能を調べるなりして買うかどうかを決めれば良い。決断するのは自分だ。それは誰にも否定できない。たとえ『奴ら』の思う壺であっても、俺はそれに「覚悟」を持ってハマることにする。誰にも文句は言わないさ。全て「自分」で決めたことだ。
『奴ら』の支配領域の中で暮らすことが、アフリカなんかでの収奪を助長しているのかも知れない。それに対する非難を、俺は甘んじて受けよう。そしてただ、こう問い返すのみ。 「それで、あんたはどうすれば良いと思うんだ?」 俺はもう、そうしたことに苦悩して見せるのには飽きが来た。そんなことをしてても、面白くない。誰にとっても“つまらない”だけだ。
俺は『奴ら』の中で、『奴ら』に「感謝」して“広く生きる”。こんな良い暮らしをさせてくれてありがとう。だから、そのうちにでも「恩返し」してやりたい。“救って”あげよう。いや、違うな。『自分で自分を救う』ために、俺の手を貸してやりたいんだ。
さっさと終わらせて、「黄金時代」を楽しもう。
あー、最後に本題。
実に今さらだが、昨日『マトリックス リローデッド』を観てきた。この作品はよくある「閉ざされた世界からの脱出」モノでなかなか面白いんだが、その中で一番重要な問題として「イメージによる潜在能力の発現」というものがある。
これは、映画の外の“俺たち”にも出来るものだ。「確信」が強ければ強いほど、深ければ深いほど、それは疑う余地のない「力」となって「現実化」する。映画のように自由に空を飛んだり、弾丸を念力で停止させたり。もちろん難しい。不可能と言っても良いくらいだが、決して「不可能」じゃない。まあ、それが本当かどうかなんてのは大した問題じゃないがね。少しでも疑っていれば絶対に「現実化」出来ないんだから、そもそも「証明」は出来ないようになっている。
俺が問題視したいのは、なぜソレが今、大人気の「映画」のカタチで人々に刷り込まれているのか、という点だ。映画産業(特にアメリカの)は創始の時代から『奴ら』によって統制されている以上、この作品は確実に『奴ら』の「許可」のもとで上映されている。ならば、何のために? いろいろ考えてみても、やはり答えは出ない。『奴ら』が実際にどういう事情でどう動いているかなんてのはもとより俺の与り知らぬところだ。暴露本とか過去の歴史なんかからある程度の大枠はつかめるにしても、常に変動する情勢の中で正確な情報をつかむのはどうあがいてもムリ。中には断片的にでもそれを得られる立場のヤツもいるだろうが、あいにく俺は一介の庶民に過ぎない。
だから、『奴ら』が何を考えているかに思い悩むのはやめとこう。もちろん一定の注意を払うにしても、あまりこだわる必要は無い。肝心なのはあくまで「自分がどうしたいか」だ。
確かなことは、『リローデッド』を観て得た「感動」。そして「現実化」のプロセスについての一層の「確信」。さらに「肉体」を駆使することで何が出来るのか、「イメージ」の拡張による「自由」の増大。それらは紛れもない「現実」。『奴ら』が何を企んでるかは分からない。しかし、俺がそこから得た「力」は「本物」だ。いい映画だった。ありがとう。
俺は自分が本当に“楽しい”と感じる世界なら、それが「世界人間牧場」であっても「回転する牢獄」であってもかまわない。
そこに居ながら、俺は「羊」でも「牧羊犬」でもなく、「囚人」でも「看守」でもない。
俺は俺だ。俺は自由だ。
俺は勝手気ままに、「全て」を楽しみ、「全て」に感謝する。