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阿修羅の別の掲示板で、ある少年事件に関して「冤罪」が話題になり、一方、議論板では「先帝陛下の道義的贖罪」などというご意見を唱えられる方もいらっしゃるので、この場で、反省や贖罪について、その行為責任との関係について私見を申し上げたい。あまり関係のない話のように感じられるが、その背後にある種の病理を共有している。
「責任(刑法理論で使われる同じ単語とは別の意義で使っている)」は、行為に対する否定的評価なので、原則として行為について考えればよい。行為時の状況は斟酌すべきだが、行為後の事情は、行為の直接の結果(たとえば被害者の生死)を除いて、原則として考慮する必要がない。仮に責任者の態度で事後的に責任が軽減されるとすれば、賠償によって被害が回復される場合や、辞職などによって今後の被害発生の可能性が減少する場合を考えれば足りる。
刑事訴訟について考えると、現実には、被告人の「反省」は量刑の非常に大きなファクターとなっている。これは、財産犯の場合に著しい。窃盗や詐欺などの単純な財産犯で初犯なら、「真摯な反省」はただちに執行猶予に結びつく。これらの犯罪の場合は、常習性の高い麻薬・覚醒剤事犯と異なり、「真摯な反省」によって再犯の可能性が低いとするなら、理解できなくはない。しかし、反省と再犯率の関係は、刑事学的に実証されたわけではなく、また、「反省」のみを理由とする執行猶予などの量刑は、このような考慮を超えた異様さを感じる。
そして、「反省」によって量刑にサジ加減を加えることの現実の効用は、おそらく大量の冤罪である。裁判官の前で「反省」を演出するためには、有罪を自認するほかない。犯罪事実を争いながら、「もし私が真犯人としても反省している」などという民事訴訟のような予備的主張は荒唐無稽である。そんな「反省」は真摯なものと受取られないだけである。
「おそらく」と申し上げたように、「大量の冤罪」を実証する方法はない。しかし、私の感覚に頼った計数では、反省によって執行猶予が期待される財産犯の場合には現実に無罪主張が少なく、初犯でも実刑回避が困難な麻薬・覚醒剤事犯の場合には無罪主張が多い。そんなこと考えなくても、「素直に認めれば刑が軽くなる」という捜査段階の誘導は顕著な事実である。そして、裁判所の量刑実務はこれを裏付ける。(判決における量刑に限らず、保釈はほとんど例外なく公判廷で自白した被告人にのみ認められる。)
「謝罪」や「贖罪」などを含む行為者の「反省」によって、被害者の感情を好転させるという効果がないとは言わない。その意味で、被害回復と言えなくはない。被害者の処罰感情を考慮することは、諸外国でも同様であるから、これ自体は、「日本教」などとも関係ない(よって、反省をまったく責任評価に反映すべきでないとするなら、極めて少数説となる)。しかし、裕仁などの「反省」を過度に評価し(Ddog氏の論を全部認めたとしても、裕仁の反省は対国内に限られる)、その免責まで試みる論は、責任の本質が行為に対する否定的評価であることを忘れた論である。