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(回答先: 「大東亜戦争」への否定的評価 投稿者 たこ 日時 2003 年 7 月 11 日 12:38:37)
反省し発展するための批判としての、「責任の追及」ですか。なるほど。
敗戦における過失者・犯人さがしとか、戦後処理における国家間での責任問題には固有の
性質があります。
あなたや私を含めた世界中の人々が第三者の立場になって、絶対的な価値基準によってそ
の戦争を判断できるのかということです。
これは単に歴史や現実を解釈する上での問題でもありますが、法理的・倫理的な問題でも
あります。
あなたにもよく分かっているのでしょうが、かりに戦前・戦中・戦後という時代の多くの
出来事対する「事実認定」を共有できたとしても、それらに対する判断は人によって異なり
ます。ある政策が結果として失敗か成功かというレベルでも意見が分かれるのです。
そして、ある国に属する国民にとっての利益とか正義といったものが、他の国民にとって
の不利益であったり悪であったりすることはザラです。国際社会においては、諸国家を超え
た利益・不利益、正義・不正の普遍的な基準は今までのところありません。慣例としての国
際法は大切ですが、ごく限られた範囲の事項をカバーするルールにすぎません。利益・不利
益に関しては、どこまでいっても国家同士でお互いに矛盾するものでしょう。
要するに、日本国民としての正義や利益は、アメリカ国民の正義や利益とは異なり矛盾す
るものであり、第三者の立場で絶対的な基準から諸国の戦争の責任問題を判断することなど
普通はできないということです。
単に人が死んだから、苦しんだからダメだったとは言えないことは分かりきったことです
。これは私やあなた個人が死んだり苦しんだりしたくないと思うこととは別の問題です。
結局、技術論的なレベルで何が成功で何が失敗だったかを判断することすら難しく、技術
論的な成功・失敗では道義上の責任は追求できないものです。また、失敗したことが当時の
状況では仕方なかった場合もあれば、試行錯誤としては合理的判断だった場合もあります。
つまり、「反省し発展するための批判」をしたいのなら、「責任追及」という不必要な感
情や議論を巻き起こし、間違った社会的行動を引き起こすような言葉をそれに用いずに、た
だ「反省」や「非難」をすれば良いのです。
また、こういう視点も大切です。あなたには分かりきっている話もあるでしょうが。
『国際的責任問題一般について』 書記長 日時 2002 年 10 月 27 日 17:33:27:
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/602.html
『一応返答しますが・・・』 書記長 日時 2002 年 10 月 31 日 18:40:23:
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/655.html