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(回答先: Re: 理解に苦しみます、書記長の文章 投稿者 AP 日時 2003 年 7 月 12 日 05:26:56)
だから、当然たこさんへの反論になっていない部分もあります。
>たこさんが、第三者の立場で絶対的な価値基準によって戦争を判断していると考える理由は何ですか?私は彼の議論は、日本が行った「明治憲法下での戦争」(つまり日本という特定地域と時間)で一日本人として判断をしようとしているように見えますが。・・・そんなことは当たり前で、ここでは議論になっていないのでは?
そのことが、たこさんの私へのレスからはよく分からなかったのです。長い引用になりますが、もう一度確認してみて下さい。
『さて、本論ですが、「大東亜戦争」の否定的評価については、東京裁判での事実認定にほぼ同意しております。日中戦争を満州侵略の延長線上にある侵略戦争と考え、対米英戦争はこの日中戦争から派生したものとする考え方です。この15年あるいはそれ以前からの植民地主義(もちろん今の新植民地主義ではなく「旧」植民地主義です)を戦争の主因とし、これに否定的評価を与えております。これらの行為は、「政策として他国への強引な侵略併合」です。
念のためにお断りいたしますが、以上はヨーロッパ諸国による侵略戦争を正当視するものではありません。私は、個々の戦争を個別化して議論しております。そして、1930年代に至って、積極的にこれを推進したと言う意味で、「日本政府・軍部をナチスと同類」とします(もちろん民族政策などで区別されるべき点もある)。
ついでに東京裁判に関する私見です。書いておられるように、これは「連合国側」が一方的に処罰したものですが、これは法的責任を追及した舞台構造の問題です。もちろん、その事実認定には依拠できるものもありますが、大きな問題もあります。特に、「国家指導者の共同謀議」をいう粗雑な論ですから、冤罪の可能性もあるでしょう。しかし、このような裁判の有無で、日本あるいは「連合国側」双方または一方の指導者の政治的責任が免責されるわけではありません。開戦を意図して日本をこれに誘導し、大都市を空爆し、さらに核兵器を使用したアメリカの指導者の戦争責任も、東京裁判の有無とは無関係です。
最後の段で、「オランダ」の例を挙げ、「そんな戦いはするべきではなかったと後世のオランダ人が子供に教育することはないだろう」とされております。「今でもナチスを犯罪視し、戦争責任の追求を続けている」というドイツを反例としておきます』 (たこさん)
私にはこのたこさんの見解はまだ、「戦争における普遍的な善悪の判断基準」とか「判断基準としての人類が共通して追求できる利益」とかをある程度前提しているようにもとれるのです。もちろん人道上の最低限のモラルとか国際法・国際条約は重要ですが、「善悪」とか「市民の利益」のレベルになると事はそう単純ではないはずです。
たとえば、満州・中国における日本の進出・侵攻について私とたこさんとでは事実認定が異なってしまっています。その理由として、私が当時の世界情勢と国際常識の中で当時の日本が自国の国益を考慮して行ったそれに関する判断や行動が、どの程度正当もしくは不当なものであったのかを「日本人の利益」中心に考えているのに、たこさんは特定の時代からも立場からも思想からも自由な立場からそれを評価判断しようとする傾向があることが可能性として考えられるのです。
APさんは国民の責任とと国家の責任を分けて考える傾向があるようですが、戦前・戦後日本(とドイツ)の政治システムの実態や法律論から考察すれば、それは通用しません。対外的にはもっと通用しません。また当時の日本国民は、軍部を煽ってあの戦争をああいう形にしてしまった下手人の一人です。
>要するに天皇無謬論ですか?そして、戦争責任問題を論じること自体がおかしいという立場ですか?阿修羅でそんな議論をすべきではない、ということですか?
要するに、用語法の問題なのです。「戦争責任」を法的・道義的な意味で「追求」しないのなら、「非難」とか「批判」という表現にした方が適切だろうということです。