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(回答先: 「絶望」についての走り書き 投稿者 Dolphin 日時 2003 年 7 月 01 日 11:31:24)
Dolphinさん、こんばんわ。
高校生の頃読んだ、戦後日本文学者の本に
「明日のない希望よりも絶望の明日を」という著作者の
自筆が印刷されたページに衝撃を受けたことがあります。
戦後日本文学は絶望から出発した要素があると思います。
自分が高校生のとき大きく影響を受けたのは
坂口安吾「堕落論」でした。
「近代文学」という戦後に発刊された文芸誌から
戦後主体性論争が口火をきられ、哲学分野まで波及したと思います。
絶望から出発したと思います。
経済哲学者である梯明秀の「わが精神の病理」なるものを徹底的に追求した
本を読んだことがありましたが、ほとんど絶望色でした。
そこからの怜悧な探求精神は迫力あり圧倒されました。
1950年代の日本文学のテーマは絶望であり
1960年代の日本文学のテーマは挫折であると思っております。
大江健三郎の初期作品も絶望色が濃いです。
鎌倉仏教は平家と源氏による内戦への絶望から誕生したと思います。
鴨長明「方丈記」なども政治への絶望から出発していると思います。
日本における想像力は古代以来、絶望から怜悧に見据える自己探求の要素があります。
絶望と想像力のひとつの典型こそ、一遍遊行ではないかと妄想しております。
またヨーロッパにおけるルネサンスは死の舞踏としてあった
絶望のペスト時代をくぐりぬけて、誕生したと妄想しております。
ダンテ「神曲」は絶望と地獄めぐりです。
政治権力者でない庶民にとって
絶望することは人生の訓練です。
何故ならそこから人間の生存エネルギーたる想像力が誕生し、鍛えられるからです。
そして表現することが庶民にとって重要です。
インターネットは庶民のささやかな表現の場所と空間です。
庶民は政治屋ではありません。
投稿するのに政策提言まで要求するのは、いかがでしょうか・・・・・
投稿とは表現です。表現とは感性が重要な要素となります。
演劇におきましては、一般的なるものは排除されます。
本音の言葉、本音の身体においてしか、説得力を持ち得ません。
言葉は一千年以上の絶望めぐりをしてきた時間細胞です。
言葉は意味解釈のゲームではありません。
意味解釈のゲームは日本国会議事堂の政治屋にまかせてはいかがですか・・・・
自分は、力なき市民さんの言葉と在り方を信頼しております。