現在地 HOME > 掲示板 > 議論11 > 547.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 三菱の黎明期 投稿者 リーマン 日時 2003 年 6 月 25 日 01:25:04)
土佐藩と三菱グループおよび関西財界の関係を調べると面白い。
そこに着目した迎合作家、司馬遼太郎の『龍馬が行く』など。
その草創期からフリーメイソンとの関わりが強いように思われる。
4大メガバンクのうち、東京三菱銀行だけが一人勝ちなのはなぜかが
分かってくる。
日本経済へのバルブ経済とその破壊を仕掛けた首謀者といわれる、
フレッド・バーグステンと交流が深いのも頷ける。
国際通貨研究所
http://www.iima.or.jp/level1/outline/outline.html
【以下部分引用】
なにわと土佐と三菱と
http://www.yamane-e.com/omp-tosa.html
西区と土佐と三菱と
(大阪・西区の当社テナントビル・館内報より)
倒幕の立役者“薩長土肥”の4雄藩の一つ土佐藩は、
これも商売上手な藩であった。
土佐の鰹を商都大阪へ運び、そこから全国へ流通
させた。その市が立ったのが鰹座。現在の新なにわ
筋と長堀通りの交差点、鰹座橋(かつおざばし)はそ
のなごりである。別名土佐殿橋(とさどのばし)とも呼ばれた。
江戸期の大阪西区は土佐堀(とさ=高知県)、江戸堀
(えど=東京)、京町堀(きょうまち=京都)、阿波掘(あわ
=徳島県)、薩摩堀(さつま=鹿児島県)、立売堀(い
たちぼり“いたち”は伊達藩(だてはん=仙台)の読み
替えとの説もある)、長堀、堀江川、道頓堀川が縦横
に通じる文字通り水の都で、全国物資の流通センタ
ー的存在であった。
土佐藩は西区鰹座橋一帯の長堀川両岸に蔵屋敷
街を形成し、鰹や木材を大いに売りさばいた。そし
て、蔵屋敷の鎮守社として土佐稲荷神社(現在:北
堀江4-9)を置き、あみだ池筋が長堀川(現、長堀通
り)を渡る橋に故郷土佐平野の北にそびえる白髪山
から、白髪橋(しらがばし)と名付けた。と言う。
幕末期、長崎での土佐藩の対外国への面目を掛けた後藤象二郎の豪遊
や、軍艦などを大量に購入したことで、資金難に陥った土佐藩の財政改革
に抜擢されたのが岩崎弥太郎(いわさきやたろう)。三菱財閥の創始者である。
岩崎は強力な指導力を発揮して藩の工場や商業組織を立て直す一方、私
有化してその本店を大阪西区に置いた。もとの「大阪土佐商会」(西区役所
通り)を「九十九商会(つくもしょうかい)」という海運業の私商社に改組、改称し
たのだ。さらにこの土地が、物流の要となる3本の川に恵まれた土地であった
ため、三川商会(みつかわしょうかい)とし、1873年に三菱商会に変名した。
※注
現在の、三菱商事、東京三菱銀行、日本郵船などの業務はここ西区から
始まったのである。その後本店を東京に移し、日本を代表する大財閥となる
が、住友家や安田家、三井家の財閥が創業者の名前で呼ばれるのに対し、
三菱のみが岩崎家の名を付けなかったのは土佐藩への遠慮だったかも知れ
ない。いずれにしろ三菱の名に残る「三(みつ)」の字は大阪西区の3本の川
に由来するようである。
三菱商事のはじまり(写真)
http://www.yamane-e.com/tosa-mitubisi-mon.jpg
よく調べた史実を、ずぅーっと上から鳥瞰するようにして、独自の歴史観を打ち立てた司馬遼太郎も、
土佐稲荷や岩崎家旧邸跡に隣接する西長堀マンモスアパート(と当時言われたマンション)に住んだ。
(写真下)
http://www.yamane-e.com/tosa-ryotarotaku.jpg