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昭和二十年八月十五日の日本の降伏のあと、日本の国体が護持されたのが、それともそうでないのか。
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/
投稿 平成15年08月27日23時43分
太田龍の時事寸評
平成十五年(二〇〇三年)八月二十七日(水)
(第六百八十二回)
○月刊「猶太(ユダヤ)研究」(国際政経学会、昭和一六年 − 十九年)
を読んで行くと、実に、的確に、国際政経学会の先輩たちは大局の情勢
を把握して居られたことが分る。
○そこでは、
大東亜戦争は、神国日本と、悪魔的ユダヤとの戦いである、
ユダヤ米英の日本に対する戦争の目的は、神国日本の国体の破壊である、
と、明言されて居る。
○にも拘わらず、国際政経学会のこの正しい路線と思想は、当時の日本
政府、陸海軍には、全く、受け入れられて居ない。
財界に至っては、言うだけ野暮、と言うものであろう。
○だからこそ、昭和二十年に入ると、日本政府は、ソ連共産政権に対して、
対米英講和の口を利いてもらうように、大まじめで、奔走するなどと
言う、阿呆らしいていたらくをさらしたのである。
○昭和二十年八月十五日(十四日)、日本政府は、
「国体護持の条件付き」で、ポツダム宣言を受諾し、米英に対して降伏
する旨、敵国に通告した。
○この「国体護持の条件」については、陸軍が強硬にに主張したことは、
良く知られて居る。
○つまり、当時の日本政府は、日本が戦争して居る、当の相手、米英両国
の対日戦争の主要目的(日本の国体の破壊)を、この期に及んでも、理解
して居ないのである。
○それだけではない。
「日本の国体」なるものの内容が問題である。
○「国体明徴運動」は、一見、昭和初年、「五.十五事件」以来、日本
全国を制圧したかに見える。
○しかし、そこでの「国体」の内容は何だったのか。
○その内容を規定した人物は、
「皇国史観」の主役、平泉澄東京帝大教授(国史学)である。
○「国際政経学会」の立場と、この平泉澄的皇国史観は氷泥、相容れない。
○しかし、この件は、ここでは省略する。
○また、「国際政経学会」とは、全く無関係ではあったものの、大正昭和
前期、日本神道界の巨人と言われた、
今泉定助先生、
この今泉神道学もまた、平泉澄の皇国史観とは全く別物である。
○平泉澄は、「天皇絶対」を呼号した。
○そしてこの平泉澄は、
岩倉、木戸(桂)、伊藤以下の逆賊による、孝明天皇弑逆事件について
は全くの知らぬ顔の半兵衛。
○要するに、孝明天皇弑逆を、事実上、容認するのである。
○孝明天皇弑逆を肯定して置きながら「天皇絶対」とは、よく、口が
曲がらない。
○偽善とペテンのこりかたまり。
○それが、平泉以下の皇国史観の正体である。
○つまり、問題の本筋、根本に於て、すべてがおかしい、すべてが狂って
居る、のである。
○平泉澄以下のペテン的皇国史観派を居る。今ここで、明確に弾劾せよ。
(了)