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原発は基幹電源として推進 エネルギー計画の概要判明 [共同] 2003.07.14
長期的なエネルギー政策の方向性を示す経済産業省のエネルギー基本計画の概要が14日、明らかになった。昨年6月に成立したエネルギー基本法に基づく初の計画で、地球温暖化防止の立場から、原子力発電を「今後とも基幹電源と位置付け引き続き推進する」と明記し、天然ガス利用促進を盛り込んだのが特徴だ。
石油の過度の中東依存を解消するためパイプライン建設でロシアとの協力も進める。18日に開く総合資源エネルギー調査会の基本計画部会に報告する。
計画は、原発推進の理由として(1)燃料のエネルギー密度が高く備蓄が容易(2)使用済み燃料を再処理して再利用できる(3)二酸化炭素などを排出せず環境負荷が少ない−などを挙げた。ただ、東京電力によるトラブル隠しなど批判も多いため国民理解の重要性も強調、「国が前面に出て説明責任を果たす」とした。
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『原発事故はなぜくりかえすのか』高木仁三郎著から
…(略)…
委員会への誘われ方
よく「日本の事故調査は第三者機関によって行われない」ということが、言われます。それはやはり自己検証を忌避する態度にかかわっていると思います。私にもいろいろな経験があります。
事故調査委員会の委員になってくれと頼まれたことはありませんが、放射性廃棄物問題や高速増殖炉の今後の計画を検討する懇談会など、審議会的なものの委員への要請は二度ほどありました。
科学技術庁の役人が私のところに依頼に来るわけですが、私の場合には露骨に、事故調査では高木さんにA委員会に入ってもらうことは難しいなどと言うのです。つまり、徹底して事故の是非を争わなくてはならなくなって、専門的にかなり突っ込んだ議論をやらなくてはならない。そうなってくると高木さんのような人がいると結論がどこに落ちつくかわからないから、政府としてはあなたを委員に選ぶことはできない。だから、A委員会には入ってもらうわけにはいかない、などとはっきり言うのです。
A委員会ではなくて、もう少し漠然とした、あまり技術的ではない場で政府の計画を審議するようなB審議会くらいだと、委員としてぜひ入ってほしいと言われました。そして、もしも全体意見に満足しなければ、少数意見として自分の意見を述べて立場を留保してもよい、などと言われたりもしました。しかも、A委員会では高木さんではなくて、もう少し立場の甘い別の人を推薦してもらえないだろうかというようなことを、政府は露骨に私に言ってくるのです。
B審議会は、その性格からして入ってもらっても構わないから入ってもらう、そういう言い方なのです。私は結局、A委員会にもB審議会にも入りませんでしたが、そういうような言い方をしてくるのです。
日本の原子力の安全を、私は本当に心配しています。きれいごとで済ませていては、これを徹底してよくすることにはならないと思いますので、内輪のいきさつをお話ししたわけです。
こう言われて腹が立ったからといって、感情的にすべてを拒否するだけではなく、必要に応じては政府の委員会にも入っていって、少数派の意見をきちんと述べたほうが、社会全体にとってはプラスになります。全体の公益性がそれによって高まると判断できれば、政府の委員会に入ることもあるでしょう。私は全体としての公益性というのが一番大切だと思っています。
それにしても、政府のこの言い方は非常におかしいと言わねばなりません。
結論を内包した委員会
こうしてみると、政府の各種の委員会というのは、すでに最初から結論の大枠の方向が予定されていて、委員の構成もそれにそって決定されていると考えられます。委員会が三カ月間開かれようと、一〇カ月間、あるいは一年間開かれようと、すでに委員会ができた段階において、およその結論の方向づけが内包されてしまっているのです。
原子力の場合には、この種の人選は、原子力委員会や原子力安全委員会、科学技術庁や通産省の役人がやっているのでしょう。人選の結果が新聞に発表されると、推進派ばかりだとか、同種の人たちばかりが含まれているではないか、ということがよく言われます。それは一般的に政府の好みの人たちだという以上に、私が内うちにやり取りした際の感触からすると、最初からかなり緻密にある種の結論を内包するような作業をやって、それから人事を決めているという感じがあります。
くりかえしになりますが、こういうことも自己検証がなされないということに通じると思います。結局、他者による検証を受けないで自己採点をやっている限りは、徹底した検証をせずに済むので、第三者的な客観的な評価を最初から避けることになるのです。公的な委員会の公の立場というのは、政府が決めています。前章でも述べましたが、、人ひとりの個人が公の立場を持っていて、それのぶつかり合いで最終的に公共的なものが決まってくるというよりは、最初から政府が公共的な立場なるものを持っていて、その枠の中で都合のよい結論が出るように人材を配置するというのが政府のポリシーになっているように思えます。
アカウンタビリティー
これと密接に関係してくるのは、昨今よく言われているアカウンタビリティーという言葉です。近頃は政府も積極的にアカウンタビリティーという言葉を使います。だいたい日本の法律では横文字の言葉は通用しないことになっていますから、政府も以前はあまり使いたがらなかったのですが、日本にはアカウンタビリティーに対応するうまい言葉がないらしいので、政府も最近はアカウンタビリティーという言葉を盛んに使うようになりました。
いま、政府の政策の透明性ということが問題になっています。原子力問題だけでなく、たとえば薬害エイズの問題であるとか、長良川の河口堰建設の問題など、いろいろな問題で、はたしてその計画に合理性があるのか、費用対効果の関係においてメリットがあるのか、住民の意見は反映されているかなどが厳しく問われ、政府はおのれの行った計画について透明性やアカウンタビリティーを持たなくてはならないということが盛んに言われるようになりました。多分これはアメリカあたりから国際的な交渉の中で言われるようになったために出てきた言葉でしょう。
原子力の分野でも、『原子力白書』にアカウンタビリティーという言葉が登場するようになりました。アカウンタビリティーというのは、政府はふつう「説明責任」と訳すようですが、原子力の場合にはご丁寧にもただの説明責任ではなくて、「分かりやすく説明をする責任」というような訳し方がなされました。
しかしこんなふうに言われると、私にはこれは違うという気がするのです。ふつう、わかりやすい言葉というと、どういうことを連想するでしょうか。原子力には難しい専門用語が多く、たとえば「もんじゅ」の温度計のさや管の取り付け部分の”曲率半径”とか、あるいは放射性廃棄物の地層処分に関連して”ガラス個化体”とか、さらにもっと専門的になってくると地下における水の流れの”動水勾配”などという専門用語があり、それらは我われ一般人が見ることのできるようなレポートにも出てきます。そうすると必ずレポートのうしろのほうに比較的わかりやすい言葉でその専門用語の説明がついているのですが、必ずしも正確な説明ではなく、半分宣伝のような説明も多いのです。たとえば核燃料リサイクルという言葉については、一回使った核燃料を処理して燃える成分を取り出し、もう一回燃やして燃料をリサイクルすることである、というような説明がついています。この説明だと、いかにもリサイクルして得をするような気がします。けれども、核燃料リサイクルの場合は、実際にはリサイクルされるのは燃料のうちの一%以下にすぎませんし、その過程でまた新たな核のゴミ(放射性廃棄物)が出ますから実際にはリサイクルになっていないのです。「わかりやすい説明」などといっても、実は少しも説明になっていないわけです。
アカウンタビリティーというのは、むしろレスポンシビリティー、責任という言葉に近い語感を持った言葉です。ですから、説明ということに力点があるのではなく、責任ということに力点があります。
責任というのはどういうことかというと、たとえば何か政府の計画があった場合に、それがどういう意味を持っていて、国民の税金にどの程度値しているか、そこからどういうネガティブな影響が出るかというようなことについても、詳しく検討をして、国民に明らかにする、そういう説明の責任を指しているわけです。
別の面から考えると、アカウントという言葉には会計という意味があります。ですから、アカウンタブルというのは、お金の使い道がはっきりしているということになります。たとえばタックスベイヤー、すなわち税金を払っている人に対して、税金の使い道を具体的に示し、金を使ったメリットが国民にこれだけ反映されて返ってきますというように、わかりやすく説明する。わかりやすくという意味は、この場合には、言葉をやさしくするという意味ではなくて、筋道がはっきりつくような形で説明する。これがアカウンタビリティーだと思います。
そもそもアカウンタビリティーは、いつも自分のやっていることが公的に説明できるというようなプロセスを踏んでいない限りは、成り立ちようがないでしょう。委員会をつくる場合に、こういう人選なら政府に都合の悪い結論は出ないだろうというようなことを、密室であらかじめ打ち合わせ、そこから人が選ばれて、委員会が構成される。こういうプロセスはきちんと説明しようとしても説明できない。だから、アカウンタブルではあり得ません。そもそもアカウンタブルでないことをやっているのですから、アカウンタビリティーなどと言っても、「わかりやすく説明をする責任」というように逃げてしまって、理科の先生が理科の授業をするのにわかりやすい言葉を使って生徒に説明する、そういう責任が政府のお役人にもあるんですというような言い方をする。これは私には国民を愚弄する言葉だとしか思えません。本来の意味でのアカウンタビリティーが、日本の政府にはまったく欠如しているのです。こういうことがやはり事故を生む体質につながってくるのではないかと思います。
…(略)…
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