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コロンブス−ラス・カサス−セルバンテス: 歴史円環
愚民党さんへレス。
ラス・カサスの紹介をやって頂いてありがとうございます。
愚民党さんは芸術家なんだそうですね。
今ちょっと時間がとれたので(今後しばらく時間をとれない)、コロンブスに始まり、セルバンテスで閉じる「歴史円環」をご紹介したいと思います(日本ではこういう考え方はあまり見られないようですので)。 芸術家の方にはたぶんご興味を持って頂けるんじゃないかな(今回は文学方向のお話になります)。
コロンブスについては良いですね。 ヴェネツィアおよびスペイン王室から出資を受け、スペインに残っていた古代知識に基づいて「インド」大陸へと航海に乗り出した人物です。 彼の航海以降、「インド」大陸から奪取された貴金属、過酷なプランテーションから奪取された富は、スペイン王室を潤して「覇権国」スペインを現出させましたが、それ以上に黒い貴族達の繁栄をもたらし、近代勃興の資本原資蓄積をもたらしたと理解しています。
ラス・カサス(1484-1566)は、新大陸、西インド諸島での蛮行を聞き書きし、文書にまとめ、糾弾しました。
現在の視点から読むと、不自然、不合理な記述が散見されることは否定できません(この点は気をつけて読むべきです)。 しかし、全体として新大陸等における蛮行を生々しく伝えている文書であると思います。
私見になりますが、中東の石油(黒い貴金属?)を奪取するために諸国民を殺戮する行為も、合法の仮面を付けているだけで、本質的には昔の行動と変わりません。
エンツェンスベルガー「ラス・カサス あるいは未来への回顧」は、ベトナム戦争当時のものです。 しかし、ラス・カサスは、むしろ今回の中東戦争にこそ良く当てはまるものです。
ラス・カサスが糾弾を行っている頃に生誕されたのがセルバンテスです。 彼はスペイン覇権時代に生を受け、その覇権のために本気で戦った人物です。 彼のあだ名は「レバントの腕もげ」でした。 レバントの海戦で片腕を失ったのです。 キリスト教とスペイン帝国との栄光のために、本気で命懸けで戦い、生涯それを誇りにしていた人物です(ネオコンの方々のように兵役逃れをするような人物ではありません)。
セルバンテスが作家活動を開始するのは、片腕を失った後です。 食い詰めたため、作家稼業を始めたようです。
その作品「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」は、作者の意図を超えた、何か驚くべき存在感をもって、近代の入り口に立っているように思われます(お読みになったかどうかは分かりませんが)。
この作品は日本ではあまり読まれていないような気がするんですが、残念なことです。 この作品は、例えばドストエフスキーの諸作品以上に、はっきりと我々の運命を指し示しているように思われるのです。
ドン・キホーテ正編が出版されたのは1604、5年です。 既にスペイン黄金帝国の繁栄は去りつつあり、国民は疲弊しています。 蓄積されたはずの資本は既にイタリアやオランダなどに流出しています。 セルバンテスも既に年老いていました。
主人公ドン・キホーテは、理想に燃えてスペイン各地を周遊し、くだらない騒ぎを巻き起こし、賢人たちにコケにされる狂人です。 たぶん青年時代の作者を投影した人物です。
しかし、ドン・キホーテは、狂人でありながら、気高く、親切で、誰に対しても礼儀正しく、筋の通った言動と行動を(普通は)とる、理想的なご人格でもあります。
ドン・キホーテは、「近代のイエス」なのかもしれません。
「カラマーゾフの兄弟」に出てくる「沈黙のイエス」は、近代においては狂人として現れざるを得ない、その必然性を示しているのです。
ドストエフスキーの「白痴Idiot」の冒頭で、ムイシュキン公爵がドン・キホーテとプーシキンについて熱烈に語り、令嬢アグラーヤをメロメロにしてしまう場面があります。 ドストエフスキーは、ドン・キホーテの重要性をその動物的直感で看破したのだと思います。
ドン・キホーテは、続編の最後で正気に戻りましたが、それはハッピーエンドではありませんでした。 彼は正気に戻ると直ちに死んでしまったからです。
ここに芸術家の霊感を見るのは私だけでしょうか? ドン・キホーテの死の場面には真の霊感が感じられます。 このような霊感に満ちた死は、たぶん近代・現代文学には存在しません(言っちゃっていいのかな)。
おそらく20世紀最高の作品である「ブッデンブローク家の人々」でのハンノ・ブッデンブロークの死はどうでしたか? 私にはトーニの肖像がますます巨大に見えるのみです。 「魔の山」でもハンス・カストルプの「死と愛」は、ついに書かれることはありませんでした。 彼は塹壕の中で肉塊になっただけでした。
ドン・キホーテが正気に戻り、アロンソ・キハーノとなったとき、それは「死の世界」だったのですね。 ここにコロンブスに始まる一つの円環が閉じ、更に愚劣かつ一層巨大な円環−近代−が開かれたのだと感じました。 それは「死の世界」であるとドン・キホーテは告げているのです。
しかし、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」には、この主人公よりも巨大な存在が背景に見えます。
それは象徴「サンチョ・パンサ」です。
彼は主人ドン・キホーテがしょうもないキチガイであることを熟知しています。 しかし、主人に対する愛と同情とから、忠実につき従っている奇妙な人物です。
だがしかし、本書を読み進めるのにつれて、だんだんとサンチョ・パンサの背後に巨大な影が浮かび上がってくることに驚愕を覚えます。
彼は巨大な氷山のようなものです。 海面に浮かんでいる部分はごく僅かであり、その大部分は海面下に隠れているのです。
それはスペインの民衆でした。
本書は、当時のスペインの風俗、習慣、食事の記述に溢れています。 その祭りのなんと魅力的なこと、その食事のなんとおいしそうなこと、その玉葱と羊肉と踊り。 どんなミシュランよりも魅力に溢れた記述が続きます。
それは我々が失った共同体の世界なのかもしれません。
いや上の記述は間違いだったかもしれません。 「沈黙のイエス」は実はサンチョ・パンサだったようです。
セルバンテスは、サンチョ・パンサにおいて、アロンソ・キハーノの魂の救済を見いだそうとしたのかもしれません。
しかし、これと同時に、当時のスペインの村村の困窮も随所に活写されているのです。 サンチョ・パンサはひどく衰弱しているのです。 おそろしく重層的な作品です。 頭で考えて書けるような作品ではないですね。 黄金時代にいかに農村が搾取され、貧困にあえぎ、衰弱していたのか、それも余すところなく記述されているのです。
面白いことに、作品中には、モーロ(イスラム教徒:当時はスペインから追放されつつあった)も顔を出します。 普通の気の良い民衆の顔です。 セルバンテスは熱烈なキリスト教信者だったようですが、スペインから追放されるモーロには深い同情と共感を感じていたようです。 サンチョ・パンサとモーロとの対話は、滑稽でありながら心うたれる真情に溢れています。
要するに、本書は、中世−近代の交差点、覇権移動の交差点、そしてコロンブス小円環と資本主義大円環との特異点に位置するホログラフィーです。
そのホログラフィーを良く見ると、我々の運命が逆さに小さく映し出されているように思えてなりません。
かなり直感的な文章を書かせていただきましたが、愚民党さんには伝わるのかなと思っています。 失礼しました。
参考
【これがインディアン大量虐殺でアメリカ大陸を奪ったコロンブス・ブッシュの正体】
http://www.asyura.com/0304/war30/msg/276.html
投稿者 愚民党