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(回答先: TVドラマ「おしん」を観て思ったこと。 投稿者 baka 日時 2003 年 3 月 19 日 22:07:09)
bakaさん、初めまして。
「おしん」私も見ていました。昨夜は何故よりにもよってこんな時に「おしん」を見なければならないのかと思いましたよ。
ヘリコプターから降りて、卑小な小物が大見得を切って大役を務めているかのような・・大統領が手を掲げるのをみて嘔吐感を催していた時でしたから。
ちょうど日露戦争が終わり、日本中枢がが列強に伍しようと動いていたころの、雪深い地方の小作農民の娘と家族ですね。
このドラマはイランなどを含み、アジア各地で人気が出たそうですが、その理由が今やっと納得できました。
イラクでも放映されたか解りませんが、通じるものだと思います。
「近代化」を良い意味でも悪い意味でも頭上の重石としつつ、貧困から脱出しようともがく人々の物語だったからではないでしょうか。
この事を考えながら今のイラクの人々の事を考えます。(イラクの首都圏は現在豊なようですが、国全体の問題は同じなのでは・・)
一体に彼らはフセインを心から支持しているんだろうか・・支持せざるを得ないんだろうか。
もしかすると、欧米文明圏の人間の近代に依拠した「優越意識」、そしてそこから外れた者に対する「蔑視」に対抗する誇りとして、イスラームとフセインを核にしたナショナリズムを掲げ、欧米支配に抗しようとしているのではないか。
私にはイスラーム対欧米というより、「近代を生んだものの支配者」が根深く持つ差別意識、人を人とは見なくする「優越の幻想/幻覚」に対して、道を閉ざされた彼らは抗戦しようとしているように思えます。
ぷち熟女さんが、「>墓穴を掘るようなものであろうに、何故ああいった発言をするのでせうか。」と仰っていましたが、私は特高の拷問に抗してひるまず特高をいきりたたせて亡くなったらしい小林多喜二の事を思い出しました。
逃げ場所も無く追い詰められた人間にできる事は、たとえ死ぬとしても最後まで屈しない事しかないのではないかと思いました。
あっしらさんがよく「悪魔崇拝」という象徴性が過剰なまでにある名詞を使われますが(彼の明晰で分析の行き届いた文の中では異質な感じ)この言葉の示そうとする核心は、知性崇拝というよりも「知性優越幻想」が生む究極の差別としての、「双極の非人間化」なのではないかと思います。
「双極の非人間化」は「非対称」であり、一方は収奪した豊かさと安全の中で人間の望まれる姿を失い切っているという非人間化であり、一方は命をも含めてすべてを奪われる非人間化です。(「悪魔」が人間の核であると仰りたい方はそれこそ人間化だとでもなんとでも言って下さい。)
このサイトでよく「悪魔崇拝」という言葉が出るようですが、不要な(と思う)オカルト化もカルト化も解毒、解除してしまうために、この言葉を実存に即して分析し、共有しやすい概念に開くほうがいいかと思います。
整理の行き届かない頭でややこしく語り、申し訳ないのですが、最後の部分は”「悪魔崇拝」という言葉は重要な核だが、もっと深く考察できそうですね・・”と申し上げていると解して下さい。