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(回答先: Re: アメリカ合衆国史は先住インディアン迫害の歴史、もともと好戦的な国民性なのです 投稿者 Cold City 日時 2003 年 4 月 21 日 09:50:22)
Cold Cityさん、こんばんわ。
>今回の戦争について、私の最大の疑問点は、”何故、アメリカ国民の70%以上がイ
>ラク侵攻に賛成したのか?”です。
>70%という数字はマスコミ発表ですので、あてにはならないと考えることも出来ま
>すが、アメリカ国民の大多数が賛成していなければ、侵攻出来なかったと考えます。
世論調査がまともであるかどうかは別として、開戦前に、安保理決議なしでのイラク攻撃に賛成したのは45%ほどです。
安保理決議があればを含めて、開戦前に70%ほどのイラク攻撃支持のはずです。
そして、開戦前にあれほどの規模で反戦運動が沸き起こったのは米国史上初めてです。
開戦後にイラク攻撃支持率が70%になったのは、不謹慎ながら、オリンピックのゲームで自国チームに声援を送るのと同じ現象だと思っています。
殺すか殺されるかという状況に自国兵士が置かれているのですから、全力をあげて勝って欲しいと思うのはそれほど飛び跳ねた意見ではないはずです。
勝ち負けにこだわる「競争社会」で醸成された価値観の反映だとも言えます。
そうであっても、開戦後も米国で反戦意思表示は行なわれていました。
>例えば、インディアン迫害の歴史は正にその通りと思います。しかしこの他民族に対
>する迫害の歴史はなにもアメリカ合衆国だけで起こったものではなく、古今東西何処
>でも起きています。歴史を見ると人類は、人種に関係なく好戦的であるといえると思
>います。
攻撃的好戦性は、遊牧系民族や近代主義国家に共通する特性だと思っています。
(農耕系民族は生活基盤を維持するために手間がかかるので、防御的構えになります)
南北アメリカに対する収奪と虐殺、そして、アフリカから商品を狩り出した奴隷貿易は、他とは比較にならないとてつもない歴史的暴虐です。
ロシアが「タタールのくびき」と呼び、中東の人たちも歴史的暴虐と語り継いでいるモンゴルの暴力的蹂躙も、南北アメリカに対する暴虐に比較すれば、やさしいものになります。(ロシアも中東も、今なおきちんと共同体と歴史を継承して存在しています)
合衆国を成立させることになる移住者たちは、先住者の思いやりで土地を分けてもらい生活の知恵を教えられながら北アメリカに定着しました。
そして今は、移住者たちの子孫が拡大した領土を保有する国家を支配し、先住者たちは居留地という檻に閉じ込められています。
このような歴史を知っていながら、米国民が平然としていられたり傲慢に振る舞うためには、USA建国に尽力した人たちは「神に選ばれたもの」であり、USAの領土は「神に与えられた地」と考えるしかないでしょう。
そして、先住者や暴虐の対象となった世界には文明を与えたのだと説明するしかありません。
そして、それらにも疑念を投げ掛けられる余地があるので、世界中から移民を受け入れ、建国の“罪”を受け継いでいない人々を増やすことで、“原罪”を薄めているとも邪推できます。(移民受け入れの基本的な動機は経済論理ですが...)
米国は、好戦性だけでは説明できない“闇”を抱えている国家だと思っています。
歴史を遡及的に変えることはできませんし、直接の“罪”を背負っていない人たちを大西洋や太平洋に追い落とせと主張することもできません。
しかし、米国民が米国の歴史を捉え直し、現在とは異なる価値観や論理を国家運営の基礎に置くようになる日が新しい時代の始まりだと考えています。
※ 参照書き込み
『「近代」は、アメリカ大陸の暴虐的収奪から始まり、覇権国家米国の没落で終焉する』
( http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/468.html )
>私が、どうしてもわからない現象は、TAROさんが分析の最後で描写されている現
>象です。
>”◆1970年代のリベラルなアメリカは消えてしまった。今は第二次マッカーシー
>旋風が吹き荒れています。だから反戦的アメリカ人も沈黙しているしかありません。”
>どうしてこうなったのでしょうか?
>一体何があったから、リベラルなアメリカは消えて、反戦的なアメリカ人は沈黙しな
>ければならなくなったのでしょうか?
>私は、この問題の答えをアメリカ国民とアメリカ社会を理解するために知りたいのです。
この問題は、安保闘争・労働運動・全共闘運動などに代表される70年前半までの日本とそれ以後の日本を考えることで、ある程度理解できると思っています。
日本や米国に限らず、先進諸国の若者や“左派的リベラリスト”は、あれだけ高揚した政治運動でも結局は敗北したことで、大きな挫折を味わったはずです。
それでも踏ん張り続けた人も、国家社会の経済優先価値観(新保守主義や自由主義)の流れのなかで排斥されていきました。
踏ん張り続ける人は、冷笑の対象になったり、弾圧を受けても誰も助けようとしない状況に置かれたので、“効率的に”排撃されてしまいました。
60年代から70年代はじめに政治運動を担った多くの人は、思想や政治理論は胸の内に秘め、家族や自分のために体制的価値観や論理に従って働く道を選択しました(選択せざるを得なかった)。
そして、当初は胸の内に秘めていた思想や政治理論も、「内ゲバ」・「共産党の堕落」・「共産主義国家の崩壊や転向」という歴史的推移のなかで徐々に薄まっていったり捨て去られたと推察しています。
※ 参照書き込み
奴隷さん;『何もできんよ。日比谷で自殺してもニュースの片隅だ』
http://www.asyura.com/0304/dispute9/msg/1052.html
(ちなみに、奴隷さんのような考えを持つ方が1000万人を超えれば日本は変わると考えているので、奴隷さんの言説を実に心強く感じています)
60年代から70年代はじめに米国で政治運動を担った人の一部は、今なお政治運動を継続しています。
それが、今話題になっている「ネオコン」と呼ばれる人たちです。
ネオコンと呼ばれている勢力は、「体制外政治運動が敗北したのならば、反権力運動ではなく国家権力中枢に入り込むことで自分たちの理念や政策を実現しよう」と考えた実にタフで合理的な人たちです。
ネオコンは、理念主義的リベラリズムと強欲が結びついたもので、理念主義的リベラリズム信奉者は「革命家」だとも言えます。
ネオコンは根っこが「理念主義的リベラリスト」で政治主義的言動も得意なので、彼らに抗してリベラルな政治運動を興し育てるのはけっこう大変なことです。
ネオコンの思想性や政治性を超えるものを提示しなければ、ネオコンの妄動を押しとどめることはできないと考えています。
米国の非ネオコン・リベラリストは、現在のところ、チョムスキー氏やマイケル・ムーア氏のようなキャラクター特性や言説、そして、故なき人殺しである先制攻撃やとにかく人殺しである戦争に反対するという範囲にとどまっているようです。