★阿修羅♪「史上最も幸福な帝国」

 
●「史上最も幸福な帝国」

 『ローマ帝国』……その名を知らない人はいないだろう。紀元前二十七年に
即位したアウグストゥス帝以来、四百年にもわたって、地中海沿岸地域を中心
として、史上空前絶後ともいえる大帝国がかつて存在していた。その支配は、
今日の国でいえば、ローマのあるイタリアをはじめ、フランス、イギリス、ス
ペイン、ポルトガル、スイス、オーストリア、ベルギー、ギリシャ、ユーゴス
ラビア、ブルガリア、ルーマニア、といったヨーロッパ大陸から部から、エジ
プト、リビア、アルジェリア、といった北アフリカ、そして、トルコ、シリ
ア、イスラエル、といった中近東に至るまで及んでいた。

 ローマ帝国は、政治、軍事面のみならず経済・文化の面においても、その支
配領域にとどまらず、周辺地域に多大な影響を及ぼし続けた外、その足跡は遠
く中国にまで及んでいる(マルクス・アウレリウス帝の使者が、二世紀中ごろ
に後漢《当時の中国》を訪れている)。

 そして、その後の歴史においても、ローマ文化は、後のヨーロッパ文化の基
盤ともいえる役割を果しており、この点、十九世紀のドイツの歴史家ランケ
は、「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史のなかに
注ぎ、近世史の全体はふたたびローマ史のなかから流れ出た」と述べている。

 このように、ローマ文化は後のヨーロッパ文化に絶大な影響を与えており、
従って、今日、ヨーロッパ文化から大きな影響を受けている、日本もまた、
ヨーロッパ文化を通して、ローマ文化の影響を間接的に受けているともいえる
(特に、ローマ法は、日本法に大きな影響を与えている。例えば、民法に訴害
行為の取消という制度があるが、これはローマ法ではパウルス訴権と呼ばれ、
当時から既に存在していた)。

 五賢帝時代(九六年〜一八〇年)には、「人類が最も幸福であったとき」と
まで、イギリスの歴史家であるギボンに言わしめるほどの繁栄を迎えるにまで
至っている。そのギボンの言葉を紹介しよう。「かりにもし世界史にあって、
もっとも人類が幸福であり、繁栄した時期はいつか、という定義を求められる
ならば、おそらくなんの躊躇もなく、ドミティアーヌス帝の死からコンモドゥ
ス帝の即位までに至るこの一時期を挙げるのではなかろうか。広大なローマ帝
国の全領土が徳と知恵とによって導かれた絶対権力の下で統治されていた。軍
隊は全て四代にわたる皇帝の、強固ではあるが、平和的な手によって統制さ
れ、これら皇帝たちの人物および権威に対して、国民もまたおのずから敬仰の
念を献げていた。……彼らとしても自由の世相に喜びを感じ、みずから責任あ
る法の執行者であることを任としていたのだ」(エドワード・ギボン著・中野
好夫訳『ローマ帝国衰亡史』)。

 しかし、ギボンにしてこうまで言わしめた、この大帝国も五賢帝時代以降次
第に衰退していき、三九五年に東ローマ帝国と西ローマ帝国に分割された後、
西ローマ帝国は四七六年にゲルマンの傭兵隊長オドアケルに滅ぼされてしまう
のである(東ローマ帝国は、その後約一千年存続するが、この両者の差異につ
いては後で述べる)。

 一時は「人類が最も幸福であった」といわれるほどの繁栄を享受したこの大
帝国も、以下に述べるように、物質主義的風潮の極度の蔓延によって崩壊して
いくことになったのである。

●帝国に集まる膨大な富

 ローマが一個の都市国家から世界帝国に発展していくに従って、帝国には膨
大な富が集まってくるようになった。その富の集積の第一の原因は戦争であ
り、相手国から獲得した膨大な賠償金や戦利金(品)、捕虜の売却益(奴隷と
して売却した)がその源だった。さらに、占領し、属州とした地から徴収しし
た税金や鉱山収入が、相当の利益をもたらしてくれた。

 ローマ国家の国庫には、そのようにして莫大な富が集積していったのである
が、それ以上に、領土拡大は一部のローマ市民個人に多額の財産をもたらす結
果となった。そして、そのような海外からの莫大な収入によって、ローマ市に
住んでいるローマ市民は、前五八年以降、国家から無料で小麦の配給を受けら
れるほど物質的に満たされていた。

 では、以上のような豊潤な物質的生活を保障されていたローマ国家の支配層
や一般市民は、どのような日常生活を送っていたのだろうか?果たして彼らは
直接労働から解放されてあり余った時間を、精神的・文化的活動に費やし、物
心ともに豊かな理想社会の建設に向かっていたといえるだろうか?

●享楽のローマ

 物質的に満たされたローマ帝国における、富裕階級の贅沢な生活ぶりは、歴
史上稀に見るものであったといっても決して言い過ぎではない。その贅沢さは
衣・食・住のすべてに及んでいたが、まず、衣と住について、現代イタリアの
歴史家モンタネッリの言葉を借りて紹介しよう。「良家の奥方は、朝の化粧に
使う時間が三時間を下らず、それに使う奴隷も六人を下らない。浴室はかみそ
り、はさみ、大小のブラシ、クリーム、おしろい、ポマード、油、石鹸でいっ
ぱいである。ボッパエア(ネロ帝の皇后)は顔の皮膚の老化を防ぐためパック
を発明、流行させた。牛乳風呂が毎日のこととなり、旅行に出る時は乳牛の一
群を引き連れる。美容食、美容体操、日光浴、マッサージなどを教える専門家
がおり、新しい奇抜な髪型を工夫して評判をとる美容師もいた。

 下着は絹かリンネルで、ブラジャーが使われ出したのもこの頃である。靴下
はなかったが、靴にはいろいろな工夫がこらされ、柔軟ななめし皮製で、踵は
高くなり、金の刺繍を飾りに施した。

 冬は毛皮の襟巻きを用いたが、これは北方の属州、特にガリアとゲルマニア
に赴任した夫や愛人の贈り物である。宝石は貴婦人たちの情熱をかきたて、四
季を問わず豪華に身を飾った」、「上流の邸宅は、大庭園と大理石の柱廊が必
ずあり、部屋数は四十以上、メノウ石か雪花石膏の円柱が天井を支え、天井と
床はモザイクで飾り、壁には宝石が象嵌され、テーブルはレバノン杉であつら
え、脚は象牙造り、オリエントの錦織りやコリントの壷が展示され鉄製のベッ
ドには蚊帳と数百の召使が付属していた。客一人に給仕二人、寝る時は両足か
ら一ぺんで靴を脱がせるため、やはり二人の召使が伺候した」(インドロ・モ
ンタネッリ著・藤沢道朗訳『ローマの歴史』)。

●美食と飽食

 さて、その衣と住に対する飽くなき志向をかいまみることができだか、それ
に劣らず、食に対するすさまじい情熱ぶりにもまた唖然とせざるを得ない。

 ローマの宴会の豪華さについては、耳にされた方も多いだろう。ローマの宴
会はだいたい四時に始まり深夜にまで及ぶ。この間延々と食べ続けるわけであ
るが、その量にも驚かされるが、その内容の多さ、贅沢さは現代に匹敵するか
あるいはそれを上回るかもしれない。

 ローマ人の美食のために、リビアのザクロ、ガリアのハムとワイン、スペイ
ンのピクルスといったものが世界中から運ばれてきたわけであるが、それに加
えて、様々な「珍味」が珍重された。例えば、ポィニコプテルス(紅鶴)の
「舌」、これは、ローマの散文家セネカによって「王侯的奢侈」、「途方もな
い贅沢」の見本とまでいわれたという。その他反芻を行う唯一の魚類であるス
カルスという魚の内蔵、ロンブスやアキペンセルという魚などが、いずれも遠
方でしか捕れず手に入りにくいという希少性だけで、珍重され、「奢侈により
食欲を新たにするため、宴席を有名に」(ペトロニウス著・岩崎良三訳『サテ
ュリコン』)したと当時の散文家ペトロニウスは評している。「牡蠣や雲丹も
珍重された。牡蠣はキルケーイーとか、ブリタニアの海岸とか、バイアィのル
クリヌス湖などのものが貴ばれ、ルクリヌス湖のものは養殖であった。雲丹は
ミーセーヌムのものとされた。(中略)ボーレートゥスという蕈も珍重された
高価な料理であった」(弓削達著『素顔のローマ人』)。

 このような当時の風潮に対してセネカはこういっている。「牡蠣と蕈は生涯
断つことにした。これは食物ではない。満腹している者にまだ食えと強いる道
楽にすぎない」(樋口勝彦訳『手紙』)。

 その他、現代の日本でも人気の伊勢海老も非常に珍重され、この当時既に伊
勢海老の養殖が試みられているという。

 このような傾向は、獣肉についても同様で、豚やウサギなどの普通の肉では
満足することができず、豚の乳房とか子宮などが珍重されていたが、その中で
も特に孔雀は貴ばれた。ローマ人が孔雀を珍重していることについて、ローマ
の詩人ホラティウスは次のように皮肉っている。「……虚栄に心を奪われてい
るからだ。珍しい鳥だというので、黄金を似て買わねばならないし、色どった
尾が見事な光景を呈しているからだ。そんなことはいくら価値を添えるわけで
はあるまいに。……肉は鶏と大差がないのに、美しい外見の差があるために惑
わされて、鶏よりも孔雀を求めようとするのか」(ホラティウス・樋口勝彦訳
『サトゥライ』)

 このような宴席は、普通三コースからなっていたが、時には七コースにもな
る場合があった。「三コースの第一はプロムルシウスと呼ばれ、蜜割葡萄酒
(ムルスス)を飲み、卵、オリーブの実、腸詰め、ちしゃなどを主とするいわ
ば前菜であった。第二はケーナ・プリーマといわれ、魚鳥類、獣肉を主とした
料理で、ここで、前述の珍味が競われた。最後のケーナ・セクンダはいわばデ
ザートで、りんご、ざくろ、はたんきょう、なつめ、しゅろの実などの果実と
麦粉とミルクと油でこねて焼き、これに蜜をかけた甘い菓子が主役であった」
(『素顔のローマ人』)。

 そして、これは有名な話だが、ローマ人はより味覚を貪るために、宴席で意
図的に食べた物を吐くことを習慣としていた。例えば、ウィテリウス帝は、大
食漢として知られ、「食事は常に三度、ときには四度にもわたって、朝食と昼
食と夕食と夜更けの酒盛りを摂り、いつも嘔吐によって、どの食事も難無くこ
なしていた」(スエトニウス著・国原吉之助訳『ローマ皇帝伝』)といわれ
る。あるとき、ウィテリウス帝のローマ帰還を祝って、祝宴が供されたが、そ
のときには、入念に吟味された二千匹の魚と七千羽の鳥が食卓に供され、ウィ
テリウス帝自身が奉納した大皿には、ベラの肝臓、キジと孔雀の脳みそ、フラ
ミンゴの舌、やつめうなぎの白子が混ぜ合わされていたという。

 吐くためには、鳥の羽で喉をくすぐるのがよく用いられていたが、その他
に、かっこう草の根や水仙の根が吐瀉剤としして使われていた。セネカはこの
習慣を批判し、「彼らは食わんがために吐き、吐かんがために食べている。世
界中から集めた食物が消化に値しないとでも考えているのだ」(セネカ・国原
吉之助訳『ヘルウィアへ、慰めについて』)と述べている。

 そして、吐いた汚物は平然と便所や道端に投げ捨てられたそうである。

 このような、美食、飽食の結果として、どうなったか。モンテネッリはこう
述べている。「人びとは肥満体となった。禁欲時代のローマの肖像はやせすぎ
で骨張っているのに、この時代のものは例外なく閑暇と栄養が満ち足りて、ま
るまるでぶでぶと肥っている」(『ローマの歴史』)。

●性的退廃

 食欲のみならず、性欲においても同様のひどい有り様であった。古代ローマ
帝国においては、性的風俗も、退廃の極みといってよい状態に達していたの
だ。売春、不貞、同性愛、近親相姦、異常性欲と、現代にも見られる風潮のす
べてが、既にこの当時のローマ社会に蔓延していた。

 前一八年に、初代皇帝アウグストゥスは、姦通処罰法を制定しているが(も
っとも制定した当の本人が姦通行為を非常に好んだという)、これは裏を返せ
ば、そのような行為が増大していたことを示している。そして、単なる姦通に
とどまらず、富裕階級の女性が売春行為を行うケースも見られるようになって
きた。古代ローマの歴史家タキトゥスによるとウィステリアという政府高官の
夫人が、取締官の前で「淫売の自由をしゃあしゃあと宣言した」(タキトゥス
著・国原訳『年代記』)のがきっかけで、前一九年に、祖父、父、夫が騎士身
分であるすべての女性に「貞操を金で売ること」すなわち売春行為を禁じる法
律が制定されたという。

 このような風潮の最悪のモデルが宮廷だった。クラウディウス帝の皇后であ
った、メッサリーナは多数の愛人を持つことだけでは飽き足らず、「売り買い
される愛の歓楽も味わってみたいと、娼家でいく夜かを過ごす。娼家の主人に
小部屋を提供させ……ふらりと道から入ってくる客で満足を味わったのであ
る」(モールス著『性の世界史』)。

 男性に比べると社会的に制約されているはずの女性ですらこうであるから、
アウグストゥス帝を筆頭とする歴代皇帝をはじめとして、ローマ社会の男性が
女性以上に「自由」を謳歌していたことはいうまでもない。

 ローマに大小多数の浴場が設けられていたことは有名だが、浴場とはいいな
がら実際は売春専門を目的とするものが珍しくなかった。この点は、現代の日
本の風俗と似通っているのが興味深い。

 カリグラ皇帝の時代には、売春行為による利益に対して、何と売春税なるも
のが課されるようになっているが(『ローマ皇帝伝』下巻)、これは売春行為
が社会的に公認されていることを示すとともに、売春婦・売春宿の多さを物語
っているといえる(ただし、先にも述べたとおり、富裕階級の女性が売春する
ことか認められていたわけではない)。

 同性愛についても、古代ギリシャほどではなかったが、公然と行われていた
ようである。驚くべきことだが、歴代のローマ皇帝の中にも同性愛者だったも
のがかなりいる。アウグストゥス帝(オクタヴィアヌス)がカエサル(シー
ザー)の養子となった際の条件が、カエサルの男色の相手となることであった
とされる(『ローマ皇帝伝』)。ハドリアヌス帝は、ギリシア文化の熱烈な愛
好者であり、そこで、ギリシアの習俗に従って男色を好んだという。暴君とし
て知られる皇帝ネロは、「女性」の妻が亡くなると、スポルスという解放奴隷
を去勢・女装させ妻としたそうである。

 異色なのは、エラガバル帝である。彼は、赤い絹の衣をまとい、口紅をし
て、真珠の首飾り、エメラルドの輪を手足につけて、女装してローマの街を歩
いたという。さらには、去勢して、「女王(彼はそう呼ぶよう人々に求め
た)」となり、ゾクティスという筋骨たくましい解放奴隷(もちろん男性であ
るが)と結婚式を挙げたということである。

 このような性的狂乱の結果、何が生じたかというと、「堕胎」と、「子捨
て」である。「禁欲的な時代にも、後のキリスト教の時代にも、結婚は神聖だ
ったが、この享楽の時代には一時的な冒険にすぎない。子供の養育はかつては
国家と神々への義務であり、後生を葬ってくれる子孫なしではあの世の幸を得
られぬものと信じられていたが、今や面倒な仕事に過ぎず、子供は邪魔扱いさ
れ、妊娠中絶が流行し、中絶しそこねて生まれてしまうと、『乳の出る円柱』
(コルメン・ラクテウス)に捨てればよい。そこには国費で傭われた乳母がい
て、捨て子の哺育に当たることになっている」(『ローマの歴史』)。

●血の狂宴に酔いしれる人々

 アウグトゥスが帝位についたとき、既に、ローマには七十六の祝日があっ
た。それが、帝国末期には、百七十五日にも達するようになるわけであるが、
これらの休日、あり余った時間は、剣闘や戦車競争、演劇といった娯楽に費や
されることになる。

 戦車競争では、官報が試合の予想と戦評を載せ、家庭や職場の話題の中心を
占めた。派手なポスターが張り巡らされ、十五万から二十万の大観衆が大競技
場に押しかけ、盛大に執り行なわれた。

 しかし、最も人気のあったのは、剣闘である。獣と獣、人間と獣、人間と人
間が、大観衆の面前で互いに殺し合うのである。剣闘が行なわれる大闘技場コ
ロッセオは当時の技術の粋を集めて造られており、中でも、ティトゥス帝の治
世に完成したコロッセオは、闘技場に満々と水をたたえることも、砂漠やジャ
ングル風の装置にすることもできたという。

 まず最初は、様々な猛獣の行進が行なわれた後、猛獣対猛獣の試合が行なわ
れた。次に闘牛が行なわれるのだが、闘牛の技術が発達していなかったことも
あって闘牛士が死ぬ場合が多かったという。最後には人間同士の殺し合いが行
なわれ、選手はたいてい死刑囚だったが、死刑囚が不足しているときは、軽微
な罪の者が死刑を宣告されて選手にされる場合もあったという。このような剣
闘は、モンタネッリの言葉を借りれば「帝政ローマにとって、この人間屠殺の
饗宴は、なくてはならぬ国家的行事だった」(『ローマの歴史』)のである。
というのも、このような娯楽はいずれも無料で市民に提供されていたわけであ
るが、無産市民の社会的不満を抑えるという意味があったのだ(穀物の配給も
同様の理由で行なわれていたわけであり、これが、いわゆるローマの『パンと
サーカス』である)。

 このような残虐行為を批判したのは、ローマの歴史を見るとセネカただ一人
である。「人間は人間にとって最も貴重なものだ。それがここでは、遊戯と娯
楽のために殺されている」(『ローマの歴史』三一四ページ)。

 このセネカの言葉に耳を傾ける者はローマ社会にはいなかった。

●狂気の民衆

 さて、ネロ帝が自殺した後、次の帝位を巡って、ローマ市で市街戦が行われ
たときの一般市民の模様をタキトゥスは次のように描写している。「戦う兵士
たちの傍らには見物人の民衆がやじ馬に立ち、あたかも見世物の剣闘を見てい
るときのように、ある時にはこっちの側を、ついではあっちの側を、喝采と拍
手で応援していた。一方の側が敗れて崩れるたびに、店舗に隠れた兵士たち
や、あるいはだれか個人の住居に逃げ込んだ兵士たちを、引っ張り出して刺殺
しろと民衆は要求し、こうして戦利品の多くの部分をかれらは手に入れた。と
いうのは殺した方の兵士はすぐに次の血生臭い殺し合いに向かったので、分捕
品は民衆の手に落ちたからである。

 ローマ全市にわたって、身の毛のよだつような恐ろしい恥ずべき情景が繰り
広げられた。こちらの場所では戦闘と傷付け合いが行なわれ、あちらの場所で
は浴場と飲食店が開かれていた。一方には、流血と死体の山があり、それとす
ぐ隣合って娼婦と娼婦まがいの者たちがいた。享楽的閑暇の中にじつに数多の
情欲が求められ、最も残忍な占領の中であらゆる犯罪がおかされた。まさに一
つのローマ市が、一方では憤怒に荒れ狂うと同時に他方では放埒に身を任せて
いると信ぜられたほどであった。これ以前においても、武装した軍隊がローマ
市で千伐を交えたことはあった……そして当時の戦いにおいても残忍さが今よ
りも少なかったわけではない。しかしながら、今の戦いに当たっては、人々は
非人間的な冷淡さを示し、また片時たりともその快楽追求は中断されることは
なかった。あたかも休日に、この歓楽がひとつ加わったかのように、人々は狂
喜して悦び、両軍の運命に対してはいささかの憂慮をもよせることなく、国家
の不幸に歓喜したのであった」(『歴史』タキトゥス著・国原吉之助訳)。

 このようなタキトゥスの描写について、ローマ史家として知られる弓削達氏
は次のように評釈している。「市街戦のさなかにあっても、浴場、飲食店をは
じめ娼婦たちの商売も続けられ、人々は快楽と歓楽に酔いしれていたばかりで
なく、実践そのものという真剣の剣闘勝負の見世物を提供されて人々の興奮は
その極みに達し、しかも戦死者からの略奪という漁夫の利まで手に入れた、と
いうのである。一方では国家の最高の権力をめぐる流血の争闘、他方ではそれ
に全く無関心な市民たち、情欲に身をまかせ快楽の追求にあけくれる人々の日
常、折りあらば『大義』のために死んだ戦死者からさえもはぎとろうと禿鷹の
ように群がる人たち、そして彼らに春をひさぐ娼婦たち。

 こうした情景を描くタキトゥスの筆からにじみ出てくる何ともいえないやり
切れなさの感情は、何からくるのであろうか。かつては市民の自由と自由な献
身の上に健全な国家と社会をきずいてきたと信じているローマ市民たちが、今
ではてんでんばらばらにそれぞれ全く違ったものを追い求めている光景が、タ
キトゥスの心に救いのない暗い影を落としたのではないであろうか」(『素顔
のローマ人』)。

●十八世紀フランスの悪徳

 さて次に、ローマ帝国に続く後代の物質主義社会が、奢侈な生活、性的退
廃、娯楽・レジャーの発達、犯罪の増加などの忌まわしい現象に包まれていっ
た例を挙げよう。具体的には、革命前のフランス、ヴィクトリア時代のイギリ
ス、ワイマール時代のドイツ、を順にご紹介しよう。

 まずは、フランス革命前の一八世紀フランス社会である。革命前のフランス
は、アンシャン・レジーム(旧制度)と呼ばれ、第一身分の僧侶と第二身分の
貴族が支配階級をなしていた。彼らは、全国民のわずか三パーセントにすぎな
かったにもかかわらず、国土の約三五パーセントを所有していた。また、国家
の高級官職を独占し、土地と地位によって多大の収入を得ていた。

 フランスはイギリスと違って、王権が強かったこともあり、貴族は政治・経
済の実権を持っておらず、従って必然的に余りある時間を享楽的に過ごす傾向
にあった。特に芝居やオペラが人気を集めており、趣味が昂じて、貴族自らが
自分で自作自演することが流行したようである。しかし、夜のパリで、貴族の
最も関心の的となっていたのは賭博である。賭事を禁止する勅令が何度となく
出されたが、国王自らが賭博に耽っていたのであるから効果は何もなかった。

 この他、貴族や富豪の館では、音楽会、舞踏会、仮装パーティー、宴会など
が開かれ、享楽的な日々を送っていた。

 この時期では、結婚は、父親の意向で決められるのが通例であった。従っ
て、必然的に、形式的に結婚という形態だけとって、あとは、夫、妻双方とも
それぞれの「自由恋愛」に熱中する場合が多かった。

 摂政オルレアン公フィリップの母親、パラティーヌ公女は、当時の風潮を次
のように述べている。

「……自分の子供を愛するというのは、とても当たり前のことですが、自分の
妻を愛するということは、すっかり流行遅れになってしまいました。当地(パ
リ)では、そのような例はひとつも見掛けません。そのような習慣はすっかり
失われてしまいました。身分の低い人々の間では、今でもまだ仲の良い夫婦は
見られますが、上流の人々の間では、夫婦双方が愛し合い、貞節であるという
例は、私はひとつも知りません……」。

「こうした、前代未聞の自由恋愛の風潮がパリとヴェルサーユに住む約二万五
〇〇〇の貴族階級の面々の間で流行し、官能的な快楽の追求に人々は狂奔して
いた」(本城靖久著『十八世紀パリの明暗』)という。まさに、「十八世紀に
おける上流階級の生活を特徴づけるものは、自由と放埒と退廃であり、あくこ
となき快楽の追求であった」(前掲書)のだ。

 そして、爛熟した社会の例にもれず、売春も相当さかんであった。一七七〇
年当時のパリの人口は六十五万人といわれるが、そのうち売春の数は、推定で
二万人に達していたといわれている。

 このような、性的退廃に伴って必然的に生じたのは、「捨て子」である。当
時のフランスの作家ルイ・セバスチャン・メルシエは、次のように指摘してい
る。「例年、両親から捨てられて、『捨て子養育院』にほうり込まれる赤ん坊
が六、七千人いる。ところが、その数字を差し引いた残りの『新生児』の数は
一万四、五千人を越えないのである。民衆の困窮と人類の堕落がこれ以上明白
に、恐るべき姿で現れることがあろうか」(ルイ・セバスチャン・メルシエ
著・原宏訳『十八世紀パリ生活誌』)。

 ローマ帝国においても、「捨て子」専用の円柱が設けられていたが、パリの
捨て子養育院は、いわば、パリの「乳の出る円柱」(コルメン・ラクテウス)
だったわけである。

 また、前例にもれず、味覚の追求も熱心になされていたようである。メルシ
エは次のように述べている。

 メルシエは、食通と目されている男に会ったのだが、その男に言わせると、
「快楽の中でも最高のものは食事の快楽」なのだそうである。そして、その男
は口を開けば、「ベリゴールの『松露づめの七面鳥』とか、トゥールーズの
『フォア・グラのパイ』とか、トゥーロンの『新鮮なまぐろのパイ』とか、ネ
ラックの『赤やまうずらのテリーヌ』とか、ブティヴィエの『ひばり料理』と
か、トロワの『豚の頭肉焼』とかの話しばかりする」(『十八世紀パリ生活
誌』)という。

 メルシエは十八世紀のフランスを次のように締めくくっている。「ユゥエナ
リスは、ローマの繁盛のさなかに、ローマの崩壊を予言した。彼は激しい非難
の言葉を浴びせ掛け、腐敗の道徳的原因を攻撃した。どうしてこの私もユゥエ
ナリスの声を借りて祖国に向かって次のように訴えずにいられようか――祖国
が、奢侈の広大な水盤の中に国じゅうの清らかな血を流し込んでいる、あの恐
るべき残酷な財務行政を屠りさらないかぎり、貧者の数は年ごとに増大する一
方で、やがて農業も、商業も、有益にして人の心を慰める工芸もすっかり枯れ
果ててしまうだろう。もし政府が、道徳を滅ぼし、人民の生活の糧を枯渇させ
るあの非道な投機を徐々に押えなければ、もしすべての金を、市民のごく一部
の者の手に集中させるような財務行政を放置しておくならば、もし一切の配慮
が彼らにだけ向けられるならば、やがて王族も臣民もこの貧欲な集団に吸い取
られて枯渇してしまうに違いない。……金持ちに売り渡された不幸な世紀、金
が異様な力を持っている不幸な世紀!」(前掲書)

●ヴィクトリア朝イギリスの繁栄と退廃

 次はイギリスの例である。イギリスは、ヴィクトリア女王の治世の始まった
一八三七年以降、十九世紀に、その最盛期を迎えた。当時のイギリスは、産業
革命の進展に伴い、「世界の工場」と呼ばれ、経済的に未曾有の大発展を遂げ
ていったのである。そして、世界中の富が流入してきた。

 オスカー・ワイルドは、「一九世紀の神は金だ!」と皮肉っているが、まさ
に、至言である。現代の日本では、絵画などの美術品が投資の対象とされてい
るが、既に十九世紀のイギリスではそれに負けず劣らず絵画への投資熱が高ま
っていたそうである。また、株式投資も盛んになり、富裕階級から一般大衆に
まで広く浸透していた。

 性風俗の歪みも深刻化していった。富裕階級の一部では、仕事を探すために
田舎から出てきた少女や家出少女などを、屋敷に監禁し暴行を加える、「少女
誘拐」が秘密裡に流行した。しかも、「買い主」に斡旋するためのシンジゲー
トまで作られていたという。

 また、富裕階級の郊外の屋敷に大勢の男女が招かれて「アフター・ミッドナ
イト」と呼ばれる乱痴気パーティーが盛んに行なわれ、乱交まがいの行為がし
ばしば見られたという。イギリスにはフランスのような公然とした娼婦館は少
なかったが、外見上、「ナイトクラブ」や「サパークラブ」と称した高級売春
組織が多数存在していた。一八六〇年代初頭のロンドンには、約三千の売春宿
があり、推定八万人に上るプロの売春婦の他、数千人の素人売春婦もいたとい
う。

 いかがわしいポルノ書籍も氾濫し始めた。一八七〇年代の中ごろには、『純
潔無残』、『遍歴の男根』などという思わせ振りな題の本が市場に大量に出回
り始め、H・スペンサー・アシュビーというポルノ専門家が内容の要約を兼ね
た『禁書大全』という三巻ものの案内書を作ったほどである。一八七九年に
は、『パール』というポルノ雑誌が発刊され、人気を集めた。『パール』の内
容についてコリン・ウィルソンはこう評釈している。「『ザ・パール』は、セ
ックスに対するウォルター(ヴィクトリア時代の自伝的ポルノグラフィの主人
公)の態度が決して珍しくないことを明らかにしてくれる。ヴィクトリア朝時
代の男は、あらゆる種類の妄執の奴隷だった。彼らは、処女と幼女、近親相姦
とレイプ、スパンキング(平手打ち)とフロッキング(鞭打ち)に心を焦がし
た」(『世界残酷物語』下巻)。

 一八六七年までは、公開で処刑が行なわれ、民衆はその模様に興奮した。
「剣闘」ならぬ「拳闘」試合も人気を集めた。「拳闘」、すなわちボクシング
である。ただし、この当時のボクシングは素手で行なわれ、「相手を徐々にた
たきのめす戦いぶりは、現代の目からみると陰惨で異様な光景に映る類のもの
だった」(長島伸一著『大英帝国』)という。形式は違っても、流血に歓喜す
る民衆の心は、ローマ帝国の剣闘と何ら変わりなかったと思われる。

 ヴィクトリア時代には、ロンドンで売春婦ばかりを次々と殺害し、ナイフで
死体を切り刻んだ「切り裂きジャック」事件などの、凶悪な犯罪も頻発してい
る。

●倒錯の都市……ワイマール時代のベルリン

 最後にドイツの例である。第一次世界大戦後からナチスが政権を取るまでの
いわゆるワイマール時代と呼ばれているドイツは、「夜の生活(ナイトレーベ
ン)」といわれる歓楽的生活が盛んになった時期であった。ウォルター・ライ
カーは『ワイマール文化を生きた人々』の中で、第一次大戦後のドイツを評し
て、「当時のドイツが欲したのは享楽であった」と述べている。

 『自由恋愛』、『別居妻』などといったポルノ雑誌が氾濫し、『エロス叢
書』などと題された好色文学も公然と出版されるようになった。また、『売
淫』、『欲情の狼』などというセックスを題材とした映画が人気を集めた。ス
トリップやセックスの実演が、街のいかがわしい小屋で行なわれるようにな
り、性的モラルは完全に崩壊していった。クルト・トゥホルスキーは、一九二
二年『ヴェルト・ビューネ』誌に、「ベルリンでこれ程多くの娼婦が見られた
ことはなかった」とまで書いている。

 ステファン・ツヴァイクは当時の様相を次のように書き記している。「ベル
リンは世界のバビロンと化した」、「スエトニウスのローマでさえ、ベルリン
の倒錯舞踏会ほどの狂宴を知らなかったであろう。そこでは幾千という女装の
男たちと男装の女たちが、警察の好意的な眼差しの下で踊り狂っていた」、
「若い娘たちは、性的倒錯であることを誇らしげに自慢した。十六歳でまだ処
女の疑いがあることは、当時のベルリンの学校では恥辱とされていた」(『昨
日の世界』)。

 同性愛の増大も見られた。ベルリンの「エルドラド」という店は、同性愛者
の溜まり場として有名だった。また、ベルリンには、ホモ相手の「美少年カフ
ェ」が七十軒以上もあった。ベルリンの同性愛者の数は五万六千人ともいわれ
ている。

 モルヒネ、コカインといった麻薬も流行し、それを原因とした犯罪も後を断
たなかった。


 以上、ローマ帝国を皮切りにして、古今東西の物質主義的社会の実態を通観
してきた。満ちあふれた豊かな物質と、あり余った自由時間を存分に与えられ
た人間が、どのような志向を示し、どのような行為へと走っていったか。そこ
に共通して見られた現象は、衣・食・住に対する貧欲な追求、目を覆わんばか
りの性風俗の乱れ等々……あくまでも物質に対する欲求のとめどもない増大で
あった。それは、エンゲルスの言葉を借りるならば、「気体の膨張力などまっ
たくの児戯にひとしいほど」のすさまじい欲望の増大ぶりであった。

 さて、エンゲルスの予想によると、生産力の向上によって人々が物質的に満
足するようになれば、階級は消滅していくということだった。そして、さらに
人々は労働時間の短縮によって生じた余暇を、精神的活動に振り向け、精神文
化を開花させていくようになるということだった。

 さて、皆さんももうおわかりだろう、ローマ社会をはじめとする以上に挙げ
てきた文明に生きていた人々が、衣・食・住などの物質に対する飽くなき追求
に明け暮れ、性的に退廃していき、道徳的に転落していった理由が――。

 すなわち、エンゲルスの理論に基づく、人々の物質的満足を前提とする階級
の消滅も、もちろんその後に来るべき精神的に開花した理想社会も実現しな
い。

 共産主義思想は、一人一人が自分の利益を超えてみんなの利益を考える、自
由で平等な社会を実現しようと試みた。が、その理想に至るまでのプロセス―
―すなわち計画生産の下での生産力の向上も、それによってもたらされるはず
だった物質的満足も、その結果生じるはずだった階級の消滅も、そして最終的
な国家の消滅も、何一つとして実現しなかった。それはすべて、人間に本質的
に内在するエゴの意識がもたらした必然的な結果であったのだった。

 もう一度ここで振り返ってみよう。まず、社会全体の利益をまず第一に重視
する共産主義社会の職場においては、自分の利益にならないと一生懸命働かな
いという人間のエゴの意識が作用して、生産力は向上しなかった。つまり、エ
ンゲルスの組んだプログラムは、その最初の第一歩から見事につまずいたので
ある。

 そのために、社会全体が慢性的な物質難に陥り、国民の不満が増大した。と
にかく生産力を向上させなければ話にならないと理論的に考える政府は必死に
なって国民の尻を叩き続けたため、国家の消滅に向かうどころか逆にその権力
的性格を次第に強化していった。また、政治家たちもエゴにとらわれて、支配
権の維持に執心し始めることになる。

 しかし、事態はいっこうに好転の兆しを見せず、物質難の中で多くの人々が
不正な利得の獲得に走り、道徳的に退廃し、理想と現実とのギャップがますま
す拡大していった。人々はいつ実現するやもしれぬ理想を振りかざすだけの政
府に対して嫌気がさしてきて、自由(エゴの自由であるが)を求めて体制に反
逆し、国家は崩壊に向かっていったというわけだった。

 では、一歩進めて生産力が向上したものと仮定して、物質的に満ち足りるよ
うにさえなれば、エンゲルスが言うように、人類は理想社会の実現に向かって
いくかということも併せて検討してみた。しかし、人はあくまで物質的欲望を
追い求め続け、退廃していくことになるので、それはありえないということが
はっきりした。

 エゴを満たせないから生産力が向上しない。生産力が向上しないから物資難
が起こる。物資難によってエ物質的欲望が満たせない。この悪循環により共産
主義は崩壊した。また、たとえ物質が豊かになっても、とめどもなく生じてく
る物質的欲望は、増大することがあっても決して収まることがない。そして、
退廃の一途をたどっていく。

 エゴからの解放を目指した共産主義思想は、皮肉にもいずれにせよエゴによ
って崩壊する運命をはらんでいた。では、その根本的原因はどこにあったのだ
ろうか?

 それは物質主義にある。人間の幸福の基盤をあくまでも物質的豊かさに見い
だそうとした物質主義にあるのである。

 物質は有限であるのにもかかわらず、物質に対する人間の欲望はとどまると
ころを知らない。そして、以上に見てきたように、エゴの心の働きによって生
産力が向上せず、物質が慢性的に不足しているところに、物質的欲望をむやみ
に拡大させ、それをコントロールする方法を知らない人々が集まれば、当然不
満が高じて、社会は混乱する。これが共産主義崩壊の大きな原因である。

 となると、人類は、物質的充足を追求していく物質主義と正反対のベクトル
をもつ精神主義へと移行していかなければならないということになる。要する
に発想を逆転させて、欲望をコントロールする方向に目を転じなければならな
いのである。これこそが、真のエゴからの解放なのである。

 人類はこれまでの歴史を通じて際限なくエゴを増大させ続けてきた。そして
近代に入ると、資本主義という巨大な搾取メカニズムをつくり上げ、世界中で
激しく利益を貪りあい、弱肉強食の惨状を現出し、しかも二次にわたる帝国主
義戦争を引き起こし、そのエゴはまさに頂点に達した。

 戦争、公害、搾取、抑圧、経済的不平等……エゴの生み出した全地球的な苦
しみ、空前の非人道的な矛盾を目の当たりにした人類は、この忌まわしいエゴ
を克服して、地上に調和をもたらさんとして様々な努力を開始した。その運動
の一つが共産主義運動であった。

 そして、共産主義運動をはじめとしたそれらの運動が破綻してしまった原因
は、それらが物質主義の次元にとどまっていたがために、結局エゴを超越でき
なかったという点にあった。そして、エゴを全面的に認める資本主義経済体制
が生き残り、この世の春を謳歌している。

 しかし、一見長続きしたかのように見えるエゴむき出しの資本主義も、早晩
滅亡することになるだろう。いうまでもないことだが、それが物質主義に支配
されているからである。――物質主義は崩壊する。私がこう断言するのには理
由がある。


 ローマ帝国をはじめ、先程例示してきた古今東西の物質主義社会は、一時の
物質的繁栄を謳歌し、享楽に明け暮れた後、一転して衰退、没落、滅亡の運命
をたどっていったのであった。

 そして、現代の日本が、それらの物質主義社会の悲惨な歴史を忠実に再現し
ているということにどれだけの人がお気づきだろうか?

 こういうと、みなさんの中には、「自分はそんな退廃などしていない。」と
反論する方もいらっしゃるかもしれない。しかし、どう考えてもそうだといわ
ざるを得ない。我々は、物質主義を肯定・扇動するマスコミの情報量があまり
にも多いために、その物質主義とそこから生じる退廃的状況に対して不感症に
なり、退廃を退廃として感じられなくなってしまっているのである。

 例えば、日本の社会に限っても、結婚式などの宴会では、ローマ社会を上回
るような贅沢な料理が大量に出され、余ったものは、平然と捨てられる。グル
メブームとかで、テレビや雑誌は、盛んに味覚を追求することの喜びを喧伝
し、人々はマスコミの情報に乗せられて、美味・珍味と美食と飽食に明け暮れ
る。

 このような美食・飽食の結果として、肥満体が増え、成人病が増大してい
る。このようなことが問題となった時代はおそらくローマ社会と現代だけだろ
う。

 マスコミにはセックス記事が氾濫し、街のレンタルビデオショップではいと
も容易にポルノビデオが借りられる。性風俗産業はあいも変わらず大盛況であ
る。同性愛やサディズムなどの異常性欲もローマ社会さながらに公然化してい
る。

 一時期、コインロッカーに赤ん坊を捨てる事件が頻発した時期があったが、
さながら、コインロッカーは現代日本の「乳の出る円柱」(コルメン・ラクテ
ウス)である。

 土地への異常な投資熱は、ローマ社会において、ラティフンディウム形成過
程で、富裕階級が土地の買収に熱を上げたことにたとえることができる。絵画
などの美術品や株式への投資熱は、ローマ型社会の典型であるヴィクトリア時
代にも見られたことである。

 競馬・競輪などは、今では若い女性にも人気を集めており、大観衆が競馬に
熱狂している光景は、ローマ人が戦車競争に熱狂している姿と何ら変わること
はない。

 残虐なホラー映画が人気を集めているが、たとえ作り事にせよ、残虐なシー
ンを見て喜ぶ心は、剣闘によって血が流されるのを見て喜ぶ心とどこが違うの
だろうか。ボクシングやレスリングにおいて、人と人が違いに殴り合い血を流
すことに歓喜していることも同じである。あれは、スポーツであり、健全な娯
楽だと主張する人に対しては、前に紹介した、「人間は人間にとって最も貴重
なものだ」というセネカの言葉を再び送りたい。遊戯と娯楽のために人を殺す
ことと、遊戯と娯楽のために人を殴ることは程度の差こそあれ悪業であること
には変わりはない。

 昔から比べたらそれこそ信じられないような犯罪が頻発しているにもかかわ
らず、あまりにも事件が多いため、どんな事件も一カ月もすれば、もう忘れさ
られていくほどである。

 まさに、現代の日本、現代の世界は、ローマ以来の物質主義社会の退廃その
ものなのである。この現代を憂えている方は多いと思う。なぜならば、このよ
うな退廃が永遠に続くものではないことは、ローマの歴史が証明しているから
である。物質主義の行く末、そこには悲惨な末路が待っているのみである。

普:おいおい、こいつをなんとかしてくれ。俺をどうすれば気が済むというのだ。
  悲惨な末路はいやだぞ。

空:自分のやっていることに自信があれば、人が何を言おうが関係ないでしょ。
  『俺がやっていることに間違いは無い。』『俺のやっていることが正しいのだ』
  と確信を持っていればね。

普:それはそうなんだけどねぇ。

空:でも、少しでも「自分がやっていることが間違っている可能性」があると
  思ったら追求してみるのがいいと思いますよ。もし間違っていたら大変じ
  ゃぁないですか。

普:そうなんだけど、面倒だしな。

空:じゃぁ、バンバンやればいいんですよ。パコパコやってれば幸せなんでしょ。

普:幸せなんでしょって言われても別に考えてやってるわけじゃないんだけどね。
  そういう社会だし。

空:自分の人生を、自分で考えないで誰が考えるんですか。これについてはまた
  あとで言いたいことが山ほどあるんだけど、じゃぁ、普さんは何を考えて生
  きてるんですか?

普:そんなこと言ってると友達できないだろう、おまえ。

空:逃げたな。別に私から逃げてもいいけど、現実からどうやって逃げるんだ
  ろう。

  でも、みんなと同じことやってれば、べつに誰も文句いわないしね。普
  さんの善悪の判断基準は「みんながやっているかどうか」でしょ。現在は
  変態や、悪趣味は大幅に社会的に許されていますが、本当のことを追求し
  ようとすると、ね。

  まぁ、昔はこうだったという話で、今とは【全く】関係の無い話ですよ。
  気にしないでさぁガンガンやりましょう。喰いもんだっていっぱいあるし、
  エッチだっていつでもできるし、クスリだってその辺にあるし、ゲームやっ
  てりゃ幸せだし。心配しなくても、誰かがきっとちゃんとやってますよ。

普:そう、誰かがちゃんと考えてくれてるから平和な日本なんだよ。そんなに
  心配することでも無いんじゃないか?

空:本当にそう思いますか?本当に?誰かって誰です?お役人かな?お役人は
  自分の利益をかき集めるのに忙しいからちがうかな?大きな会社の社長さ
  んかな?これも自分の利益が第一だから普さんのことは考えていませんね
  ぇ。天皇かな。天皇が何を考えても力無いから何もできないでしょ。とこ
  ろで最近天皇の話題がテレビに乗らない理由思いついたんだけど。

普:何だよ、言って見ろよ。聞いてやるよ。

空:天皇の息子が結婚して何年かたってるけど、子供ができないでしょ。天皇
  の話を出すとそれがどうしても話題になっちゃうから出せないんじゃない
  かなって、ふと思ったんですけどね。どうでもいいことですけどね。
  話を元に戻して、じゃあ、いったい誰が考えてくれているのかなって、
  思いません?

普:いや、だれだかわかんないけど、きっと誰かがちゃんとやっていてくれると
  俺は、信じる。俺の考える問題じゃない。俺は俺のことだけ考えていればい
  いのだ。

空:誰の問題を誰が考えるのでしょうね。問題などもともとなくって、この
  平和な日本はあと100年も200年もずずずっと続くのかもしれませんね。
  よかったですね。でも、ローマの人も第二次世界大戦の前の人もきっとそう
  思っていたんでしょうね。

  ただし、集団の中にいる状態から、外を見ようとしたり、外に出ようとした
  りすると、結構おもしろいですよ。

普:なにが?

空:いやいや、ある程度、いや無制限の退廃的自由は許されていますが、問題点を
  明確にして考えはじめ、動き出すと全く違ったものが目の前にあらわれる、
  いや、言い方が正しくないな、隠れていた鬼が出てくるんですよ、目の前に。
  でてくるだけじゃなくて、鬼は権力というこん棒を思うように振り回して
  追っかけてくるから結構楽しめますよ。

普:おまえ、まだそんなこと言ってるのか。みんなに相手にされないだろう、おま
  え。

空:いや、結構こういう話が好きな人がいるみたいで、メールはほとんどこないけど
  (来ても筆無精だから返事が遅れるけど)アクセス数みると、結構集まってま
  すよ。お友達が。

普:同じやつが毎日見てるだけだよ。

空:そりゃぁ、そうなあんでしょうけどね。でも毎日見に来てくれるのもうれしい
  じゃないですか。半分くらいは鬼だったりして(笑い)。

普:そうだな、うれしいな。ところで、おまえの前には「隠れていた鬼」とやらは
  でてきたのか?

空:鬼がでる条件を教えてあげましょうか?鬼は力のある人のところにつくん
  ですよ。で、自分より強くならないようにいつも見てるし聞いてる。ボー
  ダーラインは100人程度かな?100人集める力がある人にはだいたい
  付いてますよ、鬼が。かくれんぼが上手だからだいたい見えないけど。
  で、これは結構いくかな、と思うといろいろと始まるわけですわ。
  私は大丈夫(かな?)。書いてるだけだから。一日1万人もアクセスがでて
  くると大変でしょうけど、今はこんなんだから影響なんて何もないしね。
  動きもないし。

  参考内部リンク:邪魔者は? 証拠を残さず×××
  (ここにこんな記述がある。「あなた達の安全のために強力な管理が必要
  なんですよ。」と、来る。本当に来ましたね。もうすぐ盗聴法案が通
  ります。今年中に通ると思います。参考リンク集はここ。現在でも盗聴は
  していると考えられますが、それが正式に証拠として使える様になります。
  すごいですねぇ。何でもありですねぇ。水面かでなにやってんだろ。


普:おまえ、やっぱり頭おかしいんじゃないか。大丈夫か?

空:まぁ、話半分に聞いてくれればいいんじゃないですかね。ところで、普さ
  んも最近はマスコミの異常さに気づいて来たんじゃないですか?

普:異常と言うほどでもないけど、少しな。でもぼんやり見てると何となく何
  も問題が無いような気がすんだよね。でも、空に聞いたことに注意してテ
  レビ見てると、「言わないこと」がわかるから、そこで初めて「疑問の芽」
  がでて、でも、そのまま放っておくと、すぐに「何も問題の無い日常」に
  なっちゃうんだよね。なんでだろう。

空:竜宮城の浦島太郎は何も知らずに楽しんで、帰ってきたら爺さんになって死ん
  じゃいましたね。

普:何を言い出すんだ。

空:ま、今日は眠いから、また今度にしましょう。

普:またおもしろい話を聞かせてくれよ。誰も言わないようなことを言い出す
  からおもしろいよ。

空:そのおもしろい話が、なんだか一理あるような気がするでしょ。

普:気がするけど、気のせいだろう。

空:そうそう、気のせい気のせい(笑い)。社会はこのままどんどん退廃して
  いって、、、

普:退廃するけど、平和ならいいんだ。楽しいじゃないか。楽しければいいん
  じゃないか。

空:退廃していって、平和な国は今のところ無いですけどね。

普:じゃ、どうすんだよ。

空:「てめえのことはてめえで考える」のが基本でしょ。まずは、広瀬隆の本
   でも読むのはいいことだと思いますよ。私もあれで結構現状認識ができ
   たと思ってますから。

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