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回答先: 断食の次は座禅 投稿者 PuPu 日時 2000 年 6 月 11 日 10:32:49:
まず、PuPuさん
『Re: 断食の次は座禅 - PuPu 2000/6/12 10:34:17』
上記の投稿の内容についてご確認を。
というわけでして、匿名1さん、割り込み失敬します。
それでは本題に。
PuPuさんも書かれているように、
禅は書物から学ぶものではないでしょうね。
人からも、結局、その本質までは学べないでしょう。
一年半も続けてられるとお解りでしょうが、
禅を組んでいると、
思考とは遠いところにいってしまう時間がありますね。
余計なものを落としていく作業のはずが、
それが心地よかったりして、また余計な快楽が生まれてしまう……(^^;)
ですから、「塵を拭う」作業というのは、きりがない。
様々な情報や感情を捨て去って「自我」に辿り着いたとしても、
また日常生活に戻れば、情報はいくらでも入ってきます。
それを、また拭う。日常に戻る。また禅を組む。繰り返す。
これだと、三年くらいで、つらくなってくるでしょうね。
「本来のこころ」というのが、
どういうものか、私にはわかりませんが、
こういうことを仰っていた僧の方がおられました。
「こころとは本来、塵もつかなければ汚れもつかないものだ。
それを擦って汚れを落とそうなどとするから、ややこしくなる」
私も、汚れを落としたいなどと考えていた時期だったので、
少し反発心は残ったものの、おおむね納得した覚えがあります。
話は変わりますが、
>僕はこのホームページで取り扱われている様な、社会に蔓延る
>虚構に惑わされることなく生きていく為には、その虚構を見破る
>努力よりも、私達の本来のこころに付いた塵をぬぐう作業が
>先なんじゃないかなぁと感じています。
上記について。
己の「こころの塵を拭う」作業だけでは、私は片手落ちだと感じています。
「本質」をつかむには、まだまだ私も時間がかかりそうですし、
皆が「本質」に気づくのを待っていては、
間に合わないことも、現状を見れば多いでしょう。
出来ることをやらないのは怠慢だと思うので、
こうして時間を見ては、無意味に想われるかもしれない投稿を、
まだ短い期間ではありますが、それなりに続けています。
同じような考えで、
こうして情報を提供してくださっている方も多いと思います。
PuPuさんは、音楽がお好きなようですね。
その演奏を「見て」いたのは、どんな存在だったんでしょう。
三十日間におよぶ断食をされたご友人の逸話ですが、
またお聞かせ願いたいですね。
私も、とても人の考えは読めませんが、
“次にどう動くか”くらいなら、わかることがありますよ。
ディヤーナも、大乗では第五段階。
気長に、しっかりと行きましょう。
ぁゃιぃ陰謀王子でしたっ(^^;)