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回答先: Re: 科学・理性・感情(2) 投稿者 Van 日時 2000 年 6 月 11 日 12:35:55:
法華三部経体系(総論)』 五井野正著 1981.10.12 より抜粋
しかし、このことは間違いである。
西洋の言う理性とは理性ではなく知性のことであり、
感情とは理性そのままなのである。
生理的欲求、心理的症状といった言葉に使われている理を見ても
認識や知性といったもので理解しえない、
感情によって現れる内面の理なのである。
感情に理性がないと言った西洋思想が全ての知覚や認識を知性によって
知ろうとし、感情さえも知性の下に置いて知性によってコントロール化する
方向に人々を導いてしまった。
そのため知性が二次元的なものに対して認識反応を行えば
感情はその下にコントロールされていくことになる。
それも教養人とか知識人と呼ばれた人たちほどである。
このようなことがたとえば漫画で宇宙のイラスト図や宇宙戦争などが
描かれているのを見て、宇宙とはこういうものだと知らずうちに洗脳され、
宇宙は美しいなあ!とか、宇宙人が地球にやってくるのは侵略するために
やってくるからだ、だから注意しなくちゃ!といった受身の知識が
感情さえも引き起こす結果となる。
こう言えばたかだか漫画でそこまでは誰も思わないさ、と言う人もいるだろう。
しかし、そこが落とし穴である。
たかが、と思う人たちは漫画を漫画と区別できる世代だからであり、
今の子どもたちのように色々な体験をする前に漫画という形で知識が与えられ、
テレビや映画での感情の入った声や音楽を含めた様々な効果音によって
感性が毎日のように刺激され、大人たちが無抵抗に子どもたちと漫画という
廃退の中で同化作用をしたり、漫画が完全に市民権を持って文化さえ作り出す
ような今日の状態では漫画を単なる漫画として見ていないのである。
小説が個人の考え方や生き方にまで影響を及ぼしたり、
映画やテレビが社会の道徳や風俗、流行さえも作り出してしまうこと、
さらには新聞の写真一枚が、活字の見出し一行が人々に強い感情さえも
植え付けてしまう事実は誰も否定することができないであろう。
漫画は所詮漫画という言い方は小説は所詮作者の作り話、
映画やテレビは俳優の演技と大道具、小道具、特殊撮影を入れた虚像の作り劇、
CMは所詮CM、新聞は新聞社の大衆コントロール印刷文書といった言い方と
何ら異ならない。
ではそのように判断分析して正しい認識を常に持てる人は
一体この日本にどれだけいるのだろうか。
政党の上の方では与党も野党も関係なく結びついていたり、
ソ連とアメリカが裏で手を結んでいたり、
宗教団体のトップ連中が最も非宗教信者だったりといったような
漫画チックな発想は現実色の強いテレビや新聞、ラジオといった
報道物からは得られない。
というよりは報道する側が既に上部によってコントロールされて、
さらに報道される事実がどんなに真実であってもその真実の一側面しか
伝えられないという現実の中ではコントロールする側もされる側も
虚像、あるいは陰影の中での事実認識はやめて
感情のもつ理性によって本質にせまった把握の仕方をしない限り、
これからの世代によって新聞そのものがより感覚的にアクティブな漫画に
取って代えられてしまい、マンガティックという言葉もドラマティック、
あるいは劇画ティックという意味に変わり、それさえも超えてしまうことになる。