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回答先: Re: 科学・理性・感情(4) 投稿者 Van 日時 2000 年 6 月 11 日 12:40:42:
『法華三部経体系(総論)』 五井野正著 1981.10.12 より抜粋
デカルトはフランス生まれの貴族階級で日本に布教をした
フランシスコ・ザヴィエルの所属する教団イエズス会で教育を受けた。
イエズス会は宗教改革の大きな波に対抗するためにローマ教会の
メンツをかけての建て直しの一環として作られたものである。
釈迦がバラモン教を悟りによって乗りこえたのと違い、
デカルトはカトリック教を自己の独自の観念によって再認識するだけで
あって乗りこえることはできなかった。
デカルトは全ての知識を疑ったあげく疑った自己は疑えないと知って
「我考える故に我あり」という有名な言葉を述べていますが
彼の言う全ての知識とは新しい時代(新大陸に植民地にどんどん人々が
富と奴隷を求めて策略を行い初期資本主義が起き始めた時代)に
対応しきれないアリストテレス哲学とキリスト教神学を統合した
スコラ哲学のことでありギリシャ・ローマ古典に語られている道徳哲学や
歴史、騎士の物語などである。
このことはデカルトのみならず当時の時代に生きていたガリレオ・ガリレイの
例をあげずともイギリスやドイツ・スイスといった西欧の国々が
宗教的にローマ教会支配からどんどん離れている時代で彼の生存中に
神聖ローマ帝国が実際上滅亡したりしてフランスの支配階級側である貴族に
とってローマ教会、ローマ古典そのものの権威を疑う、もしくは否定することが
自分の利益になると考えられた時代であって、デカルトはただそれを
方法序説の中に表しただけのことであると私もデカルトに対する過大評価を
疑ってみたいと思う。
しかし、彼の有名な言葉よりももっと世界の歴史に影響を及ぼしたのは
理性という言葉の誤った使い方であり、それによって当然起きる「動物機械説」
という考え方である。
現代の人々には「我考える故に我あり」という言葉が普及しているが
当時の人々の場合にはデカルトの名前を聞けば「動物機械」という言葉が
思い浮かぶというほどの普及をしていたのである。
彼は自然や宇宙をキリストの神から外して機械的宇宙論、機械的自然論
(力学的宇宙自然論)として捉えて、今日の自然科学思想の基の思想を作った。
そして彼は自然ばかりでなく動物にさえ機械論を持ち込み、生命とは
機械にほかならないと述べる。
心臓も熱機関と解釈し熱の力によって心臓というポンプを動かすという考えに至る。
このような考え方から後に蒸気機関が作られたとしても何の不思議もない。
そして恐ろしいことに今日の医学はこのような考え方から出発している。
すなわち理性の勝利とは動物のみならず人間さえも機械の歯車として、
労働力として言葉の話せるロボットとして支配階級の意のままに
人々を動かせることであり、そのように人間性を無視した理性など断じて理性と
呼べるものではなく、それゆえデカルトの言う理性とは彼が洗脳した知識のことであ
る。
言葉の観念は百の繰り返し洗脳知識から得るものではなく歴史という長い時間を
経由して起きる事実をよく認識して理解するものである。