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回答先: 「日本の第二の敗戦」2 投稿者 大阪北摂住民 日時 2000 年 5 月 02 日 14:27:52:
平成11(1999)年10月19日(火曜日)
毎日新聞
真相20世紀
21世紀への伝言
記者たちのメモワール
「日本の第二の敗戦」
「どう生きるべきか、戦略がなかった。今もそれは変わらない。」
■ワシントン特派員として取材した森田 明彦さん(58)
ー利上げ1年遅れ
インフレ懸念から短期金利引き上げに動いた西独に、ベーカー財務長官が「ルーブル合意の精神に反する」と反発し、報復としてドル安・マルク高の為替戦争を
仕掛ける姿勢を見せた。これが世界的な株暴落の引き金になった、と指摘した。
西独はルーブル合意よりも国内のインフレの芽を摘むことを優先した。対照的に、澄田日銀総裁は21日、「(市場の)混乱が鎮静化するまで金利水準は維持する」と発表した。
88年5月になると、米連邦準備制度理事会(FRB)は短期金利を高めに誘導し、金融引き締めに転じた。にもかかわらず、日銀は1年遅れの89年5月まで利上げを見送った。竹下首相が、リクルート事件に伴う政治不信の責任をとって退陣を表明した後だった。背景には、大蔵省が財政支出増を避けるため、低金利政策で米国の圧力をかわそうとしたこともあった。
この「遅れ」が、バブル経済を生んだ。市中にあふれた資金は土地や株式に洪水のように流れ込み、膨張しすぎた風船のようになって、破裂した。日本経済は今も、その後遺症を引きずっている。
「日本の第二の敗戦だった」。
森田さんは今、プラザ会議からバブル崩壊に至る日米のせめぎ合いを、こう総括する。日本の輸出産業にとっては米国市場は生命線であり、米国追随はやむを得ない面もある。「しかし、プラザ会議で10%以上の円高を容認した竹下蔵相の発言には過信があった。貨幣はさまざまな価値の尺度であり、為替相場が動くことで企業では1000人、2000人の合理化戦略も吹き飛ぶ。大蔵省や日銀はどこまで戦略を練り上げてプラザ会議に臨んだのか。当時日本がどう生きるべきかという戦略がなかったし、今もそれは変らないのではないか」。森田さんは日本経済のかじ取りに、今も厳しい目を向ける。
*森田明彦さん*
64年入社。84年11月〜88年3月ワシントン特派員。論説委員長などを経て現在監査役。