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回答先: 『青の炎』超ダイジェスト版1 投稿者 一刀斎 日時 2000 年 1 月 17 日 01:02:50:
「君たちの絵はですね、手で書こうとしてるから、だめなんですね。絵というの
はですね、目で描くものです。小手先の技術はいらないから、対象を、よく観察
することが、第一歩です。とにかく、一にも二にも、よく見ること。わかりまし
たか」
律儀な生徒が何人か、はーいとか、ふーいとか返事をすると、『ミロシュヒッ
チ』は、満足したらしく、黙って展覧会に出す自分の絵を描き始めた。すぐに自
分の世界に入ってしまい、周囲のことは、何も目に入らない様子である。
「俺、ちょっと、出てくる」秀一は、紀子に小声で囁いた。
「え?どこへ?」
「曇ってるから、ちょうど、光がいい感じなんだ。空と海の色を、直接確かめて
くる」
「でも……校舎の外へ出るのは、ヤバいんじゃないの?」
「だいじょうぶだって。ちょっと校庭をうろつくだけだから」
秀一は、キャンバスと絵の具類をまとめて手に持つと、堂々と教室から出ていっ
た。
『ミロシュビッチ』は、顔も上げようとはしない
。秀一は、足音を忍ばせて階段を駆け下りた。
誰もいない廊下を、音もなく疾走する。もちろん、玄関を通るわけにはいかな
い。校舎の端にある、すべての教室から死角になっている窓から、外に出た。
一箇所だけ、危険な場所を通らなくてはならなかった。腰をかがめ、校舎にへば
りつくようにして、移動する。上の階の教室からは、よほど窓から身を乗り出さ
ないと見えないだろう。
文化系サークルのボックスに辿り着くと、キャンバスと絵の具類を置いて、手早
く上着とズボンを脱ぎ、レーシング・ウェア姿になった。上履きからレーシン
グ・シューズに履き替えると、ゴーグルを入れたヘルメットを小脇に抱えて、
ボックスを後にする。
フェンスを乗り越え、学校の敷地の外へ出た。
小走りに、テニスクラブヘと急ぐ。駐輪場で、チェーンを外しながら、時計を見
る。
十一時五十三分、三十秒……。
四時間目の開始のチャイムから、すでに三分半が経過していた。タイミングとし
ては、ぎりぎりだろう。
秀一は、赤のゴーグルをかけて目元を隠すと、リアクターの赤いヘルメットをか
ぶった。流滴型のベンチレーション・ホールがいくつも開いた、最新のデザイン
である。
黄色と赤のツートンのウェアと、黒のスパッツは、キャノンデール、黄色と黒の
レーシング・シューズは、ノースゥェィブ…。湘南道路を走っているときは、む
しろ上から下まで派手に決めた方が目立たないはずだと、計算してのいでたち
だった。
ゆっくりと、ロードレーサーを発進させた。
車の切れ目を待って、134号線の海側へ渡り、東に車輪を向けてからは、一気
に加速する。地図の上で計測したところでは、鵠沼の自宅から由比ヶ浜高校ま
で、7・66kmあった。計画では、ここを、十五分から十六分で、走破しなくて
はならない。
かりに十五分としても、平均時速は30・64kmであり、自慢の脚力からすれ
ば、けっして無理なペースではない。
(中略)
七里ヶ浜高校のそばまで来ると、江ノ電が、134号線に並行して走るようにな
る。
ちょうど、一台の電車が、駅を出発したばかりだった。大正時代のヨーロッパの
車両をイメージした、レトロ車両である。観光宣伝などで提携している京都の嵐
電が、数年前にレトロ車両を作ったのを機に、江ノ電でも導入したのだという。
秀一は、スピードに乗り、のどかに走るレトロ車に追いつき、抜き去った。速度
が遅い上に、頻繁に停車する江ノ電では、由比ヶ浜から鵠沼までは、二十五、六
分はかかる。したがって、江ノ電を使うかぎり、犯行は絶対に不可能だった。
だからこそ、四時間目の、十一時五十分から十二時四十分までの間に、鵠沼まで
の往復と犯行を終えることができれば、立派なアリバイができるのである。