国家と市民、または憲法と個人を考える上において

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投稿者 付箋 日時 2001 年 11 月 04 日 03:05:23:

回答先: 『私はなぜ憲法改定に、抵抗するのか』辺見庸 投稿者 付箋 日時 2001 年 11 月 04 日 01:43:47:

 素晴らしい論文であり、日本の現状と未来を考えるにおいて、現時点でこれほど有意義なものはないと思われるので残りも紹介しておきます。このようなものを知らないというのは社会の損失です。
「法律セミナー」の11号で連載第二回分が掲載されています。アメリカ9・11テロにも言及しております。

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 第一の問い私はなぜ憲法を受審するか

 まず最初に、もっとも基本的な設問からはじめます、自明性の最たるものほど、そのじつ、証明が容易ではないものです。
 なぜ憲法を受容するか---この自問に対し、前文の理念が立派だし、戦争放棄や個人の尊重を明記しているから、と自答するだけなら、造作もないことです。そうした答えは、しかし、私にとって、一応は首肯できるけれども、どこか空々しいのです。今回改めて各条文をさらいつつ、そう感じました。空々しさはどこからくるのか---私はつらつら考えてみました。そうしたら、心のなかの、本音の暗がりに行きついたのです。めったには陽のあたらないその暗がりには、国家というものを、それがなにを標榜しようとも、徹頭徹尾信用しない、という私の年来の本音が、大きく不気味なくちなわのように、とぐろを巻いているのです。ですから、この本音の暗がりから、私はさらに次のように自問せざるをえませんでした。〈国家にまったき不信を抱きながら、その表象ともいえる憲法を受け容れることが、なぜできるのだ〉と。この設問はわれながらきわめて重要だと思います。私の答えは、できる、です。けれども、なぜ、が残ります。それに答えることは、この憲法の、これまで語られたことのない、重大な側面を明らかにすることになりそうな気がします。こうけいいわば、肯綮(こうけい)です。じつは、私にはもう答えがあります。以前は朦朧としていたけれど、いまはそれなりの輪郭をとりつつある答えが。しかし、その肯綮にあたるまえに、少し回り道をさせてください。国家とは、そもなんなのか、整理してみたいものですから。

 国家は永遠の災厄である

 最近、私はつくづく思いいたるのです。この世のいかなる種類のテーマでも、掘り下げていけば、たいてい国家と資本の問題に行きついてしまうな、と。憲法をどう考えるかは、この伝でいけば、国家というものをどのように見るかに深くかかわることだと思います。ところが困ったもので、見わたしてみても、国家論には、きょうび、なかなかいいものがないのです。
 高橋和巳(一九一三-七一年)という、往時、学生の間でずいぶん読まれた作家がいました。彼から葛藤と苦悩を取ったら、それこそ、なにも残らないような人で、埴谷雄高などは彼に”苦悩教の始祖”というニックネームをつけたほどです。私も学生のころ、『悲の器』、『散華』、『邪宗門』、『憂鬱なる党派』などを夢中で読みました。高橋和巳は京大文学部助教授にもなりましたが、大学紛争で学生側を支持し、後に辞職しています。こんな先生、最近はめっきりいなくなったなあと懐かしくなるのですが、いまは支持しようにも反対しようにも、大学全体を揺るがすような学生運動そのものが絶えて久しいわけで、どうにもなりません。ともあれ、高橋和巳は政治と国家、組織と個というものに深い洞察力をもっていました。少なくとも、当時、私はそう思っていました。その彼が、国家のなりたちについて、やや無骨な言葉で語ったことがあります。

≪「・・・この国家というものはどういうものによって成立ち維持されているかということね。一つには軍隊、機動隊ですよね。もう一つは、表立って、人々の目の前にはいる建物としては裁判所だけど、実はその裏にある監獄ですよね。敗戦の時の経緯を想い出してもわかりますが、まず日本帝国軍隊の武装解除と解体、その次に政治犯の釈放があった。戦後民主主義とか五大改変とか、一切の国家的外飾は、そのあとに出てくる。国家を国家たらしめている根本は、要するにその二つです」(共産主義者同盟赤軍派編『世界革命戦争への飛翔』〔三一書房〕第一部討論・世界革命の現実性をどこに求めるか)。》

 国家を国家たらしめているもの、それは、軍隊と監獄だという。そのことを、一九七〇年、作家・高橋和巳は赤軍派による「よど号ハイジャック事件」をきっかけにした同派幹部らとの座談会で熱をこめて語っています。この発言につづけて、高橋和巳は「だからその監獄の中にはいっているある人を奪還するということは、その組織にとって重要な人を取り返してくるというだけじゃない、もっとものすごい意味を持つ。国家の中枢に刃をたてること、権力の逆鱗に触れることですから」などと述べ、奪還闘争には民衆の支持があるだろう、とまでいいはなったのです。ほぼリアルタイムにこれを読んだとき、私は多少の違和感をもちましたが、なにをばかなことを・・・とまでは思いませんでした。国家を実体的な暴力装置と同一視する傾向は、吉本隆明氏の『共同幻想論』が六八年に発表されていたとはいえ、当時それほど珍しいものではなかったからです。ところが、いま再読すると、著名作家が赤軍派にこれだけの共感を寄せ、それを世間に隠しもしていなかったということに、ある種、複雑な驚きと今昔の感を禁じえないと同時に、いやはや、論理が単純すぎるなあ、恐ろしいことをいっているわりにはなんだか悠長だなあ、という印象をもってしまいます。高橋和巳という人物を好感する気持ちに変わりはないのですが・・・。
 軍隊や監獄という実体は、しかし、視覚的に露出した国家の一面にすぎないのではないか。いまはそのように思うのです。国家というのは、じつのところ、不可視の観念領域を隠しもつ、もっと手に負えない、もっともっと恐ろしいものなのではないでしょうか。国家論には、見た眼だけではない、射程の長い想像力が必要だ、と私は思います。国家を国家たらしめている二大装置が、軍隊と監獄だというのなら、反国家の立場をとるには、ひたすらこれらに対抗する暴力あるのみ、ということになりかねません。実際、かつての新左翼組織の一部は、実体的国家論のもとに、一時期、もっぱら対抗暴力を構築する運動にこれつとめたことがあります。けれども、たとえば、エンゲルスの国家論は、右のような実体論とはずいぶん異なります。次のくだりを、私は若いころ、何度も線を引いて読んだ記憶があります。が、やはり少しばかり実体的国家論にとらわれていたせいか、抑圧機関のところにばかり眼がいっていたような気がします。今回再読してみて、含意の深さに感じ入ったことです。マル・エンって、若いころより、尾羽うち枯らしつつあるいまのほうが、しみじみわかります。余計なことですが、これも今回の発見でした。

《「ひとびとは世襲諸君主制国にたいする信仰から解放されて、民主的共和国を信奉するようになりでもすれば、まったくたいした大胆な一歩をおし進めたかのように思っている。しかし実際には、国家は、一階級が他の階級を抑圧するための機関にほかならず、しかもこのことは、民主的共和制においても、君主制におけるとすこしも変わりはないのである。もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわいであり、このわざわいは、階級的支配を獲得するための闘争で勝利をえたプロレタリアートにもうけつがれる」(『フランスにおける内乱』のエンゲルスによる序文)。》

 要諦は、国家とは一階級が他の階級を抑圧するための機関にほかならない、という実体的機能の説明だけにあるのではありません。むしろ、味到すべきは、「もっともよい場合でも、国家はひとつのわざわい」である、という個所でしょう。最善でも、国家はひとつの災い---私はこれ以上的確な国家論を知りません。思えば、国家とは、われわれにろくなことをしたためしがないのです。民主的共和制だろうが、国民国家だろうが、そのお慈悲は、戦争や他民族の抑圧など巨大な災厄に比べれば、ほとんどなきに等しいものではありませんか。エンゲルスはこの序文でさらに、プロレタリアートが国家の災いの最悪の部分を切り取り、「ついには新しい自由な社会状態のもとで成長した世代が、国家のがらくたをごみために投げすててしまうときがくるだろう」と、国家の死滅を予測したのですが、いうまでもなく、そんな時代は一度としてやってこなかったのであり、国家はごみために投げ捨てられるどころか、逆に、われわれのほうが、国家によって、がらくたとしてごみために投棄されそうな雲行きです。国家は、つまり、依然、最もよい場合でもひとつの災厄でありつづけているのであり、今後とも、とことわにそうなのではないかと私には思われます。日本という国もまた、その例外ではありえません。

 日本国憲法は「反国家的」である

 ここで、国家を永遠の災厄とする考えにくみするのならば、なぜ、この国の表象のような憲法を受容するのか、という冒頭の問いに戻ります。私の正直な答えはこうです。それは、この憲法の根幹が、言葉の最もよい意味において、すぐれて「反国家的」だから、です。国家の表象が反国家的とは、なんと素敵なことでしょう。
 国家とは可変的なものですが、内側に対し抑圧の機能をもつだけでなく、ほぼ法則的に外側に対しては戦争構造をとりたがるものです。いや、突きつめれば、国家とは観念と実体の戦争構造そのものをいうのかもしれません。エンゲルスのいう「もっともよい場合」でも、すなわち、平時にあってさえ、国家は外部に対し、潜在的戦争状態を
維持しているものです。それに対し、日本国憲法は、いまさらなぞる必要もないことですが、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)とうたうのです。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、いったいなんでしょうか。私にはよくわかりませんし、憲法制定時の日本国民がそれを「深く自覚」していたようにも思えません。けれども、指し示すものが、国家の準則などではなく、人間として将来にわたり希求すべき、「非国家的」ことがらであることは、ここでは明白なのです。これにつづく、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」の有名なくだりにいたっては、もはや国連憲章よりもはるかに高い理念性を押しだしており、国家というものの主観的一国性を、よくいえば、超えようとしているのではないでしょうか。国家の「主観的一国性」とは(私の勝手な造語ですが)、国家が法則的にもっぱら一国的利益を求める存在であるがゆえに、客観的には常に他国を前提せざるをえない、換言すれば、他国なしには自国もありえない、という意味合いで使っております。
 この憲法では、前文からすでにして、国家の輪郭が融けているのです。そのことを、私はまったく否定的にはとらえません。反国家性ないし非国家性は、おそらく、この憲法の出自にも由来するわけですが、私としては、それこそもっけの幸いと受けとめるわけです。人間にせよ憲法にせよ、出自決定論に私は反対します。ただ、戦争の勝利を背景につくられた憲法よりも、侵略戦争の惨憺たる敗北をきっかけにつくられた憲法のほうが、”出自”としては、よほどましだと考えます。加えて、「もっともよい場合でも、ひとつのわざわい」であることに変わりのない国家性が、ある意図により、この憲法ではひどく薄められているのですから、出自などどうあれ、このとおりにまつりごとが営まれれば、災いもまた少なかろうと考えるのが道理ではありませんか。私は、だからこそ、国家に全面的に不信を抱きつつも、この憲法を、第一章(後述)などを除いてですが、おおむね受容できるのです。国家の肥大から平和は導きだせません。他国への対抗暴力としての国家性は、いかに観念的といわれ、自虐的とそしられようが、なければないほどいいのです。

 憲法九条---国家による国家の否定

 さて、反国家性の白眉は、周知のごとく、第九条であります。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とは、一万回繰り返し読んでも、大した決意だと思います。前述の高橋和已流の理屈からいえば、「国家を国家たらしめている」二大要素のひとつを、みずから捨てるというのですから、まさに劇的宣言です。世界の憲法史上はじめての、この戦力不保持宣言は、とりもなおさず、国家概念の根本的改変を意味したのだと私は思います。国家に法則的に内在する戦争構造をみずから放棄するということは、当時の役人や民衆にそれだけの自覚があったか別にして、「国家による国家の否定」ともいえるでしょう。私は、そのことを、改憲論者やいわゆる自主憲法制定論者たちのように、屈辱とはとらえませんし、経緯はどうあれ、じつに偉大な決定だったと考えます。
 ところで、吉本隆明氏という人は、小沢一郎の『日本改造計画』をもちあげてみたり、消費資本主義を肯定的に論じてみたり、「ちびまる子ちゃん」を面白がってみたり、私などにはときどきよくわかりかねる一面をおもちの人物ですが、憲法第九条については、意外なほど明快かつストレートです。たとえば、「第九条は戦後憲法の最大の取り柄だと、僕は信じています。第九条の正しさについては、絶対に人に譲れない。この点、だれが何と言おうと頑固です」(『わが「転向」』〔文藝春秋〕)と、決然たるいいかたをしています。また、「僕は長い間、理想的な国家に軍隊は要らないと考えてきました。社会主義がどんなに輝かしい正義であるとしても、いったん国軍を持ったら、もはやその時点で正義は正義でなくなる
と判断してきた。だから、ソ連も中国も、僕は決して理想化したことはありません。国軍を持たないこと、そして国が開かれていること、いざとなれば国民が自由に政府をリコールできる法的装置が整い、国民にその実質的な力が備わっていること、これが僕の考える理想国家の条件です」(同)と強調しています。
 難解なものいいには佳味があり、平明なそれには価値がないというのは、ただの幻想にすぎません。私はこの平明にして率直な表現に、ほぼ全面的に同感します。そして、吉本氏のいう「理想国家の条件」も、やはり、国家というものの、まがまがしい宿命に逆らう、非国家的なるものなのだなと得心するのです。この夢のような「理想国家」の非国家的条件のいくつかを、日本国憲法は見事な成文として備えていたのだけれども、著しく欠いていたのは、それを実現する民衆の意思と力だった。私はそう思うのです。(次号へつづく)



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