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宝島30 1996年1月号
特集 オウム事件「怪情報」すべて検証
もうひとりのカリスマ
武田崇元(八幡書店・代表取締役)
「80年代オカルト」一代記!
あるときはオカルト・ビジネスの成功者。
あるときは大本教の「影の支配者」。
あるときは「霊的革命]を目指す黒幕。
もう一人のカリスマ・武田崇元の実態や如何に!?
小さな世界でのことなのだが、本誌十一月号に載った文明史家・原田実氏の「私が出会ったもう一人の『カリスマ』―武田崇元とオカルト雑誌『ムー』の軌跡」があちらこちらで話題になった。この記事は、一連のオウム事件と雑誌『ムー』に代表される八〇年代のオカルト・精神世界プームとの関連性を、八幡書店代表取締役・武田崇元氏を軸に論じたもので、筆者である原田氏自身、一時期八幡書店社員として、『ムー』に「伊集院卿」というヘンネームで「偽史」関連の記事を執筆していた。
オカルトに少しでも興味のある方ならご存知だと思うが、一九七六年に『地球ロマン」編集長となった武田崇元(当時は武田洋一)氏は、偽史やUFOカルトや近代オカルティズムの生成過程そのものを対象化するマニアックな編集方針で、オカルトマニアを超えた一部の知識層にまで影響を与え、雑誌『迷宮』を経て一九八一年に八幡書店を設立、八〇年代のオカルトプーム、精神世界ブームの中心人物となった。『竹内文献』「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」などの超古代史の原典刊行、大本教・出口王仁二郎の『霊界物語』全八十一巻の刊行、ホロフォニクス(注1)やマインドマシンなどのヴアーチャル体験マシンの制作など、武田氏の動静は常にオカルト業界注視の的であった。
地下鉄サリン事件が発生し、オウム教団によるとてつもない犯罪が明らかになっていく過程で、宗教学者の中沢新一氏がオウムの「革命性」に触れ、「ぼくたちにとって〃霊的ポルシェヴィキ〃(武田氏の造語)が合言葉だった」と発言した。そこに、武田氏の「偽史運動」や「革命運動」などが、麻原彰晃に影響を与えたのではないか、と指摘する原田氏の論考が登場したために、少なからぬ反響を呼んだのだ(武田氏は本誌先月号に寄稿した「これはニュータイプのオカルトだ!」で麻原との関係を強く否定)。
そこで今回は、〃霊的ホルシェヴィキ〃を提唱し〃オカルト革命の黒幕〃とも噂された「もう一人のカリスマ」本人に登場してもらうことにした。
「霊的革命」の誕生
宝島 原田論文が掲載されてからの反響はどうだったんですか?
武田 ある人から冗談まじりに電話があって「いやいや、さっぱりそんな方とは知らないで失礼しました。武田さんて凄い人だったんですね」なんてね(笑)かなわんで、まったく。
宝島 それはどうも失礼しました(笑)では、
「オカルト業界のカリスマ」と呼ばれる武田さんが異端の古代史やオカルトに興味を持つきっかけあたりから、うかがいたいと思うんですが。
武田 これが残念ながら、ガキのときからひたすらオカルト道を目指したとかそういうわけじやない。まあ、僕らの時代は、オカルテイズムというと澁澤龍彦とか種村季弘という時代でね、そういうなかで、シュールレアリスムとか、ドイツ表現派(注2)とかそういう方向からオカルティズムに興味を持っていった。それから日本の伝統のなかにもオカルティツクなものがあるはずだというので、戸来村のキリスト伝説(注3)のようなものがどういうふうにして形成されていったのかを調べたりしているうちに、神代文字(注4)とか『竹内文献』(注5)といった裏文化の世界に首をつっこむようになったわけです。
宝島 学生運勣なんかは、まるで関係ないんですか。
武田 「レッズ」(注6)という映画がありますが、あのインターバルでインターナショナルが流れるとやっぱり今でもジーンときますよね。レーガン大統領も涙を流したらしいですが(笑)。だけど、当時の日本の急進左翼のなかには神秘主義的な衝動というのはじつはそんなになかったと思う。だからそこに飽き足らないものはあったかもしれない。アメリカではオカルティズムとか神秘主義的な衝動と極左急進主義がかなり結びついていたわけですが、日本ではそういう土壌は希だったでしょう。しかもアメリカのそういう状況も後講釈であってね、当時はよくわからんかったですね。
ただ、いま日本では希薄だったといったけれども、当時の日本のサブカルチャー状況というのがすでに歴史に入ってしまっているので、案外と原田君には見えてないところがあって、いちど思いだしながらレクチャーしてあげようかと思うわけですが(笑)、たとえば夢野久作のリバイバルなんて、彼のいうように急進主義が退潮した七〇年代後半からハ○年代初頭ではなくて、ちょうどバリケードが華やかなりし頃なわけです。だいたいが吉本隆明の『共同幻想論』なんてわけのわからんオカルトみたいなもんが流行していたからね(笑)。
宝島 巷では、武田さんがある非常に過激なセクトの黒幕だった、なんて声もありますけど(笑)。
武田 それはもうずっこけちゃいますよね。だいたい年代的にみても、当時の運動の指導層というのはもうちょい上の世代でしょうが。でも、「全共闘運動の崩壊過程を目の当たりにした武田が左翼イデオロギーの限界を知って云々」という原田君の捉え方はカッコイイので、まあそう思いたければ、そうしておけばいいじやない(笑)。
宝島 レーニンなんて読んだりしなかったんですか?
武田 どちらかというとトロツキーですよね。赤軍の創設者でありながらアンドレ・ブルトン(注7)と交流があったり、非常にカッコイイですよね。だから『虹色のトロツキー』(注8)という漫画は愛読していて、満州が舞台で、石原莞爾(注9)、植芝盛平(注10)、出口王仁三郎でトロツキーというとやね、これはまったくおたくの世界ですから(笑)。
宝島 では、「学生運動の崩壊を目撃した武田さんが霊的な革命に目覚めた」という文脈は、いったいどこから出てくるんですか。これも「カリスマ」に対する深読み、裏読みですか。
武田 そもそも僕は、急進主義運動の崩壊について深刻に考えて、どうこうしようなんていうご苦労さんな人間じゃないですよ。たしかに方法論として、ヴィクトル・セルジュのロシア共産党の党内闘争史やさまざまな反対派の歴史とかコミンテルンの歴史というのは、いまでもきっちりと頭に入っていて、そういう観点からのアナロジーとして、たとえばUFOカルト(注11)や戦前の日本右翼のイデオロギー論争(注12)の分析をしていったわけです。その道のおたくにはわかるんですが、僕はよく反対派というタームを使っていて、これは左翼反対派とか労働者反対派というボルシェヴィキ党史の用語から由来しているわけね。
合言葉は〃霊的ボルシェヴィキ〃
宝島 武田さんがやっていた『地球ロマン』のショックというか、あの雑誌が果たした役割は大きかったんじゃないですか。あれでオカルトにハマった人を何人も知ってますよ。
武田 あれは、かなりインテレクチュアルな層を狙っ
たわけで、大衆性はなかったけれど当時の文化状況に対するインパクトはあったと思いす。まあ、それまでのオカルティズムというと、澁澤龍彦さんなんかの非常に洗練された美学評論のようなものはあっても、近代オカルティズムの問題は抜けていたし、ましてや神道系の偽書とかは誰も知らなかった時代。僕はなまなましい生きたオカルト運動史や近代の伝説のようなものが生成されるカ学に興味があって、それまでの情報系からはまったく埋もれていたものをきちんと対象化して提出したという自負はあるわけです。
宝島 『日本のピラミッド』(注13)というのは『地球ロマン』の前ですか?
武田 そう。原田君の深読みでいちばん困るのは、あのパロディめいた本を読んで階級意意識に覚醒してやね、世界革命を志そうなんて奴はありえないわけ。そんなこと期待して仮に真面目に僕が戦略を立てていたとすれば、これはほんまもんのぷっつんですがな(笑)。
宝島 そもそも武田さんの神道霊学(注14)への入口は、どのあたりになるんでしょうか。
武田 関心としては偽史が最初にあって、それからです。本格的には、もっとあとで『出口王仁三郎の霊界からの警告』を書く過程で、いろいろと再整理していったわけです。
宝島 『地球ロマン』でも、王仁三郎を正面きって採り上げてはいませんでしたね。
武田 言霊学(注15)とか本田親徳(注16)とか周辺から攻めていたわけ。ずっと周辺ばかり掘っていた。周辺を眺めていると、王仁三郎に関わったさまざまな人脈とかも見えてくるし、あの時代の状況もそれなりに見えてきた。戦前の右派陣営でも官僚派、浪漫派、神代史派の三っ巴になった戦いがあったわけですが、でも、そんなこと近代史学のなかでも忘れられていた。
そうした世界に触れて、裏の文化の文献を読み漁ったりしているうちに、それまで僕が引きずっていた左翼的な母斑みたいなものから、ぐっと右の方に振れていったわけです。
宝島 〃霊的ボルシェヴィキ〃ということを提唱されたのも、その頃からですか?
武田 うーん、……『ヘヴン』とか、そんな雑誌のインタビューあたりだったかな。ハタと気づいたのは、右翼や民族派を自認する人たちも、結局は浪漫派でしょ。もちろん三島由紀夫はいいけど、やっぱり浪漫派じゃない,でも、浪漫派に拮抗していた、いわゆる霊的国体原理派(注17)の歴史みたいなものが忘れられている。ひとっはそういうところとか、戦前の大本(教)運動総体を眺めていくなかで、そういう言葉が出てきたわけです。
家島 それを左翼運動に代わる新しい革命のアジテーションだと捉えた人たちがいた。中沢新一さんなんかもそうでしょう。
武田 なんと捉えてもらってもいいわけですが、僕はサリン事件直後の『週刊プレイボーイ』の中沢さんのインタビュー読んで、びっくりしたんです。八〇年代の西麻布にニューアカとオカルトのサロンがあって、そこでのキーワードが「霊的ボルシェヴィキ」とか「霊的革命」であったなんてまったく初耳なわけ。へーぇ、わしの一言がそんなに影響力あったの、という感じでね。
中沢さんによれば、霊的ボルシェヴィキという言葉は、ナロードニキ的なものとボルシェヴィキ的なものを合体させている、一言でいうと「ロシア」という意味だったというわけで、その伏線として、麻原がロシアと密接な関係をもったのは偶然ではない、ロシア型のマルクス主義思想にはオウムの思想に通ずるものがあるというようなことをいっておられるわけです。霊的ボルシェヴィキとか霊的革命とかいう言葉をめぐって、こんなおかしな解釈があるとは、狐にっままれたような気分なわけです。
宝島 本家としては困ってしまう(笑)。
武田 まあ、身魂相応にお取りになったのだとは思いますが、最近の鎌田東二氏と中沢さんの対談を読んでわかったのですが、そもそもマルクス主義に対する中沢さんの理解そのものが、おかしい。ソ連国旗の「鎌とハンマー」の図柄には深い思想的意味があって、文明を都市的色彩じやないものにしなくてはいけないという意志がこめられていて、それを極端な形で表出したのがポル・ポトだとかね。
どこからそういう論が出てくるのか、ボルシェヴィズムというのは都市化そのものでしょう。そんなのトロッキーの『アメリカに革命が起こったら』(注18)という論文を見ればすぐわかる。ポル・ポトなんて、正統な国際主義(笑)の伝統からいえば、バーバリズムです。
ボルシェヴィキという感覚は、神道霊学的にいうと立て分けと歴史継承なんです。ところが左翼小児病の急進主義者は反ブルジョア的なものならなんでも歓迎したり、煽りたてたりするわけ。その挙げ句がポル・ポトでしょう。これと同じく、オカルト小児病患者は反近代とか非合理なものであれば、その中身を問わずなんでも歓迎して評価してしまう。霊的ボルシェヴィキといったことのさらなる意味は、まさにそういうオカルト小児病、反近代小児病患者に対する批判だったわけです。これがわからん人は、すいっと『アーガマ』に行ってしまうし、麻原みたいな野郎と三島由紀夫、北一輝、石原莞爾、出口王仁二郎までを一緒くたにしちゃうわけでしょ。そういうズブズブの感覚というのは、懐かしい言莱でいえば社民の感覚ですわな(笑)。けっしてボルシェヴィキ的感覚ではない。そのあたりの落差がすごくあるのを感じます。
出口王仁三郎伝との出会い
宝島 そういえば、武田さんは一時期、新右翼の人たちと霊的ボルシェヴィキ党という組織を作ってたそうですけど。
武田 そういうキッチュな名称を名乗ったことはありませんが、いわゆる民族派の人たちとの交流はありましたということにとどめておきましょう。まあ、当時のうちの本なんてそのまま見りゃ右翼の本じやないですか(笑)。
宝島 『神日本』(注19)とか。
武田 そうそう。僕の関心が民族的なもの、フェルキッシュ(注20)なものというか、戦前に向いていた部分というのがある。王仁三郎も含めてね。だいたい僕は一九八三年に出口王仁三郎の本を書いたわけですが、戦後の王仁三郎論というのは、宗教学者の村上重良さんの『出口王仁三郎伝』がべーシックなものとしてあって、王仁三郎の入蒙ですとか満州国との関わりとか内田良平(注21)とやった昭和神聖会連動(注22)といった、戦後的な価値観からするとマイナスの部分を、出口王仁三郎の限界であり、主観的善意はともかくとして客観的には軍部に利用されたとして切って捨てていたわけです。それを僕は、へえー、なんちゅう敗北主義やろ、どこが悪いの、という素朴な疑問から出発したわけです。ここらあたりから、逆に僕なりに近代日本史の再点検の必要性を感じた。たとえば満州事変にしても、中国プロレタリアートの利害からすれば、中国軍閥の支配にあるよりはむしろ日本の支配下にあるほうがまだましなんじやないかと、当時のエスペランティストで国際主義者のランティという人なんかは言っていたわけです。
それで、あの本は大衆的窓口で予言を軸として王仁三郎を書いてくれという話だったのですが、無理に巻末に「霊的革命者・
出口王仁二郎」というのを入れてもらった。これはじつは王仁三郎こそ日本民族派の本流であるべきではなかったかということを示唆したものだったわけで、まあ、これが霊的ボルシェヴィキというキヤッチコピーのひとつの背景でもあったわけです。いまではまた、王仁三郎に対する理解も違ってきてはいますが、当時としてはそういうことだったわけです。
宝島 ちょうど、荒俣宏さんも「霊的国防論」という論稿を書いたりしてましたね。
武田 霊的国防というのは友清歓真(注23)の言葉であって、荒俣さんとそれとの関連はよくわかりません。いずれにしても、原田君にしても中沢さんにしても議論の根底が狂っているのは、地下鉄にサリンを撒いたり弁護士一家を殺害するというのぱたんなる刑事犯罪であってしかもそういった犯罪行為と切り離しても、オウムというのはしょせんは底の浅いまったくお粗末な集団じゃないですか。思想や大義なんてありやしませんよ。ところが中沢さんは、どんな心情的思い入れがあるのか、オウムに革命的革志向が伏在していたと見て、その脈絡で当時の自分たちの周辺サークルのキーワードは霊的ボルシエヴィキあったとか言うし、原田君は原田君で反社会的行為の背後には革命思想があるという床屋談義みたいなレベルで引き寄せてくるわけです。力二はおのれの甲羅に似せて穴を掘るといいますが、なんか二人とも妙な革命コンプレックスみたいなものが頭のなかにあるんじやないの、と疑いたくなってくるわけです。