おひさしぶりです またまた、都内高校生のMAVERICKです
ところで、フリーメイソン(まらそん?) って、なんでしょうか?おしえてください 以下、某場所でてにいれた資料 以下は、時系列にまとめたAREA-51の現在までの状況。当然、もっといろいろ有
るでしょうが。。。 1942-45 5000Feetと7000Feetの2本の滑走路(Dirt Landing Strips)がGroom Dry Lakeの
東の砂漠上に建設される。これは、 ネリス空軍基地の訓練用として使われ、第2時世界大戦の終了により一旦閉鎖さ れた。 April 1955 1955年の春、当時ロッキードのテストパイロットをしていたTony
LeVierが、 Skunk Worksのケリージョンソン (Kelly Johnson)の命令で、U-2のテスト場所としてGroom Dry Lakeを見付ける。
ケリーは、CIAとの話し合いの結 果、Groom Lakeの南端に滑走路を建設する事を決定。 7月、80万ドルを掛けて3つの格納庫、管制塔、大食堂、滑走路、多数の移動住居
施設を建設。この時の空軍基地 名はWatertown。 7月24日、第一号機のU-2プロトタイプが、バーバンク(Burbank)のロッキード (Skunk
Works)からC-124輸送機によ ってGroom Lakeへ輸送されてくる。 8月4日、Groom Lakeに於いてのU-2 First fligft。
8月19日、制令No.10633に当時のアイゼンハワー大統領が署名した事により、 Groom Lake上空のテスト空域が拡 張される。(一般に言う、ラスベガスProject。)これにより南端はラスベガス
上空に達する。その後一部緩和。 11月17日、バーバンクからの輸送機C-54が、チャールストン山(Mt.Chaeleston) に衝突し5人の軍人と9人の民間技
術者全員が死亡。 Fall 1956 Groom Lakeにおいて、SACからの5人のパイロットがU-2の訓練を開始する。 Spring 1957 4月4日、U-2の1st
protptypeであるNo.341がPioche近くでRadar Jamminngテスト 中に事故を起こしパイロットが死 亡。 この年の4月24日の朝に、Watertownに隣接するAREA-13においてProject-57が行
われる。ただし、1988年のロシ アの偵察衛星の画像によると、24000年の半減期を持つプルトニウムの為に、汚 された土壌とArea-13からの残骸 はネバダ・テスト・サイト内におかれたままとなっている。
Project-57とは、XW-25核弾頭による、安全性実験。爆弾としてではなく事故な どで損害を与えられたメガトン クラスの核弾頭を、他の高性能爆弾を爆発させる事によって破壊し、内蔵されて
いるプルトニウム等を広範囲に 散らばらせて爆発しないようにする、、という浄化方法としての実験。 June 1958 6月20日、Roger Ernst(ロジャーアーネスト)副内務長官によるPublic
Land Order No.1662により、原子力委員会 によってGroom Lake38400エーカーの制限区域が追加され、ネバダTest Siteと繋
がれる。 November 1959 1959年11月、A-12の原寸大モックアップがRader Signature Testの為にトラック でGroom
Lakeに運び込まれる。 1960 9月上旬、CIAによるA-12 Oxcart Programが開始され、Groom Lake周囲の建築物 が拡大されはじめる。(1964年半
ばまで続く。) 9月7日、5000Feetの滑走路を8500Feetにするべく作業が開始され、11月15日に終 了。 1961 8月11日、新たに作られたR-4808空域により、Groom
Lake とTest Siteをカバー する様になったが、高度は60000Ft までに限定されている。 1961年終り、USAFのRobert J.Holbury大佐が、Groom
Baseの指揮官に任命されて いる。 この年、今までのWatertownという基地名から、正式にAREA-51(Code Name Dreamland)に指名されている。
1962
1962年初頭、燃料タンク施設が1.320.000ガロンの容量で完成する。 1962年1月15日、空軍省からの要請でGroom Lake周囲の機密エリアは
22nm(nautical miles)に拡大され現在と同様の 「Groom Box」を形成するようになっている。現在のネリス地図 1962 2月26日、最初のA-12
Blackbird(#121-at Area51 hanger前)がテストの為に運 び込まれる。 4月26日、Groom Lakeに於いてのA-12 BlackbirdのFirst
Test Fligftが行われ る。 1963 2月、CIAのA-12テストパイロット5人が到着。 (Collins,Ray,Skliar,Sullivan,Walter)
5月24日、A-12(No.123)が、機体への着氷の為にWendoverの14マイル南に墜落。 パイロットのCollinsは脱出して 無事。 7月20日、A-12がテスト中初めてMach-3を記録する。
8月7日、YF-12A #1002(A-12を元に設計されたMach-3級の迎撃機)がGroom Lake における1st FLT。 1964 7月9日、A-12
#133が、Final Approachで事故。パイロットのParkは、高度500FT という低高度からの脱出にもかか わらず生還する。 1965 1965年初頭、Groom
Baseの基地人口は1835人に達する。 12月28日、A-12 #126が離陸後すぐに墜落するが、パイロットのVojvodichは脱出 して無事。 1966
3月5日、ポイントマグー(Point Mugu)近くで、Blackbirdから切り離されたD-21 DroneがFree Fligftに成功。D-21 画像
7月30日、Point Muguへ向けて発射されたD-21 droneの迎撃訓練中に、誤って A-12 #135が撃墜される。2人のクル ーは脱出したが、一人は海から救出される前に溺死した。(将来のD-21の発射
は、全てB-52から行われる。) 1967 1967年、Program「Have Doughnut」(ドーナツ食べろ?)が、開始される。これ は、国防情報局(Defense
Intelligence Agency)によって、MIG-21という初の仮想敵国戦闘機がGroom Lake に持ち込まれた。これは、今日に 至るまで進行中の(MIG)テストプログラムの始まりである。
1月5日、A-12 #125が、Groom Baseの70Mile東で燃料切れにより墜落するが、パ イロットのRayは、脱出後Seatか ら体が離れず死亡する。
1月10日、A-12に替わり、RS-71(今で言うSR-71)へのシフトが決定され、1968 年1月までにA-12の退役が行わ れる計画となる。(ちなみにSR-71というのは、大統領が公式の場でRS-71を
SR-71と言い間違えた為に仕方な く付けられた呼称。いずれ機会があれば詳しく書きます。) 5月22日、A-12が、沖縄の嘉手納基地に初の海外展開を行なう。これは、北ベト
ナムへの偵察飛行の為の前進基 地として嘉手納を使用する為。 1968 6月21日、A-12 #131のラストフライト。Groom BaseからPalmdaleまでの飛行後、
A-12は全機、秘密の倉庫に入れ られ現在にいたっている。 8月28日、アメリカ地質調査局(US Geological Survey)は、標高が高い場所の調
査の一部としてGroom Lake周辺の 写真を撮影した。この写真が、政府によって隠蔽される1994年までNetwork上な どでも流れていた物である。 1977
11月16日、湾岸戦争で有名になったF117Aステルス戦闘機のプロトタイプ「Have Blue」(#1001)が、フライト テストの為にGroom Lakeに送られてくる。
12月1日、Groom LakeにおけるHave Blueの1st FLT。 1978 5月4日、最初のF117 prototypeにはLanding Gearに故障がありクラッシュしてし
まう。 7月20日、F117 Proto 2号機(#1002)が1st FLT。 1979 7月11日、プロトタイプ2号機(#1002)がエンジン火災の為、Groom
Baseの北西35 マイル地点に墜落。 1981 5月、初の量産型F-117AがGroom Baseに空輸される。 6月18日、Groom BaseにおけるF117A
Stealth Fighter(#780)の1st FLT。 1982 2月、Tacit Blue(Demonstrator for stealth technology)タシットブルーが初フ
ライト。 4月、A-12の存在が軍事機密から外される。 4月20日、F-117Aの生産モデルが空軍の承認テスト中に墜落する。 10月15日、F-117Aの生産2号機で承認テストが再開される。
1982年終り、F-117Aによる最初のステルス爆撃機戦隊がTonopah(トノパ)Test Rangeで稼動しはじめる。 1983 4月18日、4人のグリーンピースの抗議者が、AREA-51の南側から侵入。5日間の侵
入を許す。 6月、HALSOLと呼ばれる太陽電池による高々度飛行用の実験機が1st FLTに成功。 このプログラムは2ヶ月間で終 了。 1984 3月、空軍が、Groom
Lakeの東と北の(不当に住民から没収した)89000エーカー の要所に、武装した軍を配置 し、一般人の侵入を警戒する。 4月26日、ロバート・ボンド将軍(Robert
Bond)が、ネバダテストサイト内の Little Skull Mountain付近をMIG-23によ って飛行中に死亡。 8月、議会聴聞会で、土地没収に関して、空軍代表者John
Rittenhouseが釈明。 1985 Tacit Blue Program(タシットブルー計画)終了。 1987 12月、議会は最終的に、空軍の土地没収を公認してしまう。
1988 7月17日、ソビエトのスパイ衛星が、後に出版物に掲載される事になる、Groom Dry Lake周辺の衛星写真偵察を 行なう。 1989 5月、問題のKLAS-TV事件。Robert
lazarが、ラスベガスのKLAS-TV局で、 SpacecraftのReverse Engneerとして軍 当局に雇われていたと述べる。(アメリカ政府は、後に激しい揉み消し工作に出
る。) 1993 10月18日、空軍は、官報(Federal Register)の中で、Groom Lakeを見る事の出来 る場所(Dreedom RidgeとWhitesides
山頂付近)の3972エーカーに関して、一般人の立ち入りを制限する行動に出ると 記載する。 1994 4月、雑誌ポピュラー・サイエンス(Popular Science)が、過去ソビエトの偵察衛
星の撮ったDreamland/AREA-51の写 真を掲載すると共に、AREA-51に関しての論文を発表する。この時点から、 AREA-51にある施設に対してのメデ
ィア論争が強まる。 1995 4月10日、Freedom RidgeとWhitesides山頂は、全ての一般人のアクセスを公式に 排除した。これは現在も続く。
1996 更に滑走路が延長されていると伝えられている。 |