【田布施システムw】明治天皇すり替え説 フルベッキ写真←大ウソ【大室寅之祐(笑)】
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teinouinbouchuさん投稿日:2014/8/10
明治天皇すり替え説Q&A として分かりやすく論点をまとめました。
どうぞこちらもご覧ください。
明治天皇すり替え説Q&A→http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n346861
皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、という説を聞いたことあるだろうか?
それらは根も葉もない虚説である。
以下の根拠を上げる。
まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。
陰謀論者が明治天皇として広めているこの写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。
伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)
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「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
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親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であられ。
邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は孝明天皇の養子になられており。
伏見宮邦家親王は孝明天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形になっており。明治天皇の皇女は、次々と伏見宮系の王子の妃となられている。
皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す準備をしていたのは明らかであり、中山忠能や摂政の二条斉敬など、孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを支持した人物はいないばかりか、孝明天皇の信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。
かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になっても皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。
顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。
このような状況下で睦仁親王をすり替える事などは不可能であり、絶対にあり得ないことは誰の目にも明らかである。
尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化により欧米の植民地になっていたことだろう。
明治天皇に対し大政奉還した母方が皇族で水戸出身の尊皇家である徳川慶喜が許す訳もない。
それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられない。
何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。
そもそも自分たちの意見で操ることができる、都合のいい幼帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無く
井上毅が世襲親王家を永世皇族とし、それをすり替わったとする天皇が認める訳もない。
当時の明治天皇は14歳の成長期である。
成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される。
身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。
ましてや激動の時代に天皇位ともなれば、即位に伴う精神的変化は劇的なものであった事は察するに余りあり、その事は何の根拠にもならない。
それに明治天皇は御所言葉をお話になられており、御所言葉を一朝一夕で覚えられる訳もない。
陰謀論者はフルベッキ写真に明治天皇が写っていると言うがフルベッキ写真が明治維新の
立役者が全員そろった写真であるという奇説は、それを覆す原版の発見によって、完全に否定されており。
さらに、東京歯科大学法人類学教室の橋本正次教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント別人という鑑定が『鑑定書』付きで出ています。
「維新」の根拠となる、天照大神の神裔、神の血統である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる後南朝にすり替える理由もない。
明治44年に明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、光厳天皇から後円融天皇までの 5代5人を北朝として正統から外したが、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等においては天皇として扱われている。
明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであり、そのことは最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した明徳の和約までを否定するものではない、
したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定するものでもない。
南北朝正閏論は「南朝も正統」あるいは「南朝は正統」であって、熊沢寛道など自称南朝後胤を除きいわゆる後南朝の正統性は明治時代の後でも議論にもなっていない。
第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。
三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。
以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。
【追記】
虎の子という言葉があるが、薩長にとって正しく 睦仁親王は虎の子であった。
しかるに、「君臣豊楽」、「国家安康」の故事を引くまでもなく、政治とは微妙なバランスの上に成り立っている。
かの太閣殿下の堅牢な大阪城・豊臣政権もかくの如く哀れな末路。
このように、どんな一文も攻撃の口実に利用され、どんな政権でも滅ぼされかねないのに、ましてや不安定な時期に親王をすり替えるなど言語道断、政治力学的に不可能である。
仮に、恐れ多くも天子様を傀儡にしたあげく、どこの馬の骨とも知らぬ者にすり替えたとすれば、そのような事はすぐに広まり、尊皇でありこそすれ、引いた徳川、並びに幕臣及び諸藩一党、不倶戴天の敵・逆賊薩長相手に捲土重来・一意奮闘、戦っていたであろう。
1874年 明治天皇第三皇子 大正天皇ご生誕
明治天皇の皇子は男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。
大正天皇ご誕生から昭和天皇ご誕生まで皇統(明治天皇の男系系統)の危機であった。
1886年 伏見宮邦家親王第17王子 定麿王 親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。
1889年 皇室典範 永世皇族制を採用
1901年 大正天皇 第一皇子 昭和天皇ご生誕
1902年 大正天皇 第二皇子 秩父宮雍仁親王ご生誕
1905年 大正天皇 第三皇子 高松宮宣仁親王ご生誕
1907年 皇室典範増補第1条「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」
1908年 竹田宮恒久王と明治天皇第六皇女 昌子内親王ご成婚
1909年 北白川宮成久王と明治天皇第七皇女 房子内親王ご成婚
1910年 朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女 允子内親王ご成婚
全て伏見宮邦家親王の系統の王子。
1915年 大正天皇第四皇子 三笠宮崇仁親王殿下ご生誕
1920年 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」
宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年〜1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。
当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。
事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。
そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。
大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、
皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。
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