列島各地で、展開された安保法案反対デモ。今国会で最大規模となったが、この声を政治家はどのように受け止めているのかーー。(画像はANNニュースより)
今国会最大規模の「安保法案反対デモ」 気になる二極対立のゆくえ
http://biz-journal.jp/2015/09/post_11356.html
2015.09.03 江川紹子の「事件ウオッチ」第36回 文=江川紹子/ジャーナリスト Business Journal
安全保障関連法案に反対する人々が各地で声を挙げている。国会前で行われた抗議行動は、これまでで最高の約12万人(主催者発表)が参加。民意が結集した、という評価の一方で、「デモなんてやってもムダ」と冷笑を浴びせたり、ことさらに過小評価しようとする人たちもいる。
たとえば、維新の党の分裂騒ぎの渦中にある橋下徹大阪市長は「こんな人数のデモで国会の意思が決定されるなら、サザン(オールスターズ)のコンサートで意思決定するほうがよほど民主主義だ」とツイートした。できるだけデモの影響力を小さく見せたいのかもしれないが、あまりにも表層的な見方だ。
各種世論調査を見ても、法案には反対の声が多い。とりわけ今国会での成立には、どの調査でも、反対が圧倒的多数となっている。8月30日には国会前以外にも、全国300カ所以上でデモや集会が開かれたという。デモや集会は、法案に対する国民の懸念や不安や憤りを具現化しているといえるだろう。
橋下発言は、安倍政権との親密な関係ゆえでもあるだろうが、その根底には国民が政治に影響力を与えられるのは選挙での投票行動のみ、という発想がある。確かに、選挙は主権者としての最大の政治参加の機会だが、投票用紙はあらゆる政策についての白紙委任状ではない。さまざまな分野における主張や人物像を総合して、ある候補者や政党に投票しても、人々は特定の政策や政治の運営の仕方に異議を申し立てることができるし、為政者はその声に耳を傾けるべきだ。そういう政権運営を否定し、選挙での獲得議席がすべてというのは、民主主義をあまりに形式的に見過ぎて、その根幹を忘れた論議だ。
たとえば読売新聞の調査では、ここ数カ月法案の内容について政府が「十分説明していない」という声が8割前後と高止まりしている。連日、国会審議が報じられ、安倍首相がテレビに出て長々と語るなど、説明には長時間を費やしているが、それでも国民は「十分説明してもらっていない」と感じている。当初の説明にはなかった事柄が国会での質疑などを通じて見えてきて、「肝心な点が、まだまだきちんと説明されていないのではないか」という不信の根強さを示しているといえよう。
こうした不信感を置き去りにした政治がよいといえるだろうか。
興味深いのが、産経新聞・FNNの最新の世論調査だ。8月15、16日に行われた調査には、こんな問いがある。
<中谷元防衛相は、国会で自衛隊の後方支援について、法律の上では「核ミサイルを運搬することは可能」と発言し、波紋が広がっています。安倍首相は「机上の空論だ」と説明していますが、あなたは、法律に核兵器の運搬禁止を明記すべきだと思いますか、思いませんか>
これに対する回答は、「思う」が69.0%。「思わない」22.8%の3倍以上だ。
政策判断として、首相が「やらない」「ありえない」と言ったとしても、口約束は当てにならない。安倍首相がやらなくても、別の政権になったら何が起きるかわからない−−そう考えている人たちが多いということだろう。集団的自衛権の行使は憲法上認められないとしていた歴代政権の政府答弁も、「安全保障環境が変化した」との理由で、一内閣の閣議決定により覆された。この経緯を見てきた国民の多くは、せめて懸念する点は条文にしっかり明記してもらいたいと求めている。
ところが、政府はそうした声に耳を傾けず、ひたすら法案を原案通りに今国会で成立させる姿勢を変えていない。そうした対応に、抗議行動の現場では政府への反発が高まり、法案への批判のみならず政権退陣を激しく迫るようになっている。国会前の抗議行動でも「安倍やめろ」の大きな横断幕が最前列に掲げられた。
■現場と世論の間の“乖離”
ただ、この点では世論の風向きは異なる様相を見せている。世論調査における安倍政権に対する支持率は復調。戦後70年談話への評価もまずまずだ。日経新聞が8月28〜30日に行った世論調査では、内閣支持率は前月よりも8ポイント高い46%、不支持率は10ポイント低い40%で、「支持」が「不支持」を上回った。
ここに着目すると、抗議行動の現場と国民世論に、若干の乖離が生じ始めているように見える。
60年安保の時には、岸信介首相を退陣に追い込んでも、次の首相となった池田勇人ら6人が総裁選に名乗りを上げた。ところが今の自民党は、総裁選挙も行われる見込みが立たないほど人材が払底。リベラル勢力から期待を寄せられていた谷垣禎一幹事長も安倍首相の続投を支持し、「(安倍首相は)岸元首相の役だけでなく、(「寛容と忍耐」を掲げて低姿勢の政権運営に徹した)池田元首相の役割も果たしてください。敵味方をはっきりさせて安保関連法制を作ったら、次は国民統合を考えてください」などと言い出す始末だ。安倍政権に共鳴できないとしても、その次がさっぱり見えない。そんな現実も、政権を下支えしている。
この現実を直視せず、次のリーダーを押し上げていく創造的なうねりが起きないまま、政権退陣を叫び続けても、現場の感覚と世論の乖離は広がっていくのではないか。それを考えると、一連の抗議行動を過小評価するのは間違いだが、かといって過大に評価するのも違うように思う。
また、こうした抗議行動では、論点が絞り込まれシンプルなスローガンが連呼されるため、複雑な現実が単純化されてしまう傾向があることも忘れてはならない。スローガンはシンプルであるほど力強く響き求心力もあるが、発想が善悪二元論に陥りやすく運動外の世界が見えにくくなる。政権の支持率回復のニュースに、法案反対派の人たちから「信じられない」「何か操作されているのでは」といった反応が返ってくるのは、そうした兆候の現れだろう。
二元論に陥りがちなのは、法案反対派だけでなく賛成派の人にもいえる。権力と同調し、「イエス」ばかり叫んでいると、政府の問題点に目が向けられない。考えの違いを認められず、自分たちは常に正しく異論は間違いという極論に走りやすくなる。
このような極論と極論のぶつかり合いからは、建設的な議論は生まれない。現実に政治を変えていくには、「よい/わるい」といった二元論を超えて、「悪さの程度がより少ない」ものを求め、選んでいくような、複雑で柔軟な発想が必要なはず。自分にとって「ベスト」を実現できることはまずなく、とりわけ野党的立場にある者は、わずかのプラスを獲得するために粘り強い議論をしたり、最悪の事態を避けるためだけに多くの妥協を重ねなければならない。与党的立場の者もそれに応じ、ぎりぎりまで合意を目指す。「政治は妥協の芸術」といわれる所以である。
こうした忍耐を伴う議論や対話を積み重ねてこそ民主政治は成熟していくはずだが、今のように政権側が異論に耳を傾けず、まったく妥協をしようともせず、反対派がそんな政権に「ノー」を突きつけて反目し合っている状況では、熟議は生まれにくい。結局、国会で多数の議席を持つ与党が数の力にまかせて採決し、反対派には敗北感や無力感だけが残ることになりかねない。
揚げ句に、せっかく盛り上がった政治参加の気運がしぼんでいくようでは、民主政治にとって最も重要な選挙での投票率の低調が続くことになってしまう。
今回、多くの人々が法案に強い関心を持ち、懸念や不満を抗議行動への参加というかたちで表したのは画期的な出来事だ。政治を身近に感じ、憲法や国のあり方について真剣に考える契機にもなった。若い世代が自発的に自らの政治的意見を表明する行動に参加したのも、大いに希望を感じさせた。
それが選挙での投票行動に結びつき、多くの国民が主権者としての責任を果たしていく流れにしていけるか否かは、今の運動が次のリーダーを育てたり、デモの会場に来ていない人々にも日本の未来像を考えさせるような、創造的なものに発展していくかにかかっているのではないか。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)