★阿修羅♪ > アーカイブ > 2010年11月 > 21日17時01分 〜
 ★阿修羅♪  
2010年11月21日17時01分 〜
記事 [外国人参政権・外国人住民基本法01] 都合のいい「皇国史観」を脱却し、「事実」に戻れ (柳原滋雄 FAN)
都合のいい「皇国史観」を脱却し、「事実」に戻れ « 柳原滋雄 FAN
http://yanagiharashigeofan.wordpress.com/2009/06/29/tsugou-yoi/

都合のいい「皇国史観」を脱却し、「事実」に戻れ
2009年6月29日

 明治期から戦中までの「皇国史観」により、わが国の歴史は美化され、“捏造”されてきた。その典型が天皇家と韓・朝鮮半島の古代からの古い結びつきであり、同地域を植民地化してきた近代日本において、それらの事実を明らかにすることはタブーにほかならなかった。戦後、そうしたタブーを自ら明確に打ち破ったのが昭和天皇の下記の発言である。それでも、マスコミなどで大きく取り上げられることはなかったようだ。こうした天皇家の認識をさらに踏み込んで発表したのが、現在の今上天皇であり、2002年の日韓ワールドカップ共催という意義深き年を翌年に控え、語った言葉が以下のものである。
 ここでは桓武天皇の母親が渡来人の子孫であった事実を明らかにし、そのことに「ゆかりを感じる」と述べた(いわゆる「ゆかり」発言)。それまで両国の学者にとっては常識的な事柄にすぎなかったが、一般の国民にこうした事実が広く知られていたわけではなく、波紋を呼んだ。だが、これは事実である。
 日本の天皇陵の調査を宮内庁が止めてきたのも、皇室と朝鮮半島との密接な結びつきが明らかになるのを避けるためとも見られてきた。要するに、東アジアの国々は古代から相互に関係しあった共通の歴史を歩んできた間柄であり、互いに離れることができない関係にある。
 結論として、日本の古代社会は渡来人なしには成り立たず、渡来人は日本人の祖先にほかならなかった。
 そうした渡来人がどの程度の規模で来日したかについては、関晃氏が昭和31年の時点ですでに明らかにしており、当時の支配層の「約3割」と結論している。8世紀末の人口がおよそ600万人と推定する説に従うと、そのうちの200万人が渡来人であったという考え方でよいと説明する学者もいる。
 現在、我が国では1〜2%の外国籍住民が存在するが、当時の比率はそれとは比べ物にならない。いまの感覚でいえば、国会議員・霞が関の役人の3割が、韓・朝鮮半島から来た渡来人だったということになろうか。
 両天皇の言葉に示されているように、韓・朝鮮半島と密接な関係史をもちながら、近代には「不幸な過去」があった。こうした過去を払拭し、両国間に健全な関係を構築することこそが、両国のあるべき姿であろう。
 それどころか逆に、戦前の「皇国史観」思想にマインド・コントロールされたままの者たちがわが国にも最近しばしば見られるのは、≪過去の正しい歴史≫を教えてこなかった日本の歪んだ文部行政(=教育行政)から生まれた必然的な現象にほかならない。

■昭和天皇の発言(1984年9月6日、韓国・全斗煥大統領訪日時の宮中晩餐会)

 顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は、貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば、紀元6、7世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、我が国人に対し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります。永い歴史にわたり、両国は、深い隣人関係にあったのであります。このような関係にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。(9月7日付、毎日新聞)

■現在の天皇の発言(2001年12月23日の68歳の誕生日に先立って行われた記者会見)

 日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があります。
 こうした文化や技術が日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。(12月23日付、朝日新聞)

http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/637.html

コメント [マスコミ・電通批評11] ネットユーザーへの受信料支払を画策するNHKの愚 (暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜) pochi
05. 2010年11月21日 17:10:31: pvvDpfu7rM
NHKは法に守られて事業を続けるのでなく、WOWWOWのように、本当に見たい人にお金を頂くという方式に帰るべきである。さうすれば、自らを自制し、国民の為になる真実の報道に目覚めるであろう。あるときは政府のご機嫌取り、あるときは視聴者への裁判沙汰の徴収行為。もうええ加減にしないとNHK解体論民営化議論になるよ。そうすると社員を抱えきれなくなる。ざまぁ、みろ!という言葉が聞こえてくるよ。早く官僚体質から民間レベルに変えな?
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/238.html#c5
記事 [昼休み44] 自民党が、参議院で、テルアビブ問責乱射事件を起こすようで、その前に仙谷の首を差し出す事をお勧めします。
■▲▼
【5:280】【政治】自民 、参議院に複数の閣僚に対する問責決議案を提出する方針
1 名前: ◆ALONE.ghag @歩いていこうφ ★ 2010/11/17(水) 23:30:02 ID:???0
民主党と自民党の参議院国会対策委員長が会談し、自民党は「菅内閣の閣僚の対応にはあまりにも
問題が多い」などとして、参議院に、複数の閣僚に対する問責決議案を提出する方針を伝えました。

この中で、自民党の脇参議院国会対策委員長は、尖閣諸島沖の衝突事件や柳田法務大臣の国会答弁に
関する発言などについて、参議院予算委員会で集中審議を行う必要があると提案し、民主党の羽田
参議院国会対策委員長もこれを受け入れ、週明けの22日に行うことで合意しました。

また、会談で、脇氏は「衆議院で仙谷官房長官らに対する不信任決議案は否決されたが、菅内閣の
閣僚の対応にはあまりにも問題が多く、問責決議案を提出することで自民党内の思いは一致している」
と述べ、参議院に複数の閣僚に対する問責決議案を提出する方針を伝えました。このあと脇氏は、
記者団に対し「柳田法務大臣の発言問題など、菅内閣の閣僚の発言や行動は閣僚にふさわしくない。
複数の閣僚に対して問責決議案を提出することを検討しており、ほかの野党にも考え方を聞き協力を
求めたい」と述べました。

ソース:NHK   http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101117/k10015309141000.html


http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/225.html

記事 [昼休み44] 自民県連、衆院候補選び応募低調 目標の年内決定困難も
2010年11月14日(日) 山梨日日新聞

http://www.sannichi.co.jp/local/news/2010/11/14/3.html

 自民党の次期衆院選公認候補となる衆院山梨1〜3区支部長の公募は、20日の応募締め切りまで1週間となった。これまで県連に届いた推薦書は数件だけ。中には応募がない選挙区もあるといい、低調な応募状況となっている。

 皆川巌幹事長は「まだ模様眺めの段階。応募は締め切り間際に集中するだろう」と推測。2区に応募する考えを表明している長崎幸太郎前衆院議員が15日以降、手続きを取るほか、1区支部長への復帰を目指す赤池誠章前衆院議員も16日に後援会の会合を開いた上で申し込む考えで、今後、公募をめぐる動きは本格化するとみられる。

 ただ、応募が低調となっていることについて、1区県議は、同区は民主党の公認候補が小沢鋭仁前環境相になることを念頭に、「閣僚経験者が相手になるので、そう簡単に名乗りを上げられないのかもしれない」との見方を示す。

 夏の参院選山梨選挙区で善戦し、1区、2区両方で名前が挙がる宮川典子氏(31)=山梨市=は他薦される可能性が高いとみられているが、自ら応募するかについては「衆院選を目指すことも一つの考え方としてはあるが、今は熟慮している」と話すにとどめている。

 県連は予定通り、20日に応募を締め切った上で、各選挙区の県議や市町村支部長らで構成する「選考・擁立委員会」による審査を行う方針。ただ、応募状況が低調のまま推移すれば、「目標としている年内の支部長選考ができなくなる可能性がある」(自民県議)との声も上がり始めている。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/226.html

記事 [昼休み44] 自民衆院候補公募に37件 山梨1〜3区 低調一転、年内選考へ
2010年11月21日(日) 山梨日日新聞

http://www.sannichi.co.jp/local/news/2010/11/21/3.html

 自民党山梨県連(堀内光雄会長)は20日、次期衆院選の公認候補となる衆院山梨1〜3区支部長の公募を締め切り、計37件の応募があったと発表した。郵送分は20日の消印有効で、件数は増える可能性がある。「選考委員会の開催直前まで応募書類の封を開けない」(県連)ため、応募者の年齢や男女別などについては不明としている。

 選挙区別では山梨1区が14件、2区が15件、3区が7件、選挙区不明が1件。同一選挙区、または複数の選挙区をまたいで同一人物が重複して他薦されている可能性もある。

 今後、年内の支部長決定を目標に、選挙区ごと20〜25人の「擁立・選考委員」による選考作業を行う。選考では各委員が交渉優先度の順位付けを行った上で、総合得点の高い順に対象者と面談する。仮に複数の選挙区で同一人物が同順位となった場合は、本人の意向なども踏まえて県連が調整する。

 3選挙区の擁立・選考委員は地元県議のほか、市町村支部長らが務める。「党本部とも連携を図る」(県連)として、党本部から派遣される国会議員1人も加える。

 同日までに赤池誠章前衆院議員(49)が自薦で1区に応募したほか、長崎幸太郎前衆院議員(42)が2区に自薦で応募した。今夏の参院選に立候補して善戦した宮川典子氏(31)は1区と2区での他薦が有力視されている。

 県連は11月1日から公募を開始。応募数は当初伸び悩んだものの、後半に集中したという。昨年実施した参院選候補の公募の際は、15日間で応募は19件だった。皆川巌幹事長は「予想よりも応募が多かった」との認識を示し、「民主党政権への失望から自民党の支持率が回復してきた影響かもしれない。擁立・選考委員には当選の可能性が高い人を選んでほしい」と話した。

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/227.html

コメント [マスコミ・電通批評11] 転載:朝日新聞が国民新党の定例記者会見に出入り禁止になった 888(スリーエイト)
31. 2010年11月21日 17:21:19: 5tDVjS9gmU
2様
小泉政権でアメリカ従属が酷くなった。
たぶん、日本国民のほとんどはアメリカの意向にそって、
洗脳されていると思います。野党も与党も垣根がなくなった印象です。
政治が自立してない。日本は衰退です。
国内から財産が消えてゆく〜雇用も、農業も・・・
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/235.html#c31
記事 [外国人参政権・外国人住民基本法01] 思考能力乏しき「エセ右翼」の妄説  2 (柳原滋雄 FAN)
思考能力乏しき「エセ右翼」の妄説  2 « 柳原滋雄 FAN
http://yanagiharashigeofan.wordpress.com/2009/06/20/shikounouryoku-toboshiki-2/

思考能力乏しき「エセ右翼」の妄説  2
2009年6月20日

 先月末日、小生は都内で開かれた民団系主催の外国人参政権を求める市民集会へ取材に出かけた。地下鉄を出て会場までさほど距離のない道路上で、右翼らの盛んなシュプレヒコールなどを目にすることになった。そうした活動を続ける団体について、一昨日、朝日新聞が紙面で取り上げていた。西部本社版でその記事を読んだが、ある右翼が自身のブログ上で以下のような言説を掲げていた。

(引用開始)
 「行動する保守運動」が今回、東京都中央区で開催された在日韓国人らの「外国人参政権を求める」集会への抗議行動で見せた怒りとは何なのか?
 それは個人の怒りではなく、日本民族としての怒りなのです。
 朝日新聞社はどうもそこを履き違えているようです。個々には個人的な感情から「在日コリア」が嫌いだという人もいるかも知れません。しかし、多くの人は日本国家を構成する一員として、民族の怒りを表明したのです。
 そこを理解出来ない朝日新聞社は次のように記事を書いています。
 「在特会のように一緒に何かと対決する形で結びつく人たちがいれば、もっと緩やかに、別の形でつながっていこうとする人達もいる」
 在特会との対比で、その後の記事でNPO法人の『自立サポートセンター』を紹介しているのが、それが何よりの証左なのです。
 我々は日本人であるという自覚に欠けていた。しかし、国家・民族の危機を前にして、多くの若者が目覚め立ち上がってきた。
 古今東西の歴史を見ても、国家・民族が危機に瀕した時に、先ずは先鋭的な運動が起きています。
 その兆しが今の時代ということなのです。そこを理解しない限り、「行動する保守運動」の真髄を理解することは不可能です。(引用終わり)

 上記によると、彼らが外国人参政権に反対するのは「日本民族としての怒り」からという。では、彼らの主張する「日本民族」とはいったい何であろうか。上記の街宣行動では、「日本から出て行け」とするあからさまな言葉も飛び交っていた。
 私の理解では、日本民族は、朝鮮半島出身者との“大量混血”の結果生まれた民族にすぎない。その意味では、我々はみな、コリア系日本人にほかならないのだ。
 古代の弥生文化のころから、朝鮮半島から多くの「渡来人」が日本に渡り、文字や稲作、文化などを日本に住む人々に伝えた。そうした人々と多くの「混血」を繰り返してきた結果が現在の日本人の姿であり、天皇家も例外でない。天皇家自身がその事実を認め、公式にアナウンスもしているからだ。その意味では、われわれ日本人には、そうした古代からの韓国・朝鮮人の血が色濃く流れている。
 要するに、日本民族は、2000年単位でみれば、「コリア系日本人」の総称にすぎない。そうしたなかの一部の錯覚者たちが、この100年単位の在日コリアンに対し差別的言辞を吐いているのは、考えてみれば滑稽な姿に映る。彼らにとっての在日コリアンは、ひとりのぬくもりをもった人間ではなく、形の見えない「総称」にすぎないようだ。
 右翼を自称する者たち、さらに「政治的な受け皿がない」という“不満のはけ口”を解消するために上記団体に集まっている者たちの多くも、もとをたどればコリア系にほかならない。
 あえて「多く」と書いたのは、戸籍で出自をたどるのは200年くらいが限度で、寺などに残っている檀家の家系図などはそれよりさらにさかのぼれる可能性はあるものの、結局それ以前はたどれないとの物理的理由による。現代人の何割がコリア系にあたるか、統計学者が純粋に算数計算してくれることを個人的には希望する。
 これは特定の意味をもたせるための主張などではもちろんなく、歴史的事実をありのままに述べた結果にすぎない。

※「混血」という言葉は、問題用語として使わない傾向にありますが、端的に事実を示すにはこの用語がふさわしいと考え、あえて使用しました。

http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/638.html

記事 [外国人参政権・外国人住民基本法01] 界隈の支持者も裁判の判決や資料を読みましょう(りゅうオピニオン)
りゅうオピニオン:界隈の支持者も裁判の判決や資料を読みましょう
http://blog.livedoor.jp/ryuopinion/archives/51501965.html

2010年11月20日
界隈の支持者も裁判の判決や資料を読みましょう

★さて、きょうはツイッターで界隈支持者の矢野さんとだいぶやりとりをしました。

最初、私は矢野さんが「めが兄」なのかと思っていたのですが、矢野さんが「めが兄」らしき人物の写真を撮影して、ツイッターに投稿していただけだということが判明しました。

どうやら普通の界隈支持者さんのようです。

★会話の流れのなかで、西村修平の裁判傍聴に行っているというので、「判決は読んでるんですか?」と聞いてみました。

やはり傍聴に行くだけで判決は読んでいないようでしたので、関連のサイトなどを紹介しました。

界隈の支持者の方も、せっかく裁判の傍聴に行くんでしたら判決書や資料を読んで、ちゃんと中身を理解して行けばいいんじゃないですかね?

一応、矢野さん向けに、西村修平が千葉英司さんに敗訴した裁判の判決へのリンクを紹介しておきましょう。

界隈支持者が傍聴に行くであろう裁判のまとめ情報は

矢野穂積・朝木直子両「市議」の(元)支援者等が訴えられている民事裁判

を参照してください。

★東村山事件を正しく理解するための西村修平VS千葉英司の街宣名誉毀損裁判の判決は

2010年4月28日:判決言い渡し。西村修平、敗訴(損害賠償額10万円)。
判決書 (りゅうオピニオン):その1・その2・その3・その4・その5・その6・その7・その8・その9・その10・その11・その12(了)
東京高裁の判決は

10月28日:控訴審判決言い渡し → 控訴棄却(西村修平敗訴)
判決書 (凪論):その1〔主文〜第3 当裁判所の判断(3)イ(ア)〕/その2〔第3 当裁判所の判断(3)イ(イ)〜(3)ウ〕/その3〔第3 当裁判所の判断2(3)エ〜4(3)イ(イ)〕/その4〔第3 当裁判所の判断4(3)イ(ウ)〜第4 結論〕
でござる。

あとは、ジャーナリストの宇留嶋さんの新連載が始まったから、これを読んでいけばいいんじゃないかなあ。

西村修平事件控訴審判決(その1)

★11月30日に行われる京都朝鮮学校襲撃事件の民事訴訟のお知らせメールが来ました。

転送歓迎と書いてあったから載っけてしまえ。

「多くの方が傍聴に」行くのはいいんだけど、ヲチャの傍聴席を奪わんで欲しいなあ。

いや。京都朝鮮学校の支持者の人が、ちゃんとネットで傍聴報告してくれるならかまわないんだけどさ。

弁護士会館の報告集会をニコ生中継するとかさ。

そこらへんは界隈の手法を真似してもいいんじゃない?


********転送歓迎**********

「在特会らによる朝鮮学校襲撃事件裁判」
第2回口頭弁論のお知らせ

■11月30日(火)  午前10時より口頭弁論があります

■京都地方裁判所101号法廷にて
(地下鉄丸太町駅1・3・5番出口から徒歩5分)

■傍聴券の抽選がありますので9時15分集合です。

ただし直前まで時間は確定されませんので、傍聴券配付の時間については、前日に

http://www.courts.go.jp/kengaku/kyoto.html

でご確認ください。

■集合場所
学校支援者の集合場所は、裁判所玄関前広場の *東側* です。

■終了後、弁護士会館にて報告集会があります。
こちらにもぜひご参加ください。
スタッフが誘導させていただきます。
支援者以外の参加はお断りさせていただく場合がありますので
ご了承ください。

■「在特会」らは12月4日に「京都朝鮮学校解体デモ行進」をする
と予告しています。

民族差別が繰り返されるのを許してはいけない
というわたしたちの思いを裁判官に届けるためにも、多くの方が傍
聴に来てくださるようお願いします。

在特会らによる朝鮮学校に対する襲撃事件裁判を支援する会

--------------------------------------------------------------------------------
投稿者注

界隈=行動界隈=在特会などの「行動する何某」のこと。

http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/639.html

記事 [テスト20] Re: テスト2
日本の国難に立ち向かうために今こそ大同団結すべき時です!(BLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」)

http://henrryd6.blog24.fc2.com/blog-entry-925.html
2010-11-20 06:54

気になることがある。今の日本は大変な国難の時代を迎えている。菅政権は政権交代時のマニフェストをすべて覆し、官僚と米国による筋書きどおりの方向へ舵を急旋回させている。人は回りの支持がある時は嬉々として良い仕事ができるものだが、回りから批判の声が高まると浮きだしだって変なことを言ったりするものだ。問題発言を連発する菅内閣はもはや右からも左からも相手にされない存在と化していると思う。どうせ27%の支持率なんて官房機密費による捏造そのものだろう。

 

今の菅政権がとても来春までもつとは思えない。だからと言ってアメリカのネオコンロボットMAEHARA1号がすんなりと総理になれるとはとても思えない。だからこそ小沢さんの支持者は小異を捨てて大道につかなくてはいけない。明治維新は水と油のような存在だった薩摩と長州が手を結ぶことによって成就した。日本にはそういう歴史があったのだ。※もっともそこにはイギリス勢力の思惑があったこともあるが・・・

最近の阿修羅は右と左が混在しているが、その点「植草事件の真相掲示板」はなかなかいい。次のような投稿もあった。

カナダde日本語(http://minnie111.blog40.fc2.com/)の美爾依さんが安倍内閣を終了させるためのAbEndを始めたときは凄い勢いで投稿があった。確かに今やすでに「主権者は私たち国民」だとか「国民の生活が第一」などのトラックバックピープルは存在する。しかしこれだけ「小沢総理」を待望する人々が増えている今、ひとりでも多くのブロガーに「小沢一郎を支持します!」TBPに参加して欲しいのです。私は単にお膳立てをしたにすぎません。私には管理者としての義務があるだけです。当然、小沢排除の投稿は削除します。それでは権利が何かあるかと言えばそんなものは何もありません。単にボランティアとして運営しているだけです。仮に100のブログがこれに参加してくれたならAさんがこのTBPにトラックバックを飛ばすことは100のトラックバックを飛ばすことに匹敵するのです。私は50くらい毎日トラックバックを飛ばしていたことがありますが、とても100など飛ばせるものではありません。ネット初心者の人であっても100のブログで「小沢一郎を支持します!」TBPのリストを貼ってあればどこかで目にするでしょう。新着映画を上映する映画館が多ければ多いほど入館者が増えるのと同じ論理です。以下はメキシコにも小沢さんと同じような政治家が居たという興味深い記事です。やはり植草事件の真相掲示板よりです。長いですが全文ご紹介させていただきます。

以下、メキシコの小沢とデモの関するツィート。

●メキシコ人の友人は、メキシコが米国のいいようにやられるのはメキシコ人が悪い、と言いました。メキシコのように民主主義の力が弱く、社会の不平等があり、一部の特権階級が富を支配している状況では、米国が自分たちの利益になるような仕組みを導入し、合法的な投資により収奪するのは簡単だ、と。

●メキシコでは71年間同じ政党、制度的革命党による政権が続きました。この長期政権の長さも日本の自民党を思い起させますが、さらに、自民党と同様に、アメリカの強いバックアップによって政権を維持してきました。

●米を後ろ盾とする政府は、国内の富が米国に流出していく仕組みを次々作りました。そしてメキシコ社会に富が残らなくなり、貧困問題が深刻化していきます。一方メキシコの上流階級は米国企業の利益のおこぼれを貪っているので、何も困らない。こうして、社会の不平等と貧困化が同時に進行していきます。

●制度的革命党の長期政権の間に、マスコミは政府に都合のよいことしか報道しない機関に成り果てました。今もマスコミの政治報道は全く信用できない、と友人のメキシコ人はいいます。政府は裁判所と結託し、汚職事件という冤罪により、政敵、特にアメリカに都合の悪い政治家をつぶすようになります。

●「メキシコの小沢」とは、メキシコシティ前市長AMLO(Andres Manuel Lopez Obrador,通称頭文字で呼ばれる) です。彼は幅広い民衆の支持を得て官僚制度改革を通じたメキシコの自立を唱え大統領選に出馬しましたが、マスコミと裁判所による徹底的な攻撃をうけます。

●メキシコの小沢2:AMLOは貧困にあえでいた首都メキシコシティを行政改革により蘇らせました。こうして改革の成功により幅広い支持が広がります。AMLOはこの手法を国政に適応し、メキシコを蘇らせることを目指して2006年の大統領選に出馬します。

●メキシコの小沢3:メキシコは1億の人口と豊富な資源を持ちながらも、深刻な貧困問題を抱えます。無駄の多い行政と不平等な税制が大きな原因であり、AMLOは行政改革で貧困問題を解決することを訴えます。しかしこの改革は富裕層・アメリカ企業の利害と衝突し、多くの奇怪な事件が起きていきます

●メキシコの小沢4:たとえば、企業のビジネスマンからAMLOの仲間に賄賂が贈られたというスクープが映像付きで放映され、AMLOは評判を大きく落としました。しかし本当のところは、そこで金を渡しているビジネスマンは政府関係者であり、すべて仕立てられたネガキャン用の劇だったと聞きます。

●メキシコの小沢5:メキシコでも大多数のひとはマスコミを信じています。
ですから、国民は、まさか政府がマスコミ・裁判所と結託して次々冤罪事件をつくりだしネガキャンを行うとは夢にも思わず、AMLOの評判は日に日に落ちていきます。そして、大統領選の結果はわずか0.6%の差での敗北でした。

●メキシコの小沢6:AMLOたちは不正選挙だと訴えて街頭デモ行動を行います。
しかし一部の支持者が先鋭化して首都にバリケードを作ったため経済活動が麻痺、
AMLOは一般市民からの支持を急速に失います。皮肉なことに、選挙後のデモによる
イメージ悪化のためにAMLOの復活が絶望的になりました

●何度もメキシコ人の友人に確認しましたが、やはり冤罪の内容を含めて奇妙なまでにAMLOと小沢氏に共通点が多いです。 RT @maya0520 メキシコの状況を知るにつけ、メキシコの成功(国民にとっては失敗)シナリオに日本が沿っているような気がして、筋立てを作っている人がいるのでは?

●AMLOと小沢氏の経過が一致する理由は不明ですが、AMLOのほうが時間的に先行していることは大変重要です。つまり、小沢氏の今後を占う上で、
AMLOがこれまでに経験したことは参考になるのでは。特に、AMLOの2006年大統領選は、今年の民主党党首選に重なるように感じます。

●そうならば次に起こることは、支持者が見るに見かねて起こす行動を逆手にとり、小沢氏の評判を落とすことになるのではないかと推測してしまいます。この意味で、今週末の「同時デモ」のことを深く懸念しています。メキシコに学べば、現在の状況は慎重すぎると思うほど慎重に行動すべきと思います

●メキシコの小沢、AMLOに起きたことから考えて、今週末の同時デモについて私がいま感じている懸念をいくつかつぶやいておこうと思います。

●懸念1)メキシコの事例は、デモが働きかけるべき本当の対象は、実は政府ではなく、大多数の一般市民の心なのだということを教えてくれています。いまネットの中で仲間言葉となっていても、テレビ層は聞いたこともない単語を多用してデモをしている人たちを、街のひとたちはどのように眺めるでしょうか

●懸念2)同時に全国各地でデモを行えば、その分目が行き届かなくなります。いかに主催者の方々が気を配っても、たとえば、明らかに偏った団体が参加してくることを全都市で防ぐのは、一カ所で行うよりもはるかに困難です。
ほか予期せぬ事件が起きる可能性はどうしても増えてしまいます。

●懸念3)AMLOはバリケードで評判を落としましたが、評判の落ち方はそれだけではありません。たとえば、ヘルメット・サングラス・マスクをしたひとたちが過激な主張とともに小沢氏支持を掲げて行進したとしたら、それを目にした人の心の中で小沢氏の評判は地に落ちます。

●懸念4)真摯な主張をすべき問題に「過激派」や「右翼」が参入して雰囲気を壊すという事態は京大ではよくあり、逆宣伝と呼ばれていました。既にネット上では逆宣伝は始まっているように見えます。例えば今回の同時デモを紹介する奇妙なHPが出現しています

●街のひとの気持ちに立って、幅広いひとの心に届く言葉で訴えかけることが何より大事です。不測の事態があったとき「重要なデモだからこそねじ曲げられようとしている」と冷静に対応し早急に軌道修正できる人が少しでもいれば、AMLOの失敗を繰り返さずに済むのではないかと思います。

●街頭デモは重要です。そして仲間にしか通じない言葉ではなく、多くのひとに響く幅広い共感をよべる言葉を探しましょう。マスコミによる小沢氏の扱いは言語道断です。しかしその抵抗には、「言葉の非暴力、不服従」が必要に感じます。

デモに関しては、東京ですでに2回行われている事もあり(私も両方参加しております)、他ツィッター上でも、デモの在り方について様々な意見が見られますが、「デモが働きかけるべき本当の対象は、実は政府ではなく、大多数の一般市民の心なのだ」という小野さんの鋭い洞察力に裏付けられたご意見は、
デモを成功させるための貴重な指針になるのでは、と思います。これは、小沢問題に限らず、テーマが、検察、警察、司法、マスコミなどどんなものであってもです。

繰り返しになりますが、以下の言葉はシンプルですが、決して忘れてならないものだと思います。

<デモが働きかけるべき本当の対象は、実は政府ではなく、大多数の一般市民の心>

<街のひとの気持ちに立って、幅広いひとの心に届く言葉で訴えかけることが何より大事です>

<マスコミによる小沢氏の扱いは言語道断です。しかしその抵抗には、「言葉の非暴力、不服従」が必要に感じます>


●アアアのアホタロウ♪

【2010/11/20 06:54】


(関連)
デモが働きかけるべき本当の対象は、実は政府ではなく、大多数の一般市民の心(植草事件の真相掲示板)
http://www.asyura2.com/10/senkyo99/msg/850.html
投稿者 クマのプーさん 日時 2010 年 11 月 20 日


http://www.asyura2.com/10/test20/msg/659.html

コメント [経世済民70] 日本人の83人に1人(147万人)は資産1億円以上持っている gikou89
02. 2010年11月21日 17:39:03: IuPxajJcAk
この話、けっこう有名だよね。
ただ、この資産1億円の中には農家の農地や個人商店の店や在庫などが含まれるから、もうちょっと実質的には少ないんだよ。
でも、世界でもっとも億万長者のいる国であることにはかわりはない。

>相続税を増税

現金と普通預金については相続税100%ってダメですかね?
税金をはらいたくなかったら、死ぬ前に全ての金をつかってしまえ!と言うこと。
そうでなかったら事実上の没収ね。

でも、家とか土地とかの資産の相続はどうしたら良いだろうね?



http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/226.html#c2

コメント [昼休み44] 2、大阪デモ千人オーバーとの事、落選中の民主候補者も参加してくれて、浪速のど根性が炸裂したようです。 小沢内閣待望論
01. 2010年11月21日 17:48:31: r6Hj2a4pck
動画、見れません。

特にニコ動。
どうすれば見れますか?
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/216.html#c1

コメント [マスコミ・電通批評11] ネットユーザーへの受信料支払を画策するNHKの愚 (暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜) pochi
06. 2010年11月21日 17:54:06: FfAau9hBPc
私がデジタルTVを買わない理由:NHK受信料(NHK税)を
払いたくないし、NHK番組を観たくもないから

で、ネットに逃げたのに、またNHKが追いかけてくる。
3年くらい前に国会で審議された問題

パソコン価格にNHK受信料を上乗せする案が出ていた。
NHKはネットに要らないです。
迷惑です。

一切、NHK番組は観ないし、NHKがネットに参加しても観ません
来ないでください、迷惑です。

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/238.html#c6

コメント [経世済民70] 日本が移住しやすくなれば外国人労働者流入し多様な人材育つ gikou89
03. 2010年11月21日 18:01:43: oawRo0BJac
 ”日本が移住しやすくなれば外国人労働者流入・・・・”に関して大反対です。

国外から労働者を入れて成功した国を教えて欲しいですね。人種差別の”モト”じゃないですか。
 
 欧米諸国でも人種差別でデモや暴動ばかりじゃないですか。それも国外からの労働者の2世〜3世まで引きずって。そのツケは結局国民にくるじゃないですか。

 絶対反対です。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/238.html#c3

記事 [ペンネーム登録待ち板6] サービス業は斯くあるべし 8 _ 極楽浄土は エロスの世界

2. 宗教は麻薬


フツーの人が本当のエロス体験をするのはまず不可能です。

それでも、どうしてもと言うなら クスリか宗教のどちらかに頼るしかないでしょう。

ただ、やはり宗教の力だけではエロスの世界に入るのは難しいのですね.

クスリはいろんな「宗教儀式」にいい意味でも悪い意味でも使われることが多く、宗教自体に気をつけるべきです。 :

1) 梵我一如はエロスの世界


芥子の花

ふ〜しょう♪ふ〜めつ♪ふ〜くう〜♪ふ〜じょう♪〜

読経は続いている。焼香の煙が静かに漂い流れてくる。

私の実家は阿波の国、土佐との国境で、海底で堆積し褶曲された山々がある所では隆起しある所では黒潮が流れる青い海へと没した海辺に開けたのどかな土地にある。

宗派は真言、それで弘法大師いわれの話しがここかしこに言い伝えられている。


大師さんが休み、杖をついたところ、そこから清水が湧いてきたとか、

ちょうど大石が落ちてきた時、弁当に使っていた箸を地面に突き刺すと忽ち箸は大木の杉の木になって大石の落下をくい止めたとか、

小さな頃から法事がある度に先代のおじゅっさんから先祖の逸話を聞くと伴に大師さんにまつわる話しを数多く聞いてきた。

・・・ないし♪むろし♪やくむろしじん♪・・・

遠い声を聞く様に清んだ先代のおじゅっさんの話し声が重なって聞こえてくる。


裏山に住む狸の話をしてくれた事や椎の大木の陰に潜む天狗が夜な夜な空を飛ぶ話しとか、そんな幾つかの話しの中にあって、ことさら不思議と胸の内にわだかまった話し


「大きな声では言えないがね寺の裏山には終戦頃まで芥子の花が咲みだれていてね・・・」


何か咲きみだれる見知らない花々が秘密めいて思い出されてくる。

これは我が母校の校章となっているからだろうか?

焼香の匂いが一層強く漂い私はさらに静かにゆっくりと夢想の翼が開いていく様に感じられてきた。

月の青い光が降り注ぐ裏山に白い花びらの芥子の花が青白く濡れている。

これは梶井基次郎が書いた『櫻の木の下に死体が埋まっている』より尚妖艶ではないだろうか?

芥子の花の下には骨が埋まっているのに違い無いのでは。


空海さんはさすが博学やったんやな〜と思ってしまう。

真言密教の片田舎の末寺に芥子の花が咲き乱れていたと言う事は日本各地の数多くの寺々では芥子が植えられ使われていたのではないだろうか?

さても、古く真言密教の儀式において護摩火に芥子も焼香のひとつとして投げ入れる秘儀が常時おこなわられていたのでは?・・・

かの時代なら十分うなずけれることなのでは。

薄暗い堂内に掲げられた曼荼羅に昇る火と立ち込める煙、

それと伴に強い香を焚けば祈りを捧げる人々

みんな酩酊しないわけが無いのではないだろうか。

人々の眼前に現れるのは極楽浄土だったのではないだろうか。


夢想する私の耳には空海さんが唐国から船で帰るさい墨染めの衣の袖の下には身毒(インド)渡りの芥子坊主を忍ばせた・・・・

サラサラと芥子坊主の中の乾いた実の音が聞こえてくる。

そしてその音はサラサラ サラサラと木霊し流れ来て私の脳内の神経節の一部にエンドルフィン、エンケファリンとして反応し点滅している様に感じられてくる。

それはランニングハイのような高揚なのだろうか?

いやいやそれは今まさに私の脳内で芥子坊主から滲み出した黒く変色した果汁が翼を開ける様に広がっている高揚なのではないだろうか?

・・・ぎゃあ〜てい♪ぎゃあ〜てい♪はらさそ〜うぎゃあ〜てい♪・・・・

読経は尚も続いている。

ああ・・・またもや何処か人知れない廃寺の裏山でひっそりと月の光に濡れながら青白く咲く芥子の花と唄う様に揺れる芥子坊主の姿が私の頭の中で映像として結びだしてきた。

http://plaza.rakuten.co.jp/maeno7547/diary/200901310000/

秘密仏教(密教)の <秘密> とは…


父母や先祖の髑髏に漆を塗って祭壇に祀る。

そしてへールカと呼ばれる中央の男性とダーキニーと呼ばれた女性行者が9名とその前で契りを交わし、その和合水を髑髏に塗り付ける。


髑髏の「建立」

髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

続いて,地面に血を用いて曼荼羅を描き中心に指導者がそのパートナーと座し,その周囲に円形に8人の容姿端麗な美女を配置する.

天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と和合を行なう。

中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立する様にする。

中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合し,それを5日間続ける.

そしてその和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねる。

それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。

反魂香を焚けば死者の姿が煙のなかに現れる。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻る。

このような修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。

さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。


このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。

舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。

顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女のように化粧する。

こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。

そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。

こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。

これを7年間続けるのである。

 そして、8年目になると、髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現す。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語る。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/tachikawa/dokurohonzon.htm

髑髏の「建立」。
用意した髑髏を加工して組み立てる。
これには大頭、小頭、月輪形の三種類の制作法がある。
大頭とは、髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。
つづいてすでに訳知りの容姿端麗な美女と性交し、その和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねるのである。
髑髏を守っているという七魄(人間の魂は三魂七魄からなるとされる)に和合水(三魂の象徴)を三魂七魄の本尊としての準備が整うわけである。
それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。
反魂香とは、漢の孝武帝が李夫人の死後も恋しくてならず、方士に香を造らせ、それを焚いて夫人の面影を見たという故事にちなむもので、それを焚けば死者の姿が煙のなかに現れるとされる香である。
その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻るというのである。

このようなず修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。
さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。
このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。
曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。
舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。
顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女か、童子(美少年)のように化粧する。
その際、表情は貧相にせず、笑みをたたえ、決して怒ったような顔つきにしないことが大切である。
http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/shingontatekawa.html

__________________

インドにおける密教は変容し、性欲崇拝の濃厚なものになり、やがてチベットに伝わり、ラマ教になるのだが、ラマ教は密教という点では空海が遺した真言密教との違いはないといっていいであろう。

しかしながら両者は神秘性の表現においてははなはだ異なっている。

ラマ教は、インドで衰弱段階に入った後の左道密教といわれるものに相似し、性交をもって宇宙的な原理を表現することに於いて強烈で得あるが、空海がもたらした密教はそういう思想を内蔵しつつも教義全体の論理的筋肉がまだ若々しく、活動がなお旺盛で、性欲崇拝へ傾斜するような傾向は外部からは窺いにくい。

しかし空海の没後、数百年を出ずして彼の密教も左道化した。

「真言立川流」 と呼ばれる密教解釈が、平安末期から室町期にかけて密教界に瀰漫し、とくに南北朝時代にはその宗の指導者である文観(もんかん) が後醍醐天皇の崇敬を受け、立川流が密教の正統であるかのような座を占めたことなどを見ても、空海の体系には、性欲崇拝を顕在化させる危険が十分内在したというべきであろう。
http://singetu.ddo.jp/kuukai_huukei/56.htm


_____________


2)立川流の成り立ちと経緯


「真言立川流」を始めたのは見蓮と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行であるから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。

この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連に奥義を授けた仁寛僧正は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。

仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。
言わば、政治犯の流人である。

そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。

つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。

本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。

近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。

この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から、極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。

弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。

ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがあり、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教においては「けっして教えには背いては居ない」のである。

つまり密教において、性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。

そこには精神的感情が介在する。

それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。

つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で、結論を導きだす。
従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。

つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。

喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。

その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。

人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。

言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。

それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?

この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。

当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。

真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。

快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事によって、常人には無い激しい反応を見せる。

それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。

その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。

それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。

しかし、密教の教えの詰まる所は「空」である。

空に私心は無い。

有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空に成れば、如何なる行を求められても、それを不条理と思う事は無い。

実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。

言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。

しかし、そこに到達するには、「空」が要求されるのである。

その「空」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行を施され、呪詛巫女が空に及ぶには、その行の厳しさに相応の覚悟が要る。

女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。

そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。

当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。

その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民の利用である。

奴婢として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢と呼ばれる身分の者の中から「婢」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。

八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

仏教の発祥はご存知インドであるが、実を言うとインドには「密教」と呼ぶ言葉や宗派はない。

金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、或るいは大乗(マハーヤーナ)等が相当しそうだが、厳密には意味がかなり異なっていて「伝播の途中で変化したものと」考えられる。

大陸での修行を終えた空海(弘法大師)は、持ち帰った経典に重さを付ける為に「密教呪法」の存在を強調し、その呪法効果を期待させる事に成功する。

当時の日本の指導階層は血統を重んじる氏族で、世継ぎを得る為には多くの妾を抱える社会だったから凡そ禁欲的な教えでは受け入れられない。

空海(弘法大師)の教えは、その教義の中で「人の世界の理性的な原因の世界」を肯定し、然る後に

「密教呪法」に拠り身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる)、
口に真言(真実の言葉)陀羅尼を唱え、
心に本尊(大日如来)を念ずる

事により、仏の不思議な力で「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」としている。


その教えを秘密仏教、即ち「密教」と称し、

教理と行に呪術的かつ具象的表現を伴う教義を成立させ、
「潅頂」と言う入門の密教儀式をしていない者に師の許しなく真言や行の内容を軽々しく教えを説き伝える事を禁止してこれに反する行為は大罪としてその自戒を三昧耶と呼んでいる。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。

つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者が生まれている。

修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。

呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。

弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。

本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。

この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。

お金に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。

そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。

立川流の教義は、真言宗の

「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、
「当相即道(とうそうそくどう)」

の意味は、「ありがたちそのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。


「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は

「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、

淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」

に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。


この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。

この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。

「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。

如来は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、
男女交合の「妙適なる恍惚境」も、
欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、
男女の触れ合いも
異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足する

も世の一切に自由である。

男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由

とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。


つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。

それはそうだろう。

禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


「全ての主である様な心地となる事」、
「欲心をもって異性を見る事」

も、また、

男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、

これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、
ものを荘厳る事、
全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、
満ち足りて光明に輝く事も、
身体の快楽も、
この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地である。


と、立川流では、全てのものをその本質において積極的に肯定している。


つまり色欲の煩悩を含めて、人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。


それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。

故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。

現代人の感覚では理解し難いかも知れないが、

弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていた事も事実で、

日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の生命への畏怖を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前である。

つまり真言密教・立川流に拠ると、弘法大師・空海が持ち帰った真言密教の教義解釈は

「性交に拠って穢れが浄化される」

と言う解釈なのである。


儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、
現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで
結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。

開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


___________


3) 立川流の呪詛様式


立川流の経典は理趣経を習している。

そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。

邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。

確かに、髑髏の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。

また、髑髏には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して、違和感が生じても不思議はない。

にも関わらず、真言立川流が髑髏を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?

真言密教立川流の髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。

こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。


真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。

立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。

この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。

しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。

蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。

反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。

格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。

九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。

安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。

五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。

「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。


呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。

亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆を塗る。

朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。

水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。

この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。

真言密教立川流に取って、朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。

仕上がったら、よく乾燥させ、上等な桐箱に収めて置く。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。

この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏本尊を会得させる為の物だった。

これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。

一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。

願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。

和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。

その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。

願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊となす。

八年目に、ようやく「髑髏本尊」が完成する。

この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。

陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。

しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。

理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。

この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。

そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。


何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。

人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。

こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。

その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂「洗脳状態」に陥る状態が、信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は、遠く印度の仏教に遡る。

印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼天と言う魔女が、大日如来の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社に成る。

財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は、「商は長くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命であるため、老舗跡の跡継ぎの確保は重要だった。

その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の社を祭ったのである。

つまり、幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼天が、真言立川流の御本尊である。

茶吉尼天の法力を高める秘法が、密教の儀式である。

茶吉尼天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。

つまり初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(だきに天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天は仏教の神となる。

元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、

荼枳尼天は裸体像で髑髏などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、

後に性や愛欲を司る神とされ、

さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。


荼枳尼天は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、

その荼枳尼天が、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天は、性愛を司る神と解釈された為、

その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、

荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。

真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。

醍醐寺隨心院は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。

「雨僧正」と呼ばれ、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされる仁海僧正は和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に上る。

そこで、占星術を身につけ、学僧としても、知られるようになる。

仁海はしばしば五行の考えに基づく易を使う。
安倍晴明より少し後の時代に活躍した仁海は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。

このことは当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていたことを示している。

仁海僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので、勢力争いもするし女性も抱く。

高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。

と言うよりも、「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、密教に於いては為されていたのである。


陰陽師の見蓮に、仁寛が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。

鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。

◆真言密教立川流・南北朝との関わり

北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつあった。

そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。

それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。

この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。
その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。

従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。


本来、男女の交合は尊い物である。

男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。

この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的であった」と言う事である。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。

至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。

それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮に行くよりよほど良い。

精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。
そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。

その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。

全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。

難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って、愛が無いとも言いきれない。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典では、何よりも性に対する位置づけが「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。

真言密教でも、その「生命力パワー」は認められていた。


京都醍醐寺に文観弘真と言う僧侶がいた。
彼は先人で有る仁寛僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。
後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。

話は、鎌倉時代末期の事である。

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、鎌倉幕府の倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、

平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、

手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から真言密教立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。

これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。

文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教立川流を直伝する。

茶吉尼天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。

退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色でこの教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。

後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王、内親王を設けている。

つまり、「皇統を繋ぐには親王が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。

「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、詳しい記述はない。

唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。

そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。

その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は真言密教立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。

文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。

真言立川流が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。

右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。

これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)と左派(真言立川流)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。

「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。

だが、醍醐党が破れ真言立川流は衰退して行った。

つまり、負けた方が「弾圧された」のである。

そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていた。


文観は、当時としては珍しく、八十歳と言う長寿を全うしたそうである。

文観は死期を迎える僅か前まで、村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず、真言密教立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は、対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると、倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が、本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し、再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。

その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派は、チャッカリ教義に取り入れて真言密教立川流を邪教とし禁欲の教義を広めた為、安土地桃山期には立川流はほとんど無くなり、江戸初期には完全に消滅してしまった。

後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言密教立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多くあった。

真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。

実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。

そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。

そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。

しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。

神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。
表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。

本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。

元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

日本における所謂庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。

京都府宇治の県神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。


◆【私の愛した日本の性文化に飛ぶ。】

当時の庶民感覚は、元々「性」に対しておおらかだった。

信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。

そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。

空海の教えは、

身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、
口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事

により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」
として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。

真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、

伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも

男女の性交を以って成仏とし、摩多羅神を本尊とする「玄旨帰命壇」

と言う一派があった事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。

http://jiyodan.exblog.jp/7936468/

_______________
_______________

3. エロスの世界に入いると、もう二度と元の世界へは戻れない


脳を分析しても”私”の実体(実態)は出てこない。

出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私”という記憶が消えたり)現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。

瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で”悟り”といわれるもののほとんどはこの手合いで
事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り” と称するイメージを幻想として見て、”私”も悟ったと錯覚しそれをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。

特にこれらで得られる快感は脳に対する無理で不自然な刺激よるので
薬や催眠の中毒と同じように慢性化し (癖になり)、
特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、
その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう (常習化する)。


極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり
極度のトランス状態(脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、
はたから見ると異常だが当人にとっては快感となっている。

この快感は極度の運動 (祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”)と何ら変らないものだが、
極度のトランス状態のもとでは脳に対する無理な作用、不自然な刺激によるものなので薬物と同様、後遺症、精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。

__________

何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。
まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ。
狂気を演出する、これは正気でなければできない。
正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。
一般大衆の思考から離れてしまう。
それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。

信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。
やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。


教祖が”気違い”の場合その信者は確実に”気違い”になる。
”気違い”はウイルスよろしく伝染する。
オーム真理経の麻原彰晃、人民寺院のジム・ジョーンズ(1978年11月18日900名以上集団自決)一人一殺の血盟団の井上日召(1886〜1967)いずれも、教祖の狂気が伝染し弟子を殺したのである。

ゲーテの若き「ウエルテルの悩み」という小説が流行した時に多くの若者が主人公よろしく黄色いチョッキを着て自殺したらしいが、是も狂気のあらわれであろう。


真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。

祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。

熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、
そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、
もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。

こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。


禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。
これを空病という。
導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。

現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html

脳にはA10と呼ばれる神経があります。

医学的には、恍惚神経とか快楽神経と呼ばれているそうです。

動物のA10神経はとても貧弱ですが、人間はこれがものすごく発達していて強力です。

わくわくしたり楽しくなったりするときには、この神経が興奮します。


実は麻薬でもこの神経が興奮することが知られています。

麻薬でこの神経が興奮して「意識の拡大」という色々な神秘的な現象が起きます。

でも、麻薬を使用し続けると、神経がボロボロになってだんだん楽しくなくなり、やがて廃人になってしまいます。

瞑想を行うと、脳内麻薬物質がこの神経の周りに分泌されます。

20種類以上ある脳内麻薬物質のうち、「β−エンドルフィン」は、なかでも非常に強力で、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍もあるそうです。

「β−エンドルフィン」は死ぬときにも分泌され、おそらく苦痛を和らげるために出るのではないかと言われています。

ランナーズハイでも分泌され、マラソン選手が走っていて突然苦しさがなくなり恍惚とした状態になる・・・というのは、脳内麻薬物質が分泌されているからです。


麻薬は分解されませんが、脳内麻薬物質は完全に分解されるので一切害はありません。

脳内麻薬物質は普段大量に分泌されることはありません。

死ぬときとか、マラソンですごく苦しかったときに分泌されるのですが、それ以外で大量に分泌されるのが瞑想です。

瞑想をして修行が進むと大量に分泌され、とても気持ちがよくなるそうです。


でも、もっと修行が進むと、前回お話したように、鬼が出てきたり、悪魔が幻覚として出てきたりして、怖い目に逢うことがあるようです。

逆に、神様や天使、精霊などに逢うこともあります。

幻覚の中で、神様や仏様に出会って会話をしたりすると、けっこうまともな会話になったりするそうです。

現実の生活の悩みが解決されることもあるそうです。

ここで気をつけなければいけないのが、「自分はすごいレベルまで到達した!」とか「ついに「悟り」を開いた」と思ってしまうことです。


修行を極めた方々が一様に言うことは、「幻覚が出てきて神様や悪魔に会うという状況は、まだまだものすごく低いレベルの話で、「悟り」などよりはるかに遠いレベルだ」ということです。

それを知らない人は、「悟り」を開いたと錯覚して舞い上がってしまうのだそうです。

本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。

ですから、それは脳内麻薬物質による幻覚なのですから、冷静に落ち着いて映画でも見るような気分でグッドトリップを楽しむ必要があるのです。


瞑想法、呼吸法、座禅などのごく普通の修行法も、やり方を間違えると大変危険なのだそうです。

やり方を間違えて、廃人や精神病になった例は数多く報告されています。

ですから、これらの東洋的な修行法は、必ずしっかりとした指導法にもとづいて、確かな指導者について十分注意して実行することが必要だと思います。

気功法では、このような危険な障害を「偏差」というそうです。

禅では、幻覚の中で悪魔が出てきたり鬼が出てきたりすることがあるようですが、これらを「魔境に入る」という呼び方をしています。

ですから、これらの偏差を体験したり、魔境に入ったことを、精神的なものではなく、神秘体験だと錯覚する方も多いようです。
http://72.14.235.104/search?q=cache:awrxoWDLDRYJ:clover.h555.net/u/stone-field/%3Fy%3D2006%26m%3D2%26d%3D%26ca1%3D+%E9%AD%94%E5%A2%83+%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp


____________


ドラッグの場合、幻覚にすぎないと本人も自覚していますが、「瞑想」の場合には、自分が「悟り」を開いた、と勘違いをして舞い上がってしまう人がおおぜいいます。

・・・・・・これは、とても危険な状態です。・・・・・・

 本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。

 新興宗教の教祖には、この程度のレベルで徹底的に舞い上がって、しかも精神がおかしくなっている人がおおぜいいます。

そんな教祖でもそれなりにカリスマ性があり、常人より「超能力」が高く、たとえば「手かざし治療」ができたりしますが、入信した人はえらい目にあうのがオチでしょう。


 ユングは、この危険性について、次のように述べております。

――― 人間が「無意識」を経験することは、本当に素晴らしいことなのですが、そこにはひとつの大きな危険性が立ちはだかっております。


 ヨーガの修行が進むと、人はいろいろと不思議な体験をします。

こういった体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。

 もし同一化すると、あなたは魂の膨張(一種のエクスタシー的昂揚状態)に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。

膨張というのは、まさしく小さな形の狂気、狂気の緩和された形なのです。


 そして、もしあなたが、完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと、精神分裂病になります。 


瞑想によって見えるものも、また霊能力によって見えるものも、その見えたものに固執することはとても危険なことである。
http://sakuragainouta13.seesaa.net/archives/20060819-1.html


瞑想には大きく二種類があり、すなわち、

サマタ(奢摩多、止、ヨーガ、瑜伽、)
ヴィパッサナー(毘婆沙那、観、念、念処、念住)

両者の違いは一言で言うと、

サマタ:精神集中
ヴパッサナー:観察

です。精神集中に関しては、間違った物に精神を繋ぎ止めたり集中させるととんでもないことになるのは容易に想像がつくと思います。

また、念住は心のくせを開放する方向に働きますが、サマタは底に押し込めるように働きますので、心のくせが悪すぎると、

現実感覚が希薄になる、
幻覚が現れる、
神経症を悪化させる

などのマイナスの効果になります。

禅とかでは、「魔境」と呼ばれる「妄想」が出てきて、それに「とらわれ」てしまう危険な状態になります。

「妄想」「魔境」はどうしても出ます。

それに「とらわれる」のが危険なのです。

大は神や悪魔、仏菩薩の妄像が出てきて惑わし、一般的なところではとんでもない屁理屈を思いついて自分は天才だとうぬぼれたり、高慢になって他人を見下したりします。

総じての特徴は「実体がない」ということです。

実体がないから実生活には何ら好影響を及ぼしません。

ですから、妄想魔境に振り回されてしまうと、実生活を破壊的な方向に持っていってしまうのです。

例えば、妄想の世界で天才になっても、実体がありませんから、類友でもない限り他人は誰もそれを認めません。

それでも自分は天才だと思い込んでいて、そのように振る舞ったり、処遇を要求したりしてたら他人にはどう映るでしょうか?

オウムの一連の事件など、このあたりに本質があるのがお判りになると思います。

「魔境」に捕らわれない様にするには「師」は選ばなくては、と思います。

それこそ万に一つの確率で「麻原彰晃」のような人物を「師」としてしまえば、あのような結果になるんでしょうね。

「師」をどのような基準で判断するかですが、一般社会人として尊敬できる、相性、教養(知)に価値を置いている、科学的視点を用いながら指導してくれる、宗教色がない、金銭感覚・・・というところでしょうか。

一番肝腎なのは瞑想経験により「ある意識レベル」に達していて、その事で弟子を指導出来得るか、ということですが、このことに関しては経験がなければ判断出来ないし、「実際はそのような能力がなくても、それを装っている人」もいます
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa84337.html


__________________
__________________


4. 魔境に囚われると…


あの世には行けず,この世にも戻れず,永遠にその境界を彷徨い続ける事になります。

こういう状況を想定して下さい:


晩年、植物人間になられた写真家の土門拳さんを看病された奥さまが、<文芸春秋>に書いておられます。

「『植物人間になっているのに、看病しても同じだろう』

と、おっしゃる方もありましたが、主人の死後、医者の解剖所見で、主人の脳はちゃんと働いていたことがわかりました。

こちらに意思が通じなくとも、主人には、判っていたのです」


「・・・同年(1979)、土門先生は今度は脳血栓を起こした。

以来、十一年間、土門先生は意識不明の植物状態となってしまった。

そして平成二(1990)年九月、意識が戻らないまま八十年の生涯を閉じることになる。


日本の写真界をリードした二人の巨匠の死に接して、私はこんなことを思った。

山形県酒田市生まれの土門拳と生粋の東京っ子だった木村伊兵衛。

粘り強い東北人と何事にもあきらめの早い東京の下町人。

その作風にも感じられる気質の違いが、両人の死にも表れていたように思えてならないのだ。」


(木村先生が一週間ほどで逝ってしまったことを述べたあと)

「それに比べて土門先生は、死の淵にいてなお生への執着を見せ続けていたように思えた。
こんなことがあったという」


「土門先生の夫人とは結婚前から知己であったデザイナーの亀倉雄策さんから聞いた話だ。


土門さんの枕元で夫人と亀倉さんが、

「みんな困っているんだ.早く死んで呉れよ・・・」

と言った。

すると、土門先生の目頭から涙が流れたという。」


「・・・わずかでも土門先生の意識が残っていたとすれば、その無念さはいかばかりのものだっただろう。

病床でも土門拳、その人であり続けた晩年であった。」
http://crishiri.exblog.jp/5426915/


19年間植物状態に陥っていたポーランドのヨウ・グラフスキンさんは、2007年4月12日、奇跡的に目覚めた。
しかも驚いたことに、植物状態であった19年間に聴覚、視覚、思考、記憶など大脳の機能はすべて正常に働いていたというのだ。
ただ動くことが出来ず、自分の感覚、感情を表現することはできなかった。

 ヨウ・グラフスキンさんは、ポーランド鉄道部門の労働者だった。

1988年、仕事中に電車にぶつかり、頭部に損傷を受けた後、植物状態になったが、奥さんの献身的な介護で19年後、奇跡的に意識が戻った。

 ヨウ・グラフスキンさんは、自分が植物状態に陥っていた間の様子について、次のように語った。

「動くことが出来なかったとき、私の身の回りで発生したことは全部分かっていました。

ただ体を動かすことができず、話すこともできなかったので、毎日寝たきりで、気持ちがとても焦っていました。

私を献身的に介護している妻の姿を見て、学校から帰ってきた子供たちが私の周りでうろうろしている様子を見て、隣の部屋で子供達が結婚式をあげた時の嬉しい笑い声を聞いて、孫達の可愛い顔を見て、私はとても焦っていました。

言いたい事が何も表現できなかったからです。
今、私は少しずつ昔のことを思い出しています」。
http://www.asyura2.com/07/bd49/msg/502.html

植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達 (AFP)


【2010年2月4日 AFP】5年前に植物状態と診断された男性が、質問に対する脳の反応によって「イエス」や「ノー」などの意思疎通ができるとする研究結果が、3日の医学誌「ニューイングランド医学ジャーナル(New England Journal of Medicine)」に発表された。

 この男性は現在29歳で、2003年に交通事故で脳に深刻な外傷を負った。

身体的な反応はなく、植物状態と診断されていた。

 英ケンブリッジ(Cambridge)にあるウルフソン脳イメージングセンター(Wolfson Brain Imaging Centre)のエードリアン・オーウェン(Adrian Owen)博士率いる英・ベルギーの研究チームは、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使い、男性に「イエス」「ノー」で答えられる質問をしたときの脳の動きを撮影した。

その結果、男性の脳が正しく反応していることが確認できたという。

 この技術は、健常者に対しては100%正確に脳の反応を復号化することができるが、話したり動いたりできない植物状態の患者に対して試されたのは今回が初めて。

過去3年で植物状態の患者23人に対して実験を行い、4人から反応が確認されたが、「イエス」「ノー」のコミュニケーションができたのはこの男性1人だけだった。

 ベルギー側の代表、リエージュ大学(University of Liege)のスティーブン・ローレイズ(Steven Laureys)博士は、「この技術はまだ始まったばかりだが、将来的には患者が感情や思考を表現することで、自ら環境をコントロールして生活の質を高められるようにしたい」と抱負を語っている。(c)AFP
 http://www.asyura2.com/09/health15/msg/230.html

________________
________________


5. 邪教とは

124:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 17:52:41 ID:otuwJkA3

気功やヨガは自己流でやるのは本当に危険だ。

私は脳波の研究で、健常者や精神分裂病、気功前と気功後の脳波の違いを比較する作業を行っていた
(苦痛で1年でやめたけどね)

禅病(瞑想時の魔境)にかかっている人の脳波は、精神病患者の脳波に限りなく近くなっている。

指導者が偏差や禅病の知識と対処法を教えることが必要だ。

ヨガにいたっても同じこと。

身体と精神面での準備が出来ていない状況でクンダリニーが上がってしまうと着実に精神異常をきたすよ。
http://2chnull.info/r/kampo/1149962009/101-200


熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、
そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、
もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。
こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。


禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。
これを空病という。
導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html


世界真光文明教団 “悪霊だ” とすまし顔

「霊光によって悪霊を取り除く」
をうたい文句にしている東京都内の心霊教団の道場に一年間通った女性が狂乱状態になり、この八月下旬精神病院に入院したことが六日、被害者の家族からの訴えで明らかになりました。

先月末には広島市内の女子高生が文化祭で同じ教団の
“真光の業”にかけられて術がとけなくなり”三日間も半狂乱”になる
という事件が起きており、心霊宗教のあり方が大きな問題になっています。
問題の道場は東京・杉並区永福三丁目の宗教法人「世界真光文明教団」東京の大 修験道場(平塚林司道場長)。

被害にあったのは東京・杉並区下高井戸の主婦、A子さん(三四)。
四歳のときから両目がほとんど見えず、近所の人に誘われて道場に通うようになったのは昨年五月のこと。
導師が片手に“霊光”を集め、約十分間、この片手を対象者の額から約三十a離れた場所に呪文をとなえてかざせば“悪霊”を追い出すことができ、同じように病気やケガの患部にかざせば治る
という道場の話を信じたA子さんは、通いだして一週間ほどで「片目がみえてきたようだ」と大喜び。

同じ年の六月には三日間の研修会にも参加し、以後、毎日のように道場に通うようになりました。
ところがことしの六月にはいってから、突然「霊が動き出してきた」と、七転八倒し、狂乱状態におちいるようになりました。
四、五日おきに起こる発作に、導師がなん度かA子さんの自宅にやってきて「鎮まれ! 鎮まれ!」と叫んでも、様態は悪くなる一方。

その後、狂乱症状は慢性化しあちこちの病院をまわった末、八月二十九日、医師の診断で、A子さんは都内の精神病院に入院、いまだに面会謝絶です。
母親は道場で、手かざしで効果がないと、「もっと寄付を出せ」との言葉。

これには呆れてしまった。娘をもとのようにして返してほしい」
と訴えています。(新聞赤旗 より引用)

_________

ウォーンと口走り 広島:文化祭で“危険な実演”

広島市内の私立高校の文化祭で心霊術が“出し物と”して取り上げられ、実演披露で見物に訪れた他校の女子生徒が術にかかり、解けないまま半狂乱状態が三日間も続いた。
学校側は心霊術関係の展示だけということだけで許可していたが、生徒たちが実演として心霊術をかけていたらしい。
教団は「悪霊を追っ払う過程にすぎない」と、”異常”を認めないが、オカルトブームに名を借りた、”危険な遊び”に警告の声が上がっている。

騒ぎが起きたのは、広島市楠木町4、私立崇徳学園崇徳高校(西田早苗校長、生徒数2200人=男子のみ)。
同校には広島市土橋町、宗教法人「世界真光文明教団」広島小修験道場(稲留左治道場長)で“心霊術”を修行している生徒が十人近くおり、この生徒たちが9月28日開かれた学園文化祭で教室を借り「心霊研究会コーナー」を設け、写真、説明書などの展示や、術のかけ方の実演をした。

午後3時ごろ高校生たち5人に術をかけた。このうち4人は一時もうろう状態になったが間もなく術がとけ、もとに戻った。
しかし、他校の女子高校生から術をかけられた同市内の私立女子高校一年A子さん(16)だけは元の状態に戻らなくなった。
約5時間後の午後8時頃、道場からの連絡でA子さんの両親が駆けつけたが、
A子さんは両親にも反応を示さず “ウォーン”“ウォーン”と動物のような声でどななったり、
「わらわは」「父上」などの言葉を口走るばかり。


家に連れ帰っても、突然倒れたり、わけのわからないことを口走る状態が続き体温も40度以上になった。

睡眠薬を飲ませやっと寝かせ、無理やり口に押し込んだ食事をかまずに飲み込むなど、半狂乱状態が30日まで続き、やっと1日になりほぼ元に戻ったものの、まだ当分学校を休み静養をしなければならない状態だという。
A子さんの父は
「A子が術にかかって解けないのに崇徳高の先生たちが何ら適切な措置をとらなかったのは納得できない。

生徒の指導が十分に行われておればこんな危険なことは避けられたはずだ。
精神や肉体に関することだけに、高校生に中途半端な教え方をする道場も許せない」
と怒っている。


◎「悪霊払い、心配ない」と世界真光文明教団

ところが道場側は
「A子さんに宿っていた祖霊が術によって呼び出され、A子さんの心と肉体を一時的に借りたため、あんな状態になった。
再度、術によって祖霊を追い払えばもとに状態に戻り、心配はない」
ととり合わない。

道場の話では、この心霊術は術者が手に”霊光“を集め、約十分間、この霊光を集めた片手を対象者の額から約30センチ離れた場所にかざし、悪霊を追い出すというもので、呪文などは唱えないという。
毎日新聞縮刷版:昭和49年10月2日夕刊9面

_________

私は崇教の組み手でした。

確かに真光をやると精神を蝕まれると思います。 なぜなら私がそうだからです。

13歳の時に組み手になって、症状が出たのは17歳くらいだったかな?

暫くしてから自分がすこしずつ狂ってきた。

また教えの

「怒ると人を80人殺すだけの威力が出るから怒るな。」
「人を批判するな。」

を忠実に守ろうとしていた為、私は、真光や家庭内だけでなく学校でも感情が出せなくなり、いつも無理矢理笑っていました。

その他御神業の為に我慢をし過ぎたのも原因かもしれない。

恋愛・お洒落・おいしい物を食べる・旅行・コンサートなどなどどれだけ我慢を強いられたか解からない。

20歳の頃、夜眠れない日が続いた。

まだ洗脳される前の楽しかった日々を思い、眠れなかった。

もう、不安で不安でとにかく眠れない(不眠症?)

夜寝付くまで不安で涙を流し、寝付けば真光の御神体や教祖が冬眠する私を叱り付ける夢を見ては悲鳴をあげて何回も自分の悲鳴で夜中に目がさめた。

この頃、ある疾患で内科にかかると「自律神経失調症」と診断された。

こんな疾患が出る自分はいたらないんだと、もがけばもがくほど自分らしくなくなっていった。

24歳で結婚して真光から逃亡。

逃げた直後(婚家でも色々あり)異常をきたしました。


この時、肉体的には目が見えなくなる症状が出たので、眼科で眼精疲労と診断を受けましたが

「精神的にやられてる。」と言われて大病院の精神科に紹介状を書かれたので診て貰いに行くと

「パニック障害」と診断されて大量に薬を貰いました。


26歳の時に「精神分裂症の疑いがある」と診断されました。

それから検査を続けて行き、28歳の時「一種のPTSD」と診断されました。

激しいトラウマと自我が発達する時期に、慢性的な恐怖や抑圧を受けた事で感情を出せなかった事に原因があると言われました。

それから2年経ちますが、未だに感情を出すのは苦手で素直に出せるようになったのは悲しみと怒りだけです。

うまく感情を流せなくなると、発作を起こします。

そして、まだ人間不信です。

真光で精神病になるのはあまりに自分を殺しすぎるからだと思います。

足の指先に怪我をして、そこから黴菌が入り腫れあがってしまい、幹部に病院に行きますと、言ったところ猛反対をされました。

「私の心がいい加減というのです。
本当に神様を信じ、人救いに励んでいないから、このような目に遭うのです。」
と散々けなされました。

やがて、足の裏からコーヒー色した膿が出始めました。

幹部はそれをみて、
「神様が汚いものを出してくれているのだから感謝しなさい」
と言ったのです。


ところが、痛みが酷くなり、幹部には内緒で病院に駆け込みました。

すぐに手術に入りました。危ういところでした。
もし数時間遅れていたら黴菌が血管に入り死ぬとこでした。
2ヶ月の入院となりました。

退院して幹部に結果を報告すると、これは神様のお仕組みだというのです。
感謝しなさい。
ご守護お礼を書いて、お金を添えてすぐに出し下さいと要求されました。
私は呆れ返って御み霊をその場でお返ししました。

崇教真光はインチキ宗教です。
そもそも、御神体を輸送している 「導士が事故に遭い死ぬ」 なんておかしな話じゃないですか。

私が、8年ほど信じていた崇教真光を辞めたのは、ある日突然原因不明の足痛に襲われ、40度近い熱が続き。
他の信者は「それは霊障に違いない」。
だから病院で治療を受けても治らない。
身体の中に悪い毒が蓄積されているから、オキヨメして治さなければ命取りになる
と言って、それは熱心に手かざしをしてくれました。


原因不明で動かなくなった足の痛みを我慢し病院にも行かず、ひたすら信心に没頭する毎日でした。
ところが痛みが治るどころが、身を切り裂かれるような激痛と高熱が続き、まったく動けない状態になり担架でやっと病院へ運び込まれました。

病院で検査を受けた結果、白血球が異常に増え、どこかに炎症を起こしているといわれ、脊椎に痛み止めの注射を打ったり熱さましの注射を打つやら、私の気がつかない間に医者と家族が心配して大騒ぎしたようです。 

医者の懸命な治療によって、病気も完治し退院することができました。

そのときほど医者の治療を心からありがたいと思ったことはありません。

あとで家族に聞いたが、もう少し治療するのが遅れていたら熱による脳障害が起きていたかもしれなかったし、神経をやられ動けなくなったかもしれないと言われたそうです。

私はそれを機会に真光をやめました。

________________


@ 崇教真光のような団体を「セクト」と言いますが、
セクト入信の後遺症に詳しい精神科医の斎藤環氏が、

「僕の患者さんにもやたら「真光」系が多いのはなぜなんでしょう?

彼らの多くが 決まって口にするのは・・・」

と言うように、精神衛生上大変危険な団体なのです。


A 精神病に真光は危険ですよ。

同じ時期に組み手だった人で統合失調症気味の方がお二人お見えになりましたが
どちらも病気が悪化して廃人の様になってしまわれました。

B 私の地区の人は真光に入ってから2人躁鬱病になりました。

一人は薬が手放せず入退院を繰り返しています。

C 精神障害の実例は多いですよ。

私は何人も正常な人が廃人同様になる所を見てしまいました。

D 真光の人は、精神疾患がおおいです。

私の友人は6人とも真光をしていましたが、みんなおかしくなりました。
精神分裂症、ノイローゼ、自律神経失調症、うつ病、不眠症などです。
みんな通院しています。

一人くらいなら違うと思いますが、みんな精神疾患になりました。


E 組み手の鬱病による自殺が増えています。 
         
鬱病の知識のない幹部や世話係が“霊障”と考え、服薬を止めたり、
御奉仕などをさせて『がんばって』と鬱病患者に、してはいけない事をして病状を悪化させています。          


F 精神障害の実例は多いですよ。
私は何人も正常な人が廃人同様になる所を見てしまいました。

「浮霊」から始まります。

教団の幹部はアガナイの結果だなんて言いますがとんでもないです。
オキヨメは精神疾患を確実に悪化させます。

まともな求道者、修行者からすると、浮霊させるなんて危険なことやってるのが
信じられないと思うよ。

浮霊させたあと、じゃあ鎮魂出来るのかといえば手段を持ってないわけだし。

医学に例えるなら、未病だったものをわざわざイジッて発病させて、
ワクチンは持ってないみたいな事を平気でやってるんだよね。

素人の宗教ごっこですわ。

G 自殺者急増中

組み手の鬱病による自殺が増えています。 
         
鬱病の知識のない幹部や世話係が“霊障”と考え、服薬を止めたり、御奉仕などをさせて
『がんばって』と鬱病患者に、してはいけない事をして病状を悪化させています。          

自殺の場合は、幹部は本部に書類を提出しなければならないので、
教団側は把握していますが、組み手には秘密にします。
しかし完璧に隠蔽出来ずにいます。          

信者を自殺に追い込む教団って、まともな教えではない証拠です。



_____________

危険な霊動

出口王仁三郎(わにさぶろう): 大本教 第2代教祖
岡田茂吉: 世界救世教 初代教祖

日本における手かざしは、もともとは幕末黒住教の黒住宗只氏から始まり、それが大本教の幹部の一人だった岡田茂吉氏によって再発見された。

その頃、大本教が政府の弾圧によって分解したのをきっかけに、
岡田茂吉氏によって世界救世教が独立した。

世界救世教では、手かざしは「浄霊」と呼ばれた。


福田くら: 「真手(まなて−手を当てる治療法)」p.129から

霊動ほど恐ろしいものは無いのです。

この霊動に興味を持つくらい危険なことはありません。

霊動に興味を持ったら、すでにその人は、魔界の生物に狙われていると考えて差し支えありません。
私にさえ、神々は、霊動への興味は持ってはならぬ、と折にふれて戒められます。

大本教でも、教祖や聖師は立派な人々であるのにもかかわらず、
昔、幹部の先走りがあって、霊動(鎮魂帰神)現象で、多くの人が発狂したということです。

手が動いても、何が動いても、何にもなりません。
霊動などはあっても無くてもよろしいのです。

特に女性は、男性よりも遥かにそういう魔界の生物に憑依されやすく、自由にされやすいものです。

実際に、多くの道場が魔界の生物の巣窟になっているという現象があちこちに起こっています。

私はそういう実例を一つならず知っています。

神霊方からもお聞きしています。...


過去に、「霊を出させる業は危険」であるから、行われなくなったという歴史が、真光の先祖に当たる宗教団体に存在していました。

大本教では、鎮魂帰神で発狂したし、救世教ではオヒタイお浄めを禁じていました。

大本教では鎮魂帰神によって幹部が発狂したこともありました。

大本では、発狂した信者が出てしまうことで問題になった「鎮魂帰神」は、以後危険なので行われなくなり、世界救世教では、危険だと認識されていたので、はじめから信者に伝承されていません。

大本教を辞めて救世教を作った岡田茂吉は「祈言を唱えながらの額に手かざし」霊動(浮霊)して危険だとして禁止していました。

救世教では、おきよめをする時に浮霊をさせてはいけない、浮霊しても相手にしてはいけない とされています. 


真光の業は、鎮魂帰神とオヒタイお浄めをブレンドした危険極まりない代物。


救世教では、おきよめをする時に浮霊をさせてはいけない、浮霊しても相手にしてはいけない? 

と言う教えで、それに対して、真光の開祖 岡田光玉は浮礼させる事に興味を持って、救世教破門されたのです.

手かざしは、世界救世教の浄霊から取り入れた業で、

「真光の業」とは、信者がシャ-マンとなり、救世教で禁止されている、呪文(祈言)を唱えオヒタイお浄めする、呪術信仰で、祈祷師、呪術師、と同じです。

霊査などはイタコと何ら変わらない代物です。


救世教を解雇された岡田光玉は、大本の「鎮魂帰神」と救世教の「祈言を唱えながらの額に手かざし」をブレンドしたのが「真光の業」だから、如何に危険かと解るでしょう。

それほど、真光は精神病者を量産できる、手かざしテロもできる危険なワザなのです。

もし真光のように、霊を出す(浮霊)させる宗教であるなら、本来は、そういった過去の歴史を解説し、「真光の業ではその危険性を克服した」という、「新たな御教えによる解説」をしなければならないのです。


_____________
_____________


6. 宗教体験とは…

1) 爬虫類脳の奇妙なリアリティ

「脳幹」・・・少し前のことですが、“ジュラシック・コード”と題したテレビの番組で脳幹について面白い解説がありました。

脳幹は地球上の生命体が進化の過程で恐竜等の爬虫類まで進化した時点で手に入れた脳とのこと。

そのあと発生した哺乳類も霊長類も爬虫類時代の脳を機能も形もそのまま継承していてそれが脳幹とのことでした。

で、つけられた別名がなんと「爬虫類脳」。

人類の脳はその脳幹の周りを大脳辺縁系とか新皮質でオーバーレイして成り立っている。

爬虫類脳(脳幹)は本能をつかさどり生命の源であるが何をしでかすかわからないところもあり、大脳の意識作用によるコントロールとの勢力バランスが大事とのこと・・・

ところで・・・意識が大脳の働きだとすると脳幹が担うものは無意識ということになるのでしょうか。

意識作用との勢力バランスが大事というのもなんとなく無意識を感じさせます。


無意識が太古を継承した脳幹の作用だとすると・・・“ユングの普遍的無意識”に太古に通じるものがたっぷり含まれているのも無理からぬことなのかも・・・などと冗談めいたことを思ったりもするのですが。

もっともユングの元型に出てくる太古はせいぜい神々の棲む神話の時代・・・爬虫類が闊歩するジュラ期まで遡るとなると・・・ちょっと古代過ぎますよね。

http://cmann3.exblog.jp/3628218/


ポール・マクリーンの脳の三層構造仮説

アメリカのポール・マクリーン(Paul MacLean, 1913-)は、人間の脳の構造と行動様式を、“生物の進化の過程”と“動物の原始的な本能”から説明することを試みて、“脳の三層構造説”の仮説を提示しました。
ポール・マクリーンによれば、人間の脳は
『爬虫類脳 → 旧哺乳類脳 → 新哺乳類』
の順番で進化し、機能を複雑化させ高度化させてきたことになります。

@爬虫類脳(reptilian brain)
進化の時間的過程において最も古い年代に発生した脳器官であり、自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核より成り立つ。
心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担い、爬虫類に特徴的な自分のテリトリー(縄張り)の防衛意識などを発生させる。
種の保存というよりも自己保全の目的の為に機能する脳の構造部位である。

A旧哺乳類脳(paleomammalian brain)
爬虫類脳に次いで進化した脳器官で、海馬、帯状回、扁桃体といった“大脳辺縁系(limbic system)”から成り立つ。
個体の生存維持と種の保存に役立つ快・不快の刺激と結びついた本能的情動や感情、行動につながる動機を生起させる機能を担い、危険や脅威から逃避する反応、外敵を攻撃する反応を取る原始的な防衛本能を司る脳の構造部位である。
大脳辺縁系は、本能的に遂行される“種の保存の目的=生殖活動”を司る部位であり、自己の遺伝子を継承する為の情動的評価に基づく社会的活動や集団行動を行い、無力な子の育児や保護を行う母性的な欲動・本能の源泉でもあるとされる。

B新哺乳類脳(neomam-malian brain)
最も新しい年代に発生した脳器官であり、大脳新皮質の両半球(右脳・左脳)から成り立つ。
言語機能と記憶・学習能力、創造的思考能力、空間把握機能などを中軸とする高次脳機能の中枢であり、ヒトと高等哺乳類において特に発達した知性・知能の源泉でもある。
マクリーンの仮説では、新哺乳類脳は、最も高次の階層構造として最も高度で複雑な情報処理を行う部位であるとされるが、大脳新皮質単独では高度な情報処理を行うことはできず、大脳辺縁系や脳幹、小脳などと相補的に協調し連動しながら高次な精神機能を実現していると考えられる。
私たちの幸福と苦悩に関連する“情動の中枢・大脳辺縁系”で作用する脳内の情報伝達物質(神経伝達物質)には、以下のようなものがあり、大まかな情緒作用と化学物質について記述しておく。

■興奮・歓喜・陶酔・恍惚などの強い情動作用
PEA(フェニルエチルアミン)

■興奮・興味関心の促進・気分の高揚・意欲などの情動作用
ノルアドレナリン(ノルエピネフリン)、ドーパミン、セロトニンなど

■情緒安定・落ち着き・安らぎ・信頼と安心などの情動作用
エンドルフィン・セロトニンなど

■不安・恐怖・不快・攻撃性などの情動作用
コルチゾール、アドレナリンなど

それぞれの神経伝達物質の作用を厳密に分類し記述することはできないが、おおまかに神経活動を促進し高揚させる物質と神経活動を抑制し鎮静させる物質があり、前者は躁状態や幸福感、爽快感を導き、後者はうつ状態や意欲の減退などを導く。
また、脳内モノアミン仮説では、脳内のセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの不足・枯渇が神経細胞間の情報伝達活動を障害して、うつ病をはじめとする気分障害・感情障害の原因となるとされている。
神経活動を覚醒させて活発化させるドーパミンの分泌過剰は、統合失調症(旧・精神分裂病)の生物学的原因であると考えられている。
http://charm.at.webry.info/200506/article_5.html

___________


2) 幽体離脱とは


幽体離脱! 右脳の電気刺激、肉体の外に意識出た感じ


・右脳のある部分に電気刺激を与えると、意識だけが肉体の外に出たように感じる「幽体離脱」を引き起こすことを、スイスのジュネーブ、ローザンヌ両大学病院の研究チームが発見した。  

2002年9月19日発行の英科学誌ネイチャーに発表した。

 チームは、43歳の女性のてんかん患者の治療のため、発作の原因となっている部位を特定しようと脳に電極を差し込み、電気刺激を与える実験をした。

 右側頭葉にある聴覚野の後ろを刺激すると、患者は「ベッドの中に沈んでいるような」感覚を訴えた。

刺激を強くすると、「横たわっている自分の下半身を上から見ている」
「ベッドの上2メートルほどのところに浮かんでいるような感覚がする」
と話した。

 腕を伸ばしていた場合には、左腕だけが短くなったように感じたという。

 こうした結果から、チームでは、平衡感覚と自分の体の部位をイメージする感覚を脳でうまく処理できない時に、「幽体離脱」を感じるようだとしている。


______

臨死体験、脳のここが働いていた スイス研究 2002.09.28

(CNN) 

「自分が死んだときに、体から魂が抜けるのを見た」などという「臨死体験」は、関心を呼ぶことが多いが、医学的にどんな現象なのかはほとんどわかっていない。

しかし、スイスの研究チームがてんかん患者の脳のある部分を刺激すると、患者が臨死体験することを偶然見つけ、英科学誌ネイチャーに発表した。

スイス・ジュネーブ大学病院神経科のオラフ・ブランケ博士は、てんかんの女性患者(43)を治療中、右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分を電極で刺激したところ、必ず患者が「自分の体から抜ける」ような情景を体験したことを確かめた。

この患者は、過去11年間てんかんに悩まされ、ブランケ博士らは、てんかんの原因になる脳の場所を突き止めようとしていた。

患者の脳には100個以上の電極がセットされ、場所を変えて次々に刺激が与えられたため、チームは「患者が脳の特定の場所の刺激によって臨死体験を見た『ふり』をした可能性はほとんどない」と考えている。

角状回は、体や空間の認識、論理的な順序づけを統御する、脳の中でも複雑な部分。

クリーブランド医療財団のシンディー・クブ博士によると、角状回に異常がある患者は、ズボンをはいてから下着をはこうとし、そして「何かおかしい」と気づいたりするという。

また、手や足が体とつながっていないと感じたりするという。

臨死体験は、脳のどこかの神経細胞で、情報伝達の途切れや誤りが起きているのが原因ではないかとみられているが、特定の部分が関与していることを示唆する「結果」は珍しい。

今回の結果は、臨死体験を研究しようとして得られたものではなく、偶然発見された。

比較されるべき対照患者グループも用意されていない研究だが、この分野の専門家は「説得力があるものだ」と評価している。
http://www.asyura2.com/2002/health1/msg/485.html

脳内に電極を埋め込んだ男性、体外離脱を経験
2007年 11月 2日 17:08 JST

 [ボストン 31日 ロイター] 耳鳴り治療のために脳内に電極を埋め込まれた男性患者(63)が、その影響で体外離脱を経験していたことが分かった。

 ベルギーのアントワープ大の研究者らが31日、学術誌「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に論文を発表した。

 電極に刺激を与えたところ、この患者は15秒間と21秒間の2回にわたって自分が体外に離脱したような感覚を覚え、医者がCTスキャンによって脳内のどの部分が活発になっているかを調べたという。

 心停止から生還した人などから報告される体外離脱の感覚について、一部の人は死後の世界がある証拠だと論じている。一方、科学者の多くはその見方に懐疑的で、脳が錯覚を起こさせる現象だと指摘している。

 アントワープ大の研究者らは、患者の耳鳴り治療に脳内電極を試していたが、その成果は上がらなかった。その代わり、患者は自分の肉体から50センチほど後ろに離れ、左側に行く感覚を経験したという。
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/199.html

(2007/8/30) 人工的「体外離脱」体験に成功

「体外離脱(幽体離脱)」を疑似体験させる2研究がヨーロッパで実施され、米科学誌「Science」8月24日号に掲載された。

「体外離脱」とは、肉体を離脱して自分の体を離れたところから見ているような感覚のことで、ストレスにより視覚、触覚、自分が自分の肉体にあるという固有受容感覚などが分断されたときに生じるという。

時に外傷を受けた人が臨死体験として報告している。

臨死現象研究専門家であるKevin Nelson博士によると「体外離脱」は珍しくはなく、20人に1人は体験しているが、自然発生的でコントロールできないため、これまで詳しく研究することが難しかった。

 今回の研究の一つは、英ロンドン大学(UCL)神経学研究所のHenrik Ehrsson博士らによるもの。

被験者にハイテク3Dゴーグルを装着させ、約6フィート(約1.8m)離れた位置から撮影した自身の体をリアルタイムの3D映像で見せた。

プラスチック棒で被験者自身の胸部(本人には見えない)に触れると同時に、映像の同じ部位にも触れたところ、被験者は自分の肉体を6フィート離れた後ろから見ているような感覚を覚えたという。

さらに、幻影の体をハンマーで打とうとすると、被験者に発汗の増大がみられ、その恐怖を現実のものと感じていることが示された。


もう一つの研究は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校Ecole Polytechnique Federal de Lausanne(EPFL)のOlaf Blanke氏らが実施したもの。

被験者に、自分自身の体、人体模型、四角形をしたブロックのホログラフィ映像の一つを見せ、映像の「背中」をブラシでなで、時々は同時に被験者自身の背中もなでた。

その直後、目隠しをして後退させ、自分がいた元の位置まで戻るよう指示すると、模型またはブロックを見ていた被験者は正確に元の位置に戻ったが、自分自身の映像を見ていた被験者は幻影があった位置まで進んだという。

 専門家の一人は

「興味深い研究。
体に触られた感覚を、まるで別のところにある自分の体を“見て”いるように感じている。

これは、車を運転するビデオゲームで、運転する車の映像は自分の前に見えているのに、
あたかも自分が車の中にいるように感じる人がいることにも似ている」

と述べている。

 Nelson氏によると、どちらの研究も「体外離脱」を完全に再現したわけではないが、空間の中で自分の存在を認識する上で視覚が重要であることを示すものだという。

通常、脳で行われている視覚と触覚や固有受容感覚との統合が、幻影により混乱させられ、その結果、一時的に自分の肉体が隔絶しているような感覚を覚えるのだという。

同じことが睡眠−覚醒の過渡期や、脳が死に近い状態にあるとき、特定の病状にあるときに起きている可能性もあるという。

 ただし、視覚だけが最も重要というわけではなく、ほかの感覚についても実験方法があれば同様の結果が得られるはずだという。

この知見は、神経化学分野にとどまらずテレビゲームや遠隔手術などに応用できる可能性もあるほか、神学や哲学の核心に踏み込むとも思えるものだが、霊的なものとを混同するべきではないとNelson氏は指摘している。

原文[2007年8月23日/HealthDay News]
http://health.nikkei.co.jp/hsn/news.cfm?i=20070830hj000hj

_______________


 3) 臨死体験=脳内現象説


 臨死体験=脳内現象説は、臨死体験は死ぬ間際の人間が脳の作用によってみるただの幻覚の一種だという主張です。

 これに関して、1920〜1940年代にアメリカの脳神経学者ペンフィールドが行った興味深い実験があります。

ペンフィールドはてんかん患者を治療するために頭蓋骨を切り開き、どこの部位を切除すれば機能が回復するかをテストしようとしました。

 このとき、ペンフィールドは

電気で側頭葉を刺激すると、患者が「自分の体が浮かび上がっているように感じる」

などということに気がつきました。
これを聞いて学術的興味深々のペンフィールドさん。

「面白いオモチャを見つけた」とばかりに患者の脳をいじくりまくります。

ぐりぐりぐりぐり。

てんかんの治療はどうしたんでしょうか?


 まず、側頭葉のある部位を刺激すると、「浮遊体験」が感じられ、

別の部位を刺激すると、「自分の魂が体から離れていっている」という感覚に襲われる

ことが判明しました。
もしかしたらこの患者だけなのかもしれないので、念のためとばかりにペンフィールドは、同様の実験を他の患者にも試し、脳をぐりぐりぐりぐり。

同じような言動をすることを確認。

 また、側頭葉のシルヴィス溝を刺激された者の中には対外離脱だけではなく、神に逢ったと主張する者もいました。

 そういえば、日本で「悪魔を祓うために体を清める」と称し、いとこを殺害して体を塩で清めたという悪魔祓い殺人事件では、側頭葉てんかんを持った男が「神の声を聴いた」と主張したのが始まりでした。

側頭葉には神様が住んでいるのかもしれません。

 臨死体験=脳内現象説の理論はこれだけではありません。

 もしあなたが自転車に乗っていたら、ドカンと車にぶつかってみましょう。

あなたの人生が一瞬にして早送りで再生されるはずです。
そうです、走馬灯です。

 この別名「映画フィルム式思考」と呼ばれる、死に直前で自分の一生が一瞬で思い出されるという体験は、クスリの服用でも体験できます。

 クスリの名前はセントロフェノキシンという、スマートドラッグとしてアメリカでかなり出回っている代物。

これを服用すると、突然数十年前の思い出が鮮明に甦ってくることがあるのです。


 他には、LSDなどの麻薬で体験する幻覚には、

長いトンネルの映像、
まばゆい光、
別世界の住人、
生死を問わず様々な友人や家族

が登場します。

 いくつかの薬物が臨死体験に酷似した幻覚を生み出すことは以前から指摘されていました。

臨死体験が脳内物質や脳内現象による幻覚であると仮定するならば、それと同様の薬物を投与することで臨死体験と同様の体験ができ、そのメカニズムと解明されることになります。


 1980年の時点で既に、精神薬理学者のロナルド・シーゲルにより、臨死体験と薬物による幻覚の類似性が指摘され、亜酸化窒素やエーテル、ケタミン、フェンシクリジン(PCP)、ヘロインなどの薬物の名が挙げられています。

 さらに、オークランド大学のイェンセン教授は、

「人間が死に瀕したとき、脳内の神経細胞を酸欠状態から防ぐために、エンドサイコシンという物質が大量に放出される。

これが臨死体験を引き起こすのだろう」

という説を発表した。
この説はあくまでも仮説であり確証はありませんが、人間が極限状態に陥ると、脳内麻薬が発生することは昔から知られていました。

死の直前というのは究極の極限状態ですから、脳内麻薬が大量に発生し、それが脳内に幻覚を生み出すのは十分に考えられます。


 大脳酸素欠乏症説というのもあります。

 肉体が危篤状態になったり、ほんの一瞬でも心臓が止まると、大脳の酸素が欠乏します。

この大脳酸素欠乏は、短時間であっても重大な損害を脳に与えます。


 この大脳酸素欠乏状態に陥ったとき、最初に幸福感や全能感がやってきて、

さらに酸素欠乏が進むと現実判断能力が失われ幻覚が生じます。


 日本の武道の場合、柔道の絞め技などで「おちる」瞬間は非常に気持ちいいと言われています。

 これらは、直接 臨死体験=あの世 を否定するわけではありませんが、

人間の脳に刺激を与えたり、ドラッグを服用することで擬似的な臨死体験をすることができるのは事実です。
http://psychology.jugem.cc/?eid=19

______________
______________

7. 釈迦がエロスの世界を遠ざけた理由

エロスとは古代インドでヴェーダの究極の悟りとされている梵我一如の世界そのものなんですね。
そして釈迦が本当に否定したかったのはエロスではなく、梵我一如の概念の方だったのです。
即ち、釈迦はアートマンの存在をどうしても否定したかったのです。
しかし、アートマンを抹殺するとエロスまで一緒に消えてしまうのですね。
大乗仏教が生き残った理由は釈迦が否定したアートマンを無という概念で言い換えて、エロスの世界を認めたからなのです。
アートマンというのは死後も生き続ける個人の魂ではなく、単に無意識をイメージ化して出てきたものに過ぎないのです。

釈迦がその存在をどうしても否定したかったアートマンは心の中に確かに存在します。

それはヴェーダではプルシャ(神人)としてイメージ化されています。
大乗仏教や密教では眩い光に満たされた空なるものとしてイメージ化されます。
無意識の浅い層をイメージ化すると人間の姿をしたプルシャ(神人)になり、深い層をイメージ化すると眩い光に満たされた空なるものになるのです。
これはユダヤ教の人格化されたヤハベの神と新約聖書の人間にはその姿が見えないキリスト教の愛の神の関係と同じです。

但し、釈迦が本当に否定したかったのは眩い光に満たされた唯一なるアートマンではなく、個々の人の魂としてイメージ化されたプルシャだったのです。

眩い光に満たされた唯一なるアートマンは誰が体験しても同じ様なイメージで現れますから、ヴェーダに書かれている様に、人間の死後もアートマンは永遠に生き続けると言えない事もないです。
一方、人間が死んで脳が溶けてしまえば、個々の人のプルシャも地獄や極楽と一緒に消えて無くなってしまいます。
従って、釈迦の「永遠不変なものはない」という言葉もまた真理なのです。

エロスに関係するのは勿論、個々の人のプルシャではなく、眩い光に満たされた唯一なるアートマンの方です。

仏教が一般人に正しく理解されないのは
個々の人のプルシャと 眩い光に満たされた唯一なるアートマンとを区別せずに ごっちゃにしている事が原因なのです。

釈迦が実在を否定したのは個々の人のプルシャと死後の世界・輪廻転生
大乗仏教で空と呼んでいるものは眩い光に満たされた唯一なるアートマン

と考えればいいと思います。

釈迦の悟りというのはそんな大層なものではなく、
個々の人のプルシャが唯のマーヤ(幻妄)であると認識する
という内容でしょう。

個々の人のプルシャが唯の幻影なら、地獄・極楽も輪廻転生も又すべてマーヤ(幻妄)で、単なる心の中のイメージに過ぎないという事になります。
よくある臨死体験と同レベルの体験です。

梵我一如というのは眩い光に満たされた空の世界を実体験するという事でしょう。
一般人には密教の様に麻薬を使わない限り体験できない世界です。

________

「サーンキヤ思想」における「プルシャの独存」

「プルシャ」というのは、純粋精神とも言えるもので、これは或る意味でアートマンの言い換えでもあるのです。

つまり、精神の現象と世界などの物質現象の現れについて、これを理論的に説明する思想がサーンキヤ思想なのです。
そしてサーンキヤ思想では、「プルシャの独存」という仏教だと「解脱」に対応するような、純粋精神の実現の課題を考えます。

どのようにプルシャの純粋性を達成するか。

実は、サーンキヤ思想のこのような課題に対応する「実践的修行体系」として、古典ヨーガの瞑想修行や思想のシステムが構想され築かれています。
つまり、古典ヨーガでは、プルシャの独存の達成のための修行の段階を説明し、
最終の「独存」に至るまでの瞑想修行の過程が解説されているのですが、
このような古典ヨーガの瞑想修行過程において、「得られる体験」が、梵我一如の真理の確認体験の一つだとも言えます。

なぜなら、先にプルシャとは、アートマンの言い換えだとも言いましたが、
「プルシャの独存」とはどういう事態なのかを考えると、これが「梵我一如」と密接な関係を持つことが分かります。

「プルシャの独存」は、マーヤーの幻からの「完全な離脱」を意味します。

このとき、個々の人のプルシャは、その「本質」が明らかになる訳で、

独存状態においては、プルシャは「誰かのプルシャ」ではなくなり、
個々人の精神の根柢にある、原型としてのアートマンそのものに一致し、

アートマンはこのとき、個々人のアートマンではなく、本来の「唯一なるアートマン」となり、
この「唯一のアートマン」とは則ち、「ブラフマン」に他ならないからです。


ブラフマンがマーヤーにおいて現象を展開してゆくことにおいて、
わたしとかあなたなどの「個人」の区別が生まれ、
その個人の主体精神の本質としてアートマンが考えられているのであって、
マーヤーから脱した純粋なアートマン、つまり「独存のプルシャ」は、結局、ブラフマンと一致することになるのです。


インドにおいては、古典ヨーガの瞑想修行を通じて、梵我一如の真理が体感されるのだとも言えます。
(古典ヨーガとは、『ヨーガ・スートラ』に述べられている瞑想修行体系とその実践思想で、ヨーガはこの後、様々に展開し多様なものとなりますが、しかし、根本には、古典ヨーガの思想が流れています。

ヨーガ一般の最終目標は、マーヤーからの離脱、
従って、プルシャ、アートマンの独存なのです。
従って、ヨーガの瞑想修行を通じて、梵我一如の真理の確認が試みられるとも言えます)。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1094165.html

仏教の自我と無我について,ここでまとめて考えてみましょう

西洋の自我に対し,仏教の基本的な考え方は無我の立場であるといちおう言えると思います。
次に問題は,日本の仏教学が「有」すなわち実在論に立っているか,「空」すなわち非実在論の世界観に立っているかということです。
大乗仏教が成立する前の部派仏教の時代では,説一切有部の名のとおり法(事物)は実在するという立場でした。
ところが3世紀になって大乗仏教中観派の竜樹が書いた『中論』の中の,いわゆる「空」の思想が,従来の実在論を大きく転換させる契機になったと言われています。
それでは,こうした「空」の思想が,当時どう理解され,その後どのように伝えられていったかを考えてみたいと思います。
まずこれに関連する中論の中の3つのキーワードを取り上げてみます。
それは,
空(シューニア),無自性(ナスバータ),縁起(プラティティアサムツパーダ)
で,4世紀に鳩魔羅什が,括弧内のサンスクリット語を現在の漢字に翻訳し,
それが日本で通説の「空」論,あるいはダルマ(諸法=事物)非実在論の根拠になっています。

それでは,これらのサンスクリット語の漢訳ははたして正しい訳であったかということが問題になります。
これについて日本の仏教学界には,シューニアを空としたのは羅什の世紀の誤訳であったとする学説があります。
当時,竜樹はサンスクリット語のシューニアを仏教の最高のレベル状態と考え,
中国で主流であったタオ思想の最高のステージである玄あるいは無に準えて,空と漢訳した
という見解です。
確かにシューニアには,空のほかに諸法実相つまり「ありのままである」との意味もあるということから,もし後者のラインでいけば,

無自性は「すべてのものには実在がない」
ではなく
「ダルマの主観的な独自性を否定した」

だけと言えるし,また

縁起は「すべては相互的依存関係であって実在がない」
ではなく,
本来の意味の「眼に見える総合的関係」

と考えるのが適切と言えるというものです。
特に日本の仏教学会で空の思想が多数説になったのは,明治以降の圧倒的な西洋の実在論に対抗するために,独自の世界観を求めたことにあったからだとも言われています。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/u-jung/page7/page7.htm

________

釈迦がプルシャ(神人)としてイメージ化されたアートマンをどうしても否定したかった理由

六道輪廻について
 
 世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。

しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。

それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。


 そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。

かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。

釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。

 その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。

生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。

 趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。

 ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。

 というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。

たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。

つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。

善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。


 これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。

要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。

 ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。


 しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。

しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。


 それと、釈尊について知っておくべき基本的前提は、釈尊が確かにこの通りしゃべったといえる言葉は残念ながら一つも残っていないということです。

大乗経典はもちろんのこと、最初期の経典にもそれを見つけるのは困難です。


 しかし、釈尊がしゃべった言葉にかなり近いだろういわれているものはあって、スッタニパータ(『ブッダのことば』岩波文庫)やダンマパダ(『真理のことば/感興のことば』同)の中の言葉がそれにあたります。

もしお知りになりたければ、その中でも、スッタニパータの「八つの詩句の章」と「彼岸に至る道の章」をまず読まれることをおすすめします。そこには、仏教の基本的教えとされる「諸行無常」も「諸法無我」も出てきませんし、菩提樹の下で瞑想し自己と宇宙に関する究極的真理を体得したとかいった神話もありません。

それらは釈尊よりはるかに後の人が釈尊の教えを整理した言葉、あるいは、釈尊の教えを宣伝するために作った物語なのですから当然ですが、とりあえずそういうものをいったん忘れて釈尊の言葉を読む必要があると思います。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html


(1)「無我」の思想
ブッダが、インドの伝統的な信仰であったバラモン教(後のヒンズー教)の中心的概念であった、
輪廻転生しながら永遠に生き続けるというアートマン(atman 個我=魂)
を否定して、アン・アートマン(anatman 無我)を説いたことを疑うのは極めて困難です。

それは、あまりにも多くの文献において書き残されており、しかも、仏教徒の書いたものだけでなく、彼らの宗教的・思想的ライバルたちによっても、仏教徒たちがアートマンを否定していることに対するさまざまな批判が、書き残されているからです。
もし、ブッダが魂の否定としての無我を説かなかったとすれば、たとえば、『ミリンダ王の問い』に書き残されているような、
「もしアートマンが存在しないのなら、改組・回帰(輪廻転生)していく、当のそのものは、なにものか」
というような問いに仏教が明確な解答を与えようと大変苦労した思想史的事実が説明できなくなってしまうでしょう。

また、「アートマン」という概念はバラモン教の哲学(ウパニシャッド)にとって本質的なものであって、
それなくしては、ウパニシャッドの語る宗教的救い(ブラフマンとの合一)がなくなってしまいますが、
そのような重要な概念を真っ向から否定する「アン・アートマン」という概念を使用したことは決して軽く見るわけにはいきません。
単に、「自己中心的な生き方を否定する」、といったような凡庸な教えにすぎないのなら、バラモン教・ヒンズー教にもあるのであって、わざわざ「アン・アートマン」という概念を持ち出す論理的な必要がありません。
なぜブッダはアートマン(永遠の魂)を否定したのか、この問いは、大変重要な問題なのです。


(2)「目覚め」の思想
死を恐れ、永遠の生命を望むのは、古今東西、どこでも見られる現象です
そのため、古代人はさまざまな空想を駆り立てて、死後も生き残る自己の物語(エジプトのミイラ、中国の仙人、キリスト教の復活、インドのアートマン、日本の魂、など)を創造してきました。
さいわいなことに、古代インド人は彼らの思想を伝達することにきわめて熱心で、たとえば、リグ・ヴェーダ経典は世界最古(おそらく西暦前1200年頃成立)の残存する経典となっています。
そこで、彼らの古代の経典を調べることによって、どのようにして、古代インド人がアートマンというものを信じるようになっていったか、その初期の状況をかなりくわしく知ることができます。
たとえば、『ブリハッド・アーラヤヌカ・ウパニシャッド』には、アートマンが次のように説明されています。
「アートマンとはどのようなものか」

「認識からなり、諸機能のうちに、(また)心臓に存在する内部の光であるこのプルシャ(神人)であります。

彼は(かなたの世界とこの世界に)共通ですから、両世界を往来します。
(かなたの世界では)沈思するかのようであり、(この世界では)動き回るかのようであります。

彼は夢となって、この世界…、死のさまざまな形を超え出ていくのです……。

まさしくプルシャ(神人)には、実際には二つの状態があります。
(目覚めて)この世にあることと、(熟睡して)かなたの世界にある状態とであります。

夢の状態は(両者の)つなぎ目になる第三のものであります。
そのつなぎ目の状態にあるとき、彼はこの世に在ることと、かなたの世に在る状態という、この二つの状態を見るのです……。

彼は眠っているとき、万物を包蔵するこの世界から物質素材をとり、自ら破壊し、自ら創造し、自らの光輝により、自らの光明によって夢を見るのです。
この場合、神人は自らを光明とするのであります……。

その点について次のような詩節があります。

黄金の神人、一羽の鷲鳥は、
眠りによって、身体にかかわるもの(この世)に打ち勝ち、
自らは眠らず、眠った者たちを観察する。

彼は光を得て(目覚めて)、もとの位置に戻る。

黄金の神人、一羽の鷲鳥は、
下方の巣(身体)を、気息によって守りつつ、
不死となって、巣(身体)から外に歩み出で、
望むところに、不死のものとしておもむく、

夢の中で、あるいは上昇しあるいは下降し、
神として、さまざまな形像をつくり出す。

……

人々は彼の巣である園林を見るが、
だれひとり彼を見るものはいない。

……彼は、実に、この安全な安息(熟睡状態)のなかで楽しみ、徘徊して、善いこと悪いことを見た後に、もとのところへと進路を逆にたどり、夢へと馳せ戻るのです。」
(長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』より)

アートマン(永遠の魂)という概念が、ここでは、夢の中で自由に行動する自己と同一視されています。

そして、夢の中の世界や熟睡状態の世界をもう一つの事実の世界であると見なしています。

このような夢の内容をそのまま事実の世界と思い込む現象は、決して、古代インド人だけに特有のものではなく、現代人のなかにもしばしば見られるものです。

たとえば、「ベッドに横たわる自分の姿を上から見ていた」、という内容の夢を見た人が、夢を事実と取り違えて、

「身体から抜け出した魂が抜け殻の身体を上から見ていた」、

というふうな解釈したりする話を、今日でもときどき聞きます。


上記の「自らは眠らず、眠った者たちを観察する」という表現も、そういうことを意味してるのでしょう。
しかし、古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。
それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。
ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。
夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。

目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
(「ヨーガ・スートラ」、同上)
このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。

さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、

ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)
とか、
心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)


などともいわれます。

夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の目的だったろうと思われますが、

後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。

いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。

このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。

つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。

このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。
ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は
なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。

また「友」と呼んでもならない。

わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。
(『マジマ・ニカーヤ』26)


と宣言します。すなわち、

「buddh =眠りから醒める」

という言葉を用いることによって、

彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定

にあることを主張したのだ、と考えられます。


___________


(3)「知の領域」の思想

もし、真理の根拠を、夢や空想にではなく、目覚めて生きるこの現実の事実の世界のみにおくとすると、わたしたちは、たちまち、知識の限界に突き当たります。
宇宙の始まりのその前はどうだったのか、宇宙の果てのその向こう側はどうなっているのか、死後の私はどうなるのか、等々、数え上げれば切りがありません。
それでもわたしたちは執拗に、これらのことを知りたいと欲し、そのようなわたしたちの要求に応えて、人類の無知を克服したと豪語する宗教家・空想家の出現は、あとを絶ちません。
ブッダは、このような問いに、どのように応えるのでしょうか。
さいわいに、人間の知りたいと思うことは、昔も今も、あまり変わらないようで、まさに、わたしたちが問いたい問いをブッダに訊ねた人がいました。
その名をマールンキャプッタ(摩羅迦)と言います。

ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。

そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、

世界は有限であるとか、世界は無限であるか、

魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、

人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、


これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。

世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。

だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」


そこで尊者マールンキャプッタは、夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やって来て、世尊に挨拶をして、片隅に座った。
片隅に座った尊者マールンキャプッタは世尊に言った。

「師よ、わたしが人影のないところへ行って静思しておりましたら、こころに次のような考えがおきました。
すわなち、これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。
世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、
これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。
世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。
だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。
もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう、と……。」

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」
「師よ、そのようなことはありません。」
「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)
マールンキャプッタよ、世界は永遠であるという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また世界は永遠ではないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、世界は永遠であるという考え方があろうと、世界は永遠ではないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

マールンキャプッタよ、世界は有限であるという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また世界は無限であるという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、世界は有限であるという考え方があろうと、世界は無限であるという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」

以上のことを世尊は語られた。
尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(『マジマ・ニカーヤ』63抄訳、同上)

これは、有名なブッダの「毒矢のたとえ」の初めの部分と終わりの部分です。

それは、何が大切な問いであり、何が大切な問いではないかを語ったものですが、注目すべきは、ブッダが、

「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」

と、あえて語ることを拒否した事柄がすべて、人間の知の及ばない領域に関するものであることです。
そして、そのようにしてブッダが応えることを拒否した問題のひとつが、

「人間は死後も存在するかどうか」

という問いです。

なぜなら、そのような領域に関するわたしたちの詮索は、結局、空想にしかすぎず、したがって、何の役にもたたないからです。

事実に基ずく真理(知の領域)以外は真理として認めなかったところにブッダの思想の特徴があると言えるでしょう。

(4)権威ではなく事実に徹する

どんなに素晴らしい理想を心に思い描いても、それが事実に基づかず、空想にすぎないなら、ふくれあがったバブルのごとく、やがてはじけて消滅してしまうでしょう。
いかに若さを誇っていても、老衰と死が、必ずわたしたちを襲います。
そのために、古今東西、世界中の人々は永遠に生き延びる自己を空想して慰めを得ようとしましたが、一人、ブッダは、峻厳なる事実から眼を背けることなく、老衰と死を克服する方法を説いたのです。


カッパさんが尋ねた、

「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(非難所、よりどころ)を説いて下さい。

あなたは、この苦しみがまたと起こらないような洲(非難所)をわたくしに示してください。
親しき方よ。」

師は答えた、
「カッパよ、極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(非難所)を、わたしは、そなたに説くであろう。
いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと ---
これが洲(非難所)にほかならない。
それをニルヴァーナと呼ぶ。 それは老衰と死との消滅である。」
(『スッタ・ニパータ』1092-1094 中村元訳)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html

アートマン(死後も存続する永遠の魂)の否定

仏教はアートマンを否定しました。
そしてそれをしばしば「無我」(アナートマン、アナッタ)ということばで表現しました。
それは決して、たんに「我執を去る」というような教えではありません。
また、食ったり歩いたり寝たりする日常的「わたし」を否定したわけではもちろんありません。
そうではなく、人間やものに内在していると信じられている恒常な本体、つまり、(人間で言えば)「死後も存続する永遠の魂」を否定したのです。
わたしたちは、無我の思想に出会わずして仏典を読み進むことはできません。
いたるところで、仏典は無我の思想を語るからです。
仏教がなぜ無我を主張したかといえば、仏教の思想の前提に無常の思想、つまり、

「常住するものはない」、
「永遠不変なものはない」、
「ものはすべてうまれ、変化し、滅亡する」、

という思想があるからです。
「無常(常住するものはない)」という概念と「永遠に存続する魂」の概念は矛盾すると考えられたのです。
原始仏典の中では、無常ということがすべての教えの前提になっている。

「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては無我である」

という文句は、原始仏典のいたるところでお目にかかる。

無常・苦・無我という概念は、直前の表現のように、いつでも並列されているというわけではない。
三つの中でも無常は、苦と無我の根拠とされていることも多い。

すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、というようにである。
(梶山雄一、『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、8頁)

仏典を読むものはどうしてもこのような無我の思想にぶつかるのです。
つまり、わたしたちの経験世界は見渡すかぎりすべて、わたしたちの肉体も意識もすべて、変滅しており、常住不変なるものはどこにも見つけることはできない(諸行無常)、
だから、常住不変であるとされているアートマンなるものはわたしたちの経験世界にはどこにもない(諸法無我)、
という主張です。
これが、仏教のアートマン否定の一つの側面です。
仏教のアートマン否定のもう一つの側面は、わたしたちの経験を越えた世界に関する主張の否定です。
たとえば、
人(如来)は死後も存続して永遠に生き延びていく(いかない)、
というような主張を、ブッダは「おろかな考えである」として否定したのです。
「弟子たちよ、『我』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、

『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』

というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」


「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ、22:25)


ブッダ自身は、死後の世界とか、世界の始まりだというような、経験を越えた世界に関する問いには、沈黙をもって応えました。

経験を越えた世界に関してはだれもなにも知らない(「真実として捉えられるものではない」)のだから、経験を越えた世界に関する主張はすべて独断(「おろかな考え」)にすぎず、修業の目的(解脱、ニルヴァーナ)の為には、何の役にも立たない、と考えたからです。

これが有名なブッダの沈黙(無記、捨置記)です。 例をあげておきましょう。

ヴァッチャというある修行者がブッダを訪ねて、

「世界は常住であるかどうか」
「世界には辺限があるかどうか」
「霊魂と身体は一つであるかどうか」
「人は死後にもなお存在するかどうか」

などの質問をしますが、これらの問いに関してはブッダは意見を持たないことをヴァッチャに告げます。
そこで、ヴァッチャは、
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか」
と問います。 そこで、ブッダは答えます。
ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。

それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)


このように、「死後、我は永遠に生きるかどうか」というような(答えのでない)問いに対する見解は独断に過ぎず、修業の目的の為には何の役にも立たない、というのがブッダの立場であり、それでも、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」と主張するものに対しては、ブッダは実に端的に、「おろか」であると戒めています。


ヴァッチャは、さらに、尋ねて聞いた。

「世尊よ、では、執着を離れて解脱した者は、いずこにおもむいて生れるのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれるというのは、適当ではない。」

「では、どこにもおもむいては生まれぬというのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれぬというのも、適当ではない。」

「世尊よ、それでは、わたしはまったくわからなくなってしまった。

以前に世尊と対座問答することによって、わたしの得た深い確信すらも、すっかり消えうせてしまった。」

すると世尊は、彼のために、このように説明せられた。


「ヴァッチャよ、なんじがまったく解らなくなったというのは、当然であろう。

ヴァッチャよ、この教えは、はなはだ深く、知りがたく、すぐれて微妙であって、智慧あるもののみが知りうるところのものである。

他の見解にしたがっている者や、他の行をしている者には、とうてい知られがたいものであろう。

だが、ヴァッチャよ、わたしはさらに、なんじのために説こう。

いまわたしが、なんじに問うから、思いのままに答えるがよい。


ヴァッチャよ、もしなんじの前に、火が燃えているとしたならば、なんじは、火が燃えている、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、なんじは何と答えるか。」

「それは、この火は、薪があるから燃えるのだと、わたしは答える。」

「では、もしなんじの前で、その火が消えたならば、なんじは、火は消えた、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、なんじはいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。

かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」

そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。


「ヴァッチャよ、まったくその通りである。
そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。

その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・

そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」
(同上、増谷文雄訳)


ヴァッチャは、古代インド人の常識として当然のごとく、バラモン教・ヒンズー教・俗信の伝統にしたがって、執着を離れて解脱したものはどこか善いところ赴いて生まれると思い込んでいたのです。

そのために、ブッダにつまずいてしまったわけです。

ブッダの思想には、どこかに赴いて生まれる(赴いて生まれない)とか、よい世界に生まれ変わる(生まれ変わらない)とかいうような問いは、「いままで燃えていた火はどこに行ったのか」と問うことがまったく見当違いの問いであるように、まったく見当違いの問いだったからです。

ブッダは、比喩を用いて、火が消えるのはただ薪が燃え尽きたから消えたにすぎないのであって、火がどこか別の世界に赴いて行ったのではない、というのです。

ヴァッチャは、これを聞いてブッダの意味するところを理解することができ、ブッダに帰依します。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html


____________
____________


8. 釈迦の悟り

釈迦は森林に住まう修行者の群に身を投じ、教えを求め、様々な師を訪ね歩きます。

しかし、満足することはできず、6年間の激しい苦行の生活を行います。死にギリギリまで近づき、断食で皮と骨だけになるほどの修行でした。

釈迦は限界まで苦行を極めましたが、結局は苦行では悟りは開けないことを知り、苦行を捨てることにします。

釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。

しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。

他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。

釈迦はネーランジャラー河の岸辺で村娘スジャータが作ってくれた“牛乳がゆ”を食べて体力を回復させると、ガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入った。

悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となった。

ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになる。

釈迦はブッダガヤで悟った後、さらに49日間禅を組んだまま悟りの法悦の余韻にひたり、人生はここに極まったとして何も食べず死を選ぼうとした。

するとインド神話の創造神・梵天が目の前に現れ、彼に「悟りの内容を人に伝え広めなさい」と3回告げたという。

釈迦は伝道にあたり、最初に5人の苦行仲間がいるバラナシ郊外へ向かい、サールナートの鹿野苑で初の説法“初転法輪”を行なった。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic24.html


仏教の創始者であるブッダは菩提樹の下で命がけの座禅をした。

何日も何日も断食をし、不眠不休の座禅。

彼は精神と肉体を極限まで追い込んでいた。

それもこれも悟りを開き、人類を救済しようという大義のためだけに。

座禅瞑想の果てにブッタは遂に魔境にたどり着いた。

そこには魔羅というとてつもない力を持つ魔界の王が居たのである。

実はブッタは悟りを開く前に魔境の支配者である魔羅(マーラー)と戦っている。

一説によれば魔羅はブッタの闇の部分と言われているが彼は見事に魔羅に勝利し己の闇を克服した。

そしてブッタは深い瞑想状態から覚醒し、見事に悟りを開いたのである。

このように悟りを開こうとするものは己の中にいる魔物と戦わなければならない。

精神分析者のユングは己の中にいる魔物をシャドー(影)と言っていた。

つまり涅槃の境地を体得したいのであれば己の中に潜む魔を退治しなければならないのである。
http://religion.dot.thebbs.jp/1070291638.html

釈尊がさとったあと、榕樹のもとで瞑想していたとき、次のような想念が浮かんだという。

  『わたしによって証得された(adhigata)この法は、甚深であり、理解しがたく、さとりがたく、寂静で、すぐれており、分別の領域を超えており、微妙であり、賢者によって知られるべきものである。』(ヴィナヤ)
即ち、『さとり』に現れる『法』は、直感的、瞬間的な感得するようなものであって、いわゆる、思考によって得られるものではない。
そういう意味で、主体的(その人だけに現れるという意味で)であり、『さとり』で得られたものは、本来、言葉で表現しがたいものであり、概念によって(言葉によって)表現し、考える(思惟する)対象にはなりがたいものである。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm


ウパニシャッドにおいては、ブラフマン・アートマンが真実であった。
ウッダーラカは、サットを『この一切は、それを本性とする。それは真実(satya)である。」と説いた。
釈尊にあっては、真実とは、すなわち、法である。
個人、個物は、それを成り立たしめている諸法という存在根拠において真理性をになっている。
生成流転する現象世界が、そのままで、真理の世界(法界)である。
もし、不動の「われ」という静止点から、その流転する世界を見るとするならば、法界は対象的思惟の領域にあるといえよう。
しかし、「われ」も、その存在根拠を諸法にもつ。
したがって、「法を見る」とは、きわめて主体的な事柄であり、それは、換言すれば「法と即一なる自己」を見いだすことである。
ちなみに、法のこのような主体的側面は、原始仏教から部派仏教への展開の過程で失われていった。
_____________________________________

ゴータマ・ブッダは、それまで輪廻的な生存の最終原因であるとされていた欲望(貪と瞋)のさらに奥に、自覚しがたくコントロールしがたい根本的な生存欲(無明、癡、渇愛)を発見し、
それを智慧によって滅ぼし、そして苦である輪廻的な生存を終結させ、目覚めた人、ブッダとなった。

根本的な生存欲を滅ぼしたということは、とりもなおさず輪廻的な生存の直接の原動力である善悪の業をも滅ぼしたということである。
善悪というのは、人間が生活世界で生きるために欠かすことのできない価値である。
逆にいうと、ふつうの人間が、この世で生きることに意味を見出せるのは、善悪の価値を判断することに、何の疑いもなく意義を憶えるからにほかならない。・・・。
ところが、ゴータマ・ブッダのように最終的な心の平安(涅槃、寂静)にいたった人は、当然のことながら善悪を超越し滅ぼしているのであるから、価値判断に何の意義も見出すこともなく、したがってまた、この世に生きることに何の意味も見出すことがない。
ゴータマ・ブッダは、この世のものはすべて虚妄であるとか、空であるとか、幻であるとかいっている。
これは、そうしたことからの自然の帰結である。
ただ、誤解を避けるためにいっておくと、ゴータマ・ブッダは、・・・、シャンカラが唱えたような幻影論を唱えているわけではない。
ゴータマ・ブッダは、ここで「本質論的に(あるいは存在論的に)世界は虚妄である」といっているのではなく、
『目覚めた人、ブッダとなったみずからの実存にとって世界は虚妄である』
といっているのである。・・・。
根本的な生存欲を滅ぼした人にとって、世界のいかなるものも意味をなさないというのが、ゴータマ・ブッダが成道で到達した境地である。
このように、生の根源を断ち切ったゴータマ・ブッダには、まことに微妙な問題がつきまとう。
そもそも、根本的な生存欲がなくなるということは、とりもなおさず、生きようとは思わなくなるということである。
したがって、そのような状態にいたった人が、そのまま朽ちてあとは死を待つばかりという心境になっても不思議はない。
たとえば、仏教と同じ地域に同じ時代に興ったジャイナ教では、サッレーカナーというが、涅槃にいたった人はただちに完全な断食に入り、そのまま死ぬのである。」
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm
_____________________________________________________

釈迦の言う悟りというのは誰にでも困難無く達成できるものだった:

阿羅漢と言う言葉がありますが、インドの宗教一般で、「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだようです。

初期仏教では修行者の到達し得る最高位をこのように呼び、学道を完成しこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」ともいいます。

それ以下は、不還果・一来果・預流果を「有学」(うがく)位といいます。

この阿羅漢果を得た人はお釈迦様と同等の悟りを得たものと考えてよいはずです。

 サンスクリット語経典の中でも初期に書かれたものは、

お釈迦さまもガヤでの成道(悟りを開かれたこと)のあとサルナートに向かい、
つい最近まで苦行を共にしていた五比丘を訪れ、
初転法輪(初めての説法)によって五人の比丘は「釈尊と同じ悟りに入った」とされます。

ただ説教しただけでなく、それによって五比丘はお釈迦様と同等の悟りを得たと表現されている場合があります。

 また、釈迦の十代弟子といわれる人のほとんどは、釈尊のお墨付きをもらっています。

 有名な話は説法第一といわれる 富楼那という仏弟子がいました。

彼は、弁舌巧みな布教者でした。

あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになり、旅立ちにあたり、お釈迦様が質問しました。


「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」

「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」

「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」

「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれた』と思うことでしょう」


 これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。

辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。

こうした問答の後お釈迦様は、富楼那の悟りを認め旅立つことを許したといわれます。
 
 しかし、釈尊滅後それではだんだんと都合が悪くなってくるようです。

お釈迦様を特別な存在にしておきたい人々が現れます。

それが大乗仏教のと呼ばれる仏教を提唱する人々です。

その時に大乗仏教たちがそれ以前の仏教にたいして「小乗(劣った乗り物)仏教」と呼びはじめたのはご存知だと思います。

大乗仏教教団ができる以前は、お釈迦様以外悟っていなかったということはなかったはずです。

お釈迦様が悟りにオッケー出してるんだから「阿羅漢」が仏と同等ということに文句の付つけようがありません。


 しかし、大乗仏教では「声聞」を阿羅漢と呼び、批判的に仏と区別しています。

大乗の修行者を「菩薩」と呼び悟りを得ることはできるが、

小乗の「阿羅漢」と自然との対話の中で独自に悟りを得る「独覚(どっかく・または縁覚ともいう)」は仏になれないとされ、

さらには「地獄」へも堕ちることができず、その位のまま輪廻が繰り返される
とする論書さえ存在しているようです。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3288558.html

中村氏は、コーンダンニャの目覚めを<さとり>と訳している。
「ああ、コーンダンニャはさとったのだ! ああ、コーンダンニャはさとったのだ!」
と言うゴータマ・ブッダのことばがそれである。
宮元氏が「了知した」と訳しているが、二つの訳は日本語で読む限り別な意味を持つように思える。
もっとも、中村氏の「さとった」という訳語を「さとった=理解した=解かった」というふうに読めば、宮元氏と同じ意味合いになる。

 だが、中村氏は同じ本の中でも、また、別な本の中でも、「さとった」を解脱を意味する「さとり」としている。

  「ともかく右の文からみるとコーンダンニャが最初にさとりを開き、他の四人は釈尊の教えを受けて遅れてさとりを開いたのである。」
(ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯)

  「(688の註より)アンニャー・コンダンニャは、最初の説法を聞いて弟子となった五人のうちの一人として最初に挙げられる。・・・。
ブッダが鹿野苑で五人の修行者にたいして、最初の説法をしたとき、最初に阿羅漢のさとりを開いた人である。
ブッダが「ああ、実にコンダンニャは悟った」とたたえたので、アンニャーとかアンニャータと呼ばれるようになった。」(仏弟子の告白 テーラガーター)

 この、五人の最初の弟子たちの「さとり」は、いろいろな意味で重要なものであろう。
というのも、ゴータマ・ブッダの入滅後(死後)、「さとり」をだんだん難しく考えるようになり、容易に達することのできない境地としていくからである。
部派仏教では、次第に、「さとり」「解脱」「涅槃」という仏教教団での修行の一番の目標をどんどん高く難しくしていったようです。http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm

142 名前:名無しさん@3周年:2006/08/28(月) 23:51:26 ID:L6V0iys+

ブッダという呼び名を釈尊にしか使わないだけで、悟った弟子はたくさんいました。

ブッダが悟った後、かつての修行仲間4人に教えを説きます。

その4人が最初の弟子です。 で、その4人も悟りを開きました。

その時ブッダは喜んで、 「ここに5人の阿羅漢が誕生した」 と言ったそうです。

ブッダ自身も含めて5人の阿羅漢。


240 名前:名無しさん@3周年:2006/09/05(火) 22:18:32 ID:hu3AQYw8


本経(転法輪経)の説時はアーサーラ月の十五日(日本では八月二十二日に当たる)であった。

コンダンニヤ長老は転法輪の終了時に、
ヴァッパ長老は十六日に、
バッディヤ長老は十七日に、
マハーナーマ長老は十八日に、
アッサジ長老は十九日にそれぞれ預流果に達し、

二十日無我相経の終了時に五人全員阿羅漢果に達した。


244 名前:釈迦原理主義者:2006/09/06(水) 08:48:39 ID:ggnk6gBu

 最近思うのですが、仏教の目標である解脱者となることをあまりにも難しい大事業のように捉えるのは間違いではないか、と。

先ず最初から軽く且つ硬く「できる」と思い込む事が大事だと感じます。

人生何事もそうですが、できると思う人はでき、できないと思う人はできないのです。

 ゴータマブッダ御存命中は多数の阿羅漢がでました。
ブッダという先生・お手本が目の前にあったからです。
ところが、大乗と称する人たちは仏教をえらく難しく神秘的にしてしまいました。
権威付けという賎しい動機もあったでしょう。

だから、反動で念仏を唱えるだけで成仏できるとする八正道無視の超単純ワープ論が跋扈してしまいました。
明らかにゴータマブッダの仏教ではありません。
 
 だから、先ず「できる」と積極的に気軽に捉えましょう。
http://um.denpark.net/1155998054.html


悟ったからと言って人間的に成長した訳ではない:
悟りの体験を何度も繰り返し得て、生きている間に、それを究極まで徹底できたとしても、その人は「その人のまま」、ごく普通の人間である。
ユング派分析家のウォルター・オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、禅が特徴として、純粋意識、というべきセルフのウロボロス元型だけを活性化する。
個人的無意識を無視するために、悟りの体験を持ちながら、幼児的、暴力的な個人的心を持つことさえある。

プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルは『自分さがしの瞑想』において悟りの落とし穴について述べています。
悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。
他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。

オダージンクさんとミンデルさんがいっていることは、まさしくそのとおりではないかと思うのです。

大乗経典においても、悟りの体験者に対して慢心の罪は五逆の罪よりも重いとまでいうほど厳しく戒めています。

その矛先は自身にも、もちろん向けられているでしょうが、主に小乗の阿羅漢たちに向けられているようにも感じられます。
他人のそれには敏感であっても、自身のそれには気づかないことは大いにありうることです。

個人的な心の問題については手付かずのままということになるのではないでしょうか。
幼児的、暴力的な個人的心を持っていないなどとはいえない。また、対人関係の問題についても、葛藤を抱えたままであるでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/jd6j5rlure09f3/e/abddfac859553290baa3a16b86c396b0

__________
__________

9. 釈迦の言葉

@ ブッダの悟りについて

ブッダによれば、その悟りの内容は「縁起」(ものごとは縁って起きるということ)でした。

すなわち、人間の悲苦にはそれを生じさせている原因や条件があり、その原因や条件をなくせば人間は悲苦から解放される、というものでした。

_____________________________


かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、ウルヴェーラーのネーランジャラー河のほとり、菩提樹のもとにあって、初めて正覚を成じたもうた。

そこで、世尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、七日のあいだ、解脱のたのしみをうけつつ座しておられた。

そして、七日を過ぎてのち、世尊は、その定座よりたち、夜の後分のころ、つぎのように、順次にまた逆次に、よく縁起の法を思いめぐらした。

「これがあれば、これがある。
これが生ずれば、これが生ずる。
これがなければ、これがない。
これが滅すれば、これが滅する。

すなわち、無明によって行がある。

行によって識がある。
識によって名色がある。
名色によって六入がある。
六入によって触がある、
触によって受がある。
受によって愛がある。
愛によって取がある。
取によって有がある。
有によって生がある。
生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。

この苦の集積のおこりは、かくのごとくである。

また、あますところなく、無明を滅しつくすことによって行が滅する。
行がなくなれば識がなくなる。
識がなくなれば名色がなくなる。
名色がなくなれば六入がなくなる。
六入がなくなれば触がなくなる。
触がなくなれば受がなくなる。
受がなくなれば愛が無くなる。
愛がなくなれば取がなくなる。
取がなくなれば有がなくなる。
有がなくなれば生がなくなる。
生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる。


この苦の集積の滅尽は、かくのごとくである」と。

(ウダーナ 3、増谷文雄訳『仏教の根本経典』大蔵出版、25〜26頁)

A 信仰について

ブッダは、人間の悲苦にはそれを成立させている原因や条件があり、その原因や条件を知り取り除くことが、悲苦からの解放をもたらすと考えた(縁起の思想)ために、神秘的な力に寄りすがる信仰などは、これを捨てよ、と説きました。

_______________________________

ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域(死王が支配する世界=悲苦にさいなまれる煩悩の世界)の彼岸にいたる(超克する)であろう。
ピンギヤよ。
(スッタニパータ 1146、中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)


B 世界について

ブッダは、人間苦を成立せしめる原因となり条件となっているものに対する無明(無知)を克服すること(知)こそが救いの道であると考えた(縁起の思想)ため、形而上学的見解(空想的ことがら)については、それは知ではないとして認めませんでした。

そのため、人間にとって有意義な「一切」とは、人間の知の及ぶ世界と内察できる心だけであり、それ以外の「一切」を説こうとすると、根拠がないので単なる言葉だけに終わるであろうと説きました。

_______________________


比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。

よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。

それは、

眼と眼に見えるもの、
耳と耳に聞こえるもの、
鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、
身体と身体に接触されるもの、
心と心の作用、

のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。

さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。

何故か。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)

C 無常と恒常について


ブッダは、世界については、すべては無常で変滅し恒常不変なものはない(諸行無常)と理解しており、例外はいっさい認めませんでした。

___________________________


かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。

その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」

「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」

そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。

「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には
存しないのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。

その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」

「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。

比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。

また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、すべて破壊するのである。

比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 35:82)

アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。

アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。

すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、
死してはその境界を異にしなければならぬ、と。

アーナンダよ、一切は壊れるものであって、
ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。

(ディッガ・ニカーヤ 16)

D ブッダの教え(仏法)について


ブッダは、すべては無常であり永遠不変なものはないという理解にそって、自分自身の教え(法)でさえ、それを絶対視して執着してはならないことを弟子たちに教えました。


___________________________


比丘たちよ、教え(法)というものは筏のようなものであることをなんじらに示そう。・・・

譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。

そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。

しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。

そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。

かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。

なんじらはそれをどうおもうか?
そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。

・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22)

E 拠り所について

ブッダは八十歳で死にましたが、死ぬ少し前に、師を失うことに心を痛めていたアーナンダやその他の弟子たちに対して、これからは、各自が自己と真理だけを拠り所として生きてゆけ、と説きました。

_________________________________________________
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、わずかに保っているに過ぎない・・・。
それゆえ、アーナンダよ。なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。
(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)


F 死後の世界について

ブッダは、人間が死後も存在するかどうかというような人間の知識を超えることがらについては、それは独断にすぎず、無益なものであると考えて、沈黙を守りました。
________________________________

滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どうかそれをわたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておられるからです。

師は答えた。ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれについては存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶えるのである。
(スッタニパータ 1075〜1076)

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。

「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、

これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ 参って、この意味を尋ねてみよう・・・。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのように説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを
征服することをわたしは教えるのである。
(マッジマ・ニカーヤ 63)


ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマ・ニカーヤ 72)

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)


G「宇宙即我」について

ブッダは、「世界(宇宙)と我はひとつである」などという主張は、実証できない空想的独断に
すぎないので、まったくおろかな見解である、と説きました。

___________________________________

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/okawa.html


____________

____________


10. 仏教が釈迦の教えを無視した理由


伝承者達はゴータマ・ブッダの言説をそのまま記録して伝承していると主張する最もゴータマ・ブッダの言説に近いものを含んでいるとされるパーリ語の経典・阿含経でさえ、考え方の大きな振れや用語の多用さや不統一性を見ることができますし、教えにも矛盾らしきものを感じられる。

 現存の阿含経は、ゴータマ・ブッダ滅後二十ほどに分裂した仏教教団(部派)がそれぞれに解釈しなおして伝承保存していた各部派の阿含経のうちの、上座部という部派が保存していたものである。
極端な言い方をすれば、部派の数だけの、内容の異なった阿含経が存在した可能性もある。
http://www.geocities.jp/avarokitei/bukkyo-nenpyo/bukkyo-nenpyo-1.htm


もし、
@ ゴータマ・ブッダの「さとり」と「解脱」が永遠の真理であり、人間が存在する限り、疑う余地のないものであったなら、
A ゴータマ・ブッダが正確に弟子(比丘)たちに、その真理を伝授出来ていたなら、
B 比丘たちや仏教の行なわれる所(社会、世間)の住人(信者たち)が、ゴータマ・ブッダの教説を真理であると理解し(信じ)、その教説の曲解を認めないなら、
C ゴータマ・ブッダの言動が一致していたなら、
D そしておそらく最も根本的な事柄、目指す境地の食い違いがないなら、

仏教はいかなる変化も有り得なかったはずである。

 ところが、今、私は、日本においてそれこそ星の数ほどの多様な仏教と自称するものを見聞きする。
中国においても同様であったらしいと知る。
それどころか、原産国インドにおいてさえ、すでにゴータマ・ブッダ滅後二世紀ほどでゴータマ・ブッダの弟子達が分派を始めている。
そして、如来蔵思想や呪術を主体とした密教がインドで起ったらしいのだ。

 図書館に行っても、書店に行っても、目にする仏教関係の本は、どれもさまざまな解釈を展開している。

 要するに、@〜Dのいくつかがその通りでなかったのだ。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-satori.htm


スッタニパータ(パーラーヤナ篇、アッタカ篇を含んだ)とマッジマ・ニカーヤ(中部経典)とは、ともに阿含経と呼ばれる経典群のひとつであり、阿含経はゴータマ・ブッダの教説が口伝で師から弟子へと教え継がれ、やがて成文化したものであって、阿含経以外には同時に同じように伝え残された律蔵しか、直接ゴータマ・ブッダの教えに迫れるものはない。
その阿含経の記述が大きく食い違っているということは問題である。
疑えば、阿含経全体がゴータマ・ブッダの教えを正しく伝えていないと推量することも出来ることになる。
ゴータマ・ブッダの教団が分裂した後、現在の阿含経を伝承した教団・上座部の人たちに都合の良い教えだけ、あるいはその人たちの思想を織りまぜて伝承したのではという疑いである。http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shugyo.htm

あまねく人々に対して教えを説くということは、当時のインドとしてはまさに未曾有のことであった。
これがウパニシャッドの哲人の場合と比較してみると、よく解かる。
これらの哲人は、教えを授ける相手を狭く限って、自分の子とか、或いは教えを受ける資格のあるすぐれた人々に対してのみ教えを説いた。
ところがゴータマ・ブッダはこの制限を破ってしまった。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm

仏教学を学ぶ者にとって、釈迦が、神の存在や霊魂の不滅性の是非を説かなかったことは、初歩中の初歩であるのだろう。

そして、多くの仏教本には、釈迦は、人間にとって知ることのできない形而上学的諸問題については、それを問うても解答の出ないものであり、釈迦は、それらをことごとく捨て去ったと書かれている。(無記説)

ところで、最古の経典『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、「無執着説」を説きながら、一方では、「輪廻からの解脱」ということを言う。

最初から、霊魂の不死性を肯定も否定もしなかった仏陀が、一体、何故に、再び「輪廻」という言葉を持ち出してくるのだろうか?

これらのことは、『スッタ・ニパータ』を読んだときから、どうしても、私の頭から離れなかった疑問点であった。

そして、もともと、本経典は、別々の時代に書かれた別の経典から編集されたものであり、全く別のものとして仏教を誤解釈した釈迦弟子が、仏陀の言葉として書き記したものであるのだろうか?

あるいは、釈迦は最初から輪廻を信じていて、これらは、何かの点によって繋がっているものであるのだろうか?

それとも、それらはナーガールジュナ(龍樹)が言うような「勝義諦」と「世俗諦」なのだろうか?

実を言うと、先日、由緒ある曹洞宗のお寺に、日本を代表する仏教学者である奈良康明先生の講演会があり(私は以前から先生の一般向けの本はほとんど読んでいた)、話が終わった後に、個人的に、これらの質問をもって行ったところ、お寺の奥にあった小部屋に、先生から直々に案内され、一対一で、先生からの、これらに関する解答を頂いたのでした。

仏教界の大御所である先生は、誰からの紹介もない私の質問に、一つ一つ丁寧に答えられました。先生からのご解答は次のとおりです。


『釈迦は無我説を説き、霊魂の不滅性は説かなかった。

しかし、当時の一般民衆のほとんどが輪廻思想を信じていて、釈迦は霊魂の不滅性を否定はしなかった。

霊魂の不滅性を否定したなら、托鉢で飯も食えなくなっただろうし、それを信じる者には、その道で行きなさい、といった感じだった。

だから、スッタ・ニパータのは矛盾はない。』


その日の夜に、仕事が終わった後に、スリランカ出身の友人B氏と、これらについて、さらに深い部分にまで及んで話し合ったところ、まったく別の説が浮かび上がってきた。

その彼の説はこうである。

『当時のインドでは、ほとんどの人が輪廻を信じていて、釈迦は輪廻からの解脱に挑んだ。

その到達点は梵我一如のそれと同じであり、ニルヴァーナの至った釈迦には輪廻それ自体が無くなってしまった。

それゆえに、神(ブラフマン)の領域にまで達した釈迦にとってはアートマンは輪廻することが無くなったために、霊魂は不滅ではなくなった。』


しかし、B氏の説はバラモン教や梵我一如とその到達点ばかりではなく、それに至る道までもが同じではないのか?

一体、釈迦の仏教は梵我一如であったのだろうか?

いや、そんなはずはないだろう。

釈迦の仏教が梵我一如の達人であったのなら、仏教は仏教である意味は喪失してしまうことになるのだろう。

私は、仏教のニルヴァーナの境地とバラモン教の境地とは、同一のものであることはB氏の意見と一致するが、釈迦の山頂に登る手法は、梵我一如のそれとは異なっていたのではないのかと思っている。

そして、「釈迦は霊魂の不滅説を説かなかった(否定も肯定もしなかったという意味)。

しかし、当時、霊魂の不滅性を信じる多くの一般民衆に対しては、霊魂の不滅性を否定はしなかった。」

という奈良先生の説に、私は賛同している。

もしかしたら、修行のレベルに合わせて釈迦は説法をされたのであろう。(対機説法)
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/47870614.html

 初期仏教から7、8世紀頃までの仏教は、その最大の手段は、業と煩悩の止滅を追求する<止滅の道>であった。
この多分に都会的な形而上学的、自己探求型の宗教は、当時の豊かな商業経済に裏付けられた都市型の文明に支えられていた。
シッタータ王子も生まれてから青年に達するまで宮殿をほとんど出たことがない。
仏教は、アーバンな衒学的な色彩を有した貴族の宗教たり得たのである。

ところが、貿易相手の西ローマ帝国の滅亡とともに、社会のあり方が、重商経済国家から、帰農国家に様変わりしていったのだ。
農村中心の社会が再構成されるに従い、仏教も土臭い庶民の心に対応していくことになる。
つまり、出家僧個人の精神的至福の追求から、在家信徒の現世利益追求型へのゆるやかな転換である。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/3posss.html


 仏教は宗教ではない。という見解がある。

 宗教とは、人間と神の関係を<信仰>を軸に構築したものである。
そこにおける神とは、ユダヤ教や、イスラム教のように創造神であったり、キリスト教のように創造神/聖霊/メシアの統合体(三位一体)、クリシュナ教徒のように近代化された古代神だったりするが、ある種の霊的超越者であり、多くは宇宙創造神である。

 ところが、仏教は成立の初期において、教祖自身にこの種の信仰心が希薄なのである。
教祖シッタータ王子は、人間として真理に到達したが、自分が神であると宣言した訳ではないし、神の預言者であった訳でもない。

 そもそも釈迦族のシッタータ王子は、クシャトリア階級の出目であるからバラモン階級のように精神世界に没入する訳にはいかなかった。
インドのカースト制度において伝統的な神事は、バラモン階級の専売特許であった。
そこで、かれは当時流行の精神世界ヒッピーである「沙門」になる道を選んだ。
沙門になるのは、簡単である。 身分も問われない。
「わたしは、沙門になった。」
と宣言し、林住期や遊行期の老バラモンのように無一文で修行三昧の生活に入れば良いのだ。


 かれは様々な行者に倣い瞑想を深め、宇宙と人のあり方を追求した。
その意味で、シッタータ王子は宗教家と言うよりも実践的哲学者、精神修行者であった。
かれが求めたのは宇宙構造、なかんずく人間(小宇宙)と大宇宙の関係に関する真実(真理)であり、輪廻という循環構造からの自己の解放であった。
最近のひ弱な修行者のように精神的な安寧や、既存の神話体系を借定したヌミノース体験を追求した訳ではない。

 その意味で、かれはニューエイジ・サイエンスを極めたと言っても良い。

 そして、<12因縁の順観と逆観>という瞑想法を経て<成仏>したのである。

 シッタータ王子が悟りを開いた後、その悟りを開くプロセスを<現法的梵行>と呼んだ。
現法的梵行とは、津田博士の言を借りると

「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、
一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」

ということだ。
つまり、仏教において、最大の戒律は、<不犯>であった。 
もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。
インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、<現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。

 悟達したシッタータ王子、いや釈迦無二仏陀は、この非人道的なシステムに人間が耐えられる訳がないと判断し、教えを伝授するのを断念(これを<不説>という。)し、そのまま涅槃に入ろうとした。
いかに真理であろうと、多数の人間が賛同できるか、少なくとも甘受できるシステムでないと、衆生の絶望を深めるだけだからだ。
このときのシッタータ王子の判断は、良く理解できる。
かれは衆生のために真理探究の道に入った訳ではない。
深刻な実存的疑問を味わって、その解決のために天才的な能力を傾けた青年なのである。
大宇宙と小宇宙に通底する真理を会得したからには、それを理解できず、まして、実践するなどおよそ不可能であろう大多数の人間に、無理な教えを提示するよりは、自得した理法を用いて、存在の次の位相に転移し、先を探ろうとするのは、探求者としては自然な成行きである。


 仏陀の生存中の教団は、その哲学を科学的正確さで追求した。
理法の内容からして、一般の社会人が、たとえ王侯貴族であろうと、身分を保持し、社会生活を営みながら<最初期の解脱プログラム>を履修できるものではない。
そのためには社会生活と肉親の全てを犠牲にし、出家する必要があった。
仏陀が懸念したように、ほとんどの人間には実修できるものではない。
大多数の衆生は、仏陀の教え、最終的な解脱からは切り離されていた。
仏陀の教団についていける者たちは小数のエリートだったのだ。

 従って、当然のことだが、カリスマ的指導者である仏陀の没後に、教団は崩落した。

 それは<神秘哲学の閉鎖的実践集団>から、<教祖を神格化した布教集団>への変貌、或いは教えの民衆化という運動に現れた。
これを追求した者たちは、自分たちの運動を<大乗>と呼び、仏陀の本来の教えに忠実な者たち(上座部仏教)を侮蔑の念をこめて<小乗>と呼んだ。
「乗」とは<乗り物>の意味であり、<大乗>の方が多くの民草を救えるという自負が呼ばせたものだ。

 しかし、仏陀の発見した真理の本質的部分が変化した訳ではない。
大乗仏教の僧侶は、トリックを使ったのだ。
釈迦の方法論は、人間の業や煩悩を無くすために否定的な努力を重ねる<止滅の道>(ニヴリッティ・マールガ)と、世間的活動を積極的に行い心活動を活発にする<促進の道>(プラヴリッティ・マールガ)という二つの相反する方法論に集約できるが、上座部仏教では主として<止滅の道>を、大乗仏教では主として<促進の道>を励行した。
正しい行為を積み重ねれば、仏陀への信仰心を維持し、「やがては安心往生できる」というのは<促進の道>としても、かなり欺瞞的な教えである。
単なる善行のレベルで、修行もしない衆生が輪廻の枠の外に出ることはないからだ。

 大乗仏教の僧都が、衆生の目から真理を隠して、道徳性で埋めて教えた動機は、あまりにも残酷な真理(在家信徒は所詮、解脱できない。)から目をそらす<大慈悲>であっただろう。
しかし、哲学的立場から見れば、嘘は嘘である。

 性を否定した仏教が、インドにおける最後の発展形態である後期密教において、性を肯定するがごとき教義に変化していったのは、興味深いものがある。

 チベット仏教のサキャ派の碩学サチェン・クンガーニンポは、著書『密教概論』において、大乗仏教の顕教と密教の違いを次のようにまとめている。

 顕教は、愛欲などの煩悩を打ちきる必要があり、<法身>と<色身>を成就するための菩薩としての修行期間が長い。それ故に<因乗>と呼ばれる。

 密教は、愛欲を立つ必要がない。短い期間で果を得るので、<果乗>と呼ばれる。

 つまりは、シッタータ王子が反自然的かつ直線的な技法で得た果を、自然かつ迂回的な技法で達成しようとするのが密教であるとも言える。
システムは常に進化するのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/1anti.html

___________

中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教


大乗仏教は、東アジア儒教文化圏において、儒教にない部分(呪術)が受けいれられました。

そして、思想としては、儒教があったために、大乗仏教としては、体系化されることがなかった。

また、中国人に受けいれてもらうために、インド式の輪廻転生から、儒教の祖先崇拝の死生観に宗旨変えした。

つまり、仏教として名乗っているが、実は、儒教的死生観にもとづいている、儒教を補完するものであったという試論です。

大乗仏教論 : 中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教


1 はじめに: 東アジアの独自宗教


釈尊の説いた仏教は、法(ダンマ)を知り、ダンマに従って生きなさいという生活の道徳を論じるものだった。

このダンマ主義の生活哲学は、仏教にとっての聖書をめざして20世紀半ばに著されたインドの法律家アンベードカルの「ブッダとそのダンマ」を読むかぎり、現代仏教にも受け継がれている。

これに対して、大乗仏教の特徴とはなんだろうか。


大乗仏教は、発祥の地インドには残っていない。5世紀の仏教迫害以来、あるい
は13世紀初頭に密教が終焉して以来、インドにおいて大乗仏教の信者はいないと
いう。
「ブッダとそのダンマ」においても、大乗的な思想は紹介されていない。例外的
に、「空」について、「総ての事象は一時的で儚いと確信することがダンマであ
る」というダンマが後に「空観」を生み出すという説明が行われている。浄土や
本覚についての記述はない。
現在の大乗仏教は、中国や日本など東アジア儒教文化圏に地域的に限定して、漢
訳された仏典を経典として独自に発展したものである。形式的にはインド由来と
するが、内実は「漢訳以後の仏典にもとづいた東アジア儒教圏の独自宗教」とし
て受け止めるべきだというのが私の結論である。
その特徴は、
・ 呪術性が非常に強い
・ 宗教概念があいまい(内容理解不十分なままに輸入された概念であり、それ
を究明する切実さが欠如していたため)
・ 儒教的死生観を取り込んだ
である。
20世紀にインドで復興した仏教と、東アジアの大乗仏教は、21世紀にどのような
対話を行うのか、興味深い。

2 呪術性が非常に強い
・ 原典の不確かさ
インドにおける大乗仏教は、釈尊が寂滅して数百年後の時代に、仏陀崇拝、仏伝
文学、菩薩思想などが広まった結果として、紀元後1〜3世紀の時代に、般若経、
法華経、華厳経、浄土経など初期大乗経典が生まれ、紀元後3〜5世紀には如来蔵
思想や悉有仏性・法身常住思想、唯心などの思想が生まれ、さらに紀元後 7〜12
世紀に大日経・金剛頂経などの密教経典が成立したとされる。
奈良先生の「釈尊との対話」によれば、「5世紀に仏教弾圧があり、インドの仏
教人口は皆無にひとしくなった」ということなので、インドで大乗仏教が信仰さ
れた時期はそれほど長くはなかったようだ。
そして法華経ひとつとっても、それが「いつ、どこで、どのような社会に成立し
たか、これまでに特にわが国の多くの学者が関心を示したにもかかわらず、未だ
明確にされていないのが実情である」(岩波文庫「法華経」上、「解題」P429)。
本家の大乗仏教については詳しいことはわからないのである。

・呪術師のような三蔵法師
原典も不確かなこれらの大乗経典は、鳩摩羅什(350-409)や玄奘(602-664)をはじ
めとする、三蔵法師たちによって漢訳された。シルクロードを横断し、インドと
中国の両方の文化に通じた彼らの勇気と情熱と能力と幸運とによって、とくにイ
ンドと中国両方の文化に対する理解度の高さ、仏教に対する造詣の深さと類まれ
なる言語能力によって、漢訳大乗仏典が生まれたのであった。
「中国文化思想事典」(東大出版会、2001年)の「仏教」の項によれば、「イン
ド・西域から渡来した訳経僧(三蔵法師)は、たんに経典の翻訳者として活躍した
だけでなく、不思議な術を使う呪術者としてあがめられ、また軍事に関する予言
者として重用された。最初期の訳経僧である安世高はあたかも魔術師のように描
かれ」、鳩摩羅什も「翻訳僧としてよりも呪術者あるいは予言者」として『晋
書』に描かれている。経典の漢訳よりも、経典を誦して祈りを捧げる呪術行為に
よって、彼らは名を上げたのだった。
 呪術性という点では、現代においても大乗仏教は、護摩を焚いたり、念仏行が
中心であり、呪術的性格は根づよい。
むしろ、中国に存在しなかった呪術的性格ゆえに、大乗仏教は東アジアで受け容
れられたのではないだろうか。

・儒教と似ていた原始仏教は忌避?
これはあくまで試論であるが、釈尊の説いた原始仏教が中国で受容されなかった
のは、ダンマ主義の道徳・哲学が、孔子の説いた儒教の教えと重複しているとこ
ろが多かったからではないか。また、道徳教義としては、孔子の教えのほうが馴
染みがあってわかりやすく、体系化されていたので、中国人は原始仏教に見向き
もしなかったのではないだろうか。
たとえば孔子についての表現や孔子本人言葉の中で、「子、怪力乱神を語らず
(怪異、怪力、無秩序、神を孔子は議論しなかった)」、「いまだ生を知らず、
いずくんぞ死を知らん(生の意味さえつかめていないのだ。ましてや死など)」
というのは、原始仏教の教えに近くないか。
孔子の死後、弟子たちが集まって「論語」をまとめたように、釈尊の死後、弟子
たちが結集して釈尊の言葉をまとめたところも、仏教と儒教は似ている。

・漢訳の難しさ
インドの仏典を漢訳するというが、宗教理論や概念という形のない、抽象的な内
容をさす異言語は、そうやすやすと理解し、翻訳できるものではない。まして
や、翻訳した概念を、その概念がもともと存在していない言語空間に住む人間に
理解してもらおうというのは、土台無理な話である。
インドと中国両方の思想や宗教などの精神活動に関わる概念を体得し、理解した
り、比較できる人間の数は当時少なかった。そもそも、両方の文化によほど精通
していなければ、出来上がった翻訳が正しいかどうかを判断することすらできない。
仮にうまく翻訳できたとしても、読む者がその概念を理解できる保証はどこにも
ない。五官で感じることのできる食べ物や樹木のような具体的な事物であれば、
インドから中国に持ち込むことによって体験させることもできるが、「悟り」や
「空」といった抽象的な宗教概念の場合、それを指し示して見せることも、触れ
させたり、味わわせてみることもできないからである。
さらに仏教が持ち込まれたときの中国にはすでに儒教や老荘の思想が存在してい
たために、抽象概念を受容する行為そのものは容易であったが、それが既存の抽
象概念に訳出された場合、理解や翻訳が正しいかどうか、確かめる術もなかった
のである。
「初期の翻訳経典には儒教や老荘などの思想用語が多く援用され、外来の宗教・
思想である仏教を中国人が理解し受容するために役立ったが、逆に仏教をきわめ
て中国的に理解してしまうという欠点をもっていた」(中国思想文化事典)という
のも、もっともなことである。

・土着思想の格子(パラダイム)で取捨選択
中国思想文化事典によれば、インドで生まれた仏教の思想は、中国土着思想の思
考枠組によって、意識的・無意識的に取捨選択されて受容された。
「中国固有の伝統思想にもとづいて仏教を理解することを『格義仏教』といい、
これが四世紀後半に活躍した釈道安によって批判されてのち、仏教は仏教そのも
のとして理解されていくようになる。ただ、格義的解釈の前提として、格義的翻
訳とでもいいうる翻訳段階での中国化があった」。
その結果「中国的に潤色された漢訳仏典は、漢字文化圏のなかで中国固有の経典
と同様に絶対的な価値をもつものとして組みこまれていき、原典は顧みられるこ
とがなかった。
インド仏教が伝来する以前、中国固有の思想にすでに類似した思想があった場合
(利他行と経世済民、兼愛など)は、類似しているがゆえに共感し受容されやす
かったと推定することも可能であるし、類似しているがゆえに受容する必要がな
かったと結論づけることもできる。
また、逆に類似する思想がなかった場合(宗教的悟り、絶対者による救済、輪廻
思想など)、ないからこそ学び受容した場合もあるし、類似した思惟がなかった
ため理解されずに反発され、あるいは関心さえ示されずに受容されなかった場合
もある。」

3 宗教概念があいまい
・翻訳文化の限界の例
奈良康明著「釈尊との対話」(NHKブックス、1988年)は、仏教概論のレポート
を書くために読んだが、異文化理解がいかに大変であるかを感じさせる逸話があ
るので、紹介したい。
奈良先生がインドに留学しておられた「ある時、指導教授の家に招かれ、お茶を
ご馳走になったことがある。奥さんがだして下さったのが、ミルクの中に米粒が
はいっている食べ物だった。甘くて、スパイスがたっぷりきいていて、良い匂い
がして、いかにも滋養がありそうで、まことに美味しいものだった。名前を聞い
たら、パヨシュだという。
『美味しいものですね。初めて食べました』、と私は言い、何げなしに昔からあ
る食べ物かと尋ねた。
先生は教えてくれた。釈尊が苦行を中止した時、村娘のスジャーターが捧げ、そ
れを食べて釈尊が元気をつけ、菩提樹下に赴いて悟りを開いたのが、このパーヤ
サではないか、お前は仏教を勉強していてそんなことも知らなかったのか!」
乳粥という名前を知っていても、その味は体験することができない。インドに留
学していても、インド人の家庭に招待されなければそれを味わう機会すらなかっ
た。そしてそれを実際に自分で食べておいしいと思っても、その感動を表現し、
『昔からある食べ物か』という何気ない質問を幸運にも思いついて、相手をあき
れかえらせるまで、それが釈尊が悟りの直前にスジャーターに捧げられた食べ物
であることに気づくことはないのである。文化の壁というのは、意外に高いとい
うことがこの逸話によって確かめられる。
おそらく何年インドに暮らしても、パーヤサを食べる機会のない留学生もいるだ
ろう。異文化が、いかに盲点に隠されていて見えにくいかを、あらためて実感した。
誰もがその名を知っている「乳粥」であっても、それを体験すること、それを自
分の知識と結び付けることが、これほどまでに難しいのである。抽象概念の「悟
り」や「空」を理解することが、いかに難しいかについて、想いを馳せてみると
よい。

・ 本家インドを顧みない伝統
大乗仏教は、仏教発祥の地とは異なる言語空間、異なる文明領域で、異なる死生
観や家族観の支配する土地で発達した。
世界に広がるキリスト教教団の中心にバチカンが位置して、世界各地で繰り広げ
られている宗教活動や教義内容をチェックするシステムはなかったし、幸か不幸
かインドで仏教が消滅してしまったために、本家の教義や実践のことを気にする
ことなく自由に解釈し実践することができた。
外来思想をいいことに、あるいはより一層呪術めかして見せるために、翻訳の難
しいところや雰囲気のあるところは、意味をまったく問わないで音だけを味わう
「呪文」にしておくという寛容さ、いいかげんさも持ち合わせていた。
たとえば般若心経の最後の部分、「ギャーテイ、ギャーテイ」以下は、呪文扱い
されている。訳出が難しかったのかもしれないが、呪文のほうがありがたいと思
われたのかもしれない。
儒教という大理論体系があったために、東アジアの人々はそもそも仏教に理論や
意味を期待しなかったということもある。
「まるでお経だ」という表現は、「おまじないみたいで、さっぱりわからない」
という意味で通用するが、それが許されるのである。
一方で、般若経典において重要な意味をもつ「Sunnyata (sunya)」を理解するに
あたって、インド仏教においてそもそもSunnyataがどう理解されているかという
ことはあまり議論されることはなかった。すでにインドにおいて仏教が終焉して
いたこともあっただろうが、我々の頭は、原語であるSunnyataよりも、漢訳語で
ある「空」とは何かに興味が向いていた。
漢訳された後の概念である「空」とは何かについて議論すると、「空」という漢
字が合わせもつ「空しい」とか「空っぽ、空虚」という意味に、本来それらの意
味とは無関係であるかもしれない仏教概念Sunnyata理解が影響を受けることにな
りかねない。
大乗仏教の「Sunnyata」という概念が、たまたま「空」という文字で翻訳された
からといって、必ずしも「むなしい」とか「空っぽ」という意味と結びつくわけ
ではないはずである。しかしながら、我々の頭はどうしても、漢字の「空」の併
せもつ意味に引きづられてしまう。巷で売られている般若心経の解説書は、その
ような説明が一般的である。
これは「空」を理解する上で不毛な混乱を招くことになった。「色即是空」の
「空」を理解するためには、可能であったならば、なぜSunnyataは「空」として
訳出されたのか、翻訳者はどういう意味として訳したのかも、問題にしたいとこ
ろである。
そして、国際交流が可能となった現代、オリジナルのインドで、「Sunnyata」が
どんな意味をもつのか、どんな文脈で使われているのかということに、もっと関
心を示してもよいと思う。 

・議論を不明快なまま放置
議論が収束しないのに、混乱したままで放置されていたことも問題ではなかったか。
中村元博士は、1994年に書かれた「空の論理」という本の中で、「<空>は大乗仏
教の根本概念であるということは、だれでも知っている。では、<空>とは何か、
ということになると、なかなか答えが簡単には出て来ない。<空>を説いた文献に
関する研究は、毎年無数に多く刊行されている。しかし「<空>とは何か?」とい
う端的な問題にたいしては、かならずしも答えが与えられていない。学者はとか
く避けて通っているという傾きがある。」という。
そういいながら、中村博士は、大乗仏教における「空」の概念は、「実体がな
い」という意味だと断定して、般若心経の説く最上のさとりとは、「<一切空>を
体得することにほからなない。智慧の完成というのは、あらゆる現象が実体性を
もたないという道理をさとることにある」と書いておられる。
あるところでは「答えがない」と書き、別のところで「実体がない」と言い切る
のはいかがなものか。まじめな読者が混乱しないだろうか。
そもそも、「あらゆる現象が実体性をもたない」ということは、私の理解を超え
ている。
実体とは何のことなのだろうかといぶかってしまう。
このように議論が混乱し錯綜したままで放置されているのは、中村博士一人の責
任ではない。
おそらく東アジアにおいては、すでに儒教や老荘の思想によって、独自の宇宙
観・人間観が確立されていたために、誰も仏教に体系だった思想や哲学を求めな
かったのだ。人々が仏教に期待したのは呪術性であった。
だから<空>が何であろうと、誰も困らなかったのだ。そのため、中途半端なわけ
のわからない説明であろうと、「答えはない」などと無責任に放り出されてし
まっても、鷹揚に受け止め、問題にする人間がいなかったのではないだろうか。
法事でお坊さんの話の内容がよく理解できなかったとしても、悩み、落ち込む必
要はない。おそらくお坊さんだって、よくわかっていないのだ。

4 儒教的死生観に変容
大乗仏教は、東アジア儒教文化圏において、釈尊の説いた生活や道徳に関する法
の教えとは異なって、より呪術的な行、あるいは禅の精神集中法として、独自の
発展をとげた。
また、死生観を異にする中国人に受け入れてもらうために、仏教は自ら中国に固
有の儒教的死生観・祖先信仰を取り込んだ。その結果、インド仏教には存在しな
い位牌や墓地や年次法要が始まった。この点については、加地伸行著「沈黙の宗
教―儒教」(筑摩書房、1994年)が詳しい。

・インドは輪廻転生の死生観
そもそも、中国とインドでは、気候風土が異なる。
インドは「暑さの上に、雨が少ない。(略)村から1キロ、時には10キロも離れた
井戸へ水を汲みに行く。それを何回も往復し、午前中はそのことで時間がつぶ
れ」る。「釈尊の時代の前六世紀ごろのインドでは、子供はたいてい乳幼小児期
に急性罹患で倒れ、母親も産褥熱でよく死亡し、25歳を超えた成人は少なく、40
歳ともなれば灼熱の地における体力の消耗で老化し、諸々の感染、脱水などで死
亡したであろうと言う。すなわち老いと病と死とは同時に出現したであろう」。
「仏教のみならず他のほとんどすべてのインド諸宗教が、人生そのものが苦であ
ると言うのは、インドの現実の上に立っての考え方であろう。生・老・病・死こ
の四苦は、インドにおいて現実であった。」
「せっかくこの世に生まれてきたのに、苦のままに寿命も短く死んでゆくという
のはいやなことだ、つらいことだと考えるのがふつうであろう。(略) 儚い人生
ながら、なにか希望を与えてほしいと願うのが自然である。短い人生を生きる者
のための安心できる死生観を宗教者に説いてもらい、死の不安や恐怖を取り除い
てほしいという要求」に「応えたものが、インド諸宗教を貫く輪廻転生という死
生観であった。」(pp22-23)

・中国は招魂再生の祖霊信仰
一方、「中国人には、仏教が伝来するまで輪廻転生という考えかたはなかった。
輪廻転生とは全く異なる死生観をもっていたからである。」
「中国人はインド人と異なり、この世を苦と考えず、楽しいところと見る。五感
(五官)の楽しみー美しい物を目で見て楽しみ、心地よい音を聴いて楽しみ、気持
のよい物に触れて楽しみ、おいしい物を食べて楽しみ、芳しい物の香りを楽し
み、それらを大切にする。」
現実的で即物的な中国人の死生観は儒者が説明した。
「人間は精神と肉体とから成り立っているとし、精神を主宰するものを<魂>、肉
体を支配するものを<魄>とした。(略)この魂・魄は、人間が生きているときは共
存して蔵まっているが、死ぬと分裂」して「魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行く」。
天地に分裂した肉体と精神を再び結びつける儀式を行うと、死者は<この世>に再
び現れて、なつかしい遺族と対面することができるのである。
「儒教の発生はシャマニズムにある。死者の魂降しである。しかも魂(精神)降し
だけではなくて、魄(肉体)も呼びもどす。そして神主に依りつかせ< この世>に
死者を再生させる。招魂(復魂)再生である。」

・儒教の大理論体系
シャマニズムは世界各地にあるが、「儒教は後に天才孔子の手を経て家族道徳に
つながり、さらに中国に皇帝制が確立した前漢王朝時代に政治理論を作るまでに
大成して、以後、内部発展を続けながら、中国を支える大文化として存続した。
このようにシャマニズムを基盤にして歴史を動かす大理論体系を作ったのは、世
界においておそらく儒教だけであろう。」(p44)
「死者の魂・魄をその命日の日に招き寄せるとき、依りつくべき場所が必要であ
る。そのために儒教は神主を作った。こうして依りついた魂・魄は、その儀式が
終わると、神主から離れて元の場所に帰る。魂は天上へ、魄は地下へと。天は広
く、魂はそのまま浮遊しているが、魄は管理場所である墓へ帰る。残った神主は
宗廟へ、あるいは祠堂や住居内の祠壇へ移し、安置する。これが儒教の祖先祭祀
の大筋である。」(pp46-47)
「儒教が東北アジアにおいておそらく普遍化していた1〜2世紀ごろ、仏教が中国
に伝来した。この仏教を生んだ南アジアのインドと、儒教を生んだ東北アジアの
中国とは、イデオロギー的に共通するものはない。当然、仏教と儒教との両者は
衝突した。」

・仏教が儒教的死生観を取り込む
だが、やがて「仏教側としては、儒教と抗争するよりも、すでに普遍化している
儒教の本質的なものを取り入れることによって、儒教信奉者の自分たちに対する
抵抗感をなくしてゆこうという考えかた」をとった。
すなわち、「祖先祭祀の導入 − その具体化とは、1 神主を建て、招魂するシャ
マニズムを認めること(すなわち神主をまねて位牌を作った)、2 墓を作り、形魄
を拝むことをなんらかの形で認めること(仏教においては、遺骨を拝むことなど
はありえない。釈迦の遺骨だけは特別に神聖視しているが、それは偉大なシャカ
の想い出、敬慕を表しているだけである)、3 儒教式喪礼を取り入れた葬儀を行
うこと、などである。」(p50)
ただし、インド仏教にはない考え方を、『盂蘭盆経』という偽経、インドに原典
がなくて、中国において作り出された仏典で、祖先祭祀の理由を説明した。
「釈尊の弟子の目蓮は、神通力をもっていたのでいろいろな世界を見ることがで
きた。或るとき、自分の母親が、輪廻転生をしているうちに、あろうことか餓鬼
の世界で苦しんでいるのを見た。その母親を救い出す方法を釈尊に問うたとこ
ろ、僧侶によって盛大に経典を読誦することを教えられたので、そのとおり行な
うと、母は救われたという。これは目蓮の孝心に基づくものだとし、ここから先
祖を供養する<お盆>という行事が行なわれるようになった。」 (p51)という話に
なっている。
だが、よくよく考えてみると、これでは毎年お盆の行事を行なうことの説明には
ならない。これは後からつけた苦し紛れの説明だからで、実際は、儒教の祖先祭
祀をやっているにすぎないからだ。
「先祖供養・墓という儒教風を取り入れ、その様式化を徹底した日本仏教は、葬
儀もまた儒式を取り入れていることは言うまでもない。葬儀のときの祭壇を見る
がいい。柩を置き、白木の位牌を建て、死者の写真を添える。それは事実上は死
者のための設営である。仏教者として拝すべき最も大切な本尊は、最奥部に、あ
たかも飾りもののように置かれているだけである。(略)
大半の参列者は本尊を拝まず、死者の柩を、位牌を、特に写真を拝んでいる。そ
れは、亡き人を想うことであり、ことばを換えれば儒教流の招魂再生をしている
のである。」(p55)

・インドと中国の併存する日本の仏壇
儒教的な祖霊崇拝や死生観が取り入れられたからといって、もちろん全面的に中
国化しているわけではない。
日本の仏壇は、「最上段の本尊に対して花を捧げて祈り、中段の位牌に対して
は、灯明をもって祖先を幽暗のところからこの世に導き、線香をあげて位牌に依
りつかせ、回向をする。すなわち、(インド仏教の)<本尊と花と>、(中国儒教の)
<位牌と灯明・線香と>、という組み合わせである。われわれの日本仏教は、こう
いう形で、輪廻転生のインド仏教と招魂再生の儒教とを、仏壇においてみごとに
併存させているのである。
われわれは仏壇に向かって、毎朝、仏に祈り、そして祖先と出会っている。毎朝
―ここには、大きな意味がある。それは、家族の連帯を知らしめる行動だからで
ある。」(p81)

5 さいごに:インド仏教とどう付き合うか
・現代インド人による「空」の説明
日本人や中国人は、大乗仏教の理論のなかで重要である「空」を「空」として明
らかにしようとするが、インド人は”Sunnyata”とはなにかと考える。
グローバル化の進んだ21世紀に、この二つの概念の摺りあわせを行ってもよいの
ではないだろうか。
インドが独立当時のネルー政権で法務大臣の任にあり、インド憲法を起草した
ビーム・ラオ・アンベードカルは、不可触民だった。
アンベードカルは、1920年代から、宗主国英国とインドの各社会集団(ヒンズー
教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、不可触民)が行ったインド独立交渉にかか
わった結果、ヒンズー教徒であるかぎり、不可触民は救われないことを確信し、
20年以上さまざまな宗教を吟味したあげく、1956年10月に改宗して仏教徒になった。
仏教がなかなかインドで広まらない原因のひとつは、聖書がないからだと考えた
アンベードカルは、1956年12月の彼の死の直前まで「ブッダとそのダンマ」とい
う本を書いた。本は彼の早すぎた死の後に出版された。
これはブッダの生涯と、主だった教えを、一冊にまとめたものである。
本書の「第3部 ブッダは何を教えたのか」の「第3章 ダンマとは何か」の「(5)
総ての事象は一時的で儚いと確信することがダンマである」では、「空」につい
て記述がなされている。

・空=■t
「一時性の側面は普通人にはいささか理解し難いところがある。総ての生きもの
はいつか死ぬだろうということは容易に理解できる。
だが、人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解するのは容
易くない。
『これはいかにして可能か?総てが一時的であるが故に可能なのだ』とブッダは
いう。これが後に“空観”と呼ばれる理論を生み出したのである。仏教の“空”はニ
ヒリズムを意味してはいない。それは現象界の一瞬毎に起る永久の変化を意味し
ているにすぎない。
総てのものが存在しうるのはこの“空”故であることを解するものは極めて少な
い。それなくして世界には何ものも存在しえないのである。一切のものの可能性
が依拠するのは正にこのあらゆるものの姿である一時性なのだ。
“空”は広がりも長さもないが内容のある点のようなものである。(略)
“空”は、時間概念であり、「広がりも長さもないが内容のある点のようなもの」
としてアンベードカルは説明する。数学的に評点すると「空とはΔt (時間の最
小変化量)」ということができる。

・日本仏教と初期仏教の対話を
核家族化や少子化によって、日本仏教の基盤となって支えていた檀家制度がたち
ゆかなくなってきている。また、擬似家族的に運営されてきた会社も、効率化や
グローバル化の波によって、だんだん家族的経営ではなくなりつつある。
社会福祉のばら撒きの限界や地方への公共事業予算ばら撒きの削減、さらに評価
基準の不透明な成果主義導入や外資系企業の参入などによって、日本社会は格差
社会の様相を見せている。カースト制のインドにも通ずる希望のなさを見せはじ
めた。
そもそもカースト制度の差別社会への対抗として生まれた仏教は、現代日本にお
いて、新たな存在意義を示すだろうか。
今日の日本では、スリランカからみえられたアルボムッレ・スマナサーラ長老が
中心となって、釈尊が説いた初期仏教テーラワーダ仏教を布教しておられ、初期
仏教の教えに触れることも容易になった。
儒教的教育がなされなくなって久しいこともあり、初期仏教の教えは、今日の日
本人には新鮮味をもって語りかけてくるであろう。
奇しくも今年は、アンベードカルがインドの不可触民たちとともに大量改宗をと
げたことによって、インドで仏教が復興して満50年である。一億人といわれるイ
ンド仏教徒の先頭にたっておられるのは、日本からインドに渡られた佐々井秀嶺
上人である。日本人とインド仏教の間には、すでに橋が架けられている。
これから、日本仏教は、生きとし生けるものの救済を目指した大乗仏教本来の利
他行、菩薩行を実践できるだろうか。
日本仏教の出自を明らかにし、初期仏教、現代インド仏教に学び対話すること
で、21世紀の生きとし生けるものの平和を願う菩薩の宗教となることができるか。
我々の課題は大きい。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k8/181005.htm

_____________________

業をどう見るか
 仏教は一方で、慈悲を強調しながら、他方、人間の深い煩悩の世界を凝視しています。
 そのような点で、「業」の思想は、今後仏教の現代的意味を考えるとき、たいへん重要な思想であると思うのです。 業の思想が、例の十二因縁の思想と深いつながりを持っていることは確かであります。 十二因縁とはなんでしょうか。
 木村泰賢氏によれば、十二因縁の解釈には、三つの解釈の仕方があるというのであります。
第一は論理的な解釈、つまり十二因縁、無明から老死までの十二因縁を、論理的範疇として考える考え方であります。
第二は、それを心理的あるいは倫理的、現代の哲学用語を使えば、実存的に解釈する道であります。つまり、老や死を、苦と思うことの原因を、渇愛と無明に求める、これが十二因縁の意味であるという解釈であります。
それから第三に、十二因縁を実在的に、宇宙的生の発展のあり方を述べたものであるという説があります。つまり、無明から存在するものは発生し、行識を通り、最後に人間が出て老死が生じたという解釈であります。
 このうち、のちの仏教において、とくに部派仏教において有力になったのは、第三の実在的な因果の考え方であったようです。因果はまさに生命の理法を示したものというわけです。 しかもその因果が、道徳の問題と結合するとき、善因善果、悪因悪果、三世の因果という考え方が生まれます。
われわれが長い間、因果の概念で知っていたのは、このような因果概念でありました。私は子どものころ、縁日に見世物を見に行きましたが、そこにはロクロ首の女や熊女などがいました。このロクロ女や熊女は親の因果が子に報いて、このような片輪者になったといわれました。明治以前までわれわれ日本人はよいことがあると、先祖のおかげでといって喜び、悪いことがあると、親の因果と思ってあきらめたものでした。
 因果の概念には宿命論的ひびきがあります。そこには、おのれの運命への諦めがあります。そして同時に、このような現世の運不運を、人間の理解できない前世の因縁と結びつけることによって、仏教は、はなはだしく、理性の正しい行使を傷つけます。因果の概念は、まさに、日本人を諦観にしばりつけるとともに、日本人の理性をマヒさせた最大の元凶のようでした。
 長い間、仏教は因果の概念をつかって、民衆に道徳を教えましたが、その概念の拡張解釈は、人問に諦観を与えるとともに、人間理性の正しい行使を妨げることに役立ったようです。近代の精神は、このような因果因縁の概念を否定することから生じるのであります。近代的理性にとって、このような因果因縁の概念こそ、まさに仏教のインチキ性を証明するものと映ったにちがいありません。
 このような因果因縁の概念は、まさに仏教の恥部であったわけです。明治以後、日本の仏教学者が、仏教の束縛を離れて、ヨーロッパから、直接に釈迦仏教を研究する方法を学びとったとき、彼らは、彼らが従来釈迦の教説と思っている仏教が、実は釈迦の仏教でもなんでもなく、はるか後代において、釈迦の名にかこつけて作られた経典編集者の思想にすぎないことを知ってビックリしたものでありました。そればかりか、釈迦以来、二千何百年という年月は、同じことばの意味をも、まったく変えてしまったようでありました。釈迦の十二因縁の思想は、どうやら、因縁・因果の名でもって、われわれの現実に知られていた思想とまったく別な思想のようでありました。因縁の思想を釈迦それ自身において考える必要があります。明治以来の根本仏教と解する原始仏教の研究は、結局この因縁の概念、因果の概念を明らかにすることにあったといってよいかもしれません。因縁をあの伝統的な汚名から解放すること、それほあたかも、文明開化の時代の文化人に不評となった仏教を、その迷信の汚名から解放するかのような意味をもっていました。

 因縁の論理的解釈
 このうち、論理的解釈はもっとも近代的解釈のようであります。このような解釈の代表が、宇井伯寿氏の『十二因縁の解釈−縁起説の意義−』と和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』であるといわれます。じつは、この解釈には、すでに先例があり、新カント派の哲学者マックス.ワレーザーが、『原始仏教の哲学的基礎』という本を書き論理的解釈の先鞭をつけたといいます。ワレーザーの本を私は読んでいませんので、はっきりしたことは申しかねますが、日本においてこのような理解がはなばなしく、出てきたときは、まさに新カント学派の全盛時代であったことに注意する必要があります。新カント学派は、ヴィンデルバントやリッケルトに代表されるカント復興運動でありますが、それは、当時ドイツに広がったカント以後の非合理主義的な思想に反対して、カントの合理主義に帰れという運動でありました。いわば、それは小市民の合理主義を代表するものでありましょうが、なんでもドイツ哲学を最高の真理として学ぶ日本の哲学者のサル真似主義が大正デモクラシー運動と結びつき、日本の哲学者はほとんど新カント派の哲学者になりました。このとき秀才の文献学的仏教学者宇井伯寿氏と、秀才哲学者和辻氏のみごとな理性主義的仏教解釈が生まれたのです。
 新カント派は非合理主義、人間の本質を非合理な意志や感情におく非合理主義に深いにくしみをもっていました。そして彼らが、もっともきらったのはショウペンハウエルでした。なぜなら、ショウペンハウエルは、彼らの尊敬する師カントを非合理主義のほうにねじまげたからです。
 ところがまさに仏教は、とくに原始仏教は、従来ショウペンハウエルの見地で見られていたわけです。ショウペンハウエルは、世界を動かしているものを、近代哲学の伝統に反して、理性として考えず、盲目の意志として考えます。われわれの生命を支配する盲目の意志、この盲目の意志は、必然的に人間を苦悩におとしいれます。意志の世界は必然的に苦の世界であります。この苦の世界から、人間を救い出す必要かあります。そのためには、この意志を否定すること、我の意志を否定することが必要であるとショウぺンハウエルは考えます。ショウぺンハウエルは、釈迦の思想中に、このような意志否定の哲学を見て驚くわけです。ショウぺンハウエルは、釈迦の涅槃をこのような意志否定の境地として解釈します。
 ショウぺンハウエルの弟子、ドイッセンは、この師の思想に啓発されて、仏教の研究を志します。
つまりヨーロッパは、ショウぺンハウエル思想によって、仏教を発見するわけです。そして、西洋の仏教学をそのまま学んだ明治以前の日本の仏教学も、またショウぺンハウエルから仏教を見ていたわけです。仏教学者姉崎正治氏は、ショウぺンハウエルの『意志と現識としての世界』の訳者でありますし、木村泰賢氏もショウぺンハウエルに大きな影響を受けています。
 ヨーロッパの哲学、ドイツの哲学がショウぺンハウエルから抜け出そうとしていたのです。ドイツの哲学、とくに現在流行しているドイツの流行哲学を最高の哲学と無邪気に思っている日本の哲学者が、このような風潮により、仏教解釈においても、ショウぺンハウエルを抜け出て、カントに帰ろうとしたのは当然であります。そこから和辻氏の解釈が出てまいります。和辻氏の解釈は、死の解釈において、その本質をむき出しています。死は彼によれはVergehenすることです。つまり過ぎてゆくことであります。死ははたして単なる過ぎてゆくことでありましょうか。ここで、釈迦の人間の苦悩を語ったかの偉大なる教説が、論理的範疇(はんちゅう)論に化するのです。ハイデッガーはExistenzialistat実存範疇ということばを作っています。それは実存的人間存在を表わす範疇であり、それはKategorie論理的範疇とまったく違うというのです。退屈や不安はエキジステンチアリテートに属しますが、カテゴリーには属しません。和辻氏はまさに、ここで一つの誤謬を犯したのです。それは実存範噂に属することを、論理的範疇の意味に解釈したという誤謬です。宗教的不安なしに仏教を見たすぐれた文献学者宇井氏が、そのような誤謬を犯したのは当然かもしれません。和辻氏は、この宇井氏の解釈を哲学的に根拠づけたわけです。まことに才気あるさっそうたる誤謬であります。
 従来から私は和辻氏に対して、きびしすぎる批判をくだしてきましたが、別に和辻氏に恨みがあるわけではありません。私は和辻氏を、むしろ私どもの仕事の先輩として、尊敬すらしています。
しかし私は、和辻氏の青年時代はまだヨーロッパの最先端の哲学に真理そのものが住んでいるという幻想を脱却することができなかったのではないかと思うのです。
 十二因縁を論理的に解釈すること、それはまさに仏教の合理化であり、近代化であるようでありました、この因縁という仏教の汚点のように見える思想を、長い間の不名誉から救うすばらしい行為のようでありました。しかし、因果・因縁を論理的カテゴリーとして解釈して、いったいどういう利益があるというのでしょう。われわれはそこに、ただ、不明確に語られたカント哲学を見るだけであります。釈迦の思想を不明瞭に語られたカント哲学としてみることは、はたして釈迦にとって名誉でありましょうか。当時のインテリの目からみれば、それは名誉なことであったのでしょう
が、いかんながら、釈迦の十二因縁を、論理的カテゴリーとして解釈することは、まったくの誤解のようであります。
 因縁の実存的解釈
 このような解釈より、さきに述べた木村氏の第二の解釈のほうが、ほるかに正しい解釈であると思います。つまり釈迦は、やはり生病老死の原因を求めるのです。どうして人間の世界に苦があるか、世界の苦の原因は何か。そしてその原因をわれわれの心の中にある渇愛と無明に求めます。渇愛は欲望を欲望の側から、無明はむしろ知の側からそれがわれわれの知をくらませるものとしてとらえるわけです。つまりこの老死の苦の原因が、渇愛または無明、すなわち盲目の意志というわけです。このような解釈はショウペンハウエル的ですが、同時に、明治時代の日本の原始仏教研究家の多くの意見です。私はこの見方は一応正しいのではないかと思います。
 人間には苦がある。苦の原因は何か。渇愛あるいは無明。この渇愛、無明を滅ぼせ。このような苦の原因の追求と、同時に苦の滅びに関する追求、それはけっして論理的追求ではなく実存的追求といわれるべきものと思います。釈迦の思想は実存的なものであります。したがって、このような実存的な釈迦は論理的な解釈よりはるかに正しさをもちます。
 人間における渇愛と無明の深さ、のちの仏教はそれを煩悩といいます。そして仏教はじっとおのれの心の姿を見ているところがあります。暗い闇の心の凝視、それが仏教に、キリスト教以上の深みを与える思想的特質なのです。ヨーロッパの哲学では、人間を理性的自我としてとらえます。しかし、人間は理性的自我に尽きません。人間の中には深い煩悩の相がありノます。無明は無知と違います。無知は知らない心ですが、無明は知っていても止められない心であります。このような心、深い煩悩の心の考察は、ヨーロッパにおいて、ショウペンハウエル以後においてはじめて自覚に上されました。近代的な無意識の発見者フロイドは、ショウペンハウエルとニーチェから思想的示唆を得たというわけです。このように煩悩の世界、無明の世界は西洋において、ショウペンハウエル以来の哲学の一潮流にすぎないのですが、仏教ではこの間題が思想の中心問題となります。闇の煩悩の凝視、そこに仏教思想の深さがあります。
 このように解された十二因縁の説は、はなはだ倫理的にして、しかも実存的な説であります。死の苦の原因は、無明渇愛にある、その渇愛無明を捨てたまえ。
 このような十二因縁の見方は、はなはだ倫理的、実存的であります。たしかにこの理解は仏教理解の解釈として実存的であります。まさにこれこそすぐれた十二因縁の解釈であるといえます。
 しかし、はたして十二因縁はこのような意味に尽きるでしょうか。木村泰賢氏は、十二因縁はこのような意味には尽きない、そこには実在する生命の発展過程を、時間的に説明するという面もあると言うのです。たとえば、無明行識の識といわれるものは、受胎の状態に比せられます。つまり十二因縁はすべての存在するものが発生し、老死を生み出すまでの時間的契機を明らかにしたものだと言うのです。
 このような実在的生命観は、因果理解に、道徳的要求が加わった場合、あの善因善果、悪因悪果の説すなわち、よい行為にはよい結果が伴い、悪い行為には悪い結果が伴うという考え方が生じます。しかしこのような縁起の概念をとる仏教学者は現代では少ないようです。むしろ、それは宗派を代表する古い仏教学者の意見に多いようです。木村泰賢氏は、第二の実存的な思想が因果概念にあることを認めながら、同時に、実在的な因果概念も仏教においては無視できない思想であると言われます。

 人類の業
 私はこの第二のいわば、倫理的、あるいは心理的、あるいは実存的な因果理解は、たしかに近代的な正しい因縁概念の理解と思いますが、それはいささか不十分なのではないかと思うようになりました。なぜなら、そこではあくまで個人の存在が問題の中心でありました。実存は、むしろ個人に尽きています。したがって、十二因縁の否定は、個人の内面のみでよいわけです。けれど、はたして、原始仏教は現代哲学のように個人中心主義的でしょうか。あるいほ、はたして因果関係に、個人を越えて拡大されることはないでしょうか。個人は個人を越えた因果関係によってしばられない、それはむしろ、近代的個人主義の立場の前提です。しかしはたしてそうでしょうか、親の因果ははたして、子に報いないでしょうか。祖先のしわざがわれわれの滅びの原因になることがまったくないのでしょうか。われわれが何万年の間になってきた運命によって、われわれが左右されることははたしてよいのでしょうか。われわれが本能という名で呼んでいる能力、これはやはりわれわれが祖先から伝えた一つの潜在能力ではないでしょうか。われわれの祖先がわれわれに投げかけた運命に、われわれが支配を受けることはないのでしょうか。
 私はやはり、因縁の問題を単なる倫理的、心理的、あるいは実存的問題に限定するのは正しい解釈ではないのではないかと思います。やはり、人間が、自己を越えた因果、いってみれば、普遍なる宇宙の生命発生以来の運命の支配を受けているという考えが、十二因縁の思想の中にあるように思うのです。こういう宇宙発生以来の生命の無意識の支配力を「業」というのでありましょう。仏教ではこのような業を認めますが、仏教では自己を業のままに流させるのではなく、業からの脱出をはかるのであります。業にまとわれるかぎり、人間は永遠に苦の世界に坤吟します。この菅の世界、永遠の輪廻(りんね)の世界をまぬがれるには、因果のくさびを切る必要があります。人類が発生以来、になっている重い煩悩の鎖の環を切り取ること、ここに仏教の教説があるわけです。
 私はつい最近まで、『地獄の思想』(中公新書)を書いたころまで、まだ十二因縁の実存的解釈をまぬがれませんでしたが、今は個人の実存的解脱の知恵のみで仏教を解釈するだけではだめだと思うのです。煩悩を長い人類の業として受けとめることが必要です。
 私がこのようなことを思うのは、今の世界を憂えるからであります。いったい今の世界はいずこへ動いているのでありましょうか。近代の歴史観は世界の歴史を発展として考えます。しかし、われわれは世界の歴史が発展するものであることを楽観的に信ずることができましょうか。たしかに、生産力が上がり人間の欲望は満たされるようになりました。しかし世界は疑いもなく進化発展の方へ進んでいると信じることができるでしょうか。世界は、人類は、はたして滅びることはないでしょうか。人間は発生以来たえず戦争をしてきました。勝った者はさいわいに生き残り、負けた者は滅びる、それが人類発生以来の変わらぬ歴史のようでした。人類がどんなにおのれの理性を誇ろうと、世界中において、人類の最大の運命の決定者となったのは戦争であります。戦争が人類の業であります。しかし、いま戦争は人類にとって不可能になってきました。少なくとも、大国相互の全面戦争は不可能であります。核兵器をもった大国同士が、水爆を投げ合ったら、たちどころに人類は破滅であり与。破滅の運命は明らかでありますが、人類はなおかつ戦争、あるいは戦争の野望を止めようとしないのは、どういうわけでしょう。アメリカの国家予算の約四二%は軍事費だといいます、しかも軍事費は毎年多くなってゆくということであります。おそらくソ連や中国も同じことであると思います。いったい破滅や崩壊が目に見えていながら、このような行動が止められないとはどういうわけでありましょう。一じっさい人類は、その発生とともに戦争をしてまいりました。その習性がどうして一朝一夕に改められましょうか。戦争は無明の行為であります。しかもこの無明はまさに人間的な業のようなものであります。それは業として、人間にとってまぬがれがたいものですが、また同時に、まぬがれないかぎり、人類は滅びるのであります。因果の鎖を断ち切ることが必要なのですが、そのような因果の鎖の断ち切る必要を、ほとんど世界の人は知らないのであります。
 私は、もしも今、人間を襲っている危機的な運命が、もしも一個人の自覚によって打開できるようなものであるならば、いつまでも私は実存主義にとどまることができたでありましょう。そして実存主義から、仏教を解釈して自ら足れりとすることができたでしょう。
 しかし、人類の危機はもっと深いところにあるような気がします。人類はヘーゲルの言うように、戦争によって、文化を発展させてきた。戦いが万物の父であり、母であるというへラクレイトスのことばは真実であります。にもかかわらず、もはや、戦いは少なくとも昔のままの形、つまり、もっている全兵器を使うというような戦争という形では不可能です。もちろん不可能ではありませんが、そういう戦争をしたら人類全体はすべて滅びることは確実のようであります。
 人類が、今まで、それでもってやってきたもの、それは、すでにかつてあって今はないというようなものではなく、今現在人類の傾向として現在の人間の性格を形成しているものです。このかってあり、そして今も現在の人間の性格を形成している戦争という業が、今や、人間を破滅にかりたてようとしているのです。人間そのもののあり方と深く関係しています。それは人間の業のようなものです。けれど、今この業からの脱出が必要とされているのです。
 われわれはまさしく歴史の危機にたっています。しかし、われわれはその危機を危機として深く感じていません。世界は ふたたび業としての運命のまぬがれがたい方向に向かって確実に歩いているような気がしますが、人類は目前の物質的幸福に目をうばわれて、危機の深さを十分見ていないように思うのです。
 危機を深く見つめることが必要であります。しかしこの危機を、人塀に自覚させないのも、またヨーロッパ直の歴史観のように思うのであります。
 歴史観としての業
 ヨーロッパにおいて歴史観は、キリスト教によってもたらされたといいます。それは、はたして正しいかどうかはわかりませんが、とにかくギリシアにおいては時間はくり返すという思想が圧倒的であったようです。つまり、春が来、夏が来、秋が来、冬が来、また春が来るように、四季の循環のように歴史は生成消滅をくり返すというのであります。ここで歴史は円鐶的に考えられ、直線的には考えられなかったといわれます。つまり、一方向へと進んでいくという歴史という考えはなかったといわれます。
一方向に向かってゆく歴史という観点をヨーロッパ世界にもたらしたのは、キリスト教でした。
キリスト教の歴史観は終末観です。つまり歴史は地上の国が終わり、神の国が地上に出現される終末に向かっているという考え方です。終末は同時に目的を意味します。つまり歴史は目的に向かっているという見方であります。この場合、このような神の国の到来にはかならず危機が伴います。
地球の大洪水、かならずそこに大混乱、あたかも地球が滅びるのではないかと思われるほどの大混乱が来るというのです。この大混乱の末にはじめて神の国は実現されるというのであります。
 たしかにこの考え方は危機意識を伴います。しかし、この危機意識は、実はみせかけだけのものであることがわかります。たしかに、地上の国は滅びるのであります。しかし、それは神の国の到来のしるしなのであります。どんなに危機が釆ようが、どんなに破滅が来ようが、それは近づく神の国の到来のためというわけです。それゆえ終末史観は、みせかけほど危機感を持たないのです。
むしろ危機に対して、まったくの楽観をその根拠にしているといってよいかもしれません。
 このような終末観はキリスト教のもたらしたものですが、近代のヨーロッパはこのような終末観を現世的に変更します。つまり歴史に目的があるということは、キリスト教の教理をうけながら、神の国を歴史の目的から否定することによってであります。歴史の目標を現世的進歩におく、つまり自由の意識の発展といい、あるいは生産力の発展といい、とにかくこの世の中はだんだんによくなってゆくという考えであります。絶えざる進歩として歴史を考える思想であります。それはキリスト教の歴史観より、もっと楽観的であります。人類はまさに歴史発展のエスカレーターに乗って、無限に発展するというわけであります。
 近代人はこのような進歩史観の上に、歴史を考えます。科学技術文明による生産力の発展が、このような進歩史観の正しさを証明しているようであります。ヨーロッパばかりか、日本人もまさにこのような歴史観の愛好者であります。とにかく、日本においても生産力は飛躍的に増大し、われわれの生活も飛躍的によくなりました。どうして進歩の教説を信ぜずにはいられましょうか。
 マルクスの歴史観もそのような進歩の史観の上に立ちます。彼はヘーゲルから弁証法という歴史観を学びます。ヘーゲルは、すべて歴史は闘争によって進歩するという歴史説明の論理的公式を発見したと思いました。闘争、そして闘争の末に、新しい歴史の状況が生まれる。こういう歴史理解によってヘーゲルは、戦争を肯定しましたが、マルクスは、ヘーゲルから弁証法的発展史観を借りながら、彼は国家と国家との闘争である戦争ではなく、階級と階級との戦い、階級闘争を歴史発展の原動力と考えます。
 いずれにせよ、ここに闘争についての楽観論があります。闘争はけっして世界の破滅ではなく、進歩を生むという楽観的信仰がそこにあります。しかしはたして、このようなオプティミズムはそのまま通用するでしょうか。マルクス主義は終末観であるという人があります。彼はヘーゲルのように段階的な発展論ではなく、階級社会の終末を宣言し、無階級社会の到来を実現する終末史観がそこにあるというのです。しかし、この終末観も、キリスト教と同じくたいへん楽観的であります。人類全体が滅びるなんて、そこでは考える必要のないことのように思っているかのようです。
今世界を支配しているのは進歩史観であります。それは一直線的な進歩史観か、それとも世界の破滅と新しい神の国の到来を説く終末史観かどちらかです。人類の破滅をどちらの歴史観も予想すらできません。彼らの思想が、むしろ破滅の予想を妨げているのです。そしてこの楽観的な終末観ないしは進歩史観が彼らの愚かしい軍備拡張競争を止めさせはしないのです。
今後の人間は人類全体の破滅の可能性を考える必要があると思います。そしてその破滅をまぬがれるために、あらゆる人間、あるいは国家は、自己の内部にある我欲の強さを反省する必要があります。国家というエゴイズム集団は、それがなくては人叛はやってゆけなかったのです。しかし、私は国家を人類の業のようなものと思うのであります。なぜなら、それはまぬがれがたい人間のエゴイズムの所産であり、しかもそのエゴイズムをまぬがれないかぎり、国家は人間を、人類破滅の方向へと押しやるかもしれないからです。人間の業の深さを凝視して、この業をまぬがれる道を考える哲学が必要なのです。業の歴史的反省のみが、この戦争をまぬがれる方向だと思います。国家を無我の主体に近づけること、それが今や現代世界にもっとも必要とされている全人弊的な歴史的要請であります。もう一度業の思想がかえりみられる必要があります。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:s_TCcEAFasYJ:d.hatena.ne.jp/nanmosa/20080209+%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B+%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3+%E6%96%B0%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88&cd=8&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


_________________
_________________
関連投稿
イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html
独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html
リヒアルト・ヴィルヘルムと易
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/606.html
イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html
釈迦は何故日本に再誕したか 1__我は大川隆法であって、大川隆法ではない。 エル・カンターレであ-る!!!
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/341.html

釈迦は何故日本に再誕したか 2__我は大川隆法であって、大川隆法ではない。 エル・カンターレであ-る!!!
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/342.html

こんな女に誰がした_3 女は怖い
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/348.html

こんな女に誰がした _ 欧米人の恋愛は性的倒錯の一種
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/353.html

○○○○嬢が幸福の科学に狂った理由http://bakusai.com/thr_res/ctgid=119/acode=11/bid=98/tid=1210360/p=15/tp=2/


http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/867.html

コメント [外国人参政権・外国人住民基本法01] 朝鮮総連、無償化条件「断固拒否」の方針 本国から指令(MSN産経) 木卯正一
01. 2010年11月21日 18:21:51: iUqPWksjJ6

外国人に色々な制限が有るのは当たり前、イヤなら自分の国へ帰れば良いだけ。


http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/629.html#c1

記事 [ペンネーム登録待ち板6] 阿修羅♪お知らせ・管理 板にも私のペンネームとパスワードで書き込みができないので、こちらで対応してくれませんかね。
★阿修羅♪お知らせ・管理 板にも私のペンネームとパスワードで書き込みができないので、こちらで対応してくれませんかね。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/868.html
コメント [経世済民70] 元財務官が語った「1ドル=100円でもおかしくない」  いよいよ「「政権崩壊相場」が始まった 通貨切り下げ競争はもう終わ gikou89
09. 2010年11月21日 18:38:34: DVP7qai3VM
日本は、政治も経済もダメな国だが、だから即円安になるということはない。アメリカはドルを刷っては撒き散らしているし、ユーロ圏はいつ潰れるか解らない国がいくつもある。イギリスはアメリカ以上に危機的状況ではないか。人民元に至っては、自由に取引できない、国による管理通貨である。世界で最も強い通貨は円であり、最も安全な投資先は日本国債である。毎日の為替相場や債券市場を見れば、これは一目瞭然のことである。この円高の好機に、本来は長期的戦略を立てて、資源の確保や企業の買収を図るべきであるが、なぜかそういう話は余り聞かない。ここがダメな国のダメぶりを良く表しているが、藤巻や辛坊という相当いかがわしい輩が、最近、国家破綻を言い始めている。自国通貨建ての債務が殆どの日本が、アメリカやイギリス、イタリア、スペイン等の巨額の海外債務を持つ国よりも、破綻の可能性が高いはずがない。どこかから金を貰って言っている与太話としか思えない。リーマンショックも全く予測できなかった藤巻は、まだドルを買っているのだろうか。楽な商売だな。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/225.html#c9
コメント [経世済民70] 日本が移住しやすくなれば外国人労働者流入し多様な人材育つ gikou89
04. 2010年11月21日 18:47:27: eJ4QbuCcXc

gikou89の正体が、いよいよ明らかになってきた。経団連の回し者、或いはスポークスマンきどり。
 こんなスレッド荒らしのくそ情報は、阿修羅に相応しくもない。
 よそでやんなさい。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/238.html#c4
コメント [マスコミ・電通批評11] ネットユーザーへの受信料支払を画策するNHKの愚 (暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜) pochi
07. 2010年11月21日 18:49:53: bZ6Ntlq41c
NHK廃止してください。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/238.html#c7
コメント [マスコミ・電通批評11] 転載:朝日新聞が国民新党の定例記者会見に出入り禁止になった 888(スリーエイト)
32. 2010年11月21日 19:02:20: ChQKGIZROM
アメリカ国債のほとんどの証券はアメリカで保管されている為に事実上はお金をぶん捕られ続けられただけだという話ですが・・・。

一説には800兆にも上ると聞いたのですがどうなんでしょう?
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/235.html#c32

コメント [Ψ空耳の丘Ψ58] 元気の出る聖書の言葉---日本も滅びるのか(岩本遠億さんのメルマガ) もみの木
02. 2010年11月21日 19:07:18: c66228xczw

>富める者が金を使って裁判を曲げ、貧しい者を踏みにじる。

同様の事件が日本では相当に日常化していると言っても過言ではないでしょう。
富める者->権力者特に警察、検察、司法。金->権力。貧しい者->庶民、と言い換えればこうなります。

権力者が権力を用いて裁判を曲げ、庶民を踏みにじる。

冤罪事件がこの典型ではないでしょうか。
高知白バイ事件、足利事件、布川事件、佐藤栄佐久氏(県民の目線に立った知
事)、小沢一郎氏(国民の味方)等々。

しかし、これら被害者の皆さんが、人に頼る前に、速やかに主イエスを信じ、この方に頼りますように。
また、加害者側の人々も自分の悪事を悔い改めて、主イエスを信じ、義の道を歩み
始めますように。
日本にもリバイバルが起こりますように。あのウエールズのリバイバルのような。

神の裁きの時が間近に迫っているのだから、なおさらです。


http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/886.html#c2

コメント [マスコミ・電通批評11] 朝ズバ 偏向報道の疑問にお答え (山の中の時事随想) pochi
40. 2010年11月21日 19:07:56: llPMzOzhNc
>>39
このスレへの参照用リンク含めたうえで
ちょうど創価と公明党の話題が出てる別のスレに載せときました。

http://www.asyura2.com/10/senkyo99/msg/811.html#c71
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/228.html#c40

コメント [中国2] 中国に尖閣は日本固有の領土と伝えた〜首相(日テレ) 地には平和を
01. 2010年11月21日 19:10:15: FZgGiDbYMh
佐藤博之71歳    神奈川 会社員 70才代以上 2010/11/16 09:00 転載

無人島の事で大騒ぎですが、愚かしい。
それより農業の崩壊の方が大事でしょう。
農業従事者の平均年齢66歳に近い。危機です。崩壊寸前ではないか。70歳になれば
もう限界です。2.26事件の時によく
似ています。農家では若い娘を売るような
極貧困なのに軍国主義一辺倒で国は破滅
した。TPPは必然なのに無人島の事で
熱くなっている。農業は国土保全に大きな
貢献をしている。それを忘れて農業が崩壊
すれば国土はすぐに荒れ果てる。破壊は
一瞬、建設は死闘なのです。日本は急傾斜
です。破壊は速いです。農業社会主義を
施策すべきです。基本を放置して経済成長
はありません。先祖の苦闘を放棄して豊かになる道理は無い。都会でパソコンやってて飯が食えると錯覚していませんか。
http://www.asyura2.com/09/china02/msg/657.html#c1

コメント [マスコミ・電通批評11] 転載:朝日新聞が国民新党の定例記者会見に出入り禁止になった 888(スリーエイト)
33. 2010年11月21日 19:13:03: WRbIVHQh9o
>28
レベルが低すぎて話しにならん。
レベルの低いネトウヨが理論武装してちょいちょいやってくるが、
大方が退散するね。
阿修羅が低レベルな左翼思想のたまり場位に思ってくるんだろうが、
徹底的に論破されていつの間にか消えていく。

一部はしばらくは意地を張ってやせ我慢して感情的なコメントをするか、
さもなければ議論などとっとと止めて自分の書きたい事を書き連ねる。

それでもやはり気づいた頃にはいなくなっている。
そもそも前提となる知識量が違うから、
ネトウヨ君が書いてる内容位皆どっかで読んだ事ある事すら理解してない。
そういうネトウヨ君が書く内容も含め吟味した上で議論されている掲示板だという事位理解してコメントして欲しいもんだ。

私などは元々保守系よりの人間だし、
よしりんの戦争論も一時愛読し涙も流した、
戦争で死んで行った者達を余りに愚弄してきた
戦後教育は今でも肯定はしてない。
チャンネル桜も一時よくみていた。
だから保守層の考え方などよくわかっている。
理解する所も勿論多々ある。
根本的な部分で全否定するべき考え方ではないと思っている。

だがその上で私は今の踊らされている保守層からは決別した。
君もきっと雇われ工作員とかではない限りは、
一旦全ての前提や思い込みを捨てて、
阿修羅を一週間程過去記事数百程読んで見たらいい。
それでも今の阿修羅言論に一切理解が示せないなら、
それはそれでよし。
だが、今の保守層が傀儡のごとく踊らされている事に気づけるなら
大したもんだ。
私は完全決別するのに1年はかかったからね。

しっかりと阿修羅に流れている論理の全体像を感じる事が出来る様になれば
阿修羅が実は真性保守層だと理解出来るだろう。
ただ、真性保守でありながら、左翼系の考えの人達とも折り合いをつけている。
全ての情報に心を開きつつ一方で妄信もせず
ホントに国そして国民生活を大事に守ろうという一念を持った人々が多く居る掲示板だと確信している。
ここに集う人達は大方本物の愛国者だ。
(愛国者という言葉を嫌う人も多々いるだろうが)

まぁネトウヨ系思想に取り込まれた人が増えるのも仕方無い部分はある。
元はと言えばやはり左翼系の極度に逆方向に歪んだ戦後の教育に問題があるだろう。
結局戦後教育を生きた者達達のアイデンティティが破壊されつくした反動から、
極度の優越意識を中韓に持つ事で自分そして日本人としてのアイデンティティを
保とうとしているのだと私は理解している。
だが、ある日気づくはずだ。
その優越意識の奥にあるのは欧米への劣等意識だと言う事を。

それ故にアメリカ様には犬のごとく媚びへつらい足の裏を舐める惨めさも
見えなくなっている。
中韓への優越意識に浸っているからだ。
これは心理学的には結局感覚麻痺状態、つまりハイにになっている状態なんだがね。

戦前の愛国者でも今の一部の保守は眉唾もんだろうと思うね。
今のネトウヨはドラえもんのスネ夫みたいな精神構造をしていると気づくべきだ。
ジャイアンというアメリカには媚びへつらい、
のび太の位置に居る(そう思いたい)中韓には侮蔑と否定を繰り返すのだから。

結局はそういう陳腐な優越意識を捨てて、
ただ純粋にこの国の行く末を心配し、
自分達の未来と更に子孫達の未来の為に
今何を選択するべきかを考え抜いて
私は阿修羅の言論を今最も支持するべきものとして評価している。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/235.html#c33

コメント [経世済民70] 11.19 株価1万円突破の本当の意味とは gikou89
04. 2010年11月21日 19:29:53: DVP7qai3VM
簡単に言えば、ヘッジファンドが決算のために売りポジションを一旦解消したのが主因でしょう。変な理屈は信用しない方がいい。昔は、日経平均が1万3千円を切ったら、日本経済は終わると言ってたじゃないか。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/224.html#c4
コメント [不安と不健康15] 転載:井口博士が、ついにグーグルアースで動かぬ証拠!!(=ケムトレイル!?) 888(スリーエイト)
20. 2010年11月21日 19:33:10: DcswrASD5Y
 ジオエンジニアリング(地球工学)自体はすでに公然の代物だ。どのぐらい認知されているかといえば、日経サイエンスの翻訳記事中に、『(二酸化炭素の回収という)自分達の研究を地球工学と一緒にしないでくれ』という趣旨で引用されるほどの認知だ(日経サイエンス2010年9月号105ページ参照)。
 それからすれば、ケムトレイルはそのうちエシュロンと同じ扱いになるんじゃなかろうか。すなわち、公認はされないかわりに存在を積極的に否定されることもないという。もっとも今のままでいけば、ある日突然公認されだれはばかることなく散布がおこなわれるようになる可能性も高いのだが。

 今日まで散布されていなかったとしても、明日からのことはわからないし、その日初めて撒きましたといってもそれが本当かどうかもわからない。有害なzeRnPZHYo6あたりが何をわめいた所で、現実が修正されるわけでもない。
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/304.html#c20

コメント [マスコミ・電通批評11] ネットユーザーへの受信料支払を画策するNHKの愚 (暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜) pochi
08. 2010年11月21日 19:43:05: X4jybsZokQ
NHKはNihon o Hametsusaseru Kaizokuの略です。
一般に知られていないですが。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/238.html#c8
コメント [経世済民70] 元財務官が語った「1ドル=100円でもおかしくない」  いよいよ「「政権崩壊相場」が始まった 通貨切り下げ競争はもう終わ gikou89
10. 2010年11月21日 19:51:38: kbjD6Oqr1Y

国会議員を含め、血税で食んでいる輩の公僕意識が低すぎる。

民主が、官公庁の組合の発言力が強いなら、退席しかない。


http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/225.html#c10

コメント [マスコミ・電通批評11] ネットユーザーへの受信料支払を画策するNHKの愚 (暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜) pochi
09. 2010年11月21日 19:57:50: hj5sogWyEs
ホント、NHKは要らない。

一部分だけを恣意的にきりとった報道など害がある。事実のみを報道すればいいのに、余計な解説が入るには、説教をきかされるようで不愉快だ。

政治の動きを掴むのは、政府・各省庁・各政党のサイトを読んだり、政治家のブログなどを読んでいると分かる。NHKの色のついたフィルターを通して見るのではなく、情報発信元の直接情報を見たい。

解説は、色々な立場の評論家や学者がいろんな見方を提示するから、それらのブログ等に当たって読み、自分なりに考える。

NHKは放送にスクランブルをかけて、“見たい人が視聴料を払って見る方式”にしていただきたい。NHKなど見たくない、要らないという人への“押し売り”は止めていただきたい。

いっそ、NHKなど潰れてしまえ!!
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/238.html#c9

記事 [昼休み44] 新党視野に結束する民主党「仙谷嫌悪派」(鈴木 哲夫=ジャーナリスト)
2010年11月9日 リベラルタイム

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20101109-01-1201.html


民主党執行部や内閣人事は、仙谷官房長官が握っている。

小沢グループはもちろん、人事で干された議員の鬱憤は、
非主流派への結集へ向かっている
 
 
「剛腕もほどほどにしないとね。あれだけ好き勝手に人事をさわったり、政策を強引に推し進めていたら、いろんなところで摩擦を生まないほうがおかしいでしょ」 (民主党鳩山グループ議員)

 代表選挙で勝利した菅直人首相の改造内閣と党執行部人事。「選挙が終われば挙党一致」等という選挙期間中のパフォーマンスは、やはり大嘘だった。人事を主導したその「剛腕」とは仙谷由人官房長官のことだ。

 仙谷の人事は、なんと代表選挙の前夜、九月十三日から早くも始まっていた。
「原口(一博総務相)と山田(正彦農林水産相)は外すしかない。小沢を応援したからな。あと岡田(克也外務相)も外務大臣を外すしかない。アメリカは岡田をよく思っていない」

 党員・サポーター票だけでなく、議員票でも小沢系を切り崩し、菅の勝利を確信していた仙谷は、すでに、前夜にこうした人事構想を周辺に話していた。

 原口や山田等の名前が挙がっている以外にも、当然、小沢系の議員たちは閣僚から外されていた。一方で、前原誠司、蓮舫、野田佳彦、玄葉光一郎らは入閣リストに入っていた。

 人事は首相の専権事項である。しかし仙谷は、そんなことはお構いなしだ。小沢一郎民主党元幹事長を徹底して排除して、党内での求心力を失わせ、小沢を追い出し、その政治生命すら葬り去るまでの執念を見せた。
 

幹事長人事は「嫌がらせ」

 
 だが、明らかにやり過ぎで、民主党内の至るところにひびが入ってしまったと、前出の鳩山グループ議員はいう。

「代表選挙が終わって、人事もすんで、表面的には民主党は落ち着いているように見えるが、実は内部は、単に小沢・非小沢という溝だけではなく、いろんなところに、いろんなベクトルで溝ができてしまった。すべては、仙谷さんの強引な人事。当然、菅さんも共犯だ」

 その一つ。民主党内にできた新たな溝で注目すべきは、仙谷と岡田の対立である。

 岡田は、代表選挙の際も小沢の出馬を非難する趣旨の発言をする等、非小沢側にいた。ところが、八月に米軍普天間基地問題等難題を多く抱えるアメリカから、
「岡田では日米間の話し合いがうまくいかない。外して欲しい」
 との意向が菅・仙谷に伝えられて、その時点で「外相外し」が規定路線となった。

 加えて次のような理由もあった。
「仙谷さんは、ポスト菅は可愛がってきた前原さんにしたい。その時のライバルは岡田さん。ここは、早めに岡田さんの芽を摘んでおこうということもあったんだろう」(民主党小沢グループ中堅議員)

 そして、仙谷が岡田に与えたポジションは党幹事長。本来なら重要ポストだが、今回ばかりは勝手が違う。

「幹事長は党務の責任者だから、小沢さんの離党問題を一手に引き受けなければならない。それに、苦しい戦いの北海道五区補欠選挙も幹事長の仕事だ。この時期の幹事長は嫌がらせに近い。それがわかっていたから、岡田さんにしては珍しく外相留任を強く希望したんだ」(同議員)

 案の定、国会で小沢問題を追及された菅や仙谷は、
「岡田幹事長に任せてある。(離党勧告等は)執行部が行う話で、こちらがとやかくいう話ではない」
 と答弁し、岡田へプレッシャーをかけ全責任を負わせる姿勢を見せた。
 

「仙谷は許せない」

 
 さらに、仙谷は最近、玄葉国家戦略担当相を「できる奴」「前原の次の総理候補だ」等と周辺に語りベタ褒めしている。そこには理由がある。

「玄葉さんは、かねてから『岡田さんを総理にする』と公言してきた。ポスト菅の代表選挙で、前原さんに対抗して岡田さんが出る場合、その岡田さんを玄葉さんが支える可能性がある。玄葉さんは二〇〇五年の選挙対策委員長の時から、面倒を見ている若手も多くに信望があり侮れない。そのため、仙谷さんが玄葉さんを褒めるのは、明らかに岡田さんと引き離して、自分のほうに引き込もうという作戦だ。次の次の総理等と甘い言葉をかけている理由はそれ」(民主党・岡田に近い中堅議員)

 元々ポーカーフェイスで、与えられた職を黙々とこなす岡田だが、「仙谷は許せない、という気持ちがあることは間違いない」(同中堅議員)という。露骨な岡田切りは、小沢・非小沢の戦いの陰で見えにくいが、今後、岡田が非主流派の結集に参加することも「大いにある」(同議員)という。

 また、岡田以外でも、次世代の代表格の一人・原口もまた、菅・仙谷から、いっそう一線を画すようになった。

 総務相を外された時には、「胸の中に熱い火箸を押し付けられたような思いだ」と話し、菅内閣の現実路線に対しては、「赤い財政市場主義」とまで痛烈な比喩をした。そして、「民主党が最終の理想形だとは思っていない」と、新たな政策集団をつくることも示唆しているほどだ。

 そして、やはりもっとも大きな亀裂としてその動向から目が離せないのは、菅・仙谷と全面対決した小沢グループ、鳩山グループだ。
 

非主流派が結束

 
 鳩山由紀夫の側近の一人がいう。

「代表選挙前に鳩山さんがやろうとしたことは、菅さんに党内世論を伝えることだった。『菅さんが思っているほど非小沢ばかりじゃないよ。だから、小沢さんにも配慮してやったほうがいい。そうすれば、代表選は回避されて菅さんの信任投票になるよ』ということだったんだ。ところが、結局、仙谷さんたちの挑発に乗せられて小沢さんを排除し、全面対決に走ってしまった。代表選のあと食事をした時に、鳩山さんはそれを残念がってた」

 さらに、この側近は続ける。
「その上、菅さんは、鳩山さんがやってきた政策をことごとく否定している。鳩山さんは、『いろいろやったのにねえ』といい方は柔らかいが、かなり嫌な思いをしている。菅さんとはもう(修復は)ダメだと思う。断言できる」

 こうした鳩山側近たちと、小沢を支持する議員たちは、このところ盛んに会合を繰り返している。

 そこでは、非主流派の結束を図り、小沢・鳩山という二枚の看板をどう生かしていくか、その上で世代交代して新しい民主党をどうつくっていくか、場合によっては新党も視野に入れた話も出ているという。

 こうした動きを見せている議員のうち、鳩山政権時代の内閣にいた一人はいう。
「菅・仙谷が、露骨に人事というもっともわかりやすく稚拙な手段でやってくるなら、こっちは大人の政治家として、政策で非主流派の結束を図る。菅内閣には、国家ビジョンもなければ外交も経済も無能だ。野党丸呑みで、政権をただ維持するだけが目的。我々は勉強会を通じて、民主党の原点の政策集団になって、退陣に追い込むつもりでやる」

 民主党の亀裂は四分五裂の状態。ねじれ国会の中で、菅政権は野党を相手に、遅かれ早かれ行き詰まるともいわれているが、退陣含みの火種は、実は足元にある。 (文中敬称略)

リベラルタイム12月号 特集「政治」を読む!
※各媒体に掲載された記事を原文のまま掲載しています。

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/228.html

記事 [昼休み44] 「小沢親衛隊」は離党後も展望あり? 
2010年11月8日 リベラルタイム

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20101108-01-1201.html 

 自由党時代からの小沢一郎民主党元幹事長の側近の国会議員は、「強制起訴で、裁判や国会での追及等、厳しい政治環境が続く。でも、これまで小沢氏の威を借りていただけの側近は離れ、本当に小沢氏を支える人は我慢してついて行くから、逆に、本当の側近を見分けるいい機会だ」と話す。

 小沢氏の『実働部隊』を自任していた、小沢氏主宰の勉強会「一新会」だが、実はその個々のメンバーの資質や舞台回しの実力には、疑問符がつくことも多かった。小沢氏側近といわれる一新会メンバーたちのどれほどが、小沢氏の理念や心情を理解していたのかというと、甚だ怪しいのである。「代表格の山岡(賢次)民主党副代表は、一新会メンバーの中では当選回数も役職も上で、『オレが一番の小沢側近』と自負しているが、代表選の一年生の囲い込み等、強引だった。本当は、小沢氏が出ても出なくてもいいような環境をつくればよかったものを、出ざるを得ないような流れをつくってしまった。考えが足りない」(同側近)。

 また、たとえば「小沢氏の懐刀」といわれる松木謙公衆院議員は、記者に囲まれると小沢氏の気持ちを盛んに語るが、実は小沢氏とまともに話すらしていないとも。

「小沢氏の名で、力を誇示しようとしている」(民主党の一回生議員)類の『自称側近』たちは、強制起訴とともに小沢氏の求心力が低下すれば、小沢氏から離れる可能性がある。

 一方で、あくまでも小沢氏の政策や政治家としての資質にシンパシーを感じている側近たちもいる。証人喚問等必要なしと論陣を張る輿石東参院議員会長、代表選挙で政策を担当した中塚一宏、国対で信任を得た三井辨雄、樋高剛各衆院議員だ。彼らは総じて表に出ず、仕事師の印象。しかも、驚くことに一新会に属していない者が多い。「ここで一新会は一度解散して、コアな小沢グループを再構築すべき。中心メンバーは、ざっと二十人、それに一年生が四十人くらい。合わせて六十人いれば万全だ」(同側近)。

 裁判終了まで党内で発言力をキープしながら、さらに民主党を割っても、展望が開ける数である。

 リベラルタイム12月号 「confidential」

※各媒体に掲載された記事を原文のまま掲載しています。

http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/229.html

コメント [文化2] ジャズヴォーカルには美声は必要なし?! モモンガール
06. モモンガール 2010年11月21日 20:15:11: qoOlRBnI3lDHA : 4JByyi9KHY
白人音楽の基盤にあるのはクラシックであり、高度な音楽理論の上になりたっています。世界中の音楽の中でなぜクラシックだけが異常に高度に発達したのか不思議でたまりません。黒人音楽はブルーノートとリズムが特徴的です。どちらも魅力的な音楽であり、このバランスがよければ多くの人気が得られそうです。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/435.html#c6
コメント [文化2] JAZZスタンダード モモンガール
02. モモンガール 2010年11月21日 20:21:06: qoOlRBnI3lDHA : 4JByyi9KHY
演歌でも、童謡でも、音楽であればなんでもジャズになってしまうし、
繰り返し演奏され、人々に愛されて、スタンダードとなります。
そんなふところの大きさもジャズの魅力のひとつです。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/441.html#c2
コメント [経世済民70] 大前研一氏 600万円で買った車が半年後に300万円台になり嘆く gikou89
05. さかなつり 2010年11月21日 20:24:50: aqcnpF/SLPC2I : Pp0WQ6xeqI
仰る通りです。北米ですが我が家の トヨタエコー、ミニカーの走りで5年前購入。雑誌コンシューマーレポートで良い点が出ているのでほかのクルマにくらべると中古の値段が上がっています。ここでは中古2年のレキサスをかって2-3年運転して購入時とほぼ同じ値段で売るという豪のものもいます。トヨタバッシングのひどいときも大卒だけではなく70-80代のおじさんたちがトヨタを買い始め めからうろこでしたよ。20年前に勝った家屋も田舎なれども確実に中古家屋として値段が2-3倍になっています。よいものは新品中古にこだわらず高値がつけられるべきですよね。需要と供給のシステムです。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/234.html#c5
コメント [経世済民70] サラリーマン社長は日本経済が衰えた最大の原因の1つだ。彼らは責任を取らない。一括採用と年功序列は会社が潰れても治らない。 TORA
22. 2010年11月21日 20:51:14: 7bQGos1dCI
>>21
え?

それは日産など一部の話では?
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/200.html#c22

記事 [戦争b6] 中国農業省所属の漁業監視船「漁政201」と「漁政310」: 「釣魚島は中国の神聖なる領土」 (チャイナネット
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-11/21/content_21389233.htm

310漁業監視船が初めて釣魚島へ 日本側に妨害される
タグ: 310漁業監視船 釣魚島

発信時間: 2010-11-21 16:11:32 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

中国の最新鋭の漁業監視船・310漁業監視船は20日午前6時、初めて釣魚島海域に入り、201漁業監視船と編隊を組んで、中国の漁船を保護するための巡航を始めた。

同海域に入ってまもなく、日本「海上保安庁」の巡視船に尾行され、同海域を離れるよう「警告」された。中国側は、「釣魚島は中国の神聖なる領土であり、自国の海域で正当な漁業管理業務を執行しているのだ」と厳然と拒否した。

日本側は巡視船7隻、偵察機2機、ヘリコプター1機を出動し、中国の漁業監視船の巡航を妨害した。中国側が、妨害を止め、中国の釣魚島海域を離れるよう要求した。その後、310船と201船は所定の計画どおり巡航を続けた。

今回の巡航任務の担当者は、「釣魚島海域で漁船を保護するための巡航は続けていく。これは中国の漁業行政の専属経済区管理のための重要な海域の一部である」と語っている。

中国漁業行政は農業部の傘下にあり、中国の海洋権益を守り、海洋生物資源を保護し、漁民の安全生産を確保する責任を担っている。近年、東中国海、特に釣魚島海域で、中国漁民の漁労作業が何回も妨害され、漁民が拿捕される事件が度々発生している。そうした状況の中、中国漁業行政が巡航を強化し、漁民の安全を保護する必要性が特に大きくなっている。

中国外交部の報道官も先般、中国の法律に則って、中国漁業行政は今後、釣魚島付近の海域での巡航を常態化し、さらに強化していくことを明らかにした。こうした背景のもとで、中国の310漁業監視船が釣魚島へ赴いたのである。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2010年11月21日
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/472.html

記事 [戦争b6] アメリカ財務省海外資産統制室: 朝鮮大聖銀行と朝鮮大聖貿易総会社 制裁対象機関に追加指定 (東亜日報
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2010112070078


米、北朝鮮の大聖銀行―大聖貿易に追加制裁

NOVEMBER 20, 2010 08:30
北朝鮮の統治資金の管理をする朝鮮労働党「39号室」が保有・統制する朝鮮大聖銀行と朝鮮大聖貿易総会社が、米国の制裁対象機関に追加指定された。

米財務省海外資産統制室は18日、両機関を制裁対象リストに加え、住所と電話番号、電子メールアドレスを公開した。朝鮮大聖銀行は、金正日(キム・ジョンイル)総書記ら北朝鮮指導部の資金管理をする労働党39号室が所有する対外決済銀行であり、朝鮮大聖貿易総会社は、39号室の不法取引に利用するダミー会社とされ、注視されていた。

米財務省は、「朝鮮大聖銀行は、北朝鮮の不法金融プロジェクトに関連しており、朝鮮大聖貿易総会社は、39号室の代わりをして対外取引をするのに利用された」と明らかにした。労働党39号室は、不法な経済活動に関与し、秘密資金の管理や指導部のための収益創出で、北朝鮮指導部に資源を提供する秘密機関だと、財務省は判断した。

リービー財務次官(テロ・金融犯罪担当)は声明で、「朝鮮大聖銀行と朝鮮大聖貿易総会社は、北朝鮮の不法で危険な活動を支える39号室の金融ネットワークを主要機関だ」と明らかにした。そして、「北朝鮮による拡散や違法活動にかかわる機関の金融ネットワークを破壊するため、財務省は引き続き権限を行使する」と強調した。

同日の措置は、北朝鮮が軽水炉建設を推進しているという事実が公開され、核実験を行った咸鏡北道吉州郡豊渓里(ハムギョンプクト・キルチュグン・プンゲリ)で疑わしい動きが捉えられているというメディアの報道後に断行された。

米国は8月末、北朝鮮制裁の新たな行政命令13551号を発表し、朝鮮労働党39号室と偵察総局、チョンソン連合、金英哲(キム・ヨンチョル)偵察総局長など、機関3ヵ所と個人1人を制裁対象に指定した。

クローリー国務次官補(公報担当)は同日、ワシントン外信記者クラブで開かれた会見で、「北朝鮮の核拡散の脅威を遮断するために、北朝鮮の機関や個人に対する制裁が続くだろう」と明らかにした。そして、「危険な技術を他国に広めた北朝鮮の前科を最も憂慮している。対北朝鮮制裁は、違法活動や拡散危険活動の恐れがある北朝鮮機関を孤立させる」と強調した。



http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/473.html

コメント [経世済民70] 大前氏 こんな所得税や法人税では日本の富裕層は国外に脱出 gikou89
20. 2010年11月21日 21:00:16: uKFoqoJusE
大前研一のみでなく、日本の政治家、エコノミスト、マスコミ全てが洗脳されている、
「税の集め方と使い方日米比較」のデータ全てで言えるのです
日本は米国より可成り貧乏人に厳しく金持ちに優しいのです、財務省や文科省を含む全てのデータで言えるのです
※逆のデータがあったら教えて頂きたい
※善し悪しや社会の比較ではなく、税制予算の比較です、念のため付言します
例えば次の14例、洗脳されているのがよく分かります
大前研一エコノミスト失格ですね、財務省のデータくらい見て頂きたい。
http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/130.html
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/214.html#c20
コメント [経世済民70] 貧乏人は市ね!飢えて市ね!by市民派宰相(雪裏の梅花) ドキッ!プロ奴隷だらけの水泳大会
08. 2010年11月21日 21:13:34: 7bQGos1dCI
>>05
シンガポールって、日本でいえば東京23区だけ独立国家になったみたいな国
だよね。そんなのを反例として出すってどんだけオツムが・・・・
>>06さんが言うように、NZは人間より羊が多い国。機械類は昔から輸入品しか
ない(人口が少ないから国産化のメリットもない)。

日本はマスコミで言われているほど輸出依存の経済ではない(むしろ欧州各国
より内需がの割合が大きい)し、農業もカロリーの割に価格が高い野菜は国産品
が主(カロリーベースの食糧自給率だけ見ていても分からない)。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/182.html#c8

記事 [テスト20] テスト
テスト
http://www.asyura2.com/10/test20/msg/660.html
記事 [テスト20] て

http://www.asyura2.com/10/test20/msg/661.html
記事 [テスト20] テ

http://www.asyura2.com/10/test20/msg/663.html
コメント [マスコミ・電通批評11] 転載:朝日新聞が国民新党の定例記者会見に出入り禁止になった 888(スリーエイト)
34. 2010年11月21日 22:01:17: 9Bn2DqF0DA
>イランが値段を吹っ掛けていなかったらおそらく放棄していなかったでしょう。

イランがここにきて「値段を吹っ掛けた」とは初耳だ。
ニュースソースを示してほしいな。
下手な「言い訳」はしないほうがいい。

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/235.html#c34

記事 [テスト20] Re: テスト

●V-22 Osprey - The Bad Bird
http://www.youtube.com/watch?v=M3a8--A1vsg&feature=player_embedded

http://www.youtube.com/v/M3a8--A1vsg?fs=1&hl=ja_JP&rel=0">http://www.youtube.com/v/M3a8--A1vsg?fs=1&hl=ja_JP&rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385">


●b-52 crash (longer version)
http://www.youtube.com/watch?v=E21byPXR1ek&feature=player_embedded

http://www.youtube.com/v/E21byPXR1ek?fs=1&hl=ja_JP&rel=0">http://www.youtube.com/v/E21byPXR1ek?fs=1&hl=ja_JP&rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385">


●ヘリの墜落
http://www.youtube.com/watch?v=amvO6J66qbI&feature=player_embedded

http://www.youtube.com/v/amvO6J66qbI?fs=1&hl=ja_JP&rel=0">http://www.youtube.com/v/amvO6J66qbI?fs=1&hl=ja_JP&rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385">

───

そういえば、普天間基地米軍ヘリ墜落
●普天間基地米軍ヘリ墜落
http://www.youtube.com/watch?v=lAs2jR3M6lE

http://www.youtube.com/v/lAs2jR3M6lE?fs=1&hl=ja_JP&rel=0">http://www.youtube.com/v/lAs2jR3M6lE?fs=1&hl=ja_JP&rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385">


http://www.asyura2.com/10/test20/msg/664.html

コメント [経世済民70] 元財務官が語った「1ドル=100円でもおかしくない」  いよいよ「「政権崩壊相場」が始まった 通貨切り下げ競争はもう終わ gikou89
11. 2010年11月21日 22:04:03: MT27BIv82Y
アメリカはドルを無制限に刷っている
G20で批判されたばかりだろうが

円安とか円高の前に金地金の値段見ればドルのトレンド
がある程度わかるだろう

その上で100円になると思うバカはドル買うんだな
こんなのドルショート以外ありえないだろ
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/225.html#c11

記事 [テスト20] Re: テスト

●V-22 Osprey - The Bad Bird
http://www.youtube.com/watch?v=M3a8--A1vsg&feature=player_embedded


●b-52 crash (longer version)
http://www.youtube.com/watch?v=E21byPXR1ek&feature=player_embedded


●ヘリの墜落
http://www.youtube.com/watch?v=amvO6J66qbI&feature=player_embedded

───

そういえば、普天間基地米軍ヘリ墜落
●普天間基地米軍ヘリ墜落
http://www.youtube.com/watch?v=lAs2jR3M6lE


http://www.asyura2.com/10/test20/msg/665.html

コメント [自然災害16] 日本列島の下の岩盤に裂け目か taked4700
03. tetujinnx 2010年11月21日 22:05:32: jk6f.ekCtJ0ok : qavMMUrxUc
私は、日本で最も安全な場所に住んでます。
そこは、大阪府 泉南市です。
よろしく!!
http://www.asyura2.com/09/jisin16/msg/377.html#c3
コメント [経世済民70] 増税(日本)と減税(米国)どちらが経済に効果的なのか gikou89
05. 2010年11月21日 22:09:15: uKFoqoJusE
米国の減税では課税最低限以下のサラリーマン全員に税還付,すなわち現金が支給される、
日本の減税は高額者ほど恩恵が大きく、課税最低限以下には恩恵がない、
同じ減税でも違いますね

米国は低所得者には極めて優しい税制ですよ、日本人の多くはこの事実を知らないで逆と思っている人が殆ど
日本国民は、政治家もエコノミストもマスコミも全てが洗脳されているのです
米国税制EITCを知らないで政治経済を語る資格はないと言えますね。
http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/130.html

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/222.html#c5

記事 [戦争b6] 北朝鮮: 2000基の遠心分離機を稼働 (時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101121-00000029-jij-int

北に新たなウラン濃縮施設=2千基の遠心分離機「稼働」―米科学者に公開・米紙
時事通信 11月21日(日)11時56分配信
 【ワシントン時事】北朝鮮が先に訪朝したヘッカー米スタンフォード大教授(元ロスアラモス国立研究所長)に対し、秘密裏に建設した巨大なウラン濃縮施設を見せていたことが20日分かった。米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)が同日、教授の話として報じた。
 ヘッカー教授はホワイトハウスにも事実を報告した。北朝鮮が米核科学者に新たな核施設を見せたのは、米国を対話に引きずり出すための揺さぶりとみられ、オバマ政権は北朝鮮への対応をめぐり、難しい立場に立たされる。
 一方、国務省は同日、ボズワース北朝鮮担当特別代表が韓国、日本、中国歴訪に出発したと発表した。ヘッカー教授が視察したウラン濃縮施設や寧辺の軽水炉建設工事などの動きを受け、6カ国協議関係国と対応を協議するとみられる。
 ヘッカー教授は同紙とのインタビューで、施設には「何百もの」遠心分離機が設置されたばかりで、「超近代的な制御室」を使って運転されており、高度な施設に衝撃を受けたと説明した。北朝鮮は既に、2000基の遠心分離機を稼働させていると主張したという。 
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/474.html

コメント [昼休み44] 2、大阪デモ千人オーバーとの事、落選中の民主候補者も参加してくれて、浪速のど根性が炸裂したようです。 小沢内閣待望論
02. 2010年11月21日 22:18:33: Z4CdPKvRl6
ほんとうにごくろさまでした。

東京、大阪で火がつきました。

いよいよ全国展開です。


http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/216.html#c2

記事 [戦争b6] NATOのラスムセン事務総長: 「NATOとロシアは初めて、互いを防衛するために協力する」(読売新聞
日本も北朝鮮への核の放棄を迫ると同時に
環太平洋条約機構軍の設立のため憲法改正する議論でもした方が良い状況になってきましたね

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101121-00000590-yom-int

ロシア、NATOミサイル防衛システムに協力
読売新聞 11月21日(日)21時10分配信

 【リスボン=工藤武人】北大西洋条約機構(NATO)とロシアは20日、リスボンで「NATOロシア理事会」を開き、ロシアが欧州全域を守るNATOのミサイル防衛(MD)システム構築に協力することで合意した。

 安全保障上の脅威に関する評価などをNATOとロシアが共同で進めようというもので、ロシアは欧州MDへの参加に向け一歩踏み出した。

 NATOのラスムセン事務総長は理事会後の記者会見で、「NATOとロシアは初めて、互いを防衛するために協力する」と述べ、歴史的意義を強調した。

 理事会閉会後に発表された共同声明によると、欧州MDについては、どのような協力が可能かどうかを探るため分析を進め、来年6月のNATOとロシアの国防相級協議で検討する。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/475.html

コメント [経世済民70] 貧乏人は市ね!飢えて市ね!by市民派宰相(雪裏の梅花) ドキッ!プロ奴隷だらけの水泳大会
09. 2010年11月21日 22:23:25: axhmzZsveE
「貧乏人は死ね」とは言葉が間違っている。

それらの人びとから搾取しているのは誰?その悪人を「金持ち」というのか?

悪人は「楽して働かず」

では、生きてはいけないの実は悪人の方である。

多くの国民は、騙されず生きていけば、滅ぶのは「働かざる者たち」なのだ!
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/182.html#c9

記事 [戦争b6] バチカン広報局長フェデリコ・ロンバルディ神父: 「中国と教皇庁の近年の構築的関係を傷つけるもの」(バチカン放送局
http://www.radiovaticana.org/gia/Articolo.asp?c=440834

中国でバチカン非公認の司教叙階、教皇庁、遺憾の意を表明

中国で20日、教皇庁の公認を得ない司教叙階が行われたことに、バチカンは深い遺憾の意を表明した。

河北省の承徳教区・平泉の教会で行われた郭金才神父のカトリック司教としての叙階は、教皇からの委任を受けていない教会法上非合法のものとして、バチカン広報局長フェデリコ・ロンバルディ神父は式に先立って抗議の声明を発表。

この非合法な司教叙階は「宗教と良心の自由を侵害する」ばかりでなく、「中国と教皇庁の近年の構築的関係を傷つけるもの」と厳しく非難した。

カトリック系通信機関AsiaNewsによれば、この叙階式には教皇公認の司教ら数人が行政当局から強制的に参加させられたという。

また、叙階式が行われた教会周辺には公安隊が配置された一方、地元のカトリック信者たちはこの出来事を悲嘆していると伝えている。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/476.html

記事 [戦争b6] EU・欧州連合とアメリカ:「大西洋をまたぐ欧米間の協力は潜在力が大きい」(中国国際放送局
http://japanese.cri.cn/881/2010/11/21/142s166884.htm

U・米国首脳会合、大西洋またぐ協力を強化

2010-11-21 13:44:07 cri [A A A]
国際・交流へ

 EU・欧州連合とアメリカは20日、ポルトガルの首都リスボンで、首脳会合を行い、「大西洋をまたぐ協力によって、欧米双方の伝統的な関係を強固なものにしていく」と強調しました。

 欧州理事会のファン・ロンパウ議長、欧州委員会のバローゾ委員長、アメリカのオバマ大統領がこの日、会議に出席しました。双方は会議後発表された共同声明で、「大西洋をまたぐ欧米間の協力は潜在力が大きい」と指摘しました。

 また声明は、「大西洋経済評議会(TEC)は引き続き、経済成長と雇用創出の面で、その役割を果たしていく。欧米は大量破壊兵器の拡散を防止すること、パレスチナとイスラエルの直接交渉が再開されるよう働きかけること、イランへの制裁を維持すると共に対話を求めること、アフガニスタン情勢の安定実現を支援することなどで協力を強化、また気候変動問題で協力し、まもなくメキシコで開催される気候変動カンクン会議で大きな成果を収めるよう努力していく」ことを強調しました。(翻訳:玉華)
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/477.html

コメント [マスコミ・電通批評11] ネットユーザーへの受信料支払を画策するNHKの愚 (暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜) pochi
10. 2010年11月21日 22:33:38: YtJY7aKSUU
観ることを義務にしないで欲しい。

観ないという権利もあります。

受信料払う価値あれば観ますけれど。それならお支払いします。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/238.html#c10

記事 [戦争b6] 北大西洋条約機構ラスムセン事務総長:「NATOの加盟国28カ国の指導者はロシアのメドベージェフ大統領と会議」(中国
これならロシアは北方四島を日本に気にせず 帰属可能なわけだ
日本には逆うことがきでない戦略なわけだ

リチウムでの利得が確保されたからいいようなものというわけか。


http://japanese.cri.cn/881/2010/11/21/142s166887.htm

北大西洋条約機構(NATO)のアナス・フォー・ラスムセン事務総長は20日、ロシアはすでにNATOの要請を受け、欧州ミサイル防衛システムの構築面での協力に応じたことを明らかにしました。。

 また、ラスムセン事務総長はこの日、ポルトガルの首都・リスボンで開かれた記者会見で、「NATOの加盟国28カ国の指導者はロシアのメドベージェフ大統領と同日午後、リスボンで会議を開き、戦域ミサイル防衛システムにおける協力の可能性について話し合うことを決めた」と述べました。

 報道によりますと、今後数週間、NATOとロシアの専門家は会談を開き、NATOとロシアのそれぞれのミサイル防衛システムの連結について研究し、来年6月、NATO・ロシア理事会の国防相会合が開かれる前にレポートを提出するということです。(翻訳:Yan、吉田)
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/478.html

記事 [戦争b6] ロシアのメドヴェージェフ大統領/アメリカのオバマ大統領: リスボンで予定外の会談を実施 (ロシアの声
http://japanese.ruvr.ru/2010/11/21/35357086.html

露大統領:ツイッターでNATO首脳会議を総括

タグ: NATO, 政治, 国際, 記事一覧, メドヴェージェフ

21.11.2010, 09:56


 ロシアのメドヴェージェフ大統領は21日、自身のツイッターの中でポルトガル・リスボンで開かれた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議を総括した。
 大統領は、世界にはロシアとNATOの協力を必要とする多くの問題があるとの考えを表明、テロや海賊対策、ミサイル防衛(MD)分野などを挙げた。 

 同会議では、欧州へのMDシステム配備に関する共同作業を含む多くの相互協力の方向性で合意した。大統領は、MDは包括的なものでなくてはならず、すでに形成されている核の均衡を壊すものであってはならないと述べた。

 メドヴェージェフ大統領はリスボンでオバマ米大統領と予定外の会談を実施。露大統領は記者会見の席で、米上院議員に向け露米の新たな戦略攻撃兵器削減条約(新START)の批准を呼びかけた。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/479.html

記事 [戦争b6] ロシアのメドヴェージェフ大統領: イランはIAEAとの協力用意を証明すべき (ロシアの声
http://japanese.ruvr.ru/2010/11/21/35359067.html

露大統領 イランはIAEAとの協力用意を証明すべき

タグ: NATO, イラン, 政治, 国際, 記事一覧, メドヴェージェフ

21.11.2010, 11:40

 ロシアのメドヴェージェフ大統領は、リスボンで開かれたロシア・北大西洋条約機構(NATO)サミットを総括した記者会見の中で、イランは核を平和利用する権利を持っていると指摘した上で、同国の核産業発展プログラムが平和目的であり、国際原子力機関(IAEA)と協力する用意があることを証明しなければならないとの声明を表した。

 大統領は、「世界における現在の核ポテンシャルがどうであるか、核クラブの活動メンバーとなっているのは誰なのか、同クラブへ入ろうとしているのは誰か、核兵器保有国であると述べているのは誰なのか、これを隠しているのは誰かについて、我々は関心がない」と指摘した。

 メドヴェージェフ大統領は、イランを含めた一連諸国の核問題に関連する問題について、ロシアはNATOと活動する用意があると述べた。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/480.html

記事 [戦争b6] ロシアのメドヴェージェフ大統領: アフガニスタンからの復路においてロシア領経由で輸送することに合意 (ロシアの
http://japanese.ruvr.ru/2010/11/21/35362271.html

露大統領:ロシアはアフガニスタン支援を継続する

タグ: 国内, アフガニスタン, 政治, 記事一覧, メドヴェージェフ

21.11.2010, 13:26

 ロシアのメドヴェージェフ大統領はポルトガルの首都リスボンで開かれたロシア・北大西洋条約機構(NATO)サミットを総括した記者会見で、ロシアはアフガニスタンに展開する国際治安支援部隊用の貨物で、空路では輸送不可能なものに関して、アフガニスタンからの復路においてロシア領経由で輸送することに合意したと伝えた。
 大統領は「我々はアフガニスタンが歴史的伝統を敬いながらも、自由で現代的で効果的な国家となることに期待している」と述べ、ロシアはアフガニスタンの国家利益保護における支援を継続するとの声明を表した。

 露大統領はまた「我々は、経済的方向性に関して活動する用意があり、この協力が来年1月に予定されているアフガニスタン大統領のロシア訪問の際に特に強化されることに期待している」と述べた。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/481.html

コメント [経世済民70] 大前研一氏 600万円で買った車が半年後に300万円台になり嘆く gikou89
06. 2010年11月21日 23:00:40: yF9gSJ3LLc
QOLは最後の時に使う言葉よ
ホスピスでとか
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/234.html#c6
記事 [戦争b6] 2島返還を含めて領土返還に応じることはない      (レコードチャイナ
うーん 確かに戦略的に 無理だろうな
ロシアの力が勝っていることを考えれば

ロシアの提示する経済援助下での和平合意もありにしないと
チャンスがどんどん失われてしまう。

関東軍特種演習の戦略的失敗がこんなところで影を落とすなんて
ほんと、日本軍は長期戦略が下手でかなわん

長期の経済戦略も皆無 政治家は責任を取らず 官僚は流れ作業 
国民はど根性  それぞれの一致団結のなさで社会的生産性をあげようともしない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101121-00000008-rcdc-cn

2010年11月18日、香港・フェニックステレビの「時事直通車」は、北方領土問題で緊張の度合いを高める日ロ関係を取り上げた。以下はその抄訳。

【その他の写真】

フェニックステレビのコメンテーター・呂寧思(リュー・ニンスー)氏は、太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議における菅直人首相とメドヴェージェフ大統領の首脳会談が行われたが、日ロ関係の緊張は緩和されていないと分析した。

北方領土訪問などメドヴェージェフ大統領の強硬姿勢を単なる国内向けパフォーマンスと見るのは誤りだと呂氏は指摘。北方領土を占拠したスターリン時代から今に至るまで、ロシアの本意は「寸土の領土も手放さない」ことにあり、一時期、領土交渉に応じる姿勢を示していたことのほうが路線のぶれだったと見ている。

中国の台頭など国際情勢が変化した今、ロシアは日本との関係を考慮する必要がなくなったため、2島返還を含めて領土返還に応じることはないとの見通しを示した。(翻訳・編集/KT)
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/482.html

コメント [雑談専用38] 売国民主党崩壊 セガール vs 日本の反日売国政治家(売国奴) gikou89
02. 2010年11月21日 23:11:36: fhqMEypoT6
自衛隊は暴力装置だよ。
国家は暴力を独占する。一般人はこんな武器持っちゃいけないんだ。
問題にすべきはそこじゃないだろ。
下らん事問題にするのは時間の無駄。
だからって政府の隠蔽体質を無罪には出来ない。そこは追求必要。

http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/814.html#c2
記事 [戦争b6] 韓国統一部のイ・ジョンジュ副報道官:「赤十字会談とは関係なく、北韓は即刻、措置を撤回すべきだ」(韓国KBS
http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_IK_detail.htm?No=38265

統一部 「金剛山資産凍結解禁は協議の対象ではない」
入力 2010-11-19 14:06:20 修正 2010-11-19 15:39:59

統一部は、北韓がとっている金剛山観光地区の韓国側不動産の没収・凍結措置の解禁問題は、南北が会談を開いて調整する対象ではないとする考えを示しました。

統一部のイ・ジョンジュ副報道官は、18日の定例会見で、北韓が25日に開催予定の南北赤十字会談で、金剛山観光地区の韓国側不動産の没収・凍結措置をめぐって協議することを提案してきたことについて、
「25日に開城で開く予定の南北赤十字会談は、南北離散家族再会の定例化について協議するためのものであり、金剛山観光の再開について協議する場ではない。

金剛山観光地区の韓国側の不動産没収・凍結は、北韓が一方的にとった不当な措置であり、25日の赤十字会談とは関係なく、北韓は即刻、措置を撤回すべきだ」と強調しました。

金剛山観光を総括している北韓の名勝地総合開発指導局は、先月から数回にわたって金剛山観光の再開について話し合う当局間協議を提案してきており、18日には、 金剛山地区の韓国側不動産の没収・凍結措置をめぐる協議を25日の南北赤十字会談で併せて行うことを提案してきました。
北韓は、今年4月以来、金剛山観光事業の再開に応じない韓国への対抗手段として、金剛山地区にある離散家族面会所などの韓国側資産を没収・凍結する措置をとっています。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/483.html

記事 [戦争b6] 北韓の名勝地総合開発指導局: 「会談が開かれれば、25日に行われる北南赤十字会談にも有利な雰囲気」(朝鮮新報
http://www.korea-np.co.jp/sinboj/

観光再開 「検討中」繰り返し、直接対話避ける南当局

 北側は、北南関係改善に向けて粘り強く南側に働きかけている。北側は、観光再開を「北南関係改善の重要方途」(労働新聞15日付)と見なし、これに関する当局会談の開催を再三呼びかけている。ところが、南側は1カ月以上も「検討中」という言葉だけを繰り返したあげく、17日、会談開催の「条件」として、面会所などの南施設に対する没収、凍結措置の解除など、観光再開が決まらなければ実現されない要求を先に持ち出した。

3度目の提案

離散家族再会の正常化のためにも観光事業が再開されなければならない
(写真は今年10月末から行われた離散家族の再会、撮影・文光善)

 北の名勝地総合開発指導局は11日、南の統一部に通知文を送り、観光再開問題に関する北南当局間実務会談を19日に開催することを提案した。会談を早急に開催することを呼びかける通知文を送ったのは、10月2日、14日に続き、今回が3度目となる。

 南側は、10月12日に「今後立場を通報する」と北に知らせて以来、何の返答もしていなかった。

 今回の通知文に対しても、南当局者は「協議と検討が必要だ」「現時点で方向性に対して話せる状況ではない」とし、返答を見送っていた。17日になって通知文を北に送ったが、それは会談開催の新たな「条件」を示したものだった。

 当局間実務会談は、観光再開を話し合う場であり、当然、施設運営問題も含まれる。

 これから話し合う問題を「条件」として突きつけるのは、結局、会談を破たんに追い込むためのものだと見られる。

 そもそも、10月1日に行われた3回目となる北南赤十字接触で、離散家族の再会を無条件で行う一方、観光再開問題に関する当局会談は北が提起したら南が検討するという線で妥結した経緯がある。

10月末に行われた北南赤十字会談 [写真=統一ニュース]
 この経緯からしてみても、南は誠意をもって観光再開問題に取り組むべきだが、逆に会談を破たんに追い込んでいる。

 南当局は「離散家族再会の定例化という人道問題と観光再開問題は別個の問題」としているが、これはき弁に過ぎない。

 離散家族再会の場所が閉鎖されていては「再会定例化」に支障がある。再会事業を正常に行うためには、面会所運営などの措置が先行されなければならない。

 南当局が本当に人道問題に関心があるなら、何よりも北南関係改善に進むべきだ。

 離散家族は祖国分断の産物だ。北南間の人道問題はこの特殊な北南関係を抜きに考えられない。歴史的にも、北南関係が良好なときに離散家族再会の機会が増え、不信と対決の緊張状態のときは人道問題も進展しなかった。

 北のメディアは、南側が「再会定例化」を主張していることに対して「根本問題を棚上げにした言葉あそびに過ぎない」(11月7日、「わが民族同士」)と指摘している。

南の決断促す

 10月26〜27日に行われた北南赤十字会談で双方は、北南間の赤十字人道事業に関連して相互の関心事となる懸案を引き続き協議していくことにした。

 会談で北側団長は、「誠意には誠意で応えるべきだ」としながら、「機会はいつでもあるものではない」と、関係改善に向けた南の決断を促した。

 双方は次回会談を11月25日に開くことで合意した。

 名勝地総合開発指導局は今回南に送った通知文で、観光再開問題に関する北南当局間実務会談が「離散家族・親せき再会の正常化のためにも早急に必要」だとしながら、「会談が開かれれば、25日に行われる北南赤十字会談にも有利な雰囲気がもたらされるであろう」と指摘した。

 この指摘は、会談が開かれなかった場合には赤十字会談にも悪影響があるという警告とも解釈できる。

 今年9月に入り、北の積極的な措置によって北南対話と接触が行われ、1年ぶりとなる離散家族再会も行われた。しかし南側は関係改善に実に消極的だ。

 改善のきざしが見えた北南関係にまたも暗雲が垂れ込んでいる。(姜)

[朝鮮新報 2010.11.19]
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/484.html

記事 [戦争b6] 〈論調〉 観光は統一事業:  観光事業と北南関係問題は不可分の関係にある。 (朝鮮新報
http://www.korea-np.co.jp/sinboj/

〈論調〉(都合のいい時だけ)観光は統一事業
 観光再開は不正常な北南関係の今の事態を改善するための重要な方途の一つで、これ以上先延ばしできない差し迫った課題である。

 北と南が行うべき観光は単なる観光ではなく、北南間の不信と対決を解消し、和解と協力を実現するための重大な統一・愛国事業である。

 観光再開問題は、北南対決のための不純な政治目的に絶対に悪用されてはならない。

 観光事業と北南関係問題は不可分の関係にある。

 観光事業に接する態度はすなわち、北南関係に接する態度である。観光事業を阻むのは、民族の和解と協力に対する否定、北南関係改善に対する否定となる。

 破局に陥った現在の北南関係を改善するためには、金剛山観光のような協力・交流事業が一日も早く再開されるべきであり、南朝鮮当局が閉ざした扉を開くべきである。

 南朝鮮当局は、緊張緩和と平和を志向し、民族の団結を図ろうとする立場と意志を持って観光再開と関連した会談に一日も早く応じなければならない。

 今、大勢は民族の団結と自主統一へと流れている。南朝鮮当局はこれを直視してこれ以上祖国統一の実現を妨げる行動を取るべきではないし、観光再開問題に誠意を見せるべきであろう。(労働新聞15日付論説)

[朝鮮新報 2010.11.19]
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/485.html

記事 [戦争b6] 第11管区海上保安本部(那覇市):漁政201は21日午後4時14分ごろ、漁政310は同20分ごろ離れる(時事通信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101121-00000022-maip-pol

 沖縄・尖閣諸島の日本の領海に隣接して設定されている接続水域(領海の外側約22キロの範囲)を20日から航行していた中国農業省所属の漁業監視船「漁政201」と「漁政310」は21日夕、ともに接続水域の外に出た。海上保安庁によると、2隻は針路を西に向け、尖閣諸島周辺海域から離れ始めたという。

【関連記事】中国監視船:2隻が接続水域を周回 日本側に挑発的な航行

 第11管区海上保安本部(那覇市)によると、漁政201は21日午後4時14分ごろ、漁政310は同20分ごろ、いずれも魚釣島北西約44キロの海域から接続水域を出た。2隻は32時間近く、接続水域を航行したが、日本の領海内には侵入しなかった。【石原聖】

http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/486.html

記事 [戦争b6] 10月28日 ロシアと米国の特殊部隊: アフガニスタンのナンガルハル州で麻薬製造施設4カ所を急襲(しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-11-11/2010111106_01_1.html

ロシア、再びアフガンへ

苦悩するNATOが要請

 ロシアは10月末、アフガニスタンで米軍と麻薬製造施設を対象にした共同軍事作戦を行いました。ロシアによるアフガンへの直接的な軍事関与は、旧ソ連軍が1989年にアフガンから撤退して以来のことです。アフガンで苦悩する欧米諸国、北大西洋条約機構(NATO)の要請に応えた形です。NATOは、20日にリスボンで開くロシアとの首脳会議で新しい関係に踏み出す意向です。(ロンドン=小玉純一)

 ラスムセンNATO事務総長は3日、首脳会議準備のためモスクワを訪れ、メドベージェフ大統領、ラブロフ外相と会談しました。NATOの発表によると、両者の協議は「アフガン安定化のためのNATOとロシアの協力に集中した」といいます。

 ロシアと米国の特殊部隊は10月28日、アフガニスタンのナンガルハル州のパキスタン国境近くで麻薬製造施設4カ所を急襲し、ヘロイン約1トンを処分しました。

 NATO加盟28カ国は19、20の両日、リスボンで首脳会議を開きます。NATOはロシアに、この機会に首脳会議開催を呼びかけました。メドベージェフ大統領は10月19日、フランスのドービルで、サルコジ仏大統領、メルケル独首相と3者会談を行った機会にその受け入れを発表しました。

 NATOは、ラスムセン事務総長とロシア側との間で「通過、麻薬対策訓練、アフガン軍へのヘリコプターの供給」が協議されたと発表しています。

 「通過」は、NATOの軍事物資のロシア領通過の容認で、今年春にすでに実施されています。パキスタン経由での通過が武装勢力の攻撃を受けているなかでの対応。「ヘリ供給」は、NATOのアフガン軍への権限移譲に必要とされるものです。

 ロシアのNATO支援は、ロシア軍によるグルジア侵攻に対するNATO側の批判を弱めるためのものとみられています。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/487.html

記事 [戦争b6] アメリカ軍海兵隊の報道官: アフガニスタンへ M1A1「エイブラムズ」計15両を投入 (CNN
http://www.cnn.co.jp/world/30000959.html

ワシントン(CNN) 米海兵隊の報道官は19日、アフガニスタンでの軍事作戦に米軍の主力戦車M1A1「エイブラムズ」計15両を投入すると発表した。2001末から始まったアフガン軍事作戦で米軍が戦車を送るのは初めて。

同報道官によると、来年の早春までに海兵隊が担当する南部ヘルマンド州での作戦に出動させる。軍事作戦で政権を追われた反政府武装勢力タリバーンは南部諸州に主要な拠点を築く。

報道官は高速走行が可能で、強力な攻撃能力を保持する同戦車の投入で、タリバーンの拠点掃討などの作戦で一層の成果が期待出来ると述べた。エイブラムズは重量72トンで、遠距離の標的への強力かつ精密な砲撃能力などを持つ。米軍当局者は、米軍兵士やアフガン民間人の犠牲者が減るとも指摘し、主力戦車の投入でタリバーンの戦意を削ぐ心理的な効果も見込めるとしている。

米軍はイラク軍事作戦でイラク西部アンバル州に同戦車を投入し、反政府武装勢力の駆逐で成果を挙げていた。アフガンで治安維持に当たる北大西洋条約機構(NATO)主導の国際治安支援部隊(ISAF)に参加する外国軍では、カナダ軍が戦車を使っている。

米国の軍事研究者によると、アフガン駐留米軍のペトレイアス司令官は今年7月の就任後、反政府武装勢力の掃討で積極的な作戦を遂行しており、エイブラムズ戦車の投入もこの戦術の一環としている。

オバマ米大統領はアフガンをテロとの戦いの主戦場と位置付け、昨年暮れには3万人増派も打ち出している。同時に、米国内でアフガン軍事作戦への批判が高まっていることからも、来年夏から駐留米軍を撤退させる日程も発表している。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/488.html

記事 [戦争b6] 日本の防衛省: 航空自衛隊那覇基地の戦闘機を現行の約20機から約30機に増強 (中国情報局

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1120&f=politics_1120_002.shtml

防衛省、中国視野に、那覇の戦闘機30機に増強へ
【政治ニュース】 2010/11/20(土) 02:02
 防衛省が10年以内をめどに、航空自衛隊那覇基地の戦闘機を現行の約20機から約30機に増強し、1飛行隊から2飛行隊体制に改編する方向で検討していることが19日、同省幹部の話で分かった。南西諸島の警戒監視機能も強化する。中国海軍の空母建造の動きなども視野に、対領空侵犯措置の緊急発進(スクランブル)能力を向上させ、緊迫時に周辺空域で航空優勢を確保するのが目的で中国側の強い反発も予想される。


(情報提供:共同通信社)
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/489.html

記事 [戦争b6] アメリカのボズワース北朝鮮担当特別代表: 北朝鮮問題を緊急に協議するため、韓国、日本、中国を訪問 (聯合ニュース
1年前はかなり平穏な訪問だったのに。

HTTP://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2010/11/21/0900000000AJP20101121001000882.HTML

米特別代表21日訪韓、北朝鮮問題緊急協議


【ソウル21日聯合ニュース】米国のボズワース北朝鮮担当特別代表が北朝鮮問題を緊急に協議するため、韓国、日本、中国を訪問する。米国務省がワシントン時間20日に明らかにした。

同日午前に出発、21日にソウルに到着し、韓国当局者らと会合する。翌22日に東京、23日に北京を訪れ、24日に帰国する予定だ。

 外交通商部によると、ボズワース特別代表は21日夜にソウル入りし、22日午前に6カ国協議韓国首席代表の魏聖洛(ウィ・ソンラク)朝鮮半島平和交渉本部長と会う。

6カ国協議再開案、北朝鮮が寧辺で軽水炉建設を進めている問題などを話し合う。同部の金星煥(キム・ソンファン)長官とも会合する予定だ。

 米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は20日、最近訪朝したヘッカー米スタンフォード大学教授に、北朝鮮がウラン濃縮の大型施設を公開したと報じている。今回の3カ国歴訪では、この問題と寧辺軽水炉などに関する情報を共有し、共同対応策を協議するものとみられる。

mazi38@yna.co.kr
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/490.html

記事 [戦争b6] 警視庁と検察当局: 国家公務員法(守秘義務)違反容疑で書類送検し、年内に刑事処分 (ロイター
http://jp.reuters.com/article/kyodoNationalNews/idJP2010112001000309

 尖閣諸島付近の中国漁船衝突の映像流出事件で、警視庁は20日、関与を認めた神戸海上保安部の海上保安官(43)が乗務していた巡視艇「うらなみ」を実況見分した。

警視庁は同日、保安官を任意で事情聴取。警視庁と検察当局は逮捕せず、任意で捜査を続けていくことを15日に決定。国家公務員法(守秘義務)違反容疑で書類送検し、年内に刑事処分を決める。
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/491.html

記事 [戦争b6] 北大西洋条約機構(NATO): 加盟国の“安全保障”を口実に、世界への干渉を続ける意向 (しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-11-21/2010112101_03_1.html


NATO 域外派兵継続

新戦略概念採択 核兵器にも固執

 【リスボン=小玉純一】米欧の28カ国が加盟する軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)は19日、リスボンで首脳会議を開き、今後10年の新しい行動指針「新戦略概念」を採択、加盟国の“安全保障”を口実に、世界への干渉を続ける意向を確認しました。

 加盟国首脳は20日午前、アフガニスタン問題について同国のカルザイ大統領、国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長らを交えた協議を行い、2014年末をめざして戦闘部隊を撤退させる方針を確認。午後にロシアとの首脳会議を開きます。

 11年ぶりに改定された「新戦略概念」は、「NATOの領域外の危機や紛争が、同盟の領土と人々の安全保障に対する直接の脅威をもたらす」として、「危機の回避や対処」に取り組む方針を明記。世界各地で干渉行動を続ける意向を強調しました。

 あわせて「協調的安全保障」を方針の一つに格上げし、国連や欧州連合(EU)などとの協力を追求することも確認。部隊を派遣した旧ユーゴスラビアやアフガンでの教訓をふまえ、軍事のほか政治的・民生的な接近が必要だと指摘しました。

 「核兵器のない世界へ向けた諸条件づくりの目標への関与」に言及する一方、「世界に核兵器が存在する限り、NATOは核兵器同盟であり続ける」とも明記。ドイツなどが撤去を要求している欧州配備の米軍核兵器について、ロシアの核兵器との均衡など同国との取引を追求するとしました。

 全加盟国をカバーするミサイル防衛(MD)については推進することを明記。加盟国の財政難を反映し、機構改革を継続すると表明しました。

http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/492.html

記事 [お知らせ・管理19] 0_0 さんの投稿可能数を0にしておきました。
文章が200文字以下なので、投稿規定違反。
2重投稿なので投稿規定違反。
下記の投稿によりアラシと認定し、投稿可能数を0にしておきました。

もしアラシでないなら、異議申立てをこのコメント欄にお願いします。

女は同性愛が絶対的にあるから、それを広げろ。強くしろ。社会を変えろ。また男の同性愛もある。
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/811.html
ID 811 2010/11/16 12:15:19
投稿者: 0_0

-
-
女は同性愛が絶対的にあるから、それを広げろ。強くしろ。社会を変えろ。
また男の同性愛もある。
-
-

--
--


女は同性愛が絶対的にあるから、それを広げろ。強くしろ。社会を変えろ。また男の同性愛もある。
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/877.html
bd 877 2010/11/16 12:14:07
投稿者: 0_0

-
-
女は同性愛が絶対的にあるから、それを広げろ。強くしろ。社会を変えろ。
また男の同性愛もある。
-
-

--
--

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/340.html

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > アーカイブ > 今月

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧