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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100434
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[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
109. 中川隆[-11186] koaQ7Jey 2020年9月24日 19:30:20 : FGqpD48T5s : RDVTamFLOWx0L1E=[23]

 竹中平蔵は、現代に奴隷階級を再現したいのか? 2020年09月24日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1258.html


 菅義偉首相は、竹中平蔵と一心同体、コピー、ダミーといってもいいほどで、その中身は100%竹中式新自由主義である。菅政権とは、竹中平蔵政権に他ならないのだ。
 https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_11242/

 竹中が、小泉純一郎政権で、日本政界の黒幕から表舞台に登場して最初に行ったのは「規制緩和」のスローガンにより、労働者の保護を破壊し、正社員の地位を破壊し、日本人労働者を、すべて「臨時・派遣雇用」に貶めること、すなわち「ルンペンプロレタリアート」に貶めることだった。
 現在では、労働者の半数が、権利を保護された正規労働者としての地位を奪われ、いつでも自由に解雇される不安定な臨時・派遣雇用に墜とされている。
 https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20200812-00191949/

 これによって、非正規で働くしか条件のないシングルマザーは、正規から追放され、地獄のような悲惨な貧困にあえいでいる。
 子供たちの6人に一人が、まともな食事を取れないような信じられない地獄社会がやってきた。
 
 涙。現実を知って‼︎食事は給食のみ。夕食はおにぎり。子供の6人に1人がお腹をすかせてる。救えないの?
 https://matome.naver.jp/odai/2141912335869414801

 母と子3人、所持金200円
 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/213139/

 東京のまんなかでもご飯が食べられない 
 https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/children-takushoku2

 こんな現実をもたらした張本人、最大の戦犯こそ「日本を格差社会にする」と宣言した竹中平蔵である。竹中平蔵は、人々を不幸にして、結局何を得たいのか? そのコピーである菅義偉政権は、再び竹中流格差社会を拡大したいのか?

 そもそも、どういう理由で格差社会を作って、人々を苦しめたいのか?
 竹中の思想的基盤は、ハーバード大学のユダヤ流新自由主義である。ユダヤ教徒には、至上の聖典として旧約聖書が知られているが、もう一つ「タルムード」という恐ろしい聖典がある。
 このなかには、神の選民であるユダヤ人は、ユダヤ人以外の人々をゴイム「家畜」として使役する、と書かれている。
 http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-218.html

 「そんな記述は存在しない」と主張するブログもあるが、それは単に著者がとてつもない無知蒙昧だからにすぎない。
 https://sites.google.com/site/uranenpyou/tarumudo

 要は、ユダヤ教徒に、凄まじい選民意識が存在し、ユダヤ人以外の人々を「家畜に等しい」と見下している姿勢があることだ。
 ユダヤ教徒が、神(ルシファー)の言うとおりに、ユダヤ人以外の人を、自分たちに奉仕する家畜(ゴイム)として支配するために何をすべきなのか?

 その方法論として「シオンの議定書」が示されている。これは巷間流布された偽書などではない。間違いなくタルムードの本質に沿ったものだ。
 http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2154968.html

 人類史において、一つの権力が民衆を支配するとき、必ず、民衆の間に階級差別と対立を持ち込み、権力は、あたかも調停者のような立場で、対立をコントロールしながら支配にすり替えるという巨大な法則がある。

 例えば、国家主義の見本のような儒教思想では、国民の間に、もの凄い数の序列、身分差別を設けて、身分が一つ違えば、徹底的に相手を見下すことで、民衆を分化対立させ、それを権力が調停するかのように、支配の構造を作り出したのだ。

 徳川家康は、「二分化支配」という政策を実行し、260年にも及ぶ安定政権を成立させた。
(これは私が30年以上前に気づいてブログで公開したが、誰からも顧みられず、最近、やっと陽が当たり始めた)
 これは、民衆のあらゆる組織を二分化し、対立させて、幕府が調停者として君臨することで、組織を権力に刃向かわないようにさせた深い知恵だった。
 https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5943

 仏教(当時は神仏混淆だったので、修験と僧は一体だった)は、天台宗系と真言宗系の二つに分けて所属させ、互いに対立するように煽った。
 神道の場合は、白川系と吉田系。大工も木地屋も、火消しに至るまで、大きな二つの流派に所属させることで、不満は権力ではなく、対立する相手方に向けられた。
 これで幕府に刃向かう可能性のある、武力集団を完全にコントロールすることに成功した。

 日本式儒教では、江戸時代初期に「士農工商」という身分差別が登場した。この差別に対する不満を転嫁するために、さらに、その下に「穢多・非人」というカーストで言うダリット(不可触民)のような階級まで作った。

 こうして、差別化された民衆は、日常的な不満を、権力にではなく、対立する相手に向けるようになった。これこそ、階級差別支配の本質的な構図である。
 この仕組みは、もちろん現代社会にまで持ち込まれている。
 その代表が「学歴差別」である。

 日本人を、その学歴で序列をつけて分断し、互いに優越感と劣等感を抱かせることで、人々の社会への目標が、社会全体を改善することではなく、自分の序列を上げて、社会のなかで優位に立つ利己主義にすり替えてしまったのだ。

 その逆もあった。戦後しばらくの間、全国民が塗炭の苦しみを嘗めさせられ、身分とか序列なんて妄想を無視して、互いに助け合った時代があった。
 このとき、日本人は「連帯」を知り、仲間といがみ合うのではなく、本当の敵は国家権力あると理解し、労働運動や市民的権利運動も、著しく進化し、まさに人間解放の曙光が見えた時代があった。
 それを壊していったのが、学歴差別社会と日本共産党などの優越意識である。

 労働運動は、全労働者が同じ境遇であると互いに同情し、互いに連帯する関係のなかからしか、権利を獲得する成果は生まれてこない。
 ところが、労働者のなかに差別のある立場や序列があったなら、連帯など生まれない。それは、東京メトロ権利闘争のなかでも書いた。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1250.html

 労働者の組織のなかに、頂点に労働貴族の指導部がいて、底辺にバイト待遇を強いられた最下層がいたなら、どこに労働者の団結が生まれるんだ!
 人間は、権力と戦うよりも、目の前にいる格下の差別対象を小馬鹿にして満足したがるのだ。

 ユダヤ人の思想とは、まさに、人々に格差を作り、階級差別を設けて、人々に問題の本質から目を逸らさせ、目の前にある序列差別でいがみ合わせることで支配を行うものだ。
 竹中平蔵は、この差別支配のテーゼを日本社会に持ち込み、「日本を格差社会にする」とほざき、実現させたのである。

 その最終目的は、世界中に奴隷制度を復活させることに他ならない。
 冒頭に掲げた母子家庭は、奴隷階級養成所である。一日一食しか食べられない貧栄養の児童は、蛋白質の摂取も少なく、どうしても頭脳を物理的に発達させることができなくなる。
 ちょうど福島の被曝児童のように、「少し遅れた」知能・体力を強いられている。すると、学歴選別にも落ちこぼれ、社会の最底辺に棲むことを約束されてしまう。

 いわば、「奴隷人生」が約束されているに等しいのだ。これが竹中平蔵と自民党の求める社会である。
 堀江貴文の、よく失敗するロケット一基で、日本中の飢えた子供たちを救うことができるのに、堀江は、彼らに対する同情が絶無であり、自分の名誉と利権を拡大することにしか興味がない。
 本当に、飢えた子供たちを支援しているのは、宗次徳治ら、ごく少数だけだ。

 竹中は、日本に格差社会がもたらす奴隷制が定着すれば、自分たちの権益に利用できるとほくそ笑んでいるのだろう。
 このまま、竹中や橋下徹らが求める超格差社会、奴隷制社会を復活させていいのか?

 私は、貧しい子供たちを、海辺の豊富な魚介類が食べられる地域に住まわせるべきだと思う。ちょうど、野茂英雄を生んだ五島列島のような場所だ。
 高台で共同農場を作り、牛や山羊を飼育し、その乳や、海の恵み、大量の青魚を食べさせれば、素晴らしい肉体と頭脳の青少年に育つはずだ。

 日本の未来に必要な人材は、東大生ではない。野茂英雄や田中将大のような頭脳と肉体、優しさを持った青年なのだ。それは奴隷階級ではない。
 結局のところ、貧しい者が団結して、過疎の田舎に共同体を作る以外の解決方法はないと私は思う。  

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1258.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c109

[番外地8] ニューディールが失敗したから戦争をやったんだよ

ニューディールが失敗したから戦争をやったんだよ
アメリカはそれ以降毎年戦争をやっているだろ
公共事業として戦争以外は使い物にならないんだよ


>国債の利子はただ単に国債への需要を作るためにできたものですよ。

国債を持って居る銀行や資産家は元金を何倍にも増やしているだろ
それだけ世の中の金を占有している事になるから、労働者は貧困になる
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/403.html

[近代史4] 黒沢清 大いなる幻影 Barren Illusion (ユーロスペース 1999年)
黒沢清 大いなる幻影 Barren Illusion (ユーロスペース 1999年)




監督 黒沢清
脚本 黒沢清
音楽 相馬大
撮影 柴主高秀


製作会社 ユーロスペース
公開 1999年12月11日


『大いなる幻影』(Barren Illusion)は、1999年の日本の恋愛映画。



ストーリー


2005年。レコード会社を経営しているハル(武田真治)には、ミチ(唯野未歩子)という恋人がいる。二人はお互いを愛しているが、最近は関係がぎくしゃくしている。


友人の音楽家である健二(稲見一茂)が実家に帰ってしまうので廃業することに決めたハルは、たまたま出会った強盗集団に仲間入りし、犯罪に手を染めはじめる。そんな折、ハルとミチは海へデートに向かうが、別れ話が持ち上がり、関係を終わらせることにする。


やがて月日が流れる。ミチは今も郵便局の受付で働いていた。そこへ覆面の強盗が押し入ってくる。ミチが強盗の一人を取り押さえて覆面を外すと、そこには、あの懐かしいハルの顔があった。



キャスト


武田真治
唯野未歩子
安井豊
松本正道
稲見一茂
億田明子



評価
『Variety』のDerek Elleyは本作を「黒沢清版『気狂いピエロ』」と評した[1]。一方、『Film Comment』のChuck Stephensは本作を見て「監督の黒沢清は近未来ディストピアの探索を偏好している」と指摘した[2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%B9%BB%E5%BD%B1_(1999%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1047.html

[近代史4] 中川隆 _ テレビ・ドラマ関係投稿リンク 中川隆
24. 中川隆[-11185] koaQ7Jey 2020年9月24日 20:26:38 : FGqpD48T5s : RDVTamFLOWx0L1E=[25]
黒沢清 大いなる幻影 Barren Illusion (ユーロスペース 1999年)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1047.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/195.html#c24
[近代史4] 自転車で山に行こう
自転車で山に行こう


2020/9/24
トザツー(登山 + ツーリング)で大弛峠 と金峰山を制覇せよ!!  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2645.html#comment
 


■ 自転車乗りの天国と地獄 ■

自転車乗りは、二つのタイプに大別されます。

1)レース派      ひたすらレースやヒルクライムの速さを追及する人達
2)アドベンチャー派  ロングライドやツーリング、ブルべなど遠くへ行きたい旅行系

現在の自転車業界は、ツールドフランスを走る様なレーシングバイクを勧める傾向が強い。カーボンの高級車は50万円を超える価格が普通で、パーツやホイールなどを交換するとさらに50万円が消えて無くなる。これはお店にとってはオイシイ商売です。

「最初はアルミで充分ですよ」と甘い言葉で誘い込めば一丁上り。男子は物欲と闘争心の塊ですから、カーボンバイクにビュバーーンと抜かれると、「オレもいつかはカーボンを買おう!」と物欲が膨らみます。「ヒルクライムでタイムが出ない・・・」とショップの店員に話せば「カーボンならもっとタイムが出ますよ」と誘惑される・・。こうして、多くの自転車乗りは「自転車沼」にハマる事になります。彼らは延々に幸せにはなれません・・・だって、エンジンは自分自身だから・・。パワーメーターを買い、室内トレーナーを買い、遠くのレースに参戦し・・・そして悟るのです。己の限界を。


一方、アドベンチャー系の自転車乗りは直ぐに天国に到達します。器材は安いクロモリ(鉄)の自転車で充分。軽さよりも、頑丈さや荷物の積載量が重視されます。コンビニ休憩中に自転車が倒れてもカーボンの様に破損する心配は皆無。高価なパーツよりも、より効率的なパッキングを重視しますが、バックの類は安価で長持ち。近場は自走で出かけるので交通費も掛からず、テントで寝れば宿泊費も安い。彼らは、アドベンチャーライドを始めたその日から天国を味わえますが、悩みは連休がなかなか取れない事。日本地図や世界地図を眺めては、ここに行きたい、あそこに行きたいと夢を膨らませますが・・・それすらも幸せな時間です。


ところで、私はと言えば、断然後者。元々、都会から離れる為のツールとして選んだのが自転車です。ランニングでは一日50Kmが限界です。これでは浦安から成田まで行けません。自転車ならば1日300kmは走れますから、本州を横断して日本海を見る事も可能です。


しかし、最近、自転車で山越えをしている時に「山が俺を呼んでいる」声が聞こえるのです。「こっちはもっと高いよーーーー。こっちはもっと眺めがイイよー!」って。簡単に天国を味わえるアドベンチャー系自転車ですが、さらなる天国がきっとあるハズ。

■ 「トザツー」初めました ■

自転車に乗っていると、土砂崩れの崩落個所に出合うシーンは少なくありません。そこを、自転車を担いで超えるとワクワクします。

自転車に乗ってヒルクライムをすると、山の反対側に降りたくなる事が有ります。そこで、登山道を自転車を担いで降りると、ワクワクします・・・。

こういう変態はMTB乗りに多いのですが、日本には古来「山岳ツーリング」という宗派が存在してる様です。ツーリング自転車の乗って坂道を登り、ダートに入り、道なき道を自転車を担いで超える・・・。自転車は乗ってナンボの「乗り物」ですが、担ぐと大きくて重い「荷物」に変わります。その荷物を担ぐ事に生き甲斐を見出す真性変態が少数ながら生息しているらしい・・。(ネットで検索すると痕跡が見つかります)

あるブログで「トザツー」(登山 + ツーリング)という呼称を見付けました。「山岳ツーリング」はカルト系の匂いがプンプンしますが、「トザツー」ならばカジュアルです。

出掛けに「今日は山岳ツーリングに行って来るよ」と家を出ると、帰って来るまで家の人は心配するでしょう。でも、「ちょっとトザツーして来る」と言えば、「あ、そう、気を付けてね」でおしまい。

■ 今時のトザツー ■

「山岳ツーリング」系の人達のスタイルは登山に近い。7分丈の登山用のズボンを履いている人が多い。

前回、それを真似て、9Kgのリュックを背負って「ロングライト + ヒルクライム + 登山」を試しました。


自転車と登山の両立・・・ヤビツから丹沢表尾根 人力でGO  09.15
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2642.html

結果は、ロングライドで尻が痛くなり、ヒルクライムで脚が攣り、登山で足が終わる結果となりました。アクティビティーのスタイルとしても「鈍重」で、私の好みからは少し外れます。

そこで、今回はUL(ウルトラ・ライト)に拘って装備とコースをチョイスします。カーボンロードバイクにバイクパッキングで荷物を積載し、トレイルランのバックパックに軽量登山靴を放り込みます。コンロの類は持って行きません。天気が悪ければ引き返す事前提で、雨具も自転車用の薄い物にしました。

目的地は大弛峠ヒルクライム + 金峰山登山

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ULスタイルの「トザツー」に挑戦

<自転車装備>

カーボンロード   NEILPRIDE ZEPHER
ホイール      MAVIC・キシリウム・エリート + Panadonic グラベルキング28C
バイクパッキング  大型サドルバック + 中型フレームバック
シューズ      SPDシューズ
他         工具・空気入れ、  ボトルx2、 ツールボトル
ウェアー      夏用ウェア上下   長袖インナー  コンプレッションタイツ 

<登山装備>

ザック       トレラン用ザック(15ℓ?)
登山靴       ローカット、軽量登山靴
ミッドレイヤー   CRAFT ランニング用 フード付き ポリエステル裏起毛
ボトム       登山用長ズボン
防寒        ダウンベスト
雨具        自転車用(上のみ・ウィンドブレーカーとして)

<携帯食>     コンビニおにぎり x5
          エナジージェルx1、プロテインジェルx1、ミネラルジェルx1
          携帯スティック食x2
          Mag-on(マグネシウム系補給)x2
          ポカリ900mlx1 水500ml
          脚釣り対策用の梅酢(自家製)50ml


■ 決戦前夜 ■

大弛峠は、通り抜け出来る車道の日本一の標高2360mを誇ります。そこへ至る道の延々30km以上も登り坂が続く、日本屈指の超級山岳コース。自転車乗りの聖地の一つです。

金峰山は奥秩父の盟主とも言われる日本百名山の一つ。標高2599mながら、山頂付近は大きな岩がゴロゴロしており、「五丈岩」という巨岩が鎮座する人気の山。

今回はこの二つを同時に楽しむという「欲張り企画」です。


最寄り駅の塩山までは輪行します。実は浦安を始発で出ても塩山到着は8:14分になってしまいます。これは山登りを考えると遅すぎます。1500m付近の「廻り目平キャンプ場」にテント泊する事も考えましたが、荷物が重くなるのと、ヒルクライムが二別されてしまうので却下。

そこで、前日終電で大月まで行き、夜明けまでノンビリと甲州街道を塩山まで自転車で走る計画を立てます。急に思いついたので2時間の仮眠で22時過ぎに家を出ます。電車の中で充分眠る時間は有ります。

しかし、ルートをチェックしていた重大な問題点に気付きました。大月から塩山の間には、自転車乗りに悪名高い「笹子トンネル」が有ます。路肩が無い3kmのトンネルは相当に怖い。昼間の混雑時ならまだしも、夜間は大型トラックが高速で走行します。これはマジヤバイ。

トンネル回避としては旧道の「笹子峠」が有りますが、夜中に1000mの標高の峠越えもマジヤバイ。猪とか熊とか、この世ならざるモノとか、マジ怖い。

そこで急遽、立川で下車して始発を待つ事に。大月まで行っても良かったのですが、夜を過ごす場所が無い様です。さらに、立川からでも大月からでも塩山到着は変わらないので、東京に近い場所の方が始発の時間が早くなり、夜明かしの時間が短くなります。立川駅前のマックは24時間営業。開いてて良かった・・・。

店内は寒くて、登山用ウエアが活躍します。硬いスツールでは仮眠も出来ず、ブログの記事を書きながら時間を潰します。4時過ぎに店を出て、4:35分の始発の高尾行に乗ります。高尾、大月と乗り継いで6:22に塩山に到着。車内でオニギリ2個の朝食を済ませます。塩山駅では私の外にもう一人、輪行の方がいらっしゃいました。当然、行先は大弛峠でしょう。

大弛峠の登り口の途中、セブンイレブンで補給を済ませます。さて、いよいよヒルクライムパートの始まりです。時刻は7:26。

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7:26 琴川ダムまで登って来ました。日本で一番高い場所にある多目的ダム。

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笛川小学校・柳沢分校、日本で一番高い場所に有る小学校でしたが、今は廃校となっています。

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「金峰山荘」。自転車乗りの間では有名な「ラスト自販機」の有る場所。通年、普通に人が暮らしている場所としては日本最高点とも言われています。


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冬季ゲートを越え、後半戦です。正面に奥秩父の稜線が見え始めました。

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時折、雲が晴れると、目的地の金峰山の五丈岩が見えます。

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11:02 ヒルクライム終了です。トータルで3時間36分掛かりました。走行時間は3時間12分。

標高2360mの大弛峠まで約30km、獲得標高2000m、登山の脚を残す為、余裕を持って登って来ました。大弛小屋の自転車ラックに自転車を駐輪して、登山の装備に着替えます。登山靴に履き替えて、サイクルウェアーの上からズボンとミッドレイヤーを身に着けます。今回は水を忘れずに持ちます。


■ 登山パート ■


いよいよ登山パートの始まりです。金峰山までは片道4.2km、標高差250m程度ですが、朝日岳を越えるので、登りは500m程度でしょう。往復の標準時間は4時間半。既に11時を過ぎているので、五丈岩で遊ぶ時間と、帰りの時間を考えると、歩く時間は3時間で片づけたい所。軽装なのでちょっと急げば大丈夫でしょう。

ファミリーコースと思っておましたが、大きな石がゴロゴロ有る急な登攀もあり、なかなかハードなコース。前日の雨で泥濘も多い。写真を撮る時だけ立ち止まって、後はノンストップで金峰山まで歩きます。途中から、大弛峠に戻る人とのすれ違いが多くなり、朝日岳を過ぎた頃より金峰山に向かう人を追い抜き始めます。

軽装登山ですので、結局トレラン風になってしまいます・・・。ゆっくり歩くのって昔から性に合わないんですよね。学生時代は「標準時間x0.5」が行程タイムでしたから。基本、走れる所は走る!!

金峰山の山頂には12:55分に到着。1時間31分掛かりました。登山道、結構混んでました。

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11:24 登山開始です


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前日の雨で泥濘も多い。稜線は大きめな石がゴロゴロしている場所も有ります。

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キノコの季節ですが・・・これは如何にも毒キノコ・・・。

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11:45 朝日峠に通貨

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12:12 朝日岳

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12:44 金峰山 到着。山頂付近は標高2500m越え。ハイマツ帯です。シャクナゲも生えています。

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大きな岩がゴロゴロしています。フィールドアスレチックの様で楽しい。石の鳥居みたいな所を潜れば山頂は直ぐ。

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12:55 山頂の標識に到着します


■ 五丈岩、楽し過ぎます ■

山頂から少し下った所が広場になっていて、その先に五丈岩がそそり立っています。何人かの人達がナンチャッテ・フリークライミングにチャレンジしています。

当然、私もチャレンジしましたが、中段で引き返します。ガンバレば上まで登れますが、怪我をしたりしたら社会人的にマズイ。Goproの絶好の映像チャンスですが、ストラップを持っていないので、クライミング中の撮影は出来ませんでした。(家に帰って速攻でポチっとなしました)

しかし、金峰山、楽し過ぎます。山体は蔵王権現を祀る山で、五丈岩はご神体でも有りますが、フィールドアスレチックの乗りで、皆さんクライミングのチャレンジしています。頂上まで到達した人には拍手が起きてました。

ちょっと遊んだ後はオニギリを食べて、山頂付近の眺めを写真に収めます。日本百名山の一つ、瑞牆山が雲の晴れ間に見えます。花崗岩が侵食された峻嶮な姿には迫力が有ります。今度は瑞牆山に登ろうと心に決めます。

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霧の向こうに五丈岩が現れます


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五丈岩の高さは15m。チャレンジしたくなる高さです。実は五丈岩は山岳信仰のご神体。山伏がこの岩の上で修行をする姿も見られるとか。登ると神罰が下りそうでも有りますが・・・


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頂上まで到達した人には、やんやの拍手が送られていました!!

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風化した花崗岩が中国の水墨画の様な山容を作り出す瑞牆山。日本百名山の一つです。


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山頂からの景色は、流石は2500m級の山です。丹沢や奥多摩とは一味も二味も違います。(丹沢表は関東大震災の崩壊で、結構似たような景色も有りますが)


■ ULは速い! ■

山頂で遊んだり、お昼を食べたりして1時間程度を過ごし、13:35分頃に帰路に付きます。

登り返しがキツイだろと思っていた朝日岳の山頂付近は、「あれ、急登はどこだっけ」という感じで難なくクリアして14:51分の大弛峠の駐車場に戻って来ました。

帰りの時間は1時間16分。

トータルの歩行時間は往復で、2時間47分でした。標準行程時間の半分の2時間15分を目標としていたので、ちょっとオーバーしました。

ヒルクライムで脚を使った後なので、後半、脚が攣りそうでヤバかったですが、マグネシウムのジェルが効いたのか、どうにか切り抜けました。


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14:51 駐車場に戻って来ました。前を歩く親子連れが速かった。5歳位の男の子のルート取りが的確で、山道に慣れている感じ。ママに伺ったら、よく山に連れて来るとの事、ママも速かったですよ!!

駐車場に着いたら、速攻で自転車乗りにジョブチェンジです。上は自転車ウエアに薄手の自転車用の雨具をウィンドブレーカーとして来ます。下は登山ズボンの裾を捲るだけ。この恰好で、そのまま電車に乗る予定。

実は大弛峠の難関は下り。なんせ30kmも下ハン握りっぱなしですから。今回はフロント38tのシングルなので、緩斜面でスピードが出ません。しかし、ブラインドカーブが多いので、その方が安全です。

1時間程度で塩山の街中に戻って来て、14:30頃に高尾行の普通電車に滑り込みます。お土産を買う時間が有りませんでした。この電車を逃したら、塩山温泉で汗を流そうと思っていましたが、そうすると帰宅が21時頃になります。

電車の中でウツラウツラしながら、浦安到着は20時頃。


始めたばかりの「トザツー」ですが、私的にはUL(ウルトラライト)の装備で、スピード重視の行程が性に合っている様です。

ただ、そうなるとULのレインウェアが欲しくなります。後、これから紅葉シーズンの掛けて、フリースのミッドレイヤーも欲しいところ。トレランザックもボロボロでバックルが割れてしまってりうので新調したい所。


・・・・結局、物欲は満たされる事無く、アドベンチャー系ライドも物欲地獄に繋がっている事を実感しました。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2645.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
1. 中川隆[-11184] koaQ7Jey 2020年9月25日 00:40:12 : jj1h0yCzWU : eDh4LlNadmVXVU0=[1]
2020/9/15
自転車と登山の両立・・・ヤビツから丹沢表尾根  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2642.html
 

■ キャンプツーリングの道具でテント泊登山出来るんじゃねぇ? ■

千葉県は平地なのでキャンプ場も夏は暑い。今年は夏の前半に雨が多く、広範は酷暑ですっかり自転車キャンプをしていません。

部屋の中でお荷物と化しているキャンプ道具を眺めながら、私、ふと気づいてしまったんです。「ザックと登山靴があれば、テント泊登山が出来るんじゃねぇ?」

思い立ったら居ても立っても居られなくなる性分。とりあえず軽量登山靴を買って軽い登山で足慣らしして、秋の紅葉シーズンに八ヶ岳にでも行ってみよう・・・。ところが、登山専門店に行くと物欲がムクムクと頭をもたげ、気付けば45リットルのザックと登山靴を買ってしまいました。

自転車用に揃えたキャンプグッズは、ウルトラライトの登山グッズそのものなので、秋のテント泊の登山なら出来そうです。ウエアーはズボンだけ買いました。後は、何となく代用品を持っています。

■ 自転車と登山を同時に出来ないだろうか? ■

私は多趣味なので、趣味が増えるとお金と時間が足りなくなります。お金は仕方ないとして、時間はどうにかならないものか・・・。

そもそも、平らな地面の広がる千葉県は、登山には最も不便な土地柄。ちょっと高い山に登ろうと思ったら、奥多摩や丹沢方面に出かける必要が有ります。車が無いでの公共交通機関で出かけると、半日は移動に費やす事に。これは不合理だ・・・。ちょっとの登山の為に、時間のロスが大来すぎます。

さらに、登山に出掛けると自転車に乗れません。自転車は持久系のスポーツなので、1週間空いてしまうと、パフォーマンスが目に見えて低下します。だから、土曜日は自転車、日曜日は登山と連続で体を動かす必要が有ります。しかし、土日の何れかが雨だと・・・どちらかが犠牲になる。

そこで私は思い付いたんです。自転車で登山に出掛ければ良いと・・・。


■ ザックと登山靴の性能、そして自分の今の登山力を試す ■

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ヤビツフォトでもあまり見かけない写真が撮れました

秋の連休に登山に出掛けるにしても、真新しいシューズとザックには不安が有ます。さらに、10年近く登山をしていないので、自分の「登山力」にも疑問が有ます。

そこで、諸々を確かめる為に、登山靴を履いて、ザックを背負って、MTBでヤビツ峠まで浦安から自走し、さらに、そこから丹沢表尾根を塔ノ岳までピストンするという無謀な計画を立ててみました。

ザックの性能と脚力チェックも兼ねて、テントやボンベも含め、テント泊が可能な装備一式もザックに詰め込みます。ザックの重さは水と衣類を抜いて凡そ9kg。フル装備なら12Kg以上にはなりそうです。

この計画を思い付いたのが朝の4時だったので、出発は5時になってしまました。登山には少し遅い時間なので、ヤビツ峠に着いた時間で、その後の予定は調整する予定。


都内は例によって信号ストップの連続。乾燥重量13KgのMTBと9Kgのザックを背負っているので、登り坂で足を使わない様に軽めのギアーを回します・・・って、フロントは42Tシングルなので限界は有りますが。

皇居からは青山街道(国道246)を真っすぐ秦野まで走ります。この道、相模原を抜けるまではアップダウンの連続で、尾根幹を長くした様なコース。以前、夏場にヤビツまで自走しようとして、途中、町田街道で挫折して江の島に逃げた記憶が有ります。

本日は曇りで気温も低く、脚を残しながらも10時前に名古木のセブンイレブンに到着。休憩の後にヤビツ峠を目指してヒルクライムです。蓑毛辺りは自転車を降りて押してもいいと割り切って、1時間30分を目標に上り始めます。

実はチェーンステイが極太クロモリのMTBは意外に坂道が得意です。諦めていた蓑毛の坂道も時速7kmで足付き無してクリアして、止まる事無く、そのまま菜の花台を目指します。

菜の花台でも足は大丈夫そうだったので、その先に進みますが、流石に緩斜面になる手前で足が攣って、しばらく休憩。そこからは、脚が攣らない強度でヤビツに到着します。1時間25分掛かりました。


■ 意外に登山がキツカッタ ■

ヤビツの売店で自転車乗りの方とお話しながら休憩して、12:00にザックを担いで、丹沢表尾根の登山口を目指します。ここからは1.5kmを車道を下ります。自転車で下ればあっという間ですが、少し登山靴に脚を慣らしておきたい。

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最近の登山靴、良く出来ていますね。履いたその日に既に足にフィットしています。ちなみにメーカーはサロモン。その気になればトレランも出来る軽量シューズ。


この日の丹沢は終日、雲の中。湿度が高く、蒸し暑い。ミストサウナの中の様です。気温は低く無いのでTシャツに短パン。心配したヒルは、表尾根には居ない様です。(蓑毛は酷いみたいです)

登山口から塔ノ岳は片道6Km。この時間からでは往復は難しそうなので、三の塔まで行って戻るピストンコースにします。学生時代は毎週の様に大山や丹沢表で遊んでいたので、「丹沢はオレの庭」。伊勢原から大山登って、ヤビツから表に上り返して、大倉を下るなんて、ラクチンだった。

しかし、30年も経つとコースの記憶も曖昧です。二の塔までの登りって、こんなにキツかったっけ・・・こんなに長かったっけ・・。

結局、三の塔まで1時間掛かってしまいました。まあ、9kgを背負って初めての登山靴で、雨で滑り易いからこんなモンだと、自分を誤魔化します。(途中、脚が攣りました。。。)

三の塔から見渡しても、一面真っ白で視界は有りません。新しく出来た休息小屋で、お昼にします。と言ってもコンビニで買ったオムスビ2個と、ミネラルチャージのゼリー一個。

実は背中にはコンロもお米も背負っているのですが・・・何と、水を忘れた。これ、前回の筑波山登山でもやっちゃいましたが、自転車を離れる時に、ボトルを外して持って来るのを忘れてしまいます。ゼリーを2個持っていたので、どうにかなりましたが・・・危険。水が無いから、コンロがあってもお湯も沸かせず、米も焚けず・・・。(まあ、そんな時間も有りませんが)

20分程休憩して、山頂を一回りして、ヤビツに向けて下山します。岐路も当然、真っ白な景色の中。下りで膝が笑うかと思いましたが、意外に大丈夫で、脚も攣らず、割と良いペースで下れました。

ただ、10kg近い荷物を背負うと、ショートカットの登山靴は、ちょっと足首が不安定です。石が濡れていなければ走ってしまうので、足首に掛かる力を逃がせるのですが、きちんとストップをかける場合はハイカットの方が安定感が高い。まあ、2Km程度の下りなので、どうって事ありませんが・・・。

下りは登りの二倍速は過去の話。50分掛かりました・・・。まあ、雨だし、自転車乗った後だからと・・・自分を誤魔化します。

三の塔の標高が1200m程度ですから登山口からは500m以上な登ったでしょうか。


■ ゴアテックスの靴の中が浸水 ■

ヤビツつ付く直前に雨が強く降り始めました。MTBのブロックタイヤでVブレーキなので安全ではありますが、慎重にスピードを落として下ります。途中、カーボンホイールのリムブレーキに方に思い切り抜かれますが・・・命知らずだな・・・。まあ、下りはテクニックですから、上手な方なのでしょう。

蓑毛に付く頃には雨も上がり、気温も暖かくなります。ここからも、マンホールの蓋などに気を付けながら、慎重に名古木まで下り、秦野の駅から輪行します。着替えのTシャツを持って来て正解でした。雨で汗も流れたので、さっぱりして電車に乗ります。

ところで、防水のハズのゴアテックス。雨でしっかり中が水浸しになりました。むしろ入った水が抜けない。ゲーター(防水スパッツ)も雨具も付けていなかったので当然ですが、ゴアテックスでも上からの浸水は防げません。これも当然。


「ロングライド」「ヒルクライム」「登山」の三点セットが可能な事を確認しました。新たな「遊び」を開発してしまったので(やっている人は結構いらっしゃるみたいですが)、しばらくはこの遊びに熱中しそうです。


当然、翌朝には腿の筋肉痛に悲鳴を上げています。やはり自転車で使う筋肉と、登山で使う筋肉は違う様です。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2642.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c1

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
2. 中川隆[-11183] koaQ7Jey 2020年9月25日 00:42:33 : jj1h0yCzWU : eDh4LlNadmVXVU0=[2]
2020/9/15
激走!オリンピックコース・・・東京2020を走る  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2640.html#comment


■ そうだ! オリンピックを走ろう!! ■

今年の酷暑で千葉県の平地を走るのは危険です。そこで、2週連続で奥多摩方面に遠征していますが、行き帰り電車輪行は楽ですが、「ルートを楽しむ」というロードバイクの楽しみと、「長距離を走りぬく」という達成感に乏しい。

そこで、「達成感の得られる涼しいロングライドは無いものだろうか?」と考えている内に、「東京五輪のコースならば長距離で涼しいのでは無いか!」という結論に至ります。

府中を出発して「尾根幹」「同志みち」を走って山中湖に至り、「三国峠」を走り「富士スピードウエィ」ゴールの男子のレースコースは距離約244km、獲得標高:約4,865mの強烈なコースですが、ゆっくり走ればブルべのコース設定に似ているとも言えなくも有りません。山岳ブルべならば300km、獲得標高6000mなどというイベントも有りますから・・・。

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■ とりあえず浦安から自走で山中湖まで行って、天気が良ければ富士山に登ろう ■

実は東京五輪の自転車コースは、富士山周辺で自動車専用道路や富士スピードウェイを走る為、素人がコースを正確に辿る事は出来ません。

そこで、前半の「尾根幹」と「道志みち」を走り、山中湖を目指した後、脚が元気で天気が良ければスバルラインで富士山の5合目まで登るルートにチャレンジする事にします。涼しい時間に尾根幹を抜けたいので浦安から自走します。出発時刻は午前2時半。

自転車はロングライドで体に優しいクロモリのレモン君をチョイス。フロントシングル42T、リア12−27Tで、ちょっと登り向きでは有りませんが・・・激坂は無い様なので、多分、大丈夫でしょう。

先ずは東京の自転車乗りの聖地「尾根幹(おねかん)」を目指します。尾根幹は正式には「南多摩尾根幹線」という調布市と町田市を結ぶ道路ですが、道幅が広く、ゆるやかな起伏が続く為、多くのサイクリスト達がトレーニングに使っています。今回のオリンピックコース選定では、ロードバイク愛好家が日頃走るコースを、オリンピック選手が走るという大サービスをしてくれるのです。

夜中の都心を抜け、新宿から甲州街道をひた走り、電気通信大学の交差点を左折すると、多摩川が現れます。この辺りで空が白み始めます。40km程走りましたが、都内は信号が多くて時間が掛かりました。食事をせずに家を出たので、牛丼屋で朝食を取ります。

早朝の尾根幹に自転車乗りの姿は有りません。噂通り、ほとんど登っているか、下っているかの道ですが、山や谷の部分に必ず信号が有って、何故か殆ど引っ掛かります。多分、ある程度の速度で走れば信号に引っ掛からないのかも知れまませんが、本日は後半の山岳コースに脚を残したいので、ゆっくり走行・・・。

尾根幹の南側は多摩丘陵の自然が残っています。北側は新興住宅地が広がります。そして、道沿いには国士館大学や大妻女子大学などが有ります。道は現在も整備中で、周辺もこれから開発が進んで行くのでしょう。

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「尾根幹」を走ります。時刻は5:30頃。

少々、登り下りと信号に飽きた頃、短いトンネルが現れ、そこを抜けると、一気に町田街道に向けて下って行きます。ここ小山沼陸橋というのだそうですすが・・・wikipediaで後から調べたら「軽車両通行禁止」だそうです・・・。自転車は軽車両です。

尾根幹は町田街道に突き当たって終わりますが、ここからは「道志みち=国道413号線」を目指します。国道16号線に出て413号に入るコースが分かり易いのですが、交通量が多い市街地を通過するので却下。

早くも気温が上昇して来ているので、地図を頼りに相模川を渡り、中津川沿いを北上して国道412号線、そして413号線を目指します。


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米軍座間基地の輸送機でしょうか?ルート上にも相模総合補給廠という米軍施設が有りました。6:15

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高田橋で相模川を渡ります。多摩丘陵から相模原台地、そして相模線の線路に沿って崖が有、さらに相模川沿いに崖が有ります。この付近は相模川の扇状地で、浸食によって3〜5段の河岸段丘が観られます。7:15


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中津川沿いの県道53号線。愛甲郡・愛川町を走ります。厚木や橋本からほど遠く無い場所ですが、丹沢山系に入ると、「ここが神奈川?」という雰囲気が漂います。7:35

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県道53号線の登り坂を上ると国道412号線に突き当たります。自転車乗りには有名な「オギノパン」を通過して、しばらく走ると「道志みち(国道413号線)」の交差点が現れます。ここを左折すると、後は山中湖までは一本道。8:22


■ 灼熱の道志みち ■

暑くなる前に標高を上げようと思っていましたが、ここまで信号が多くて9時を回ってしまいました。日向は既に30℃を越えていそうです。ダブルボトルの一本を体に掛ける水用にしていますが、ボトルが直ぐに空になってしまいます。

道志みち、最初の頃は緩やかな勾配ですが、とにかく上り下りが多い。登ったと思ったら直ぐに下り坂で、なかなか標高が上りません。セブンイレブンを見付けて、ペットボトルの冷水を頭からぶっ掛けます。ガリガリ君を食べたら、だいぶ体が冷えました。「午後は雨になりそうだ」と言いながら、自転車乗りの方が急いで出発して行きます。ガチな人達は、早くも練習を終えて東京方面に向けて爆走しています。

道は道志川に付かづ離れず進みます。地道に標高を稼いで来たのに月夜野で、一気に川まで下ってしまいます。そこからは結構急な登りが始まります。ここら辺が神奈川と山梨の県境。

道志村入ると、道は川沿いを走ります。川幅も広がり、いくつもの橋が架かっています。道志村役場には『自転車ロードレース競技』の大弾幕。オリンピックを機に、「道志みち」を自転車乗りの聖地にしたい・・・そんな街の意気込みが伝わります。

道志村に入っても気温は高く、何度、道端の川に飛び込もうと思った事か。もう暑くて限界・・と思う頃に「道の駅 どうし」が現れました。「水源の町」を売りものにするだけあって、冷たい水が巨大な石のオブジェから流れています。冷たくて気持ち良かった!!

道の駅でお昼休憩とします。名物はクレソンらしい・・・。暑さで頭がボーとしていて、ザル蕎麦大盛を注文してしまいました。


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橋のはるか下を道志川が流れています。8:35

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川幅がだいぶ狭くなり、「渓流」の風情が有ります。10:02

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「涼」を取りに川まで下りてみます・・・暑い・・・。10:12


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道志村役場、オリンピックへの期待の大きさ感じます!!10:24


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道の駅には自転車ラックが多数設置されていますが、自転車は僅かに4台。時間が遅すぎるのでしょうか。10:45


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道の駅の裏手は道志川が流れています。そして、河童の像が・・・。これ、ネットの自転車乗りの記事で観た事有る!!

■ 山伏峠を抜けると、そこは山中湖だった ■

道の駅を過ぎると、道志川の源流域に向けてひたすら登り坂が続きます。斜度が10%を超える事は無いので、大した登りでは無いのですが、ここまで随分と脚を使わされたのと、暑さの影響で思う様には登れません。

道志川は次第に小さな沢になって、分水嶺が近づいて来る頃、唐突にトンネルが現れ登りが終了します。ここが山伏峠、標高1100mの道志みちの最高点です。

トンネルを抜けると、そこは山中湖村。道は山中湖に向けて下って行きます。道志側と比べて随分と涼しく感じます。まさに高原の空気。

浦安を出る時には、オリンピックコースと同等に獲得標高を狙って、スバルラインを5合目まで登る気マンマンだったのですが・・・既にそんな気力は欠片も残っていません。速攻で観光モードに移行です。


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突然に山伏トンネルが現れ、ようやく登り坂が終わります。12:37


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湖上のボートや、湖畔の小洒落た店が点在して、リゾート感が漂います

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富士山は雲の中で見えません

■ ザ・ベスト・オブ 「残念観光地」の忍野八海 ■

すっかり観光モードに入り、一度行ってみたかった忍野八海を目指します。富士の湧き水のら立ち上る朝霧の幻想的な写真で有名な観光地。

富士山に降った雪や雨は溶岩層にしみ込み、約20年の歳月を掛けて、忍野村周辺で溶岩の隙間から湧水として地上に沸きだします。

有名な忍野八海の周辺にも、この様な湧水池が点在しており、「浅池」もその一つ。食事処の敷地内にある湧水池で、庭園は良く整備されています。

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池の中に水草がたなびきます

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コスモスが高原に初秋を告げます・・・まだ、平地は酷暑ですが

忍野八海は観光客で賑わっていましたが、以前写真で観た様な「ひなびた景色」の欠片も有りません。

池の上にまで土産物屋がせり出し、周辺も売店がひしめき、中国語が飛び交います。コロナ騒動で一時は少なかった観光地の中国人ですが、いつのまにか戻って来ました。現在は2週間の自宅待機を経れば普通に日本で生活出来ます。観光地としてはインバウンドが戻って来てホットしている事でしょう。

しかし、民有地だとは思うのですが、もう少し景観を考えた開発は出来なかったのでしょうか?湧水を中心とした公園整備と、少し離れた場所のお土産屋や飲食店通りに分けるべきだと思います。尤も、地元の人にすれば、自宅の庭や裏に湧水池が昔からあった訳ですから・・・「ここで稼ぐにが何故悪い?」って感覚なのでしょう。

忍野八海に中国人観光客が増えたのは2013年頃からだそうです。富士山が世界遺産に登録された時期。それまで中国人観光客は都会で「爆買い」をする為に日本に訪れていましたが、それが一巡すると、日本の様々な観光地に出かける様になります。そして、その体験をSNSで拡散して、それを見た人達が押し寄せる。忍野八海は中国人が日本で訪れたい場所の一つとして人気スポットになりました。

それまで、この地を訪れる日本人は僅かでしたから、地元としては嬉しい限りですし、ほとんど来ない日本人を相手にしているよりも、中国人観光客の満足度が優先するのは当然の事です。観光客も来ない観光地よりもマシです。

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GoToトラベルの始め頃は、激減していた中国人観光客。今は各所で観光を楽しんでいます。コロナで暗い表情の日本人よりも活気があるので、ある意味ホットします。

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忍野八海の中心部から先の川筋には人影もまばらです。ここもなかなか風情が有りますが、ここまで足を延ばす中国人は殆ど居ません。


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綺麗に整備された庭園ですが、入場料を200円取るので、何と観光客は皆無。

■ 富士吉田駅っていつから「富士山駅」になったの? ■

忍野八海を一回りしたら、小腹が空いて来ました。適当な蕎麦屋に入って本日二回目のソバ・タイム。・・・「忍野八海の瑞で打った蕎麦」が売りですが・・道の駅の蕎麦の方が風味が良かったかな。

ちょっとトホホな観光も終わったので、最寄り駅から輪行します。「富士吉田駅」を目指しますが、駅が地図に見当たらない。まあ、だいたいの方角は分かるので、鳥居下トンネルを通って、富士吉田市街に下って行きます。

ところで、日本の道って、ほとんど自転車乗りを殺す気マンマンですよね。峠道のコーナーのゼブラ塗装は、自転車の細いタイヤのグリップが抜けてしまうので本当に怖いのですが、道路の白線のデコボコ塗装はもっと怖い。

鳥居下トンネル、結構長いトンネルで歩道もしっかり整備されているので自転車は歩道を走るkとが前提なのでしょうが、トンネル内の白線にブロック塗装がされています。これに乗り上げるとハンドルを取られて超怖いのですが、狭いトンネル内だと車道側を車にブロックされるので、白線に乗らざるを得ない時が有ります。

鳥居下トンネルは忍野側からは下りなので、結構なスピードが出ますが、これでブロック塗装に乗り上げると、自転車は一瞬でバランスを失います。もう怖いのなんのって・・・良く、転ばなかったと神様に感謝しています。

国交省の方、峠でコーナーを攻めて崖から転落するバカな峠族の命と、路肩を遠慮して走るロードバイク乗りの命、どちらが大切でしょうか・・・・。

そんなこんなで、国交省を呪いながら富士吉田市街に到着。適当な交差点で左折したら、見覚えのある浅間神社の鳥居が現れました。ここから先は昔の記憶を辿って富士吉田の駅に到着です。・・・・って、駅名が「富士山駅」に変わっていました・・・。どうりで富士吉田駅が地図に無い訳だ。

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蕎麦畑が広がっていました。

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久しぶりに見る浅間神社の鳥居。もう、富士山に走って登らなくなってから10年程になるでしょうか。

■ オリンピック選手はバケモノだ ■

走り終えてみれば150Km,獲得標高2069m。オリンピックコースには遠く及びませんでした。

この季節に道志みちを越えて富士山周辺のヒルクライムを複数繰り返す事など、私にはとうてい出来ません。オリンピック選手の超人ぶりを実感した一日でした。


日頃、オリンピックなど興味も無い私ですが、道志みちを失踪する超人達の姿は観てみたい。オリンピックが仮に中止になったとしても、自転車レースだけ同じコースでやってくれないかな・・・・。

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2640.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c2

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
3. 中川隆[-11182] koaQ7Jey 2020年9月25日 00:44:21 : jj1h0yCzWU : eDh4LlNadmVXVU0=[3]
2020/8/31
フロントシングルで奥多摩周遊・・・ムリゲーだけど暑くて無理!!  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2632.html#comment
 


■ 皆んな大好き「和田峠」に行ってみた ■

暑い!!くそ暑い。標高の低い千葉県を走ったのでは熱中症は確実です。
そんな訳で、本日も標高を求めて奥多摩方面に遠征です。

朝一番に武蔵五日市に到着する時間に浦安駅から輪行しますが、何と中央線は人身事故で不通。三鷹で折り返し運転の高尾行に乗り換えて立川で乗り換えるハズが、すっかり寝過ごして気付けば高尾。ホームで天狗さんがお出迎え・・・。

急遽、予定を変更して、皆んな大好き「和田峠」にGO!!

和田峠は甲州裏街道とも呼ばれる陣馬街道にある、東京と神奈川県の県境の峠。標高690mと大した高さではありませんが、最大勾配18%という激坂コース。風張林道が東京激坂の横綱ならば、こちらは大関。アクセスの良さもから、東京の自転車乗りが最初にチャレンジする激坂では無いでしょうか。

以前、ヤビツ峠の帰りに山梨側から登った事は有りますが、東京側から登るのは初めて。本日の自転車はクロモリのレモン君。フロントシングルのフロント42t、リア12-27tです。インナーxローのギアー比が1.55ですから、ノーマルクランクの39x25の1.56とほぼ同じギア比。昔の自転車乗りは、皆さんこのギア比、クロモリフレームで和田峠を登っていたので、登れて当然・・・のハズ!!

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陣馬街道の前半は、川沿いの集落を巡りながら緩やかに標高を上がて行くコース。ここが東京都である事が信じられない「のどか」な景色が続きます。和田峠の激坂区間の始まりまではバスも通っています。休日のバス停は陣馬山に登るハイカーで賑わいます

陣馬山の登山口のバス停から先は激坂区間になりますが3.5Kmの区間の平均勾配は10.1%、最大勾配は18%。まあ、キツクなったらダンシングで凌げる感じでしょう。

バス停で一休みしてからトライ開始。気温が高いので足攣りしたら終わりです。無理にダンシングせずにシッティングで丁寧にペダルを押し込みます。途中、「コイツはヤバいぜ!!」って斜度は1か所だけ。そこが18%だと思いますが、ヘアピンのイン側を通らなければ、どうって事ありません。全力ダンシングで乗り切ります。

それよりも、道幅の狭い所で後ろから車が来た時の方がヤバかった。足付きはしたく無かったので、道幅が少し広くなる所まで全力ダンシングですよ・・・。まあ、坂道アルアルでは有りますが、軽く死にました・・・。

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気温が低ければ「サタデーナイト走行=オールダンシング」も可能ですが・・・本日はシッティング中心でクリアしました。のんびり登ったので「血の味指数」は低め。

■ 裏和田から都民の森に行けるか?! ■

峠の茶屋でスポドリをガブのみしてから、裏和田を下ります。峠を越えると神奈川県相相模原市です。裏和田の集落の景色は「ザ・山村」。写真だけ見せられたら「信州ですか」と聞いてしまうレベル。

裏和田を下り切った辺りから、甲武トンネル経由で都民の森に行ける事は地図で確認出来たので、それらしき標識に従って進みます。・・・と言っても手描きで甲武トンネル14Kmと書かれているだけだけど・・。

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ロールプレイングゲームならばトラップだよね、この看板。

小さな峠を一つ越え、集落に入って「上野原カントリークラブ」の看板に従って進みます。・・・進み・・。おい、何なんだよ、この集落の中の激坂。道、コンクリートの丸パターンじゃねぇーか!!10%軽々越えてるよね、パターン無いだけ、ヤビツの蓑毛の方がマシだよね!!

「やっぱ、罠じゃねぇーかーーーー!!」と心で叫びながら、暑さで意識を持って行かれる寸前に自販機を発見。地獄に仏とはこの事。頭から冷たいミネラルウォーターを被って、木陰で一休み。道が有っているかネットで確認すると、ここ「上野原カントリークラブの激坂」で有名なポイントでした・・・。そして、自販機の直ぐ先がカントリークラブの入り口で、坂道のピーク・・。

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カントリークラブの入り口って、どうして激坂の上の有るのでしょう?読売カントリークラブとか・・・。


そこから甲武トンネルの分岐までは、広々とした景色が広がります。冬ならば富士山が見えるでしょう。

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ここ、神奈川県です・・・。

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矢印にチョロリと生えたヒゲがキュート!


■ 風景ハンターの血が左折しろと囁いた・・・鶴峠って何? ■

右折すると武甲トンネル経由で都民の森に行ける交差点。でも何故かハンドルを左に切ってしまいまいた。「そっちの方が楽しいよ!」って本能が叫んでいるから。

少し下ると三叉路に出ます。「多摩川源流 小菅村」という看板が「こっちらよ、こっちだよ」と手招きしています。「源流」って言葉、チョーそそられるじゃないですか!!気付けば、ここは「山梨県」。本日、既に県境を二つも越えています!!

山梨県の県道18号線で、奥多摩湖の上流に出るらしい道は、鶴峠という「通好み」の峠に繋がっているらしい。奥多摩湖に出て、都民の森に上って武蔵五日市に出るコースにチャレンジしてみます。

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標識に書かれた、「村」とか「源流」とか、ワクワク・ワードには抵抗出来ません!

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山も谷も深い。秘境感がパナイっす!!

この道、大正解です。川沿いの集落を巡りながら、細かなアップダウンを繰り返して、標高が徐々に上がっ行きます。鶴峠の手前に「田和峠」というのが有る様なのですが、どれが峠なのか分からずに「西原」という集落に入ります。

蕎麦屋さんに車が沢山停まっていたので、ここでお昼にします。この先、多分、補給が出来なくなりそうですから。時間も丁度12時。

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パンにしようか、蕎麦にしようか迷いましたが、蕎麦に決定。

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店内にはクーラーは有りません。全開の窓から、爽やかな風と、様々な虫が入って来ます。お客さん、虫を無視です。流石は田舎・・・?


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夏だなぁーーー。


食事の後に、ちょっと西原の集落を散策します。水車という看板に誘われて、川沿いの激坂を登って行くと、木立の影にひっそりと水車小屋が佇んでいます。パイプで水車の上の水を導いて回転させる仕組ですが、今は水は止まっています。この水車で挽いた蕎麦粉を蕎麦屋では使っている様です。


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粉挽き様に現在も使われている水車。

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「ザ山村」的な風景!!


一宮という神社を見付けたので寄って行きます。中世に武田氏が興した神社として伝わっているそうです。山梨屈指の杉の巨木(御神木)を始めとした巨木に囲まれ、小さな社が建っています。

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御神木は山梨県屈指の巨木です。

■ 鶴峠って何処? ■

西原の集落を抜けると、道は再び登りになります。確実に斜度10%越えのヘアピンを曲がると冬季通行止めのゲートが出て来ます。ここから先は峠まで民家は無いのでしょう。

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ゲートのヘアピンをスマホ撮影しようと、10%越えで片手運転。スマホをポケットから取り出して、ホームボタンをタップして、指紋が認証出来ないから暗唱番号を片手で入れて、カメラを起動して、ビデオ撮影。よゐこは真似しないでね・・・。


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西原の集落が眼下に小さく見えます

しばらく登りを繰り返すうちに「小菅村」に到達しました。峠は越えていないと思うのですが・・・。ただ、「鶴峠って分かり難い」とはネットに書かれていたので、もしかして越えてしまったのかと不安になります。ただ、道は登りが続いているので、峠は越えていないハズ。

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小菅村に入りました

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気温は30℃を越えていますが、朝夕が涼しいのでしょう。ススキの穂が出ていました。標高は800m程度と思いますが、秋は一気に訪れるのでしょう。

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冬季ゲートを過ぎましたが、小菅村に入ると民家が現れます。村内は除雪されるのでしょうか?

12〜13%のヘアピンを幾つのクリアーして、箱根の七曲りを登っている気分になる頃、突然、公衆便所が出現します。そして、その先のヘアピンを曲がると「鶴峠」というバス停がポツリと立っています。

周囲は木々に囲まれ、バス停が無ければ、ここが峠とは分からない様な「存在感の薄―い」峠。奥多摩の外の峠に比べて人気が無いのも理解出来ます。だって、記念写真スポットが無い。

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奥多摩周遊道路に比べてバイクは圧倒的に少ないですが、それでも時折、爆音を残してバイクが走り去って行きます。バス停の表紙が、ここが「鶴峠」である事を証明していますが、駐車場も無いので、車もバイクも、ただ走り過ぎるだけ。

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峠を越えると、道路にローリング族(今は死語かな)のタイア後がベッタリと残されています。「頭文字D]みたいな兄ちゃんが、夜な夜なドリフトで峠を責めているのでしょう。

■ 鶴峠を越えても登り返しが結構ある。 ■

鶴峠を越えたら奥多摩まで一気に下るのかと思いきや、結構な登り返しが有ります。これは精神的ダメージが結構大きい。

しばらく下ると国道139号線に突き当たります。左は大月、右は奥多摩の表示が。一瞬、左折しようかとも思いましたが、山並みを見て、登りが有りそうなので止めにします。後で地図で確認したら、結構長いトンネルで峠をくぐり抜ける様です。その上を九十九折れの旧道が走っています。元気ならば、旧道のルートも面白そうです。

小菅の集落を抜けると、河を渡ります。多摩川の支流の一つ、小菅川です。鶴峠からの下りの途中から、河が道に並走していましたが、多摩川の源流域の一つ、白沢川というらしい。もっと秘境チックなイメージがあったので、ちょっと肩透かしですが、鶴峠が相模川支流の源流と、多摩川支流の源流の分水嶺になっている様です。源流域の風景としては、相模川の支流の鶴川の方が趣が有ました。


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多摩川の支流の一つ、小菅川。マス釣り場として、賑わっていました。

■ 奥多摩周遊道路経由で都民の森は、涼しくなってからにしよう ■

奥多摩湖が見えて来ると、先週通った道です。途中、奥多摩周遊道路から都民の森へ登って、武蔵五日市経由で帰ろうか迷いましたが、明日が月曜日なので、涼しくなったらトライしてみます。15kmの登りですが、斜度が6〜7%なので、脚的には十分に残っていました。(ただ、暑さで相当参っていますが)

東京都都内に入ると道幅も広くなります。奥多摩駅までノンストップで乗用車の後ろに付いて走ります。ダムを越えた辺りから渋滞が始まります。本日を先週よりも人手が多い様です。

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東京都に戻って来ました。


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15時以降に雨マークが付いていまいたが、天気は問題無さそう。


■ 檜原街道で都民の森に行くよりも、タフで景色の変化に富んだ素晴らしいコースだった ■

電車を寝過ごして高尾に行ってしまった事が幸いし、図らずも「和田峠」と「鶴峠」を堪能してしまいました。涼しければ、フロントシングルで全く問題の無いコース。(スピードは望めませんが、自転車は不便な方が面白い!!)

都民の森は、「整備された道路」で風景も単調です。それに比べて鶴峠を通る県道18号線は、深山と山間の集落が適度にバランスしていて、さらに景色も素晴らしい。タイムアタックとは縁の無い私としては、バイクがケタタマシク通り過ぎ、自転車乗りだらけの檜原街道よりは、断然、鶴峠の方が楽しい。

足付きしたく無いなんて考える事も無い。雄大な景色を眺め、集落の中の激坂に寄り道し、素朴な蕎麦を食べる。最高のコースです。


本日の最難関は・・・上野原カントリークラブの激坂。和田峠以上に応えました。いきなり蓑毛の坂道が住宅地の中に現れるのですから、ヒルクライムに心の準備がいかに重要か、思い知った一日でした。


重要事項なので、最後のもう一回言います。「鶴峠」最高です!!

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2632.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c3

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
4. 中川隆[-11181] koaQ7Jey 2020年9月25日 00:46:07 : jj1h0yCzWU : eDh4LlNadmVXVU0=[4]
2020/8/23
シングルスピードで都民の森ヒルクライム・・・軽く死ねます  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2625.html#comment
 


■ 〇〇と煙は高い所に上る ■

今年の夏は異常に熱い・・。我が家もとうとう家内が耐えられなくなりエアコンを購入しました。・・・だけど、取り付け工事は9月2日・・・耐えられない暑さは終わっている・・・。

昨日、今度は冷蔵庫が耐えられなくなり壊れました・・・・。やはり今年の暑さは例年以上ですね。

気温が30℃を超えると自転車乗りにはツライ。35℃を越えると、本気出して走ると軽く死ねます・・・路上の気温は軽く40℃に達していますから。

酷暑の日のライドは早朝に出発して11:00頃に終えるのが鉄則。11:00〜15:00までは熱中症の危険な時間帯になります。この間は、ダラダラ走るか、涼しい所でダラダラと過ごすのがベスト。

それででもガッツリと1日走り込みたい自転車乗りは「高い所に上ります」。標高が1000mを越えれば夏でも気温は25℃前後。気持ち良く走れます。まあ、標高1000m以上の場所に行くには「ヒルクライム」する訳で、1000m以下の場所の気温は朝から30℃近くに達していますから・・・決して快適なライドでは無いのですが・・・。むしろ「デス・ライド」デス!!

それでも自転車乗りは高い所を目指します。「〇〇と煙は高い所に上る」のデス!!

■ 東京の峠の最高峰は都民の森の先に風張峠 ■

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結構長く書いたのですが・・・ここで文字化け。このブログ運営会社、いい加減にして欲しい。


1) 49t-17t ギアー比2.88のクロモリシングルで都民の森にトライしてみた
2) 川上乗の交差点までは21:40と良いいペースだった
3) 斜度10%を超えて、時速8km/h台に・・・
4) 暑くて意識を持って行かれそうになり足付き。自販機の500mlの水3本を被る
5) 料金所を越えてからは適時足付きしてクールダウンしながら登る
6) 都民の森へは檜原村のT字路から1:52分も掛かっちゃたよ・・・。
7) 風張峠から奥多摩湖に降りて、奥多摩駅から輪行。

まあ、ざっとこんな内容でした。

<結論>

1) 真夏にシングルギアで都民の森をヒルクライムするのはムリゲー
2) 意識が飛びそうになるから、結構デンジャラス
3) ギア比2.5程度ならば、楽しく登れると思う
4) よい子の皆さんは真似しないでね。(マジで熱中症になるから・・・)

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2625.html#comment
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[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
5. 中川隆[-11180] koaQ7Jey 2020年9月25日 00:47:53 : jj1h0yCzWU : eDh4LlNadmVXVU0=[5]
2020/8/20
草津温泉で湯めぐり・・・酷暑ライド  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2622.html#comment
  

■ 酷暑に負けず、自転車でGO!! ■

8月に入り暑い。暑過ぎます。

西太平洋の海水温が高い「ラニーニョ現象」が原因ですが、インド洋の海水温が高い「インド洋ダイポール現象」が発生して、「今年の夏は雨が多く冷夏になるのでは無いか」と言われていただけに、農家にとっては嬉しい誤算かも知れません。

お盆にかけて連日35℃を越える気温の日が続きますが、照り付ける太陽の挑戦を受けるのが自転車乗りの本懐というもの。・・・ただ、平地は熱中症になる事が確実なので、出来るだけ高所に逃げたい。8月8日は箱根に逃げて、湯河原で日帰り入浴して帰って来ました。(小田原までの平地が厚くて死にました・・・)

8月13日は、標高1200mの草津を目指します。いつもは夜中に浦安を出発して自走で高崎を目指しますが、今回は上野から始発で高崎まで輪行しました。前日、仕事で仮眠出来なかったので、徹夜のナイトライドはパス。

電車で高崎に着いたのは朝7時。これ、夜中の12時に浦安を出発してナイトライドで高崎に到着する自国とほぼ同じ。ここから先はいつも通りのスケジュールです。

高崎から草津へは渋川から吾妻線沿いに進むのが一般的かと思いますが、群馬の盆地は「灼熱地獄」です。そこで、草津街道(国道406号線)で、須賀尾峠経由をチョイスします。この道、交通量が少なく、山間の村落の素朴な風景を楽しむ事が出来ます。


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高崎市内から浅間山を望む。うっすらと噴煙が確認出来

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あえて標高1020mの須賀尾峠を越えて草津を目指しまする。


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須賀尾峠の手前にある須賀尾宿は信州街道の宿場町。

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現在は山間の農村ですが、各家の前には、宿場町だった頃の屋号が書かれています。


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須賀尾峠から一気に400mのダウンヒル。八ッ場ダムが見えます。

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吾妻川を越えます。標高が下がり気温は30度を越えます。


■ 全然ロマンチックでは無い「日本ロマンチック街道」 ■

吾妻線の草津上野原駅の先、県道292号線に入ると、草津に向けて一気にヒルクライムが始まります。この道、長野県上田市から栃木県日光市を結ぶ「日本ロマンチック街道」の一部です。かつて多くの文人が通った道だとか・

ところが、ロマンチックなどとは名ばかりで、草津温泉まで9km余り、延々に登り坂が続きます。斜度は時折10%が出て来る位ですが、直登に近く、車の交通量も結構多い。

138tのフロントシングル、リアは12-27なので、ノーマルクランクのヒルクライムだと思えばムリゲーでは有りませんが、既に1500m程度の獲得標高になっているので、時速10km〜7km程度でカメの様に登って行きます。

足付き無で登り切ろうと思いましたが、水が無くなったので途中のセブンイレブンで補給します。

草津の手間に「草津メロディーライン」という標識が有ます。道に細身溝が切られていて、そこを車が通過すると、路面ノイズが草津節のメロディーに聞こえます。時速40km/h程度の速度で無いと、それっぽく聞こえないので、自転車でメロディーを奏でる事は諦めました。

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ロマンチックでは無い国道292号線

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道端の沢の水は温泉成分で白濁しています。

■ 温泉三昧 ■

温泉街に到着した頃には、にわか雨が降って来ました。志賀草津道路をヒルクライムしよと思っていましたが、雨で眺望が悪いので、明日にします。ここまで高崎から70km走って、獲得標高は約2000m。ゆっくり走ったので、いわゆるポタリングですが・・・暑さによる消耗はそれなりです。

温泉街はGoToトラベルの効果か、結構な人出でした。若い人や、子供を連れた家族連れが目立ちます。中国人感顧客も結構多い。東京の街中にも中国人が戻って来ましたが、2週間の隔離処置を経れば現在日本への入国は可能です。

とりあえず「湯畑」で「草津に行ってきました」的な写真を撮ってから、「西の河原」に向かいます。草津へは30年程前に家内と一度来た事が有ります。草津スキー場の帰りに立ち寄った。温泉街の記憶は殆ど無いのですが、「西の河原」の露天風呂の記憶は今でも鮮明です。冬の平日の昼間だったので、完全にお一人様貸し切り状態だった・・・。

30年経って草津の温泉街は「ミニ・原宿」の様になってしまいましたが、「西の河原」は整備はされたものの、当時の雰囲気はそのままです。河原のあちこちから温泉が沸きだしています。草津の問題点は駐輪施設が無い事。ロードバイクの聖地「渋峠」の出発点というのに、街中でサイクルラックを見かける事も有りません。仕方なく、殺生河原の公園内を自転車を押して進みます。

露店風呂に入る気マンマンでしたが、ここにもサイクルラックは有りません。仕方ないので、受付のすぐ近くの塀に自転車をチェーンで固定します。人目の多い所の方が盗難やイタズラは少なくなりますから。

入浴料は600円。排水の処理施設が無いのでしょう、石鹸やシャンプーは使用出来ません。巨大な露店風呂には、観光客がくつろいでいました。100人入っても余裕の広さが有りますから3密とは程遠い状況。

あれ、草津の湯ってこんなに温かったっけ?と思う温度ですが、確かに昔入った時も温かった。大き過ぎるので、温度が下がってしまうのでしょう。


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「自転車で草津に行って来ました」的な写真を撮っておきます。

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湯の華を取る為の「湯桶」。角度は0.6度が最も効率的に湯の華が析出するらい。主成分は硫黄で、太陽の光で硫化水素を酸化して硫黄を取り出します。

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湯畑周辺は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のアニメ第二期9話の聖地です。失踪した黒猫を捜しに京介と桐乃が訪れた場所。そして黒猫との再会は、足湯の近くです。図らずも聖地巡礼してしまいました。アニメの中の草津の街の再現度は結構高いです。温泉饅頭を押し付けて来るジイサンもしっかり登場しています。

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「西の河原」はキレイに整備されていました

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河原に沸きだすお湯に観光客が脚を漬けています

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草津の温泉治療を推奨したドイツ出身のベルツ教授

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河原の奥の方からは高温の温泉が沸きだしています

宿は前日にネットで予約した、素泊まりの元旅館。ネットでは「ビジネスホテル」と書いてありましたが、部屋の間取りは旅館そのもの。以前は食事も出す普通の旅館だたったらしい。築50年位では無いかとオーナさんの談。

1Fをコンビニに改装(今は違うお店)にした時に、食事を出さない素泊まりの宿泊施設に変更されたそうです。ペンションなども素泊まりにする所が増えています。街にある程度の飲食店がある観光地では、家族経営の宿泊施設は素泊まりにした方が楽です。

ただし、温泉は流石に「草津の湯」です。源泉かけ流し。4時半頃に一番風呂を頂いたのですが、オーナーさんが温度を見がてら入浴されていてご一緒に。源泉かけ流しで、さらに高温。多分50℃近くあったでしょう。

観光地化された温泉施設の湯温はどこも「一般受け」する為に低めの設定になっているので、草津に来て初めて「草津の湯」らしい温泉に入りました。宿代、全てこの温泉の為だと言っても過言ではありません。(翌朝に入ったら、誰かが水で温度を下げてしまっていました)

夕飯をどうしようかと悩みましたが、実は禁酒にチャレンジしていて、美味しいものを食べるとお酒の誘惑に勝てる自身が有りません・・・。と言っても、殆どが蕎麦かうどんのお店しか無いのですが。

明日は志賀草津道路をヒルクライムする予定なので、コンビニでタンパク質多めの夕飯を買って、部屋で食べる事にします。ノンアルコール・ビールにもだいぶ慣れて来ました。美味しくはありませんが、ビールを飲む事の代償行動にはなっています。多分「お金を払って買う」事に意味があるのだと思います。これが自家製の麦茶だったりしたら、禁酒は長続きしない気がします。

直前に取れた部屋は12畳ほどの広さ。一人では広過ぎます。座卓を畳むまでも無く、布団が敷けました。部屋にはクーラーが有りませんが、流石は標高1200mの高地です。日が暮れると気温がグングン下がって、8時頃には窓を閉めなければ肌寒く感じます。湿度も低い様で、手洗いしてビチョビチョのウェアーが扇風機の風で見る見る乾燥してゆきます。

長い夜をどうして過ごそうかと心配でしたが、携帯で『働くまおうさま!』を数ページ読んだら、寝てしまいました。朝が早かったからでしょう。

朝は5時から目覚め、朝風呂に入ります。誰かが水を入れたみたいで、昨日の茹る様な熱さではありませんでした。残念。

8時にチェックアウトしますが、受付は無人。徹底した省力化ですが、冷蔵庫も空でしたから清算の必用は有りません。私、家族経営の宿はこれで良い様な気がします。1万円以下の料金で、日本の宿泊施設はサービスが過剰気味です。きちんと掃除されて、ある程度施設がキレイならば、私的には問題を感じません。

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畳みは少し古いですが、内装は綺麗で、トイレもウオシュレットになっていました。一人に使うには広過ぎましたが。


■ 国道最高点に到達できない志賀草津道路 ■

本日のメインイベントは志賀草津道路のヒルクライムです。

本来は「日本の国道最高点」として、お盆は自転車乗りで混雑する志賀草津道路ですが、2018年の噴火以降、山頂付近は交通規制が掛かっていて、殺生河原より先は自転車やバイクは通行が出来ません。本日お会いした自転車乗りは3人だけでした。

温泉街からしばらく行くと天狗平スキー場が現れます。その先から本格的なヒルクライムが始まりますが、斜度は控えめ。気温も低いので快適です。空はほの快晴。

白樺の樹林をしばらく進むと、殺生河原ゲートが現れて、あっけなくヒルクライム終了。・・・・しかしです・・・。バイク乗りは、看板にまったく構う事なくどんどん通行して行きます。先程、私を抜かして行った自転車乗りの姿も見かけません。もしかすると・・・通行止めが解除されている???

確か「ゲートで係員に止められる」と聞いていたので、係員が居ないという事は、ここから先に進んで良いのかも知れません。そう、勝手に解釈して、ゲートの先に進んでみます。

殺生河原は火山性のガスが噴出しているので、「駐停車禁止」の看板が沢山立てられています。草木も生えない荒涼とした風景こそ、ネットなどで観る風景です。

殺生河原から先は高木は有りません。森林限界には達していませんし、ハイマツ帯なども無かったので、火山の噴火によって地盤が新しいので、未だ樹林帯が進出していないだけなのでしょう。これは富士山と一緒。乗鞍などは、きちんとハイマツなどの低木帯と、その上の高山帯の草本主体の植生の変化が有りますから。

殺生河原を過ぎると・・・ここはアルプスでしょうか・・・という風景に変わります。青い空を背景に緑の尾根が天に伸びています。これこそ、自転車乗りが憧れる渋峠に至る風景。・・・しかし、「通行止め」の看板が所々で現れるので、良心が痛みます。バイクはバンバン走っていますが、社会のルールを守らずして何が自転車乗りぞ!! (既にチョット破っていますが・・・)

もう少しの乗りたい欲求に必死で打ち勝って、「大人の撤退」を決意します。殺生河原ゲートからは1kmも進んでいませんが・・・。ゲートで休憩したらエアロバイクの二人連れが登って来ました。トライアスロンのトレーニングとかで、結構な距離は走られる予定。彼らは、おとなしくゲートでUターンして行きました。大人だな・・・。

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天狗山スキー場を通過します


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通行規制の告知。

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樹林帯の中を登って行きます。涼しい!!


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殺生河原ゲート!!


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これぞ草津の風景です・・・「通行規制」も看板さえ無ければ・・・


ダウンヒルはあっという間です。草津で一風呂浴びて帰る事にします。下界は茹だる様な暑さで又、汗になるのは確実ですが、輪行に備えてウェアーを着替えたい。

湯畑のすぐ横の外湯専用の施設に入ります。お湯は熱く無いので、ちょっと残念ですが、汗になるので、この程度が観光客には適当なのかも知れません。湯畑が見下ろせる広間で、涼しい風に当たりながらサイダーを飲んで一休みします。


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湯畑を見下ろしながら、ほてった体を冷まします


■ 下界は灼熱地獄だった ■

草津の名物は「花豆」という巨大なソラマメみたいな豆。甘納豆とソラマメが入った最中をお土産に買ったら、ロマンチック街道を一気にダウンヒルです。車が連なっているので、安全第一で下ります。

標高が1000mを切った辺りから、ジワジワと暑く成り始め、吾妻線の長野原草津口駅に着いた頃には30度を軽々と超えました。普段は我慢出来る気温ですが・・・涼しさに体が慣れてしまったので、無理。マジで無理。躊躇する事無く輪行で帰る事に。それも・・・特急を使います。だって、吾妻線って駅が多過ぎるんです・・・。

行きは上野から高崎まで普通運賃で1980円でしたが、草津口の駅から特急を使うと4980円。涼しかったら絶対に高崎まで走るのですが・・・。


夕方には実家にお土産を届け、自宅のクーラーから離れなくなって結局泊まってしまいまいした。大きい画面で『Relife』を見直せたので満足。


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長野原草津口の駅は・・・暑かった・・・・

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久しぶりの在来特急です


コロナとGoToのハザマで、多くの国民が旅行に行こうか、止めようか悩まれた事でしょう。しかし、観光地は観光客が来てくれて初めて経済が成り立ちます。

「GoToなどけしからん、現金給付で充分では無いか」という方々は、経済と人の心を理解していません。現金給付の乗数効果など1でしかありません。GoToならば、旅行先で皆さん、お金も使いますし、宿泊施設の従業員も雇用が確保されるので、乗数効果は4〜5程度になると言われています。

コロナはマスコミで過剰に危機感を煽られているので、受け入れる観光地も「怖い」思いで都会の客を迎え入れていますが、それでも「旅行客あっての観光地」です。


皆様もGoToトラベルをバンバン活用して、地方経済を回しに行きましょう!!!

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2622.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c5

[近代史5] ニュースは最初からすべてマスコミを経営する資本家が流すフェイクだった 中川隆
20. 中川隆[-11179] koaQ7Jey 2020年9月25日 01:00:05 : jj1h0yCzWU : eDh4LlNadmVXVU0=[6]
2020.09.25
アッサンジをスパイ活動法で起訴したのは潜在的内部告発への恫喝だと元CIA長官

 イギリスではジュリアン・アッサンジをアメリカへ引き渡す手続きが軍産複合体と緊密な関係にあるエマ・アーマスノット裁判長の下で続けられているが、アッサンジをアメリカが起訴した理由について、​内部告発しようとしている人や発行者を脅すこと​にあったとレオン・パネッタはドイツのARDが制作した番組の中で語った。アッサンジが1917年スパイ活動法で起訴された理由はメディア関係者を脅すことにあったと言われている。なお、エドワード・スノーデンも同じ法律で起訴された。

 アッサンジは2011年初め、アメリカで秘密裏に起訴された。民間情報会社​ストラトフォーの内部でやりとりされた電子メール​の中でその情報が書かれているのだが、その後、​ケレン・ドワイアー検事補が裁判官へ書いた文書​でも確認されている。

 パネッタは2009年2月から11年6月までCIA長官、11年7月から13年2月まで国務長官を務めているので、アッサンジの起訴が決まった時にはCIA長官だったことになる。当時は「リベラル派」だとされているバラク・オバマが大統領だった。アメリカの「リベラル派」に期待することは犯罪的だと言える。

 本ブログでも繰り返し書いてきたように、アッサンジが起訴された直接的な原因はイラクやアフガニスタンにおける戦争の実態を明らかにしたからだと見られている。そうした情報の中でも​2010年4月に公開されたアメリカ軍のAH-64アパッチ・ヘリコプターによる非武装の一団に対する銃撃の映像​が大きい。この銃撃は2007年7月にバグダッドで引き起こされたのだが、その際にロイターの特派員2名を含む非武装の十数名が殺されている。

 パネッタが国防長官を辞めた3カ月後、スノーデンはNSAの不正行為を示す証拠を持ち出し、香港でグレン・グリーンワルドへ渡したグリーンワルドは当時、ガーディアン紙で記事を書いていた。

 アメリカと連携しているイギリスはグリーンワルドのパートナーでジャーナリストのデイビッド・ミランダをヒースロー空港で拘束して尋問、NSAとUKUSAを形成しているイギリスの電子情報機関GCHQに派遣された2名が監視する中、ガーディアン紙の編集者はスノーデンから受け取った情報が記録されたハード・ドライブを破壊している。それ以降、ガーディアン紙はイギリスやアメリカの支配者に逆らおうとしなくなった。同紙だけでなく、西側の主要メディアは全て同じ状態になる。

 アッサンジに対する弾圧とは、アメリカの支配者にとって都合の悪い事実を明らかにする者は世界のどこにいても逮捕して厳罰に処すというメッセージにほかならない。その弾圧に沈黙しているということは、言論の自由を放棄したことを意味する。そうしたメディアに情報を頼ることも犯罪的だ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009250000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/308.html#c20

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令
鬼塚英昭さんの研究書に書かれているよ:
吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文隆編

白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。
牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/771.html
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html

[番外地8] (緊縮財政+消費税)の方が(赤字国債大量発行+財政出動)より望ましい政策である理由 中川隆
3. 中川隆[-11178] koaQ7Jey 2020年9月25日 05:54:55 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[1]
(緊縮財政+消費税)は(赤字国債大量発行+財政出動)よりも格差拡大を防ぐ優れた政策だった
利子付き国債は資本家へ所得を再分配する為に考えたシステムです:
国債を持っている銀行や資本家は政府に借金させてこれだけボロ儲けしているんですね:
利子付き国債の発行はこれだけ貧富の差を拡大する
バブル崩壊で勝ったのは国債だけだったという事実
最も「勝ち組」の投資は日本国債だった
1990年台バブル崩壊で「1円も損をせず」「元金が7倍以上になった」のは日本国債を買った人だけだった。
バブルの頃は色々な投資がブームで、金銀、土地、ゴルフ会員権、株やピカソの絵、ハワイや湯沢の別荘が人気でした。

これらの投資はその後のバブル崩壊で全て損をした筈で、保険や年金商品ですら政府の方針でカットされていました。

そんな中で唯一バブル崩壊の影響をまったく受けなかった投資商品が「日本国債」で、日本国債が危ないという定説とは真逆の結果です。


バナナ売りみたいな投資アナリスト達は毎日毎日「あぶないよあぶないよ、さあ国債が破綻するよ」と道端で「国債が危ない」と言い続けています。

彼らがそう言っている理由は国債以外の投資商品を売って稼いでいるからで、国債が売れたら困るのです。

日経先物とかFXとか株とか土地とかピカソの絵を売って初めて「カモ」から金を取れるので、日本国債が売れたら儲からなくなるのです。


1980年に日本国債を購入した人は、30年後の2010年に7倍に増えていて、もし最初に1000万円なら7000万円、100万円でも700万円に増えていたのです。

バブル崩壊も阪神大震災も福島原発もリーマンショックもすべて無関係で、1980年台に買っていさえすれば誰でも7倍になったのです。

では日本国債を買う以外でこの30年間に投資で資産を7倍にした人がどれだけ居たか、聞くまでもなくほとんど居ないはずです。

日本国債より危険な投資に手を出す人々

「そんなのウソだ。日本国債はゼロ金利じゃないか」というもっともな意見がありますが、それでも30年間毎年金利が付くことで、5倍とか7倍に増えるのです。

考え方を変えれば本当に「金利ゼロ」だったとしても、デフレで物価が下がると実質的にお金が増えるのです。

「経済専門家は皆日本が破産すると言っている」というもっともな意見もあるが、逆に日本政府が破産した後に残る安全な物って何なんでしょう?


例えば土地は消えませんが、戦前日本最大の資産家だった本間家(ローソク足を発明した本間宗久の子孫)は敗戦でアメリカ軍に土地を没収され、ただの釣具屋になり今は中国に買収されて消滅しました。

有名企業の株を保有しても日本政府が倒産するほどの事態なら、三菱や三井やトヨタだって倒産するでしょう。

金などの貴金属は物質として目減りしませんが、あの手のものは長期的には必ず物価上昇率より価値が目減りしていきます。


日本国債がデフォルトするほどの危機なら、どんな資産も無価値になる可能性が高く、それらより危険ではありません。

例えば沖縄県知事のアホは「中国に統一してもらって日本から独立しよう」と言っていますが、中国は共産国家で個人の土地所有が認められていません。

米軍基地が中国軍基地にかわり、土地は政府の所有になり、住民は政府から借りた借地に住む事になります。(中国人民はそうしている)

日本国債より安全な投資って何?

日本国債が無効になるほどの衝撃というのはこれほどの事が起きると推測でき、こんな事を考えるよりは自衛隊に税金を払ったほうが幾らかマシです。

「日本国債がアブナイから他に投資しよう」という考えは一見合理的にみえて、相当におかしいのが分かると思います。

例えていえば「巨大隕石が地球に落下するから地球の裏側に逃げよう」みたいな話で、恐竜より頭の働きが鈍いです。


日本国債ではなく米国債など外国政府に投資しようという人も居て、こちらの方は理にかなっています。

円高が進んでも日本よりアメリカの金利が高いので、最終的に日本国債を買うよりも、数十年後に元本が増える可能性は高いです。

だがしかし日本の証券会社から米国債を買って、日本政府が倒産したときにその証券会社は存在し、銀行は投資した元本を保証してくれるのか甚だ疑問です。


日本が破産したとき自分が買った証券会社が倒産していて、資産保全しているメガバンクも倒産したら、買っておいた米国債も消滅するでしょう。

アメリカの証券会社から米国債を買うという方法もあるが、おそらく日本からだと余計なコストを取られたり不利になるかも知れません。

このように考えると「日本国債があぶない」から色々な投資を試みるのは、結局どれも日本国債そのものより危険な投資に手を出すハメになります。
_______

銀行や生命保険会社は日本国債の利子でなんとか資産運用しているんですね。
アベノミクスで日本国債を日銀に売らされた銀行や生命保険会社はその金でアメリカ国債を買っています。
株やハイリスク債は投機性が高いので、資産運用はどうしても国債の利息に頼るしかないのです。
そして、銀行や生命保険会社の儲けは資本家の利益になります。つまり、日本政府の金を資本家にばら撒いています。

デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。
従って、政府がいくら金融緩和や財政出動しても大資本家を富ませるだけで、デフレからは脱却できません。
そもそもルーズベルト大統領のニューディール政策も大失敗で、政府が財政出動に使った膨大な金は労働者には回らず、すべて大資本家に行ってしまったのです。 戦争以外の公共事業ではデフレから脱却できなかったのです。それがその後もアメリカが年がら年中、世界のどこかで戦争を起こしている理由です。

国債発行すると貨幣価値が段々下がって紙屑になっていきます。日本円も為替でドルと連動しているので、ドル同様に紙屑になっていきます:

紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/366.html#c3

[番外地8] 日本の弥生人の主流は O1b1で O1b2 は満州系だよ

1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

に書かれているけど
日本の弥生人の主流は O1b1で
O1b2 は満州系だよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/405.html

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
2. 中川隆[-11177] koaQ7Jey 2020年9月25日 06:31:42 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[3]
僕は過去のまともな研究は鬼塚さんのだけだと言ってるんだよ。
大学の研究者にはタブーになっている分野だから鬼塚さん以外の研究は全く無い。
タブーになっている理由は明らかで、吉田茂はCIAのスパイだから、昭和天皇もスパイだったという事さ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c2
[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
592. 中川隆[-11176] koaQ7Jey 2020年9月25日 07:31:19 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[6]

2020年09月25日
格安住宅や格安物件は購入後の費用負担が多い

格安物件は維持費やリフォームに金がかかり手放すケースが多い

格安物件には当然裏がある

最近古民家や山林を安く買うのが流行っていて、「50万円で山を買った」などの動画をユーチューブで見ることもできます。

築80年の古民家を買って住んだり、格安マンションを購入して賃貸オーナーになって成功した人も居ます。

これらは本当に安い場合もあるが、表示価格以外の費用負担が多いこともある。

また購入後にトラブルに悩まされるのが、格安住宅や格安物件購入後のお約束になっている。

まず格安住宅ですが、50万円などで売られるのは築40年以上でかなり傷んでいると思います。

湿気で腐食が進んでいたり雨漏りがしたり、何らかの不具合があるから格安と考えて良い。


加えて立地もかなり田舎に違いなく、近所に駅は無くバス停やスーパーからも遠い。

下手をすると人口減少でインフラが維持できなくなっている可能性もあります。

上下水道に電気ガス、道路にゴミ収集などが過疎地域では維持困難になっている場合もあります。


例えば限界集落ではガスや灯油を配達してくれず、薪を燃料にしている地域がかなり存在する。

梅雨や秋の台風では水害で道路の通行止めが発生したら、車を持っていても通勤などできません。

古民家には金がかかる

マンションの場合はそんな田舎ではないでしょうが、築古マンションでは際限なくトラブルが発生します。

エレベーターや水回りのトラブルはお金が掛かるが、修繕金が集まらないので放置されることが多い。

競売物件は不動産屋を介さないので安く買えるが、まともな不動産屋は住める物件しか販売しません。


という事は競売では「住むに値しない物件」もあるという事なので、物件を見ないで入札するなどは論外です。

最近人気の格安古民家ですが、快適に住むにはまず最低1千万円のリフォーム費用がかかります。

トイレが汲み取りで水回りは全面改修が必要、これだけで500万から1千万円かかるでしょう。


テレビで取り上げられるような快適な古民家にするには、2千万円から3千万円はかかってしまいます。

つまり築50年から100年の古民家を買うより、住宅地で築浅の一戸建てを買う方が安いです。

むろん汲み取りトイレや古い土間の台所のままでも住めますが、耐震性が悪く腐食も進んでいる筈です。


古い家を買って住むよりは、郊外にアパートやマンションを借りて田舎に遊びに行く方が合理的です。

自分で大工仕事をするにしても、トイレや水回りは工事業者に発注せざるを得ないでしょう

http://www.thutmosev.com/archives/83973499.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c592

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
2. 中川隆[-11175] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:05:36 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[7]
世界最大のヘッジファンド: インフレで株式市場が暴落する理由
2020年9月24日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715

世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が引き続き1970年代のアメリカのインフレ時代について語っている。

前回の記事ではダリオ氏は、1960年代に経済の弱まったアメリカが紙幣を印刷した結果、1970年代が物価急騰の時代となった様子を説明していた。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

アメリカの1970年代は先進国でもインフレになるということを証明する意味で経済学的には非常に興味深い。しかしインフレの時代とはどういうものだろうか。デフレに慣れて久しい現代人には遠い記憶ではないだろうか。

インフレの心理

インフレとは紙幣の価値が下がることであり、物価が上がることである。しかし当時の様子がどういうものだったのかは当時もアメリカに住んでウォール街で働いていたダリオ氏の経験を聞くのが良いだろう。ダリオ氏はこう書いている。

わたしはインフレの心理というものをよく覚えている。アメリカ人はこぞって借金をしたがり、給料日になるや否や「インフレに先回りする」ために物品を買い漁った。

1970年代のインフレの時代、人々は物品を買い漁った。しかし豊かにはならなかった。物が不足しているから人々は物を買い漁り、インフレになるからである。

紙幣の価値が暴落する時代には資産価値を保存できる別のものがブームになる。結果、金価格は暴騰した。もう一度当時の金価格チャートを掲載しておこう。


しかし株価はどうなっただろうか。インフレは1972年から急激に悪化しているが、株価はそれに呼応して下落している。


インフレとは紙幣の価値が下落することであり、すべてのものの値段が上がることである。しかし株価は下落した。

その理由はダリオ氏による上記の描写を読めばより分かりやすいだろう。当時のアメリカ国民は毎年高くなってゆく生活物資を買い集めることで必死になり、株式など買っている場合ではなくなったのである。インフレの時代にもすべての値段が上昇するわけではないというのは興味深い事実である。

価値が下落しているドル紙幣で換算して株価が半分にまで下落しているということは、実質ベースでは株式の価値はほとんど紙切れになったということである。インフレの第1波が収まり始めた1975年からは株価は一度持ち直した。当時のインフレ率も同じように掲載しておこう。


しかしインフレ第2波のピークとなる1980年の前後には株式市場は再び激しい値動きを見せることとなる。

ポール・ボルカー議長

1979年、カーター政権の元でポール・ボルカー氏が連邦準備制度の議長に選出された。ボルカー氏はインフレを抑えるために政策金利を20%まで引き上げた。現在では考えられない水準である。ダリオ氏はこう書いている。

金融政策によって引き起こされたインフレ危機に対抗するためにボルカー氏は金融引き締めを行なった。そのため金利はドイツのシュミット首相が「イエス・キリスト以来」と呼んだ水準まで高騰した。

実際、インフレ率は最高でも15%に満たなかったのだから、20%はインフレの時代でもかなりの高金利である。今の金融市場が低金利で支えられていることからも分かる通り、これほどの高金利が株式市場を崩壊させないはずはない。
結果、1980年前後の株式市場はボルカー氏の動きに翻弄されることになる。まずボルカー氏が政策金利をどう動かしたのかを見てみよう。


金利の波は2回来ている。1980年の初めと1981年である。そして株式市場はその2度の波に翻弄されるように2度下落相場を迎えている。


何とも激しい値動きである。しかもこの値動きは毎年10%ものインフレの最中に起こったことを思い出したい。

インフレの結果

このボルカー議長による強烈な金融引き締め政策によってインフレはこの時期にピークを迎えることとなった。しかし結果としてアメリカ経済は短期間に2度の景気後退を迎えており、そのような厳しい政策が政治的代償なしに行えるはずはない。ダリオ氏はこう書いている。

ボルカー氏は役目を果たした。しかしその代償としてカーター大統領は職を失うこととなった。

一方でボルカー氏の金融引き締めがなければドルはそのまま自由落下を続け、アメリカは既に覇権を失っていただろう。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592


紙幣印刷がインフレに繋がるとき、国民はどちらかを選ばなければならないのである。

昨年亡くなったボルカー氏はダリオ氏とも個人的な繋がりがあり、ダリオ氏はボルカー氏のことを次のように評している。

幸いにもわたしはボルカー氏と個人的な交友を築くことができた。彼は偉大な人格者であり、素晴らしい能力と影響力があるにもかかわらず謙虚な人物で、ヒーローと呼べる人物が不足している今の経済界において古典的なヒーローの典型だと言えるだろう。

現代の政治が強烈な景気後退か通貨暴落のどちらかを選ばなければならなくなったとき、どちらを選ぶだろうか。それはそれで見てみたい光景ではあるのである。

世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c2

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
86. 中川隆[-11174] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:06:25 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[8]
世界最大のヘッジファンド: インフレで株式市場が暴落する理由
2020年9月24日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715

世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が引き続き1970年代のアメリカのインフレ時代について語っている。

前回の記事ではダリオ氏は、1960年代に経済の弱まったアメリカが紙幣を印刷した結果、1970年代が物価急騰の時代となった様子を説明していた。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

アメリカの1970年代は先進国でもインフレになるということを証明する意味で経済学的には非常に興味深い。しかしインフレの時代とはどういうものだろうか。デフレに慣れて久しい現代人には遠い記憶ではないだろうか。

インフレの心理

インフレとは紙幣の価値が下がることであり、物価が上がることである。しかし当時の様子がどういうものだったのかは当時もアメリカに住んでウォール街で働いていたダリオ氏の経験を聞くのが良いだろう。ダリオ氏はこう書いている。

わたしはインフレの心理というものをよく覚えている。アメリカ人はこぞって借金をしたがり、給料日になるや否や「インフレに先回りする」ために物品を買い漁った。

1970年代のインフレの時代、人々は物品を買い漁った。しかし豊かにはならなかった。物が不足しているから人々は物を買い漁り、インフレになるからである。

紙幣の価値が暴落する時代には資産価値を保存できる別のものがブームになる。結果、金価格は暴騰した。もう一度当時の金価格チャートを掲載しておこう。


しかし株価はどうなっただろうか。インフレは1972年から急激に悪化しているが、株価はそれに呼応して下落している。


インフレとは紙幣の価値が下落することであり、すべてのものの値段が上がることである。しかし株価は下落した。

その理由はダリオ氏による上記の描写を読めばより分かりやすいだろう。当時のアメリカ国民は毎年高くなってゆく生活物資を買い集めることで必死になり、株式など買っている場合ではなくなったのである。インフレの時代にもすべての値段が上昇するわけではないというのは興味深い事実である。

価値が下落しているドル紙幣で換算して株価が半分にまで下落しているということは、実質ベースでは株式の価値はほとんど紙切れになったということである。インフレの第1波が収まり始めた1975年からは株価は一度持ち直した。当時のインフレ率も同じように掲載しておこう。


しかしインフレ第2波のピークとなる1980年の前後には株式市場は再び激しい値動きを見せることとなる。

ポール・ボルカー議長

1979年、カーター政権の元でポール・ボルカー氏が連邦準備制度の議長に選出された。ボルカー氏はインフレを抑えるために政策金利を20%まで引き上げた。現在では考えられない水準である。ダリオ氏はこう書いている。

金融政策によって引き起こされたインフレ危機に対抗するためにボルカー氏は金融引き締めを行なった。そのため金利はドイツのシュミット首相が「イエス・キリスト以来」と呼んだ水準まで高騰した。

実際、インフレ率は最高でも15%に満たなかったのだから、20%はインフレの時代でもかなりの高金利である。今の金融市場が低金利で支えられていることからも分かる通り、これほどの高金利が株式市場を崩壊させないはずはない。
結果、1980年前後の株式市場はボルカー氏の動きに翻弄されることになる。まずボルカー氏が政策金利をどう動かしたのかを見てみよう。


金利の波は2回来ている。1980年の初めと1981年である。そして株式市場はその2度の波に翻弄されるように2度下落相場を迎えている。


何とも激しい値動きである。しかもこの値動きは毎年10%ものインフレの最中に起こったことを思い出したい。

インフレの結果

このボルカー議長による強烈な金融引き締め政策によってインフレはこの時期にピークを迎えることとなった。しかし結果としてアメリカ経済は短期間に2度の景気後退を迎えており、そのような厳しい政策が政治的代償なしに行えるはずはない。ダリオ氏はこう書いている。

ボルカー氏は役目を果たした。しかしその代償としてカーター大統領は職を失うこととなった。

一方でボルカー氏の金融引き締めがなければドルはそのまま自由落下を続け、アメリカは既に覇権を失っていただろう。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592


紙幣印刷がインフレに繋がるとき、国民はどちらかを選ばなければならないのである。

昨年亡くなったボルカー氏はダリオ氏とも個人的な繋がりがあり、ダリオ氏はボルカー氏のことを次のように評している。

幸いにもわたしはボルカー氏と個人的な交友を築くことができた。彼は偉大な人格者であり、素晴らしい能力と影響力があるにもかかわらず謙虚な人物で、ヒーローと呼べる人物が不足している今の経済界において古典的なヒーローの典型だと言えるだろう。

現代の政治が強烈な景気後退か通貨暴落のどちらかを選ばなければならなくなったとき、どちらを選ぶだろうか。それはそれで見てみたい光景ではあるのである。

世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c86

[リバイバル3] ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F 中川隆
12. 中川隆[-11173] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:24:54 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[9]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html#c12

[リバイバル3] 真空管アンプ自作は時間と金の無駄 _ 自作では まともな音にならない 中川隆
14. 中川隆[-11172] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:26:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[10]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1006.html#c14

[リバイバル3] ゴールドムンド _ その奇跡の音色の秘密 中川隆
10. 中川隆[-11171] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:26:46 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[11]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/948.html#c10

[リバイバル3] オーディオ機器の性能は「電源ケーブル」で決まる 中川隆
20. 中川隆[-11170] koaQ7Jey 2020年9月25日 08:27:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[12]
Mr.トレイルのオーディオ回り道 1970年代のSONYのアンプのサウンドを確認している
2020年09月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778


今年の4月にTA-3120Aを購入して、そのサウンドを確認してからSONYのアンプを色々確認しています。最近購入したのはTA-3200FとTA-3130Fの2種。


TA-3200F(100W/ch)のリアパネルの状況。「直出し電源ケーブル」のショボイ事!!!それでもかなり良いサウンドを出して来ますが、私の耳には「情報量を送り出す能力が不足」に聴こえます。当然、この部分をインレット化させて、良い電源ケーブルが使える様になれば、更に性能アップさせる事が出来ます。このリアパネルの場合、下のコンセント部にインレットを付ければ良いと思います。

こちらはTA-3130F(50W/ch)です。

このアンプのリアパネルはかなり窮屈ですね。本来簡単に交換できるヒューズが内部で半田付けされています。ここは「ヒューズホルダー」を付けたい処。SP端子やRCA端子・インレット化もかなり厳しい配置です。どう改造できるか?・・・厳しいですね・・・。

https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9269744cef8ea8174139019275e07778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1060.html#c20

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
593. 中川隆[-11169] koaQ7Jey 2020年9月25日 10:11:02 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[15]
俳優・矢崎滋「地方ビジホ暮らし」は老後の理想形?月15万円に羨望と絶望の声
2020年9月23日
https://www.mag2.com/p/money/966219


過去にテレビドラマや舞台などで活躍し、また清酒「白鶴まる」のCMに長年出演していたことでも知られる俳優の矢崎滋さん。そんな彼が人知れず芸能界を去り、現在は都内から離れた地方都市でホテル住まいの日々であることが伝えられ、大きな話題となっている。

「週刊女性PRIME」にて配信された「矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”」によると、芸能活動自体は本人曰くすでに引退したとのこと。趣味である競馬の場外売り場が近くにある、東北地方のとある田舎町のビジネスホテルにもう20年ほど滞在しており、1泊1万円の部屋を長期滞在ということで1泊5,000円、月に15万円払って泊まっているという。

親しかった俳優仲間たちとの縁もすべて絶ったとのことで、以前に役所広司さんのマネージャーが訪ねてきた際も、居留守を使い会わなかったという。

「老後ビジホ暮らし」の是非が話題に
つい最近までNHK BSプレミアムにて、矢崎さんが出演していた朝の連続ドラマ「はね駒」が再放送されていたこともあり、現在の消息について気になっていた人も多かったのか、ネット上ではこの記事に対して大きな反響が。そのいっぽうで話題となっていたのが、彼が現在続けているというビジネスホテルでの暮らしについてだ。

記事のなかでも、「同じ地方ならもっと安く借りれる物件があるのでは」と記者が問う場面があるが、それに対して矢崎さんは、

俺の計算だと月30万円はかかるよ。ここならトイレットペーパーも補充してくれるし、掃除もタダ。冷蔵庫やテレビが壊れても交換してくれます。

とのこと。これに対して、「合理的」「なかなかいいんじゃないか」という声があがっている。

東北にいてしかも引退してたのかあ
白鶴さんの退職金凄いけどホテル住まいってある意味管理費もかからないし掃除不要だから合理的なのかもしれないい

矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”(週刊女性PRIME)#Yahooニュースhttps://t.co/OYdiZ8lwxD

— だい (@daitapuu) September 23, 2020


@GameraAlpusGirl
昨日見たweb記事。俳優の矢崎滋が引退してて今は毎日ホテル住まい。1日5000円で月だと15万円。電気代カス代水道代NHK受信料無料で毎日部屋掃除&シーツも綺麗とか考えるとホテル住まい中々いいんじゃないかと。
午後6:02 · 2020年9月21日


たしかに地方都市で賃貸物件を借りて暮らそうとした場合、ツイートでも指摘されている通り家賃・電気代・ガス代・水道代・NHK受信料にくわえ、生活用品にお金がかかるのはもちろんのこと、長く住めば建物の修繕費などもかかるだろう。

さらに、物件がある場所の徒歩圏内にスーパーなどの買い物の場が無ければ、バスなどの公共交通が発達していない地域であれば自家用車を持つか、タクシーなどでの移動が強いられる。これらも含めた諸々のことを考えれば、矢崎さんの「月30万円はかかるよ」というのは、まぁまぁ現実的なラインと言えそうだ。

実際、矢崎さんの住むエリアやホテルを特定し、「あそこなら便利だろう」と太鼓判を押す声も。さらに、独り身が歳を取ってから部屋を借りるのは難しい現実、万が一突然死してしまった際にすぐ見つけてくれるといった面でも、老後のホテル暮らしが優位的だと説く意見もあった。


ぷららさん
@plalasan
矢崎滋の逗留先、場外馬券売り場が駅チカという条件で考えると、どうやら新白河駅近くにある3軒のビジネスホテルのどれかっぽいな。
新白河駅、記事には「駅以外何も無い」とあったけど、居酒屋ラーメン屋が多くて徒歩圏内にイオンもあるし、オッサンの一人暮らしにむしろ最適ではないか。
午後3:25 · 2020年9月23日


あん子
@anko_umeko
73歳の元俳優が現在ホテル住まいという記事を読んだ
月15万円も払うなら借りた方が安いような気もするけど
独り身が年取ってから部屋を借りるのがものすごく難しいっていうのもあるのかな
午前8:00 · 2020年9月23日


芸術的髷ボッチ師範
@GeiMage_jp
家を買わずに月15万円のホテル暮らしというの、なかなか計算高いかも。突然死してもホテルの従業員がみつけてくれるし。

矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生” https://jprime.jp/articles/-/18875 via @shujoprime
午後0:12 · 2020年9月23日

欲望や執着を捨ててこそ可能なビジホ暮らし
このように、元記事のタイトルには「悲哀に満ちた余生」などとあるものの、結構理想的な生活じゃないかといった感想もあるなかで、それなりの心構えなども必要だろうという声も。

べちか@終わった人
@10chf
ホテル住まいって自分の所有物とか全然ないんだろうか。自分には無理だなあ。
午後1:17 · 2020年9月23日

城伊景季
@white_cake
ホテル住まいができる人というのに、そもそも憧れるんだよな。
お金がじゅうぶんにあり、なおかつ執着や欲を切り捨てられる人。これが両立しないとホテル住まいはできないでしょう。
そして、快適な暮らしへの志向は強いんだよね。そこもかっこいい。
午後1:35 · 2020年9月23日


確かに紙の本や趣味のものなどといった所有物に囲まれて生活している向きには、この生活は難しいかもしれない。家族をはじめ友人知人も含めた人の縁に加え、そのあたりの物欲をもすべてかなぐり捨てた者にしか不可能なライフスタイルと言えるだろう。

それと、やはりある程度のお金は必要となりそうだ。ちなみに現在の矢崎さんは、貯金を切り崩すことで生活費を捻出している模様だが、過去には芸能界の第一線で永らく活躍し、先の記事にもある通り「白鶴まる」のCMを降板した際には出演した20年の功労金として、一般的なサラリーマンの退職金よりも多い金額をもらったという。また現在も不定期に、過去出演作品の再放送料が支払われることがあるとのことである。

昨年「老後2,000万円問題」が大いに取り沙汰されたように、特に単身者などのなかには、今後やって来る老後の暮らしに対してそこはかとない不安を抱える人は結構多い。今回伝えられた矢崎さんの生活ぶりは、ひとつの理想を提示するいっぽうで、厳然たる現実も突き付けたということで、そういった層の心中を大いに掻きむしる格好となったようだ。


suzuky
@suzuky
年取ったらホテル住まいって淀川長治が帝国ホテルに住んでたと知って以来の夢ですが、こういうのもあるのかと思ったり、ハリウッド女優が40歳で声がかからなくなる話とか、フリーランスだとどんなに実績があっても単に高齢というだけで仕事が減る話とか、いろいろ考えさせられる矢崎滋ストーリー
午後1:58 · 2020年9月23日

やぁぼん
@yaabon
矢崎滋、『白鶴まる』CMでおなじみの俳優が東北で送る“哀愁に満ちた余生”
「(ホテル暮らし)ここならトイレットペーパーも補充してくれるし、掃除もタダ。冷蔵庫やテレビが壊れても交換してくれます。近くに場外馬券売り場があって、そこで馬券を買うために居座ってる」
悲哀でもなんでもなく良いやん
午前6:07 · 2020年9月23日

真梨幸子&マリモナミ
@MariYukiko
私も、
晩年はホテル暮らししようかと、画策中。
矢崎さんがおっしゃる通り、
消耗品、家具、家電がついていて、掃除もしてくれる。
一泊5千円、月15万円は、案外リーズナブルかも。
なにより、孤独死しないで済みそう

#Yahooニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/b055e464084de1d5d4d9e4393acbb77c2527aba4
午前4:01 · 2020年9月23日



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c593

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
5. 中川隆[-11168] koaQ7Jey 2020年9月25日 10:23:17 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[16]
近衛の殺害命令を出せるのは昭和天皇以外には有り得ないというだけの話さ。
僕は鬼塚英昭が一次資料に基づいて研究書を書いていると言っただけだよ。
当時の当事者の証言は真偽に関わらずすべて一次資料になる。

「昭和天皇による近衛暗殺」は一次資料じゃないよ。
そもそも、南京大虐殺とか慰安婦強制連行とかの命令書なんか残す訳ないだろ。
命令書が残っていないから命令自体も無かったと思うのは知恵遅れだけだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c5

[番外地8] 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
林千勝は昭和天皇がスパイだというのがわかっていないんだよ:
日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」、世界の真実の姿を求めて(海軍どころか外務省が既に腐敗していたようです)


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

「吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任した。

吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルドの影響を受けていた。

吉田茂の養父である吉田 健三。
吉田 健三(吉田茂の養父)は帰国後、横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。
ジャーディン・マセソン商会はロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。
富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。

そして吉田茂の妻となった牧野雪子。
牧野雪子はアリスを通じてモルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。
在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。

このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。

吉田茂は妻となった牧野雪子により、天皇ともつながりを持つようになる。
吉田茂ー牧野雪子ーキャボット=アリスー九条節子(昭和天皇・裕仁の母)=天皇

吉田もモルガン=ロスチャイルドに寵愛され、出世街道を上昇して行く。雪子は麻生太郎首相の祖母である。

麻生の正体                                                             
 太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」こと吉田茂は、今の自民党総裁選の本命=麻生太郎の祖父だった(鬼塚英昭「天皇のロザリオ」上p403、成甲書房)。
 その功績で、トルーマン米大統領と占領軍最高司令官Dマッカーサーの決定で、吉田茂が戦後最長の長期政権の首相になった。
 麻生一族は、明治期に天皇が50万人の日本女性を拉致・連行して欧州へ女郎として売り払った時の石炭会社と石炭船運行会社のオウナーだった。それで儲けた麻生の会社は資本蓄積して発展した(「オルタナティブ通信)。


http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/406.html

[番外地8] 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 中川隆
1. 中川隆[-11167] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:07:37 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[17]
一次資料を提示してるんだよ:
辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。


1926年12月、教育総監部付勤務となり教育総監部課員を経て1928年5月から翌年5月まで臨時第3師団参謀を務め山東出兵に出動した。1930年7月、イギリス駐在に発令され翌月、歩兵少佐に昇進。1931年1月、イギリス大使館付武官補佐官となり関東軍参謀、兼満州国大使館付武官補佐官、参謀本部員を歴任し1934年8月、歩兵中佐に進級。

1935年8月、第5師団参謀に就任しイギリス大使館付武官に転じ、1937年11月、歩兵大佐に昇進。1938年4月、参謀本部付となり参謀本部課長を経て1939年12月、イギリス大使館付武官に発令(当時の大使が吉田茂)。1940年8月、陸軍少将に進級。太平洋戦争開戦に伴い1942年7月、交換船でイギリスから引き揚げ帰国した。

1942年9月、東部軍参謀長となり1943年10月、陸軍中将に進んだ。1945年2月、第12方面軍参謀長に就任。翌月、第3師団長に親補され中国へ出征し鎮江で終戦を迎えた。1946年5月に復員。

警察予備隊の幹部人選に駐英武官当時からの上司であった吉田茂の腹心として関与(吉田内閣で軍事顧問)、同期の木村松治郎、宮野正会ら旧陸軍の将官クラスをまとめてその基礎を作った。一方で中央情報局(CIA)の協力者「POLESTAR-5」(他にも「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」等と呼ばれた)[1][2]として内閣調査室(現在の内閣情報調査室)や後の自衛隊の設置に関わる資料をアメリカ政府に流していた事が2009年10月、有馬哲夫・早稲田大学教授のアメリカ国立公文書記録管理局における機密解除資料調査で確認された[3]。1975年1月から1978年12月まで偕行社会長を務めた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/406.html#c1

[番外地8] 日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」 中川隆
2. 中川隆[-11166] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:38:18 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[18]
当時出ていた文書や関係者からの聞き書きに基いて本を書いたんだろ
間違いの指摘とかはされていないから定説になっているという事さ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/406.html#c2
[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
87. 中川隆[-11165] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:48:02 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[19]
世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
2020年4月29日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏がLinkedInのブログを引き続き更新している。

新型コロナウィルスの世界的流行で世界中の中央銀行が紙幣を印刷し国債を買い入れ、政府は国民に現金を配り始めているが、ダリオ氏は政府を信頼してはならないと主張する。

貨幣を印刷する特権

ダリオ氏は次のように始めている。

歴史を見れば明らかだが、政府が経済的に国民を守ってくれると信頼してはならない。実際は逆であり、ほとんどの政府はあなたが同じ立場だったらそうするであろう同じ理由で、貨幣と債務の創造者かつ使用者としての特権を乱用するだろう。それは政治家は国家の長い生涯の一部分だけを担当し、その時の状況に応じてやりたいことをやるからであり、誰も最後まで責任を持つ人間がいないからである。

政府は現在債務を増やすことによって国民に現金を配ろうとしている。しかし政府債務はもう何十年もの間増え続けてきた。ダリオ氏はこの現象、つまり債務の膨張サイクルの初期の頃の話から始める。

債務の膨張サイクルの初期の段階では政府はまだ信頼されており、誰よりも資金を必要としていると思われているため、政府は誰よりも大きな借り手である。

サイクルが進んで後任の指導者たちが債務が膨張した政府を運営することになるときには、政治家や中央銀行家たちはより限られた景気刺激策で債務を返済してゆく難題に取り組まなければならず、更に悪いことに政府は破綻すれば経済全体を傷つけるような債務者を救済しなければならないことになる(訳注:2008年の銀行救済など)。

結果として政府は他のどのような個人や企業よりも大きな負債を作り上げることになる。

この文章を読んで思うのは、政府が債務を膨張させない段階など存在するのかということである。ダリオ氏はこう続ける。

言い換えれば、基本的にすべての状況において政府は債務の膨張に貢献し、債務バブルが弾ける時には紙幣を印刷しその価値を薄めることで対応する。

しかし債務を増やし紙幣を印刷することですべての問題が解決し、しかも何の問題も起こらないならばそれで良いのではないか? その結末はどうなるのだろうか。ダリオ氏は次のように続ける。

政府が大量の紙幣を刷り債券を買い入れることで貨幣と債務の両方が膨張するとき、貨幣と債券の価値は薄まってゆき、それは債務者の負担を減らすと同時に債権者にとっては実質的な税金となるだろう。貨幣と債券の保有者がそれに気づいたとき、彼らはそれを売り始める。

彼らは同時に資産をゴールドや一部の株式、債務問題の少ない別の国などに移そうとするだろう。

この部分は筆者のユーロ下落予想(そしてスイスフラン買い)の本質が述べられている。もはやヨーロッパは自国通貨を毀損せずに成長を維持することができなくなっているからである。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392

また、ゴールドへの資産逃避は既に起きている。以下は金相場のチャートである。


こうして貨幣の価値が薄まってゆく。ダリオ氏が年始から「現金はゴミだ」と言い続けている理由がここにある。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9645


そしてダリオ氏の話はここで終わらない。現金がゴミになった後の話まで今回は話している。

貨幣の価値減少が激しくなり債務のデフォルトや減価が横行するようになると、政府はやむを得ず金本位制のような何らかの保証ある通貨体制に戻ることを考え始める。そうすることで人々の通貨への信頼は戻り、人々はその通貨で再び資産を貯蔵し借金をやり取りするようになる。

これは現在われわれが財布に入れている通貨が完全にゴミになった後に新しい通貨が作られるという話である。

結論

ダリオ氏はこの状況について次のように感想を述べている。

これは望ましくない状況だが、何故そうなってしまうかは理解できる。貨幣を作り出してそれをばらまくことによって他人を幸せにできるとき、そうしたいという欲求に抗うことは容易ではない。

ばらまけば自分にも金銭的利益が返ってくる時には尚更だろう。しかしヘリコプターマネーを歓迎する善良な市民が気づいていないのは、それは実際には自分の財布から出ているということである。毎年数十万、数百万もの税金を取り上げてもそこから10万円返すだけで喜ぶ人々を喜ばせることは非常に容易である。彼らは容易に詐欺に遭うだろう。

これは古典的な金融行動である。歴史を通して政治家は自分の任期に返済期限の来ない負債を作り上げ、後のことは後任の人々に任せるのである。

個人的にはヨーロッパを「現金はゴミ」現象の先駆者であると見ている。イタリアなどの国の経済成長は既に債務で支えきれなくなっており、債務を増やし量的緩和を行なってもGDPが落ちるのであれば、もうGDPは落ちるしかない。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392


そして日本人が考えなければならないのは、日銀が現在の政策を続けると日本もいずれイタリアのようになるということである。

これは1980年代から40年間金利を下げ続けた付けを払うときがいよいよ来ているということである。

最近よく感じるのは、われわれは1980年から2020年までをバブルにするために2020年から2060年を犠牲にしたということである。そしてそれを引き起こした低金利・量的緩和政策は老人よりも若者に支持されているという。一般化して若者が常に愚かだとは言いたくないが、量的緩和については事実のようである。そして何事においても愚かさの付けだけは他人が払ってくれることはないのである。

ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/7103


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c87

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
3. 中川隆[-11164] koaQ7Jey 2020年9月25日 11:48:48 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[20]
世界最大のヘッジファンド: 政府が金融危機から守ってくれると思うな
2020年4月29日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473


世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏がLinkedInのブログを引き続き更新している。

新型コロナウィルスの世界的流行で世界中の中央銀行が紙幣を印刷し国債を買い入れ、政府は国民に現金を配り始めているが、ダリオ氏は政府を信頼してはならないと主張する。

貨幣を印刷する特権

ダリオ氏は次のように始めている。

歴史を見れば明らかだが、政府が経済的に国民を守ってくれると信頼してはならない。実際は逆であり、ほとんどの政府はあなたが同じ立場だったらそうするであろう同じ理由で、貨幣と債務の創造者かつ使用者としての特権を乱用するだろう。それは政治家は国家の長い生涯の一部分だけを担当し、その時の状況に応じてやりたいことをやるからであり、誰も最後まで責任を持つ人間がいないからである。

政府は現在債務を増やすことによって国民に現金を配ろうとしている。しかし政府債務はもう何十年もの間増え続けてきた。ダリオ氏はこの現象、つまり債務の膨張サイクルの初期の頃の話から始める。

債務の膨張サイクルの初期の段階では政府はまだ信頼されており、誰よりも資金を必要としていると思われているため、政府は誰よりも大きな借り手である。

サイクルが進んで後任の指導者たちが債務が膨張した政府を運営することになるときには、政治家や中央銀行家たちはより限られた景気刺激策で債務を返済してゆく難題に取り組まなければならず、更に悪いことに政府は破綻すれば経済全体を傷つけるような債務者を救済しなければならないことになる(訳注:2008年の銀行救済など)。

結果として政府は他のどのような個人や企業よりも大きな負債を作り上げることになる。

この文章を読んで思うのは、政府が債務を膨張させない段階など存在するのかということである。ダリオ氏はこう続ける。

言い換えれば、基本的にすべての状況において政府は債務の膨張に貢献し、債務バブルが弾ける時には紙幣を印刷しその価値を薄めることで対応する。

しかし債務を増やし紙幣を印刷することですべての問題が解決し、しかも何の問題も起こらないならばそれで良いのではないか? その結末はどうなるのだろうか。ダリオ氏は次のように続ける。

政府が大量の紙幣を刷り債券を買い入れることで貨幣と債務の両方が膨張するとき、貨幣と債券の価値は薄まってゆき、それは債務者の負担を減らすと同時に債権者にとっては実質的な税金となるだろう。貨幣と債券の保有者がそれに気づいたとき、彼らはそれを売り始める。

彼らは同時に資産をゴールドや一部の株式、債務問題の少ない別の国などに移そうとするだろう。

この部分は筆者のユーロ下落予想(そしてスイスフラン買い)の本質が述べられている。もはやヨーロッパは自国通貨を毀損せずに成長を維持することができなくなっているからである。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392

また、ゴールドへの資産逃避は既に起きている。以下は金相場のチャートである。


こうして貨幣の価値が薄まってゆく。ダリオ氏が年始から「現金はゴミだ」と言い続けている理由がここにある。

レイ・ダリオ氏、「現金がゴミ」になったニクソンショックの経験を語る
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9645


そしてダリオ氏の話はここで終わらない。現金がゴミになった後の話まで今回は話している。

貨幣の価値減少が激しくなり債務のデフォルトや減価が横行するようになると、政府はやむを得ず金本位制のような何らかの保証ある通貨体制に戻ることを考え始める。そうすることで人々の通貨への信頼は戻り、人々はその通貨で再び資産を貯蔵し借金をやり取りするようになる。

これは現在われわれが財布に入れている通貨が完全にゴミになった後に新しい通貨が作られるという話である。

結論

ダリオ氏はこの状況について次のように感想を述べている。

これは望ましくない状況だが、何故そうなってしまうかは理解できる。貨幣を作り出してそれをばらまくことによって他人を幸せにできるとき、そうしたいという欲求に抗うことは容易ではない。

ばらまけば自分にも金銭的利益が返ってくる時には尚更だろう。しかしヘリコプターマネーを歓迎する善良な市民が気づいていないのは、それは実際には自分の財布から出ているということである。毎年数十万、数百万もの税金を取り上げてもそこから10万円返すだけで喜ぶ人々を喜ばせることは非常に容易である。彼らは容易に詐欺に遭うだろう。

これは古典的な金融行動である。歴史を通して政治家は自分の任期に返済期限の来ない負債を作り上げ、後のことは後任の人々に任せるのである。

個人的にはヨーロッパを「現金はゴミ」現象の先駆者であると見ている。イタリアなどの国の経済成長は既に債務で支えきれなくなっており、債務を増やし量的緩和を行なってもGDPが落ちるのであれば、もうGDPは落ちるしかない。

新型コロナによる世界恐慌でユーロが下落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10392


そして日本人が考えなければならないのは、日銀が現在の政策を続けると日本もいずれイタリアのようになるということである。

これは1980年代から40年間金利を下げ続けた付けを払うときがいよいよ来ているということである。

最近よく感じるのは、われわれは1980年から2020年までをバブルにするために2020年から2060年を犠牲にしたということである。そしてそれを引き起こした低金利・量的緩和政策は老人よりも若者に支持されているという。一般化して若者が常に愚かだとは言いたくないが、量的緩和については事実のようである。そして何事においても愚かさの付けだけは他人が払ってくれることはないのである。

ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/7103


https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10473
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c3

[番外地8] 吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令 中川隆
7. 中川隆[-11163] koaQ7Jey 2020年9月25日 12:29:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[22]
林千勝さんは唯の銀行マンでド素人だからね
本当の研究者ならまず先人の研究のレビューから話す事になっているんだけど、林千勝さんは先人の業績は一切無視してデタラメな自説を披露してるだけだからね。
チャンネル桜に出して欲しいから昭和天皇に都合の悪い事は言えないんだな。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/404.html#c7
[近代史4] 御用学者列伝 _ 竹中平蔵 中川隆
10. 中川隆[-11162] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:06:03 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[23]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/727.html#c10

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
24. 中川隆[-11161] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:06:30 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[24]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c24

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
110. 中川隆[-11160] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:07:06 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[25]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c110

[近代史4] MMTの就業保障プログラム VS ベーシックインカム 中川隆
1. 中川隆[-11159] koaQ7Jey 2020年9月25日 13:08:00 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[26]
竹中平蔵氏が提案する「月7万円」のベーシックインカム論がヤバすぎる
藤田孝典 | NPO法人ほっとプラス理事 聖学院大学心理福祉学部客員准教授
9/24
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/

竹中平蔵氏のベーシックインカム論

竹中平蔵氏がBS-TBSの報道1930に出演して、ベーシックインカム論を提案した。

その内容があまりにも酷く、SNSなどで波紋、批判を呼んでいる。

ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策である。

ベーシックインカムの給付については、最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。

「ベーシックインカムを問い直す」志賀信夫(法律文化社2019)

竹中氏は以前より持論としてベーシックインカム構想に触れている。

その提案が菅首相との会食後のタイミングだったからこそ、注目されたのだろう。

菅義偉首相 就任直後に竹中平蔵パソナグループ会長と会食しないでください

竹中氏は「所得制限付きベーシックインカム」という独特の説明をし、マイナンバーと銀行口座をひも付けて所得を把握することを前提に、国民全員に毎月7万円の支給を提案している。その上で所得が一定以上の人は後で返すようにするというのだ。

また、ベーシックインカム導入によって、生活保護が不要になり、公的年金制度も不要になるため、ベーシックインカムの財源にできるという。


竹中ベーシックインカムはここがヤバい
まずベーシックインカム導入と引き換えに生活保護、公的年金などの廃止、財源移譲がセットになっている。

生活保護は「最低生活保障+自立助長」の制度である。お金を渡すだけではなく、福祉的なケアや生活支援をセットでおこなう。

生活保護を廃止できる、と安易に考えているのであれば、福祉的なケア、生活扶助以外の医療扶助、住宅扶助、教育扶助などは支給しなくていいのだろうか。

とてもではないが、月7万円の金額では現行の生活保護を廃止できるほどの水準ではない。

単なる福祉削減の提案になってしまっている。

さらに、公的年金を廃止する際には、厚生年金も廃止するのだろうか。

厚生年金は月7万円以上支給されている人も多く、その年金で高齢者施設、介護施設などに入所している人たちも大勢いる。

一律で月7万円支給して、各種年金制度、社会保険制度を廃止するなら文字通り、路頭に迷う人々が出てくるだろう。

そもそも支給されている年金の大幅な不利益変更など認められるわけがない。

そして、竹中氏はベーシックインカムには所得制限を設け、所得が一定以上の人は後で返すようにするという。

前述の志賀信夫氏によれば「ベーシックインカムとは、簡潔にいえば、すべての個人に無条件で一定額を継続して給付するという政策」である。

支給に所得制限が付いている時点で、すべての個人に無条件で支給することにはならず、ベーシックインカムの要件を欠く議論になっている。

それから、そもそも「月7万円」で基本所得、ベーシックインカムと言えるだろうか。

志賀信夫氏も「最低生活に必要な額が想定されている場合もあれば、そうでない場合もあり、論者によって様々である。」と言及している通り、支給金額は議論の余地がある。

しかしながら、生活保護も公的年金も廃止されて「月7万円」渡されても困る人は多いのではないか。

さらに、健康保険制度も解体されようものなら、たまったものではない。

国民年金での満額支給が7万円程度なので、この金額で十分だと言えるならば、高齢者の壮絶な貧困現場を見たらいい。

単身高齢男性のみの世帯では36.4%、単身高齢女性のみの世帯では、56.2%の凄まじい相対的貧困率を記録している(総務省2016)。

つまり、国民年金程度の支給金額では貧困に苦しむ人々を生むのであり、医療や介護需要が高まった際には生活保護が必要になる。

しかし、その際に生活保護は廃止されているそうだ。想像しただけで恐ろしい。

いずれにしても、竹中平蔵氏のベーシックインカム論は雑すぎる。

菅首相と関係性も近く、社会的影響力があるのだから、大混乱を巻き起こさないためにも、もう少し緻密な構想を練ってから披露してほしいものだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200924-00199815/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/974.html#c1

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
7. 中川隆[-11158] koaQ7Jey 2020年9月25日 15:33:12 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[28]
2019/10/7
乗鞍ヒルクライム・・・思い立ったら即実行  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2414.html#comment
 


■ そうだ、紅葉を見に乗鞍岳に行こう ■

冒頭の写真をご覧になれば、何処に行ったかは一目瞭然。そう、乗鞍岳にヒルクライムです。

乗鞍と言えば自転車乗りの聖地。自転車(ロードバイク)で行ける日本最高地点です。

ちなみに、自転車で行ける峠の最高点は大弛峠(おおだるみ峠)。
日本一の峠にMTBで挑む・・・大弛峠・・・「人力でGO」 2018.08.16 

日頃から自転車好きを自称する私ですが、乗鞍に行った事が無いのでは自転車乗りの名折れです。そこで、紅葉のこの時期に乗鞍ヒルクライムを敢行して来ました。

■ 乗鞍ってどうやって行くの? ■

ところで乗鞍ってどうやって行くの??

ネットで調べると、ほとんどの人が車載で乗鞍観光センターまで行っています。輪行の記事を見付けました。

東京 → JR松本駅 → 松本電鉄・「新島々駅」→ アルピコ交通・「乗鞍観光センター」

朝イチで東京を出れば、日帰りできるそうです。

都内から自走とか、松本から自走という記事は、ほとんで見かけません。理由は新島々から乗鞍に至る国道158号線は、狭いトンネルが連続していて、自転車の走行は危険だから。そう、思い出しました。以前、高山から高速バスで東京に帰る際に、安房トンネルを過ぎた所から、狭いトンネルが沢山あって、「ああ、ここだけは自転車で走りたくない」と思いました。

1)路肩や歩道が無い
2)トンネルの幅が狭く大型車の行き違いも大変
3)松本方面からは登り坂のトンネル
4)トンネルがカーブしている
5)トンネル内の路面が荒れている
6)トンネル内に分岐が或る!?
7)交通量が結構多い

ここを走ったという猛者もいらっしゃる様ですが、はっきり言って私はまだ死にたくありません。

■ 紅葉シーズンの満席のあずさ1号だって簡単に乗れる? ■

木曜日に乗鞍行きを思い立ち、金曜日に「あずさ1号」の指定を取ろうと思ったら満席。でも問題有りません。何故なら自転車をデッキに置く関係上、座席に座る事が出来ないからです。ドアが開いて乗客が乗降する度に、自転車を移動しなければならないのです。

あずさは全席指定ですが、「特別指定券」というのがあって、座席を指定しなくても、空いている座席に座れます。ただ、誰かが座席を購入している区間は、別の空いている席を捜さなければなりません。

この「特別指定券」を購入(座席指定と同額)して、デッキに自転車と一緒に立っていれば、満席なんて関係有りません。紅葉シーズンの新宿発のあずさ1号に、当日チケットでも乗る事が出来ます。帰りも同様です。

■ クロモリ・フルリジット・フロントシングルMTBのラレー君に決めた!! ■

問題はバスです。「荷物室に自転車を入れる」と書かれていますが、山道でバスは大揺れのハズ。・デリケートなカーボンバイクは心配です。

そこで、先日組み立てたレイノルズ853チューブのレモン・チューリッヒにしようかとも思いましたが、ヘッドパーツのガタが取れないので長い下りは心配です。

そうなると、残りは街乗り仕様のMTB、ラレー君しかありません。クロモリ・メガチューブ、フロント44tシングル、ブロックタイヤ装着の13kgのモンスター・クロスもどき。

まあ、日本一登りが長い大弛峠もラレー君で登ったので、20km、平均斜度6.1%ならば、どおって事無いでしょう。

実際にはバスの荷室に自転車を寝かして入れました。紅葉シーズンは日帰りハイカーが多く、大きなリュックが荷室に無いので、自転車が荷室を独占出来ました。6台程入りました。但し、夏場は大型のリュックが多いので、自転車は載せられないそうです。

■ 乗鞍はサイコーだ!! ■

そんなこんなで行って来ました、乗鞍ヒルクライム。当然、「足付き無し」ですが、走行中片手運転で写真を撮りまくったので、ゆっくりクライムでの達成。時間は2時間30分掛かりました。(あまりの景色の良さに森林限界以上は、ほとんんどカメラを手放せず、片手運転・・・真似しちゃダメだよ・・・)

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新宿7時発のあずさ1号に乗って、乗鞍観光センターには12時頃に到着。標高は既に1457m

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走り始めてしばらくすると正面に乗鞍山頂が見えます。序盤の斜度は7〜8%程度。ガンバレばラレー君でも10km/hで登れますが、先が長いので9〜8km/hペース

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カラ松林の中の白樺が点在するザ・信州な景色

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三本滝レストハウス。ここから先は一般車通行止め

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スキー場で見晴らしが効きます。

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いよいよ森林限界。真っ赤に染まったナナカマドが見事
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2000m以上では紅葉が始まっています

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高木が少なくなり、眺望が良くなります。ここら辺から登山客が沢山

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いよいよ森林限界。真っ赤に染まったナナカマドが見事

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2500mを越えると別世界。雲の上です

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コースの最高点2720mの長野―岐阜県境を越えてたら、畳平はすぐそこ

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山頂は気温5℃位でしょうか。風が強くて寒いので、防寒具を着込みます。時間が遅いので女性のサイクリストも多い。今晩は山頂泊でしょうか


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男気仕様のラレー君、何故か本格ヒルクライムのお供が多い・・・。ブロックタイヤには岩肌が良く似合う


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下りは岐阜県側の乗鞍スカイライン。高山らしい景色が続きます。そして高速ダウンヒルには観光客がバスや自転車が少ないこちらがお勧め

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スカイラインを一気に下り、平湯から国道158号線で高山を目指します。ずっと下りのコースですが、高山市街までは意外に距離があります。

当日の早朝に宿泊を決めたので、取れた宿は温泉施設の大部屋。通常3500円/1泊ですが、溜まっていたポイントを使って2000円。山小屋だと思えば、天然温泉も付いて、一人で布団を独占できるので、こっちの方が天国です。(山小屋、二人で一つの布団をシェアですから・・・)

700円の入浴料を払って、強いアルカリ泉でお肌ツルツル。付属の飲食施設で、高山名物「けいちゃん」(鶏肉と野菜の鉄板焼き)を肴に生ビールをグウウーーっと一気に胃に流し込みます。本日のヒルクライムはこの一瞬の為に有る。

飛騨古川の渡辺酒造(蓬莱が有名)の「小町桜」を冷で頂きます。本醸造の普通のお酒ですが・・・下手は吟醸酒よりも美味しい。最期は高山ラーメンで上り。塩分補給でスープまで完食。

お腹一杯食べて、お酒も入ったので、後はグッスリ寝るだけ。

ところで、結局大部屋に停まったのは4人だけでした。沢山布団が敷かれていましたが、「〇〇交通様」という名札が布団に置いてあったので、深夜バスの運転手が昼間寝る場所に使っているみたいですね。温泉施設も真昼間は利用客が少ないから静か。

明日は乗鞍スカイラインから山頂を目指します。(天気次第ですが)

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2414.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c7

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
8. 中川隆[-11157] koaQ7Jey 2020年9月25日 15:35:55 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[29]
2019/6/11
実は凄かった筑波山...自転車靴でgo!  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2367.html#comment
 

■ 自転車を「アーマードパック」にしてみた ■


「自転車」って看板が、ちょっと写真がトホホですね・・・

夏になるとロングライドはダブルボトルが標準装備。大型サドルバックを買ったので、今までサドルの後ろに付けていたツールボトル用のボトルケージが付けられません。そこで、ダウンチューブの下に、バンド取り付け式のボトルケージを「増設」してみました。

普通はショートタイプのツールボトルで無いと前輪と干渉してしまう様ですが、ゼファーはフォークのアングルが寝ているので、ギリギリ普通のサイズが収まります。

これって、ちょっとカッコ良く無いですか。気分はもう、こんな感じ。

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ネットから拝借しました

とか・・・・

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ネットから拝借しました

自転車がアーマドパック仕様に脳内変換され、気持ちはすっかりバトルモードです。

実際に、シートの後ろに付けるよりも重心が下がるので、自転車が非常に安定しますし、ダンシングの振りも軽くなります。ただ・・・段差とか急制動でツール入れを「誤射」してしまいそうでチョット怖い。

そこで、試走を兼ねて小雨の日曜日の朝、5:30に浦安を出発します。


■ 「学園都市」という響きでスイッチが入った!! ■


梅雨に入り自転車乗りにはツライ季節。本日の朝から終日小雨の予報。とりあえず、Yahoo天気の雨雲レーダーで、雨雲の切れている方面に向かいます。海浜幕張から進路を北に取り、木下(きおろし)から利根川を越え、竜ケ崎に入ります。

すると行先表示に「筑波学園都市」の文字が・・・なんとソソル響きだろう。と言う事で、牛久から国道408号線で筑波学園都市に入ります。

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電柱の「学園都市」という文字読めますか?

勝手に風景が「脳内変換」されてゆきます・・・。

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脳内変換 前

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脳内変換 後 ・・・『とある魔術師の禁書目録』より

ところで「学園都市」の英語訳って「Academic city」とか「Academy city」だと思うのだけれど・・・道路標識は「Sience City」となっています。「科学都市」ですね。これはこれで萌えます。

さすがはサイセンス・シティー、「国土地理院」とか「高エネルギー加速器研究機構」とか言葉だけでも萌えます。もう、素粒子に魂を撃ち抜かれます!!

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■ 筑波山まで来てしまった ■

加速器で加速されたので(実際には、ずっと向かい風で辛かった)、とうとうこんな所まで来てしまいました。・・・筑波山。

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関東では富士山とタメを張れる、古代よりメジャーな神聖な山ですが・・・・こうやって近くで観ると「丘」ですね。「山」じゃない・・・・。標高も877m・・・丘だ。

取りあえず、茨木県のヒルクラムのメッカですから、挨拶がてら、ひと登りしてみましょう。登り始めると10%越えの坂もあったりして、それなりに楽しめます。うっすらと汗ばむ頃に、何やら巨大な赤い鳥居が現れました。

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筑波山神社の大鳥居です。社会人になった年に、キャンプで一度来た事が在りますが、観光はしていないので、とりあえず神社に寄って行く事にします。

筑波山は「山」自体が神様です。男体山と女体山の一対の神々が、御幸ヶ原でウ夜な夜な「お戯れ」になられる、なにやら神秘的?な場所です。草木も動物も石ころも神様の一部。

実は古代から近代まで大規模な歌垣(かがい)が行われた場所としても有名です。歌垣とは若い男女が詩を読み合い、詩が優れた者がお相手を獲得するという、ネイティブな集団見合い。南アジアに広く、その伝統が伝わります。実際には、庶民の行事ですからアカデミックとは程遠く、飲めや歌えやのドンちゃん騒ぎで、現代のクラブ(ディスコ)に近いものだったのでしょう。当然、お持ち帰り有り!!


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中腹にある立派な建物は拝殿です。本殿は男体山と女体山の山頂に有ります。

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筑波神社の狛犬は、いいプリケツをしています


楼門の右手の小道を、ハイキングの恰好をした人達が大勢登って行きます。どうやら、登山道の入り口の様です。民家の庭先を通って、小さな鳥居が登山道の入り口です。すぐ横にコンクリートの擁壁が聳えているので、敬虔な雰囲気は全く無く、まさか、こんな小道が本殿への昇り口だとは思いもしませんした。


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「白雲橋コース」という高低差610mのルートで、所要時間は110分とあります。登山マップに記されている所要時間は「老人タイム」ですから、私の足なら40分もあれば登れそうです。鳥居から覗くと、道は木立の下をゆるやかに登っています。

これならビンディングシューズでも登れそうです。

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SPDショーズはサイクリングの途中の登山に最適?!

■ 筑波山・・・丘なんて言ってゴメンナサイ ■

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登り始めてしばらくすると、森はいっそう深くなり、杉やアカガシなどの広葉樹の巨木が生い茂ります。「神域」という呼び名が相応しい。傾斜も徐々にキツクなり、ゴロゴロとした岩が多くなってきました。

濡れた岩の上では、ビンディングシューズの金属のクリートが一発で滑ります。慎重に、ビンディングが岩に触れない様に、靴底の外側や内側から着地する様にします。

すると、自転車ウェアーの方が高速で下から上がって来ました。さすがにビンディングシューズでは有りません。トレイルランのシューズですね。土浦から自転車でいらしたそうですが、トライアスロンをやられているとか。長谷川恒夫記念(通称:ハセツネ 制限時間24時間の山岳耐久レース)に出場されているそうですから、ペースは相当に速い。

とてもビンディングでは着いて行けません・・・というか一瞬で太腿が攣りました。100kmのロングライドとプチヒルクライムの後だからと・・・自分を慰めます。しばらく、お話しながら登った後、先に行ってもらいました。

■ 筑波山、パナイっす!! ■

途中、昔の茶屋後の小さな広場で一休みした後、「白雲橋コース」のハイライトが始まりました。

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「弁慶七戻り」・・怖くて弁慶ですら七回も通り抜けるのを躊躇したとか・・・

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「母の胎内くぐり」

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急な岩のルートには、所々、「鎖場」もあります

イヤー、マジ、筑波山、パナイっす!!

すみません、この面白さを表現するボキャブラリーが足りていません。とにかく、ディズニーランドのトムソーヤ島を巨大にしたアトラクションと表現するのが適当かと。

しかし、ビンディングシューズもマジ、ヤバイっす。スリル、アリアリです!!

そういえば、登山道の入り口に「無計画な登山はお止め下さい」って書いてあったっけ。のどが渇きましたが、ドリンクは自転車に着けたままでした。お腹が空いたので、背中のポケットに幸運にも入れてあったスニッカーズに救われました。

40分程度でチャッチャと登るつもりでしたが、あまりに神秘的な景色の連続に、じっくり写真は撮るは、GoPro7でアクティブな動画は撮るはで、結構時間が掛かります。

そうそう、先ほどから写真に登場しているのは、「弁慶七戻り」からご一緒した、若いカップル。ありがとね!!(完全にオヤジがデートの邪魔をしています)


■ てっぺん、取ったどぉーーー!! ■

何故、こんな無謀な登山を始めたかと言うと・・・筑波山の自転車で行ける最高点が、全然最高点で無いから。「てっぺん取ったでどぉおおーー!」って感じがイマイチしない。(ヤビツ峠もそうですが・・・)

そして、とうとう女体山の山頂、877mに到達です。標高だけ見ると大した事ありませんが、海抜の低い平野から独立峰の様な聳えているので、眺望は最高でした。梅雨時にこの景色が観れるなんて、幸運としか言いようが有りません。

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山頂の岩の先端は高所恐怖症の人には無理・・・

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関東平野が一望できます

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筑波山神社の本殿、筑波女ノ神を祀ります。格神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)

■ 自転車談義をしながらケーブルカー乗り場に降りる ■

山頂の手前から男性3人連れとご一緒します。会社の企画で十数名で筑波山に登られているとか。夏の富士山の小手調べだそうです。

お二人の方が、自転車にも乗られるそうで、ビンディングシューズでの登山に「大うけ」でした。色々、楽しい自転車談義をしながら、女体山と男体山の間の「御幸ヶ原」まで下って来ます。二つの峰の鞍部は、神々の乱〇パーティーの場・・・失礼、ディスコでした。

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御幸ヶ原・・・神々のパーティー会場

ここで、昼食にします。けんちんうどん、美味しかったです。後ろの席の大学生と思しき男子達が、「ウメー、おれ、こんなに美味しいカレー食べるの初めてだ」「オレも、こんなに美味しいうどんは初めて」って盛り上がってました。「君達、それは運動してお腹が空いているからだよ」と、心の中で呟きました。

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■ ゲコタ(GEKOTA)を発見 ■

ケーブルカーの時間まで間があったので、お土産屋さんを覗きます。すると・・・・GEKOTA(ゲコタ)を発見!!

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おみやげ屋さんに居たGEKOTA

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御坂美琴が大好きなゲコタ・・・『とある魔術師の禁書目録』より

ここで本日の目的を思い出しました。『とある魔術師の禁書目録』の聖地巡礼の最中でした。これで、目的が完遂出来ました。(そもそも架空の都市ですから、整地巡礼って無理なんですけどね)

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こんなカワイイ「GEKOTA」も沢山居ました


その後、2:00のモノレールで一気に拝殿の裏まで下ります。さすがに私えも、ビンディングペダルで山道を下るリスクは取りたくありません・・・。

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下山したら、おみやげ屋に、ゲコタのラスボスが居ました・・・・


■ ちゃんと「つつじが丘」までヒルクライムして来た ■

みやげ物屋に預けていた自転車に跨り、「さぁて帰るか!!」と大鳥居をくぐり、坂を下り始めますが・・・「おおーーーっと、ヒルクライムの途中だった」と引き換えします。

ここから「つつじが丘」という所まで登り坂がある様です。登山の後なので、キツイのか、キツクないのか分からない坂を、えっちら、こっちらと登ってロープウェイの駅のある駐車場に着きます。

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巨大なガマ仙人が鎮座していました・・・

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昔から不思議な「三船敏郎に似ている三流役者」みたいな看板・・・

売店で栃木からいらした、NAKAGAWAのクロモリロードの方と楽しくお話してから、筑波山を一気に下り、学園都市の「研究学園駅」から電車で浦安に戻ります。いつの、利根川から遠望する筑波山、遠いと思い込んでいましたが「低い」から遠く見えただけ。浦安から電車でも、結構近い事に気付きました。

距離的には帰りも自走できそうですが・・・翌日は月曜日なので、疲れを貯めない様にしないとね。

ところで、本日の本当の目的って何だっけ・・・・そうそう、増設したボトルケージが邪魔にならないかどうかの確認でした・・・。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2367.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c8

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
9. 中川隆[-11156] koaQ7Jey 2020年9月25日 15:39:09 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[30]
2019/5/8
東京-直江津 ワンデイライド  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2354.html#comment
 


■ 先にご褒美を買ってしまった・・・ ■


先日予告した浦安→直江津のワンデイライド。

コース中、「二度上峠」「軽井沢」「嬬恋」「菅平」と絶景ポイントや観光地を散りばめてみたので、写真を沢山撮りたい。でも、写真を撮っていると一日で直江津に着かなくなる・・・。

そんなジレンマを解消する為に・・・迷った挙句に、出発の前日に買っちゃいました。アクションカメラ、「GoPro hero7 Black」。

これをハンドルに取りつけて走れば、一々止まる事無く、雄大な景色を動画に収める事が出来ます。

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さらに、今回は3泊の小旅行の為、荷物が多めです。デイパックで背中に背負うと、肩がモゲそうになるので、今流行りの大型のサドルバックも購入しました。いわゆる「バイクパッキング」というヤツです。ついでに、トップチューブバックも購入します。

少し前まで2万円程度していた大型サドルバックですが、大手各社が参入した事で、価格破壊が起きました。今回はTOPEAK製をチョイス。8千円程でした。

さらに、安全ベスト、蛍光色の薄手のレインウエア、ヘルメットライトも購入して、完全にブルべスタイルで挑みます。「備えあれば憂いなし」 デス !!

■ 5月2日 午前0時、直江津に向けてGO!! ■

今回のコース、獲得標高は2600m越えで、二度上峠、鳥居峠、菅平と1300m以上の峠を3っつ越えた後に、長野県飯山から新潟に抜ける飯田街道の峠越えが最後に待ち受けています。

この最後の峠を日没前に通過したいので、ワンデイライドのお約束をちょっと前にズラシて、5月1日の午後21時に浦安を出発する予定でした。しかし、朝から雨が降ったり止んだりの天気で、結局、雨が小降りになるのを待って家を出たのは5月2日の午前0時。結局、正式なワンデイライドとなりました。

前回は川越を経由しましたが、今回は巣鴨からずっと国道17号を辿ります。これが最悪で、大宮市内を抜けるまで、信号がともも多い。さらには、見事に信号に引っかかり、なかなか先に勧めません。

結局、熊谷に到着したのは空が白み始める午前4時半頃。ここでコンビニ休憩をして栄養を補給します。

■ 向かい風になった・・・ ■

熊谷を過ぎると向かい風に変わりました。先が長いので、パワーを抑え気味に走行すると、時速25km/hを維持するのも難しい。

途中、新1蔓延札の肖像に選ばれた渋沢栄一の生誕の地の深谷を通ります。以前より、深谷市は渋沢栄一「オシ」でしたから、今回の選定は市を挙げて祝賀ムードでしょう。

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5:33

向かい風でペースを落としながらも、7時15分に高崎に到着します。

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7:15

高崎から先は、前回も通った草津街道(国道406号線)に入り、倉渕を目指します。ここで、ちょっとコンビニ休憩と補給。

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7:22


■ 房総・里見氏の出身地の群馬県の里見 ■

戦国時代、千葉県南部の安房地方を支配下に置いた里見氏の出身地は、実は現在の群馬県高崎市の上里見・中里見・下里見一帯です。

新田義俊(里見太郎)は里見の地を治めるに当たり、里見の姓を名乗ります。その後、里見氏は鎌倉幕府や室町幕府に仕えますが、戦乱の時代に没落します。その傍系の子孫が安房の国に逃れ、房総里見氏の礎となった。

下の写真は「下里見」の交差点と、その近くにある「郷見神社」。社格は村社ですが、里見氏の氏神だったのでしょう。

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8:06

おっと、いけない、観光ばかりか、こんな歴史探訪までやっていたら、とても直江津に到着出来ません。先を急ぎます。右手には榛名山がクッキリと見えます。

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8:19

ゆるい峠を越えて倉渕に到着します。ここの道の駅でちょっと長めの休憩を取ります。無添加の「干し梅」を購入します。前回はコレに救われました。

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9:00   142km 

倉渕から国道406号線を離れ、北軽井沢方面へ進路を変えます。標高1390mの「二度上峠」への1000mのヒルクライムが始まります。

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9:35

のどかな山村の中を道はゆるやかに登って行きます。フォトジェニックなスポットが沢山有って、その都度停車して写真を撮るので、なかなか先に勧めません。

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9:52

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10:02

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10:08

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10:10

だいぶ登った所で、「はまゆう山荘」が現れます。ここから先は冬季ゲートを抜けて本格的なヒルクライムとなります。コーナーに番号が着いていますが、頂上までのコーナの数である事は予習済。68からスタートしたと記憶しています。

荷物を積載した自転車の重量は15kg程度でしょうか。ただ、コンパクトクランクにしてあるので、傾斜がキツクなっても体重移動を利用したゆっくりなダンシングをすれば余裕をもって登れます。ロードバイクというよりは・・・荷役自転車に乗っている感じ・・・。

二人程、ヒルクライムの練習の方が、ヒラリヒラリと抜かして行きましたが、本日は後を追う事はしません。(重くて追えません)


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10:40

道は「いろは坂」の様なつづら折れとなり、グングンと標高を上げて行きます。

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11:22

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11:25

小さな沢が滝になっていたので写真を撮る為に自転車を降りて近づくと、突然、5m先ぐらいからカモシカが飛び出しました。どうやら水を飲んでいた様です。カモシカは急な斜面を、トントンと登っていってしまいましたが・・・つづら折れを登った先で、そのカモシカが道の近くに佇んでいました。多分、車道を越える事が出来なかったのでしょう。距離は20mも離れていません。今度はしっかり写真を撮る事が出来ました。

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11:29

永遠に続くかと思えたカーブもいよいよ「1」となり、「二度上峠」に到着しました。ここで、しばらく雄大な浅間山の眺めを堪能します。風がとても冷たいので、ウィンドブレーカーを着て下りに備えます。

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11:48

■ 軽井沢は庶民で混んでいた・・・ ■

一気のダウンヒルしてきた軽井沢に入ります。別荘が点在しますが、荒れたものも目立ちます。

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12:26

コンビニで昼食を兼ねて長めの休息を取ります。北軽井沢って、昔は「オシャレ」で「ハイソ」なイメージがあったのですが、コンビニは子連れの家族でごった返しています。なんだか、日曜日のショッピングモールのフードコートに似た雰囲気。

休憩を終えたら、嬬恋を目指して県道235号線に入ります。ここ、吾妻川沿いの406号線かに抜けるルートなので、結構車が混んでいます。県道だけに路面はボロボロで、パンクに注意を払います。

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13:10

荒れた路面に気を配りながら、長めの坂を下ると、国道406号線に大笹の交差点で行き当たります。

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13:32

■ ダラダラ登りと向かい風の鳥居峠 ■


406号線に入ってからは、吾妻川沿いを鳥居峠までダラダラと登り坂が続きます。ここで、向かい風に悩まされます。登りと風のダブルパンチで足を削られます。

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13:42

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13:51

嬬恋と言えばキャベツ畑。道端の畑にはキャベツの苗が整然と植えられています。

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14:08  約200km 

とうとう吾妻川の源流域に到達しました。クマザサの茂みの中の流れは、今は伏流となっている様です。群馬と長野の分水嶺になっている。

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14:40

程無くして鳥居峠に到着です。峠の向こう側は長野県上田市。

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14:42

峠をダウンヒルしてからしばらくして、県道182号線との分岐が現れます。ここを曲がると菅平に至ります。この分かれ道を見落とす人が多い様ですが、そうすると菅平への登り返しがキツクなるらしい。予習していて良かった。

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14:51


■ 菅平への登りは、高原の気配に満ちていた ■


この道、なかなかの傾斜ですが、本日はゆっくり登ります。途中、あまりに景色と鳥の囀りがキレイなので、しばらく立ち止まって休憩します。補給食のソイジョイを味わいます。写真ばかり撮っているので、本日はなかなか先に進めません。

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14:58

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15:11

けっこう登ったな・・・そう思う頃に菅平に到着。大学の合宿施設や、テニスコート、サッカーコートが点在する、イカニモな雰囲気。

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15:37

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15:38

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15:41

菅平を抜け、国道406号線に復帰すると、須坂・小布施まで豪快なダウンヒルが始まります。

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15:55


民家が現れると、傾斜はゆるやかになります。この辺りは未だ桜が満開でした。桜と鯉登という妙な組み合わせ。

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16:03

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16:07


■ 強い向かい風・・・これって何かの罰ゲームですか・・・ ■

須坂の手前から下り坂の傾斜はだいぶ緩やかになりますが、それにしてもスピードが出ません。原因は、向かい風。

5mを越える向かい風で、下り坂なのに下ハン持って必至にペダリングしないと15km/h程度の速度になってしまいます。

須坂の街は古い家が残っています。お腹が空いて来たので、「お焼き」を食べたかったのですが、ここは先を急ぎます。

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16:23


小布施に到着します。栗で有名な街です。一度も来た事が無いので、ちょっと寄り道します。

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16:46

栗のジェラートでも食べようかと思いましたが、もっとしっかり補給しないと飯山からの峠越えが辛くなりそうです。コンビニで長めの休息を取り、カップラーメンでしっかり空腹を満たします。ウィーダーインゼリーのストロングというのを見つけたので、これも胃袋に流し込みます。

小布施から先はやや下り基調の平坦ですが、中野市内、飯山市内と7mを越える向かい風が続きます。道端のショップの昇りが、自分の方に向けて豪快にバタバタははためく様を見ると、自転車を降りたくなります。それでも下ハンを持って、頭を低くしてグイグイとペダルを回します。

雪解け水で水量の多い千曲川を越えると、飯山市に入ります。風はやや穏やかになりますが、向かい風に変わりはありません。

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18:10


■ 最期の峠越えは暗闇の中 ■


飯山駅を過ぎて、長野に抜ける飯山街道(国道292号線)の入り口を捜します。千曲川の堤防の上には菜の花が咲いています。これ、野沢菜ですかね・・・。

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18:34

北飯山の先で、飯山街道に入ります。直江津までは後43km程度。ここからは最後の峠越えですが・・・どうやら暗くなり始めました。写真ばかり撮っていたので、1時間予定を超過しています。・・・いえ、向い風の影響の方が大きいかな。

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18:47

短いトンネルを潜ると、道は登り坂になります。これから300m弱のヒルクライムです。登りはじめてしばらくすると、空の完全に暗くなり、ライトの光だけが頼りになります。ときおり通り過ぎる車のライトで、先の方向が分かります。

左側からは川の音が聞こえて来ます。明るいうちに通れば、それなりの景色が楽しめたハズですが・・・。

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18:57

2つ程、トンネルを通過しますが・・・・ちょっと不気味です。

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19:18

トンネルを越えると道は本格的な下りに入ります。これから直江津まで600m程標高が下がります。真っ暗な中でのダウンヒルは超スリリングです。大光量のライトを付けているとは言え、車のヘッドライト程は先が見通せる訳では在りません。せいぜい、15m先の白線が見える程度。

最初は慎重に下っていましたが、真っ暗な山の気配に圧倒されて、速く人の世界の明かりのある場所にたどり着きたくて、スピードを上げます。慣れて来ればゲーム感覚で結構面白い。

ただ、先ほどからウィンドブレーカーを着ていても寒い。本当は一度停車して、防寒ウェアーとフルフィンガーのグローブを着けたいの所ですが・・・暗闇で停車すると・・・何か出て来そうなので、怖くて停車出来ません。


ようやく、民家がポツポツ現れて、傾斜も緩むと、コンビニの看板が見えて来ました。「コンビニが有る」という安心感と言ったら・・・地獄で仏に出合ったみたいでした。

コンビニと到着が20時頃だと記憶しています。

カップラーメンで暖を取り、しばらくコンビニ内で体を温めます。サイクルジャージとウィンドブレイカーの間に冬用のインナーを着こむと、だいぶ寒さを防げました。さて、グローブを冬用と交換しようと取り出すと・・・なんと左手用が二個出て来ました。ヤッチマッタ・・。

仕方無く、薄手の方を右手にはめますが、立体裁断なので、握る方向が逆側に力が掛かりますが、えない事も無い・・・。

しばらく進むと国道18号に入ります。イヤー、さすがは土木大国の新潟の国道です。バイパス
路肩も広く、走り易い。風向きもやや追風に変わったので、30km/h以上のスピードが復活します。


ただ、土地勘が無いので、道を何度も間違えます。18号を直進すれば良いのの、妙高高原駅の看板や、直江津市街の看板に何度も誘われて、18号を離脱しては、スマホで道を確認して18号に復帰する事を繰り返します。

■ 詰め方が悪いとサドルバックが下がって来る ■

そのうち、後輪からシャー、シャー、シャー、シャーと音がして来ます。路肩に自転車を止めて確認すると、コンビニでのパッキングが悪かったのか、サドルバックが降臨と干渉しています。

仕方無く、18号を降りて、パッキングをやり直します。ここからは地図と勘を頼りに直江津どうにか辿り付きました。


直江津駅到着

到着時刻    21時50分 (トータルタイムとほぼ同等)
走行距離    298.9 km
メーター読みAV  18.5km/h
走行時間    16時間07分

本当は直江津港まで行く予定でしたが、チェックインの時間も気になるので、本日のライドはこれにて終了とします。


20時に到着する予定が2時間超過してしまいました。向かい風で1時間、道に迷って1時間程度のロスタイムがあった感じでしょうか。


明日は富山に向けて走る予定ですが、ゆっくり走ったので、充分に余力が残っています。残念なのは到着時間が遅かったので、夕飯がコンビニ弁当になってしまった事。

ホテルの部屋に入ったら、速攻でシャワーを浴びて、ウェアーを洗濯して備え付けのタオルで水ケを取ります。

ビールを二本買ったのですが・・・1本飲んだ所で寝落ちしました。


よく頑張った、53歳のオレ!!


翌朝に直江津駅を撮影しました。

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2354.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1048.html#c9

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎

ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 伝説はかくつくられる。
日本の闇 / 2013-10-12
https://blog.goo.ne.jp/luca401/e/1ed1a90a7eed19075ee9fdde16116c47

吉田茂の暗号名はヨハンセン その吉田に影のようにつきしたがっていたのが白洲次郎

→ こちら 
 https://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2152


“マッカーサーのペット”だった吉田茂をなぜ、今、あらためて英雄扱いするのか。その背後には米国政府をも動かす“奥の院”の存在があることを私たちは知るべきなのだ。

そもそも、吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。

吉田茂の出自を見れば、この男が“奥の院=ロスチャイルド”と繋がっていることが分かる。

吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国 大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任 した。

養父・吉田健三とは何者か?ここがポイントなのだ。吉田健三は英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげた。ジャーディン・マセソン商会は国際巨大財閥ロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。

富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。吉田茂の妻は牧野伸顕伯爵の長女・雪子。

雪子は米国駐日大使ジョゼフ・グルーの妻アリス・ペリー・グルーとは幼馴染みであり、アリスから世界経済や政治についてレクチャーを受けていた。実はアリスはペーリ提督の末裔にあたる。このアリスから雪子をはじめ昭和天皇の母である九条節子と秩父宮妃でもある鍋島伸子の娘3人はロスチャイルド=モルガンの情操教育=洗脳教育を受けていた。アリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と麻薬売買で富を築いた悪名高きキャポット一族である。

吉田茂は妻の雪子を通じてロスチャイルド=モルガンに寵愛され、出世街道を上昇していく。ちなみに雪子は麻生太郎元首相の祖母である。

前述の通り、吉田茂は“日本最大の売国奴”だった。米国にとっては最も便利な男だった。その功績で、トルーマン米大統領とマッカーサーの決定で戦後最長の長期政権の首相になったことは言うまでもない。

では 白洲次郎とは....

     確かに鼻は日本人離れ

180センチ以上だったそうです。

→ こちら

。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?


白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。これはドイツにロスチャイルド家と並んでウオーバーグ家というのが二大財閥でいます。ロスチャイルド家と一時同じくらいの力がありました。そのウオーバーグ家から息子たちがドイツから、長男と次男が残って、ジークムントという従兄弟がイギリスに渡ります。そしてポールという弟がクーン・ローヴ商会という所へ行って、そこの娘と一緒になります。ポールはFRBを創る男ですね。


ジークムントはS・G・ウオーバーグという金融会社を作り、国際金融システムの一員となるんです。その当時ロスチャイルドと対抗できるくらいの金融家にイギリスでなるわけです。その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブに出入りしていたと。貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。

そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。


白洲次郎はユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。戦時中赤紙召集をごまかしてもらい安全地帯に隠れていたくせに、戦後占領期に颯爽と登場するや、吉田茂の私的外務大臣として、あるいは終戦連絡局次長としてその特権を最大限に濫用した男である。商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、商工省の大臣・次官に一切関与させず、吉田首相と謀略を練り、外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。

白洲次郎とは何者か。
吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男である。2・26の時から抹殺される要人は決定されている。戦後占領期までに昭和天皇と吉田茂の邪魔になる要人はことごとく排除された。この中に山本五十六や近衛文麿が入る。
吉田茂&白洲次郎のコネクションには牛場と松本の他に、寺崎兄弟、奥村勝三、辰巳栄一、中曽根康弘、正力松太郎がいる。寺崎英成と奥村勝三は真珠湾攻撃を騙まし討ちにする工作をした後、戦後になって昭和天皇・マッカーサー会談で通訳として再登場する。このようにコネクションのメンバーは重要な場面でリサイクル活用されている。

白洲がマスコミを賑わせ始めたのは19050年代、吉田内閣の頃だ。前著を書くに当たり当時の記事に一通り目を通してみた。驚いたのはキャラクター・アサッシネーション(人格抹殺)とすらいえる批判の連続だった事だ。「傍若無人」を初め「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」「ラスプーチン」と言葉が並び、露骨な個人攻撃もあった。半世紀で評価が逆転してしまったのだ。白洲本人が逆転させる謀略を図ったのである。

吉田茂が退場すると白洲次郎も表舞台から消える。
そしてワンマン宰相と風の男の伝説が捏造され『史実』となったのである。

https://blog.goo.ne.jp/luca401/e/1ed1a90a7eed19075ee9fdde16116c47
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
1. 中川隆[-11155] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:16:22 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[31]
ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない
2015年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846


ネットでは、いか@さま情報が横溢している。

おいらの愚ブログは、価値判断、認識では、かなりキチガイではあるが、事実関係は、案外、まともである。

いや、事実関係だけは、まともにしようと心がけているつもりではある。

なぜなら、キチガイな価値判断、認識だけでは、誰も読まなくなるからである。

もちろん、事実に基づかない「事実」は、ちゃんと、暗示している。

そして、確かな事実を、奇を衒って、表すことがある。読み手のリテラシーを高く見積もっているのだ。

例えば、「石ころの半分は酸素であり、残りの半分以上はシリコンだ」!

そんなおいらの衒奇記事を引用してくれた御方(決して、保守でもなく、ましては、愚ブログのように、ウヨでもない)が、引用していた情報=吉田茂が「CIAのエージェント」;


https://twitter.com/matu923/status/664007377578930177

そして、そのソース;

日本の中のCIAエージェントその1
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=309206&g=132108

そのソース:; http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b

いや、いや、全然、全くの事実誤認。

コードネーム・「ヨハンセン」は、大日本帝国陸軍の諜報機関が、吉田茂に付けたコードネーム。

CIAとコードネーム・ヨハンセンは、全く、関係ない。

⇒ 愚記事:大磯 「ヨハンセン」邸炎上、参照のこと。

   ⇒ ⇒ wikipediaも参照のこと; ヨハンセングループ

確かに、戦後ぬっぽんは対米従属下にある。 文書公開で、 愚民党 自由民主党は組織的にCIAから資金援助を受けたことがあることが判明している(google)。

でも、吉田茂や岸信介のCIAコードネームは、未だに、確認されていない。

(なお、CIAが名づけ親ではないが、コードネームが公知なのは、彼だ!)

CIAコードネームが確認されている有名人は、正力松太郎、緒方竹虎、賀屋興宣などである;

有馬哲夫、『CIAと戦後日本』より;

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c1

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
2. 中川隆[-11154] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:19:49 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[32]
大磯 「ヨハンセン」邸炎上
2009年03月22日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/0b79c0919f23ffee147d1ea6d6925b58


- - 袴を穿いた「ヨハンセン」は、ほんとに太っていた。 小さくもない荷台であるが、その荷台にはみ出るのである。

 生まれて初めての自転車乗りである。 いつ転げるかわからない。油の切れた「チェーン」は「キチキチ」鳴った。それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。これからずっとこの自転車が、戦争中における乗用車になった。- -

東輝次、『私は吉田茂のスパイだった』より。

https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E8%AC%80%E5%A0%B1%E5%93%A1%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E5%85%89%E4%BA%BA%E7%A4%BENF%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%B1-%E8%BC%9D%E6%AC%A1/dp/4769826001/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1237718251&sr=1-1


■この元スパイの話が本当だとすれば、吉田は67歳にして生まれて初めて自転車に乗ることに挑戦したことになる。「それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。」って、目に浮かぶようである。

■Amazon 私は吉田茂のスパイだった―ある謀報員の手記は、いわゆる「陸軍中野学校」出身の東輝次さんという人が、終戦工作をしているだろう吉田を監視するため、書生になりすまし、大磯の吉田に住み込み工作をしていた、という自己記録。

ヨハンセンは陸軍兵務局防衛課がつけた、吉田茂のコードネーム。

■この本によると、東輝次は大礒から吉田が出した手紙をすべて写真に撮り、その上再封印して配送していたといっている。

そして、あの近衛上奏文草稿を軍は落手したと東輝次は回想している。ただし、この『私は吉田茂のスパイだった』にはそこのところが2行しか書いておらず、詳細は全然回想されていない。

吉田は昭和20年4月15日朝、憲兵隊に拘束される。上記の近衛上奏文に関する嫌疑。

吉田は5月31日解放。東輝次は書生をやめる。

▼戦後、東輝次は吉田に会い、工作員であったことを告白。「吉田はしばらくは茫然としていた」。

●火災:旧吉田茂邸、ほぼ全焼…不審火か 神奈川・大磯

 22日午前6時ごろ、神奈川県大磯町西小磯の吉田茂元首相の旧邸が燃えていると119番があった。県警と町消防本部によると、木造2階建て住宅約890平方メートルをほぼ全焼した。午前8時半現在、建物はほぼ焼け落ち、周囲の樹木に火が移り消火活動が続いている。今のところ、けが人の情報はない。建物は普段無人で火の気がないことから、県警は不審火とみて出火原因を調べている。

 県警や町サイトなどによると、今は約3ヘクタールの敷地に総ヒノキ造りの建物と庭園がある。人は住んでいないが、敷地入り口に普段は警備員がいる。

 町郷土資料館のサイトによると、旧吉田邸は吉田茂元首相(1878〜1967年)の養父が1884(明治17)年に別荘を建てたのが始まり。戦後、自邸として使うようになった際、日本芸術院会員だった建築家、吉田勝五十八氏に設計を依頼し建て直した。首相辞任後も元首相が亡くなるまで多くの政財界人が訪れ、戦後政治史の貴重な舞台となった。79年には大平正芳元首相とカーター元米大統領の会談が開かれた。

 県警や町サイトなどによると、元首相の死後69年から西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)が所有。県が建物の寄付を受けて県立都市公園として整備する方針。普段は一般公開されておらず、町が開く見学会などで年数回見られる程度だった。22日は午後、県や町などが企画した庭園めぐりで公開予定だったが、火災を受け中止が決まった。【五味香織】

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/0b79c0919f23ffee147d1ea6d6925b58
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c2

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
3. 中川隆[-11153] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:22:09 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[33]
ヨハンセングループとは、第二次世界大戦末期の日本で活動していた吉田茂(のちの首相)を中心とする戦争終結工作グループ。1945年4月に憲兵隊により検挙・逮捕された。


「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊当局の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。このグループは主旨・参加者などが明確な組織として存在していたわけではなく、それゆえ範囲も曖昧である。

経緯
グループの形成
外務省退官(1939年)以降浪々の身であった吉田茂は、1941年12月の日米開戦以前から、「親英米派」として開戦の回避をはかり、開戦後も岳父の牧野伸顕(同じく親英米派の重臣の一人)や元首相の「コーゲン」[1]こと近衛文麿、外務次官時代の上司の「シーザー」こと幣原喜重郎や「ハリス」こと鳩山一郎らと連絡を取り、樺山愛輔(実業家)・原田熊雄(元・西園寺公望秘書)らとともに、東条内閣の倒閣運動や戦争の早期終結を目指す工作を進めていた(さらに米内光政らの海軍「穏健派」までそのネットワークはひろがっていたとされる)。しかし、当然このような動きは陸軍当局・憲兵隊からは反軍部工作(および米英への通牒工作)とみなされ、「ヨハンセングループ」という呼称で牧野・近衛らとともに厳重な監視を受けていた(当時、平河町の吉田本邸および大磯の別邸には男女3名のスパイが潜入し、諜報活動に従事していたが吉田はこれを察知していなかった)。

「近衛上奏文」への関与
1945年に入り敗色濃厚となった戦局を憂慮した昭和天皇が、首相経験者の重臣を次々に参内させるようになると、吉田は近衛文麿の参内を通じて天皇を戦争終結の方向に動かそうと考え、2月12日参内のため上京した近衛との協議の上、いわゆる「近衛上奏文」を作成した。当時、吉田および近衛は陸軍(特に統制派)を「親ソ」とみなしていたため、上奏文はこれ以上の軍部独裁と戦争が続くならば日本が共産主義化するであろうと予測し、「国体護持」のため一刻も早い軍部勢力一掃と戦争の終結を天皇に訴えるものであった。近衛は2月14日参内して天皇に拝謁しこの上奏を行ったが、その前日13日、吉田に上奏文の草稿を示し、牧野伸顕に内容を知らせるため写しを取るよう指示していた。

逮捕、そして釈放
しかしこの「写し」の存在は先述のスパイにより陸軍および憲兵隊当局に筒抜けになっており[2]、4月15日、東部憲兵隊司令部は近衛上奏文の内容流布および陸軍当局の「赤化」中傷などをもって陸軍刑法第99条違反(「造言飛語」罪)とみなし吉田を逮捕、同時に近衛の秘書である殖田俊吉とジャーナリストの「イワン」こと岩淵辰雄も逮捕され、近衛・原田らも取り調べを受けた。大谷敬二郎憲兵隊司令官は吉田らに続いて原田・樺山・小畑敏四郎さらには近衛・牧野の逮捕も狙っていたとされるが、実際には吉田らの逮捕を通じた、体制内「反戦平和派」への恫喝に止まるとみられている。

したがって「造言飛語」罪による吉田らの立件はかなり無理があったため、結局のところ憲兵隊は吉田ら3名の容疑を立証することができず、5月2日、阿南惟幾陸相の裁断により吉田は不起訴処分となった。彼はその後5月25日の空襲で代々木の陸軍刑務所が焼けたため、仮の陸軍刑務所となった八雲小学校に5日ほど収監されたのち釈放された。

歴史的評価
吉田茂は奉天総領事在任時代(1925年〜1927年)に満蒙分離など対中国強硬策を唱えるなど(対米英協調の枠内ではあったが)、必ずしも「反戦的」外交官ではなかったにもかかわらず、第二次世界大戦後、GHQから「穏健派」政治家として高く評価されていたのは、開戦以前の駐日アメリカ大使グルーとの親交のほか、ヨハンセングループ事件による逮捕が大きく作用していたと言われる。

なお、ヨハンセングループによる終戦工作の具体化は「近衛上奏文」作成への関与に止まっているのであり、戦後、吉田の反軍部的側面を強調する吉田支持者と、吉田(および近衛・牧野)らが米英と密通していた(実証のない「陰謀論」である)とする批判者の双方によって、その活動が実体よりも過度に誇張されている面も否定できない。

注釈

^ 当局による暗号名。以下同じ。
^ 陸軍の兵務局と軍務局で逮捕する案を出したが、小磯内閣の杉山元陸軍大臣は署名しなかった。小磯内閣が退陣して鈴木貫太郎内閣になって、阿南惟幾陸軍大臣が署名したという。

参考文献
原彬久 『吉田茂 - 尊皇の政治家 -』岩波新書、2005年 ISBN 4004309719
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c3

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
4. 中川隆[-11152] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:41:23 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[34]
吉田茂の外交官時代

当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[6]。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満州事件以後もその点で一貫していた[7]。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官[2]に就任する[注 2]。

但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[注 3]。統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた[9][10]。1936年(昭和11年)は、二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利などにより成功しなかった。

日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[11]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[注 4]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[11][2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c4

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
5. 中川隆[-11151] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:46:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[35]
吉田茂はCIAのスパイだった?衝撃的な都市伝説がささやかれる理由


CIAの紋章

吉田茂は、歴代最多である5期も総理大臣を務めた大物政治家です。
とくに敗戦後の日本の主権回復や復興に大きく貢献したと、政治・歴史の専門家からも評されています。

しかし吉田はそのいっぽうで、アメリカの諜報機関「CIA」のスパイだったという都市伝説的なうわさをもつ人物でもあるのです。
その理由となっている話を3つご紹介しましょう。


日本をアメリカの支配下に置こうと画策?
第二次世界大戦で敗戦した日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれていました。
その状況下で総理大臣になったのが吉田茂です。

GHQに対してひるむことなく、対等にわたりあった吉田はサンフランシスコ講和条約を締結し、「戦争の終結」と「国の主権の回復」を約束させました。
この功績から吉田は、日本を独立国家として復活させた立役者とされています。

しかしサンフランシスコ平和条約が結ばれるのと同時に、ひっそりと締結された条約がもうひとつありました。
日本にアメリカの軍隊が留まることを認める、日米安全保障条約です。

サンフランシスコ講和条約には吉田を含む日本の政治家6名が調印しているのに対し、日米安全保障条約に調印したのは吉田ひとりのみでした。
つまり日米安全保障条約は、吉田が単独で結んだ条約ということになります。
この事実が「吉田はCIAのスパイだったのでは?」といううわさの一端を担っているようです。

日米安全保障条約を結んだことで、アメリカ軍の日本駐留が決定しました。
主権回復後も米軍を配備し、実質的に日本がアメリカの支配下に入るよう、スパイである吉田が画策したと考えられているわけです。

日本の国策を密告?


第二次世界大戦下では、日本やドイツを含む枢軸国側と、アメリカやイギリスを含む連合国軍が衝突した太平洋戦争が起こっています。
太平洋戦争直前の日本とアメリカは外交が上手くいっておらず、アメリカが日本への石油の輸出を全面的に禁止するなど関係が悪化していました。

そのような状況のなか、天皇も出席する「御前会議」がとり行われます。
この会議では、アメリカと関係回復に向けて交渉をすること、そしてその交渉を続ける期限が設定されました。
いっぽうで、期限を過ぎて交渉が決裂した場合は「米英に戦争をしかける」という日本の国策も決定していたのです。

吉田は御前会議での上記の内容を、アメリカの駐日大使であるジョセフ・グルーにくわしく伝えていたとされています。
日本の国家機密をアメリカ側にリークしていたのが事実であれば、吉田がCIAのスパイだと考えてもおかしくはありません。

実際に吉田はCIAとの関係を疑われ、一度逮捕されています。
しかし十分な証拠がなく、1カ月半ほどで釈放となりました。
吉田が本当にアメリカと繋がっていたかはわかりませんが、密通の容疑をかけられたことは事実なのですね。

側近がCIAと接触
総理大臣となった吉田の側近に「辰巳栄一」という人物がいます。
辰巳は陸軍に在籍していて、戦後は吉田の軍事顧問として日本の軍隊の再編制などに尽力しました。

この辰巳栄一がCIAとつながりを持っており、日本の内部情報をCIAに譲渡していたことが2009年に明らかになっています。
米国立公文書館で発見された文書に、辰巳は「POLESTAR-5」というコードネームで呼ばれ、CIAを経由してアメリカに情報を渡したと記されているのです。

辰巳がCIAに流していたのは、おもに自衛隊や内閣情報調査室の創設に関する情報だったといいます。
辰巳は吉田の側近ですから、辰巳が情報提供していることを吉田が知っていたとしても不思議ではありません。

もし情報の譲渡を黙認していたのであれば、吉田がCIAのスパイだったという話も少々リアルに感じられるのではないでしょうか。

日米安全保障条約にひとりで調印したことや、側近がアメリカへの情報提供者であったことから、吉田茂のCIAスパイ説が浮上したようです。
あくまで都市伝説レベルの話ですが、もし日本の総理大臣がCIAのスパイだったのなら、かなりショッキングな事実といえますね。

https://rekisuta.com/present-day/yoshida-shigeru/cia-spy/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c5

[番外地8] 英米に洩れる機密事項
そもそも吉田茂はスパイ容疑で日本軍に逮捕されているだろ。吉田茂が単独でスパイをやる訳ないから昭和天皇が命令している。近衛文麿を殺したのも吉田茂単独でやる筈ないんだよ。:
太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。

英米に洩れる機密事項

 憲兵が、吉田茂を検挙するに至ったのは、彼が近衛上奏文案を書きとったという一片の資料だけではなかった。

 思えば、彼が我々の視察線に浮び上ったのは、昭和十四年頃からのことである。
 私が、東京憲兵隊の特高課長になったのは、昭和十三年三月だったが、その翌年、つまり十四年の始め、私は国内防諜に関し、一つの指示を与えたことがある。
 それは、その頃、国の秘密事項がよく外国公館に入っている。

 たとえば議会における秘密会において軍の作戦事項が報告されると、その内容は、もう翌日には英米公館で握ってしまっている。
 これはどうも、政治家というか、政治上層部の一部の人々が洩らしているものと察せられたのである。
 だから、私は、この議会会期を通じ、こうした経路を現実につかむことを部下に命じたのであった。
 そこで問題となるのは、いきおい親英米的な政治家、外交官といったところが、着目されることも当然なことといえよう。
 この議会会期中は、外国公館に出入りする政界要人たちが、かなり憲兵偵謀の目標になったはずである。
 そしてこの偵謀では、これらのすっきりした線は出なかったけれども、大体において、人の関係はつかみ得たことであった。
 たとえば、原田熊男男爵や樺山愛輔伯爵のごときも、この線に浮んできた人々であった。
 たしか、昭和十五年一月に米内内閣が誕生したのであったが、この場合、組閣の大命降下はまったく予想もつかぬものだった。

 多くの練達の政治記者も、すっかり的が外れて、大慌てにあわてたものだった。
 ところが、この米内内閣説が、事前にイギリスの『ディリー・メール』紙に載ったとの確実な情報が入手され、しかもそれは確認された。
 こうなってくると、そこには必然に英米との密絡をもつ、しかも重臣層となんらかの脈絡があるものと推断が下された。
 西園寺公の政治秘書として、組閣に暗躍していた原田熊雄男爵のごときは、大きく我々の前に浮び上ってきたのである。

 原田男爵にたいする偵諜は、熱心につづけられていたが、その結果、彼のメモの一部入手に成功した。

 原田男は人も知るように西園寺公の唯一の政治秘書、元老に情報を提供するという意味があったものか、およそ国家のいかなる機関も、彼だけには重要な国家秘密事項が洩らされていた。

 彼は、これを大学ノートに克明にメモしていたのである。
 これが後にいう、いわゆる、原田日記のタネ本になったわけである。
 原田男に対しては、彼の防諜上の容疑について憲兵隊に出頭を命じ、私から厳重に警告を発したこともあるし、また樺山伯に対しても、防諜上、外人との遮断工作までしたことがある。

 ともかく、我々は原田メモの一部を入手したことによって、吉田茂が、近衛公を中心とする各重臣間に暗躍し、一方、大磯別邸におってクレーギー英大使、グルー米大使らと会談している事実も明らかになったので、吉田、原田、樺山らの親英米分子にたいしては、たえず憲兵隊の鋭い目が注がれていたのであった。
 私は、昭和十六年春、東京を去ったけれども、東京憲兵隊外事課は、防諜上の見地から、こうした人々にたいして、ずっと監視の眼を離さなかった。

 吉田茂についていえば、麹町の本宅や、大磯の別宅にも、憲兵の視察網が張られていたのであった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/407.html

[近代史4] ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 中川隆
6. 中川隆[-11150] koaQ7Jey 2020年9月25日 17:16:29 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[36]
吉田茂逮捕の真相
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani3.htm#0

  近衛文麿上奏文案  私が憲兵隊に連行されたのは、たしか四月(昭和二十年)中ごろのことであったと憶えている。

 大磯の私宅から連れて行かれる自動車の中で、召喚される原因は、多分前述の秋月翁の潜水艦の一件だろうと想像していた。

 ところが、九段の憲兵隊での取調べは、秋月翁のことには一切触れない。
『二月に近衛公が内奏した詳細な内容を貴殿は承知しているはずだから白状しろ』
というのである。これにはいささか見当が外れた。

 しかし私はこの憲兵隊での取調べでは一切答えないことに吐を決めた。旧憲法ですら、親書の秘密が保証されていたから、内奏文の内容を話す必要はいささかもないと考えた。

 今流でいう黙秘権を行使したわけである。……
 私は当時鈴木貫太郎総理や阿南陸軍大臣とは懇意の間柄であったから、まさか死刑にはせんだろうと多寡をくくっていた。
 阿南君とは陸軍次官時代、その官舎が平河町の私の隣組で、朝の散歩の途中などで良く出会ってやあやあと声をかけあっていたし、私に少からず好意を持っていてくれたようだった。
 九段の憲兵隊の取調べは厳重でも、取扱いは至極丁重だったのは、阿南君の差金であったように思えた。……
 九段の憲兵隊で二週間過した私は、泥棒諸君とともに、今度は代々木の陸軍衛戌監獄に移された。
(新潮社発行、吉田茂著『回想十年』より)

1 吉田茂検挙の影響をおそる

 敵機の空襲に、重苦しく明け暮れていた帝都にも、春は訪れる。
 焼け残った燻しの桜も、ようやく生気をとり戻して、ふつくらとしたつぼみを抱いている。
 お濠端の柳も、その青い芽を、キラキラときれいな水に影をうつしていた。
 「もう、春が来たか」
 思わず、こう独言した私は、椅子から立ち上って、開け放しの窓から初春の空気を胸一杯吸った。
 昭和二十年三月下旬の、ある朝のことである。
 けたたましく電話が鳴る。憲兵副官からだ。
 「司令官がなにか協議かあるそうですから、すぐ、司令官室にお出で下さい」
 憲兵司令官室は、二階東側の奥まったところにある。
 その入口は固く閉ざされて、吉田茂一派の検挙につき、討議が行われたのであった。

「吉田茂を検挙すること自体は、さまで問題ではありませんが、その影響の及ぶところは、まことに重大であることが注意されねばなりません。
 吉田は、岳父牧野伸顕に、近衛上奏をこまかに物語っているようでありますし、またこの事件は、もともと近衛公の言動から発しておりますので、必然に、同公にまで及ばなければ収まらないことも予想されます。
 したがって、吉田を検挙することは、いきおい牧野伯や近衛公に発展することを考えなくてはなりません。
 果して、今の陸軍に、そこまでの決心ができているでしようか。
 東条政権時代、憲兵の行過ぎは、お上(天皇陛下)にも不快に覚えさせられ、かって、東条総理に憲兵の運用について、御注意があったと聞いています。
 憲兵が吉田茂一派を検挙し、取調べの進展につれて、たとえ参考人としてでも、牧野や近衛を訊問するとなれば、それはお上の側近にまで手をつけることになります。
 元来、陸軍といっても中央部のことですが、その中央部の動き方には、重臣方面は、つとに愛想をつかしています。
 恐れ多いことですが、私の判断では、お上も御同様だと仰じます。
 この場合、東京憲兵のこうした動きは、単に憲兵だけの問題ではなく、全陸軍の問題となりましよう。
 また、陸軍が無茶のことをやり出したとして、上層のひんしゅくを買うことは、軍の戦争遂行に大きなマイナスとなることを惧れます。
 そこで私は、陸軍にこうした状勢の見通しにおいても、なお、かつ、これを決行するだけの強い意思があるかどうか。
 さらに、最近における、お上の陸軍に対する御気持といったものを、はっきり見定めておかなくては、この問題は、軽々に取上げることはできません」
 これは、吉田茂検挙についての討議における私の発言要旨である。
 この朝、陸軍省からもたらされた一片の資料、それはあとで明らかになるであろうが、近衛上奏文を、吉田茂が書きとったものの写真数葉を前にして、大城戸(三后)憲兵司令官、石田(乙五郎)憲兵司令部本部長、それに東部憲兵隊司令官だった私の三人が、吉田茂検挙問題の取扱い方を討議したのだった。
 この資料がどこから出たものかは、私はここに公言することをはばかる。ただ陸軍省の入手したものであることはまちがいのないところである。
 そして、陸軍省事務当局は、これによって、吉田茂の検挙を憲兵に要請していたのだった。
 この討議においては、いろいろと議論はあったが、実施部隊長たる私の前述の意見にもとづいて、憲兵司令官自ら、右の二点を陸軍について訊した上、さらに、憲兵としてこれを着手するかどうかを決めることになったのである。
 さて、憲兵司令官が杉山陸軍大臣、梅津参謀総長について糾(ただ)したところ、陸相は、
 「それが何人であろうとも、悪い者をたたくのに躊躇はいらない。真に犯罪の容疑があり、それが陸軍に不利であるというならば、徹底的に追究することになんらの考慮はいらない」
 と、たいへん鼻息の荒いものがあったし、また、
 「たびたびの戦況上奏には、お上は、いつでも将兵の上に思いをかけられ、御嘉尚(ごかしょう)の御言葉をいた
だいている。
 過般の硫黄島の玉砕にしても、陛下は御目に涙をためられ、第一線将兵の忠誠を激賞しておられる。
 決して陸軍に対して悪い御気持など感じておられない」
 ということであった。
 ただ一度、こういうことがあったという。
 「確か、二月頃のことと思うが、参謀総長が上奏にまかり出たときには、陛下の御気色がいつになくお悪いので、総長は恐縮して引き退ったが、なにか陸軍について御不快のことがあっだのではないかと案ぜられたので、帰途杉山陸相に会って、陸軍になにか問題でもあったろうかと訊ねましたが、陸相は何にもないというし、また、その後陸相はしばしば上奏に拝謁していることであるので、もし、何かあったとしたら、必ずその際、お上より御注意をいただいているはずだ。
 それが、何もなかったというのであるから、これは陸軍に関することではなかったのであろう」と。
 さて、陸軍としてこの問題に強い決意をもっているならば、我々としては何も躊躇するところではない。
 そもそも、吉田茂及びその一派の反戦和平策動については、いつかは手を打たねばならぬことであった。
 彼の親英色は身にしみついていたし、この戦争には、はじめから反対だったので、あくまでも非協力態度を一貫していた彼であった。
 後述するように、彼は防諜上、憲兵の要視察人物だったので、その行動にはたえず憲兵の鋭い目が光り、容疑資料もずっと収集されていたのである。
 かくて、我々は、吉田茂一派の検挙を決意したのであったが、私はこの機会に一言つけ加えておきたいことがある。
 それは、この事件を命令し指揮した私は、はじめからこの取扱いに臆病だったということである。
 なぜなれば、私は、いわゆる東条憲兵の、あのきびしい非難のあとをうけて任に就いている。
 「また、憲兵が無暴なことをやりだした」
 「また、陸軍が憲兵を使って弾圧を始めだした」
と、世の人の口に上ることは、いたずらに、この戦争遂行を困難にするものだと、固く信じていたからである。
 だから私は、吉田茂検挙によって、憲兵というよりも陸軍の信を墜してはならないと、強く考えていた。
 何もこの事件を政治的に取扱う気持は毫もないが、この吉田弾圧によって、世の反戦和平派に警告を与えることになれば、それはもはや我々の目的を達したもので、それ以上、あえてこれを徹底して追及することは、いたずらに軍の最後のあがきだとの不評を受けるのみだとしていたのである。
 したがって、この事件の処理が不徹底であることは、十分に自覚しているのである。
 誰れが見ても、竜頭蛇尾の感をもつことであろうが、実はこうした気持が、指揮官たる私につきまとっていたからである。
 なお、梅津参謀総長いうところの、お上の御機嫌が悪かったということは、この事件にまったく関係のないことではなかった。
 ついでながらここに、これを明らかにしておこう。
――もちろん、それはあとでわかったことだったが――。
 二月のある日、参謀総長の上奏のあったのは、実は近衛上奏のあとだったらしい。
 近衛は速やかなる和平を献策し、この場合、赤化せる陸軍の一部とこれに合体する国内潜在共産勢力がもっとも危険であることを進言しているのであるが、この上奏のあと、お上は近衛に対して、
「梅津参謀総長は、陸軍が入手した情報として、もし敗戦ともなれば、アメリカは、日本の皇族を抹殺するであろう。
 したがって国体を護持するため、徹底抗戦より途がないといってきているが、これについてどう思うか」
 との御下問があった。近衛は、
 「それは陸軍の情報のことで、私などがかれこれすべきではないと思いますが、しかし、私には、そうした情報は信じられないものがあります。
 アメリカにも、日本を頬るの士が多くいることでありますし、ことに、かっての駐日大使グルーのごときは、日本では皇室が厳として存在しなければならぬことを、よく知っております。
 これは、私が考えたところでありますが、彼が帰国にあたって、高松宮から御銭別の御下賜品が送られましたとき、グルー夫妻はわが皇室の知遇に、泣いて感激したということであります。
 だから、アメリカにもこうした知日家が存在する限り、かようなことはよもやあるまいと存じます」
と奉答したといわれていた。
 すなわち、こうした近衛公の上奏と、そして御下間奉答のあとに、梅津参謀総長が参内上奏したのであった。
 総長の上奏した情報に御疑問をもたれていた陛下が、近衛公の奉答に御満足であられたと思われるのであるが、その直後に当の総長が拝謁に及んだので、お上の御気色ことのほか険しく遊ばされたものと思われたことであった。
 陸軍首脳部の、このような甘いものの見方は、終戦時における数々の天皇の御言葉によって、明らかにその迂潤(うかつ)さというより、思い上ったうぬぼれを打ちたたかれたわけであった。
 だから、困難な戦争遂行に当って、戦争指導の中枢たる大本営幕僚が天皇陛下の御信任を得ていなかったということは、大きな国の悲劇であったと、つくづく私は思っている。


2 英米に洩れる機密事項

 憲兵が、吉田茂を検挙するに至ったのは、彼が近衛上奏文案を書きとったという一片の資料だけではなかった。
 思えば、彼が我々の視察線に浮び上ったのは、昭和十四年頃からのことである。
 私が、東京憲兵隊の特高課長になったのは、昭和十三年三月だったが、その翌年、つまり十四年の始め、私は国内防諜に関し、一つの指示を与えたことがある。
 それは、その頃、国の秘密事項がよく外国公館に入っている。
 たとえば議会における秘密会において軍の作戦事項が報告されると、その内容は、もう翌日には英米公館で握ってしまっている。
 これはどうも、政治家というか、政治上層部の一部の人々が洩らしているものと察せられたのである。
 だから、私は、この議会会期を通じ、こうした経路を現実につかむことを部下に命じたのであった。
 そこで問題となるのは、いきおい親英米的な政治家、外交官といったところが、着目されることも当然なことといえよう。
 この議会会期中は、外国公館に出入りする政界要人たちが、かなり憲兵偵謀の目標になったはずである。
 そしてこの偵謀では、これらのすっきりした線は出なかったけれども、大体において、人の関係はつかみ得たことであった。
 たとえば、原田熊男男爵や樺山愛輔伯爵のごときも、この線に浮んできた人々であった。
 たしか、昭和十五年一月に米内内閣が誕生したのであったが、この場合、組閣の大命降下はまったく予想もつかぬものだった。
 多くの練達の政治記者も、すっかり的が外れて、大慌てにあわてたものだった。
 ところが、この米内内閣説が、事前にイギリスの『ディリー・メール』紙に載ったとの確実な情報が入手され、しかもそれは確認された。
 こうなってくると、そこには必然に英米との密絡をもつ、しかも重臣層となんらかの脈絡があるものと推断が下された。
 西園寺公の政治秘書として、組閣に暗躍していた原田熊雄男爵のごときは、大きく我々の前に浮び上ってきたのである。
 原田男爵にたいする偵諜は、熱心につづけられていたが、その結果、彼のメモの一部入手に成功した。
 原田男は人も知るように西園寺公の唯一の政治秘書、元老に情報を提供するという意味があったものか、およそ国家のいかなる機関も、彼だけには重要な国家秘密事項が洩らされていた。
 彼は、これを大学ノートに克明にメモしていたのである。
 これが後にいう、いわゆる、原田日記のタネ本になったわけである。
 原田男に対しては、彼の防諜上の容疑について憲兵隊に出頭を命じ、私から厳重に警告を発したこともあるし、また樺山伯に対しても、防諜上、外人との遮断工作までしたことがある。
 ともかく、我々は原田メモの一部を入手したことによって、吉田茂が、近衛公を中心とする各重臣間に暗躍し、一方、大磯別邸におってクレーギー英大使、グルー米大使らと会談している事実も明らかになったので、吉田、原田、樺山らの親英米分子にたいしては、たえず憲兵隊の鋭い目が注がれていたのであった。
 私は、昭和十六年春、東京を去ったけれども、東京憲兵隊外事課は、防諜上の見地から、こうした人々にたいして、ずっと監視の眼を離さなかった。
 吉田茂についていえば、麹町の本宅や、大磯の別宅にも、憲兵の視察網が張られていたのであった。
 東条時代においても、これらの親英米分子に対しては、きびしい視察が行われていたととは、もちろんである。
 下園佐吉という牧野伸顕の秘書が逮捕されたのも東条時代であり、この頃では、大磯あたりは単に吉田のみならず、原田、樺山、池田(成彬)といったところまで、憲兵の眼が冴えていたのだった。
 かくて、吉田茂については、彼が親英外交官だったということから、そしてまた、たえず英米公館の要人や新聞記者と接触して、その行動に防諜上の容疑があったことからして、かれこれ六年の長年月にわたって、我々の視察の対象となっていたのであった。
 もちろん、六年間ぶっ通しで、憲兵が視察していたというのではない。
 時の緩急、間断はあったであろうが、ずっと、我々の要注意視察人物だったというのである。
 そして、それらの要注意行動は克明に記録され、保存されていたのであった。


3 「陸軍赤化」説の横行

 太平洋戦争の末期、すなわち昭和十九年十一月に、私は東京憲兵隊長に任命された。
 私の着任したのは、ちようど十一月二十四日で、その前日には東京近郊に第一回の空襲があり、私は空襲を背負って、もとの古巣にかえってきたようなものだった。
 翌年三月の東京大空襲は、さすがに都民の士気を沈滞させたかに思われた。
 第一この戦争は、我々には、十八年頃からは、もはや勝目はないものと思われていた。
 ただ、いつまで、国民の総力をあげて頑張り通せるかにあった。
 そこでは士気の沈滞は禁物であり、戦意の昂揚が絶対的であらねばならなかった。
 そして、また、国民の戦意を消沈させ、戦争遂行意志を挫折させるような言動、なかんずく軍の不信が流布されて、軍民の団結に隙を与えるような策動は、厳に取締られねばならなかった。これは憲兵本来の任務だった。
 二十年の始め頃から、露骨に、軍の不信が流布され出した。
「このままでは、とうてい勝目はない。
 戦争指導の中枢である陸軍中央部をこのままにしておいては、ジリ貧に陥るのみだ」
「陸軍は赤化している。陸軍幕僚の中にも赤がいるらしい」
「陸軍はすでに、この戦争に自信を失っている。軍の戦争指導層を刷新強力にせざれば、敗戦必至である」
「軍は、本土は絶対安全だと高言したではないか。
 今や我々の本土は、敵機の蹂躙(じゅうりん)に委されている。軍の防空は、なにをしているのだろう」
 等々といったものが、どこからとなく聞えてくる。
 同じようにその頃、私は、クレマンソーの大戦回顧録が、要路の人々に配られていることを知った。
 この書物は、陸軍予備中将の酒井鎬次の翻訳になるもので、上下二冊になっていた。
 なぜ、こうした書物が要路の人々に配られ、かっ、読まれているのか。
 それは、第一次大戦におけるフランス軍の頽勢は、蔽うべくもなかった。
 ところが、老宰相クレマンソー、ひとたぴ出でて陸相を兼ね、その頃士気沈滞し、腐敗乱脈の陸軍省を徹底的に粛正し、刷新せる陣容をもって戦争指導にのり出した。
 このことが、アメリカの参戦と相まってフランス軍の頽勢を挽回し、ついにドイツを打倒して、連合軍を勝利に導いたというのである。
 すなわち、当面する戦争の非勢を一挙に挽回するには、まず、陸軍現中央部を大粛正するより外に道はないといったことを示唆するものであった。
 酒井中将はその頃、近衛一派に属して、彼らと密接な連絡を保っていた。
 彼は召集されて参謀本部付、そして、戦史方面のことをつかさどっていたが、近衛一派の反軍和平派につながりがあるというのだろう。
 たしか二十年の春頃には、突如、召集を解除されたと記憶している。
 さて、私も、この書物をとりよせて読んで見た。
 なるほど、クレマンソーの陸軍粛正における強い意思と、そして、その率先躬行ぶりが克明に書かれており、この時局にはきわめて示唆に富むものだ、と私も思った。
 だが、こうした書物が、ある意図のために要路に配布され、かつ、愛読されるということは、これを逆にいえば、現陸軍中央部の不信を宣伝するものであって、我々はこれに無関心でいられぬものがあった。
 また、その頃、関東軍が赤化しているとか、あるいは、陸軍中央部幕僚に赤の分子がいるとかいった流説が、主として国の政、財界方面に流れていた。
 しかし、流説の根源は、昔からあったものである。
 それは、陸軍における統制経済が社会主義経済だというので、いつも非難を浴びていたものであっだ。
 ことに物動計画に関係する経済幕僚は、いつも中傷をうけていたことであった。
 しかし、当時の陸軍赤化説は、そんなに単純なものではなかった。
 すなわち、それは、陸軍の反対勢力だった重臣方面につよく、とくに近衛一派が原動力だったといってよい。
 近衛公を始め、富田健治、酒井鎬次、吉田茂、小細敏四郎、柳川平助等々の一派が、陸軍の粛正を狙っており、いずれも、現陸軍は赤だとの強い信念をもっていたようだった。
 そして、この陸軍赤化説の一方の火つけ役は、殖田俊吉だった。
 殖田は吉田茂を説き、牧野伸顕を始め、若槻、広田など重臣方面に、軍の赤化を説き回っていたのである。
 その頃、参謀本部のある部長、ソ連通を自認するソ連がえりのこの将官は、さかんにソ連礼讃の言動を吹き回っていた。
 これが以外に部外の反響を生んで、近衛一派の陸軍赤化説の裏書をしたものか、陸軍は赤だとの流説は、上層部にかなり浸透していったのである。
 こうした近衛一派の蠢動、とくに、吉田茂、殖田俊吉らの動きは、私のところではつねに捕捉されていた。
 その近衛上奏に関しても、吉田の関与部面にはすでに見当をつけていた。
 麹町の本宅で、近衛公から上奏内容を聞いて、これをメモしていることも、すでに情報としてわかっていたのである。


4 近衛上奏の内容を流布

 ここで、私は、いわゆる、近衛上奏文なるものに触れておこう。
 それは、昭和二十年二月十四、近衛公が単独上奏した、その内容なるものが、一部に流布されていたことを、我々が問題としたのである。
 その頃、重臣といえども単独上奏は不可能のことであったが、お上を御慰め申上げるという意味で、重臣たちが日を定めて参内し上奏することに、内大臣のところで準備されたらしい。
 近臣といえば、その頃では内閣総理大臣の前歴者であるので、近衛、平沼、米内、岡田、広田、東条らの歴代の首相歴任者、それに牧野伯が、二月の上旬頃から、つぎつぎに御召によって参内し、自己の意見によって、何事でも上奏するといったものであったらしい。
 二月十四日午前中に、近衛公が参内して上奏したが、近衛公には、特に御下問もあり、拝謁時間も一時間以上に及んだということであった。
 その近衛上奏の要点は、

@ 国の内外を通じ、共産革命に進むべきあちゆる条件が成長しつつありて、敗戦必至の今日、これ以上、戦争を継続することは、全く共産党の手にのるものであり、これがため、速かに戦争終結の方途を講ずべきであること。
A 戦争終結の最大の障害は、戦争継続を主導する軍部一部の存在である。
 これを終結前に一掃し、軍部の立直しを実行することが目下の急務であり、日本を救う先決条件である。
 というのに尽きるのであるが、なお、その内容中には、陸軍の一部には共産党に通謀するものがあるし、共産党に利用され、また、利用されうべき環境にあることが独断されており、我々としては、注意を要すべき言説であった。(12項『註』参照)
 だが、我々は、この近衛上奏そのものの内容を問題としたのではなかった。
 これを問題とするならば、近衛公をたちどころに逮捕したであろう。
 我々の問題としたのは、こうした内容の言説が、一部に流布されたことにある。
 そして、それを流布したものが吉田茂一派であったというのである。
 なお、近衛公の上奏に対して、お上がどんだ御意見をお持ちになったかということは知る由もないが、この言上がすんでから、お上は、陸軍の統割については、三笠宮は、阿南がよいというが、自分はよくわからないと仰せられたので、近衛公はきわめて注意深く、
「今の陸軍に反対なものとしては小畑、石原、宇垣あるいは阿南らもございます」
とお答えしたということである。
 近衛の腹の底では、真崎大将をあげるつもりであったが、天皇が真崎にはよいお気持でないことを知っているだけに、近衛は真崎を言上することを憚かって、小畑をあげたにすぎなかったのである。
 だが、近衛公がここに真崎を伏せて小畑を持ち出したことは、はなはだ意味のあることだった。
 その頃小畑は近衛グループに属し、真崎、柳川を起用して陸軍の大粛正を断行しようと画策していた、もっと先熱心な一人だったからである。
 いささか本題から離れるけれども、私はここで、近衛と、いわゆる皇道派との関係を見ておきたいと思う。
 それは、それによって、近衛の陸軍観なる先のをうかがうことができるからである。
 さて、いつ頃から、近衛と皇道派の人々とつながりができたものか。
 それはたぶん、近衛第一次内閣頃からであったと推察されるが、近衛の側近に、かっての皇道派の指導者が接触していたことは忘れられてはならないことである。
 陸軍の派閥――皇道派とか統制派とかは、私の見るところでは、それは二・二六事件以前のものであるが、近衛は、その後もこの陸軍の派閥がずっとつづいているかのごとく考えていたようである。
 二・二六事件の主体をなしたのが皇道派。
 これは事件後の大粛軍によって一応かきとられたが、なお、根は残っている。
 そしてこれを粛正したのが統制派、この統制派がずっとつづいて、陸軍の指導権を握って戦争に至っている。
 したがって、東条大将も統制派なら杉山大将も統制派だと見ていたところに、近衛の陸軍派閥観があった。
 だから、統制派の天下を倒してこれを粛正するには、対立する勢力たる皇道派の起用ということになったのであろうが、これは近衛のはなはだしい錯覚だった。
 陸軍の派閥は、もともと革新に発するもので、国家改造に志ざす革新分子が、皇道派と統制派とに分派(明瞭な形ではないが)して、一時激しい争いを演じたものであったが、それが二・二六事件前の陸軍のあの険わしい時代だったのである。
 だが、二・二六事件による粛軍は、皇道派を全滅すると共に、これと対立した統制派もなくしてしまったのである。
 もはや、こうした革新による派閥観念は、陸軍から消えてしまっていたのである。
 ただ、二・二六事件による粛正を浴びて、すでに在郷におった一部の人々、特に、その当時、皇道派の首脳と見られていた真埼、柳川、小畑といった人々は、自ら称して皇道派といっていたかも知れないが、しかし、こうした人々は、すでに軍の組織にはいなかったのである。
 ところが近衛は、依然として陸軍には派閥が存在し、現指導者が統制派だから、これを粛正するには皇道派を起用するという、きわめて単純なる概念に支配されていたように思う。
 さて、近衛は、政治家としてはまれに見る情報通であった。
 軍部、官僚、政党、財界、右翼、左翼など、およそ国内各層に情報網を持っていた。
 だが、この優れた情報通にも、事、陸軍に関す限り、正しい実態をとらえていなかった。
 それはその根底に、激しい彼の陸軍嫌いがあったからだと私は思う。
 私の見るところ、第一次近衛内閣以来、彼の陸軍中央部に対する数々の辛らつなる批判は、明らかに反軍的存在だったといってよい。
 しかも、この反軍的感情と意識を根底として、彼の陸軍観があった。
 そしてこの陸軍観は、実に近衛上奏の根幹をなしているのである。
 近衛の陸軍観の特徴は二つあった。
 その一は、前述した陸軍の派閥問題であり、さらにもう一つは、陸軍の革新分子は赤だとしていることである。
 共に我々から見れば、いちぢるしい誤認だといわざるを得ないものである。
 さて、近衛上奏文を一読して、当時陸軍を指導していた革新分子なるものが、新官僚や部外の革新分子らと結托し、この戦争を準備し、この戦争を始め、そして終局において、国内共産党革命を志していたかに感じとられるであろう。
 実に、近衛の陸軍観の最大の特徴は、陸軍の革新分子は赤だということであった。
 これは彼の信念にまでなっていたのではなかったかと思う。
 だが、近衛が、
「陸軍の革新分子が赤であったり、また、赤に操られていた。
 しかしその赤は、赤色ロシアにつながりをもつものである」
としていたことは、近衛のいちぢるしい曲解で、軍を知らざるものの誣妄(ふもう)だと私はいいたい。
 昭和十二年の夏、支那事変が始まったが、それは第一次近衛内閣のときだった。
 近衛はこの戦争の早期終結を望み、蒋介石に密使を送ろうとしたが、密使宮崎竜介は神戸で乗船間際に憲兵に捕えられた。
 そして東京に護送されて取調べをうけた。秋山定輔、実川時次郎なども、その一味として捕えられた。
 この逮捕で、近衛の企図は粉砕されてしまった。
 だが、近衛にしてみれば、これは事前に杉山陸相に諒解を得てあるのに、陸軍、特に憲兵があえてこれを阻止したということになれば、憲兵を手先に使った陸軍中央幕僚に疑いをもつことになる。
 そして、この革新幕僚の背後に何者か糸を引くものがあると見たのであろう。
 すなわち、それは速かなる戦争終結を喜ばない一派、戦争をもって国内革新を行おうとする分子の存在を予想したことであろう。
 だが、この予想は私の知る限り、近衛の独断でしかない。
 支那事変は政府の不拡大方針にもかかわらず、戦野はつぎつぎに伸びて、収拾のつかない泥海の中につき進んでしまった。
 これが、誰れの企みで誰れの仕業であったか、近衛にいわすれば、これも一部革新幕僚の企図によるものだというけれども、私は、これに賛成するだけの資料をもたない。
 一体、その頃は、陸軍の政治的にもっとも鼻息の荒いときであり、一部幕僚の政治的放言が、いつも世のひんしゅくを買っていたときであった。
 だから、政府の不拡大方針を非難攻撃した幕僚もいたであろうし、また、戦争は国家の革新のために必要だといった幕僚もいただろう。
 だが、それらは無責任な放言であって、陸軍の一貫した施策でもなければ、また中核幕僚の意向でもなかった。
 このことは、その頃、東京憲兵隊にあって特高警察に任じ、こうした中央幕僚の動静をつぶさに監察していた私の、はっきり言いうることである。
 また、陸軍の革新分子が赤にあやつられているということも、その頃、陸軍の幕僚が左翼出身者を利用していたことは事実であるから、部外者の言として無理もないことであったが、しかし、その頃は、二、三年前のアメリカでのマッカーシー旋風のような思想のあらしが日本にも吹いていた時であるから、玉石混淆、革新分子が赤にされていたことも注意していいだろう。
 私の言いたいことは、かって皇道派といわれた人々、たとえば真崎大将などにしても、口癖のように当時の陸軍中央幕僚を赤だといっていたことである。
 これらの人々は、かっての統制派の流れを汲む人々を、赤だ赤だとけなし、自分たちだけが純国体信者だと自称していたのである。
「統制派は赤だ。統制派は赤の手先に躍らされている」
「二・二六事件決起の将校も、結局は赤に躍らされていたのだ」
 といった言葉は、その頃私も、直接、真崎大将から聞いたものである。
 かってのこの皇道派指導者と近衛の結び付きは、近衛の陸軍観に大きく作用していることは否めない事実であろう。
 要するに、近衛上奏なるもの、特にその根底にある彼の陸軍に対する見解は、彼の独断と幻想に由来するものであって、断じて正しいものでないことを、ここに明らかにしておきたい。


5 逃げ出した自由主義者たち

 それでは、我々は、なぜ、こうしたものが流布されることを恐れたのであったか。
 ここで、私は、あの頃の国内の様相をどう見ていたか、また、当時、なにが我々の仕事であったかを、一通り述べておきたい。
 すなわち、それは吉田検挙の意味するものの解明に外ならないからである。
 東条政権の強力なる圧力を各面にうけていた国民は、東条内閣の退陣によって、なにかしら、ほっとしたものを感じたことであろう。
 そして、東条についで小磯内閣が生れたけれども、もはや、戦争の様相は深刻をきわめ、その前途は暗湛たるものがあった。
 第一線の戦況の悲報は相次いで入るし、国内は到るところ空襲をうけて、荒廃の頂点にあった。
 国民の衣食住、なかでも食生活は、飢餓の一歩手前にあった。
 昔からいわれているように、紙と爆弾は近代戦の特質だった。
 特に、熾烈な爆撃の下、敗戦へと誘導する巧妙な宣伝謀略こそ、我々のもっとも厳戒すべきものであった。
 したがって、国民の戦意の観察といったことは、我々の思想対策上の大きな仕事だった。
 ともかくも、戦争はもう最後の土壇場まできていたのであるから、国民の耐乏、忍苦の戦争生活も、すでにどん底にあった。
 私には、国民の、いわゆる戦争抗堪(こうかん)力といったものも、すでに、底をついているように思われた。
 我々は、かって、国民の国家から受ける重圧というか、犠牲負担というものには一定の限度があり、この限界を超えて国民に圧力を加えることは、国民暴発の動機をなすものと考えていた。
 だが、そこに見た国民は、限りなき底力をもっていた。
 我々は、わが国民の底力の偉大さを十分に知らされたことであった。
 したがって、国民を対象とする国内治安上の杞憂は、はなはだすくなかった。
 我々には、かの第一次大戦におけるドイツ、あるいはロシアの崩壊といった赤色の脅威は存在しなかったし、真に一億の、完全なる戦争への一致した姿のみがあった。
 今日、政治家の一部には、戦時中、いかにこの戦争をやめるために、志士的行動で暗躍していたかというような言辞をもらす人々がいる。
 また、岡田、宇垣、若槻といった人々の回顧録もすでに世に出ているが、これら、かっての国家の重臣だった人々の、この戦争についての述懐なるものを読んで、人はどんな感じをもっていることだろう。
 「わしは、この戦争には反対だった。早く手を打って、平和にすべきだった」
といっているだけで、身を挺して自己の信念に殉じたことがあったであろうか。
 自己の信念に殉じたといえば、今日根っからの自由主義者、平和主義導だったと自任している人々の多くは、その頃、軽井沢や箱根やその他の別荘で、あるいは地方の疎開先で、まったく、戦争の閣外に立って、国民大衆が命をすて、財を失いつつも郷土に踏み止まり、職場を死守したのを、ひややかに眺めていた人たちではなかったか。
 いずれにせよ、空襲の激化につれ、戦争の困難に伴い、この国民にも沈滞の空気の低流することは見逃せなかった。
 わずかにこれを支えているものは、戦争状態における社会的な制圧というか、この戦争にはどうしても負けられないといった国民心理、弱音を吐くことを恥とする社会意識、こういったものに支持されて、国民は歯を喰いしばって堪えていたのだった。
 だから、ひとたび、この意識に変化が起れば、たちまち総崩れになることは見易いことであった。
それは、我々のもっとも警戒すべきことであっだ。
 ここに、我々が反戦、非職、和平思想を重視する理由があったのである。
 実に、国民の戦争遂行への支持点を揺がす、この種の思想策動は、戦時下の警察に任ずるものの、もっとも厳重に警戒すべきものであったのである。
 我々は、こうしたことのために、この種の思想策動の芽生えのある分野に、鋭い観察を加えできた。
 そして、その結果としての一つが吉田茂事件であり、また、これと同じ頃、私が命令し指揮した、帝都における反戦言動者の一斉検挙だったのである。


6 四月十五日、吉田茂検挙さる

「四月十五日、 この日早朝、吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄等、反戦分子の検挙を発動する。特高警察防諜中佐をしてこれを担当せしむ」
 これは、私の戦時日記にメモするところである。
 特高警察隊長高坂中佐は、十四日午後、野田准尉を長とする張込班を大磯に急派した。
 任務は吉田の在否を確かめると共に、事後の行動を監視するにあった。
 また、木村准尉を長とする検挙班は同日夜半、大磯に到着し、張込班に連絡して警戒に当った。
 なお、彼らの罪状容疑は、軍事上の造言飛語罪であるから思想係に担任させるのが本筋であったが、吉田を中心とする防諜上の偵諜は、過去六ヵ年にわたって、外事課(当昨は防諜中隊)が専念してきたので、あえて外事課に実施させたのである。
 連日の敵機の来襲に、帝都は桜をよそに、戦争を身近かにする都民の落ちつかぬ生活に明け暮れているが、さすがに、東京をちよっと離れた湘南の大磯は、別世界のようなのどかさで、かてて加えて吉野桜は早くも散りはて、例年よりも温かな気温に、牡丹桜が夢のように遠近の山々の緑に点影し、薄もやが低く山辺に立ちこめて、湖の香を乗せくる浜辺には漁舟も見られ、かもめが波間を縫って、一幅の春の朝景色である。
 木村准尉も、しばしは昨夜来の寝不足も忘れ、思わずこの景色に見とれた。
 そして部下たちをちょっと顧みてから、
「よい景色だな!」
と海に向って両手を思い切り上げ、大きな深呼吸ともつかぬあくびをすると、やがて、自分にもいい聞かせるように下腹に力を入れて、
「さあ、御苦労でも一つ頼むぞ」
と一言いうと、急に緊張した態度で、吉田の別宅へと坂道を急ぎ足であがり始めた。
 やがて、木村准尉は、四人の憲兵を門外に待たせると、ツカツカと門のところに身を寄せで、しばらく内部の様子をうかがうようにしてから、ピタリと閉まった門柱を見上げ、もう一度確かめるかのようにしてから、呼鈴を押した。
 耳をすますと、呼鈴の音がかすかに邸内にこだましている。
 突然、ホーーホケキョと、すぐ近くの山端から鴬の声が散る。静かな一瞬だった。
 やがて、カタカタと引きずるような下駄の音を響かせて、女中の姿が近づいてきた。
 准尉は、ちよっと会釈する女中に、おだやかな句調で、簡単に、
 「憲兵隊の者です。ちよっと御主人にお取次ぎ下さい」
 と一枚の名刺を渡した。
 女中は、こんなに朝早くから何事だろうといった、ちよっといぶかし気な様子で、無言で名刺を受取ると、門外にいる私服憲兵たちをチラリと見ながら、准尉を玄関内に招じいれて、固い表情で、
「しばらく御待ち下さい」
と、言残して、そそくさと奥へ姿を消した。
 准尉は、国防服の胸のあたりに手をやって、ポケットのボタンをかけると、ふと何気なく、腕時計に眼をやった。ちようど六時三十分である。
 十分、二十分、さきほど取次ぎに奥へ入ったきりで、女中はなおも顔を見せない。
 しかし、じっと耳を澄ますと、心なしか、邸内の静けさの中にも、なにかしらあわただしい空気が感じとられた。
 飼犬の遠吠えにまじって、家の向うの方から汽車の音がする。
 重い地ひびきと長い鉄のきしむ音から、貨物列車の通過のようである。
 さきほどから、もう二十分以上も時計とにらめっこをしている准尉の表情は、
「もしや逃げたのではあるまいか」
といった一抹の不安、そして、
「玄関先でこんなに待たせるとは怪しからん」
といった、こみ上げてくる怒りが錯綜して、だんだん複雑になってくる。
「もう三十分だ」
 思わず独言が口から出てきた。
 准尉は、もはや焦燥にたまりかねて、もう一度呼鈴を押すか、奥の方へ大声で怒鴨ってやろうかと思った時に、遠く廊下を歩いてくる衣ずれの音が、しずかな空気を伝わって、だんだん近づいてきた。
 やがて、さきほどの女中が顔を出して、
「たいへんお待たせしました。どうぞ」
 と、准尉を応接間へ案内した。今度は待つほどもなく、当の吉田が現われた。
 羽織袴の和服姿に白足袋が、眼に沁みるような、妙に印象的なものがあった。
 准尉のいかにも軍人らしい不動の姿勢の一礼に、軽く会釈した吉田は無表情に向い側の虎の皮の上に、どっかと座った。
 短躯、肥り肉の吉田は、さすが長年の外交官生活で身につけた端然たる姿であったが、彼の特徴のある角張った顔には、持ち前の傲慢さのかげに、明らかに不安の影がかくしきれず、右手に握ったパイプが、かすかにふるえていた。
 准尉は、いくぶん改まった口調で、手短かに、
「これから憲兵隊まで御同行をお願いします」
 と、陸軍刑法第九十九条違反容疑にもとづく東部軍軍法会議発行の勾引状を、吉田の面前に差出した。
 彼は一瞬、明らかに、ギクリとしたこわばった表情をしたが、静かに勾引状を手にとって、ちよっと見てから無言でうなずいた。
 憎悪、不安といった感情を、みずから、ジーッと押ししずめようとでもするかのように、吉田は、なかなか動こうともしない。
 しばし両者は沈黙のうちに対座していたが、そのとき女中がお茶を運んできたので、准尉は、女中が立ち去るのを待って、再び強く、同行する旨を述べると、なおも吉田は、無言のまま立ち上って、
「洋服に着かえるから、ちよっと、待ってくれ給え」
といい残して、隣室へ入った
 やがて、洋服姿の吉田は彼の内妻こりんに送られて、再び准尉の前に姿を現わした。
 ちようど八時半頃であった。
 吉田は門外に出ると四人の憲兵の姿を目ざとく見つけて、その傲岸な顔にちよっと皮肉な笑いを見せたが、スタスタとさきに立って歩き出した。
 大磯駅から車中の人となっても、への宇に口を堅く結んで、終始、半眼で顔を窓外に向け、ほとんど一言も口を開かず、新稿駅から憲兵隊差回しの車でそのまま、九段下の隊司令部へ連行されたのであった。
 検挙班の木村准尉が吉田宅を出ると、ほとんど入れかわるように、今度は前日来、張込みに任じていた野田准尉ら一行が、家宅捜索班として、一名の東部軍法務中尉と共に吉田別宅を訪れたが、捜索の結果は、わずかに吉田が近衛上奏文案を筆写したものの一部を入手したのみで、その他には、なんらの目ぼしい証拠品も発見されずに引き上げたのであった。
 それもそのはずで、木村准尉の来訪に、早くも身辺の危険を察知した吉田は、木村准尉の一行を、二十分間の長きにわたって玄関先で持たせている間に、墨でかいた上奏文案その他の重要書類を、すばやく取りまとめて愛妻こりんの帯の間にかくさせ、あとで焼却させたことが、翌日、麹町の本宅から差入れにきた女中の話によって、はじめて判明したのである。
 吉田は、家宅捜索を必至と見て、むしろ、自分のもっとも信頼するに足る女に預け、これを懐中させておくことが安全と、とっさに考えたものらしく、いかに慧眼の憲兵でも、婦女子の身体検査をあえてするわけはないと思ったのであろう。
 さて、私は、吉田の検挙を決意してから、特高警察隊長に命じて、吉田一派の検挙計画を作成させていたが、その計画は、相当広範囲に及んでいた。それは、
 第一次  吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄
 第二次  原田熊雄、樺山愛輔、小畑敏四郎、柳川平助、酒井鎬次
 第三次  近衛文麿、牧野伸顕
 といった三段構えであったが、私はとりあえず、第一次捜査のみを承認し、これを発動させたのであった。
 だから、こうした計画はあったが、私は、この事件を牧野、近衛といったところまで持ち込む腹はなかった。
 なぜなら、事件は、もともと、軍事上の造言飛語という単純な犯罪なので、これを、かような大物にまで及ぼすことは、あまりに大がかりに過ぎる。すでに述べたように、いたずらに世の不評を受けるのがおちであるからである。
 だから、私はこの捜査の進行中、重大な変化のない限り、いうところの第三次捜査はやらない方針だったのである。
 その上、これらの第一次捜査の対象となった人々は、すべて陸軍刑法第九十九条違反および軍機保護法違反容疑だった。
 彼らは和平派ではあったが、しかし、彼らが和平に策勤しようと、それは我々の関知するところではなかった。
 なぜなら、彼らが政治家として、この戦争を和平に策動するために研究討議することは、あえて法律的な対象にはならぬし、また、警察としてこれに介入する必要もないことであったからだ。
 では、彼らの犯罪容疑は、具体的にいってどんなことであったか。
 吉田についていえば、つぎの通りであった。

@ 軍事上の造言飛語罪(陸軍刑法第九十九条違反)
  イ 近衛上奏の内容を流布した容疑
  ロ 陸軍はすでに戦争に自信を失い、士気沈滞しありとの反戦言動の流布
  ハ 関東軍は赤化し、陸軍中央部もまた赤の分子に動かされているとの中傷言動
A 軍機保護法違反罪
  関東軍の編成、装備、行動等について探知したるところを他に洩らした容疑


7 確かに私の書いたものだ

 吉田茂に対しては、憲兵隊へ到着の日から取調べが開始された。

 彼の陸軍に対する態度、この戦争の見解および戦争終結に対する態度などの基本的なことから、訊問が始められた。

 取調べは彼を勾引した木村准尉が担当した。
 木村はしばしば、いうように、六年の長きに亘って、終始一貫、吉田一派の親英派を偵探してきた憲兵だったのである。
 さて憲兵の取調べに対し、吉田の態度はどうだったろう。
 彼は、当初、態度も傲慢で、頑強な否認一点ばりだった。物的証拠をつきつけられるまでは、どこまでも否認し通すので、なかなか事件の中枢に入ることが困難で、いつも若い憲兵を手こずらせていた。
 たとえば、殖田俊吉は陸軍の赤化について、吉田にこのように口述したといっていると、殖田調書を読み上げても、頑固に、
「それは殖田のいうことで、俺の知ったことではない」
と、否認をつづけるといった始末である。
 彼が、もっとも心配していたのは、いわゆる近衛上奏を暴露することによって、近衛に検挙の手が伸びることにあったらしく、したがって、近衛上奏にはなんの関係もないと頑強に否認しつづけていた。
 ある夜、とうとう木村准尉は、野田捜索班が入手した、吉田の手記する上奏案の一部を、吉田の面前につきつけて、
「君はこれにも覚えはないというのか、これでも剛情を張り通すつもりか」
と、じっと吉田を睨みつけ、語気も荒くつめよった。
 よもや、こうしたものが憲兵に握られているとは思っていなかったのであろう。
 吉田の傲慢な面貌にも、一瞬、狼狽の色が表われた。
 やがて、不安とも悲しみともつかぬ表情に変っていった。
 なんで木村がこれを見逃すものか、ここぞとばかり、さらに
「覚えがあろう」
と鋭くたたみかけた。
「それは確かに私の書いたものだ」
 あぷら汗をにじませながら、彼はいまいましげにこう答えた。
 吉田はこの憲兵の前に、とうとう兜を脱いでしまったのである。
 それからは、急に、これまでの傲慢な態度を改め、しかも自発的に案外スラスラと自供するようになった。
 終戦後、
「吉田は憲兵隊に行っても最後までがんばった」
と、いったことが伝えられていたが、あれは嘘である。
 確かに、彼の憲兵隊での態度は、当初は傲慢と否認の連続だった。
 しかし、この上奏文の自筆の一部をつきつけられてからは、非常におとなしく、スラスラと一部始終を陳述したというのが本当である。
 私は、こうした捜査には、いつも取調官から調書を提出させて閲読し、これによって指導することにしていたが、この場合も彼らの調書はことごとく精読しており、吉田が罪状を否認し通したという記憶はない。
 彼は最後の調書において、
『私の思慮の足らないために、軍を誹膀し、まことに申訳ないことをしたと思う。
 この点お許しを願いたい。今後は心境を新たにし、この戦争遂行に、一国民として協力して行きたい』
といった意味のことを述べていた。彼の、取調べがおわったときの心境とでもいうべきものであろう。
 なお、今日、巷間の一部では、吉田が愛国的な立場から、和平工作を行った国士のごとく伝えられ、憲兵の不法弾圧によって留置されてからも、どんなむごい責め折檻におっても頑として口を割らず、信念に殉ずる堂々たる態度に終始し、昭和の天野屋利兵衛のようにいわれているののは、彼をあえて英雄視し、憲兵を誹膀せんとする、何者かの作意的な宣伝といわねばなるまい。
 彼が憲兵隊に勾引されたのは決して政治犯ではなく、すでに述べたように軍事に関する造言飛語の流布という純然たる刑事犯だった。いわば、反戦、反軍言動を流布したことによって押えられたのである。
 そして取調べにおける態度も、信念的に頑強に反抗したのではなくて、罪状をかくすために、当初、否認しつづけていたのであって、こうしたことは、一般被疑者のそれと少しも変ることがなかったのである。
 なお、彼が長い間、防諜上の容疑人物だったことと、取調主任者が一貫して彼の偵諜に任じた木村准尉だったことなどから、彼に対し、この犯罪容疑事実以外に、その交友関係、特にクレーギー、グルーなどへの情報提供に関して追及したし、また、彼の和平策動などにも、相当つっこんで調べあげていたが、私は、そうしたことはこの事件の捜査には直接に関係ないものとして、一件書類からはすべて削除させてしまつたのである。
 彼は老齢だったので、特に取扱いには慎重であった。
 高坂中佐以下関係官の手厚いはからいで、もっとも設備のよい地下の第一号留置場に入れられ、寝具などもすべて新らしいものを供与され、食事は本人の希望で、毎日差入れだった。
 彼は四月十五日から五月三日まで、憲兵隊にいたのであったが、いつも麹町の本宅から女中の運んでくるものを食べ、官給のものにはいっさい箸をつけなかった。
 また、一日中、時間をきめて散歩も許されていた。
 私も彼がノー・ネクタイ姿で、あの猫背を見せながら、後庭を歩いているのを見かけたことも一再ではなかった。
 彼ははまさしく別扱いで、大切にされていたものだった。
 しかし、なんといっても、薄暗い地下の別荘で、十八日間も不自由な生活を余儀なくさせられたことは、この贅沢な老人にとっては大変な苦痛だったろう。
 二十九年のはじめ頃の『文芸春秋』に、阿部真之助の吉田茂論が書かれており、その中に、
「吉田が戦時中、憲兵隊に勾引されているとき、彼を殺そうとする陰謀があって、陸軍省の黒崎中佐がこれを心配して、時々憲兵隊を見張っていた」
といったことが述べられているそうだが、私自身は、これを読んだわけではないので、もし、ほんとうに、そういったことが書かれているならば、これはデタラメもはなはだしいもので、あまりの馬鹿げたことに、開いた口がふさがらないというものである。
 かって、吉田事件の処理に関与した私の部下たちが聞いたら、さぞ、心から怒りを覚え、残念がることだろう。
 それにしても阿部老人の偽作か、また、もしこれに資料を与えた人があるとすれば、まことに、誣妄(ぶもう)もはなはだしいことといわざるを得ない。
 かっての憲兵を、事実にもとづいて非難することはいいが、あくどい中傷はやめてもらいたいものだ。
 最近、出版された吉田茂の『回想十年』によると、彼は、
「憲兵隊の取調べは厳重でも取扱いはしごく丁寧だった」
といっている。事実、この取調べの終る頃になると、木村准尉に、
「あなた方は毎日こんなに遅くまで働いて、よく健康を害さないものだ。感心しましたよ」
となごやかに語る彼であったのである。
 なお、ついでであるがこの”回想”には、このようなよい待遇をうけたのは阿南陸相のさしがねだったようにいっているが、阿南陸相からは何の指示もなかった。
 指示したといえば、「悪い奴はどこまでもやるがよい」と激励していた彼であった。
 当時、阿南陸相と吉田とがどんな間柄にあったかは知らなかっだけれども、四月の下旬、吉田がなお、憲兵隊に留置されている頃、阿南陸相は多勢の幕僚をつれて憲兵司令部を巡視に来たが、吉田が地下室の留置場に入れられていると聞いて、わざと、地下の巡視を止めてしまった阿南さんだった。


8 罪名は「造言飛語罪」

 さて、それでは具体的にいって、取調べの結果はどんなものであったか。
 彼は、陸軍に対して、強い反感をもっていた。
 或いは憎悪に近いものであったかも知れない。
 陸軍のなすこと、すること、すべて気に喰わないのである。
 彼は親英派で、その外交政策は、その頃軟弱外交の典型のようにいわれていた幣原外交の流れを酌む、あくまでも英国本位のものの考え方だった。
 だから、こうした外交家が、当時の陸軍に毛嫌いされることも当然であった。
 すでに、しばしばいわれているように、彼は、かの二・二六事件直後の収拾に立ち上った広田内閣で、外務大臣の椅子を予定されていた。
 ところが、これを知った陸軍は、吉田を忌避(きひ)した。
 ために、彼のせっかくの栄職もふっとんでしまったのである。
 広田は、外相兼摂で組閣を完了した。
 これは吉田にとっては、一生の痛恨事だったろう。以来、目に見えて、彼の態度は反陸軍となった。
 この感情なり批判的態度は、検挙当時においては、いっそう激しいものがあった。
 また、彼は親英派といわれるだけあって、その日英親善ぶりは徹底したものだった。
 親善といえば体裁はいいが、裏をかえせば拝英主義者だった。
 この英米崇拝、英米依存は、彼の政治的信念であっだろう。
『日本はだれがなんといおうとも、英米と仲よくしなければぜったいに繁栄する国ではない。
 だから、英米との戦争は、一日も早く止めなければならない。
 英米との戦争に敗けても、国体はぜったいに滅びることはないが、国内が赤化されれば、ただ滅亡あるのみだ』
 これは、その当時の訊問調書にかかれている彼の口述の一節である。
 吉田のこの信念は、今日でもいささかの動揺もないであろう。
 こうした信念に立つが故に彼はこの戦争はすべきではなかったし、また、すでに始められた以上、一日も早く終結させるべきだというのであった。
 ここに、彼の和平策動の根本があった。
 では、彼は和平のために、どんな手を打っていたのであったか。
 すでに、戦争状態であり、外国との交通の杜絶していたその頃、しかも、在野の元外交官としては、自ら求めて英米を動かすことはできない。
 しかし、彼は米国大使グルーとは特に親交があったので、何等かの密約でもありはせぬかと、取調官はかなり追及したが、得るところはなかった。
 なかったというのが本当だったろう。
 また、今日まで、吉田が戦争を終結させるために大きな努力をしたようにいわれているけれども、彼は戦時中、これといった和平工作はしていない。
 たしか十七年の夏頃に、近衛公に和平の機会をつかむために、渡欧をすすめたことはあるが、これもつきつめての話ではなかった。
 近衛が動かないままに尻きれトンボに終ってしまっている。
 彼はもともと近衛グループに属し、彼の平河町の本邸には、しばしば近衛が来邸していた。
 東条内閣の打倒と次期担当政権には、小畑、富田(健次)、細川(護貞)などの近衛側近と密絡していたが、それも彼が外交政治のベテランとして、外相の地位につくことを予想されていたものであったといえよう。
 さらに、東条退陣後は、いわゆる和平への転換に関し近衛に出馬をすすめるなど、近衛和平内閣の出現に動いていたのであったが、積極的というにはほど遠いものであった。
 ちようど、彼が憲兵隊に収容される直前の四月七日に、小磯内閣にかわる鈴木内閣の出現を見たのであったが、彼は鈴木内閣を、彼の希望する内閣ではないといった。
 すなわち、彼は近衛内閣の出現を待望していたので、期待がはずれたというのであったろう。
 しかし、以上のようなことは、必ずしも彼の罪状とは直接閣係のないことだった。
 私は、我々の必要とした二つの容疑事実について、語らねばならない。
 まず、第一の近衛上奏との関係は、こうだったのである。
 近衛上奏の内容をなすところの陸軍赤化論は、吉田はもちろん、殖田の言説に負うところ大であるが、しかし、我々は近衛がかかる上奏をしたことを問題としているのではなく、吉田がこの上奏文を筆写して人々に流布したことを問題としたのである。
 さて、近衛がこうした上奏を行ったことについては、吉田や小畑らが原動力であったことを認めざるを得ない。
 吉田は小畑、岩淵らと共に、近衛に和平転換について天皇に上奏せよとすすめていたのである。
 こうした関係であろう。木戸内府のお膳立で重臣の単独上奏が決定されると、近衛はみずから筆をとって上奏文をしたためた。
 そして上奏日の前日、すなわち二月十三日夜、麹町平河町の吉田邸に宿泊し、ここで近衛は上奏文案を吉田に示した。
 吉田は克明にこれをメモした。そしてその夜、二人は遅くまで上奏文案を中心に語り合い、吉田の意見でいくらか訂正された。
 近衛は十四日午前中に上奏をおえ、それから首相官邸の重臣会議に臨み、その日午後三時頃ふたたび吉田邸に戻って来た。
 そこには近衛の秘書細川護貞も来ていたが、近衛は、吉田らに上奏の模様について、くわしく物語っている。
 拝謁の際の御下問奉答についても、さきにいささか触れたように、
『アメリカはわが皇室を抹殺するといっているということだが、この点をどう思うかと』
の御下問に、近衛は、
『グルーおよびアメリカ首脳者の考え方を見ると、そこまではいかぬように思います』
と答え、また天皇は、
『梅津が「アメリカが皇室抹殺論をゆるめざるをもって徹底抗戦すべし」というているが、自分もこの点には疑問をもっている』
と仰せられ、さらに
『外交による転換の場合、陸軍は動揺するだろうが、杉山はそれだから元帥が必要だといっておった』
と話されたので、近衛は、
『元元帥というような肩書では抑えられますまい』
と言上したこと、その他陛下より軍の統制に関しお話があったことなど、ことこまかく、一時間にわたって彼らに語った。
 吉田はさっそく、これを牧野伸顕に通じた。
 牧野はたいへん喜んで、
『さすがに近衛さんだ。よいことをいってくださった。近衛さんでなければできない仕事だった』
といって感激したという。
 また、吉田は、このことを殖田俊吉に洩らしている。
 牧野伸顕に通じたことはまだよいとして、殖田に流布したのでは問題である。
 殖田は一介の市井人でしかない。その他、二、三の人に流したことを記憶しているが、それが誰と誰であったかは、今は思い出せない。
 この近衛上奏を知られていたことは、彼らには、大きな痛手だったろう。
 吉田は本邸では手帳にメモし、これを大磯ではきれいに墨書して、保存していたのだった。
 なお、余談であるが、吉田の筆写した上奏文の押収は、憲兵として失敗だった。
 というのは、実は冒頭にも述べたように、彼の筆写したものは写真にとられて、陸軍から回ってきている。
 これと同一のものが本邸か大磯かになければならぬ。
 ところが、家宅捜索班はこの入手に成功せず、帰ってきたのである。
 このことは、憲兵が勾引に行った際、吉田が内妻こりんにすばやく帯の間にかくさせ、あとで焼かしてしまったものであることは、前に述べた通りである。
 この点に関しては、木村准尉が四月二十日、ふたたび大磯におもむいて、内妻こりんを取調べているのである。
「あなたが主人をお連れにいらした時、これは大事な書類と存じましたので、ちよっと帯の間に隠して、あなたがお帰りのあとで、すぐ焼き捨ててしまいました。だから中味は少しも存じません」
という、こりんの告白であった。
 これは、おそらく吉田が勾引に応ずる前に内妻に命じたことであろうが、彼は、この点の追及に関してはあくまでも否認して、煙草を持つ手をブルブルふるわせて、
「それは内妻のやったことで、私の知らないことだ」
と、いいきっていた。
 ともかくも、近衛の上奏内容や御下問の状況などを流布したことは、吉田にとつては致命的だったらしい。
 このことがはっきりされてからは、彼の態度もおとなしくなったことは、前述した通りである。
 彼の造言飛語罪の中には、このほかに、関東軍や陸軍中央部が赤化しているという言動もあった。
 これは吉田よりも殖田俊吉が注入したことであるが、こうした言動が、近衛の判断を決定的にして上奏に至らせたことは、疑いを容れないことだった。
 それから、彼は、樺山愛輔に手紙を送っていた。これは動かせない証拠だった。
 大磯にはその頃原田男爵がおり、池田成彬もいた。樺山も大磯の住人である。
 彼らはすべて親英派で、つねに往き来をして戦争を諭じ、和平策を談じ、このため軍事に関する情報をいつも交換しあっていた。
 我々は、これを大磯グループといっていた。
 すなわち、ここに、二つの親英米的和平派の一群があったということができるのである。
 吉田の樺山に送った手紙には、達筆で、
『陸軍は、もはや、この戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞蔽うべくもなく、敗戦必至と存候』
といった一句があった。
 この書簡は、樺山の家宅捜査で押収したものだった。
 こうしたものからも、彼らの仲間の間で数多くの反軍、反戦言辞や、陸軍の誹謗が行われていたことが判明したのであった。
 さらに、第二の軍機保護法違反というのは、これは、いわばつけたりといってもよいものだった。
 それは、彼が関東軍の赤化している理由を述べたなかに、関東軍の編成や行動など、かなりうがった内容が書かれてあり、これは法律的には明らかに、わが野戦軍の編成、行動、配置等の、いわゆる軍機事項に抵触するものであった。
 岩淵については、主として政治情報を吉田の許に送っていたが、その中に、反戦和平というよりは陸軍を横暴だとするいくつかの軍誹謗の内容を、吉田に口述していたことが、軍事に関する造言飛語容疑として取調べられたもので、共にこれらの事実は十分に証拠が固められ、彼らもみなこれを自供したものだったのである。

9 売り言葉に買い言葉

 吉田たちが検挙されて、一週間もたったときのことであった。
 殖田調書を見ていると、彼は、しきりに陸軍の赤化をいっている。
 だが、彼が陸軍のなにをつかんでこのようにいっているのか、私にはわかりかねた。
 それで、取調官の能力もあることだし、私みずから彼について聴いてみたいど考えた。
 どうせ、殖田の取調状況を見るとなれば、それと一緒に吉田の取調室も見ておきたいと思ったので、七の日の夕刻、私はこれらの取調状況をつぶさに視察してみた。
 以下、私の取調実見記である。
 私は、まず、吉田の取調状況を見るため、高坂特高警察隊長と共に、地下の調室を訪ねた。
 ここは司令部地階の小さい取調室だ。壁には防音装置もあり、入口の扉は二重になっている。
 この調室は、かっての英人記者コックス飛降り自殺事件(「英人スパイ、コックスの自殺」の項参照)にこりて、三階の取調室を廃し、当時地階の倉庫だったものを改造して、つくられたものである。
 室の一方には小さい採光窓があるだけで、昼でも電燈をつけなくては使えない薄暗さである。
 私が室に入ると、先着していた事件の捜査主任だった大畠中尉が、在室者一同に起立を命じ、
「只今取調中であります」
 と、型のごとく報告した。
 見ると、入口に近く、取調官の木村准尉が位置し、その対面に、採光窓を背にして、吉田が立っていた。
 やや派手な、ねずみ色の縞の背広を着ているが、数日間の留置場の寝起きで、すっかりよれよれになっているし、ネタタイははずされ、白いワイシャツは蒋垢じみて、みすぼらしい田舎老爺然としていた。
 ただ、目だけはギョロッと鋭いものがあるが、顔色はよくない。連日、連夜の取調べに、かなり疲れを見せているのだろう。
 私は、吉田に向い、
「隊司令官の大谷です」
と、自己紹介してから、定めの椅子についた。そして、
「取調べを始めてよろしい」
と命じた。
 木村は、私が赤坂憲兵分隊長当時の、旧部下の一人だった。
「その頃上等兵だったが、もう、こんなにも成長したものか」
と、感慨深げに彼の態度を見つめていた。
 彼も、私の臨場でかなり緊張しているようだ。
 きっと姿勢を正し、吉田の顔をにらむようにして、訊問を始めた。
 なんだかすごい気合のようなものが感じとられる。
「お前が近衛上奏の内容を与えたのではないか」
と木村の一声。
 吉田は、右肩をいからし、足をつっぱり、椅子にふんぞりかえるような姿勢で、木村をにらみ返している。
 よほどグッときたらしい。
「答えないのかな」
と見ていると、彼は、ぽつりと、
「そんなことはない」
 と、噛んで吐き出すように投げつけた。
「なに! そんなことはない。冗談をいうな!
 お前は近衛に書簡を送り、関東軍は赤化している。
 これは、なによりも大変なことだ。
 一日も早く和平をしなければならない。
 日本は英米と和平してこそ国は栄えるが、赤化したら滅亡あるのみだ、といっているではないか」
とたたみかけた。
 吉田はかなり興奮しているようだ。その興奮と心の動揺を、じっと押えるかのように、口を固く結んで、低い天井を睨みつづけている。
 木村の追及を聞いているのかいないのか。――やがて、吉田は、
「それは、その通りだが、僕が近衛さんに献言しても、これを容れるかどうかは近衛さんの考えのあることだ。
 僕の関知したことではない」
 と、語気も荒々しく、憎々しげに答えている。
 見ている私は驚いた。これは取調べではない。喧嘩である。
 売り言葉に買い言葉、取調官の態度も悪いが、吉田の態度も悪い。
 お互いが、憎悪の感情をむき出しにして問答している。
 私は、ものの十分間も、こうしたいさかいのような取調べを見ていたが、もうこの辺で切り上げることにした。
 木村准尉に「待て」と制して、取調べを中止させたのち、吉田に向い、
「憲兵隊にお出でを願って御迷惑のことと思いますが、一応取調べがすむまでは、お気の毒でもここにいてもらわなくてはなりません。
 なにかと御不自由のことでしようが、御不便のことがありましたら、なんでもおっしやって下さい。
 便宜を取計らわせますから――」
 といって立ち上った。
 彼は、さっきからの興奮が消えないのか、私の挨拶には一言も答えず、ただ黙礼しただけだった。
 私は外に出ると、すぐ、随行していた高坂中佐や大畠中尉に、
「あれは取調べではない。まるで喧嘩だ。
 また、木村准尉の取調べ態度も穏当ではない。しかも言葉づかいが悪い。
 彼もかっては在外大使をつとめ、次官までした人だ。儀礼を守らなければならない。
 ああした「ガラ」の悪い取調べをしてはならぬ。吉田の取調べは、大畠中尉みずからやれ。
 木村は補佐官として使ってもいいが、やはり、相手の立場を考えて、将校が取調べに当るようにせよ」
と指示した。
 このときの取調べは、近衛上奏と吉田との関係を追及していたのだった。
 そこは吉田のもっとも痛いところであったので、「カン」をたかぶらせていたのか、或いは、彼の激怒癖であったものか、いずれにしても吉田のプリプリした態度には、何人でも反感をそそるものがあった。
 だから、若い取調官がこれに巻き込まれて、厳正な取調べ態度を失って喧嘩腰になるのも、無理のないことかも知れないと思われた。

10 殖田俊吉とやり合う

 吉田の取調べを見でから、私は殖田俊吉の取調室に行った。
 例のドス黒い神田川に面して建っていた、かっての厩を改造したものだった。
 たたきの廊下を境にして、一方が留置場、一方が取調室になっていた。
 対面の留置場には、本土空襲に参加し、捕虜になった米軍搭乗員が多数取容されていた。
 もう薄暗く、たたき廊下には、ポツンと電灯が一つにぶく光っている。この取調室は急造のバラックで、きわめて、粗末のものだった。
 そこには取調用の机と椅子があるだけで、殺風景そのものである。
 見れば黒の詰襟、いくぶんやせ型の村夫子(そんぷうし)然とした男が、端然と机の前にすわっていた。
 これが殖田だった。
 私は、さっそく殖田に向って、こんな質問をぶつけた。
「僕がここに来たのは、君に聞きたいことがあったからだ。
 君はこれまで、関東軍や陸軍中央部を赤だ赤だといっているが、どうした根拠で、そんなことをいって歩いているのか、その資料と理由を、この僕にはっきり示して欲しいのだ」
 彼は、静かに、いくぶん低い声で、二十分近くもしゃべりつづけたが、要旨は、つぎのようなものだった。
「関東軍および満州国の政治の動き方を見ていると、なんとはなしに、社会主義的な傾向がうかがわれる。
 協和会思想のごときは、その顕著な例だと思う。
 関東軍は満州国の育成と発展をもって、これを、日本の革新に及ぼそうとしている。
 すでに、日本にもこうした社会主義的理念、および政策を導入していると見られる。
 また、陸軍の政策を見ていると、国家社会主義の色彩が濃厚であり、かって私が見た、陸軍でつくられたという重要産業五ヵ年計画なるものは、明らかに社会主義であり、しかも、陸軍の政策は、この基本計画を逐一実施しつつあるものと認められる。
 これをもって、私は陸軍中央部の赤化という」
 これを聞いた私は、
「それはその通りだ。君の思想的な慧眼には敬意を表する。
 だが、まだ君は、その事態の奥行きを知らないようだ。僕がいささか君に説明してあげよう。
 第一点についていえば、満州国協和会思想は、明らかに、一国一党の国家社会主義だ。
 そして、この協和会思想を、日本革新の名において、日本に及ぼそうとしたことがあったのも事実である。
 しかし、それは、私がここの特高課長をしているときに、一網打尽に引上げた、いわゆる浅原事件(「昭和維新と浅原健三の陰謀」の項参照)というのがそれだ。
 我々は君らの心配していることを、すでに、数年前に処理してしまっている。
 また、第二点の陸軍の政策が赤だと君はいうけれども、これは君のいった通り、その重要産業五ヵ年計画なるものは、社会主義者の宮崎(正義)という人がつくったものだ。
 これは石原中将が、この人を使ってこしらえさせたもので、すでに廃案になっていたが、これも不届きだというので、浅原検挙の時に同時に破棄させたものである。
 これらの点については、私みずから取扱い、処置したことで、君らの杞憂に先行して、陸軍の粛正として取上げたものだ。
 浅原事件は、昭和十三年の暮から、翌年春にかけてのことだから、すでに、六年もたっている。
 そんな古い事柄や古い資料を今頃もち出して、現在の陸軍の赤化として持ち回られることは、陸軍としてはしごく迷惑なことだ。
 今はすべてが、嶮(け)わしい戦いに骨身を砕いている。
 この現在において、陸軍が赤化しでいるというなら、具体的な事実について、これこれが軍の赤化だという証拠をはっきり示してもらいたい。
 それならば、私は喜んで承わろう」
「そうした具体的なものをつかんでいるわけではない」
「君は、軍の赤化を一枚看板にして、重臣やその他の要路の人々に説き回っているが、軍のことをいうならば、もっと、陸軍そのものを研究してかからねばならない。
 皮相な見解や臆断で軍を批判することは、とりもなおさず軍への中傷であって、これこそ戦争遂行を妨げるものと断ぜざるを得ない」
と、私は彼を、激しくきめつけた。
「まことに軽卒にして申訳けのないことです」
と、彼は、私の前に頭を下げた。
 これが、殖田と私との問答の要旨である。この殖田が後の法務総裁(第二、三次吉田内閣)その人である。
 以上が、私の吉田、殖田取調状況実見記である。
 私はその夜八時頃、自室に戻ってから、同行の高坂君にこんなことをいったのを覚えている。

『吉田という男は、ずいぶん頑固で、激情家で、気位の高いやつだ。
 それが憲兵隊に来て、一准尉に、お前だの何だのいわれ、その上、痛いところをつつかれて、すっかり感情を害し、極度の反感反情をもって対抗してきている。
 意気込みは鋭くても、若い准尉では、取調べもかなり困難なことだ。
 さっきもいったように、こういった男には、やはり礼を厚くし、その信念なるものをうけ入れて訊問することが大切だ。 ただ”ガムシャラ”にかぶりついていっても、成功するものではない。
 かえって、ああした”ガラ”の悪い取調べになってしまう。
 それにしても、僕も昔からたくさんの人間を取調べてきたが、ああいった怒りっぽい男は、ちよっと珍らしい存在だね。
 また、殖田という男、一見して学者肌ともいえず、学校の先生タイプで、ヘナヘナしたように見えるが、さすがに経済を専攻しているためか、思想的には鋭いものをもっているようだ。
 しかし、彼の意見は、陸軍の一時期、一局面を見ての考察であって、遺憾ながら正鵠を得ていない。
 これも彼が現役軍人との接触を、ほとんど持っていないことによるのだろう。
 こういう半可通の輩が、民間の軍部通として重臣層に出入りしていることは、軍のために、はなはだ危険なことだと思う』と。
 これは当時の私の素直な実惑だったといっていい。

11 ついに不起訴となる

 これらの人々の原調べがすんだ。犯罪の容疑は十分なのだ。
 そこで、私はさらに、第二次捜査に進展させるかどうか、決心することを余儀なくさせられたが、吉田検挙以来、一般の推移を見ていると、吉田たちを逮捕したことで、いわゆる和平派、親英派に対する暗黙の警告は、相当きいていることが確認されていた。
 そこで、この一連の事件は、なるべく消極的に持っていくことがよいことだと思った。
 かくて、私は、発展的に第二次捜査を止めることに決めた。
 そして、単に、第一次捜査の結末をつける意味で、樺山、原田、小畑だけを一応取調べることにしたのである。
 この捜査は、四月二十六日から開始された。そして、すでにこれらの人々の軍事上の造言飛語罪の容疑資料は十分に整っていたけれども、あえて問題とせず、吉田や殖田などの証拠固めの意味の参考調べといった程度ですますことにしたのであった。
 だから、これらの人々は、わざわざ憲兵隊に出頭を命ずることもなく、居宅取調という形式をとった。
 それは、在大磯の樟山はすでに老体であるし、また原田は、その頃病臥中であった。これらの人々を、いつ空襲があるかわからない東京に連行することは、どうかと思われたし、小畑は在郷であっても、陸軍の先輩といった立場を尊重しての処置だったのである。
 たしか大磯へは、憲兵が二、三泊で出張して居宅訊問を行い、小畑の場合は、大畠中尉みずから彼の中野の自宅で調べたはずである。
 さて、このように、この捜査に私が消極的な態度をとったため、世間の一部では、当時、どこからか憲兵が圧力をうけたのではないかという疑惑をもつものもあったが、私の身辺にはいずれの方面からも、いささかの圧力もなかった。
 すべて、私の判断のままに動いたものであることを、ここで、はっきりさせておく。
 終戦後、殖田俊吉手記するところの『日本バドリオ事件顛末』(二十四年十二月、文芸春秋)には、
「小畑君は引張られなかったが、これは引張られたと同じに、憲兵が家にいって、調書をとっている。
二週間くらい軟禁されている」
 と、書いているし、また細川日記(「情報天皇に達せず」)によると、原田男は、自邸で四日間の取調べをうけ、かつ家宅捜索もうけた。樺山愛輔伯も家宅捜索をうけたとある。
 共に、相当な誇張はあるが、彼らを取調べたことは事実である。けれども、それは単なる参考人に過ぎなかった。
 さて、吉田茂他二名は、五月二日東部軍軍法会議に書類送付、翌三日、身柄を東京代々木陸軍刑務所に移した。
 その後のことは知らぬ。
 陸軍刑務所に収容されたこれらの人々は、あの五月二十五日の夜間大空襲で、代々木刑務所が焼かれるまでおり、代々木が焼けたので、その数日後に保釈で出所を許されたはずである。
 彼らは、釈放運動には相当に動いたらしい。
 私がこのような消極的な決心をした後になって、ある人が私を訪ねて、暗に穏便な処置を懇請したこともあった。
 また私が、終戦後になって、時の外務大臣だった東郷茂徳氏に聞いたところでは、東郷外相も吉田の身を思って、阿南陸相にしばしば吉田らの釈放を懇請したが、陸相は、
「若いものがいうことを聞かないので」
とて、明答を与えなかったという。
 この事件は、結局において、不起訴だった。
 陸軍省では起訴、不起訴が問題となり、兵務局を中心とした幕僚は強く起訴を主張したが、けっきよく、阿南陸相の裁断で不起訴と決定したということであった。
 私はいつも、事件がいったん憲兵の手を離れてからは、成行には無関心だった。
 したがって、この場合も、吉田が釈放されようが、殖田が不起訴になろうが、それは、軍法会議の権限においてなされることであって、そうしたことには一片の干渉もしたことはなかった。
 まして、戦局困難を訴え、また、あの激しい空襲の連続下では、もはや、過去のことに気を配るだけの余裕のなかったことも事実である。

12 『注』 昭和二十年二月十四日 近衛文麿上奏文案(原文のまま) top
 敗戦は遺憾ながら、最早、必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
 敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の与論は、今日迄の所、国体の変更にまで進み居らず、(勿論、一部には、過激論あり、又、将来、いかに変化するかは測知し難し。)従って、敗戦だけならば、国体上は、さまで、憂ふる要なしと存候。
 国尊護持の立前より、最も、憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に侯。       つらつら、思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向って、急速度に進行しつつありと存候。
 即ち、国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。我国民は、ソ連の意図を的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち、二段革命戦術採州以来、殊に、最近、コミンテルン解消以来、赤化の陰謀を軽視する傾向顕著なるが、これは、皮相安易なる見方と存侯。
 ソ連が究極に於て、其周辺諸国には、ソヴィエット的政権を樹立せんとして、著々、其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。
 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座侯。ポーランドに対しては、予め、ソ連内に準備せるポーランド愛国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。ルーマニア、ハンガリー、フインランドに対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上、ソヴィエット政権に非らざれば、存在し得ざる如く強要致侯。イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致候。スイスがソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連はスイス政府を以て、親枢軸的なりとして一蹴し、之が為、外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は、何れも、政治的危機に見舞はれつつあり。而して、是等武装団を指導しつつあるは、主として、共産系に御座候。
 ドイツに対しては、ポーランドに於けると同じく、已に、準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは、英米にとり、今は頭痛の種なりと、存ぜられ候。
 ソ連は、かくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場をとるも、事実に於ては、程度の内政干渉をなし、国内政治は親ソ的方向に引きずらんと為し居り侯。ソ連のこの意図は、東亜に対しても、亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(編集部註・野坂参三)を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立連盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
 かくの如き形勢より推して考へるに、ソ連は、やがて、日本の内政にも干渉し来る危険、充分ありと存ぜられ候。(即ち、共産党公認、共産主義者入閣――ド・ゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く――治安維持法、及び、防共協定の廃止等々)
 翻って、国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々、具備せられ行く観、有之候。
 即ち、生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、之に便乗する所請新官僚の運動、及び、之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内、特に、憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体は共産主義と両立するものなりと信じ居るものの即く、軍部内革新論の基調も、亦、ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、此の主張に耳傾けらることありと仄聞(そくぶん)いたし候。
 職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは、共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。已に、彼等は、軍隊教育に於て、国体観念丈けは、徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は、国体と共産主義の両立場を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 節々、満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して、遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、差等軍部一味の意識的計画なりしこと、今や、明瞭なりと存候。
 満洲事変当時、彼等が、事変の目的は、国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。
 支那事変当時も「事変は永引くがよろし、事変解決せば、国内革新は出来なくなる」と、公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。
 是等軍部内一味の者の革新の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚、及び民間有志(之を右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂右翼は、国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に、共産革命に迄、引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て、大過なしと存候。
 此の事は、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り、交友を有せし不肖が、最近、静かに反省しで到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々、頗る多さを感ずる次第に御座候。不肖は、この間、二度迄、組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ、是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を充分に、看取する能はざりしは、全く、不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
 昨今、戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に、勢を加へつつありと存候。
 かかる主張をなす者は、所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之により国内を混乱に陥れ、革命の目的を達せんとする共産分子なりと説み居り侯。
 一方に於て、徹底的英米撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は、次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひても、ソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又、延安との提携を、考へ居る者もありとの事に御座候。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる奸条件が、日一日と、成長致しつつあり、今後、戦局益々不利ともなれば、此の形勢は、急速に、進展可致と存候。
 戦局の前進につき、何等か一縷(いちる)でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を、之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 従って、国体護持の立場よりすれば、一日も速かに、戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来、今日の事態にまで、時局を推進し来りし軍部内の、かの一味の存在なりと存侯。
 彼等は、已に、戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽く迄、抵抗可致者と存ぜられ候。
 もし、此の一味を一掃せずして、早急に、戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志、この一味と響応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先づ、其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。
 此の一味さヘー掃せらるれば、便乗の官僚、並に右翼、左翼の民間分子も、声を僣むべく候。
 蓋し、彼等は、まだ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達すんとするものに外ならざるが故に、基本を絶てば、枝葉は自ら枯れるものと存侯。
 尚、これは、少々、希望的観測かは知れず候へ共、若し、此等一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び、重慶の空気或は緩和するに非らざるか。元来、英米乃至重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改まらは、彼等としても、戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はれ候。
 それは、兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断こそ、望ましく存候。
以上  

http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani3.htm#0
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html#c6

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
4. 中川隆[-11149] koaQ7Jey 2020年9月25日 17:25:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[37]

2020年09月25日
米公的債務が激増し2050年にGDP比400%になる可能性


2050年に米公的債務はGDP比400%

コロナ後のアメリカが悪い方向に進むのを示唆するような見通しを米政府が示している。

ロイターによると 米議会予算局(CBO)は、2050年に連邦債務がGDP比2倍になるというっ予想を発表した。

GDP比2倍は現在の日本と同じだが、アメリカの連邦債務は公的債務の一部に過ぎません。

他にも州や市など地方自治体の債務があり、「道路公団」のような民間を偽装した政府機関が非常に多い。

クリントン大統領は民間刑務所や民営有料道路など民営化を推進したので、民間の公的債務が見えなくなっている。

特に目に見えない年金とか福祉関係で、隠れ債務が非常に多いと言われています。(軍人恩給など)


アメリカ合衆国全体の公的債務は安全保障上の秘密なので公表が禁止されていて、実は誰も知りません。

だが推測では連邦債務の2倍とされているので、2050年に米公的債務はGDP比400%に達すると米議会予算局は言っているのです。

この数字を聞いたら日本の財務省はイスから転げ落ちて驚くでしょうが、中国はもっと先をいっています。


中国は2008年のリーマンショックで自律的経済成長が終わり、以降は公的投資によって経済成長しています。

GDP比2倍3倍は当たり前になる

中国は毎年日本1個分に相当する鉄道や高速道路や都市建設など公共事業を行い、公共事業でGDPを増やしました。

その結果公的債務は既にGDP比300%を超え、数年以内に400%に達してしまうでしょう。

公共事業でGDPを毎年6%も増やすには、毎年前年度より6%以上、公共投資予算を増やさねばならない。


2008年以降に建設した鉄道や公共施設は全て赤字なので、公共事業費は借金として積み重なっていきます。

話をアメリカに戻すと、アメリカや中国がこれほど公的債務を増やせた理由は連邦制にあります。

アメリカは合衆国だし中国は地方政府があり、ドイツも連邦政府なので「財布がいくつもある」状態です。


2020年はコロナによって税収が減少し支出が増え、単年度で16%の財政赤字が発生する。

米議会予算局(CBO)は米国の財政は持続不可能と言っているが、政治家や国民は気にしていない。

80年代の日本のような状況で、「そんな事を言ってもお金は無限にあるんだろ」とみんな思っています。
http://www.thutmosev.com/archives/83973797.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c4

[近代史5] 米公的債務が激増し2050年にGDP比400%になる可能性

2020年09月25日
米公的債務が激増し2050年にGDP比400%になる可能性


2050年に米公的債務はGDP比400%

コロナ後のアメリカが悪い方向に進むのを示唆するような見通しを米政府が示している。

ロイターによると 米議会予算局(CBO)は、2050年に連邦債務がGDP比2倍になるというっ予想を発表した。

GDP比2倍は現在の日本と同じだが、アメリカの連邦債務は公的債務の一部に過ぎません。

他にも州や市など地方自治体の債務があり、「道路公団」のような民間を偽装した政府機関が非常に多い。

クリントン大統領は民間刑務所や民営有料道路など民営化を推進したので、民間の公的債務が見えなくなっている。

特に目に見えない年金とか福祉関係で、隠れ債務が非常に多いと言われています。(軍人恩給など)


アメリカ合衆国全体の公的債務は安全保障上の秘密なので公表が禁止されていて、実は誰も知りません。

だが推測では連邦債務の2倍とされているので、2050年に米公的債務はGDP比400%に達すると米議会予算局は言っているのです。

この数字を聞いたら日本の財務省はイスから転げ落ちて驚くでしょうが、中国はもっと先をいっています。


中国は2008年のリーマンショックで自律的経済成長が終わり、以降は公的投資によって経済成長しています。

GDP比2倍3倍は当たり前になる

中国は毎年日本1個分に相当する鉄道や高速道路や都市建設など公共事業を行い、公共事業でGDPを増やしました。

その結果公的債務は既にGDP比300%を超え、数年以内に400%に達してしまうでしょう。

公共事業でGDPを毎年6%も増やすには、毎年前年度より6%以上、公共投資予算を増やさねばならない。


2008年以降に建設した鉄道や公共施設は全て赤字なので、公共事業費は借金として積み重なっていきます。

話をアメリカに戻すと、アメリカや中国がこれほど公的債務を増やせた理由は連邦制にあります。

アメリカは合衆国だし中国は地方政府があり、ドイツも連邦政府なので「財布がいくつもある」状態です。


2020年はコロナによって税収が減少し支出が増え、単年度で16%の財政赤字が発生する。

米議会予算局(CBO)は米国の財政は持続不可能と言っているが、政治家や国民は気にしていない。

80年代の日本のような状況で、「そんな事を言ってもお金は無限にあるんだろ」とみんな思っています。
http://www.thutmosev.com/archives/83973797.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/321.html

[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
三橋さんの発想は昭和的なんですね。
現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。
失業者には国が十分な金を出せばいいだけでしょう。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html
[近代史4] 御用学者列伝 _ 竹中平蔵 中川隆
11. 中川隆[-11148] koaQ7Jey 2020年9月25日 22:03:40 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[48]
<売国の竹中平蔵氏を頼るスガノミクスの正体>地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/135.html


「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例を打破して規制改革を行う。そして、国民のために働く内閣をつくるお約束をしました。アンテナを高くして、スピード感を持って国民の皆さんの期待にお応えをしたい」

 16日の首相就任から1週間。「ぶら下がり」と呼ばれる官邸出退時の囲み取材をほとんど受け付けなかった菅首相が23日、珍しく応じた。就任翌朝の17日以来だ。

 発足にあたって各社の世論調査で高支持率を得て、気を良くしているのかもしれない。総裁選から掲げてきた規制改革、前例主義や既得権益の打破が国民に好感されているという手ごたえもあるのだろう。事あるごとに「規制改革」「既得権益打破」を連発している。

 このフレーズには、なんだか既視感を覚えるが、18日には早速、「ミスター構造改革」こと竹中平蔵パソナグループ会長と朝食を共にして懇談していた。

「菅政権発足で、竹中氏のメディア露出が一気に増えてきたように感じます。昨夜もBS―TBSの番組に出て、政権の経済ブレーンを気取っていた。実際、地銀再編やデジタル庁、携帯料金値下げなど、菅首相が打ち出した政策は、竹中氏の受け売りなのです。竹中氏は、『アーリースモールサクセス』とも言っていた。国民に受けて、短期間で実現できそうな携帯料金や不妊治療で実績を上げれば、たとえそれが小さな政策課題だったとしても手腕が評価される。それで求心力が高まり、その後の大きな改革がやりやすくなるという理論です。小泉政権時代、構造改革の名の下に日本社会を切り崩し、新自由主義に邁進して格差を広げた竹中氏が表舞台に復活。“子分”の菅首相を使って、日本を破壊し尽くそうとしているように見えます」(経済アナリスト・菊池英博氏)

弱者に「自助」を強いる冷酷

 この2人の関係は深い。小泉政権で郵政民営化を進めた竹中総務相(当時)の下で、副大臣を務めていたのが菅だった。

「第2次安倍政権が発足した際、菅さんは経済財政諮問会議の議員に竹中氏を推したそうです。しかし麻生副総理が反対したため、竹中氏は産業競争力会議(現・未来投資会議)の民間議員に収まったのです」(官邸関係者)  

 菅が掲げる「自助・共助・公助」は、いかにも竹中チックな新自由主義的発想だ。小さな政府で、公的分野も効率を重視、可能な限り市場原理に任せる。社会的弱者の困窮は「自己責任」と切り捨て、まずは自力でなんとかしろと突き放す。

 守旧派の権化のような二階幹事長と手を組み、「雪深い秋田のイチゴ農家に生まれ……」と地方出身を強調して、叩き上げストーリーを売り物に首相の座に上り詰めた菅だが、その実体は、地方や弱者に厳しく、セーフティーネットを外して自助を強いる冷たい為政者なのである。

 むしろ、短期間で効率的に権力を手中にするため、利用できるものは何でも使うというドライな態度は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義者そのものといえるかもしれない。

 そういう菅の姿勢には、永田町でも警戒の声が上がり始めている。特に、福祉政策を重視してきた公明党は、弱肉強食の新自由主義とは相いれない。公明の斉藤幹事長は早速、「菅総理の『自助』が新自由主義的な自助なら、我々はある意味で抵抗しないといけないが、菅政権は公助を重視するだろう」とクギを刺していた。

地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う

「菅首相には、世襲議員でもない自分が努力して這い上がり、権力の頂点に上り詰めたという思いがあるのでしょう。そういう人は他者に対しても、努力しないヤツが悪いという考え方になりがちです。世の中には、生まれつきの事情で思うように働けない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。それを是正するのが政治の役割のはずなのに、セーフティーネットを外し、弱者を切り捨てて、強者に集約する効率化こそが正義だと考えているのではないでしょうか。経済政策はアベノミクスの継承と言っていますが、安倍政権以上に市場原理的な色彩を発展させ、格差拡大を是認する方向に進みそうです。それが彼の言う『国民のために働く』ことだとすれば、苦労人のイメージでやみくもに菅首相を支持している国民は、痛い目を見ることになりかねません」(経済評論家・斎藤満氏)

 菅は総裁選の時から、「数が多過ぎる」と地銀の統廃合に言及していた。さらには、中小企業の淘汰にも着手する考えを鮮明にしている。

 税制上の優遇措置などがある中小企業の定義を変え、再編や統合を促すという。

 その手段として、中小企業基本法を見直し、最低賃金を引き上げる方針だ。賃上げに耐えられない中小企業は、潰れてくれて構わないというのである。

 とはいえ、日本は国内企業の99%が中小企業だ。労働者人口でも約7割を占める。企業淘汰を強引に促進すれば、社会の混乱を招くという声が自民党内にもある。

米国に貢げば政権安泰の算段か

 菅と同じく新自由主義を信奉する日本維新の会は、大阪府の吉村洋文知事や橋下徹元大阪市長らが「規制改革に期待」ともてはやしているが、新自由主義の限界が露呈したのが、このコロナ禍ではなかったか。維新の大阪はとりわけ顕著だが、保健所の数を減らし、医療にも効率を持ち込んで病床を減らし、福祉を軽視してきた。その結果、検査数は増えず、医療崩壊は目前に迫った。

 菅と維新の親密な関係も、新自由主義的な政策で一致していることが大きい。竹中も維新のブレーンを務めていたことがある。連中の特徴は、ひたすら「改革」を叫ぶことである。それは、ここ30年間変わらない。

 そもそも「改革」という言葉ほどうさんくさいものはない。行政改革、構造改革、規制改革――。平成30年間で、改革という言葉に踊らされ、どれだけ大切なものが失われてきたか。

 郵政民営化もそうだったが、インフラにも競争原理が持ち込まれて地方は疲弊。地方と都市部、持たざる者と富裕層の格差は広がる一方で、それが固定化されつつある。日本の経済成長を支えてきた中間層も二極化に向かい、“上級国民”なんて言葉も生まれた。

 菅が自身の実績として語る「ふるさと納税」だって、本当に地方の活性化に役立っているのかどうか。都市部の富裕層が税制上お得に地方の名産を“お取り寄せ”できるようになっただけの話で、上級国民目線、中央からの発想に過ぎない。

 和歌山県出身の竹中も、日本に何の恨みがあるのかと思うほど、地方に冷たい。昨年、「News Picks」のイベントでこう語っていた。

「和歌山県の人口は、2030年にかけて2割近く減少します。そうなると、非常に残念ではありますが、今ある村や集落が維持できなくなるのは明らかです」

「少人数の人たちのためにインフラを提供するのは難しいので、たとえば『申し訳ないですが、和歌山県内の郡部に住んでいる人は和歌山市、あるいは大阪市に移って下さい。そのための費用は国が持ちます。働く場所もきちんと用意します』という政策を打たざるを得ないのです」

 つまり、過疎地は捨てて、都市部に集約せよというのである。人の人生を何だと思っているのか。郷土への愛着より効率化が優先。保守とは程遠い態度だ。

「体力のない地銀も中小企業も潰して集約すれば、必ず失業者があふれる。それを竹中氏が会長を務めるパソナが、非正規社員として安くこき使おうとしているのではないですか。大企業優遇の安倍政権で実質賃金が削られ、負担を強いられた国民はますます窮乏化していく。米国の手先になって、日本国民の富を吸い上げてきた売国奴の竹中氏を頼っている時点で、菅政権のもくろみが透けて見えます。携帯料金値下げにしても、外資を呼び込もうとしている可能性がある。米国に貢いでいれば政権が安定するという保身が働いているのでしょう」(菊池英博氏=前出)

 スガノミクス――というものがあるとしたらだが――、これは格差拡大から階級的分断を進めるものに他ならない。目先の携帯料金値下げで喜んでいたら、大きなツケを払わされることになる。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/727.html#c11

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
25. 中川隆[-11147] koaQ7Jey 2020年9月25日 22:04:10 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[49]
<売国の竹中平蔵氏を頼るスガノミクスの正体>地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/135.html


「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例を打破して規制改革を行う。そして、国民のために働く内閣をつくるお約束をしました。アンテナを高くして、スピード感を持って国民の皆さんの期待にお応えをしたい」

 16日の首相就任から1週間。「ぶら下がり」と呼ばれる官邸出退時の囲み取材をほとんど受け付けなかった菅首相が23日、珍しく応じた。就任翌朝の17日以来だ。

 発足にあたって各社の世論調査で高支持率を得て、気を良くしているのかもしれない。総裁選から掲げてきた規制改革、前例主義や既得権益の打破が国民に好感されているという手ごたえもあるのだろう。事あるごとに「規制改革」「既得権益打破」を連発している。

 このフレーズには、なんだか既視感を覚えるが、18日には早速、「ミスター構造改革」こと竹中平蔵パソナグループ会長と朝食を共にして懇談していた。

「菅政権発足で、竹中氏のメディア露出が一気に増えてきたように感じます。昨夜もBS―TBSの番組に出て、政権の経済ブレーンを気取っていた。実際、地銀再編やデジタル庁、携帯料金値下げなど、菅首相が打ち出した政策は、竹中氏の受け売りなのです。竹中氏は、『アーリースモールサクセス』とも言っていた。国民に受けて、短期間で実現できそうな携帯料金や不妊治療で実績を上げれば、たとえそれが小さな政策課題だったとしても手腕が評価される。それで求心力が高まり、その後の大きな改革がやりやすくなるという理論です。小泉政権時代、構造改革の名の下に日本社会を切り崩し、新自由主義に邁進して格差を広げた竹中氏が表舞台に復活。“子分”の菅首相を使って、日本を破壊し尽くそうとしているように見えます」(経済アナリスト・菊池英博氏)

弱者に「自助」を強いる冷酷

 この2人の関係は深い。小泉政権で郵政民営化を進めた竹中総務相(当時)の下で、副大臣を務めていたのが菅だった。

「第2次安倍政権が発足した際、菅さんは経済財政諮問会議の議員に竹中氏を推したそうです。しかし麻生副総理が反対したため、竹中氏は産業競争力会議(現・未来投資会議)の民間議員に収まったのです」(官邸関係者)  

 菅が掲げる「自助・共助・公助」は、いかにも竹中チックな新自由主義的発想だ。小さな政府で、公的分野も効率を重視、可能な限り市場原理に任せる。社会的弱者の困窮は「自己責任」と切り捨て、まずは自力でなんとかしろと突き放す。

 守旧派の権化のような二階幹事長と手を組み、「雪深い秋田のイチゴ農家に生まれ……」と地方出身を強調して、叩き上げストーリーを売り物に首相の座に上り詰めた菅だが、その実体は、地方や弱者に厳しく、セーフティーネットを外して自助を強いる冷たい為政者なのである。

 むしろ、短期間で効率的に権力を手中にするため、利用できるものは何でも使うというドライな態度は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義者そのものといえるかもしれない。

 そういう菅の姿勢には、永田町でも警戒の声が上がり始めている。特に、福祉政策を重視してきた公明党は、弱肉強食の新自由主義とは相いれない。公明の斉藤幹事長は早速、「菅総理の『自助』が新自由主義的な自助なら、我々はある意味で抵抗しないといけないが、菅政権は公助を重視するだろう」とクギを刺していた。

地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う

「菅首相には、世襲議員でもない自分が努力して這い上がり、権力の頂点に上り詰めたという思いがあるのでしょう。そういう人は他者に対しても、努力しないヤツが悪いという考え方になりがちです。世の中には、生まれつきの事情で思うように働けない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。それを是正するのが政治の役割のはずなのに、セーフティーネットを外し、弱者を切り捨てて、強者に集約する効率化こそが正義だと考えているのではないでしょうか。経済政策はアベノミクスの継承と言っていますが、安倍政権以上に市場原理的な色彩を発展させ、格差拡大を是認する方向に進みそうです。それが彼の言う『国民のために働く』ことだとすれば、苦労人のイメージでやみくもに菅首相を支持している国民は、痛い目を見ることになりかねません」(経済評論家・斎藤満氏)

 菅は総裁選の時から、「数が多過ぎる」と地銀の統廃合に言及していた。さらには、中小企業の淘汰にも着手する考えを鮮明にしている。

 税制上の優遇措置などがある中小企業の定義を変え、再編や統合を促すという。

 その手段として、中小企業基本法を見直し、最低賃金を引き上げる方針だ。賃上げに耐えられない中小企業は、潰れてくれて構わないというのである。

 とはいえ、日本は国内企業の99%が中小企業だ。労働者人口でも約7割を占める。企業淘汰を強引に促進すれば、社会の混乱を招くという声が自民党内にもある。

米国に貢げば政権安泰の算段か

 菅と同じく新自由主義を信奉する日本維新の会は、大阪府の吉村洋文知事や橋下徹元大阪市長らが「規制改革に期待」ともてはやしているが、新自由主義の限界が露呈したのが、このコロナ禍ではなかったか。維新の大阪はとりわけ顕著だが、保健所の数を減らし、医療にも効率を持ち込んで病床を減らし、福祉を軽視してきた。その結果、検査数は増えず、医療崩壊は目前に迫った。

 菅と維新の親密な関係も、新自由主義的な政策で一致していることが大きい。竹中も維新のブレーンを務めていたことがある。連中の特徴は、ひたすら「改革」を叫ぶことである。それは、ここ30年間変わらない。

 そもそも「改革」という言葉ほどうさんくさいものはない。行政改革、構造改革、規制改革――。平成30年間で、改革という言葉に踊らされ、どれだけ大切なものが失われてきたか。

 郵政民営化もそうだったが、インフラにも競争原理が持ち込まれて地方は疲弊。地方と都市部、持たざる者と富裕層の格差は広がる一方で、それが固定化されつつある。日本の経済成長を支えてきた中間層も二極化に向かい、“上級国民”なんて言葉も生まれた。

 菅が自身の実績として語る「ふるさと納税」だって、本当に地方の活性化に役立っているのかどうか。都市部の富裕層が税制上お得に地方の名産を“お取り寄せ”できるようになっただけの話で、上級国民目線、中央からの発想に過ぎない。

 和歌山県出身の竹中も、日本に何の恨みがあるのかと思うほど、地方に冷たい。昨年、「News Picks」のイベントでこう語っていた。

「和歌山県の人口は、2030年にかけて2割近く減少します。そうなると、非常に残念ではありますが、今ある村や集落が維持できなくなるのは明らかです」

「少人数の人たちのためにインフラを提供するのは難しいので、たとえば『申し訳ないですが、和歌山県内の郡部に住んでいる人は和歌山市、あるいは大阪市に移って下さい。そのための費用は国が持ちます。働く場所もきちんと用意します』という政策を打たざるを得ないのです」

 つまり、過疎地は捨てて、都市部に集約せよというのである。人の人生を何だと思っているのか。郷土への愛着より効率化が優先。保守とは程遠い態度だ。

「体力のない地銀も中小企業も潰して集約すれば、必ず失業者があふれる。それを竹中氏が会長を務めるパソナが、非正規社員として安くこき使おうとしているのではないですか。大企業優遇の安倍政権で実質賃金が削られ、負担を強いられた国民はますます窮乏化していく。米国の手先になって、日本国民の富を吸い上げてきた売国奴の竹中氏を頼っている時点で、菅政権のもくろみが透けて見えます。携帯料金値下げにしても、外資を呼び込もうとしている可能性がある。米国に貢いでいれば政権が安定するという保身が働いているのでしょう」(菊池英博氏=前出)

 スガノミクス――というものがあるとしたらだが――、これは格差拡大から階級的分断を進めるものに他ならない。目先の携帯料金値下げで喜んでいたら、大きなツケを払わされることになる。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c25

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
111. 中川隆[-11146] koaQ7Jey 2020年9月25日 22:04:40 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[50]
<売国の竹中平蔵氏を頼るスガノミクスの正体>地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo276/msg/135.html


「役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例を打破して規制改革を行う。そして、国民のために働く内閣をつくるお約束をしました。アンテナを高くして、スピード感を持って国民の皆さんの期待にお応えをしたい」

 16日の首相就任から1週間。「ぶら下がり」と呼ばれる官邸出退時の囲み取材をほとんど受け付けなかった菅首相が23日、珍しく応じた。就任翌朝の17日以来だ。

 発足にあたって各社の世論調査で高支持率を得て、気を良くしているのかもしれない。総裁選から掲げてきた規制改革、前例主義や既得権益の打破が国民に好感されているという手ごたえもあるのだろう。事あるごとに「規制改革」「既得権益打破」を連発している。

 このフレーズには、なんだか既視感を覚えるが、18日には早速、「ミスター構造改革」こと竹中平蔵パソナグループ会長と朝食を共にして懇談していた。

「菅政権発足で、竹中氏のメディア露出が一気に増えてきたように感じます。昨夜もBS―TBSの番組に出て、政権の経済ブレーンを気取っていた。実際、地銀再編やデジタル庁、携帯料金値下げなど、菅首相が打ち出した政策は、竹中氏の受け売りなのです。竹中氏は、『アーリースモールサクセス』とも言っていた。国民に受けて、短期間で実現できそうな携帯料金や不妊治療で実績を上げれば、たとえそれが小さな政策課題だったとしても手腕が評価される。それで求心力が高まり、その後の大きな改革がやりやすくなるという理論です。小泉政権時代、構造改革の名の下に日本社会を切り崩し、新自由主義に邁進して格差を広げた竹中氏が表舞台に復活。“子分”の菅首相を使って、日本を破壊し尽くそうとしているように見えます」(経済アナリスト・菊池英博氏)

弱者に「自助」を強いる冷酷

 この2人の関係は深い。小泉政権で郵政民営化を進めた竹中総務相(当時)の下で、副大臣を務めていたのが菅だった。

「第2次安倍政権が発足した際、菅さんは経済財政諮問会議の議員に竹中氏を推したそうです。しかし麻生副総理が反対したため、竹中氏は産業競争力会議(現・未来投資会議)の民間議員に収まったのです」(官邸関係者)  

 菅が掲げる「自助・共助・公助」は、いかにも竹中チックな新自由主義的発想だ。小さな政府で、公的分野も効率を重視、可能な限り市場原理に任せる。社会的弱者の困窮は「自己責任」と切り捨て、まずは自力でなんとかしろと突き放す。

 守旧派の権化のような二階幹事長と手を組み、「雪深い秋田のイチゴ農家に生まれ……」と地方出身を強調して、叩き上げストーリーを売り物に首相の座に上り詰めた菅だが、その実体は、地方や弱者に厳しく、セーフティーネットを外して自助を強いる冷たい為政者なのである。

 むしろ、短期間で効率的に権力を手中にするため、利用できるものは何でも使うというドライな態度は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義者そのものといえるかもしれない。

 そういう菅の姿勢には、永田町でも警戒の声が上がり始めている。特に、福祉政策を重視してきた公明党は、弱肉強食の新自由主義とは相いれない。公明の斉藤幹事長は早速、「菅総理の『自助』が新自由主義的な自助なら、我々はある意味で抵抗しないといけないが、菅政権は公助を重視するだろう」とクギを刺していた。

地方を切り捨て、失業者は非正規で安くこき使う

「菅首相には、世襲議員でもない自分が努力して這い上がり、権力の頂点に上り詰めたという思いがあるのでしょう。そういう人は他者に対しても、努力しないヤツが悪いという考え方になりがちです。世の中には、生まれつきの事情で思うように働けない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。それを是正するのが政治の役割のはずなのに、セーフティーネットを外し、弱者を切り捨てて、強者に集約する効率化こそが正義だと考えているのではないでしょうか。経済政策はアベノミクスの継承と言っていますが、安倍政権以上に市場原理的な色彩を発展させ、格差拡大を是認する方向に進みそうです。それが彼の言う『国民のために働く』ことだとすれば、苦労人のイメージでやみくもに菅首相を支持している国民は、痛い目を見ることになりかねません」(経済評論家・斎藤満氏)

 菅は総裁選の時から、「数が多過ぎる」と地銀の統廃合に言及していた。さらには、中小企業の淘汰にも着手する考えを鮮明にしている。

 税制上の優遇措置などがある中小企業の定義を変え、再編や統合を促すという。

 その手段として、中小企業基本法を見直し、最低賃金を引き上げる方針だ。賃上げに耐えられない中小企業は、潰れてくれて構わないというのである。

 とはいえ、日本は国内企業の99%が中小企業だ。労働者人口でも約7割を占める。企業淘汰を強引に促進すれば、社会の混乱を招くという声が自民党内にもある。

米国に貢げば政権安泰の算段か

 菅と同じく新自由主義を信奉する日本維新の会は、大阪府の吉村洋文知事や橋下徹元大阪市長らが「規制改革に期待」ともてはやしているが、新自由主義の限界が露呈したのが、このコロナ禍ではなかったか。維新の大阪はとりわけ顕著だが、保健所の数を減らし、医療にも効率を持ち込んで病床を減らし、福祉を軽視してきた。その結果、検査数は増えず、医療崩壊は目前に迫った。

 菅と維新の親密な関係も、新自由主義的な政策で一致していることが大きい。竹中も維新のブレーンを務めていたことがある。連中の特徴は、ひたすら「改革」を叫ぶことである。それは、ここ30年間変わらない。

 そもそも「改革」という言葉ほどうさんくさいものはない。行政改革、構造改革、規制改革――。平成30年間で、改革という言葉に踊らされ、どれだけ大切なものが失われてきたか。

 郵政民営化もそうだったが、インフラにも競争原理が持ち込まれて地方は疲弊。地方と都市部、持たざる者と富裕層の格差は広がる一方で、それが固定化されつつある。日本の経済成長を支えてきた中間層も二極化に向かい、“上級国民”なんて言葉も生まれた。

 菅が自身の実績として語る「ふるさと納税」だって、本当に地方の活性化に役立っているのかどうか。都市部の富裕層が税制上お得に地方の名産を“お取り寄せ”できるようになっただけの話で、上級国民目線、中央からの発想に過ぎない。

 和歌山県出身の竹中も、日本に何の恨みがあるのかと思うほど、地方に冷たい。昨年、「News Picks」のイベントでこう語っていた。

「和歌山県の人口は、2030年にかけて2割近く減少します。そうなると、非常に残念ではありますが、今ある村や集落が維持できなくなるのは明らかです」

「少人数の人たちのためにインフラを提供するのは難しいので、たとえば『申し訳ないですが、和歌山県内の郡部に住んでいる人は和歌山市、あるいは大阪市に移って下さい。そのための費用は国が持ちます。働く場所もきちんと用意します』という政策を打たざるを得ないのです」

 つまり、過疎地は捨てて、都市部に集約せよというのである。人の人生を何だと思っているのか。郷土への愛着より効率化が優先。保守とは程遠い態度だ。

「体力のない地銀も中小企業も潰して集約すれば、必ず失業者があふれる。それを竹中氏が会長を務めるパソナが、非正規社員として安くこき使おうとしているのではないですか。大企業優遇の安倍政権で実質賃金が削られ、負担を強いられた国民はますます窮乏化していく。米国の手先になって、日本国民の富を吸い上げてきた売国奴の竹中氏を頼っている時点で、菅政権のもくろみが透けて見えます。携帯料金値下げにしても、外資を呼び込もうとしている可能性がある。米国に貢いでいれば政権が安定するという保身が働いているのでしょう」(菊池英博氏=前出)

 スガノミクス――というものがあるとしたらだが――、これは格差拡大から階級的分断を進めるものに他ならない。目先の携帯料金値下げで喜んでいたら、大きなツケを払わされることになる。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c111

[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
6. 中川隆[-11145] koaQ7Jey 2020年9月26日 07:08:12 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[1]
三橋さんは昭和脳ですね。
現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです:

(農業就業人口は引き続き減少・高齢化)
農業就業人口のうち基幹的農業従事者(*2)数は、186万2千人となり、前年に比べて18万9千人(9.2%)減少し、200万人を下回りました。 また、65歳以上の割合は59.1%と前年に比べて2ポイント低下したものの6割を占めており、平均年齢も66歳と高齢化が進んでいます。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。

セブンイレブン、業績好調なのに大量閉店の闇〜月収26万円で疲弊するオーナーたち=栫井駿介
2019年10月24日
https://www.mag2.com/p/money/798181

安物・粗悪品の製造会社、アマゾンに対抗できない小売店、国債の利息でなんとか生きながらえている地方銀行、コンビニより多い歯科医院、外人留学生が居ないとやっていけない大学・専門学校、インバウンドで食べている旅館・観光会社、風俗等のヤクザのしのぎになっている仕事、パチンコ・IR
すべて日本の生産性を下げているだけの無意味・無駄な仕事です。

失業者には国が十分な金を出せばいいだけでしょう。
MMTでお金はいくらでも発行できます。
生活困窮者の生活費を国で出せばいいだけですね。
日本は世界一の金持ち国で対外資産が沢山あるので、日本人は大して働かなくても食べていけるんですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c6

[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
7. 中川隆[-11144] koaQ7Jey 2020年9月26日 07:11:52 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[2]
三橋さんは昭和脳ですね。
現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです:

(農業就業人口は引き続き減少・高齢化)
農業就業人口のうち基幹的農業従事者(*2)数は、186万2千人となり、前年に比べて18万9千人(9.2%)減少し、200万人を下回りました。 また、65歳以上の割合は59.1%と前年に比べて2ポイント低下したものの6割を占めており、平均年齢も66歳と高齢化が進んでいます。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。

セブンイレブン、業績好調なのに大量閉店の闇〜月収26万円で疲弊するオーナーたち=栫井駿介
2019年10月24日
https://www.mag2.com/p/money/798181

安物・粗悪品の製造会社、アマゾンに対抗できない小売店、国債の利息でなんとか生きながらえている地方銀行、コンビニより多い歯科医院、外人留学生が居ないとやっていけない大学・専門学校、インバウンドで食べている旅館・観光会社、風俗等のヤクザのしのぎになっている仕事、パチンコ・IR
すべて日本の生産性を下げているだけの無意味・無駄な仕事です。

________

起業家の半数が1年で廃業し収入はバイト以下
起業しても10%以下しか継続できない
起業家の厳しい実態

10数年前から日本政府は起業を奨励していて、起業すれば必ず成功するかのようなキャンペーンをやっていました。

ブームに乗って実際に起業した人たちがどうなったか検証してみると、政府が振りまいた夢とは正反対の現実があった。

中小企業白書によると個人事業主として開業した人の約3割が、1年以内に廃業し、2年で約半数、10年後には88%が廃業しています。


個人ではなく会社を設立した場合、1年以内で6割が廃業(倒産)し、5年後には85%が廃業、10年後に残っているのは6%でした。

個人事業主より会社設立の方が、より速いペースで廃業しているのが分かります。

理由は自分ひとりでやるよりも、他人に給料を払えば余計なコストが発生するからだと考えられます。


会社を設立する人はだいたい、会社員として仕事がデキる人で、自信満々で部下を引き抜いたりして開業する。

いわば人生のピークで勝負をかけて起業するのだが、統計からは例外を除いて失敗に終わっています。

「起業に成功する人、失敗する人」のような本は多く出ていますが、そもそも会社の数は足りているのです。


現在存在している会社だけで世の中は足りているのに、そこに割って入って仕事を奪うのが「起業」だと言えます。

既存の会社には目の敵にされるし、会社員として実績があっても、おそらく助けては貰えないでしょう。

それでも起業して数ヶ月の間は、会社員だった頃のツテやコネから仕事を得られる場合があるが、それも無くなります。

最先端のビジネスほど続かない

起業する人には何かアイディアがあり「これが世の中に必要とされる筈だ」というような構想があると思います。

ところが革新的なアイディアの99%は、短期間で社会から不要になる事が多いです。

インターネット関係の新しいアイディアは1年もたずに陳腐化してしまい、事業として続かない事が多いです。


自分が住んでいる地域で30年続いている会社は、不動産とか床屋とか食堂とか、平凡で代わり映えしない業種しかないと思います。

まわりで10年続いている会社を見ても、喫茶店とかコンビニとか薬局、設計事務所や大工など「パッとしない」業種ばかりだと思います。

これが意味するのは新しいアイディアほど早く陳腐化している事で、生き残ったのは平凡で「ダサい」ものだったのでした。


中でも手堅いのは食堂で、味が良くて固定客が多くついていたら、店主の体力が続くまで営業が続けられます。

人気食堂が閉店する理由の多くは、親父が病気になったとか代替わりで息子が継がなかったなどです。

社会が変わっても人間はメシを食うので、30年後も家の近所で食べ物屋は存在している筈です。


日本政策金融公庫の調査で起業家の4割がが月商30万円未満だと発表されました。

月商はもちろん売上げであって、そこから様々な経費を差し引いたのが収入になります。

仮に月商の50%が利益になるとしても月収15万円未満な訳で、起業した人の家計が非常に苦しくなるのが分かります。

10年続いたら成功者

良く不動産ビジネスで「年商1億円」のように言う人が居ますが、不動産の利益は良くて年10%以下と言われています。

しかもこれは借金が無い場合なので、利子の支払いなどがあれば年商1億円でも「年収」は500万円以下かも知れません。

起業家の8割は1人で自宅で仕事をし、最近はネットで仕事をするネット企業家が増えています。


起業した人の多くは会社員時代より収入が減り、しかも労働時間が延びる傾向があります。

働いた分だけ収入になるのは、働かなければ収入がない事なので、特に時給に換算した収入が減少します。

会社では10人分の仕事を10人でやり、起業すると1人分の仕事を1人でやり、一見同じ事に思えるが効率が大幅に悪化します。


設計の仕事で起業したとしても、膨大な雑事が発生してやりたい仕事になかなか取り掛かれないでしょう。

顧客の獲得や対応、宣伝、値引き要求や代金不払い、理不尽なクレームなどありとあらゆるトラブルを1人で処理しなくてはならない。

一時的に成功しても、流行の業種ほどすぐに陳腐化して仕事と売上げが減るのが普通です。


時代の波を乗り越えて10年後に事業を続けていられる人は、10%前後というわけです。

________

失業者には国が十分な金を出せばいいだけでしょう。
MMTでお金はいくらでも発行できます。
生活困窮者の生活費を国で出せばいいだけですね。
日本は世界一の金持ち国で対外資産が沢山あるので、日本人は大して働かなくても食べていけるんですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c7

[番外地8] 現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。 中川隆
8. 中川隆[-11143] koaQ7Jey 2020年9月26日 08:00:04 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[3]
三橋さんは昭和脳ですね。
現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです:
(農業就業人口は引き続き減少・高齢化)
農業就業人口のうち基幹的農業従事者(*2)数は、186万2千人となり、前年に比べて18万9千人(9.2%)減少し、200万人を下回りました。 また、65歳以上の割合は59.1%と前年に比べて2ポイント低下したものの6割を占めており、平均年齢も66歳と高齢化が進んでいます。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。

セブンイレブン、業績好調なのに大量閉店の闇〜月収26万円で疲弊するオーナーたち=栫井駿介
2019年10月24日
https://www.mag2.com/p/money/798181

安物・粗悪品の製造会社、アマゾンに対抗できない小売店、国債の利息でなんとか生きながらえている地方銀行、海外からの技術研修生を使わないとやっていけない会社、コンビニより多い歯科医院、外人留学生が居ないとやっていけない大学・専門学校、インバウンドで食べている旅館・観光会社、風俗等のヤクザのしのぎになっている仕事、パチンコ・IR

すべて日本の生産性を下げているだけの無意味・無駄な仕事です。

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起業家の半数が1年で廃業し収入はバイト以下
起業しても10%以下しか継続できない
起業家の厳しい実態

10数年前から日本政府は起業を奨励していて、起業すれば必ず成功するかのようなキャンペーンをやっていました。

ブームに乗って実際に起業した人たちがどうなったか検証してみると、政府が振りまいた夢とは正反対の現実があった。

中小企業白書によると個人事業主として開業した人の約3割が、1年以内に廃業し、2年で約半数、10年後には88%が廃業しています。


個人ではなく会社を設立した場合、1年以内で6割が廃業(倒産)し、5年後には85%が廃業、10年後に残っているのは6%でした。

個人事業主より会社設立の方が、より速いペースで廃業しているのが分かります。

理由は自分ひとりでやるよりも、他人に給料を払えば余計なコストが発生するからだと考えられます。


会社を設立する人はだいたい、会社員として仕事がデキる人で、自信満々で部下を引き抜いたりして開業する。

いわば人生のピークで勝負をかけて起業するのだが、統計からは例外を除いて失敗に終わっています。

「起業に成功する人、失敗する人」のような本は多く出ていますが、そもそも会社の数は足りているのです。


現在存在している会社だけで世の中は足りているのに、そこに割って入って仕事を奪うのが「起業」だと言えます。

既存の会社には目の敵にされるし、会社員として実績があっても、おそらく助けては貰えないでしょう。

それでも起業して数ヶ月の間は、会社員だった頃のツテやコネから仕事を得られる場合があるが、それも無くなります。

最先端のビジネスほど続かない

起業する人には何かアイディアがあり「これが世の中に必要とされる筈だ」というような構想があると思います。

ところが革新的なアイディアの99%は、短期間で社会から不要になる事が多いです。

インターネット関係の新しいアイディアは1年もたずに陳腐化してしまい、事業として続かない事が多いです。


自分が住んでいる地域で30年続いている会社は、不動産とか床屋とか食堂とか、平凡で代わり映えしない業種しかないと思います。

まわりで10年続いている会社を見ても、喫茶店とかコンビニとか薬局、設計事務所や大工など「パッとしない」業種ばかりだと思います。

これが意味するのは新しいアイディアほど早く陳腐化している事で、生き残ったのは平凡で「ダサい」ものだったのでした。


中でも手堅いのは食堂で、味が良くて固定客が多くついていたら、店主の体力が続くまで営業が続けられます。

人気食堂が閉店する理由の多くは、親父が病気になったとか代替わりで息子が継がなかったなどです。

社会が変わっても人間はメシを食うので、30年後も家の近所で食べ物屋は存在している筈です。


日本政策金融公庫の調査で起業家の4割がが月商30万円未満だと発表されました。

月商はもちろん売上げであって、そこから様々な経費を差し引いたのが収入になります。

仮に月商の50%が利益になるとしても月収15万円未満な訳で、起業した人の家計が非常に苦しくなるのが分かります。

10年続いたら成功者

良く不動産ビジネスで「年商1億円」のように言う人が居ますが、不動産の利益は良くて年10%以下と言われています。

しかもこれは借金が無い場合なので、利子の支払いなどがあれば年商1億円でも「年収」は500万円以下かも知れません。

起業家の8割は1人で自宅で仕事をし、最近はネットで仕事をするネット企業家が増えています。


起業した人の多くは会社員時代より収入が減り、しかも労働時間が延びる傾向があります。

働いた分だけ収入になるのは、働かなければ収入がない事なので、特に時給に換算した収入が減少します。

会社では10人分の仕事を10人でやり、起業すると1人分の仕事を1人でやり、一見同じ事に思えるが効率が大幅に悪化します。


設計の仕事で起業したとしても、膨大な雑事が発生してやりたい仕事になかなか取り掛かれないでしょう。

顧客の獲得や対応、宣伝、値引き要求や代金不払い、理不尽なクレームなどありとあらゆるトラブルを1人で処理しなくてはならない。

一時的に成功しても、流行の業種ほどすぐに陳腐化して仕事と売上げが減るのが普通です。


時代の波を乗り越えて10年後に事業を続けていられる人は、10%前後というわけです。

________

失業者には国が十分な金を出せばいいだけでしょう。
MMTでお金はいくらでも発行できます。
生活困窮者の生活費を国で出せばいいだけですね。
日本は世界一の金持ち国で対外資産が沢山あるので、日本人は大して働かなくても食べていけるのです。

貧困者を救済した為にインフレになったら資産家の資産が目減りして所得再分配になるし(インフレ税)

超円安になったら日本の輸出企業の一人勝ちで、海外の競合メーカーはすべて倒産するし

日本政府が貧困者にいくらお金をばら撒いても大企業や資本家の資産が減るだけです。


http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/408.html#c8

[近代史5] 習近平は皇帝になろうとしている、それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている
習近平は皇帝になろうとしている、それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている


民族浄化の嵐が吹きすさぶ。習近平のチャイナ・ドリームは実現するだろうか?
2020.09.26
https://blackasia.net/?p=20295

「習近平は皇帝になろうとしている」「それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている」と推測する分析者は多い。習近平は用意周到に自分に敵対する人間を葬り去って来たし、しきりに個人崇拝路線を仕掛けている。習近平は毛沢東を模倣しながら、毛沢東以上の存在になろうとしている。(鈴木傾城)


中国語教育の強化

中国はチベットを弾圧し、ウイグルを弾圧し、香港を弾圧しているのだが、今度は内モンゴル自治区を標的にしようとしている。「内モンゴル自治区」は中国が支配している自治区なのだが、ここで何が起きているのか。

2020年8月26日から中国は突如として「民族の交流と融和を進める」とか言い出して、小学校1年と中学1年の新学期直前に中国語教育を強化することを通知した。モンゴル語ではなく、中国語を主体にして教育を進めていくというのだ。

これを聞いてモンゴル族の保護者や教員は「モンゴル文化を抹殺するつもりだ」「民族文化の危機だ」と反発して一気に抗議活動や授業ボイコットが起きた。この抗議デモは数万人の規模となって中国共産党政府を圧倒した。

モンゴル人がこの「中国語教育の強化」に大きな警戒心と不快感を持ったのは当然のことだった。

・2017年にはウイグルで中国語教育の強化。
・2018年にはチベットで中国語教育の強化。

が行われていたのだが、内モンゴル自治区の「中国語教育の強化」はウイグル・チベットに続くものだったのである。ウイグル・チベットがどうなっているのかは、全世界の人々が知る事態となっている。

そこで行われているのは、文化抹殺・民族浄化である。反対する者は「教育施設」という名の強制収容所にぶち込んで人間性を破壊し、有無を言わせない暴力で文化を破壊し、抹殺し、中国化していく。

習近平は、いよいよ内モンゴル自治区も完全中国化しようと動き出した。突如として通知された「中国語教育の強化」は、まさにその号令でもあったのだ。

習近平の「中国化」政策の一環

小学校から中国語で教育を行うというのは、要するにモンゴル語を教えないということでもある。学校で自分たちが使っている文字や言葉が奪われて、自分たちのものではない「中国語」で学ばされ、教育を受けさせられることになる。

自分たちのアイデンティティであるモンゴル語を読んだり書いたりする機会が喪失していき、次第に読み書きが困難になっていく。

この教育が10年続くと、それだけでモンゴル語は抹殺され、内モンゴル自治区の人間は漢字しか読めない人間になってしまう。そして、失われるのは文字だけではない。民族としてのアイデンティティすらも失われる。

モンゴル人が激怒するのも当然である。

しかし、それにしても中国はなぜチベットやウイグルでこれほどまで世界各国から「人権侵害だ」と叩かれている「今」、内モンゴル自治区で同じことをしてわざわざ世界を刺激しようとしているのだろうか。

それは習近平の「中国化」政策の一環だからである。

習近平はひたすら膨張主義を取っている。世界の覇権を握り、全世界を「中国化」する野望を抱いている。

チベット・ウイグル・香港を強引に「中国化」するだけでなく、南沙諸島に出てベトナムやフィリピンやインドネシアをも睨み、一帯一路政策でアフリカから南太平洋の国々までを負債で支配して経済的植民地にして「中国化」する。

先進国には砂をまくように大量の中国人を送り込み、移民させて、内部から徐々に中国化していこうともしている。(ダークネス:毛沢東の戦略。砂をまくように中国人を日本にまいて侵略し、属国化させる)

習近平は本気だ。暴力と策略で全世界を「中国のもの」にしようと画策している。これは習近平の「チャイナ・ドリーム」なのである。このチャイナ・ドリームが、全世界にとって「悪夢」と化している。

内モンゴル自治区も、いよいよ標的になった。

「中国のトランプ」を逮捕した習近平

習近平は世界の覇者となって何をしようとしているのか。「習近平は皇帝になろうとしている」「それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている」と推測する分析者は多い。

習近平は用意周到に自分に敵対する人間を葬り去って来たし、しきりに個人崇拝路線を仕掛けている。それは毛沢東がやった路線でもある。習近平は毛沢東を模倣しながら、毛沢東以上の存在になろうとしている。

習近平は中国が未だかつて持ったことのない絶対権力を世界に行使して、自分が「世界を支配する皇帝」になろうと画策している。だからこそ先を急ぎ、強引な手法で全世界を混乱に陥れている。

最近、習近平は任志強(レン・ジチャン)という反骨の資産家を「汚職罪」「収賄罪」「横領罪」「職権乱用」で逮捕して懲役18年を言い渡している。この任志強という資産家は何者だったのか。

任志強(レン・ジチャン)は、コロナウイルスの危機対応で習近平を激しく批判している人間のひとりだった。毛沢東らと共産革命に参加した長老らの子弟を「紅二代」と呼ぶのだが、任志強も「紅二代」のひとりだった。

言って見れば、中国の世襲の権力者のひとりである。任志強はそうした親の権力の庇護もあって物怖じせず習近平を批判しており、「中国のトランプ」とも言われていた。

しかし、習近平は許さなかった。紅二代を逮捕して懲役18年を言い渡した。

これは、習近平がもはや紅二代であっても自分を批判する人間は容赦しないということを内外に知らしめた事件だった。こうした事件を見ても、習近平が「皇帝になろうと本気で動いている」ことが分かるはずだ。

自分が皇帝になるためには、中国に刃向かってくる可能性のある存在はすべて叩きつぶしておかなければならない。中国を分裂させる危険性があるのは、チベットであり、ウイグルであり、香港であり、内モンゴル自治区である。

だから、習近平は自らの野望のために、これらのエリアを完全支配に置こうと動いている。そうした文脈の中で、「中国語教育の強化」という民族浄化の一手が内モンゴル自治区に仕掛けられたのである。


全世界で全方位で侵略が進んでいる

今、中国で起きているのはこのようなことである。「漢民族の支配=習近平による世界支配」が本気で進められていて、全世界で全方位で侵略が進んでいる。習近平は絶対支配者として君臨しようとしており、自分が生きている間にそれを実現しようと画策している。

だから、中国のやり方は強引であり、有無を言わせないものになっている。

本来、中国は100年計画・1000年計画で物事を進める国である。「砂をまくように全世界に中国人をまき散らし、徐々に徐々に外国を侵略していく戦略」は今も着々と進められている。

「武器としての移民政策」は着実に機能するのだが、この手法の欠点はやたらと時間がかかることだ。時間がかかっても侵略のために手を打つのが中国であり、それは静かに行われるものだ。

しかし、習近平はその手法を取りながら、非常に性急に侵略を進めようとしている。それが軋轢を生み出しているのだが止まらない。

中国が世界を支配し終わった時、「自分の次の世代」が世界を支配するのは習近平の望みではない。習近平は自分が皇帝になりたいのだ。だから何が何でも侵略を急がなければならないのだ。

フランスのマクロン大統領は、2020年9月20日に「中国におけるウイグル人への人権侵害を放置せず、国連主導で新疆ウイグル自治区に国際視察団を派遣べきだ」と述べて、国連に行動を促している。

今まで中国はこうした発言を聞いたら「内政干渉をするな」と恫喝してきたのだが、マクロン大統領は「基本的人権は国連の原則であり、内政干渉という言葉で反対することができるものではない」とも言っている。

アメリカも中国を激しく追い込んでおり、グローバル経済から中国を切り離そうとしている。

欧米が中国を見放し始めて「敵」と認識するようになると、世界を支配しようとする習近平と中国は「全人類の敵」となって世界に報復される。すでにアメリカは中国に照準を合わせている。

アメリカは戦争を恐れない国である。近いうちに私たちは戦争時代を経験するかもしれない。(マネーボイス:戦争こそアメリカの景気対策。軍産複合体は「中国」に的を絞った=鈴木傾城 )

習近平のチャイナ・ドリームは、実現するだろうか……。


『わが敵「習近平」 中国共産党の「大罪」を許さない(楊逸)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08BFT654S/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=blackbook2tok-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B08BFT654S&linkId=056ada080cfd68a4365656aca5592d5b

https://blackasia.net/?p=20295
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/322.html

[近代史4] 独裁者列伝 _ 習近平 中川隆
7. 中川隆[-11142] koaQ7Jey 2020年9月26日 08:41:45 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[4]
習近平は皇帝になろうとしている、それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている


民族浄化の嵐が吹きすさぶ。習近平のチャイナ・ドリームは実現するだろうか?
2020.09.26
https://blackasia.net/?p=20295

「習近平は皇帝になろうとしている」「それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている」と推測する分析者は多い。習近平は用意周到に自分に敵対する人間を葬り去って来たし、しきりに個人崇拝路線を仕掛けている。習近平は毛沢東を模倣しながら、毛沢東以上の存在になろうとしている。(鈴木傾城)


中国語教育の強化

中国はチベットを弾圧し、ウイグルを弾圧し、香港を弾圧しているのだが、今度は内モンゴル自治区を標的にしようとしている。「内モンゴル自治区」は中国が支配している自治区なのだが、ここで何が起きているのか。

2020年8月26日から中国は突如として「民族の交流と融和を進める」とか言い出して、小学校1年と中学1年の新学期直前に中国語教育を強化することを通知した。モンゴル語ではなく、中国語を主体にして教育を進めていくというのだ。

これを聞いてモンゴル族の保護者や教員は「モンゴル文化を抹殺するつもりだ」「民族文化の危機だ」と反発して一気に抗議活動や授業ボイコットが起きた。この抗議デモは数万人の規模となって中国共産党政府を圧倒した。

モンゴル人がこの「中国語教育の強化」に大きな警戒心と不快感を持ったのは当然のことだった。

・2017年にはウイグルで中国語教育の強化。
・2018年にはチベットで中国語教育の強化。

が行われていたのだが、内モンゴル自治区の「中国語教育の強化」はウイグル・チベットに続くものだったのである。ウイグル・チベットがどうなっているのかは、全世界の人々が知る事態となっている。

そこで行われているのは、文化抹殺・民族浄化である。反対する者は「教育施設」という名の強制収容所にぶち込んで人間性を破壊し、有無を言わせない暴力で文化を破壊し、抹殺し、中国化していく。

習近平は、いよいよ内モンゴル自治区も完全中国化しようと動き出した。突如として通知された「中国語教育の強化」は、まさにその号令でもあったのだ。

習近平の「中国化」政策の一環

小学校から中国語で教育を行うというのは、要するにモンゴル語を教えないということでもある。学校で自分たちが使っている文字や言葉が奪われて、自分たちのものではない「中国語」で学ばされ、教育を受けさせられることになる。

自分たちのアイデンティティであるモンゴル語を読んだり書いたりする機会が喪失していき、次第に読み書きが困難になっていく。

この教育が10年続くと、それだけでモンゴル語は抹殺され、内モンゴル自治区の人間は漢字しか読めない人間になってしまう。そして、失われるのは文字だけではない。民族としてのアイデンティティすらも失われる。

モンゴル人が激怒するのも当然である。

しかし、それにしても中国はなぜチベットやウイグルでこれほどまで世界各国から「人権侵害だ」と叩かれている「今」、内モンゴル自治区で同じことをしてわざわざ世界を刺激しようとしているのだろうか。

それは習近平の「中国化」政策の一環だからである。

習近平はひたすら膨張主義を取っている。世界の覇権を握り、全世界を「中国化」する野望を抱いている。

チベット・ウイグル・香港を強引に「中国化」するだけでなく、南沙諸島に出てベトナムやフィリピンやインドネシアをも睨み、一帯一路政策でアフリカから南太平洋の国々までを負債で支配して経済的植民地にして「中国化」する。

先進国には砂をまくように大量の中国人を送り込み、移民させて、内部から徐々に中国化していこうともしている。(ダークネス:毛沢東の戦略。砂をまくように中国人を日本にまいて侵略し、属国化させる)

習近平は本気だ。暴力と策略で全世界を「中国のもの」にしようと画策している。これは習近平の「チャイナ・ドリーム」なのである。このチャイナ・ドリームが、全世界にとって「悪夢」と化している。

内モンゴル自治区も、いよいよ標的になった。

「中国のトランプ」を逮捕した習近平

習近平は世界の覇者となって何をしようとしているのか。「習近平は皇帝になろうとしている」「それも世界を支配する皇帝になろうと本気で動いている」と推測する分析者は多い。

習近平は用意周到に自分に敵対する人間を葬り去って来たし、しきりに個人崇拝路線を仕掛けている。それは毛沢東がやった路線でもある。習近平は毛沢東を模倣しながら、毛沢東以上の存在になろうとしている。

習近平は中国が未だかつて持ったことのない絶対権力を世界に行使して、自分が「世界を支配する皇帝」になろうと画策している。だからこそ先を急ぎ、強引な手法で全世界を混乱に陥れている。

最近、習近平は任志強(レン・ジチャン)という反骨の資産家を「汚職罪」「収賄罪」「横領罪」「職権乱用」で逮捕して懲役18年を言い渡している。この任志強という資産家は何者だったのか。

任志強(レン・ジチャン)は、コロナウイルスの危機対応で習近平を激しく批判している人間のひとりだった。毛沢東らと共産革命に参加した長老らの子弟を「紅二代」と呼ぶのだが、任志強も「紅二代」のひとりだった。

言って見れば、中国の世襲の権力者のひとりである。任志強はそうした親の権力の庇護もあって物怖じせず習近平を批判しており、「中国のトランプ」とも言われていた。

しかし、習近平は許さなかった。紅二代を逮捕して懲役18年を言い渡した。

これは、習近平がもはや紅二代であっても自分を批判する人間は容赦しないということを内外に知らしめた事件だった。こうした事件を見ても、習近平が「皇帝になろうと本気で動いている」ことが分かるはずだ。

自分が皇帝になるためには、中国に刃向かってくる可能性のある存在はすべて叩きつぶしておかなければならない。中国を分裂させる危険性があるのは、チベットであり、ウイグルであり、香港であり、内モンゴル自治区である。

だから、習近平は自らの野望のために、これらのエリアを完全支配に置こうと動いている。そうした文脈の中で、「中国語教育の強化」という民族浄化の一手が内モンゴル自治区に仕掛けられたのである。


全世界で全方位で侵略が進んでいる

今、中国で起きているのはこのようなことである。「漢民族の支配=習近平による世界支配」が本気で進められていて、全世界で全方位で侵略が進んでいる。習近平は絶対支配者として君臨しようとしており、自分が生きている間にそれを実現しようと画策している。

だから、中国のやり方は強引であり、有無を言わせないものになっている。

本来、中国は100年計画・1000年計画で物事を進める国である。「砂をまくように全世界に中国人をまき散らし、徐々に徐々に外国を侵略していく戦略」は今も着々と進められている。

「武器としての移民政策」は着実に機能するのだが、この手法の欠点はやたらと時間がかかることだ。時間がかかっても侵略のために手を打つのが中国であり、それは静かに行われるものだ。

しかし、習近平はその手法を取りながら、非常に性急に侵略を進めようとしている。それが軋轢を生み出しているのだが止まらない。

中国が世界を支配し終わった時、「自分の次の世代」が世界を支配するのは習近平の望みではない。習近平は自分が皇帝になりたいのだ。だから何が何でも侵略を急がなければならないのだ。

フランスのマクロン大統領は、2020年9月20日に「中国におけるウイグル人への人権侵害を放置せず、国連主導で新疆ウイグル自治区に国際視察団を派遣べきだ」と述べて、国連に行動を促している。

今まで中国はこうした発言を聞いたら「内政干渉をするな」と恫喝してきたのだが、マクロン大統領は「基本的人権は国連の原則であり、内政干渉という言葉で反対することができるものではない」とも言っている。

アメリカも中国を激しく追い込んでおり、グローバル経済から中国を切り離そうとしている。

欧米が中国を見放し始めて「敵」と認識するようになると、世界を支配しようとする習近平と中国は「全人類の敵」となって世界に報復される。すでにアメリカは中国に照準を合わせている。

アメリカは戦争を恐れない国である。近いうちに私たちは戦争時代を経験するかもしれない。(マネーボイス:戦争こそアメリカの景気対策。軍産複合体は「中国」に的を絞った=鈴木傾城 )

習近平のチャイナ・ドリームは、実現するだろうか……。


『わが敵「習近平」 中国共産党の「大罪」を許さない(楊逸)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08BFT654S/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B08BFT654S&linkId=056ada080cfd68a4365656aca5592d5b

https://blackasia.net/?p=20295
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/806.html#c7

[近代史4] 御用学者列伝 _ 竹中平蔵 中川隆
12. 中川隆[-11141] koaQ7Jey 2020年9月26日 10:59:05 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[9]
ベーシック・インカム(ミルトン・フリードマン=竹中平蔵版)
2020-09-26 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html


 さて、竹中平蔵氏のベーシック・インカムが話題というか、批判にさらされています。

『菅首相のブレーン・竹中平蔵氏、「生活保護&年金廃止」「一律7万円支給」提言が物議

 菅義偉首相のブレーンの一人、パソナグループ会長の竹中平蔵氏の「ベーシックインカム」(基礎所得保障、BI)構想に批判が殺到している。竹中氏は23日、BS-TBSの報道番組『報道1930』で、所得制限付きのベーシックインカムを提案した。「国民全員に毎月7万円支給」「所得が一定以上の人は後で返す」「マイナンバーと銀行口座をひも付け所得を把握」などというもので、インタビュー記事などでかねてから提唱していた案を改めて語った。

 問題はその内容だった。「7万円」という額面や「所得制限」の実施、財源を生活保護や厚生年金を廃止にすることで、捻出するという「自己責任論」の第一人者らしい竹中氏の構想だったため、インターネット上では批判が殺到している。(後略)』

 わたくしがベーシック・インカム(以下、BI)についてあまり触れないのは、すぐに「アイコン」の議論になってしまうためです。(※アイコンとは、抽象化が進み、中身が判別不可能になった政策の「言葉」を意味します。)
 つまりは、BIにも様々な種類があるにも関わらず、中身ではなく「BIに賛成? 反対?」 という議論になってしまうのです。


 そして、BIに賛成するにせよ、反対するにせよ、
「BIに賛成する三橋は○○だ」
「BIに反対する三橋は○○だ」
 といったレッテル貼り合戦になってしまうため、「中身」をきちんと理解し、アイコンで語るのはやめようよ、と言っているわけです。別に、BIには限りませんが。


 BIにもいろいろありますが、わたくしが最初に知った「考え方」は、新自由主義の元祖、ミルトン・フリードマンの、
「既存の社会保障制度は全廃し、高所得者から低所得者に最低限の所得分を移転する所得補償制度」
 です。低所得者層は所得税を取られるのではなく、受け取ることになるため、負の所得税と呼んだりします。


 要するに、今回の竹中氏の提案そのままです。
 竹中氏の発言を引用。

『(財源の)基になるのは(米経済学者)ミルトン・フリードマンの『負の所得税』の考え方だ。一定の所得がある人は税金を払い、それ以下の場合は現金を支給する。また、BIを導入することで、生活保護が不要となり、年金も要らなくなる。それらを財源にすることで、大きな財政負担なしに制度を作れる。生活保護をなくすのは強者の論理だと反論する人がいるが、それは違う。BIは事前に全員が最低限の生活ができるよう保証するので、現在のような生活保護制度はいらなくなる、ということだ。』
 
 フリードマン・竹中式BIの問題は色々ありますが、とりあえず「あらゆる非常事態」に対する備えが「自己責任」となります。


 自助・共助・公助ではなく。自助・自助・自助です。


 病気や老齢といったリスクへの備えも、自己責任。「各々が勝手に保険に入ればいい」というわけで、「政府が国民を守る」という考え方が消滅します。
 究極の小さな政府でございますね。


 より根本的な問題は、そもそもフリードマン式BIは、
「社会保障支出が膨れ上がり、財政破綻する」
 という、貨幣のプール論、天動説の貨幣論に基づき生まれが発想という点です。


 フリードマンは、社会保障支出を目の敵にしており、「ムダだらけで財政肥大化の主因である社会保障など、廃止してしまえ!」という考え方の持ち主でした。つまりは、初めに緊縮財政の発想ありき、なのです。

 また、最低賃金制度についても、「そんなものがあるから、企業が雇用を増やせないんだ」ということで、撤廃を主張。


 とはいえ、そうなるとさすがに飢えで死ぬ国民が続出し、暴動やテロ、犯罪が頻発することになるため、
「最低限、生きていけるだけの保障」
 としてBIを言い出したのです。しかも「財源」については、高所得者層から所得税を徴収すればいい。


 一切の行政の裁量無しで、機械的に高所得者層から低所得者層に所得を移転させるのだ。社会保障の不正受給問題等もなくなり、効率的だろ?

 という話なのでございますよ。

 というわけで、竹中氏が言い出したBIは、少なくともフリードマン式BIの基本に沿っています。「財源」として社会保障全廃や負の所得税を言い出しているため、結局は「財政均衡主義」ありきなのです。

 ここが、ポイントです。

 国民が財政均衡主義、緊縮財政思考に染まっている限り、BIにしてもフリードマン・竹中式のBIにならざるを得ない。

 緊縮志向を打ち砕くことさえできれば、BIだろうがJGPだろうが、社会保障充実だろうが国土強靭化だろうが、科学技術・教育予算増強だろうが地方経済再生だろうが、防衛力強化だろうが食料安全保障強化だろうが、何でもやればいいのです。国民や政治家が大いに議論し、決めればいい。


 逆に、緊縮財政が前提となると、BIにしてもフリードマン・竹中方式になってしまうのです。


 というわけで、カギは「緊縮財政の打破」なのです。緊縮財政さえ叩き潰すことができれば、わたくしは「経世済民」のためにいかなる政策が採られようと、文句を言う気はありません。


 緊縮財政である限り、BIは自動的にフリードマン・竹中式になってしまうため、空しい議論にならざるを得ないのです。わたくしが、普段はあまりBIについて語らない理由をご理解頂けました?

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/727.html#c12

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
26. 中川隆[-11140] koaQ7Jey 2020年9月26日 10:59:29 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[10]
ベーシック・インカム(ミルトン・フリードマン=竹中平蔵版)
2020-09-26 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html


 さて、竹中平蔵氏のベーシック・インカムが話題というか、批判にさらされています。

『菅首相のブレーン・竹中平蔵氏、「生活保護&年金廃止」「一律7万円支給」提言が物議

 菅義偉首相のブレーンの一人、パソナグループ会長の竹中平蔵氏の「ベーシックインカム」(基礎所得保障、BI)構想に批判が殺到している。竹中氏は23日、BS-TBSの報道番組『報道1930』で、所得制限付きのベーシックインカムを提案した。「国民全員に毎月7万円支給」「所得が一定以上の人は後で返す」「マイナンバーと銀行口座をひも付け所得を把握」などというもので、インタビュー記事などでかねてから提唱していた案を改めて語った。

 問題はその内容だった。「7万円」という額面や「所得制限」の実施、財源を生活保護や厚生年金を廃止にすることで、捻出するという「自己責任論」の第一人者らしい竹中氏の構想だったため、インターネット上では批判が殺到している。(後略)』

 わたくしがベーシック・インカム(以下、BI)についてあまり触れないのは、すぐに「アイコン」の議論になってしまうためです。(※アイコンとは、抽象化が進み、中身が判別不可能になった政策の「言葉」を意味します。)
 つまりは、BIにも様々な種類があるにも関わらず、中身ではなく「BIに賛成? 反対?」 という議論になってしまうのです。


 そして、BIに賛成するにせよ、反対するにせよ、
「BIに賛成する三橋は○○だ」
「BIに反対する三橋は○○だ」
 といったレッテル貼り合戦になってしまうため、「中身」をきちんと理解し、アイコンで語るのはやめようよ、と言っているわけです。別に、BIには限りませんが。


 BIにもいろいろありますが、わたくしが最初に知った「考え方」は、新自由主義の元祖、ミルトン・フリードマンの、
「既存の社会保障制度は全廃し、高所得者から低所得者に最低限の所得分を移転する所得補償制度」
 です。低所得者層は所得税を取られるのではなく、受け取ることになるため、負の所得税と呼んだりします。


 要するに、今回の竹中氏の提案そのままです。
 竹中氏の発言を引用。

『(財源の)基になるのは(米経済学者)ミルトン・フリードマンの『負の所得税』の考え方だ。一定の所得がある人は税金を払い、それ以下の場合は現金を支給する。また、BIを導入することで、生活保護が不要となり、年金も要らなくなる。それらを財源にすることで、大きな財政負担なしに制度を作れる。生活保護をなくすのは強者の論理だと反論する人がいるが、それは違う。BIは事前に全員が最低限の生活ができるよう保証するので、現在のような生活保護制度はいらなくなる、ということだ。』
 
 フリードマン・竹中式BIの問題は色々ありますが、とりあえず「あらゆる非常事態」に対する備えが「自己責任」となります。


 自助・共助・公助ではなく。自助・自助・自助です。


 病気や老齢といったリスクへの備えも、自己責任。「各々が勝手に保険に入ればいい」というわけで、「政府が国民を守る」という考え方が消滅します。
 究極の小さな政府でございますね。


 より根本的な問題は、そもそもフリードマン式BIは、
「社会保障支出が膨れ上がり、財政破綻する」
 という、貨幣のプール論、天動説の貨幣論に基づき生まれが発想という点です。


 フリードマンは、社会保障支出を目の敵にしており、「ムダだらけで財政肥大化の主因である社会保障など、廃止してしまえ!」という考え方の持ち主でした。つまりは、初めに緊縮財政の発想ありき、なのです。

 また、最低賃金制度についても、「そんなものがあるから、企業が雇用を増やせないんだ」ということで、撤廃を主張。


 とはいえ、そうなるとさすがに飢えで死ぬ国民が続出し、暴動やテロ、犯罪が頻発することになるため、
「最低限、生きていけるだけの保障」
 としてBIを言い出したのです。しかも「財源」については、高所得者層から所得税を徴収すればいい。


 一切の行政の裁量無しで、機械的に高所得者層から低所得者層に所得を移転させるのだ。社会保障の不正受給問題等もなくなり、効率的だろ?

 という話なのでございますよ。

 というわけで、竹中氏が言い出したBIは、少なくともフリードマン式BIの基本に沿っています。「財源」として社会保障全廃や負の所得税を言い出しているため、結局は「財政均衡主義」ありきなのです。

 ここが、ポイントです。

 国民が財政均衡主義、緊縮財政思考に染まっている限り、BIにしてもフリードマン・竹中式のBIにならざるを得ない。

 緊縮志向を打ち砕くことさえできれば、BIだろうがJGPだろうが、社会保障充実だろうが国土強靭化だろうが、科学技術・教育予算増強だろうが地方経済再生だろうが、防衛力強化だろうが食料安全保障強化だろうが、何でもやればいいのです。国民や政治家が大いに議論し、決めればいい。


 逆に、緊縮財政が前提となると、BIにしてもフリードマン・竹中方式になってしまうのです。


 というわけで、カギは「緊縮財政の打破」なのです。緊縮財政さえ叩き潰すことができれば、わたくしは「経世済民」のためにいかなる政策が採られようと、文句を言う気はありません。


 緊縮財政である限り、BIは自動的にフリードマン・竹中式になってしまうため、空しい議論にならざるを得ないのです。わたくしが、普段はあまりBIについて語らない理由をご理解頂けました?

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c26

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
112. 中川隆[-11139] koaQ7Jey 2020年9月26日 11:00:37 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[11]
ベーシック・インカム(ミルトン・フリードマン=竹中平蔵版)
2020-09-26 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html


 さて、竹中平蔵氏のベーシック・インカムが話題というか、批判にさらされています。

『菅首相のブレーン・竹中平蔵氏、「生活保護&年金廃止」「一律7万円支給」提言が物議

 菅義偉首相のブレーンの一人、パソナグループ会長の竹中平蔵氏の「ベーシックインカム」(基礎所得保障、BI)構想に批判が殺到している。竹中氏は23日、BS-TBSの報道番組『報道1930』で、所得制限付きのベーシックインカムを提案した。「国民全員に毎月7万円支給」「所得が一定以上の人は後で返す」「マイナンバーと銀行口座をひも付け所得を把握」などというもので、インタビュー記事などでかねてから提唱していた案を改めて語った。

 問題はその内容だった。「7万円」という額面や「所得制限」の実施、財源を生活保護や厚生年金を廃止にすることで、捻出するという「自己責任論」の第一人者らしい竹中氏の構想だったため、インターネット上では批判が殺到している。(後略)』

 わたくしがベーシック・インカム(以下、BI)についてあまり触れないのは、すぐに「アイコン」の議論になってしまうためです。(※アイコンとは、抽象化が進み、中身が判別不可能になった政策の「言葉」を意味します。)
 つまりは、BIにも様々な種類があるにも関わらず、中身ではなく「BIに賛成? 反対?」 という議論になってしまうのです。


 そして、BIに賛成するにせよ、反対するにせよ、
「BIに賛成する三橋は○○だ」
「BIに反対する三橋は○○だ」
 といったレッテル貼り合戦になってしまうため、「中身」をきちんと理解し、アイコンで語るのはやめようよ、と言っているわけです。別に、BIには限りませんが。


 BIにもいろいろありますが、わたくしが最初に知った「考え方」は、新自由主義の元祖、ミルトン・フリードマンの、
「既存の社会保障制度は全廃し、高所得者から低所得者に最低限の所得分を移転する所得補償制度」
 です。低所得者層は所得税を取られるのではなく、受け取ることになるため、負の所得税と呼んだりします。


 要するに、今回の竹中氏の提案そのままです。
 竹中氏の発言を引用。

『(財源の)基になるのは(米経済学者)ミルトン・フリードマンの『負の所得税』の考え方だ。一定の所得がある人は税金を払い、それ以下の場合は現金を支給する。また、BIを導入することで、生活保護が不要となり、年金も要らなくなる。それらを財源にすることで、大きな財政負担なしに制度を作れる。生活保護をなくすのは強者の論理だと反論する人がいるが、それは違う。BIは事前に全員が最低限の生活ができるよう保証するので、現在のような生活保護制度はいらなくなる、ということだ。』
 
 フリードマン・竹中式BIの問題は色々ありますが、とりあえず「あらゆる非常事態」に対する備えが「自己責任」となります。


 自助・共助・公助ではなく。自助・自助・自助です。


 病気や老齢といったリスクへの備えも、自己責任。「各々が勝手に保険に入ればいい」というわけで、「政府が国民を守る」という考え方が消滅します。
 究極の小さな政府でございますね。


 より根本的な問題は、そもそもフリードマン式BIは、
「社会保障支出が膨れ上がり、財政破綻する」
 という、貨幣のプール論、天動説の貨幣論に基づき生まれが発想という点です。


 フリードマンは、社会保障支出を目の敵にしており、「ムダだらけで財政肥大化の主因である社会保障など、廃止してしまえ!」という考え方の持ち主でした。つまりは、初めに緊縮財政の発想ありき、なのです。

 また、最低賃金制度についても、「そんなものがあるから、企業が雇用を増やせないんだ」ということで、撤廃を主張。


 とはいえ、そうなるとさすがに飢えで死ぬ国民が続出し、暴動やテロ、犯罪が頻発することになるため、
「最低限、生きていけるだけの保障」
 としてBIを言い出したのです。しかも「財源」については、高所得者層から所得税を徴収すればいい。


 一切の行政の裁量無しで、機械的に高所得者層から低所得者層に所得を移転させるのだ。社会保障の不正受給問題等もなくなり、効率的だろ?

 という話なのでございますよ。

 というわけで、竹中氏が言い出したBIは、少なくともフリードマン式BIの基本に沿っています。「財源」として社会保障全廃や負の所得税を言い出しているため、結局は「財政均衡主義」ありきなのです。

 ここが、ポイントです。

 国民が財政均衡主義、緊縮財政思考に染まっている限り、BIにしてもフリードマン・竹中式のBIにならざるを得ない。

 緊縮志向を打ち砕くことさえできれば、BIだろうがJGPだろうが、社会保障充実だろうが国土強靭化だろうが、科学技術・教育予算増強だろうが地方経済再生だろうが、防衛力強化だろうが食料安全保障強化だろうが、何でもやればいいのです。国民や政治家が大いに議論し、決めればいい。


 逆に、緊縮財政が前提となると、BIにしてもフリードマン・竹中方式になってしまうのです。


 というわけで、カギは「緊縮財政の打破」なのです。緊縮財政さえ叩き潰すことができれば、わたくしは「経世済民」のためにいかなる政策が採られようと、文句を言う気はありません。


 緊縮財政である限り、BIは自動的にフリードマン・竹中式になってしまうため、空しい議論にならざるを得ないのです。わたくしが、普段はあまりBIについて語らない理由をご理解頂けました?

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c112

[近代史4] MMTの就業保障プログラム VS ベーシックインカム 中川隆
2. 中川隆[-11138] koaQ7Jey 2020年9月26日 11:01:21 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[12]
ベーシック・インカム(ミルトン・フリードマン=竹中平蔵版)
2020-09-26 三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html


 さて、竹中平蔵氏のベーシック・インカムが話題というか、批判にさらされています。

『菅首相のブレーン・竹中平蔵氏、「生活保護&年金廃止」「一律7万円支給」提言が物議

 菅義偉首相のブレーンの一人、パソナグループ会長の竹中平蔵氏の「ベーシックインカム」(基礎所得保障、BI)構想に批判が殺到している。竹中氏は23日、BS-TBSの報道番組『報道1930』で、所得制限付きのベーシックインカムを提案した。「国民全員に毎月7万円支給」「所得が一定以上の人は後で返す」「マイナンバーと銀行口座をひも付け所得を把握」などというもので、インタビュー記事などでかねてから提唱していた案を改めて語った。

 問題はその内容だった。「7万円」という額面や「所得制限」の実施、財源を生活保護や厚生年金を廃止にすることで、捻出するという「自己責任論」の第一人者らしい竹中氏の構想だったため、インターネット上では批判が殺到している。(後略)』

 わたくしがベーシック・インカム(以下、BI)についてあまり触れないのは、すぐに「アイコン」の議論になってしまうためです。(※アイコンとは、抽象化が進み、中身が判別不可能になった政策の「言葉」を意味します。)
 つまりは、BIにも様々な種類があるにも関わらず、中身ではなく「BIに賛成? 反対?」 という議論になってしまうのです。


 そして、BIに賛成するにせよ、反対するにせよ、
「BIに賛成する三橋は○○だ」
「BIに反対する三橋は○○だ」
 といったレッテル貼り合戦になってしまうため、「中身」をきちんと理解し、アイコンで語るのはやめようよ、と言っているわけです。別に、BIには限りませんが。


 BIにもいろいろありますが、わたくしが最初に知った「考え方」は、新自由主義の元祖、ミルトン・フリードマンの、
「既存の社会保障制度は全廃し、高所得者から低所得者に最低限の所得分を移転する所得補償制度」
 です。低所得者層は所得税を取られるのではなく、受け取ることになるため、負の所得税と呼んだりします。


 要するに、今回の竹中氏の提案そのままです。
 竹中氏の発言を引用。

『(財源の)基になるのは(米経済学者)ミルトン・フリードマンの『負の所得税』の考え方だ。一定の所得がある人は税金を払い、それ以下の場合は現金を支給する。また、BIを導入することで、生活保護が不要となり、年金も要らなくなる。それらを財源にすることで、大きな財政負担なしに制度を作れる。生活保護をなくすのは強者の論理だと反論する人がいるが、それは違う。BIは事前に全員が最低限の生活ができるよう保証するので、現在のような生活保護制度はいらなくなる、ということだ。』
 
 フリードマン・竹中式BIの問題は色々ありますが、とりあえず「あらゆる非常事態」に対する備えが「自己責任」となります。


 自助・共助・公助ではなく。自助・自助・自助です。


 病気や老齢といったリスクへの備えも、自己責任。「各々が勝手に保険に入ればいい」というわけで、「政府が国民を守る」という考え方が消滅します。
 究極の小さな政府でございますね。


 より根本的な問題は、そもそもフリードマン式BIは、
「社会保障支出が膨れ上がり、財政破綻する」
 という、貨幣のプール論、天動説の貨幣論に基づき生まれが発想という点です。


 フリードマンは、社会保障支出を目の敵にしており、「ムダだらけで財政肥大化の主因である社会保障など、廃止してしまえ!」という考え方の持ち主でした。つまりは、初めに緊縮財政の発想ありき、なのです。

 また、最低賃金制度についても、「そんなものがあるから、企業が雇用を増やせないんだ」ということで、撤廃を主張。


 とはいえ、そうなるとさすがに飢えで死ぬ国民が続出し、暴動やテロ、犯罪が頻発することになるため、
「最低限、生きていけるだけの保障」
 としてBIを言い出したのです。しかも「財源」については、高所得者層から所得税を徴収すればいい。


 一切の行政の裁量無しで、機械的に高所得者層から低所得者層に所得を移転させるのだ。社会保障の不正受給問題等もなくなり、効率的だろ?

 という話なのでございますよ。

 というわけで、竹中氏が言い出したBIは、少なくともフリードマン式BIの基本に沿っています。「財源」として社会保障全廃や負の所得税を言い出しているため、結局は「財政均衡主義」ありきなのです。

 ここが、ポイントです。

 国民が財政均衡主義、緊縮財政思考に染まっている限り、BIにしてもフリードマン・竹中式のBIにならざるを得ない。

 緊縮志向を打ち砕くことさえできれば、BIだろうがJGPだろうが、社会保障充実だろうが国土強靭化だろうが、科学技術・教育予算増強だろうが地方経済再生だろうが、防衛力強化だろうが食料安全保障強化だろうが、何でもやればいいのです。国民や政治家が大いに議論し、決めればいい。


 逆に、緊縮財政が前提となると、BIにしてもフリードマン・竹中方式になってしまうのです。


 というわけで、カギは「緊縮財政の打破」なのです。緊縮財政さえ叩き潰すことができれば、わたくしは「経世済民」のためにいかなる政策が採られようと、文句を言う気はありません。


 緊縮財政である限り、BIは自動的にフリードマン・竹中式になってしまうため、空しい議論にならざるを得ないのです。わたくしが、普段はあまりBIについて語らない理由をご理解頂けました?

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12627559007.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/974.html#c2

[近代史4] 山本五十六の真実
山本五十六の真実@
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/655.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2011 年 11 月 04 日 17:26:08: 8qHXTBsVRznh2
 

山本五十六の真実@


まず最初にお詫びと訂正をします。

ゴードン・プランゲ著『トラ・トラ・トラ』を、山本五十六の弁護に使ったのは私の認識不足でした。
プランゲはGHQの諜報部門G2に所属する立場にあることは知っていましたが、
千早正隆氏の協力を得て膨大な資料と聞き取りで検証した力作であるという所感を持っていました。

しかし本書の目的はやはり、
真珠湾攻撃と山本五十六を分かちがたく結びつけるプロパガンダでした。
私の認識不足をお詫びします。

プランゲは貴重な資料をそっくり頂戴して、
奉職するメリーランド大学に「プランゲ文庫」を創設したそうです。
プロパガンダであることを念頭に置いても目を通す価値はあると、
今でも思っていることを付記します。
島崎和重隊長が当日の朝訓示を受ける写真を見ると、
いかに彼らが与えられた任務を遂行ずべく命を懸けたかが伝わってきます。


河合千代子についても私の認識不足でした。
彼女はシンプソン夫人と同類項であると考えるようになりました。
ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、
親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除したようです。
彼は自分のお城にエドワード八世を招待し、既婚で凄腕のシンプソン夫人を差し向けました。

シンプソン夫人は駐英大使リッペントロープ(後の独外相)とも愛人関係にあり、
ナチスドイツが英国に勝利した暁には「ナチス帝国イギリス領」をプレゼントする、
という餌が与えられていたと伝えられています。

ヒトラーとリッペントロープが二人の誘拐を図り、
それを阻止すべくチャーチルがMI6を動かす。
いざという時は二人を殺せという指令が出ていたようです。
チャーチルはエドワード八世の醜聞に一役買っていた張本人。
指令を出していたヴィクター・ロスチャイルドはMI5所属。
鬼塚氏によるとヴィクターはIQ184だそうです。
頭が良いだけでなく万能だったということです。

私は河合千代子もある意図を持って、山本五十六に近づいた刺客だと思っていす。
戦後になって河合千代子が自己申告した恋愛関係は捏造であると考えています。
19通だけ残したというラブレターの経緯について、
「大量にあったラブレターを海軍が没収し、
後で全て焼却するようにと返却してくれた。
19通だけ手元に残して焼いた。元は山のようにあった」
という証言は辻褄が合いません。
海軍が全て焼却すれば済む話です。
「海軍が自決を迫った」というのもマユツバです。
そんなに重要人物だったらさっさと片付けているでしょう。

里見ク(さとみとん)が昭和二十二年七月に発表した小説『いろおとこ』は、
真珠湾攻撃の二ヶ月前の山本五十六と河合千代子の交情を示唆する短編小説です。
里見クの家系図を見ると何と実兄の有島生馬が原田熊雄の妹と結婚している。
原田熊雄はヨハンセングループの中でも狂言回しを受け持つ重要な人物です。

阿川弘之の『山本五十六』に至っては、かなり露骨にバイアスが露骨が掛けられています。
工藤美代子は著書『海燃ゆ 山本五十六の生涯』で次のように指摘しています。

『千代子に関しては阿川弘之著「山本五十六」に詳しい。阿川は千代子について書くために五十六をテーマに選んだのではないかと思われるほど力を込めてこの女性を描いている。しかし、そのために、五十六と禮子(注 五十六の妻)が不仲であったと強調したり、禮子の人柄をおとしめるような記述がある。』

彼女は戦後、沼津御用邸の傍で料亭を開いています。
河合千代子を使って山本五十六を貶める。
そういうイメージ操作を図る勢力が裏にいたと思われます。
よって河合千代子の証言を引用したのは私の誤りです。
お詫びして訂正します。


では本論に入ります。


叩き台として中田安彦『山本五十六と聖書』を使います。
数ある誹謗中傷の中でも最低だと思うからです。
「・・・というのが私の仮説」
と称してくだらない言いがかりをズラズラと並べた挙句、
「検証する資料がない仮説だから証明できない」
と自らを免罪しています。
私はこんな卑怯な言辞を見たことがありません。


中田君、山本五十六は君の故郷の偉人ではないか。
どうして故人の心象を掘り下げてあげないのだ。
死人に口無しの誹謗中傷プロパガンダに飛びつくのだ。
私は君がこれほど情けないバカとは思わなかった。
山本五十六の無念を晴らすのは本来君の役目のはずだ。
君が山本五十六を貶め私が弁護してどうするのだ。


まず私の結論を述べます。


◎山本五十六は国家スパイでも売国奴でもない。

◎山本五十六は生きていなかった。

◎真珠湾攻撃は山本五十六の創案ではない。

◎真珠湾攻撃が準備されたのは第一次世界大戦の直後からである。

◎真珠湾攻撃の創案者はウイリアム・ヴィンセント・アスター卿である。

◎もしくは彼を中心とする親ドイツ派グループ「クリブデン・セット」である。

◎その元締めはドイツ国際問題研究所である。太平洋問題研究所はダミーである。

◎20世紀はドイツ・イルミナテイが乱を演出した世紀なのである。

◎英米は花形役者の役を振り当てられた囮である。

◎真珠湾攻撃のカウンターパートナーは昭和天皇である。

◎真珠湾攻撃は連合艦隊司令長官の宿命である。

◎山本五十六を人選した人物はヨハンセングループの中にいる。

◎総論

第一次世界大戦が終了した直後の1919年6月、
「パリ平和会議」という名前の次の戦争を練る会議が開催される。
日本の全権大使一行の内訳は西園寺公望、その私設秘書である近衛文麿、
牧野伸顕、その私設秘書である女婿の吉田茂。松岡洋右以下略。

直前の5月30日、世界に乱を演出して儲ける主要メンバーが集結する。
彼らはパリ・マジェステイックホテルの一室で談合し、
政府に政策(という名の悪事)を進言する(という形で命令する)機関として、
IIA、CFR、IPRを設立する。

この時IPRの創立に関わり財政支援したのがアスター家である。
真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ
「クリブデン・セット」である。

彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、
英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。

そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。
パリ平和会議日本全権大使一行としてヨハンセングループがパリに赴き、
そのシナリオを受け取り昭和天皇に渡す。

ヨハンセングループは真珠湾攻撃を演じさせる役者を物色する。
悪意に満ち姦計に長けた人選がなされる。
日米開戦に絶対反対派の海軍次官であり、
かつての「賊軍」の名家を継いだ者に白羽の矢を当てる。

やがて時は流れ1939年9月1日ヒトラーがポーランドに侵攻し、
チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦の八百長が幕を切る。
直前の1939年8月30日に任命された海軍連合艦隊司令長官は、
真珠湾攻撃を遂行するために人選されたのである。

この連合艦隊司令長官は最初から汚名を被る宿命にある。
真珠湾攻撃の重要なポイントは鮮やかな奇襲ではなく、
わざと通達を遅らせ卑怯な騙まし討ちにすることにある。
アメリカ国民と議会を怒り心頭にし即参戦させ、
ジャップスを無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させるためである。
八百長だから連合艦隊司令長官が第二次第三次攻撃を指揮することは許されない。


フリッツ・ズプリングマイヤー著『イルミナテイ 悪魔の13血流』太田龍監訳 KKベストセラーズ刊行より

以下抜粋

『ベルギー南部に一つの城がある。(その地を旅行してこの城を見たいという人がいれば、地図で場所を示してご説明しよう)。これはマザーズ・オブ・ダークネス城である。城の中には聖堂があり、この聖堂の地下室では毎日小さな赤ん坊が生贄にされている。そしてその血はインクとして、反キリストが権力を握っていく歴史を特別大きな本に書き込むのに用いられる。この書物は二十四時間ほとんど休みなしに書き込まれる。この手書きの本のなかの歴史を読めば、世界の主要なマスメデイアがだまされやすい大衆に対して行っている宣伝活動の裏に、どんな真実があるのか明らかになるだろう』

以上抜粋。


◎総論続き

マザーズ・オブ・ダークネス城で二十四時間書き継がれてきた歴史書には、
真珠湾攻撃の謀略の仔細が記されているだろう。
真珠湾攻撃を創案した者たちの意図、それが用意された時期、
そして日本の海軍連合艦隊司令長官にその役を振り当てた経緯が、
赤ん坊の血のインクで細大漏らさず書かれていると確信する。

スプリングマイヤー氏の前掲書より再び抜粋。


『一九一九年五月三十日パリ平和会議に向う代表団の主要メンバー数人がパリのホテル・マジェステイックに集まり、国際問題について各政府に進言を行うことを目的とした国際グループの設立を話し合った。国際問題研究所という名称はこの会議で決定した。』


『六月五日の会議では相互協力し合う別々の組織を持つことが最善であろうと立案者たちは決定した。その結果外交問題評議会(CFR)がニューヨークの本部を置き、その姉妹機関でチャタム・ハウス研究グループとしても知られているロンドンの王立問題研究所(RIIA)がイギリス政府に進言する目的で組織された。(注 ユースタス・マリンズによるとこの逆でIRRAの下部組織としてCFRが創設されたとしている)補助機関の太平洋問題研究所(IPR)は極東問題を専門的に扱う(だけでなく、真珠湾攻撃を助成する)ために設立された。』


以上抜粋。


◎総論続き

スプリングマイヤー氏は、

『同時にフランクフルトに設立された「ドイツ国際問題研究所』に関する研究は、これまで目にしたことがないが、このグループが第二次世界大戦の発生に、どのように関わったか調べてみれば興味深いだろう』

と重要な示唆をしている。
LEGACY OF ACHESの管理人様によると、、
地図には載せられていないロスチャイルド家の本拠地が、
ドイツの「ダッハウ」にあるという。
ナチス・ドイツの強制収容所のあった地である。

ロンドンのシテイーにあるロス茶帝国は、見せかけの囮だと私は考えている。
イギリスもアメリカも、所詮シナリオを演じる舞台に過ぎないのである。
戦争に明け暮れた20世紀は、英米が八百長の主役を演じた。
しかし想起してほしい。イルミナテイのルーツはドイツにあるのだ。

恐らく彼らの「約束の地」とはクリミヤでもなければ勿論イスラエルでもない。

再び前掲書より抜粋。

『男の仮の名はアダム・ワイスハウプト(一七四八〜一八三〇)である。・・・一七七六年五月一日・・・ワイスハウプトは、ババリア公国(ドイツ)のインゴルシュタットでルシファー[堕天使]を崇拝する秘密教団を設立した。教団の名は「イルミナテイ」。この名称は「光を受けた者」「啓蒙された者」を意味し、そのメンバーはルシファーから秘密の(同盟団の)教えを受けたということを示していた。ルシファーは彼らにとっての光を掲げる存在、あるいは光をもたらす源と考えられた。ワイスハウプトは同盟団の悪魔の血流から潤沢な資金と特別待遇を受けていたが、彼らにとって使い勝手のいい理想的な表看板、広告塔に過ぎなかった。』


『イルミナテイが存続する唯一の道は姿を隠し続けることだった。それゆえ入会者はイニシエーションにおいて沈黙の宣誓を行い、秘密保持を誓わされた。誓いの言葉の一部には「和あたしは永遠の沈黙と、教団への揺らぐことのない忠誠と服従を誓い・・・」とある、誓いの言葉はさらに続き、もしも教団を離れたりその計画を洩らすようなことがあった場合には、どのような恐ろしい目に遭うかを語ってゆく。』


『イルミナテイを詐術の壁の背後に隠しておくため、ワイスハウプトは信者に対して、悪魔の目標の達成については嘘をつくように言っている。「あるときはそれなりのことを言い、別のときには違ったことを言わなければならない・・・そうすれば、本当はどういう方向で考えているのか、私たちの心を読まれることはなくなる。」世間の目を欺く手段としては、表象やペンネームの使用がある。ワイスハウプトのまたの暗号名はスパルタカスだった。』


『十九世紀の終わりごろになるとイルミナテイは外貌を変え始める。高位階の者が害のなさそうな名称でうわべだけの組織を作り、自分たちの会合を隠蔽し始めたのである。一九〇一年にはアスター家が尽力してピルグルム・ソサエテイ(巡礼者会)なるものが創設された。これは英米のイルミナテイのうち、プリンスと呼ばれる六親等のメンバーのための隠れ蓑である。』


『一九一九年、RIIAが作られ、アスター家はその財政支援の中心となった。RIIAは四親等以内のイルミナテイの隠れ蓑として機能している。アスター家はまた、イギリス版スカル&ボーン・ソサエテイともいうべき「ザ・グループ」のなかでも飛び抜けた存在となっている。イギリスではアスター家とその他の約二十の血族が「ザ・グループ」を支配している。』


『アスター家は他にもオーウエン・ラテイモアをアヘン貿易の代理人として使い、その代わりにラテイモアは、IPR(太平洋問題研究所)から資金を受けていたローラ・スペルマン(カトリック枢機卿)を利用していた。IPRは、イルミナテイの決定に従って、アヘン貿易に参加した中共を監督した。』


『世界の大事件の後ろで人形を操る意図は一般大衆には見えないかもしれない。が、いくつかの大事件の根源をたどっていけば、アスター家が手を貸して糸を引いていることが分かる。例えば、IPRは真珠湾攻撃の下地作りを助成した。』


以上抜粋。

◎総論続き

アスター家はドイツ南西部から、アメリカに移民してきたルーツを持つ。
ドイツ・ハイデルベルクでの魔女集会で、指導的な役割を果たしていた一族である。
アメリカに移住して、サタン崇拝のエリートたちを支配し、
麻薬貿易の他に、毛皮貿易を独占して貴族階級の地位を確保し、
その後イギリスに移住して貴族となる。

彼らは代理人を通じて、現在もアメリカで強大な金融力を振るっている。
アスター家のコレクションのなかに、ルーズヴェルト大統領の祖先デラノ家が入る。
デラノ家は千年以上も続くベネチアの黒い貴族の一つである。

アスター家は「IPR」を財政支援する一方で、「クリブデン・セット」を組織する。
アスター卿の屋敷に出入りする、親ドイツ派の政治家や金融家たちグループである。
彼らは営々とヒトラーを育てて「乱」を演出し、「真珠湾攻撃」の下地作りをする。
アスター卿はイングランド銀行の深奥にある小部屋に出入りを許されている。
ここが「世界権力政府」のロッジである。

私は真珠湾攻撃の創案者はヴィンセント・アスター卿だと思う。

鬼塚英昭著『20世紀のファウスト』成甲書房より

以下抜粋。


『二十年前の資料によってもアスター家の資産は四百億ドル以上である。ロスチャイルド家、ロックフェラー家と並ぶ世界の大富豪である。そのジョン・ジェイコブ・アルターはイギリスに渡って金で貴族の地位を買い、アスター卿となった。息子のウイリアム・B・アスターはアメリカの各企業に投資して巨大組織を作った。』


『一九一九年、RIIA(王立国際問題研究所)がつくられ、アスター家はその中心となった。ここからCFR(外交問題評議会)が生まれた。このことはすでに書いた。ハリマンとヴィンセント・アスターは長年の友人だった。ヴィンセント・アスターは「ヴィンセント・アスター財団」をつくり、アメリカの世論を対ドイツ戦に誘導しようとした。アスター家は、イギリスとアメリカで正反対の行動をとるのである。では彼らは仲違いしたのだろうか。ここに戦争がどうして起こるかの秘密がある。彼らはユダヤ王ロスチャイルドの「標準操作方式」を採用しているのである。』


『ヴィンセント・アスターについてもう少し書くことにしよう。イギリスのアスター家が「クリブデン・パーテイー」』を作り、ナチス・ドイツを讃えていた頃に、ヴィンセント・アスターを中心とした「ルーム」と呼ばれる秘密組織が出来た。アスターは情報を収集するために「ルーム」に人員を集めた。この情報をルーズヴェルト大統領に伝える一方で、アメリカの世論を誘導するための活動に入っていった。』


『アスターはセオドア・ルーズヴェルトの次男カーミット・ルーズヴェルトをこの「ルーム」に入れた。チェース・ナショナル銀行頭取のウインスロップ・オルドリッチも加わった。「諜報活動と破壊活動には金がかかる」とは、アスターがよく使っていた言葉である。』


『イギリスのバッキンガムにあるアスター卿夫妻の別荘に時折、奇妙な人々が集まり世界情勢について話し合っていた。その一部の政治家と金融グループは「クリブデン・セット」と呼ばれていた。ロンドン・シテイ(ユダヤ王ロスチャイルドの完全支配化にある)と金融業会から「多額の資金援助」を受けていた親ドイツ派グループであった。彼らは、ロックフェラー、モルガン、ハリマンなどのニューヨーク・ウオール街関係者たちと一脈を通じていた。当時の駐英大使ジョセフ・ケネデイ(JFKの父親)もこの一派とみなされていた。』


『イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン卿とハリマンにとって深い関係にあるのがアスター家である。このアスター家を知ると、戦争がどうして、何のために起こるのかが分かってくる。』

『イングランド銀行の深奥の部屋の中には、棺桶とアカシアの小枝が置かれている。この部屋に入った者はみな、誓いの言葉を述べるのである。”私はこれによって、ここにおいて、私が授かった、または授かろうとしている、あるいは将来授かるであろういかなる技術も、秘術も、古代フリーメーソンの神秘も、いつも喜んで受け入れ、隠匿し、その一部を一点たりとも決して外部に漏洩しないことを、最も厳重に心より約束し、誓います。”』


『イングランド銀行のロッジには世界の秘密が隠されたままである。イギリス王室、ロスチャイルド、ブラウン家以外にも、アスター家、サッスーン家、デボンシア家などの貴族が、このロッジに入ることができる。このロッジの中から、世界権力政府が数々の人材を世に送り出すことになる。イギリス首相のチャーチル、アメリカではルーズベルと大統領を操ったバーナード・バルーク、そして、レーニン、スターリン、ヒトラーたちである。』


『ヒトラーを支援し、総裁の地位に押し上げたのはイギリスの「クリブデン・セット」であるとすでに書いた。アスター子爵家に集う政治家ないし金融街シテイの連中のことだが、このアスター一族のほぼ全員RIIAのメンバーであった。中でも、M・L・アスターはタイムズの会長であり、ハンブローズ銀行の役員でもあった。タイムズ紙はRIIAの管理下にあることを知る必要がある。』


『RIIAの連中は「クリブデン・セット」を使い、一方でヒトラーに資金援助し、ナチス・ドイツを強大化し、同じやり方でヒトラー打倒の手を打っていくのである。こうすれば、戦争が勃発し世界が混乱するから、不幸な人々の富を奪い得るのである。一極集中の権威は戦争の中からしか生まれてこないのである。ユダヤ思想と反ユダヤ思想とは、黒い貴族たちの間では決して矛盾するものではない。彼らの思想の根底にはヘーゲル哲学の「決定論」が脈打っている。これを金儲けに応用しているのである。二つの相対する勢力をでっち上げ、これを互いに闘わせて、一つの「総合」を得るという方法である。親ユダヤ対反ユダヤの効果として、一つの総合であるユダヤによる世界統一
政府が出来るというわけである。』


『日露戦争を見るとこの方法が採用されたことがよく理解できる。ロスチャイルドは「西洋の敵」である日本に援助を与えた。それは帝政ロシアを滅ぼすための一手段として、日本を利用しようとしたのである。では日本が敗北していたらどうなっていたか。日本の諸権益を奪えばそれでよかったのである。債権を持つロスチャイルドは日本銀行をイングランド銀行やアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)のような組織にしたであろう。ユダヤ王ロスチャイルドは、金を貸して利を得ることが第一の目的で、日露戦争に協力したということなのである。従って、次に日本を敗北させてしまえば、日露戦争で儲けた分の数十倍も金が儲けられると計算したということである。日露戦争から第
二次世界大戦にいたる軍拡国家日本に巨大な投資をし、巨大な利益を上げた。そして一気にぶっ壊すべく動いたのである。』


以上抜粋。


◎総論続き

ロス茶一族のバーナード・バルークと、
CFRの創始者であるエドワード・マンデル・ハウス大佐が、
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトを大統領に育てる。

アメリカに留学していた牧野伸顕と、ハウス大佐は知己である。
宮廷政治の王・牧野のお膳立てで、女婿の吉田茂がハウス大佐と面談する。
「外交感覚のない国民は必ず凋落する」
という有名なアドヴァイスを貰うのである。
この場合「外交」というのは連中の「シナリオ」のことである。

牧野伸顕の娘であり吉田茂の妻でもある雪子は、
グルー大使夫人アリスの大の「親友」になり、
「シナリオ」に沿った洗脳教育を施されている。
アリスはペリー総督の末裔でピカピカノイルミナテイである。
アリスの夫のグルーはヨハンセングループと連中の情報交換の窓口である。

牧野雪子と鍋島信子と九条節子(後の貞明皇后)。
アリスはこの全員と付き合いがある。
アリスの娘のエルシーも凄い。
雪子の娘・和子も、信子の娘・勢津子とも付き合う。
そこに来栖三郎の娘・ヤヱが加わる。

鍋島信子は元会津藩主・松平容保候の四男松平恒雄と結婚する。
信子の長姉は梨本宮伊都子、次姉は加賀前田家の当主に嫁ぐ。
凄い名家である。この信子と松平恒雄が結婚するのだ。
信子は貞明皇后に14年間仕えている。

貞明皇后と松平家の深い絆は更に強化される。
貞明皇后は盲愛する秩父宮の嫁に松平恒雄の娘を所望する。
使者に立てられたのは「堅く結ばれている」樺山愛輔。

松平恒雄が駐米大使としてワシントンに滞在中の縁談である。
この時の大使館付き海軍武官が山本五十六である。
会津藩と同盟を結んでいた長岡藩の山本家を継いだ五十六に、
松平恒雄は好意を抱いて家族ぐるみの付き合いをしている。
五十六は勢津子を中華料理店に連れ出してご馳走したりしている。

鬼塚氏によると後の2・26は皇位奪取を狙った秩父宮の画策だという。
これは松平恒雄を岳父に仰いだ第二の戊辰戦争だと私は思う。
起爆剤を仕込んだのは極端な長州嫌いの貞明皇后である。

貞明皇后がその出自ゆえに極端な長州嫌いであること。
貞明皇后と昭和天皇の間に確執があること。
これを理解するこが昭和の闇を解くことに繋がる。

昭和天皇は愛を知らない。
そして2・26の後で変貌を遂げる。
日本史上空前のモンスターになる。
私にはそのように見える。
これについては次回以降詳説する。

恒雄の娘・勢津子は、樺山愛輔の娘・正子と親友である。
松平恒雄と樺山愛輔も親友同士である。
樺山愛輔と吉田茂もご近所同士で親しい。
そこへ吉田の紹介で白洲次郎が加わる。
樺山愛輔邸に出入りして娘の正子と結婚する。

正子&次郎人気を煽るプロパガンダ写真集を眺めると、
白洲次郎の容貌も言動も日本人ではない。
彼は日本人を指して「They」と呼ぶ。日常語も英語である。
父親が破産して山奥に逃げ込んでいるのに、オックスフォードに留学して外車を乗り回す。
鬼塚氏は白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェントだと指摘する。
吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。

牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、
開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。
トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。
彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。
しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。
吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。
山本五十六は貞明皇后に連なる松平恒雄を通して、
こんな連中に挟まれていたのである。

海の向こうでもシナリオは着々として進行している。
ルーズヴェルトが大統領に就任する直前に、ステイムソンが打ち合わせに入る。
一九三三年一月フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、
”極東に揉め事を引き起こすこと必定”
と批判された「ステイムソン・ドクトリン」を引っ提げて歴史の表舞台に登場する。
以後、アメリカ史上空前絶後の大統領選四選を果たしつつシナリオを演じて行く。

一九三三一年一月、ほぼ同時にヒトラーが政権に就く。
極端な善玉と悪玉を東西に配置し、
12年後に同時に舞台から退かせる構想である。
やがてヒトラーに侵略戦争を開始させ、
徹底抗戦派のチャーチル英首相を登場させる。
次にバルバロッサ作戦で、
ヒトラーにスターリンを侵攻させ役者を揃える。

バルバロッサ作戦は日本に対英米戦争を開始させる合図でもある。
シナリオでは開戦劈頭「真珠湾攻撃」の「騙まし討ち」をさせることになっている。
アメリカ国民を怒り心頭に発させ、無条件降伏に追い込むまで戦争を継続させる。
一九一九年のパリ平和会議でIPRが設立され「真珠湾攻撃」が創案された当初から、
「リメンバー・パールハーバー」は決定済み事項なのである。

では『20世紀のファウスト』ことアヴェレル・ハリマンに、以上の経緯を総括して貰う。


『ハリマンがドノヴァンと同時に、ルーズヴェルト大統領の陣容に入れるために動かした人物がいた。その男の名はヘンリー・ステイムソンという。ハリマンの古い友人の一人である。ステイムソンはハリマンと同じエール大学出身。しかもスカル&ボーンズの会員であった。ハリマンの先輩として、ウオール街でハリマンの仕事を手伝うパートナーとして、深い友情で結ばれていた。ステイムソンは黒い貴族の中でも特別の存在だった。ユダヤ王ロスチャイルドに最も近い人間であったからだ。世界権力(ザ・オーダー)の中にいたのである。大統領を動かすアメリカの黒幕だった。』


『大統領就任式まであと二ヶ月と迫った一九三三年一月九日、ルーズヴェルトはハイドパークの私邸にステイムソンを迎え、五時間に及ぶ二人だけの会談をした。この会談から一週間後、ルーズヴェルトはステイムソン・ドクトリンの支持を表明する。産経新聞取材班の『ルーズベルト秘録』のなかに、ルーズベルトのブレーンのレイモンド・モーレイが嘆く場面が描かれている。「・・・・・極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じことだ。いずれ米英が日本に対して戦争を仕掛けることになるかもしれない」モーレイの予感は見事に的中した。あの五時間に及ぶ会談こそが、世界権力(ザ・オーダー)がルーズヴェルトを見事に説得し終えた証左であった。』


『ルーズヴェルトは大統領に就任する前に、真珠湾攻撃のスケジュールをステイムソンから知らされていたものと思われる。ルーズヴェルトの見張り役であるラファイエット・パークのバーナード・バルークのお目に適ったステイムソンは、「ジャップスに真珠湾をやらせよ」を実現させる役を引き受けたのである。大統領も国務長官も、ロックフェラーやモルガンやハリマンたちより権力を持っていないのである。アメリカを実質的に支配するのは「合法的マフィア」である。そして彼らの背後にユダヤ王ロスチャイルドがいて、「合法的マフィア」を操るのである。』


『ハリマンがユダヤ人の実業家バーナード・バルークとアメリカの将来について話し合いを持つようになったのは、一九三一年から一九三に年の間であろう。バルークは、共和党のハーバード・フーバーに代えて、民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルトを大統領にしようとしていた頃であった。ルーズヴェルトをニューヨーク州知事に祭り上げた主役はバルークであった。』


『一七〇〇年代、ドイツのフランクフルトにユダヤ人ゲットーがあった。その中に軒を寄り添うようにして、ユダヤ王ロスチャイルド家、カーン家、シフ家、そしてバルーク家があった。彼らはこのゲットーの中から出発した一族であった。バルークは第一次世界大戦のときウイルソン大統領の顧問となり、アメリカを戦争に導いた男だった。戦争産業局の長官となり、アメリカの軍需産業の利益のために活躍した。ハリマンの父エドワードの投機株を一手に引き受けてもいた。この関係は、父が亡くなってからも続いていた。バルークはハリマンにロスチャイルドの意向を伝えていたのだろう。』


『バルークはユダヤ人なのでWASPたちの名門クラブには入れなかった。そこで、ユダヤ人経営者たちを仲間に誘い、秘密結社的なクラブを作った。それは「ラファイエット・パーク」と呼ばれるようになった。このクラブには、バルークとともにウイルソン大統領を操ったエドワード・マンデル・ハウス大佐が加入した。アヴェレル・ハリマンやルーズヴェルト大統領の叔父フレデリック・デラノも、このクラブに顔を出すようになった。』


『ホワイトハウスから道を隔ててラファイエット・パークがある。この公園と同じ名前をつけた秘密クラブは「第二のホワイトハウス」とも呼ばれた。このクラブの中で武器貸与法の法案が作られたのである。ルーズヴェルトを大統領に育て上げたバルークとハウス大佐は、ルーズヴェルト大統領をラファイエット・パークの密室に呼びつけ、数々の政策の実行を迫った。この当時、アメリカの人々は、武器貸与法はイギリスとフランス、そしてポーランドに適用されると思っていた。それがソヴィエトに適用されると知り驚いたのである。ハリマンはスターリンと会見すべく海路モスクワに向う艦船の中で「与え、与え、そして与えよ、一切の見返りを考えず」と語り、記者団を驚かせた。』


『航空機だけをとっても一万機以上、戦車も軍需用燃料もタダで、しかも無尽蔵に近いかたちでアメリカから受領した。「貸与」ではあったが、戦後も返さなかった。アメリカも強く「返せ」とは要求しなかった。これも八百長と言われても仕方がない。戦争が終わった瞬間から、アメリカはソヴィエトを「悪の帝国」と言い出すのだから。』


『また、バルーク一族の財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアもこのパークの密室に出入りし、アメリカの財政についてバルークやハウス大佐と相談し、大統領にメモや書類を渡してアメリカの政治そのものを動かした。ルーズヴェルトが大統領に就任する前、一つの密約が成立していた。大統領はモーゲンソーの「メモ」の内容に無条件に従うというものである。ブラウン・ブラザーズ・ハリマン社がナチス・ドイツへの投資窓口となったとき、正式な国交もなく政府の保証もないのにウオール街が湯水のように資金を投資したのは、秘密裡に米大統領の保証を得ていからである。』


◎総論続き

イギリスでヒトラーを育てた「クリブデン・セット」。
ホワイトハウスを操る「ラファイエット・パーク」。
では宿命の「連合艦隊司令長官」役に山本五十六を配した人物は誰か。

真珠湾攻撃の反対派を押し切るためには人望と実行力がいる。
それを兼ね備えている五十六の人となりを知る人物である。
一九一九年のパリ平和会議における日本全権大使一行、
すなわち「ヨハンセングループ」の首魁・牧野以下に連なる人物が仲介し、
最終決定者は昭和天皇その人であると私は考える。

山本五十六が「連合艦隊司令長官」に任命されるのは1939年8月。
その翌月9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻する。
チャーチルが宣戦布告して第二次世界大戦が勃発する。
この時期に「連合艦隊司令長官」に選ばれた者が「真珠湾攻撃」を遂行する。
「真珠湾攻撃」は「連合艦隊指令長官」の宿命なのである。

「ナチスがポーランドに侵攻しただけで何で世界大戦になるの?」
という素朴な疑問を橋本治が呈している。そういうシナリオなのである。
山本五十六は「いつのまにか真珠湾攻撃を口にするようになった」ということになっている。
「いつのまにか」ではなく第二次世界開戦の翌年1940年11月に口にしている。
開戦は避けられないシナリオでなのある。五十六は自分に降りかかった宿命を悟る。

その翌年1941年1月には極秘裏に昭和天皇と検討に入る。
「真珠湾攻撃」を成功させて早期和平を図る。
死地に活路を見出すしかない。

しかし「奇襲」ではなく「騙まし討ち」であること。
早期和平はあり得ないこと。いざとなったら使い捨てであること。
それらは当然伏せられていただろう。

五十六は真珠湾攻撃を大西田瀧次郎と源田実に検討させ、
作戦会議に臨んで断言する。
「真珠湾攻撃が認められなかったら司令長官を降りる」
「本職が連合艦隊司令長官にある限り、真珠湾攻撃は絶対に遂行する」
五十六がブラフをかけたと非難されるネタの一つである

私はこれは五十六の身を振り絞るような逆説だと解釈する。
「連合艦隊司令長官」である限り「真珠湾攻撃」をしなければならない。
攻撃作戦を裁可させることが出来ない場合、司令長官の職を辞すまでである。

そして実際にそういう道もあったのである。
しかし五十六は攻撃を遂行する道を選ぶ。
どうして五十六は降りなかったのか。

この続きは次回に述べます。
中田君の『ジャパンハンドラーズと国際金融』の検証は、
その後にやります。もう少しお待ちください。  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1050.html

[近代史4] 鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』
恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/573.html
投稿者 仁王像 日時 2011 年 11 月 18 日 21:17:05: jdZgmZ21Prm8E
 

 ”破壊力”とは日本を中心とした近代史に対して。ここで書かれている内容の一端はわずかながら鬼塚『日本のいちばん醜い日』にも示唆されていたが、ここまで突っ込んで来ているとは思わなかった。
 ノンフィクション作家、鬼塚氏の「魂」とは何であろうか。この民族の血が「氏の魂」を通して滾(たぎ)り立っているように思える。
 姉妹編の『原爆の秘密〔国外編〕』も合わせて読まれたい/仁王像

『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』鬼塚英昭/成甲書房‘08年
 の第一章から一部抜粋・要約

第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立
<第二総軍設立の理由に迫る>
・私は第二総軍※1は最初から、すなわち鈴木内閣ができてから、終戦工作の一環としてつくられたものと思っている。終戦工作とは何か。簡単明瞭に書くならば、原爆誘導および処理のために、天皇が畑を呼びよせつくったものである、と書いておく。どうしてか。
 一、原爆投下情報を完全に知りながら、それを全部封印した。
 二、8月3日から6日にかけて。原爆投下予定地を中心に、大勢の人々を集めた。
 三。武器弾薬も食料もないのに、たくさんの兵を召集し、その兵たちを九州に送り込んだ。 
 ※1)本土を二分して東部を第一総軍(杉山元元帥)、西部を第二総軍(畑俊六
元帥)の担当とし、予想されるアメリカ軍の九州上陸オリンピック作戦に備えて
いた。第二総軍は広島に本拠を置いて、準備を進めていた。

・畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。…大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の二世を20名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将※2に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟。三笠宮崇仁中佐に伝えていたのである。
 テニアンから刻々と入る情報で、「8月6日8時15分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを8月6日午前8時(これは9時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場。偕行社に集まれと司令官命令を出すのである。戦争終結に導くスペクタクル・ショーの演出をやってみせるのである。
・ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エラノ・ゲイ』(1980年)の続きを見よう。

  日本とマリアナ諸島との間には1時間の時差があるから−広島のほうがテニアン島 より1時間遅かった−そのラジオのテストが広島の時間で午後3時か4時頃行われる とすれば、モニターはその夜空襲があることを知り得た。モノターを傍受したテスト の回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはそ の報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組 織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。

 畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知り得る立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。一つの謎、畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城近くに、わざわざ二世の女性を20人ばかり使った秘密の傍受室と応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。
 第二総軍から情報が流されていたが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の二人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか? 劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。
 スティムソン(陸軍長官)は天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。
 原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。
  ※2)戦後、謀略機関で働いた連中は、ほとんどが自由の身となり、権力と富を得  た。元参謀本部第二部長有末精三陸軍中将も例外ではなかった。「有末機関」をつ  くり、米軍に協力した。

<原爆投下予告を確かに聴いた人々>
 (要旨)〔ロンドンのBBC放送を中継した内容のインド・ニューデリー放送は、原爆開発、投下の情報も伝えていた。それを聞いてノートに書き移す仕事をしていた少年兵がいた。VOA放送を傍受した広島逓信局勤務の無線技師の証言もある。
 また、「伝単」という飛行機から大がかりに散布された宣伝ビラの中にも「8月5日」、広島を大空襲する」というのがあった。広島上空で撃ち落とされた捕虜になった米兵のなかにも「近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいたら死ぬ」とおびえているものがいた。〕

・大屋中佐は間違いなく、「マリアナ諸島から来た上級将校(捕虜)」を手に入れた。そして情報を聞き出すと、彼らを特別の場所に隔離した。その情報は間違いなく畑元帥と共有し、そして有末中将のもとへ送られた。しかし、広島に原爆が落ちるという情報は一部の憲兵のみが知るだけで封印された。広島に原爆が落ちるよう準備するのが、大屋中佐、畑元帥に命じられた、“至高の人”からの“お頼み”であったからに他ならない。
・間違いなく広島の警察内部でも、原子爆弾の風評が広まっていたのである。もし、第二総軍の大屋角造中佐と畑俊六元帥に、アメリカの兵士が示したであろう、良心のひとかけらさえあれば、広島の惨劇も、そして長崎の惨劇も防ぎ得た可能性が大であったのだ。(以下、略)

 (関連)
 http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/624.html#c4

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/624.html#c5
 
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1051.html

[近代史4] 鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画



戦争はすべて八百長(00:38:51)
熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)
キッシンジャーと中曽根(00:57:00)
使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)  


▲△▽▼


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1052.html

[近代史4] 山本五十六の真実 中川隆
14. 中川隆[-11137] koaQ7Jey 2020年9月26日 12:16:49 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[26]
01. 2011年12月02日 22:28:47: p99eS1woHc
鬼塚英昭の本は1冊だけ読んだ。
仮説は独創的で面白いが、仮説の裏づけのため事実を捻じ曲げ妄想で書いていると確信がもてたので、以降まったく相手にしていない。
歴史を書くときには真摯な態度が必要だ。

02. ♪ペリマリ♪ 2012年1月05日 08:18:54 : 8qHXTBsVRznh2 : KxhwWQU3KY
>>01
鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、
これはその典型的なものである。

一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み

二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか

三、その根拠たる文献資料を示されたい。

鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


>>01のコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。

秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


>歴史を書く時は真摯な態度が必要だ。

これはそのままそちらにお返ししよう。
田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、
あなた方が真摯な態度で歴史の真実に直面する時が今や到来しようとしている。


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である。
それらはやがて出てくる本当の資料によって裏づけされるだろう。
7月27日以降、それらの資料は出てくる。

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html#ctop
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1050.html#c14

[近代史4] 鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』 中川隆
1. 中川隆[-11136] koaQ7Jey 2020年9月26日 12:17:21 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[27]
01. 2011年12月02日 22:28:47: p99eS1woHc
鬼塚英昭の本は1冊だけ読んだ。
仮説は独創的で面白いが、仮説の裏づけのため事実を捻じ曲げ妄想で書いていると確信がもてたので、以降まったく相手にしていない。
歴史を書くときには真摯な態度が必要だ。

02. ♪ペリマリ♪ 2012年1月05日 08:18:54 : 8qHXTBsVRznh2 : KxhwWQU3KY
>>01
鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、
これはその典型的なものである。

一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み

二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか

三、その根拠たる文献資料を示されたい。

鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


>>01のコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。

秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


>歴史を書く時は真摯な態度が必要だ。

これはそのままそちらにお返ししよう。
田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、
あなた方が真摯な態度で歴史の真実に直面する時が今や到来しようとしている。


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である。
それらはやがて出てくる本当の資料によって裏づけされるだろう。
7月27日以降、それらの資料は出てくる。

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html#ctop
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1051.html#c1

[近代史3] 鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた 中川隆
17. 中川隆[-11135] koaQ7Jey 2020年9月26日 12:18:23 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[28]
01. 2011年12月02日 22:28:47: p99eS1woHc
鬼塚英昭の本は1冊だけ読んだ。
仮説は独創的で面白いが、仮説の裏づけのため事実を捻じ曲げ妄想で書いていると確信がもてたので、以降まったく相手にしていない。
歴史を書くときには真摯な態度が必要だ。

02. ♪ペリマリ♪ 2012年1月05日 08:18:54 : 8qHXTBsVRznh2 : KxhwWQU3KY
>>01
鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、
これはその典型的なものである。

一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み

二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか

三、その根拠たる文献資料を示されたい。

鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


>>01のコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。

秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


>歴史を書く時は真摯な態度が必要だ。

これはそのままそちらにお返ししよう。
田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、
あなた方が真摯な態度で歴史の真実に直面する時が今や到来しようとしている。


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である。
それらはやがて出てくる本当の資料によって裏づけされるだろう。
7月27日以降、それらの資料は出てくる。

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html#ctop
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html#c17

[番外地8] 鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが

鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、

一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み

二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか

三、その根拠たる文献資料を示されたい。

鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


鬼塚氏を中傷するコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。

秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、

鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html#ctop

http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/409.html

[番外地8] 未成年の売春や人身売買は国際法で死刑相当の重罪です。

もし、貴方の主張が正しいとするならば、なぜ日本の警察は韓国の誘拐集団を逮捕したのでしょうか?その当時の新聞に掲載されています。

■1933年6月30日 東亜日報
誘拐した少女を中国に売り飛ばした朝鮮の犯人
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/朝鮮南部連続少女誘拐事件#/media/ファイル%3A1933年6月30日「東亜日報」.jpg

■1939年8月31日 東亜日報
朝鮮半島の悪徳業者が100名以上の婦女子を売り飛ばした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/朝鮮南部連続少女誘拐事件#/media/ファイル%3A1939年8月31日「東亜日報」.jpg


日本軍の仕事を請け負わせる業者が決まっていたからでしょうね。
日本軍に認可されていない業者が勝手に人身売買したら犯罪という事です。


@77 7 この人身売買は日本に売ったものではありません。中国に売っていた悪徳業者です。しかも日本に利益があるならば逮捕する必要は無いでしょう。


未成年の売春や人身売買は国際法で死刑相当の重罪です。


@77 7 その証拠はありますか?日本が許可を取っていたという証拠はありますか?無ければ貴方の妄想に過ぎない。

日本軍は未成年者を慰安婦にしていたので国際法違反です。
だから終戦直後に慰安婦関係の書類はすべて燃やしたのですね。
証拠が残っていたら関係者は全員死刑になりますから。



http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/410.html

[番外地8] 未成年の売春や人身売買は国際法で死刑相当の重罪です。 中川隆
4. 中川隆[-11134] koaQ7Jey 2020年9月26日 14:46:00 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[32]

強制連行の証拠は東京裁判で多数提出されて残っています。


@77 7 ソースの提示は出来ないのですか?


日本軍慰安婦問題をめぐり、東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林博史・関東学院大教授(現代史)が確認した。17日に日本外国特派員協会で会見して公表する。裁判で証拠として採用されたもので、東大社会科学研究所図書館に所蔵されている。

 東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出された。今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書など。

 インドネシアで、ジャワ島やモア島、カリマンタン(ボルネオ島)で女性たちが強制的に慰安婦にされたことを示す証拠資料が提出されたことが判明したほか、アジア各地で同様のケースがあった。これまで、国立国会図書館所蔵の東京裁判関係資料から尋問調書の一部が確認されていた。

 オランダが提出した、ボルネオ島で海軍の情報機関にいた男性軍属に対する46年3月13日付の尋問調書。日本人と親しくしていた地元女性が日本軍に拘束され、警備隊長に平手打ちをされ、裸で立たされる状況に触れて、取調官が追及する。

 彼女たちを拘束した理由について、男性軍属はこう答えた。「抑留したのは彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるために警備隊長の命令でなされたのであります」

 46年5月16日付の尋問調書では、ジャワ島の民間抑留者の収容所にいたオランダ人女性が強制的に慰安婦にされたことを証言している。

 44年1月28日、インドネシア人警察官が彼女を含め計7人の女性や少女を日本軍捕虜収容所事務所に連れていき、日本人に引き渡した。さらに車で小さな収容所に運ばれた。同年2月3日に医師による健康診断を受けた際、日本人向けの「娼楼(しょうろう)(brothel)」で働かされることを知ったという。

 「労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士官のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留された。時々一般の日本人が来た。私は常に拒絶したが無駄だった」

 フランスが提出したベトナム人女性の口述書の抜粋には「日本人はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数人に、光安に設けた慰安所(brothel)へ一緒へ行くよう強制しました」とある。

 中国の「軍事委員会行政院」が46年5月27日付で作成した資料は日本軍の桂林での残虐行為に言及、

「四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き脅迫して、妓女(ぎじょ)として獣の如(ごと)き軍隊の淫楽(いんらく)に供した」

と記す。東京裁判の判決も桂林の残虐行為に触れた中で、

「工場を設立するという口実で、かれら(日本軍)は女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」

と認定している。

 一連の資料について林教授は

「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」

と話している。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/410.html#c4

[番外地8] 日本語は百済語と近接しているという説は多い 中川隆
2. 中川隆[-11133] koaQ7Jey 2020年9月26日 17:57:26 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[36]
皇室では平安時代まで百済語を話していたんだよ:
飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。
『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%はxx人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(xx人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代xx人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉はxx語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。

※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(xx人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/399.html#c2

[番外地8] 「アベノミクス」の正体
「アベノミクスの成果」【事実をいえば……】
安倍政権の発足直前(2012年10月〜11月)、政府は、80円台から105円(2013年12月)への円安を生むため、30兆円のドル買いを、秘密裏に、郵貯・かんぽ生命等の政府系金融機関に、行わせています。

25円(30%)の円安目的の、「円売り/ドル買い」マネーが、米国系投資銀行に入って、ヘッジファンドから、2012年末から日本株の買い越し(5兆円規模)になり、日経平均が8,500円台だった株価が、1万4,000円に上がっています(2013年末)。

これが、「アベノミクスの成果」とされたのですから、内実は白々しいことでした。当時の当メールマガジンにも書いたことです。

通貨と株価の大きな変化には、いつも、資金量をもっとも大きくできる政府と中央銀行、および政府系金融機関が関与する原因があります。

▲△▽▼

日本円が超円安になった理由
「アベノミクス」の正体
日本食潰す金融投機資本に貢ぐ 2013年5月17日付


安倍政府が発足して以後、「アベノミクス」と呼ばれる異次元の金融緩和や公共投資を中心とする政策が台頭し、急激な円安と株高の局面があらわれている。

昨年11月に民主党・野田政府が解散を表明した時点で8600円台だった日経平均株価は、半年たった今年5月中旬には1万5000円台まで急騰し、為替相場は1j=79円台だったものが102円台まで円安になるなど、世界的に見ても例がないほど大きな変動が起こっている。

海外投資家が時価総額のうち七割を占めている株式市場が熱狂し、さらに円安でトヨタをはじめとした輸出企業が過去最高益を上げるなど、金融緩和と為替マジックで金融資本や一部大企業がバブルに浸っている。

ところが一方で、燃油や穀物を中心に日本国内では生活必需品の価格が急騰し始めるなど、国民生活に深刻な影響が広がっている。「アベノミクス」でいったいなにが起きているのか、どうなっていくのかが重大な関心を集めている。


 
 バブルに群がる海外投資家

 この間、日経平均株価はリーマン・ショック以前と同レベルの価格まで急騰してきた。それほど好景気なわけでもなく、むしろ怒濤の首切りや製造業の海外移転を経て失業や貧困が全国的な範囲で広がり、生活実感としては悪化しているにもかかわらず、「日本株、年初から45%の上昇率」「1万5000円台回復」が叫ばれている。今後はさらに1万6000円台、1万7000円台まで上昇するとエコノミストたちが煽っている。

 しかし株式市場もよく見てみると、東証一部の約6割にあたる1000近くの銘柄が値下がりしている。株価が急騰している4割のなかでは円安効果の恩恵を受けた自動車産業や、ソニー、パナソニック、三菱電機といった企業が年初から倍近い株価をつけている。逆に株価が急落している企業としては不動産関係や、国内小売りのヤマダ電機、イオン、東芝などの企業群だ。

 東証の株式時価総額は昨年10月末には261兆円まで落ち込んでいたのが、今年4月末の段階では411兆円にまで膨れあがっている。わずか半年で150兆円がなだれ込んでいる。この半年の推移を見てみると、11月に14兆円増加し、12月には26兆円増加、1月に29兆円、2月に13兆円、3月に23兆円、4月には46兆円とすさまじい勢いで資金が流入しているのがわかる。

 このなかで投機の中心的なプレイヤーとして振る舞っているのが海外のヘッジファンドや投資家といわれ、時価総額の大半は国内資金ではなくこうした海外資金であることが明らかになっている。

サブプライム危機で行き場を失った膨大な余剰資金がヨーロッパを食い物にし、ギリシャ、スペインなど南欧諸国の国家破綻でボロもうけした後しばらくは中国や新興諸国のバブルに巣くっていたが、それも一段落ついて今度は「アベノミクス」バブルに大集結していることを反映している。


 世界3大投資家の一人であるジョージ・ソロスがわずか3カ月で970億円を稼いで

「黒田はガッツがある」

「緩やかに死に向かっていた日本市場の目が覚めた」

などと褒めちぎり、

「しかし円が雪崩のように下落する恐れがある」

などと発言する状況ができている。こうした抜け目ない守銭奴は、日本経済が低迷しているといわれた時期に底値で株式を買い取るなど仕込みを終え、現在のように素人が「株がもうかる」と思い始めるような段階には見切りをつけて売り抜けている。

カモにされるのはいつも決まって素人で、証券会社にそそのかされた年寄りや、中流世帯が巻き込まれて泣きを見ている。


 加熱する米国債の購入 日銀の金融緩和で


 国債市場は株式市場よりも規模が大きく、世界的には株式市場の3倍にもなるとされている。この間の円安で輸出企業は潤ったといわれているものの、円安そのものが国債暴落で、1j=80円の段階で例えば1万円の日本国債の価値がドルベースで換算すると125jだったのが、いまや1j=100円超えなので、その価値は100jと大幅に下落することになった。

 こんな日本国債を持っているよりは、ドル建ての米国債を購入した方が儲かるという判断が働いて、日銀が金融緩和すればするほど米国債買いが加熱して、海の向こうに資金が流れ出していくことになっている。

円建ての日本国債を売り払って円を調達し、その円を売り払ってドルを買って米国債を購入するのが流れになり、あるいは国債を売り払った資金で株式市場に投機する動きとなった。


 安倍政府、日銀による異次元の金融緩和は、米国債購入という形で吸い上げられ、あるいは国際金融資本の博打の源泉として食い物にされる仕組みになっている。

リーマン・ショック後に、米国ではFRBが気狂いじみた量的緩和を実行し、銀行群の損失処理にあたり、ヨーロッパではECBが負けず劣らずの量的緩和をやり、市場に資金を供給してきた。そうしたマネーに寄生し、バブルを渡り歩いてきたのがヘッジファンドで、熱狂した後に売り浴びせることは、過去に日本市場でも経験済みだ。


 円安でも拠点を戻さず 海外移転の大企業

 日本国内ではこの数年、大企業が円高を理由に海外移転を繰り返してきた。ところが円安になったからといって日本に拠点を戻すわけでもなく、多国籍企業のようになって出ていく。内部留保を散散貯め上げたうえで、そうした過剰な資本は国民生活の水準を引き上げるためには用いられず、より利潤の得られる後進諸国への資本輸出や進出へと向けられている。ベトナム、ミャンマーといった進出先のインフラ整備までODAで日本政府に肩代わりさせるのだから、国民の面倒は見ずにもっぱら寄生するだけの存在というほかない。

 その株式を保有しているのが米国をはじめとした海外の超富裕層や、錬金術に長けた金融資本で、人為的な円安、株高政策にせよ、TPPにせよ、日本の富を米国富裕層の個人資産に移し替えてくれる「アベノミクス」だからこそ大歓迎している。

 グローバリゼーションのもとで、かつてなく世界を股に掛けた投機が横行し、産業集約が進んでいる。金が溢れて投資先に困るほど、生産は社会化して富は増大している。ところがその金は一%にも満たない超富裕層が握りしめて離さないことから、九九%がますます貧困に追いやられ、モノが売れずに経済活動は停滞。金融が破綻すれば損失を国家に転嫁するというデタラメがまかり通っている。

 ヘッジファンドが食い荒らしている日本市場の姿と、その資金をせっせと提供している「アベノミクス」の存在が暴露されている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/411.html

[番外地8] 「アベノミクス」の正体 中川隆
1. 中川隆[-11132] koaQ7Jey 2020年9月26日 18:53:55 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[37]
「アベノミクスの成果」【事実をいえば……】
安倍政権の発足直前(2012年10月〜11月)、政府は、80円台から105円(2013年12月)への円安を生むため、30兆円のドル買いを、秘密裏に、郵貯・かんぽ生命等の政府系金融機関に、行わせています。

25円(30%)の円安目的の、「円売り/ドル買い」マネーが、米国系投資銀行に入って、ヘッジファンドから、2012年末から日本株の買い越し(5兆円規模)になり、日経平均が8,500円台だった株価が、1万4,000円に上がっています(2013年末)。

これが、「アベノミクスの成果」とされたのですから、内実は白々しいことでした。
通貨と株価の大きな変化には、いつも、資金量をもっとも大きくできる政府と中央銀行、および政府系金融機関が関与する原因があります。

▲△▽▼

日本円が超円安になった理由
「アベノミクス」の正体
日本食潰す金融投機資本に貢ぐ 
安倍政府が発足して以後、「アベノミクス」と呼ばれる異次元の金融緩和や公共投資を中心とする政策が台頭し、急激な円安と株高の局面があらわれている。

昨年11月に民主党・野田政府が解散を表明した時点で8600円台だった日経平均株価は、半年たった今年5月中旬には1万5000円台まで急騰し、為替相場は1j=79円台だったものが102円台まで円安になるなど、世界的に見ても例がないほど大きな変動が起こっている。

海外投資家が時価総額のうち七割を占めている株式市場が熱狂し、さらに円安でトヨタをはじめとした輸出企業が過去最高益を上げるなど、金融緩和と為替マジックで金融資本や一部大企業がバブルに浸っている。

ところが一方で、燃油や穀物を中心に日本国内では生活必需品の価格が急騰し始めるなど、国民生活に深刻な影響が広がっている。「アベノミクス」でいったいなにが起きているのか、どうなっていくのかが重大な関心を集めている。


 
 バブルに群がる海外投資家

 この間、日経平均株価はリーマン・ショック以前と同レベルの価格まで急騰してきた。それほど好景気なわけでもなく、むしろ怒濤の首切りや製造業の海外移転を経て失業や貧困が全国的な範囲で広がり、生活実感としては悪化しているにもかかわらず、「日本株、年初から45%の上昇率」「1万5000円台回復」が叫ばれている。今後はさらに1万6000円台、1万7000円台まで上昇するとエコノミストたちが煽っている。

 しかし株式市場もよく見てみると、東証一部の約6割にあたる1000近くの銘柄が値下がりしている。株価が急騰している4割のなかでは円安効果の恩恵を受けた自動車産業や、ソニー、パナソニック、三菱電機といった企業が年初から倍近い株価をつけている。逆に株価が急落している企業としては不動産関係や、国内小売りのヤマダ電機、イオン、東芝などの企業群だ。

 東証の株式時価総額は昨年10月末には261兆円まで落ち込んでいたのが、今年4月末の段階では411兆円にまで膨れあがっている。わずか半年で150兆円がなだれ込んでいる。この半年の推移を見てみると、11月に14兆円増加し、12月には26兆円増加、1月に29兆円、2月に13兆円、3月に23兆円、4月には46兆円とすさまじい勢いで資金が流入しているのがわかる。

 このなかで投機の中心的なプレイヤーとして振る舞っているのが海外のヘッジファンドや投資家といわれ、時価総額の大半は国内資金ではなくこうした海外資金であることが明らかになっている。

サブプライム危機で行き場を失った膨大な余剰資金がヨーロッパを食い物にし、ギリシャ、スペインなど南欧諸国の国家破綻でボロもうけした後しばらくは中国や新興諸国のバブルに巣くっていたが、それも一段落ついて今度は「アベノミクス」バブルに大集結していることを反映している。


 世界3大投資家の一人であるジョージ・ソロスがわずか3カ月で970億円を稼いで

「黒田はガッツがある」

「緩やかに死に向かっていた日本市場の目が覚めた」

などと褒めちぎり、

「しかし円が雪崩のように下落する恐れがある」

などと発言する状況ができている。こうした抜け目ない守銭奴は、日本経済が低迷しているといわれた時期に底値で株式を買い取るなど仕込みを終え、現在のように素人が「株がもうかる」と思い始めるような段階には見切りをつけて売り抜けている。

カモにされるのはいつも決まって素人で、証券会社にそそのかされた年寄りや、中流世帯が巻き込まれて泣きを見ている。


 加熱する米国債の購入 日銀の金融緩和で


 国債市場は株式市場よりも規模が大きく、世界的には株式市場の3倍にもなるとされている。この間の円安で輸出企業は潤ったといわれているものの、円安そのものが国債暴落で、1j=80円の段階で例えば1万円の日本国債の価値がドルベースで換算すると125jだったのが、いまや1j=100円超えなので、その価値は100jと大幅に下落することになった。

 こんな日本国債を持っているよりは、ドル建ての米国債を購入した方が儲かるという判断が働いて、日銀が金融緩和すればするほど米国債買いが加熱して、海の向こうに資金が流れ出していくことになっている。

円建ての日本国債を売り払って円を調達し、その円を売り払ってドルを買って米国債を購入するのが流れになり、あるいは国債を売り払った資金で株式市場に投機する動きとなった。


 安倍政府、日銀による異次元の金融緩和は、米国債購入という形で吸い上げられ、あるいは国際金融資本の博打の源泉として食い物にされる仕組みになっている。

リーマン・ショック後に、米国ではFRBが気狂いじみた量的緩和を実行し、銀行群の損失処理にあたり、ヨーロッパではECBが負けず劣らずの量的緩和をやり、市場に資金を供給してきた。そうしたマネーに寄生し、バブルを渡り歩いてきたのがヘッジファンドで、熱狂した後に売り浴びせることは、過去に日本市場でも経験済みだ。


 円安でも拠点を戻さず 海外移転の大企業

 日本国内ではこの数年、大企業が円高を理由に海外移転を繰り返してきた。ところが円安になったからといって日本に拠点を戻すわけでもなく、多国籍企業のようになって出ていく。内部留保を散散貯め上げたうえで、そうした過剰な資本は国民生活の水準を引き上げるためには用いられず、より利潤の得られる後進諸国への資本輸出や進出へと向けられている。ベトナム、ミャンマーといった進出先のインフラ整備までODAで日本政府に肩代わりさせるのだから、国民の面倒は見ずにもっぱら寄生するだけの存在というほかない。

 その株式を保有しているのが米国をはじめとした海外の超富裕層や、錬金術に長けた金融資本で、人為的な円安、株高政策にせよ、TPPにせよ、日本の富を米国富裕層の個人資産に移し替えてくれる「アベノミクス」だからこそ大歓迎している。

 グローバリゼーションのもとで、かつてなく世界を股に掛けた投機が横行し、産業集約が進んでいる。金が溢れて投資先に困るほど、生産は社会化して富は増大している。ところがその金は一%にも満たない超富裕層が握りしめて離さないことから、九九%がますます貧困に追いやられ、モノが売れずに経済活動は停滞。金融が破綻すれば損失を国家に転嫁するというデタラメがまかり通っている。

 ヘッジファンドが食い荒らしている日本市場の姿と、その資金をせっせと提供している「アベノミクス」の存在が暴露されている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/411.html#c1

[番外地8] 終戦直前 xx・北xxを生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き
終戦直前 xx・北xxを生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き

ソ連軍が近づくと関東軍は戦わず、民間人を見捨てて逃げ出した。

現在の私たちはxx半島の真ん中で北xx・x国に分かれた地図を当たり前に見ています。

だが1945年夏のxx半島は現在とはまったく違う世界で、その後数が月の偶然によってxxと北xxが誕生した。

ほんの少し違っていれば半島すべてが共産主義のxx民主共和国になったかも知れないし、一つの大韓民国だったかも知れない。


またソ連の領土の一部や、中華民国や共産中国の「xx自治区」になっていた可能性がかなり在った。

全ては日本陸軍関東軍とソ連軍のかけひきによって進み、たまたま両軍が止まったのが地図上の「38度線」でした。

この38度線も関東軍の将校らが、たまたま地図上の線を目安に、ここを防衛線にしようと決めたのに過ぎませんでした。


始まりは1941年から45年の対米戦で、圧倒的優勢な米軍に対処するため、中国大陸や半島から優秀な将兵を太平洋戦線に移動させた。

優秀な人は太平洋に移動し玉砕したので終戦末期に大陸に残っていた兵士は、あまり戦力にならないと考えられたような人達でした。

こういう事情だったので関東軍上層部はソ連と戦う自信がなく、攻めてきたら逃げるという作戦を立てました。


日本の軍中枢である大本営は敗戦を確実視し、100万人以上いた日本人移民を全員見捨てて、関東軍だけが日本に帰国せよと命令しました。

1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、日本軍が居ない場所を狙って前進してきました。

関東軍はあらかじめ少し後退していて、ソ連軍も日本軍が居ない場所だけ前進するという暗黙の合意が成立していました。

全ては僅かな偶然で決まった

ソ連軍はドイツを倒すため欧州戦線に全力を投入していて、極東の日本軍には勝てないとスターリンは考えていました。

欧州戦線のソ連軍を極東に移動させるには数か月かかり、その間日本軍と交戦してはならないと指示していました。

戦力としては極東ソ連軍の方が関東軍より優勢だったが、1939年のノモンハン事件では同じく劣勢だった日本軍に苦戦したからでした。


ノモンハンの戦闘で日本軍は弾薬が尽きても刀や槍で襲い掛かり、兵器や人数では圧倒的に優勢だったソ連軍の方が大きな損害を出していました。

関東軍は安全に撤退するため100万人の日本人移民には「ソ連軍と戦いに行く」と言って騙し、xx半島まで撤退しました。

軍に見捨てられた日本人移民はソ連軍と中国軍らに襲われるのだが、これは本題ではないので省略します。


関東軍は将兵らの動揺を抑えるために、軍人の家族だけをこっそり38度線まで移動させ、8月15日までに主力部隊は38度線まで撤退しました。

関東軍は朝鮮半島南部を最終決戦の地と定め、もしソ連軍が38度線を越えて進軍したら、全軍が民間人とともに玉砕する計画でした。

と同時に関東軍はアメリカ軍が早く上陸するよう催促し、結局米軍は8月25日にソウルに到達しています。


ここで重要なのは「8月15日」は日本軍が勝手に停戦しただけで、ソ連軍が襲い掛かる脅威は続いていたのです。

関東軍はソ連軍を騙す事もしていて、広島長崎の原爆投下後に「日本の半分をソ連軍に引き渡す」という密約をしていました。

この約束は結局果たされず、自分が生き残るために日本を裏切ったのか、ソ連軍を足止めする高度な駆け引きだったのかは不明なままです。


中国や満州や北xxに取り残された日本人100万人以上は、現地で大変な目に遭い、ソ連軍に捕らえられた日本兵のほとんどがなくなりました。

そしてたまたま関東軍が停止した38度線以南を米軍が占領し、そこが韓国になりました。

ソ連は北xxを独立させる気はなかったが、xxとの対抗上なりゆきで北xxを建国した。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/412.html

[近代史4] アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2020年03月17日
アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦。

引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024x784.jpg


ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています。

だがこの作戦を決めたのが、ソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない。

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった。

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら、日本軍にビビリまくっていた。

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました。

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが、終始スターリンが主導権を握った。


ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された。

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた。

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた。


ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した。


経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る。

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった。


日本軍に狼狽したアメリカの錯覚

だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった。

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない。

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった。


日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し、欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた。


米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました。

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した。


逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した。

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった。

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました。


ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ、日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた。

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました。

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました。

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている。


ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg


スターリンが支配した1945年

さらにスターリンはドイツへの上陸地点を、バルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました。

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い。

ここにアメリカ軍が上陸したら、バルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない。


ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません。

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった。

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました。


ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました。

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました。

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった。


だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった。

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した。

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない。


戦後世界は偶然生まれた

ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました。

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した。

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い。


逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった。

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります。

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした。

http://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1053.html

[番外地8] アメリカ合衆国の歴史教科書では、 最大で30万人もの14-20歳の女性たちを 強制的に徴集して性行為を強要した
それは歴史学の定説になっています、東京裁判に提出された資料に基づいているのですね:
アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、

最大で30万人もの14-20歳の女性たちを
強制的に徴集して性行為を強要したとしている。

さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。
慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。

逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている。

この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/413.html

[番外地8] 儒教の国では家族に売春婦が居るとその家族は下の階級に落とされてまともな職業に付けなくな

儒教の国では家族に売春婦が居るとその家族は下の階級に落とされてまともな職業に付けなくなるので、みんな必死に隠していたのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/414.html
[番外地8] 国債の利子と民間銀行からの借金の利子でマネーストックが毎年増え続けています
国債の利子と民間銀行からの借金の利子でマネーストックが毎年増え続けています。
大学初任給は30年前から変わっていないので実質賃金が何分の一かになったのですね。
それが今の若い人が子供を作れなくなった原因です。
国債の代わりに無利子の政府紙幣を発行すればマネーストックは増えなくなり貧富の差も拡大しなくなります。

http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/415.html
[番外地8] 儒教の国では家族に売春婦が居るとその家族は下の階級に落とされてまともな職業に付けなくな 中川隆
3. 中川隆[-11131] koaQ7Jey 2020年9月26日 20:49:14 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[40]
​ @88ヶ所巡礼
儒教国家の恐ろしさを知らないでしょう:
儒教は、半島において、非常に特異な独自の発展を遂げて、現在のxx文化の基礎をなしています。
徹底した封建制=男尊女卑思想に貫かれ、根底にある女性差別から、無数の派生差別が成立し、xx半島では差別と序列だらけの奇っ怪な観念国家となってしまいました。

 北xxでは51もの階級に分化し、階級が一つでも違えば、互いに見下し、嘲笑し、妬むという独特のxx文化を継承しています。


 xxで著しい階級階層分化と差別が成立した事情は、おそらくxx族が、かつて沿海州(濊)にいたオロチョン族、エベンキ族が西進して新羅に入り、現在のxx人の先祖となったため、濊文化が、そのまま儒教と融合したせいではないかと考えます。

儒教の本性は、見栄、体面、メンツの文化で、自分たちの権力を神格化し、権威の虚構に陶酔していたいという、いわば妄想の世界の住人たちです。

 蘇る儒教の迷妄 2018年04月28日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-329.html

 儒教国は見栄とメンツだけで成立している。中身は空っぽ、本当に何もない……2019年11月01日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-922.html
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/414.html#c3

[番外地8] 慰安婦問題の始まり
南京大虐殺も1971年までは誰も知らなかったし、こういう問題で被害者から騒ぐ事はまず無いですね:
慰安婦問題の始まり
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_i/925/

慰安婦問題が明るみに出た経過を整理してみます。

● 1970年代に日本人のキ−セン観光に対して、

 韓国の女性たちが批判を始めました。

 「日本男性は、戦争中同胞の女性たちを

 女子挺身隊員として軍の力で狩り出し、

 それを反省もせず、

 今度は金の力でキ−センの性を弄んでいる。」という内容でした。

 ところが韓国は当時独裁政権で、

 日本とうまくやるために

 国際観光振興政策をとり、

 あまり問題としませんでした。

注:女子挺身隊

日本軍は工場労働者として

朝鮮女性を狩り出すとき

「女性挺身隊」という名称で、

募集、詐欺募集、強制連行を行ないました。

そして労働者だけではなく

慰安婦も同じ名目で狩り出されました。

● 1977年には日本でも、

 松井やよりさんたちが中心になって

 キ−セン観光反対運動が始まりました。

● 1984年にシンガポ−ル特派員をしていた

 松井やよりさんは、タイで韓国人の下慰安婦

 「盧寿福」さんにインタビュ−し、

 朝日新聞に掲載しました。

注:松井やよりさんはシャ−ナリスト(朝日新聞)として活躍、

    薬害サリドマイド事件でも取材を続けました。

    VAWW-NET Japan

  (戦争と女性への暴力 日本ネットワ−ク)の代表でした。

  2002年12月27日肝臓ガンで亡くなられました。

● 1988年、韓国梨花女子大学教授「尹貞玉」さんが

 「日本軍の犠牲になった同時代の女性たちを

 歴史の闇の中に埋もれさせる事は出来ない。  

 この問題に余生を捧げたい」と来日しました。  

 そしてアジア各地の取材を始めました。

● 1990年1月、韓国ハンギョレ新聞に

 尹貞玉さんが「挺身隊取材記」の連載を開始。

● 1990年5月、盧泰愚大統領来日の機会に

 「挺身隊問題の解決を」と、韓国の女性団体が

 声明を発表、37団体が「韓国挺身隊問題協議会」を結成、    

 日本韓国両政府に対し公開書簡を送りました。

 

● 1990年12月、ソウルで開かれた

 アジア女性人権評議会主催の

 「アジア女性人身売買問題会議」で、

  韓国代表が「慰安婦問題」を報告。

 アジア各地に知れ渡る。

● 1991年8月、韓国で元慰安婦として

 「金学順」さんが初めて名乗り出た

12月には金学順等、3名が

日本政府に謝罪と補償を求めて

東京地裁に提訴しました。

その直前の11月28日、

NHK「ニュ−ス21」のインタビュ−に答えて

「日本軍に踏みつけられ、

一生を惨めに過ごしたことを訴えたかったのです。

日本や韓国の若者たちに、

日本が過去にやった事を知って欲しい」

注:公式には金学順が最初に名乗り出たことになっていますが、

    実は1990年5月の韓国の雑誌「時代人物」に

「恥辱と絶望の人生を克服し

国の独立を願って生きる沈美子さん」

という記事があった事が発見されました。

伊藤孝司氏が2001年4月に発見したものです。

つまり沈美子さんが金学順せんより

早く名乗り出たということです。

● 1992年9月、

 TFFCW(フィリピンの女性人権擁護団体)の

 マスコミを使った呼びかけに対して、

 マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんが

 フィリピンで最初の証言者として名乗り出ました。

● その後、フィリピン、台湾、マレ−シア、

 インドネシア、中国、北朝鮮、オランダの元慰安婦たちが

 続々と名乗り出ました。

● 1993年6月、ウイ−ンで開かれた

 「国連世界人権会議」で取り上げられる。

● 1995年8月〜9月、

 北京の世界女性会議で

 行動綱領に取り上げられました。

以上のような経緯で慰安婦問題が

闇の中から明るみに出てきたのです。

心無い一部の人は「どこまで謝れば気が済むのか?」

「土下座外交」「自虐史観」・・・と言いますが、

日本はいつ国として調査・謝罪・補償をしたのでしょうか?

この問題が明るみに出たのはまだ最近、

1991年なのだということを覚えておいて欲しいと思います。

慰安婦問題の始まり
慰安婦問題が明るみに出た経過を整理してみます。

● 1970年代に日本人のキ−セン観光に対して、

 韓国の女性たちが批判を始めました。

 「日本男性は、戦争中同胞の女性たちを

 女子挺身隊員として軍の力で狩り出し、

 それを反省もせず、

 今度は金の力でキ−センの性を弄んでいる。」という内容でした。

 ところが韓国は当時独裁政権で、

 日本とうまくやるために

 国際観光振興政策をとり、

 あまり問題としませんでした。

注:女子挺身隊

日本軍は工場労働者として

朝鮮女性を狩り出すとき

「女性挺身隊」という名称で、

募集、詐欺募集、強制連行を行ないました。

そして労働者だけではなく

慰安婦も同じ名目で狩り出されました。

● 1977年には日本でも、

 松井やよりさんたちが中心になって

 キ−セン観光反対運動が始まりました。

● 1984年にシンガポ−ル特派員をしていた

 松井やよりさんは、タイで韓国人の下慰安婦

 「盧寿福」さんにインタビュ−し、

 朝日新聞に掲載しました。

注:松井やよりさんはシャ−ナリスト(朝日新聞)として活躍、

    薬害サリドマイド事件でも取材を続けました。

    VAWW-NET Japan

  (戦争と女性への暴力 日本ネットワ−ク)の代表でした。

  2002年12月27日肝臓ガンで亡くなられました。

● 1988年、韓国梨花女子大学教授「尹貞玉」さんが

 「日本軍の犠牲になった同時代の女性たちを

 歴史の闇の中に埋もれさせる事は出来ない。  

 この問題に余生を捧げたい」と来日しました。  

 そしてアジア各地の取材を始めました。

● 1990年1月、韓国ハンギョレ新聞に

 尹貞玉さんが「挺身隊取材記」の連載を開始。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/416.html

[番外地8] 慰安婦問題の始まり 中川隆
1. 中川隆[-11130] koaQ7Jey 2020年9月26日 22:15:16 : oJAr3sCzck : VFhPMUdKMWZ6b0U=[41]
​ @88ヶ所巡礼
南京大虐殺も1971年までは誰も知らなかったし、こういう問題で被害者から騒ぐ事はまず無いですね:
慰安婦問題の始まり
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_i/925/

慰安婦問題が明るみに出た経過を整理してみます。

● 1970年代に日本人のキ−セン観光に対して、

 韓国の女性たちが批判を始めました。

 「日本男性は、戦争中同胞の女性たちを

 女子挺身隊員として軍の力で狩り出し、

 それを反省もせず、

 今度は金の力でキ−センの性を弄んでいる。」という内容でした。

 ところが韓国は当時独裁政権で、

 日本とうまくやるために

 国際観光振興政策をとり、

 あまり問題としませんでした。

注:女子挺身隊

日本軍は工場労働者として

朝鮮女性を狩り出すとき

「女性挺身隊」という名称で、

募集、詐欺募集、強制連行を行ないました。

そして労働者だけではなく

慰安婦も同じ名目で狩り出されました。

● 1977年には日本でも、

 松井やよりさんたちが中心になって

 キ−セン観光反対運動が始まりました。

● 1984年にシンガポ−ル特派員をしていた

 松井やよりさんは、タイで韓国人の下慰安婦

 「盧寿福」さんにインタビュ−し、

 朝日新聞に掲載しました。

注:松井やよりさんはシャ−ナリスト(朝日新聞)として活躍、

    薬害サリドマイド事件でも取材を続けました。

    VAWW-NET Japan

  (戦争と女性への暴力 日本ネットワ−ク)の代表でした。

  2002年12月27日肝臓ガンで亡くなられました。

● 1988年、韓国梨花女子大学教授「尹貞玉」さんが

 「日本軍の犠牲になった同時代の女性たちを

 歴史の闇の中に埋もれさせる事は出来ない。  

 この問題に余生を捧げたい」と来日しました。  

 そしてアジア各地の取材を始めました。

● 1990年1月、韓国ハンギョレ新聞に

 尹貞玉さんが「挺身隊取材記」の連載を開始。

● 1990年5月、盧泰愚大統領来日の機会に

 「挺身隊問題の解決を」と、韓国の女性団体が

 声明を発表、37団体が「韓国挺身隊問題協議会」を結成、    

 日本韓国両政府に対し公開書簡を送りました。

 

● 1990年12月、ソウルで開かれた

 アジア女性人権評議会主催の

 「アジア女性人身売買問題会議」で、

  韓国代表が「慰安婦問題」を報告。

 アジア各地に知れ渡る。

● 1991年8月、韓国で元慰安婦として

 「金学順」さんが初めて名乗り出た

12月には金学順等、3名が

日本政府に謝罪と補償を求めて

東京地裁に提訴しました。

その直前の11月28日、

NHK「ニュ−ス21」のインタビュ−に答えて

「日本軍に踏みつけられ、

一生を惨めに過ごしたことを訴えたかったのです。

日本や韓国の若者たちに、

日本が過去にやった事を知って欲しい」

注:公式には金学順が最初に名乗り出たことになっていますが、

    実は1990年5月の韓国の雑誌「時代人物」に

「恥辱と絶望の人生を克服し

国の独立を願って生きる沈美子さん」

という記事があった事が発見されました。

伊藤孝司氏が2001年4月に発見したものです。

つまり沈美子さんが金学順せんより

早く名乗り出たということです。

● 1992年9月、

 TFFCW(フィリピンの女性人権擁護団体)の

 マスコミを使った呼びかけに対して、

 マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんが

 フィリピンで最初の証言者として名乗り出ました。

● その後、フィリピン、台湾、マレ−シア、

 インドネシア、中国、北朝鮮、オランダの元慰安婦たちが

 続々と名乗り出ました。

● 1993年6月、ウイ−ンで開かれた

 「国連世界人権会議」で取り上げられる。

● 1995年8月〜9月、

 北京の世界女性会議で

 行動綱領に取り上げられました。

以上のような経緯で慰安婦問題が

闇の中から明るみに出てきたのです。

心無い一部の人は「どこまで謝れば気が済むのか?」

「土下座外交」「自虐史観」・・・と言いますが、

日本はいつ国として調査・謝罪・補償をしたのでしょうか?

この問題が明るみに出たのはまだ最近、

1991年なのだということを覚えておいて欲しいと思います。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/416.html#c1

[番外地8] 「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

@77 7 挺身隊が慰安婦になった事実はありませんね。


それは右翼が流しているデマだよ
朝日元記者を標的に
東京と札幌で進められている慰安婦問題をめぐる2つの訴訟の争点は同じだ。


(1)慰安婦にされた金氏に対する軍による「連行」の事実はあったのか、(2)「女子挺身隊」という言葉は朝鮮で慰安婦を表す表現として使われていたか、(3)植村氏は義母の裁判を有利にするため記事を書いたのか、である。

 植村氏は西岡氏らから、韓国人である義母が関係する元慰安婦などを支援する団体の運動と絡めて非難された。義母が関係する運動を手助けするため記事を書いた、つまり金氏が親に売られて慰安婦にされたのに、女子挺身隊として戦地に連行されたと捏造したというのだ。

 今回の二つの訴訟は、記事を「捏造」したと名指しされた植村氏が、名誉回復を求め、自身に向けられた憎悪のような攻撃に反撃するために起こしたものだ。

 裁判では、金氏だけでなく軍が関与して慰安婦にされた人たちの事例などが、植村氏側から証拠としていくつも提出されている。

「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

 櫻井氏がキャスターを務めた日本テレビでも「女子挺身隊という名の従軍慰安婦」という番組を放送した(82年3月)。産経新聞も1991年9月3日の紙面で、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに、日本従軍慰安婦として戦場に駆かり出だされた朝鮮人女性たち」と書いている。

 植村氏が金学順さんの証言を書いたのもこのころ。挺身隊という言葉は韓国で慰安婦と同義語だった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/417.html

[番外地8] 『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
​ @88ヶ所巡礼
それは西岡さんの捏造だと明らかになっているよ:
『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/
佐藤和雄|2018年9月26日10:23AM 週刊金曜日
「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

植村氏は1991年8月、xxでの「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、xx紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じたxx『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられたxx人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/418.html

[番外地8] 慰安婦の軍関与と強制性を示す公文書を内閣官房が保有していた

>提訴が10人程度と言う事と勝訴がゼロという結果を考えれば組織的な犯行は無かった。そう考えますよ。

慰安婦の軍関与と強制性を示す公文書を内閣官房が保有していた! 共同の報道で明らかになった「青島総領事の報告書」(リテラ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/890.html
 戦中の日本軍をめぐる慰安婦問題で、軍の関与と強制性を示す新史料を共同通信がスクープした。6日の共同通信によれば、内閣官房が2017、2018年に新たに収集した23件の関連公文書のうち、在中国日本領事館の報告書に、こんな記述があったという。


「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」
「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」

 同じく共同によれば、この「酌婦」や「特殊婦女」は、別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指しているという。共同は「青島総領事の報告書」の一部画像を公開しているが、文書には「機密」と記されている。内容の全容は、この後明らかになっていくだろうが、軍が女性たちを強制的に慰安婦にしていたことを示す公文書であることは間違いないだろう。

 本サイトが政府関係者に取材したところ、従軍慰安婦関連公文書の収集を続けている内閣官房はこの新史料を把握しながら、公表していなかった。それを共同通信が独自ルートで入手したということらしい。これは、内閣官房が、慰安婦についての軍関与や強制性を否定したい安倍政権を忖度して“隠蔽”していたとしか考えられない。

 いずれにせよ、現在、報じられているセンテンスには「陸軍側は兵士70名に対し」「軍用車に便乗」とあり、公文書として軍の直接的な関与を示しているのは確定的。さらに、別の報告書には「醜業を強いられ」とあることから、女性たちを強制的に従軍慰安婦にした証拠となる。

 ところが、ネット上ではこの新史料報道に対しも、またぞろネトウヨたちがこんなふうに喚き立てている。

〈はい嘘。娼妓は遊女、醜業は売春を指します。慰安婦ではなく売春婦だったことの証拠です〉
〈売春婦がいたことは、事実ですが?〉
〈そりゃ領事館で働くエリート様から見れば売春婦は醜業だろうよ〉
〈この資料を素直に読めば、軍や政府は関与していないと受け取れる〉

 この期に及んで、慰安婦の軍関与を否定し、「単なる売春婦だった」などと嘯く頭の悪さはつくづく呆れる。そもそも、この新史料に限らず、日本軍が組織的に女性たちを慰安婦にしていたことは、これまでの史料や当時の軍関係者の証言からも明らかになっていることだ。

 たとえば、先日亡くなった海軍出身の中曽根康弘元首相は、自らの回想記のなかに、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。また、陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長も「調弁する女の耐久度とか消耗度」のチェックなどを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされている。つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示しているのだ。

 ネトウヨたちは「醜業」という言葉をとってきて「売春婦のことだ!」と理解できないことをほざいているが、軍関係者が当時、自分たちで慰安所をつくりながら、それを侮蔑的な言葉で表現していたことも、こうした数々の証言から明らかになっていることだ。たとえば前述の鹿内信隆氏は慰安所のことを「ピー屋」と呼び、軍内部での侮蔑的な言い回しを口にしていた。そうした言葉を根拠にいくら「売春婦」だと決めつけても、なんの説得力もない。

■産経グループの総帥も陸軍時代に「調弁する女の耐久度とか消耗度まで決めた」と自慢

 しかも、慰安所を「ピー屋」と呼んでいた鹿内は同時に、女性たちを戦場の性の道具にした慰安所が、軍の計画に基づいて実行されていたという事実もあからさまに明かしているのだ。元日経連会長である桜田武氏との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)で、陸軍時代の思い出話としてこんなふうに述べている。

〈鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
 桜田 そう、慰安所の開設。
 鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。〉

 これは陸軍が慰安婦の調達に関与し、戦地の慰安所での時間や料金などの取り決めを作り、そのノウハウを軍の経理学校で士官に叩き込んでいた、ということを意味しているわけだが、本サイトでも以前検証したように、この鹿内氏の証言は、当時の軍関連史料からも裏付けられている。

 たとえば1941年に陸軍主計団記事発行部が発行した『初級作戦給養百題』は、いわば経理将校のための教科書だが、そこには「慰安所ノ設置」が任務として掲載されている。また、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、中国・朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 6日に共同通信がスクープした内閣官房収集の外務省公文書は、「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」という公開されている部分だけをみても、以前から判明していた軍による関与・管理の事実を補強している。さらに「醜業を強いられ」という表現からは、慰安婦たちを強制的にそうした状況に追いやっていたということをほかならぬ当局が認識していたことがはっきりと読み取れる。

 朝日新聞の吉田清治証言に関する報道の取り消し後、慰安婦問題をめぐっては、「軍関与も強制性もなかった」「ただの売春婦だった」という虚論が大手を振ってまかり通っている。それは、安倍首相を中心とした極右勢力が朝日バッシングを奇貨として、一気に歴史修正の動きを勢いづけたことが最大の要因だが、それに対し、しっかりと反証してこなかったマスコミにも責任がある。

 新史料については近日中の全容公開が待たれるが、今回の共同通信のスクープのように、メディア側が率先して情報を出したり、史料や証言を発掘していかねば、政府はいくらでも“不都合な真実”を隠蔽していくだろう。こと安倍政権下では、歴史問題においても報道機関の矜持が試されているのだ。

帝国陸軍「兵70名に一人慰安婦を用意しろ」←軍関与が確定
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/12/235319

■ 共同通信のスクープ
12月6日、共同通信が、日本軍慰安所(レイプセンター)制度への軍の関与を裏付ける外務省文書の存在をスクープした。


(略)在中国の日本領事館の報告書には「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」などの記述があった。「酌婦・特殊婦女」は別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指している。(略)

断片的に報道されている内容からだけでも、軍が行政側に「慰安婦(軍用性奴隷)」の割り当てを要求し、提供された女性たちをまるで軍需物資のように軍の車両で戦地に輸送して、慰安所で将兵との性行為を強要していたことがわかる。
これらの文書は、日本軍と政府機関が組織的に慰安所制度の運用に関与していたことを示す明白な証拠と言っていい。

ちなみに、報告書にあるような「慰安婦」たちの輸送がどのようなものだったかは、村瀬守保氏が日中戦争時の中国で撮影した下の写真などから伺うことができる。[1]

 戦地での移動は、戦局の進むにつれて、前進します。多くは無蓋のトラックで、荷物同様に運ばれる有様でした。

 終戦後、彼女達には、敵国人としての、一層悲惨な運命が待ち構えているようでした。

■ ネトウヨ狂乱

公文書という証拠を突きつけられてネトウヨは逆上、上記のYahoo!ニュース記事にはわずか一日程度の間に5,000件以上のコメントが書き込まれている。

典型的なコメントをみつくろってみるとこんな感じだ。


サンプル1:
慰安婦はいた それは事実 だが誘拐や拉致かどうかが問われているのでは?
占領地で、無法な行為をしない為に慰安婦のような専門の職業があった。

「慰安婦」の大半は就業詐欺により集められ、騙されたと気づいたときにはもう逃げられない状態に陥っていたのだから事実上の誘拐である。また、日本軍が慰安所を作るようになったのは確かに日本兵による強姦があまりに多発したからだが、しかし慰安所を作ったからといって強姦が減ったわけではない。その理由は、例えば南京戦に従軍した兵士による下記の証言などから理解できるだろう。[2]

慰安所作っても強姦は減らんわ。慰安所の女はだいたい朝鮮人やった。将校用、一般用と分かれておった。料金は一円か二円くらいやったかな。(略)わしの分隊はまだましやったけど、他の兵隊は無茶苦茶や。分隊の兵隊は、ほぼみんな(強姦を)やっとった。街に行ったら“ただ”やからな。


サンプル2:
歴史は善悪論でも、道徳論でもなく、その時代の価値観に沿って理解すべきものだと思います。それが完璧にできるようになったとき、恒久平和が訪れるのではないでしょうか。

慰安所の実態は「その時代の価値観」どころか当時の時点でも違法(日本も批准していた「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」「強制労働に関するILO 29号条約」等違反)だったし、だからこそ政府はバレないようにコソコソやっていたのだ。こんな寝言を言っている限り、恒久平和が訪れることなど永久にない。


サンプル3:
現在では、理解されないかもしれませんが・・当時は常識だったのでは
特に軍隊ともなれば当時ではどこの国の軍隊もほぼ近い事をしていたのではないかと思います。

当時、軍中央が強制売春施設の設置を計画し、推進していたのは日本とナチスドイツくらいのものだ。連合国の軍隊のまわりにも売春宿があったことは事実だが、軍がこれを作らせたり、管理・統制するなどということはなかった。また、沖縄戦のような激戦地の最前線にまで「慰安所」を作ったのは日本軍だけだろう。


サンプル4:
軍の《関与》が問題なのではなく、軍による《強制》があったかどうかが重要なのに、相変わらず卑劣な左派メディア共同通信はミスリードを続けてますね。単なる関与であれば、現在の風俗店を管轄してる警察と同じようなものです。

現在の警察が、業者を選定して警察官専用の風俗店を作らせたり、その利用規則を決めたりしているのか? 本当にそう思っているのなら、あんたらのやっていることは慰安所を設営した旧日本軍と同じだと警察庁に言いに行ったらどうか。
まったく、ネトウヨのバカさ加減には限りがない。

[1] 村瀬守保 『私の従軍中国戦線』 日本機関紙出版センター 1987年 P.106
[2] 松岡環 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.276
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/419.html

[番外地8] 櫻井よしこに続き西岡力も「捏造」を法廷で白状! 安倍応援団や右派の朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈
植村隆の証言は正しいよ
単に名誉棄損には当たらないと判断されただけさ:
櫻井よしこに続き西岡力も「捏造」を法廷で白状! 安倍応援団や右派の朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈
2018.10.20 櫻井よしこ、西岡力、文春…朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈 リテラ   
「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」という右派のおきまりのフレーズが、まさに自らに突き刺さる事態となっている。元朝日新聞記者の植村隆氏が提訴した裁判で、植村氏を「捏造記者」などと攻撃した極右言論人たちの嘘とでっち上げが、次々と白日のもとに晒されているのだ。

 念のため振り返っておくと、植村氏は、2014年に朝日新聞がいわゆる「吉田清治証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「事実上の人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ」と総攻撃を受けた。

 しかし、植村氏はその後、自分への攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、極右言論人と出版社を相手取って複数の裁判を起こした。そのひとつが、櫻井よしこ氏と櫻井氏の原稿を掲載したワック、新潮社、ダイヤモンド社を相手取った札幌地裁の名誉毀損裁判である。当時、本サイトでも詳しく伝えたように、今年3月の口頭弁論では、櫻井氏が本人尋問にて、植村氏を「捏造記者」と書いた根拠に関する重要な事実関係の間違いを認めている。

 そして今秋、慰安婦否定論の急先鋒で“安倍晋三のブレーン”のひとりといわれる西岡力氏と、「週刊文春」の版元・文藝春秋を訴えた東京地裁の法廷でも、たて続けに連中の悪質なウソと捏造が暴かれた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/420.html

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 中曽根康弘
売国政治家列伝 _ 中曽根康弘


『報道特集』 がついに中曽根元首相の「土人女を集め慰安所開設」文書を報道! 息子の弘文が慰安婦否定の責任者ってなんの冗談?
リテラ 2015.07.25 10:00
https://lite-ra.com/2015/07/post-1323.html


 ようやく、マスコミがこの問題を取り上げてくれた。今日の『報道特集』(TBS)がインドネシアの慰安所づくりへの日本軍関与問題を報じたのだが、そのなかで、当時、海軍中尉だった中曽根康弘元首相が直接慰安所づくりにかかわっていた事実を指摘したのだ。


 本サイトは、朝日新聞が慰安婦問題でバッシングにさらされていた最中の昨年7月にこの問題を記事にしていた。中曽根元首相は海軍時代の回想録で自ら「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書きながら、外国人特派員協会で追及されると、一転して否定。


 しかし、本サイトは防衛省のシンクタンク・防衛研究所で中曽根が当時、主計長として統括していた「海軍航空基地第2設営班」の資料を入手。そこに中曽根主計長の取り計らいで、「土人女を集め慰安所を開設」という記載があることをスクープしたのだ。


 慰安婦への軍の関与と強制徴用を証明する明らかな客観的証拠だったが、当時はどの新聞、テレビも一切無視。いつもの「反日勢力のデマ」ということで片付けられてしまった。


 それを今回、『報道特集』が追及したのである。中曽根の手記や第2設営班の記録はもちろん、元慰安婦や元日本兵の証言もまじえつつ、徹底取材で軍の関与や強制の事実に肉薄するものだった。案の定、報道後はネトウヨの攻撃で炎上状態になっているが、そうしたリアクションが予想されるなかで、あえて踏み込んだ『報道特集』の勇気には拍手を送りたい。


 しかも、『報道特集』がこの時期に、この問題を取り上げたことにはもうひとつ大きな意味がある。それは、安倍政権が慰安婦問題をなかったことにするために立ち上げた自民党のプロジェクト「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」の委員長に中曽根の息子である中曽根弘文が就任したからだ。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1054.html

[リバイバル3] アナログケーブルはLANケーブルが一番良い? スピーカーケーブルは細ければ細い程良い? 中川隆
10. 中川隆[-11129] koaQ7Jey 2020年9月27日 09:00:42 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[3]
「音楽&オーディオ」の小部屋
鉄は熱いうちに打て 2020年09月27日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/cc9503d7675d0feabfce7857d16d4695


つい先日、我が家に試聴に来ていただいたYさん。

クルマで10分ほどの所にお住まいで、日頃から生の楽器(フルート)に親しまれているせいか、すこぶる耳がいい方なので我が家のオーディオの「ご意見番」として大いに貢献してもらっている。

つい最近のブログに登載したように、このほど「RCAケーブル」をすべて「LANケーブル」の素材に代えたので「いかがですか?」とご意見を拝聴したところ「たしかに変わりましたね。音の汚れが取れた感じで音響空間に爽やかな空気感が漂ってきました」と、大好評。

「やっぱり、そうでしょう」と、まだ我が耳が多少なりとも健在であることを確認して喜びもひとしおだった(笑)。

それはいいとして、Yさんが耳寄りのオーディオ情報をもたらしてくれた。

「中国の〇〇メーカーが半年ほど前に新たなDACを発売しました。お値段も手ごろだし、チップも旭化成の最新型だし、オペアンプも日本製の優れものだそうで随分評判がいいようですよ」

「ホウ〜、ぜひモデルの型番を教えてください。北国の真空管博士に問い合わせてご意見を伺ってみましょう」

翌日、さっそく博士からコメントがあった。

「中国の〇〇は以前からお値段のわりに性能が良くて注目していたメーカーです。変換チップも定評のある旭化成のものだし、オペアンプも国産だしとてもいいんじゃないでしょうか。お値段も手ごろだし、お買い得だと思いますよ」と、珍しく太鼓判押し。

「それはうれしい情報ですね。ただ、RCA出力とXLR出力では随分と音質の差があるようにユーザーが言ってますがはたしてどうなんでしょう。」

「基本的にXLR出力は業務用ですからそちらの方に力点を置いているのでしょう。実際に使ってみないと何とも言えませんがあまり拘らなくてもいい範囲ではないかと思いますよ」

デジタル機器は周知のとおり日進月歩の時代なので常に最新情報にアンテナを張っておく必要がある。

とはいえ、中国製のDACはこれまではどうしても「オペアンプ」の性能がイマイチだとの評価が絶えず、乗り気にさせてくれなかったが今回ようやく「変換チップ」と「オペアンプ」のクルマの両輪がそろった感じ。おまけにお値段の方も手ごろだしねえ〜(笑)。

ただし、唯一気になるのが「RCA出力の性能がやや落ちる」とのことなので、「XLR → RCA」変換ケーブルの出番も考えておく必要がありそうだ。

つまり「DACのXLR出力端子」と「プリアンプのRCA入力端子」の間に変換ケーブルを使えばいいという算段となる。

実は、これについてはずっと以前に手持ちの変換ケーブルを使って実際に試してみたことがあるのだが、その時はとても冴えなかった。

明らかに音質の劣化が目立ち、もう二度とこんなことはするまいと決心したのだが、「LAN」素材と、高性能のプラグを使う「T」さん(東海地方)の製作されたものならいけるかもしれないと、ふと頭によぎった。

こうなると速攻あるのみで、すぐに(Tさんに)お願いしてみると「ハイ分かりました。DACの出力端子はオスですか、メスですか?」そこで「はい、オスになります。したがって受ける(作る)側の端子はメスになります。余計なことかもしれませんが2番ホットです。」「了解しました」

そして、早くも2日後には我が家に到着。

「XLRはノイトリックの金メッキ端子です、生産国はリヒテンシュタインです、20〜30年ぐらい前まではスイス製でした、リヒテンシュタインはスイスの隣です、どちらの国も所得水準が高いです。

XLRもRCAもコレットチャックなので中でケーブルを締め付けて固定します、大変良く考えられた製品です。」との、コメント付き。

「T」さんはレスポンスがメチャ早くて大助かり。

「鉄は熱いうちに打て」を身を持って実践されている(笑)。

さっそくDAコンバーター(DAC)に挿し込んで性能を試してみた。

我が家のエースDACで「腐っても鯛」(笑)と重宝している「エルガー プラス」(英国:dCS)の出力端子「XLR」端子(バランス端子)からプリアンプ2号機(安井式)へと接続して聴いてみた。

いやあ、驚きました!

「RCA出力端子」からの出力とまったく音質が変わらぬではありませんか!

これで飛躍的に使い勝手が向上した。

つまり「エルガー プラス」の「RCA端子」からプリアンプ1号機(マランツ7型)へ、「XLR端子」からプリアンプ2号機(安井式)へと自由自在に「エルガー プラス」が使える。

もちろん、これは「瓢箪から駒が出た」ようなものであくまでも付録であり、本命は新たな中国製DACの購入に向けての本格的な検討開始の端緒となるもの。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/cc9503d7675d0feabfce7857d16d4695
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1081.html#c10

[リバイバル3] 最高の音を一番安く手に入れる方法 _ パソコンの iTunes ファイル + プリ機能付き DAC + フルレンジスピーカー 中川隆
122. 中川隆[-11128] koaQ7Jey 2020年9月27日 09:02:58 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[4]
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鉄は熱いうちに打て 2020年09月27日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/cc9503d7675d0feabfce7857d16d4695


つい先日、我が家に試聴に来ていただいたYさん。

クルマで10分ほどの所にお住まいで、日頃から生の楽器(フルート)に親しまれているせいか、すこぶる耳がいい方なので我が家のオーディオの「ご意見番」として大いに貢献してもらっている。

つい最近のブログに登載したように、このほど「RCAケーブル」をすべて「LANケーブル」の素材に代えたので「いかがですか?」とご意見を拝聴したところ「たしかに変わりましたね。音の汚れが取れた感じで音響空間に爽やかな空気感が漂ってきました」と、大好評。

「やっぱり、そうでしょう」と、まだ我が耳が多少なりとも健在であることを確認して喜びもひとしおだった(笑)。

それはいいとして、Yさんが耳寄りのオーディオ情報をもたらしてくれた。

「中国の〇〇メーカーが半年ほど前に新たなDACを発売しました。お値段も手ごろだし、チップも旭化成の最新型だし、オペアンプも日本製の優れものだそうで随分評判がいいようですよ」

「ホウ〜、ぜひモデルの型番を教えてください。北国の真空管博士に問い合わせてご意見を伺ってみましょう」

翌日、さっそく博士からコメントがあった。

「中国の〇〇は以前からお値段のわりに性能が良くて注目していたメーカーです。変換チップも定評のある旭化成のものだし、オペアンプも国産だしとてもいいんじゃないでしょうか。お値段も手ごろだし、お買い得だと思いますよ」と、珍しく太鼓判押し。

「それはうれしい情報ですね。ただ、RCA出力とXLR出力では随分と音質の差があるようにユーザーが言ってますがはたしてどうなんでしょう。」

「基本的にXLR出力は業務用ですからそちらの方に力点を置いているのでしょう。実際に使ってみないと何とも言えませんがあまり拘らなくてもいい範囲ではないかと思いますよ」

デジタル機器は周知のとおり日進月歩の時代なので常に最新情報にアンテナを張っておく必要がある。

とはいえ、中国製のDACはこれまではどうしても「オペアンプ」の性能がイマイチだとの評価が絶えず、乗り気にさせてくれなかったが今回ようやく「変換チップ」と「オペアンプ」のクルマの両輪がそろった感じ。おまけにお値段の方も手ごろだしねえ〜(笑)。

ただし、唯一気になるのが「RCA出力の性能がやや落ちる」とのことなので、「XLR → RCA」変換ケーブルの出番も考えておく必要がありそうだ。

つまり「DACのXLR出力端子」と「プリアンプのRCA入力端子」の間に変換ケーブルを使えばいいという算段となる。

実は、これについてはずっと以前に手持ちの変換ケーブルを使って実際に試してみたことがあるのだが、その時はとても冴えなかった。

明らかに音質の劣化が目立ち、もう二度とこんなことはするまいと決心したのだが、「LAN」素材と、高性能のプラグを使う「T」さん(東海地方)の製作されたものならいけるかもしれないと、ふと頭によぎった。

こうなると速攻あるのみで、すぐに(Tさんに)お願いしてみると「ハイ分かりました。DACの出力端子はオスですか、メスですか?」そこで「はい、オスになります。したがって受ける(作る)側の端子はメスになります。余計なことかもしれませんが2番ホットです。」「了解しました」

そして、早くも2日後には我が家に到着。

「XLRはノイトリックの金メッキ端子です、生産国はリヒテンシュタインです、20〜30年ぐらい前まではスイス製でした、リヒテンシュタインはスイスの隣です、どちらの国も所得水準が高いです。

XLRもRCAもコレットチャックなので中でケーブルを締め付けて固定します、大変良く考えられた製品です。」との、コメント付き。

「T」さんはレスポンスがメチャ早くて大助かり。

「鉄は熱いうちに打て」を身を持って実践されている(笑)。

さっそくDAコンバーター(DAC)に挿し込んで性能を試してみた。

我が家のエースDACで「腐っても鯛」(笑)と重宝している「エルガー プラス」(英国:dCS)の出力端子「XLR」端子(バランス端子)からプリアンプ2号機(安井式)へと接続して聴いてみた。

いやあ、驚きました!

「RCA出力端子」からの出力とまったく音質が変わらぬではありませんか!

これで飛躍的に使い勝手が向上した。

つまり「エルガー プラス」の「RCA端子」からプリアンプ1号機(マランツ7型)へ、「XLR端子」からプリアンプ2号機(安井式)へと自由自在に「エルガー プラス」が使える。

もちろん、これは「瓢箪から駒が出た」ようなものであくまでも付録であり、本命は新たな中国製DACの購入に向けての本格的な検討開始の端緒となるもの。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/cc9503d7675d0feabfce7857d16d4695
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1002.html#c122

[リバイバル3] OPPO Sonica DAC _ 音楽がわからないアホ・オーディオマニアが絶賛する超お買い得品(?)だけど… 中川隆
71. 中川隆[-11127] koaQ7Jey 2020年9月27日 09:03:29 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[5]
「音楽&オーディオ」の小部屋
鉄は熱いうちに打て 2020年09月27日
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つい先日、我が家に試聴に来ていただいたYさん。

クルマで10分ほどの所にお住まいで、日頃から生の楽器(フルート)に親しまれているせいか、すこぶる耳がいい方なので我が家のオーディオの「ご意見番」として大いに貢献してもらっている。

つい最近のブログに登載したように、このほど「RCAケーブル」をすべて「LANケーブル」の素材に代えたので「いかがですか?」とご意見を拝聴したところ「たしかに変わりましたね。音の汚れが取れた感じで音響空間に爽やかな空気感が漂ってきました」と、大好評。

「やっぱり、そうでしょう」と、まだ我が耳が多少なりとも健在であることを確認して喜びもひとしおだった(笑)。

それはいいとして、Yさんが耳寄りのオーディオ情報をもたらしてくれた。

「中国の〇〇メーカーが半年ほど前に新たなDACを発売しました。お値段も手ごろだし、チップも旭化成の最新型だし、オペアンプも日本製の優れものだそうで随分評判がいいようですよ」

「ホウ〜、ぜひモデルの型番を教えてください。北国の真空管博士に問い合わせてご意見を伺ってみましょう」

翌日、さっそく博士からコメントがあった。

「中国の〇〇は以前からお値段のわりに性能が良くて注目していたメーカーです。変換チップも定評のある旭化成のものだし、オペアンプも国産だしとてもいいんじゃないでしょうか。お値段も手ごろだし、お買い得だと思いますよ」と、珍しく太鼓判押し。

「それはうれしい情報ですね。ただ、RCA出力とXLR出力では随分と音質の差があるようにユーザーが言ってますがはたしてどうなんでしょう。」

「基本的にXLR出力は業務用ですからそちらの方に力点を置いているのでしょう。実際に使ってみないと何とも言えませんがあまり拘らなくてもいい範囲ではないかと思いますよ」

デジタル機器は周知のとおり日進月歩の時代なので常に最新情報にアンテナを張っておく必要がある。

とはいえ、中国製のDACはこれまではどうしても「オペアンプ」の性能がイマイチだとの評価が絶えず、乗り気にさせてくれなかったが今回ようやく「変換チップ」と「オペアンプ」のクルマの両輪がそろった感じ。おまけにお値段の方も手ごろだしねえ〜(笑)。

ただし、唯一気になるのが「RCA出力の性能がやや落ちる」とのことなので、「XLR → RCA」変換ケーブルの出番も考えておく必要がありそうだ。

つまり「DACのXLR出力端子」と「プリアンプのRCA入力端子」の間に変換ケーブルを使えばいいという算段となる。

実は、これについてはずっと以前に手持ちの変換ケーブルを使って実際に試してみたことがあるのだが、その時はとても冴えなかった。

明らかに音質の劣化が目立ち、もう二度とこんなことはするまいと決心したのだが、「LAN」素材と、高性能のプラグを使う「T」さん(東海地方)の製作されたものならいけるかもしれないと、ふと頭によぎった。

こうなると速攻あるのみで、すぐに(Tさんに)お願いしてみると「ハイ分かりました。DACの出力端子はオスですか、メスですか?」そこで「はい、オスになります。したがって受ける(作る)側の端子はメスになります。余計なことかもしれませんが2番ホットです。」「了解しました」

そして、早くも2日後には我が家に到着。

「XLRはノイトリックの金メッキ端子です、生産国はリヒテンシュタインです、20〜30年ぐらい前まではスイス製でした、リヒテンシュタインはスイスの隣です、どちらの国も所得水準が高いです。

XLRもRCAもコレットチャックなので中でケーブルを締め付けて固定します、大変良く考えられた製品です。」との、コメント付き。

「T」さんはレスポンスがメチャ早くて大助かり。

「鉄は熱いうちに打て」を身を持って実践されている(笑)。

さっそくDAコンバーター(DAC)に挿し込んで性能を試してみた。

我が家のエースDACで「腐っても鯛」(笑)と重宝している「エルガー プラス」(英国:dCS)の出力端子「XLR」端子(バランス端子)からプリアンプ2号機(安井式)へと接続して聴いてみた。

いやあ、驚きました!

「RCA出力端子」からの出力とまったく音質が変わらぬではありませんか!

これで飛躍的に使い勝手が向上した。

つまり「エルガー プラス」の「RCA端子」からプリアンプ1号機(マランツ7型)へ、「XLR端子」からプリアンプ2号機(安井式)へと自由自在に「エルガー プラス」が使える。

もちろん、これは「瓢箪から駒が出た」ようなものであくまでも付録であり、本命は新たな中国製DACの購入に向けての本格的な検討開始の端緒となるもの。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/cc9503d7675d0feabfce7857d16d4695
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/852.html#c71

[番外地8] 櫻井よしこに続き西岡力も「捏造」を法廷で白状! 安倍応援団や右派の朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈 中川隆
1. 中川隆[-11126] koaQ7Jey 2020年9月27日 09:51:08 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[7]
一番重要なのは慰安婦強制連行を否定する右翼の話はすべてデタラメだ
というのが証明された事だよ
秦郁彦の話も西岡力の話もすべて捏造だとわかってしまったんだ:

慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう
https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/420.html#c1

[番外地8] 昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。
食料と女性の現地調達は昭和天皇の命令でやっていたんだよ、だから誰も本当の事を隠そうとするんだ:
昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/421.html

[番外地8] アメリカに売られた日本人売春婦も何も言わなかっただろ: 天皇一族は売春業者
アメリカに売られた日本人売春婦も何も言わなかっただろ:
天皇一族は売春業者
 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/422.html

[番外地8] トラック島・慰安婦の抹殺措置
トラック島・慰安婦の抹殺措置
慰安所の第一南月寮,第二南月寮,第三南月寮,これらの三軒が薄赤い夜空を背景に,なにか妖花の花の踊りのように炎上した. 女たちは避難防空壕にもぐりこんでいた. 防空壕は現地人を使って掘った,洞穴に近い粗末な構築物だが,100人ほどの女を収容できるほどの大がかりなものだった. おなじく残存司令部とその兵隊は,辛うじて地下深くの防空壕の中にひそんで芋虫のように生きていた.

このとき,軍の参謀と若い将校たちは,慰安婦らを足手まといと考えたらしい.


こんどはトラック島が死戦場 → 玉砕の番


と判断したからである. そして女たちを抹消する手段を講じたのだ.

このときの模様を,トラック島の慰安婦について詳しく触れている西口克己の『廓』は,次のように描いている.


「その空襲の途切れた合い間に,密命を受けた志田少尉は二名の兵をつれて,女たちの入った洞穴へ近づいていく.

(いいか,問答無用だ. 決して言葉をかけてはならんぞ. 黙って始末するんだ.

あいつらは素人娘ではなくて商売女だ.

敵が上陸してきたら何をするか知れたものではない---国辱だ. わかったな)


緊張した少尉のささやき声に,二名の兵士は無言でうなずいた. 靴音を忍ばせて壕の入口に接近した少尉は,もう一度軽機をかまえ直した後,するどく笛[笛→西口『廓』では口笛]を吹いた.

壕の内部に果たして女たちがいるかいなか確かめるためだった. 壕はしーんとしていた. つづいてもう一度,今度は低く,君が代を吹いた.

突然,それまで何の反応もなかった壕の中から,獣の悲鳴にも似た異様なすすり泣きが一せいにわき起こったかとおもうと,暗闇にもそれと判る防空頭巾を被った5,6人の女たちがバラバラと取り乱した姿で入口からとび出してきた.


ダダダダ,ダダ--間髪を入れず,少尉の軽機が火を噴いた.

ほとんど叫び声を上げる暇もなく,女たちはキリキリと体をもむような姿勢で,地面へぶっ倒れてしまった.

同時に,少尉も兵も,猛烈な勢いで壕の入口へ突進し,次の女が飛び出してくる前に,真暗な洞穴の内部へ向けて,盲滅法な機銃掃射を加えていた.

洞穴に反響して耳を聾するばかりの凄まじい銃弾の響きにまじって,とぎれとぎれの鋭い悲鳴や,うめき声がしばらくつづき,やがて気狂いのように撃ちまくっていた少尉がようやく引き金を止めたとき--ガランとした壕の内部には……文字どおり死の沈黙がしーんと凍りついたように立ちこめていた.

それでももだ用心深く,ものの2,3分間もジッときき耳を立てていた少尉は,このときになって初めて用意していた懐中電灯で素早く壕の内部を照らし出してみた.……

露出した土壁にヤモリのようにへばりついて血しぶきを上げている女,
荒削りのパンの木の支柱にすがりついたままガックリと首を折っている女,
やや離れて一かたまりの肉布団のように折り重なって死んでいる女,
抱き合ったまま死んでいる女,
丸太ン棒のように転がっている女—

およそざっと照らしただけでも, 6,70人もの女たちが完全に事切れて血まみれの姿で死んでいた. しかも,ふと少尉が気づいたことには,それらのすでに死骸となった女の何人かの片手に顔剃り用のカミソリがしっかりと握りしめられていたのだった.

こうした種類の商売女にとっての唯一の武器ともいうべきその小さなカミソリは,……あちこちに投げ出されていた.

よし,任務完了,

"ははは"こんどは俺たちの死ぬ番だ,引き揚げろ,

昂然といい捨ていい捨てた少尉と二名の兵士は駆け戻って行った.」


だが,トラック島に,予期された米軍の上陸作戦はなく(同時に"玉砕"という名の悲劇もなく)素通りする形になった. トラック島の慰安婦の悲劇は,決してこの島に限ったものではない. いたるところの島の女たちが,この種の仕打ちに遭わされたのは確かである.


トラック島から,いちはやく日本へ引揚げてきた慰安所経営のボスらは,女たちの人命は念頭に置かず自己の金銭欲から絶えず嘆いたとか.

(わしはトラック島じゅうゲンくそ悪い島へ, 一生かかって貯めこんだ銭を捨てに行って来たようなもンや)

と. これが彼らの,よだれまじりの愚痴だったそうである.

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070809#p1
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/423.html

[近代史4] 関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
はる爺
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。

帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。

今も共産主義で全体主義のC国好きで有名な総合商社伊藤忠の元会長が瀬島である。特務機関の原田統吉から、ソ連の「8月上旬侵攻」の至急電文を握りつぶし、婦女子を含む155万人の一般邦人を置き去りにして、関東軍がさっさと武装解除したのも関東軍の参謀部が、松村知勝や瀬島らのコミュニストに支配されており、日本の婦女子がロシア兵に略奪され、レイプさせることを計画的に実行するためだったのだ。それに反して内蒙古を守る駐蒙軍の司令官だった根本博中将は、武装解除を無視し敵の侵入を阻止するため白兵戦を繰り返し、多くの犠牲を出しながら4万人もの邦人を守り抜きました。日本軍人の鏡です。

https://www.youtube.com/watch?v=wl2sBVCXIG8&lc=Ugym7Hf_aBI_lRokWw54AaABAg.9E3heQvDZCU9E5TXEaKV18
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

[近代史3] 空襲と疎開 疎開は有料で金持ち優先だった

2020年09月27日
空襲と疎開 疎開は有料で金持ち優先だった

疎開できるのは親が疎開費用を払える子供だけだった

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/010/134743018875613121798_IMG_0007_NEW.jpg

都市の民間人を狙った米軍の空襲

日本は戦時中に連合軍(アメリカ軍)から都市への無差別爆撃を受け、原爆を含めて41万人以上がなくなったとされている。

犠牲者数についての正確な統計は無く、それぞれの被害地域で数を数えて合計したのが41万人と考えられる。

戦後の調査は推定値として70万人から100万人という数字も出されている。


空襲で負傷した人はその数倍の数百万人いたので、戦後は負傷者や障害者がとても多かった。

分かっている犠牲者41万人のうち約10万人が東京大空襲、広島原爆14万人、長崎原爆7万人、他は大阪・兵庫・愛知が多かった。

連合軍の第一の目標は民間人が多く居住している都市で、第二目標が港湾や飛行場、軍需工場などだった。


最初から民間人だけを標的にして、なるべく多くの犠牲者を出すのを目的にしていました。

1942年(昭和17年)4月18日に空母ホーネットから離艦した16機のB25が、デモンストレーションのように各地を空襲した。

1944年(昭和19年)6月16日、中国から離陸した新型爆撃機B29によって福岡県八幡製鐵所に空襲が実施され、200名以上がなくなった。


B29は操縦性が悪く、目標に狙いを定める事ができないので、最初から特定の標的ではなく、都市全体を狙っていた。

1944年10月からは占領したマリアナ諸島から連日B29が空襲に飛来するようになり、1945年8月15日以降も空襲は行われた。

アメリカ軍は出撃する兵士に「ジャップを人間と思うな」と檄を飛ばし、米軍機のパイロットは意図的に民間人を狙いました。

米軍が撮影した機内動画には、逃げ惑う農民などを執拗に狙い続ける様子が写っており、たまに動画サイトに掲載されている。

疎開はじまる

ミッドウェー海戦を転機に日本海軍は太平洋の戦線で負け続け、1943年(昭和18年)4月18日には連合艦隊司令長官も撃墜され作戦指揮ができなくなります。

太平洋の拠点は次々に玉砕し、B29が日本本土まで往復可能なサイパンを占領されて万事休すとなった。

B29爆撃機は今の自衛隊の飛行艇程度の全長なのだが、当時はバケモノのように巨大だと考えられていた。


最高速度は零式戦闘機と同等で、上昇高度はずっと高く、頑丈な装甲に守られていて、多数の機関銃も装備されていました。

戦前の最高性能だったとされる四式戦闘機「疾風」でも、速度は十分なものの、機銃が命中しても撃墜は困難だったと言われています。

日本各地には高射砲が設置されていたが、これがまったく当たらない上にB29は高度が高くて届かないので、天気予報(当たらない)と呼んでいた。


B29の防止は不可能と判断した大本営は、連合軍が標的にしている都市住人を農村に避難させることにし、これが有名な「疎開」でした。

疎開は都市住人だけではなく工場や生産力を維持するために移転させるのを含み、どちらかと言えば軍部はそれが主目的だった。

B29の本土初空襲の2ヵ月後の1944年8月4日、初めての学童疎開が東京で実施され、以降40万人以上の児童が全国の都市から農村へ移動した。


学童疎開は国が空襲から避難させる目的で実施したのが、受け入れ施設もないため、具体的には親戚の家に子供を預けた。

農家は余計な子供を預かると負担になるので、親戚の子供だけを受け入れ、性格や健康に問題のある子供は疎開できませんでした。

子供を疎開させるには受け入れ先の農家に対して毎月10円を支払い、食器や衣服など身の回りの物は持参する必要がありました。

農家以外の寺院でも疎開児童を受け入れたが、やはり毎月の費用が掛かるのは同じだった。


受け入れ先がない疎開児童は大きな寺などで集団生活をした
sokaikurinai1
引用:http://www5.plala.or.jp/iouji33HP438/sokaikurinai1.jpg

疎開の現実

昭和16年ごろの労働者の収入は月収100円と言われる事が多いので、子供1人を疎開させるには収入の1割を出さねばなりませんでした。

ところが当時は富国強兵を奨励し子供の数が1世帯平均4人も居たので、全員疎開させると収入の4割も必要でした。

当然お金を払えなくて疎開できない人も居て、そうした子供たちが東京大空襲で大勢なくなりました。


めでたく疎開できた子供も農村では疎開者は厄介者で、農村の子供より食料が少なかったり、慣れない農家の作業を手伝っていました。

疎開した子供は都会の親元に手紙を書く事になっていますが、心配を掛けないように「元気でやっています」と書くよう学校で指導していた。

裕福な家庭の子供は自主的に農村へ移住し、農作業もなく食料も十分で、むしろ都会より良い生活だった。


さてお金がある子供たちは農村に避難したが、親たちはどうしたのでしょうか。

疎開できたのは子供だけで、大人の疎開は無かったが、裕福な人達はまたしても、自主的に農村に避難していました。

都会に残った大人たちは軍需生産や様々な労働に借り出され、連合軍の本土上陸に備えて本土決戦の準備をしていました。


最も空襲が集中したのは東京で、広島長崎は1回の被害が大きかったが空襲の頻度はそれほどでもなかった。

後は大阪、名古屋、神戸、九州の工業地帯が1万人前後の被害者を出し、その他の都市は散発的な空襲だった。

同じく空襲と言っても東京と田舎の地方都市では緊張感がまったく違い、大半の地域ではあまり大きな被害はなかった。


空襲の少ない地方都市では戦時生産などが忙しかったものの、徴兵で農村の労働力が足りないほうが大問題だった。

自然戦時中は食物が高騰し、規制されているにも関わらず、闇取引で儲ける農家が多く居ました。

食料は配給制だったが「闇米」などを買わなくては十分ではなく、ここでも親の仕送りがある子供と無い子供には格差があった。

だが都会に残った親たちは空襲によってなくなり、親が生きていた子供はそれでもマシな方なのだった。

http://www.thutmosev.com/archives/72077992.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1016.html

[近代史3] 人類進化史 中川隆
61. 中川隆[-11125] koaQ7Jey 2020年9月27日 12:59:27 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[11]
雑記帳 2020年09月27日
ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体での系統関係
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のY染色体DNA解析に関する研究(Petr et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文はすでに今年(2020年)3月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようですが、多少の変更点や私の見落としおよび間違い(平均網羅率など)があるので、それらを訂正しつつ以前の記事を基本的には流用し、以前は掲載しなかった図も取り上げるとともに、その後のネアンデルタール人やデニソワ人に関する知見も取り入れます。


 古代DNA研究により、移住・置換・遺伝子流動など、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)の複雑な進化史が明らかにされてきましたが、古代型ホモ属と現生人類の関係の考察は、大半が常染色体に基づいています。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAは、それぞれ母系と父系での単系統のみの遺伝情報を示しますが、性特異的な移住やその他の文化現象のような人口史の多様な側面に独自の視点を提供します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類においては、mtDNAと常染色体での系統関係の不一致が明らかにされてきました(関連記事)。常染色体ゲノムでは、ネアンデルタール人およびデニソワ人系統が現生人類系統と765000〜550000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。しかしmtDNAでは、ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現生人類と近縁で、その推定分岐年代は468000〜360000年前頃です。43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)集団は早期ネアンデルタール人とされていますが、mtDNAでは現生人類よりもデニソワ人の方と近縁で、常染色体ではネアンデルタール人系統に位置づけられます(関連記事)。

 これらの知見から、ネアンデルタール人は元々デニソワ人に近いmtDNAを有しており、後に現生人類と関連する早期系統からの遺伝子流動経由で完全に置換された、との見解が提示されています。ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体は、古代型ホモ属と現生人類の間の分岐や遺伝子流動に関する重要な情報を追加できます。しかし、ネアンデルタール人のY染色体のわずかなコーディング配列を除いて、これまでネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体の研究はありませんでした。スペイン北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)やベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)のネアンデルタール人のY染色体は解析されてきましたが、Y染色体全体の包括的な研究を可能とする内在性DNAは、じゅうぶんは得られていませんでした。

 本論文は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のデニソワ人2個体と、スピ遺跡とメズマイスカヤ遺跡とエルシドロン遺跡(エルシドロン1253)のネアンデルタール人1個体ずつのY染色体DNAを改めて解析しました。デニソワ人は、84100〜55200年前頃のデニソワ4(Denisova 4)と136400〜105600年前頃のデニソワ8(Denisova 8)、ネアンデルタール人は、39000〜38000年前頃のスピ94a(Spy 94a)と45000〜43000年前頃のメズマイスカヤ2(Mezmaiskaya 2)と53000〜46000年前頃のエルシドロン1253(El Sidrón 1253)です。Y染色体のうち計690万塩基対(エルシドロン1253のみは56万塩基対)が標的領域とされ、平均網羅率は、デニソワ4が1.4倍、デニソワ8が3.5倍、スピ94aが0.8倍、メズマイスカヤ2が14.3倍、エルシドロン1253が7.9倍です。

 これらの解析の結果、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体はそれぞれ単系統群(クレード)を形成する、と明らかになりました。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核(というか常染色体)ゲノムとは異なり、ネアンデルタール人と現生人類が近縁と明らかになりました。現代人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も早く分岐したのはA00ですが(関連記事)、ネアンデルタール人のY染色体系統は、デニソワ人系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後で、全現生人類系統と分岐したことになります。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムのそれとは一致せず、mtDNAのそれと一致します。

 Y染色体の各系統の推定分岐年代は、YHg-A00と非アフリカ系現代人系統では249000(293000〜213000)年前頃です。非アフリカ系現代人とデニソワ人とでは、デニソワ8が707000(835000〜607000)年前頃、デニソワ4が708000(932000〜550000)年前頃です。非アフリカ系現代人とネアンデルタール人とでは、スピ94aが353000(450000〜287000)年前頃、メズマイスカヤ2が370000(420000〜326000)年前頃、エルシドロン1253が339000(408000〜275000)年前頃です。父系となるY染色体の推定分岐年代は、現生人類およびネアンデルタール人の共通祖先系統とデニソワ人の祖先系統とが70万年前頃、現生人類系統とネアンデルタール人系統とが35万年前頃、ネアンデルタール人3個体では10万年前頃です。以下、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体と現生人類のY染色体系統樹(図2A)と合着年代(図2B)を示した本論文の図2です。

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 Y染色体におけるデニソワ人系統と現生人類系統の推定分岐年代は、常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代とよく一致しており、現生人類系統とデニソワ人系統のY染色体の分岐は単純な集団分岐の結果と示唆されます。一方、Y染色体におけるネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代よりもかなり新しく、mtDNAで推測されている、現生人類に近い系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動と一致します。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人のY染色体に関する研究(関連記事)では、現生人類系統とネアンデルタール人系統の推定分岐年代は588000年前頃です。一方、本論文ではそれが35万年前頃とかなり新しく、その理由として本論文は、以前の研究ではデータ量が限定的だったことを指摘しています。

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体における系統関係は、mtDNAのそれと一致し、核(というか常染色体)ゲノムのそれとは一致しません。これは、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の(広義の)現生人類系統において、現代人系統と早期に分岐した(父系においての)絶滅系統がネアンデルタール人系統と交雑し、ネアンデルタール人系統にデニソワ人系統よりも現生人類系統に近いmtDNAとY染色体をもたらした、と考えられます。以前の研究では、現生人類からネアンデルタール人への数%程度とわずかな遺伝子流動が指摘されており(関連記事)、最近の研究ではこの遺伝子流動は30万〜20万年前頃に起き、割合は3〜7%と推定されています(関連記事)。ギリシアでは21万年以上前のおそらくは広義の現生人類遺骸が発見されており、ヨーロッパにおける20万年以上前のネアンデルタール人広義の現生人類系統との交雑はじゅうぶん考えられるでしょう(関連記事)。

 他系統からの3〜7%程度の遺伝子流動という条件において、他系統のmtDNAとY染色体への置換は、通常の進化ではひじょうに起きにくいと考えられます。しかし、有効人口規模が現生人類よりも小さいネアンデルタール人においては、現生人類よりも多い有害な変異の蓄積の可能性が指摘されており(関連記事)、じっさい、ネアンデルタール人3個体のエクソン領域に関しては、現代人よりも有害なアレル(対立遺伝子)を多く有している、と明らかになっています。本論文は、有効人口規模が小さい場合のシミュレーションにより、ネアンデルタール人のY染色体が現生人類のY染色体よりも適応度がわずかでも低い場合、完全置換率に強い影響を与える、と明らかにしました。

 具体的には、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動を5%と仮定した場合、5万年後の置換率は、ネアンデルタール人のY染色体適応度が1%低いと25%に増加し、2%低いと50%に増加します。こうした予測は、Y染色体と同じく単系統遺伝となるmtDNAにも当てはまります。これらの結果は、ネアンデルタール人におけるより高い遺伝的荷重が、ネアンデルタール人のmtDNAおよびY染色体という単系統遺伝の置換可能性の増加と相関していることを示します。繁殖と受精力におけるY染色体の重要性を考慮すると、Y染色体の有害な変異または構造的多様体が、のシミュレーションよりも適応度にずっと大きな影響を与えるかもしれない、と本論文は指摘します。以下、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の核(常染色体)ゲノムとmtDNAとY染色体の系統関係(図3A)と、Y染色体系統の置換率(図3B)を示した本論文の図3です。

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 後期ネアンデルタール人のY染色体は、37万〜10万年前頃の間に、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも現生人類系統と近縁な絶滅系統からもたらされた、と推測されます。上述のように、早期ネアンデルタール人である43万年前頃のSH集団は、mtDNAでは後期ネアンデルタール人よりもデニソワ人に近いと明らかになっていますが、Y染色体でも同様だろう、と本論文は予測しています。後期ネアンデルタール人のゲノムから推測される、現生人類からネアンデルタール人への限定的な遺伝子流動を考慮すると、後期ネアンデルタール人におけるmtDNAとY染色体の完全な置換は意外ですが、ミトコンドリアと常染色体の不一致は集団遺伝学理論では予測されており、動物の種間交雑では比較的一般的です。本論文は、2集団間の交雑における単系統遺伝子座の遺伝的荷重の違いが、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAとY染色体の置換の要因だろう、と指摘します。

 本論文はひじょうに興味深い結果を提示しており、今後、古代型ホモ属のY染色体DNA解析数さらに増えていくよう、期待しています。デニソワ人と確認されている個体はネアンデルタール人と比較してひじょうに少ないので、古代型ホモ属のY染色体DNA解析は当分ネアンデルタール人が中心となりそうですが、まず注目されるのは、本論文でも言及されている早期ネアンデルタール人のSH集団です。SH集団は43万年前頃と後期ネアンデルタール人やデニソワ人よりもずっと古いだけに、Y染色体DNAの解析は難しいかもしれませんが、何とか成功してもらいたいものです。また、ネアンデルタール人系統内でも核DNAとmtDNAで系統の不一致が指摘されているので(関連記事)、Y染色体ではどうなのか、さらに詳しい研究の進展が期待されます。


 以上、ほぼ以前の記事からの流用ですが、本論文の内容をざっと見てきました。査読前の論文を取り上げた後も、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係について、興味深い研究が複数提示されています。たとえば、ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑を指摘した研究や(関連記事)、ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子に関する研究(関連記事)です。デニソワ人に関しては、アジア東部の早期現生人類においてデニソワ人の遺伝的影響が指摘されており、これは現代パプア人やオーストラリア先住民の祖先集団の事例とは異なるデニソワ人との交雑事象を反映している、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑も指摘されており、アルタイ地域ではデニソワ人とネアンデルタール人との交雑が一般的だったと推測されていますが、12万〜4万年前頃となるユーラシア西部のネアンデルタール人8個体のゲノムでは、デニソワ人系統は殆ど或いは全く検出されませんでした(関連記事)。非アフリカ系現代人全員のゲノムには、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人と関連する古代型ホモ属に由来する領域が2%ほどある、と推定されています(関連記事)。ユーラシア西部ではデニソワ人は確認されていないため、ユーラシア西部現代人集団のゲノムには、基本的にデニソワ人由来の領域はない、と考えられますが、アイスランド現代人のゲノムには、わずかながらデニソワ人由来の領域が確認されています(関連記事)。

 アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列からは、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団は、デニソワ洞窟の個体(デニソワ5)に代表される東方系のネアンデルタール人よりもヴィンディヤ洞窟個体(Vindija 33.19)に近いものの、チャギルスカヤ洞窟個体とも同等に密接な関係にある、と示唆されています(関連記事)。つまり、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団を表す個体は、まだ発見されていないかゲノムデータが得られていない、と考えられます。この未知の個体のゲノムには、デニソワ人由来の領域がわずかながら存在する、と推測されます。

 このように、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係は複雑で、相互に複数回の交雑があった、と考えられます。mtDNAの違いから哺乳類における雑種の繁殖力を予測した研究では、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人は、繁殖力のある子孫の誕生に重要な生物学的障害を予測できるほど、相互にじゅうぶんには分岐していない、と指摘されています(関連記事)。さらに、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先と分岐した未知の人類系統が、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統(関連記事)や、アフリカの現生人類(関連記事)と交雑した、との見解も提示されています。今後、新たな手法の開発により、後期ホモ属間の複雑な関係がさらに解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neanderthal and Denisovan Y chromosomes. Science, 369, 6511, 1653–1656.
https://doi.org/10.1126/science.abb6460


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c61

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 中曽根康弘 中川隆
1. 中川隆[-11124] koaQ7Jey 2020年9月27日 13:04:07 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[12]

 中曽根康弘の追悼式に血税1億円! 2020年09月26日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1260.html

 中曽根元首相の葬儀、10月に 9600万円支出を決定 2020年9月25日
https://www.asahi.com/articles/ASN9T6WC7N9TULFA036.html

 そんなもの、自民党関係者のポケットマネーでやればいいだろうが。中曽根康弘は国葬に値する人物なのか?
 もう一度、中曽根のやったことを振り返ってみよう。

 中曽根康弘死去であらためて振り返る従軍慰安婦 中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書 2019.11.29(リテラ)
 https://lite-ra.com/2019/11/post-5119_3.html


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 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。メディアでは、国鉄民営化や日米安保体制強化などを功績として振り返っているが、負の側面も非常に大きい政治家ある。

 たとえば、現在の日本社会にもつながる右傾化・歴史修正主義の台頭や新自由主義路
線の端緒となり、日本の戦後民主主義政治を歪めた張本人だ。こうした功罪の罪の部分
も検証されるべきだが、なかでも本人が一度は告白しながら途中からダンマリを貫いたこの問題はきっちり検証するべきだろう。

 そう、日本軍の従軍慰安婦問題だ。

 中曽根元首相が戦時中、海軍主計士官(将校)の地位にあったことは有名だが、その当時、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを、戦後に自分の“手記”の中で自ら書いているのだ。

 しかも、これは中曽根元首相の思い違いでも妄想でもない。防衛省にも中曽根元首相の“慰安所づくり”証言を裏付ける戦時資料が存在している。

 本サイトでは、2014年夏、朝日新聞の慰安婦記事バッシングが盛り上がり勢いづいた右派の、慰安婦の存在や日本軍の関与までなかったことにしようという歴史修正主義の動きに抵抗するため、この中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料について詳しく報じた。(ちなみに、フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆にも中曽根元首相と同様に、慰安所づくりへの関与発言があり、やはり本サイトが記事にしているhttps://lite-ra.com/2014/09/post-440.html

 中曽根元首相の証言は、従軍慰安婦に日本軍が組織的に関与していたことを物語る重大な証言だったが、手記出版から30年ほど経ってからこの記述がクローズアップされると、中曽根元首相は一転否定、その後ダンマリを通してきた。

 中曽根元首相には、従軍慰安婦問題とりわけ日本軍の関与について、自らの口で明らかにする歴史的責任があったはずだが、それはかなわなくなってしまった。

 中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料から、従軍慰安婦の存在と日本軍関与が事実であることを報じた記事を再録する。「慰安婦は存在しなかった」というデマが大手を振って罷り通るいま、あらためてご一読いただきたい。

●中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。
 だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

 インドネシアで民家だった場所を、日本軍が接収し慰安所に作り変え!
 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。
(エンジョウトオル)
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 引用以上

 中曽根康弘という男は、東大法学部を出て内務官僚となり、海軍主計局に入り、敗戦時には24才で3000人の大隊長という日本軍超エリートコースを歩んだ人物だ。敗戦後は、再び内務官僚に戻り、やがて衆議院議員となり、戦争で競争相手が著しく減ったこともあり政界のエリートコースを駆け上がった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%BA%B7%E5%BC%98

 中曽根が問題なのは、彼が、岸信介・正力松太郎・笹川良一・児玉誉士夫・文鮮明らとともに戦後、「国際勝共連合」を結成し、戦後労働運動・社会主義運動の最大級の弾圧者・破壊者であったこと。それに、正力と共に、日本原子力開発の大元締めだったことだ。
 彼らの原子力開発は、電源開発に名を借りた「核兵器開発の準備」だった。

 正力が日本で最初に導入した原発は、茨城県東海村の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉で、これは当時すでに存在した発電のための軽水炉ではなく、核兵器に転用可能なプルトニウム生産炉だった。発電効率は軽水炉に比べて極めて劣り、おまけに耐震性能が悪く、原電も、あまりの危険性故に廃炉にするしかなかった。

 つまり、正力と中曽根は、平和利用の名の下で原子力をプルトニウム核兵器開発に用いたのであり、この方針は、常陽・もんじゅ・六ヶ所村再処理工場に引き継がれたが、数十兆円という国家予算なみの莫大な血税を投入しながら、すべて失敗に終わっている。
 結局、二人の本心は、「日本を核武装させ、世界に冠たる軍事国家の栄光を復活させる」というものだった。しかし、それはことごとく暗礁に乗り上げている。
 中曽根康弘の経済的基盤は、一心同体である鹿島建設による原発利権から来ていると指摘されている。
 https://8823.teacup.com/minmingifu/bbs/3600

 また、中曽根生涯の大事業と自負した、三公社民営化も、現場の労働者の組織化を分断(国労を破壊)、社会主義思想を破壊する目的で行われたが、結局、国鉄を解体することで得られたものは、労働者の安全意欲の低下と、幹部による組織の私物化、国鉄=JR全体の信頼性の低下だけだった。
 中曽根の肝入りでJR大幹部になった、葛西敬之のJR東海私物化の行状がそれを物語っている。現在、葛西は、最期の大仕事としてリニア中央新幹線を管轄しているが、これも見通しの甘さから失敗が約束されていると私は予想している。

 中曽根の生涯で、最大の暗黒は、日航123便問題である。
 
  日航123便、墜落原因の続報 森永卓郎・青山透子・ベンゼン環 2018年08月14日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-445.html

 中曽根康弘が死んだ 2019年11月29日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-949.html

 日航123便墜落、世界最大の航空機事故が起きて、その謎が問題になっているときに、中曽根康弘は「秘密を墓場まで持ってゆく」と発言し、その通りに、何も語らないまま死んだ。
 しかし、状況証拠から、坂本九らを乗せた日航123便は、自衛隊機によって撃墜された。御巣鷹山に墜落後は、謎の自衛隊第一陣が生き残った乗客に火炎放射器を浴びせて、持参カメラなどに残された証拠を遺体ごと焼き払った。
 こんな恐ろしい命令を下せるのは、内閣総理大臣、中曽根康弘以外にありえなかった。

 私は、この事件を自分なりに調査するなかで、最初は自衛隊機(ファントム)による模擬ミサイルの誤射と考えていたが、パイロットが自殺するに及んで、もしかしたら、はるかに恐ろしい陰謀が潜んでいるのではないかと考えるようになった。

 それは、事件後に起きた「プラザ合意」の謎である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E5%90%88%E6%84%8F#:~:text=%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E5%90%88%E6%84%8F%EF%BC%88%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%81%94%E3%81%86%E3%81%84,%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%82%80%E3%80%82

 中曽根政権は、日本経済の崩壊が約束されるような圧倒的に不利な合意を、やすやすと受け入れた。何か、とてつもない謎が隠されているようにしか思えない。
 その後、日本経済は、一度も浮上することなく沈降を続けている。

 その他にも、実は123便には、当時、ビルゲイツが開発していたウィンドウズなど足下に及ばないほど合理的・実用的なメイドインジャパンの白眉、トロンの開発陣(松下電)、全員が乗っていた。(トロンは、その後、実用マイコンのOPSとして世界を席巻している)
 これも、ゲイツの政治的背景を考えれば、十分に、墜落の隠された理由になりうる。

 中曽根康弘を、菅義偉政権がなぜ死後にまでヨイショを続けなければならないのか?
 それは、中曽根がレーガン・サッチャーとともに、フリードマンが提唱した「新自由主義」の旗頭、三羽カラスとも呼ばれ、日本の戦後経済を「新自由主義化」した最大の功労者であり、その後、それを浸透完成させたのが竹中平蔵だからである。

 菅義偉は、竹中平蔵のコピーであり、中曽根康弘を神のように信奉してきた。
 その骨子は、日本国民に格差を持ち込み、序列をつけて、徹底的な差別支配を行うということだ。私に言わせれば、「新奴隷政策」といってもいいと思うほどだ。
 日本人を北朝鮮のように何十通りもの序列格差を与え、互いに反発対立させて、国は、あたかも調停者のようにふるまいながら、全体を容易に支配するという構造である。

 だから、この数年、再び学歴差別が脚光を浴びて、「どこの大学を出た?」と、実力には何の関係もない学歴信仰が復活し、東大出がもてはやされている。
 菅義偉新政権が向かっているゴールもまた、中曽根や竹中が目指した序列差別社会なのだろう。

 貧乏人はますます貧乏に、金持ちはますます金持ちに……という格差社会の慣れの果ては、朝鮮韓国社会であり、インドのカーストに他ならない。
 今の 母子家庭で一日一食しか食べられない子供たちは、栄養不足で体力も知力も育たないので、平均より劣るようになり、まさに奴隷階級予備軍にされてしまう。

 菅政権は、こんな恐ろしい社会を礼賛するために中曽根追悼式に国税を一億円投入しようとしている。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1260.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1054.html#c1

[近代史4] ジュリエット・グレコ
ジュリエット・グレコ。私が愛していたフランスのシャンソン歌手が亡くなった
2020.09.27


私はフランスの売春宿で育って路上から成り上がっていったシャンソン歌手エディット・ピアフにとても恋い焦がれていた時期があった。「愛の讃歌」は美しい歌だ。今でも聞くと身震いする。


彼女の人生を描いた映画もあったのだが、それほどいろんな映画を観たいとは思わなくなった私もこの映画だけは必ず観ると決めたほどエディット・ピアフに惚れていた。(ブラックアジア:エディット・ピアフ。幼少時、娼婦たちと暮らした国民的歌手)


私が好きなフランスの歌手は何人かいるのだが、ジュリエット・グレコもまたそのひとりだ。


2020年9月23日。ジュリエット・グレコが亡くなった。93歳だった。


「枯葉」も好きだし、「パリの空の下」も好きだ。ミューズ(女神)と言われるだけあって、ジュリエット・グレコはとても印象的で強烈な印象を残す歌手だ。彼女のステージはいつも簡素で小さなものなのだが、それでも強烈な印象がある。


あの目。あの手。彼女は歌に感情を没入するタイプで、歌いながら見せる仕草がたまらなく素敵だった。私はほとんど白黒時代のジュリエット・グレコの映像しか知らないのだが、白黒の映像で見ると目に入るのは彼女の顔と手のひらだ。


彼女の両手はしばしば彼女の頬を覆う。彼女独特の恍惚の表情の中で、まるで手のひらすらも感情を持っているかのように彼女にまとわりつく。その独特の仕草がとても好きでたまらなかった。


エディット・ピアフとはまた違う個性だった。低い声で、まるで囁くように歌う。心に忍び寄るように染みてくる。


最近はユーチューブで検索したら昔の動画もすぐに見ることができる。たまに書きものに疲れた時、昔の古い歌が聞きたくなる。ジュリエット・グレコもよく見ていた。動画がいつでも観られる分だけあって、昔よりも今の方がずっとジュリエット・グレコは私にとって身近だった。


【フランス語】パリの空の下 (Sous le ciel de Paris) (日本語字幕)



パリの空の下


パリの空の下、歌が流れる
その歌は今日、ひとりの少年の胸に生まれた


パリの空の下、恋人たちが歩いていく
彼らの幸せは、その歌に乗って育まれる


ベルシー橋の下、一人の哲学者が座り込んでいる
二人の楽師と幾人かの野次馬、そしてたくさんの人々が


ベルシー橋の下、夜までも歌い続ける
この古い都に惚れ込んだ、人々の賛歌を……
「パリの空の下」を私が初めて聞いたのは、たぶん13歳だとか14歳の頃だったと思う。たぶん、テレビか何かでフランス映画をやっていて、たまたまその中で聞いて「この歌はいいな」と思って記憶に残った。


フランス語は知らないので、歌詞も知らなかったが、改めて歌詞も含めて見てみると、もっと好きになる。


悲しみよ こんにちは


Bonjour Tristesse (1958) - Juliette Greco




フランソワーズ・サガンの古い小説『悲しみよ こんにちは』を読んだことがある人や覚えている人は、もういないかもしれない。私はこの小説の存在はずっと知っていたのだが、世界観が違うと思って読むことはなかった。


しかし、実はいろいろあって5年ほど前にこの映画を見たいと思った。映画が見たいというよりも、主演女優のジーン・セバーグが見たかった。(ブラックアジア:悲しみよこんにちは。ジーン・セバーグの転落とその自殺)


この映画のことは上記リンクに譲るが、この映画で印象的な歌を歌っているのが、ジュリエット・グレコだった。


「悲しみよ こんにちは」の元になっているエリュアールの詩『直接の生命』とは違うオリジナルの詩がそこにあった。


いっしょに暮らし始めてこのかた
おまえは毎朝やってくる
私に最初の愛撫をしに
悲しみよこんにちは


私に似た女友達
お前は 私が自分の未熟さを映し出して見ることのできる
唯一の鏡
悲しみよこんにちは
ダンスを楽しんでいた映画の主人公はこのジュリエット・グレコの「囁き」を聞いて次第に能面のように無表情になっていき、内省に入っていく。


「悲しみ」とは彼女の女友達であり、自分の未熟さを映し出す鏡……。


ジュリエット・グレコの歌はまるで悪夢のように主人公の心の中を覆い尽くして不安を掻き立てる悪魔となる。ジュリエット・グレコはとても蠱惑的で、しかし恐ろしくも見える。そんなジュリエット・グレコの姿がここにある。



時のさざ波が、彼女の思い出も消していく


【フランス語】枯葉 (Les Feuilles Mortes) (日本語字幕)



シャンソンで「枯葉」と言えば、もはや誰も知らない人がいない筋金入りの名曲である。私もこの歌をとても愛していて、主にイブ・モンタンの歌を何度も何度も聞いている。


しかし、ジュリエット・グレコもまた思い入れたっぷりに、この失恋の詩「枯葉」を歌っている。「枯葉」の何が素晴らしいかというと、そのフランス独特の「詩」だ。


悲しみや、別れや、孤独や、人生の苦みを、フランス人は描写する。その「負の描写」がとても美しい。


悲しみを悲しみとして、孤独を孤独として、それを受け入れて、拒絶せず、むしろ悲しみや孤独を親友のように迎え入れながら味わう。楽しさや喜びも、いつかは悲しみに変わるという現実を抱擁して受け入れる。


「枯葉」は、まさにそうした音楽なのだ。そして、その優れた歌詞を歌うジュリエット・グレコが絶品なのである。


ああ、思い出して欲しい、私たちに友情があった頃を
あの頃、人生はずっと美しく、太陽は今より輝いていた


シャベルで掻き集められた落ち葉が記憶を呼び起こす
シャベルで掻き集められた落ち葉は想い出の苦さに似ている


それはやがて吹く北風に冷たい忘却の夜へと流され
あなたが歌ってくれた歌の記憶を呼び起こす


私たちにお似合いのあの歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛した
二人で共に暮らし、あなたの愛した私がいた


でも人生は愛の暮らしに幕を引き
静かに音もなく時のさざ波は砂に残された
別れた二人の足跡を消していく


でも人生は愛の暮らしに幕を引き
静かに音もなく時のさざ波は砂に残された
別れた二人の足跡を消していく
ジュリエット・グレコが亡くなって時代も変わっていく。古い歌はやがて静かに忘れ去られていき、こうした時代のミューズとなった歌手の記憶をも古い人たちと共に消えていく。


時のさざ波が、彼女の思い出も消していく。
寂しくなる。



ジュリエット・グレコが亡くなって時代も変わっていく。古い歌はやがて静かに忘れ去られていき、こうした時代のミューズとなった歌手の記憶をも古い人たちと共に消えていく。
『突然炎のごとく』『エマニエル夫人』
私はフランスに行ったことがないにも関わらず、フランスの歌手、フランスの女優、フランスの映画、フランスの文学はとても気に入っている。(ブラックアジア:自由奔放な女性の世界。印象に残る4つの古いフランス映画)


最も「女性」として好きな女優は実はフランスの女優ではなく、イタリアの女優ソフィア・ローレンだったりする。


ソフィア・ローレンはなかなか死にそうにないしたたかさを持っているし、実際にまだ健在で何よりだ。若い頃のソフィア・ローレンの「顔」がとても好きだ。今でも、ああいうタイプの顔に惹かれる。


しかし、「女優」として印象に残っているのはシルビア・クリステルだったり、ジャンヌ・モローだったり、ベアトリス・ダルだったりする。


女性としてはタイプでも何でもないのだが、映画を見たのがまだ感受性が強い20代だったので、どれも映画と共に「女優」として印象に残っている。


人生に一度だけフランスの女性と関わったこともある。ドラッグでボロボロになっていたフランス人の女性だったが、他の人たちがモンスターでも見るような目つきで彼女を見ていたのだが、私は彼女が嫌いではなかった。(ブラックアジア:コ・サムイ。かつてドラッグとセックスの無法地帯だった島)


彼女のこともあるから、以後フランスが好きになったのかというと、そうではなく、私はその前からフランスの文化そのものが気に入っていたように思う。


フランス映画と言えば、『突然炎のごとく』も『エマニエル夫人』もそうだが、恋人関係や夫婦関係を根底からぶち壊しかねない乱脈な性を描いて、昔ながらのしっかりとしたキリスト教的な概念を持った一夫一婦制を信奉する人たちから評判は悪い。


しかし、私自身は売春する女たちといる方が落ち着くタイプなので、フランス文学や映画とは親和性が異常に高い。


当てつけで好きでもない男と結婚した挙げ句、夫の兄弟全員を誘惑する凄まじい悪女をブリジット・バルドーが演じた『素直な悪女』もよく考えて見たらフランス映画だった。(ブラックアジア:「人を好きになるのは病気なの?」恋愛感情は4年で消える)


2019年に亡くなったアンナ・カリーナの『女と男のいる舗道』も素晴らしかった。売春の映画だ。(ブラックアジア:アンナ・カリーナの映画『女と男のいる舗道』で1962年の売春の実態が分かる)


時代は変わってしまったから
私がフランス文学を好きなのは、ジョルジュ・バタイユの裏小説に惹かれたからだ。サガンは読まなかったが、ジョルジュ・バタイユは好きだった。(ブラックアジア:ジョルジュ・バタイユ。誰の心にもある二面性と倒錯の性)


『マダム・エドワルダ』という、ポルノ史上に名をとどめる不朽の「文学」を書いたのも、ジョルジュ・バタイユである。(ブラックアジア:背徳の女神マダム・エドワルダと、メグレ警視の共通点は?)


ジョルジュ・バタイユの奇怪な世界観は今も人々をおびき寄せて離さない。ポルノ女優ストーヤもジョルジュ・バタイユに憑かれた。(ブラックアジア:ポルノ女優ストーヤ。膣から眼球を出す「芸術ポルノ」は成功するか?)


ジョルジュ・バタイユは執拗なまでに反キリストの思想を明確に出す。エマニエル・アルサンが『エマニエル夫人』で描いたのと同じ反キリストの概念が繰り返し繰り返し出てくる。


そして、反キリストと言えば、人生そのものが「精神異常」と断言された作家マルキ・ド・サドもそうだった。


サドの小説は、ありとあらゆる悪徳が次々と展開する。社会の抑圧に対する怨念、道徳への嫌悪、権威への憎悪が数ページごとに爆発する。繰り返し繰り返し異常性愛が反復されて道徳をめちゃくちゃに壊して勝利する。


中世のキリスト教の道徳観は文化の隅々にまで浸透し、人々を支配し、抑圧し続けてきた。それをぶち壊すためには悪魔(反キリスト)の力を借りるしかなかった。そうした抑圧を破壊する感情がフランス文学にある。それが性道徳の破壊となって花開いたのがフランス文化だったのだ。


こうした文化は女性の生き方にも大きな影響を与えているのだろうか。マダム・クロードは修道院のマナーを売春の世界に持ち込んだ女性だった。(ブラックアジア:マダム・クロード。高級コールガールを生んだ伝説の女性)


マルグリット・デュラスは自伝小説『愛人(ラ・マン)』で、メコンデルタにいた少女時代、ベトナム人の金持ちの愛人であったことを小説に記した。この小説は映画になって大ヒットした。


マルグリット・デュラスは映画の主演女優に最後まで「気に入らない」と言って死んでいったが、この映画の主演女優を演じたジェーン・マーチはフランス人ではなくイギリス人だったので、マルグリット・デュラスは怒っていたのかもしれない。


フランスの少女の暗い環境に置かれた怨念は、フランスの少女が演じるべきだと思ったのかもしれない。


何はともあれ、「反キリスト」「破壊と暴力」「性道徳への反旗」は人を破滅に追いやるものである。表側ではなく裏側に堕ちることにある。不幸と破滅と孤独が常について回る。悲しみが待ち受けていて、逃れられない。


そんな中に、エディット・ピアフやジュリエット・グレコのような女性歌手が登場して、悲しみを力強く、優しく歌う。悲しみを人々の心に注ぎ込むように歌う。しかし、もうこうした歌手は現れないのかもしれない。


時代は変わってしまったから……。


https://blackasia.net/?p=20305

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1056.html

[近代史4] 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落する 中川隆
5. 中川隆[-11123] koaQ7Jey 2020年9月27日 14:10:52 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[13]
世界最大のヘッジファンド: 紙幣印刷で経済成長率は救える
2020年9月27日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11736


世界最大のヘッジファンドBridgewaterを運用するレイ・ダリオ氏が怒涛の勢いで論考をアップしているため、ここでは連日その内容を紹介している。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685


コロナ以後、紙幣印刷の悪影響を懸念する声は特にヘッジファンドマネージャーらの間で大きく、ダリオ氏もその例に漏れないが、ダリオ氏は出来る限り客観的に物事を見る論者であり、紙幣印刷の良い部分も説明しているので今回はそれを紹介しよう。

1970年代のインフレとその後

前回までの記事では戦後にあたる1960年代に日本とドイツの経済が台頭し、アメリカ経済が弱まったことから米国政府は紙幣を増刷、結果として1970年代が物価高騰と景気後退の時代となったことをダリオ氏が紹介していた。

世界最大のヘッジファンド: インフレで株式市場が暴落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715


このインフレはボルカー議長の断固たる金融引き締めによって収まり、中央銀行は次第に金利を低くしていった。しかし膨大な債務は残ったままであり、ダリオ氏はそれが更に深刻な景気後退を引き起こすと予想した。しかしその予想は外れることになる。

わたしはこれらの債務が大不況を引き起こすと予想したが、それは来なかった。しかもそのシナリオに大きく賭けたために膨大な損失を負った。

この時わたしは本当に一文無しになり、生活費を工面するために父親に4,000ドルを借りなければならなかった。

世界最大のヘッジファンド運用者にもそういう時代があったのだという。しかし何故この時債務は問題にならなかったのだろうか? ダリオ氏は次のように説明している。

わたしが見逃し、この経験から学んだことは、中央銀行が印刷できる通貨で負債が存在するとき、債務危機は管理可能であり、経済全体の脅威とはならないということだ。

中央銀行がローンを焦げ付かした銀行に資金を供給し、しかもアメリカの会計基準では焦げ付いたローンを損失として計上する必要がなかったため、これらのことは処理不可能な大問題とはならなかった。

表沙汰にならないものは当面の間は存在しないも同じだということである。この論理は一見無茶苦茶だが、金融市場にとっては重要である。金融市場は一度パニックになると問題を実態よりも大きくしてしまうからである。

問題はその当面の間に負債の問題を解決できるかどうかなのだが、ダリオ氏は膨大な負債は「美しい債務整理」によって解決されるべきだと口癖のように言っているので、時間を稼いでいる間に債務を何とかするという解決法もありだというのがダリオ氏の主張なのだろう。

金融緩和の対価

ボルカー議長による強烈な金融引き締め以後、金融緩和によってすべては救われたのだろうか? 結果から言うと経済成長率は救われたが、ドルは犠牲になった。以下が1980年代前半の利下げトレンド開始以降のドル円の推移である。


今思い返せばこの期間のドルの下落は先進国の通貨とは思えない急落である。ドルは半分以下になっているが、これはアメリカ国民の資産が実質的に半分以下になったということである。

一方で利下げ開始以降、株式市場とGDPは持ち直した。両方ともドルで計算しているのだから当たり前である。しかし本当はGDPが上がったのではなく、ドルが下がったのである。同じ期間のアメリカのGDPを円建てで表記すると以下のようになる。


15年間何も成長してなどいないのである。その後アメリカ経済が本当の意味で成長を始めるにはインターネットの隆盛を待たなければならなかった。1995年と言えばWindows 95の年であり、この頃からアメリカ経済はようやく本当に成長を始めることになる。

自国通貨建ての繁栄

ダリオ氏はこうした「自国通貨建ての繁栄」の時期における資産防衛について以下のように語っている。

通貨の価値が安ければ安いほど資産価格は高くなる。

よって中央銀行が大量の資金と信用を供給し、その価値を弱めているときには思い切って資産を保有するのが賢明だと言える。

しかし問題はどんな種類の資産を買えば良いかということである。個人投資家が一番最初に思いつくのは株式だろうが、こうした時期には株式も問題を抱えたのは前回説明した通りである。

世界最大のヘッジファンド: インフレで株式市場が暴落する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11715

ダリオ氏にとって株式は買いなのだろうか。事実は何かと言えば、ダリオ氏はコロナ後の株高でも米国株は買っていないということである。

世界最大のヘッジファンド、コロナ株高でも米国株買い増さず
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11643

そしてダリオ氏は通貨の暴落を懸念している。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

ここまで考えればダリオ氏の考えていることが分かってきそうなものである。

これまでに何度も言っているように、新型コロナによる未曾有の規模の景気後退で株式も債券も為替も無事だというシナリオは有り得ない。どれかは犠牲にならなければならない。

ではダリオ氏はどれが犠牲になると考えているのかと言えば、それは恐らく為替なのだろう。ダリオ氏は明らかにドル暴落によるアメリカの凋落を考えている。

世界最大のヘッジファンド: 中国が覇権を握りドルは基軸通貨でなくなる
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10592

1980年以後のトレンドが15年のものだったことを考えれば、ダリオ氏の賭けはかなり長期のものとなりそうである。われわれも同じスパンで物事を考えるべきなのだろう。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11736
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1039.html#c5

[近代史4] 黒沢清 DOORIII (彩プロ 1996年)
黒沢清 DOORIII (彩プロ 1996年)




監督 黒沢清
脚本 小中千昭
撮影 苧野昇
音楽 トルステン・ラッシュ
公開年月日 1996/4/13
製作会社 高澤作品(企画*高澤/制作協力*ズーメックス)
配給 彩プロ


キャスト


田中美奈子 佐々木京
中沢昭泰 藤原美鶴
真弓倫子 井岡礼子
長谷川初範 吉岡
天宮良 近江
山本紀彦 京の上司
大杉漣 京の客
諏訪太朗 阿部雅夫



キャリアウーマンのOLが危険なオーラを放つ男と出会って、奇怪な事件に巻き込まれていくサイコ・サスペンス。


高橋伴明監督の「DOOR」とOV『DOORII』に続く第3作だが、作品的に直接のつながりはない。


監督は「勝手にしやがれ!! 強奪計画」など“勝手にしやがれ!!”シリーズが好調の黒沢清。
脚本は「くまちゃん」の小中千昭が担当している。
主演は「眠らない街・新宿鮫」の田中美奈子と、これがデビュー作となる中沢昭泰。


あらすじ


大手保険会社の外交員の佐々木京は、昇進まで後一歩というところで営業成績が伸び悩んでいた。ある日、新規の契約開拓のために飛び込んだビルで、京は美貌の青年と出会う。若くして外資系企業の上級管理職の座にある藤原美鶴というその青年は、不思議なオーラと怪しい香りを身にまとっていた。


謎の多い美鶴に、京は警戒しつつも魅了されていく。美鶴と出会った日から、京の周りには奇怪な出来事が起きるようになっていた。いつも正体不明の女の影がつきまとい、無言電話もひっきりなしにかかってきていた。美鶴とたびたび会うようになった京は、怪しい言葉の誘惑に怯えながらも、次第に逆らえなくなっていく自分に気づいていた。どうやら美鶴に近づく女たちはみんな彼を愛し、かしづかずにはいられなくなるらしい。京の友人でライバル会社の外交員の礼子も、美鶴に出会った日から彼の奴隷のようになっていた。


美鶴のデータを調べた京は、彼が妻の死によって多額の保険金を受け取っていたことを知る。京はかつて会社にいた阿部に当時のことを尋ねるが、阿部も美鶴の名前を記憶しているだけで詳しいことは覚えていなかった。


美鶴の身辺調査を始めた阿部は報告書だけを残して、京の目の前で謎の死を遂げた。調査を引き継いだ京は、あるフェロモンを分泌する寄生虫が美鶴の秘密にかかわっているらしいことを知る。美鶴の家に侵入した京は、彼と彼に寄生していた謎の生物を殺し、元の日常へ戻っていった。それからしばらくして、男性社員をはべらせたオフィスの奥に、かつての美鶴のようにオーラをふりまく京の姿があった。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=28119

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1057.html

[近代史4] 黒沢清 DOORIII (彩プロ 1996年) 中川隆
1. 中川隆[-11122] koaQ7Jey 2020年9月27日 17:45:13 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[14]
【第233回】『DOOR3』(黒沢清/1996)

2015/09/29
 95年から96年にかけての黒沢清は、『勝手にしやがれ!!』シリーズ全6本を含む、合計9本の映画を立て続きに撮った。黒沢清の40年に及ぶフィルモグラフィにおいて、これだけ膨大な量の映画を撮ったことは後にも先にもない。それらは全て80分以上90分以内の長編劇映画であり、プログラム・ピクチュアとしての厳密な撮影方法と語るべき物語とを同時に保有していた。『勝手にしやがれ!!』シリーズも『復讐』シリーズも、宝塚映像からの流れの中、自然とケイエスエスとツインズの共同出資で製作されていたが、その中で例外的に彩プロと(株)高澤の出資で製作された。

この『DOOR』という企画はもともと80年代後期のバブル景気の時代に、高橋伴明によって撮られたホラー映画である。高橋伴明の『DOOR』はあまり覚えていないのだが、確か夫の留守中に押し入ったセールスマンによる不法侵入の恐怖を描いた映画だった。主演は高橋伴明の奥様である高橋恵子で、TBSの十津川警部に出ていた堤大二郎の怪演ぶりがかなり怖かった。『DOOR2』も高橋伴明監督で撮られ、主演は青山知可子だったようだが、残念ながら観ていない。今作はそのパート3として、『DOOR』から8年後に製作された物語である。

大手保険会社の外交員の佐々木京(田中美奈子)は、昇進まで後一歩というところで営業成績が伸び悩んでいた。ある日、新規の契約開拓のために飛び込んだビルで、京は美貌の青年と出会う。若くして外資系企業の上級管理職の座にある藤原美鶴(中沢昭泰)というその青年は、不思議なオーラと怪しい香りを身にまとっていた。謎の多い美鶴に、京は警戒しつつも魅了されていく。美鶴と出会った日から、京の周りには奇怪な出来事が起きるようになっていた。

Jホラーや黒沢清の傑作ホラー群を観てしまった後では、ごく普通のホラー映画に映る。ファム・ファタールの男版のような不気味で怪しい男がいて、営業成績が伸び悩む主人公の佐々木京(田中美奈子)は、彼の会社に押し売りでセールスをかける。その会社に一歩足を踏み入れたところから、明らかにおかしい雰囲気が滲んでいる。社内には女性しかおらず、彼女たちもあくせく働く様子もなく、スローモーションのようにゆっくりと動き出す。彼女が部長室に足を踏み入れると、そこには綺麗な顔立ちをした長身の男性がいる。主人公は彼に会った瞬間、恋に落ちるが自分の中にある警戒心が解けない。

彼と会った瞬間から、周りで奇怪なことが連鎖的に起こるという設定は、後の黒沢映画を予感させる。留守番電話に流れるノイズ。こっちを見ている赤い服の女。川向かいからこちらを凝視する黒装束の女。風に揺れるカーテンなどはこの後の作品においても繰り返し用いられたモチーフである。Jホラー以前、黒沢は小中千昭が提唱する「小中理論」を崇拝しており、今作は唯一、小中千昭の単独脚本によるホラー映画となっている。

カメラの動きもだいぶ実験的で、とあるBARで藤原が佐々木京を初めて誘惑する場面を大胆に長回しで撮っている。ミディアム・サイズで正面から対象を据えたその長回しはやや凡庸で、黒沢が男女の交わりに不得手であったことを示す証拠となっている。むしろこの場面よりも、川向かいから黒装束の女がこっちを見つめている様子を望遠レンズの揺れるフレームで抑えた場面にこそ、黒沢の才気を感じずにはいられない。『地獄の警備員』で初めてお目見えした半透明カーテンは、今作でも主人公が藤原の正体を突き止めようと、文献を探す場面で用いられる。半透明カーテンの向こうには、明らかに何者かのシルエットがあり、半透明カーテンをいとも簡単に潜り、彼女たちは主人公のいる空間へと侵犯する。けたたましいBGMと共に、この瞬間はあまりにも怖い恐怖体験となる。

今作では佐々木京の上客である大杉漣以上に、京の直属の先輩だった阿部雅夫(諏訪太朗)の活躍ぶりが素晴らしい。保険会社の外交員を辞め、別の会社に移った諏訪太朗は彼女の頼みを聞き入れ、藤原の正体を探る。その過程で、藤原が謎の変死を遂げていることに気付いた諏訪太朗は、主人公と連絡を取ろうとするが、不幸にも初期の携帯電話はあまり電波が入らない。藤原の古い豪邸に辿り着いた諏訪太朗は、返答がないためうっかり扉を開けてしまう。そこには仰々しい銀色の扉が備え付けられている。恐る恐るその扉を開けてしまった諏訪太朗に、残酷な運命が待ち構えている。

この場面は明らかにトビー・フーパー『悪魔のいけにえ』を想起させる。これは私の勝手な憶測になるが、この『悪魔のいけにえ』の無邪気なオマージュだけで、黒沢がこの企画を引き受けた可能性は大いにあるのではないか?最初に銀色のドアを開け、犠牲となるのは田中美奈子でも真弓倫子でも天宮良でもない。諏訪太朗だということに今作の核心があるのではと考える。彼は主人公の依頼を受け、身を呈して主人公に警告を発しようとする。その警告が元となり、主人公は真弓倫子の二の舞となることをかろうじて拒否する。

しかしながらその諏訪太朗の警告も虚しく、最終的には南米の寄生虫を退治したものの、主人公はどういうわけか感染し、逃れられない運命の犠牲となってしまう。この「感染」という言葉は、黒沢がホラー映画を突き詰めていく時に、あらためて大きな意味を持つことになるのである。『CURE』然り、『回路』然り、この感染力の強さを黒沢は自らの物語の中に巧みに忍ばせている。そのルーツであり端緒が今作にはしっかりと見える。
https://note.com/compactdisco/n/n97c50b49eacb
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1057.html#c1

[番外地8] 関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
林千勝のデタラメ本なんか読む訳ないだろ
陸軍は共産主義者が多かったから反共の昭和天皇に切られたんだよ:
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。


帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。

今も共産主義で全体主義のC国好きで有名な総合商社伊藤忠の元会長が瀬島である。特務機関の原田統吉から、ソ連の「8月上旬侵攻」の至急電文を握りつぶし、婦女子を含む155万人の一般邦人を置き去りにして、関東軍がさっさと武装解除したのも関東軍の参謀部が、松村知勝や瀬島らのコミュニストに支配されており、日本の婦女子がロシア兵に略奪され、レイプさせることを計画的に実行するためだったのだ。それに反して内蒙古を守る駐蒙軍の司令官だった根本博中将は、武装解除を無視し敵の侵入を阻止するため白兵戦を繰り返し、多くの犠牲を出しながら4万人もの邦人を守り抜きました。日本軍人の鏡です。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/424.html

[番外地8] 当時の関係者は既に全員死んでいるからもう調査はできない。 林千勝に新しい研究はできないよ。
当時の関係者は既に全員死んでいるからもう調査はできない。
林千勝に新しい研究はできないよ。
どうでもいい僅かな資料を基にデタラメ書いてるだけさ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/425.html
[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
27. 中川隆[-11121] koaQ7Jey 2020年9月28日 02:50:34 : f3DDmBHoO2 : cENBcHdpRFNMQjY=[2]
竹中平蔵がぐうの音も出なかった三橋貴明の反論



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c27
[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
113. 中川隆[-11120] koaQ7Jey 2020年9月28日 02:51:21 : f3DDmBHoO2 : cENBcHdpRFNMQjY=[3]
竹中平蔵がぐうの音も出なかった三橋貴明の反論



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c113
[番外地8] GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです
GDPは所得の合計ですが、その所得の大半は大企業と資本家の所得です。
GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです。
GDPや経済成長率ではデフレになるか、ならないかは判断できません。

今は技術の進歩で1日に2,3時間も働けば生活に必要なものを作れる時代になっています。
これ以上生産力を高めても意味ないんですね。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事。

現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。


国債の利子と民間銀行からの借金の利子でマネーストックが毎年増え続けています。
大学初任給は30年前から変わっていないので実質賃金が何分の一かになったのですね。
それが今の若い人が子供を作れなくなった原因です。
国債の代わりに無利子の政府紙幣を発行すればマネーストックは増えなくなり貧富の差も拡大しなくなります。

日銀の異次元金融緩和の為に円の価値は既に暴落し紙屑化している
現在の日本の様に、人口が増えない、輸出が増えない、技術が大して進歩しないという状況では GDPが増えない、経済成長しない方が正常です。アメリカや中国の様にGDPが増え、経済成長している国というのは貨幣価値が下がっているだけで、国民は豊かになっていません。

通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。


国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。
マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。

そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/426.html

[番外地8] GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです 中川隆
1. 中川隆[-11119] koaQ7Jey 2020年9月28日 03:24:35 : f3DDmBHoO2 : cENBcHdpRFNMQjY=[4]
GDPは所得の合計ですが、その所得の大半は大企業と資本家の所得です。
GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです。
GDPや経済成長率ではデフレになるか、ならないかは判断できません。

今は技術の進歩で1日に2,3時間も働けば生活に必要なものを作れる時代になっています。
これ以上生産力を高めても意味ないんですね。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事。

現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。


国債の利子と民間銀行からの借金の利子でマネーストックが毎年増え続けています。
大学初任給は30年前から変わっていないので実質賃金が何分の一かになったのですね。
それが今の若い人が子供を作れなくなった原因です。
国債の代わりに無利子の政府紙幣を発行すればマネーストックは増えなくなり貧富の差も拡大しなくなります。

日銀の異次元金融緩和の為に円の価値は既に暴落し紙屑化している
現在の日本の様に、人口が増えない、輸出が増えない、技術が大して進歩しないという状況では GDPが増えない、経済成長しない方が正常です。アメリカや中国の様にGDPが増え、経済成長している国というのは貨幣価値が下がっているだけで、国民は豊かになっていません。

通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。


国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。
マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。

そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき | グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

世界最大のヘッジファンド: 紙幣印刷で経済成長率は救える | グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート
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http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/426.html#c1

[番外地8] 輸出超過額と対外資産が増える程、日本人はどんどん貧しくなっていく

輸出超過額と対外資産が増える程、日本人はどんどん貧しくなっていく
植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳

ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。

http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/427.html

[番外地8] GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです 中川隆
2. 中川隆[-11118] koaQ7Jey 2020年9月28日 03:53:54 : f3DDmBHoO2 : cENBcHdpRFNMQjY=[5]
GDPは所得の合計ですが、その所得の大半は大企業と資本家の所得です。
GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです。
GDPや経済成長率ではデフレになるか、ならないかは判断できません。

今は技術の進歩で1日に2,3時間も働けば生活に必要なものを作れる時代になっています。
これ以上生産力を高めても意味ないんですね。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」
三橋貴明 「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、皆さんの純資産収奪になります」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」
「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、大企業や資本家の皆さんの純資産収奪になります」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。

三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。


現在は技術の進歩で労働者が1日2,3時間働けば生活に必要な食べ物や工業製品を作れる時代です。
だから今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
人口が減ればそういう無意味な仕事をする必要も無くなるので、デービッド・アトキンソンの最低賃金を上げて、それに耐えられない中小企業は潰せ、というのは正しいです。存在価値が無い中小企業を淘汰するのは合理的です。


国債の利子と民間銀行からの借金の利子でマネーストックが毎年増え続けています。
大学初任給は30年前から変わっていないので実質賃金が何分の一かになったのですね。
それが今の若い人が子供を作れなくなった原因です。
国債の代わりに無利子の政府紙幣を発行すればマネーストックは増えなくなり貧富の差も拡大しなくなります。

日銀の異次元金融緩和の為に円の価値は既に暴落し紙屑化している
現在の日本の様に、人口が増えない、輸出が増えない、技術が大して進歩しないという状況では GDPが増えない、経済成長しない方が正常です。アメリカや中国の様にGDPが増え、経済成長している国というのは貨幣価値が下がっているだけで、国民は豊かになっていません。

通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。


国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。
マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。

そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき | グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

世界最大のヘッジファンド: 紙幣印刷で経済成長率は救える | グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11736
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/426.html#c2

[番外地8] 輸出超過額と対外資産が増える程、日本人はどんどん貧しくなっていく 中川隆
2. 中川隆[-11117] koaQ7Jey 2020年9月28日 04:08:09 : f3DDmBHoO2 : cENBcHdpRFNMQjY=[7]
だからいくらドルで儲けても、儲けたドルを円に替えたら超円高になって輸出企業が倒産してしまう。
それで儲けたドルはアメリカで使うしかないのです。
日本人が輸出品を作る為に働いた分はそのまま損失になってしまうから日本がデフレになったのです。

通貨発行してもデフレは改善されません。
日銀が民間銀行から国債を買って円を増やしても、民間銀行はその円をドルに変えてアメリカ国債を買うので、対外資産を買う事になります。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/427.html#c2

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
343. 中川隆[-11116] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:11:01 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[1]
平野憲一の株のお話 2020.09.28 今日は権利付き最終日。
http://kasset.blog.fc2.com/


最近、ウォーレン・バフェット氏率いるファンドが日本の5大商社株を5%以上取得したと話題になりましたが、同じく先週末現在の予想配当利回りは8001伊藤忠3.19%、8002丸紅2.40%、8031三井物産4.23%、8053住友商事5.35%、8058三菱商事5.11%となっております。

三井・三菱・住友の三大財閥系商社だけの平均利回りは4.9%にもなります。

バフェット氏は世界に類を見ない日本商社のビジネスモデルが魅力としていますが、この高配当もかなりの魅力になっているのではないかと思います。

バフェット流長期投資法を支持する日本の投資家は多いと聞きますので、その方々はおそらく買っているのではないかと思いますが、今日でも参加できますよ。


 また、3月以降の日経平均引け値ベース戻り高値は9/14の2万3559.30円ですが、これをドル建てで言うと222.13ドルです。先週末2万3204.62円はドル建てですと220.32ドルです。高値から円建てで354.68円安、ドル建て1.81ドル安となります。外から見た日経平均は「戻り場面の最高値での攻防戦」と言ったところです。

ただし、日本株を運用しているファンドマネージャーに対する本国の評価は円建てでのパフォーマンスだそうです。為替等のヘッジはまったく別部門でやっているからです。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c343

[リバイバル3] チャンネル・デバイダ―は使ってはいけない 中川隆
9. 中川隆[-11115] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:24:25 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[2]
Mr.トレイルのオーディオ回り道
自宅システムの仕上がり具合は60% 2020年09月28日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/38dbd046b0284395a60dc7ced19dfbc5


10年前にSPシステムは出来上がっていました。「ネットワーク方式」に拘ったばかりに10年間を無駄にしてしましました。今年2月末に「マルチアンプ化」して早7ヶ月。現在の活性化度は「60%」ぐらいかな?だんだん音楽を聴くのが楽しくなって来ています。

この7ヶ月の間に低域と中域のアンプは変わりませんが、高域用のパワーアンプは

@WE101Dppパワーアンプ → ASONY TA-3140F → BTA-3120A 

へと変わって来ています。まだまだシステム全体として完成している訳では有りません。

現在はチャンデバのTA-4300Fの「活性化」に重点を置いています。チャンデバが完全に活性化した後で、更に低域・中域・高域のアンプの見直しを考えています。多分完成までにあと2年以上かかるでしょう。

もしかしたら、プリアンプ(現在も管球式)から3台のパワーアンプを管球式に入れ替える事も有ると考えています。望むサウンドイメージに近づけなければ「完成」にはなりません。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1025.html#c9

[近代史02] 小沢一郎先生を襲った恐怖とは 中川隆
109. 中川隆[-11114] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:31:41 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[3]

2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html#c109

[近代史02] イリーナ・スルツカヤ _ Let it be 中川隆
17. 中川隆[-11113] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:33:13 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[4]

2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html#c17

[近代史3] Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した 中川隆
11. 中川隆[-11112] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:35:00 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[5]

2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/696.html#c11

[近代史4] アメリカ人は頭がおかしい 中川隆
15. 中川隆[-11111] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:36:03 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[6]

2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

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[近代史5] エルビス・プレスリーやジョン・レノンはCIAやFBIから危険視され、監視されていた
エルビス・プレスリーやジョン・レノンはCIAやFBIから危険視され、監視されていた

2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/323.html

[近代史5] エルビス・プレスリーやジョン・レノンはCIAやFBIから危険視され、監視されていた 中川隆
1. 中川隆[-11110] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:42:28 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[7]
イリーナ・スルツカヤ _ Let it be _ ジョン・レノンを殺した組織とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html

小沢一郎先生を襲った恐怖とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/323.html#c1

[近代史4] 自転車で山に行こう 中川隆
10. 中川隆[-11109] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:46:14 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[8]

2020/9/28
雲取山・・・トザツーで山頂をGETせよ!!  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2646.html#comment
 

■ 東京の最高峰「雲取山」を「トザツー」で目指せ! ■

先週の金峰山ですっかり気を良くして、トレラン用のザックを新調し、ウルトラライトのレインウエア(上だけ)を特価60%OFFで手に入れ、すっかり山モードの私。

東京近郊で「トザツー(登山+自転車)」に良い場所は無いかと探していたら、雲取山がヒットしました。標高2017m、東京の最高峰にして日本百名山の一つ。

一般的には奥多摩湖川の鴨沢登山口から頂上を目指しますが、このコース、標高差約1500m、片道15kmと非常に距離が長い。浦安を始発で出ても登山口到着は10時近くなるので、全行程走らない限り、日暮れまでに登山口に降りて来るのはキツイ。

ところが、鴨沢登山口から青梅街道を少し行った先に、「三条の湯」登山道にアクセスする林道の入り口が有る。もしやと思いググったら、やはりこの林道を自転車で走って「時短」する裏ワザが有る事が判明。林道後山線は国道から三条の湯登山口までの10Kmを繋ぎ、標高も1000m近くまで稼げます。

■ 新兵器、マルチスポーツバックと軽量レインウエア ■

本日デビューのトレラン用のザックは、ブラック・ダイヤモンドの15リトルタイプ。

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ブラック・ダイヤモンドはイギリスのアルピニスト系の軽量装備を作る攻めてるメーカーらしいですが、私の選択基準は自転車で使える事。ストラップの収納性が高く、簡易防水で、車からの視認性が高く、背中が暑くならず、さらに自転車ウエアのバックポケットにアクセス出来る大きさ。実はこのザック、これらの条件を全て満たします。

ウセストストラップが無いのですが、500mlのペットボトルがショルダストラップに2本入り、その他小さなポケットが複数付いています。外側の布地は補強されたナイロンでクライミングで岩に擦り付けても破れない強度。このシェルが蓋も兼ねます。ザックの容量はトレラン用としては大きめの15ℓ。これならテントを持たない登山には充分です。

本日の装備はザック含めて4kg台(但し、水を除く)

飲み物 ・・・水2ℓ、ポカリ500ml
食べ物 ・・・カップ麺x1
携帯食 ・・・スティックx2 / マグネシウムゼリーx2
レインウエア上下、ゲーター、防寒着(ダウンベスト)、着替え(長袖Tシャツ、短パン)
ガスボンベ(OD缶)+バーナーx1、クッカーx1
ヘッドライト

行動着は・・

登山ズボン(長ズボン)、コンプレッションタイツ、自転車用の長袖インナー、Tシャツ、裏起毛ポリエステルパカー、軽量登山靴

本日投入の秘密兵器第二段は、MONTANEの777レインウエア。非常に軽量でシナやかですが、しかりと防水放湿性能の有るULのレインウエアです。これ、60%OFFで手に入れました。この薄さ、この軽さで三層構造は優秀。2層タイプの様に内側が肌に貼り付く事が無く、トレランやハイペースな登山に最適です。

レインウエアの下は、大昔に買ったオンヨネ。確か上下で8千円だったかな。下は何でも良いんです。上程蒸れて不快では有りませんから。むしろ、レインウエアの下は消耗品。泥だらけになるし、自転車のサドルで摺れるし、重くても、多少ゴワゴワしていても気にならないし・・・。


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■ 中央線の特別快速のワナ ■

土曜日は雨予報でしたが、山岳天気では雲取山山頂付近は12頃までは晴れ。レインウエアとザックの防水性のチェックも兼ねて取り合えず奥多摩を目指します。

東西線の始発で奥多摩を目指すと非常に乗り継ぎが悪い。そこで、6:17分発に乗ると中野で中央特快に3分で乗り継ぎが出来、始発より10分程度遅く奥多摩駅には8:21に到着します。

ところが、問題が・・・。トイレタイムが取れないのです。重いMTBを運んでの乗り換え、さらに輪行は最前か最後尾の車両を使うのがルール。中野の3分の乗り換えでトイレに行くのは無理。そんな不安を覚えつつ電車の乗り込んだら、変に意識してしまって、そこはかとない尿意が・・・。気のせい、気のせいと、中野で乗り換え・・・青梅で電車を降りるハメに。ちょっと停車時間が長いかなと思ったのですが、ホームに戻ると電車は居なかった・・・。

そんなこんなで、奥多摩到着は8:48分。自転車パートを2時間で片づけても、雲取山頂ピストンは微妙な時間です。

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ホリデー快速は混雑するので、きちんと後輪も外し、フレームに前後輪固定。でも、電車空いてました・・・雨だからね。MTBを一荷物にすると超重たいです。  8:48


■ ダート林道ってスピード出ないよね・・・ ■

さっさと自転車を組み立ててHEAR WE GO!!(今期アニメ「天晴爛漫!」、皆さん観てますか。最高っス!!)

いつもは帰りのコースで使う奥多摩湖までの道、逆に進むと結構な登り坂です。奥多摩湖に到着した時には空腹MAX!!。売店でアンパンとどら焼きを買って、アンパンを腹に詰め込み再出発。

後ろ山林道に取りついたのが10:19でした。ここから徒歩ならば「三条の湯」まで10kmを3時間の行程。それをMTBで短縮しようという計画ですが・・・普通に500mのヒルクライムですよね・・。お祭りのバス停が564m、三条の湯が1100mですから・・・。

さらに、ダートと言っても拳大のカドの尖った石がゴロゴロしてフルリジットのMTBでは非常に走り難い。さらに地面から岩の頭が出ていたりと・・・タイヤが転がり難いのに、スリップし易い。結局11:26分に林道の終点に到着しました。95%は乗車で登りましたが、石がゴロゴロした休暇で「押し」が入りました。三条の湯まで登山コースを30分程歩くので、コースタイムはだいたい2時間。徒歩に比べて1時間の節約ですが、多分、私はこの斜度は走ってしまうので、自転車のメリットは奥多摩駅の移動しか無い様な・・・。ただ、久しぶりのダートとMTBは楽しい。本日、ここから引き返してもも悔いは無し!!


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最近、何故か良く来る奥多摩湖


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林道後山線の入り口。お祭のバス停のすぐ先に有ります。バスは1日4便なので、徒歩の場合は鴨沢のバス停から徒歩10分。 11:19


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三条の湯までは10km、徒歩で3時間・・・林道ハイクって単調だよね・・・。

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林道の入り口から3km程度で車両通行止めのゲート。自転車はOK・・多分。


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こんな崩落個所が至所に有る。山側はほぼ落石防止ネットで覆われています。山は常に崩れ続けるので林道の維持って大変です。


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ようやく林道の終点です。カブが2台停まっていまいした。渓流釣りの人でしょうか?しかし、この林道を登れるスーパーカブ、パナイです!! 11:26

■ 三条の湯までは、谷に貼り付いた細い登山道でスリリング ■

雨が強くなったので、ゲーターとレインウエアの上下を着ます。ゲーターはレインパンツの上か下かという永遠の論争が有りますが、本日はゲイターをレインパンツの下にします。理由は・・・ゴアテックスのゲーターはオンヨネのレインパンツより高いから汚したく無い・・・。

ウソピョーーン!雨が強い時はレインパンツをゲーターの中に入れると、パンツを伝わった雨がゲーターの中に侵入するからです。小雨や、泥道や富士山の砂走の様に浸水の可能性が無い場合はゲーターを上にします。パンツの裾が汚れるのを防ぐ目的です。


三条の湯までは谷川沿いの崖に貼り付いた細い登山道を登ります。片側は崖。高さはそれ程無いので、怖くは有りませんが、そこそこにスリルング。道はしっかりしているので滑落の危険性は低いです。

雨に濡れた緑が美しく、谷川の流れもキレイなので、Goporoと写真を撮りまくって、中々先に進めません。30分程して三条の湯が見えて来ました。


登山開始が11:41、三条の湯到着が12:10。ほぼ標準タイムですね。


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もっと、崖に道がへばり付く様な箇所が有ったのですが、写真を撮ってませんでした。高所恐怖症の人は、この道は辛いかも・・。


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三条の湯が見えて来ました。


■ ムリゲーだけど行ける所まで ■

「三条の湯」は知る人ぞ知る秘湯。昔、漁師が手負いの鹿が湧き水で傷を癒す姿を見て、ここに湯治場を開いたとか。当時は湯舟だけが有り、訪れた人が自分で湯を沸かして入ったらしい。ちなみに、正式には温泉では無く鉱泉。水温は10℃程度で、薪で焚いています。

入湯料は600円。窓から緑の山々や谷が見渡せるらしい・・。宿泊もできるので、登山者だけで無く、温泉ファンも宿泊しています。

自国は12:15分。山頂までの往復の標準タイムは5時間40分。どんなに急いでも3時間ちょっと掛かりそうです。谷間は16時には暗くなり始めるので、MTBのダウヒルを考えたらギリギリの時間。山頂や途中で休憩したらアウト・・。

本日は登山は止めて温泉でマッタリして帰ろうかとも思いましたが、次に来た時の為に登山道をある程度は確認しておきたい。尾根筋に付けば迷う事は無いので、本日は三条のダルを目標に登山を開始します。2時間歩いたら、絶対に引き返す事を自分に誓います。(これが難しい)


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秘湯として知る人ぞ知る「三条の湯」。ここだけを目当てに来る人も。

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ここから雲取山まで3時間20分。・・・急いでも登り2時間、下り1時間・・・。


■ 雲取山ってこんなに「深い」んだ!! ■

後山川を木の橋で越えると、いよいよ本格的な登山の開始です。序盤だけ、崖に沿った細い道で鎖も付いていますが、そこから先は樹林の中をトラバースの形で徐々に標高を上げて行きます。

問題は崩落して登山道が崩れてしまっている箇所。迂回路が出来ていると思いますが、無理は禁物です。

雨は小康状態で、樹林の下では気になりません。湿度は高いのですが、気温も高くは無いので、山に入ってからはレインウエアーは快適です。

軽く霧が掛かって幻想的な風景の中、1時間程進と、大きな崩落個所に突き当たります。迂回路に入り、暫く歩くと、こちらも崩落で道が無い。何となく、踏み後らしき物が有るので、進んでみます。しかし、これも途中で途切れてしまいます。

・・・これ、完全にルートをロストしました。こういう場合は自分の足跡を辿って戻る事が正解ですが、何となく斜面の上の登山道らしき物が見えます。斜面の傾斜はけっこうキツク、足元もズルズルと崩れるので、四つん這いになって、木々の根や幹を手掛かりに直登します。この手の直登は久しぶりです。

どうにか、迂回路に復帰します。帰りに確認したら、迂回路の九十九折れのターンを見逃した様です。(相当に分かり難い)

迂回路は尾根の反対側を巻いているので、尾根を越えたら下り坂が続きます。だいぶ標高を無題にした感じ・・・。

本来の登山道に復帰してしばらくすると、登山道に岩場が出て来ます。白い色なので石灰岩でしょうか。この辺りは鍾乳洞も有るので、石灰岩地帯です。岩の表面は結構滑りやすく注意が必要です。慎重に進みます。

岩場を過ぎると、道は再び樹林下の緩い傾斜に・・・。登山開始から1:30経っています。後30分で三条のダルの尾根にデレルか微妙なので、ここで勇気ある撤退を選択。

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雨の為か水量も豊富です。水車で発電して小屋に送っているのか、ここから送電線が伸びています。

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崩落していますが、道がしっかり付いています。

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途中、一瞬尾根筋に出ますが、再び樹林帯の中へ

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岩が出て来ました。滑り易いので注意して進みます

■ キノコ祭りだーーー!!■

帰り道は、登山道をロストした箇所の確認と、登山道に脇に沢山生えていたキノコの写真を撮りながらノンビリ帰ります。しばらく山の自然と森の恵みをお楽しみ下さい。

・・・キノコ、どれが食べられて、どれが毒キノコなのか素人には分からないですね。


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鎖場を越えたら直ぐに三条の湯です

三条の湯に戻って来たのが2:50分。鹿肉入りのカレーを御馳走になって(美味しかったけど一気に食べてしまて鹿肉の記憶が・・・)、常連の宿泊客の女性が薪ストーブに着火に苦戦していたので手伝って、リュックの中でかさ張るカップラーメンをリリースして、安生の湯を後にします。

下りはハイペースで自転車が停めてある登山口まで戻ります。さて、ここから楽しいダウンヒルですが・・・パンクとスリップが怖くて慎重に下ります。その分、国道に出てからは全力でペダルを漕ぎます。

奥多摩駅の交差点で後輪がグニャリとしたので確認すると・・・パンクです。小さな穴らしく、一気に空気は抜けていません。林道の下りで穴が空いたにしては空気に減りがゆっくり過ぎます。(帰宅後に確認したら細い金属線が二本刺さっていました。街中で踏んでタイヤに刺さっていたものが、石に押されてチューブに到達したのでしょう。


■ 日帰り登山では勿体ないルートだった ■

雲取山の日帰り登山は、ネットでも様々な議論が有る様です。アクセスが良いので、車の方は5時頃に鴨沢登山口からピストン出来ますが、体力の有る経験者に限ります。初心者が日帰り予定で途中で立ち往生する事も多いとか。

浦安からだと登山道に到達する時刻が遅いので、多分、トレランペースで無ければ秋の時期の日帰りは無理でしょう。

ポピュラーな鴨沢ルートは行った事が無いのですが、樹林帯の下のダラダラした登りが長いらしい。丹沢の大倉尾根みたいな感じですかね。あれは精神的にキツイ。

私的には今回の「三条の湯」コースは相当に気に入りました。川沿いの登りは林道と言えども楽しいですし、「三条の湯」の雰囲気が良い。このコース、日帰りには勿体ない。風呂に入った後に宿に前泊しても良し、テントを張っても良し。或いは、鴨沢からこちらに降りて風呂に入って泊まるというのも楽しいかも知れません。

・・・次はテント泊で是非来たい。

キツイと思ったMTBのヒルクライムも、今は「面白かった!!」に変わっています。フルリジットのダート走行は体幹が鍛えられてトレーニングにも成ります。


雲取山よ、待っていておくれ。直ぐ、又チャレンジするよ!!

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[近代史02] イリーナ・スルツカヤ _ Let it be 中川隆
18. 中川隆[-11108] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:48:07 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[9]
2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html#c18

[近代史02] タビストック人間関係研究所、ビートルズによる洗脳、笑顔が集まる力(ビートルズ世代が洗脳から覚めると日本力が爆発します) 小沢内閣待望論
5. 中川隆[-11107] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:49:13 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[10]
2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/447.html#c5

[近代史3] ジャニー喜多川は、CIA工作員だった 中川隆
21. 中川隆[-11106] koaQ7Jey 2020年9月28日 08:50:03 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[11]
2020.09.28
考え方や行動に影響をおよぼす音楽や演劇を情報機関は放置しない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/

 アメリカの情報機関CIAは人間の行動を制御する技術を開発するプロジェクト「ブルーバード」を1950年に開始した。1953年には「MKウルトラ」へたどり着いた。研究の「材料」に使われたのは西ドイツや日本にあった秘密の刑務所に収容されていた囚人。1951年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問したが、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状した。その後、4名は射殺され、東京湾に沈められたている。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 人びとの考え方や行動に音楽や演劇が及ぼす影響は小さくない。心理戦の研究をしている情報機関が放置しておくはずのない分野だ。アメリカの映画業界にCIAやイスラエルのモサドが深く食い込んでいるのもそのためだと言える。

 第2次世界大戦後、音楽を大きく変える人物が登場した。黒人音楽を白人の若者へ広めたエルビス・プレスリーだ。若者への影響力を懸念したFBIは監視を始める。そのプレスリーが大きく変化したのは徴兵で入隊し、西ドイツで過ごした1958年から60年にかけての時期だ。ジョン・レノンの言葉を借りると、兵役を終えた後のプレスリーは「生ける屍」だった。議会でMKウルトラの調査が進んでいた1977年にプレスリーはバスルームで急死している。

 ジョン・レノンもCIAやFBIから危険視され、監視されていた。そうした中、育児という理由で1975年に表舞台から姿を消す。活動を再開したのは1980年だった。10月に「スターティング・オーバー」というシングル曲をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表するが、12月に射殺された。

 レノンが戦争に反対していたことは有名だが、それ以外にもローリング・ストーンズのミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ドアーズのジム・モリソン、そしてジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらがいる。ジョーンズはひとりで戦争反対を訴えていただけでなく、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたとされている。

 そのジョーンズは1969年7月にプールで死亡する。水泳が得意でイルカのように泳ぐと言われていた彼が溺死したとする説明に納得していない人は少なくない。実はジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 ジョプリンは1970年10月に、モリソンは71年7月にそれぞれ死亡。ヘンドリックスは71年9月、マネージャーだった元MI6(イギリスの情報機関)のマイク・ジェフリーを解雇した翌日に死んでいる。

 その後、音楽業界に対する締め付けが厳しくなったと言われている。ちなみに、イーグルスがスピリッツがなくなったと歌った「ホテル・カリフォルニア」がリリースされたのは1977年2月のことだ。

 親イスラエルから親パレスチナへ軌道修正したイギリスの労働党を再び親イスラエルへ戻したトリー・ブレアのスポンサーとして有名なマイケル・レビは1973年にマグネット・レコードを設立、音楽業界で大きな影響力を持つようになる。ちなみに、ブレアがレビを紹介されたのは1994年、ロンドンのイスラエル大使館においてだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202009280000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/521.html#c21

[近代史3] こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年) 中川隆
8. 中川隆[-11105] koaQ7Jey 2020年9月28日 11:00:34 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[13]
2020年 09月 26日
この世界の さらにいくつもの 片隅に
https://tannoy.exblog.jp/31386604/

何時、注文していたのかすっかり忘れていた「この世界の片隅に」の続編の「この世界の さらにいくつもの 片隅に」が配達されてきました。25日の発売ですが、予約を入れていたので前日24日の夕方には到着しました。その晩は忙しく翌日暗くなるのが待ちきれず、有機ELの方で見ました。

予算の問題で、前作には入れられなかったエピソードが追加され、それに伴い前作の場面も少しだけ書きかえられていました。主人公のすずの心の中の葛藤が描き出されて、映画全体の陰影が深くなり、全く印象がちがう映画になりました。心の中ばかりでは無く終戦後に襲ってきた台風の被害も書き加えられて、戦争ばかりでは無く台風での視野も描かれていました。この台風では空襲時より多い人が亡くなりました。「戦争でのうても人は亡くなる」とすずさんは言います。

決定的に変えられた場面は1つ、焼け野原になった呉の街に、主人を送ったとき、遊郭のリンさんのいた遊郭の焼け野原を訪ねろとすずの夫の周作が大声を上げるところです。この変更で、前作とは決定的に違った作品になったのです。

原作者のこうの史代さんの漫画は、省略の極地で、何回か読んでいくと今まで全く見えなかったいろいろな伏線が浮かび上がってきます。 時代考証も徹底していて、間違いがあれば幾度となく訂正しているそうです。映画の片淵監督も、こうのさんに輪を掛けたぐらいのリアリストで、細部にこだわります。アニメーションは、詳細部のディテールがしっかりしていないと、作品のリアリティが一挙に無くなります。実写の映画は、現物のリアリティに頼れますが、アニメはすべてがフィクションです。

この世界の さらにいくつもの 片隅に_f0108399_22473513.jpg

戦争中の町並みの再現なども映画を作ってからでも差し替える熱心さです。第一作が広島で公開されて、昔の建物を覚えているご老人の記憶を元に、また背景を書き換えているそうです。それから三年経ち、その方達ももうお亡くなられましたが、壁の色や塀の長さなどが訂正されていました。そのリアリティの追求は、画像だけでは無く、音響にも現れます。

音響監督は片淵さんご自身がされていますが、実際の制作は、音響では定評のある柴崎憲治さんがやっています。メーキングに出てきて、アニメほど音響を作り込まないといけないそうです。ありきたりの戦争映画のような爆裂音の効果だと、アニメではリアリティを追求しないと嘘っぽくなるそうです。実物のイメージが出るとその記憶で、音響を修正するのだそうですが、アニメの場合はよほど丁寧に作らないとイメージが湧かないそうです。


この世界の さらにいくつもの 片隅に_f0108399_06452092.jpg


その為、監督の希望で、大砲や砲弾の破裂する音、機銃掃射の音などは、自衛隊の演習場で実際に収録されたそうです。おかげで、作られた音では無く、空気が切り裂かれる乾いた音が、凄く生々しいです。寅さんの映画で感じた台詞の音響も、アニメでは、マイクの位置、出演者の距離もこまかく設定してステレオ録音されています。マイク前の立つ位置も床にマークがしてあるほどです。その為、二人で話すときも自然な距離感が音響で再現されています。

呉の街を眼下に見下ろす遠景で、山の上の方から見ると、軍港は三方を山に囲まれて、すり鉢の底のような呉の街の音が、ローマの円形劇場のように音が浮かび上がってきます。その音場がとても良く再現されいて、細かい音の細部も丁寧に作り込まれています。嬉しいですね!

この世界の さらにいくつもの 片隅に_f0108399_06452716.jpg
(c)こうの史代/双葉社

 
細部まで作り込まれたアニメを見終わり、尚、出てくる様々な疑問や伏線は、再度こうの史代さんの原作を読むと、細かく説明されているのです。俳句のように省略されていた行間が見えてきます。その驚きを味わえるのも原作者の力だと思います。映画と原作を交互に読み進むにつけ、新たな驚きと喜びが浮かび上がってくるのです。
https://tannoy.exblog.jp/31386604/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html#c8

[番外地8] 天皇家では平安時代まで百済語で話していた
天皇家では平安時代まで百済語で話していた:
飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。
『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。
大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%はxx人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(xx人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代xx人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉はxx語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。

※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(xx人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/428.html

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
88. 中川隆[-11104] koaQ7Jey 2020年9月28日 15:19:39 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[18]

2020年09月28日
アメリカの不況と回復、黄金の2010年代の後はコロナ不況


アメリカ最長の好景気はコロナで終わった

ほんの半年前の2020年春頃、コロナはまだ中国だけの事でアメリカは10年間続いた好景気に沸いていました。

リーマンショックが終わった2010年からずっと好景気だったのだが、これは実は「有史以来初めて」だった。

米国の経済専門家によると南北戦争の1860年台から、アメリカは10年に1度は経済不況に直面してきた。

80年代はブラックマンデー、90年代は湾岸戦争やアジア通貨危機、2000年代にはリーマンショックがありました。


2010年代には15年にチャイナショックがあったもののアメリカは打撃を受けず、東日本大震災も関係がなかった。

こうなると人は「もう不況は起きない」と考えるもので、1929年大恐慌前にもアメリカ人はこう思っていました。

1920年代はアメリカが大国となる高度経済成長が続き、「我々は不況を克服したのだ」と胸を張っていました。


その後大恐慌が発生したのですが、黄金の2010年代の後も、コロナによる世界経済危機が発生しています。

不況が発生した時には全員平等に思えるが、終わるときには得をした者と損をした者に分かれている。

コロナ不況では政府の金融緩和と救済策によって富裕層の資産が急増に、損どころか大儲けをしました。

コロナは勝ち組と負け組を作る

米富裕層の資産は3か月で62兆円増加し、アマゾンCEOのベゾスは年始から6.5兆円も資産を増やしました。

彼らの主な収入源は保有株式の価値上昇で、政府による買い支えや企業救済の恩恵を最大限受けた。

一方の労働者階級はコロナで労働を禁止されたうえに、解雇や一時待機、賃金カットなど散々な目に遭っている。


米国の調査ではコロナで失業した人の過半数は現在も失業中、コロナで賃金カットされた過半数は現在もカットされたままです。

株式市場が絶好調と言っても企業業績はコロナで最悪であり、この落差はどう考えても異常です。

いずれ企業業績が急回復するか、株価が急落して「株価と実態の格差是正」がなされるでしょう。


ニューヨークのような大都市のオフィスでは空室が目立ち、最近の契約の7割が「また貸し」と短期契約だった。

高層ビルで勤務する事でコロナに感染すると考えられていて、企業からも労働者からも人気がない。

国家間でもコロナによって勝ち組と負け組に分かれるはずで、収束した後にはっきりする筈です。


今までの所はいち早く収束させた(と言っている)中国が回復し、欧米は苦戦し日本は感染者が少なかったのに経済は冴えない。

もっとも上手くコロナ危機を切り抜け国が、今後10年の世界で主導権を握るでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/84001689.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c88

[近代史4] 公共事業や量的緩和で経済は救えない _ 共産主義の悪夢が資本主義にのしかかる 中川隆
4. 中川隆[-11103] koaQ7Jey 2020年9月28日 15:21:21 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[19]

2020年09月28日
アメリカの不況と回復、黄金の2010年代の後はコロナ不況


アメリカ最長の好景気はコロナで終わった

ほんの半年前の2020年春頃、コロナはまだ中国だけの事でアメリカは10年間続いた好景気に沸いていました。

リーマンショックが終わった2010年からずっと好景気だったのだが、これは実は「有史以来初めて」だった。

米国の経済専門家によると南北戦争の1860年台から、アメリカは10年に1度は経済不況に直面してきた。

80年代はブラックマンデー、90年代は湾岸戦争やアジア通貨危機、2000年代にはリーマンショックがありました。


2010年代には15年にチャイナショックがあったもののアメリカは打撃を受けず、東日本大震災も関係がなかった。

こうなると人は「もう不況は起きない」と考えるもので、1929年大恐慌前にもアメリカ人はこう思っていました。

1920年代はアメリカが大国となる高度経済成長が続き、「我々は不況を克服したのだ」と胸を張っていました。


その後大恐慌が発生したのですが、黄金の2010年代の後も、コロナによる世界経済危機が発生しています。

不況が発生した時には全員平等に思えるが、終わるときには得をした者と損をした者に分かれている。

コロナ不況では政府の金融緩和と救済策によって富裕層の資産が急増に、損どころか大儲けをしました。

コロナは勝ち組と負け組を作る

米富裕層の資産は3か月で62兆円増加し、アマゾンCEOのベゾスは年始から6.5兆円も資産を増やしました。

彼らの主な収入源は保有株式の価値上昇で、政府による買い支えや企業救済の恩恵を最大限受けた。

一方の労働者階級はコロナで労働を禁止されたうえに、解雇や一時待機、賃金カットなど散々な目に遭っている。


米国の調査ではコロナで失業した人の過半数は現在も失業中、コロナで賃金カットされた過半数は現在もカットされたままです。

株式市場が絶好調と言っても企業業績はコロナで最悪であり、この落差はどう考えても異常です。

いずれ企業業績が急回復するか、株価が急落して「株価と実態の格差是正」がなされるでしょう。


ニューヨークのような大都市のオフィスでは空室が目立ち、最近の契約の7割が「また貸し」と短期契約だった。

高層ビルで勤務する事でコロナに感染すると考えられていて、企業からも労働者からも人気がない。

国家間でもコロナによって勝ち組と負け組に分かれるはずで、収束した後にはっきりする筈です。


今までの所はいち早く収束させた(と言っている)中国が回復し、欧米は苦戦し日本は感染者が少なかったのに経済は冴えない。

もっとも上手くコロナ危機を切り抜け国が、今後10年の世界で主導権を握るでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/84001689.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/892.html#c4

[近代史5] コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和 中川隆
3. 中川隆[-11102] koaQ7Jey 2020年9月28日 15:22:43 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[20]

2020年09月28日
アメリカの不況と回復、黄金の2010年代の後はコロナ不況


アメリカ最長の好景気はコロナで終わった

ほんの半年前の2020年春頃、コロナはまだ中国だけの事でアメリカは10年間続いた好景気に沸いていました。

リーマンショックが終わった2010年からずっと好景気だったのだが、これは実は「有史以来初めて」だった。

米国の経済専門家によると南北戦争の1860年台から、アメリカは10年に1度は経済不況に直面してきた。

80年代はブラックマンデー、90年代は湾岸戦争やアジア通貨危機、2000年代にはリーマンショックがありました。


2010年代には15年にチャイナショックがあったもののアメリカは打撃を受けず、東日本大震災も関係がなかった。

こうなると人は「もう不況は起きない」と考えるもので、1929年大恐慌前にもアメリカ人はこう思っていました。

1920年代はアメリカが大国となる高度経済成長が続き、「我々は不況を克服したのだ」と胸を張っていました。


その後大恐慌が発生したのですが、黄金の2010年代の後も、コロナによる世界経済危機が発生しています。

不況が発生した時には全員平等に思えるが、終わるときには得をした者と損をした者に分かれている。

コロナ不況では政府の金融緩和と救済策によって富裕層の資産が急増に、損どころか大儲けをしました。

コロナは勝ち組と負け組を作る

米富裕層の資産は3か月で62兆円増加し、アマゾンCEOのベゾスは年始から6.5兆円も資産を増やしました。

彼らの主な収入源は保有株式の価値上昇で、政府による買い支えや企業救済の恩恵を最大限受けた。

一方の労働者階級はコロナで労働を禁止されたうえに、解雇や一時待機、賃金カットなど散々な目に遭っている。


米国の調査ではコロナで失業した人の過半数は現在も失業中、コロナで賃金カットされた過半数は現在もカットされたままです。

株式市場が絶好調と言っても企業業績はコロナで最悪であり、この落差はどう考えても異常です。

いずれ企業業績が急回復するか、株価が急落して「株価と実態の格差是正」がなされるでしょう。


ニューヨークのような大都市のオフィスでは空室が目立ち、最近の契約の7割が「また貸し」と短期契約だった。

高層ビルで勤務する事でコロナに感染すると考えられていて、企業からも労働者からも人気がない。

国家間でもコロナによって勝ち組と負け組に分かれるはずで、収束した後にはっきりする筈です。


今までの所はいち早く収束させた(と言っている)中国が回復し、欧米は苦戦し日本は感染者が少なかったのに経済は冴えない。

もっとも上手くコロナ危機を切り抜け国が、今後10年の世界で主導権を握るでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/84001689.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/161.html#c3

[近代史4] 黒沢清 Retribution 叫 (日活 2006年)
黒沢清 Retribution 叫 (日活 2006年)



監督 黒沢清
脚本 黒沢清
音楽 `島邦明
撮影 芦澤明子
公開 2006年9月3日(VIFF)
製作会社:東京放送、エンタテインメント・ファーム、エイベックス・エンタテインメント、オズ、日活


主題歌:中村中「風になる」(avex trax)



『叫』(さけび)は、2006年の日本映画。黒沢清監督・脚本、役所広司主演によるミステリー・ホラー映画。2006年からヴェネツィア国際映画祭など各国の映画祭で上映され、日本では2007年2月24日に公開された。



あらすじ


東京湾岸の埋め立て地帯で、3件の殺人事件が相次いで発生する。市川信也(田中良)が婚約者の柴田礼子(秋吉砂喜子)を殺し、医師の佐久間昇一(中村育二)が息子の勇介(佐藤貴広)を殺し、OLの矢部美由紀(奥貫薫)が社長の小野田誠二(野村宏伸)を殺す、いずれのケースにおいても、加害者が被害者の顔を水たまりに押しつけて海水で窒息死させる、という手口は共通していた。


刑事の吉岡登(役所広司)は、捜査を進めていくうち、自分の指紋やボタンなどが現場に残されていることに気づく。同僚の宮地徹(伊原剛志)からも疑いの目を向けられる中、自分が犯人なのではないかと考えはじめた吉岡は、精神科医の高木(オダギリジョー)の元を訪ねるが、はっきりしたことは分からない。そんな折、赤い服の女(葉月里緒奈)の幽霊が吉岡の前に現れるようになり、彼の混乱は深まるばかりとなる。


いま、吉岡が唯一落ち着ける時間は、恋人の仁村春江(小西真奈美)と一緒に過ごすときだけである。一旦は二人で遠くへ旅立とうとするが、吉岡は春江だけを行かせて、自分はここに留まることを決意する。吉岡がさらに調べを進めた結果、赤い服の女の生前の居場所は、吉岡が15年前にフェリーで通り過ぎた記憶のある療養所だった、と判明する。赤い服の女は、そこで虐待を受けた末に命を落としたのだった。そして、彼女の呪いにかけられた者は親しい人間を殺さなければならず、吉岡は自分も半年前に春江を海水で窒息死させていたことを思い出す。現在は廃墟となった療養所を訪れた吉岡に、赤い服の女は「あなただけ許します」と言い残して姿を消す。吉岡は、赤い服の女の遺骨をバッグに詰める。同じ頃、吉岡のアパートに侵入した宮地は、部屋の中を探っていたところ、床の上の洗面器に吸い込まれてしまう。その後、吉岡は自宅に戻り、春江の遺骨を拾い上げ、同じバッグに詰める。バッグを抱えた吉岡が人気のない大通りを歩いてゆく中、「わたしは死んだ。だから、みんなも死んでください」という赤い服の女の声がこだまする。春江は、風に髪をなびかせながら、こちらに向かって何かを叫んでいるが、その声は誰の耳にも届きはしない。


キャスト


吉岡登:役所広司
仁村春江:小西真奈美
赤い服の女:葉月里緒奈
宮地徹:伊原剛志
精神科医・高木:オダギリジョー
作業船の船員:加瀬亮
刑事・桜井:平山広行
矢部美由紀:奥貫薫
小野田誠二:野村宏伸
佐久間昇一:中村育二
検死官・古屋:村木仁
刑事:井上肇
看護婦:三宅尚子、長宗我部陽子
佐久間勇介:佐藤貴広
資料係:渡辺憲吉
柴田礼子の母:水木薫
柴田礼子:秋吉砂喜子
市川信也:田中良
若い医者:鈴木直
交通課の巡査:坂本一敏
オノダ貿易従業員:渡邉紘平
赤い服の女の母:石井育代
乳児:星樹希
刑事:浜近高徳、藤岡大樹、井上浩
警官:松本良、三田直弥、植木信博、西川義郎
鑑識:古屋治男、藤岡太郎、安田昌平
叫びの声:牧野芳奈



評価
梅本洋一は、『LOFT ロフト』が「多方向に逸脱を続けることで、映画に新たな可能性を拓いた」のに対し、『叫』には「逸脱がない代わりに、極めて高い完成度」がある、と評した[1]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AB

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1058.html

[近代史4] 黒沢清 The Revenge 復讐 運命の訪問者 (ケイエスエス 1997年)
黒沢清 The Revenge 復讐 運命の訪問者 (ケイエスエス 1997年)




監督 黒沢清
脚本 高橋洋
撮影 柴主高秀
音楽 吉田光
主題歌 哀川翔


製作年 1997年
配給 ケイエスエス



幼い頃に肉親を殺され、ひとり生き残った刑事が、ある事件を通して犯人グループと出会い、復讐を遂げるハード・バイオレンス。
監督は「勝手にしやがれ!! 英雄計画」の黒沢清。
脚本は「女優霊」の高橋洋。
撮影を「MUSASHI 外伝 ヤングムサシの秘密に迫る」の柴主高秀が担当している。
主演は「修羅がゆく4 東京大戦争」の哀川翔。


映画のストーリー


幼い頃、両親と姉を借金取りに惨殺された安城伍郎は、自分だけが犯人のひとりに見逃されて生き残った。安城は今、覚醒剤捜査担当の刑事として働いている。あるシャブ中の男を追跡していた安城は、その過程で男を自殺に追い込んでしまった。男の遺体確認のために現われた身元引受人・宮地茂治こそ、あの時自分を見逃した犯人であると、安城は気付く。家族を殺害したのは、茂治の弟・知治だった。茂治は表向きには妻・ときえとクリーニング屋を営み、刑務所から出てきた連中の保護司として働いている。そして、安城一家惨殺事件はもはや時効を迎えていた。


自殺した男の周辺に不審な動きを見て取り、執拗に宮地をマークした安城は、やがて殺し屋人材派遣業を営む宮地一家の闇の顔を探り当てる。自殺した男も、彼らがエコノミック・ヤクザの大石組のために雇った殺し屋だった。復讐の念を胸に秘めた安城の強硬な追及を受け、茂治は弱気になるが、その態度に業を煮やすときえは対抗策に出ようとする。


ときえの仲間は安城の妻・冴子をさらった。これを知った安城は警察へ退職届を書き、今まで持とうとさえしなかった銃を買い入れ、宮地クリーニング店に乗り込んでいく。だが冴子はすでに殺され、宮地らには逃走されてしまった。安城は大石組に取り引きを申し出て、殺人依頼の証人となる宮地を始末する代わりに、彼らの居所を聞き出そうとする。そうして宮地たちの隠れ家へやって来た安城は、彼の殺人を止めようとする同僚の平沢までも撃ってしまった。それでも安城は復讐に向かい、宮地とその仲間を冷徹に追いつめていく。そして実は姉弟で結婚していたときえを撃ち、あの時とは逆の立場で怯える茂治も撃って、冴子を手に掛けた知治を撃ち殺した。復讐を終えた安城は何もかも捨て去ったが、拳銃だけは捨てなかった。



キャスト


安城伍郎 哀川翔
宮地知治 六平直政
宮地茂治 清水大敬
安城冴子 大沢逸美
大石組長 鈴木ヒロミツ
宮地ときえ 由良よしこ
刑事課長 大杉漣
小日向文世
芝家朋之
諏訪太郎
城明男
正村三郎
栗林知美
五十野栞
水野あや
ブッチー武者
川屋せっちん
渡辺政也
野口雅弘
三上剛史
新井今日子


https://movie.walkerplus.com/mv29587/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1059.html

[番外地8] 元左翼 西部邁はアメリカ金融資本のエージェントだった 中川隆
1. 中川隆[-11101] koaQ7Jey 2020年9月28日 18:50:44 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[23]
西部邁の正体
元左翼 西部邁はアメリカ金融資本のエージェントだった
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/360.html#c1

[番外地8] 徳川体制が崩壊する頃から日本はイギリスの影響下にあった
徳川体制が崩壊する頃から日本はイギリスの影響下にあった。アヘン戦争でイギリスは清(中国)に勝ったものの、内陸部の制圧はできていない。戦力が圧倒的に足りなかったのである。そこで目をつけたのが日本。日本はイギリスの傭兵になることでイギリスからさまざまな支援を受けることになった。アジア侵略の手先になることで富と地位を獲得した人びとがその後の日本を支配することになるわけだ。

 アヘン戦争で儲けたイギリス系企業のひとつ、ジャーディン・マセソンが明治体制ができあがる過程で大きな役割を果たしているが、日露戦争の際にはロスチャイルド系銀行のクーン・ローブが日本へ戦費を貸していた。JPモルガンとロスチャイルドの関係も有名だ。

 こうしたイギリスやアメリカの金融資本を後ろ盾として築かれたのが日本の天皇制官僚システムにほかならない。1932年にアメリカから駐日大使としてジョセフ・グルーがやってくるが、そのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人だが、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 JPモルガンの中枢につながるグルーは第2次世界大戦後、日本の進路を定めたジャパン・ロビーの中心的な存在になった。「民主的」とされる日本国憲法は天皇制の維持を宣言している。戦前も戦後も支配体制は米英の金融資本を後ろ盾とする天皇制官僚システム。基本構造は同じということだ。大正デモクラシーも戦後民主主義も天皇制官僚国家の構造の民主化ではなく、政策の民主化にすぎない。

日本の近代は明治維新から始まると言えるだろうが、その際、徳川体制を倒す上で重要な役割を果たしたのはジャーディン・マセソンのようなアヘン戦争で儲けたイギリスの会社。麻薬が主要商品のひとつだ。金融もイギリスに握られた。

 歴史小説に登場するトーマス・グラバーはジャーディン・マセソンのエージェント。グラバーは長崎を拠点にしたが、この会社は横浜にも代理人を送り込んでいる。ウィリアム・ケズウィックだ。この人物の母方の祖母は同社を創設者のひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉。つまりグラバーより大物だった。

 明治政府は1871年7月に廃藩置県を実施するが、その翌年に琉球国を潰している。最初から琉球を日本領にしたかったなら琉球藩を設置してから廃藩置県だろうが、順番は逆。廃藩置県の後、琉球が日本領であるように見える体裁を整える必要に迫られたのだろう。

 その理由として考えられるのは、台湾へ派兵する口実作り。1871年10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議して被害者に対する賠償や謝罪を要求、74年に軍隊を台湾に送り込んでいる。

 琉球国が潰された1872年に厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダーが訪日、外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧めたという。

 台湾へ派兵した翌年、今度は李氏chou senの首都を守る要衝、江華島へ明治政府は軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。リ・ジェンダーは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、大隈重信に助言するなどしていたようだ。離日したのは1890年。

 1894年には日清戦争が勃発、1902年に日本はイギリスと同盟協約を締結、1904年に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。

 1923年に起こった関東大震災で多額の資金が必要になった日本はJPモルガンに調達を頼り、その大きな影響を受けることになった。歴史的にJPモルガンはロスチャイルドのアメリカにおける仕事の拠点として設立されているので、基本的な支配構造に変化はないと言える。

 そのJPモルガンが1932年にアメリカ大使として日本へ送り込んできたジョセフ・グルーのいとこがJPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。グルーは日本の皇室にも太いネットワークを持っていた。

 1933年にアメリカではウォール街と対立していたニューディール派の政権が誕生、その直後から34年にかけてJPモルガンを中心にする勢力がクーデターの準備を進めたが、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。

 その時にバトラーからの情報に基づいてジャーナリストのポール・コムリー・フレンチがクーデター派を取材、ニューディール派を排除してファシズム体制を樹立するという話を聞いたという。

 グルーは第2次世界大戦後、日本の行方を定めたジャパンロビーで中心的な役割を果たすが、その背景にはウォール街の大物がいた。つまり日本の支配構造は大戦の前も後も基本的に変化していない。天皇制官僚システムだが、その上にはウォール街やシティが存在した。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/429.html

[近代史4] 本多勝一の世界
本多勝一の世界

【報告】応答の人類学第30回研究会+科研第5回研究会。
日時:2017年1月22日(日)13:30〜17:30頃
場所:京都大学 稲盛財団記念館3階 小会議室 I
参加人数:9人

15:10-16:10 伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)「調査する側とされる側、憑依と共感──本多勝一の問いかけをめぐって」
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~com_reli/jasca_outou/conference/2016%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E9%96%8B%E5%82%AC%E8%A8%98%E9%8C%B2/

□伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)「調査する側とされる側、憑依と共感──本多勝一の問いかけをめぐって」
朝日新聞が生んだ戦後最大のスター記者とも評される本多勝一はジャーナリストとしての自身の仕事を2つの傾向に分けて振り返る。1つは、探検(京大探検部)の延長上のルポルタージュである。1960年代半ばまでに、朝日新聞紙面に連載され、後に単行本となった「極限の民族」三部作がその代表である。ある世代の人類学者たちにとってそれらは人類学者を志すきっかけともなった。もう1つは、ベトナム戦争の取材を契機とし、「殺される側」(構造的な弱者)の視点という、立ち位置を明確化して書かれるようになったルポルタージュ群である。複数の外国語にも訳されてジャーナリストとしての世界的な評価を得た『戦場の村』は全世界で数百万部が読まれたという。
「文化人類学者はなぜアメリカ先住民を調べ、なぜベトナムを調べ、なぜアイヌを […] 調べる『必要』があるのでしょうか」。これはいわゆる本多・山口論争で提示された(山口が答えていない)問いである。上記2つの傾向が交差する所から発せられた本多の問いは、20年後、また今日に至っても、エレガントな語彙でもって繰り返し想起されている。
徹頭徹尾「殺される側」に立とうとする姿勢から派生する、不可知論と処理されがちなニヒリスティックな言明も、やや無頓着にも見える弱者への同一化(憑依?)という位置取りも、それが構造的な問題(パワーの不平等)を荒削りな形で言い当てようとしていることに留意する必要があろう。さらに、本多が発信し続けてきたのはマスメディアの界だということを忘れてはいけない。エッセンシャリズムへの配慮の欠如といった、「普遍的な」学の理論を遡及的に当てはめることは、本多が対峙していた時事的な文脈を無視することに繋がる。
本多の仕事を全体として評する意図はないし、そのような能力もない。時々の仕事に対する様々な評があり得よう。本発表では、本多の活躍した時代状況にも留意しつつ、人類学が彼の仕事から何を引き出せるかに絞って議論をしたい。

□ディスカッション

飯嶋:今日は司会がいなかったので、野放図な状態になってるんですけど、スケジュールで書いてると先にこの講演の部分は、小國さん、僕、あと亀井さんが質問をぶつけて、その後フリーにする予定だったので、ちょっとそれを先にやらせてもらっていいですか。ちなみに、小國さんの役割はフィールドとの応答っていうので、本多勝一についてなんか聞きたいこと。僕は、ホームでの応答っていうので聞きたいことと、亀井さんがいないので、なんとなくどっちかが聞くみたいに感じになってるけど、3番目はエデュケーションでの応答ってことですね。

小國:日本福祉大の小國です。伊藤さんが、発題とコメントの両方を発表されたなという印象で、満たされてしまった感じなんですけれども、応答のフィールドワークということでこれまで模索してきた、人類学的なフィールドワークってなんなんだろうみたいなところに引き付けて最後のほうは聞いていました。一つには、後半でずっと出てきた、二分法を巡るいくつかの議論ですね。なかでも最後に出てきた、「共感」について、コメントというか、質問しますと、人類学におけるフィールドでの共感ってなんなんだろうかっていうのが、問いとして浮かびました。というのは、例えば、(ある意味単純化して、一方を)弱者として表象することによって、複雑な実態が見えなくなるという側面もあるわけです。だから、それに対して、人類学者は、それを丁寧に描くことがやっぱり大事だよっていう言い方が一つあると思うんですが、それによって、伊藤さんもおっしゃってたみたいに、運動としての、二分法のパワーは薄まってしまうという部分があるだろうと。

伊藤:そのような可能性があるということでしょうか。

小國:はい、そういうふうに見たときに、我々がこれまで議論をしてきたフィールドワークの社会への応答性に着目して、すごくざっくりと言ってしまうと、あえて戦略的に二分法をおいて書いていくっていうことがありなのかどうかっていうことがひとつの問いです。加えて、それは書く場や対象に応じたTPOだけの問題なのか、それとも本質的な問題なのかっていうのがちょっと自分の中でもまだ、もやっとしてるんです。つまり、例えば私であれば、開発援助側の人に地域の事情を話すときは、できるだけ単純化して、特に「住民」というものを単純化してしゃべるっていうことは、戦略的にはしてきてるんですよね。でもだからそれは、例えばTPOだけの話で、フィールドとの関わり合いの目線という問題ではないって言いきれるのか、それとも、フィールドワーカーの目線としてそういう見方をすることで、現地との関係性がそのように生成されてくるのか、みたいな。ああ、混乱してきました、すみません。例えば本多さんが、『虫と人間』で、すごい批判的に書いてるようなふうには人類学者は書かない、と思うんです。でも他方で面白いなと思うのは、人類学はマイノリティに共感してフィールドを見ていくというか、ある意味、他の社会科学の中で、あんたストイックだねえって言われ続けているようなセンシティビティを持ち合わせているはずなのに、でも行き着く先として『虫と人間』的な書き方にはならない。つまり、書くことの暴力性などにすごくセンシティブであろうとしつつも、調査者としてというかフィールドワーカーとしての自己肯定感が実はすごく強いのかな、人類学者は。といったようなことを、改めて自分に対してですけれども、問われた気がしました。まとめますと、TPOとしての書き分けっていうのと、関係性含めて、フィールドワーカーの目線、立ち位置としての二分法っていうのが、自分の中でどうなってるのかっていうのをもっと整理して言論化しないといけないって感じました、というのが1点です。そしてもう一つは、今日のお話をうけて、今の人類学フィールドワークの可能性ってどうなんだろう、という点でして、これまで数年に渡ってこの研究会で、応答のフィールドワークというものを議論してきました。本多さんが発信された話は、基本的には同時代性がすごく高くて、その時代の中で対峙すべきところへと、どんどん、短いもの含めて出されてきたわけですよね。そういう中で、人類学のスタンスも批判の対象にもなってきた。そう考えたときに、たとえばある意味、清水展さんは特徴的な実例だと思うのですが、当時の本多の対文化人類学批判に対して、いま、フィールドとフィールドワーカーの関係性が変わってきて、現場の人たちが自分で書いて発信できるようになってきている時代の私たちのフィールドとのお付き合いの仕方が展開している現状を踏まえると、人類学フィールドワークの可能性は広がってきていますって無邪気に答えられるのかどうか。今の時代ではどんなふうな答え方があるのか、などと考えました。まとまってなくてごめんなさい。

伊藤:1番目と2番目の話に関して、例えばこのスライドで言うと、要するに、二分法の話っていうのは、理論の話で言うと表象の暴力性みたいな話になっちゃうんですが、言論人というか、ジャーナリストないしマスメディアで活躍されている方々にとっては、戦略的という言い方もしたけども、ある種、社会的な効果を考えるわけですね。例えば萱野さんが民具収集でこんなに困っているんだよというのを、あるいは社会党の比例代表で、11位でいったん落選したということを、いかに伝えるか。時事的な効果を考えるわけですね。

それと類比的なかたちで、人類学者が書くということを捉えることができるのか、という問いがあります。本多さん自身が人類学的な素養を持った方で、かつ、人類学にも詳しかったこともあるので、人類学が持つであろう社会的な効果について鋭く問うた時代があったわけですよね。

別になにか答えがあるかどうかっていうとなかなか、特に複雑化してくるとなおさらだと思うんですけども、難しい話が出てくるなっていうふうに思っていて。小國さんの語彙で言うと、TPO、時間と場所と機会ですよね。

小國:そうですね、伊藤さんの言葉で言うと媒体、でしょうか。

伊藤:はい。媒体というのも、小國さんがTPOって今おっしゃったことと似たようなことだと思うんですけども。そのことが人類学にとって本質的なものか?と小國さんが問われている、といことでいいんですか?

小國:そうですね。今回少し読み直したときに、本多さん自身が、梅棹さんから学んだことを生かして実践してきてるって書いていたりする。だから、現場での聞き取りに対する目線の持ちようっていうところでの、親和性がすごく高いですし、今日もご報告されたように、私自身もそうだったんですけれども、学部で読めと言われた本の中に、普通にエスノグラフィーの例として本多勝一の本も入っていました。なので、ある意味、差異化せずに学び始めたっていうのが、入口だったんです。なので、学生や外から、ジャーナリストの書くものと、小國がいうものとの違いは何ですかって聞かれる立場になって考え始めたというところがあり、それに対する答えを探すような思いでもあったんですね。

参加者B:すいません。あの質問したいことがあるので、よろしいですか。

飯嶋:はい。どうぞ。

参加者B:はい。本多勝一氏から学ぶべきことは、職業倫理の問題じゃないかなと。彼は、本当の大虐殺はなかったと最初言い切っていた。でもその本が重版して出版を繰り返す中で、過去に出した分を削除して、過去をなかったことにしている。そういう職業的な倫理が彼は欠けてるんじゃないかと。そこで例えば受け手の読者の応答、そういうものの立場が今日は見られなかったので、その辺をちょっと今後研究していただきたいのと。伊藤さんが、倫理的に、本多氏が過去のことをなかったことにしているという事実に関して、どういうふうに捉えておられるかっていうのを知りたいんですけど。

伊藤:和多田さんですかね。

参加者B:ええ。わりとショックだったっておっしゃって。ウェブ上で見ることができるので。

伊藤: 九州のお医者さんでしたでしょうか、丁寧に、版を追ってっていうふうにやっておられますよね。さきほど印刷してきた資料についてですが、岡崎洋三さんという方が本多氏にインタビューしているわけですけども、岡崎洋三さんの本に載ってるものと、本多勝一全集っていう30巻のものに載ってるものが、最後の文章がちょっと違うんです。今日は、後のほうの版の一部を印刷してきました。前の版の時には言ってないことが、要するに、版の違いで、加筆したと断ってるものも断っていないものとがあるようです。岡崎さんとの対談は、テープを途中で止めたか最後まで書き起こしたか程度の違いで、最後の雑談を入れるか入れないかの違いです。ですので、そのお医者さんが指摘しているものとかなり違うものです。ここに数年前の、朝日新聞を退職された方(宇賀陽弘道氏)によるインタビュー(『本多勝一、探検的人生を語る』所収)があるんですけども、そこで、「インターネットに(本多)批判がたくさん出ている、当時の本多さんの作品の時代背景を考慮せずに批判・批評されている、見たことありますか」と聞いたら、「インターネットなどは見たことはない」、「今でも手書きだし、パソコンも使わない」って言うんですね。80歳台半ばですし、まあそんなもんかなとも思うんですが。インタビューには手を加えるやり方については「インタビューされた側」の流儀ということでご本人が書いています。

ご質問については、倫理的に言えば、少なくとも断って書く必要があるとは思いますね。ただそれが、どういうかたちで使われるのかなっていうのは多少気になるとこはありますね。

本多さんについてはわりと最近でも、なんとかチャンネルで、Twitterで拡散希望みたいなかたちで、写真の使い方などをめぐって批判的な言説が出ています。いわゆるネット右翼や右翼系の言論人の側を利するようなかたちになるっていうのが一つあって、本多流の二分法で言うと。1つの間違いで全てがなかったことになるのかって言うと、ロジックとしてはおかしいだろうと。

参加者B:そのSNSの文はホームページに全部書かれてるんですが、見たときのポイントというのが、例えば本多氏は九州のAさんと個人的に手紙でやり取りし、そのインターネットとはまったく関係がなくって、問い合わせがあって、それに対して誠実に答えなくって、という、その職業人としての、ジャーナリストとしての態度が問われているってことなんですね。

伊藤:それは僕も読みました、今回、色々調べる中でも読んだんですけども。

参加者B:だから、本多さんのことを語る際にそれが抜け落ちるっていうのは、隠してると捉えかねられないことになってしまうっていうのが、私の危惧するところなんです。そういう大きな職業的な倫理を外して本多氏を語れるのかという部分ですね。

伊藤:最初に申し上げたように、今日は人類学が本多勝一から何を学べるのかということに絞ってお話しています。似たような話で、大月隆寛さんが昔、もう20年くらい前だと思うんですけども、言ってましたね。本多さんって自分の原稿や本に思い入れがものすごい強い人だと思うんですよね。すごく強いと思います。ただ、それは今日の話題とどう繋がっていくのかな。人類学が何を学べるかという議論で。

参加者B:自分は職業倫理として、研究者として、あるいはジャーナリストといったときに、もし間違っていたとしたらそれをきちんと訂正し、それを現地の人が見るということが必要だと。そういう態度を本多さんはとることがなぜできないのかと。そこが人類学者、ジャーナリスト超えて学べることじゃないかなと思っていて、言いました。

伊藤:それは大事だと思います。自分の書いたものに対していかに誠実であるかというお話ですよね。

参加者B:私が思うのは、それは本多勝一個人じゃなくって、新聞で日々出たものを、縮刷版で残したりするときに、こっそり変えますよね。変えましたという訂正なしに、あたかもそれが正式であるようなかたちで残っていく。それは、向こうの立場で考えると、毎日リアルタイムの同時代にいかにインパクトのある発信をするか。そのため、自己を律するのは、「今」俺は嘘をついていない、正しいと思うことをやっていると。だからたとえばカンボジアの虐殺に関した情報が限られていて、間違ったんだけれども、1年経ったり、2年経ったら、もうそれは反省しないんだ、違うもっと重要な問題があるから、というような気が、本多勝一だけでなく、新聞文化にあるのかと。

実は単行本になった部分って、本多氏の場合、たまたま全集見たら初版には入っている。カンボジア、あれは嘘なのかって。でもあの人は、例えばここを変えました、ここを削除したっていうことに関しては、実は細かく書いてるんですね。前回の出版ではここを変えました、と。それを彼は首尾一貫でずっとやってきてるのに、カンボジアのその部分だけ、入れてない。それを指摘されたら、いや自分の後の仕事を見てくれたら分かるだろうと。でも普段から、本多氏の場合はきちんと全部入れ替えし、もし外す場合もちゃんと断りは入れてある。なのに、それに関しては、なんとも言ってない。実は私それまでのことをFacebookに出したら、朝日の今の記者の人から「イイネ」がどっとくるんですね。これはもう、自分個人の問題じゃなくて、若手の記者も見てるんだと。本多さんでもこういうことをしてるんだと。

参加者C:3年前なんですけれども、たぶん大江さんの裁判のときに、私一度だけ、横に座って20分ぐらい本多さんとお話する機会を得たんですが、最後に、体悪くしてらっしゃいますよね。それで、「本多さん今からもしも予算も、体調も、気にせず何が一番やりたいですか」って言ったら、「もう一回中国を思う存分回って、今の自分が、今話を聞きたい」っておっしゃって、それがすごく印象的で。

参加者B:例えば彼がカンボジアの大虐殺がなかった、ということは、今でも訂正できるんですね、そこを次の出版から外しましたと。だから、本多ファンが言っていることなんですけど、その断り書きがなぜできないのかと。彼は誰もできない業績を残してるのに、そこを責められてしまうと何も言えなくなってしまう。だから、逆に、そこをきちんと研究者の人とかが、実はこういうことも考えられるんじゃないか、ああいうことも考えられるんじゃないかって。周りの若い記者が、かなりがっくりきてると思う。その辺の職業的な倫理を誰も言えないのか、言わないのかと。おそらく研究に行かれるときにも、そういうことが後々分かった場合に、その人はどういう態度を取るのかと。ジャーナリストも、研究者も、問われてるんじゃないかなと。すいません長くなって。

飯嶋:では、ちょっと角度を変えてそれ言い換えると、僕はホーム担当なのですが、ちょっとそれを後回しにして言うと、エデュケーションの問題だって僕は思っています。つまり、本多さんがやったことを、どういうふうにして他人に教えて、あるいは教えてなかったとしたら、それをどういうふうに誰が学んでるのかっていうのって、すごく気になります。例えば前半の、山口昌男って、山口昌男じゃなくても文化人類学者と論争になるだろうなって感じはします。本多さんの業績を見てても、自分は色んな民族誌的なのも書いていて、事件もやってて、「民族誌をあなたもやっていたじゃない」っていうのがあるのに、殺される側の話になると、急に民族誌の仕事がなかったかのような話になっちゃったり。そういうのっていうのは、なんか読んできた中で、書いてあったりしましたか?つまり、本多さんの仕事を、どういう人に教えたのか、あるいは学んだのかっていうことに関して。『週刊金曜日』は、ネットワーク的じゃないですか。同僚たちが作ったような媒体だって感じがしますが。本多さんが梅棹忠夫から学んだように、本多さんから人類学者から学んでるわけですよね、色んな人たちがあれを見て、人類学者になったりするわけだから。ジャーナリストじゃなくても、僕はいいと思うんだけど。本多さんから学んだ人たちっていうのは、どういうふうにしてそれを学んで、あるいは本多さん自身はどういう媒体でなんか教えるような機会はあったのだろうか。

伊藤:あれは山口の「反応」だとも本多は言っています。なかったかのような言い方を本多はしてはいないと思います。むしろ、本多は、「ジャーナリストとしての私自身の仕事についても共通の問題を含んでいるため」「当の文化人類学者はどのように考え、どう行動しているのか、参考というよりもむしろ自分自身も問題として、知りたいと思う」、だから「ご教示をいただけたら有難い」と論争のものになった文章の冒頭に書いています。ようするに、自分自身の問題として教えを乞いたいと「人類学者一般」に向けて書いているんですけどもね。それに山口が反応した。

本多氏が教育しているのかどうかについて詳しいことを知らないけども朝日のなんとかレクチャーとかでしゃべったりしているものも、ほとんど全部、活字になってます。活字を通じて、後進の人たちに教えているということになるんだとは思いますけれども。

さっき小國さんも言ってましたが、人類学者にとっては、無媒介で、彼の書いた三部作などは、エスノグラフィーとして読むことができわけです。『カナダ・エスキモー』を読んで、現場密着型の調査ってこんなふうにやるんだっていうことを、僕なんかも学べるし、学んだ。あるいは、こういうふうに記述すると、映像を写しとるみたいに読み手に向けて書きうるんだということを、僕ら人類学者も彼の著作から学んでるんだと思うんですよね、エスノグラフィーとして人類学では紹介されたりしてわけですから。

教えるというよりは、彼の著作から学んだし学べるっていうことかな、と思いますけどね。

飯嶋:なるほど。いや山口昌男さんなんかだと、山口さんはこうした、ああしたって、お弟子さんたちがいっぱい残してるから、山口昌男書いてないことだって色々分かるわけじゃない、彼が何をやってたかっていうのが。そういう意味で、本多さんについて、そばにいた人はなんかやってたりするようなこと書いてないのかなってことでした。

伊藤:僕は本多氏の弟子でも何でもないし、会ったこともない。単なる読者ですから。読んでいたの20年以上前。

飯嶋:それとホームに関しては、僕個人ので言うと、2つ思いついたのですが。

一つは、本多さんは僕にとっては基礎的な問題を提供してるんだけど、ホームで書くこと、あるいはホームで書くことが現地の人にどういうふうなことを与えるのかっていう議論をやるときには、何かその後の色んな歴史をふまえてからやりたいという感じがします。例えば、僕は、オーストラリア先住民研究ですが、アボリジニの場合は同じようなことは色んな人たちから問われてきました。そうした批判を受けて出てきたパターンの1つは、伊藤君も言ったけど、歴史研究。それから、アボリジニがやろうとしてることをサポートしながら調査をやるというのが二つ目。それから、三つ目は、アボリジナルスタディーズといって、アボリジニが主体となって作る媒体を作しました。けれどもこれは残念ながら、今、投稿が少ないです。それから、ミュージアム問題もあって、白人が勝手に展示をしていたのに対して、アボリジニは自分でそれをものを管理するというのもやったのですが、これは90年代に盛り上がりましたが、結局自分たちで保管できないということになって、今はミュージアムへの環流が始まっているところもあります。だから、現地、ホームで書いて、その対立で「やられる側の立場」に立ってみろっていうのはその後も踏まえて議論した方が良い。

参加者C:表象のほうからちょっとコメントがあるんですけど。文化人類学者は特権的な立場なんですよ。スピヴァクも、サイードも、ファーストディシプリンは英文学なんですね。文化人類学会に最初に行ってびっくりしたのは、文化人類学者であれば、たとえそこに三日間いたとしても彼らが観察したものは正しいんです。でも、私たちがオーラル・ヒストリーをして、どんなにちゃんと録音して、ちゃんと調査をして持って帰ってきても、文化人類学でなかったら、ディシプリン優先主義になると。

最初に捕虜の調査を始めるときも、私は、政治学と文化人類学とイギリスのポストコロニアルセオリーと、3人の先生を回って、結局ポストコロニアルセオリーのほうがやりやすい、となった。まずこの二分法、脱構築するのがそもそもの、ポストコロニアルの目的なわけですから。それがずっと誤解されたまま続いてる気がして。

飯嶋:さきほどの話に戻ると、アボリジニのフィールドで言うと、ホームでの運動としてああいう(「やられる側の立場」)言説を作ったときに、結果的に問われるのは、1個は、本多さんの言説が、現地との関係、現地の構造的な差別がどのくらい変わったのかって問われてくるんだろうと。で、これは前置きでした。それを問おうとしてたんじゃなくて。興味深かったのが、若手で上智にいた研究者が言ってたのですが、上智で鶴見良行さんたちが、あの種のものの流通とか、構造的差別を知らずに使ってたっていうのを、解きほぐそうとした研究をやり始めたときに、その方は、罪意識からスタートする研究はやめにしたいって思って、今の研究に走ったという方もいました。つまり、ある程度そういうふうな形でやったときに、逆作用が起こって、のちのジェネレーションからすると、それ一度ゼロにしたいみたいなこともあったりする。だから、同時代として考えるのではなく、その後をフォローしてから言いたい感じがあるんで、ちょっと置いて、単純な質問に落とすと、今だと、例えば本多さんが、聞いた現地のためにやったことみたいな形で単純化して言うと、ホームからやったことをね。本を書く、それから金銭的な支援をするっていうのがありましたが、それ以外にはどういうことがあったのでしょうか。

伊藤:どの話で?

飯嶋:いや、どこのお話でも。海外の場合はほとんどコンタクト、当時は取れないですものね。

伊藤:例えばベ平連ときは、彼がけっこう本が売れたので、アパートを借りて、そこに誰かかくまってたんですよね。脱走兵だかをかくまっていた。表に出なかったんだけども、実は本多さんだったっていうのは、後で確か、朝日新聞を退職してから言っていたかとおもいます。例えばそういうのは朝日新聞の本多の頃は、たぶん表に出なかった。

僕はとにかく個人的に面識があるわけでもないので、彼の著作を読んだ範囲内で話しています。もっと他にも色々あるかもしれない。ある程度はやっぱり実践もあるわけでしょ、それは。

飯嶋:なるほど。いくつかのオプションがあったってことですね。はい。これで、三つ質問終わりましたので、どうぞ。

関根:本多勝一についてこういうふうにきちんと聞いたのが初めてで、非常に面白かったんですけれど。運動としての二分法の持つパワーっていうのを考えていかなきゃいけないって、伊藤さんはその辺のところを特に今日話して、共感されたわけですよね。本多勝一がなんかやったことっていうか、われわれに示してくれることは、まずなんと言っても、第一の点っていうのは、たぶん相対化の視点というのを示してくれたっていうところにあるわけですよね。当時の時代背景から言っても、それはかなり新鮮というか、画期的で、だからそれを読んで刺激を受けて人類学を志したって人も多かったっていうことが、それからも分かると思うんですが。しかし一方で、中立や公正は虚構であるということも言って、立場を明確化することが大事だっていうことを言ったわけですよね。そこで殺す側の支配的な言説を批判する。あるいは、殺される側に立つっていうこと、そういう、いわゆるマイノリティ憑依っていうことをしていくわけなんですけれども。そこで、本多勝一の中に二分法が明確に作られることになるんだろうと思うんですが、しかし、運動としてそういった二分法っていうものが、ほんとにパワーを持ってるのかっていうのは、どうなのかなっていう感じもちょっとあって。二分法の中では二分法でしかないっていうか。そこにあるのは、片方に寄ったパワーでしかないんじゃないのかなと思うんですよね。だから、例えば、アイヌのなんとかさんに金銭的な支援をしたとかなんとかっていうのは、これは決してその両方をつないでるわけではないって。対立項同士をつないでるわけでも、なにもなくて。常にその構造自体は維持している状態で、片方に肩入れしてるだけの話であると。大事なのは、二分法的な関係性がもしそこにあるとしたら、構造があるとしたら、そこを崩すことなんじゃないのかなっていうか、そこをどうつないでいくのかっていうか、どう対話していくのか、対話を作っていくのかっていう、そこが実は大事なんじゃないのかなというふうに思うんですよね。本多勝一の場合は、今日聞いた限りの中では、それはやっていなかったんだろうと。あくまでも、マイノリティ憑依をするだけであって、

要するに、一番大変なのは実はつなぐことであって、対話を作っていくっていうことなのかもしれないんだけど、結局それをやらずに、なんていうかな、片方の側に立って、憑依した状態の中で何かを言っていく、書いていく、支援するっていうことは、もしかすると、簡単なことなのかもしれない。言い方がちょっと悪いかもしれないけど。実は、そこをどうつないでいくのか、どうその二分法的な関係を崩していくのか。そこのところこそ、問われなきゃいけないっていうか。報道ということの観点から言うと、むしろそこが大事になってくるんじゃないか、というふうにも、今日ちょっと話を聞いてですけど感じたんですけども、どうでしょうね、それは。

伊藤:ありがとうございます。その二分法を崩す、つなぐというのはどういうことになるんでしょう。

関根:殺す、殺すっていうのもちょっとあれなんですけれども、支配する側とされる側っていう、ありますよね。これをどういうふうにその関係性を崩していくのかっていうことが問われるわけですね。本多勝一もおそらくそれを、その関係性を崩していくために解消するために、支配される側にのっかって、やってきたんだろうと思うんだけども、それだけだと、結局、実はその関係が固定していくだけなんではないかな。そうじゃなくて、その間をどうつないでいくのかっていう。支配する側とされる側っていうのはどういうふうに結び付けていくのかっていう、そこが実は問われなきゃいけないのではないか。これを僕は崩すって言ったんですけど。

清水:よろしいでしょうか。それについては、例えば伊藤君やわれわれが後知恵で本多勝一を批判するんじゃなくて、当時の具体的なリアルタイムのコンテクストのなかで彼を理解するためにはどうしたらいいのかを考えてみる必要があるかな、って思います。関根さんが明確に問題の所在を明らかにしていますけど、本多勝一が活躍した時代というのは、とりわけベトナム反戦にしても、アイヌの人たちの問題にしても、二分法的な議論の立て方と進め方によって、初めて問題の所在を明確にすることができたし、中立を装って安全地帯から発言する知識人らに対して、いったいお前はどんなんだ、っていう匕首を喉元に突きつけるために、とっても有効だったんだと思うんですね。

二分法は、いい使い方をすれば、問題の所在がクリアになりますよね。けれども、悪い使い方をすれば、意見の異なる相手との対立を激化させ、敵対する関係にしてしまいかねません。相手をまず敵にして、しかも相手の主張や問題を矮小化して、それを叩きのめして、自分の正当化を図るという、そういう悪しき使い方もあると思いあります。本多勝一の場合も、あえて二分法の後者の、悪意も入った戦術として二分法による矮小化ということをやったかもしれませんけど、当時の時代状況の中では、何が・どこが具体的に問題なのかということを、きわめて分かりやすく、明快に主張したのだと思います。たとえ粗雑な議論であっても、だからパワーがあって人気があったんじゃないかなと思うんですね。

僕は、人類学が、本多勝一、基本的にはエキゾティシズム、梅棹の探検の人として敬服していますけど、やっぱりもう探検の思想というか感性というか、異文化や他者に対するエッセンシャリズム的な理解を試みたんだと思います。お二人には、京大山岳部や探検部の感性と呼べるようなものを色濃く感じます。人類学のディシプリンによるトレーニングではなく、現地で・現場で見て考えたこと、問題系を、我がこととして問題化する。その際には、今ではエキゾティシズムやオリエンタリズム、他者構築だぁと批判されかねない二項対立的な理解に惹かれていったと思うんですね。お二人とも、他者と異文化を迂回した自文化批判へと戻ってきていますので、その点は敬服しています。ただし、清水昭俊さんが明快に述べていますけれども、自己理解や自己批判のために、わざわざ遠い未開の人たちを「エキゾティックな」他者として構築し、利用する必要はないんですね。

でも振り返れば、本多勝一が代表するような、「殺す側と殺される側」、「調査する側と調査される側」というような二項対立の議論の立て方、進め方による素朴な暴力的なパワーを失ってしまったことが、かえって人類学がレトリカルな話を精緻化する方向へと進んだことの裏返しとしてあると思うんですね。人類学が、表象や”positionality”やポストコロニアルの問題系とかで、30年ぐらい、うじうじと悩み苦しみ、現代思想の助けを借りながら取り組んできててる問題というのは、とうの昔に本多勝一が粗雑ながらも、自身の見聞にもとづき、具体的に提起して、解決法まで示唆しているように思います。政治に無色透明な立場はなく、対立する勢力のあいだで中立を装って安全でいられる場所はないんだ。各自がポジションを明確にして、どちらかに与する以外に選択の余地はないんだと。

当時のベトナム戦争と学生運動の時代では、それは非常に新しいというか、問題の提起と若者を巻き込んでゆくためには、もっとも効果的だったのでしょう。では、はて、さて、今、われわれが本多勝一から学べることって何なのかっていうふうに、あらためて考えてみる必要は確かにありますよね。関根さんが適確に指摘されたように、二項対立が分断と対立を招くだけだとしたら、それの隘路を抜けてゆく道を見つけなければならないんですね。私自身は、人類学者はジャーナリストや運動家ではないので、センセーショナルに人を煽ることをしない、むしろ問題の所在を明らかにしたうえで、その影響を受ける被害者の側と与える加害者の側とを結ぶ、そのために細部に着目して、こんがらかってもつれた糸をほぐしてゆくこと。同時に、大同小異というか、小さな差異を誇張して対立を招きいれるのではなく、逆に小異を捨てて大同に付くような大きな判断をしてゆく、つまり鳥の目の俯瞰図と、虫の目の詳細図の両方を提供し、総合的な理解と判断に役立ってゆくことなのでは、と漠然と考えています。言葉で、明快に説明できないのですけど。

ですから、伊藤君が、本多勝一に触発されて人類学を志し、彼の著書をほとんど読み、さらには実際に平取の家族に深く関わって毎年の夏休みにはそこを訪れながら二十数年を過ごしきたことで見えてきたこと、考えてきたことを、ぜひ聞いてみたいです。果たして、今、人類学者はフィールドの人たちとどのように関わり、コミットしてゆけばいいのか、それによって人類学の応答可能性がいかに開かれてふきそうか、ということについてです。私にも、まだよく分からない問題なので、お答えが難しいかもしれませんが。

伊藤:ありがとうございます。そうですね。23年前の93年当時と今とでは、同じ地域がこんなに変わるのかと思うぐらい変わりました。アイヌという語彙が使えないような状況から、アイヌ語の挨拶を日常的にするというまでに。それはやはり国際的な連携の影響が強いと思ってます。若い子たちが皆ハワイとかカナダとかニュージーランドとか行くんですよね。国際的な紐帯というのは相当影響力があり、ものごとが変わるんですよね。海外にもおなじ先住民がいる。かっこいいというふうに変わるんですよ。アイヌであるということが。もう全然違う話になってて。

ところで亀井さんが以前、別の所で書いていたことをもじって言うと、戦略というのを、短期、中期、長期とか、いくつかのレベルとかで考え得るんだろうとおもいます。さっき小國さんがTPOと言ったのに近いのかもしれませんけど。

さっき関根さんが崩すっておっしゃったことに関連しますが、理論的には崩れているんですよ。要するに、エッセンシャリスティックなものは、常に排除を伴うので、暴力的になる、というのは、理論としては我々はすでに学んでしまってるので、素朴に二分法で受け止めて、という話はなりません。ですけども、『民研』にこれを書いてた20年前当時だとしても、10年前でも、例えば仮にテレビのマイクかなにかを向けられたら、「アイヌの人たちってこんなに困ってるんですよ」と、僕も言うかもしれないんですよね。それを言説の個別性と言うか、なんと呼ぶかは別として。それは、どういう媒体なのかということや、社会との関係の中での言説ということを勘案して。エッセンシャリスティックな言明はそうした文脈の中ではパワーを持ちます。これは、学術とは違うロジックで回ってるところでの話だと思うんですよね。

しかし、学術では、そうした言説によって阻害される可能性があることを指摘せざるをえません。本多さんの時事的な報道・評論によって萱野さんが注目されて常に二風谷取材がくると。すると、いつもおなじ人に取材が集中すると。20年前などは、とにかく僕と同じ世代の人が「貝澤(正)さんの息子のところにばっかり、なんでも仕事が行くし、テレビも行くし」と言っていました。それもいまは変わりましたが。

例えば、「アイヌの人たち、山に住んでいて、観光地にいても仕事が終わったら山に戻るんでしょ?」っていまだに考えているような人たちにとっては、ある程度のところまで知ってもらう必要があるとか。さらにその先に、でもじつは内部では一枚岩ではないのだ、という現実もあるわけです。

研究者の書き物はそもそも各媒体が普通の人はあまり読まないようなもの媒体(学術誌)に書いているわけですが、ジャーナリストは、先ほど帰られた方もそうかもしれませんけども、常になんか右翼に叩かれるかもしれないとか、ネットで炎上するんじゃないかとかっていうぎりぎりのところで戦いながら書いてるかもしれなくて。その辺っていうのが全然違うんだろうなと思います。

学べるところと、僕ら(アカデミック)とはやっぱ違うところと色々あると思うんですよね。

今日、本多さんについての議論を「理論の話にしない」っていうのは、彼が書いている立ち位置がまったく我々アカデミックと違うからなんです。エッセンシャリズムの良し・悪しといった理論の話とは別の次元、数百万の読者が読むという影響力のあるところ書かれるものなので。戦略がたぶん彼の中であって、カンボジアの虐殺についての書き換えの話なんかも、リアルなポリティクスの中で、本多さんを打ち負かそうという陣営と負けてくれるなという陣営とのせめぎ合いの文脈も見つめながら、訂正する・しない、といった話題を引き受けて考えざるを得ないんだとおもいます。

参加者D:本多さんは輝ける星、エースだと思うんですよね、かつても今も。特にジャーナリズムを志した昔の青年たちにとっては。

伊藤:ですね。ただ、80歳超えておられますしね。「老害」という語彙を使う人もいるようです。

飯嶋:いよいよ話は佳境に入ってあれですけれども。Cさんからの質問に、ぱっと答えられれば。

参加者C:確かに、誰が語って、それを代表して、それを一般に伝えてしまうのかっていう点では、表象の問題があると思うんですが、彼らのやろうとしたことっていうのは、本来、サイードのエキゾティシズムに対する反発も含めて、二分法理論もまさに脱構築しようとしたのがポストコロニアリズムだったと思っているんですね。元捕虜の問題にしても、結局日本とも関わってく、まさに加害者、被害者の非常に中途半端なところにいる方たちをどうやって扱うかっていったときに、他のところだと、どっちかにカテゴライズしないといけない。けれどポストコロニアリズムはそれが可能だと。加害者、被害者というところだけではわりきれない、例えば植民地の被害者であったインド人もやはり、イギリスが送りこんだとはいえ、あとではケニアに行って、、というような話が出てきましたけれども、そのような、多重化していく状況というものがある。

スピヴァクも、イギリスに植民地化されるインドだけど、インドの中のベンガルの人間がそこの少数民族であるところの女性を強姦して言うこと聞かせようとするっていうのを書いてるんですね。そこでencounter meっていう英語の間違った使い方も含めて、『ドラウパディー』っていう小説にしている。『ドラウパディー』はもともとそこの女神の名前で、非常に多重に、なんていうか、入れ込んだ支配性、被支配性、ジェンダーというものをなんとか舞台に乗っけようとした努力だと思います。あの中で、一個だけ印刷に間に合わずに出なかった1行があるんです。彼女はあえてすべてあれを英語で書いていますが、インドの自分が所属していた部族の、そして書いている部族のもう読めなくなっている1行を入れてるんです。ですから、まさに彼が批評するなら、私はあれがどっかに出るのであればその1行、わざと読めない1行入れることによって、彼女は英語がすべての言語ですかっていうことに対する、ものすごいアンチテーゼをやってるんですね。だから、ここで使われる表象、さっき先生が使われた表象というのは、まさに一つの固定化された表象というタームの使われ方のような気がして。

本来のポストコロニアリズム、本来のリプリゼンテーションの議論というのは、実は多様性があって、まさにこれを脱構築しながら、今私たちはどうやっていくかっていうことの可能性を指し示すものであると思います。実際に、ようやく一昨年まとまって、去年出たものにも、映像の中に出てくる表象も、関係者がなんとかその表象させまいとしてものすごく映画に働きかけるんですね。でもそれが結局映画となって、一般人に働きかけられる。だから、映画だけが独立したテクストであるかのような考えで表象として分析するんじゃなく、そこにはすごいポリティックスと、それと生きてる人たちが表象されまい、ということがあると。はっきり言ってるんです。私たちはなぜ金持ちの表象のために犠牲にされるのか。リプリゼンテーションっていう言葉を使って、当時の1956年の段階で。生きてる元捕虜ですけど。でも彼らも元捕虜ではあるけど、それこそ白人としてはポロナイザーとしての立場にいる人たちですよね。だから、その表象というものがどうできあがるかっていうことは実はまだもっと複雑な議論っていうか、議論の立て方が可能になる部分があって、それは先生の今日のテーゼにうまくつけて言えなかったですけれども、可能だと思いました。

もう一つは、今日は本多さんがものすごく称揚されてるのを聞いて、不思議に思っていたんです。私の付近では、ジャーナリズムは学問ではなくて、文化人類学、社会学、歴史学であればディシプリンであると。インターディシプリンでさえ、ディシプリンではない。あの人たちの言ってることはいい加減であって。そういうディシプリンを受けた人であれば3日間行って、観察したものも学問である。そうでない人が行って、3日間観察したもの学問にはならないっていう、わりとそういう、非常にオーソドックスっていうか、クラシックなとこにいるので、だからその特権性っていうものが本来は、本多さんが思う以上に、私は文化人類学にどんどん与えられていってるような気がします。

これはおまけですが、本多さんが興味深いのは、本多勝一さんと1980年代に歴史学の人たちが、オーラル・ヒストリーの可能性というのが、青木書店でまとまりましたが、歴研でディスカッションしたときに、オーラル・ヒストリーなんて英語使うだけでも被植民地のほんと情けないアメリカにやられたって、ものすごいなんかもうオール批判で、俺は聞き取りでいいと。俺は俺のやり方でいいとか。

伊藤:体験史。

参加者C:体験史ですね、はい。体験史でいいと。だけど、ジャーナリズムという言葉をお使いになるわけですよね。その辺りどうなのって。じゃあフランス語は、あるいはラテンはいいかって。

伊藤:オーラル・ヒストリーという語彙が英語だというのこともあるんでしょうけれども。青木書店から出た本(『オーラル・ヒストリーと体験史』)では、体験史っていう言い方をしています。要するに、史料(資料)というものに対する考え方が違うわけです。生きている人の言うことはころころ変わる。死んだ人の言ったこと・書かれたことは史実として残る、とされる。だとするとその人が死ねばいいんですね、と本多さんは言っています。死ねばころころ変わらずに史実になる、と。しかし、もし500年生きている人がいて、その人が語ることは、ではどうなのだ?という根本的な問題提起をしているわけです。その意味では、生きている人の語るオーラルも、歴史の史料(資料)として同じように記録として扱えるんだと言っているわけです。彼の言うことの是非には議論がありえますが。たぶんそこら辺があんまりかみ合ってなかったんじゃないかなという感じがします。

参加者C:そうですね。かみ合ってなかった。オファーされた先生は、オーラル・ヒストリーというのは語る人の人権、語る人の主権性をも大事にするから言うんですってことをおっしゃってるけど、そこをすっ飛ばしてると。あとは、やっぱり調査対象にどれだけフィードバックしていくかっていうことが今の時代とは変わっていて、先生たちはもう向こうのほうもフィードバックされることが可能な時代に入ってきてるんではないかと思うし、私なんかの場合は絶対そうだし。だから、ほんとにTPOを分けられるのかっていうクエスチョンが、これからの人たちには出てくるだろうと、ねえ。

参加者D:そうですよね。同時代でこっちに出したのと、あっちに出したのがあって、現地の人たちがどっちを見るか。

参加者C:そう。少なくとも100年後には、あ、こんなとこでこっちでこう書いてた、みたいなかたちになっているのね。そんなことを感じました。

伊藤:そうですね。だから、一つ確認しておきたいのは、20年前に自分が論文を書いたときは、理論的には本多批判になっています。ですけども、さっきも申し上げたように、理論じゃない部分で本多氏から何か学べないかっていう話なんですね。あの人は学者ではないっていうふうに思っているわけで、ジャーナリストなので。しかし僕らも、「モード1」というか、閉じたかたちで学術だけをやってるわけにもいかなくなってきています。学と学の外部との界面で、理論と現実のポリティックスとの界面で、本多さんの、なにか、身振りみたいなところから、学べるとこがあるか・ないか。あるとすればどこなんだ、っていうことです。

本多氏を「称揚している」って言われましたが、それは少し違います。僕は修士論文を書いていたときから理論的には、彼の書いたものが二分法的・本質主義的である、というのを批判的に指摘していましたし、今日も指摘しています。実際の、現場のエンピリカルな部分で言えば、要するに、北海道(平取その他)で何が起こってるの見れば、本多さんの書いているとおりにはなっていないということですね。1カ月ぐらい調査すれば、見えてきちゃうので。でもあえて、それを本多氏はやってないんですよね。逆に、それをやろうとした太田竜に対してある種の批判しているわけですよ。なぜなら、かく乱するからだ、と。政治的にですね。要するに、目的論に立つわけです。これは、学術とは違うロジックで回っている部分であって、ある種の運動なんですよ。あるいは戦略なんですよね。その際、先ほど言ったような、何に書くかという媒体やオーディエンスが関わってきます。つまり、書くのは新聞であり、時事的なんですよね。そもそもずっと残るであろうものを書いているのではない、ということを認識する必要があります。だから、僕らとは、もちろん違います。ただ、ひるがえって、僕らが社会へ応答していこうとしている中で、本多が対峙していた時事的な文脈を無視しないかたちで、引き出せるものがあるとすれば何なんだろう、っていう話なんですよね、今日の話は。理論的なところでは、学ぶことはほとんど実はないような気がするんですよね。もちろん、書くっていうことで言うと、すごく良い書き手だと思います。ルポルタージュの書き手としては学ぶところはたくさんあって、あんなふうには書けないなと思いますし、先ほども言いましたが調査の仕方も学べるとも思います。ただ、学術的にということではないですね。

参加者C:結局、やっぱり学術も影響を与えるものであり、この世の中をなんとか整骨していくというか、整体していく役目は負わざるを得ないと思うし、全くart for art’s sakeじゃないですけれども、そういうわけにもいかず、アイヌに関してやることは、それに対する否定論が変に出てきている今となっては、意味を持つわけだし。それがあるということを人々に知ってもらわずに、どこかに隠しておいて100年後にじゃなくて、やっぱり語り掛けてそれを解決していくっていうことと、そのように、切り離せない問題をトピックに選んでしまった場合に、どういう関わり合いのポジションがあるか、それぞれどうしてらっしゃるかっていうのを、まさに応答という部分で。

飯嶋:申し訳ない、これ1時間ぐらい続くことになりそうなので、場を移して。この場でのディスカッションはここで止めたいと思います。
以上。

【報告】応答の人類学第29回研究会+科研第4回研究会を開催しました。
日時:2016年9月25日(日)13時30分〜18時00分
場所:九州大学箱崎キャンパス文学部・人文学府・人文学研究院2階比較宗教学演習室( http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/access/ )
参加人数:11人

プログラム:
13:30-13:40 趣旨と挨拶(飯嶋秀治)
13:40-14:40 清水展(京都大学教授)「日本社会を外から見る、比較で考える— 中根千枝にオリジナリティと応答性をもたらしたもの」
14:40-15:10 フィールド・ホーム・エデュケーションからの質疑(小國和子・飯嶋秀治・亀井伸孝)と応答
15:10-15:30 中休み
15:30-16:30 福元満治(ペシャワール会事務局長)「人災(戦乱)と天災(旱魃)の荒野・アフガニスタンで用水路を拓く—中村哲医師とNGOペシャワ
ール会の行動理念」
16:30-17:00 フィールド・ホーム・エデュケーションからの質疑(小國和子・飯嶋秀治・亀井伸孝)と応答
17:00-18:00 総合討論

【講演1】清水展(京都大学東南アジア研究所)「日本社会を外から見る、比較で考えるー中根千枝にオリジナリティと応答性をもたらしたもの」
中根千枝は、学術研究において、マスメディアにおいて、また財界や官界において、人類学者としてもっとも大きな影響を及ぼした一人である。氏の経歴と活動をたどり、人類学における応答の責任と可能性のひとつのあり方として考察したい。
氏の人類学者としての経歴の始まりは、1939年の初め、小学校6年生のときに、北京に移り住んだことであろう。すでに同地で弁護士(法律事務所経営者)として活躍していた父親に合流するため、家族で渡航した。そのまま日本高等女学校に入学し、北京で4年生まで過ごした経験と見聞が、人類学者となる素養を作った。
ある朝、起きてみると家の前にラクダがいて、遠く西域から来たと思うと、自分も行ってみたい、行けそうだと強く感じたという。いずれ中央アジアの研究をするためには、まず英語の勉強だと津田塾大に入学。同大学を卒業し、女子も受け入れことになった東大に転学。以後は、東大初の女性助教授・教授、研究所長となり、単著10冊(内英語3冊)を出版した。
学会での活躍以外に、文部省、外務省、大蔵省、農林省などの各種委員会委員や国際人類学民族学連合副会長(1973−1988)、その他の要職を歴任し、2001年に文化勲章を受賞した。国際協力事業団への助言と協力のほか、「協力隊を育てる会」の会長を長期(1986−1997)務めたことも応答責任の観点から重要な活動である。
一見すると、パワーエリートのように見える経歴ながら、氏自身は、その影響力とは裏腹に、常に政界・財界・官界とは距離をとり、興味深い異文化・他者として観察する視点から接していた。日本社会やパワーエリートに対するデタッチメントは、中国、インド、イギリス、イタリア、アメリカなどでの長期の滞在調査・研究をとおして培われた感性と文化相対主義(普遍主義の双子としての)の視点によると考える。

□ディスカッション
飯嶋 今からフィールド、ホーム、エデュケーションで小國さん、僕、亀井さんが質問します。もう一問一答で、1分ぐらいしか、時間がない感じです。

清水 申し訳ございません、遅れてきたうえに。

飯嶋 じゃあ小國さんのほうから。

小國 ありがとうございます。私、フィールドワークをしている中根千枝さんっていうのがイメージできなかったというか、執筆されたものや理論的な印象が強かったので、今回、できるだけ若い時代の彼女のフィールドでの話を知りたいってことで、いくつか探して読みました。そこで気づいたことがいくつかあって、その点に関して質問したいんですが。既に最後のところで清水さんがお答えくださった部分もあって、それはたとえばフィールドへのスタンスとか、フィールドの使いかたとか。なかでも、フィールドとの距離の取り方という見方で見た時に、中根さんはフィールドを通して日本を見ようっていう姿がすごく明確で、逆に言えばフィールド自体への距離感は結構あるようにも感じられたんですね。そこはどうだったのかなっていうのが一つ目の問いだったんです。それに関連して、清水さんのお話の一部最後のほうで、現地への応答という観点から見たときに「直接、無名の地域の人たちに対してっていう答えがあったわけではないけれど」っていう話があったんですが、その時代に、等身大のフィールドワークをしている過程では、いろいろな応答をしてきているっていう側面も、またあったのかなとも。60年代ぐらいの紀行文を読み返しますと、医者と間違えられて薬を配ったりしている話が書いてあって、なんだか急に身近に感じられたりして。ですので、中根先生は「タテ社会」のような、高名で大きな仕事がありすぎるがゆえに、あまり知られていない、見えていない現地への応答部分っていうのがもしあるのであれば、教えていただきたいです。

清水 詳しいことは良く分からないんですけど、彼女のフィールドワークっていうのは、僕らのフィールドワークと全然違って、まずアッサムに行くのが大変だった時代です。ポーターを使って、5、6人の男のポーターをつれて、こんなちっちゃい若い女性が、ポーターを探していくので、馬鹿にされてはいけないということで、その時初めてたばこを吸ったのだそうです。

小國 そのように書いてありました。

清水 本当は、たばこはそんなにうまいともなんとも思わなかったんだけれども、大の男を使うためにって。そういう意味では、村の中に入る前に、そこに行って生活するためにポーターが不可欠で、荷物を運ぶ、食べ物を運ぶ、コックさんもいるみたいな、大名旅行だったんじゃないかなと思います。最初に村に入る時はね。そういう調査では、フェース・トゥ・フェースの応答っていうことには、簡単にはならないんかもしれません。マリノフスキの有名な写真の、椅子に座ったお取り調べみたいなフィールドワークがありますよね。あれと、今の僕らがやるフィールドワークの中間くらいなんじゃないのかなっていう気がしています。ただ、若い女性として、村の女性達とは、割りと仲良くなったみたいです。今度、チャンスがあったらちゃんと聞いてみますね。

小國 要は、中根千枝さんが、フィールド(を見る、にとどまらず、むしろフィールド)から日本を見るっていうところが明確であるがゆえに、日本での発信力がすごくあったんだと感じました。われわれも含めて、今までのフィールドワーカーは、フィールドとの往還っていうのが、まず第一義的にくるがゆえに、日本で見るとすごい人類学が内向きな印象になってるものあるのかなっていうのが、今回、読み直した時に感じたことです。

清水 その指摘は、すごい面白くて重要ですね。彼女は、4年以上外国に行ってて、一度も日本に戻らず、一回もホームシックにならなかったそうです。4年以上過ぎても日本にはぜんぜん帰りたくなかったのだけれども、文科省から東文研を通じて帰国せよとの命令がきて、仕方なく帰国したのだそうです。どこにいても生活に問題はないし、知的に楽しいし、世界は驚きに満ちている、ということだったようです。そういう意味では夏目漱石がロンドンでうつ病になった体験とは、全然違うんですね。そのままだからずっと日本に帰らないで、諸国漫遊・武者修行ができたら、こんな幸せなことはないと思っていたみたいです。でも、税金使って給料払ってるんだから、それはないだろうって、文部省が気が付いて呼び戻されたわけです。公務員の海外出張が2年までというのは、中根さんのぶっ飛んだ事例があって、できた内規なんだそうです。

飯嶋 まずい例を作ったかもしれない(笑)。

清水 そうですね。

飯嶋 じゃあ、僕から。実はこの中根千枝論をやるっていう時に、山路(勝彦)先生に相談した時、山路先生からは近年のナショナリズムとか、日本的経営論を射程に入れるのかっていう質問が来たんです。それは中根千枝先生の、ある意味、負の遺産だろうという示唆だったと思うんですね。それは今日お話ししていただいた4番の話、最後のところにも関わってくるんだと思うんですけど、文化相対主義を逆手にとられた状況ですね。そこの前提のところ、聞きたいんですけど、僕はやっぱりホームでの活躍っていうんで、各種委員会、審議員の委員っていうのを、もうちょっと詳しく聞きたいっていうのがあって、つまり個別にはどっちが、こっち(人類学者側)からやったのか。それとも当て職的に、なんかでやらなくちゃいけなかったのかとか、いろいろあると思うんですよ。その場面で具体的に中根先生がやった活躍っていうのは、やっぱり文章に残ってないので。

清水 それは書かないですね。

飯嶋 何かご存知なことがあったら、一つでもエピソード的なことがあったらですね、教えていただけますか。

清水 財務省の財政制度審議会っていうのが、大蔵省の活動に関するお目付け役の、最高の諮問委員会みたいなのの委員をされていて、しかも会長もやったりしてるんですね。

飯嶋 なんでそうなったのでしょう。

清水 一つは頼まれるから。

飯嶋 じゃあ、向こう(行政側)から?

清水 そうです、全部向こうから。

飯嶋 なるほど。

清水 もう一つは、彼女は基本的には、世の中を少しでも良くしようと願っており、筋が通らない、変なのは変と言うんですけど、小うるさいことは言わない。だいたい官僚っていうのはみんな頭がいいから、一応いくつかのオプションを考えていて、結論もだいたい決まってるんだそうです。でも外部の有識、知識人からお墨付きを得るのが必要だから、私なんかを便利に使うのよねって、よく言ってました。その辺の割り切り方とか、自分が期待されている役割の演じ方をよく心得ているんですね。彼女は頭が柔らかいというか、相手の立場にたったときの考え方とか感じ方とかが、すんなりと分かるようなんです。若い頃から中国、インド、イギリス、イタリア、アメリカなどで長く暮らした生活感覚なんでしょうね。文化相対主義の立場といえるかもしれません。彼女自身は文化相対主義という言葉を使いませんけど。イギリス社会人類学ですから。

飯嶋 というところまで、割り切ってやってるんですか。

清水 そうですね、自身の役割と位置づけをすごく分かって、割り切っていますね。官僚相手に、官庁でも参与観察をしている、って感じですね。相手の考えていること、望んでいること、論理構成を、相手の立場になって理解しようとする姿勢があると思います。ほんとに大事なことで筋が通らなかったら、しっかり反対意見を言うけれども、たいしたことない案件ならば、こまかなことはゴチャゴチャ言わないんですね。
ただ、一方的なサービスだけでなくて、重要な審議会で文部省や財務省、外務省の上級官僚の局長クラスと顔見知りになり相手の要請や期待に応えていると、いざというときに、恩返しのように逆に助けてくれることが大事なんだそうです。外務省なんかも、各国の大使が日本に着任して、日本理解のために中根さんの本を読んできて、面白いからぜひ会いたい、食事に招待したいなんて外務省を通じて要望すると、中根さんはなるべく応えようとするんですね。合う意味で使い甲斐があるし使い勝手がいい,便利な知識人だったと言えるかもしれません。官僚も現金なところと、浪花節的なところが入り混じって、まあ、人間的なところがありますから。そんな助け合いみたいな関係が、いざというときに、役に立つんだそうです。たとえば、先ほど紹介した中曽根内閣のゼロシーリングのときに、12講座から16講座に拡充できたのなんか、文部省と財務省の両方に話の通じる高官がいたからできたことなんです。

飯嶋 ありがとうございます。

清水 使い勝手がいいのは例えば建設省の委員のときかな、大蔵の財政審議会の委員のときかな、青函トンネルの工事現場の視察に行ったときのエピソードです。工事現場の男たちは、女がトンネルに入ることをすごく嫌がるんですね、女が工事中のトンネル入る事故が起こるからと。中根さんは、その視察のためにわざわざ青森まで行ったんですけれども、現場監督が入り口で、「申し訳ない。ぜひここまでにしてください」って懇願するんですね。東京からアテンドで同行した官僚は、真っ青になって困るわけです。忙しい大先生をお連れして、無駄足を踏ませるわけですから。女性差別だとか言ってキーとなって、後で問題とすることもありだったのでしょうが、彼女は人類学者ですから,東は東、西は西、それぞれローカルな文化があるから「そうなの、なら仕方ないわね」って言って、けっして強行しないんですめ。それで、すんなり引き下がると、視察をアレンジした省庁の関係者は、すごく恩に感ずるようです。それが、巡り巡って返ってくることもある、という感じかな。そのための投資とか、そういうのではけっしてないんですけど。彼女が決して無理強いをしない、引くとこはあっさりと引くので、官僚の側としては使いやすかったんだと思います。

飯嶋 はい。では、亀井さん。

亀井 いろいろ聞きたいのですが、一つはそういう北京育ちみたいな来歴の中で、独特の視点の獲得をした。あるいは観察の仕方ですね。そういうのを具体的に教えていたのかとか、あるいは勧めていたり、期待していたのか、学生に対してですね。特に私が気になるのは、日本を相対化して自分をナショナリズムに結び付けずに見るのはいいんですけど、その逆。彼女は北京で日本軍政下あったわけですよね。日中戦争の最中で。当然、戦後民主主義の中では日本のコロニアリズムと一体化した、そういうことで、批判されうる、そういうポジションにあったと思うんです。そういう肯定ではないにせよ、それに対する植民地経験の記憶みたいなこととどう付き合っていったのか。その辺り、さっきのデタッチメントっていうのと、それをどう教えていたかっていうふうにクロスさせることは、教育者としてどうなのかなっていうのが関心の中心ですね。

清水 まず後のことからいくと、彼女はとても幸運だったと思いますね。今の日中関係から過去を考えると、間違った印象を持つんですけども、70年代80年代の日中関係はすごく良かったんです。というのは冷戦が終わるまで、中国にとっての最大の敵はソ連で、ソ連との関係が一番厳しいから、キッシンジャーが米中の和解を進めたり、田中角栄が日中国交回復をできたんですね。
中国の国内を見ると、1950年代の末の大躍進政策が大失敗に終わり、3千万人以上の餓死者を出しました。そのために毛沢東は一時失脚し、劉少奇ら後に走資派と呼ばれるグループが資本主義的なインセンティブを取り入れた経済政策を採用します。それに対して、毛沢東は、自身の復権を賭けて1960年代半ばからは反右派闘争を開始し、文化大革命をを発動します。それから10年あまり、中国国内は大混乱に陥るわけです。そして毛沢東と周恩来が死に、毛沢東夫人の紅青ら4人組が逮捕された1976年にやっと、大混乱が収まり始めます。文革のあいだ、大学は完全に機能停止し、入試も行われませんでした。国内の混乱がひどく、国内にこそ主要な敵がいるとされましたから、日本への批判はほとんどされませんでした。
なので日中国交回復がなされた1972年以降、70年代から80年代にかけは日中まさに日中の蜜月時代だったわけです。基本的な建前は、日中両国民は日本軍国主義の共通の被害者っていうことにされましたから。テレビドラマの「赤いシリーズ」の主演女優として山口百恵は熱狂的な人気を集め、高倉健は日中両国のヒーローでした。ソ連が主要な敵である以上、米帝も日本軍国主義も、それぞれの国内の一部の誤った考えと路線による逸脱であり、小異を捨てて大同につく方針のもとでは、大きな問題とされなかったのです。
確かに満州事変からアジア太平洋戦争のあいだに日本軍はひどい虐待虐殺を中国でしたのですけど、そのことがとりわけ強調され、学校で教えられるようになったのは、江沢民の時代の1990年代に入ってからです。1989年6月4日の天安門事件で、中国共産党が完全に支配の正当性と国民の支持を失ってしまったからなんです。北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民に対し、中国人民解放軍が武力弾圧を強行し、無差別発砲や戦車・装甲車での轢き殺しをなどしました。
人民解放軍が人民を虐殺したことで共産党の威信が一気に失われ、それを立て直すために、愛国教育のカリキュラムが重点導入されたのです。1995年に抗日戦争勝利50周年を祝うために、全国に抗日戦争記念館が建てられ、日本軍の侵略を中国共産党が大きな犠牲を払って撃退し、中国人民を解放した、という歴史が教えられるようになったのです。ちょうど、その頃、1994〜95年に、娘が北京大学付属中学に1年間通っていたので、私もそのカリキュラムのことは、割りと勉強しました。
ちょっと脱線しましたけど、中根さんが定年退職をしたのは、1987年ですから、日中の蜜月時代にいちばん生産的な知的活動と社会貢献をしましたし、費孝通やチベット学研究所の研究者らときわめて友好的な交流ができたわけです。そのせいもあると思いますし、ギアツの解釈学やターナーの象徴論にほとんど関心を示さなかったのと同様に、ポストコロニアル理論やポストコロニアル批判の問題系にも関心を示しませんでした。そして彼女の父親が軍人ではく、弁護士というシビリアンであったこと、そして戦況が悪化してくる前に、日本へ引き揚げたことで、中国人から直接に面と向かって糾弾されることはなかったと思います。彼女が住んだのは、日本人が集住する租界からはだいぶ離れて、父親の法律事務所で働くのも、中国人ばかりだったようですから、個人的な体験としては、罪悪感を抱くことはなかったと思います。
なので、中根さんは、ある意味で、とても幸運なめぐり合わせを生きてこられたと思います。1950年代に4年半も長く外国に出られたことから始まって。

亀井 時代が。逆に、知識人として使いやすくもあったという、左翼陣営からも距離を置いてって感じですね。本人は学生や読者に、どういう自分のまなざしを、どんな感じで進めるんですか。

清水 そうですね、彼女は、ぜんぜん右翼ではなくて、とてもリベラルだと思いますけど、リベラルの意味が、日本的な常識や知的惰性に絡め取られずに、ほんとに自由だ、という意味でですけど。ただ、彼女はやっぱりイギリスの経験主義にもとづく社会科学としての人類学の可能性を信じていますし、そこから何かを言おうという意識がとても強いですね。確かに彼女の経験は、当時の日本社会の常識からはかなりぶっ飛んでいますし、そのことが彼女を作ったのだと思います。けれども、彼女の特殊な個人的な経歴が中根千枝を作ったと言ったら、彼女は強い抵抗があると思います。人間的な感性や資質の部分ではそうかもしれませんけど、社会人類学のトレーニングを受けてしっかりその認識法と分析法を体得すれば、対象社会からデタッチして客観的に社会の全体構造を見られるし、分析理解できるんだと確信していると思います。そういう意味では、中根千枝の職人芸ではなくて、誰でもが学び修得できるディシプリンとして、社会人類学を考えています。その意味で、とてもプラクティカルな知性だと思います。人類学のトレーニングによって、自分のような人間を作れるというふうに、本当に信じてたんじゃないのかな。
いろんな官庁の官僚から頼まれていろんな委員会をやるんですけど「先生忙しくて大変じゃないですか。謝金だって少ないし」って言ったら「でも、こういうことをやっていると、いつか学生のためになって返ってくるのよね」って言うんですね。文部者のアジア諸国派遣留学生制度とかは、彼女がかなり頑張って作ったんですけど、それもLSEのレイモンド・ファースのゼミでフィールドワークの重要性を叩き込まれたからだと思います。これからのアジアとの友好のためには、現地に長く滞在して、言葉が分かって、現地の友人を作り、等身大で相手ができる研究者を作らなければならない、という強い使命感があったようです。。
それができるまでは、奨学金によって長期のフィールドワークや留学に出られる院生はほとんどいませんでした。例外は、アンデス考古学が、何年かごとに科研をとって、そのグループの一員として連れていってもらえるくらいでした。文部省のアジア諸国派遣留学生制度が70年代の前半にできてから、東大の文化人類学研究室からほぼ毎が一人は採用されて、私もそうですが、高い歩留まりで研究者になっています。その意味で、教育面でも、直接間接に大きな貢献と言うか、応答責任を果たしてこられたと思います。

飯嶋 では、とりあえずこれで第一部終わりにします。5分間だけ休憩にしましょう。

清水 申し訳ございません。遅れてきたうえに、だらだらしゃべって。話し出したら、つい、いろんなことが。

飯嶋 清水先生、ありがとうございました。

【講演2】福元満治(ペシャワール会事務局)「人災(戦乱)と天災(旱魃)の荒野・アフガニスタンで用水路を拓く―中村哲医師とNGOペシャワール会の行動理念」
昨年から、福岡県朝倉市へアフガニスタン政府関係者の訪問が相ついだ。農村開発大臣、大統領特別代行、水とエネルギー省副大臣。彼らの目的は、朝倉市にある水利施設の山田堰である。なぜ彼らは、江戸時代に完成した取水堰を訪問したのか。それが、アフガニスタンで活動を続ける中村哲医師の水資源確保事業の原点だからである。2000年に始まった大旱魃に対して、一NGOによる「アフガン緑の大地計画」は、アフガン東部で井戸を掘り、さらに農業用水路の建設によって1万5000ha(東京ドーム3000個分)の砂漠化した農地を回復させた。欧米軍の「反テロ戦争」によって荒廃したアフガニスタンにとって、必要なものはWARではなくWATERであることを認識せざるをえない事態なのである。一人の異教徒である日本人医師が、伝統的で頑固な異文化コミュニティーの中にあって、アフガン人ワーカーと共に可能とした事業について報告すると共に、それを支える日本側事務局についてもお話します。

□ディスカッション

清水 何年からですか、JICA(国際協力機構)とFAO(国連食料農業機関)が始まったのは?

福元 JICA(国際協力機構)とは5年前から共同事業をやっており、FAO(国連食料農業機関)とは正式に契約が決まったのは、今年(2016年)の8月からです。JICAとの共同事業は今回で第4次になります。財政的のこともありますけれど、現地に対しては一種のオーソリティが必要な場合があります。アフガニスタンには日本政府から多額の復興資金が出ています。一NGOだと現地の行政とのやり取りで面倒な局面が出てくることがあります。それと、今後アフガン全土でプロジェクトを展開するには、一NGOでは限界があります。やはり国家レベルの事業にならざるをえない。JICAとの共同事業はその布石と言えます。FAO(国連食料農業機関)とは、灌漑技術の研修・継承のための研修所建設で共同事業を行いますが、それもアフガン全土での今後の展開を考えて同様の意味があります。
以前は、私たちができるのは、アフガニスタン東部において灌漑システムのモデルを作り上げることまでだと考えていました。かつて砂漠化したり旱魃の影響で耕作不能に陥っていた地域16000ヘクタールに、私たちの現地事業体であるPMS(平和医療団・日本=総院長・中村哲)が灌漑用水路を建設して、緑に甦らせました。難民も帰還して60万人が生きる空間を確保することができています。この灌漑システムをモデルに、あとは国家レベルのプロジェクトを全土で展開して欲しいというのが、私たちの望んだことです。

私の事務局長としての役割というのは、ひとことで言うと現地と日本側の温度差の調整です。現地と日本では、イスラム教を奉じる頑固な伝統社会と、世俗化された情報過多の高度消費社会という違いだけでなく、いろんな局面で温度差があります。また現地は、治安が悪い。米軍の空爆だけでなく強盗や誘拐事件もある。
そういう現地の状況もありますが、現地の事業体PMSを構成するのはアフガン人で、職員が110人ほどに現場作業員が200人〜300人毎日働いている。彼らにとって灌漑事業は生業でもあるし、本来農民である彼らにとっては、用水路建設は、自分たちの生存空間を確保するための事業です。そこには、ボランティア意識など微塵もない。ところがそれを支える日本側ペシャワール会事務局員30人の大半はボランティアで、その8割は主婦層です。会員は13000人いますが、いわば平和な日本に暮らす普通の市民です。現地との温度差は、結論ではなく前提です。
ペシャワール会は本来医療チームですが、現在進めている主な事業は、旱魃が進行するなかでの灌漑事業です。ただ、日本を含めた欧米の「国際社会」には、アフガニスタンで大旱魃が進行しているという認識はありません。先進国のメディアが伝えるアフガニスタンのイメージは、イスラム原理主義の武装勢力が不毛の大地で反政府テロを行っているというようなものだと思います。日本側事務局は、国際社会だけでなく一般的な日本人がアフガニスタンに対してもつイメージを修正しながら協力を求め、財政的あるいは人的・事務的に現地を支えてゆく必要があります。私の仕事は、現地と日本のさまざまな温度差を可能な限り認識して、それを事務局内においても、対外的にも調整してゆくことだと思っています。

具体的な仕事としては事業についてのメディアと会員向けの広報活動です。現地活動の現状と支援の必要性を会員や支援者に伝えるための広報活動です。会員への広報=事業報告は年4回の会報で行いますが、マスメディアにはこの数カ月で、週刊文春で中村医師の紹介記事、毎日新聞では、加藤登紀子さんとの対談が出ました。それから、NHKのETV特集で、「武器ではなく命の水を 医師・中村哲とアフガニスタン」が放映されました。それから、もうすぐ雑誌『家の光』、今年の初めには、『暮しの手帖』や朝日新聞に出ています。雑誌『SIGHT』にも出ます。対談の形式で、安倍政権についても突っ込んだ話をしています。そういう広報の段取りや調整も私の役割です。それと中村医師の講演活動のマネージメントです。これも広報活動の一環です。
また独自のDVDも第3弾を企画しています。現地事業のドキュメンタリーです。総集編と、技術編という2部構成で、朗読を吉永小百合さんが、協力を申し出てくださいました。第1弾と第2弾では菅原文太さんが無償でナレーションや朗読をやってくださいました。
制作は、日本電波ニュース社というプロダクションです。実際、NHKのETV特集も現地取材しているのは、日本電波ニュース社です。ドキュメンタリーで辺境だとか、紛争地で危険度の高い地域の作品の現地取材は、独立プロやフリーのジャーナリストが撮影したものが多いですね。NHKにしても民放にしても、若いディレクターや記者は現地に行く意志があるんですけれども、上司が行かしてくれない場合があります。

飯嶋 フリーディスカッションの時間、長く取りたいので。じゃあ、一問一答でさっきと同じで、もう、やっちゃいましょう。じゃあ、小國さん、僕、亀井さんの順でやります。お願いします。

小國 ありがとうございました。とても一問一答ではできないぐらい、お聞きしたいことも教えていただきたいこともあるんですけど。実務的な部分は取りあえず全部後回しにするということで、中村さんについて1点ペシャワール会について1点、福元さんに1点、質問します。どれか一つに限っていただいても結構です。

福元 分かりました。できるだけ簡潔にお答えします。

小國 まず、福元さんご自身にお聞きしたいのは、今、最後のほうでだいぶお話されたんですが、編集者としてのお仕事で鍛えてこられた、その知見であるとか、言葉のセンスであるとか。その、職業的な専門性が、中村哲さんはじめとする現地事業を支える上で、生かされたって思われる具体的な点があれば、教えていただければ。
特に、広報活動がとっても大事という中で、どのタイミングで、あるいはどのくらいの時間軸で、何を見せて、何をどこで見せるのか、見せないのかみたいな所について、お答えいただきたい。これは福元さんへの質問です。
もう一つは、中村哲さんのことに関して、中村さん自身の信仰心っていうのがどう活動に関連付けられるのかと。たとえばモスクをつくられたり、ご自身はクリスチャンであったりというのと同時に、その思想は前面に出さないで、ペシャワール会をやっておられる。
何十年も前から、日本で国際協力NGOをやっている団体の中には、結構、信仰心があるところはそれを前面に出してやってるという印象があります。それをあえて一切出さないでやっている。逆に、そこになにか思想的なこだわりがあるならばお聞きしたい。
三点目に、ペシャワール会に関しては、先ほどからのお話の中で、よく福元さんが口にされた「土木の専門家」であるとか、その、いわゆる「専門」領域、「専門家」っていう言葉を、言ってみればかっこつけで使っておられるような気がして。
だとすれば、それに対してペシャワール会が、現地でずっと積み重ねてきた中での。たとえば「現場における専門性」とは何か、みたいなものを、もし問われたら何とお答えになるか教えてください。すみません、どれか1個だけでいいです。

福元 分かりました。できるだけお答えします。中村さんと関わるきっかけになったのは、私が編集者であるということが、一番だったと思います。私は1983年のペシャワール会結成の当初から関わっていたわけじゃなくて、発足3年目ぐらいから関わりました。それまでは、ペシャワール会のことは、新聞で知っていた程度です。パキスタン・ペシャワールのミッション病院に赴任してハンセン病を診るお医者さんがいて、車両を送らなきゃいけないから募金するというキャンペーンがあったんです。ただ、その記事を見て思ったのは、自分はそういう美しい話は苦手だなというのが、正直な感じでした。

清水 そういう考えね。

福元 そうです。そういうひねくれた人間で、あまのじゃくなんです。学生の頃は、いわゆる全共闘世代で、その時いろんな政治的な動きを見て、自分には性に合わないと思っていました。それでも深く関わった方です。その後、ひょんなことから水俣病闘争に関わることになり、石牟礼道子さんとか、今では、思想史家として知られる渡辺京二さんのそばにいたことが、私のその後の人生を決めたようなところはあります。
ただ水俣病闘争というのは、70年代の他の市民運動とはずいぶん異質でした。「怨」や「死民」の旗を掲げてチッソ本社を占拠していたように、近代的な市民の権利を追求する運動ではなく、水俣病患者や不知火海の漁民の言語化されなかった思いを表現しようとした運動でした。あえて言えば、近代によって抑圧された民衆の思いと水俣病の患者の位相をシンクロさせて、そこに何かを結像させようとした。実現不能な幻を追い求めたわけです。ですから、今でも近代的な市民運動というのは、何か肌に合わない。正直苦手なんです。だから水俣以来40年以上デモに出たことも市民運動に参加したこともありません。
それで、ペシャワール会のキャンペーンも市民運動的なものだと見ていたわけです。ところが、30年前、中村さんが西日本新聞に連載していたエッセイを読んだんです。赴任したペシャワールのミッション病院でのハンセン病診療の日々を綴ったエッセイですが、無駄のない硬質な文章で、「これは、市民運動とは異質だ」と、私の先入観が崩れた。そして自分の中で眠っていた血が騒いだと言うか、編集者としてもこの人の本は俺が出すべきだと思ったのです。あとで気づいたんですが、私は中村さんに嫉妬したんです。何に嫉妬したのかというと、現地の患者であるとか、難民に対する中村さんの関係の深さに嫉妬したんです。それから市民運動のことでいうと、ペシャワール会は、私の記憶の限りでは、デモだけでなく街頭行動ということを一切やったことはありません。運動ではなく、事業だと考えています。
それで、本を出したいと思ってペシャワール会に行ったんですが、矛盾する気持ちを抱えていました。それは、ペシャワール会には、運動としては関わるまいという気持ちと、中村さんとは、本を出版したら著者と編集者としての関係ではすまなくなるだろうな、という予感でした。そして、その予感はあたって30年たったわけです。
とりあえずペシャワール会の例会に出るようになり、1年間は、ただ礼状書きだけをしようと思ったんです。ところが会に通っていると、会報の作り方が非常に素人臭かったり、広報のための記者会見の段取りがまずかったりする。それで、私は出版社の人間でマスコミの知り合いも多いということで、自然広報の責任者みたいになっていったわけです。
それから、中村さんの信仰のことですけれども、中村さんはクリスチャンですが、信仰心を前面に出すことはないですね。講演やインタビューで「なぜそこまで、アフガンのためにできるのか。その持続する志を支えるものは何か?」と聞かれると、「いや、男だったら逃げるわけにはいかんでしょう」というふうな答えしか言わない人です。特に自分の内面については語らない。例えば「失われた20年と日本では言われますが、先生はどう思われますか」という講演での質問には、「そうですね、この20年で日本から義理と人情が失われましたね」て、そういうことを言う人です。
私と歳がひとつしか違わないですけれど、子供のころ親から論語の素読をたたきこまれたという、とても戦後の生まれとは思えないメンタリティの人です。私は仏教徒ですので、うちの会では特に宗教が語られることはありません。現地でも中村さんは、セレモニーの時などは、イスラム教徒と同じようにお祈りをしていますね。自然な感じです。
それで、現地の人に「ドクターは、異教徒なのになぜイスラムのためにそこまでやるんだ」と聞かれると、「あのヒンドゥークシュの山を見ろ。あの頂には聖なるものがある。その聖なる目標は、イスラム教徒であろうと、キリスト教徒だろうと、仏教徒だろうと一緒だろう。違うのはその登り口だけだ」と言うみたいです。例えがうまいですよね。

清水 プロテスタントですか。

福元 プロテスタントです。西南学院中学の時キリスト教の洗礼を受けたと聞いています。それで、会の結成初期の支援グループは、中村さんの母教会と、山登りをする人なので福岡の登山グループと九大の医学部の同級生の三つが母体になっていました。

伊藤 さっきの山の話って、実は仏教徒の説明の仕方なんです。それは、僕、キリスト教のクリスチャンホームに生まれたので。その、山の登り方の話って、どっちかっていうとキリスト教徒の話じゃなくて、仏教徒が説明するときの話です。詳しい話は端折りますけど。

福元 そうですか。それから、専門性の問題ですが、用水路をつくるときにアドバイスをもらったのは、二人の専門家です。九大の工学部の土木出身の研究者で私の友人で、彼とそのまた友人で九大の工学部を出て土木のコンサル会社にいた人から、中村さんにいろいろアドバイスを貰いました。その後蛇篭や農業土木の基礎資料を頂きました。唯それはアドバイス以上のものではなく、中村医師は独学で土木技術を学んだと思います。日本から現場に専門家が指導に来たことは1回もありません。
中村さんは九州の河川、筑後川とか、球磨川とかにある歴史的な灌漑に関する構造物を見て、そして専門書を読んで学びながら、現場で実践していった。基礎的なものから徐々に複雑な構造物になっていきました。それも近代的工法だけでなく、江戸時代に完成した伝統的な農業土木の技術を学んでいきました。良心的なお医者さんは、日本でも外国でもたくさんいると思いますが、用水路を設計して、重機を運転して、大規模な灌漑施設を建設する医者って、世界を見渡してもあまりいませんよね。
もちろん専門家は現地にもいます。外国留学組や大学出の専門家もいる。しかしそういう人は近代工法しか関心がない。現地は、伝統社会というか近代化過程にありますから、知識層は近代的なものに対する強い関心がある。逆に伝統的で古いものには関心を持たない。
中村さんは、日本の伝統的な灌漑工法を勉強して、現地の技術や材料を組み合わせて、現地にふさわしい工法を模索していきました。取水堰とか、蛇籠工とか、柳枝工とか、石出し水制や調整池とか、水門やサイホンにコンクリートや鉄筋も使ったけれど、ベースは伝統工法でやった。その原点は、福岡県朝倉市の山田堰です。200年以上前に古賀百工という庄屋さんが完成させた斜め堰です。現地事業の映像を見た日本の農業土木の専門家たちは、「これこそ、土木の原点だ」と評価してくれました。

飯嶋 僕は一点だけに絞ります。この、現地と、日本の温度差の調整役っていうのがすごく重要な仕事だと思ったんですが、例えばさっきのだと、中村さんが現地から「現地と日本には温度差がある」と言ってくる。日本側に伝えるときの、調整をやったって話だったんですけど。逆側とかってあるんですか、つまり、日本側の温度を向こう側に伝えるときの調整とかっていうので。

福元 そうですね。われわれの場合、現地事業の方向性については日本側ではあまり議論をしません。中村医師がやりたいことを、どう実現するかっていうことが会の基本です。そういう意味では、事務局が福岡にあることがいいんだと思います。九州人は、理屈を嫌うところがありますので。東京だと情報も多くて、優秀な人も論客もたくさんいるので、現地と日本の間で方針をめぐって議論が起こると思います。私は現地の方針に対して日本の受け止め方について、中村医師に伝えることはありますが、方針に反対することはほとんどありません。

飯嶋 調整ってやっぱり、中村さんのほうが熱くて、それと日本側との調整ですか。

福元 そうです。現地、現場の熱がある。旱魃だけでなく、洪水に襲われたり治安も悪い。緊張の度合いが違います。

飯嶋 分かりましたありがとうございます。じゃあ、亀井さん。

亀井 何人か、日本の若手の人を現地に送り込んでましたよね、そういうときに、もう、全く放任で送り込んでいくのか、それともある程度事前の研修なり、ちょっと働き加減の指導をして行ったり、つまり、現地で活躍する人たちに何か提示していってるかというのと、それから、これ、もう少し関わりの薄い人でもいいけど、例えば、中村さんなり、ご自身の公演会とかで、中学生と高校生とか、一般市民に講演で語りかけたりしますよね、で、もちろん、会の活動を公開することが非常に重要な役割を持つわけですが。
プラス、直接現地に行くわけではないけれども、日本の市民として、あるいは子どもたちに知っといてほしい。何を優先的に語りかけたいと思ってらっしゃるか。行く人たちの、必ずしも行かないまでも、広く浅く関わりを持つ日本の市民子どもたちに対して、どういったことを強く訴えてこられてきたかっていうのを教えてください。

福元 われわれはワーカーと言うんですけれども。海外青年協力隊みたいな形での、語学を含めた事前の研修は一切ないです。渡航前の心構えを話す程度です。一応試用期間というのは現地での3カ月間です。現地での滞在費用は、会が負担します。たまに外大を出てパシュトゥー語を知っている青年はいましたけれど、大半は、英語もそこそこで、行って現場で覚える。先に来た者が教える。数ヶ月で、現場での会話も不自由なくなる。

亀井 よく言えばそれでできるっていうことか。

福元 中村さんも「志望動機にはこだわることはない」と言います。志というか、あまりにも真剣に「貧しい人たちを救いたい」と考えつめる青年は、長続きしない。私は「志はあんまり高く持ちすぎちゃいかんよ。高下駄履くとこけるよ。無理せず、志は高いより、出来れば深い方が良いよ」と言うんです。考えつめると、現地の食べ物が食えなくなるんです。そういう青年もいました。少なかったですけれども。

亀井 面接で事前にご覧になったりして、たまにはお断りすることもある? 適性を・・・。

福元 基準は、ものすごくゆるいです。人柄だけの面接で、9割はOKでした。学歴や専門性が高くて、一流商社向きというか、印象でなんか無理だろうなというような人はいました。そういう人は、やはり行かないですね。
なかには、任期を終えた数年後に、「あのときはすいません、学歴詐称していました」って言うんです。で、「何、どうした」って言ったら、「あのときは、○○学院卒業と書いたんですけど、実は東大だったんです」と言う青年が一人ましたけど。こちらも「そうね」って言っただけです。

亀井 なんで下方修正して。高学歴だと落とされるかもしれないって、うわさになったりして。

福元 大体8割ぐらいは、大学出ています。あと、何人か高卒者や中退者がいました。それと、うちを退任した後、大学に入り直した者も何人かいます。医学部に行ったのが2人はいます。

亀井 講演会などで、伝えたいことは何ですか。

福元 もちろん中村さんのやっていることとアフガニスタンの現状を伝えるわけですが、私の知っているイスラムについても伝えたい。イスラム教徒は、世界に今16億とか17億いますが、日本人がイスラムに抱くのは、自爆テロのように血塗られたイメージです。でも、大半のイスラム教徒はそうではないんだよ。ほとんどのイスラム教徒は、普通の日本の青年だとかおじさんおばさんと変わらないんだよということを伝えたい。特に、私たちが活動するアフガニスタンという国は、2000年から始まる旱魃の前までは、国民の8割が農民で、穀物自給率が93%あった豊かな農業国でした。そのことを知ってほしい。
先ほど申し上げたように、文化には、それぞれ固有性があるんだと。自分の文化の物差しで優劣を測らないほうがいい。相手の文化は理解するのは難しいけれど理解できないまでも、尊重してほしい。文化というのはそれぞれローカルなもので、風土に根ざした不合理なものを含んでるんですよということは必ず言います。
それと日本政府は、アフガニスタンに民生支援を続けています。そのことが日本に対する信頼になっていますので、無理に自衛隊を出すことは必要ないしアフガン人も期待していないですよということを言います

亀井 ありがとうございました。

飯嶋  じゃあ、あと、15分ぐらいで、もし、この後、懇親会に行きますけど。そこに行けないっていう人がいたら、早めに言って。

伊藤 すいません、簡単な質問なんですけど。今の、そういう、尺度と一般の話で、すごく僕らのやってるような文化人学的な、そういう民主主義、近代的、人権的リクワイヤーっていうのは、そうだと思うんですけど。それで、さっきの、北欧のそういうのがすごく印象に残ってるんですけど。ただ、これがどのぐらいっていうのが、さっきの飯嶋さんとか、亀井さんの質問、たまたま今、スマホで中村哲さんのウィキペディアで、ウィキペディアありますよね、調べてたんですけど。
ウィキペディアで3行。日本語のウィキペディアじゃなくて、英語のウィキペディアを見ると、中村哲さんっていうのは何年に生まれて、それで、日本の医者なんだと。で、彼はラマ何とか賞っていうものをもらったんだっていうのと、パキスタンとアフガニスタンのボーダーランドで、すごく頑張ってると、3行しか書いてなくて。で、例えば、そういうふうなものが、例えばさっきの北欧の人が、そういったNPOか何か分かりませんけども。失敗しないようにというか、ちょっと失敗っていうか、損が起こらないように。だから、日本ではなくて、他の所にそういう理念とかっていうものを、伝えるみたいな感じっていうのは3行なので、ちょっと今。

清水 英語見なかった。

福元  質問にお答えすると、中村医師の本を英語で翻訳しようという企画は、今までもありました。しかし現地のスタッフにもいろいろ相談して、控えています。現地スタッフや中村医師のセキュリティの問題です。われわれの事業に大半の人は共感してくれると思うのですが、悪意を持つ人たちもいます。あるいは、政治的な意図でターゲットにしてくるグループもいる。紛争や混乱によってお金を稼ぐ人たちもいる。中村医師の活動を翻訳して「ぜひオバマ大統領に知らせるべきだ」とおっしゃる文化人の方もありました。しかしネット社会ですので、どこからタマが飛んでくるかわからない。今のところ敢えて英語では情報を出さないようにしています。

伊藤 極端に少ない。極端に何も書いてないんで、逆にびっくりっていう。

福元 ネットの存在を過小評価してるわけでもありません。現地と連絡するときに、やはりネットでなけりゃできないことがたくさんあります。昔は大変でした、連絡が。今は、中村医師の帰国中に用水路に問題が起こった場合でも、どうしたらいいかと、現地から写真が来る。中村医師がそれを受けて、指示できるんです。そういう意味でネットは、われわれも活用しています。
例えば、会報を季刊で3万部出していますが、ウェブマガジンにしたらどうかという人はよくいます。でも、やはり紙のほうがじっくり読めるんです。それに、家族・友人で回して読めます。中には、「ホームページをもっと充実すれば、会員は爆発的に増えるのに」って言われる方もありますが、ホームページを見て、会員になった人っていうのはごく少数です。ホームページを見る人たちは、興味はあるけれども深い関心はない。関わらないんです、見てるだけです。
新聞を読んだり、ドキュメンタリーを観たり、講演を聴いたりして、その上で、会報を読み、あるいは中村医師の著書を読む。そういう人が会員になっています。現在会員が13000人いて、支援者も5000人くらいいて、それで年間3億円ほどのお金が集まっています。世界的に見ると小さい規模ですが、宗教団体などのスポンサーなしでこの規模のNGOは、日本には他にないのではないかと思います。
ついでにNGOが存続するための、私が考える条件を三つ挙げますと。
一つは現地活動の実質があるということです。これを粉飾するNGOというのがあるんです。それから、二つ目は活動報告をきちんとすること。明暗含めて、失敗も報告する。三つ目は会計報告が明瞭であること。きちんと監査を入れる。
この3つのうちどれかひとつでもごまかすと潰れます。現に、過去、北九州と鹿児島の大きなNGOが、活動の粉飾や資金流用で潰れました。これはNGOに限らずあらゆる組織にいえるかもしれません。東芝だってそうで、粉飾するわけです。だから、組織というものは全部そうかもしれません。実体があって、報告がきちんとしいて、会計が明瞭であるというのは原則だと思います。

飯嶋 どうぞ。

木村 質問で、すごく感銘を受けました。良かったです。
中村さんの話は、ちゃんとまだ、受け止められてなくて話だけなんですけど、そうすると、きょう、応答の人類学っていう、枠組なんですけれども、本当の意味で、現地に応答しようとすると、中村さんみたいに新しい専門知識を付けていって、どんどん自分も変わっていくっていう意味で、応答をある意味超えしまっている感じもして。応答、むしろ福元さんのされていることのほうが人類学者のある意味、目標というか。目指すべき視点に近いというか、感じました。
こちらに基盤を置きながらも、でも、現地とうまく調整しながらお互いをうまく伝えてくっていうところが、やっぱり、人類学者の目指すべきだという、近いので、きょうはお話を伺ってすごく良かったと。僕はどうなれるんだろうかという。そんなことを考えました。

福元 いえ。

清水 ちょっとよろしいでしょうか。最後コメントというか。感想というか。木村くんが言った最後の問題、すごい重要で、じゃあ、ちょっと1分ぐらい。人類学者がこのままやっていけるのかっていうのは、僕自身が90年代に持った問題で。80年代の後半からペシャワール会の活動をしてる中村さんに、敬服していて。人類学の学会の中では、もう人類学終わったとか、人類学が植民地主義だとか、いろんなことを言われて。ポストコロニアルの時代になって、一番論客は太田義信さんで九大の同僚で、その代表作が『トランスポジションの思想』なんですけど。
『トランスポジション』読んでもよく分からなかったんです。片や一方、中村さんがまさにトランスポジションをして、変わってくっての。僕にとっては、91年のピナトゥボ火山の噴火と80年代からの中村さんと、あと。知的な人類学のポストコロニアル、太田さんをはじめ、その三つのせめぎ合いの中で自己形成してきたのが、今の応答の人類学って、この研究会なんです。そういう意味でも、すごい思うところいろいろあるんですけど。
一つだけ、あらためて思うのは、僕は最近言ってるのは、さっきの中根千枝さんも、さっきの文化相対主義から、すごい輝いてたと。だから、今のグローバル化の時代は、文化相対主義ではなくて差異よりも、共通性への着目が重要なんだってなことを言ってるんですけれども。そのとき、いっつも気になっている、後ろ弾が飛んでくんのは、一つは浜本充さんの、彼やはり人類学は差異の語り方を丁寧にやってくべきだと。人類皆兄弟みたいなことを言うのはばかだという。
あともう一つは、中村さんがやっていることが、まさに差異に着目して、異文化を理解して、現地現場のフィールドワークということなんです。そうすっと、もう一回初心に帰る必要があるのかなというのと、ちょっといつまでも答えが出ない問題ずっと抱え込んでいて。どうしたらいいでしょうか。

飯嶋 ていうのを、じゃあ、飲み会で話してください。

清水 どうも、すいません、今…。

飯嶋 そうですか、了解しました。

清水 全く同じ問題で、中村さん見てると、人類学者がいつも問われるんです。おまえが何をやってるのかという。偉そうに異文化理解みたいなことを言って、理解して何になるんだみたいなことまで言われたら、それを、ずっとのどに留まったとげのように。

亀井 なので、もし、それについて一言述べさせていただくと、やっぱり文化人類学が、文化相対主義をしきりに声高に叫ばざるをえなかった、コロニアルな状況と、似たような国際NGOによる圧迫っていうか、無理解に基づいた実践っていうのが、横行してる状況って、やっぱりそういう場では相対主義的な語りっていうのはときとしてとして、対抗言説として役に立つし、かと言って、先ほどの中根千枝さんの、うまく時代に乗って日本の文化を肯定することによって多くの人たちに喝采されたっていうのを、そのまんま自文化に適用することで、逆に言うと今度は、今、経済が少し低調な、中国に追い越されるみたいな、そういう中で、逆に、今、日本文化を称揚する相対主義によって、称揚することっていうのは、むしろ外国人は出てけみたいな、そういうレイシズムを招きよせちゃう。
それは、やはり置き場所に非常によってくるんではないかっていうのは私の考え方。だから、文化相対主義を、あらゆるところで同じように適用することが得策とは思えず。やっぱり、今こそ使うべきところ、効果が発揮できる場所と、今そこで強調すべきではない場面っていうのは、やっぱり状況にかなりよって来るんではないかなというふうに、受け止めています。なので、そこで異文化を丁寧に理解しようというのは、まさにコロニアルな状況だからこそ、そういうの効いてくるんじゃないかというふうに思いました。

清水 そうすると、かつての文化相対主義が力を持ったときと比べて、今は仮想敵が変わって、国際NGOあるいは援助機関、あるいは外国政府そのもの。

亀井 民主主義の普及を、声高に要求して、さもなくば、爆撃をっていうような状況が、まさにその。

福元 そうですね、2001年の9.11に対する報復爆撃で空爆が起こる前に、カーブルに5カ所の診療所を運営していたんですけれど。そのときに借りていたオフィスの家賃が250ドルでした。ところが、タリバン政権が崩壊して、2002年の春には、世界中からNGOと国連機関がどっと入ってきたんです。それから、マスメディアも入ってきた。そうしたら、250ドルの家賃が3000ドルに上がりました。
私たちは、現地スタッフに現地の相場で給料を払っています。ところがNGOとか、国連が入って来ると、それが3倍とか、5倍ぐらいに上がるんです。そうすると、一緒のインフレ状態になって、物価もどんと上がる。そうすると英語がぺらぺらで、外国経験のあるような知識層の人たちはそこで職を得ます。大半の富裕層は安全な外国に逃れていて、一種の不在家主です。隣のパキスタンやヨーロッパにいたりアメリカにいたりする。その人たちが家賃250ドルを3000ドルに上げてくる。外国で教育を受けて英語が堪能な人たちが、ジャーナリストのコーディネーターになったり、NGOのコーディネーターになったりする。その知識層・富裕層は貧困層のことには関心がない。で、そういう中で物価があがると、貧困層の人たちは、ますます貧しくなっていきます。それでNGOや外国人は来ないほうがいいということになる。先進国での評価と違い、現地ではNGOの評判は、良くてビジネス、ひどい場合は詐欺師だと思われてる。
私たちは、山岳部に病院をつくってきましたけれども、欧米先進国の人たちは、都市部につくることが多い。都市部につくらないとマスメディアのスポットが当たらない。それが当たらないと存在しないのと一緒である。そうするとお金が集まらないと。ところが、中村医師は「みんなが行く所には誰かが行くから行かんでもよか」と言います。誰も行かない所にこそニーズがあるから行くと。要するにあまのじゃくです。みんなが行く所には行かない。行かない所には行くと。
国際社会の流れを見て学んだのは、多くの人たちが、同じことを言い始めたときには、ほとんどそれは虚構であるということです。皆が同じことを言い始めたら、そこには真実はない。みんなが同じことを言い始めるときは、ほとんどフィクションだと考えた方が良い。だから、本流には真実がないというのが、私が体験から学んだことです。

*今回のディスカッションは諸般の事情で大幅に遅れました。お詫びいたします(庶務・第29回世話人飯嶋秀治)。

【報告】「応答の人類学」第28回研究会+科研第3回研究会「Teaching Anthropologyの挑戦:調査と教育と社会の結節点を探る」を開催しました
日時:2016年7月16日(土)14時00分〜
場所:京都大学人文科学研究所 4階大会議室

参加人数:約30人

<趣旨>
大学における文化人類学教育のあり方を探ることは、文化人類学に携わる私たちひとりひとりにとっての大きな関心事であるだけでなく、この分野の将来のあり方を左右する重要な営みでもある。また、「教える」ことを通じて、文化人類学そのものを捉え直し、学生たちの価値観について理解を深め、かつ、社会とのつながり方を確かめる側面もあるだろう。「教える」こととは、すぐれて自他の理解を誘う試みでもある。
スマートフォンが普及し、瞬時にウェブ上の有用な情報が無限に手に入るこの時代にあって、学生たちとともにいかなる文化人類学教育を実践していくか。その目指すところと具体的な方策はいかなるものであり、何が見えてきて、それらが学生と教員、社会をいかにつなぐ営みとなりうるか。
各大学における具体的な実践事例を通じて、その理念と方法、その効果を検討しつつ、あわせて社会との結節点を探るためのシンポジウムを開催する。

【日時】2016年7月16日(土) 14:00開演(13:30開場)、17:30終了予定
【会場】京都大学・人文科学研究所4階大会議室地図詳細:構内キャンパス38番
【プログラム】
趣旨説明 亀井伸孝(愛知県立大学/准教授)
研究発表 亀井伸孝
南出和余(桃山学院大学/准教授)
飯嶋秀治(九州大学/准教授)
シディクル・ラフマン(バングラデシュ・ジャハンギルノゴル大学/准教授)
コメント 橋本和也(京都文教大学/教授)
大西秀之(同志社女子大学/教授)
質疑応答
【発表者・タイトル・要旨】
亀井伸孝
「学生とともに行う「旅の写真展」の実践報告:ウェブ全盛の時代にモノと情報との付き合い方を学ぶ」
愛知県立大学国際関係学科は、2009年に設置された比較的新しい学科である。本学科では、その特色作りの一環として、学生たちが世界各地で撮影してきた写真を活用した「旅の写真展」を毎年開催している。その主たる目的は、知識や情報がもたらされるのを待っている立場に甘んじるのではなく、情報を自らフィールドで収集して社会に対し提示していく表現者の側に移行することを奨励するというものである。すでに6回を数えた開催実績の中で蓄積されたノウハウを提示するとともに、その中から見えてきた課題についても検討する。とくに、スマートフォンで簡単に情報の収集と発信ができるというウェブ、SNS全盛の時代における情報リテラシーのあり方や、表現行為の手軽さが生む責任の希薄化などに焦点を当て、あえてこの時代に、スキルの選択肢として、モノと情報との付き合い方を学ぶための教育のあり方を展望する。

南出和余
「映像制作を介したコミュニケーション:映像人類学教育実践」
デジタルカメラの普及とインターネット上での動画の共有によって、映像は、特定の制作者による情報発信かつ表現手段から、広く一般に開かれたコミュニケーション手段となった。現在の学生たちは、日々誰が作ったのか分からない動画からの情報を得、また自らの幼少期をホームビデオ映像に観ることも少なくない。一方、人類学者もまた、フィールドノート的に記録媒体として映像を用いる者もいれば、論文と同様に映像で研究発表を行う映像人類学実践も普及しつつある。本発表では、この映像人類学実践を教育の場に応用した事例を紹介する。発表者は、2010年から桃山学院大学国際教養学部において映像制作教育を行い、学生たちに約15分間のドキュメンタリー系の映像作品を作らせている。5年間で60本の作品が学生たちによって制作された。対象と直に接して撮影しなければ素材は存在しえないという現実から、映像制作には、デジタル時代にありながらもきわめてアナログ的コミュニケーションを要し、人類学的フィールドワークの要素が不可欠である。そのことからも、学生たちの映像作品からは、大学生たちがどのような関心のなかで生きていて、社会とどう向き合おうとしてるかを垣間見ることができる。

飯嶋秀治
「コンタクトゾーンとしてのエデュケーション:罹災半世紀後での民族誌媒介行為」
人類学の「エデュケーション」を考えるとき、教育人類学(Anthropology of Education)とは別に人類学教授(Teaching of Anthropology)の歴史があったことを思い出そう。一方で学習が、他方で教授があって、エデュケアー(教・育)は成立する。本発表では主に、九州の諸罹災地を学生たちと共に「文化人類学演習」として巡ろうとしていた際、結果的に同一の村落で文化人類学演習の8年間を過ごすことになった経緯をお話しする。それは今日、當眞千賀子の言う「形成的フィールドワーク」になっていったが、そこではフィールドの村人たち、ホームの学生たち、両者を橋渡しする教員たちの三者が交互に応答することで、民族誌を媒介としたエデュケアーな関係が構築されてきた。こうした経験を振り返り、足元のエデュケーションのなかに織り込まれたコンタクトゾーンを考察し、「エデュケーション」における応答の人類学の幾つかの論点について考察する

シディクル・ラフマン
「バングラデシュの人類学教育事情」

【共催】
日本学術振興会科学研究費助成事業 (科学研究費補助金基盤研究(A))「応答の人類学」
日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」
「大学教育とフィールドワーク」研究会(2015年度公益信託澁澤民族学振興基金民族学振興プロジェクト)

京都人類学研究会Facebook
「大学教育とフィールドワーク」研究会(2015年度公益信託澁澤民族学振興基金民族学振興プロジェクト)

*京都人類学研究会との共催のため、ディスカッション公開せず。

【報告】「応答の人類学」第27回研究会「人類学教育と応答性(2): 人類学者の再生産モデルを超えて」を開催しました。
日本文化人類学会第50回研究大会の同一会場で「応答の人類学」に関連する個人発表が連続して行われました。共通テーマは「人類学教育と応答性(2): 人類学者の再生産モデルを超えて」です。
日時:2016年5月29日(日)(研究大会の第2日目)16:10-17:20
場所:南山大学名古屋キャンパス
〒466−8673 名古屋市昭和区山里町18
参加者数:約35人

E会場(S-48)16:10-17:20
共通テーマ「人類学教育と応答性(2): 人類学者の再生産モデルを超えて」
座長:伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)
・16:10-16:30 森正美(京都文教大学)
「人類学の全体性と横断性を活かす: 地域における実践活動から」
・16:35-16:55 亀井伸孝(愛知県立大学)
「学生たちの潜在能力を活用するフィールドワーク教育: 愛知県立大学国際関係学科「旅の写真展」の実践報告」
・17:00-17:20 飯嶋秀治(九州大学)
「ポスト罹災地での文化人類学演習: エデュケーションにおける応答の人類学」

ディスカッション
伊藤:それでは、時間になりましたので次の発表に移ります。ちょっとイレギュラーな感じもするんですが、お時間をいただきたいとおもいます。今から、森さん、亀井さん、飯嶋さんという順番で連続して発表いただきますが、これらは実は共通のテーマを持っています。去年の大阪での文化人類学会で、伊藤が代表をつとめた「人類学教育と応答性」という分科会がありましたが、いまから続く連続性を持った複数の発表は、去年の続編的な位置づけになります。要するに、こうして伊藤がお話をしているのは、ご厚意で座長にしていただいて、その続編的な機会をもつことになったためです。
2012年から続いている課題研究懇談会の1つである「応答の人類学」、さらに2014年には、学会の一般シンポジウムで、フィールドワーク教育について「大学で学ぶ文化人類学」という興味深いイベントがなされました。(両方とも代表が亀井さんです。)それらを引き継ぐ形でということで、昨年、「人類学教育と応答性──人類学者の再生産モデルを超えて」というタイトルの分科会を伊藤がおこないました。基本的に、去年の分科会趣旨が今日のテーマにつながっています。
1つめの趣旨は、フィールドワークやエスノグラフィ、文化的な価値の相対性や多(他)文化への感受性など、人類学というディシプリンが持っている良質の部分というものを、どのように創意工夫しながら大学(大学に限らないわけですけれども)での学生教育に活かしていくのか。これが1つの趣旨でありました。
2つめの趣旨は、次のようなものです。(職業的)人類学者は(日本ではほとんどが)大学教員だと思います。人類学者イコール大学教員です。多くの大学では人類学者を再生産していくというのではない、違った形の教育をしています。人類学者(=大学教員)の輩出でなく、社会一般に対して、どのような人材を育成し、送り出していくことが「人類学の応答性でありうるのか」という問いとけが2つめの趣旨になります。大学が社会的な責任や社会貢献などを求められているという背景も関係してくるかとおもいます。
そこから派生して更なる問いは、応答性に鑑みた人類学の可変・拡張可能性です。時代の変化・社会の変化に対応して、人類学の教育、ひいては、人類学という学じたいの枠組みやカタチは、どのようなものになりうるのか?という問いです。
さらに、昨年の分科会でも議論になったのは、フィールドワークと言っても、もう人類学者の専売特許ではなく、何を持って「人類学なのか」ということじたいも問われているということでした。
一方で、人類学を一般教養レベルで学部生に教えたり、ゼミで学部生を指導したりしますが、現状認識として、圧倒的多数が学者になるわけではなく民間企業などに就職していきます。他方で、我々人類学者(=大学教員)は、「人類学者の再生産モデル」(人類学専門の研究者を育てて輩出する教育モデル)で訓育を受けてきています。
人類学の再生産モデルであれば、徒弟制度のように、自分の背中を見せることがそのまま教育になるわけです。しかし、学部教育で、学者にならない人材を育成して社会に送り出すというのは再生産モデルとは全く違うわけです。人類学者としての自分の背中を見せることが、そのまま教育にはなりません。このあたりの乖離をどのように考えるか。そうした乖離を直視しつつ人類学の教育の議論を深める必要があります。このあたりの議論が去年の分科会の趣旨ですが、その趣旨が今回の発表群にも緩くつながっているといますので、最初に説明をさせていただきました。

*森・亀井・飯嶋各氏の発表
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2016/0/2016_E17/_pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2016/0/2016_E18/_pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2016/0/2016_E19/_pdf

伊藤:それでは、冒頭でアナウンスをしたように質疑応答の時間としたいと思います。
まず「応答の人類学」あるいは、先ほど亀井さんが紹介してくださった澁澤のフィールドワークのプロジェクトなどでもご一緒されている徳島大学の内藤さんと、それから、京都文教大の松田先生にお願いしたいと思います。マイクをいただけますか。それでは内藤さんのほうから個別のコメントをいただきたいというふうに思います。
内藤:ありがとうございます。徳島大学の内藤です。私はたまたま地方国立大学に着任しました。いわゆるリベラルアーツ系の学部です。ですから最初の亀井さんのご発表にあった「ぼんやりしている」度合いが強い学部でたまたま人類学を教えている次第です。100人程度の学部スタッフの中で人類学を教えているのは2人という状況で教育をしています。また、これも最初のご発表にもあったように、大学改革の流れのなかで「教育のスリム化」が進められた結果からか、人類学という名前を冠した専門科目ではなく「フィールドワーク入門」などの共通教育科目や「社会調査実習」などのアクティブラーニング系の授業を担当しています。全体としては社会調査士養成プログラムの中で、かろうじて人類学的なフィールドワークに関する理論や方法論を教えている感じです。そういう環境の中でなんとか「人類学的なもの」を教えようとしております。
私自身はそのような感じでやってきましたが、本日はフィールドワーク教育における「成果」の発表という点に関して思ったことをそれぞれの方に質問させていただこうと思います。最初の森先生のご発表の宇治茶プロジェクトは非常に面白くて、「地元学」というふうに言われて、いろんな所でやられていると思います。こうしたプロジェクトは学生にいろんな発見をもたらすでしょうし、実際の地域づくりに関わるプロセスで学生が責任を持たないといけないでしょうからいい機会だと思います。他方で、ご自身でもおっしゃっていましたが、すでに発見・解釈されたものを再生産してしまうような「危うさ」もあるということです。つまりある地域で地元学的なプロジェクトを継続する場合、次年度以降の学生たちに「発見」をもたらさなくなるような危うさもあると思います。こういうプロジェクトを継続していく場合、いったいどのようにしたら、プロジェクトで作成した副読本を、地域に対する新たな「発見」をもたらす仕組みとして翌年度以降のプロジェクトで使ったり、バージョンアップしたりできるのだろうかということです。
いま多くの大学でフィールドワーク教育をやりなさい、PBLをやりなさいと言われていると思います。そんな中で人類学だけではなくて社会学とか地理学をはじめとする様々な分野の先生たちがフィールドワーク教育を実践しています。私が気になるのはそれらの多様なフィールドワーク教育のやり方と比べた場合の、人類学的なフィールドワーク教育特徴です。文科省や大学本部に言われるからしょうがなくやるかもしれませんが、他でもない人類学者がフィールドワーク教育をする時にどういうことができるのでしょうか。そういうことを考えることを通じて人類学の得意なこと、「人類学らしさ」というのは何か考える機会になったらいいと思って関心を持っていました。
もう1つ、亀井さんのプロジェクトでは学生がいろんな内容を発信しているんですが、海外旅行で撮影した写真を展覧会というかたちで「発信」するということは分かったのですが、発信の仕方、つまり、ある種の「遊び」を「学び」に変える取り組みだというふうにおっしゃっていたと思うんですけど、「学び」に変えるとはどういうことなのでしょうか?特に人類学のコンテクストでいうところの「学び」に変わるというのはどういうことなのでしょうか?また、「学び」への転換に向けた教員による介入の仕方ですね。これは人類学的な意味で面白いことなんですよ、というある種のものの見方の転換がなされているんだと思うんですけど、具体的にどういうことなのであろうかということが少し疑問に思いました。
最後に飯嶋さんが、息の長い取り組みの中でどういったな介入をしながらご自身もいろんな発見をしつつプロジェクトをどう展開してきたのかという点に関するご報告が非常に面白くて、本日の趣旨にぴったりだと思います。が、フィールドワークとかPBLとかアクティブラーニングってある種マジックワード的に使われていると思います。今回はご自身が実践されてきたプロセスについてご説明いただいたんですけれども、他分野と差異化するというか、特に差異化をしなくてもいいのかもしれませんが、他分野の先生方と同じ名前の授業を持たれたとして、人類学者がプロジェクトを回す際のポイントというか視点の特徴について少しご説明していただければいいかなと思いました。
伊藤:ありがとうございます。まずはコメントを内藤さんからいただきました。これに関してはお二人続けてやったほうが答えやすいですよね。では、松田凡先生、よろしくお願いします。
松田:京都文教大学の松田と申します。私の大学の状況は先ほど森さんのほうから説明していただきました。でも、お三方の話を伺っていると、私も十数年エチオピアへ学生を連れて行っていたんですけど、もう懲りて最近はやっていません。けれども、先生方のお話があまりに面白くて豊かで本当に面白そうなので、また悪い虫がうずきそうな感じを受けております。ちょっと怖いですが。私はお三方の話、個々の方がたへの質問もたくさんあるんですけど、ここではまとめて考えを述べさせていただきます。実践事例の報告という部分も含めてしていただいたんですけれども、この集まり自体もこの学会で2回目ということで伊藤さんもおっしゃいました。今後、ここでワンステップ研究のレベルを上げていくには何が必要なのかということをぜひお考えいただきたいと思いました。あるいは、現在はまだまだ実践事例をたくさん集めていくことが大事なのか、そういう段階なのかとそういう言い方もあるかとは思います。あるいは、こういう教育という分野には安易な理論化とかモデル化が馴染まないんだという、人類学などはわりとそういう主張をしてきたと思うんですけど、そういうふうに言うのか。しかし、戦略的に考える必要があるんじゃないかなと思っています。私が人類学のフィールドワーク教育が議論化されるということに期待するのは、その先に学生に対する評価の手法とか基準とかそういった問題がまだまだ解決されていないものとしてあるということであります。
こういう教育によっていったいどんな力が学生に身につくのか。教員はそれをどんな方法で評価するのか。カリキュラム内でやる以上はそういうことは必要でしょうし、一部カリキュラム外でやってらっしゃる先生の例もありましたけれども、やはり私どもの大学でも20年間どっちかというとそれを曖昧にしてきたかなというふうに今思っています。伊藤さんが最初に「人類学者の再生産モデルを超えて」ということをおっしゃいました。つまり、人類学研究者にならない学部学生に対する教育ということを考えるのであれば、そこにおいてどうそれを評価するのかということを考えていく必要があるんじゃないか。それならおまえがやれというふうに言われそうなんですけど、自戒を込めてもしご意見がありましたら今日の方々にご意見を聞かせていただきたいと思います。以上です。
伊藤:ありがとうございました。内藤さん・松田先生のお二人からコメントと質問をいただいたので、それでは、森さんのほうから回答をよろしくお願いいたします。
森:この場で大丈夫ですか。
伊藤:はい、大丈夫です。
森:2人の先生の発表を聞いて、私はやっぱりアウェイだったのでちょっとバクッとした話だったなと思ったんですけれども、それにもかかわらず内藤さんが宇治茶のいいところを拾っていただいて質問をしていただいてありがとうございます。これは実は7年続いているプロジェクトで、一時は授業とも接続をしていました。今は完全に課外的な活動になっているんですけれども、ご質問はこういった活動が継続していくときに伴う危うさとか、あるいは、そこで与えられる「宇治茶」という例えば1つの地域文化と考えたときに、そういうものがある種固定化して繰り返されて単なる再生産に終わってしまうんじゃないかというところだったと思います。今日あまり話ができなかったんですけれども、私自身がフィールドワークで面白いなと思っていることは、飯嶋先生の話の中にも個人調査と共同調査の両方を研究してほしいんだという話があったんですけれども、その両方をできることだと思っているんです。つまり、人類学って非常に個人の実践に注目して、一言でいえば本当に目の前のただ1人の人から何かすごく大きなことを学ぶという、さっきショックという言葉がありましたけれども、いい意味での衝撃がある。ただ、何に衝撃を受けるのかというのは一般論で語ってしまうと平均化されてしまうんだけれども、実は一人一人の学生とかを見ていくと、非常に個人の今まで抱えてきた人生、さっき学生のファミリーバックグラウンドを調べたら面白いなと思ったんですが、そういうふうに個人の実践がそういった企画とか、一言でいうと、あなたがやりたいと思うこと、あなたが面白いと思うことは何?という問いを自然に発することができ、そのベースの中で企画を考えることができるっていうところかなと思うんです。どうしても企画を考える、実は、この「宇治☆茶レンジャー」って業界を巻き込んだスタンプラリー、最初はまったくお金がなくて私の研究費とかを使って、全部スタッフが着るTシャツも手作りでハンコで押してとかで作ったんですけど、今外部の助成金が200万円ぐらいもらえて、1万人とか人が来るすごいイベントに育っているんです。なので、そういう大きなことがしたいという学生が入ってくる部分も若干あるんですけど、でも、ほとんどの学生は地域に出て勉強したいし何かやってみたい。でも、何をしたらいいか分からないという子たちなので、あまり責任にとらわれすぎたり先輩がやったことを繰り返すんじゃなくて、何も知らないあなたが勉強して何が面白いと思うの?っていう問いを、そして、大事なのはなぜ面白いと思うの?っていうことを言葉にしようか、形にしようかっていう、さっきの亀井さんの話で言うと、発信する意識に発見を転換していくということができるということが可能性かなと思っていて、私自身はこのプロジェクトにアドバイザーとして伴走しながら、それがすごく人類学的な可能性の実践なんじゃないかなと思っています。いいですか。
伊藤:ありがとうございます。
亀井:では、亀井からご質問にお答えします。ありがとうございました。まず、写真展、学生が遊びであれなんであれ撮ってきた写真をいかに学び、どのような学びにつなげるかというときに、必ず展示にあたってはタイトルをつける、何年何月、どこどこに行って、誰々が撮影というふうに、よく論文で写真などを掲載する時に必ず撮影した時期と場所と撮影者を明示するという引用スタイルがあります。それを徹底します。つまり「なんとなく写真きれいだね」ではデータにならないと。タイトル、何年何月、どこへ行って、誰が撮影ということで著作権者も明示する形できちんと情報を添えることによって有用な学術的なデータにもなるんだと。しかし、情報がなければ、これはただの画像にすぎないと。だから、それはしっかりやりましょうということをかなり強調しています。それから、先ほども述べましたけれども、なんとなく漫然と撮るのではなくて誰かに後でしっかり見てもらおう、どんな人に見られるか分からない、いい写真を撮ろうという姿勢を持って行ってらっしゃいということで、例えば、1回だけじゃなくて複数枚撮りためておいて、良い物を1個厳選するみたいな形でいいものを撮ると、後で人が見て満足してもらえるよという形でアドバイスをすると、そういったことを覚えておくと、実際その写真展をやって終わるので、レポート作成をそのまま義務づけたりするわけではないのですが、いずれ卒論で調査に行こうというときにそういう姿勢を持っておくことで研究に転用できるだろうということで、課外活動であまりガミガミ言って学生の意欲を減退させてもいけないので、原則は押さえてあとは自由にやってらっしゃいということを言っています。
松田さんからのご質問で評価の仕方ですが、基本、課外活動なので原則評価しませんし、一部授業に取り入れましたが、写真の中身について善し悪しは評価しておりません。学生たちの中には人気投票してコンテストにして優勝とか入賞を決めたいねなんていう人もいるんですが、それはまだ導入していなくて、なぜかというと、それによって「自信がないから私やめておく」みたいに学生が萎縮してしまうといけないので、一応今のところは出したい人は誰でも堂々と出しなさいということでやっていて、授業の一部に組み込んだ時はあくまでも参加態度、きちんと出席して作業を円滑にやって、それから、他の人に助言をしてという授業参加態度を評価対象としました。お答えしました。
飯嶋:僕なりに答えさせていただきます。ありがとうございました。私は内藤さんに対して、最初から人類学の特徴ということはあまり考えないです。フィールドで必要適宜なことをやるみたいな。こういう所ではそうだろうと思うんです。逆に、私はこの実習の前はハンセン病の施設に行っていたんですけど、そこでは、当時、社会調査士の話があったので単位に認定させてくれといって、当初はそれをOKしていたんですけど、そうしたら何が起こったかというと、ハンセン病の方たちが切々と語っている中で要するに資格目的で来た学生が、切々と涙を流しながら語っている方の目の前で寝ちゃったりするときがあるんです。それは、ここにも(寝ている方が)いますけど、まあまあいいんですけど、そういうことがあるとマズイので、逆に自主的な動機でやっているという。さっき見て分かったと思うんですけど、人類学といっても同じ文化人類学の連中の中でも結構多様性があって、いきなりそこの所にいけないところでもあるっていう実情です。
松田先生のほうでは、僕は亀井先生とは対照的で逆に面白かったと思うんですけど、オープンにあまりしないっていう方向でやっているんです。信頼がある所に関わっていく。その時には何かっていったら、学生とか修士はそれを評価の論文にできるかどうかというところが難しいところで、要するに逆にいうと、業績目的で来られちゃうとこういうところが難しくなっちゃうんです。なので、僕の場合はここは元来2人の教員でやっていた時は4単位だったんですけど1年間、僕は8単位にして、純粋にこれをやっただけでほぼ全員にAを出すという。それを内的な動機にしてもらっています。僕はこれを何かで公表することがあるとしたら、現地の課題がある程度解決された後だと僕は思っているんです。それまでは僕は積極的にやる気はないし、水俣の人はものすごくシビアですから、こういうのが出回っていたら「あいつの業績に水俣で名前をあげたな」と言う方もいます。そういう場所だっていうことでやらなくちゃいけない作業っていうのはあるとは思います。
伊藤:ありがとうございます。3人の、ちょっとイレギュラーですけれども、コメントをいただいてということで3人の方にお答えいただいたわけですけれども、いろいろ出てきたと思います。介入の仕方、評価の話、それから、他分野との差異化みたいな話とかいろいろ出てきました。時間が超過しているんですが、幸いなことに、この会場はこの何もないということを利用させていただいて、フロアからコメント、質問をいただきたいとおもいます。
フロアA:森さんとは数年前、地域連携でやったんですけど、私はまた別のことに舵を切ってしまって。
森:宇宙(研究)に舵を切っちゃった。
フロアA:いやそっちじゃない。飯嶋さんを含めてちょっと気になったのが、エデュケーションの応答があったときに、ここまでの議論というのは調査地というか現地と大学との関係なんですが、問題なのはエデュケーションの応答といった場合に実は学生なんですよね、問題なのは。私が舵を切ったほうは調査じゃなくてカメラを持ってとにかくフォト・エスノグラフィーで撮ってこいと、ランダムに。要は、問いかけは、君たちはどういうふうに世界を見ているかという問いかけなんです。とにかく留学生も多いものですから、フランス人に行かせると本当にエキゾチックジャパンを撮ってくると。だから、そもそもあなたたちはどういう目で見ているのかということで、気づいて怖かったのが、実はこれは箱庭療法とか心理学のカウンセリングで学生個人の単なる親の職業じゃなくてさまざまな心理的なことに入り込んでいっちゃうんです。でも、考えてみたら、実はフィールドワークといったときに、どうしてもわれわれは人類学者ですからフィールド調査地との関係なんですが、学生に対する協力という点で考えると、学生に対してどこまで入り込んでいくか。ちょっときつい言い方をすると、現地と学生の上に君臨する人類学者のような構図が見えてしまって、これはこれでよろしくないんじゃないかという気がしまして、調査地と関係なく学生との関係の中でどういう応答があったのかという点はどうだったのかということをお聞きしたいです。
飯嶋:それは本当に悩んでいるところなんです。悩んでいるところというのは結局これはいつ終わりになるか分からないという状況でスタートしていて、報告書を返した段階で向こうが「もう来るな」と言われたら終わりの調査なんです。だから、毎回毎回考えて大丈夫だな、大丈夫だなっていうふうにして確かめながらやっているので、しかも、こういう形で入っていくというのは結局、僕らくらいなんです。なので、逆にいうと、リサーチのところに入ったときにどういう所で他の人はどういうやっているんだろうというのを正直学びたいんだけど、よく分からないっていうのが水俣に関してはあって、僕はそういうふうな印象を受けられているのはもっともだと思うし、これからも工夫の余地があって。僕もともとはこのフィールドワークを始めたのは、九大に就職したので九州のリサーチのフィールドワークを全部やりたかったんです。そのうちの1個で入ったら、たまたま1年では抜けられないという感じになったので、それで付き合い続けているところもあるんです。学生たちにはまぁ興味深い形で楽しめるようなオプションを徐々に徐々に付け加えて、僕自身はやってきたと思うんですけど、まだこれからそういうことはいっぱいあると思うので、またいろんなことを教えていただければと思います。
亀井:学生たちに対してどう向き合うかということですが、基本、教員が世界を飛び回っていろんな情報をもたらして、口を開けて待っている学生に食べさせるっていうそういうことではなくて、むしろ学生たちがいろんなネタを運んでくるのを待ち受けている空っぽのお皿みたいな。場所だけはちゃんとつくって毎年恒例でやるから、いい写真持っておいでよ、撮ってくるのはあなたたちだよっていう形であえて教員が具体的なメッセージ性を発さずに場所をつくって待ち構えている接し方を何回か試行してみて、そうすると、情報が教員から学生に一方通行で流れるのではなくて学生から発した情報がその場に流れ込んでみんなが楽しめるコンテンツになっていくというのを経験してもらうというポジションにいるので、そういう接し方、情報の流れをちょっと変えてみるみたいな接し方もあるのかなということを試しに今やっているところです。
森:私のはちょっといわゆる調査実習みたいなのとはちょっと違うので感じが違うのかもしれないですけど、調査をやっている時も基本的に、さっき飯嶋さん「今年はこんな感じで」っていう感じだったんですけど、あまりそれを決めないで私は今までずっとやってきていて、取りあえず手がかりとして祭りに行くなら祭りに行くという対象は決めるんだけど、方向性みたいなものはまとまる年もあるし、まとまらない年も結構あります。ただ、報告書にしなくちゃいけないとか報告会をしなくちゃいけないとなってくると、出てきたバラバラのものをどうするか。さっきのカウンセリング的なところっていう話がAさんのほうからあったと思うんですけど、個人が選びたいテーマを決めるまでにすごく相談して、その人にとってのひっかかり、フックは何かということを一番大事にしたいなというのをずっと思ってきたので、それをやってきて、それをプロジェクトの企画の時もやっぱり一人一人の学生とも話をするし、学生同士も全員がしゃべって、でも、社会の枠組みと突き合わせなきゃいけないので、そこのところでどう調整するかを学ぶんだよみたいな。あくまでもみんなは学ぶプロセスにいるということを一生懸命伝えるというか、そんな感じかなと思います。でも、そういう意味では本当に悩ましいところで、社会連携、地域連携的なことをやっていると、何のために私はそれをやっているのかっていうこと自体を問われることになって、業界の人たちからも最初はすごい金儲けをしていると思われていて、人類学者ほどお金儲けが苦手な人たちいないんですけど、他所から来てそういうものにそもそも関心を持つこと自体がよく分からないと。だから、他者への興味をそんなに持つ人たちがこんなにいるっていうことも分からないし、本当に性善説じゃないけど、こんなに危機だったら何かできないかって何もない所から共感をもって行動してしまう、それを理解されるまでにずっと怪しい人だと思われてきたというのはあると思います。だから、そういう意味では本当に私もいつも思うんです。企画を考えて、大人がやればすごく早い。でも、それを我慢するということをずっと戒めようとは思っています。でも、難しいです。
伊藤:ありがとうございます。では、フロアの方。
フロアB:この「分科会崩れ」は、お互いというかそれぞれ実習をどうやるのという非常にプラティカルなことを情報交換するので、とても大事だなと思って来ました。さらに、そういうプラティカルな問題だけじゃなくて、現代社会において人類学的な知ってなんなのって結構深いテーマがあるなと思って聞いていました。なので、聞きたいことがめちゃくちゃたくさんあるんですけど、時間がないので、これをもっと長い時間とってくれればよかったのに。1個だけ、亀井さんのご発表でお聞きしたいんですが、君たちがやっていることは、もうすでに人類学なんだよっていう、北斗の拳モード。「おまえはもうやっている」。これは、すごくエンカレッジするにはいい教育だなと思うんですけど、どうしても私は古風なのか、妖怪人間ベムモードがでてきて、「早く自分でフィールドワークがやりたい」。早く人間になりたいようという、そういう要求が学生にあるのかな。もしそういうのがあるとしたら、それは、北斗の拳モードにどういうふうに滑り込ませていくのかとか、あるいは、それは学生がただ人の撮ってきた写真だけでは物足りないから、ちょっと人類学的な写真の撮り方、人類学的なセンスを教えてほしい、と言われるまで黙っているのかとか、そのへんの呼吸を教えていただきたいと思いました。
亀井:基本、課外活動としてやってきたことなので、あまり細かい指導、拘束してあれしてこれしてということはなかなかできないですけど、「こんなものを実は論文に載せていいんですか」みたいなことをよく聞かれることがあるんです。
「え?私が撮った写真とかでもいいんですか」。もちろんいい。例えばスケッチで描いてきた絵でも、きちんと描けば、いつどこで描いたかを添えることによって重要なデータになり得るし、堂々と論文やレポートに載せていいんだということを言うと、「意外に研究ってわりと日常的な生活の延長にあるんですね」みたいな感じでその気になってくれるというのが一番こういうことをやっていて面白いなと思うところです。必ずしも人類学を目指す学生ばかりではなくて、結局、写真展でそういうふうに課外活動を楽しんだ後、国際法とか経済学とかフィールドワークを必ずしも伴わない専攻を選んでいく学生も結構多いので、あまり人類学者モデルみたいなものをしつこく提示することはありませんけれども、中にはそれで味をしめてフィールドワークをもっと実際に卒論のために調査にあらためて行ってきますと。そういうときに何に気をつけたらいいですかみたいにあらためて求めてきた学生には、例えば他のいろいろな調査のノウハウみたいなことを追加でお話したりしますが、基本は学生の求めを待つみたいなところがあります。
伊藤:ありがとうございます。何時までというのは実はそんなに決まっていないという話だったんですけど、そんなに長くということはできないので、どうしてもっていう質問があれば。いかがでしょうか。
今、Bさんがおっしゃっていたのは、もともと去年の分科会でも、教育を考えることが人類学のカタチ自体を問うことだ、ということでしたので、まさにおっしゃっていただいた通りだと思います。
フロアA:Bさんがおっしゃっていて大切だと思うのは、例えば、水俣にしろ、多文化共生にせよ、震災にせよ、内田樹と言うところの「こんなもんでええちゃうんか症候群」があるんです。「どうやら世間で大切な問題と言われている」、「ここまでやればいい」というようなタイプの学生がいる。それから、もう1つは、人類学者が上に君臨するとさっき言いましたけど、本当に水俣病とか多文化共生とか震災を、学生が重要な問題と思っているかどうか、というところがあって、かなり学生の所に下りていかないといけないだろう。現地・調査地との応答の議論は多いんですけど、学生からの応答が一部聞けていないので、そこのところが人類学にどうやったらなるのかなというのはちょっと考えなければいけないかなと思います。
飯嶋:一言だけよろしいですか。さっきうまく答えられなかったこともあって、もうちょっといい答えを見つけたのでお答えすると、1つは2年に1回でしょ。つまり、もう1個の個人実習のほうはまったく個別のフィールドに向かう人類学演習の学生になります。これはほとんどの学生はどうなっちゃうかというと、卒論のテーマの調査になります。効率的ですものね。卒論のノウハウはここで教えて、それぞれ行ってきなさいってやっているんです。今回と前回の水俣実習に3年生で参加した学生が同じことを言っていたのが、ちょっとこれ意外でもあり、うれしくもあったんだけど、何かといったら、これは2年生の時にやりたかった、と言うんです。つまり、個人でやっているとバラバラでいて自分が何をやっていいのかよく分からないけど、僕が一緒に行っているので「こうやってあいさつやるんだ」とか、他の人と夜のミーティングなどをやっているので、あと、2人1組でやっていると、こういうふうなところが私よりフィールドノートをうまく取れているんだというのを学びながらやっているんです。つまり、君臨していると学生が思っているかというのを、そういうふうに僕が把握している限りで、判断できるエピソードかと思い言わせていただきました。
もう1個は、水俣自身に関してはどのくらい思っているかというのは分からないところです。ここは社会的役割みたいなところが僕自身はなんとなくムラムラあって。やっぱり臨床心理学の田嶌(誠一)さんというのは「節度ある押し付けがましさ」というキーワードに凝っているんですけど、つまり相手の懐に完全には踏み込まないんだけど、でも、これはフリーにやっているとそこまで来てくれるかなというところがあって、僕自身が重要だと思ったら責任を引き受けて僕がやる。問題が起こったら、僕がこれは責任編集を全部やっていますから、全部クレームは自分が負う。これ以外に僕は今のところやり方がないという感じです。
伊藤:ありがとうございます。もう1つぐらい何かありますでしょうか。
フロアC:もしよろしければ、学生という立場で。
伊藤:ぜひぜひ。
フロアC:大学院生のCと申します。私も院に上がって、自分自身、結局何をやっているんだろうというのはすごくよく問いただすんですけど、今日の話を聞いて本当に意外なところに人類学が転がっているんだよっていうのを学部生にぜひ気づいてほしくて。例えば私たちの同級生などは決して学部生全員が学問に情熱を注ぐというわけではなくて部活に情熱を4年間かけたという人もいるんですけど、部活だって見方によっては人類学のフィールドになるんだよというのは本当に気づいてほしかったところだったし、私は実際、沖縄の調査にはまってしまったのでそういうことをやったんですけど、同級生で部活をすごくやっていた人がいたので、それでぜひ卒論を書いてくれよと思ったんですけど、本当に高校の授業から出てきて何も分からないままに学部生というのはきておりますので、ぜひ先生方に人類学にはこういう見方があって、意外に身近な所に転がっているんだよということはぜひ私たち自身も知りたいところではあります。もう1つ自分自身の課題でもあるんですけど、せっかく人類学で意外といろんなことが見えてくるんだよということが分かってきたときに、それを社会に出たときにどう生かしていくかというところまで役立てると、初めてそこで人類学というのは社会で貢献できるんじゃないかと個人的には思っています。大変興味深い発表で、ありがとうございました。
伊藤:ありがとうございます。ちなみにマスター・・。
フロアC:マスター1年です。
伊藤:人類学専攻の修士1年ですね、ありがとうございます。これに応答するみたいなのはありますか。
森:それに応答して。すごくきれいにまとまったところに口をはさむのは本当は野暮なんですけど、さっき松田さんが評価の話をしていて、他の所でも少しやられているんですけど、人類学ずっと20年間何の役に立つんだと言われていて、就職とかもできないしって言われたんですけど、でも、そんなことなくて、ちゃんと就職もしてみんな働いているんです。他の所で何がやられているか。例えば、インターンシップを大学で受けた学生たちの卒業生追跡調査みたいなことを結構やっていて、結果的に、さっき横で気づいてくれよと思うけれどもその人の人生のプロセスの中で気づく時っていうのは学生時代とは限らないというのが結構ある。よく文化人類学科の卒業生が言うんですけど、社会に出てあらためて習っていたことの意味が分かった。あらためて役に立つと思ったとかっていう声があって、私たちはそういう学生たちに支えられてやってこられたところがあるんですけど、だから、評価を考えるときに、地域連携も同じなんですけど、すごく時間がかかる非常に長期間で後に結果が出るものなので、例えば変な話ですけど、人類学を学んで人類学者になっていない人の調査をするとか。少し違う形の方向性も考えないといけないんじゃないかな。それは実際、人類学科がなくなって、松田さんとかはホームページを立ち上げているんですけど、No Cultural Anthropology, No KBUって学生たちがそういうホームページを立ち上げて、卒業生が学んだことが卒業してどう活きたかっていうことを連載でエッセイを書いてくれていて、そういうのを読むと、アフリカに行って今看護学校に行っていると。最新号はそれですよね。そうすると、看護学校で実習に行って隣のおばあちゃんとか子どもたちにアンパンマンの絵を描いてあげるとよろこぶ。おばあちゃんに声をかけるとよろこぶ。これは私が文化人類学を学んで分かったことですってやっぱり言うんです。そういう意味では本当に今の短いタイムスパンの中での評価とか教育を考える、さっき私は切断されていると言ったんですけど、と違う、それに対抗する評価軸みたいなものをあらためて提案していくということもあるのかなというふうに聞いていて思いました。
伊藤:ありがとうございます。僕は今のお話を聞いた時に森さんに振ろうと思ったぐらいだったので。教育的には、「便益遅延性」という言い方ができるとおもいます。便益というのは、要するに教育を受ける者にとって「良いこと」、という意味です。その学生にとっての便益(「良いこと」)、教育の効果、が現れてくるかというのはいつになるか分からない、という点が教育の難しいところです。もしかしたら中年になって、あるいはお年寄りになってから「あの時」の教えが今に生きている、って気づく。便益は遅延する、教育の効果は後になってあらわれる、というのが教育の難しいところです。
すぐに効果が出るかどうか分からない。だけれども、就職とかそういったところで学部教育とかやっている場合は、それがどう役に立つのかっていう、説明の言語を我々は開発していかなければいけないというのは当然あり得ると思いますので、そのへんは動向が難しいところだというふうには思うんですけれども。
最後、清水先生、何か一言。
清水:京都に来てからエデュケーションの現場にいないので。僕は京都に来て10年、エデュケーションの現場で教養学部を教えていなくて、大学院生は研究者になりたいという人だけなので、こういうふうな人類学のTeaching Anthropologyの生の現場というのはすごいというのは、なかなか深いぞ、大変だぞ、面白いぞと思いました。ありがとうございました。
伊藤:では、時間が過ぎてしまったんですけれども、超過時間は15分どころじゃないですね。こういう人類学教育の企画がいろいろ続いているわけですし、教材を作ろうという動きもありますので、ぜひ継続して・・・
清水:1ついいですか。今の話で思ったんですけど、フィールドワークってすぐ社会調査とかするんですけど、そうじゃなくてマクドナルドでアルバイトするのもフィールドワークなんだとか、あるいは、入社試験の面接を受けるのもフィールドワークなんだとか。だって、社風とかいうので事前に会社の傾向とかどんな人材がほしいかとか社風を調べて行くので、その時にフィールドワークをしているんだという客観的な気持ちがあれば、すごくリラックスして学生のほうも少し余裕をもって高みの見物ではないけれども自由に動けるんじゃないのかな。だから、人類学のteaching anthropologyというのは具体的にはマクドナルドでバイトしている時にどういうふうにしたらフィールドワークになるかみたいな、そんなことを教えたらいいんじゃないのかな。そうしたらマックで実践することも。あとはインターンをやるのもまさにフィールドワークそのものだし、会社の面接試験とか集団面接もフィールドワークだっていうのは、まさにフィールドワークというのは作業観察なんだから作業して働いてインタビューを受けているところでも作業1つ実は観察するという、そんなことをうまく伝えられれば裾野が広がるなと思いました。
伊藤:ありがとうございます。スタッフのお二人も長い時間どうもありがとうございました。

「応答の人類学」第26回研究会+科研第1回研究会
日時:2016年5月27日(金)
場所:愛知県立大学サテライトキャンパス(愛知県産業労働センターウインクあいち15階)
〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38
参加者:13人

プログラム:
13:00-13:10趣旨説明(飯嶋秀治)
13:10-14:10香月洋一郎「宮本常一−その存在を「民俗学者」と見ることの不自由さについて」
14:10-14:40コメント(小國、飯嶋、亀井)
14:40-14:50個別質疑
14:50-15:00休憩
15:00-16:00赤嶺淳「ベトナマコスの遺産−−鶴見良行の今日的意義と課題」
16:00-16:30コメント(小國、飯嶋、亀井)
16:30-16:40個別質疑
16:40-17:40総合討論
17:40-18:00会場片付けなど

***
宮本常一−その存在を「民俗学者」と見ることの不自由さについて
香月洋一郎

@2000人以上の猿まわしを送りだした山口県高洲で、名人と言われているのは15人足らず。
そのうちの一人、白石のおじいちゃんが宮本の訃報を聞いての悔みの言葉

「ええ世間師じゃったがのう。あんな人がおると旅をするものは助かるんじゃが。」

A 鶴見俊輔「子どもはね、小学校に入るときに『親問題』から離されるんですよ。親問題というのはもともとの問題、つまり、その最初の問題。たとえば『どうして生きていかなきゃいけないか』」(中略)
「柳田国男、南方熊楠、折口信夫、もっと降れば宮本常一、このへんの人はみんな親問題を持っていて(中略)」

B 佐渡の太鼓打ち集団「鬼太鼓座」の将来に悩む座員に語りかけた宮本の言葉。(1978年12月)

「これから先、ほんとに国際性を持ってくるには、君たちのように外国へ精出して歩いてくることも大事なことだろうが、外国の文化を受け入れるような素地を国の中へ作っていかなきゃならないんじゃないか。その場っていうのはどういうもんだろうかって言ったら、つまり外国の人たちがやってきて、安んじておられる場所だろう。それじゃあ、向こうの習俗をすてないで、日本人の生活の中に入り込み、ともに生活できるような場があったかっていうと、ないだろう。
これが、やはり、君たちのやらなきゃならん仕事の一つだ。」

出典
@『生活学会報』第18号 宮本千晴「世間師の学」
A梅棹忠夫、鶴見俊輔、河合隼雄『丁丁発止』
B『いのちもやして、叩けよ―ー鼓童30年の軌跡―ー』

□ディスカッション
飯嶋:ありがとうございました。これ、特別なんですよ。僕は香月先生、2度九州大学にお招きしたんですけど、最初その時にも言われたんですけど、宮本常一を自分は背負って仕事は絶対したくないっていう、その方向で食っていこうと思えば食えるかもしれないんだけど、それをやっちゃうと自分がどんどん卑しくなっていくからっていうのでずっと語らないできたっていうところがあったんですね。
もう1つはこういう話を聞くと、僕は一方でだけど勇気づけられるんだけど、いや、そんな生存スキルも持っていない自分が何をできるんだろうということが問い返されるんですけど、その時も香月先生が集中講義でもおっしゃっていただきましたけど、自分自身は福岡で生まれて育った人間で農業のことは知らないと。知らないんだけど、知らない人間が農業を見ると、どういうところが見れるかっていう形でやっていることは可能で、その意味で手の内を探してやることの方が仕事として成立したし、面白いっていう形でおっしゃってたと思うので、今から小國さんと私と亀井さんから質問しますが、おそらく先ほど言われた話にちゃんと答えられる実質を持っているかどうか分からないですけど、自分たちの力量の中で今から質問しますので、分かることがあったらお答えしていただければ思います。小國さん、お願いします。

小國:先生、ありがとうございました。今から質問をさせていただくのですが、どうしても私個人の話をしないことにはその質問の意図が伝わらないような質問になってしまいますので、ちょっと皆さまお付き合いいただいて自己紹介兼ねさせていただきたいと思います。
日本福祉大の小國でございます。よろしくお願いいたします。今日多分こんなお話がまさか聞けると思っていなかったけれども、本当に知りたいことを教えていただいたって私自身は本当に感動を超えた状態です。というのは、私が宮本常一の書に触れた時は民俗学・民俗史として読んだのではなくて、国際協力の東南アジアの地域づくりの現場で、実践の姿勢を示すようなものとして読んだんですね。
そこで自分は文化人類学を背景として海外ボランティアとして働き始めたころだったのですが、民俗学や人類学系の本で、初めて「ギブアンドテイクできるものを持っている方が良い」ということを明言して農村のことを書いている書に出会った、それが常一だったんです。 ですので、耳を傾けて、問いかけた時には指導のようなものをもしながら書いていくっていう行為が、フィールドへの働きかけになるんだよなっていう、この実感を宮本常一の書ですごく言語化してくれていたと。ですので、そういうものとして私は宮本常一の書を読みましたし、今勤務先の日本福祉大学では、世界のいろいろな国で国際協力の実務に関わっている人たちを中心にした大学院で教えているのですが、今年は休講ですが、縁あって、地域社会開発論という科目のテキストに常一の『旅に学ぶ』を使わせていただいたりしています。
この1965年に出された書では、香月先生も引用されていたように、「自分が百姓であり、また家族の者が百姓をしていると、農民の世界が全て此岸側の世界として映るけれど、農業から手を引き、農村から離れると農村は彼岸の世界、あちら側になってしまう」ということであるとか、あるいは「自分自身もまた自分を学者などとは思ってはいない。農民たちの代弁者だと思っている」というようなこと。あるいは「もう1つ大切なことは、何か特技を持っており、それが相手に役に立つ方法でなければいけない」だとか、「与えるものがなければならぬ」みたいなことをたくさん書いておられました。
人類学を学んで「働きかける」ことへの戸惑いを持ったまま国際協力現場にいた私は、それに救われるような形でした。ですから今日まさに香月先生が、常一のことを、こういう人がたまたま大学の職を持っていたんですよ、食うためにっていう説明で、私は、今日、お聞きしたかったことの納得がいってしまって質問に至らないという気持ちもあるんですが。いや、でも、そこを皆さんとできるだけ共有したいので、あえて自分の思考体系を立ち戻る形でお話していますが、それを当初私が読んだ時に、当時はですから、「フィールドワーカーとしての宮本常一」が、農業指導だのといったことをしているという方向から読みました。
そうすると、どうしてこの人はこんなふうな実践をしていいと思っているんだろうかっていう問いが、観察者たれ、ということで人類学を学んできた立場から生まれました。つまりそこまでやっていいのかどうかっていうのが常に私にとっての歯止めになっていました。飯嶋さんがおっしゃったように、どこまで自分ではそういう知識・技術をつけないと農民の方とまともに関われないんだろうかっていう問いも生まれました。
つまり実践者としてどういうふうに力を付けないといけないのかということと、他方で学んできた聞き取り、書くということと結び付かないような、実践そのものに見える部分をどう処理していくのかっていう2つの問いが自分の中に生まれて。それに対してこの65年の時点で農民たちの代弁者だと思っているだなんて、逆に、「代弁者」って言っちゃいけないんじゃないか、みたいな思いも当時ありました。
ですので、今になって振り返ってしまえば60年代に書いたものと、その後70年代以降に書いたもの、おそらく香月先生の目線から身近でご覧になっていくと、常一自身の農村へのスタンスにも変遷があったのではないかと思うんです。宮本先生ご自身の経験と年齢を積み重ねる中での変化っていうんですかね。そこをあらためて伺って、宮本常一にとってのフィールド、農村の捉え方はどういうものであったのか、あるいは農村にとっての宮本先生の関係性っていうのは、初期のころと、その後ずっと実際に武蔵美に職を得て以降までの中でどんなふうに変わっていったのか、あるいは変わらなかったか、といったことを伺いたいです。
先ほどすでにお答えいただいたことで言うと、「東京から行った先生」というような、全然そんな感じには取られなかったよっていうのがまず1つの答えだとは思うのですが。あらためてフィールドとの関係性っていうものがどんなふうに変わっていったのかというところをお聞きして、今後の自分の糧にしたいなと思っている次第です。
また、自分自身、農家の家族というポジションをもって農村調査をしている中で、クロスする視点、「クロスオーバー」っていうふうに香月先生がおっしゃっていた部分をできればもっともっと言葉にして説明したいし、していただきたいなというようなところです。
香月:農村調査を始める時に農業のことを全く知らないということは、そのこと自体は肩身の狭い思いをする必要はないんですよ。知ろうとしないっていうことが一番まずいことなんです。知ろうとしない自分に気が付いてないっていうこと。僕は今から7年前で大学を辞めましたけども、そのころの大学院生でもそういうふうなことを思いたくなるような院生結構いましたので。
これも僕、宮本先生と雑談した時に、自分が調査の計画の打ち合わせをしてて、調査、自分らのやっていることは額に汗して畑を耕すことに比べたら虚業だろうと。つまり片一方は実業であると。虚業と実業は絶対置き換わることはできないんだけれども、橋を架けることはできるはずだという。その場合、学問で社会に貢献してますといったことじゃなくて、自分自身の意識として知ろうとしない自分を突き動かして変えていく、そのことでまず十分なんだという、スタート時点では。
それから、別にそこでその土地にとってプラスになるような情報を必ずしも持って入らなくても素直なリアクションでいいんですけども、素直さっていうのが基本でしょう。いつまでに論文書かなきゃいけないからこんな話を聞かなきゃいけないとかそれ先行だと現場で、さもしさが出ることがあるんですよ。それはね、相手に伝わっちゃうんです。そうするとそこでの関係が小さくなっちゃいます。
だから本当はきっちり2年で修論書こうって思う院生ってのは制度的には優等生なんだろうけれども、僕はどうしてもどんなもんかなと思ってしまう。生身の人間が生身の人間に会いに行くわけだから、あとはフィールドでの動きに任すしかないというおおらかさをどっかで持てないかなという。
今、実は佐渡での宮本常一、今、さっき鼓童、いろんなね、あそこ、今活動やっているんです。海外からいろんな人間が来てあそこでワークショップやってますが、そこにね、若い人類学者が宮本の足跡とその後の展開を調査に入っているんですよ。僕3年前佐渡でシンポジウムやった時に彼らもその発表をしてたから。
飯嶋:日本人ですか?
香月:ええ。話聞くと、僕らは最初にいかがわしさ知ってるんですよね。だって大学辞めて、職場辞めてね、佐渡に太鼓たたきに将来どうなるか分からないのが10数人来てという雰囲気。
清水:『平凡パンチ』読んでたんですよね。風俗だけ読みたくて買ってる連中が。
香月:そんなのはね、集まった人間がまさかここまで来るとはという。ところがね、ここまで来ちゃったら、ここまで来た洗練さでもって後振り返っちゃうんですよ。そうするとね、いかがわしさに対するアンテナが全部さびちゃう。これは本当はすごくむつかしい問題です。
ただ、僕らが例えば猿回しの知人なんかとよく話す時に、すごく価値観のある褒め言葉の1つとして、「いかがわしい」っていうのがあったんです。「あいつ、いかがわしいよな」っていうのは、あいつおもしれえよなと、可能性いろいろあるよなっちゅうのを「あいつ、いかがわしいよな」と言う。
洗練されたところから振り返るだけだと、いかがわしさに対するアンテナが鈍るんですよ。だから、今現代社会にあるそういう可能性を秘めているいかがわしい動きというのが今一つ見えにくい。これ、世代的なものかもしれませんけどもね。僕はそういういかがわしい動きっていうのは、何カ所かに関わっているもんですから、飯嶋さんにもその話をしたり、仙台でそういういかがわしい動きをやっている人を紹介したり。
こういうのは基本的に教育委員会とか、大学のネットワークに情報として上がってこないんです。上がってきたとしてもね、そういういかがわしさを持っているものという顔付きでは上がってこないんです。でもそれがね、生きてるっていうことはまだ日本の在野とか、民間社会って大丈夫なんじゃないのかなとは思います。割と農文協関係の本で名前出ている結城登美雄という人がいますけども、彼は、書いたものが一番つまんないんです。その動きのいかがわしいこと、いかがわしいこと。おもしれえな、この人はというね。
だから、そこのアンテナ、若い人持ってもらえないかなと。フィールドに入ったらそういうアンテナってすごく大事なんです。農業に対しての知識とか、村の人にこんなことを伝えられるみたいなことだけじゃなくて、村の人が屁とも思っていないようなことをこちらが面白がったりとか、そこの部分はよそ者しかできないかもしれない。
これも宮本常一の表現の中にありますが、自分で自分を突き飛ばすことができるか、と。それはよその力が要るよというそういうのがあるんですけれども。だから、よそ者っていうのは何かの知識とか技術なくてもそのことだけで小さくなる必要はないんですよ。僕が学生のころ同学年の学生でアマゾンに行った人がいました。
彼はアマゾンに行った時に自分は何にも地元の人にギブするものはないということで戻ってきて横浜市大で医者になって、その医療技術を持って行っている。そういうリアクションはすごいなと思うけども、あっけらかんとしてね、本当に素直なよそ者が入って行って、地元の人が全然価値置いていないものを面白がったりって、それはすごく大事なんですよ。そこは肩身を狭くしなくていいと思います。
僕自身第1冊目の本の冒頭に、今から農村のことを書くけども自分は農業のことを知らないと。農村育ちじゃないと最初宣言しているんですね。そういう人間のレポートですと。僕はそれでいいと思ってますから。いや、答えになったかどうか分かりませんけども。
飯嶋:どうぞ。
小國:香月先生ご自身のお話が出たので、例えば香月先生が宮本常一から引き継いだお写真を『写真景観論ノート』という形で出しておられるんですが、私が例えば開発実務家指導の目線であれを見ると、ものすごくプラクティカルな、農村現場に出会う仕事をする人はこういうものの見方を知りましょうみたいなものの実例として見えてきて、すごくそういうものとして読んだり、読ませたりするのですが、どういうふうに書かれたのかなと思って。
香月:あの本自体をですか?
小國:そうですね。
香月:あれは僕の中で未消化だったものをそのまま出しちゃったって感じなんです。社会に投げ出してみよう、って。
小國:そのように書いてありました。
香月:宮本常一って10万枚写真写していますけどもね、ほとんど人を写したものは比率的に少ないんですよ。問題として切り取ろうとする風景の中に雑念が入ると、言ってました。
ただ、僕自身が宮本常一に対して景観で一番ショックを覚えたのは、目の前にとにかくどこのものでもいいから国土地理院の航空写真1枚あるとしますね。それ、ネタに3時間か4時間話すんです。
「先生、これ、どう読みますか?」ってパッと見せたら、ずっと見ながら「こことここはおそらく中世の後半に開けたんだろうけども、村落構造が違うよ」みたいな。「何でそう思うんですか?」みたいなことを言うと、ずっと判断する判例を続けて下さるんですね。
宮本常一は晩年にアフリカ行くんですよ。帰ってきて電話いただいて、「アフリカで写した景観のスライドあがったからちょっと見に来い」と言って、部屋で白い紙貼って写しながら、日本の風景の解釈だったらアフリカのこの景観はこんなふうに解釈できるという。でも、実際どうなんだろうという、とか、2時間ぐらい話してくれるけど、多分、僕、それ吸収できたの2割あるかないかでしょうね。熱気だけ吸収して訳の分からない興奮で帰っきました。
景色ってのはそこに人間の意思と権利が潜んでいるから、それ、どう読み取り得るか。前もって文献資料でその土地のことが分かって、それがこうだよという読み取り方ではなくて。
僕は、それをどこまでやれてます、でもどこからはやれませんというのがあの本なんです。完全に吸収してたら僕は自分の本としてそういうことを書いています。だから、あの本はいかに溝が大きかったかという。でも、あの写真は僕の私蔵にするのではもったいないから、不特定多数の方にとにかく手渡しておこうという意図なんで、あまり突っ込まれると化けの皮はがれちゃいます。
小國:今伺って思ったのは、逆に宮本常一の膨大な蓄積が全てそこで書かれているようなものならば、簡単に、国際開発の実務家に紹介して実践書として使う、というようなことは難しかったのではないかなとも思いますし、私のようなものが、さらにそういう目線を持たない人と一緒に読み込むことは決して無理だったと思うのですが、そういう意味では、香月先生の手を経て世に出していただいたおかげで、私たちのように素人でもその入り口に立てるようなふうに読ませていただいてありがたいと思っています。

飯嶋:僕から。僕がやっぱり宮本先生の話を聞いてあらためて思ったのは、生き方が確かに実力がある人だ、融通無碍にアドバイスをしているっていうことなんですよね。だから例えば、観光なんかは離島振興法の時なんかものすごい反対しているのに、今の鬼太鼓座ではそれを薦めていますよね。
香月:地域がイニシアチブ持つべく動いているから。昔は、宮本先生は佐渡の観光対策をぼろくそたたいていました。というのは、あそこ、金北山ってすごくいい山があるんです、キャンプができる。昭和30年代かな、佐渡が観光開発やった時に夏休みになるとね、地元の小中学生はあの山に入るなっていうお触れが出てたんです。観光客の邪魔になるからです。宮本先生が「植民地じゃないんだよ」と書いてました。今、地元がイニシアチブ持ってやっている。佐渡はそれだけの力がありますから。
飯嶋:僕、何となくの担当っていうのは、さっきの言ったフィールドホーム、エデュケーションで言ったら、ホームで何やっているかっていうので、それは宮本さんの場合はもちろんそういうのが融通むげにやっているから、あえて切るのは変な感じもするっていうのでよく分かって上で、ちょっとあえて3つだけ端的にお伺いしたいことがあるんですけど。
1つは、ホームに帰ってきてからの表現をいろいろどういうふうにするかっていうことが僕らの議論してた中で1個文脈としてあったんですけど、例えば『忘れられた日本人』1つとっても、あの中には後の人類学で多声性って言われるようないろんな表現を取るっていうのは全部出ているっていう感じがしたんですね。あの話題を聞いた時にいや、それ宮本先生やってたじゃんみたいな感じなんで。
1つ聞きたいのは、だからそういうふうな書き方は宮本先生自身はある程度何か意識してやっていたのか、それとも素材をそのまま自分がそれほど内省もせずにやっていたのかっていうのは1点目聞きたいことなんですね。
2点目は九学会連合と八学会連合とか、要するにそういうふうな生活が確かな人が学者の人たちと一緒にやった時に、研究を、その人たちにどういうふうな視線を送ってたのかというのが2番目。つまり、これは他の人たちが今多分野連携とか、学際的とかと言っているのの宮本常一はそういうのでどういうふうにしていたんだろうというのを聞きたいというのが2点目なんですね。
3点目は僕、水俣もやっているので地元学、結城さんも結城さんでやっていますけど、吉本さんたちもやっていますけど、僕はね、あれはあれで入り口はすごくいいんだけど、もう一歩なんだよって感じがしてるんですよ。
話聞いててちょっと思ったのは、宮本さんの場合はやっぱり融通無碍にやってんだけど、地元学なんかやっぱりちょっと硬直化しちゃうようなところがなきにしもあらずなのかなという気もしているんですが、香月先生はちょっとそれ、自分の視点の中で地元学について何が違うんだろうっていうことを思っていることがあったら聞かせていただきたい。この3点をお願いします。
香月:最初の問題は宮本常一の場合は、これ、宮本常一だけじゃなくてそういう人、他にもいると思いますが、思想って語り口の中にある。最初からそんなふうに思っていたと思います。語り口自体が、展開性自体が思想なんだと。だから、表現スタイルの中に本質がある。これはさっきの山口昌男さん、坪井洋文さんたちの本、あの方の中にも宮本常一の評価として表現方法の中に思想、視座を埋め込んでいるみたいな、そういう指摘があります。だから、それは論文とか、レポートとか、エッセイとかは全然意識していないと思います。
それから九学会連合とアマチュアうんぬんに関しては、僕は仄聞ですがひどい目に遭った話をよく聞いてます。東大に地理学の先生がいて、その方に会いに行った時に、その周辺のある人が、民間のそういう訳の分からん者が来ることを快く思ってなくて、目の前でこれ見よがしに強い音でドアを閉めたとか、そういう話は聞いているんですよ。ただ、宮本先生本人からではなくそのまわりの人から。宮本先生はそんなとこに本質をみていませんでしたから。
それから地元学に関して言うと、その土地の人間が土地のものでどうやって食っていくかというのが基本的にベースなんですね。だから、例えば有明海で漁業が立ち行かなくなってミカンを植えたと。漁村が農協を作ったとか、それから山古志で棚田にニシキゴイ飼って農民が漁業組合作ったとか、そんな例をものすごく喜んでいたし評価してんです。「それでいいじゃねえか」って言ってね。
宮本常一が亡くなった後、そういういかがわしい面白い地域の動きっていくつも僕は見て、これ、宮本先生がこれ見たら相好崩して喜ぶなとか、膝を打って面白がるなというのがいくつもあったんです。で、そういうところは別に宮本常一から指導を受けたところではない。
そうすると、僕が最初の問いに戻りますが、宮本常一という言葉で言っているのは何だろう。宮本常一という言葉に収れんされちゃうと、逆にそれは見えなくなる。だからそれが1つの地域において自主性というものがどういう展開をしていくのが健全なのか。そこが基本軸でしょう。
飯嶋:ありがとうございます。次、亀井さん、お願いします。

亀井:亀井と申します。応答人類学のコアメンバーの1人です。私は教育とか、あるいは成果の関連とかを通じて研究者が視点とか、方向とか、成果とか、あるいはフィールドワークを通じて研究内外の人といかにつながりあっていくかということに一般的な関心がありまして、2つお尋ねしたいなと思っています。
1つは民具を何万点も集めてものをして語らしめるという、物質文化研究とか、私がこれまで学んできた生体人類学とか、ものをして人の姿を語らせるというそういうスタイルっていうのはとても特徴的だなと思ったんですけども、そういう彼の独自のはみ出したやり方というのは、その後これは多分1つの教育的な影響の在り方だと思うんですけども、どういった人たちにどんな形でこんにち受け継がれ続けているかなということに1つ関心があります。
彼は大学に勤めることはあまり潔しとしないというふうな感じで、ごく短期間に関わったとは思いますが、大学にいる、いないにかかわらず、その方法に薫陶を受けた人っていうのは結構いたのではないかと思いますので、その辺も何かあればお話をお伺いできたらと思います。
もう1つは、調査で訪れた村々の人たち。本当に津々浦々泊まり歩いてさまざまなものを集めてということで、ものにせよ、写真にせよ、膨大なコレクションがあるわけですけども、その調査に行く先々で協力した多くの人たち、村で生活する人たちですね。そういった人たちはどういう気持ちとか、関心とか期待で訪れてくる宮本を受け入れていたかとか、あるいはそういうふうに投げかけられる村の人たちへ期待に彼自身はどういうふうに応えようとしていたか。
もちろん研究者であり、もの書きでもありということで、研究成果をどんどん文字として、あるいはさまざまなコレクションとして成果を社会に残してきた人だとは思いますけども、当の具体的に民具を提供した人とか、彼を受け入れて泊めた人とか、そういう人たちとの具体的な付き合い方、期待を投げかけられ、あるいはそれに対してこうし、というような双方向なやりとりっていうのは具体的には現場ではどうだったのかなというとこに関心があります。
香月:最後のはすごくケースバイケースだから答えにくいんですけれども、「自分が付き合って連絡取って自分を分かりあってくれてる人は、全国で数えたら3,000人はいる」とは言っていました。この後があるんです。それね、「大学の教員になったら実際のそういう付き合いの幅が1/3に減った」と言って。在野の時はそれが頻繁にネットワーク動いてたと。
だから「大学すっとんきょうなやつが出ねえと駄目だぞ」とは言っていたんだけれども、同時に「そういうことに関しては大学って歩留まり悪いよね」みたいなことも言っていました。
だから、僕、晩年、亡くなる前の10カ月前くらいですが「1冊雑誌作ろうか」と言われたことあるんです。それ、今の先生の体力ではとても無理だろうと思って何も言えなかったんです。「今だったら読者3,000人は大丈夫なんだよ。だったら3,000部だったら雑誌できると思う」って。僕それはしなくて良かったなと思っています。
それからもう1つはね、宮本常一が相手にしたのは生産文化なんです。消費文化じゃないんですよ。消費文化になってくると宮本の方法論がどこまで展開できるかになるとね、これ、別のスタンスが要るかもしれない。でも今ね、生産文化に関しては多分教育の場でも先生自身がその教え方が分からない。
飯嶋:そうなんですよ。
香月:パッと、例えば今ごろの田んぼ見て、これ、大体田植え何日ぐらい前に終わったなってスッと分かる先生ってほとんどいないと思うんですけどもね。消費文化だったら記号論とか、いろんな世界観みたいな形でもやっていくから。
亀井:さっき3,000人とつながり続けていたという数のケースは、彼を受け入れて調査に協力し続けた生活者の皆さん、全国の人たちっていうのはどういう期待を彼に寄せていたんでしょうね。協力してもいいと受け入れる。
香月:自分の動きを信じてくれ応じてくれる存在でしょうね、おそらく。
亀井:信じる。
香月:あたりまえのことをあたりまえのこととして支えているものの的確な指摘、それを通して今と将来を洞察することの意味、そのレベルでのやりとりのつながり、でしょうか。
亀井:何かあったらすぐ来てくれる、実際に会える人。
香月:電話のアドバイスにしても、説明しなくてもその場の風景をイメージして本質がどこにあるかを見つけ整理して言ってくれているだみたいな。
亀井:はい。ありがとうございました。

飯嶋:50分というので10分ぐらい、あるいは15分ぐらいいいですかね。質問はなるべく端的にして話を聞くのをメインにしたいと思いますけど、一般にどの方からでも結構ですので質問、あるいはコメントがある方がいらっしゃいましたら挙手をして質問をしていただければと思います。
清水:一番簡単なことで。例えば、せこい人類学者が、例えば僕が人のふんどしで相撲をとろうと思って、彼こそはまさに正しい人類学の開祖というか、ご先祖様というか、と言った場合に宮本さんは「いや、そんなことない。嫌だな、止めろよ」って言いますかね。それとも「いいかな」って、鏡とすべき、あるいは人類学の1つの可能性というか、根源的な形がここにあるというふうなこと。鶴見さんの場合でも同じなんですけれども。
飯嶋:他人が勝手に期待して?
清水:ご当人は嫌がるかなと。
香月:僕は代弁はできないけれども微笑むと思いますよ。そう見てくれるかいみたいな感じで。
清水:それ、リアルタイムでの扱いがね、例えば大学のいわゆるディスプリントしての人類学とか、それは鶴見さんに対してもそうだし、宮本さんに対しても必ずしも温かかったりしたわけではないと。そういう愛と憎しみと恩しゅうを超えて、今、孫たちの世代がそういうふうに言うんならいいかなというふうに言ってくれるかなという。
香月:かなり長い時代、素人だという目でフォークロアの学会の一部の人から見られていたのは確かです。
飯嶋:すごいですよね。
清水:またフォークロアと人類学、またちょっと違うし。でも、例えば彼がやったことは今すっごいはやりのマテリアルカルチャーとか、マテリアリティとか、ものと人とのネットワークとか、すっごいこざかしい議論が宙返り2回転半何とか、ウルトラCみたいな議論があるんですけども、この流れを全く受け継いでいないんですよね。
香月:それでどちらかと言うと、ものすごく大ざっぱに言うと、京都学派と一番僕は共鳴してたんじゃないかとは思います。
関西での、魚澄惣五郎さんとか、そういう方との交流もベースになっているんでしょうね。だから東京の研究者というよりもまず京都の人たちに対しての。東京の東日本の研究者というのは、近畿圏をきちんと知らないということがものすごくハンデになっているということに気が付いてないと言ってたことがあります。
清水:海面より向こう見ている人多いですから。
香月:あと宮本常一が、東京の学者の中で一番評価してたのは守田志郎さんの先生。
清水:古島さん?
香月:古島さんの評価はすごく高かったと思います。
清水:ありがとうございました。でも、勝手に人類学の祖先だということで。
飯嶋:勝手に「自分は宮本の弟子だ」って言った人を笑った人ですから大丈夫なんじゃないかと。
香月:すごくいろんな解釈してくれて喜んでくれていると思います。
飯嶋:その他にいかがでしょうか。赤嶺さんも何かあったらいいですよ。
赤嶺:いやいや。今聞いちゃうと、あと話すことなくなっちゃう。似てるなと思いました、鶴見さんと。
飯嶋:どうぞ。
フロア:よろしいですか。実は突然参加させていただいてありがとうございます。私も国際開発の世界にずっとエントリーしてやっているんですけども、ちょっと今質問したいのは、結局宮本常一さんを育てた土壌というのがすごい大事だと思うんですよね。
私、今、農民運動をやるにあたって、ちょっとそこを突き詰めてみたりする時に、結局戦前・戦後の流れって言うと、渋沢さんにというか、キーパーソンに常一さんがいて。
私は戦前の農法主義とか、農業政治、あと、常一さん自体も私もまだ読んでいるところなんですけども、大規模な地域開発に対してどういうふうなコミットメントをしたのかとか、結構要するにいかがわしいことを私やってたんじゃないかなと思うんですよね、見てないところで。
あまりに本だけ読んでいると、小農というか、小さなところがやっているんだけれども、もっと農政的なところでもね、何らかのコミットメント、調査でもやっているのは分かっているんですけれども、もうちょっと政府に近いところにいたんじゃないかなっていうような気がするんですけども、そこのところは身近で見ていた香月先生に聞きたいなと思って今日来たんですけども。
香月:離島振興法の成立は宮本常一の調べたいろんな離島のレポートが、どこかで参考にはなっているとは思いますが、でも問題提起はずっとし続けて批判はするけれども、法律自体をいじる立場にはなかったはずなので。それは離島振興協議会の大矢内さんあたりがよく御存知かと。私は詳しくは知りません。
フロア:(講演の中で言及してましたが)生態学ってどんな感じの学問なんですか?
香月:聞き書きをひとつの軸として民俗学をやってきた者からすれば、まず、生態学の持っている「機能」というものへのアプローチ、「機能」という概念の用い方って、刺激的なんです。すごく新鮮で魅力があるんです。どこか対象を突き放しているようで、でもきちんとそこに入り込んでる。
飯嶋:いや、あらためてありがとうございました。この熱を冷ますために3時まで休みにします。ちょっとトイレ休憩しましょう。

***
ベトナマコスの遺産−−−−鶴見良行の今日的意義と課題 赤嶺 淳

ベトナム、ナマコ、ココス。いずれも、鶴見良行が入れ込んだテーマである(『ココス島奇譚』(1994)は未完)。むろん、鶴見の代表作は『バナナと日本人』(1982)でもあるし、『マングローブの沼地で』(1984)や『海道の社会史』(1997)をあげる人もいるかもしれない。本発表では、鶴見が「自身で見たアジアを鏡に「日本の近代」を捉えなおし、その未来をアジアの人びととともに変革しようとしていた」との仮定にたち、鶴見アジア学を運動論的観点から読みなおしてみたい。発表者は、1980年代末に晩年の鶴見が組織した市民研究「ヤシ研究会」に大学院生として参加した経験し、1992年4月に術後の鶴見とマレーシアのサバ州を歩いた経験をもつ。当時の記憶をたどりながら、鶴見が「市民研究」に託した思いを反省的に考察の対象とし、一貫して「モノと人が越境」する動態を描いてきた鶴見のアジア学の視点を再評価するとともに、「グローバル時代のアジア地域研究」のあり方、その意義・課題について試論をのべてみたい。

□ディスカッション
飯嶋:面白かった(笑)。
清水:1つ発見があったんだけど、赤嶺さんの話を聞いてて、語り口とかフォークシンガーの南こうせつにそっくりなんですね。
赤嶺:大分県っぽい。
清水:大分県人、そうだったんだと。
赤嶺:丸眼鏡にしないといけない。
清水:語り口とその顔つきと雰囲気かな。
赤嶺:そんなの言われたの初めてですよ。ありがとうございます。

飯嶋:そこと重なるのは世代ですよ。いや、面白かった。さっきと似てて役割がちょっと決まっているのでコメントを小國さんの方からお願いします。
小國:ありがとうございます。さっきちょっとコメントで自分の話をしすぎたので時間を短く質問したいと思います。1つ目はバナナ・エビ・ヤシ・ナマコもそうですけれど、共同研究には適した素材があるっていうふうに先ほどお話で出たんですが、そこをもう少しちょっと掘り下げて、最後におっしゃったバナナやコーヒーに触れることの危うさみたいなものも含めて教えていただきたいというのが1点目です。
2点目が、実はそれとすごく関連しているんですが、先ほどの宮本常一に関するお話で思想から研究へという話がありましたし、鶴見先生は本当に運動体のような存在というふうにも見えると思うんですね。そう考えた時に、ものを取り上げる「もの」研究において、何を取り上げ、誰に対して、何に向けて、というところで、何を取り上げ、誰に発信していくのかっていうのはある意味すごく政治的な判断であると考えられるんですね。
なので、そこは、取り上げられた「モノ」が、どのような鶴見先生ご自身の議題に関しているのかという点を伺いたいです。ベトナム戦争が原点のひとつであるというようなことはある程度想像がつくのですが、そこを確認したいというのと、むしろ、赤嶺さんご自身がどういう政治性を持って「モノ」を選ばれているのかということをお聞きしたいです。
どういう思想の下にクジラなのかっていうところを。
赤嶺:ありがとうございます。
小國:お願いします。
赤嶺:最初の点ですね。やっぱりバナナっていうのは両方ちょっと重なっちゃう答えになっちゃうんですけど、非常に戦略的だったと思います。僕、今日持ってきたか、昨日カットしたかちょっと定かじゃないんですけど、鶴見さんはまず最初にバターン半島というフィリピンのマニラ湾の端っこにある保税特区っていうのかな、輸出加工区っていうんですか、そこの車の問題をやるんですよ。でも、全然受けない。経済学者には評価されたって喜んでた。石川滋さんから褒められたとかですね。
でも、全然それで日本の問題とつながらないっていうか、広まらないことにフラストレーションがあったみたいで、もっと世に受けると言うとちょっとゲスですけども、自分は車でも何でもいいわけですよね。日本と東南アジアの、あるいは日本とフィリピンの関係を伝えたいがために保税特区・輸出加工区の問題を取り上げたのに、全然違う形でしか流通しないことにちょっとショックを受けた時に、じゃあということでバナナ。それ、たまたまうまくいったと思うんですね。
これ、アジア太平洋資料センターが「次、何をやりますか?」っていう時にエビ。エビはもうちょっと複雑なんですよね。養殖もあれば底引き網で取るとか。生産地もフィリピンだけじゃないですから。日本の中に入ってきてもカップラーメンの干しエビから、冷凍のでかいのからいろんなタイプのエビがやっぱり非常に複雑になった。
ヤシの場合はヤシのまんまで入ってきてないわけですよね。油としてだから、それがマーガリンになったり、洗剤になったりとか、カップラーメンの麺を揚げる油になったりとかなので、やっぱり分かりやすさが必要じゃないのっていうところだと思います。
僕、さっき言ったように、バナナと同じぐらい分かりやすいっていうのは、コーヒーなんですね。エビよりも簡単。コーヒーだって、いくらインスタントコーヒーだって、あれが熱帯から来ているのはみんなが分かっていることで、しかも大体、豆も写真見たりでイメージつくじゃないですか。しかも、大学の教材として考えれば、フェアトレードみたいなのはみんなとっつきやすいですよね。だからそういうことを考えた時に、コーヒーっていうのはいいんじゃないかなあなんて僕は思ってます。それはやっぱり分かりやすさです。
逆に危うさは、先ほど申し上げたように、まず現場に関心を持つことだと思うんですよね。私、前名古屋にいた時に、2010年ですかね、生物多様性条約の会議がある時に、名古屋市の大学にいた関係で、いろいろフェアトレードタウン構想みたいなのを、学生を交えて「やりなさい」っていう上意下達で会合に出させられた時に、名古屋市の学生がいて、いろんな話聞いて「ふーん」とか言って「偉いね」とか言って、ある程度までちゃんと話聞いてたんですよ。「ところで、現地に行ったことあるの?」って聞いたら「いや、私はフェアトレードタウンに興味があって、別にインドネシアとかどこでもいいんです」っていう話を聞いた途端にブチッて。

そこでこれは駄目だって思って、「ちょっと僕、用事があるんで」って席を外したんですけど、やっぱり関心を持って現地にまず行ってほしいですよね。行くのも今、大変なんですね。逆に行って、鶴見さんが苦笑いしていたのは、ミンダナオに行って搾取の現場や農薬の現場を見ると、「これは食べちゃいけない」っていうふうな過剰反応になっちゃう。その悩ましさっていうのがあるということですよね。
あるいは「左翼観光ルート」っていうふうに自虐的に言っていましたけども、フィリピンに行く以上、スモーキーマウンテンというスラムに行かないといけない。しかもスラムに行くと、子どもの目がキラキラしてたとか、必ずそういう印象ってみんな持って帰って来るじゃないですか。「それは違うよな」って彼は言っていたし、僕もそれはその通りだと思うんです。
どういうふうに仕掛けたら自分で自立してというか、インディペンデントに一人旅、バブル時代のわれわれのように、どっか旅行して何か面白さを見つけてくれるかなって思います。その仕掛けが、今は、もっと要るような気がします。夏休みはインターンシップに行かないと就職できないとか、そんなことばっかり言ってるでしょ? だから、それ、バブルの時代とは違うっていうのは、よく分かるんですけど、その辺をちょっと今悩んでいるところです。鶴見さん自身は、非常に戦略家でした。今言ったように非常に戦略的に構想してたと思います。
それ、私自身の問題に置き換えますと、私はそこまでまだよく俯瞰できていないですね、正直言って。ただ、私自身のスタンス、先ほど実は飛ばしたところがあって、知識人の役割の3つ目は「中立性」っていうことを書いてるんですね。私、今、水産庁の人と一緒に仕事しているので、中立とは言えないんですよ。ただし、クジラの国際捕鯨委員会にしても、ワシントン条約というナマコとか、マグロとか、絶滅の危機にひんしている動物を輸出入禁止しましょうという条約は国にしか発言権ないんですね。NGOは議場に入れますけども、最終的に交渉ごとというのは国家単位なので、そこに入れるというのは僕にとってはもちろん書けないことたくさんあるんですけど、知らずに書かないのと知ってて書かないとは絶対違うんですね。それ、皆さん分かると思うんですよ。
そういうこともあって、捕鯨もいろいろ悩ましいんですよ。ただ、冒頭に言ったように、私、捕鯨の研究するつもりはないので、捕鯨で何が言えるのか? そこでさっき中途半端になっちゃいましたけども、マーガリンが植物油になったっていう、われわれの生活様式が大転換ですよね。冷蔵庫の普及だとか、その後電子レンジが普及して、それが5割超えるのは87年だったかな。
そういう時にどんどんどんどん油の使用が増えていくわけですね、冷凍食品が増えるとか。そういう生活の変化の中で環境保護の問題を考えたいとか、そっちにあるので戦略というほどではないですけども、クジラのことは知らなくちゃいけないけども、それを研究したら、例えば国際関係論とかの人と全く一緒になっちゃうし、それこそ賛成・反対とか変な方に絡めとられちゃうかなっていうところで、捕鯨で何が言えるのかというところに今いこうとしているところです。
それがスタンスと言えばスタンスですし、それしかできないかなっていう気はしてます。あと、私はもちろんプロ・ホエーリングなつもりなんですけども、今、調査捕鯨になって30年なんですね。87年からですからほぼ30年。でも、商業捕鯨のことを知っている人ってまだまだ元気でたくさんいるんですよ、70代、80代。その人たちに商業捕鯨の時代の話を聞くっていうことを、やっていまして、それは白か黒かっていう議論の中で、結局反捕鯨のNGOの人とプロホエーリングの役人だったり、業界団体の人の話しか出てこなくて、本当の当事者っていうのは出てこないので、引退した人は結構しゃべってくれるんですよね。
その人たちの聞き書きを、いま、一生懸命やっているところです。これも記録するっていうことだけではなくて、そこにやっぱりヒントあるかなっていう。僕、面白かったのは北九州の旦過市場でクジラ屋さんって200メートルぐらいのところにまだ2軒あるんですよ、クジラ専門店ですよ。
その人たちに聞いてると、昔は朝起きて20キロぐらいパン屋に運んでた。パン屋さん?ピンと来なかったんですよ。クジラカツです。カツサンドっていうのはクジラだったんだっていうんですね。びっくりして。私、大分だから分かるけど、小倉っていえば福岡第2の都市だし、香月さんあれですけど。「えっ? カツサンドって、ここでも豚じゃなかったんですか?」っていうぐらいの驚きで。

だからそういう僕らが知らなかったことがやっぱりあるっていう当たり前のことですけど。そういうのをちょっと今肉声で記録することから、自分の生きていた時代なんで、それを相対化できたら自分の研究としても楽しいし、それが何となくつながるんではないかなという、そういう狙いというか、何となくのあれを持っています、展望です。

飯嶋:僕はさっきの続きなんですけど、僕は研究行って帰ってきてからどういうふうにしてそれを足元で展開するのかっていうのが、何となく質問の時の役割になっているんですけど、その話にいきなり行く前に、僕はやっぱり鶴見さんの本を人類学の議論を聞いて、Multi-Sitedっていうのを聞いた時に、それ、鶴見さんやってるんじゃんって思ったんだよね。
赤嶺:そうなんですよ、ね。
飯嶋:それでいいんだけど、別に、評価されたくてやるわけじゃないからいいんだけどと思ったっていうのは、鶴見さんを思った時の一番最初にやっぱり思い出すことです。聞きたいのは何かって言うと、ほぼ今回もこの中に出てきたんですけど、やっぱり僕は『バナナと日本人』を出した時に、どうすればいいかっていうのは鶴見さんは考えてなかったんじゃないかと僕は思っているんですよ。
その時にところが出した時のリアクションがさっき書いたような、買わないっていうのが出てきたりっていうような。その時に僕は選択肢は開かれてたんだと思ってて、つまり文化を知っていくっていう路線でやっていて、伝道者なんだっていうふうにしてやっていくのと、あと、やっぱり言えるかな、言った方がいいかなっていうのは、晩年になると「伝道者です」ってのははっきり言っているんだけど、だって例えばみんな伝道者になっちゃったらどうするんだよっていうような、その時に鶴見さんって個人としてだから、いや、みんな伝道者になったら世界良くなるんじゃないって楽観するような人だったのか、それともやっぱりこういうとこに行く時に、ぎこちなさが自分の中であったのかなっていうのが気になっていることで。
僕なんかやっぱり教員なんかになってなかったら、その話を共有できる人と「この問題、ちょっと俺も困っているんだよね」みたいにしてやって、やっていたんだけど、教員になるとさ、やっぱり教える立場になると悩むじゃない、やっぱりこの立場って。つまり「何か問題があります」って言って止めるとどうなるかって言うと、学生って「自分たち個々で考えなさい」って言うと、苦しいまんまだとそのまんまフェードアウトするじゃない。解決が見い出されると。
だけど代案して「こういう方法があるんですよ」って言うと、そっちの方にみんな行っちゃうじゃない、今度。それで鶴見さん的なのはだから苦しさを入り口にしながら楽しさに行ったんだと思うんだけど、楽しさに行くと今度僕もそういうふうな形で学生に話すと、楽しさの方に流れちゃうんだよね、やっぱり学生って。
この辺で葛藤ってなかったのかなっていうのがもし知っていたら教えていただきたいのと、あと、ヒントになるのかなと思ったのが村井さんとの付き合い方なんですよね。村井さんってやっぱり鶴見さんとちょっと違ってて、運動性が最後までちょっと強かったと思ってて、企業を批判する時も具体的な名前を露骨に出していろんなところで言うしっていうような。ああいう伴走者でいながらちょっとスタンスが違うようなあの人に、鶴見さんってどういうスタンスだったのかなっていうのは、それの考えるヒントになるかなと思ってて、その辺をもし知っていることがあったら教えて。
赤嶺:ありがとうございます。鶴見さん自身は僕、彼はやっぱりブッキッシュというか、めちゃくちゃ本を読むんですね。あの人、アメリカでの生活が長いので英語も全然不自由しないし、何でそんなこと知ってるのっていうのをちゃんとどっから持ってきて、ここに書いてあるだろうみたいな。
基本的にはいわゆる人類学的なフィールドワークでどっぷり浸かってそっから見えてくるものから議論じゃなくて、ある程度見通しを持って確認をしていく感じが僕は強かったと思っています。だから逆に今飯嶋さん言ってた、帰ってきてからどう展開するかっていうのはある程度見通しがあって行く。その過程で文章を肉付けするのは現地での経験とかですけども、それが1つですね。
彼自身「定点観測」とか、「時差観察法」と言っていたんですけども、長期に行けない分、毎年夏休みに同じところに行ってその変化を確認する。彼は英語はめちゃくちゃできたけど、インドネシア語はできるわけじゃないし。村井さんと一緒にインドネシアとか行って、まさに共同研究なわけですよね。
バナナに戻りますと、おそらく鶴見さん自身は考えたかもしれないけど、食べるなとか、そういうことは食べろとも、食べるなとも考えてなかったかどうかはちょっと分かんないですけど、多分伝道者というのは意識してたと思います。ただ、これほど反響と思っていなかったと思います。
飯嶋:なるほどね。
赤嶺:「もの研究」って言い方も彼自身がどっかで言い出して、この時点で言っていなかったみたいですね。そういうバナナを通して世の中が見れるという目的はここまでなくって、それでうまくいったんで、次はエビだっていう、そんな感じだったんですね。

清水:裏話なんですけど、彼は自分でバナナの生産現場に突っ込んで行ったんじゃなくて、国立フィリピン大学の社会学教授のランディ・ダヴィットのグループがそこの第三世界研究センターでかなり実態調査をやってデータや情報もあって、大きな見方もある時に、まさに学際的な共同研究というような感じで入っていて、現地へ案内してもらい、現状を説明してもらって、村人の話を聞くときには通訳もついて。
だから彼は、日本でもフィリピンでも学会でも、その生活世界のただなかにいる当事者ではない自分、そこからの距離を常に意識せざるをえないマージナルマンであることを強く自覚してたのだと思います。だから謙虚であり、でも同時に、マージナルマンだからこそ見えること、距離をおくことで見えてくる全体像やら大事なポイントを口に出して語り、活字にして伝えなくてはという役割責務の自覚があったのだと思います。そしてフィリピンの田舎の人びとの暮らしが、すでに、もはや日本人の食卓に直接につながってしまっているのだから、日本人の意識もそのつながりに目を向け、考えるべきであるという確信があったと思うんですね。
赤嶺:そうですね。アビナレスさんたちはリサーチアシスタントでバナナ園に行って飛行機で農薬浴びたと言っていました。
清水:そうですね、ランディ・ダヴィット教授のところに左翼系の院生・学生が集まり、リサーチアシスタントになって研究と社会運動をつなぐような現地調査をする。アビナレスさんご自身もミンダナオ島出身でマニラに対する距離感とミンダナオへの愛着がとても強い。当時は、フィリピン大学の政治学科にいて、フィリピン大学の学生新聞Collegianの編集長をしたりしていました。その後にコーネル大学に留学して博士号を取得し、同じ東南アジア研究プログラムで学ぶアメリカ人女性と結婚する。お二人は、その後、京都大学東南アジア研究所のテヌア教員となり、研究所の国際化、ネットワーク拡充、英語発信で大きな貢献をしてくれました。いずれにしても、鶴見さんは、フィリピン側のキーパーソンのランディ・ダヴィッド教授とつながり、教授や第三世界研究所の若手スタッフの協力を得て、調査・研究・社会運動を進めていったわけですね。鶴見さんが、フィリピン側のそうした動きをふまえて、日本の学会ではなく、一般の人たちに伝えようとされた意図と努力はとても大事で貴重だったと思います。
赤嶺:これ、戒厳令下でやってたわけですから、やっぱりそれなりの覚悟がフィリピン側にはあったし、外国人だからうまくやれたっていうとこもあったと思うんですね。その辺は僕も本当に自分の中でこれから詰めなくちゃいけないところなんですけども。
清水:それは、パク・チョンヒ(朴正熙大統領)の時代のTK生(仮名)という韓国人の場合がそうですよね。彼は、パク・チョンヒの開発独裁の時代の韓国の政治・社会と人びとの暮らしの実際について、「韓国からの通信」と題するレポートを、1970年代の半ば頃から1980年代の終わり頃まで岩波の月刊誌『世界』に連載していました。私が大学生だった頃で、とても強い印象というか、衝撃を受けてました。後に宗教政治学者の池明観が名乗りでて分かるのですけど、彼は、東京女子大学教授として日本にいて、主に教会のネットワークを通じて牧師さんらが持ちだした資料や情報、インタビューをまとめていたんですね。韓国にいて、運動の渦中にいたら、もちろん、そうした活動はできません。東京にいて、距離を取れたから、現状の細部にわたる資料や情報をみながら、全体的な社会政治状況を分析できたんだと思います。
やはり、外部世界の関心の持続と注視、モラルサポートが社会・政治運動では重要なんだろうなと思います。その意味で、鶴見さんも重要な役割を果たしたベ平連というのは、学問と社会とのつながりいうか、調査・研究と運動の関係について、われわれが「応答の人類学の先達」として学ぶべき先輩のお一人という気がしています。
飯嶋:村井さんなんかにあれかね、役割分担的に考えていたのかね、何か。
赤嶺:村井さんはやっぱりインドネシアに根っこがあるっていうか、2年間びっちりいたし、だから最終的にはインドネシアのいろんな政治のことにも発言を一生懸命されていましたよね、開発の告発とか。
さっき言ったように、地域がなかったって言うと失礼だけど、やっぱり村井さんはあるんですよ、戻るべき自分の村みたいなの。鶴見さんは、それがなかったので、フィリピンとか、東南アジアとか、そういうくくりでしか発言しなかったと思うんですね。
鶴見さんと村井さんっていうのは20歳ぐらい違うんですかね。だからエビについて書く時は村井さんねっていうのは、最初っから決めてたみたいですね。あれはやっぱりトロールの問題があって、環境被害とか、マングローブの伐採っていうのもあるんで、「いい加減エビ食べるの止めたら」って、村井さん書いているんですね。
それをめぐって結構ディスカッションしたとは言っていました、どこまで書くかっていうことで。それは聞いたことがあります。「僕はバナナには食うとも、食うなとも書いてないよ、それはそうだろう」っていうのはここにある感じで言っていましたけど。
でも、その辺はもしかしたら村井さん自身の自分のもちろんポリシーもあって書いたんだと思いますし、僕、実は村井さんはあんまりお付き合いなくて、私、ナマコを一生懸命やっている時にいつも後ろから冷めた目で「そんな好事家なことばっかりやってていいの」って視線を感じたんですよね。それが怖くてなかなか村井さんには言えなかったんです。
清水:村井さんはご自分のフィールドを持ってらして、民族誌というか彼自身が生活誌と呼ぶものを書いているし(『スンダ生活誌』)、また今流行りのmuti-sitedあるいはmulti speciesの民族誌といえる『エビと日本人』を書いていますし、だから彼も鶴見さんと同様に、社会問題と積極的に関わりある、「応答の人類学」を試みた人といえるんじゃないかな。鶴見さん村井さんを直接の先輩であり先達であり、赤嶺さんご自身もそのお二人を身近に見ながら、敬服敬愛し、従い時に反発しながら自己形成をしてきました、お二人は自身の導きであっただけでなく、人類学の開放=解放を少々早すぎて、またそれと意識せずにやっていったと言い切ったほうが、われわれが刺激を受けて、必死に考える契機になるような気がします。
先ほど香月さんにも、「宮本さんは人類学者だって言ったら嫌でしょうか?」っていうのをお聞きしたのは、僕自身は結論出ていて2人共人類学なんだと、と勝手に決めているからなんですよ。そのお二人を人類学者というふうに捉える、あるいは勝手に解釈することによって人類学が面白くなる。特に鶴見さんと村井さんは、私にとってとても重要なんですね。というのは、70年代から90年代にかけて、日本では山口昌男さんが大スターで、記号学・解釈学の人文学が岩波をはじめ出版界とマスメディアを巻き込んで脚光を浴びていました。もちろん山口さん以外にも多士済済でした。でも、今になって後知恵で振り返ると、あの輝きは、高度成長からバブルへと豊かになっていった日本社会と表裏一体のものであった。高度大衆消費社会とは、記号の戯れに身を任せ、意味の消費に便益の満足を超えた快感を覚えるとか、という広告会社やメディア関係者のバブルへの乗りの良さに支えられていたような気がしています。でも、同時代の伏流水として、ベ平連から続く、もう一つの動きがあったというように思えるのです。その伏流水は、そろそろ地上にでてきてもいいんじゃないかな、と思っています。
もっとも、鶴見さんや村井さんのお仕事を、厳密な科学的(?)手法から価値判断する研究者のなかには、「なぜ2人が学者や研究者と言えるんだ。」とか、いろいろ悪口を言う人がたくさんいたんですよ。
赤嶺:分かります、分かります。
清水:学問的な手続きとして文字資料が十分でないとか、考証がなされていないとか、だから歴史学者じゃない、って言う人もいたけど、そう言われたら、歴史学でなくて結構です、人類学者として十分なお仕事です、って言えばいいんですよ。
ただ、そのようにあえて開き直って断言したときに、じゃあ人類学者って何だって言える必要があるんですね。いろんな定義ができるだろうと思いますけど、私自身は、フィールドワークをする現場を持っている、それをエスノグラフィに書くこと、この二つは基本的な要件だと思います。それで必要十分か、と挑発されたら、少々込み入った議論になりかねませんが、おおよそ、それくらいの説明でいいんじゃないかな、と思います。
赤嶺:そうですね。
清水:少なくともフィールドワークに関して「現地の言葉できなかったから人類学者じゃない」って言われたら、僕は北部ルソンの先住民・イフガオの調査を毎年15年続けましたけど、イフガオの言葉は結局は覚えられなかったんですね。冬休みや春休みを利用して、長くて1カ月、割りと多いのが1週間か2週間の滞在でした。ですから、最初は勉強したんですけど、すぐに覚えて、翌日にはさっぱり忘れている。ほんと言葉は若いときに身につけなければだめだぁ、50に近いおじさんに新しい言葉覚えさせんなよっ、ていう感じで開き直りました。私のフィールドワークは、調査助手や通訳を使わず、直接に会話するという流儀ですから、国語であるタガログで全部やりました。学校教育でタガログ語と英語をならいますから、というかそれで高等教育は行われますから、年寄りを除けば、皆、喋れるのですね。必要なときには、その場に居合わせた人や友だちに、イフガオ語とタガログ語または英語の通訳をしてもらいました。
だから鶴見さんの仕事は人類学者の僕の調査と同じだし、イフガオの前のピナトゥボの調査では初め1年半住んで、でも何か事件でも起こらないかぎり、ただただ単調な毎日を繰り返しダラダラと暮らしていただけでした。鶴見さんは、僕よりも年取ってるのにセンスがいいから、短期の滞在だけど、何ヶ所も見て回り、「マルチサイテッド・エスノグラフィの調査をした」って言えば、本当にね、彼こそこれからの未来の人類学を先取りした人類学者だっていうことになります。彼のお仕事を再読・再考・再発見することによって、応答の人類学の世界が広がってくるっていうことをすごい期待しているんです。
赤嶺:僕が「ありがとうございます」って言うのは変ですけど、鶴見さんは、これ、難しいんですけど、彼もずっとフリーランスでやってこられて、国際文化会館であれは親米の組織みたいなんで、アイハウス、インターナショナルハウスっていうのかな、英語では。やっぱりそこで反米を打ち出した瞬間、窓際族になっちゃうんです。
だからこそちょっと給料をもらいながら好き勝手できたんですけども、フリーランスで生きてきて最後60超えて大学に勤めて、やっぱりちょっとうれしかったと思うんですよ。
それを認められた。変な言い方です。こっから僕の深読みですけども、やっぱり親戚は鶴見和子・俊輔さんという、いとこですよね。素晴らしい知識人がいて、やっぱりそことのライバル意識っていうか、それは絶対あったと思います。やっぱり「俊輔から、この前褒められたよ」ってうれしそうに報告なんかしてました。「俺の書いたあれをね、結構、褒めてんだよね」なんて言って。だからその辺の大学っていうのはやっぱり俊輔さん・和子さんに褒められるとか、そういうライバル意識が当然あったと思っています。
鶴見さんが人類学者かどうかっていうのは、彼どう思うか別として、僕もさっきのアナ・チンの本を読みながら、これ、やっぱり一緒じゃんって思いました。共同研究とか、まさにそのとおりです。それは今でこそ、こうやってアメリカではやってて、その前の『現代思想』の特別増刊号でいろいろ出てますけども、「そんなの、前から、20年も前からやってんじゃん」っていう感じですね。「俺だってそうだぞ」みたいな(笑)。もちろん難しい議論はちょっとついていけないところもあるんですけど、それとは別にスピリットというか、精神は、まさにそのものですよね。それで人類学会が活性化するんであれば、私もちょっとぐらい貢献してもいいかなっていう、そんな感じですよね。
清水:これ、人類学の学会と縁がなさそうだけれども、マージナルマンとしてご自分を定義してね、例えば6ページに書いてある最後のところなんて「身体的な実践によって知識人もまた穴掘り職人や権力への助言者」と言ってます。人類学への自己批判を外からというか、中から問題化している、その前に代弁者ではなくて通訳、つなぐ人であったり、マージナルマンだったり自覚している。それは基本的には当事者主権、当事者の表象の権利を尊重するという問題と直接に関係しているんですよね。
現地のネイティブ・インフォーマンと外部からやって来た外国人の人類学者が、調査においてどのような関係をち、成果の本や論文・エッセーをどう書くかと。その問題を真面目に考えると、アメリカでは表象する権利の問題になってね、権利の問題と権利の行使の仕方でいかなる絵を描くかという風になってしまいす。弁護士がたくさんいるアメリカ社会だから権利問題になってしまうんでしょうけど、鶴見さんは、多分そのあたりの議論をずっとよく分かっている。それは表象や権利の問題ではなくて、どうせ僕はマージナルマンでつなぐ人なんで、だから、それを日本に伝える、日本と結んで問題の解決につなげてゆく、という風に考え、実行したんじゃないかな、って思うんです。ある意味では運動と結び付いて世の中良くするということに関わっているからこその実践とか、そういうことも含めて、応答の人類学を先取りしていたっていうふうに読み直したらすごい面白い世界が現れてくるに違いないと信じています。
赤嶺:だから僕自身よく分かって、そのマーカスっていう人も結構運動をやっていたみたいですね。だから同じ世代の人で。
清水:ベトナム戦争の時、青春を送った人の…
赤嶺:そうです。そうだと思います。
清水:良質な部分が。1番良質な人は大学辞めて、研究者を辞めて大学を去ってしまうんですね。これはアメリカの場合で、確か経済学者の佐和隆光さんが言ってたと思います。そして2番目に良質な人は大学に残り、辞めていった友人に負い目を感じながら、革命は無理としても、社会改良につながるような研究を模索するんですね。現状を、体制をささえる既存の枠組みを考え直そうとか。
赤嶺:だからやっぱりベトナムっていうのは大きかったんだな。
清水:大きかったですよね。
赤嶺:そこが僕自身のまさに身体的に理解できていないところあるんで、ちょっとそれが。ちょっとすいません、余談なんですが、ベトナムで言うと、前の大学でちょっと名古屋の大企業の人が非常勤理事やってて、どうしてもタイに学生を連れて行きたいと。その方は大阪外大だか、東京外大のタイ語学科を出てて、タイ語もとっても上手だし、個人的に少数民族を支援してきて「そこに学生を連れて行きたい」って言うから、教育担当の副学長が「ちょっと、赤嶺さん、連れてってよ」って言われて「いいっすよ」って行ったんですよ。
まず、下見にその人と2人で行ったんですけど、少数民族支援のNGOの簡易ベッドに寝ている時に「こっからベトナムの国境まで戦闘機だと10分かかんないんですよ」って。「うん?」と思ったら、彼はそこに行っていたんですよ。最前線。ベトナム戦争の、戦争の最前線に営業に行っていたわけ。その話に僕びっくりして、物腰も柔らかいし、タイ語も上手だし、タイのことよく知っているし、その温和な紳士と戦争というのが全然僕の中で結び付かなくて、ウワッという感じでした。それも含めて、やっぱりちゃんとベトナムのことを勉強しないといけないなっていうのがあるんですよね。
だから戦争、まさにさっきの捕鯨と一緒でいい、悪いとかじゃなくて、どういう形で関わってきたのかっていうことをちゃんと押さえないといけないなっていうのは本当に感じているんですよね。

飯嶋:僕のちょっとコメントは半分ぐらい教育に関わっているような感じだったけど、亀井さん。
亀井:2つ関心事があって、1つは例えばバナナやエビやそれぞれあるものに着目して世界を見ていく、感じていくっていう時に、ものへのこだわりっていうのは前半のお話と結構後半のお話に距離を感じたんですが、誰に向けて明らかになったものをメッセージを発していたのかな。
例えば、それこそ大学の初年時教育とかで『バナナと日本人』とか言って、私たちの身近な食物の背景がこんな抑圧がある世界が見えたのかっていう感じで、日本の特に若い読者なんかを啓発する上で、非常に効果のある実践だというふうな実感があるんですけども、それはやはり何となく食卓を囲んで知らずに過ごしている日本の読者を啓発するみたいな狙いがあったのだろうか。
それとも、やはりそういう構造を明らかにすることでフィリピンとか、東南アジアの人たちも含めた何か新しい社会を展望していて、そっちにも届けていこうという意思があったのかなっていうところがちょっと気になりました。
それからもう1つは、運動へのコミットの仕方ということで、実際平和運動ベ平連の運動とか、自由学校でしたっけ?アジア太平洋センター、立ち上げたりしている。かなり運動にコミった後に「私は調査報告書出すだけにする」っていうふうに言っていて、ある意味ストイックな自分のつながり方を律していくっていうのは、1つの潔い立場かなと思うんですけども、これはやはり相当暴れまくったと言いますか、活動を存分にやった上でのある種の身の引き方というふうに理解するのがいいのかな。それともやはり彼なりに実社会のコミットの仕方は、研究者としてやっぱり職能者でしたっけ?そういう領域に本業に立ち返るのが望ましいみたいな感じで変化があったのか。
つまりこれからも僕も調査法とか身に着けて世界に出ていくような時にも、やはり調査報告書を出すような禁欲的なスタイルを推奨していったのか、それともやりたい時は存分にやって、そろそろ体力も衰えてきたからそろそろ身を引こうかというようなモードでこの発言が出たのかどうだったのか。運動との距離の取り方。
赤嶺:ありがとうございます。最初は、これ、彼も笑いながらというか「いや、差別だよね」と言いながらですけど、基本は「女・子どもも分かる文章」と言っていました。すいません、女性の皆さん。だから大学ではないんですね。新書っていうこともそうだと思うんですけど、今、大学生でも新書なかなかきついかもしれない。高校生ぐらいまでを念頭に、高校生でも読めるっていうことを彼は意識していたと思います。思いますじゃない、そう発言してました。
その時にはやっぱり消費者一人一人が変わっていかない限り変わらないだろうという確信というか、信念があったと思うんですよね。「車、自動車の産業のことを書いても」っていうのは、その通りで、やっぱり車っていうのは大人なので子どもたちも含めて、あるいは家庭の主婦も含めて巻き込むには食材というのがぴったり来たという、狙っていたし、結果的にそうなったんだと思います。
運動へのコミットメントですけども、これはやっぱり日本の運動が弱いっていうことを勉強せずにデモでは変わらないっていうことは前から思ってたはずだし、そのじくじたる思いで俺はその代わり自分で調査をし、手の内も見せるし、アジア勉強会を私的にやるよと。だからアジア勉強会の中でデモもしつつ、一緒にやった人って結構いるんですよね。吉岡忍さんとか、足立倫行さんとか、あの人たちはアジア勉強会そのものかどうかは別として、ベ平連でずっと鶴見さんの周りにいた人たちなんですよね。
ですので、やっぱり日本の運動の問題点っていうのは、リサーチ力の弱さですね。それは今のNGOも、もしかして言えるのかもしれない。NGOもそうですよね。「反対」って言うだけではなくて、なぜ、どういう問題があるのかっていうことをちゃんと外務省に突きつけるぐらいのリサーチ力がないと力を持ちえないだろうっていうのはあったと思います。
亀井:ある意味で自分が調査をちゃんとやって運動に提供していくっていうのは、日本の運動が弱点を自らが補うんじゃなくて…
赤嶺:そのつもり。これ、50歳という年齢もあるので、身体的に疲れることもあると思うけども、やっぱり残りの時間何をするかってやっぱり考えた時に、デモだけでは世の中変わらないっていう、現実を直視した結果じゃないですか。
亀井:1つ目の方ですけど、誰にでも分かる身近な食材でっていうアプローチ、本当に分かりやすくて面白かったんですが、実際バナナやエビの生産に関わっている東南アジアの人たちに対して、あるいはそういう人たちと共に何かそういう成果を分かち合ったりとか、何か書き物でもいいし、ワークショップみたいな、当時でも、あるいは運動へのコミットメントでもいいんですけども、そういうような関わり方は残っていらっしゃるんですか?
赤嶺:そこが多分、村井さんとの決定的なちがいになりまして、村井さんは自分でエコシュリンプとか、向こうの漁民とつながって、エビを日本に入れるとか、自分でもやっているんですよね。ただ、鶴見さんの場合は、自分じゃないけども、その後ネグロス島の問題、サトウキビの問題があって、そこで農地改革の問題もあってエビができるとオルター・トレード・ジャパンみたいなところが関わるわけ。それはあくまでエビですから。
あるいはその会社がバナナを入れたりするんですけど、鶴見さん自身が売るっていうのもないし、これ、英語で『バナナと日本人』の大本の報告書はエスキャップか何かで英語で出している。アプローチ方法が、村井さんとはずいぶんちがうなぁ、って思います。
亀井:じゃ、私は。ありがとうございました。
赤嶺:あと、すいません。ものすごくランディ・ダヴィットっていう今フィリピン大学の名誉教授というか、ベテランですけど、あの世代、ずっと東南アジアにはかわいがっているというか、仲のいい人いっぱいいるんですよね。それって多分、今でもあんだけ広いネットワークを持った人っていうのはそうそういないんじゃないですかね。それは日本に留学してきたタイのスリチャイさんだとか、いろんな人もいるんですけどね。すごくやっぱり幅広く東南アジアの知識人をちゃんと若いころから交流してきた方ですね。

飯嶋:赤嶺さんの方の発表に期待して多分出席されている方もいらっしゃると思うので、個別の質問、答えていると多分長くなっちゃうかもしんないから、こっちのだけで個別の質問がもしあったら、質問だけ例えば投げかけてもらって。
赤嶺:いいですよ。
飯嶋:総合ディスカッションの方に入ろうかと思うんです。
赤嶺:一応、私、e-mailも載っけておけましたので、もし何かあれば。
飯嶋:いや、今、今。45分かそのぐらいまでそれをちょっと受け付けを。はい、どうぞ、皆さん。こちらの方で個別に聞きたいことがあったら。
フロア:アフリカでバナナのことを研究していて、共同研究でいろんな世界のバナナについてし始めているというか、してるというか、感じなんですけど、生態的学からやっているんでこういう運動とかとはまだあんまりそんなに関わってはいないんですけど、1つアドバイスというかもらいたいことがあって、『バナナと日本人』を最近読み直したんですね。
読み直してみたら、すごく冷静というか、今まで評価されていた告発本みたいなのじゃなくて、すごく植物学から何もあって、生産で流通っていうすごくオーソドックスな本になってて、学生とかが読んでも手本になるような手順で書いてあって、構成というか、ちょっと今回の運動論とは全然違う発想になるんですけど、本とか、ヤシとか作る時に、そういう構成というか、どういう戦略で順番に並べるみたいなのって鶴見先生は考えられていたんですか。バナナだけではなくて。
赤嶺:ただ、やっぱり材料によって多分大きく規定されると思うんですけど、バナナの場合はフィリピンのミンダナオっていうすごい特殊な土地、一般に言えばキリスト教の国でムスリム。でも、「ムスリム」と言いつつも先住民がいて、なおかつ、戦前から日本人の移民がいて麻を作っていたという、いろんなごちゃごちゃの歴史の面白さみたいなのを1つベースにしてるんですよね。だからそこをやっぱり分かってほしいっていうのが1つあったと思います。なぜミンダナオなのかっていう。
フィリピンだってアメリカとの関係で言えば、どこでも良かったわけですよね。もちろん台風が来るから台風来ないとことか、そういう選択はあったにしても、何ヘクタール、何千ヘクタールの土地が得られるっていうのは、やっぱミンダナオでしかありえなかったし、そこの歴史を語る複雑なところを分かってほしいというのがあったと思いますね、1つはね。
だからそれがエビでも、ヤシでもいいかって、多分またそれはそれぞれの事情っていうのがあると思うんで。
フロア:ものによってやっぱり構成を考えないといけないですよね。
赤嶺:思います。ただ、マツタケ本もそうなんですけど、やっぱり学際的というか、これは菌ですから菌の話とか、菌と松との共生関係とか、すごい自然科学の話もいっぱい散りばめられてて、やっぱり生物学的なものと商品という2つをうまく、それとその背景にある社会とか、歴史とかそんな感じですかね。
フロア:今バナナで話題となっているのが遺伝子組み換えのバナナの問題とかあって、これから最近ニュースでよく出始めているんですけど、それをどういうふうに扱おうかなっていう。私が研究しているウガンダという国で遺伝子組み換えの研究がされているんですけど、それに対して研究してきたら、どういうふうにアプローチするとかっていうのが。
飯嶋:そうですね、見えにくくなるもんね、問題がね、すごくね。
赤嶺:それは病気の関係ですか? 生産性?
フロア:病気の関係でやっぱり遺伝子組み換えを入れないといけないことがあるんですけど。それで何か。
赤嶺:いや、それで悩ましいのは、さっき言ったアブラヤシは他の油脂植物、大豆とか、トウモロコシとか、綿とか全部遺伝子組み換えなんですよ。アブラヤシだけがほぼ遺伝子組み換えじゃないので、堂々と自由に輸出できるというまた逆な意味で問題なのか、そういうものなのか分かんないんですけど。
だから遺伝子組み換えっていうのはやっぱり大きくマーケットできいてきますよね。今の現状だとEUは入れないし、日本も入れないことになってますよね。仮にウガンダがそういう開発をしても、それがフィリピンに行ってもなかなか日本には入れないですね。それは経済的にどうかとか。
フロア:そうですね。アフリカの場合だと、昔日本がアジアで開発してきた緑の革命が似たように今アフリカで革命を起こしてるっていう、そういうふうに警鐘を鳴らしている人がたくさんいて、それに対して何か言えるだろうかっていうふうな、そういうちょっと大きい問題かなと思っているんですけど。ありがとうございます。
赤嶺:いやいや、すいません。
飯嶋:1回赤嶺さんの発表はここで区切りにして、どうもあり

□総合ディスカッション
飯嶋:自己紹介がてら伊藤君からぐるっと回そうか。
伊藤:北陸先端科学技術大学院大学の伊藤と言います。よろしくお願いいたします。今日、いろいろ考え方あるんですけども、さっきのお話で旦過市場を訪問したとき(公開シンポジウム『フィールドワーク教育ってなんだ?』、於 北九州大)に、僕なんかはクジラなどを食べて楽しく過ごしただけなんですけど、赤嶺さんはちゃんと調査をやってたんだな、と。フィールドワーカーだなと感じました。
自己紹介しますと、学問や学って何だ、というのが博士論文の辺りからの関心で、ニュージーランドの先住民のマオリ学という、先住民の学と人類学との関係を調査しました。今日「いかがわしい」っていうのが褒め言葉だという話に勇気付けられたんですけど、ビジネス人類学、さらには企業のコンサル的な仕事(産学連携の事務方が営業で仕事を取ってきたりします)ということにも従事しています。
先ほどの語彙でいうといかがわしいですね。そういったビジネスと、人類学も含めた「学」との関係を、最近は調査しています。先住民とはまったく違うことをやっているようで、でも、学(学問)って何だということを考えているという意味では、自分の中では割と一貫しているみたいなところがあります。ところで、さっき清水展先生から、興味深い論点、すなわち、宮本常一も鶴見も、こちら側から勝手に人類学者とみなそう、それによって面白く広がるっていうお話がありました。僕も、まさにその通りだと思います。別に元指導教官だからとか、おべっかで言っているわけではないんですけど、そうだと思わされました。
ただ、そう思う反面、それとは逆もあると思っています。「宮本常一を人類学者である、鶴見も人類学者である」とみなすというのと逆で、「かれらは人類学者じゃない」って言うことも面白いかなって思うんですよ。
今日のお話とかでもそうですし、鶴見も宮本もそうだと思うんですけども、「学」が先に来てるわけじゃないんですよ。明らかに、いろんな運動だったり地域の課題だったり、そういうものが先に来ていて「学」っていうのは後なんですよね。
これは「応答の人類学」の研究会ですから、我々の側から言うと、人類学として、応答をどういうふうにかんがえるかという問いが先にきています。「学」、人類学が先にあって、そこから宮本や鶴見をみている。彼らを人類学者と見なそうというのはこちら側(学)から言い分なんです。
そのへんの違いというか、幅があるところにも、可能性があるんじゃないかなって思いながら、清水先生の意見に片方では賛同しつつも別の振り方もあるんじゃないかとおもって聞いていました。
(鶴見の)デモでは何も変わらないとか、在野のリサーチ力とかいろいろ議論がありましたし、「女・子ども」が大事なんだという鶴見の考えもありました。鶴見は小学校で授業とかやっているんです。子どもがどういうふうに「バナナと日本人」の話を聞いたかなど、鶴見の全集のバナナの巻にありますが、随分面白く読みました。「女・子ども」とかっていうふうな考えがまずあって、「学」というのはちょっとやっぱり後に来るんですね。
鶴見・宮本の両方ともフリーランスみたいなところから、最終的には大学教員にもなるわけですが、しかし大学教員のカテゴリーからはみ出すみたいな、そういうところの面白さというか。ちょっと僕らとは違うところに、応答の可能性を読み取れるのではないか。
さっき、僕ちょっとうまく聞き取れていなかったかもしれないですけど、(宮本常一の関わった猿まわしについて)「半芸半学」っておっしゃったんですね。半芸半学。ただし、ごちゃまぜではなく、クロスオーバーさせる。だとすると、宮本は民俗学者っていうふうに言われますが、宮本にとって民俗「学」って何だったんだろうとか、あるいは鶴見でも、自称としては「歴史ルポルタージュ作家」、ルポルタージュ作家なんですよね。学との距離感、学者との距離感を見つめてみる、どう考えるかという問いがあるかとおもいます。
さらに、翻って、われわれみたいな「学」というか、人類学者は大学で・・。
飯嶋:給料もらってる。
伊藤:大学で給料をもらってるわけですよね。宮本の言う「虚業」じゃないですけど、そういう立場からそれを宮本常一らを「人類学としてみなす」とはどうなるんだろうと。別に答えがあるわけではないですが、そこらへの距離も1つ議論としてあるのかと。両方の振り幅が考えられるんじゃないかなと。清水先生の言葉に触発されてそんなふうに思いました。
飯嶋:面白そう。
清水:よろしいですか?
飯嶋:はい。短めに。まだ自己紹介終わっていないから(笑)。
清水:今、伊藤さんの話を聞いたら、そうだよな、誰でも面白い人を人類学者に入れてしまうと、人類学者の系譜を最大に広げてたどって、けっきょく人類学の誇大広告をして、延命策を図っているみたいになりかねないですね。
飯嶋:人類学者は面白いけどっていうことですね。
内藤:早稲田大学理工学術院の内藤と申します。今日はお2人に偉大な先生方の話を伺って最初にやっぱり給料をもらっているということですごい一撃を受けました。今日いくつかのキーワードがあったなか印象に残っているもので、「さもしさ」という言葉がありました。
私はそのことを「下心」と表現してきましたが、めったに出会えないような研究対象とか、現場に入っていくときに、これはやっぱり聞いて調査して書かねばならぬみたいなことがあります。フィールドで「さもしさ」を受けとめてもらう甘えがありつつ、ただ、徹底して心がけているのはそこにいる人たちのためにならなきゃいけないということです。役に立たねばと脅迫にかられたり、差し迫って突き詰めてはいないのだけれども、常に考えてやっているところがあって。
それから、伊藤さんと一緒でわたしも理系分野で人類学を教えていて感じることですが、わりと人類学のステータスが低くないというか、フィールドワーク関連のうけがいいところがあります。人類学は「素直なよそ者」として徹底してフィールドで対象や現場に向き合うプロセスを述べることをしているわけで、その営みに終わりはありません。あらかじめ、「こういうのが人類学だよね」って言っちゃうと、勝手に枠組みを逆に作っちゃうみたいなところがあるんですよね。
飯嶋:その話、ちょっと香月先生とメールのやりとりの中であったのは応答ってそればっかりやってて本業をおろそかにして。
香月:ごく形式的な言い方になるんですが、つまりここのテーマを含んで論文を書くのか、向かうのか、含めないでいわゆる「論文」で勝負して、ここはここで何か処理するのか、対応するのか、それどうなんだろう。
飯嶋:そうですね。
香月:これはフィールドの中のテーマとして取り組むんだったら、そこで読みごたえのある論文にまずトライしてみるというところなんですよね。
飯嶋:そこでどっちで議論取るか全然違ってきますもんね。
フロアA:私、今日何で来たかって言うと、バナナの研究してるからなんですけど、「バナナの足研究会」っていう研究会をですね、私の先輩が。それは鶴見良行の『ナマコの眼』ですね。『ナマコの眼』っていうところから発想で足っていう研究会を私の先輩が立ち上げて。私第2世代っていうか、後輩にあたっていて、みんなでいろいろやったりとかですね。
今はもうちょっと違うメンバーとかちょっと入れてやっているんですけど。私のですね、もともとはアフリカで研究、フィールドワークっていうことで入っているんですけど、香月先生がおっしゃられた「いかがわしさ」っていうのは、やっぱり私も最初フィールドワーク行く時に全然なくて、やっぱりフィールドに行ったけど面白い何かセンスというか、そういうのなくて困ってはいたんですけど、ちょうどそこの調査してる地域がたまたまというか、最初に先生から言われて「行け」というふうに言われてバナナが主食だったんですね。
愚直に栽培とか、どうやって食文化とかですね、そういうのを作っていったらずっとのめり込んでいって、ずっとバナナ、15年ぐらいですかね、勉強してるんですけど、その関係で今ままで来ています。
飯嶋:コメントまで素直だ。
中:鳥取から来ました、鳥取大学です。私、思った以上にすごく楽しくお二方のお話聞けて良かったです。先ほど何人の方から言われているアイデンティティの問題には考えさせられることがありました。学者なりワークの。結構重大なところで、地域学部というところにいるんですけど、地域学部での役割を考えることが多いです。エリアスタディじゃなくて「地域文化学科」っていうふうに言うんですけど、何なんだろうなあと考えること機会がたくさんあります。一方また学生は「人類学」って言うと「はーん」という顔をされるので、学問領域をどういうふうに分かりやすく説明するかなっていう辺りですよね。
ネームで学が先に来て問題とかいろいろあるのになあと思いながら聞いてたんですけど、お二方の話を聞いてどういうふうに学生にとって、研究だけではなく、教育面について、結構面白できるのかなと思いました。その点で、お話の中のシステムづくりというかというか仕組みをどのように作るのかについて興味深く聞いていました。
学生が面白さを見つけてそれを彼女、彼らなりに追究なり、伸ばすなり、展開させる仕組みとかですね。仕掛けはすごく悩むところで、海外に連れて行ったりいろんなところに地域連れてったりするんですけれども、観光旅行のちょっと違うバージョンと思われちゃうので、そこからどうしたらいいのかなっていうのを非常に考えさせるところでした。
最初のお話の仕掛けというかですね、いろんなそこまで見てやっていたんだという話を聞いて、そうかって思いながらそういうふうにそこまで人を動かせるかなあということを思ったりもしました。
あと、もう1つは長いスパンで見るっていう内部考査ですよね。人類学者であれ、何であれ、学者であれ、学者でなく、給料もらう時点っていうのはある。ずっと学生とかってその間に何か入る人もいますけども、仕事をしてお仕事終わるという、その流れみたいないろんなその時々の情勢も¥あると思いますけど、この辺がお話の中であって、ああ、と思いつつもうちょっと聞きたいなというふうに思いました。
飯嶋:ありがとうございます。
フロアB:よろしくお願いします。私は皆さんのように大学で教えているのではなく、アマチュア無線連盟という。私自身も無線をやっております。あと、地震、東日本の地震の時にやっぱりアマチュア無線がどう関わるべきかみたいなのがありまして、いろいろやっていろんな方法で関わったんですけれども、また熊本で起きまして、またどうするかっていうのがありまして。
それで文化人類学会の災害人類学の方でまた顔を出して、今日は何で来たかと言いますと、このメールがすごく目に入って宮本常一さんのこれは絶対聞きたいなと思って、1日早く学会に来るのにいいかなと思って1日早く来てみました。
私は一番最初に入ったのが民話から入りました。世界文化人類学なんですけど。でも、その時はまだ文化人類学はやってなくて、民話って面白いなっていうところから入ってフィールドワークやっているうちに宮本常一さんに出会いました。
それで同じ民話の会に入ってらしたんですけども、でも、私は直接お会いしたことはありません、話だけ。私が入った時は亡くなりすれ違い。お葬式がどうのうこうの。すれ違いで。それだったらもう1回文化人類学学んでみようと思ってやったのが、すごくきっかけが宮本常一さんのこのフィールドワークの本、私もだいぶ読ませていただいたんですけど、いろんなこと。これは絶対行かなくちゃと思いました。すごい、ああ、そうなんだ、そうなんだ、すっきりしました。
香月:自分のことで言いますと、私の知り合いの東北のいかがわしい人間がどんな動きしてるかって後でもし時間があればお話しします。とんでもないことやって皆さんを元気付けてるから。
フロアB:私もアマチュア無線にすごく元気付けられた人たくさん知っています。仕事で電話をアマチュア無線やってて良かったって。こんないいこともあるんだとあらためて思いました。
飯嶋:ありがとうございます。どうぞ。
フロアC:今、名古屋港の周辺港町っていうところで町づくりの仕事をしていまして、同僚と一緒に町づくりの仕事をしているんですけども、私自身は人類学っていうものをきちっと勉強したわけでもないですし、バックグラウンドにあるわけでもないんですけれども、青年海外協力隊とか、あと、NGOとかを通じてアフリカに行ったり来たりで5年半ぐらい活動はしているんですね。
今は町づくりの仕事で名古屋と港町と呼ばれるところで日々地域の方々と交流しながらそこの課題であったりとか、どうすればいいかみたいなことを話し合いながら関わっていると同時に、昨年からは地方創生の動きがある中で愛知県のある小さな町の地方創生の総合戦略を作ったり、地域のこれからの町を考えるっていうところのアドバイザーと言いますか、コンサルティング的な関わりで入らせていただいているんですけれども、そこでもやっぱり私がやっていることというのは、私が解決策を持っているわけでは当然ないので、その地域の人たちに自分たちのこの町にどういう思いを持っているのかですとか、この町にあなたたちどう暮らしてきたのかとか、どうしていきたいと思っていますかみたいなことを聞いてそれを私はどちらかというと聞くだけですね。
返すっていうことも特にしているわけではなくて、個人的に聞いたりとか、それを地域の人たちが集まってみんなでそういう話し合いの場を作ったりとか、そこに私がどうしていきたいかちょっとみんなで話し合いましょうみたいなことをして、何か出てきたものをまとめるですとか、次の行動に動かすっていうか、そこのお手伝いをするみたいなことをずっと仕事にしているんですね。
なので、どちらかというと現場で聞いたものをそのまますぐにその人に返すみたいなことも媒体になっていると言いますか、そういう形でずっと関わってきているんですけれども、今この町づくりの仕事で、今日来た一番の目的はそこにあるんですけれども、どちらかと言うと本当に聞いてその場で返して次に動かしていくっていう活動につなげていったところから、ちょっともう1つ町づくりの中長期的な活動の1つとして、それをアーカイブにしていくですとか、それを町の財産と言いますか、何か記録としてきちっと残していくとか、それを何かの形で発信していくみたいなことをやっていければいいなということの思いがあって、今日香月先生も宮本常一さんもされてた地域の人たちの話ですとか、写真をきちっと記録を取っていくですとか、赤嶺先生の聞き書きのクジラの本とかも読ませていただいて、今日はお2人ともちょうど私が聞きたいなという興味がある分野で、私、そういうことを現場でやってきた分、この研究みたいな形でそれを論文にするですとか、書いてまた違う誰かに発信していくとか、見せるみたいなことをしてきているわけではないので、そこについての何かヒントと言いますか、自分の関わり方みたいなところが何かヒントが得れればいいかなと思って参加させていただきました。
何か質問とかということは特にまだ自分の中で整理ができていなんですけれども、非常にいい勉強になりました。ありがとうございました。
フロアD:同じ職場で同僚で今町づくりの仕事をしています。僕自身は町づくり学生時代から関わってて20年にはならないですけど、随分長いことやっているなというような気がしてます。ただ、僕の学生時代、町づくりの授業大学になくって、町づくり学とか、都市計画でもなくて、普通の経済学部で経済政策で商店街の活性化みたいなのりでお店をやるみたいなことを学生時代からしながら、愛知万博を経験したりしながら、今の職場で仕事をしてます。
今日お話を聞いていると、僕も現場入ると僕は同僚と違ってめちゃめちゃ走るんですね。やりたがりなのでどんどん手出します。ただ、実際ここは共通しているんですけど、町の人たちが自分で最後やんなきゃいけないので、僕も思っていて、だからすごく大事なところで実は手を抜いたりだとか、最終的にどうやってやったら預けられるんだろうかとか、その中でもちろんすごくできる商売と言えば手を出さないとか、そういうことをやっている自分がいるわけです。
そうなってくると、出す方がいいとか、出さない方がいいとか、それはどっちでもよくて、ただ、共通しているのは地域が自立していくっていうことはおそらく大事だと。今、地域っていうのは本当にデザイナーとか、研究者とかいろんな種類の専門家が集まってきて、僕もいかがわしいというところだけ読んでも面白くなってきてるんですね。非常にグレーにっていうか、ミックスでいろんなことができてて、町つくっているのは行政の人だけじゃ実はなくて、その中で何となくそのことに本気で関われていない人たちが住民みたいなことになっちゃうんで、実はすごくもったいないと思っていて、その人たちをどうやってやったら自分の町を自分で面白がられるんだろうか、やる気になっていくのかみたいなことを日々考えています。
今日は宮本常一さんが歩いて、聞いて、見て、あんなの僕コピーのショルダーで使ったりしながらフリーペーパーを作って、僕は町に入っていきながら町の人たちと出会って、面白い聞きながらそれをストーリーにして、主人公にして新聞作るみたいなことをしながら町に関わって、そういうやり方を今していて、とても参考にさせてもらった方々のそういう話をちょっと間近で聞いてみたいということで今日は来てすごく面白くて。
飯嶋:何よりです(笑)。どうしましょう。ぐるっと回ったから1回講演者のお2人に。
香月:この中で一番年長者僕かな?
飯嶋:そうでしょうね。
香月:そうですよね。
人生半分枯れてるのかもしれませんが、全体の話聞いてて真面目だなと思います。何でそこまで理詰めで考えようとすることだけですすめようとするのかなと思って。感覚の部分をどんなふうに付き合っているのかが出てきてないなと思う。「初心」に息づいていた感性の躍動みたいなものがもう少し見えてもいい。臆面もなく問題意識の中にあらわれてもいいんじゃないか、と。僕は7年前まで大学で勤めていたんで、大学院生と会うと好きなことをやりに大学院に来ている自分の存在をまず大っぴらに自分で肯定してあげていいんですよね。
でもね、彼らは自分の書いたものに自分の全存在にかかっているみたいな、ビクビクして鎧かぶっちゃうんですね。「お前、それ、逆だろう」って言いたいぐらい。だから彼の力が削がれてしまう。
でもそれを急にはずすと逆に論文が書けなくなるから、彼等との付き合いにはすごく苦労したんですけれども。なんか、そんなことをふと思い出しちゃって。
先ほど例えば宮本常一、民俗学の中でも宮本常一の評価って低い部分もあるんですよ。ただ面白いのは民俗学以外のジャンルで評価が高いんです。これはこれでいいと思っているんです。宮本先生らしいな、って。その不真面目な着地具合。
多分宮本常一という存在は、歴史学研究畑からは出なかったように思うんです。ではああいう人を生み出した民俗研究って何だろうって問題設定すると、もう少しフォーカスが絞れてくるんですね。今の民俗学はこうで、宮本はこうだからみたいな関係性ではなくて、ああいう時代にああいうバックグラウンドで宮本を生み出した民俗研究って一体何だろうという、そういう設定でいいような気がするんです。
凝縮したものがないとそこから体系性って読み取れませんし、その体系性がないと想像力って生まれてきませんから。伝承っていうのはそれがあって初めて展開するわけで。フォーカスをどこに置くかということでいいような気がします。
それから、教室で何か教えても、自分がこういうふうに準備してこんなふうに受け取ってくれるなんて思わない方がいいです。受け取るのはそちらの勝手です、と。でも、準備に手は抜けないと。手を抜いたら相手は分かりますから。でも、外れる形で受け取ってもそれは受け手の自由なんですね。そこは腹くくって大らかというか、大まかになっていいんじゃないかと。
それから、鶴見さんにしても、宮本常一にしても使命感もありましたし、戦略もあったけど、それと同じぐらい本人が面白がっているんですよね。それが書いたものから伝えてくるわけで、その面白さっていうのをこっちがどう受け止めるかという論理もあっていいんじゃないのかなという気がしてて。
僕は宮本常一から「フィールドワークで一番大事なものは何だと思うか?」ってポンと聞かれた時に、答えを何だろうと思ってたら「勢いだよ」って言われたんです。一見何でもない話の何でもない言葉がすっと立ち上って聞こえてくることがある。何でもない風景がパッと立ち上がって出てくることがある。それをきちんと受け止めることだ、みたいなことを言われて。
そうするとこれはどう自分のありように素直になれるか。でもうひとつ言えば、フィールドワークって、なぜか人や土地や時に相性があるんです。だから聞き書きだって相性があるんですよ。これは理詰めであまり説明できないんですね。あるっていうことは言えるけれども。
だからね、学生が、ろくな聞き書きしかしてない時に、こっちが「駄目じゃないか」って言って「相性が悪いんです」って返されたらこれはこれで困る。
でもそれ、フィールドワーカーがどう自分の中で受け止めて育てるかっていうのが、何となくフィールドの場合も本質のような気がするんです。そこからは理詰めの展開ができるんです。
さっきの鶴見さんの話を聞いて、宮本常一と似てるとこあるっていうのは結構思うんですね。例えばヤシの研究、「やってみなければ分からない」みたいな。宮本常一から雑談で「お前、試行錯誤の失敗って何か分かるか。それは何もやらないことだよ」と言われて、同じなんですね。
それから、ものすごくね、具体的な1点を押さえるんです。そこを押さえることでパッと状況の見方が変わるんですね。極めて具体的なんだけども、シンボリックなんです。そういうのは、感じた面白さをそのまま受け入れていく、てことがベースでしょう。ここ掘ったら面白いぞ、ありふれてるけど根深いぞ、みたいな。
それから、鶴見さんの「ヤシから何が見える」か。これも宮本の場合は民具の研究をするんじゃない、民具で研究するんだと強調していた。同じなんですけど。鶴見さんのような人がなんでそれまで出なかったんだろうかっていうのが、鶴見さんの本を読んですごく新鮮な思い受けた時に考えたことで。実はそれまでにも日本の商社こんな悪いことしてるとか、日本人は東南アジアでこんなあくどいことしてるみたいな指摘や書物は結構あったけど、鶴見さんのようなアプローチってなかったんですよね。
何であの時期にああいう人が出てたんだろうかっていうのは、僕は民俗研究の中で何で宮本常一みたいな人が出たんだろうかという、そこに重なる問題でもあるんですよ。これは簡単に答え出ないんです。この問題を持って問い続けることでいろんなものが整理されて見えてくる、そういう問題だと思うから。
だから今言ったことはちょっと不良っぽいから差し引いて聞いてください。理詰め、理詰めで考えて棚上げした部分はいつ付き合うんだろうなという感じが少ししたものですから。
赤嶺:いつも香月さんの後でしゃべりにくいですね。
飯嶋:だから理詰めにやっちゃいけないのかなって。
赤嶺:いや、違うんです。まだ上手に考えがまとめられていないんですね。ただ、私もですね、書くものとか、しゃべることと、なるべく実態を近づけたいっていう。これは無理なんですけど、それはやっぱりあって、1つは先ほど長いスパン、ライフタイムっていう話ありましたけども、いま、考えているのは、OB・OG、ゼミのですね、卒業生とどういう付き合いをするかでありまして、学生時代みんなこういうバナナでもエビでもね、東南アジアうんぬんという話をして、商社に入ったらいきなり変わるっていうのは、やっぱりあり得ないわけで、みんなやっぱ悩んでいるんですよね。
そういう時に一緒に話しをしながら、理想の社会について議論するとか、その程度なんですけど、でも、それをこっちも忙しいし、向こうも忙しい。でも、そこをすり合わせて年に1回でも、2年に1回でも、会って話すというのを、今んとこ心がけているんですね。
私、名古屋に13年いて、東京に移って3年目なんですけど、まだまだ名古屋のコミュニティっていうのは生きてて、だからその人たちとお正月に1回必ず新年会。会うだけなんですけど、ただ、それぞれやっぱり壁にぶつかるとメールみたいなものが来て、その時に何か元に戻れる原点みたいなところがあってくれてるみたいなので、頑張ろうかなというところですかね。
われわれ別に革命家でもないし、いきなり明日から日本が良くなるなんて思えないじゃないですか。でも、そうやっていろんな学生を送り出すことに少し自己満足も含めて、そういう存在であったらいいし、でも、それは僕も頑張らないけど香月さんじゃないけど「あの人、最近手抜いてるじゃない」って卒業生たちから言われたら終わりだなと思ってます。
それはやっぱり僕はあんまり論文書かない、本の1章学会誌に書くっていうこと苦手だし、あんまり理詰めはうまくないし、相性が良くないので、だから一般に読んでもらえるような文章を書いて、これはうまくできたと思う時は送ったりしているんですよね。それはPDFですけど。
でも、そういう付き合いを常に卒業生の目っていうのはみんな社会に出て厳しいので、「先生、いい身分ですね」って言われないぐらいに頑張ろう、とそんな感じです。本当にそれに尽きてて、彼らも家庭を持って一生懸命、生活しているなかで、その緊張感は自分としても持っていたいなというのがあるんですよね。
その一方で、やっぱり日常的に東南アジアとの距離が当然離れる時に、「そういえば油脂っていうのは、そうなんですね」というような、常に新しい、「まだナマコですか?」じゃなくて、ちょっとやっぱり新しいネタをこっちも仕入れなくっちゃな、そんな距離感ですかね。
内山節さんですかね、労働を「稼ぎ」と「仕事」とに分けていますよね。僕、やっぱりそれがいいなと思ってるんです。「稼ぎ」は「稼ぎ」でちゃんと見合うほどはやろう。ただ、それと同時にボランティアって言えばいいのか分かんないですけど、自分が好きなことは、一生懸命「仕事」として責任ある成果を出したいなっていうそんな感じです。
鶴見さんは本当に自分の中で「呪縛」と言っていいのか分かんないんですけど、やっぱり全部は無理でも一部は絶対乗り越えなくちゃいけないと思っているし、本当に最後は油脂で、彼がココスになぜというのは本当に不思議で、行ってみなくちゃいけないと思っているんですけど、なかなかまたそこもね、アクセスが難度が高いんですよね。でも、ちょっと1回近いうちに行きたいなと思っています。
もともとは私有地だったらしいんですよ。それ、今、オーストラリアのものになって、所有権のやりとりの中でなかなか外国人が行けないところがあったんですね。ちょっとそれは近々行ってみようとは思っています。
飯嶋:どうぞ。どうぞというか結構時間だから、さっきの鶴見さんの研究会じゃないけど、自己紹介したら終わっちゃった(笑)。
清水:鶴見さんって僕やっぱりすごいなと思うんですね。さっきの繰り返しになりますけど、人類学にあえてこだわる必要はないんです。けども鶴見さんのフィールドワークというか旅先での身の処し方は、人類学者の理想のような気がするんですね。村や町に泊まったら誰よりも朝早くに起きて、町のマーケットに行って、見て回る。そして新鮮な魚やら野菜を買い込んでくる。その前の晩に、みんなでお酒を飲んでいて、他の連中はまだ寝ていたり、二日酔いでフラフラしたりしてるのに、鶴見さんはちゃんと早起きして出てゆく。僕は、だいたい飲み過ぎて起きられないタイプなんですけど。
彼は夜に飲んでも、ちゃんと翌朝には起きてマーケットに行き、写真を撮り、メモを取りる。それってやっぱりすごいですよね。マーケットには、人々の日々の暮らしに必要な基本的なものが食料品を中心にそろっていて、そこをちゃんと見ていると生活とか経済とかが分かってきますよね。鶴見さんはマーケットで買ってきた魚を自分でさばいて、チームの人に出してくれるという。そして夜になって、皆で楽しく酒飲みながら、今日、何見た、あれ見た、こんなことがあったとか、ワイワイ言いながら情報交換とか分析みたいなことをやる。旅のなかで地に足のついた暮らしをして、現場の情報を身をもって集め、考える。本当に理想的なフィールドワーカーという気がしています。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ではないですけど、「そういうものに、私はなりたい」、って思います。
香月:自分が楽しんでる姿をそのまま見せてくれるでしょ。それってそのまま問題提起なんですよね。
赤嶺:あと、すいません補足ですけど、ノートとか、カードとか、蔵書は全部埼玉大学に行ったんですよ。
飯嶋:誰んとこ?
赤嶺:藤林泰さん。でも、埼玉大学も、こういうご時世なんで立教に。
飯嶋:そういう経緯なんだ。
赤嶺:立教がオープンに向けてかなり頑張って、一部のデータベースはネット上でも見れるんですけど、現在、最後の整備をしているところです。共生社会研究センターの方に。やっぱり国立大学は、もうからないと思うとすぐ手放しちゃう。人件費がかかるんですよね。専属の事務員もいたんですけど、センターごと宇井純さんの資料とか全部立教に移っちゃいました。
飯嶋:なるほどね。
赤嶺:でも、近くなったし、結果的にはよかったんじゃないですか。埼玉大学って、ちょっと遠かったでしょ? 立教だとアクセスもいいし、それなりに使えているみたいです。
清水:もう1回。僕ばっかりしゃべって申し訳ないんだけど、アマチュア無線やってらっしゃるっていうのがすごいうれしいです。私が言ってる「応答する人類学」のイメージの具体像って、黒人霊歌のコール&レスポンスの歌唱と、アマチュア無線のやりとりなんですね。アマチュア無線では、自分のコールサインを名乗って、「こちら何とか何とか、応答せよ」と呼びかけ、相手からの返信をまって、互いに呼びかけと聞き取りのやりとりを繰り返す。交互に呼びかけ合い、聞いて応え合うというのが大事なんだと思います。
フロアB:そうですね。
清水:僕が応答する人類学と言っているのは、研究者が一方的に観察したり質問したりするだけでなく、逆に研究者の方もまた、フィールドで現地の人から質問され、期待や要請を受け、呼びかけられてしまっていることを自覚し、それにちゃんと対応すること、応えてゆくことなんですね。それは面と向かって、私自身のことを聞かれたり、日本のことを聞かれたり、いろんなことを聞かれます。フィールドでの調査は、聞きたいことがほぼ決まっているインタビューなどとは違って、井戸端会議のようなところに紛れ込んで、なるべく邪魔せずに、話を聞いている、やることを見ている、時に話に割り込んだりする。もちろんこちらが質問することもありますけど、同時に向こうが興味をもったことに対して質問してくることもある。そうした世間話としての応答だけでなくて、お金を貸してほしいとか、日本に連れて行ってほしいとか、日本の女の子を紹介してほしいとか、いろんな希望や要求を出してきます。そういうやりとりのイメージとして、フィールドワークの最中に、またフィールドワークから戻ってきた後も、互いに離れているホームとフィールドとの間で、人類学者と現地の人のやりとりを続けてゆく、希望や要請に応答してゆく、というイメージです。
フロアB:すごかったです。あれが私も東日本の震災の時とか、熊本のと、実際に目の当たりにして感激しちゃいました。いろんな電池が足りないとか、みんなが分かってすっごい電池ばっかり送ってきて。「もう要らない」とか言われて。
清水:応答せよ、助けてくださいっていう生の声を聞く、それに答えるという活動ですね。そういう意味では宮本さんも、鶴見さんも現地で現場で応答する。そこで引き受けた問題を、日本に帰ってきても持ち続け、応答してゆく、という感じですね。
参議院に立候補したらさ、勝手に手弁当ボランティア1,000人集まるとかさ。
香月:それの報告が宮本先生の授業の一部なんですよ。一緒に現地に付いて行った場合はこんなふうに報告してるなとか、それも分かりますしね。面白かったです。
清水:現地・現場で応答する、そのことに学生やボランティアを巻き込んでゆく。地域で活動することが、民俗学や人類学の応答実践を行い、教育における応答の仕方のひとつになっている、というのがいいですね。大学のなかに閉ざされたものでなくて、外に開かれ、つながってゆくというのが。世間師というのでしょうかね 。
飯嶋:京大、山極さんになっても全然変わんないんですか、そんなのは。外から見たら山極さんになった時は僕らは大拍手だったけど、前の総長から比べると。実感としてはないのかな。
清水:あんまり変わってない。
飯嶋:そうなんだ。その後民俗学者の重信さんって共通の知り合いもパッと辞めちゃったらしいんで、民俗学は辞めやすいな、これはって思ったんだけど。
香月:北九州市立大だから。彼はちゃぶ台ひっくり返して辞めたって言ってた。
飯嶋:周りの2人が急に民俗学会辞めたから、いや、民俗学会やっぱりつえーなと思ったんですよ。そしたらマジョリティじゃなかったという(笑)。
今日は本当にお2人どうもありがとうございました。(拍手)
(文責:飯嶋)。

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~com_reli/jasca_outou/conference/2016%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E9%96%8B%E5%82%AC%E8%A8%98%E9%8C%B2/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1060.html

[近代史4] 本多勝一の世界 中川隆
1. 中川隆[-11100] koaQ7Jey 2020年9月28日 22:33:33 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[25]

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1060.html#c1
[番外地8] 朝日新聞の記者は全員本多勝一に憧れて新聞記者になったんだよ
朝日新聞の記者は全員本多勝一に憧れて新聞記者になったんだよ:
朝日新聞が生んだ戦後最大のスター記者とも評される本多勝一はジャーナリストとしての自身の仕事を2つの傾向に分けて振り返る。

1つは、探検(京大探検部)の延長上のルポルタージュである。1960年代半ばまでに、朝日新聞紙面に連載され、後に単行本となった「極限の民族」三部作がその代表である。ある世代の人類学者たちにとってそれらは人類学者を志すきっかけともなった。

もう1つは、ベトナム戦争の取材を契機とし、「殺される側」(構造的な弱者)の視点という、立ち位置を明確化して書かれるようになったルポルタージュ群である。複数の外国語にも訳されてジャーナリストとしての世界的な評価を得た『戦場の村』は全世界で数百万部が読まれたという。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/430.html

[番外地8] 朝日新聞の記者は全員本多勝一に憧れて新聞記者になったんだよ 中川隆
1. 中川隆[-11099] koaQ7Jey 2020年9月28日 23:14:50 : AmqzUjRwxA : cFJTZ1ZqREk0bU0=[26]
​ @Mononofu2010
朝日新聞の記者は全員本多勝一に憧れて新聞記者になったんだよ:
朝日新聞が生んだ戦後最大のスター記者とも評される本多勝一はジャーナリストとしての自身の仕事を2つの傾向に分けて振り返る。

1つは、探検(京大探検部)の延長上のルポルタージュである。1960年代半ばまでに、朝日新聞紙面に連載され、後に単行本となった「極限の民族」三部作がその代表である。ある世代の人類学者たちにとってそれらは人類学者を志すきっかけともなった。

もう1つは、ベトナム戦争の取材を契機とし、「殺される側」(構造的な弱者)の視点という、立ち位置を明確化して書かれるようになったルポルタージュ群である。複数の外国語にも訳されてジャーナリストとしての世界的な評価を得た『戦場の村』は全世界で数百万部が読まれたという。

人類学者にとっては、無媒介で、彼の書いた三部作などは、エスノグラフィーとして読むことができわけです。『カナダ・エスキモー』を読んで、現場密着型の調査ってこんなふうにやるんだっていうことを、僕なんかも学べるし、学んだ。あるいは、こういうふうに記述すると、映像を写しとるみたいに読み手に向けて書きうるんだということを、僕ら人類学者も彼の著作から学んでるんだと思うんですよね、エスノグラフィーとして人類学では紹介されたりしてわけですから。

教えるというよりは、彼の著作から学んだし学べた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/430.html#c1

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
344. 中川隆[-11098] koaQ7Jey 2020年9月29日 07:31:01 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[2]

2020年09月29日
投資に自信がある人ほど投資をするべきでない理由

売買を繰り返すと莫大な手数料を支払う事になる


日本人は投資しすぎ?

資産運用会社ブラックロックの調査によると、日本人で投資している人は53%、アメリカの49%よりも多かった。

常識では日本人は投資せず現金貯蓄し、欧米人は投資好きとされているがそれも間違いではない。

資産の運用比率ではアメリカは50%以上が投資、日本人は20%から30%程度に過ぎませんでした。

この調査結果からは日本人の半数が投資をしているが、投資金額としては資産の2割程度に抑えている。

アメリカ人も同様に半数が投資をしているが、その金額は資産の7割以上に達している。

日本人が投資をしないのは問題だと言って、日本政府はあの手この手で投資させようとしている。


例えば政府が始めたNISA(ニーサ)も投資の一種で、加入者は知らないうちに企業の株に投資しています。

日本人が投資をしない理由ははっきりしていて、「必ず負けるから」投資をしません。

株や投資で大儲けした人は少ないのに、圧倒的多数の投資家が失敗して破産しています。


俗に投資では「9割の投資家が生涯で負ける」とされる厳しい世界で、プロ野球より厳しい。

日本の投資家は必ず負ける

ところがこれは日本だけの話で、最初から投資家が負けるような仕組みがあるので、必ず負けるのです。

それは証券会社が取っている売買手数料で、日本はアメリカの10倍の金額を投資家から取っていました。(投資信託の場合)

アメリカの有名投資家の著書を読むと「手数料が0.5%以下の投資商品を選びなさい」などと書いてあるが、日本には存在しませんでした。

その頃日本の投資信託は合計5%もの手数料を取っていて、軽くアメリカの10倍もボッタクっていました。


現在は値下げされたもののアメリカも値下げしているので、日本の手数料がアメリカの10倍、最良でも5倍という状況は同じです。

投資を長くやっていると、利益は結局手数料の割合で決まるのに気付くと思います。

年3%しか利益がないのに手数料で5%引かれたら赤字、これが日本の個人投資家の実態です。


日本の証券会社の手数料がこんなに高いのは政府が保護してきたからで、日本人はアメリカの証券会社から直接購入できません。

役所は「投資家を保護する為」とかなんとか抜かしながら、アメリカの10倍の手数料で証券会社を儲けさせています。

そして官僚は退官後に大手金融機関や証券会社の役員になり、莫大な報酬を受け取っています。


こんな制度で投資に勝つには神がかり的な超能力が必要で、常人ではまず不可能でしょう。

それでも手数料が1%以下の投資商品は存在するので、低コスト投信だけをやれば生涯で勝ち越せると思います。

だがそうした低コスト投信はリスクが少ない=儲けも少ないので、元手が何倍にも増えることはないでしょう。

日本では投資家は保護されるどころか、国や証券会社の食い物にされます

http://www.thutmosev.com/archives/84005924.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c344

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
89. 中川隆[-11097] koaQ7Jey 2020年9月29日 07:32:29 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[3]

2020年09月29日
投資に自信がある人ほど投資をするべきでない理由

売買を繰り返すと莫大な手数料を支払う事になる


日本人は投資しすぎ?

資産運用会社ブラックロックの調査によると、日本人で投資している人は53%、アメリカの49%よりも多かった。

常識では日本人は投資せず現金貯蓄し、欧米人は投資好きとされているがそれも間違いではない。

資産の運用比率ではアメリカは50%以上が投資、日本人は20%から30%程度に過ぎませんでした。

この調査結果からは日本人の半数が投資をしているが、投資金額としては資産の2割程度に抑えている。

アメリカ人も同様に半数が投資をしているが、その金額は資産の7割以上に達している。

日本人が投資をしないのは問題だと言って、日本政府はあの手この手で投資させようとしている。


例えば政府が始めたNISA(ニーサ)も投資の一種で、加入者は知らないうちに企業の株に投資しています。

日本人が投資をしない理由ははっきりしていて、「必ず負けるから」投資をしません。

株や投資で大儲けした人は少ないのに、圧倒的多数の投資家が失敗して破産しています。


俗に投資では「9割の投資家が生涯で負ける」とされる厳しい世界で、プロ野球より厳しい。

日本の投資家は必ず負ける

ところがこれは日本だけの話で、最初から投資家が負けるような仕組みがあるので、必ず負けるのです。

それは証券会社が取っている売買手数料で、日本はアメリカの10倍の金額を投資家から取っていました。(投資信託の場合)

アメリカの有名投資家の著書を読むと「手数料が0.5%以下の投資商品を選びなさい」などと書いてあるが、日本には存在しませんでした。

その頃日本の投資信託は合計5%もの手数料を取っていて、軽くアメリカの10倍もボッタクっていました。


現在は値下げされたもののアメリカも値下げしているので、日本の手数料がアメリカの10倍、最良でも5倍という状況は同じです。

投資を長くやっていると、利益は結局手数料の割合で決まるのに気付くと思います。

年3%しか利益がないのに手数料で5%引かれたら赤字、これが日本の個人投資家の実態です。


日本の証券会社の手数料がこんなに高いのは政府が保護してきたからで、日本人はアメリカの証券会社から直接購入できません。

役所は「投資家を保護する為」とかなんとか抜かしながら、アメリカの10倍の手数料で証券会社を儲けさせています。

そして官僚は退官後に大手金融機関や証券会社の役員になり、莫大な報酬を受け取っています。


こんな制度で投資に勝つには神がかり的な超能力が必要で、常人ではまず不可能でしょう。

それでも手数料が1%以下の投資商品は存在するので、低コスト投信だけをやれば生涯で勝ち越せると思います。

だがそうした低コスト投信はリスクが少ない=儲けも少ないので、元手が何倍にも増えることはないでしょう。

日本では投資家は保護されるどころか、国や証券会社の食い物にされます

http://www.thutmosev.com/archives/84005924.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c89

[番外地8] 朝日新聞の記者は全員本多勝一に憧れて新聞記者になったんだよ 中川隆
3. 中川隆[-11096] koaQ7Jey 2020年9月29日 08:02:04 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[4]
朝日新聞の経営者は戦前からずっと体制側で右翼だよ。
戦後左翼全盛の時代に世間に合わせて左翼的な記事も書かせていただけだ。
だから本多勝一は上層部から嫌われて出世できなかったんだ。定年までずっと平の記者だったよ。
真実を明らかにする記者はまずいと判断されたんだ。
ただ本多勝一の人気が凄かったので本多勝一全集を何度か出版して稼いだんだ。
本多勝一を20世紀で世界最高のジャーナリストだと評価している人が多い。
本多勝一が本物の天才だとわからなければ完全なバカだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/430.html#c3
[番外地8] いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube 中川隆
2. 中川隆[-11095] koaQ7Jey 2020年9月29日 08:40:33 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[6]
GDPは所得の合計ですが、その所得の大半は大企業と資本家の所得です。
GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです。
GDPや経済成長率ではデフレになるか、ならないかは判断できません。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事です。
今は技術の進歩で1日に2,3時間も働けば生活に必要なものを作れる時代になっています。
これ以上生産力を高めても意味ないんですね。
今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです。

今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事。「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。

政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。

大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」
三橋貴明 「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、皆さんの純資産収奪になります」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」
「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、大企業や資本家の皆さんの純資産収奪になります」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。

三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

政府がいくら金融緩和や財政出動しても大資本家を富ませるだけで、デフレからは脱却できません。
そもそもルーズベルト大統領のニューディール政策も大失敗で、政府が財政出動に使った膨大な金は労働者には回らず、すべて大資本家に行ってしまったのです。 戦争以外の公共事業ではデフレから脱却できなかったのです。 

一方、大西さんが考えているデフレ対策は
・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化

政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。

円の価値が暴落しても日本の労働者の給料は変わらないので、人件費も上がらず、日本の商品価格は上がらないんですね。
つまり、円の価値が暴落しても国内の消費者物価は上がりません。
しかし、労働者の実質賃金が減って購買力がなくなるからデフレになるのです。


それから昔のイギリス植民地インドがそうだった様に、輸出すればする程国民が貧しくなってデフレが酷くなります。
輸出で儲けたドルは日本には戻らないでアメリカで再投資されるだけなんですね:

当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

インドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。


 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/377.html#c2

[番外地8] いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube 中川隆
3. 中川隆[-11094] koaQ7Jey 2020年9月29日 08:42:54 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[7]
GDPは所得の合計ですが、その所得の大半は大企業と資本家の所得です。
GDPがいくら増えても労働者の所得が増える事はないので、デフレのままです。
GDPや経済成長率ではデフレになるか、ならないかは判断できません。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事です。
今は技術の進歩で1日に2,3時間も働けば生活に必要なものを作れる時代になっています。
これ以上生産力を高めても意味ないんですね。

今は農業人口も200万人以下で日本全体の食糧消費の大半を簡単に作れるのです。
今は高齢者186万人が農業に従事しているだけです。
今の仕事の殆どはサービス産業なので、食べていく為にやってもやらなくても良い無駄な仕事をしている事になります。
問題は労働者が搾取されていて、正当な労働の対価を得られなくなっている事。

「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。

政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。

大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」
三橋貴明 「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、皆さんの純資産収奪になります」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」
「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、大企業や資本家の皆さんの純資産収奪になります」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。

三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

政府がいくら金融緩和や財政出動しても大資本家を富ませるだけで、デフレからは脱却できません。
そもそもルーズベルト大統領のニューディール政策も大失敗で、政府が財政出動に使った膨大な金は労働者には回らず、すべて大資本家に行ってしまったのです。 戦争以外の公共事業ではデフレから脱却できなかったのです。 

一方、大西さんが考えているデフレ対策は
・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化

政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。

円の価値が暴落しても日本の労働者の給料は変わらないので、人件費も上がらず、日本の商品価格は上がらないんですね。
つまり、円の価値が暴落しても国内の消費者物価は上がりません。
しかし、労働者の実質賃金が減って購買力がなくなるからデフレになるのです。


それから昔のイギリス植民地インドがそうだった様に、輸出すればする程国民が貧しくなってデフレが酷くなります。
輸出で儲けたドルは日本には戻らないでアメリカで再投資されるだけなんですね:

当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

インドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。


 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/377.html#c3

[番外地8] 朝日新聞の記者は全員本多勝一に憧れて新聞記者になったんだよ 中川隆
4. 中川隆[-11093] koaQ7Jey 2020年9月29日 09:34:28 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[9]
朝日新聞の経営者は戦前からずっと体制側で右翼だよ。
戦後左翼全盛の時代に世間に合わせて左翼的な記事も書かせていただけだ。
だから本多勝一は上層部から嫌われて出世できなかったんだ。定年までずっと平の記者だったよ。
真実を明らかにする記者はまずいと判断されたんだ。
ただ本多勝一の人気が凄かったので本多勝一全集を何度か出版して稼いだんだ。
本多勝一を20世紀後半で世界最高のジャーナリストだと評価している人が多い。
本多勝一が本物の天才だとわからなければ完全なバカだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/430.html#c4
[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
90. 中川隆[-11092] koaQ7Jey 2020年9月29日 10:09:54 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[11]
2020/9/29
コロナバブルのピーク・・・ルールは常に変わる  時事/金融危機
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2647.html#comment

■ オオカミ少年になってしまう訳 ■

リーマンショック後、何度も「バブル崩壊」を予測し、その都度外している当ブログ。「逆指標」とまで言われていますが、その原因は「ルールが変わる」から。

今回のコロナ禍の対策を見ても分かる様に、中央銀行は大きな危機が起きる度、或いはそれ予測される度に金融緩和の規模を拡大して来ました。

リーマンショック後にはFRBもECBも量的緩和に踏み込み、コロナ禍ではリスク資産の大規模な買い入れに手を染めた。FRBは直接ジャンク債まで買い支え、ECBはマイナス金利で金融機関を使って間接的に相場を支えています。

これは平時では「タブー」とされている事ですが、緊急事態が発生する度に、中央銀行は「掟破り」を繰り返して来ました。この「掟破り」を事前に知っていたインサイダーは、相場の混乱によって暴利を得る事が出来ます。

■ ルールを変え続ければバブルは崩壊しない? ■

コロナ緩和で資産市場はバブルを拡大しています。米株が史上最高値を更新するなど、実体経済とは完全に縁が切れ、金融緩和を反映するだけの市場となっています。当然、緩和縮小で崩壊するのは目に見えていますから、中央銀行は出口を模索する事すら出来ない。

では、永遠に出口は来ないのか・・・・。これはインフレ率次第です。日本と日銀の実験では、インフレ率は適度に抑制されています。実体経済が冷え込み、資産市場が過熱化している限り、資金は資産市場で運用され、景気を刺激する事が出来ません。労働者も貧乏なので消費は冷え込みインフレ率は低位で安定します。

一方で資産市場は明らかに過熱し、各国中央銀行がお金をバラマキ続ける事に「何か変」と人々が感じ始めると、相場の維持は難しくなります。誰もが「バブルだ」と思った時にバブルは崩壊します。まあ、〇〇ショックなどと呼ばれる予測不明の「黒い白鳥」が原因にされてしまいますが。

■ スマホアプリの「ロビンフット」によって加熱する米株市場 ■

米株の高値の原因に「ロビンフット」というスマホの株取引のアプリが普及した事が指摘されています。コロナ禍で巣ごもりするアメリカの若者は、支給された給付金を、ロビンフットを通して株式市場で運用して小遣い稼ぎをしているのです。小口取引が主体ですが、ゲーム感覚で利益が得られるので、かつての日本のデイトレーダーが大量に発生した様な状況が米株の好調を支えています。彼らはGAFAなどIT系の企業を好むので、IT株がバブル化しています。

一方で、ロビンフットは信用取引も出来るので、火傷をする若者も当然出ています。自殺者も出初めています。ロビンフットの本社は外壁のガラスを防弾ガラスにしたとか・・・。現在の相場が長くは続かない事を知っているのでしょう。将来、小遣い稼ぎが一転して「スッテンテン」になった若者の群れが襲って来る事を予測しているのかも知れません。

■ バブルは個人の資金を食った時点で終わる ■

世界恐慌の時にケネディーの父親は、靴磨きの少年が株を話をするのを聞いて、持ち株を全て売り払ったと伝わります。これは意図的な嘘で、ウォール街は株式投資用の短期資金の金利を引き上げる事で、NY株式市場を大暴落させる事に成功します。

バブルの仕掛け人経ちは、利確しなければ利益は得られません。バブル相場を演出し、個人の資金が市場に流入したら、彼らは売り抜けを図ります。市場が維持出来る間は、適当にボラティリティを操作して何度も儲けを出しますが、それが限界に達したと判断したら、暴落でぼろ儲けをするポジションを積み上げて市場を崩壊させます。

ロビンフットなどで個人の個人資金まで集め始めた市場は、相当にヤバイ状況にあると私は考えます。例えば、米政府の給付金が減る様な常用で、市場への資金流入が減り、むしろ利確する人が増えるので、市場は不安定化します。

FRBの金融緩和の動向ばかり見ていると、この様な市場の変化を見落とす事になります。

■ コロナ禍を永続させたいウォール街 ■

コロナ禍でズタボロの世界の実態経済ですが、ウォール街はコロナ禍の長期化を望んでいます。現在の資金循環の多くは、コロナ対策の資金によって支えられているからです。彼らはマスコミを使って、コロナの脅威を煽り続けます。

一方で今の状況が続けば続く程、崩壊の規模は巨大化しあます。既に、次の危機では通貨システム自体の在り方が問われるでしょう。(通貨と国債の信用危機)


■ 地震予知に似ているバブル崩壊予知 ■


「いつか大地震がやって来る」と「いつかバブル崩壊がやって来る」というのは100%真実ですが、「いつ」を予測する事は不可能に近い。「地震予知」は世界的に無意味とされています。「いつ」が確定できない限り、混乱を招くだけだからです。同様に「バブルの崩壊の予測」も無意味です。結果的に「当たる」人は居るかも知れませんが「いつ」を当てる事は「確率的」な問題でしか有りません。「今後2年の間に70%の確率でバブルが崩壊する」・・・こんな予測は短期の投資家には無意味です。

バブル崩壊予知より地震予知の方が精度が高いかも知れません。何故なら、バブル崩壊の原因が人為的なものであるならば、それは誰にも予測出来ないからです。

例えばFRBが金利を引き上げるとか、例えばECBがマイナス金利を止めるとか、日銀総裁が異次元緩和の敗北を認めるとか・・・・このタイミングは人為的に決められるので、自然災害よりも予測が難しい。

■ 分散投資のワナ ■

個人向けの資産セミナーでは「分散投資によるリスクヘッジ」が勧められている様です。「株だけでは無くて、債券投資とセットにしましょう。」など、初歩的なリスクヘッジから、「金は危機に強いですから金FETに投資しましょう」などという怪しげな物まで、素人を騙すのは簡単です。

為替リスクを理解していない人も多いので、投資が全てドル建てなんて怖いケースも存在します。だって、国内市場で運用してもロクな金利は付かないのですから。そして、為替リスクをヘッジした商品は金利がショボいので、個人は知らず知らずの内に為替リスクを背負い込んでいます。「分散投資しているから大丈夫よね」と言う人は危ない。そもそも彼らの保有する金融商品は、危機が発生した時に瞬時に売り抜ける事が出来ずに価格が暴落します。


流石に、最近はブラジル・レアル建てアメリカ国債とか、トルコリラ建てなどという投資は素人にも危険だと認識されていますが、金利のワナはそこかしこに隠れています。

リーマンショックの際には1ドル80円を切りましたが、こんな円高が再び襲って来たら、日本の個人の投資は莫大な損失を抱える事になります。リーマンショックの時には塩漬けでだいぶ値を戻した商品も有りますが、「リーマン超級」に耐えられるかは疑問が残ります。

■ アメリカのIT企業にはご用心 ■

もし仮にコロナバブルが崩壊したら、最も危険なのはアメリカのIT株。これは既にバブルを多くのアナリストが指摘していますが、「値上がりするから買われる」というバブルの典型となっています。

GAFA辺りは残るでしょうが、テスラなどは地上から消えて無くなる可能性が高い。あるアメリカの電動トラックのベンチャー企業は、下り坂を自重で走る試作車を撮影して資金集めをしていた事が発覚しています。この位、アメリカのITやベンチャーの状況はクレージーな事態になっています。とにかく目新しければお金が集まって来ます。

実車が開発前に先行販売をして資金を集めるテスラは、なかなか「やり手」ですが、同時に綱渡りです。コロナ危機に際して、金持ちが焼け太りしている間は問題有りませんが、金持ちが被害を被る危機に際しては一番脆い。

後、製薬会社の株もコロナバブルですから危険です。コロナが単なる風邪だと分かれば大幅に値を下げます。金融危機などでコロナから世間の興味が失われた時点でオシマイでしょう。

■ 「まだ大丈夫」が利益を生み出すけれど・・・ ■

バブルが崩壊するまでは「波に乗った」人が勝ち組です。「まだ大丈夫」が利益を生みだします。

しかし、市場のルールは「9割が損をして1割が得をする」。

1割の逃げ切った人が「儲かった、売り逃げた」と吹聴し、それが拡散する一方で、損をした人達は口を閉ざします。これ、競馬や宝くじみたいな物。下手をしたら、大きな金融危機よりも、期待値では競馬の方が良かったりするかも知れません。


チキンは一生利益を手に入れる事が出来ませんが、チャレンジはリスクとセット。そして、そのリスクが見えない状況こそがバブルなのだと私は考えます。


それでも多くの方は、「まだまだ行ける」と考えているのでしょう。既に通過して来たリスクポイントの期待値が70%だったとしたら、何回かの危機の後に勝ち残る可能性はかなり低いと思うのですが・・・。


投資とは縁の無い素人のヤッカミでは有りますが・・・・。GPIFとかゆうちょ銀行とか、農林中金とか地銀とか、本当に大丈夫かよ・・・・。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2647.html#comment
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c90

[近代史3] ローマ帝国はこうして滅びた
ローマ帝国はこうして滅びた

労働は外国人にやらせ、戦争はアメリカにやらせ、生活はベーシックインカムで
2020.09.29
https://blackasia.net/?p=20464


帝国の国民は衆愚主義に染まって堕落する。衆愚の「愚」は、もちろん「愚か」であることを意味している。「パンとサーカス」を与えるのが衆愚政策であり、それで皮肉にも政治が安定し、文化は爛熟して芸術も花開く。しかし、その爛熟は崩壊の兆しでもある。では、現代人はローマ帝国やら大英帝国の教訓から学んで「パンとサーカス」にうつつを抜かさない人生を送っているのだろうか。(鈴木傾城)


労働は奴隷、戦争は傭兵、娯楽は自分

ローマ帝国は世界最強の帝国だった。しかし、この強大な帝国も自壊していった。なぜか。国民が豊かさに酔い、傲慢になり、苦労や苦痛を避け、食べることと遊ぶことだけに夢中になっていったからだ。

ローマ帝国の市民たちは、国が強大になるにつれて、次第に働くことも戦うことも嫌うようになった。労働はつらい。戦争はもっとつらい。誰もつらいことをしたくない。そこで、その「つらいこと」をアウトソーシングするようになった。

具体的に言えば、面倒くさい「労働」はすべて奴隷にやらせた。そして戦争は傭兵にさせた。そして自分たちは、たらふく食って与えられた娯楽で楽しんで贅沢三昧に人生を過ごしていたのである。

「たらふく食う」というのは比喩でも何でもない。貴族階級はたらくふ食うために宴会に6時間以上もかけていた。

世界中から掻き集めた奇妙な珍味を集めて食べて食べて食べまくり、食べきれなくなったら嘔吐してまた食べるのが通例となった。嘔吐するための道具すらも最初から用意されていた。上から下までそれくらい「たらふく食っていた」のである。

労働は奴隷に。
戦争は傭兵に。
娯楽は自分に。
生活費は政府に。

この娯楽は「サーカス」と評された。コロッセオでは猛獣同士を死ぬまで戦わせたり、猛獣や犯罪者と剣闘士(グラディエーター)を戦わせたり、奴隷同士を死ぬまで戦わせたりしていた。

あるいは、犯罪者の公開処刑も「娯楽」として開催されていた。それは、食って寝るだけで何もしないローマ帝国の市民たちの暇つぶしだったのだ。朝から晩まで、いろんな「催し」があって、ローマ市民はそれを見て喜んでいた。

もちろん、売春も大っぴらでフォークやナイフや容器もセックスの絵で満ち溢れ、売春宿のマークは男性器だった。

栄華もすべて消え去って歴史の藻屑に

この享楽的なライフスタイルが蔓延することによって、強大だったはずのローマ帝国は次第に軍事費や贅沢な施設の維持費で莫大な財政赤字を計上するようになり弱体化するようになる。

しかし、ローマ帝国は延々と市民に社会保障を与えていた。そうすれば、国民は政治のことなど考えず、自分たちの地位は永遠に安泰だったからだ。それは今で言うところの「ベーシックインカム」に近い。

これはもちろんローマ帝国の財政を蝕んでいく元凶と化した。しかし、ローマ市民は膨れ上がる財政赤字にも危機感を抱かなかった。「パンとサーカス」で忙しくて、誰も国がどうなるのか考えていなかったからである。

支配者が与えてくれた「パンとサーカス」で、完全に人間としての資質を台なしにされてしまっていた。もはや、食べて、遊んで、セックスに狂って、寝ることくらいしか関心がなくなっていたのだ。

結局、どうなったのか。

強大だったはずのローマ帝国は没落して東から台頭してきたオスマン帝国に占領され、国は分裂し、贅沢三昧は吹き飛び、栄華もすべて消え去って歴史の藻屑と化した。何もかもなくなった。

オスマン帝国は武装集団だった。自ら馬に乗って戦い、ローマ帝国の領土をどんどん侵食していった。ローマ帝国の兵士は傭兵だったが、傭兵は金で雇われているので形成が不利になったらすぐに戦場を放棄して逃げる。自国の防衛を傭兵で固めたローマ帝国が勝てるはずもない。

支配者層が国民の歓心を得るために「パンとサーカス」を与え、それを支えるために財政赤字が膨らみ、労働や防衛という大切なものも他にアウトソーシングするようになったら、もうその国は終わりだということになる。

労働を避け、遊ぶことしか考えず、ベーシックインカムみたいなもので国から養ってもらうのが当たり前みたいな考え方をし、労働みたいなものは他所から連れてきた奴隷(移民)にやらせる。

ローマ帝国はそれをやって国を滅ぼした。

国民を馬鹿に仕立て上げる

国民が政府の与えてくれる福祉に寄りかかり、政府が国民の人生の「揺りかごから墓場まで」面倒を見るようになって衰退していく例は「7つの海を支配した」と言われる強大な大英帝国も同様だ。

支配者層は自分たちの権力基盤を強化するために、「国民の歓心を得て、同時に政治を忘れさせる」という方策を取る必要がある。そのために何が効果的なのかは、すでにローマ帝国が手本を示している。

国民には「たらふく食わせ、娯楽を与える」ことで自分たちの支配基盤を高めるのである。

これを「衆愚政策」という。

為政者にとっては、自分たちの権力や政治に目を光らせて不正や汚職を批判してくる「聡明な国民」は邪魔なだけである。政治に関心を持って、不正を許さない反骨精神を持った市民は脅威なのだ。

だから、自分たちの権力を維持するためには「国民が馬鹿な方が都合がよい」という発想になる。自分たちに刃向かわないように働かなくても飢え死にしないようにして、後は娯楽で腑抜けにさせていく。

この発想に基づいて、国民を「積極的に馬鹿に仕立て上げる」のが衆愚政策だった。馬鹿は統治しやすい。そういう意味だったのである。

人間は時に気晴らしが必要だし、たまには暴飲暴食もしたくなれば、おいしいものも食べたくなる。しかし、連日連夜のようにグルメにうつつ抜かし、娯楽にまみれていると、それが人間の資質を破壊してしまうのはよく知られている。

さらに働かなくても福祉やらベーシックインカムなんかで食べていけるというのであれば、なおさら人間が駄目になる。

ローマ帝国は為政者が国民の歓心を買うためにそれをやったのだが、馬鹿げたことに大英帝国もまた最終的には同じことをやって国を衰退させた。

働かないで、何でもかんでも国に面倒を見てもらう「怠けた国民、だらけた国民」を増やすことによって国は滅びていった。

インドの貧困層の女性たちを扱った『絶対貧困の光景 夢見ることを許されない女たち』の復刻版はこちらから

愚かさが忍び寄って操られる
ろくに仕事をせず、娯楽ばかり追い求め、生活も社会保障もみんな国におんぶに抱っこで自分は何もしない。為政者も国民が政治に不満を持って暴動やら抗議を起こさないようにひたすら国民を甘やかす。

だから、帝国の国民は衆愚主義に染まって堕落する。衆愚の「愚」は、もちろん「愚か」であることを意味している。

「パンとサーカス」を与えるのが衆愚政策であり、それで皮肉にも政治が安定し、文化は爛熟して芸術も花開く。しかし、その爛熟は崩壊の兆しでもある。

では、現代人はローマ帝国やら大英帝国の教訓から学んで「パンとサーカス」にうつつを抜かさない人生を送っているのだろうか。

私たちはグルメだ、遊びだと、騒いでいないだろうか。現代の衆愚政策は「3S」で成し遂げられると言われている。3Sとは「スポーツ、セックス、スクリーン」のことだが、スクリーンというのは「映し出されるもの」の象徴だ。

映し出されるものは、映画であったりテレビであったりゲームであったりスマートフォンだったりするのだが、それはすべてディスプレイやモニターを介して手に入れる娯楽である。

朝から晩までテレビの前に座って痴呆化していく老人を見ても分かる通り、スクリーンは実に強烈な衆愚政策の道具となりやすい。テレビなどはまさに現代のサーカスであるとも言える。私たちはこんなものに溺れていないだろうか。

社会は多くの「パンとサーカス」、すなわち贅沢やら娯楽を提供してくれており、それはとても魅惑的に見えるのかもしれない。自分を夢中にしてくれるかもしれない。

しかし、「パンとサーカス」にどっぷりと溺れて抜けられなくなっていくと、やがては愚かさが忍び寄って操られるだけの人間になっていく。「パンとサーカス」は罪のない顔をしてやってくる。

しかし、それに浸ると、ドラッグ依存症の患者のように人生を破壊されていく。それは、罠だったのである。

日本はどうだろうか。キツい労働は外国人の移民にやらせ、軍事は「戦争反対」とか言ってアメリカにやらせ、自分たちは「政府はベーシックインカムを実現しろ」とか言って娯楽に狂っていないだろうか?

労働は外国人にやらせる。
戦争はアメリカにやらせる。
娯楽は自分が楽しむ。
生活費はベーシックインカムで。

もし、そういう社会を実現しているのであれば、日本の将来はかなり暗いことになるのではないのだろうか?
https://blackasia.net/?p=20464
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1017.html

[リバイバル3] 気ままにラーメントーク
【ch桜・別館】気ままにラーメントーク[R2/9/28]




http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1087.html

[番外地8] 昔と値段が同じでも買っているものの価値が下がっているんだよ 中川隆
2. 中川隆[-11091] koaQ7Jey 2020年9月29日 14:27:30 : Flspjk2Nkc : dkJZQlRUUlYvbms=[15]
労働者がxxされているから子供を作れなくなったんですね。
どうやってxxしているかというと、国債の利子でマネーストックを増やして貨幣価値を下げるという手口です。貨幣価値が下がっても中国から安物製品が大量に入ってくればインフレだというのが認識できなくなる。
それで物価が上がっていないという事にされ賃金も30年間上げない。しかし実質賃金だけは下がって子供を大学に行かせる金が労働者には出せなくなっている。
これが少子化とデフレの原因です。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/376.html#c2
[近代史4] 黒沢清 The Revenge 復讐 消えない傷痕 (ケイエスエス 1997年)
黒沢清 The Revenge 復讐 消えない傷痕 (ケイエスエス 1997年)



監督 黒沢清 (Kiyoshi Kurosawa)
脚本 黒沢清 (Kiyoshi Kurosawa)
撮影 柴主高秀 (シバヌシタカヒデ)
音楽 吉田光 (ヨシダ)
歌 哀川翔 (Sho Aikawa)
1997年5月31日 より
配給:ケイエスエス


「復讐 運命の訪問者」の続編で、終わらない復讐を虚無的に続けていく男の姿を、破滅へと突き進むひとりのヤクザの姿を伴奏として描いたハードボイルド。


監督は前作と同じ黒沢清で、脚本も黒沢が執筆した。
撮影は「WiLd LIFe」の柴主高秀が担当している。
主演は「極道修行 決着」の哀川翔。16ミリkらのブローアップ。



■ストーリー


妻を殺された元刑事・安城の復讐は終わっていなかった。山本という偽名を使い古紙回収所で働く安城は、妻殺しの背後に潜んでいた何者かを追い続け、今またそのうちの一人、山野辺興業社長を暗殺し終えたところである。そんな安城の正体を知らぬ暴力団吉岡組の吉岡組長は、偶然知り合った彼をまるで親しい兄弟分のように扱っていた。


一方、独自にヤミ資金ルートの捜査を進めていた刑事の西は、山野辺殺人事件の捜査途中で、安城もまたヤミ資金関係者を追っていることに気付く。ヤミ資金に連なる殺人事件に関わり、そして妻を殺された安城は、その黒幕を捜しつつ復讐を続けていた。だが警察もヤミ資金に絡むらしく安城の関係資料は抹消され、西の言葉も聞き入れられない。西は安城と接触し、検察庁の極秘書類を渡す代わりに関係者リストの作成を依頼した。やがて安城は同じアパートの貝原服飾学院生・美津子から、ヤミ資金に関わった学院の資料を譲り受け、次の標的を日本流通企画元会長・小笠原に特定する。


小笠原宅に乱入した安城は、自分が妻殺しの黒幕だと語る病床の老人の首に手をかけたが、余命幾許もない老人を絞め殺すことはできなかった。


その頃、いつも安城を誘っては躁鬱的行動を繰り返していた吉岡の組に、組員の高木が本家・国士会の総長に目をかけられるという出世譚が沸き起こる。だがシャブに体を犯された吉岡は高木を撃ち殺してしまい、その後で安城をドライブに誘った。しかし、ふたりはどこにもたどり着けなかった。やがて吉岡は取り憑かれたように国士会に殴り込んでいく。また小笠原の存在を安城から教えられた西も、のちに川に浮かぶことになった。そして安城は、おそらくすべての罪をひとりで背負うつもりの小笠原を、義務であるかのように撃ち殺す。



■キャスト
俳優名 役名


哀川翔 (Sho Aikawa) 安城伍郎
菅田俊 (Shun Sugata) 吉岡俊
井田國彦 (イダクニヒコ) 西英介
小林千香子 橘美津子
逗子とんぼ (ズシトンボ) 小笠原陶一郎
しみず霧子 (シミズキリコ) 文江
仙波和之 (センバカズユキ) 山野辺信一
芹沢礼多 (セリザワ) 津山
賀川黒之助 (Kuronosuke Kagawa) 卓
根岸大介 (ネギシダイスケ) 高木
大森南朋 (Nao Omori) ヒロ
大杉漣 (Ren Osugi) 刑事課長
下元史朗 (シモモトシロウ) 古紙回収業者
諏訪太朗 (スワタロウ) 片桐
三上剛史 (ミカミ) 久留米
倉田昇一 (クラタショウイチ) 松井
なかはら五月 美津子の母


http://www.entermeitele.net/roadshow/sakuhin/?id=29762




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1061.html

[番外地8] 半島の歴史
半島の歴史

1.半島に最初に縄文人が移民
2.長江から稲作民が移住してきて縄文人と混血して日本人が生まれる
3.満州から ツングース人が入って来て日本人を日本列島に追い出す
4. ツングース人が百済と高句麗を建国
5. 漢民族が半島を支配

という風に住民が変わっているんですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/431.html

[近代史4] 黒沢清 Pulse 回路 (大映 2001年)
黒沢清 Pulse 回路 (大映 2001年)




監督 黒沢清
脚本 黒沢清
音楽 羽毛田丈史 和田亨
主題歌 Cocco
「羽根〜lay down my arms〜」
撮影 林淳一郎
製作会社 大映
公開 2001年2月10日



『回路』(かいろ)は、2001年の日本のホラー映画。キャッチコピーは「幽霊に会いたいですか?」。


2001年に、カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。DVDは同年8月24日発売。


2006年にはアメリカ・リメイク版『パルス』が公開された。『パルス』は更に、アメリカで『2』『3』と続編も作られた[2]。


あらすじ


観葉植物販売会社「サニープラント販売」で同僚の田口が自殺してからというもの、ミチの周辺では身近な人たちが次々と黒い影を残し姿を消していってしまった。


同じ頃、大学生の亮介は、“ウラヌス”というプロバイダでパソコンで噂で聞いていた「幽霊に会いたいですか」と問う奇妙なサイトにアクセスしてしまう。


次々と黒い影を残し消える人たち。不気味に変容しはじめる世界。亮介が思いを寄せていた春江も不可解な行動をとり始める。


赤いテープに囲われたアパートのドアを見つめて佇む作業員が何かをしてしまったことが始りのようだった。


親しいものたちが消えてゆき日常が崩壊していく中、ミチと亮介は出会い、共に逃避しようとするが寸前、亮介にも危険が及んでしまう。ミチはそれでも亮介を連れ、幽かな希望目指して船出するのだった。


キャスト


川島亮介:加藤晴彦
工藤ミチ:麻生久美子
唐沢春江:小雪
佐々木順子:有坂来瞳
矢部:松尾政寿
吉崎:武田真治
ミチの母親:風吹ジュン
船長:役所広司
工事現場の作業員:哀川翔
社長:菅田俊
田口:水橋研二
幽霊:塩野谷正幸
TVアナウンサー:長谷川憲司


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E8%B7%AF_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1062.html

[近代史4] 黒沢清の世界
黒沢清の世界


黒沢清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%B2%A2%E6%B8%85

主な作品
『CURE』
『カリスマ』
『回路』
『トウキョウソナタ』
『岸辺の旅』


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黒沢 清(1955年〈昭和30年〉7月19日 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画批評家、小説家である。

1955年、兵庫県神戸市に生まれる。六甲学院高等学校卒業。

立教大学では、自主映画製作集団「パロディアス・ユニティ」に所属した[5]。同サークルには森達也や塩田明彦らがいた[6]。蓮實重彦の授業を受講し、強い影響を受ける[7]。1981年、8ミリ映画『しがらみ学園』が第4回ぴあフィルムフェスティバルに入選した[8]。

大学4年生の時に雑誌『GORO』の対談で出会い知遇を得た長谷川和彦から声をかけられ、『太陽を盗んだ男』に制作助手として参加。1981年には相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』に助監督として参加して映画製作を学ぶ。その流れから、ディレクターズ・カンパニー制作のピンク映画『神田川淫乱戦争』で1983年に映画デビュー[9]。

1997年(平成9年)の『CURE』によって国際的なブレイクを果たす[10]。2001年、『回路』が第54回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した[11]。その後、『アカルイミライ』[12]、『ドッペルゲンガー』[13]、『LOFT ロフト』[14]、『叫』などの作品を監督する[15]。

2008年、『トウキョウソナタ』が第61回カンヌ国際映画祭「ある視点部門」審査員賞[16]、第3回アジア・フィルム・アワード作品賞を受賞した[17]。

2012年、テレビドラマ『贖罪』を監督した[18]。2013年、劇場用映画としては5年ぶりとなる監督作品『リアル〜完全なる首長竜の日〜』が公開される[19]。同年、前田敦子主演の『Seventh Code』で第8回ローマ映画祭最優秀監督賞を受賞する[20]。

2015年、浅野忠信・深津絵里主演の『岸辺の旅』が第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞した[21][22]。

2016年、初めて手掛けた海外作品『ダゲレオタイプの女』(原題:La Femme de la Plaque Argentique)が公開される[23]。

同年、第33回川喜多賞[24]、第29回東京国際映画祭・SAMURAI賞[25]、第58回毎日芸術賞を受賞した[26]。

2018年、『散歩する侵略者』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。

2020年(令和2年)、『スパイの妻(英語版)』が第77回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞[27]。

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監督作品

長編映画

神田川淫乱戦争(1983年)
ドレミファ娘の血は騒ぐ(1985年)
スウィートホーム(1989年)
地獄の警備員(1992年)
CURE(1997年)
ニンゲン合格(1999年)
大いなる幻影(1999年)
カリスマ(1999年)
回路(2000年)
アカルイミライ(2003年)
ドッペルゲンガー(2003年)
LOFT ロフト(2006年)[28]
叫(2007年)[29]
トウキョウソナタ(2008年)[30]
リアル〜完全なる首長竜の日〜(2013年)[31]
一九〇五(製作中止)[32][33]
Seventh Code(2014年)[34]
岸辺の旅(2015年)[35]
クリーピー 偽りの隣人(2016年)[36]
ダゲレオタイプの女(2016年)[23]
散歩する侵略者(2017年)[37]
予兆 散歩する侵略者 劇場版(2017年)[38]
旅のおわり世界のはじまり(2019年)[39]
スパイの妻(英語版)(2020年)


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短編映画

2001 映画と旅(2001年)
霊刑事(2003年、『刑事まつり』)
ココロ、オドル。(2004年)
蟲たちの家(2005年、『楳図かずお恐怖劇場』)
ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト(2013年)


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オリジナルビデオ

ヤクザタクシー(1994年)
打鐘 男たちの激情(1994年)
勝手にしやがれ!! 強奪計画(1995年)
勝手にしやがれ!! 脱出計画(1995年)
勝手にしやがれ!! 黄金計画(1996年)
勝手にしやがれ!! 逆転計画(1996年)
勝手にしやがれ!! 成金計画(1996年)
勝手にしやがれ!! 英雄計画(1996年)
DOOR III(1996年)
復讐 運命の訪問者(1997年)
復讐 消えない傷痕(1997年)
蛇の道(1998年)
蜘蛛の瞳(1998年)


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テレビ

奴らは今夜もやってきた(1989年、『危ない話 夢幻物語』第2話)
もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵(1990年、関西テレビ『DRAMADAS』)
よろこびの渦巻(1992年、関西テレビ『DRAMADAS』)
胸さわぎの15才(1993年、関西テレビ、第11・12話)
ワタナベ(1993年、関西テレビ、第1・2・11・12話)
花子さん(1994年、関西テレビ『学校の怪談』第3回)
音楽室の少女(1994年、関西テレビ『学校の怪談』第4回)
あの子はだあれ?(1994年、関西テレビ『学校の怪談』第11回)
廃校奇譚(1997年、関西テレビ『学校の怪談f』)
木霊(1998年、関西テレビ『学校の怪談G』)
降霊(1999年、関西テレビ)
花子さん(2001年、関西テレビ『学校の怪談 物の怪スペシャル』)
タイムスリップ(2002年、関西テレビ『愛と不思議と恐怖の物語 ウルチョラ・セブン』)
風の又三郎(2003年、NHK-BShi『朗読紀行 にっぽんの名作』)
贖罪(2012年、WOWOW『連続ドラマW』)
予兆 散歩する侵略者(2017年、WOWOW)[40]
スパイの妻(2020年、NHK BS8K)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%B2%A2%E6%B8%85

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黒沢清 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%BB%92%E6%B2%A2%E6%B8%85

Kiyoshi Kurosawa - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Kiyoshi+Kurosawa
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1063.html

[近代史4] 中国の同化政策は何が問題か?
【Front Japan 桜】中国の同化政策は何が問題か? [桜R2/9/29]




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1064.html

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