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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100430
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100430.html
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 安達祐実 ・堂本光一 家なき子2 (日本テレビ 1995年) 中川隆
9. 中川隆[-11629] koaQ7Jey 2020年8月27日 13:30:22 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[35]

家なき子2 9話 360p




家なき子2 10話 360p



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1006.html#c9
[番外地8] DNA解析したアイヌ人は全員純血なんだよ
狩猟民の時代のアイヌ人は産児制限をしていたんだよ
昔は人口が増えなかった、明治以降は日本人との混血で人口が激増した
しかし、DNA解析したアイヌ人は全員純血なんだよ:

遺伝子調査
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人で、次いで和人/本土日本人であり、本土日本人とアイヌ人の共通性は約30%程である。


他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。

アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。

アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる。

アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループ D1a2a が 87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。

ハプログループ D1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。

他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられる C2 が2/16=12.5%と報告されている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/286.html

[番外地8] DNA解析したアイヌ人は全員純血なんだよ 中川隆
1. 中川隆[-11628] koaQ7Jey 2020年8月27日 14:22:21 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[36]
狩猟民の時代のアイヌ人は産児制限をしていたんだよ
昔は人口が増えなかった、明治以降は日本人との混血で人口が激増した
しかし、DNA解析したアイヌ人は全員純血なんだよ:

遺伝子調査
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人で、次いで和人/本土日本人であり、本土日本人とアイヌ人の共通性は約30%程である。


他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。

アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。

アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる。

アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループ D1a2a が 87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。

ハプログループ D1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。

他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられる C2 が2/16=12.5%と報告されている。
______

現代日本人のYHg-Dのうち多数派はYHg-D1a2a1(旧D1b1)ですが、これまで「縄文人」で詳細に確認されていたのは現代日本人では少数派のYHg- D1a2a2(旧D1b2)のみでした。これまで、「縄文人」ではYHg-D1a2a1が確認されておらず、YHg- D1a2a2のみだった
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html

アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループ D1a2a が 87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。

現代日本人のYHg-Dの多数派は YHg-D1a2a1 なので、アイヌ人で日本人と混血しているのは僅か 6.25%
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/286.html#c1

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 安達祐実 ・堂本光一 家なき子2 (日本テレビ 1995年) 中川隆
10. 中川隆[-11627] koaQ7Jey 2020年8月27日 14:37:29 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[37]
これは苛め問題を正面から取り上げた児童文学なんだ

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1006.html#c10
[番外地8] 核DNA解析ではアイヌは日本人と殆ど混血していないのがわかっている: 北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
Y染色体ハプログループは精度が低いから最近はアホ右翼しか取り上げない。 今は核DNAの時代なんだ。核DNA解析ではアイヌは日本人と殆ど混血していないのがわかっている:
2019年06月01日 北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました。

現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9〜15%、琉球集団では27%です。


 従来の諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。

アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/287.html

[番外地8] 狩猟民族は自分の所属するコミュニティの人口を厳密に管理しています
狩猟民族は自分の所属するコミュニティの人口を厳密に管理しています。人口が増えれば食料生産を増やし、増えた人間の食料を賄うということはしないのです。これは随分と不思議な事のように思います。

例えばヤノマミでは、子どもが生まれると女性は子どもを人間として育てるか、精霊のまま自然に返すかの選択します(ヤノマミは妊娠を精霊がお腹に宿ると考えるため)。

精霊のまま自然に返すというのは、要は嬰児korosiです。ヤノマミで嬰児korosiが増えたことは、ヤノマミの集落で人口調整が行われていることの証です。アイヌの集落でも同様で、狩猟民族では集落の人口が一定規模以上にならないよう、人口抑制が行われています。

狩猟民族はなぜ人口調整を行うのでしょうか?実はその理由こそが、狩猟民族が狩猟民族たる所以でもあるのです。

狩猟民族の社会においては、基本的に人は皆平等であり、公平に扱われます。アイヌのような格差社会においても、基本的に集落全員の食と安全は保障されています。アイヌはウタレという奴隷を使っていたことが知られていますが、ウタレであっても家族の一員とみなし、食事を与え保護していました。

アイヌ社会では、ウタレになるのは戦争における捕虜であったり、または経済的に困窮したものが富と引き換えにウタレになったりする場合がありました。アイヌ語で貧乏人は「ウェン・クル」といいます。「ウェン」とは「悪い」という意味であり、「クル」は「人」という意味ですから、アイヌでは貧乏人と悪人は同じ意味なのです。

アイヌ社会では、力を持つ者が社会的弱者を救済する責務を持つと考えられており、一夫多妻制なのも夫を失った妻と子を保護するという意味を持ち、また経済的弱者をウタレとして家族の一因に迎え、保護していました。アイヌ社会もピダハンやヤノマミ社会も、その集落で抱えられる人口の上限というものがあって、その範囲内で共同体の成員全ての健康と安全を守るというコンセンサスが存在するのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/288.html

[番外地8] 最新の核DNA解析でアイヌ人は縄文人と同じだと証明されているんだよ
最新の核DNA解析でアイヌ人は縄文人と同じだと証明されているんだよ
ロシアには混血していないアイヌも沢山生存してるしね。

それから現代日本人は6000年前の南chousen の稲作民と核DNAが全く同じだと証明されている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/289.html

[番外地8] 日本は麻薬だけでなく日本女性の人身売買でもボロ儲けしていた

日本は麻薬だけでなく日本女性の人身売買でもボロ儲けしていたからね:
天皇一族は売春業者
 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。
英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。
マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。
日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。

困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。
貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。
天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。
天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。

男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。
このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。


http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/290.html

[番外地8] 伏見宮で男系維持は不可能
伏見宮で男系維持は不可能
 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。


 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。


 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》


 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。


( → 時事通信 2013/02/09 )

 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。


  → 伏見宮系図

http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。


  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。


  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。


  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。


  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。


  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。


  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。


  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。


  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。


 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」


 一方、生物学的に、次の事実がある。


 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。


 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。


 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」


 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)


 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。


 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。


 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/291.html

[番外地8] 最新の縄文人ゲノム解析で、本州縄文人はアイヌのクラスターに含まれた 中川隆
1. 中川隆[-11626] koaQ7Jey 2020年8月27日 20:24:05 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[40]
最新の縄文人ゲノム解析で、本州縄文人はアイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであることを示している。

2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
古くから縄文遺跡として知られる伊川津貝塚遺跡から出土した女性人骨(図1)の全ゲノム・ドラフト配列を詳細に解析し、縄文人骨(IK002)のゲノムは、東ユーラシアのルーツともいえる古い系統であり、南ルートに属し、北ルートの影響をほとんど受けていないことを明らかにした。


アフリカ大陸からユーラシア大陸の東端までのホモ・サピエンスの拡散は、後期旧石器時代に相当する。石器など考古遺物はヒマラヤ山脈以北および以南どちらからも見つかるので、拡散の経路として北と南の2つのルートがあったはずだ。近年劇的に蓄積されている人類集団ゲノム情報を解析すると、現在ユーラシア大陸の東側に住んでいる人々は、南ルートで来たことを示す。

IK002の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の“根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった。そして、IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫である可能性が高いことが判明した。

また、先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。

図2:東アジア人類集団の形成史をモデル化した図
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/282.html#c1

[番外地8] 利回りがマイナスの部分はごくわずかで、国債を買えばそれを日銀が高く買ってくれるから、民間銀行がボロ儲けしているのは変わらない
利回りがマイナスの部分はごくわずかで、国債を買えばそれを日銀が高く買ってくれるから、民間銀行がボロ儲けしているのは変わらないよ。
そもそも国債金利が下がったのは、大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったから、日本政府がマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったからだ。

政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事だ。リスク云々とは関係ない。

http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/292.html

[番外地8] 日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った
日本人はこうやってアイヌ人から北海道を乗っ取った:
とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―
 日本列島に三つの異なった文化があることは存外知られていない。ひとつはいうまでもない、天皇を中心とした国家が育んだ「日本文化」であり、ひとつは琉球国王を中心とした琉球王国が育んだ「琉球文化」であり、いまひとつが北辺でアイヌの人びとが育んだ「アイヌ文化」である。これらは広い意味での「日本文化」ともいいうるのであるが、そうした扱いはなされてこなかったといっていい。
 それでも、狭義の「日本文化」と深くかかわる「琉球文化」については、近年、新たな視点からの研究・紹介がなされはじめている。しかるに、アイヌ文化は広義の「日本文化」の枠内には容れられないままなのである。

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。

 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

 いまひとつの文章がある。主題とも深く関わるので一瞥してみよう。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。

佐々木 利和(ささき としかず)

東京国立博物館
主著等:
『アイヌ文化誌ノート』(吉川弘文館 2001年)
『アイヌの工芸』(日本の美術354号 至文堂 1995年)
「東京国立博物館のアイヌ民族資料(上)」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』3号(1994年)
『アイヌ語地名資料集成』(草風館 1988年)
___
千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
_____

色丹島移住後のクリル人

 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。
 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/293.html

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
6. 中川隆[-11625] koaQ7Jey 2020年8月28日 08:24:33 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[2]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。

三橋さんの基礎学力や一般教養は商業高校出身者レベルの様な気がしてきた。
専門家の受け売りをしているだけみたいだから、人前で話さえしなければ嘘もバレないのにね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c6

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 安達祐実 ・堂本光一 家なき子2 (日本テレビ 1995年) 中川隆
14. 中川隆[-11624] koaQ7Jey 2020年8月28日 09:01:07 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[3]
家なき子 (日本テレビ 1994年) は中高生向けだったけど

家なき子2 (日本テレビ 1995年)は高校生でもアホらしいと思うだろうね
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1006.html#c14

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 真田広之・桜井幸子 高校教师 (TBS 1993年) 中川隆
12. 中川隆[-11623] koaQ7Jey 2020年8月28日 10:37:08 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[4]
高校教师 第 特別



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1000.html#c12
[近代史5] 関東大震災とJPモルガン
関東大震災とJPモルガン

2020.08.28
関東大震災とアメリカの麻薬業者

 1923年の9月1日午前11時58分、東京周辺を巨大地震が襲った。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回ると言われている。損害総額は55億から100億円に達していたという。


 この出来事は日本の支配システムに大きな影響を及ぼした。天皇制官僚システムは基本的に変化していないが、JPモルガンを中心とするアメリカの金融資本、いわゆるウォール街の配下に入ったのである。その当時、JPモルガンと最も緊密な関係にあった日本人は井上準之助だと言われている。


 地震の当日、総理大臣は不在だった。8月24日に加藤友三郎首相が死亡、山本権兵衛が組閣している最中だったのである。山本内閣が成立するのは9月2日。その内閣で井上は大蔵大臣に就任、1924年1月までその職にあった。1927年5月から28年6月までは日本銀行の総裁、浜口雄幸内閣時代の29年7月から31年12月まで、再び大蔵大臣をそれぞれ務めている。なお、浜口は1930年11月に東京駅で狙撃され、31年8月に死亡し、井上は32年2月に射殺された。


 ウォール街の手先が殺されたわけだが、1932年に駐日大使としてジョセフ・グルーが送り込まれる。JPモルガンは大物だ。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻なのである。またグルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人だが、日本人にとってはその弟の方が有名だろう。黒船で有名なマシュー・ペリーだ。


 マシューも参加していたアメリカ・メキシコ戦争は1848年にアメリカの勝利で終わり、現在のニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナ、カリフォルニアを含む西側の地域を手に入れた。アメリカは1898年にスペインとの戦争で勝ち、ラテン・アメリカを植民地にしていくが、その一方で太平洋の反対側、中国(清)への侵略を目論み、侵略の拠点として日本に目をつける。


 しかし、すでにイギリスは中国を侵略し始めていた。1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)だ。イギリスはインド産のアヘンを中国で売って大儲けしていたのだが、麻薬の取り引きを中国が取り締まったことから戦争になった。


 麻薬を売ることに対する批判を考慮し、イギリス王室は東インド会社に取り引きを任せるが、明治維新に深く関与するジャーディン・マジソンも麻薬で大儲けしていた。そうした麻薬業者の人脈が1865年に香港で創設したのが香港上海銀行である。


 イギリスは中国を略奪するだけでなく、ロシアを制圧して世界の覇者になろうとしていた。そのため、海軍力を使ってユーラシア大陸の周辺部分を支配し、内陸部を締め上げるという戦略を立てる。ジョージ・ケナンの封じ込め政策やズビグネフ・ブレジンスキーのグランド・チェスボードもその戦略に基づいている。


 締め上げる三日月帯の上にイギリスはインドという植民地を持っていたが、イスラエルとサウジアラビアを作る。その三日月帯の東端にあるのが日本だ。イギリスにとっても日本は中国やロシアを侵略する重要な拠点と位置づけられていた。

 その当時、アメリカもアヘンを中国人に売ってボロ儲けしていたが、その原料であるケシの産地はトルコ。イギリスとアメリカは麻薬取引のライバルだった。


 中国への麻薬密輸で大儲けして富豪になったアメリカ人は少なくないが、中でも有名な麻薬業者がラッセル・アンド・カンパニー。エール大学をはじめとするアメリカの有力大学はこうした麻薬業者から資金を得ていた。エール大学にある学生の秘密結社、スカル・アンド・ボーンズもラッセルの資金で生まれた。


 ところで、マシュー・ペリーは艦隊を率いてアメリカの東海岸を出発し、ケープタウンを回ってインド洋へ入る。香港や上海ではラッセル・アンド・カンパニーの邸宅で過ごし、硫黄島経由で江戸湾へ入った。目的は日本を中国侵略の拠点にすることだった。1898年のアメリカ・スペイン戦争で勝利したアメリカはフィリピンを手に入れるが、そのフィリピンも中国を太平業側から締め上げる拠点となる。


 アメリカ・スペイン戦争を主導、1901年から09年までアメリカ大統領を務めたセオドア・ルーズベルトは明治体制のトップとの秘密交渉で朝鮮半島を日本の植民地にすることを認めている。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)日露戦争に対するセオドアの行動は必然だった。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008270000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html

[近代史5] 関東大震災とJPモルガン 中川隆
1. 中川隆[-11622] koaQ7Jey 2020年8月28日 11:50:34 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[5]
天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。


「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。


娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。


「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」


福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。


至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。


また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。


広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 

ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

人身売買と近代日本の成立 


自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった

「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。

これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

あめゆきさんの歌、山田わか

 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/


昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html#c1

[近代史5] 関東大震災とJPモルガン 中川隆
2. 中川隆[-11621] koaQ7Jey 2020年8月28日 12:07:55 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[6]
明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面がある。明治維新によって安藤昌益を生んだ徳川時代は終わり、大陸を侵略する天皇制の明治時代が始まる。
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2019.07.07
自由な海上輸送を許さないアングロ・サクソンの長期戦略
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907070000/


 イランが運行するタンカー「グレイス 1」をイギリスの海兵隊がジブラルタル沖で拿捕した。シリア向けの石油を運んでいる疑いが拿捕の理由だというのだが、それはイギリスやアメリカの勝手な言い草であり、海賊行為以外の何物でもない。


 ちなみに、ジブラルタルはイベリア半島の南端近くにあり、地中海と大西洋を結ぶ狭い通路。そこをイギリスが占領、領土としている。海運を支配する一環だ。


 かつて、中国から西アジアを経由して地中海へ至るシルク・ロードという交易ルートがあったが、物流の中心はやはり海運だった。その海路を支配することで勢力を伸ばした国のひとつがイギリスである。海路を支配するということは、自由な航行を許さないということでもある。


 その戦略を体系化したのがハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者。1904年に世界制覇のため、ユーラシア大陸の沿岸地域を制圧して内陸部を締め上げていくという戦略を発表している。


 マッキンダーは世界を制覇するためにロシアを支配する必要があると考えた。ロシアには耕作地が広がり、19世紀には領内で油田が発見された資源国であり、国民の教育水準も高い。ロシアの南にある中国も古くから栄え、莫大な資産が蓄えられている。


 ロシアや中国を締め上げるため、マッキンダーは西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に外部三日月地帯を想定した。


 内部三日月帯を海路でつなぐためにスエズ運河がイギリスにとっていかに重要かということは言うまでもないだろう。地中海からスエズ運河を通って紅海へ入り、そこからインド洋へ抜ける際に通過するアデン湾はアラビア半島の南端(イエメン)とアフリカの角(ソマリア)に挟まれている。


 マッキンダーが想定する内部三日月帯はアラビア半島を通過しているが、かつて、そこにイギリスの拠点はなかった。そしてイギリスはイスラエル(1948年)とサウジアラビア(1932年)を作る。その三日月帯の東端に日本はある。大陸を侵略する拠点として格好の場所だ。


 イギリスは19世紀から中国(清)を食い物にしようとしてきた。そして実行されたのが1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。


 前にも書いたことだが、アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したものの、内陸部を支配する戦力がない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だった。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。


 要するに、イギリスは戦力が圧倒的に不足している。そこで目をつけられたのが日本だ。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面があるのだ。明治維新によって安藤昌益を生んだ徳川時代は終わり、大陸を侵略する天皇制の明治時代が始まる。


 イギリスがアヘン戦争を仕掛けたのは資本主義が破綻したからにほかならない。資本主義は富を循環させるのではなく集中させる。必然的に貧富の差が拡大し、経済は持続できない。そこで国外で略奪するしかないのだ。世界市場の形成、原料の入手と言えば聞こえは良いが、押し売りと略奪だ。押し売りの商品の中には麻薬も含まれている。


 今回のタンカー拿捕はアメリカが東シナ海や南シナ海で展開している軍事行動の性格も示している。中国などアメリカに楯突く国の海上輸送をいつでも断ち切れる体制を確立したいということだ。日本はその手先にされている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907070000/

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2019.07.03
独立記念日を祝うアメリカ国民だが、独立宣言を忘れているようだ 《櫻井ジャーナル》
 7月4日はアメリカの独立記念日である。1776年7月4日に独立宣言が採択されたことを記念して定められたのだ。


 ヨーロッパからの植民者がイギリスからの独立を宣言したのだが、その執筆者はトマス・ジェファソン。「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っている。


 宣言に署名した人びとが何を考えていたかはともかく、宣言にある「人間」に制限はついていない。すべての人間は人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などに関係なく平等であり、人間としての権利を持っているということだ。


 当然、生まれながらに持っている能力を発揮するために必要な環境がすべての人間に保証されなければならない。人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などによって、そうした環境に差があってはならない。安心して生活でき、教育を受けることができ、働くことができなければならない。


 こうした権利を保障しない政府を人びとは「改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する」と独立宣言は主張している。


 さらに、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが人民の権利であり義務である」ともしている。


 アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。


 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。


 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。


 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。


 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。


 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。


 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。


 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。


 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して日本とアメリカが戦争を始めてしばらくの間、グルーは日本に滞在。離日したのは1942年8月だが、その直前に彼がゴルフをした相手は岸信介だ。大戦後、日本の進む方向を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。グルーが親ファシスト勢力に属していたことを忘れてはならない。


 すでにアメリカでは強大な私的権力が国を上回る力を持っている。その結果、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らか」になっていると言える。


 2011年9月11日以降、アメリカでは国外での侵略戦争、国内での刑務所化が急速に進んでいる。アメリカの属国である日本もその後を追っている。そうした現状を見ながら、「それでもアメリカは民主主義国だ」とか「それでもアメリカの方がましだ」という「左翼」、「リベラル派」、「革新勢力」が日本にはいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907030000/


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櫻井ジャーナル 2019.06.27
19世紀から中国を手に入れようとしているアングロ・サクソンにとって日本は重要
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906250000/
 アメリカの支配層は自分たちの意に沿わない国、組織、人物をさまざまな手段を使い、攻撃してきた。1991年12月にソ連が消滅するまでは一応、国連を尊重していたが、それ以降は単独行動主義を打ち出している。日本では国連中心主義を主張していた細川護煕政権が潰されてしまった。1994年4月のことである。


 勿論、細川政権が成立するはるか前から日本とアメリカは軍事同盟を結んでいた。日米安保条約だ。この条約によってアメリカ軍は日本占領が認められている。アメリカが日本を占領し続けたい理由は、日本が侵略のための重要な拠点だからだ。その日本がより積極的にアメリカの戦争に加担することを求められたのである。


 細川政権が設置した諮問機関の防衛問題懇談会はその年の8月に「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書発表したが、ネオコンはこの報告書を問題視する。国連中心主義に基づいて書かれていたからだ。


 このレポートを最初に問題だと主張したのはマイケル・グリーンとパトリック・クローニン。ふたりはカート・キャンベル国防次官補(当時)を説得してジョセイフ・ナイ国防次官補(同)らに自分たちの考えを売り込む。そしてナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が謳われていた。ナイ・レポートを境にして日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。


 そうした動きを後押しする出来事も引き起こされた。例えば1994年6月の松本サリン事件、95年3月の地下鉄サリン事件、その直後には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されている。國松は1994年7月に城内康光から引き継いでいた。1995年8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われるスターズ・アンド・ストライプ紙が日本航空123便に関する記事を掲載、その中で自衛隊の責任を示唆している。


 その一方、日本の支配システムを揺るがす出来事も相次ぐ。株式相場の暴落直後の証券スキャンダルでは興銀と東洋信金が関係した不正取引も明らかになった。この取り引きはマネーロンダリングだったという疑いも持たれている。1995年の大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失発覚、98年には長銀事件だ。銀行の業務には大蔵省(現在の財務省)が深く関与、不正行為に官僚が無関係だとは言えないだろう。この推測が正しいなら、アメリカの支配層は日本の金融システムの弱みを握り、自由に操る体制ができたと言える。


 第2次世界大戦の終盤、1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権はウォール街が奪還して大統領はハリー・トルーマンになる。


 トルーマン政権は中国に国民党政権を樹立しようとするが、失敗。破壊工作機関のOPCも1949年には拠点を上海などから日本へ移動させている。その年に国鉄を舞台とした怪事件、つまり下山事件、三鷹事件、松川事件が引き起こされたのは興味深い。


 中国は19世紀にイギリスから侵略されている。1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。香港はその時にイギリスが中国から奪った場所。その後、略奪の拠点として機能する。イギリスやアメリカが香港を手放そうとしないのはそのためだ。アメリカが麻薬取引と深く関係していた蒋介石の国民党に肩入れしたのもそうした背景が影響しているのだろう。


 アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したが、それは海戦。運輸の中心である海をイギリスに押さえられた中国は苦境に陥るが、イギリスには内陸部を支配する戦力はない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だ。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。


 圧倒的にイギリスは戦力が不足している。そこで目をつけられたのが日本。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面がある。


 この構図が揺らいだのはフランクリン・ルーズベルトが大統領だった1933年3月から45年4月。当時、日本を支配していたウォール街がホワイトハウスの主導権を奪われていたのだ。ただ、それでも1932年にJPモルガンの中枢にいたジェセフ・グルーが駐日大使になっている意味は小さくない。なお、大戦後に日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。GHQや吉田茂は日米主従構造において脇役にすぎない。主役はウォール街と昭和天皇だ。戦争が終わった直後、ウォール街の代理人を務めていた人物がジョン・フォスター・ダレスにほかならない。


 アヘン戦争以降、アングロ・サクソンにとって東アジアで最も重要な侵略ターゲットは中国。現在、中国と同盟関係にあるロシアも重要な獲物だ。1991年12月にソ連が消滅した直後に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリン、アメリカが唯一の超大国になったと認識したネオコンが描いた世界制覇プランを実現するためにもアメリカは中国とロシアを屈服させる必要がある。そのプランを放棄しない限り、ドナルド・トランプがどのようなことを書き込もうと、彼らが日米安保条約を放棄することはありえない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906260000/

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2019.05.02
日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗
 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


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2019.04.02
天皇制官僚国家の象徴としての「元号」
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/

 安倍晋三政権は4月1日、新しい「元号」を「令和」にすると発表した。元号の法的な根拠は1979年に成立した「元号法」だが、その前提として天皇制がある。その天皇制については日本国憲法の第1条から第8条で定められ、いわゆる「戦争の放棄」を定めた第9条はその後だ。この順番から考えて、日本国憲法の主眼は天皇制の維持にあると言えるだろう。


 この憲法は「日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこ」んだ天皇が「枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し」て、1946年11月3日に公布したものである。


 第2次世界大戦でアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は反ファシストの立場から戦っていたが、1933年から34年にかけての時期にルーズベルトを中心とするニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立させようとした勢力がアメリカ支配層には存在した。その中心だったのは巨大金融資本だ。


 本ブログでは何度も書いてきたが、1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。


 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。


 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。


 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーがJPモルガンと極めて緊密な関係にあることも本ブログで繰り返し書いてきた。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる。


 日本の侵略を受けていた国々の人びとは、そうした軍人以上に厳しい目を向けていた。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)


 天皇制官僚システムを維持するためには、アメリカが日本で主導権を握っているうちに天皇制の存続を定めた憲法を制定し、天皇を被告席に立たせずに戦争責任を問う裁判を終わらせてしまう必要があった。それをアメリカは実行した。


 第2次世界大戦の帰趨が決したのは1944年6月にアメリカ軍を中心として実行されたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)だと考えてる人が高名な学者の中にもいるが、実際はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで壊滅、1943年1月に降伏した時に勝負はついていた。ノルマンディー上陸作戦で決着がついたという話はハリウッドが作り上げた幻影だ。


 アドルフ・ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランドへ渡ったのが1941年5月。そこでイギリス政府の要人と何かを話し合ったはずだが、その内容は未だに秘密。そして6月に310万人のドイツ軍が西側に90万人を残してソ連へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。


 当然のことながら、このときにドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)ヒトラーは西側から攻めてこないことを「予知」していたのだろう。


 ドイツ軍の主力が壊滅したことに驚いたアメリカとイギリスは急遽会談し、1943年7月に米英軍はシチリア島へ上陸、そしてノルマンディー上陸作戦だ。それと同時に西部戦線で戦っていたレジスタンスに対抗するため、OSSはゲリラ戦部隊ジェドバラを組織、それが大戦後、CIAの秘密工作部門になる。


 それまで傍観していた米英軍が慌てて動き始めたのだが、それと並行してドイツ側はOSS(CIAの前身)と盛んに接触するようになる。こうした接触はルーズベルト大統領には秘密にされていた。


 OSSのアレン・ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織したヘルマン・ゲーリングも含まれ、ダレスたちは彼を戦犯リストから外そうとしたのだが、失敗した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)


 しかし、ナチスの大物たちをアメリカ支配層は保護、逃亡させ、後に雇っている。その逃走にローマ教皇庁の一部勢力が参加していたことも広く知られている。


 日本では天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。

(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B6%99%E2%80%95%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E7%A5%9E%E7%88%B6%E3%81%AB%E3%81%8D%E3%81%8F-1973%E5%B9%B4-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%BD%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%9E%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/B000J9DIP6


https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/


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2019.03.04
非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(1/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

 朝鮮側から流れている情報によると、金正恩労働党委員長はドナルド・トランプ米大統領との朝鮮半島の非核化を目的とした交渉に興味を失った可能性があるという。


 アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。朝鮮が交渉を続けるとしたなら、それは交渉自体に意味がある場合だけだろう。


 本ブログでは繰り返し書いているように、アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。


 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。


 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。


 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。


 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。


 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。


 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。


 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。


 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。


 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。


 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/


非核化で朝鮮側が米国側との交渉に熱意をなくしても不思議ではない(2/2)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/

 アングロ・サクソンの長期戦略は1991年12月にソ連が消滅したことで目的をほぼ達成したように見えた。アメリカの支配層だけでなく、少なからぬ人がアメリカは唯一の超大国になったと信じる。そして1992年2月に作成されたのが潜在的なライバルを潰し、力の源泉であるエネルギー源を支配する戦略。国防総省のDPG草案という形で1992年2月に作成された。


 その当時のアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官がディック・チェイニー、国防次官がポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になって書き上げられたことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 当然のことながら、アメリカの支配層は属国である日本もこのドクトリンにしたがって政策を変更するように求めてくるが、反応は鈍かった。


 怒ったネオコンは自分たちでプランを作成する。それが1995年2月に発表された「東アジア戦略報告」。国防次官補だったジョセイフ・ナイが書き上げたことからナイ・レポートとも呼ばれている。


 この文書は日本に対して国連中心主義を放棄し、アメリカの単独行動を容認するように求めている。この年に日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれたのだ。1995年は日本にとって節目となる年だ。


 その直前、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、ナイ・レポートが発表された翌月の95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その月の30日には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されて重傷を負っている。


 8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙には、1985年8月12日に墜落した日本航空123便に関する記事が掲載されたことも無視できない。墜落当時、大島上空を飛行していたアメリカ軍の輸送機C-130の乗組員だったマイケル・アントヌッチの証言に基づく記事で、自衛隊の責任を示唆している。


 アンドヌッチらは上官から口外しないように命令され、10年の間沈黙を守っていたのだが、このタイミングで公表した。この新聞はアメリカ軍の準機関紙であり、アメリカ軍上層部が証言とその証言の掲載を許可、あるいは命令したのだろう。


 1995年に日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。沖縄県の普天間基地の返還合意が発表されたのはその翌年の4月。1995年に引き起こされたアメリカ兵による少女暴行事件が理由だとされているが、似たような事件は繰り返されてきたわけで、これは表面的な理由だろう。


 21世紀に入ってロシアはウラジミル・プーチンらによって再独立に成功、ウォルフォウィッツ・ドクトリンの前提は崩れたのだが、このドクトリンも放棄されていない。ドクトリンを軌道に戻すため、アメリカの支配層はロシアや中国に対する攻撃を強めるつもりだろう。


 昨年(2018年)5月に米太平洋軍は米インド・太平洋軍へ名称が変更になった。担当海域が大幅に拡大したわけだ。太平洋の拠点は日本、インド洋の拠点はインド、ふたつをつなぐ役割をインドネシアが担うという。ディエゴ・ガルシア島も重要な役割を果たすことになる。


 中国は一帯一路と呼ばれる政策を推進、ユーラシア大陸の東と西を結びつけようとしているが、これを寸断するためにアメリカはジハード傭兵などを投入して戦争の種を要所要所にまいている。


 南シナ海や東シナ海を中国の船が自由に航行することをアメリカは阻止するつもりだろう。朝鮮半島が鉄道、道路、パイプラインが結びつけられることもアメリカ支配層は受け入れられない。彼らが認める朝鮮半島の統一とは、そこが自分たちの支配地域になる場合だけだろう。朝鮮側がアメリカへ全面降伏する意思がない以上、トランプ大統領と金正恩委員長の交渉が行き詰まるのは必然だったと言える。(了)
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戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し

天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html


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戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し


天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/


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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/


天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog

 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


▲△▽▼


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


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フランクリン・ルーズベルトとニューディール派がウォール街の金融資本家と対立していた理由

大恐慌や平成バブル崩壊はウォール街の金融資本家が計画的に仕組んだものだった


1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。

 平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。

事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。

 ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。

 バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。

 バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。

 CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。


ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。

 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。

 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

 デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。

次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
 人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。

 大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
 しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。

 それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
 風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。

 彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。

 彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
 そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。

1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。


ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。

 彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。

 こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。

 その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。

 大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。


ソロモン・ブラザーズの真の狙い

 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。

 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。

 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。

 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。

 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。

1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。

 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。

 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。

 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。

 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。

 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。

ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。

 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。

 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。

 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。

 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。

 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。

 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。

 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。

ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。

 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html


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その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。

いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。


その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。

澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロスチャイルド・フランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。

ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/


▲△▽▼


2005年11月30日
最近、株価が上昇してますが、日本経済に株価が上昇するようなファクターがあったっけかな?と不思議に思っていました。GENDAI NETに気になる記述を見つけました


10月23日(日)の「がっちりマンデー!!」という民放番組を見ていると、ゲストに当時の竹中蔵相を招いて「竹中大臣の新日本経済入門U」みたいなのをやっていました(リンク)。

その番組中で竹中前蔵相は、「それを私の口から言ってしまうと問題がある」とは言いつつもニヤニヤしながら“これから投資の時代ですよ〜”、みたいなニュアンスを醸し出していました。民放とつるんで、朝からTV漬けの主婦など(竹中氏曰く“IQが低い”←リンク)の層を個人投資家として株式市場に参加させ、バブルを起こさせようというのが狙いか?と疑ってしまいます。それでも個人投資家のシェアは15年前から7%程伸びただけというのが実情。

注目はやはり、15年間で4倍にも跳ね上がって、いまやシェアの半分になろうとしている外国人投資家の方でしょう。日本の株式市場なのに、国内機関投資家のシェアがたったの3%以下(信託入れても12%)なのに、外国人投資家が46.7%もあるというのも、いかにも異常な感じがします。

国内機関投資家は、体力が無いのと前回のバブルでひどい目にあったので“羹に懲りて膾を吹く”みたいなことでシェアが少ないのかもしれませんが、個人投資家はしっかり37%のシェア。もしかして彼らは、バブルを経験していない(orその当時ひどい目に遭わなかった?)新興の勢力なのかもしれません。だとしたら、外国人投資家にとっては、投資にそれほど慣れていない(でも、「もうからへんかいな〜」と甘い夢を見ている)連中は恰好の“カモ”に映っているのではないでしょうか(実際、投資経験の浅い学生や主婦がデイトレを始める中心層とよく聞きます)。

もしそうだとすると、いやな予感が脳裏をよぎります。

彼らの投資資金は、海千山千の外国人投資家に揺さぶりをかけられて丸ごと持っていかれる…というシナリオなのではないでしょうか。

1994年:メキシコをはじめとする中南米バブル、1997年:東南アジアバブル、1998年ロシア金融危機など、次々と各地でバブルを演出し、そのたびに自分達だけがっぽり儲けて、地元の経済や社会をボロボロに破壊し、そこに付けこんでIMFを介して世界各国の経済支配を強化してきた勢力がいます(参照:17664、リンク)。

今回は、小泉首相をはじめ官庁やマスコミまでがグルになって旗を振って、国民を道連れにバブルに突き進もうとしているかのように見えます。私達は、それらの勢力やエコノミストたちの戯言に惑わされて、前回のバブル崩壊や中南米・アジアと同じ轍を踏むようなことはあってはならないと思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=101985

4. 中川隆[-12759] koaQ7Jey 2020年5月06日 08:30:28 : JiV1eTDCIw : eXZlblBTcFo4T1k=[6] 報告
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2020.05.06
新型コロナウイルスが作り出したファシズム化の波に日本も乗っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202005060000/

 大きな災害によって経済が大きなダメージを受け、体制を変化させる引き金になることがある。その典型例が1923年9月1日に関東地方を襲った巨大地震だ。これは相模湾を震源とするもので、死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

 多くの企業が苦境に陥り、日本政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円を限度として政府補償を条件に日本銀行が再割引した。ところが銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 クーデターの主力部隊として想定されたのは在郷軍人会。JPモルガンは指揮官としてダグラス・マッカーサーを考えていた。マッカーサーが結婚した相手の義理の父親はJPモルガンの幹部だったのだ。

 しかし、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけるのだが、この人物は憲法を遵守するタイプの人物だった。そこで計画内容を聞き出した上でカウンタークーデターを宣言、議会で詳細を明らかにした。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 バトラーの話を聞いたジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。

 その当時、ニューディール派より巨大資本に批判的だった上院議員がいた。ヒューイ・ロングだ。彼はルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考えて分かれる。ロングは純資産税を考えていたというが、1935年9月に暗殺された。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。

 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。

 COVID-19(新型コロナウイルス)が関東大震災と同じ役割を果たす可能性がある。このウイルス騒動はイラクへの侵略戦争を始める口実に使われた「大量破壊兵器」と同じ大嘘かもしれないが、このウイルスを利用して日本のファシズム化を促進、反ファシズムの声を封じるために収容所化を進めたいと考えている勢力は存在するだろう。少なくとも、そう思えるような動きがある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202005060000/

5. 中川隆[-11857] koaQ7Jey 2020年8月15日 06:14:42 : XAcXkcJt3k : TjQybE9UVUxDQy4=[5] 報告
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2020.08.15
戦後日本への道は戦前を経てアヘン戦争から続いている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008150000/

 今から75年前、1945年8月15日に昭和天皇(裕仁)の日本人向けの声明、いわゆる「終戦勅語」が放送された。その頃、上海にいた堀田善衛は中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)


 天皇は「象徴」にすぎないという理由で極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告にならず、天皇制の維持は日本国憲法の第1条から第8条で定められた。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」だというが、同じ理由で天皇は戦争犯罪を問われなかったのだ。


 近代天皇制、つまり天皇制官僚システムは明治維新によって生み出された。その思想的な核になったのが水戸学と言えるかもしれないが、その背景には長州や薩摩を中心とする勢力、その背後にはアヘン戦争で中国(清)侵略を始めたイギリスが存在している。そうした勢力が存在しなければ、水戸学が描く幻影は影響力を持ちえない。


 1837年6月から1901年1月までのイギリスはビクトリア女王の時代。ビクトリア女王の母親であるビクトリア(ケント侯爵夫人)と女王の助言者だった夫のアルバートが1861年に42歳で死亡した後、南部アフリカで金やダイヤモンドが発見されてから女王の周辺に支配者グループが生まれた。


 そのグループの中心にはセシル・ローズ、ナサニエル・ロスチャイルド、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、アルフレッド・ミルナーらがいた。1890年代に入ってからこのグループの活動が本格化する。


 ハルフォード・マッキンダーが「歴史における地理的要件」を発表したのは1904年。日英同盟が締結されてから2年後だ。ユーラシアとアフリカを支配するためにはロシアを制圧する必要があり、そのためには東ヨーロッパを支配しなければならないとマッキンダーは主張している。


 ポーランドにはポーランド・リトアニア連邦の復活を夢見る勢力が存在、それはバルト海とエーゲ海に挟まれた中央ヨーロッパにカトリックの帝国を作ろうというインターマリウム構想と重なった。その構想を実現しようと動いていたひとりがユセフ・レッティンゲル。ヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようとしていた。この人物はポーランド生まれで、第2次世界大戦中はロンドンへ亡命していたポーランドのブワディスラフ・シコルスキー将軍の側近。1954年に創設されたビルダーバーグ・グループの生みの親はレッティンゲルだと考えられている。


 明治維新後に日本で作り上げられたのが天皇制官僚システム。第2次世界大戦後、アメリカの手先になる軍の幹部は温存され、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈が戦後も生き残り、要職に就く。


 日本が降伏した後、哲学者の三木清が獄死しているのは象徴的な出来事。疥癬という皮膚病の患者が使っていた毛布を三木にあてがい、意識的に病気を感染させて不眠と栄養失調で死に至らしめた可能性が高い。その前日、ソ連のバチェスラフ・モロトフ外相は憲兵や警官など戦前の治安体制が存続していることを批判しているのだが、その通りだった。


 戦後日本の進む方向を定めたジャパンロビーの中心にいたジョセフ・グルーは1932年から41年にかけて駐日アメリカ大使を務めている。そのグルーのいとこにあたるジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻だ。


 そのJPモルガンは1932年から33年にかけての頃、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルト大統領を倒してファシズム体制を樹立する目的でクーデターを計画している。


 グルーは日本の支配層に太いパイプがあり、秩父宮、近衛文麿、松平恒雄、徳川家達、幣原喜重郎、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右らと親密な関係にあった。JPモルガンと最も深くつながっていたとされているのは井上準之助。「適者生存」の信奉者で、今なら新自由主義者と言われるだろう。


 A級戦犯として岸信介と松岡洋右は起訴されているが、米英金融資本はこのふたりを救出するつもりだっただろう。松岡は1946年に病死したが、岸は48年に釈放されている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008150000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html#c2

[番外地8] 野島伸司の1990年代のドラマ
野島伸司の1990年代のドラマは えげつないけど面白いですね 。音楽で半分持たせてるけ
ど:


鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994
年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6


真田広之・桜井幸子 高校教师 (TBS 1993年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%AB%98%E6%A0%A1%E6%95%99%E5%B8%88+%E7%AC%AC+%E9%9B%86


安達祐実 ・内藤剛志 家なき子 (日本テレビ 1994年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%B6%E3%81%AA%E3%81%8D%E5%AD%90+1%E8%A9%B1
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/294.html

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
47. 中川隆[-11620] koaQ7Jey 2020年8月28日 13:05:27 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[8]
オイロダイン完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=154


オイロダインを作りました。シーメンスのドライバーにホーンを付け、ウーハーは25cmのクラムフィルムユニット片チャンネル2本使用しステレオで計4本とかなり質感違います。ぜひに聞いて下さい。

ーは25cmのクラムフィルムユニット片チャンネル2本使用しステレオで計4本とかなり質感違います。ぜひに聞いて下さい。


クラムフィルム 6ruf-lsp-15g KL,L307


戦中に作られたクラムフィルムの25cmベークダンパー15g KL,L307を贅沢にダブルに使用して充実した量感が出ました。

シーメンスのドライバーKL-303


シーメンスのドライバーKL-303にLZ304ホーンを使用しました

ネットワークのこだわり


オイルコンデンサーにオリエントカットコアに銅箔でコイルを作り、トランスタップ式アッテネーターを使用しました。味付けでマイカコンデンサー足しました。

後面開放のボックス


ポプラの合板オイル仕上げで後面開放で麻の布を貼り後面の壁等の影響を排除しました。


http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=154
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c47

[近代史4] ペンションすももの木 _ 「カトレア」の交流点火の真空管アンプ 中川隆
1. 中川隆[-11619] koaQ7Jey 2020年8月28日 13:06:34 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[9]
オイロダイン完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=154


オイロダインを作りました。シーメンスのドライバーにホーンを付け、ウーハーは25cmのクラムフィルムユニット片チャンネル2本使用しステレオで計4本とかなり質感違います。ぜひに聞いて下さい。

ーは25cmのクラムフィルムユニット片チャンネル2本使用しステレオで計4本とかなり質感違います。ぜひに聞いて下さい。


クラムフィルム 6ruf-lsp-15g KL,L307


戦中に作られたクラムフィルムの25cmベークダンパー15g KL,L307を贅沢にダブルに使用して充実した量感が出ました。

シーメンスのドライバーKL-303


シーメンスのドライバーKL-303にLZ304ホーンを使用しました

ネットワークのこだわり


オイルコンデンサーにオリエントカットコアに銅箔でコイルを作り、トランスタップ式アッテネーターを使用しました。味付けでマイカコンデンサー足しました。

後面開放のボックス


ポプラの合板オイル仕上げで後面開放で麻の布を貼り後面の壁等の影響を排除しました。


http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=154
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/488.html#c1

[リバイバル4] 真空管アンプ「カトレア」 _ 交流点火の 300B ・ PP5-400 コンパチブル モノラルアンプ 中川隆
8. 中川隆[-11618] koaQ7Jey 2020年8月28日 13:06:53 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[10]
オイロダイン完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=154


オイロダインを作りました。シーメンスのドライバーにホーンを付け、ウーハーは25cmのクラムフィルムユニット片チャンネル2本使用しステレオで計4本とかなり質感違います。ぜひに聞いて下さい。

ーは25cmのクラムフィルムユニット片チャンネル2本使用しステレオで計4本とかなり質感違います。ぜひに聞いて下さい。


クラムフィルム 6ruf-lsp-15g KL,L307


戦中に作られたクラムフィルムの25cmベークダンパー15g KL,L307を贅沢にダブルに使用して充実した量感が出ました。

シーメンスのドライバーKL-303


シーメンスのドライバーKL-303にLZ304ホーンを使用しました

ネットワークのこだわり


オイルコンデンサーにオリエントカットコアに銅箔でコイルを作り、トランスタップ式アッテネーターを使用しました。味付けでマイカコンデンサー足しました。

後面開放のボックス


ポプラの合板オイル仕上げで後面開放で麻の布を貼り後面の壁等の影響を排除しました。


http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=154
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/113.html#c8

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
19. 中川隆[-11617] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:09:05 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[12]

【中古】Western Electric LONDON 2080-A ペア の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報
https://aucfree.com/items/l373567664


Western Electric LONDON 2080-A ペアの商品情報

平均落札価格 29,965 円
最高落札価格 1,101,000 円
最低落札価格 30 円


Western Electric LONDON 2080-A ペア の落札情報
落札価格:480,000円
入札件数:1(入札履歴)
開始価格480,000円入札単位1,000円
開始日時2017年1月24日 12時4分〜終了日時2017年1月27日 21時4分

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c19

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
20. 中川隆[-11616] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:11:36 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[13]
Westrex Co.2080-H 2本 [20865] - ウエスタンラボ オンラインショップ
660,000円
https://westernlabo.net/?pid=143541758


【詳細】
Westrex Co.LTD.LONDON 2080-H 2本 38cm WOOFERです。

1MP:16Ω 定格入力:30W

新品未使用です。
左右共に同一ロットナンバーです。018-4613です。 マグネットカバーの形状が左右違います。
現状の状態でのお渡しとなります。保証外商品とさせていただきます。

【基本データ】
・サイズ:W380φ×D210(mm)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c20

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
21. 中川隆[-11615] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:17:00 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[14]
Westrex London 2070-A Control Unit (Network) ペア ウエストレックス ロンドン ネットワーク の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー
https://aucfree.com/items/s705311184

Westrex London 2070-A Control Unit (Network) ペア ウエストレックス ロンドン ネットワーク の落札情報

落札価格:500,000円入札件数:47(入札履歴)
開始価格400,000円入札単位1,000円
開始日時2019年12月10日 11時22分〜終了日時2019年12月15日 23時12分


【商品の説明】
ブランド、メーカー:Westrex London

型番:2070-A Control Unit (スピーカーNetwork)
カラー:青緑系(痛みが激しい)
サイズ:19インチラック取り付けサイズ

【商品の状態】
使用状況:動作品 同時出品のGaumont Kalee Type 379にて使用

注意事項:

1:高域ドライバーは24オームタイプのWestrex 2090や Gaumont Kalee 379、 Altec 288や288Bの
24オーム用。

2:低域ウーファーは24オームパラ使用を前提にしてあり12オーム仕様ですので、24オームのWestrex 2080、
Altec 515のパラが最適です。但し私は16オームのGoodmansのAudiam 80 (型番はうる覚え 38cm
ウーファーでGaumontのウーファ同等だがインピーダンスは違うと思う)を使用していましたが、繋がりも特に
問題なかったと思います。
ご存知のようにスピーカーインピーダンスは固定抵抗と違い、周波数により変わるので多少の違いはあまり
気にしていませんでした。
気になる方は24オームのウーファーをパラや12オーム仕様のAltec 515系、アルテックのインピーダンス変換
トランスをご使用ください。

3:高域には12オーム⇒24オーム変換トランスが入っています。

4:もともとのシステムはWestrex2040アンプ(6L6GのパラPP)のラックに入っていたものです。

5:高域ドライバー故障の時のエマージェンシーSWで低域のフルレンジ使用ができます。またモニターSP用等の
減衰器が入っています。コントロールユニットの名前の所以です。

6:60年程度経過したものなので、塗装の痛みやケースのサビ、傷等あります。

7:重いので、配送は2個梱包になります。直接のお引取り歓迎いたします。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c21

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
23. 中川隆[-11614] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:25:14 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[16]
ヴィンテージユニット各種とアナログプレーヤー
2012.09.22 ヴィンテージオーディオ
https://soundcreate.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88%E5%90%84%E7%A8%AE%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%BC/


ヴィンテージユニット、名機の数々が入荷しています。
その一部を少し足早にご紹介させていただきます。

※全てステレオで揃っています。


WESTREX 20/80

ALTEC515をベースにしてつくられた2080A。

基本設計はほぼ同一ですが、フレーム磁気回路への取り付け方法やマグネットストラクチャー、ウール材によるダンピング処理など細部の数か所が違い、2080Aのほうが3割ほど重いです。

これは初期型のアルニコ仕様。
この20/80は、Westrex Acoustilens 20/80system用に作られたのが、ウーファーWESTREX 20/80だったのです。

後には、2080Fというフェライトマグネット仕様も登場しています。

ウーファーから音が鳴っていると思えないほど音離れが良く、味わい深く気品があり、量感の豊かさを感じました。

Acoustilens20/80のReceiver 2090-Aとエンクロージャーが近々ステレオで揃いますので、こうご期待。

>>>そして完成したのがコチラ<<<Westrex London Acoustilens20/80>>>!!!

ALTEC ホーン: 805B ドライバー: 288B
名機ALTEC A5などにみる組み合わせ。縦方向に伸びる音場感が素晴らしいホーンドライバーです。
トランペットなど管楽器の響きが浸透性があり気持ちよく、特にボーカルは生々しく、他ではなかなか味わえない広がりと開放感があります。

TRUSONIC ホーン:625H ドライバー:P30
10年に1ペア揃うかどうかの逸材。それがここサウンドクリエイトにあるなんて、なんというめぐり逢わせでしょうか。
625Hとは、横6セル、縦2セル、500ヘルツホーンという意味から成ります。
作りはたたいてみてわかりますが、鳴きがないので、余計な響きは一切ありません。
スーパーナチュラルで、静けさのあるサウンドが魅力。
永久磁石タイプのドライバーの中で、一番フィールド型に近い音色とのこと。いずれフィールドタイプと比べてみたいところです。

LONDON RCA 6セルホーン
USA RCAがLONDON RCAを立ち上げる際に、技術力のあるバイタボックスにOEMしたそうです。
RCAの意向に沿った特別仕様です。こちらまだ型番が分からずお調べ中の製品…。
横約39cm×縦約27cmの小ぶりにもかかわらず、音の濃さとエッジの硬質感は、表現のしようが難しいところですが、とにかく緻密なサウンドでぐいぐい迫ってきます。
アルテックやJBLというアメリカを代表するサウンドとは全く異なります。
LONDON RCAのアンプも入荷予定なので、その際にまたあたらめてご紹介いたします。

LONDON RCA 38cm LMI132245A
上記と同じように特別仕様のLONDON RCA。
瞬発力もよく、キャビネットなしで鳴らしているのにもかかわらず、かなりの量感にビックリ!!
円錐型コーンに同心円状にコルゲーションリブが5mmとく細かい間隔で施されているので、強度が増し、共振が抑えられているので歪み感がなく、かなり上の帯域までスムーズに伸びていると感じました。
業務用仕様のウーファーのため、かなり入力も入れられそうなので、いまからエンクロージャーに取り付けるのが楽しみです。


ALTEC 515B

この515BはA-5systemにはじまり、288シリーズのプロ用ドライバーと組み合わせられるウーファーとして歴史が古く、アルテックが世界に誇るウーファーではないかと言われています。
アルニコマグネットを2kgも使用しており、緻密でスピード感があるサウンドです!

その他、ALTEC 515C、JBL AMPEX 150-4、Jensenのユニットなども入ってきておりますので、
またご紹介させていただきます!

以上、全て店頭にご用意ございますので、ご興味ございましたら、いつでもご連絡くださいませ。

https://soundcreate.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88%E5%90%84%E7%A8%AE%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%BC/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c23

[近代史4] ペンションすももの木 _ 「カトレア」の交流点火の真空管アンプ 中川隆
2. 中川隆[-11613] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:48:34 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[18]
テレフンケンRV-258完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156

ドイツの劇場用のアンプに使用した球で、ドイツの直熱三極管でこんなに大きい球は珍しいです。この球を最新の交流点火で動かしています。


RV-258

アンプのシャーシーはブラックオゥールナットをオイル仕上げて、とっても重厚な姿です。

この大型特注電源トランスを使用した。

高圧回路は全て1200V耐圧のコンデンサーくりました、かなりロングライフで楽しめます。

ビックリです素箱入りですよ


ドイツから取り寄せた素箱入りのRV-258です。あの戦争の中で素箱入りの球が見つかるとは、すごい事ですね。良く見て下さい二重になっています、中の箱はスプリング浮いた構造で耐震の構造ですね。ドイツは球の構造もすごいですが保存方法もすごいです。
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/488.html#c2

[リバイバル3] ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ 中川隆
58. 中川隆[-11612] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:49:38 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[19]
テレフンケンRV-258完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156

ドイツの劇場用のアンプに使用した球で、ドイツの直熱三極管でこんなに大きい球は珍しいです。この球を最新の交流点火で動かしています。


RV-258

アンプのシャーシーはブラックオゥールナットをオイル仕上げて、とっても重厚な姿です。

この大型特注電源トランスを使用した。

高圧回路は全て1200V耐圧のコンデンサーくりました、かなりロングライフで楽しめます。

ビックリです素箱入りですよ


ドイツから取り寄せた素箱入りのRV-258です。あの戦争の中で素箱入りの球が見つかるとは、すごい事ですね。良く見て下さい二重になっています、中の箱はスプリング浮いた構造で耐震の構造ですね。ドイツは球の構造もすごいですが保存方法もすごいです。
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html#c58

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
48. 中川隆[-11611] koaQ7Jey 2020年8月28日 15:50:10 : y0GopNjkkY : WHBHR0FhdjMuak0=[20]
テレフンケンRV-258完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156

ドイツの劇場用のアンプに使用した球で、ドイツの直熱三極管でこんなに大きい球は珍しいです。この球を最新の交流点火で動かしています。


RV-258

アンプのシャーシーはブラックオゥールナットをオイル仕上げて、とっても重厚な姿です。

この大型特注電源トランスを使用した。

高圧回路は全て1200V耐圧のコンデンサーくりました、かなりロングライフで楽しめます。

ビックリです素箱入りですよ


ドイツから取り寄せた素箱入りのRV-258です。あの戦争の中で素箱入りの球が見つかるとは、すごい事ですね。良く見て下さい二重になっています、中の箱はスプリング浮いた構造で耐震の構造ですね。ドイツは球の構造もすごいですが保存方法もすごいです。
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c48

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
24. 中川隆[-11610] koaQ7Jey 2020年8月28日 18:26:05 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[1]

2013年05月15日
London Western Electricアンプの音質
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1901974820

ロンドンウエスタンは、アメリカのWestern Electricの関連会社で、イギリスの映画産業の音響部門を担ったとされています。


今のようにテレビもなく、ナチスドイツが典型ですが、アメリカでも映画が国威発揚らにも用いられた時代で、映画産業は国家産業でもあった時代のようです。


どういう経緯か知りませんが、アメリカからシアター機材を輸入すればいいものを、イギリス独自にアンプもスピーカーも開発しています。


他方でイギリスの業務用スピーカーメーカーの雄としてヴァイタボックス社 あのスピーカーのタンノイのKT88 PPの業務アンプも見たことがあります。


いつもの仲間のお宅に、自作長野オーディオクラブで知り合った方が最近購入されたLondon Western Electric 2042アンプが持ち込まれて。チョークトランスのうなりを取るため試行錯誤されていました。


トランスはコアのみならず、巻き線までほとんど剥き出しは、ドイツ クラングフィルム シーメンスらの業務用アンプら欧州独特で、アメリカではせいぜい合わせカバーが付きますよね。


今でも巨大なコアのトランスで、ヒータートランスが別も日本にはあまりないものの、欧米アンプでは不思議ではなく、音質的理由があるのかもしれません。


電源に放電管も使われた安定化電源回路が設けられているのは、仲間のカナダ ノーザンエレクトリックの同タイプも同様です。
フォト


今や音質的メリットはないですが、当時の電圧不安定な電源事情が推測されます。


オリジナルと違うのは初段 前段のST ガラス管の6J7Gが6J7メタル管となっていること、内部の一部抵抗が、A&Bに交換されている以外はそのままのようです。
フォト

本日、手持ちにちょうどいい、同じイギリス製 STC社 6J7Gがあるので、初段に差し替えて音質差の実験ができるかもしれません。


ハーネスは、さすがはプロ用。合理的な配線技術と、メンテナンスや保守点検がしやすい構造に、いつも配線の教科書になるものですね。


ここで基本的にモノラル6L6Gパラプッシュプルで構成が酷似しているWE118Aと比較試聴という、当時でもできない、雑誌管球王国並みの体験ができました。


フラット&ワイドレンジで、高域に艶のあるWE118Aに対して、LONDONは低域たっぷりに浪々と鳴ります。


同じ構成でもアメリカ カナダ ロンドン そうして、さらに別の仲間はオーストラリアの同構成のを持っています。
 

いずれにしても今日レベルのスピーカーも鳴らす能力が自分が産まれるより前にアメリカとイギリスで開発されていたことに驚きます。

お値段は118Aは今や200万を超え。いずれも100万は楽に超える価格だそうです。

大変貴重な経験で、自作アンプの音質や配線、部品選択の参考になります。


コメント


mixiユーザー2013年05月15日 09:13

Westrex Londonの2042は確か6L6GのPPで残り1本の6L6Gはモニター用に使用されていたように記憶しています。内部写真を拝見するとモニター用の6L6Gシングル出力トランスが見当たらないので、その1本は
単に飾りかもしれません。目がハート


mixiユーザー2013年05月15日 12:17

> mixiユーザー 回路図をちらりと見て勘違いしてしまいました。たしかに3本しかないですね。
6L6 PPとすれば、今でも余裕綽々な大型トランスに驚きます。 手前の使っていない真空管チェック用スイッチに抵抗を入れて、ゲイン切り替えをするようなことを言われていました。 ゲインはちょっと高すぎで、入力トランス 6J7 →CR →6L6でいいのかもしれません。

mixiユーザー2013年05月16日 02:21

> mixiユーザー 本日もありましたので確認しました。やはりPPアンプでご指摘のとおりです。ではなぜ6L6が3本かというと、1本は安定化電源回路を担っているようでした。

音質は118AがメルセデスAMGとすると、LONDONは大型ダンプのような・・・・

https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1901974820
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c24

[リバイバル3] ドイツの真空管 1 _ RV258 中川隆
1. 中川隆[-11609] koaQ7Jey 2020年8月28日 18:58:22 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[2]
テレフンケンRV-258完成 | 真空管アンプ「カトレア」
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156
ドイツの劇場用のアンプに使用した球で、ドイツの直熱三極管でこんなに大きい球は珍しいです。この球を最新の交流点火で動かしています。


RV-258

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ビックリです素箱入りですよ


ドイツから取り寄せた素箱入りのRV-258です。あの戦争の中で素箱入りの球が見つかるとは、すごい事ですね。良く見て下さい二重になっています、中の箱はスプリング浮いた構造で耐震の構造ですね。ドイツは球の構造もすごいですが保存方法もすごいです。
http://www.cattlea.jp/news/info.php?id=156
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/463.html#c1

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
25. 中川隆[-11608] koaQ7Jey 2020年8月28日 19:20:00 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[3]
Westrex - ウエスタンラボ オンラインショップ
https://westernlabo.net/?mode=cate&cbid=2194777&csid=46


Westrex 全13商品

Westrex 2080 SYSTEM pair [14531]
6,050,000円


Westrex A-10 1台 ジャンク品 [17584]
110,000円


Westrex A-12 1台 ジャンク [18225]
88,000円


Westrex(TRIAD) ASP-37440,ASP-73763 TRANS各1個 [18838]
27,500円


Westrex T-124 (For A-1 amp) 2個 [18872]
123,200円


Westrex A-10 オリジナルシャーシ 1個 [18890]
66,000円


Westrex T-114 1個 [18928]
16,500円


Westrex ASP37440/ASP37086 各1個 [18929]
22,000円


Westrex Co.2080-H 2本 [20865]
660,000円


Westrex A-15 ジャンク品 1台 [21258]
16,500円


Westrex OUTPUT SELECTOR 保証外品 [21708]
55,000円


Westerx B-206783-1 INPUT TRANS 1set [23045]
55,000円


Westrex Corp 14C 保証外品 1台 [21552]
SOLD OUT
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c25

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
26. 中川隆[-11607] koaQ7Jey 2020年8月28日 19:27:26 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[4]
ロンドン・ウエスタンのスピーカー


Western Electric & Westrex
http://www.audiosharing.com/archive/western/western.htm#

London Westrex SpeakerSystem
http://www.audiosharing.com/archive/western/we_amp/pdf/LondonWestrex_SP.pdf
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c26

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ
僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ。
経済の話もデタラメだけど、古代史の話は更に酷い。
要するに三橋さんは内容を理解しないで受け売りしているだけなんだな。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html
[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
1. 中川隆[-11606] koaQ7Jey 2020年8月28日 20:14:48 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[5]

77 7
1 時間前
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg


大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。

三橋さんの基礎学力や一般教養は商業高校出身者レベルの様な気がしてきた。
専門家の受け売りをしているだけみたいだから、人前で話さえしなければ嘘もバレないのにね。

1

SHU
何を書いているか意味が分からないのでとりあえず第1回から三橋TV見て下さい

77 7
@SHU
僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ。
経済の話もデタラメだけど、古代史の話は更に酷い。
要するに三橋さんは内容を理解しないで受け売りしているだけなんだな。


ちはや
拡散するのに他の人のチャンネルを使うのはどうなんでしょうかね?
ご自分のツイなりでやってください。

77 7
@ちはや
youtube の話の間違いを指摘しているんだから、間違っている youtube 番組に直接書くしかないだろ。
間違いを指摘されると困るなら、youtube でなく自分のブログだけに動画を入れればいいんだよ。

d y
この主張だけでは三橋さんの言っていることがデタラメだという根拠になっていないですよね。
アンチしたいならもう少しまともな文章で意見をまとめてみては?


77 7
@d y
大西さんの動画を見れば三橋さんの経済理論(?)のどこがおかしいかすぐにわかるよ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c1

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
7. 中川隆[-11605] koaQ7Jey 2020年8月28日 22:16:31 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[14]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg


大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。

大西さんが考えている経済政策は

・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする

政府紙幣を大量発行すると円の価値が暴落し、資産家の財産が目減りするので
、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c7

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
8. 中川隆[-11604] koaQ7Jey 2020年8月28日 22:27:51 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[15]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg


大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。

大西さんが考えている経済政策は

・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化

政府紙幣を大量発行すると円の価値が暴落し、資産家の財産が目減りするので
、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c8

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
9. 中川隆[-11603] koaQ7Jey 2020年8月28日 23:31:59 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[18]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg


大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。

デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化
・土地の公有化を進める

政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので
、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c9

[近代史5] 田中宇 従属先を軍産からトランプに替えた日本

従属先を軍産からトランプに替えた日本
2017年2月14日   田中 宇
http://tanakanews.com/170214abe.php

 まず本文執筆前の予定要約。トランプ政権の最大の目標は、軍産複合体による世界支配(米単独覇権)を終わらせることだ。目標達成のため、有権者からの支持を維持し、再選を果たして8年やりたい。それには雇用拡大、経済成長、貿易赤字の低減、金融危機再発の先送りが必要だ。トランプは、NAFTAやTPPを潰して2国間貿易体制に替えることで、貿易相手国が軍産でなくトランプ自身に対して貢献するよう、構造転換した。トランプは、英国のメイ、日本の安倍、カナダのトルドーの順に招待して首脳会談し、軍産とトランプとの戦争で軍産でなくトランプの味方になると約束させる見返りに、同盟国として大事にするという言質を与えた。(対照的に、トランプの味方をしたがらない豪州やドイツは敵視されている) (ニクソン、レーガン、そしてトランプ) (米国に愛想をつかせない世界) (Why Abe Is So Nervous Ahead Of His Meeting With Trump)

 戦後ずっと「対軍産従属」だった日本政府(官僚独裁+自民党)は、トランプ当選までクリントン=軍産だけを応援していた。トランプ当選後、急いで方向転換してすり寄ってきた安倍に、トランプが提案したのは「俺が再選して軍産潰しを続けられるよう、経済で協力しろ、そうすれば日本が切望する対米従属を続けさせてやる」ということだ。安倍は、この提案を了承した。今後、米国の対日貿易赤字を減らすため、円高ドル安が容認されていく。日銀は、米金融システムを支えるQEを続けつつ、これまでQEの副産物としてあった円安効果を殺していくことを迫られている。実体経済面では、日本車の米国内での生産比率の引き上げが求められそうだ。TPPより日本に不利な2国間貿易協定も提案されてくる。日本がこれらを拒否すると、トランプのツイートに日本への非難が再び交じるようになる。 (Can Japan Get A Better Deal Than The TPP?) (Here's who's counting on Trump to make Japan trade deals)

 トランプの目標は米単独覇権の解体なので、最終的には、対米従属(=官僚独裁、日本官僚機構が、米覇権の傀儡として振る舞うことで、日本の国会より上位にある状非民主的な体制)の大黒柱たる在日米軍もいなくなる。だが、それまでの軍産とトランプの戦いが続く最大8年間、日本は、経済でトランプを支援する見返りに、在日米軍に駐留し続けてもらえる。 (トランプ革命の檄文としての就任演説) (Why dealmaker Trump won’t get one up on Abe’s yen policy)

 トランプは、東アジアより先に中東や欧州での覇権転換を進め、東アジアには貿易面でトランプの加勢をしてもらう策を優先することにしたようで、安倍訪米の直前にトランプは、習近平と電話して「一つの中国」を承認し、米中間の対立を緩和した。トランプは以前「中国が対米貿易を均衡させる気がないなら、一つの中国を承認しない」という趣旨を言っていた。トランプが一つの中国を承認したことは、中国がトランプの提案を受ける形で米国との貿易交渉に入ることを了承したという意味が感じられる。要約ここまで。以下本文。 (米欧同盟を内側から壊す) (Why Shinzo Abe Is Banking on a Bromance with Trump)

▼在日米軍をそのままにしてやるから、俺と軍産との戦いで俺に味方しろ。円高を甘受しろ

 トランプは選挙戦以来、日本の米軍駐留費の負担不足、日本当局による円ドル為替の不正操作、日米間の貿易不均衡、日本車メーカーが米国内で十分な製造をせずメキシコなどからの部品輸入が多すぎること、などを批判してきた。トランプが、2月10日に訪米した安倍に対し、これらの不満を表明して対立するのでないかと予測されていたが、実際には何の対立もなく首脳会談が終わった。円ドル相場をめぐる対立は先送りが表明され、貿易不均衡の是正のため日本側が譲歩して円高が容認される先行きが見えてきた。経済は日本が譲歩させられる。だが、日本政府が最も懸念した安保面は全く問題にされなかった。 ("No News Is Good News") (Japan's trade mission: Get through to Trump)

 トランプの、選挙戦から今までの言動を見ると、彼の最大の目標は、米国の権力を握ってきた軍産複合体を潰し、世界を米国の覇権から解放することだ。日本の権力構造は、官僚が軍産複合体の傀儡として機能することで国会(政治権力)よりも上位に立つ官僚独裁機構であり、日本の権力機構はトランプが潰そうとしている軍産複合体の一部だ。トランプが安保面で日本に厳しい姿勢をとるのは納得できる。この見方に立つと、トランプが安倍との会談において安保面で日本に満額回答を与えたのは意外なことになる。 (世界と日本を変えるトランプ) (Golfing With Abe Was Easy; Now Comes The Hard Part)

 しかし、少し見方を変えて、日本側が、トランプと軍産の戦いにおいて、選挙戦中のように軍産(=クリントン)に味方するのでなく、トランプの味方をしますと宣言したらどうだろう。トランプは喜び「わかった。それなら当面、在日米軍はそのままにしてやる。その代わり、安倍君は僕に何をしてくれるかな」という話になる。安倍がトランプに対して与えられるものは、米国の雇用増や、米企業の儲けなど、経済面でトランプを優勢にすることだ。こういう筋で日米が話を進め、安保面が先送りされ、まず経済の話になり、日本が経済でトランプに無限の譲歩をする姿勢をとったのが、今回の安倍訪米だろう。 (Trump says U.S. committed to Japan security, in change from campaign rhetoric) (米国を覇権国からふつうの国に戻すトランプ)

 トランプ(やその後継政権)がいずれ軍産を潰した後、在日米軍の撤退など、日本が対米従属できない新世界秩序が立ち上がる。対米従属によって権力を維持してきた日本の官僚機構は(かつて鳩山小沢が試みたように)権力を日本国会に奪われる可能性が高まる(311以後の「防災独裁」=国民の役所依存体質の強化など、官僚が対米従属以外の権力構造を構築し、間抜けな国民や政治家を出し抜いて権力を維持する可能性も高い。政界も官僚あがりに席巻されており、日本の民主化はたぶん永久に無理だが)。 (民主化するタイ、しない日本)

 だから日本の官僚機構は、軍産でなくトランプの味方をすることに不満だろう。だが、米国で軍産が「野党」になってしまっている以上、日本が軍産と組み続けることは「対米反逆」になる。官僚たちは、安倍がトランプにすり寄るのを看過せざるを得ない。この点で安倍と官僚、特に外務省は一枚岩でない。トランプが、ニクソンのように軍産に弾劾されると、安倍も田中角栄のように引きずり降ろされるかもしれない。官僚は、この先何十年も日本の権力を握るつもりだが、安倍はあと数年の権力維持が目標だ。トランプが権力を握る限り、安倍は日本官僚を迂回できる環境にいる。 (American cars have a hard time in Japan)

 ミスター円の榊原英資やJPモルガンなどは、トランプの要求を受けて今年末までに1ドル100円を切る円高になると予測している。アメ車の魅力を高めて日本人が買いたくなるようにするには(もし可能だとしても)十年以上かかる。日米の貿易不均衡を是正するには、為替をいじるのが手っ取り早い。米国の食肉業界などは、大いに期待している。 (Japan's Mr Yen says dollar could fall below 100 yen by end-2017) (Trump-Abe Rapport Won’t Stop Yen From Passing 100, JPMorgan Says) (Meat groups urge Trump to push for trade deal with Japan)

 日銀が14年末から急拡大して続けているQE(債券買い支え)は、リーマン危機後、延命しているだけで蘇生していない米国の金融システムの再崩壊を防ぐために必要不可欠だ。「債券の神様」ビルグロスは最近、日欧の中銀によるQEがないと米経済は不況に再突入すると指摘している。日銀のQEは円売りドル買いを誘発し、日本政府が希求する円安を実現する手段でもあった。だが今後はトランプの意向を受け、日銀はQEをやりつつ円安にしないような動きを強いられる。大規模なQEは日銀のほか、ユーロ圏のECB(欧州中央銀行)もやっているが、ユーロ圏は今年、崩壊感を強める。 (US would sink into recession without ECB and BOJ QE says Gross) (米国と心中したい日本のQE拡大)

 フランスは、5月の大統領選挙でルペンが勝ったら、ユーロを離脱してフランに戻る国民投票をやる可能性が高まる。ユーロ離脱後に作るフランは為替が急落し、フラン建ての仏国債は実質的な価値が急縮小し、フランスは財政赤字を減らせるが、同時に仏国債は債務不履行(デフォルト)とみなされ、これが世界の債券金利を上昇させ、リーマン危機再来の懸念が強まる。すでに危険なギリシャやイタリアなども、ユーロ離脱や国債の債務不履行へと動きかねない。ルペンの優勢は、英国のユーロ離脱や米国のトランプ当選の影響を受けたものだ。トランプは、ルペン当選=ユーロ崩壊を煽っている。 (Economists: Le Pen Victory Would Lead To "Massive Sovereign Default", Global Financial Chaos) (President Le Pen – small risk, big shock) (Italy’s Banking Crisis Is Even Worse Than We Thought)

 ユーロ圏の金融が崩壊して金利が上がると、もはやECBに米国中心の世界金融システムの安定役を期待できない。米国の金融システムを延命させてくれる米国外の最大勢力は日銀になる。その意味でも、トランプは安倍を厚遇し、安保面で日本が望む現状維持を(当面)了承する代わりに、金融と経済の面で貢献させようとしている。(ユーロ崩壊という、これまでより一段と規模の大きな国際金融危機の前に、すでにQEが限界に達している日銀に、この先どこまで無理をさせられるか大きな疑問ではあるが) (Draghi Takes QE Case to Brussels as Politics Keeps Risk High) (米国の緩和圧力を退けた日本財務省)

▼東アジアはまず経済面でトランプに貢献させられる

 トランプは、安倍と会う直前に習近平と就任後初の電話会談を行い「一つの中国」(台湾を国家とみなさない姿勢)を承認した。安倍の訪米前に日本に来たマティス国防長官は「尖閣諸島は日米安保条約の範囲内だ」と宣言し、その宣言を出し渋ってきたオバマ前政権からの態度変更を行った。一つの中国承認と、尖閣の日米安保範囲内の宣言は、いずれも日本が米国にやってほしいことだ。 (Trump embraces Abe after moving to heal rift with Beijing) (Trump opposes undermining Japan's control of disputed islands: U.S. official)

 日本は、米国が台湾問題で中国と敵対するのを好まない。米国が日本に「台湾の面倒を日本が見ろ」と言いかねないからだ。いずれ米国の覇権崩壊と中国の台頭が進み、日本が米国の後ろ盾なしに中国と対峙した時に、日本が台湾を抱えていると、中国との協調関係(対中従属)に移行できない。日本の中国敵視は、あくまでも対米従属のためのものだ。日本は中国と本気で対決する気などない。だから日本は米国に、台湾でなく尖閣で中国と対峙してほしい。理想主義的なオバマは、日本の対米従属根性が嫌いだったが、トランプは、対米従属させてやるから俺を応援しろという現実主義で動いている。一つの中国も尖閣も、米国側は、口を動かすだけですむ。 (Are the Senkaku Islands Worth War Between China, Japan and America?) (Trump Will Use Abe Visit to Soothe Worried Asia-Pacific Allies)

 一つの中国から尖閣への対立点の移動は、中国にとっても利得がある。中国は、台湾問題を国際紛争にするのを認められない。対照的に、尖閣(や南シナ海)は、中国も認める昔からの国際紛争だ。トランプが台湾問題で折れたのは、中国側とのこれまでのやり取りで、貿易紛争である程度以上の譲歩を引き出せる感触を得たからだろう。それと、北朝鮮問題もある。 (Trump And Abe Joint Press Conference: Highlights And Live Feed) (Mattis visit unlikely to calm Trump-rattled allies)

 北は最近、トランプと新たな交渉をしたいと考えて、世界を慌てさせるため、原子炉の再稼働やミサイルの試射を繰り返している。北を何とかするには、まず中国に動いてもらう必要がある。トランプは以前から「北の問題は中国に責任がある」と言っている。中国は「いやいや、北の若大将は、うちでなくトランプさんと会いたくてミサイル撃ってるみたいですよ」と言ってくる。東アジアより先に中東や欧州の問題を片付けたいトランプは「そんなこと言わずに中国が動いてくれ。一つの中国を承認してやるから。いいだろ?」と習近平に持ちかけた感じだ。北朝鮮をめぐる外交が動き出す気配はまだないが、北の問題がトランプにとって東アジアの安保問題での最優先課題である感じはする。 (US launches review of North Korea policy) (North Korea restarts nuclear reactor used to fuel weapons program)

http://tanakanews.com/170214abe.php
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/279.html

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
10. 中川隆[-11602] koaQ7Jey 2020年8月28日 23:43:16 : yWkPitUkps : cDdWS0x3bXNDTHM=[20]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg


大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。

デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化
・土地の公有化を進める

政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので
、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c10

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
14. 中川隆[-11601] koaQ7Jey 2020年8月29日 06:36:51 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[1]
>金が通貨の価値ってのはどこに書いてあったの?

この論考を円紙幣に適用しただけだよ:

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645


世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

ゴールドよりダイアモンド価格とか穀物価格とかマクドナルド価格と比較した方がいいのかもしれないけど、昔はゴールドが標準貨幣だったから便宜上紙幣とゴールドを比較したんだろ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c14

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
12. 中川隆[-11600] koaQ7Jey 2020年8月29日 06:44:46 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[2]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg


大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が金利でマネーストックが増える分の金を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化


政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので
、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c12

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
15. 中川隆[-11599] koaQ7Jey 2020年8月29日 06:45:37 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[3]
M Ikeda
3 分前
大西さんの動画拝見しました。大変興味深かったです。3つお聞きしたいことがあります。
@大西氏が信用創造の説明をされた時、100万の預金からスタートしますが、それはどこから来た(もしくは誰の負債)なのでしょうか?
A銀行の信用創造の自転車操業以外にも、生産と消費などによっても価値は創造されるサイクルがあると思いますが、その分を日本貨幣を新規発行する、もしくはどこかでマネーフローが詰まってるなら税金で回収して再分配しなちゃいけないと思うのですが、777さんはどう思われますか?
B第三者を下げて、自分の自己承認欲求を満たすのは見ててみっともないです。777さんはそんなつもりがなくても、匿名性があるものが顔出しして論じてる人を批判する時はそれなりのマナーがあっていいと思うのですが、いかがでしょう? 長くなって申し訳ないです💦
77 7
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1 秒前
@NAIL0xFF
マネーストックが増えると貨幣価値が下がるんだよ
円の単位を変更する事になるからね

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1 秒前
@M Ikeda
>@大西氏が信用創造の説明をされた時、100万の預金からスタートしますが、それはどこから来た(もしくは誰の負債)なのでしょうか?

大西さんの貨幣論は又貸し説という俗説です

77 7
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1 秒前
@M Ikeda
>A銀行の信用創造の自転車操業以外にも、生産と消費などによっても価値は創造されるサイクルがあると思いますが、その分を日本貨幣を新規発行する、もしくはどこかでマネーフローが詰まってるなら税金で回収して再分配しなちゃいけないと思うのですが、777さんはどう思われますか?

税金では再分配できません。再分配の正しいやり方はわかっています:
戦後日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった


ソ連・中共・東欧も含めた世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです。

特に自称社会主義国のソ連や中共は極端な階級社会で、下の階級の人間は絶対に上に上がれない社会でした。

戦後の日本が理想の共産社会に近い一億総中流社会になったのは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホ左翼が沢山いたのです。


赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでましたからね。


当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

77 7
@M Ikeda
>B第三者を下げて、自分の自己承認欲求を満たすのは見ててみっともないです。777さんはそんなつもりがなくても、匿名性があるものが顔出しして論じてる人を批判する時はそれなりのマナーがあっていいと思うのですが、いかがでしょう? 

僕は以前は三橋さんの古代史、アイヌ先住民説や南京大虐殺・慰安婦問題の話の批判しかした事は無いです。しかし間違いを何度指摘しても無視されるだけでした。
こういう誠実さがゼロの人物にはきつい言葉が必要でしょう。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c15

[近代史4] 中国人は頭がおかしい 中川隆
7. 中川隆[-11598] koaQ7Jey 2020年8月29日 07:28:52 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[5]
ポンペオが香港ドル発券銀行HSBCを名指し批判
2020/08/29






http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/555.html#c7
[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
153. 中川隆[-11597] koaQ7Jey 2020年8月29日 08:39:02 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[8]
953底名無し沼さん (ワッチョイ f5f3-Xbxe [114.185.214.109])2020/08/28(金) 19:00:42.79ID:KvwawMrv0

俺が子供の頃爺さんたちの寄り合いで「誰々は昔酒飲んで帰る途中にキツネに騙されて池に
嵌った」「誰々はタヌキに騙されて川に落ちた」みたいなことを本気で話してた。

あれって恥ずかしい失敗をキツネやタヌキのせいにすることで笑われないように
してたんだなってつい最近気付いた。狭い村社会だから一生言われ続けるだろうし
それが原因で人間関係が悪化しかねない。狐や狸のせいにしとけば丸く収まる。
都合がいいからみんな騙された振りしてて村人もそれを受け入れてたんだろうな。


961底名無し沼さん (ワッチョイ 1d18-BlA8 [124.219.200.180])2020/08/28(金) 22:44:53.61ID:9QInLIE40>>962>>969
>>953
子供の神隠しもそうだな。
間引いたことは暗黙の了解。


962底名無し沼さん (ブーイモ MM4b-IgyH [163.49.209.158])2020/08/28(金) 22:59:29.13ID:risyANafM
>>961
うっかり死なせてしまい、床下に丁重に埋葬した後、村人総出で探し…
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1597674511/l50
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c153

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
154. 中川隆[-11596] koaQ7Jey 2020年8月29日 08:40:08 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[9]
969底名無し沼さん (ワッチョイ 6d64-ySMb [222.11.16.173])2020/08/29(土) 06:00:11.06ID:YQVZ8lNf0
>>961
お地蔵様やこけしの裏の意味知って怖い
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c154
[近代史5] 日本人のガラパゴス的民族性の起源 日本人の源流考
日本人のガラパゴス的民族性の起源
2020/8/25 0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

ガラパゴス史観を総括した、日本人の源流考です。Y-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。

v.1.8
新しい知見を入れて追記・訂正等行いました。

1.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAの分化ツリーの調査を進めて行く中で、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

●何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せ
 ず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?
●出アフリカを決行した結果、分化した古代4亜型の中でY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリ
 ア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った古代亜型の集団は、なぜ現代に至るまで「A」,「B」同
 様、狩猟採 集形態から抜け出さなかったのか?抜け出すチャンスがなかったのか?
●彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)=現ホ
 モサピエンスはアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 原ホモサピエンスが出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇でハイブリッド化することで現代型ホモサピエンス
 に進化したのではないか?原ホモサピエンスと現ホモサピエンス(解剖学的現代人類)は違うのではないか?

2.ネアンデルタール人から始まったようだ。

  ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種か異種とこれまで議論されてきました。最新の知見では、80万年前頃にホモエレクトスから、 ネアンデルタール人とホモサピエンスの共通の祖先と考えられる草創期のネアンデルタール人 (旧ホモハイデルベルゲンシス)が出現し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしく、 そして40万年前頃にネアンデルタール人の東アジア型のデニソワ人が地方型として分化したようです。

注:ホモエレクトスの次の進化型古人類と思われていたホモハイデルベルゲンシスが最新分析技術による遺伝子解析の結
  果、草創期のネアンデルタール人と分類されることになりました。このためネアンデルタール人の出現年代は、ホモ
  ハイデルベルゲンシスの出現年代とされていた80万年前頃に遡りました。
注:デニソワ人はあくまでネアンデルタール人に包含される地方型というのが極最新の見解です。ユーラシア大陸に拡大・
  拡散したネアンデルタール人は数十万年の歴史の中で各地域型の進化を遂げていた、と欧米の研究者は説明しています
  が、あくまでネアンデルタール人の範疇に入るのだそうです。

  極最新のアフリカ大陸の調査では、草創期の原ホモサピエンスも50万年前頃には既に出現していて、30万年前頃にホモサピエンス最古のコイサン集団の祖先が出現し、 その後何度か出アフリカを行っており遺跡も発掘されているそうですが、6-7万年前頃の最後の出アフリカが、 我々、解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)を形成したようです。 そしてネアンデルタール人は、3-10万年前頃にホモサピエンスと各地で交雑し、3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっています。 デニソワ人の絶滅時期はまだ解明されていません。

ホモサピエンスとネアンデルタール人の人類種の分類の見解は研究者によって異なり、亜種扱いの場合は、
  ホモ・サピエンス・サピエンス<===>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス、と分類され、
あくまで別種と考える場合は、
  ホモサピエンス<=========>ホモ・ネアンデルターレンシス、と分類されています。

  いずれにせよ最新の遺伝子解析技術は、現代人類の遺伝子の2−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることを解明しました。 東アジア人の比率が最も高く、次にヨーロッパ人で、東南アジア人は意外に低いそうです。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまでに、 ネアンデルタール人の歴史は既に60万年程度は経過しており、 その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたと考えられ、 アジアで発掘されたデニソワ人はネアンデルタール人の東アジア型と考えられ始めています。 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子がメラネシア人に6%も受け継がれている、ことまで判明しています。
  またネアンデルタール人にはホモサピエンスの遺伝子が20%も含まれていた、と言う報告まであります。
  これはつまり現代人類は、既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種もしくは異種間交雑の結果 進化の爆発が起こり、解剖学的現代人類(現ホモサピエンス)として完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われます。

  また大きなトピックスとして、解剖学的現代人類のY-DNA分化ツリーにネアンデルタール人とデニソワ人の亜型がとうとう組み込まれました。 一方、現在の調査結果ではネアンデルタール人とデニソワ人のmtDNAは解剖学的現代人類には受け継がれていないことも判明しました。
  つまり、ネアンデルタール人、デニソワ人と解剖学的現代人類はY-DNA(男系)で直系で繋がっている(つまり直系の先祖)、と言うことになりますが、 女系を表すmtDNAでは断絶している、と言うことになります。記事「14-2.男系のmtDNAが遺伝しないのは、"ゴミ"だからだった」で解明されたようにmtDNAは母親からしか受け継がれません。ミトコンドリアはもともと共生したエネルギー産生細菌なので、人類自身のDNAではないのです。恐らくこのために生殖時の染色体減数分裂と母親、父親の染色体の合体のプロセスに組み込まれないのでしょう。結果、母親側のmtDNAのみが受け継がれるのでしょう。


  ネアンデルタール人とホモサピエンスは異種か亜種かという問題に対し、ネアンデルタール人のY-DNAの変異型が特定され ホモサピエンスのY-DNAツリーと直系でつながったということは、異種ではないという結論になります。 あえて言えば、ネアンデルタール人とデニソワ人の男性はホモサピエンスの男性と亜種ほどの違いもなく、同種で 「頑丈型」と「華奢型」の違い程度に過ぎないため、両者ともにホモサピエンスの女性と交配しても子孫を残せた、ということになります。

  一方女性に関しては異なり、進化は女性から始まると考えられるため、ホモサピエンスの女性はネアンデルタール人とデニソワ人の女性とは 亜種もしくは異種ぐらい異なる進化段階に進んでしまっていたのかもしれません。だからホモサピエンスの男性とネアンデルタール人やデニソワ人の女性の組み合わせでは 子孫が残らなかったのだろうと欧米の研究者は考えているようです。 うがった見方をすればネアンデルタール人とデニソワ人の女性達は華奢でひ弱そうなホモサピエンスの男性を受け入れなかったということも考えられます。

遺伝子解析の技術の進歩は目覚ましいものです。当ガラパゴス史観がRNAとリボソームの研究をしていた約50年前頃とは 隔世の感があります。今後の新しい論文や知見が楽しみです。

3.原ホモサピエンスから現ホモサピエンス=解剖学的現代人類へ脱皮したのではないか!

  我々、解剖学的現代人類の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も、進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた早期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にやっと草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団の祖先が出現したようです。
  しかも原ホモサピエンスの出アフリカは20数万年前頃には既に始まり、遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に定住していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5−6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

3-1.華奢型への退行進化と集団形成への変化

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に草創期ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられます。 この草創期ホモサピエンスは、恐らく華奢型に突然変異してしまった早期ネアンデルタール人と推測されます。後述しますが、 恐らくこの華奢型に退行進化してしまったことが、アフリカ大陸を生き抜くために、捕食獣から身を守るために集団化せざるをえなくなり、 仕事の分担をするようになり、コミュニケーションをよくするため言語能力を進化させたと、京都大学の松沢教授は説明しています。 このことは要するに原ホモサピエンスとは、集団を作ることが本来の生活様式(つまりムラ単位)ということになります。 最新の論文「14-12. 初期の人間は自分自身を家畜化した、新しい遺伝的証拠 v1.1」報告されているように、人類は同調性のない個体や、 ボスになりたがる個体などグループ維持に不都合な個体を排除しできるだけ同調できる個体達でグループ構成をするようになった、と言うことのようです。 日本人の持つ「同調圧力」は、なんとホモサピエンス本来の形態ということになります。 恐らく家族単位の生活様式だったと考えられるネアンデルタール人は数十万年経過しても人口増加率は低いと思われますが、 大家族や近縁グループ単位など集団を形成するホモサピエンスは人口増加率がはるかに高くなったのではないかと考えられます。

3-2.最新のY-DNAツリーの超概要!

  最新のY-DNAツリーは、
Y-DNA「Adam」からY-DNA「A0000」(デニソワ人)が分化し、
Y-DNA「A000」(ネアンデルタール人)が分化し、
Y-DNA「A00」(コイサン集団)が分化し、更に「A0」、「A」と分化が進み、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化しましたが、
  この「A」と「B」はホモサピエンスの始祖亜型で原ホモサピエンスと考えられます。
Y-DNA「CT」が出アフリカし、現ホモサピエンスY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化しました。
  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と考えられます。
  この「C」,「D」,「E」は古代性を強く残した狩猟採集民として、近年まで残ってきました。

注:デニソワ人がネアンデルタール人の地方型として分岐したのは40万年前頃と解析されていますが、 解剖学的現代人類に組み込まれたネアンデルタール人の遺伝子はもう少し後年の3-10万年前頃の集団からと考えられているようです。このためデニソワ人のほうが古くなっています。 これは大事なことで、ネアンデルタール人は末期に近く、文化レベルも技術レベルも十分に成熟しきっていた、ということです。 未開の狩猟採集民でしかなかった原ホモサピエンスは、この成熟したネアンデルタール人と交雑することで一気に進化の爆発を起こし、 集団で行動するホモサピエンスの生活習慣を継承したハイブリッド種は恐らく人口繁殖力も極めて高く、圧倒的な人口増加の中に ネアンデルタール人を自然吸収する形で一体化し、解剖学的現代類に進化したと考えるのが最も合理的です。

3-3.解剖学的現代人類は出アフリカ組の原ホモサピエンスと終末期の成熟型ネアンデルタール人とのハイブリッド人類

  現在のY-DNA情報から考える合理的な解剖学的現代人類の分化史は、
1.出アフリカ後、中近東あたりで原ホモサピエンスと中近東型ネアンデルタール人が交雑。
  Y-DNAはYAP型「DE」と非YAP型「CF」に分化。mtDNAはアジア型「M」とヨーロッパ型「N」に分化。
2.「CF」はインド亜大陸〜中央アジア〜シベリアで東アジア型ネアンデルタール人と逐次密に交雑し「C」,「F」に分化。
3.「F」は更に「G」〜「K」→「K2」と分化、子亜型「K2a」からさらに「N」,「O」が分化し東アジアの主役となった。
4.残った子亜型「K2b」→「K2b1」からデニソワ人との交雑で、「M」,「S」が分化し出アジア後太平洋に移動。
5.最後に残った孫亜型「K2b2」から「Q」,「R」が分化し「Q」はシベリア経由で南北アメリカ大陸に拡散。
  最後の最後の「R」の本体は西進しスラブ系「R1a」とケルト・ゲルマン系「R1b」としてヨーロッパの主役となった。
というストーリーでしょう。当ガラパゴス史観が生きているうちに解明することを期待しましょう。

 つまりY-DNA「A」と「B」は解剖学的現代人類(ハイブリッド型)として完成する前の原ホモサピエンスと言っても良いかもしれません。
 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということでした。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的なホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスとさほど変わらない文化レベルだったという証明でしょう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになったというレベルでは、とてもホモサピエンスとは言えないのです。

注:解剖学的現代人類(AMH)のY-DNA「K2」はデニソワ人と交雑しY-DNA「K2b1」が分化し出アジアしてメラネシアに拡がったようなのです。 しかしシベリアに居住していたデニソワ人と交雑したY-DNA「K2b1」が何故海に漕ぎだしたのかは全く謎のままです。 古代に海の民だったのはY-DNA「C」で、現在のポリネシア人の先祖とほぼ判明した海洋性ハンター遺伝子集団です。 しかしY-DNA「C」がサフ-ル大陸に到着したのは5-6万年前と考えられており、Y-DNA「K2b1」が出アジアを行ったのは遥か後の時代です。 遭遇したのはニューギニア島についてからのはずです。Y-DNA「K2b1」がどのように渡海技術を習得したのか全く推理が働かない状況です。

  解剖学的現代人類は、なぜ現代につながる文明を興すほど進化できたのだろうか?非常に大きな疑問です。 古ネイティヴ・アフリカン(一部の王国を築いた特殊な集団を除く)、は大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかったようです。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずです。
  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するにはホモサピエンスになったというだけでは全く無理で、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずです。

3-4.解剖学的現代人類は進化の爆発に遭遇できたのではないか!!!

  成熟期ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの交雑の結果、進化の爆発が起きたと推測するのが最も妥当です。

  出アフリカした親人類のネアンデルタール人と亜種間交雑した結果、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を 一気に取り込むことに成功したのかもしれないのです。恐らく華奢型の突然変異型だったために生き残るために集団化したことで 高い人口増加率(繁殖力)を得た出アフリカ組の原ホモサピエンスに対し、 家族単位のため比較して少ない人口だったネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが現ホモサピエンス= 解剖学的現代人類=ハイブリッド型(原ホモサピエンス+ネアンデルタール人)と考えるのが最も妥当性が高いのです。
  この繁殖力の高さは想像をたくましくすると、集団化したことに加えて、亜種間交雑の結果、出アフリカ組の原ホモサピエンスが獲得した後天的な獲得形質かもしれません。
  つまり解剖学的現代人類とは、先進文化を持っていた頑丈型のネアンデルタール人と狩猟採集民でしかなかったひ弱で華奢型の 原ホモサピエンスとのハイブリッド(混血)の結果誕生し、進化の爆発に遭遇できた人類と考えるのが最も妥当でしょう。

  ホモサピエンスがもし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できますが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 原ホモサピエンスが出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われます。 つまり原ホモサピエンスが出アフリカし、ネアンデルタール人と交配しハイブリッド型に進化し狩猟採集文化から脱し、 現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれません。

注:記事「18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか」で触れたように、最新の研究で、ネアンデルタール人とデニ
  ソワ人のY-DNAの変異型が同定され、恐らく80万年前頃と考えられるようになったY-DNA「Adam」に続き、デニソ
  ワ人とネアンデルタール人が分化のツリー上に配置されるようになったのですが、「1-1. Y-DNAハプロタイプ
  2019年6月版 ツリー」を参照ください、...。
注:一方mtDNAツリーでは、デニソワ人とネアンデルタール人のmtDNA変異型はまだ検出されておらず、おそらくデニ
  ソワ人女性とネアンデルタール人女性とサピエンス男性との交配では恐らく子孫ができなかったか、出来ても生殖能力
  が無かったのだろう、と欧米の研究者は考えています。

3-5.男女の進化の違いまとめ

・ホモサピエンスとネアンデルタール人の男性は「華奢型(きゃしゃ型)」突然変異と「頑丈型」の違いだけで、亜種の違
 いに進んでおらず、あくまで同種の範疇内だったと考えるのが最も合理的です。ホモサピエンスは恐らく骨形成不全や、
 筋肉形成不全など身体能力の発現不全症だった可能性もあります。だからネアンデルタール人女性から選択されなかった
 のかもしれません。
・一方進化は女性から始まると考えれば、ネアンデルタール人女性とサピエンス女性は亜種レベルに分化していたため、
 ホモサピエンス男性との間に子孫を残せなかったのだろうとも推測できます。

4.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子集団:Y-DNA「D」と「C」

注:実はまだ残っている疑問があります。古代性を近代まで残していた古代遺伝子Y-DNA「C」、「D」、「E」も現ホモサ
  ピエンスの段階に至っておらず、原ホモサピエンスの段階に留まっていたのではないか、後に様々な遺伝子亜型と交雑
  することで何とか現代性を身に着けることができたのではないか?
  そしてY-DNA「F」のみがインド亜大陸周辺でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑し、現ホモサピエンスの段階に進
  化したのではないかという疑問です。これは極めて大胆な推測ですが、これに関する知見、否定する知見はまだ全く報
  告されていません。

  最初の縄文人はY-DNA「D1b」(旧「D2」)を多数とする、Y-DNA「C1a1」(旧C1a」との混成部隊である。

  以下の写真は記事「30-11. 縄文遺伝子Y-DNA「D2」」、および「30-12. 縄文ハンター遺伝子Y-DNA「C1a」,「C3a」」で ご紹介したものです。残念ながら現在Wikipediaでは写真は削除されていました。

4-1.縄文系遺伝子集団:Y-DNA「D」


  Y-DNA「D」が100%の純系子孫のOnge族です。白黒写真なのでわかりませんが Onge族やJarawa族は世界で最も黒い(ネイティヴアフリカンより黒い)と言われているそうです。Y-DNA「D」が日本列島に 渡って来たのは、オーストラリアのアボリジニは5−6万年前頃には既に到達していたらしいので、日本列島にも恐らく遅くても 3−4年前頃には渡来していたと考えるのが妥当でしょう。その当時のY-DNA「D」集団は黒かったのか既に黄色くなっていたのかは 全く情報がありません。しかし確かなのは鯨面文身であったことでしょう。Y-DNA「D」が85%を占める子孫のアイヌが鯨面文身だったのは、 子孫として数万年にわたり正しく文化を残してきたことになります。 Jarawa族やOnge族は現代でもネグリートなので、当然縄文人も小柄なネグリートつまり、 「倭」人であったことは間違いないでしょう。

4-2.縄文系遺伝子集団:Y-DNA「C」


  Y-DNA「C」が100%の純系子孫のニューギニアのLani族です。濃い褐色で彫深のソース系になります。Y-DNA「D」のJarawa族や Onge族同様ネグリートです。恐らく古代遺伝子のY-DNA「D」、「E」、「C」、「F」は全てネグリートだったと思われます。 日本人は近代になっても男一匹五尺の体、と言われていた通り、日本人の男性人口の約50%を占める縄文系Y-DNA「D」と「C」は 戦前までネグリート形質を維持してきたのです。戦後の食糧事情や衛生環境の圧倒的な改善で日本人の身長は伸びてきましたが、 記事「19-14. 縄文遺伝子Y-DNA「D2」のネグリート(倭人)体質」でご報告した通り、戦後一気に伸びた身長も男女ともに 1980年代でピタッと止まりました。女性の縄文系の割合はほぼ67%です。ネグリート形質は強固で、 食糧事情や衛生環境の圧倒的な改善にも打ち勝ち、日本人の身長を抑え込んでいるようです。 イタリアやスペインなどのラテン系の人々の低い身長もY-DNA「E」の持つネグリート形質の特徴でしょう。 欧米人の高身長の源は、ヨーロッパ中に拡散した北欧系の高身長遺伝子によるものです。

  というわけでY-DNA「C」もやはり鯨面ですが、文身はしていないようです。 Y-DNA「D」とは明らかに異なる集団だということがわかると思います。 同じY-DNA「C」のアボリジニの祖先は沿岸でマグロのような回遊魚を漁していた渡海技術を持つ技術集団であることが判っています。 このY-DNA「C」集団は一時はニューギニア全島に分布していたと思われますが、かなり後代にY-DNA「S」と「M」のデニソワ系 メラネシア人が移動してきたときに押し出されたと思われ、ポリネシア全域に拡大し現在のポリネシア人のコア遺伝子となっています。 渡海技術を持っていたため、出ニューギニアできたようです。Lani族やDani族、Tehit族等純系部族は取り残されたのか、 やや内陸に居住しているので内陸適応したのかもしれません。 ニューギニアに移動してきたデニソワ系集団Y-DNA「S」と「M」はニューギニア高地人部族として現在もデニソワ人から受け継いだ 高地適応形質をチベット人同様維持しているようです。また恐らくY-DNA「C」から習得したのではないかと思われる渡海技術を持って メラネシアに拡大したと推測できます。ただし元々は高地適応部族だったので、近海のメラネシアが移動の限度だったのでしょう。

4-3.Y-DNA「D」の先輩チベット人の高高地適応獲得形質:

注:標高の高い高地に適応しているチベット人の高高地適応獲得形質は、欧米の研究者はデニソワ人との交雑で得た後天的獲得形質と考えているようです。

  2019年度のノーベル生理学賞「細胞が低酸素を検知し応答する仕組みの発見」だそうです。低酸素状態になると「エリ
  スロポエチンが増えて赤血球が多く作られ酸素を確保する」仕組みだそうですが、負の問題として赤血球が増えるとド
  ロドロ血になり、高地では心臓への負担が大きくなるという高血圧症や新生児の低体重、死亡の原因になるのだそうで
  す。特に妊婦さんの負担は極めて大きいのだそうです。
  その血液に酸素を供給するヘモグロビンの生成を調節するのがEPAS1遺伝子だそうです。チベット人は高地になっても
  ヘモグロビンの過剰生成を抑えられるように変異しており、標高4000mを越える高地でも低酸素症の発症を抑えること
  ができているのだそうです。このチベット人のEPAS1変異が解読されたデニソワ人のEPAS1の変異と同じだったのだそ
  うです。この研究結果は2014年にNature に発表されていました。
  ところがデニソワ人の遺伝子を6%も受け継いでいるメラネシア人にはこの遺伝子変異が受け継がれていないのだそうで
  す。これは調査不足の可能性が大です。通常メラネシア人と言うとメラネシアの島々に点在する人々を言いますが、
  ニューギニア高地人も同じY-DNA「K2b1」(「S」と「M」)を持って高地に居住しています。高地人にも当然高地適
  応形質が受け継がれていると考えるのが当然でしょう。
  Y-DNA「K2b1」が出アジアを行い移動したのは遥か後の恐らく7000-8000年前頃ではないかと言われています。デニ
  ソワ人が生きていたのは少なくとも数万年前と考えられるため、交雑はその頃のはずですが、まだ研究報告はありません。となるとY-DNA「K2b1」はどこでデニソワ遺伝子を獲得したのでしょうか?

  手持ちの情報だけで無理やり推測すると数万年前に交雑していたが、数万年の平地居住で高地適応形質を失ってから移
  動した。もしくは高地適応形質が消えずに持っていた小集団がニューギニア高地に残った。あるいはニューギニア高地に到達したら、高地適応形質が復活した。...ぐらいです。

  アンデスのマチュピチュなど先住民文化はY-DNA「Q」のはずですが、「Q」は「K2b2a1」なので「K2b1」の兄弟遺
  伝子亜型です。いずれにせよ高地集団の遺伝子調査が重点的に行われると判別しそうですね。

4-4.Y-DNA「D」の弟亜型のY-DNA「E」

  さて戻って、移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 始祖亜型である原ホモサピエンスの先住民の中に入り込み、始祖亜型Y-DNA「A」と「B」のネイティヴ・アフリカン集団の中に 古代亜型Y-DNA「E」の遺伝子が混在するようになっています。

注:現ネイティヴアフリカンのコイサン集団にもピグミー集団にも、Y-DNA「A」と「B」の純系部族は存在していません。
  このため原ホモサピエンスのイメージは推測の範囲を出ません。
注:アフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」(後代のケルト系遺伝子)集団がアナトリア、中近東から南下してきて、更に新しい集団として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部を形成して
  います。

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのでしょう。
  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至りました。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのでしょう。

4-5.Y-DNA「D」

  一方、Y-DNA「D」は、欧米の研究者の考えではY-DNA「C」と共に、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だった インド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達したようです。 その時にY-DNA「C」集団の本体は更に東進しサフール大陸に到達したようです。このY-DNA「D」と「C」の移動は、Y-DNA「C」が 習得した沿岸渡海技術で思いのほか早く5万年前にはサフール大陸に到達したと推測できます。

  その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し 現代までJarawa族やOnge族などの絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきています。研究者によっては中国大陸−インド亜大陸 経由で南下してきた、とする説もありますが、納得には至りません。
  Y-DNA「D」は基本的に古代性の強い狩猟採集民と考えてよく、日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いないです。

4-6.Y-DNA「C」

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで再度先住ネアンデルタール人と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できます。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えるのが今のところ合理的です。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、本体はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸内で拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族、Lani族やDani族などニューギニアの先住民集団やオーストラリア・アボリジニ集団、 つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っています。 そして5万年前にはオーストラリアに到達していた集団の遺跡から回遊魚のマグロの骨が東海大学らの調査により発見され、 Y-DNA「C」は沿岸を船で移動できる海洋性ハンター集団だったと考えられます。 従ってサフール大陸に到達したY-DNA「C」集団は更にそのまま船で海に漕ぎ出し、ポリネシア全土に拡大していったようです。 ポリネシアのY-DNAの主要亜型として検出されるY-DNA「C」は、実は縄文の海洋性ハンターY-DNA「C」と同じ亜型です。 つまり日本列島で検出される海洋性ハンター遺伝子Y-DNA「C」亜型は、現代ポリネシア人と同じ先祖を持つことになります。

  ところがオセアニアの遺跡の年代はそれほど古くはないようです。海面上昇で当時の陸地は全て水没し遺跡も当然海中です。 海中考古学が進歩すれば、Y-DNA「C」集団がポリネシアに漕ぎ出したのはかなり古いという事が判るのではないかと期待しています。 しかし現状の情報のみだと、ポリネシアに漕ぎ出したのはデニソワ系Y-DNA「S」と「M」がニューギニアに到達し押し出された結果と 考えるのが妥当です。

注:一部の日本人の持つ海洋性気質は、このポリネシア人と共通の祖先Y-DNA「C」から受け継いだ気質と言っても差し支
  えないでしょう。

4-7.Y-DNA「D1b」,「C1a」の日本列島への上陸

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大しました。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われます。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大です。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのです。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した「D」と「C」の混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した「D」集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となったようです。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようです。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「C」と「D」が残した文明と考えられます。 このため同じY-DNA「C」と「D」遺伝子を50%弱も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのかもしれません。

  日本の民話とチベットの民話には共通性がかなりありますが、これらはY-DNA「D」が伝えてきた民話と考えて差し支えないでしょう。
  しかし一緒に移動したと考えられる-DNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていません。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い、もともと海洋性の遺伝子なので、内陸の高地は居住適地ではなかったのかもしれません。。 縄文時代に火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高いのですが、Y-DNA「D」のようにデニソワ人から チベット高原のような高高地適応形質を受け継がなかったため途絶えてしまったのかもしれないですね。 チベット人の高高地適応がデニソワ人から受け継いだということは、 四川文明もデニソワ人が加わっていた可能性はあります、Y-DNA「C」とデニソワ系Y-DNA「D」との合作かもしれません。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられます。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されています。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられます。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられます。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられ、 サハリンや北海道に留まった集団は古代アイヌ人の母体となったでしょう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となったでしょう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないでしょう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できます。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのです。

4-8.Y-DNA「C2a」の日本列島への上陸

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)です。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われます。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意したのでしょう。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となったでしょう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあったでしょう、北の山の民の母体となったと推測できます。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体と考えてよいでしょう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。
  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

5.長江文明系稲作農耕文化民の日本列島到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「K2a(NO)」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。
  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。 やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えないでしょう。 (余談ですが、人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲ頭も「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

5-1.長江文明系稲作農耕文化民の拡散

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族でY-DNA「旧O2a」100%の頻度です。

WikipediaのShompen族の写真

  真ん中の人物は近藤正臣かキムタクか、日本に普通にいる風貌である。稲作農耕民の典型と考えてよいでしょう。

  また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、 こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

5-2.日本列島と朝鮮半島の稲作農耕民の共通点

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

5-3.台湾と日本の共通点

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

  台湾のヤミ族の正装です。なんと東国原氏に瓜二つですね。女性も普通にいますね。

  日向は薩摩とも異なる独特のネーミングが残る土地柄ですが、辿ると吉備と似たような土地柄だったのかもかもしれませんね。 因幡の白兎伝説に似たワニが出てくる民話でもあれば間違いないでしょうが。果たして?

6.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.日本人の源流....簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。
  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、
  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、
  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、 日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。

7.Y-DNAの分化.....エピジェネティクスか

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。
  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのでしょうか?

  これらの亜型群は、何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。我々現代人は、当然ですが、各亜型群が分化した当時の形態は全く知りませんが、各亜型に分化してから各地に移動したのか、移動した先の地域に順応して分化したのか、いずれかでしょう。分化の要因はまだ推測できていませんが、移住先の地方型先住ネアンデルタール人との交雑、気候や食生活の変化、移住先に特有のRNAウイルスとの共生化.......等々、いずれにせよ後天的な獲得形質ではないかと思われます。

ネアンデルタール人からホモサピエンスが分化したのは、骨形成不全、筋肉形成不全等、身体能力の発現不全症だった可能性も高いのです。つまりひ弱な華奢型の退行型突然変異だったような気がしますが、Y-DNAの亜型の分化は突然変異というよりエピジェネティクス(後天的な獲得形質)と考えるほうが理にかなっていると思います。

8.雑考

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけなのでしょう。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた黄河系 Y-DNA「O2」(旧O3)が牽引してきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、中韓が 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が現代に入るまでまで確立出来なかったかのに対し、日本列島は江戸時代には出来ていたという違いなのでしょう。

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。
  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。

  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

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余談

  このコラムで「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

大陸移動の年代を、類人猿を含む人類の進化史と照らし合わせると、もしかするとヒントがあるかもしれませんね。

  とにかく解剖学的現代人類は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/280.html

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
17. 中川隆[-11595] koaQ7Jey 2020年8月29日 10:25:45 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[11]

77 7
@NAIL0xFF
>金が今でも通貨の価値を決めてるって書いてあるところもよろしくね。

そんな事は言った事ないよ
知恵遅れの相手は大変だな
紙幣は紙切れで10円の価値しかない
金はそれ自体で価値が有るものだから、紙幣の信用通貨としての価値を判断する目安として使っているだけだ。
そもそも物価は毎年上がっているんだから貨幣価値は下がっているんだよ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c17

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
18. 中川隆[-11594] koaQ7Jey 2020年8月29日 10:31:12 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[12]
​ @NAIL0xFF
>金が今でも通貨の価値を決めてるって書いてあるところもよろしくね。

そんな事は言った事ないよ
知恵遅れの相手は大変だな
紙幣は紙切れで10円の価値しかない
金はそれ自体で価値が有るものだから、紙幣の信用通貨としての価値を判断する目安として使っているだけだ。
そもそも物価は毎年上がっているんだから貨幣価値は下がっているんだよ。

しかし三橋さんは嘘八百の話をして大金稼いでいる
一方、俺は金にもならないのに知恵遅れの相手をさせられている。
人間は平等じゃないな
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c18

[近代史4] 集団生活・共同体の起源
集団生活・共同体の起源


日本人のガラパゴス的民族性の起源
14-12. 初期の人間は自分自身を家畜化した、新しい遺伝的証拠が示唆している
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,14-12,17-8,18-4.htm#14-12

2020/6/12 v.1.1 民度が高いとは? 自分自身を家畜化した、との関係は?

  麻生財務相が日本でコロナがパンデミックにならずにしのいでいるのは、「民度が高い」おかげだと、自画自賛していた。 3.11で日本人が世界から賛辞された整然とした行動等々、緊急事態でも日本では暴動が起きずにじっと耐え、 お上の指示を待つのが日本人、強制されなくても忖度し世界最大の「同調圧力」の嵐が吹きまくる、だからはみ出したくないため 指示を待って行動するという生き方が身についていた、つまり同調圧力による指示待ち人間の集団が日本人で、 それが「民度が高い」と思われる所以の最大の要因と考えてよいかもしれない。

 つまり「民度が高い」とは「同調圧力に支配されている」ということなのだろう。

  当ガラパゴス史観がコンサルをしている会社は韓国製の医療機器を輸入販売し保守サービスを行っている。日本人と韓国人は 弥生系の遺伝子Y-DNA「O1b」(30%程度)と武装侵攻系Y-DNA「O2」(20%程度)遺伝子が計50%程度も共通、つまり同根である。 韓国の会社の社員は、一個人の能力では絶対韓国人のほうが上だけど、チームプレーができないことが 日本人に遅れをとる最大のマイナス点だと認めている。
  機器の不具合のある機能の改善を要求すると、担当になった開発担当者はその改善が必要な機能だけをピンポイントで ベストパフォーマンスにする。できた改善バージョンは、実装すると関連機能との整合を取っていないため、 あちこちに不具合をもたらす。しかし担当者は間違いなく受け持った機能はベストにしたのである。 これが日本の会社だったら、担当者は関連部門と事前打ち合わせを充分に行い、他の機能に 不具合(不適合)を起こさないか事前調査、協議、連携の上、開発しチェックし実装する。
  韓国人と日本人の一体何が違うのだろうか?.........。

1.Y-DNA「D」という、世界でも、ある程度の人口を持つ日本人とチベット人のみ
  が持つ特殊なYAP系古代遺伝子を「持つか・持たないか」、
2.Y-DNA「C1A」という古代遺伝子「C」の中でも最も古い古代子亜型を
  「持つか・持たないか」、
3.Y-DNA「C2a」という「C2」の中で最も古い子亜型を「持つか・持たないか」、

・つまり、縄文系遺伝子を「持つか・持たないか」である。
・一方、長江系水田稲作農耕民の遺伝子であるY-DNA「O1b」も集団の和を尊ぶ傾向
 が強いと言ってよいだろう。日本人は70-80%近い人口がおそらく集団行動を好む
 傾向が強いのだろう、つまりホモサピエンスの自己家畜化を最も受け継いでいる
 のが世界で日本人ということができる。

  なんと、「民度が高い」ということは「自己家畜度が高い」ということに他ならないようだ。まぁあまりうれしく ないが恐らくそうなのだろう。

  下記の論文にあるように原ホモサピエンスは自己家畜化し集団行動をとることでアフリカ大陸を生き抜いてきたそうです。 しかし解剖学的現代人類は家族単位の行動を基本とすると思われるネアンデルタール人との混血である。 つまり解剖学的現代人類は、集団で行動する人類遺伝子と家族単位の行動を好む人類遺伝子が混在しており、 その混在度で集団の傾向が現れるようです。

  つまり、日本人は「原ホモサピエンス度が高い」、解剖学的現代人類の中で最も原始的なのかもしれないですね。 なんとまあ!!

v1.0
  2019年12月5日のScienceに、初期の人間は自分自身を家畜化した.....という耳新しい記事が載っていました。
自分自身で家畜化するとはどういうことだろうか?興味があり読んでみました。久しぶりのScienceの記事です。 この分野では、現代人類は自己家畜化されている、というのは共通の認識のようです。 ただし、その原因・要因はまだ結論が出ていないようです。本記事はその一つの原因遺伝子を発見したと言うものです。

記事:Early humans domesticated themselves, new genetic evidence suggests
   初期の人間は自分自身を家畜化した、新しい遺伝的証拠が示唆している
   by Michael Price Dec.4,2019,5:00PM, Science
出典として取り上げられていたオリジナルのScienceの論文は、
論文:Dosage analysis of the 7q11.23 Williams region identifies BAZ1B as a
   major human gene patterning the modern human face and underlying
   self-domestication
   77q11.23ウィリアムズ領域の投与量解析により、BAZ1Bは現代の人間の顔と
   その基礎となる自己家畜化をパターン化する主要なヒト遺伝子であることが特
   定されました
   by Matteo Zanella et al, Vol.5,no.12, eaaw7908, DOI: 10.1126/
   sciadv.aaw7908 です。ご参考に!

  人類が自身の家畜化を始めたのは、80-100万年前頃に草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が ホモエレクトス(原人)から進化し、60万年前頃の早期のネアンデルタール人から草創期のホモサピエンスがアフリカで分化・誕生してから、 家畜化が始まったということなのだそうです。
  それまでの古人類はせいぜい家族単位で行動し、グループ・集団で行動・居住することはおそらくなかったようなのですが、 (哺乳類は基本的には群れではなく家族単位で、種によってはオスは子供ができると自分の遺伝子を広く数多く残すために、 家族から離れ別のメスを探し新しい家族を作る繰り返しの種もあると、先日のNHKで紹介していました。 このような種はオスが成獣になると相手探しの旅に出るのが普通なのだそうです。
  しかしニホンザルは群れで行動していますし、バイソンの集団移動も有名ですが、 いずれにせよ、哺乳類の基本は家族単位の社会で、集団社会を構築するのは少ないようです。
  また記事「15-1. アウストラロピテクス(猿人)の行動で解明された民族を越えて移動するmtDNA」でご紹介したように、 猿人(アウストラロピテクス)は女性のほうが相手を探して旅に出る、フーテンの寅子さんだったことが調査で報告されています。

  ネアンデルタール人もデニソワ人も遺跡の状況から見ると家族単位社会だったらしいのですが、 ホモサピエンスは何故かグループ・集団社会を形成するタイプの人類に進化(もしくは退化?)したらしい華奢型のホモ種です。 ネアンデルタール人は頑健型ホモ種です。もしかすると華奢型は骨の遺伝子発現障害だった可能性もありますね。 体格に関しては、どう見ても頑丈型のほうが自然選択にはより強いと思われるので、 実は進化したのではなく、退化したのではないかとも考えられます。
  ともあれ、現生人類はダーウィンの自然選択理論上、生き残るには不利な力の弱い「華奢型に突然変異」してしまったため、 アフリカ台地を生き抜くためには、家族単位よりも集団で身を守りながら狩猟採集を行うしかなかったのではないかと思われます。 その結果が、逆に良いほうに働き、集団社会のほうが自然選択に勝ち残ったと考えるのが合理的でしょう。
  本サイトの記事「13-4.想像するちから」の松沢教授が述べておられるように、人類は集団で行動するように進化したことで、 役割分担が生まれ、それぞれの役割をもれなく迅速に情報伝達する必要が極めて重要になり、 会話能力が著しく発達し語彙も豊富になったらしいのです。「ひ弱」という欠点を集団の力で補ったことが、 家族単位だったらしい、ネアンデルタール人より圧倒的に人口増加率を高められ、主役の交代が起こったと考えられます。
  どうやら、この華奢でひ弱な身体を補うために集団社会を形成してきたことを「自己家畜化」と呼ぶらしいです。

  その自己家畜化は、遺伝子の突然変異が一番の原因ではないかと言う論文の内容なのです。

  ネアンデルタール度やデニソワ度が高い民族・部族や個体は個人を中心にした思考・行動様式を好み、 ホモサピエンス度が高い民族・部族や個体は、集団を形成して思考・行動することを好む、ということなのかもしれません。
  ということは個が大事な西欧社会は実は進化が遅れた旧人類の遺伝子が色濃く残り、 日本人が集団の中にいると安堵して生活できるのは水田農耕稲作民族の弥生人の特徴だと思っていたのですが、 自己家畜化された新人類特有の集団社会だからこそ農耕社会が形成できたのではないか、 世界で農耕が発達したのは、中東のメソポタミア文明(チグリス・ユーフラテス川流域)と揚子江流域の長江文明に たまたまホモサピエンス度の高い人類集団社会ができたからこそなのでしょう。

  どうやら、長江流域の水田稲作農耕民にホモサピエンス度が高いメンバーが多く存在していたため、 結果として集団行動を好む民族に昇華されていったと考えるほうが良いのかもしれません。
  長江文明系が好戦的な黄河文明系に敗れ南北に駆逐された時に長江文明系は集団で移動し、南に逃げた越の集団は ヴェトナムからインドシナを西に移動しさらにインド亜大陸に農耕適地を求めドラヴィダ民族の一部を形成しています。 一方北に逃げた呉の集団は満州付近まで北上し、稲作農耕適地を求め朝鮮半島を南下し、日本列島に入ったようです。 いずれにしても「集団を好み集団のまま移動する」行動様式が、行きついた土地ですぐ定着できる理由だったのかもしれません。

     一方、日本人にも、集団や組織の中で行動するより海洋型や大陸型のチマチマしていない壮大な行動様式を好む人もかなりいますが、 ネアンデルタール度が高い/自己家畜化度が低い個と考えると納得ができます。

  このことは重要な視点です。記事にもありますが、人類は自己家畜化した過程で、 平和な集団社会の形成を邪魔する「ボスになりたがる遺伝子」や、 現代でもそこいらじゅうに存在する「いじめっ子体質の遺伝子」を排除してきたはずのようなのです。 家畜化が成功していれば、いじめっ子も存在せず、暴力的やハラスメント体質の人間も存在しないはずなのですが....。
  実際は、ホモサピエンスはネアンデルタール人から分化して誕生し、出アフリカ後のユーラシア大陸各地で 先住の親族ネアンデルタール人と交雑してきたようなので、「根」には自己家畜化完成前の遺伝子がかなり残っており それが、場面によっては現代人類にとって好ましくない体質が顔を出すのではないかと思われます。
  他の記事でも書きましたが、当ガラパゴス史観は、かなりのネアンデルタール体質(体格も含め)を保持しています。 ボスには全く興味はなく、暴力やハラスメントも嫌いで、集団行動も得意でホモサピエンス度はかなり高いと 思っているのですが、会社員時代も長いものにあまり忖度せず、御用学者的論法が大嫌いで、他人の考えに迎合せず/流されず 自分の考えを持つことを重要と考え(だからこんなホームページで発信を続けています)、 やや怒りっぽく、理性的より感性的であることなどネアンデルタール度も十分あると自負しています。

それでは、この記事の原文と下手な和訳をご紹介します。
================================================ 初期の人間は自分自身を家畜化した、新しい遺伝的証拠が示唆している

  人間が犬、猫、羊、牛を飼い始めたとき、人間は完全に異なる動物に対してもその飼いならすという伝統を継続したかもせん、 その異なる動物とはすなわち人間自身です。何らかの方法で家畜化の要素を反映する障害からの遺伝的証拠を引用する新しい研究は、 現代人類が絶滅した親族であるネアンデルタール人とデニソワ人から約60万年前に分裂した後、家畜化されたと示唆しています。
  「この研究は非常に印象的です」とハーバード大学の生物人類学者で、新しい研究に関与していなかったリチャード・ランガムは言います。 彼は、人間が飼い慣らされたからこそ、霊長類の祖先とは見た目が違うという長年の考えの「本当に美しいテスト」だと付け加えました。
  家畜化は、種がより友好的で攻撃的でないように育てられるときに生じる遺伝的変化の全体を網羅します。たとえば、 犬と飼いならされたキツネでは、多くの変化が物理的です:小さい歯と??頭蓋骨、ゆるい耳、より短く、よりカールした尾。 これらの物理的変化はすべて、飼いならされた動物の神経堤幹細胞と呼ばれる特定のタイプの幹細胞が少ないという事実に関連しています。
  現代の人間は、私たちの先祖の多くよりも攻撃的でなく、協力的です。 また、私たちも大きな身体的変化を示しています。 脳は大きくても、頭蓋骨は小さく、眉の尾根はあまり目立ちません。 そうです、それでは私たちは自分達自身を飼いならしたと言うことなのでしょうか?
  イタリアのミラノ大学の分子生物学者であるジュゼッペテスタと同僚は、1つの遺伝子BAZ1Bが神経堤細胞の運動の調整に 重要な役割を果たすことを知っていました。 ほとんどの人はこの遺伝子の2つのコピーを持っています。 不思議なことに、BAZ1Bのコピーの1つは他の一掴みと一緒に、ウィリアムズ症候群で、認知機能障害、 小さな頭蓋骨、エルフィンのような顔の特徴、および極端な陽気さ等に関連する障害のある人では失われています。
  BAZ1Bがこれらの顔の特徴に関与しているかどうかを知るために、Testaと同僚は11の神経堤幹細胞株を培養しました: ウィリアムズ症候群の人から4つ、異なるが関連する障害を持つ人々から3つ、障害の主要な遺伝子、 およびいずれかの障害のない人からの4つ。次に、さまざまな手法を使用して、各幹細胞株でBAZ1Bの活性を高低に調整しました。
 彼らは、この微調整が、顔面および頭蓋の発達に関与することが知られている他の数百の遺伝子に影響を及ぼしたと彼らは学びました。 全体的に、彼らは、突き固められたBAZ1B遺伝子がウィリアムズ症候群の人々の独特の顔の特徴につながり、 この遺伝子が顔の外観の重要なドライバーであることを発見しました。
  研究者が現代人、2人のネアンデルタール人、1人のデニソワ人の数百のBAZ1B感受性遺伝子を調べたとき、 彼らは現代人では、それらの遺伝子が独自の調節変異の負荷を蓄積していることを発見した。 これは、自然選択がそれらを形作っていることを示唆しています。また、 これらの同じ遺伝子の多くは、他の家畜、現代の人間でも選択されているため、人間は最近の家畜化のプロセスを受けた、 とチームは本日Science Advancesで報告しています。
  ランガムは、多くの異なる遺伝子が家畜化に関与している可能性が高いと警告しているため、 BAZ1Bに進化の重要性をあまり読みすぎてはならない。 「彼らが照準を合わせたのは、非常に重要な遺伝子の1つですが、他の候補遺伝子が複数存在することは明らかです。」
ウィーン大学の進化生物学者および認知科学者であるウィリアム・ティカムセ・フィッチIII世は、 人間の自己家畜化と動物の家畜化の「正確な類似点」に懐疑的であると言います。 「これらは類似点と相違点の両方を備えたプロセスです」と彼は言います。 「また、1つまたはいくつかの遺伝子の突然変異が、家畜化に関与する多くの多くの遺伝子の良いモデルになるとは思いません。」
そもそも人間が家畜化された理由については、仮説がたくさんあります。ランガムは、初期の人類が共同体を形成したとき、 進化の圧力が、より「アルファ:集団を支配する人間」ではなく または「攻撃的ではない特徴を持つ仲間」を好んだという考えを支持しています。 「いじめっ子と攻撃性を支持する遺伝子に対して、初めて積極的な選択が行われました」と彼は付け加えます。 しかし、これまでのところ、「人間はこれを管理している唯一の種です。」

================================================ Early humans domesticated themselves, new genetic evidence suggests

When humans started to tame?dogs, cats, sheep, and cattle, they may have continued a tradition that started with a completely different animal: us. A new study?citing genetic evidence from a disorder that in some ways mirrors elements of domestication?suggests modern humans domesticated themselves after they split from their extinct relatives, Neanderthals and Denisovans, approximately 600,000 years ago.
“The study is incredibly impressive,” says Richard Wrangham, a biological anthropologist at Harvard University who was not involved in the new work. It’s “a really beautiful test,” he adds, of the long-standing idea that humans look so different from our primate ancestors precisely because we have become domesticated. Domestication encompasses a whole suite of genetic changes that arise as a species is bred to be friendlier and less aggressive. In dogs and domesticated foxes, for example, many changes are physical: smaller teeth and skulls, floppy ears, and shorter, curlier tails. Those physical changes have all been linked to the fact that domesticated animals have fewer of a certain type of stem cell, called neural crest stem cells.
Modern humans are also less aggressive and more cooperative than many of our ancestors. And we, too, exhibit a significant physical change: Though our brains are big, our skulls are smaller, and our brow ridges are less pronounced. So, did we domesticate ourselves?
Giuseppe Testa, a molecular biologist at University of Milan in Italy, and colleagues knew that one gene, BAZ1B, plays an important role in orchestrating the movements of neural crest cells. Most people have two copies of this gene. Curiously, one copy of BAZ1B, along with a handful of others, is missing in people with Williams-Beuren syndrome, a disorder linked to cognitive impairments, smaller skulls, elfinlike facial features, and extreme friendliness.
To learn whether BAZ1B plays a role in those facial features, Testa and colleagues cultured 11 neural crest stem cell lines: four from people with Williams-Beuren syndrome,? three from people with a different but related disorder in which they have duplicates instead of deletions of the disorder’s key genes,?and four from people without either disorder. Next, they used a variety of techniques to tweak BAZ1B’s activity up or down in each of the stem cell lines.
That tweaking, they learned, affected hundreds of other genes known to be involved in facial and cranial development. Overall, they found that a tamped-down BAZ1B gene led to the distinct facial features of people with Williams-Beuren syndrome, establishing the gene as an important driver of facial appearance.
When the researchers looked at those hundreds of BAZ1B-sensitive genes in modern humans, two Neanderthals, and one Denisovan, they found that in the modern humans, those genes?had accumulated loads of regulatory mutations of their own. This suggests natural selection was shaping them. And because many of these same genes have also been under selection in other domesticated animals, modern humans, too, underwent a recent process of domestication, the team reports today in Science Advances.
Wrangham cautions that many different genes likely play a role in domestication, so we shouldn’t read too much evolutionary importance into?BAZ1B. “What they’ve zeroed in on is one gene that is incredibly important … but it’s clear there are going to be multiple other candidate genes.”
William Tecumseh Fitch III, an evolutionary biologist and cognitive scientist at the University of Vienna, says he is skeptical of “precise parallels” between human self-domestication and animal domestication. "These are processes with both similarities and differences,” he says. “I also don’t think mutations in one or a few genes will ever make a good model for the many, many genes involved in domestication.”
As for why humans might have become domesticated in the first place, hypotheses abound. Wrangham favors the idea that as early people formed cooperative societies, evolutionary pressures favored mates whose features were less “alpha,” or aggressive. “There was active selection, for the very first time, against the bullies and the genes that favored their aggression,” he adds. But so far, “Humans are the only species that have managed this.”
============================================
このテーマをもっと知りたい方は前述のScienceの論文をぜひお読みください。難解ですが読みごたえはあります。

http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,14-12,17-8,18-4.htm#14-12
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1012.html

[近代史4] 集団生活・共同体の起源 中川隆
1. 中川隆[-11593] koaQ7Jey 2020年8月29日 11:10:40 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[13]
日本人のガラパゴス的民族性の起源
2020/8/25 0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

原ホモサピエンスから現ホモサピエンス=解剖学的現代人類へ脱皮したのではないか!

  我々、解剖学的現代人類の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も、進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた早期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にやっと草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団の祖先が出現したようです。

  しかも原ホモサピエンスの出アフリカは20数万年前頃には既に始まり、遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に定住していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5−6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

3-1.華奢型への退行進化と集団形成への変化

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に草創期ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられます。

この草創期ホモサピエンスは、恐らく華奢型に突然変異してしまった早期ネアンデルタール人と推測されます。後述しますが、 恐らくこの華奢型に退行進化してしまったことが、アフリカ大陸を生き抜くために、捕食獣から身を守るために集団化せざるをえなくなり、 仕事の分担をするようになり、コミュニケーションをよくするため言語能力を進化させたと、京都大学の松沢教授は説明しています。 このことは要するに原ホモサピエンスとは、集団を作ることが本来の生活様式(つまりムラ単位)ということになります。

最新の論文「14-12. 初期の人間は自分自身を家畜化した、新しい遺伝的証拠 v1.1」報告されているように、人類は同調性のない個体や、 ボスになりたがる個体などグループ維持に不都合な個体を排除しできるだけ同調できる個体達でグループ構成をするようになった、と言うことのようです。

日本人の持つ「同調圧力」は、なんとホモサピエンス本来の形態ということになります。 恐らく家族単位の生活様式だったと考えられるネアンデルタール人は数十万年経過しても人口増加率は低いと思われますが、 大家族や近縁グループ単位など集団を形成するホモサピエンスは人口増加率がはるかに高くなったのではないかと考えられます。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1012.html#c1

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
19. 中川隆[-11592] koaQ7Jey 2020年8月29日 11:40:42 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[15]
M Ikeda
77 7 さん
大西先生も動画でおっしゃってたように、マネーストックに対する現金の割合は9.6%だから紙幣の発行残高が倍になれば貨幣の価値は半分になるというのどうでしょう。
あと、ここはある程度公共性がある場所だから、相手を知恵おくれとかいうのはやめましょうよ。

77 7
@M Ikeda
>紙幣の発行残高が倍になれば貨幣の価値は半分になるというのどうでしょう。

そういう厳密な話をしている訳じゃないですから。
僕が言っているのは
所有するゴールドを裏付けとして、その代わりに流通させた紙幣を、紙幣の額を倍にすれば紙幣1枚当たりの価値が半分になる
という定性的なレベルの話です。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c19

[番外地8] 僕はずっと三橋さんのブログを読んでいて、最近完全なデタラメだとわかったから、それを指摘しているんだ 中川隆
20. 中川隆[-11591] koaQ7Jey 2020年8月29日 11:50:30 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[16]
77 7
@M Ikeda
>紙幣の発行残高が倍になれば貨幣の価値は半分になるというのどうでしょう。

そういう厳密な話をしている訳じゃないですから。
僕が言っているのは
所有するゴールドを裏付けとして、その代わりに流通させた紙幣を、紙幣の額を倍にすれば紙幣1枚当たりの価値が半分になる
という定性的なレベルの話です。

実際に為替市場で取引される円は他に色々な要素が影響するので、幾らになるかはわからないですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/295.html#c20

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
13. 中川隆[-11590] koaQ7Jey 2020年8月29日 12:22:27 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[17]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。
三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化


政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので
、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c13

[近代史5] 日本人のガラパゴス的民族性の起源 日本人の源流考 中川隆
1. 中川隆[-11589] koaQ7Jey 2020年8月29日 13:20:15 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[18]
日本人のガラパゴス的民族性の起源

1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2


▲△▽▼

ヨーロッパY-DNA遺伝子調査報告

 3-1. Y-DNA調査によるヨーロッパ民族
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

 3-2. Y-DNA「I」   ノルマン度・バルカン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-2.htm

 3-3. Y-DNA「R1b」  ケルト度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-3.htm
       
 3-4. Y-DNA「R1a」  スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

 3-5. Y-DNA「N1c」  ウラル度・シベリア度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
 
 3-6. Y-DNA「E1b1b」 ラテン度(地中海度) 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-6.htm
  
 3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

 3-8. Y-DNA「G」   コーカサス度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-8.htm

15-4. アイスマンのY-DNAはスターリンと同じコーカサス遺伝子の「G2a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-4.htm
 
3-9. Y-DNA「T」   ジェファーソン度 調査 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-9.htm  

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm

1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm

1-15. コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-15.htm

1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm

1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-13.htm

1-17. 多民族国家 ロシアのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-17.htm

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm

1-18. 多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

1-16. 多民族国家 中国のY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/280.html#c1

[近代史5] 日本人のガラパゴス的民族性の起源 日本人の源流考 中川隆
2. 中川隆[-11588] koaQ7Jey 2020年8月29日 13:20:48 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[19]

0-1. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-1.htm

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

2-3. 日本民族mtDNAハプロタイプ頻度リスト
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-3.htm

1-3. 日本民族 Y-DNA調査まとめ 日本人は三重遺伝子構造の民族!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-3.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

1-8. 縄文遺伝子近縁度調査 Y-DNA「D」とY-DNA「C」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-8,30-11,30-12,19-14.htm#1-8

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

1-7. 極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」(O1,O2,O3」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-7,19-6,18-3.htm#1-7

1-10. 北方民族度調査 日本列島に古代北方民族はやってきたのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-10.htm

1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm

0-4. 日本の人口構成動態 今後はY-DNA「O」の増大と「D2」の減少か! rev.2
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-4.htm

0-3. 日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-3,19-8,30-31.htm#0-3

30-23. Y-DNAから見た日本語の成り立ち考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-2,30-23,30-24,30-25.htm#30-23
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/280.html#c2

[番外地8] アホ右翼は日本の敵が中国や北朝鮮ではなく英米だというのが判っていない 中川隆
1. 中川隆[-11587] koaQ7Jey 2020年8月29日 20:34:09 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[23]
アホ右翼は日本の敵が中国や北朝鮮ではなく英米だというのが判っていない
日本のアホ右翼が大騒ぎしている中国の脅威とかどうでもいい小さな問題
それより遥かに恐ろしいのは安倍首相とトランプ大統領が画策していた欧米資本による日本の銀行と大企業の乗っ取りだよ

安倍首相もトランプ大統領も反グローバリストではなく欧米資本(ディープステートとか言ってるな)のエージェントだ。

アベノミクスで日本が米国債を買いまくった為に、1ドルが70円以下になると日本の対外純資産はマイナスになり、日本の資産はすべて外資に乗っ取られる。特に日本国債を日銀に売って、その金でアメリカ国債を買った日本の銀行はすべて債務超過になって欧米資本に乗っ取られる。

2018.5.28「安倍首相の売国政策を糾弾する」大西つねきの週刊動画コラムvol.28
https://www.youtube.com/watch?v=VFEBdHhOv5A

資金不足を続けている対外純債務国(10兆ドル;1,100兆円)が発行する米国債は、ゼロ金利の日本・欧州の金利と、2%から2.5%の金利差(イールド)があるという理由から、売れていきました。

しかし今は、コロナショックからのFRBの緊急利下げで、米国債も金利ゼロです。ゼロ金利のドル国債を買うと、日本、欧州、中国からはドル安のリスクを、金利ではカバーできません。

短期で投機的なドル先物買いの動きは別ですが、2年単位の中期では、債務国の通貨のドルに金利差がない時は、基軸通貨とは言っても「円に対してドル安」の材料になります。  

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ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような日本のバブル景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

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その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/243.html#c1

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
27. 中川隆[-11586] koaQ7Jey 2020年8月29日 20:55:02 : soEYFebmyo : QWQ0OExaa2treG8=[24]

伊藤喜多男といえばWesternの伝道師であり、自作アンプの大家として知られるのだが、

「シーメンスのオイロダインとロンドン・ウエスターンの5010型システム(低域2080と高域2090)」の二機種に格別な感情があると汲み取れた。

Westrex London Acoustilens 20/80 が究極のヴィンテージスピーカーであるらしい。

2080-A のOEM先
https://91683924.at.webry.info/201604/article_17.html

 「ウェスタンエレクトリック・ロンドンの製品が英国のどこの工場で作られたのかは、確定的な話がありません。

 同じシアターサプライを手掛けている事からバイタボックスが一枚噛んでいるらしいとか、工場の規模はグッドマンが最大だったのでココだろうとか、いや、創業者のガイ・ルパート・フォンテーンが昔ウェスタンエレクトリック・ロンドンに勤めていた関係で、タンノイが協力したという説もあります。

 私はウーハーに関してはバイタボックスのOEMではなかったかと推測しています。それは1954年に既に2080はアルニコ磁石からフェライト磁石に変更されているからです。」

 ※2080が1954年に既にフェライト化されていたというのは誤情報の様です。


 【先輩の情報】
 『Vitavoxのフェライトは、多分、ドイツにルーツがあるように思います。
大戦後、ロシアにもその断片が見られます。(フェライトでも良い音で鳴らせられる)
 2080の設計に関わっていたのはVitavox,、Wharfedal、Goodmans辺りでしょうか?映画館用ではBTHがありましたが、競争相手だったので交流は無かったのかと?』

 さらに下の一文も頂きました。
Westrex (London) was born out of the anti trust laws that resulted in ITT acquiring the european divisions of AT&T's corporate empire. In the UK, Standard Telephone & Cables (STC) continued manufacture of Western Electric products (555, 497a etc) under licence, still badged as Western Electric. From the 50's on, the sound equipment was badged as Westrex and possibly due to the demise of the field coil and WE getting JBL to manufacture an Alnico version of the 594a, the JBL 2440, Westrex (London) turned to Altec and produced the 2080 and 2090 drivers which were effectively re-engineered versions of the Altec 515 and 288 drivers but with much better build quality.

 どうやらウェスタンエレクトリック・ロンドンも555を生産してたようですね。
 この文章を書いた方もロンドンの2080を515より高く評価していた様で、なんだか嬉しいです。


shunsuke
2016年04月13日 21:49

情報、何も持っていないのですが・・・

1.に関して
確かにWE・ロンドンは、結構日本にも設置されていたらしいですね。「続・音響道中膝栗毛」と同じ文章なのかも知れませんが、以下、伊藤喜多男氏の「うえすたん物語」よりの抜粋です。

「其の他英国のウェストレックスから種々な装置が入って来て主に関西地区と中部地区に設置されたが、これらは相当の名機であって、殊にラウドスピーカーが絶品であった。東京地区のシネマスコープの増設が終わってから、この英国ウェストレックスが輸入された関係で、東京地区には殆ど英国ものは設置されていない。」

田舎に設置されたのは(笑)、上記のような、遅れて入って来たという理由もあったようですね。

2080-A の評価に関しては、東洋ウェスターン電気に勤務されていた永井克正氏の「ウェスタン・エレクトリック、栄光の系譜〜トーキーの現場から」の中でも、以下のように語られておりました。

「かつての栄光が薄らいだとはいえ、その系譜を受け継いだウェストレックスの名品がある。ウェスタン・エレクトリック・ロンドンである。イタリアやインドでも作られるようになったウェストレックス・システムであるが、イギリス・ロンドンで作られた2090-A中・高域レシーヴァーと2080-A低域レシーヴァーは、ウェスタン・シアターサプライの最後の銘器といえるものである。」
shunsuke
2016年04月13日 21:50
3.に関して
ヴァイタボックス、グッドマン、タンノイ、ワーフェデールの他にも、ローラ、パルメコ等、諸説ある中、あくまで推測になるのですが・・ヴァイタボックスやタンノイは必要生産量に対する供給システムがまだ確立されておらず、とりあえず生産に関しては、やはり大規模なラインを有していたグッドマンではなかろうか?と考える方が多いようですね。果たして真実は?

あと、NEC版555が555Mであるように、WE・ロンドン版555が、T字型アルニコ・マグネットを採用した3015B、C、E になるのでしょうかね。「管球王国」Vol.67で555系振動板を採用したドライバーの試聴テストやってました。ご参考まで。

ベンプレ親父
2016年04月13日 22:57
shunsuke様、情報有難う御座います。

先ほど管球王国No.67引っ張り出してみました。30150B、ウェスタンエレクトリック・ロンドンの555、出ていました!!
2013年当時は自分がウェスタン物に縁が出来るとは思っていなかったので読み飛ばしていました。
有難う御座います。

記事を見るとずいぶん熱い音の様ですね。それにWE555の3倍はありそうな巨大なユニットですね。

ベンプレ親父
2016年04月18日 09:50
shunske様

済みません。コメント二本頂きましたのに、うっかりして1本しか掲載していませんでした。
伊藤先生の講演、徳島にあったシュミットで一度だけ聞きました。
口は悪いが優しい方でした。たぶんテレ屋だったのでは?
https://91683924.at.webry.info/201604/article_17.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c27

[番外地8] アイヌ人は日本の先住民 日本人はchousen の先住民
アイヌ人は日本の先住民
日本人はchousen の先住民

というのが定説になりつつあるんだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/296.html

[番外地8] 日本みたいに人口が増えない、輸出が増えない、生産効率も変わらない ではGDPが増える訳ない
日本みたいに人口が増えない、輸出が増えない、生産効率も変わらない
ではGDPが増える訳ないんだよ。 まあアメリカや中国みたいに貨幣価値が半分になればGDPは倍になる。
しかしGDPがいくら増えても労働者は豊かにならない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/297.html
[近代史5] ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」

ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」。

ジャレド・ダイアモンドは、その世界的なベストセラー『銃、病原菌、鉄』で、

「朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺したので、
弥生時代という縄文時代とは根本的に性格を異にする新しい時代が始まった」

という主張をかなりの説得力を持って示している。読めば納得、というやつだ。

しかしなんと、『銃、病原菌、鉄』が和訳される時、その章だけ訳されなかった。
マンガのような話だが事実。大笑いw。
ほんと糞ジャップは赤ん坊w

「ジャップ=朝鮮人」という真実がそんなに都合悪いのかw。

その訳し飛ばされた部分を訳してくれた人がいる。


ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』2005年版追加章
ジャレド・ダイアモンド著、山形浩生訳
https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html


概要
 日本人の起原については、議論がわかれる。遺伝的な証拠と言語学的な証拠が一致しないのが大きな難点だし、また縄文の狩猟採集社会がちょっと特殊で、やたらに長く続いたことも理由。だが、その展開もおそらく『銃、病原菌、鉄』の環境要因重視でかなり説明ができそうだ。日本人の特殊性は、日本があまりに地理・気候的に恵まれすぎていたこと。定住した狩猟採集社会でかなりの豊かさを実現できてしまい、初期のヘナチョコ農業などとても太刀打ちできなかった。それが BC400 あたり、中国や朝鮮半島で農業が本格的な優位性を獲得した時点で、朝鮮半島から人が稲作などの技術とともに渡来した。その人々やその子孫が縄文人(後のアイヌ)を駆逐して弥生文化をつくり、古墳文化へとつながる。ただし言語学的な証拠を見ると、日本語と朝鮮語は五千年前に分岐したはずで、いまの議論と矛盾する。これはいまの朝鮮語(新羅語)と日本に移住した百済・高句麗系の言語がちがっていたせいなのではないか。

 また、『銃、病原菌、鉄』の、環境要因がすべてという議論は、初版刊行後さらにいろいろ応用が見られるので、今後の議論の深化発展に期待したい。

日本人とは何者だろう?
 現代の世界列強のうち、文化と環境の面で最も特徴的なのは日本人だ。日本語の起源は、言語学で最も議論の多い問題の一つだ。というのも、世界の主要言語の中で他の言語との類似性が未だに疑問視されているのは日本語だけなのだ。日本人とはだれで、いつ日本にやってきて、どうやってその独特の言語を発達させたのか? これらの問題は日本人の自己イメージや、他の人々から見たイメージにとっても中心的なものとなる。日本の勢力の台頭と、ときに微妙な近隣国との関係もあって、今こそしつこい神話をはぎとって答を見つめるべきときだ。

 『銃、病原菌、鉄』のこれまでの版で日本にほとんど触れなかったのは、本書で最も大きな地理的欠落となっていた。日本人の遺伝子と言語の起源について、新しい情報が本書の初版以来集まってきたので、いまや日本がわたしの全体的な枠組みにどう収まるかを試してみてよさそうだ。

 答を探すのはむずかしい。証拠はいろいろ対立しているからだ。片方では、日本人は生物学的に他の東アジア人、特に朝鮮人とほとんどちがわず、外見も遺伝子もそっくりだ。日本人が強調したがるように、日本人は文化的にも生物学的にもかなり均質だ。日本各地の人々の間には、日本最北の島である北海道に暮らすアイヌがかなりちがっているのを除けば、ほとんどちがいはない。こうした事実はすべて、日本人がかなり最近に東アジア本土からやってきて、先住民であったアイヌにとってかわった、と示唆しているようだ。でもそうであるなら、日本語はどこかの東アジア本土の言語と明らかな強い親近性を示すはずだ。ちょうど英語が他のゲルマン系言語と近い親戚関係にあるように。というのも、大陸からのアングロサクソンがイングランドを制圧したのは、ごく最近の6世紀のことだったからだ。どうも古そうな日本の言語と、日本人の起源が最近だと語る他の証拠との矛盾はどう解決すべきか?

 四つの対立する理論が提唱されており、それぞれ一部の国では人気があるが、他の国では不人気だ。日本でいちばん人気があるのは、日本は紀元前二万年以上前に日本を支配していた、古代氷河期人類からゆっくり進化してきた、というものだ。日本でこれまた広まっている理論は、日本人は中央アジアの遊牧騎馬民族の末裔で、かれらは4世紀に朝鮮半島経由で日本を制圧しにきたが、絶対に朝鮮民族ではなかった、というものだ。多くの西側考古学者と韓国人が気に入っている理論で、日本の一部では不人気なのが、日本は紀元前400年頃に水田稲作とともにやってきた、朝鮮からの移民の子孫だ、という理論だ。そして最後に、これまでの理論に出てきた各種の人々が混合して、現代の日本人を形成したという理論がある。

 他の民族の起源について、似たような疑問が生じた場合は、冷静な議論ができる。でも日本人の起源についてはそうはいかない。日本が、他の多くの非ヨーロッパ諸国とはちがって、19世紀末に孤立を脱して産業社会を作り出すにあたり、政治的独立と独自の文化を維持できたのは驚異的なことだ。いまや日本人は、無理もないことだが、すさまじい西洋の文化的影響に直面して、伝統を維持できるかどうか正当にも懸念している。そして、自分たちの言語や文化が実に独特であり、その発達にも独特の複雑な発展プロセスが必要で、世界の他のところとはちがうのだと信じたがっている。日本語が他のどこかの言語と類縁関係にあると認めるのは、文化的アイデンティティの敗北を認めることのように思えるのだ。

 1946年まで、日本の学校は 712 年と 720 年の最古の日本年代記に基づいた日本史神話を教えていた。この年代記によれば、創造神イザナギの左目から生まれた太陽神アマテラスが、孫のニニギを地上の日本の九州島に遣わし、地上の神を娶らせた。ニニギのひ孫となる神武は、敵を無力にしてしまう輝く聖なる鳥の助けを借りて、BC660年に日本の初代天皇となったという。BC660 年から、歴史記録にある最古の日本王朝との間のギャップを埋めるため、この年代記はこれまた架空の天皇を13人発明した。

 第二次世界大戦の終戦で、裕仁天皇はついに日本国民に対して自分が神の子孫などではないことを告げたが、それまでの日本の考古学者や歴史学者たちは、自分たちの解釈をこうした神話的記述にあわせなくてはならなかった。今日ではずっと解釈の自由度は高まっているものの、いまだに制約は残っている。日本の最も重要な考古学的記念碑——AD300 年から 686 年にかけて築かれ、古代天皇とその一家の遺物を収めているとされる 158 基の巨大な古墳——はいまだに宮内庁の所有物だ。この古墳の発掘は禁止されている――冒涜行為だから、ということもあり、そしてそれが日本の天皇家の本当の出自(たとえば朝鮮出身とか?)を明らかにしかねないからだ。

 アメリカの考古学的な遺物は、ほとんどの現代アメリカ人とはつながりのない人々(アメリカ先住民)が遺したものだが、日本の遺物は、どんなに古いものだろうと、現代日本人の先祖が遺したものだと信じられている。だから日本の考古学は天文学的に巨大な予算で支えられており、世界の他の場所では考えられないほどの世間的な注目を集める。日本の考古学者たちは、毎年一万以上の遺跡を発掘し、作業員最大五万人を雇う。中国全土に比べて、日本では新石器時代の遺跡が二十倍も発見されている。テレビや全国紙の一面は毎日のように遺跡発掘のニュースを流す。現代日本人の先祖がはるか昔に日本にきたことを証明すべく、発掘の考古学報告書も日本の古代住民が当時の他地域の人々といかにちがっていたかを強調し、また今日の日本人といかに類似しているかを強調する。たとえば考古学者が二千年前の遺跡について講演するときには、遺跡住民たちが生ゴミを捨てたゴミの穴を指摘して、はるか昔の日本人もすでにきれい好きだったと述べる。その子孫だとされるいまの日本人も、きれい好きを誇りにしているからだ。

 日本の考古学を冷静に議論するのが特に難しいのは、過去についての日本人の解釈が現在の行動を左右するからだ。東アジアの人々の間で、だれがだれに文化をもたらし、だれが文化的に優位でだれが野蛮人で、だれがだれの土地に対して歴史的な権利を有するのか? たとえば AD300-700 の時期には、日本と朝鮮との間には人や文物が大量にやりとりされていたとする考古学的な証拠が大量にある。日本人はこれを、日本が朝鮮を支配して、朝鮮の奴隷や職人を日本につれてきたのだと解釈する。朝鮮側の解釈はむしろ朝鮮が日本を支配しており、日本の天皇家の始祖が朝鮮人だったのだ、というものだ。

 したがって日本が朝鮮に軍を送って1910 年に併合したとき、日本の軍司令部はそれを「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」として祝した。その後 35 年にわたり、日本の占領軍は朝鮮文化を根絶して、学校で朝鮮語のかわりに日本語を教えようとした。朝鮮人一家は日本で何世代も暮らしても、いまだになかなか日本国籍を取得できない。日本の「鼻塚」は、いまでも 16 世紀に日本が朝鮮を侵略したときに勲章がわりに持ち帰られた朝鮮人二万人の鼻を収めている。無理もないことだが、日本人に対する嫌悪は朝鮮では一般的だし、朝鮮人に対する蔑視も日本では広まっている。

 一見すると専門的な考古学的論争がいかに感情的な議論を巻き起こすかという一例として、日本の有史以前の遺物として最も有名なものを見てみよう。AD5世紀の江田船山の剣だ。これは国宝に指定され、現在は東京国立博物館に収蔵されている。鉄剣に銀がかぶせられて、そこに漢字で銘文が刻まれており、大王とその家臣、そして張安という朝鮮人書記が登場している。漢字の何文字かは不完全か錆びているか欠落しており、推測するしかない。日本の学者は伝統的に、欠落した漢字について、それが 8 世紀の日本の年代記に登場する美しい歯の瑞歯別尊なのだと解釈してきた1。だが 1966 年に韓国の歴史家Kim Sokhyongが、欠落した文字のなまえが実は朝鮮(百済)の蓋鹵王 (King Kaero) だと示唆して、名前の出ている家臣は実は当時日本の一部を占拠していた朝鮮人領臣だと主張したことで、日本の学者たちに衝撃を与えた。何が「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」なのだろうか?

 今日の日本と朝鮮(韓国)はどちらも大経済国で、対馬海峡を挟んでにらみあい、お互いをまちがった神話と本物の過去の残虐行為という毒されたレンズ越しに眺めている。この二つの偉大な人々が共通の基盤を見いだせなければ、東アジアの未来にとって禍根を遺す。日本人が本当は何者なのか、そして近親である朝鮮人とどのように別れたのかという正しい理解は、その共通基盤を見いだすために不可欠となる。

 日本のユニークな文化を理解する出発点は、その独特の地理と環境だ。一見すると、日本は地理的に見てイギリスとかなり似ているように思える。どちらも大きな群島で、それぞれユーラシア大陸の東と西に寄り添っている。だが両者には細かいちがいがあって、それが重要だ。日本のほうがちょっと大きくて、本土からも距離がある。日本の面積およそ38万平方キロは、イギリスの五割増しで、ほぼカリフォルニア州に等しい。イギリスとフランスの距離はたった35キロだが、日本はアジア本土の至近部(韓国)から180キロあるし、ロシア本土からは 290 キロ、中国本土からは 740 キロある。

 そのせいだろうか、イギリスは歴史を通じて、ヨーロッパ本土との関係が日本とアジア本土との関係に比べてずっと密接だった。たとえば、紀元後になってから大陸からイギリスへの成功した侵攻は4回あったがが、日本侵攻で成功したものはない(ただし有史以前の日本を本当に朝鮮が占領していたなら話は別だが)。また逆に、イギリス軍は 1066 年のノルマン侵略以来、毎世紀のように大陸で戦っているのに、19世紀後半までは、有史以前の朝鮮と、16 世紀末の最後の十年を除けば、アジア本土に日本軍が侵攻したことはない。つまり地理的な細部のおかげで日本はもっと孤立し、したがってイギリスよりも文化的な独自性を持つようになった。

 日本の気候はといえば、その降水量は年間最大で4,000 ミリ(160 インチ)にも達し、温帯国としては世界で最も湿潤となる。さらにヨーロッパの大半では降水は冬に起こるが、日本の雨は夏の植物育成期に集中している。この降水量の多さと夏の雨の組み合わせのおかげで、日本は温帯国のどの国よりも植物生産性が高い。農地の半分は、労働集約型の高収量水田耕作に向けられており、これは湿潤な山から斜面となった低地の平野に流れる川に支援されている。日本の土地の8割は農業に不向きな山岳で、農地は 14 パーセントしかないが、単位農地面積あたりで見れば、日本はイギリスの八倍の人口密度を養っている。実は農業適地との比率で見ると、日本は世界で最も高密な主要社会となっているのだ。

 日本の高い降水量は、その森林が伐採後もすぐに再生するということだ。何千年も高密に人が暮らしてきたのに、だれもが日本について最初に感じるのはその緑だ。というのも、日本の7割はいまでも森林だからだ(イギリスだとこれはたった 1 割だ)。逆に、それだけ森があるので、自然の草地や自然の牧草地はないということだ。伝統的に見て、日本で大規模に食用飼育された家畜はブタだけだ。羊やヤギはあまり多くないし、牛は鋤や荷車を引くのには使われたが、食用にはならなかった。日本産の牛肉はいまでも少数の金持ち向けの贅沢品で、1 キロ二万円にもなる。

 日本の森林構成は緯度と高度によって変わる。南部の低地では常緑広葉樹、日本中部では落葉広葉樹林、北部と高地では針葉樹林となる。有史以前の人々にとって、最も生産的な森林は落葉広葉樹林だ。というのもクルミ、栗、栃、ドングリ、ブナといった食用ナッツを大量に生産してくれるからだ。日本の森林と同様に、日本の水域もきわめて生産性が高い。湖や川、内海、西の日本海や東の太平洋は、サケ、鱒、マグロ、鰯、サバ、ニシン、タラなどの魚だらけだ。今日の日本は世界最大の水産国であり、水産物輸入国であり、水産物消費国だ。日本の水域はまたハマグリや牡蠣などの貝類、カニやエビやザリガニ、海草なども豊かだ。これから見るように、この土地や淡水や海の高い生産性は日本の前史に大きな意味を持った。

 考古学的な証拠を検討する前に、まず日本人の起原を生物学、言語学、初期の肖像、歴史記録などの証拠から見当しよう。このおなじみの四種類の証拠が一致しないことで、日本人の起原は実に論争含みとなっている。

 南西から北東に向かって、日本の四大島は九州、四国、本州(最大の島)、北海道となる。19 世紀末に日本人移民が大量に北海道に入植するまで、この島(および本州北部)は歴史的には主にアイヌが暮らしていた。アイヌは狩猟採集民族で農業は限られていた。残りの三島には日本人が住んでいた。遺伝子や骨格で見ても、外見から見ても、日本人は他の東アジア人ととても似ている。たとえば北部中国人、東シベリア人、そして特に朝鮮人と似ているのだ。わたしの日本人や韓国人の友人たちも、顔を見ただけでは日本人と朝鮮人を見分けるのはむずかしいことがあると言う。

 アイヌはと言えば、その独特の外見のおかげで、地上の他のどんな民族よりも、その起原や関係について記述されることとなっている。アイヌ男性は豊かなひげをたくわえ、他のどんな民族より体毛が多い。この事実と、他の遺伝形質、たとえば指紋のパターンや独特の耳垢などから、かれらはコーカソイド(通称白人)に分類されたりしてきた。コーカソイドが何らかの形でユーラシアを通って東に移住し、日本にたどりついたというわけだ。だが全般的な遺伝子構成でみると、アイヌは日本人、朝鮮人、沖縄人を含む他の東アジア人と親類だ。その独特の外見は、アジア本土から移住して日本諸島で孤立した後に、性的淘汰で生じた比較的少数の遺伝子のもたらしたものなのかもしれない。アイヌの独特の外見と狩猟採集生活、および日本人のあまり特徴のない外見と集約農業的なライフスタイルのおかげで、しばしばアイヌが日本の初期の狩猟採集民族の子孫であり、日本はアジア本土から最近になって侵略してきた人々の子孫なのだ、というあまりひねりのない解釈が示唆されることが多い。

 だがこの見方は、日本語の独特性と折り合いがなかなかつかない。日本語が世界の他のどの言語とも、細部にわたる類似性を持たない(フランス語とスペイン語との類似性のようなものはない)というのはだれもが認めることだ。言語的な類縁性に関する限り、多くの学者はトルコ語属、モンゴル語属、東シベリアのツングース語属などが属するアジアのアルタイ系言語の孤立した一員だと考えている。朝鮮語もまたこの語属の孤立した一員と思われており、その中で見れば日本語と朝鮮語は他のアルタイ系言語よりは類縁性がある。だが日本語と朝鮮語の類似性は全般的な文法的特徴と、基本語彙の15パーセント程度に限られ、フランス語とスペイン語のように、文法や語彙の細部まで共有されたりはしていない。仮に日本語と朝鮮語が、遠いとはいえ親類関係を持つと認めれば、語彙の共通部分がたった15パーセントということは、この両言語はフランス語とスペイン語が分離したたった二千年前ではなく、五千年以上も前に別れ始めたということを示唆している。アイヌ語はとえいえば、その類縁関係は完全に疑問視されていて、日本語とはまったく関係がないかもしれない。

 生物学と言語に続く、日本人の起原に関する第三の証拠は古代の肖像だ。日本の住民に似せた最初期の似姿として残っているのは、埴輪と呼ばれる像で、千五百年ほど前の墳墓の外に立てられている。特にその目の形を見ると、明らかに現代の日本人や朝鮮人と同じ東アジア系だ。ヒゲだらけのアイヌとは似ていない。北海道以南の日本で日本人がアイヌを駆逐したのであれば、その駆逐は AD500 年以前に起こったことになる。日本人が1615年に北海道に交易所を設けた後、日本人は北海道のアイヌを、アメリカ白人がアメリカ先住民を扱ったのと同じやり方で扱うようになった。アイヌは制圧され、居留地に押し込められ、交易所で働くことを強制され、日本農民の望む土地からは追い立てられ、叛乱を起こせば殺された。日本が 1869 年に北海道を併合すると、日本の学校教師は決然とアイヌ文化やアイヌ語を根絶しようとした。今日ではアイヌ語はほぼ絶滅状態であり、純血のアイヌはたぶん一人も残っていない。

 日本に関する最古の文献情報は中国の年代記のものだ。中国は、漢字が朝鮮や日本に伝わるはるか以前に文字を発達させていたからだ。108BC からAD313 まで、中国は北朝鮮の居留地を占領しており、日本と使節団をやりとりしていた。そのときに生じた「東夷」と呼ばれる各種民族に関する中国の記述の中で、日本は倭と称され、その住民たちは百以上の小国に別れて激しく戦争を繰り広げていたという。AD700 以前には、朝鮮や日本の文献はほとんど残っていないが、AD712 と 720 年には詳しい年代記が日本で書かれ、後に朝鮮でも書かれた。日本と朝鮮の年代記はそれ以前の歴史を記述したと称してはいるものの、どちらも支配一族を華々しく描いて正当化しようとする露骨な捏造だらけとなっている——たとえば日本の天皇が、太陽の女神アマテラスの末裔だといった話だ。それでも、こうした年代記を見れば、日本には朝鮮そのものからも、そして朝鮮経由で中国からも大量の影響があったことは十分にわかる。これは仏教、文字、冶金、他の技術、官僚制などを日本に伝えた。こうした年代記はまた日本における朝鮮人や朝鮮における日本人に関する記述だらけだ——日本人と朝鮮人の学者はそれぞれ、それを日本が朝鮮を占領していた証拠と見たり、その反対だと見たりしている。

 というわけで日本の先祖は書字以前に日本に到達し、生物学的にはかなり最近にやってきたはずだが、言語で見れば少なくとも五千年前には到来していたはず、というのがわかった。こんどは考古学の証拠を見て、この謎を解決してみよう。日本社会は世界で最も驚異的なものだったことがわかる。

 日本と東アジアの大半は、浅い海に取り囲まれている。したがってこの海は、氷河期には多くの水が氷河に取られていたし、海面がいまと比べて180メートル低かったので、陸となっていた。当時は日本の最北の島である北海道は、いまやサハリン島となったものを経由して、ロシア本土とつながっていた。日本最南の島である九州は、別の陸でいまや対馬海峡となっているものを経由して、いまの韓国とつながっていた。日本本土のすべての島は、お互いに地続きだった。そして今や黄海や東シナ海となっているものは、中国本土の陸地とつながっていた。したがって、その陸橋を経由して日本に歩いてきたほ乳類には、現代日本のクマやサルの祖先のみならず、当然ながら船を発明するはるか以前のヒトも含まれていた。日本北部の石器はシベリアや中国北部のものとそっくりだが、日本南部の石器は朝鮮と中国南部のものと似ているので、北部の陸橋と南部の陸橋はどちらも使われたようだ。

 氷河期の日本はあまり暮らしやすい場所ではなかった。日本の大半は、イギリスやカナダを覆った氷河は逃れたものの、冷たく乾燥して、ほとんどが針葉樹とカンバに覆われ、ヒトの食用植物はほとんど提供されていなかった。こうした欠点は、氷河期日本の早熟ぶりをなおさら驚異的なものとしている。ほぼ三万年前に、日本人は世界で打製石器ではなく磨製石器を開発した、最初期の民族の一つとなっている。イギリス考古学では、磨製石器は旧石器時代と新石器時代を分ける、偉大な文化的進歩だと見なされている。でもイギリスでそれが登場するのは、七千年前にも満たない、農業到来以降のことだ。

 一万三千年ほど前、氷河が世界中で溶けた頃に、日本の状況は人間から見る限り、すさまじく好転した。気温、降水、湿度はすべて増え、植物生産性は現代日本が温帯国で突出している現代の水準にまで高まった。ナッツのとれる落葉広葉樹林は、氷河期には日本南部にしかなかったが、それが針葉樹林を抑えて北部に進出した。そして人間にとってはいささか不毛だった森林が、いまやずっと生産性の高いものとなった。海面上昇で陸橋は分断され、日本はアジア大陸の一部から、巨大な群島となり、かつては平原だったものが豊かな浅海となり、何千もの生産的な新しい海岸が生じて、無数の島や湾、干潟、大陸棚などが生じ、そのすべてにシーフードが大量に発生した。

 氷河期の終わりと共に、日本史上最大の二つの変化のうち、最初のものがやってきた。土器の発明だ。人類史上初めて、人々は水を蓄えられる容器を好きな形で作れるようになった。食物を茹でたり蒸したり煮たりできるようになったので、それまでは利用しにくかった食料資源も大量にアクセス可能となった。葉の多い植物は、それまでなら焼くと燃えたり焦げたりしてしまったものが食べられるようになったし、貝もすぐに口を開くようになった。そしてドングリや栃の実のように、有毒だったり苦かったりするがそれ以外は栄養価の高い食物も、煮ることで有毒成分を取り除けるようになった。柔らかく茹でた食物は子供にも食べさせられるので、子供は乳離れが早まり、母親はあまり間隔を置かずに再び妊娠できるようになった。歯のない高齢者は、文字以前の文化では情報の貯蔵庫だったが、いまや食事を与えて寿命を引き延ばせた。こうした土器の大いなる影響はすべて、人口爆発を生み出し、日本の人口は推定数千から、25万人程度にまで増えた。

 当然ながら、土器を発明したのは日本人だけではなかった。古代世界の多くの時代や場所で、何度も独立に発明されている。だが世界最古の土器は、12,700年前に日本で作られたものだ。1960 年にその放射性炭素年代測定結果が発表されたときには、当の日本の科学者ですら、当初はそれを信用しなかった。考古学者の通常の経験では、発明は本土から島嶼部へと伝搬するはずだった。小規模の周縁社会は、その他世界に対する革命的な進歩をもたらしたりはしないはずなのだ。特に日本考古学者の経験からすると、東アジアの文化的ブレイクスルーをもたらすのは、農業にしても、書字、冶金など重要なものすべてにおいて中国のはずだった。今日、日本土器のこの早期年代が計測されてから 40 年近くたったが、考古学者たちはいまだにこの炭素 14 の計測結果と呼ばれるものに驚いている。他の初期の土器が中国やロシア東部(ウラジオストック近郊)で発見されてはいる。アジアの考古学者は日本の記録を打ち破ろうと一生懸命だ(実は、中国やロシアがその記録を破りそうだという噂も聞いている)。でもいまだに世界記録を保持しているのは日本で、肥沃な三日月地帯やヨーロッパに比べて、日本の土器は数千年も古い。

 記録破りの日本土器がかくも衝撃だったのは、島の住民が本土から学ぶはずだという偏見のせいだけではない。これに加えて、初の日本土器制作者たちは明らかに狩猟採集民で、これまた確立した見方に違反するものだったのだ。ほとんどの場合、土器は定住社会に属する。遊牧民があれこれ重たい土器を抱えてうろつきたいはずもない。それ以外に、武器や赤ん坊を宿営地移動のたびに抱えてまわることになるのだから。狩猟採集民は、通常は土器を持たない。世界の他の地域では、定住者界は農業の採用以後にしか生じなかったからだ。でも日本の環境は生産的すぎたので、人々は狩猟採集民として暮らしつつも、定住して土器を作れた。土器のおかげで、日本の狩猟採集民たちは環境が与えてくれる豊かな食料源を、集約農業が日本に伝わる一万年も前から活用できるようになった。これに対し、肥沃な三日月地帯で土器が生まれたのは、農業採用の千年ほど後のことだった。

 当然ながら、古代日本の土器は、技術的には今日の基準から見て単純なものだった。釉薬もなく、ろくろを使わずに手で作られ、竈ではなく焚き火の中で焼かれ、かなり低い温度で焼かれていた。でも時代が下るにつれて、どんな時代の基準から見てもすばらしいアートと呼べるような、驚くほど華やかな形態を持つようになった。そのほとんどは、粘土がまだ柔らかいうちに、縄をそこに転がしたり押しつけたりすることで装飾されていた。日本語では、「縄による文様」は「縄文」と呼ばれるので、この土器自体も縄文土器と呼ばれ、それを作った人々も縄文人となり、土器の発明にともなう日本前史すべてが縄文時代と呼ばれ、それが終わるのは一万年後となる。

 最古の縄文土器は、日本最南端の九州から出土した 12,700 年前のものだ。その後、土器は北に伝わり、九千五百年ほど前に現代の東京周辺に達し、最北の北海道には七千年前に到達した。土器の北進は、ナッツの豊かな落葉樹林の北進を追うものであり、定住と土器の爆発を可能にしたのは食物の爆発だと示唆している。土器が南部で発明されて、それがその一つの源から広まったという解釈をさらに強化しているのは、最初期の縄文土器の様式が日本中でかなり一様だということだ。時代を追うにつれて、何十もの地域的な様式が、日本列島の全長 2,400 キロに渡って生じている。

 縄文人はどんな暮らしをしていたのだろうか? これについては、かれらが何千もの発掘遺跡に遺したゴミや日本中の巨大な貝塚から豊富な証拠が得られている。実はかれらは、狩猟採集漁民だったが、驚くほど多様でバランスの取れた食事をしており、現代の栄養学者も感心するほどのものだ。

 大きな食べ物のカテゴリーはナッツ、特にクリやクルミで、さらに栃の実や、苦い毒を抜いたドングリだった。ナッツは秋にいくらでも採れたし、冬の間は地下の貯蔵庫(幅 2 メートル、深さ 2 メートル)に貯めておけた。他の食用植物としてはイチゴ、果実、種子、葉、タケノコ、球根、根などがあった。縄文時代のゴミ捨て場を漁る考古学者たちは、食用植物64種類を見つけている。

 当時も今も、日本の住民は世界トップの海産物消費者だった。マグロは大洋で銛漁で捕られた。イルカは今日の日本とまったく同じように、浅瀬に追い込まれて殴り殺されたり槍で殺されたりした。アザラシは浜辺で殺された。季節的な鮭は川で捕まえられた。多種多様な魚が網や延縄、鹿の角でできた釣り針で捕らえられた。そして貝やカニや海藻は干潟で集められたり、素潜りで採取されたりした。縄文人の頭蓋骨を見ると、病理学者が外耳道狭窄と呼ばれるものが高率で見られる。これは今日ではダイバーにしばしば見られるものだ。

 狩猟された陸の動物としては、イノシシや鹿がいちばんありがちで、続いてヤギやクマだった。こうした動物は落とし穴でつかまえたり、弓矢を使ったりして、犬に狩り立てられたりした。縄文時代には、ブタが自生していないところでブタの骨が見られるので、縄文人はブタの家畜化を始めていたのではないかという説もある。

 縄文の食料確保について最も激しい論争があるのは、そこで農業が行われていたかという問題だ。縄文遺跡はしばしば、日本で野生に見られるが現在は栽培もされている作物、たとえば小豆、緑豆、ヒエなどが発見される。縄文時代のこうした遺物は、作物とその祖先である野生種との形質的な差をはっきりとは示していないので、それが野生種を集めてきたのか、意図的に育成されていたのかはわからない。また遺跡では日本土着ではない食用植物や有用植物の残骸も見られるので、これは価値が高いためにアジア本土から導入されたものだろう。ソバ、瓜、ヒョウタン、大麻、紫蘇などだ。1200BC 頃の縄文末期、米や大麦、アワ、キビなど東アジアの主食穀物が登場し始める。こうした魅力的な証拠はどれも、縄文人たちが焼き畑農業を実施し始めていた可能性を高めているが、どう見てもそれは片手間で、食生活には限られた貢献しかしていない。

 今まであげた食物がすべて、縄文時代の日本で一つ残らず食べられていたと主張しているのではない。日本北部のナッツが豊かな森林では、ナッツの貯蔵穴は特に重要で、くわえてアザラシ猟と海洋漁が重要だった。ナッツのあまりない南西部では、貝の果たす役割が大きかった。でも縄文食生活の大きな特徴はその多様性だし、個別の縄文時代の食事もそうだ。たとえば食べ残しの残骸を見ると、縄文人はクリとクルミの粉に、ブタや鹿の肉と血と鳥の卵を各種の比率で混ぜ合わせ、炭水化物の多いマダム縄文クッキーか、あるいは高タンパク質のマック縄文バーガーを作っていた。最近のアイヌの狩猟採集民は、陶器のシチュー鍋をずっと火にかけっぱなしにして、そこにありとあらゆる食べ物を投げ込んだ。その縄文人の先祖は、同じ場所で同じ食べ物を食べていたので、同じことをしていたかもしれない。

 土器を見ると(中には高さ 1 メートルにも達する重量級もある)、縄文時代の狩猟採集民は遊牧ではなく定住だったはずだと述べた。定住のさらなる証拠は、その重い石器にも見られるし、半地下式で改築の跡が見られる住居や、百以上の住戸を持つ大集落遺跡や墓地などでも見られる。こうした特徴はすべて、数週間ごとに拠点を移し、作るのは小屋程度で、所有物も少なく簡単に持ち運びできるものだけという現代の狩猟採集民とは大きくちがっている。この定住生活が可能なのは、ある中心的な居住地からわずかな距離内で縄文人の手に入った、多様な資源豊富な居住地があったからだ。内陸の森林、川、海岸、湾、海洋などにすぐ到達できたのだ。

 縄文人は、狩猟採集民としては史上最高クラスの人口密度で暮らしていた。特にナッツの豊かな森林、鮭の季節、生産性の高い海のある中央日本と北部日本ではそれが顕著だった。縄文時代の日本の人口は最高25万人——もちろん現代日本と比べればわずかだが、狩猟採集民としては相当な数だ。現代でこれに比肩する規模といえば、太平洋北西岸やカリフォルニアのアメリカインディアンくらいだ。かれらも同様にナッツの豊かな森林、鮭の季節、生産性の高い海を持っている——人間社会の収束進化の事例としては見事なものだ。

 これまでは縄文人が何を持っていたかについて強調してきたので、何を持っていなかったかについてもはっきりさせておこう。集約農業はなく、そもそも少しでも農業があったかもはっきりしない。犬(そしてひょっとしたらブタ)以外は家畜もなかった。金属道具も持たず、書字も布もなかった。縄文集落や墓地は、豊かな装飾付きの家や墳墓が、他の特色のないものと対比されているような構成にはなっていない——つまり首長と平民といった社会の階層化はほとんどなかったということだ。土器の様式の地域ごとの差を見ると、政治的な中央集権化や統合に向かう様子はあまりない。こうしたマイナスの特徴はどれも、縄文時代の日本からほんの数百キロ離れていただけの、中国や朝鮮の同時代社会とは著しい対照を見せている——そして、400BC 以降に日本自体を襲った変化とも好対照だ。

 当時の東アジアにおいてさえ特異だった縄文日本といえど、完全に孤立した世界ではなかった。土器と黒曜石の分布を見ると、縄文時代の船舶が東京から南に290キロ伸びる伊豆諸島を往き来していたことがわかる。土器、黒曜石、釣り針なども、縄文人が朝鮮、ロシア、沖縄と取引していたことを示している。すでに述べたような、本土の作物半ダースほどの到来もそれを告げている。でも縄文時代の日本を研究する考古学者たちは、中国からの直接の輸入品はほとんど見つけていない。その後の日本に対する中国の大きな影響とは好対照だ。後の時代に比べると、縄文時代の日本で驚異的なのは外部世界との接触が多少はあったということではなく、その接触が縄文社会にほとんど影響しなかったということだ。縄文時代の日本は、保守的なミニ世界で、一万年にわたり孤立を保ち、ほとんど変化しなかった——脆弱で急変する当時の世界の中で、安定の島だったのだ。

 縄文時代の日本の特異性を当時の環境の中で考えるには、縄文時代の暮らしが終わりかけていた 400BC 頃に、数百キロ西のアジア本土では人類社会がどんなものだったかを思い出そう。当時の中国は各種の王国で構成され、豊かなエリートと貧しい庶民がいて、城壁都市に暮らし、世界最大の帝国となるための政治的統一目前だった。7500BC 頃から、中国は北部ではアワやヒエ、南部では米を中心とした集約農業を発達させ、ブタとニワトリと水牛を家畜化していた。少なくとも九百年前から書字を持ち、千五百年前から金属道具を使っていた。そしてちょうど世界初の鋳鉄生産を実施したところだ。こうした中国の発明品は朝鮮にも伝わった。朝鮮はすでに数千年にわたり農業が営まれていた(米は 2200BC 以来栽培されていた)し、金属は 1000BC 以来使われていた。

 日本から対馬海峡と東シナ海を渡ってすぐのところで、これだけの発展が数千年にわたり起こっていたのに、日本が朝鮮と交流があったとはいえ 400BC の時点でまだ文字もなく、石器を使う狩猟採集民に支配されていたというのは驚くべきことに思える。金属兵器を持ち、高密農業人口に支えられた中央集権国家は、石器使いの低密の狩猟採集民など一掃してしまうのが人類史の常だ。縄文時代の日本はどうやってそれを長期間生き延びたのか?

 このパラドックスへの答を理解するには、400BC までの対馬海峡は、豊かな農民と貧しい狩猟採集民を分断していたのではなく、貧しい農民と豊かな狩猟採集民を分断していたのだということを思い出そう。中国そのものと縄文時代の日本とは直接の接触はなかった。日本の貿易相手は、主に朝鮮だった。でも米は暖かい華南で栽培植物となり、ずっと寒冷な朝鮮へと北上するにはかなりの時間がかかった。新しい寒冷地に強い米の新種を開発するのに時間がかかったからだ。朝鮮における初期の稲作は水田耕作ではなく乾田耕作であり、あまり生産性が高くなかった。だから初期の朝鮮農業は、縄文日本の狩猟採集に太刀打ちできなかった。縄文人たち自身はおそらく、朝鮮農業の採用をすべき優位性をまったく見いだせなかっただろうし、農業の存在を知っていたかも怪しい。そして貧しい朝鮮の農民たちは、無理に日本に渡っても何の得もなかった。これから見る通り、その優位性がやっと逆転した時には、その変化は実に急激で劇的なものとなった。

 すでに述べたように、12,700 年前頃の九州での土器の発明と、それに伴う縄文の人口爆発は、日本史における二つの決定的変化のうち最初のものだ。もう一つの決定的な変化は、第二の人口爆発を引き起こしたものだが、南朝鮮から新しい生活様式(そして人々?)がやってきたことで始まる。この第二の変異により、縄文人たちは朝鮮からの移民に取って代わられ、それが現代日本人の先祖となったのか? それとも単に、日本にもとからいた縄文人たちがそのまま暮らしつつ、新しい有益な技を学んでいったのか?

 新しい生活様式がまず登場したのは、日本の南西端にある九州の北部、南朝鮮から対馬海峡をはさんですぐのところだった。新しい要素として最も重要なものは、日本初の金属道具、鉄器であり、そして初の文句なしの大規模農業だ。この農業は水田耕作の形をとり、水路、堤、土手、水田、米の残留物などが考古学的な発掘で見つかっている。考古学者たちはこの新しい生活様式を「弥生」と名付けている。これは 1884 年に、その特徴となる土器が初めて発見された東京の地名にちなんだものだ。縄文土器とちがい、弥生土器は同時代の南朝鮮土器ととても似た形をしている。新しい弥生文化の特徴のうち、それまでの日本にはなくて確実に朝鮮からきた多くの要素としては、青銅器、布織り、ガラス数珠、地下の米貯蔵穴、死者の遺骸を甕で埋葬する習慣、朝鮮式の道具や家屋などがある。

 弥生時代の作物として最も重要だったのは米だが、それまでの日本にはなかった 27 の新種の作物や、まちがいなく家畜化されたブタなども育成されていた。弥生農民は二毛作も行っていたかもしれない。夏には水田で米を作り、冬にはその同じ水田の水を抜いて、アワやヒエ、大麦や小麦を育てるのだ。当然ながら、この集約農業によるきわめて生産性の高い仕組みはすぐに九州の人口爆発をもたらした。九州では考古学者が縄文遺跡よりはるかに多くの弥生遺跡を見つけている。時間的には、縄文時代のほうが 14 倍も長かったのだが。

 ほとんど一瞬のうちに、弥生農業は九州から、隣接する四国と本州に飛び火して、たった二百年で東京近辺に達し、さらに百年後には本州最北部に到達している(九州における初の弥生集落から 1600 キロも離れている)。九州最古の弥生遺跡は、新しい弥生様式の土器と古い縄文様式の土器が両方出土している。でも弥生文化と弥生土器が本州に広まるうちに、縄文土器はもはや見られなくなった。それでも縄文文化の一部の要素は、完全に消えたわけではない。弥生農民は相変わらず縄文式の石刃道具を使い続けた。これは朝鮮や中国では完全に金属道具に置き換わっていた。一部の弥生時代家屋は朝鮮式で一部は縄文式だった。特に弥生文化が東京から北へ広まるにつれて、そこは稲作の生産性が低い寒冷地となり、また縄文の狩猟採集民の密度が最も高いところだったので、弥生縄文混合文化が生じた。そこでは釣り針は金属製だが縄文文化の形で、土器も弥生式の変形ながら縄文式の縄目がついている。本州北端をしばらく占拠したものの、弥生農民はその地域を放棄している。たぶん稲作がそこでは縄文式の狩猟採集生活に太刀打ちできなかったからだろう。その後二千年にわたり、本州北部は未開の地となり、その先の北海道やそこのアイヌ狩猟採集民にいたっては、19 世紀に併合されるまで日本の一部とすら見なされていなかった。

 初期の弥生鉄器は朝鮮から大量に輸入されたものだった。でも数世紀後に、日本国内で鉄の精錬と生産が始まった。また弥生期の日本が社会階層の初期の兆候を見せ始めるにも数世紀かかっている。これは特に、墓地に現れている。100BC 以降、墓地の区切られた一部は、明らかに台頭してきたエリート層の墓と見られるもののために取っておかれている。その墓は中国から輸入された贅沢品、たとえば美しい翡翠や銅鏡などが副葬品となっている。弥生時代の人口爆発が進むにつれて、そして水田耕作に最適な沼地や灌漑可能な平野が埋まるにつれて、戦争の考古学的な証拠がますますひんぱんに見られるようになる。矢尻の大量生産、村を囲む防衛用の濠、矢や槍に貫かれて埋められた頭蓋骨などだ。こうした明らかな戦争の徴は、中国の年代記における日本についての最初期の記録でも裏付けられている。それによれば、倭の国は百の小さな政治ユニットに別れて、お互いに戦争し合っているという。

 AD300-700 年の時期には、考古学的な発掘資料と、後の年代記に書かれた苛立たしいほど曖昧な記述により、政治的に統一された日本がおぼろげながら浮かび上がってくる。AD300 年以前のエリートの墓は小さくて、地域ごとに多様性があったが。AD300 年頃、ますます巨大な鍵穴型の墳墓、通称古墳が、本州の畿内地方で作られるようになった。そしてそれが、九州から東北地方まで、かつての弥生文化地域すべてに広がる。なぜ畿内地方だったのだろうか? そこが日本最高の農地を擁するからかもしれない。そこは日本の超高価な神戸牛が育てられるところだ。さらに日本の古代首都も、1868 年に東京に移るまでは、この畿内地方の京都に置かれていた。

 古墳は全長最大500メートル、高さ30メートル以上にも達するので、古代世界における墳墓型の墓としては最大と言えるかもしれない。これを築くのに必要なすさまじい量の労働と、日本中でその様式が共通しているということは、大規模な労働力を動員できて、日本全国を統一しようとしていた強力な支配者がいたことを示している。発掘された古墳では華やかな副葬品が見つかっているが、最大級のものはどれも、日本の皇室の先祖の墓とされているために未だに禁じられている。古墳で見られる明らかな政治的中央集権は、ずっと後になって日本や朝鮮の年代記に記録された古墳時代の日本天皇の記述を裏付けている。古墳時代における日本への朝鮮からのすさまじい影響——それが朝鮮による日本支配を通じてのものだろうと(朝鮮の見方)、日本が朝鮮を支配した結果だろうと(日本の見方)——は、仏教や書字、騎馬、新しい陶芸手法や冶金技術を、アジア本土から日本にもたらした。

 やっと AD712 年に日本初の年代記が完成した。一部は神話で一部は史実を改ざんしてはいるが、それによって、日本は完全に記録された歴史を持つに至る。712年の時点で、日本に暮らしていた人々は文句なしの日本人で、その言語(古代日本語と呼ばれる)はまちがいなく現代日本語の祖先だ。いまの天皇である明仁は、その AD712 年の年代記執筆を命じた天皇の直系82代目の子孫となる。彼は伝統的には、伝説上の初代天皇である神武、太陽神アマテラスのヒイヒイひ孫の 125 代目の直系子孫ということになっている。

 弥生時代 700 年の間に、日本文化は縄文時代一万年をはるかに越える壮絶な変化をとげた。縄文時代の安定性(もとい保守性)と過激な弥生時代の変化との対照ぶりは、日本史で最も驚かされる特徴だ。明らかに、BC400 年に何かすさまじいことが起こったようだ。何だろう? 現代日本人の先祖は、縄文人なのか弥生人なのか、その混合なのか? 弥生時代に、日本の人口は驚異の 70 倍となった。何がその変化を引き起こしたのか? 三つの仮説が主張されて熱い論争の的となっている。

 一つの理論は、縄文の狩猟採集民自身がだんだん現代日本人に進化した、というものだ。すでに何千年にもわたり、村落定住を行ってきたので、農業を受け容れる基盤はできていたかもしれない。弥生の大変化で生じたのは、単に縄文社会が寒冷地に耐えられるもみと、水田耕作についての情報を朝鮮から得ただけで、それで食料生産が増えて人口も増えただけなのかもしれない。この理論は一部の現代日本人にウケがいいようだ。というのも日本人の遺伝子プールに、歓迎されざる朝鮮の遺伝子があまり入ってこないし、日本人が少なくとも過去 12000 年にわたって独自の存在だったと描くからだ。

 第二の理論は、第1の理論を好む日本人には不評だが、弥生変革は朝鮮からの大量の移民流入を示す、と論じる。それに伴い朝鮮の農業方式、文化、遺伝子も持ち込まれたという。九州は、朝鮮の稲作農民には天国に思えただろう。朝鮮よりも温暖で沼地が多く、したがって稲作には朝鮮よりずっと向いている。ある推計によれば、弥生時代の日本には朝鮮から数百万人の移民がやってきて、縄文人(弥生変革直前の推計人口 7 万 5 千人)の遺伝的貢献を完全に圧倒したという。もしそうなら、現代日本人は朝鮮移民の子孫で、独自の変異文化を過去二千年で発達させたことになる。

 最後の理論は、韓国から移民があったという証拠は認めるが、それが大量だったことは否定する。むしろ、きわめて高収量の農業は少数の稲作農家が縄文狩猟採集民よりずっと急速に再生産することを可能にして、やがてそれが数の上でも縄文人を上回ったのだと述べる。たとえば、朝鮮人五千人が九州にやってきたとしよう。でも、稲作のおかげで赤ん坊を食わせられ、人口を年率 1 パーセントで増やせたとする。この増加率は、狩猟採集民で見られるよりはずっと高いが、農民では簡単に実現できる。ケニアの人口は現在年率 4.5 パーセントで増えている。五千人の移民は七百年間で五百万の子孫を残し、これまた縄文人を圧倒することになる。第2の理論と同じく、これは現代の日本人をちょっと変異した朝鮮人だと考えるが、大規模移民は必要ないという。

 世界の他の部分での同様の変異と並べると、第1の理論よりは第 2、第3の理論のほうがもっともらしいように思える。過去12000年で、農業は世界で最大9箇所でしか誕生しなかった。中国、肥沃な三日月地帯などだ。一万二千年前には、地上のあらゆる人が狩猟採集民だった。こうした少数の農業発祥の地から農業が広がるのは、通常はよその狩猟採集民が農業を採用した結果ではない。狩猟採集民は、縄文人が 10,700BC から 400BC まで明らかにそうだったように、保守的なものだ。農業が拡大したのは主に農民が狩猟民より急速に増えたせいだ。そしてもっと強力な技術を発明し、狩猟民を殺したり、農業に適した土地すべてから狩猟民を追い払ったりしたのだ。現代では、ヨーロッパの農民が北アメリカ東部のインディアン狩猟民を駆逐し、アボリジナルのオーストラリア人を駆逐し、南アフリカのサン人を駆逐した。同じように、石器を使う農民も前史時代にはヨーロッパ、東南アジア、インドネシアの至るところで狩猟民を駆逐した。こうした前史時代の拡大期には、農民は狩猟民に対して大した優位性を持っていなかったのだが、400BCの朝鮮農民はおそらく縄文狩猟民に対してすさまじい優位性を持っていただろう。当時の朝鮮人はすでに鉄器を持ち、かなり高度な集約農業を実施していたからだ。

 この三理論のうち、日本に当てはまるのはどれだろう? この疑問に直接答える唯一の方法は、縄文人と弥生人の骨と遺伝子を、現代日本人とアイヌに比べることだ。いまや骨格については大量の計測値がある。さらに近年になって分子遺伝学者たちは古代人骨から DNA を抽出しはじめ、古代の日本人と現代の日本人の遺伝子が比較できるようになった。その結果を見ると、縄文人と弥生人の骨は平均的に見て、すぐ見分けがつく。縄文人は背が低めで、上腕部が長目で脚は短め、目の間隔が広く、顔は短くて広く、顔面の「等高線」がずっと強調されており、ものすごく眉の稜線が盛り上がり、鼻や鼻柱が高い。弥生人は平均で3-5センチほど身長が高く、目は寄っていて、顔は細長く、眉の稜線や鼻は平たい。弥生時代の人骨の一部はまだ縄文的な特徴を持つものもあるが、これは縄文/弥生変革のどの理論でも予想されるものではある。古墳時代までに、アイヌ以外の日本全土の骨格は、現代の日本人や朝鮮人と似た均質な集団となっている。

 こうしたあらゆる点で、縄文人の骨は現代日本人のものとちがっていて、現代アイヌのものといちばん似ているし、弥生人の骨は現代日本人と似ている。現代日本人は、朝鮮系の弥生人とアイヌ系の縄文人の混血ではないかという想定で、遺伝学者はこの二つの遺伝子プールの貢献を計算しようとした。結果として、朝鮮/弥生系の貢献が一般に圧倒的だ。アイヌ/縄文の貢献は、南西部(九州)で最も低い。ここは朝鮮からの移民の多くが到来したところだし、縄文人口は少なかったからだ。そして森林が豊かにナッツを作り、縄文人の人口密度が高く、弥生式稲作が一番不利だった日本北部(東北地方)では縄文系の貢献が最も高い。

 というわけで、朝鮮移民は確かに現代日本人に大きな貢献をしている。ただしそれが大量移民によるものか、それとも少数の移民が高い人口増によりそうなったのかはまだはっきりしない。アイヌは古代縄文人の子孫にずっと近く、それが弥生植民者たちの朝鮮系遺伝子や現代日本人と混血している。

 稲作が最終的に、縄文狩猟民に対する圧倒的な優位性を朝鮮系農民に与えたことを考えると、朝鮮に農業がやってきて数千年間もほとんど日本進出ができなかったのに、なぜこの時点でいきなり急激な勝利を収めたのか、と不思議に思える。すでに述べた通り、朝鮮農業は比較的生産性が低く、結果として貧しい農民は豊かな狩猟民より低い地位にとどまっていた。最終的に農民側を有利にして弥生変革の引き金となったものは、四つの要因が同時にきたことだと思われる。生産性の低い乾田稲作にかわる、水田稲作の開発、寒冷地稲作に適した品種改良の継続、朝鮮農業人口の増大により移民圧力の増大、水田耕作に必要な木製のシャベルや鋤などを効率的に量産するための鉄器開発。鉄器と集約農業が同時に日本に到来したというのは、おそらく偶然ではないだろう。

 この章の冒頭で、特徴的なアイヌとあまり特徴のない日本人が日本に同居するようになったかについて、色眼鏡のない解釈を述べるところから始めた。一見すると、こうした事実を見れば、アイヌは日本先住民の子孫であり、日本人はもっと最近やってきたという示唆が得られそうだ。いまや考古学、身体人類学、遺伝学もこの見方を支持していることも見た。

 だが冒頭でやはり述べた通り、ほとんどの人(特に当の日本人)が別の解釈を探したくなるような有力な反論についても述べた。日本人が本当に最近になって朝鮮からやってきたなら、日本語と朝鮮語はかなり似通っているはずだ。もっと一般的に言えば、日本人が九州でごく最近になって、アイヌ的な縄文先住民と朝鮮からの弥生侵略者との混合で生じたのであれば、日本語は朝鮮語とアイヌ語の双方にかなり似ているはずだ。ところが日本語とアイヌには明らかな類縁性がなく、日本語と朝鮮語の類縁性もかなり遠いものだ。混血がたった2400年前に起きたなら、なぜそんなことになるのだろう? このパラドックスの解消として、私は以下の説を提案したい。縄文時代の九州の住人と弥生時代の侵略者たちの言語は、実は現代アイヌ語や現代朝鮮語とは、それぞれあまり似ていたとは考えにくいのだ。

 まずアイヌ語を見よう。現代の私たちが知っているアイヌ語は、日本北部の北海道にいるアイヌ人が最近しゃべっていたものだ。だから北海道の縄文住民もおそらく、現代アイヌ語に近い言語をしゃべっていただろう。でも九州の縄文住民はおそらく、ちがう言語をしゃべっていた。九州南端から北海道北端まで、日本列島はほぼ 2400 キロもある。縄文時代には、地域的な食料確保戦略にすさまじい多様性があったこともわかっているし、土器の様式も多様だし、政治的にも統一されていなかった。これに応じて縄文時代一万年の間に、縄文人たちは言語的にもかなりの多様性を発達させていただろう。考古学的な証拠が示唆するように、北部の縄文人がロシア経由の陸橋で到来し、南の縄文人が朝鮮から到来したなら、一万二千年前の時点ですでに両者の言語はかなりちがっていた可能性さえある。

 実は北海道や東北地方の日本の地名は、川を指すアイヌ語「内」「別」や岬を指すアイヌ語「尻」を含むが、日本のもっと南方にはそれがない。これを見ると、弥生人や日本の開拓者たちは多くの縄文現地名を採用したが(これはアメリカ白人がアメリカ先住民の地名、たとえばマサチューセッツやミシシッピーなどをたくさん採用したのと同じだ)、そのアイヌ語は日本最北部でのみ縄文言語として使われていたということが示唆される。九州の縄文言語は、むしろ南方のオーストロネシア語族と共通の先祖を持っていたかもしれない。この語族にはポリネシア語やインドネシア系言語や、台湾先住民の言語が含まれる。多くの言語学者が指摘するように、日本語は通称開音節 (open syllable、子音と母音がセットになって「Hi ro hi to」などとなるようなもの) を好むなど、オーストロネシア語族の影響が多少見られる。古代台湾人は、大海洋民族で、その子孫は遙か南、東、西へと広範に広がっている。一部は北の九州へ向かった可能性はある。

 ということは、北海道の現代アイヌ語は、九州の古代縄文言語のモデルにはならないということだ。同様に、現代朝鮮語は 400BC における朝鮮からの古代弥生言語のモデルとしては不適切かもしれない。現代朝鮮語は、新羅王国の言語から派生したものだ。この王国は朝鮮の内戦に勝利して統一朝鮮を作った王国だが、それに先立つ世紀に日本と密接な関係を持っていたのは、新羅ではなかった。初期の朝鮮年代記を見ると、朝鮮の各種王国はそれぞれ別の言語を使っていという。新羅に滅ぼされた王国の言語についてはあまりわかっていないが、こうした王国の一つ(高句麗)から残された数語は、対応する現代朝鮮語よりは、対応する現代日本語の単語にずっと近い。朝鮮の言語は、政治的統一により三王国時代が到来する以前の 400BC にはもっと多様だったかもしれない。私が見たところ、400BC に日本に運ばれて、現代日本語へと進化した朝鮮言語は、現代朝鮮語のもとになった新羅語とはかなりちがっていたのではないか。したがって、現代日本人と現代朝鮮人が、言語面ではあまり似ていないのに外見と遺伝子はずっと似ているのも無理はないだろう。

 この結論は、日本と韓国の双方で人気が出ないだろう。現在ではお互いに嫌い合っているからだ。歴史的にお互いにを嫌う理由は十分にある。特に韓国人が日本人を嫌う理由のほうは。アラブとユダヤ人のように、韓国人と日本人は血筋ではつながっているのに、伝統的な敵対にとらわれている。だが敵対は、東アジアでも中東でも相互破壊的だ。日本人も韓国人も認めたがらないが、両者はその草創期を共有する双子の兄弟のようなものなのだ。東アジアの政治的な未来は、相当部分がこの両者が古代の絆を再発見するのに成功できるかどうかにかかっている。

参考文献
 最も最近の本一冊を使った日本人の起原に関する記述は、Mark Hudson, Ruins of Identity: Ethnogenesis in the Japanese Islands (Honolulu: University of Hawaii Press, 1999) だ。それに先立つ主要な記述としては、C. Melvin Aikens and Takayasu Higuchi, Prehistory of Japan (New York, Academic Press, 1982), およびKenji Imamura, Prehistoric Japan: New Perspective on Insular Eastr Asia (Honolulu: University of Hawaii Press, 1996) がある。これに対応した朝鮮についての記述としては Sarah Milledge Nelson, The Archaeology of Korea (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) を参照。

 Hudson 本は、日本国家成立までの時期に専念しているが、国家形成から現代までの歴史を扱ったのが Edwin Resichauer (訳注:原著ママ)Japan: The Story of a Nation, 3rd ed. (Tokyo, Tuttle, 1981) 邦訳ライシャワー『ライシャワーの日本史』(講談社学術文庫、2001) だ。Conrad Totman, Early Modern Japan (Berkeley: University of California Press, 1993) は1568-1868年に専念している。日本国家に対する朝鮮の貢献について、朝鮮側からの見方は Wontack Hong, Paekche of Korea and the Origin of Yamato Japan (Seoul: Kudara International, 1994) に書かれている。

 『銃、病原菌、鉄』における私の記述を補い更新するような、農業の拡大に関する最近の世界的な調査に興味がある読者に奨めたい本が二冊ある。Peter Bellwood and Colin Renfrew, eds., Examining the Farming/Language Dispersal Hypothesis (Cambridge: McDonald Institute of Archaeological Research, 2003) と Peter Bellwood, First Farmers: The Origins of Agricultural Studies (Oxford: Blackwell, 2005) だ。似たような分野をカバーする短いレビュー論文としては、拙稿 “Evolution, consequences and future of plant and animal domestication” Nature 418:34-41, および Jared Diamond and Peter Bellwood, “Farmers and their languages: The first expansions,” Science 300: 597-603 (2003) がある。

2003年エピローグ:現代の『銃、病原菌、鉄』
 『銃、病原菌、鉄』は、複雑な人類社会の台頭が、過去13,000年で大陸ごとにちがう展開を見せたのかを述べた本だ。原稿の改訂を終えたのは1996年で、本は1997年に刊行された。その後、私はほかの仕事、特に文明の崩壊に関する次の本の作業で忙しかった。だからいまや、『銃、病原菌、鉄』執筆と私との間には、7年の時間と集中力の隔たりがあることになる。振り返って見ると、本書はどうだろうか。そして刊行以来、その結論を変えたり拡張したりするようなことは起きただろうか? もちろん著者自身としてのバイアスはあるが、本書の中心的なメッセージはあまり損なわれることなく、刊行以来で最もおもしろい展開は、本書の物語を現代世界や近代史に広げる四つの展開だった。

 私の主要な結論は、社会が違う大陸でちがう発展を見せたのは、大陸の環境がちがっていたからであり、人間の生物学がちがっていたからではない、というものだった。先進技術、中央集権化された政治組織など、複雑な社会の各種特徴は、余剰食糧を貯蔵できる高密な定住社会でしか生じ得ない——つまり8500BC頃に始まった農業の台頭に食料を依存する人々が必要だった。だが、その農業の台頭に不可欠な、栽培可能な野生植物や家畜化できる動物は、各大陸にかなり不均一な分布を見せていた。もっとも価値の高い栽培・家畜化可能な野生種は、地球の九つの章地域にしか分布しておらず、その地域が農業最初期の故郷となった。こうした故郷にもともと住んでいた人々は、銃、病原菌、鉄の開発に向けて戦陣を切ることになる。こうした故郷の住民の言語や遺伝子、そしてその家畜や作物、技術、書字は、古代世界でも現代世界でも支配的なものとなった。

 過去六年ほどで、考古学者、遺伝学者、言語学者など各種専門家が発見した成果により、この物語についてのわたしたちの理解はもっと豊かになり、その主要なあらすじは変わっていない。三つの例を挙げよう。『銃、病原菌、鉄』の地理的なカバー範囲の中で、最大のギャップは日本についてのものだった。1996 年当時は日本の前史について、私はあまり言うべきことを持っていなかった。いまや最近の遺伝的証拠から、現代日本人は『銃、病原菌、鉄』で論じた他の農業拡大と似たものの産物だということが示唆されている。朝鮮の農民たちが 400BC 頃から日本南西部に拡大し、日本列島を北上したというわけだ。この移民たちは集約的な稲作と金属道具を持ち込み、日本原住民(現代のアイヌと類縁)と混血し、現代日本人を生み出した。これは肥沃な三日月地帯の農民たちが拡大してヨーロッパ原住民である狩猟採集民と混血し、現代のヨーロッパ人となったのと同様だ。

 別の例としては、考古学者たちはもともとメキシコのトウモロコシ、豆、瓜類は、メキシコ北東部とテキサスといういちばんの直線ルート経由でアメリカ南東部にやってきたと考えていた。でもいまや明らかになりつつあるように、この地域は乾燥しすぎて農業に向かなかった。こうした作物はむしろ遠回りして、メキシコからアメリカ南西部に広がり、アナサジ社会の台頭を引き起こしてから、ニューメキシコとコロラドへと大平原の川の峡谷を通って東に向かい、アメリカの南東部に到達したのだった。

 最後の例として、第十章で私はアメリカ大陸の南北軸に沿って、同じまたは類似の植物が繰り返し独自に栽培作物化され、そしてそれがなかなか広がらなかった様子について、ユーラシアの作物が一回だけ栽培作物化されて、急激に東西に広がったことと対比させた。こうした対照的なパターンの例はもっと見つかっているが、今ではユーラシアの五大家畜もまた、ユーラシアの各地で独立に家畜化されていたらしい——ユーラシアの植物とはちがい、アメリカ大陸の食物と似たパターンだ。

 これらを始めとする各種の発見は、古代世界において複雑な社会が台頭するにあたり、農業の勃興が引き金を引いたというもとの話に細部を追加してくれるもので、私は未だにこれに魅了される。だが『銃、病原菌、鉄』を基盤とした最大の進歩は、本書の主な焦点ではなかった分野への展開だ。本書の刊行以来、何千人もが手紙や電話やメールや対面で、彼らの研究している現代や最近のプロセスと、『銃、病原菌、鉄』で扱った古代の大陸プロセスとの類似や対照に気がついたことを話してくれた。こうした話題のうち、四つを採りあげるよう。手短にいうと、ニュージーランドのマスケット戦争の見事な例、だれもが不思議に思う「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」の問題、細かく見たときの古代社会と現代ビジネス社会における競争の類似制、そしてなぜ今日の一部社会が豊かで他が貧しいかという議論に対して『銃、病原菌、鉄』が持つ関係だ。

 1996 年に私は、短い段落一つ(十三章)使って、19世紀ニュージーランド史におけるマスケット戦争なるものを、強力な新技術伝搬の例として挙げた。マスケット戦争というのは、1818 年から 1830 年にかけて、ニュージーランド先住民マオリ人たちが行った一連の部族間戦争で、あまりよく理解されていない。これらの戦争は、それまで石器や木製武器で戦っていた部族の間に、ヨーロッパ製の銃が広まったことで生じた戦争だった。その後、本が2冊刊行されて、ニュージーランド史におけるこの混沌とした時期の理解を深め、それをもっと広い歴史的な文脈に位置づけて、それが『銃、病原菌、鉄』にどう関係していたかをなおさらはっきりさせてくれた。

 1800年代初頭に、ヨーロッパの交易人や宣教師や捕鯨人たちがニュージーランドを訪れるようになったが、そこはそれまで六百年にわたり、マオリ人と呼ばれるポリネシア系の農民や漁民が暮らしていた。最初のヨーロッパ人訪問者たちはニュージーランド北端に集中した。ヨーロッパ人ともっとも早く交流をもった北部のマオリ部族が、初めてマスケット銃を手に入れた部族となり、マスケット銃を持たない他のすべての部族に対し、すさまじい軍事的な優位性を獲得した。彼らはまずその優位性を利用して、伝統的に敵対していた周辺部族に意趣返しをした。でも彼らはマスケット銃を使って、新種の戦争を始めたのだ。何百キロも離れたマオリ部族に対して遠距離襲撃をかけ、奴隷獲得と名誉の面でライバルとなる部族を殲滅させたのだ。

 こうした遠距離襲撃を可能にした点で、ヨーロッパのマスケット銃と少なくとも同程度には重要だったのが、ヨーロッパ渡来のジャガイモだ(もとは南米産)。これはサツマイモを主体とする伝統的なマオリ農業より、農民一人あたりまたは土地一定面積あたりずっと多くの食物を提供した。それまでマオリ部族が遠征を仕掛けられなかった主要な理由は、故郷から離れた戦士たちを長期間食わせておくという問題と、戦士となるはずの村民が家に残ってサツマイモを育てるのに依存する、女子供の留守番人口という二重の問題だった。ジャガイモはこのボトルネックを解消した。したがってマスケット戦争をもっと泥臭く呼ぶなら、ジャガイモ戦争と言うべきか。

 名前はどうあれ、マスケット/ジャガイモ戦争はきわめて破壊的で、当初のマオリ人口の四分の一を殲滅させた。死人の数が最大だったのは、大量のマスケット銃とジャガイモを持つ部族が、そうしたものをほとんどまったく持たない部族を襲撃したときだった。まっ先にマスケット銃やジャガイモを手に入れられなかった部族の中には、それに触れるまでにほぼ絶滅させられたところもあり、それ以外の部族は何とかしてそれらを入手して、かつての軍事均衡を復活させようと必死になった。こうした戦争の一例が、第二章で述べたマオリ部族による他のマオリ部族の制圧と大量虐殺だ。

 マスケット/ジャガイモ戦争は、過去一万年を通じて一貫した主要プロセスを示している。銃、病原菌、鉄、あるいは初期の技術軍事的優位性を持った人間集団が、他の集団を犠牲に拡大し、やがてその他の集団は駆逐されるか、あるいはみんなが新しい優位性を共有するようになる。最近の歴史を見ると、ヨーロッパ人が他の大陸に拡大するにつれて無数の例が生じている。多くの場所では、非ヨーロッパの地元民は銃を獲得する機会をまったく持てずに、結局は殺されたり自由を失ったりしている。だが日本は銃を獲得(正しくは再獲得)するのに成功し、たった五十年でその新たな銃を使って、1904-05 年の日露戦争でヨーロッパ列強を打破している。北米の平原インディアンたち、南米のアラウカニアンインディアンたち、ニュージーランドのマオリ人、エチオピア人は銃を獲得して、ヨーロッパ人による征服に長いこと抵抗した(最終的には負けたが)。今日では、第三世界諸国は最新技術や農業的な優位性を獲得することで、必死で第一世界に追いつこうとしている。こうした技術や農業の拡散は、結局は人間集団同士の競争のせいで生じるのだが、過去一万年で無数の地域や時代に起こっていたはずだ。

 その意味で、ニュージーランドのマスケット/ジャガイモ戦争に風変わりなところは何もない。ニュージーランドに限られた、局所的な戦争ではあって、それが世界的な関心事となるのは、似たような無数の局所的現象が、実に時間空間的に限られたところに狭く限定され、きわめて明瞭な事例を提供してくれているからだ。マスケット銃とジャガイモは、ニュージーランド北端に導入されてから二十年以内に、千四百キロ離れたニュージーランド南端に広がっていた。それまでは、農業、書字、改良型の銃以前の武器は、もっと大きな距離を伝搬するのにずっと長い時間がかかったが、人口の入れ替わりと競争という根底の社会プロセスは基本的に同じだ。現代の我々は、同様のしばしば暴力的なプロセスを通じて、核保有八カ国から核兵器が世界中に拡散するだろうかと案じているわけだ。

 1997年以来活発に議論された第二の分野は、「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」とでも題することができる。『銃、病原菌、鉄』の大半は、大陸間のちがいを問題にしていた。つまり、過去千年で世界中に広がったのが、なぜユーラシア大陸人であってオーストラリアのアボリジナル人、サブサハラのアフリカ人、アメリカ先住民ではなかったのか、ということだ。でも、多くの読者が「なぜそのユーラシア大陸人の中でも、世界に広がったのはヨーロッパ人で、中国人とか他の集団ではなかったのか?」と不思議に思ったのには気がついた。だから『銃、病原菌、鉄』を終えるにあたり、この当然の疑問についてほっかむりしたままでは見逃してもらえないだろうとはわかっていた。

 だからこの点については、本のエピローグでささっと触れた。ヨーロッパが中国を支配したのは、ほとんどの歴史家が示唆する直接要因(たとえば中国の儒教VSヨーロッパのユダヤキリスト教の伝統、西洋科学の台頭、ヨーロッパの資本主義と重商主義、イギリスの森林伐採と石炭)より深い理由があるのでは、と私は示唆した。これらを含む直接要因の背後に、私は「最適分断原理」を見いだした。中国が早期に統一され、その後おおむね統一状態が続いたのに対し、ヨーロッパがずっと分断されていたことを説明する究極の地理要因だ。ヨーロッパの分断は、国同士の競争を促進し、イノベーターに各種の支援源と訴追からの逃げ場を提供することで、技術、科学、資本主義の発展をうながした。統一中国ではそうならなかったのだ。

 その後、歴史家たちはヨーロッパの分断、中国の統一、ヨーロッパと中国の相対的な強さはどれも、私の記述よりずっと複雑なんだと指摘してくれた。まず「ヨーロッパ」「中国」と便宜的に区分できる政治社会領域の範囲は時代を追うにつれて変化した。中国は少なくとも15世紀まではヨーロッパより技術的に進んでいたし、将来またそうならないとも限らない。そうなったら「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」という問題は、特に深い理由などない一時的な現象の話になってしまうかもしれない。政治的な分断は、建設的な競争の場を提供するよりも複雑な影響をもたらす。競争は、建設的とは限らず破壊的にもなる(両世界大戦をごろうじろ)。分断という概念自体が、一枚岩ではなく多面的だ。それがイノベーションに与える影響は、分断の境界を越えて人やアイデアがどこまで自由に移動できるかにもよるし、その分断された同士が似た者同士ではなく、独自性を持つかにもよる。分断が「最適」かどうかは、どんな最適性の尺度を使うかでも変わる。技術革新に最適な政治分断は、経済的な生産性や政治的安定や人の幸福にとっては最適ではないかもしれない。

 私見では、社会科学者の相当部分はいまでも、ヨーロッパと中国の歴史的道筋の差を説明するのに、直接的な説明のほうが好きだ。たとえば最近出た思慮深い論説で、ジャック・ゴールドストーンはヨーロッパ(特にイギリス)の「エンジン科学」の重要性を強調している。つまり、科学を機械やエンジンの開発に応用することだ。ゴールドストーン曰く「エネルギーを巡り、あらゆる前工業経済が直面した二つの問題があった。量と集中だ。あらゆる前工業経済が使える力学エネルギーは、水流と、食わせられる動物や人、利用できる風力に限られていた。地理的に固定された領域では、この絶対量はがっちり固定されていた。(中略)化石燃料のエネルギーを抽出して有用な仕事にふりむける手段を考案した、初の経済や軍事政治勢力がどれほどの優位に立てたかは、いくら強調しても強調し足りない。(中略)蒸気の力を紡績や、水運・陸運、煉瓦造り、脱穀、製鉄、掘削、建設など、各種の工業プロセスに適用できたことが、イギリス経済を一変させた。(中略)だから、エンジン科学の豊かな発達は、ヨーロッパ文明の必然的な発展などではまったくなく、17世紀・18世紀のイギリスにたまたま生じた、個別の(きわめて条件つきとはいえ)条件の偶然の産物だったのかもしれないのだ」。もしこうした理由づけが正しいなら、深い地理的・生態的な説明など探しても無駄ということだ。

 『銃、病原菌、鉄』エピローグで私が述べた見方に近い、正反対の少数意見としては、グレアム・ラングが詳細に論じたものがある。「ヨーロッパと中国の、生態環境や地理のちがいは、両者における科学や学問自体のきわめて異なる展開を説明するのに役だった。まず、ヨーロッパは(降水依存)農業で国の役割がほとんどなく、このために国家は地域コミュニティとはほとんどの場合にかなり縁遠い存在だった。そして農業革命がますます農業余剰を増やすようになると、中世末期になって中央集権国家が誕生する以前に、かなり自立的な町と、大学のような都市的機関が成長できるようになった。中国における(灌漑と水の制御による)農業は、これに対して大河峡谷沿いに、介入的で強圧的な国家が早い時期に発達するのを有利にしたし、町やその期間はヨーロッパのような地域自立性の水準を確立することは一度もなかった2。第二に、中国の地理はヨーロッパとはちがって、広大な地域にわたる征服と統一を有利にしていた。それが起きたら、その後は帝国支配下の比較的安定した時期が長く続く。結果として生じた国家体制は、現代科学の登場に必要な条件の大半を抑圧するものだった。(中略)ここに述べた説明はもちろんあまりに単純化しすぎている。でもこの種の記述が持つ有利な点は、ヨーロッパと中国の社会文化的なちがいにとどまる説明にしばしば忍び込む、循環論法を逃れることができるという点だ。そうした説明は常に、さらなる疑問をぶつけることができる。なぜヨーロッパと中国は、そうした社会文化要因の点でちがっていたのですか、と。だが最終的に地理と生態環境に基づく説明は、いちばん根底にたどりついているのだ」

 歴史家にとって、こうしたちがったアプローチで折り合いをつけて「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」という問題に答えるのは大きな課題となっている。その答えは、今日の中国とヨーロッパの最高の統治方法についても重要な意味合いを持つかも知れない。たとえば、ラングや私の見方からすれば、1960年代と1970年代の中国文化大革命の惨劇は、ユニークな一回限りの異常現象ではなく、中国が政治システムにずっと大規模な地方分権を導入できない限り、将来の同様な最劇の予告編となっているのかもしれない。逆にヨーロッパはといえば、今日におけるその政治経済統合への性急な歩みは、過去五世紀におけるヨーロッパ成功の根本要因をどうやって解体せずにすますか、という点についてもっと十分に考える必要が出てくる。

 『銃、病原菌、鉄』のメッセージを現代に拡張する第三の最近の試みは、私にとって最も意外なものだった。本書刊行後まもなく、ビル・ゲイツから好意的な書評を受けた。すると、他のビジネス人や経済学者たちから、『銃、病原菌、鉄』で論じた人類全史と、ビジネス界における集団の歴史との間に類似性がありそうだという手紙が舞い込むようになったのだ。このやりとりは、以下の大きな問題に関するものだった:人間の集団や組織や企業を組織して、生産性や創造性、イノベーション、富を最大化する最高の方法は何か? 中央集権化した方向性(極端な場合は独裁者)を持つべきなのか、それともリーダーシップは分散させるか、あるいは極端にはアナーキーがいいのか? その集団は一つのグループにまとめるべきか、あるいは少数のグループまたは多数のグループに分けるべきなのか? 外部に対しては保護主義的な関税の壁を設けるべきなのか、それともビジネスを自由な競争にさらすべきなのか?

 こうした問題は、多くの種類のグループにとって、多くのちがった水準で生じる。国全体のまとめかたにも当てはまる。最高の統治形態が優しい独裁者型か、連邦型か、アナーキー的な何でもありか、という昔ながらの議論を思い出そう。同じ問題は、同業界内の各種企業の組織についても持ち上がる。最近はマイクロソフトが好調で、かつては好調だったIBMが後塵を拝したが、その後大規模な組織改編を行って、再び成功したというのをどう説明しよう? 私がボストンで育っていた頃には、ボストンを取り巻く産業地帯ルート128 は科学的創造性と想像力で世界のトップだった。でもルート128 は落ち込んで、いまやイノベーションの中心はシリコンバレーだ。シリコンバレーとルート128 とでは、企業同士の関係がかなりちがっているので、それがひょっとしたらこの結果の差を生んだのかも知れない。

 もちろん、国全体の経済生産性の差も名高い。たとえば日本、アメリカ、フランス、ドイツなどだ。だが実は、同じ国の中ですら、ビジネスセクターがちがえば生産性と富も大きくちがってくる。たとえば、韓国の製鉄産業の効率はアメリカと同じだが、その他の韓国産業はすべて、アメリカに効率性で劣っている。こうした同一国内での生産性の差を説明できるのは、各種韓国産業の組織面でどういったところだろうか?

 当然ながら、こした組織成功のちがいに関する問題への答の一部は、個人の差に依存している。たとえばマイクロソフトの成功はまちがいなく、ビル・ゲイツの個人的な才能に一部は関係している。企業組織が優れていても、リーダーが無能ならマイクロソフトは成功できなかっただろう。それでも、やはり問うことはできるだろう:他の点が等しければ、あるいは長期的には、あるいは平均的には、どんな人間集団組織形態が最高なのだろうか?

 『銃、病原菌、鉄』のエピローグで行った、中国、インド亜大陸、ヨーロッパの歴史比較は、国全体の技術イノベーションにこの問題を適用した場合の答を示唆している。前節で述べたように、私は地理的に分断されたヨーロッパでは政治的まとまり同士の競争がイノベーションを促進し、統一中国ではそうした競争がなかったのでイノベーションが阻害されたと示唆した。だったらヨーロッパよりもっと政治的な分断が進んでいれば、もっとよかったのだろうか? たぶんちがう。インドは地理的にはヨーロッパよりもっと分断していたが、技術的なイノベーションは低かった。ここから私は「最適分断原理」を思いついた。イノベーションが最も急速に進むのは、最適な中程度の分断を持つ社会だ。あまりに統一されすぎた社会は不利だし、あまりに分断しすぎた社会も不利だ。

 この示唆は、ワシントンDC にあるマッキンゼー・グローバル研究所のビル・ルイスら重役たちの琴線に触れた。この研究所は、世界中の国や産業の比較経済研究をやっている大手コンサルティング企業だ。この重役たちは自分たちのビジネス体験と私の歴史的な示唆との類似にとても感銘を受けて、同社の数百人のパートナーたちにGGSを送りつけ、さらにアメリカ、フランス、ドイツ、韓国、日本、ブラジルなどの各国経済に関する報告書を私に送ってくれた。彼らもまた、イノベーション促進における競争と集団規模との重要な役割に気がついたのだった。マッキンゼー重役やその報告書から私が得た結論の一部を示そう。

 私のようなアメリカ人はしばしば、ドイツや日本の産業は超効率的で、アメリカの各種産業を生産性で上回っているのだと妄想しがちだ。現実には、そんなことはない。全産業平均で見ると、アメリカの産業生産性は日本とドイツのどちらよりも高い。でも、この平均だけでは見えないことだが、産業ごとに見ると大きな差があって、それは組織のちがいに関係している——そしてその差はとても示唆的だ。マッキンゼーの事例研究から、ドイツのビール産業と日本の食品加工業を例に挙げよう。

 ドイツ人はすばらしいビールを作る。夫婦でドイツを訪れるたびに、私たちは空のスーツケースを抱えていって、帰りにはドイツビールのボトルを詰め込んで一年にわたりそれを楽しむ。だがドイツのビール生産性は、アメリカビール産業の43パーセントでしかない。一歩ー、ドイツの金属加工や製鉄産業は、アメリカと同じ生産性を持つ。明らかにドイツ人は産業をうまく組織化する方法を知っているのに、なぜビールではそれができないのだろう?

 実はドイツのビール産業は、小規模生産に苦しんでいるのだった。ドイツには小規模ビール企業が千社あり、ビール会社ごとに地域独占体制なので、競争から守られている。アメリカには大ビール会社が 67 社あり、年間 230 億リットルのビールを生産している。ドイツでは、全千社あわせてもその半分だ。だから平均的なアメリカのビール会社は、平均的なドイツのビール会社に比べて 31 倍ものビールを生産しているのだ。

 この現象は、地元の嗜好とドイツの政策によるものだ。ドイツのビール好きは地元ブランドを熱烈に支持しており、このためアメリカのバドワイザーやミラーやクアーズに相当するような全国ブランドはない。ドイツビールのほとんどは、醸造所の 50 キロ以内で消費されている。だからビール産業は規模の経済の恩恵を活用できない。ビール事業でも、他の事業と同じく生産費用は生産規模とともに激減する。ビール製造の冷蔵装置が大きいほど、そしてビールを瓶に詰めるラインが長いほど、ビール生産の費用は下がる。小規模なビール会社は比較的効率が低い。競争がない。千の地域独占があるだけなのだ。

 ドイツ人個々の地元ビール忠誠ぶりをさらに強化しているのがドイツの法律で、外国ビールがドイツ市場で競争しづらくしている。ドイツ政府は通称純粋ビール法なるものを持っていて、ビールの材料として使えるものを厳密に指定している。ご明察の通り、政府による純粋ビールの指定は、ドイツのビール醸造所がビールに入れるものに基づいていて、アメリカやフランスやスウェーデンのビールメーカーが使いたがるものは入っていない。こうした法律のおかげで、ドイツには外国ビールがあまり輸出されず、そして非効率と高価格のおかげで、あのすばらしいドイツビールならもっと輸出されるはずだと思いがちだが、実はあまり外国には出回らない(ドイツのレーベンブロイはたくさん見かけるぞ、と言いたくなったあなた、こんどレーベンブロイを飲むときにはボトルをよく見てほしい。あれは実はドイツ産ではなく、アメリカでのライセンス生産で、アメリカの生産性と規模の経済を供えた大工場で生産されているのだ)。

 ドイツのせっけん産業や消費者家電産業も同じく非効率だ。ドイツのこうしたメーカー同士は競争しないし、外国からの競争にも直面しないので、国際産業のベストプラクティスを採用しない(ドイツ製の輸入テレビを買ったことのあるアメリカ人はなかなかいないだろう)。でもドイツの金属製鉄産業は、こうした欠点を持っていない。ドイツ企業はお互いに競争するし、国際競争もあるので、国際的なベストプラクティスを採用するしかない。

 マッキンゼー報告書でいちばん私の好きな事例は、日本の食品加工業だ。私たちアメリカ人は、日本の効率性をやたらに恐れるし、確かに一部産業では侮れない——でも食品加工はちがう。日本の食品加工業の効率性は惨めで、日本のたった32パーセントでしかない。日本には食品加工企業が67,000社あるが、日本の二倍の人口を持つアメリカにはたった 21,000 社しかない——だから平均的なアメリカの食品加工業社は、日本の六倍の規模だ。なぜ日本の食品加工産業は、ドイツのビール産業のように、地域独占の小企業だらけなのか? 答は基本的に、ドイツのビール産業と同じ二つの理由だ:地元の嗜好と政策。

 日本人は新鮮な食品となると目の色を変える。アメリカの牛乳は、容器には日付が一つしかない。消費期限だ。私が妻と、妻の日本人いとこといっしょに東京のスーパーマーケットに出かけたら、日本では牛乳の容器に日付が三つもついている。製造日、スーパーへの納品日、そして消費期限日だ。日本の牛乳生産は常に、深夜一分過ぎから始まる。そうすれば朝に市場に出回る牛乳は、当日生産だと表示できるからだ。11:59PM に生産されたら、容器の日付は昨日のものとなり、日本の消費者はだれも買わなくなる3。

 結果として日本の食品加工業は、地元独占を享受できる。日本北部の牛乳メーカーは、南部では競合できない。南部まで牛乳を輸送するのに1-2日余計にかかり、それは消費者から見れば致命的な欠陥になってしまうのだ。こうした地元独占は日本政府によって強化されている。外国からの加工食品輸入には10日の検疫期間など各種の規制がかけられる(一日古いだけの食品を嫌う日本の消費者が、10日前の食品をどう思うか考えてほしい)。だから日本の食品加工業は国内でも競争がなく、外国からの競争もない。一部はこのせいで、日本の食品価格はとても高い。最高の牛肉は一キロ4万円だし、ニワトリは百グラム500円する4

 日本の産業の中には、食品加工業とはまったくちがう構造のものも多い。日本の製鉄、金属、自動車、自動車部品、カメラ、消費者家電メーカーは、すさまじい競争をして、アメリカの同業他社よりも生産性が高い。でも日本のせっけんやビールやコンピュータ産業は、食品加工業と同じで、競争に直面せず、ベストプラクティスを導入せず、アメリカの同業他社より生産性が低いのだ(家の中を見れば、テレビやカメラや車なども日本製かもしれないが、コンピュータやせっけんはちがうはずだ)。

 最後に、こうした教訓をアメリカ国内の各種の産業地帯や企業に適用してみよう。『銃、病原菌、鉄』刊行以来、私はシリコンバレーやルート128 からの人々といろいろ話をしてきたが、その話では両産業地帯は企業エートスの面でかなりちがっているという。シリコンバレーは熾烈な競争を展開する多くの企業で構成されている。それでもかなりの協力がある——アイデアや人や情報が企業の間で自由に往き来している。これに対し、ルート128 の企業はずっと秘密主義的で、日本の牛乳メーカーと同じく相互に隔離されているのだという。

 マイクロソフトと IBM の対比はどうだろうか? 『銃、病原菌、鉄』刊行後、マイクロソフトに友人ができて、同社の特徴的な組織について教わった。マイクロソフトには、5-10人くらいのユニットがたくさんあり、ユニット間では自由にコミュニケーションが行われ、しかもそのユニットが細かく管理されることもない。独自のアイデアを追究するかなりの自由度を与えられているという。こうしたマイクロソフトの風変わりな組織——要するに、多くの競争する半独立ユニットに分割されているということ——はIBM の組織とは好対照をなす。IBM は数年前までは、ずっと相互に隔離されたグループで構成されており、これが IBM の競争力低下につながった。その後 IBM の CEO が変わって組織を大改革した。IBM はいまや、ずっとマイクロソフト的名組織を持ち、そしてIBMのイノベーションもその結果として改善したという。

 これらすべてを見ても、集団組織についての一般原理が抽出可能ではないかと思われる。イノベーションと競争力がほしいなら、過剰な統一性や、過剰な分断は避けたい。むしろ、国でも産業でも産業地帯でも企業でも、相互に競争しつつも比較的自由なコミュニケーションを保つグループに分割するのがいいようだ——そしてアメリカの連邦政府制度は、まさに五十州同士が相互に競争するようになっているのだ5。

 『銃、病原菌、鉄』の応用として最後のものは、世界経済の中心的な問題への応用だ。なぜ一部の国は(アメリカやスイスのように)豊かで、他の国(パラグアイやマリ)は貧乏なのか? 世界最富裕国の一人当たり国民総生産(GNP)は、貧困国の百倍以上だ。これは経済学の教授に雇用を与えるための理論的問題としておもしろいだけではなく、重要な政策的意味合いを持っている。もしその答がわかれば、貧困国は貧乏を維持させているものを改変するのに専念して、他の国を豊かにしているものを導入するようがんばればすむことになるからだ。

 もちろん、答の一部は人間制度のちがいに依存している。こうした見方の最もはっきりした証拠は、同じ環境を共有しているがまったくちがった制度を持ち、その制度のおかげでちがった一人当たり GNP を持っている 2 国を比較することで得られる。実に露骨な四例は、韓国と北朝鮮、旧東独と旧西独、ドミニカ共和国とハイチ、イスラエルと近隣アラブ諸国だ。それぞれのペアで前者が相対的に豊かな理由を説明するのに挙げられる「よい制度」の例としては、法治、契約強制、雌雄財産権保護、腐敗の不在、暗殺頻度の少なさ、貿易開放度、資本流動の自由、投資インセンティブなどが挙げられる。

 もちろん、よい制度は各国の豊かさの差についての答の一部だ。多くの、いやほとんどの経済学者はさらに先まで話を進めて、よい制度こそは圧倒的に重要な原因なのだとまで信じている。多くの政府、機関、財団は政策や開発援助、融資の根拠としてこの説明を採用し、貧困国の制度改善を最優先課題にしている。

 だがこの「よい制度」史観が不十分——まちがっているのではなく、不十分——で、貧困国が豊かになるには他にも対応すべき重要な要素がある、という認識はますます広まりつつある。この認識にもまた独自の政策的な意味合いがある。パラグアイやマリのような貧困国によい制度を導入するだけで、その国がその制度を採用してアメリカやスイス並みの一人当たりGNPになると思ってはいけないのだ。よい制度史観に対する批判には二種類ある。一種類目は、よい制度以外の公衆衛生や、土壌と気候からくる農業生産の制約、環境の脆弱性など、直接要因の重要性を認識するものだ。もう一つは、そのよい制度の起原を考慮する。

 後者の批判によると、よい制度を一次的な影響としてとらえ、その起原をそれ以上追究するのは現実的に無駄と考えるのは、不十分は発想だ。よい制度というのは、デンマークでもソマリアでも世界中どこでも登場できたようなランダム変数ではない。それどころか私が見る限り、これまでよい制度が登場したのは常に、地理に根ざした究極要因からの長い歴史的連鎖のつながりによって生じたもので、それが制度の直接従属変数となっている。よい制度のない国にそれを手早く構築したいなら、その連鎖を理解しなくてはならない。

 『銃、病原菌、鉄』執筆時点で、私はこうコメントした「(今日)新たな勢力へと台頭している国々は、食料生産に基づいた支配の古い中心に何千年も前に組み込まれたか、あるいはそうた中心からの人々に置き換わった地域の国々なのだ。(中略)8,000BCにおける歴史の方向性の威力は、いまだに我々に強く影響している」。経済学者たちによる論文2編(Olsson and Hibbs, およびBockstette, Chanda, and Putterman) は、この仮想的な歴史の威力に詳細な検討を加えた。すると、国家社会や農業の長い歴史を持つ地域は、そうした歴史の短い諸国に比べて、他の変数について調整した後でも一人当たりGNPが高いことがわかった。この効果でGNPのちがいに関するかなりの割合を説明できる。現在、あるいは最近まで低いGNPを持っていた国を見ても、国家社会や農業の長い歴史を持つ地域の諸国、たとえば韓国、日本、中国などは、そうした歴史の短いニューギニアやフィリピンなどに比べて成長率が高い。こうした短い歴史の国々のほうが、天然資源はずっと豊かなのにこれが成り立っている。

 こうした歴史の影響については、明らかな理由もいろいろある。国家社会と農業の経験が長ければ、行政官の経験も豊かになり、市場経済の経験も増え、等々。統計的には、そうした歴史の究極的な影響は、よい制度というおなじみの直接要因に仲介されていることがわかる。だが、よい制度の通常の指標について調整した後でも、歴史の影響は色濃く残っている。したがって、歴史の影響を仲介する他の直接要因もあるはずだということになる。というわけで、国家社会や農業の長い歴史から現代の経済成長に至る、長い因果の連鎖を詳細に理解することこそ、発展途上国がその連鎖をもっと急速に前進できるよう支援するための主要な課題となる。

 一言で、『銃、病原菌、鉄』の主題は古代世界を動かす原動力だっただけではなく、現代世界でも研究対象として重要な領域であるように私には思えるのだ。

参考文献
 植物と動物の作物化・家畜化、語属の広がり、語属の広がりと食料生産拡大との関係について、過去六年間における研究成果をまとめた論文2本と本一冊がある。“Evolution, consequences and future of plant and animal domestication” Nature 418:34-41, および Jared Diamond and Peter Bellwood, “Farmers and their languages: The first expansions,” Science 300: 597-603 (2003) 6、Peter Bellwood and Colin Renfrew, eds., Examining the Farming/Language Dispersal Hypothesis (Cambridge: McDonald Institute of Archaeological Research, 2003) だ。これらは最近の参考文献について詳しい。現代日本人の起原における農業拡大の役割について本一冊使って記述した最近の本は、Mark Hudson, Ruins of Identity: Ethnogenesis in the Japanese Islands (Honolulu: University of Hawaii Press, 1999) だ。

 ニュージーランドのマスケット戦争についての詳細な記述としては、R.D.Crosby, The Musket Wars: a History of Inter-Iwi Conflict 1806-45 (Aukland: Reed, 1999) を参照。こうした戦争をごく手短にまとめつつ、もっと大きな文脈の中に置いた本としては、 James Belich による以下の二冊を参照:The New Zealand Wars and the Victorian Interpretation of Racial Conflice (Auckland: Penguin, 1986), およびMaking Peoples: A History of the New Zealanders (Auckland: Penguin, 1996)。

 ヨーロッパと中国の方向性のちがいに関する直接要因を見つけようとする社会科学者による近年の試み二つとしては、Jack Goldstone, ’’Efflorecenes and economic growth in world history: rethinking the ‘rise of the West’ and the Industrial Revolution,’’ Journal of World History 13:323-89 (2002) 、およびKenneth Pomeranz, The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy (Princeton: Princeton University Press, 2000) がある。その正反対のアプローチ、究極要因の探究例としては、 Graeme Lang. “Sate systems and the origins of modern science: a comparison of Europe and China,” East-West Dialog 2:26-30 (1997)、およびDavid Cosandey, Le Secret de l’Occident (Paris: Arléa, 1997) がある。文中での私の引用は、この Goldstone とLang 論文からのものだ。

 現代の豊かさや成長率指標と、国家社会や農業との関係を分析する二つの論文は: Ola Olsson and Douglas Hibbs, “Biogeography and long term economic development,” European Economic Review, 近刊7、およびValerie Bockstette, Areendam Chanda, and LouisPutterman, “States and markets: the advantage of an early start.” Journal of Economic Growth 7: 351-73 (2002).

訳者コメント
 ジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』の2005年版に追加されていた2章の翻訳。翻訳には W.W. Norton版 (2005) pp. 426-464 (参考文献は494-496) を使用している。参考文献の書き方などを見る限り、どうも「2003年版あとがき」は2003年に追加され(PB版か何かで追加したのか)、その後2005年に、日本人に関する章をさらに追加したらしい。というのも、2003年あとがきの参考文献で「近刊」となっている論文が、日本人についての章では(相当部分が反復されているうえ)、ちゃんと掲載ページまで出ているので。この両者が別の時期に書かれたのは明らか。

 我々日本人としては関心のある、日本人の起原の章についていえば、えーと、個人的にはこの程度の話は常識に属するし、小学校でも教わるようなことで、ダイアモンドがなぜこれを仰々しく一章設けてわざわざ語る必要があると思ったのかはわからない。日本の新聞は毎日一面で考古学ニュースを伝えるとか、ずいぶん変な情報ソースのようだし、朝鮮半島からの影響くらい周知のこと。縄文人と弥生人の争いなんてのは諸星大二郎かだれかのマンガのネタにもなってるし、その弥生人がいきなり湧いてきたとは思わないし、神話にもあちこちの影響があるのは知られていることだ。それをそんなに躍起に否定する人々ってそんなに多いの? ぼくが知らないだけ? それともかれの周辺には変な嫌韓厨やネトウヨしかいなかったのか? とはいえ、簡潔な整理としてはよくできているし、ダイアモンド自身の見方はさておき、他の見解も示されている。概観としてはよいのでは? もちろん、日本人の起原についての論争はまだまだ尽きないし、wikipedia などを見ると、遺伝子的にもまだまだ検討の余地はある模様。これは今後の研究の展開を待ちたいところ。

 一方、2003年版あとがきは……個人的にはあまり出来がよくないと思う。ないほうがよかったのではないか。生態環境的な要因が世界史の大きな発展に影響したのは、数千年、数世紀単位の見方としては文句なし。でもそれを安易に現代の個別状況に適用していいものか? 初版では、そこらへんについて結構慎重だったのが、この2003年版あとがきではきわめてルーズ。技術の発展のためには、競争がいるからあまり統一しすぎず、あまり分断されすぎないほうがいい、というのは一般論としてはOKだが、それを『銃、病原菌、鉄』の知見として述べるのはそもそも正当ではないだろう。初版ではそれは、エピローグ部分のほんのおまけでしかなかったんだし。そして、結局重要なのは、どんな場合にどのくらいの規模が適正か、ということ。それなしに『銃、病原菌、鉄』の知見が現代ビジネスに適用できます、などというのは、ぼくは有用だとは思わない。

 そして、それを現代のビジネスや産業にあてはめるにしても、日本の事例は明らかにもう少し調べてほしかったところ。さらに、ドイツのビールの話でも日本の食品加工の話でも、生産性の低い日独の業界VS生産性の高いアメリカ業界、という描き方をしているけれど、よく読むとそうではない。ドイツのビールはうまい、日本の食品は新鮮、というのが前提にある。だから、純粋に量的な生産性で見た比較というのをしていいのか? 高品質だが高価VS低品質ながら安価、というのを比較するならもっときちんと考える必要があるのでは? そして、この稿が出た2003年頃には、テレビやカメラは日本製が当然だったのに、そこから数年の2012年時点で事態がかなり変わっていること(テレビは、特に液晶なら韓国産がメインになってしまった)も、この話がどこまで一般性を持つかについて要注意だということを示唆している。また産業地帯でも、シリコンバレーVSルート128の話をこうした単なる伝聞で持ち出してくるのは、サクセニアン『現代の二都物語』などをちゃんとチェックしていないことを物語っており、ダイアモンドがあまりしっかり調べずににこの話をしているかが明確にわかる。

 そして最後の部分、途上国の発展も実は『銃、病原菌、鉄』の議論があてはまるという部分については、かつて CUT の書評https://cruel.org/cut/cut200008.htmlで漠然とした疑問として書いたことがモロに露呈している。これはかなり不用意な文化決定論になってしまっている。いまの途上国の貧しさまで歴史——ひいては環境的な初期条件——のせいだというなら、ぼくはダイアモンドのいう「連鎖」なんてものを学んでも意味はなく、開発援助なんて無駄だからほっとけ、という結論がまっ先に出てくるように思う。人間集団や知見の移動が制限されていた時代ならそれは言えたかもしれない。でも現代に本当にそれはあてはまるのか? ぼくはダイアモンドの議論を大変におもしろいと思う一方で、こうした安易さは大いに警戒する必要があると思う。

 訳注:これは反正天皇を指す解釈だが、1970年代までのずいぶん古い解釈で、その後別の資料から、これは雄略天皇を指すというのが定説らしいよ。↩

 訳注:すまん、この程度の話を最近の考案であるかのようにドヤ顔で言われるのはちょっと許せません。これははるか昔に、カール・ウィットフォーゲルが主張していた、中国における官僚制発達の基本理論そのものではないか! ある意味で、ダイアモンド的な議論というのは地域レベルでは昔からあちこちで提示されていて、かれの手柄というのはそれを全世界的に集めて一本化したことにすぎないとすら言える。むろん、それがまさにダイアモンドのコロンブスの卵的えらさではあるのだ。↩

 訳者注:……ねーよ。ふつうは賞味期限しか書いてねーよ! お高いスーパーの産直ナントカ牛乳でも買ったんじゃないの? だいたい牛乳ってクッキーじゃないんだから、牛からしぼった時点ですでに劣化は始まっているんだし、工場で「生産」ってのはいつのことなの? 殺菌時点? 容器に詰めた時点? むろん賞味期限に必要以上にこだわる人が多いのは事実だけどさ、もうちょっといい事例がほしいなあ。↩

 訳者コメント:おい! おい! 神戸牛がやたらに高いのは地域独占のせいじゃないし、百グラム500円ってどこのニワトリじゃ!↩

 訳者コメント:この節は本当にがっかり。この節に書かれた話は、どれも『銃、病原菌、鉄』から出てくる知見として挙げるべきものとは思えない。シリコンバレーVSルート128を、この時点でこんな伝聞として書くのは勉強不足のそしりをまぬがれないし、最後の部分も、競争しつつ情報自由に、というのがむずかしいからみんな苦労するんでしょうに。↩

 訳注:原文では「近刊」となっているが、前章にはちゃんと掲載ページが出ているのでそれにあわせて直した。↩

 訳注:49.4, 909-938, 2005. 正しい題名はlong term ではなくlong-runで、http://swopec.hhs.se/gunwpe/papers/gunwpe0026.pdfがほぼ同じものらしい。


https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/281.html

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
338. 中川隆[-11585] koaQ7Jey 2020年8月30日 06:31:12 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[3]

久留里の名水

2015/7/10
名水って「まずい?!」・・・硬度と日本酒  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html
 

■ 名水が美味しいとは限らない ■


先週の土曜日、降り続いた雨も午前中に小降りになったので魔改造MTBのラレー君で出動。養老渓谷まで往復しようかと思いましたが、晴れ間が見えて来たので調子に乗って鴨川まで足を延ばす事に。いつもは帰路に使う久留里街道に姉ヶ崎から入って逆コースで走ってみます。

江戸時代の城下町の雰囲気を良く残す久留里は「名水の街」としても有名です。江戸時代に渇水で悩まされた事を契機に、「上総掘り」の井戸がいくつも掘られ、地下400m以上の深さから井戸水が自噴しています。街の至る所に自噴井戸が有り、その量43t/日だそうで、まさに「名水の街」の名に相応しい。

本日はMTBで先を急ぐ訳では無いので、井戸水をゆっくり味わってみます。

・・・・マズイ・・・・

何?このドブの様な匂いは。それに結構水が硬い感じです。
名水って美味しいはずでは、私の味覚に異常があるのでしょうか?

有名な井戸では車でいらした方達が大きなポリタンクに水を何本も汲んでいます。こんなドブ臭い水をいったいどうするのでしょう・・・???

■ ドブ臭さ(硫黄臭)は一晩汲み置きすれば消える ■

実はこのドブ臭さの正体は「硫黄」だそうです。房総半島は海底堆積岩の地層ですが、この地層には海底に堆積した生物の死体も沢山含まれています。君津市の七里川温泉や鴨川市の白岩温泉は単純硫黄泉ですが、これらの堆積物由来の硫黄が含まれていて、火山性の硫黄泉と比べて湯質は柔らかで温泉マニアの評価も相当高い。

地下400mから自噴する久留里の井戸水にも、この硫黄が含まれておりそれがドブ臭さの原因となっているそうです。この硫黄臭、一晩汲み置きすればすっかり消えるそうで、水も「まろやか」な味わいになるとか。

■ 水の硬度 ■

海底堆積層を通過した久留里の井戸水はカルシウムやマグネシウムといったミネラルも豊富な中硬水です。多分硬度が150近辺かと思われます。

一般的には飲用にはミネラルがあまり含まれていない「軟水」が適していると言われています。市販のエヴィアンは硬度が300を超える硬水ですが、あれを美味しいと感じる人はコマーシャリズムに毒された人でしょう。痩せると一時期人気のあったコントレックスの硬度は何と1500。あれをガブガブに飲める人を私は尊敬します。ちなみに、日本人の好きな「南アルプス天然水」の硬度は30程度です。外国産だとボルビックが60程度。

飲み水の元となる雨水は蒸留水なので硬度は0です。雨水が山などに降り、表層を伝わって沢になり河川となりますが、この表層水はミネラルがあまり溶け込まないので軟水となります。

ヨーロッパなどは河川が長いので、ミネラルが溶け込む量も増え硬水となります。日本の水道水ではでは千葉県などは硬度が高めで、これは利根川や江戸川など長い河川から取水している影響でしょう。

鴨川に住む娘のアパートの水も結構硬いなと調べてみたら、表層水ながら硬度が130もありました。

■ 酒造には硬水が適している ■

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飲用としてはあまり美味しいとは言えない硬水や中硬水ですが、酒造りには最適の水です。水に溶け込んだミネラルが酵母の成長を促進させしっかりとした発酵を促すからです。日本一の酒所、兵庫県の灘地方も硬水です。

一方、新潟などは硬度2などという超軟水で実は酒造には向いていませんでした。酵母発酵の段階で雑菌が繁殖してしまい腐酒になる事も。その為、江戸時代の文献には「酵母発酵を促す為に海水を加えると良い」という記述も有る様です。

硬水で仕込んだ日本酒は発酵がしっかりと促進する為に味が濃厚に成り易く、一方、軟水で仕込んだ日本酒は淡麗な味わいになる傾向が有る様です。昨今の食生活の変化で、日本人はさっぱりした味わいの日本酒を好む様になり、新潟などの淡麗系の日本酒の人気が高まります。新潟の酒蔵も、軟水を生かした酒造りを探求して品質を向上させました。(白瀧酒造の「上善如水」なんて水じゃん!?って感じてしまうのですが・・・ゴメンナサイ)

さて中硬水の久留里はと言うと、城下町という事も有り酒蔵が沢山有ります。吉崎酒造の「吉壽 」などが有名でしょうか。

■ 隠れた名酒が多い千葉県 ■

酒所としてはほとんど無名で、全国区の銘酒が無い千葉県ですが、歴史の長い酒蔵も多く、佐倉、佐原(神崎)、勝浦、成田、酒々井、君津など県内各所に知る人ぞ知る酒蔵がいくつも有る様です。

銘酒として有名なのは香取市神崎町の「寺田本家」の「五人娘」だそうで、無農薬米に蔵付きの天然酵母で醸造された自然志向の日本酒です。水郷の佐原周辺には銘酒が多い様です。

ランキングを見つけたので参考までに

1位 五人娘  寺田本家   香取市神崎町
2位 木戸泉  木戸泉酒造  いすみ市大原
3位 仁勇  鍋店     香取市神崎町
4位 甲子正宗 飯沼本家   印旛郡酒々井
5位 むすひ  寺田本家   香取市神崎町
6位 腰古井  吉野酒造   勝浦市
7位 東薫  東薫     香取市佐原
8位 梅一輪  梅一輪    山武市
9位 不動   鍋店     香取市神崎町
10位 寿萬亀  亀田酒造   鴨川市

私も自転車で酒蔵の前を通る事は有るのですが、自転車なので飲む訳にも、酒瓶を運ぶ訳にもいかず、飲む機会は無いのですが・・。


<追記> その後、私も千葉の地酒の探求を重ね、上のランキングは相当に「バイアス」が掛かってる事を知りました。

極私的 千葉の酒アランキング


1位  「叶」 大吟醸 東薫酒蔵  佐原   兵庫県産の1等級の山田錦を35%まで磨いた大吟醸。火入れ酒で、この香、濃厚な味わい。値段は高いけれど、千葉県の地酒の間違い無く「横綱」です。


2位  「鳴海」 純米吟醸 生無濾過原酒  東灘酒蔵 勝浦   濃厚旨口の微発泡酒。「端麗辛口」ブーム以降、人気がイマイチな甘口の日本酒ですが、このトロリとした飲み口、そしてサラリとした後味は癖になります。都内の日本酒バーでも知る人ぞ知る千葉の秘蔵酒。

3位  「福祝」  純米吟醸 生無濾過原酒 藤平酒造  久留里  「名水」の街、久留里で人気が高まっている酒蔵。麻生財務大臣の晩酌のお酒の一つとか。普通に丁寧にお酒を醸造すると、普通以上に美味しくなる見本。水も良いのでしょう。いわゆる「農大系」の華やかなお酒ですが、バランスが良いのが特徴。(コストパパフォーマンスも高い)

4位  「飛鶴」 森酒蔵   久留里  地元でしか手に入らない幻にお酒。何故かと言えば生産量が少ないから・・・。どこが美味しいのか?・・・実は私も分かりません。普通の美味しく、料理を引き立ててくれる。最近流行の華やかな日本酒と正反対の、地味だけど「美味しい」日本酒。久留里にあって、水は上総掘りの硬水では無く、愛宕山からの清水を使用。


5位  「腰古井」 吉野酒造 勝浦 これも飛鶴と並び、普通に「本醸造」が旨い。カツオのタタキとか、ナメロウなど、青魚系と良く合います。

6位  「岩の井」 岩瀬酒造 御宿 「山廃仕込」の伝統で作られるお酒は、乳酸発酵によって酸味が立ちますが、そのバランスが絶妙。「本醸造」でも「純米酒」でも充分に美味しい。「古酒」がフランスのワインのコンテストのアダムスで賞を取っていますが、普通に「本醸造」で充分。


7位  「東塊盛」 本醸造  小泉酒造 内房君津のお酒。これも普通に美味しい。

8位  「五人娘」 純米   寺田本店 神崎(こうざき)  知る人ぞ知る「自然酒」の有名な酒蔵。病気をきっかけに「無農薬米」「蔵付き酵母」の酒造りを始めた先代の努力が実を結び、手間暇かけたお酒は、自然食ファンのみならず、日本酒ファンも納得の味わい。結構しっかりとしたお酒。この他に、「日本一マズイ日本酒」を自称する「むすび」は、発芽玄米の日本酒。ヌカとビールを混ぜた様な味は一度飲んだら忘れません。これが「日本酒のルーツ」なのかも知れません。寺田本店の天然酵母はパンの生地を発酵させた時の発酵力が違うと自然食界隈でも有名だとか。

9位  「不動」 吟醸生無濾過原酒 神崎(こうざき) 成田山の近くに本店は有りますが、醸造所は寺田本店と同じ水郷の神崎。発酵の街として有名です。メインのブランドは「仁勇」ですが、特別醸造の「不動」は農大系のお酒としてもレベルが高い。最近、味が上っている様に感じます。蔵の規模が大きいので、ランキングは下にしていますが、千葉の酒、ベスト3に充分入る実力。

10位 「最上白味醂」 味醂 馬場本店 佐原  東薫酒蔵の隣に位置する馬場本店。勝海舟も逗留した事のある酒蔵ですが、ここのイチオシは宮内庁御用達の「白味醂」。添加物一切無の味醂は、芳醇ですが、後味がさっぱりした甘さ。そのまま飲むと「リキュール」です。料理に使うと、家庭料理が料亭料理に早変わり。マジでスゴイです。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c338

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
339. 中川隆[-11584] koaQ7Jey 2020年8月30日 06:32:51 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[4]

2020/8/29
極私的 千葉のお酒ベスト10  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2631.html#comment
 
 久留里の名水の紹介記事に拍手コメントを頂きました。

名水って「まずい?!」・・・硬度と日本酒 人力でGO  2015/7/10
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html

その記事の最期にネットで見つけた「千葉のお酒ベスト10」を掲載していたのですが、その後の「研鑽」で、このランキングは私のランキングをかなりズレていると感じています。

そこで、改めて、私の飲んだ範囲での千葉の日本酒のランキングを発表したいと思います。尤も、思うところあって1か月禁酒を継続しています。飲みたい気持ちを、記事に叩きつけてグッと堪える・・・・。

実際にノンアルビールさえあれば問題無く禁酒出来ています。飲み会でもウーロン茶で下ネタ連発・・・。アルコールって要らないんじゃねぇ?っと思える今日この頃。でも、美味しい料理に美味しい日本酒は飲みたい・・・。


・・・ところで、「禁酒すると痩せる」というのデマだから。夕飯とかしかり食べてしまうからむしろ太る。体脂肪率は下がったけれど・・・体重は殆ど減りません。

極私的 「千葉の酒」ランキング


1位  「叶」 大吟醸 東薫酒蔵  佐原   兵庫県産の1等級の山田錦を35%まで磨いた大吟醸。火入れ酒で、この香、濃厚な味わい。値段は高いけれど、千葉県の地酒の間違い無く「横綱」です。


2位  「鳴海」 純米吟醸 生無濾過原酒  東灘酒蔵 勝浦   濃厚旨口の微発泡酒。「端麗辛口」ブーム以降、人気がイマイチな甘口の日本酒ですが、このトロリとした飲み口、そしてサラリとした後味は癖になります。都内の日本酒バーでも知る人ぞ知る千葉の秘蔵酒。

3位  「福祝」  純米吟醸 生無濾過原酒 藤平酒造  久留里  「名水」の街、久留里で人気が高まっている酒蔵。麻生財務大臣の晩酌のお酒の一つとか。普通に丁寧にお酒を醸造すると、普通以上に美味しくなる見本。水も良いのでしょう。いわゆる「農大系」の華やかなお酒ですが、バランスが良いのが特徴。(コストパパフォーマンスも高い)

4位  「飛鶴」 森酒蔵   久留里  地元でしか手に入らない幻にお酒。何故かと言えば生産量が少ないから・・・。どこが美味しいのか?・・・実は私も分かりません。普通の美味しく、料理を引き立ててくれる。最近流行の華やかな日本酒と正反対の、地味だけど「美味しい」日本酒。久留里にあって、水は上総掘りの硬水では無く、愛宕山からの清水を使用。


5位  「腰古井」 吉野酒造 勝浦 これも飛鶴と並び、普通に「本醸造」が旨い。カツオのタタキとか、ナメロウなど、青魚系と良く合います。

6位  「岩の井」 岩瀬酒造 御宿 「山廃仕込」の伝統で作られるお酒は、乳酸発酵によって酸味が立ちますが、そのバランスが絶妙。「本醸造」でも「純米酒」でも充分に美味しい。「古酒」がフランスのワインのコンテストのアダムスで賞を取っていますが、普通に「本醸造」で充分。


7位  「東塊盛」 本醸造  小泉酒造 内房君津のお酒。これも普通に美味しい。

8位  「五人娘」 純米   寺田本家 神崎(こうざき)  知る人ぞ知る「自然酒」の有名な酒蔵。病気をきっかけに「無農薬米」「蔵付き酵母」の酒造りを始めた先代の努力が実を結び、手間暇かけたお酒は、自然食ファンのみならず、日本酒ファンも納得の味わい。結構しっかりとしたお酒。この他に、「日本一マズイ日本酒」を自称する「むすび」は、発芽玄米の日本酒。ヌカとビールを混ぜた様な味は一度飲んだら忘れません。これが「日本酒のルーツ」なのかも知れません。寺田本家の天然酵母はパンの生地を発酵させた時の発酵力が違うと自然食界隈でも有名だとか。

9位  「不動」 吟醸生無濾過原酒 神崎(こうざき) 成田山の近くに本店は有りますが、醸造所は寺田本店と同じ水郷の神崎。発酵の街として有名です。メインのブランドは「仁勇」ですが、特別醸造の「不動」は農大系のお酒としてもレベルが高い。最近、味が上っている様に感じます。蔵の規模が大きいので、ランキングは下にしていますが、千葉の酒、ベスト3に充分入る実力。

10位 「最上白味醂」 味醂 馬場本店 佐原  東薫酒蔵の隣に位置する馬場本店。勝海舟も逗留した事のある酒蔵ですが、ここのイチオシは宮内庁御用達の「白味醂」。砂糖など添加物を一切使わない味醂は、芳醇ですが、後味がさっぱりした甘さ。そのまま飲むと「リキュール」です。料理に使うと、家庭料理が料亭料理に早変わり。マジでスゴイです。

千葉県の日本酒は殆ど無名ですが、実は県内に酒蔵が40軒程度も残っています。そのどれもが個性豊かで、魅力的なお酒です。生産量が少ないので、全国的には流通していませんが、ネットで簡単に取り寄せが出来る時代、カツオなど臭いの強い魚に合わせると外房の酒はベストマッチです。

「岩の井」や「腰古井」などはおオススメ。「飛鶴」は手に入らないでしょうから・・・。

<追記>

あれ、何か足りないと思ったら「甲子(きのえね)」を忘れていました。井戸から酒が涌き出したという伝説が伝わる「酒々井」の名酒蔵。5位以内のどこかにランキングするハズですが・・・忘れてた・・・。千葉県では現存する最も古い酒蔵です。

あと、「竹岡」もランキングすべきお酒。


鴨川の亀田酒造はイマイチの印象が有るのですが、ワイン酵母を使った日本酒は、アメリカ人のワイン通に飲ませたら「ドライシェリーみたいだ」と驚いて、早速写真をネットにアップしていました。これ、結構、面白いお酒でした。


同様に東灘酒蔵の白麹を使った「バージニティー」は、ワインの様な味わい。フランス料理などに合いそうです。


・・・・あーーーお酒が飲みたい!!

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2631.html#comment
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c339

[近代史4] 千葉県の名酒
千葉県の名酒


久留里の名水

2015/7/10
名水って「まずい?!」・・・硬度と日本酒  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html
 

■ 名水が美味しいとは限らない ■


先週の土曜日、降り続いた雨も午前中に小降りになったので魔改造MTBのラレー君で出動。養老渓谷まで往復しようかと思いましたが、晴れ間が見えて来たので調子に乗って鴨川まで足を延ばす事に。いつもは帰路に使う久留里街道に姉ヶ崎から入って逆コースで走ってみます。

江戸時代の城下町の雰囲気を良く残す久留里は「名水の街」としても有名です。江戸時代に渇水で悩まされた事を契機に、「上総掘り」の井戸がいくつも掘られ、地下400m以上の深さから井戸水が自噴しています。街の至る所に自噴井戸が有り、その量43t/日だそうで、まさに「名水の街」の名に相応しい。

本日はMTBで先を急ぐ訳では無いので、井戸水をゆっくり味わってみます。

・・・・マズイ・・・・

何?このドブの様な匂いは。それに結構水が硬い感じです。
名水って美味しいはずでは、私の味覚に異常があるのでしょうか?

有名な井戸では車でいらした方達が大きなポリタンクに水を何本も汲んでいます。こんなドブ臭い水をいったいどうするのでしょう・・・???

■ ドブ臭さ(硫黄臭)は一晩汲み置きすれば消える ■

実はこのドブ臭さの正体は「硫黄」だそうです。房総半島は海底堆積岩の地層ですが、この地層には海底に堆積した生物の死体も沢山含まれています。君津市の七里川温泉や鴨川市の白岩温泉は単純硫黄泉ですが、これらの堆積物由来の硫黄が含まれていて、火山性の硫黄泉と比べて湯質は柔らかで温泉マニアの評価も相当高い。

地下400mから自噴する久留里の井戸水にも、この硫黄が含まれておりそれがドブ臭さの原因となっているそうです。この硫黄臭、一晩汲み置きすればすっかり消えるそうで、水も「まろやか」な味わいになるとか。

■ 水の硬度 ■

海底堆積層を通過した久留里の井戸水はカルシウムやマグネシウムといったミネラルも豊富な中硬水です。多分硬度が150近辺かと思われます。

一般的には飲用にはミネラルがあまり含まれていない「軟水」が適していると言われています。市販のエヴィアンは硬度が300を超える硬水ですが、あれを美味しいと感じる人はコマーシャリズムに毒された人でしょう。痩せると一時期人気のあったコントレックスの硬度は何と1500。あれをガブガブに飲める人を私は尊敬します。ちなみに、日本人の好きな「南アルプス天然水」の硬度は30程度です。外国産だとボルビックが60程度。

飲み水の元となる雨水は蒸留水なので硬度は0です。雨水が山などに降り、表層を伝わって沢になり河川となりますが、この表層水はミネラルがあまり溶け込まないので軟水となります。

ヨーロッパなどは河川が長いので、ミネラルが溶け込む量も増え硬水となります。日本の水道水ではでは千葉県などは硬度が高めで、これは利根川や江戸川など長い河川から取水している影響でしょう。

鴨川に住む娘のアパートの水も結構硬いなと調べてみたら、表層水ながら硬度が130もありました。

■ 酒造には硬水が適している ■

クリックすると元のサイズで表示します

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飲用としてはあまり美味しいとは言えない硬水や中硬水ですが、酒造りには最適の水です。水に溶け込んだミネラルが酵母の成長を促進させしっかりとした発酵を促すからです。日本一の酒所、兵庫県の灘地方も硬水です。

一方、新潟などは硬度2などという超軟水で実は酒造には向いていませんでした。酵母発酵の段階で雑菌が繁殖してしまい腐酒になる事も。その為、江戸時代の文献には「酵母発酵を促す為に海水を加えると良い」という記述も有る様です。

硬水で仕込んだ日本酒は発酵がしっかりと促進する為に味が濃厚に成り易く、一方、軟水で仕込んだ日本酒は淡麗な味わいになる傾向が有る様です。昨今の食生活の変化で、日本人はさっぱりした味わいの日本酒を好む様になり、新潟などの淡麗系の日本酒の人気が高まります。新潟の酒蔵も、軟水を生かした酒造りを探求して品質を向上させました。(白瀧酒造の「上善如水」なんて水じゃん!?って感じてしまうのですが・・・ゴメンナサイ)

さて中硬水の久留里はと言うと、城下町という事も有り酒蔵が沢山有ります。吉崎酒造の「吉壽 」などが有名でしょうか。

■ 隠れた名酒が多い千葉県 ■

酒所としてはほとんど無名で、全国区の銘酒が無い千葉県ですが、歴史の長い酒蔵も多く、佐倉、佐原(神崎)、勝浦、成田、酒々井、君津など県内各所に知る人ぞ知る酒蔵がいくつも有る様です。

銘酒として有名なのは香取市神崎町の「寺田本家」の「五人娘」だそうで、無農薬米に蔵付きの天然酵母で醸造された自然志向の日本酒です。水郷の佐原周辺には銘酒が多い様です。

ランキングを見つけたので参考までに

1位 五人娘  寺田本家   香取市神崎町
2位 木戸泉  木戸泉酒造  いすみ市大原
3位 仁勇  鍋店     香取市神崎町
4位 甲子正宗 飯沼本家   印旛郡酒々井
5位 むすひ  寺田本家   香取市神崎町
6位 腰古井  吉野酒造   勝浦市
7位 東薫  東薫     香取市佐原
8位 梅一輪  梅一輪    山武市
9位 不動   鍋店     香取市神崎町
10位 寿萬亀  亀田酒造   鴨川市

私も自転車で酒蔵の前を通る事は有るのですが、自転車なので飲む訳にも、酒瓶を運ぶ訳にもいかず、飲む機会は無いのですが・・。


<追記> その後、私も千葉の地酒の探求を重ね、上のランキングは相当に「バイアス」が掛かってる事を知りました。

極私的 千葉の酒アランキング


1位  「叶」 大吟醸 東薫酒蔵  佐原   兵庫県産の1等級の山田錦を35%まで磨いた大吟醸。火入れ酒で、この香、濃厚な味わい。値段は高いけれど、千葉県の地酒の間違い無く「横綱」です。


2位  「鳴海」 純米吟醸 生無濾過原酒  東灘酒蔵 勝浦   濃厚旨口の微発泡酒。「端麗辛口」ブーム以降、人気がイマイチな甘口の日本酒ですが、このトロリとした飲み口、そしてサラリとした後味は癖になります。都内の日本酒バーでも知る人ぞ知る千葉の秘蔵酒。

3位  「福祝」  純米吟醸 生無濾過原酒 藤平酒造  久留里  「名水」の街、久留里で人気が高まっている酒蔵。麻生財務大臣の晩酌のお酒の一つとか。普通に丁寧にお酒を醸造すると、普通以上に美味しくなる見本。水も良いのでしょう。いわゆる「農大系」の華やかなお酒ですが、バランスが良いのが特徴。(コストパパフォーマンスも高い)

4位  「飛鶴」 森酒蔵   久留里  地元でしか手に入らない幻にお酒。何故かと言えば生産量が少ないから・・・。どこが美味しいのか?・・・実は私も分かりません。普通の美味しく、料理を引き立ててくれる。最近流行の華やかな日本酒と正反対の、地味だけど「美味しい」日本酒。久留里にあって、水は上総掘りの硬水では無く、愛宕山からの清水を使用。


5位  「腰古井」 吉野酒造 勝浦 これも飛鶴と並び、普通に「本醸造」が旨い。カツオのタタキとか、ナメロウなど、青魚系と良く合います。

6位  「岩の井」 岩瀬酒造 御宿 「山廃仕込」の伝統で作られるお酒は、乳酸発酵によって酸味が立ちますが、そのバランスが絶妙。「本醸造」でも「純米酒」でも充分に美味しい。「古酒」がフランスのワインのコンテストのアダムスで賞を取っていますが、普通に「本醸造」で充分。


7位  「東塊盛」 本醸造  小泉酒造 内房君津のお酒。これも普通に美味しい。

8位  「五人娘」 純米   寺田本店 神崎(こうざき)  知る人ぞ知る「自然酒」の有名な酒蔵。病気をきっかけに「無農薬米」「蔵付き酵母」の酒造りを始めた先代の努力が実を結び、手間暇かけたお酒は、自然食ファンのみならず、日本酒ファンも納得の味わい。結構しっかりとしたお酒。この他に、「日本一マズイ日本酒」を自称する「むすび」は、発芽玄米の日本酒。ヌカとビールを混ぜた様な味は一度飲んだら忘れません。これが「日本酒のルーツ」なのかも知れません。寺田本店の天然酵母はパンの生地を発酵させた時の発酵力が違うと自然食界隈でも有名だとか。

9位  「不動」 吟醸生無濾過原酒 神崎(こうざき) 成田山の近くに本店は有りますが、醸造所は寺田本店と同じ水郷の神崎。発酵の街として有名です。メインのブランドは「仁勇」ですが、特別醸造の「不動」は農大系のお酒としてもレベルが高い。最近、味が上っている様に感じます。蔵の規模が大きいので、ランキングは下にしていますが、千葉の酒、ベスト3に充分入る実力。

10位 「最上白味醂」 味醂 馬場本店 佐原  東薫酒蔵の隣に位置する馬場本店。勝海舟も逗留した事のある酒蔵ですが、ここのイチオシは宮内庁御用達の「白味醂」。添加物一切無の味醂は、芳醇ですが、後味がさっぱりした甘さ。そのまま飲むと「リキュール」です。料理に使うと、家庭料理が料亭料理に早変わり。マジでスゴイです。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html


▲△▽▼

2020/8/29
極私的 千葉のお酒ベスト10  
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2631.html#comment
 
 久留里の名水の紹介記事に拍手コメントを頂きました。
名水って「まずい?!」・・・硬度と日本酒 人力でGO  2015/7/10
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html

その記事の最期にネットで見つけた「千葉のお酒ベスト10」を掲載していたのですが、その後の「研鑽」で、このランキングは私のランキングをかなりズレていると感じています。

そこで、改めて、私の飲んだ範囲での千葉の日本酒のランキングを発表したいと思います。尤も、思うところあって1か月禁酒を継続しています。飲みたい気持ちを、記事に叩きつけてグッと堪える・・・・。

実際にノンアルビールさえあれば問題無く禁酒出来ています。飲み会でもウーロン茶で下ネタ連発・・・。アルコールって要らないんじゃねぇ?っと思える今日この頃。でも、美味しい料理に美味しい日本酒は飲みたい・・・。


・・・ところで、「禁酒すると痩せる」というのデマだから。夕飯とかしかり食べてしまうからむしろ太る。体脂肪率は下がったけれど・・・体重は殆ど減りません。

極私的 「千葉の酒」ランキング


1位  「叶」 大吟醸 東薫酒蔵  佐原   兵庫県産の1等級の山田錦を35%まで磨いた大吟醸。火入れ酒で、この香、濃厚な味わい。値段は高いけれど、千葉県の地酒の間違い無く「横綱」です。


2位  「鳴海」 純米吟醸 生無濾過原酒  東灘酒蔵 勝浦   濃厚旨口の微発泡酒。「端麗辛口」ブーム以降、人気がイマイチな甘口の日本酒ですが、このトロリとした飲み口、そしてサラリとした後味は癖になります。都内の日本酒バーでも知る人ぞ知る千葉の秘蔵酒。

3位  「福祝」  純米吟醸 生無濾過原酒 藤平酒造  久留里  「名水」の街、久留里で人気が高まっている酒蔵。麻生財務大臣の晩酌のお酒の一つとか。普通に丁寧にお酒を醸造すると、普通以上に美味しくなる見本。水も良いのでしょう。いわゆる「農大系」の華やかなお酒ですが、バランスが良いのが特徴。(コストパパフォーマンスも高い)

4位  「飛鶴」 森酒蔵   久留里  地元でしか手に入らない幻にお酒。何故かと言えば生産量が少ないから・・・。どこが美味しいのか?・・・実は私も分かりません。普通の美味しく、料理を引き立ててくれる。最近流行の華やかな日本酒と正反対の、地味だけど「美味しい」日本酒。久留里にあって、水は上総掘りの硬水では無く、愛宕山からの清水を使用。


5位  「腰古井」 吉野酒造 勝浦 これも飛鶴と並び、普通に「本醸造」が旨い。カツオのタタキとか、ナメロウなど、青魚系と良く合います。

6位  「岩の井」 岩瀬酒造 御宿 「山廃仕込」の伝統で作られるお酒は、乳酸発酵によって酸味が立ちますが、そのバランスが絶妙。「本醸造」でも「純米酒」でも充分に美味しい。「古酒」がフランスのワインのコンテストのアダムスで賞を取っていますが、普通に「本醸造」で充分。


7位  「東塊盛」 本醸造  小泉酒造 内房君津のお酒。これも普通に美味しい。

8位  「五人娘」 純米   寺田本家 神崎(こうざき)  知る人ぞ知る「自然酒」の有名な酒蔵。病気をきっかけに「無農薬米」「蔵付き酵母」の酒造りを始めた先代の努力が実を結び、手間暇かけたお酒は、自然食ファンのみならず、日本酒ファンも納得の味わい。結構しっかりとしたお酒。この他に、「日本一マズイ日本酒」を自称する「むすび」は、発芽玄米の日本酒。ヌカとビールを混ぜた様な味は一度飲んだら忘れません。これが「日本酒のルーツ」なのかも知れません。寺田本家の天然酵母はパンの生地を発酵させた時の発酵力が違うと自然食界隈でも有名だとか。

9位  「不動」 吟醸生無濾過原酒 神崎(こうざき) 成田山の近くに本店は有りますが、醸造所は寺田本店と同じ水郷の神崎。発酵の街として有名です。メインのブランドは「仁勇」ですが、特別醸造の「不動」は農大系のお酒としてもレベルが高い。最近、味が上っている様に感じます。蔵の規模が大きいので、ランキングは下にしていますが、千葉の酒、ベスト3に充分入る実力。

10位 「最上白味醂」 味醂 馬場本店 佐原  東薫酒蔵の隣に位置する馬場本店。勝海舟も逗留した事のある酒蔵ですが、ここのイチオシは宮内庁御用達の「白味醂」。砂糖など添加物を一切使わない味醂は、芳醇ですが、後味がさっぱりした甘さ。そのまま飲むと「リキュール」です。料理に使うと、家庭料理が料亭料理に早変わり。マジでスゴイです。

千葉県の日本酒は殆ど無名ですが、実は県内に酒蔵が40軒程度も残っています。そのどれもが個性豊かで、魅力的なお酒です。生産量が少ないので、全国的には流通していませんが、ネットで簡単に取り寄せが出来る時代、カツオなど臭いの強い魚に合わせると外房の酒はベストマッチです。

「岩の井」や「腰古井」などはおオススメ。「飛鶴」は手に入らないでしょうから・・・。

<追記>

あれ、何か足りないと思ったら「甲子(きのえね)」を忘れていました。井戸から酒が涌き出したという伝説が伝わる「酒々井」の名酒蔵。5位以内のどこかにランキングするハズですが・・・忘れてた・・・。千葉県では現存する最も古い酒蔵です。

あと、「竹岡」もランキングすべきお酒。


鴨川の亀田酒造はイマイチの印象が有るのですが、ワイン酵母を使った日本酒は、アメリカ人のワイン通に飲ませたら「ドライシェリーみたいだ」と驚いて、早速写真をネットにアップしていました。これ、結構、面白いお酒でした。


同様に東灘酒蔵の白麹を使った「バージニティー」は、ワインの様な味わい。フランス料理などに合いそうです。


・・・・あーーーお酒が飲みたい!!

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2631.html#comment
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1013.html

[近代史4] 千葉県の名酒 中川隆
1. 中川隆[-11583] koaQ7Jey 2020年8月30日 08:36:26 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[6]
大吟醸 叶 | 商品紹介 | 東薫酒造株式会社(とうくんしゅぞう)
http://www.tokun.co.jp/%E5%A4%A7%E5%90%9F%E9%86%B8%E3%80%80%E5%8F%B6/


東薫 大吟醸 叶/大箱入 1800ml【東薫酒造直送】 〜美酒探求!千葉の酒街道〜日本酒通販
https://www.kamata-nomoukai.com/item/370102/


【東薫酒造直送】東薫 大吟醸 叶/大箱入 1800ml
【平成27年/26醸造年度 全国新酒鑑評会金賞受賞酒】

東薫 大吟醸 叶数々の鑑評会で受賞の栄誉に輝く、千葉県はもとより全国を代表する孤高の名酒。
デリシャスりんごのような心地よい香り。
スムーズかつ艶やかな飲み口。それでいて濃厚なエキス分を残す深い味わい。
長い余韻と、スーッと溶けて消える様な後ギレの良さ・・・
どこをとっても名酒の名に恥じないものである。

南部杜氏会最高顧問も歴任した「及川杜氏」、渾身の一滴!

原料米/山田錦
精米歩合/40%以下
アルコール度/17度
日本酒度/+6
酸度/1.2
容量:1800ml/化粧箱/大箱入(配送カートン不要)
1箱6本入/1梱包6本まで発送可能


【東薫酒造直送】東薫 大吟醸 叶/大箱入 1800ml
販売価格:11,000円(税込)


この商品は『東薫酒造』より直送いたします。
他の蔵元、当店出荷商品と同送できません。
ご注文時には別途送料等必要となります。

生酒、要冷蔵品は『クール便』でお届けいたします。
お荷物・1個口につき[クール代金/250〜350円]が自動加算されます。

[ご購入に当たって]
当店では安全に商品をお届けするため、ビン物商品(500〜1800ml)をご購入の際
お買い上げ数が1〜3本の場合、「配送カートン」等に入れて発送しています。
お買い上げ数に合わせて、下記より[配送カートン]をご購入下さい。

※4本以上の場合は、「6本入り段ボール(リユース箱含む)で発送いたします。
「ギフト」にご利用の場合は、お気を付け下さい。
※宅配カートン(大箱)入りの商品は必要ありません。

ご購入数 1本 2本 3本 4本以上
金額 160円 250円 390円 無料



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1013.html#c1

[近代史4] 千葉県の名酒 中川隆
2. 中川隆[-11582] koaQ7Jey 2020年8月30日 08:41:54 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[7]
鳴海(なるか)|東灘酒造[千葉県]
【東灘醸造株式会社】 千葉県勝浦市串浜1033
千葉県のお酒で「鳴海」と書いて「なるか」と言います。
創業は慶応3年、南房総の漁港基地・勝浦にあり生産量300石程度の小さな蔵元。

全量手造りによる丁寧な造りを行っています。海の幸の肴にあう淡麗な酒質が身上としています。

地元では「東灘・あずまなだ」という名で数種類のお酒を販売されていますが、「鳴海」は地酒専門店向けに直詰め生酒を主に出荷されています。爽やかで瑞々しい味わいが楽しめるお酒です。

鳴海 純米吟醸 雄町 直詰め生(赤) 1.8L
販売価格: 3,000円(税別)

(税込価格: 3,300円)

クール便(冷蔵): 300円がかかります
在庫あり


◆蔵元(杜氏 中島)より
『やさしい甘さ、あつみがあり滑らかな味わい』
酒の輪郭はハッキリとし、甘味、酸味を感じます。また豊かな口中香は余韻に華を咲かせます。チーズやオリーブオイル、トマトソース、ベシャメルソースなどを使用する洋食との相性が良く、半年以上熟成すると和食や中華料理との相性もよくなると予想します。

◎試飲しました(2020.2.3)
フレッシュでやや甘やかな香り、カリンやバナナを思わす。含むと微かにガス感を感じ、上品な甘みと爽やかな酸味がジューシーに口中に広がる。キレも良く、後口はわずかな苦味と酸で、キュッと引き締まる。甘くジューシーな味わいとキレの良さのバランスがとても良い。


商品仕様
原料米 岡山県産雄町
精米歩合 55%
日本酒度 −4
酸 度 1.4
Alc. 16度
酒造年度(BY) 令和1BY(2019BY)
https://www.abetaya.com/product/758
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1013.html#c2

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
340. 中川隆[-11581] koaQ7Jey 2020年8月30日 08:43:18 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[8]
大吟醸 叶 | 商品紹介 | 東薫酒造株式会社(とうくんしゅぞう)
http://www.tokun.co.jp/%E5%A4%A7%E5%90%9F%E9%86%B8%E3%80%80%E5%8F%B6/

東薫 大吟醸 叶/大箱入 1800ml【東薫酒造直送】 〜美酒探求!千葉の酒街道〜日本酒通販
https://www.kamata-nomoukai.com/item/370102/


【東薫酒造直送】東薫 大吟醸 叶/大箱入 1800ml
【平成27年/26醸造年度 全国新酒鑑評会金賞受賞酒】

東薫 大吟醸 叶数々の鑑評会で受賞の栄誉に輝く、千葉県はもとより全国を代表する孤高の名酒。
デリシャスりんごのような心地よい香り。
スムーズかつ艶やかな飲み口。それでいて濃厚なエキス分を残す深い味わい。
長い余韻と、スーッと溶けて消える様な後ギレの良さ・・・
どこをとっても名酒の名に恥じないものである。

南部杜氏会最高顧問も歴任した「及川杜氏」、渾身の一滴!
原料米/山田錦
精米歩合/40%以下
アルコール度/17度
日本酒度/+6
酸度/1.2
容量:1800ml/化粧箱/大箱入(配送カートン不要)
1箱6本入/1梱包6本まで発送可能


【東薫酒造直送】東薫 大吟醸 叶/大箱入 1800ml
販売価格:11,000円(税込)


この商品は『東薫酒造』より直送いたします。
他の蔵元、当店出荷商品と同送できません。
ご注文時には別途送料等必要となります。

生酒、要冷蔵品は『クール便』でお届けいたします。
お荷物・1個口につき[クール代金/250〜350円]が自動加算されます。

[ご購入に当たって]
当店では安全に商品をお届けするため、ビン物商品(500〜1800ml)をご購入の際
お買い上げ数が1〜3本の場合、「配送カートン」等に入れて発送しています。
お買い上げ数に合わせて、下記より[配送カートン]をご購入下さい。

※4本以上の場合は、「6本入り段ボール(リユース箱含む)で発送いたします。
「ギフト」にご利用の場合は、お気を付け下さい。
※宅配カートン(大箱)入りの商品は必要ありません。

ご購入数 1本 2本 3本 4本以上
金額 160円 250円 390円 無料

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鳴海(なるか)|東灘酒造[千葉県]
【東灘醸造株式会社】 千葉県勝浦市串浜1033
千葉県のお酒で「鳴海」と書いて「なるか」と言います。
創業は慶応3年、南房総の漁港基地・勝浦にあり生産量300石程度の小さな蔵元。
全量手造りによる丁寧な造りを行っています。海の幸の肴にあう淡麗な酒質が身上としています。

地元では「東灘・あずまなだ」という名で数種類のお酒を販売されていますが、「鳴海」は地酒専門店向けに直詰め生酒を主に出荷されています。爽やかで瑞々しい味わいが楽しめるお酒です。

鳴海 純米吟醸 雄町 直詰め生(赤) 1.8L
販売価格: 3,000円(税別)

(税込価格: 3,300円)

クール便(冷蔵): 300円がかかります
在庫あり


◆蔵元(杜氏 中島)より
『やさしい甘さ、あつみがあり滑らかな味わい』
酒の輪郭はハッキリとし、甘味、酸味を感じます。また豊かな口中香は余韻に華を咲かせます。チーズやオリーブオイル、トマトソース、ベシャメルソースなどを使用する洋食との相性が良く、半年以上熟成すると和食や中華料理との相性もよくなると予想します。

◎試飲しました(2020.2.3)
フレッシュでやや甘やかな香り、カリンやバナナを思わす。含むと微かにガス感を感じ、上品な甘みと爽やかな酸味がジューシーに口中に広がる。キレも良く、後口はわずかな苦味と酸で、キュッと引き締まる。甘くジューシーな味わいとキレの良さのバランスがとても良い。


商品仕様
原料米 岡山県産雄町
精米歩合 55%
日本酒度 −4
酸 度 1.4
Alc. 16度
酒造年度(BY) 令和1BY(2019BY)
https://www.abetaya.com/product/758
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c340

[番外地8] DNA鑑定しない限り皇位継承の正当性の議論は意味無いよ: 明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった

DNA鑑定しない限り皇位継承の正当性の議論は意味無いよ:
明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)

大室寅之佑 (00:03:48)

明治天皇の秘密 (00:03:55)

大正天皇には、子種がない(00:18:39)

西園寺八郎 (00:19:26)

昭和天皇の秘密 (00:21:34)

昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)


鈴木さん
それ見たけど、証拠ひとつもないやんw

77 7
@鈴木さん
鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているだけだよ

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1

こういう話もあるけどタブーになってるね:

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁している理由

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w

鈴木さん
@77 7
本を書いてるから本当?随分都合の良い解釈だね。
それに何故あの人にわかるのか?あの人は明治天皇の主治医ですか?信じるだけの証拠と根拠を示して頂きたい。

鈴木さん
@77 7
その本に書いてあろう証拠を一つでも言えばよかったのに、馬鹿だね。

鈴木さん
@77 7
なんの証拠もない妄想動画は要りませんから。

77 7
@鈴木さん
鬼塚さんの本はみんな超有名で知らぬ人はいないんだよ
恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/573.html

続・: 恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/575.html

「原爆の秘密(国外篇)----殺人兵器と狂気の錬金術」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊

という本をもとに記しています。それは‘昭和天皇は原爆が落とされるのを事前に知っていた’という驚愕な事実についてです。つまり昭和天皇はその事実を知っていて日本国民には知らせなかった、すなわち広島、長崎の人たちを見殺しにした、ということです。

(前略)白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」(2007年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・と入ってきたんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと2〜3日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が9日か10日だと言っていました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」

これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。

もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・。」

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述原爆8している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥のなかから誕生した昭和通商と結ぶつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑問を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で(私の注:アメリカの)陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。徳本栄一郎「英国機密ファイルの昭和天皇」(2007年)には次なる記述がある。

「1985年、彼(白洲次郎)は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨のあるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した‘密使’であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の‘エージェント’としての顔だ。」

白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループ(私の注:戦前の吉田茂反戦グループの略称。実際は裏で戦争を推進していた)に流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、禎明皇太后と同じクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け・・・」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。

父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムント・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざる状況が生じたのである。

白洲は日本水産から帝国水産に移動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。

私は前著「日本のいちばん醜い日」でヨハンセン・グループについて詳述した。その中で、外務省編「終戦史録(5)」の中に掲載されている「大井篤手記---天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を原爆13終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は(私の注:アメリカの軍事会議の)「目標管理委員会初回会議覚書」(1945年4月27日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

「彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報が---その真実性が私には判りませんが---入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジッとしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐ろしいものではないと信じられておりました。」

後述するが、原爆の情報は皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その心因を追求し続けねばならない。

(引用終わり)

戦前から、引用文にあるウォーバーグ財閥のエージェントであった白洲次郎という、元々は一般人だった人物がいました。この白洲は父親が確か服の卸しの小さな会社を経営していました。この会社が倒産し、イギリスにその当時留学していた白洲次郎は貧乏のどん底に落とされます。そんな白洲に、ロスチャイルド一族であるアメリカのシフ家の血族にあたるウォーバーグ財閥に目をつけられ、広島、長崎への原爆投下計画のためのエージェントにされる。ちなみに、このシフ家のジェイコブ・シフは日露戦争において、ときの蔵相であった高橋是清に戦争資金を調達した人物になります。戦争が起こるときにはロスチャイルドが影にいる、ということを思わせます。

この白洲はヨハンセン・グループという本当は、アメリカの国務次官であったジョセフ・グルーが操っていたグループと繋がっていた。そしてアメリカやイギリスの情報を流し、逆もやっていた。建前の‘反戦’ではなく、戦争推進という目的のために。

さらに白洲は皇室とも繋がっていて、皇室に広島、長崎への原爆投下の情報を流していた。だから皇太后は原爆投下を恐れおののいていた。

だが、原爆は東京には落とされず、広島と長崎に落とされた。それはこの引用文には書いてありませんが、昭和天皇は、原爆投下計画の真の張本人と、鬼塚氏がするアメリカのスティムソン陸軍長官側と密約ができていて、アメリカ側が「無条件降伏を要求するが皇室の地位は戦後も保持させ、東京には原爆を落とさない」とされていた。だから広島と長崎に原爆が落とされた、と著者の鬼塚氏は膨大な資料の検証のもとに、推測として書いています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/298.html

[番外地8] 南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 中川隆
1. 中川隆[-11580] koaQ7Jey 2020年8月30日 10:39:31 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[15]
日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少

 吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/215.html#c1

[近代史5] エジプト人の起源
エジプト人の起源


雑記帳 2017年06月02日
古代エジプト人のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201706/article_2.html

 これは6月2日分の記事として掲載しておきます。古代エジプト人のDNA解析結果を報告した研究(Schuenemann et al., 2017)が報道されました。この研究は、古代エジプト人のDNAを解析し、古代の西アジアやヨーロッパの住民およびエジプトも含む現代の各地域の住民のDNAと比較しています。この研究が解析したのは、カイロよりもナイル川上流に位置するアブシールエルメレク(Abusir-el Meleq)遺跡で発見されたミイラのDNAです。アブシールエルメレク遺跡では、少なくとも紀元前3250年〜紀元後700年まで人間が居住していました。この研究で分析対象となったミイラは、較正年代で紀元前1388年〜紀元後426年となります。

 エジプトのミイラのDNA解析で問題となるのは、エジプトの高温な気候・墓の高湿度・ミイラ製作のさいの化学的処理(とくに炭酸ナトリウムの使用)です。これらの要因により、信頼性の高いデータを得るのが困難となっています。この研究は、新たな塩基配列決定技術により、こうした問題を克服する可能性を提示しています。この研究は、こうした新技術の使用により、信頼のできる人間のDNAデータとして、mtDNAが90人分、ゲノム規模で男性3人分が得られた、と報告しています。

 これらのデータを現代エジプト人や他地域の古代人および現代人と比較した結果、興味深いことが明らかになりました。古代エジプト人と遺伝的に最も類似していたのは新石器時代のレヴァント人でした。古代エジプト人と新石器時代のアナトリア・ヨーロッパの住民との遺伝的類似性も指摘されています。古代エジプト人と現代エジプト人との比較では、前者よりも後者の方が、サハラ砂漠以南のアフリカ人との遺伝的類似性が高いことも明らかになっています。この要因として、紀元後400年以降に、エジプトとサハラ砂漠以南のアフリカとの長距離交易が増加したことと、1300年ほど前に始まった奴隷貿易が想定されています。

 また、1000年以上の期間、古代エジプト人の遺伝的構成があまり変わらなかったことも明らかになりました。この間、エジプトはアッシリア・マケドニア・ローマといった域外勢力の支配を受けました。しかし、とくにマケドニアとローマの支配において、域外勢力の支配層がエジプトの北西デルタ地帯に集中していたため、アブシールエルメレク遺跡一帯では域外勢力の支配層の遺伝的影響があまり及ばなかったのではないか、と推測されています。これと関連しますが、この研究は、分析対象とした古代エジプト人のDNAデータは1ヶ所の遺跡から得られており、古代エジプト人全体を代表するものではない可能性もある、と注意を喚起しています。今後、エジプトのミイラのDNA解析例が増加し、さらに研究が進展するのではなないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝】古代エジプト人のミイラのゲノム解析

 複数体の古代のミイラから採取されたDNA試料の解析が行われ、古代エジプト人の遺伝的組成が明らかになったことを報告する論文が掲載される。これらのDNA試料の年代は約1,300年間にわたっており、現代のエジプト人よりも古代エジプト人の方が近東人と共通の起源を多く有していたことが示唆されている。

 古代地中海世界の大陸が出会う地点に位置するエジプトは、紀元前第1千年紀以降長きにわたって他の重要なアフリカ、アジア、ヨーロッパの文化との交流があった。この地域でのヒトの移動と動きの記録は、詳細な考古学調査によって明らかになっているが、古代人の遺骨から採取されたDNAを用いた遺伝学的研究は、その遺骨の保存状態が悪いために難しい課題となっていた。

 この論文の中で、Johannes Krauseたちの研究グループは、エジプト中部のアブシール・エル・メレク遺跡から出土した3体のミイラ(それぞれプトレミー時代以前、プトレミー時代、ローマ時代のものとされる)に由来するゲノムワイドのデータセットだけでなく、ミトコンドリアゲノム(90件)を新たに調べた結果を示している。そこで分かったのは、古代エジプト人と近東人(西アジアと中東に居住する人々)との遺伝的類似性が高いということで、現代のエジプト人に見られるサハラ以南の人々の遺伝的要素は、最近加わったものであることも明らかになった。ただし、この遺伝的データがエジプト中部の単一の遺跡から得られたものであり、古代エジプト全体を代表していない可能性のあることをKrauseたちは指摘している。

 今回の研究は、古代エジプト人のミイラのDNA解析として初めてのものではないが、Krauseたちは、今回の研究で最新の塩基配列決定技術が用いられ、それによって取得されたデータの起源が古代のものであることを確認するための信ぴょう性評価が行われたことから、初めて信頼性の高いデータセットが得られたという見方を示している。今回の発見で、エジプト人集団の複雑な歴史の直接的な解明へ道が開かれた。


参考文献:
Schuenemann VJ. et al.(2017): Ancient Egyptian mummy genomes suggest an increase of Sub-Saharan African ancestry in post-Roman periods. Nature Communications, 8, 15694.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms15694

https://sicambre.at.webry.info/201706/article_2.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/282.html

[番外地8] )日本のメディアを支配する“フランクフルト学派”の恐怖(つくる会元会長・田中英道)
【トンデモ】日本のメディアを支配する“フランクフルト学派”の恐怖(つくる会元会長・田中英道)

田中氏は、「日本のメディアを支配する“隠れマルクス主義”フランクフルト学派とは」(『正論』373号, 2003.8)のなかで、そのタイトルの通り、フランクフルト学派陰謀説を主張しています。

このフランクフルト学派とは、Wikipediaによれば「マルクス主義を進化させ、これにヘーゲルの弁証法とフロイトの精神分析理論の融合を試みた、批判理論によって啓蒙主義を批判する社会理論や哲学を研究したグループ」という、なんだかよく解らない左翼系の集団なのですが、戦前・戦中にこの学派の人がコミンテルン関係者であったり、OSS(戦略諜報局、現在のCIAに相当)の関係者であったりしたため、しばしば諜報や謀略の背景として取り上げられることがあります。

もちろんこのような歴史的背景がありますから、「コミンテルンのスパイの一人がフランクフルト学派にかつて属していた」とか語るなら全く問題ありません。ただそれだけの話です。しかし陰謀論者である田中氏が語り出すと、ともかく話が大きくなる。なんと「日本のメディアを支配する“隠れマルクス主義”フランクフルト学派」というのですから驚きです。

私怨からフランクフルト学派陰謀論への展開

ところで、西洋美術史が専門のはずの田中氏が、どうしてフランクフルト学派陰謀論を思いつくことができたのでしょうか? 実はその経緯が論文冒頭に説かれているのですが、本当にこれが酷い。

まず、田中氏がベルリン大学から「日本の歴史学」の講師として招聘されていたにもかかわらず、「つくる会」の会長だったということで、土壇場で断られてしまうエピソードから始まります。


ところがこの招聘は撤回されてしまった。それは私が「つくる会」の会長をしているから、という理由であった。……
私はこの撤回が、およそ天下のベルリン大学たるものにふさわしくない、と思ったが、未だこの大学には、東ドイツのマルキストが残っているようで、それを気にしたのだな、とその時は考えた。

断られた途端、マルキスト陰謀論ですか (;゚Д゚)

この田中氏の想像力にも驚かされますが、そもそも「つくる会」は歴史修正主義者の集団です。よってホロコースト否定論などの歴史修正主義が禁止されているドイツにしてみれば、「つくる会」会長の田中氏を招聘して歴史を語らせることなど、思想の左右を問わず避けたいのは当然でしょう。

さらに田中氏の想像力は加速し、フランクフルト学派陰謀論が爆誕します。

日本の歴史学講義の依頼の撤回が、単に教授一人の臆病さだけによるものでないことがわかった。というのも、私の日本の文化史講義が、もともとフランクフルト大学の教授がやるはずであり、それが断られたので、私の方にお鉢が回って来た、という経緯があったらしい。その教授の代わりに私を招くということが知られた途端に、反対の声があがったというのだ。その教授が猛反対したばかりでなく、その声が大学理事会において多数を占め、私の講義は中止になった、という。……


その教授のいるフランクフルト大学の名で思い起こされたのが、フランクフルト学派のことであった。マルクス主義学派の牙城である。その教授がどのような思想の持ち主か直接知らなかったが、この学派の影響がドイツでは強いことは知っていた。

ナニヲイッテイルンダ???


と大多数の人は思われるでしょうが、ごもっとも。全く非論理的な想像力からフランクフルト学派陰謀論が導かれているのは明瞭でしょう。まず田中氏の主観的思い込みを除いた状況をまとめると、
1田中氏が依頼を受けた「日本の歴史学」の講義は、もともとフランクフルト大学の某教授が担当するはずであった。しかし何らかの理由でそのフランクフルト大学の某教授はその講義が持てなくなり、結果、田中氏に講義の依頼がまわってきた。
2しかし、田中氏招聘を知ったフランクフルト大学の某教授は、田中氏が「つくる会」会長であることを理由に、これに猛烈に反対した。その後、大学理事会も招聘の中止を決議した。

という事件が起こっただけなのです。にもかかわらず田中氏の主観が入ると、単に招聘に反対した教授がフランクフルト大学所属であったというだけで「今回の招聘中止の背景には、隠れマルクス主義者であるフランクフルト学派の強い影響がドイツに残っていたから」という陰謀論になってしまうのです。

フランクフルト学派の雑な定義

フランクフルト大学の教授から講義招聘の反対を受けただけで、フランクフルト学派の陰謀に気が付いてしまうほど鋭い田中氏の直感には感服せざるを得ません。

もちろんフランクフルト学派の関係者が、アメリカ政府内にいたというだけで、日本国憲法はフランクフルト学派の影響を受けていると断言されます。


アメリカに移ったフランクフルト学派の影響がそれより古くアメリカ政府のなかにも入り込んでおり、それが既に日本の戦後の憲法制作にも影響を与えている、というのだから、問題はかなり深刻である。

さらに今日におけるフランクフルト学派の概要をつぎのようにザックリ説明して、新左翼はすべてフランクフルト学派の亜種であると断言します。

だいたい全共闘世代や団塊の世代に植え付けられたムード的な左翼思想を思い起こせばいい(それこそがこの思想の恐ろしいとこともいえる。その学派の名前など知らなくても、秘儀めいた革命思想なのである。日本でも何やら新しいマルクス主義を難解な言葉で語る新左翼はみなこれの亜流である)。


つまり、たとえその人がフランクフルト学派の名前を知らなくても、田中氏に左翼リベラルだと認定されれば、その人はフランクフルト学派の一味になるようです。こんな適当な定義で思想を語っていいのか不安になるレベルですが、保守論壇とはこんな曖昧で適当な言説をしても赦される世界なのです。

気に入らない奴はみんなフランクフルト学派

このように「田中氏が左翼認定すれば、その人はフランクフルト学派の関係者」という滅茶苦茶適当な定義は、当然、田中氏の敵すべてが左翼であり、フランクフルト学派によって影響を受けているという妄想に昇華します。

現代文化が左翼リベラルに握られ、その言語についていけない保守派は何も発言出来ないからである。美術、演劇、文学、音楽、バレエから、映画、写真、教育、メディアまで彼らの手中に収められている、といってよい。NHKの多くの文化番組も、新聞の文化欄もほぼ彼らによって支配されている。


ここまで妄想がスゴイと逆に心配になります。そしてこの妄想は、とうとう次のように帰結します。

現在のところこの『正論』や『諸君!」などの雑誌以外の商業雑誌はほぼ隠れフランクフルト学派に支配されているように見える。

……。まぁ「見える」のをとめることはできませんが…。おそらく当時(2003年頃)は「つくる会」への非難が激しかったので、被害者妄想に陥ってしまい、このような精神状態を発露してしまったのでしょう。左翼・リベラルと認定されてしまった皆さんは、田中氏をただただ非難するのではなく、温かい眼差しで優しく諭してあげる必要があると思います。

また田中氏は(実際には存在しない)フランクフルト学派の人格攻撃も忘れてはいません。


そして現在、この思想が、テロリズムを肯定するインテリの思想を支えていると、と言ってよい。二度のイラク戦争のことででもたびたびジャーナリズムに登場するチョムスキー、サイード、ソンターくなどアメリカの学者は、大きな意味でフランクフルト学派の中にいるといってよい。ニューヨークの九・一一テロを見てひそかに喝采し、隔離で頻繁に起こるテロを共感して見ている人々の中に巣くう思想を支えているのが、この学派である。

テロに共感したらフランクフルト学派認定とは滅茶苦茶にも程がある言い掛かりで、開いた口もふさがりません。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/299.html

[番外地8] 社会崩壊を企む恐ろしき「フランクフルト学派」?
社会崩壊を企む恐ろしき「フランクフルト学派」?

つくる会元会長の田中英道氏は、フランクフルト大学の教員の忠言によって講義が中止させられただけで、フランクフルト学派の陰謀説を唱えてしまうトンデモ論者として知られます。


この様な田中氏の言説は、一旦、陰謀論に嵌ってしまうと、何でもかんでも陰謀のせいにしてしまう典型例でしょう。

そして、このような陰謀論は、「宇宙人の仕業」と同じで、実際には存在しない敵と戦っているため、その敵から反論が出ようはずもなく、ご本人が「誤りだった」と気が付くまで生き残り続けます。

しかし、こんな人が歴史教科書をつくっていたとは…

社会崩壊を企む恐ろしき「フランクフルト学派」:田中英道論文要約 というのがありました。

”フランクフルト学派の批判理論、隠れマルクス主義の恐ろしさ

リベラルとは、偽装された左翼。リベラルの武器は批判理論(非暴力革命理論)、その正体は暴力革命をあきらめたに過ぎない革命家。経済破壊から文化破壊へ、内部からの国家破壊へシフトしただけ。メディアは同じ隠れ共産主義者(共産党)の巣窟

メディアが左翼の理由。日本のメディアを支配する“隠れマルクス主義(隠れ共産主義、隠れ共産党)”フランクフルト学派。9条守れ、改憲反対といい、それに抗うような政権は印象操作、報道しない自由、偏向、捏造、レッテル貼り、何でもありで潰していく

今の日本は、実は隠れマルクス主義者にとって、二段階革命の第一段階目にあたります。

共産主義革命(暴力革命)を阻止する軍隊の存在を否定した憲法9条は、まさに本拠地であり、牙城であり、「9条改正」に対して断固反対し続ける理由なのです。
メディアが隠れマルクス主義者の巣窟であり、9条守れ、改憲反対といい、それに抗うような政権は嘘だろうが、疑惑があると悪いことをやっているように印象操作、報道しない自由、偏向、捏造、レッテル貼り、何でもありで潰していくのです。倒せる、倒すとなると、いざ鎌倉となるわけです。敗戦利得者たちは、戦後レジームからの脱却を阻止する体制を築いているのです。

愛国者を出演させることはほとんどなく、リベラル派の芸能人や進歩的知識人・文化人などの左翼ばかりを出演させ日本が悪いと批判を続け、国民を洗脳し続けています。NHKや朝日新聞など左翼系メディアを中心にフェイクヒストリー(嘘の歴史)を使って、自虐、反日の東京裁判史観(GHQ史観)を国民に植え付けています。

また国家の価値や民族の価値、それらのナショナリズムが良いと報道することはなく、極右、排外主義、差別主義だとかレッテル貼りを行い、多民族、多文化共生だ、男女平等だ、LGBTだ、差別だ、人権を守れ、ヘイトスピーチを許さないと左翼リベラルの代弁者となり、国家を徐々に全体主義化していく先兵ともなっているのです。

メディアには、多くの在日朝鮮人が入り込んで反日工作を行っていますが、日本弱体化を謀る敗戦利得者同士であり、利害が一致しているわけです。”

このように、田中氏が主張する「フランクフルト学派陰謀論」は全くの妄想であることは確実でしょう。その一方で、このような妄想が生まれてしまった過程も明確ではないでしょうか。次のように予想します。


この論文が書かれた当時、「つくる会」会長であった田中氏は様々な批判を受けており、世間がすべて敵であるかのような錯覚に陥っていました。そんな折、海外の大学から講師として招聘されていたのに、「つくる会」会長ということでその招聘が取り消しになった事件が起こりました。その時、田中氏はこれはマルキストの陰謀に違いないと確信します。

その後、この招聘中止にはフランクフルト大学に所属する某教授の反対が主原因であることが明らかになりました。そこで田中氏は、その某教授がどのような思想を持っているか知りませんでしたが、フランクフルト大学の所属であるからフランクフルト学派の影響が背後にあるに違いないと確信しました。

そうなると常日頃バッシングを受けていた田中氏は、自分を攻撃してくる敵すべてがフランクフルト学派の一味のように思えてきてしまいました。朝日新聞や毎日新聞などのメディアが自分を執拗に攻撃してくるのはフランクフルト学派だからに違いない。自分のような正しい歴史を語る人間を攻撃してくる卑劣な奴は、フランクフルト学派の一味に違いない。自分から見て人倫に反するやつはみんなフランクフルト学派に支配されているに違いない、と。このようにして「フランクフルト学派陰謀説」が完成したのでした。めでたし、めでたし。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/300.html

[近代史5] エジプト人の起源 中川隆
1. 中川隆[-11579] koaQ7Jey 2020年8月30日 12:25:44 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[16]

サハラ砂漠は、断続的な「緑のサハラ」の期間を除いて、人類の移動の地理的障壁でした。

エジプトの現代人集団とミイラのDNAに関する研究では、サハラ砂漠を越えて南方から現代のアフリカ北部人への遺伝子流動は低水準で、最近起きたと示唆されています。

しかし、このエジプトのミイラよりも古いモロッコの更新世や新石器時代の個体群は、サハラ砂漠以南のアフリカ人と遺伝的により類似しています。「緑のサハラ」は12000〜5000年前頃なので、モロッコの15000年前頃の更新世個体群と7000年前頃の前期新石器時代個体群は、前者が「緑のサハラ」の前、後者がちょうどその期間に相当します。

 しかし、両個体群ともにサハラ砂漠以南のアフリカ人とは同じような遺伝的近縁を示しており、類似の遺伝的構造を示します。一方、アフリカ北部の現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統をわずかにしか有していません。

雑記帳 2020年08月30日
古代DNAに基づくアフリカの人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html

 古代DNAに基づく近年のアフリカの人類史研究を整理した概説(Vicente, and Nielsen., 2020)が公表されました。古代DNA研究の急速な進展により、人類史はより深く理解されるようになりました。たとえば、ある物質文化の変化が、人々の移動の結果なのか、あるいは文化の拡散によるものなのか、より詳しく推測できるようになりました。古代DNA研究はアフリカでも進展していますが、熱帯地域を多く含むため、古代人標本からDNAを抽出することが困難なこともあり、アフリカにおけるゲノム規模の古代DNA研究は、たとえばヨーロッパと比較すると僅かです。本論文投稿時点でのアフリカの古代人のゲノム規模論文は、北部に関しては4本、サハラ砂漠以南に関しては5本だけです。本論文は、これまでのアフリカの古代DNA研究を、現代人の遺伝的多様性の文脈で検証します。以下、本論文で対象とされた標本の地理と主成分分析と系統構成を示した図1です。

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●アフリカ北部の古代DNA

 アフリカ北部では、現代人集団はおもにユーラシアおよび中東集団と関連しており、サハラ砂漠以南のアフリカからの遺伝的寄与の水準はひじょうに低い、と推定されています。これが旧石器時代におけるユーラシアからアフリカへの「逆流」の結果なのか、新石器時代におけるアフリカ北部への農耕の導入と関連しているのか、という議論がありました。モロッコの15000年前頃人類遺骸のDNA解析では、アフリカ北部は完新世と農耕開始の前にユーラシアから顕著な遺伝子流動を受けた、と示されました(関連記事)。

 さらに、アフリカ北部の7000年前頃となる前期新石器時代の個体群もこの15000年前頃のモロッコ個体群系統を継承していましたが、後期新石器時代となる5000年前頃の集団はイベリア半島集団の遺伝的影響を受けており、ジブラルタル海峡間の遺伝子流動が示唆されます(関連記事)。これら前期および後期新石器時代の個体群の遺伝的構成の違いから、アフリカ北部における農耕拡大は文化(アイデア)と人々の移動の両方が含まれていた、と示唆されます。

 サハラ砂漠は、断続的な「緑のサハラ」の期間を除いて、人類の移動の地理的障壁でした。エジプトの現代人集団とミイラのDNAに関する研究では、サハラ砂漠を越えて南方から現代のアフリカ北部人への遺伝子流動は低水準で、最近起きたと示唆されています(関連記事)。しかし、このエジプトのミイラよりも古いモロッコの更新世や新石器時代の個体群は、サハラ砂漠以南のアフリカ人と遺伝的により類似しています。「緑のサハラ」は12000〜5000年前頃なので、モロッコの15000年前頃の更新世個体群と7000年前頃の前期新石器時代個体群は、前者が「緑のサハラ」の前、後者がちょうどその期間に相当します。

 しかし、両個体群ともにサハラ砂漠以南のアフリカ人とは同じような遺伝的近縁を示しており、類似の遺伝的構造を示します。一方、アフリカ北部の現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統をわずかにしか有していません。結果として、サハラ砂漠の湿潤期と乾燥期の循環は、アフリカ北部とサハラ砂漠以南のアフリカとの間の遺伝子流動の量に影響を与えたようですが、これらの移住の正確な動態は、理想的にはゲノム規模の古代DNA研究でさらに調査されねばなりません。


●サハラ砂漠以南のアフリカ

 サハラ砂漠以南のアフリカの現代人および古代人のDNA研究では、ひじょうに異なる2段階の歴史があった、と示唆されました。農耕開始前の狩猟採集民集団は、地理的位置が集団の遺伝的関係を密接に反映する、「距離による隔離」と関連していたようです。しかし、過去の狩猟採集民の長距離移住は除外できず、この問題に関しては古代DNA研究が重要となります。サハラ砂漠以南のアフリカの初期の歴史は、農耕開始後の比較的短い期間におけるも大規模な人口移動と対称的です。

 サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕の起源は依然として不明確ですが、作物栽培は少なくとも3地域独立して始まったと考えられており、それはサハラ・サヘル地域での7000年前頃と、エチオピア高原での7000〜4000年前頃と、アフリカ西部の5000〜3000年前頃です。サハラ砂漠以南のアフリカにおける農耕は、これらの起源地から他地域へと拡大し、アフリカ南端への家畜動物の到達は2000年前頃、作物栽培は1800年前頃です。現代人および古代人のゲノム調査から、アフリカにおける農耕集団の拡大に関する仮説が確認されました。


●サハラ砂漠以南のアフリカにおける食料生産者の移住

 サハラ砂漠以南のアフリカにおいて最初に解析された人類のゲノムは、エチオピアのモタ(Mota)の4500年前頃の個体に由来します(関連記事)。モタ個体とアフリカ東部現代人を比較すると、現代人ではモタ個体よりもユーラシア系統の割合が増加している、という明確な証拠が得られたことから、ユーラシアからアフリカ東部への「逆流」が明らかになりました。しかし、その後の研究により、アフリカ北東部の特定集団、たとえばスーダンのディンカ(Dinka)やヌエル(Nuer)集団と、アフリカ東部のサブエ(Sabue)狩猟採集民は、現代までユーラシア系統との混合がほとんどない、と示されました。

 8100年前頃までさかのぼるアフリカ東部および南部の15人のゲノム解析では、このアフリカ東部およびユーラシア系統を有する古代の牧畜民はアフリカ南部へと移動し、牧畜をもたらした、と明らかになりました。これは、常染色体やY染色体や乳糖耐性多様体に基づく以前の研究を確証し、アフリカ南部牧畜民のゲノムにおけるアフリカ東部系統の存在を示唆します。

 アフリカ東部における農耕導入は、ケニアとタンザニアの後期石器時代・牧畜新石器時代・鉄器時代と関連する41個体の研究により、さらに洗練されました(関連記事)。その研究では、牧畜民の拡大に関連する2段階の混合が推測されました。最初の混合事象は、レヴァントもしくはアフリカ北部集団と関連した非アフリカ系統を有する集団と、現代のディンカ人およびヌエル人と関連する集団との間で、アフリカ北東部において6000〜5000年前頃に起きました。

 第二の混合事象は、第一の混合集団と、モタ個体やケニアの後期石器時代個体群と関連したアフリカ東部の狩猟採集民との間で、4000年前頃に起きました。この非アフリカ系統のアフリカ東部への拡散経路はまだ不明で、ナイル川渓谷もしくは「アフリカの角」経由だった、と提案されています。またこれらの知見は、牧畜新石器文化を形成した、少なくとも2回の年代的に異なるアフリカ東部への牧畜民の南進を指摘します。

 興味深いことに、遺伝的分析では、考古学的に異なる2つの牧畜新石器文化である、エルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器文化の集団間で差異が見つかりませんでした。これは、考古学的に異なる文化が必ずしも遺伝的に異なる集団であることを意味しない、と示唆します。その後のアフリカ東部における鉄器時代は、同様に複雑でした。現代バンツー語族と関連するアフリカ西部からの遺伝子流動に続くスーダンの関連する遺伝子流動は、この地域の鉄器時代開始と作物栽培導入を示します。

 バンツー語族の拡大はアフリカ西部で5000〜3000年前頃に始まり、世界でも最大級の農耕拡大事象の一つです。アフリカ西部の考古学的記録では、増加する定住は農耕拡大とその後の鉄の使用により示されます。現在、サハラ砂漠以南のアフリカのほとんどの地域では、バンツー語族が主要な言語です。以前の遺伝学的研究では、バンツー語族集団の現在の分布は、言語と農耕(文化)のみの拡大というよりもむしろ、人々の移動の結果だった、と示唆されています。これは古代DNA研究により確認されており、アフリカの東部および南部の鉄器時代遺骸は、遺伝的に現在のアフリカ西部集団と集団化します。

 アフリカ南部の7個体のゲノムデータにより、2000年前頃となる後期石器時代の3個体は現代のコイサン狩猟採集民と関連しており、500〜300年前頃となる鉄器時代の4個体はアフリカ西部現代人と関連している、と明らかになりました。これにより、アフリカ南部における大規模な集団置換が確認されました。コイサン狩猟採集民の後期石器時代の祖先は、アフリカ西部系統を有するバンツー語族農耕民の侵入により置換された、というわけです。

 アフリカ南部では、バンツー語族がコイサン狩猟採集民からかなりの量の遺伝子流動を受けました。対照的に、マラウイとモザンビークの現代人集団は、バンツー語族拡大前にこの地域に存在した狩猟採集民と僅かしか若しくは全く混合しておらず、バンツー語族の移住が複雑な過程だったことを示唆します。バンツー語族拡大期間における人口動態と移住経路をより明確にするには、さらなる古代DNA研究と、赤道付近のアフリカ現代人集団のより高い網羅率のゲノムデータが必要です。以下、アフリカにおける農耕開始前の集団分布と、牧畜および農耕の拡大経路を示した本論文の図2です。

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●サハラ砂漠以南のアフリカにおける深い人口史

 アフリカ全域で農耕集団が大規模に移住する前には、狩猟採集民集団が勾配パターンで関連しており、距離と遺伝的近縁性とが比例関係にあったようです。このパターンは、アフリカ南部のコイサン狩猟採集民の研究で示されているように、現代の狩猟採集民集団間の関係にも反映されています。同様に、古代DNA研究では、農耕開始前におけるアフリカ東部と南部の狩猟採集民集団間の遺伝的勾配が明らかになっています。

 この勾配はアフリカ西部・中央部のシュムラカ(Shum Laka)岩陰の古代狩猟採集民にも当てはまるかもしれず、この古代狩猟採集民は、現在のアフリカ西部・中央部の熱帯雨林狩猟採集民と関連しています(関連記事)。シュムラカ個体群は、図1bの主成分分析のPC1軸では、アフリカ南部狩猟採集民とアフリカ西部のニジェール・コンゴ語族集団との間に位置します。古代および現代の狩猟採集民のみを対象とした主成分分析と比較して、農耕民を含む主成分分析では、地理との相関が低下します。

 古代および現代の狩猟採集民の遺伝的系統は、アフリカ全域の集団間の長期的な勾配関係を示唆しているかもしれませんが、あらゆる大規模な移住がこのパターンの根底にあるのかどうか判断するには、古代DNA研究のデータが必要です。ヨーロッパの現代人および古代人のDNA研究から、距離による孤立のパターンは、とくに混合していない現代人集団が存在しない場合、遠い過去におけるいくつかの大規模な移動と置換を隠せる、との教訓が得られました。したがって、アフリカの深い歴史はまだ明らかにされていませんが、古代DNA研究はすでに推論に貢献し始めました。

 2000年前頃となるアフリカ南部の後期石器時代人の高網羅率のゲノムデータから、「Ju/'hoansi」集団を含む全ての現代コイサン集団は、アフリカ南部に牧畜をもたらしたユーラシア・アフリカ東部集団から9〜22%の遺伝的影響を受けている、と明らかになりました(関連記事)。これは図1の主成分分析で示され、現代コイサン集団はアフリカ東部人の方へと近づいており、中にはバンツー語族との混合によりアフリカ西部人にも近づいている標本もあります。

 「Ju/'hoansi」集団は以前には、近隣集団との混合がほとんどなく、現生人類集団間の最初の分岐事象(変異率に基づき推定された20万〜10万年前頃)を表すコイサン集団とされていました。混合していない後期石器時代個体を他のアフリカ人と比較すると、分岐年代は35万〜26万年前頃にさかのぼり、これは現生人類系統が解剖学的・行動学的に現代的になっていった、中期石器時代の起源に近づきます。この見解では、コイサン集団と他の全集団との最初の分岐が322000年前頃、熱帯雨林狩猟採集民の分岐が221000年前頃、アフリカ西部と東部の分岐が137000年前頃と推定されています。階層的分岐系統樹モデルは、集団間の一般的な関連性を適切に推定しますが、これは人類史の簡略化された表現であり、遺伝子流動や移住や深い集団構造を含むもっと複雑なモデルが、将来の研究では考慮されねばなりません。

 いくつかの研究では、すでにアフリカ西部における深い合着系統の証拠が報告されており、現代ではもはや分離した集団としては存在しない、現代人とは遠い関係にある「ゴースト」集団による、深い起源の混合の可能性が示唆されています。最近の研究では、アフリカ集団におけるネアンデルタール人との混合が以前の推定よりも高かったと推定されており(関連記事)、アフリカ集団における深い人口構造が追加されました。

 また最近の別の研究では、連続分岐モデルというよりもむしろ、4祖先的集団間の放射モデルが示唆されています(関連記事)。この放射モデルには、コイサン集団とアフリカ中央部熱帯雨林狩猟採集民とアフリカ東部および西部人と「ゴースト現代」集団につながる系統が含まれています。さらに、このモデルには「ゴースト非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)」も追加され、アフリカ西部集団はゴースト古代型ホモ属系統からわずかに、ゴースト現生人類系統から多く、遺伝的影響を受けた、と推測されています。しかし、データに適合する他のモデルもあります。

 近年では、アフリカにおける現生人類の多地域起源の可能性を示唆する証拠が増えてきており(関連記事)、深いアフリカの歴史に関する将来の研究では、現実的なモデルのシミュレーションのより厳密な検証が必要です。さらに、地理および気候モデルが、古代DNA研究から得られた時系列データとともに、これらのモデルに組み込まれねばなりません。これは過酷な作業となりますが、いくつかの枠組みはすでに設定されており、古代DNAデータがアフリカ現代人集団のゲノムデータとともにより多く利用可能になると、将来の研究はアフリカにおける深い遺伝的歴史をさらに明らかにするでしょう。古代DNA研究と他分野からの補完的研究は、先史時代をさらに明らかにし続け、現生人類の過去と現在と将来を理解するのに役立つかもしれません。


 本論文は、近年進展したアフリカに関する主要な古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文でとくに重要とされている研究の多くは以前当ブログでも取り上げていましたが、見落としていたり、取り上げようと思って放置してしまったりしているものもあり、アフリカの人類史の流れを改めて確認できたとともに、新たに得た知見も多く、アフリカにおける古代DNA研究の現状を把握するのに適した論文だと思います。アフリカは熱帯地域を多く含んでおり、古代DNA研究に適していない地域と言えるでしょうが、それでも着実に進展していることが本論文で示されており、今後の研究の進展に期待しています。難しそうではありますが、サハラ砂漠以南のアフリカの更新世人類のDNAデータが得られれば、アフリカの人類史の解明に大きく貢献しそうなので、成功を願っています。


参考文献:
Vicente M, and Schlebusch CM.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 8-15.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.008


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/282.html#c1

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
14. 中川隆[-11578] koaQ7Jey 2020年8月30日 13:30:37 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[17]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」
三橋貴明 「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、皆さんの純資産収奪になります」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」
「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、大企業や資本家の皆さんの純資産収奪になります」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。

三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化


政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。

円の価値が暴落しても日本の労働者の給料は変わらないので、人件費も上がらず、日本の商品価格は上がらないんですね。
つまり、円の価値が暴落しても国内の消費者物価は上がりません。
しかし、労働者の実質賃金が減って購買力がなくなるからデフレになるのです。

それから昔のイギリス植民地インドがそうだった様に、輸出すればする程国民が貧しくなってデフレが酷くなります。
輸出で儲けたドルは日本には戻らないでアメリカで再投資されるだけなんですね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c14

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
341. 中川隆[-11577] koaQ7Jey 2020年8月30日 15:02:01 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[20]
藤平酒造
https://fukuiwai.com/

1716年(享保元年)創業。本社は千葉県君津市久留里市場。
付近の久留里街道に直営販売店も併せ持つ。

代表銘柄は「福祝」。

2000年から南部杜氏に学んだ兄弟2人による酒造りがスタートし、翌年に全国新酒鑑評会で金賞を受賞する偉業を達成。以後、注目を集める蔵元として現在に至る。生産量は小規模ながらも「久留里の生きた水」と称される中硬水の銘水を使用する味わいと香りのバランスのとれた酒質は各地で高い評価を受けている。


住所:〒292-0422
君津市久留里市場三五
TEL:0439-27-2043
FAX:0439-27-3015


福祝 山田錦50 純米吟醸 1.8L
価格:3,600 円(税込3,960 円)

容量 1.8L
規格 純米吟醸
度数 16度
使用米 播州山田錦
精米歩合 50%
飲用温度 冷〜冷や(常温)


藤平酒造のある久留里の水は仕込みの際に酸が出にくく、辛口に仕上げてもマイルドな飲みごこちになりやすいと言われています。その水の良さを活かした口当たり柔らかなお酒。旨味を伴ったやさしいふくらみがあり、引き締まった酸に支えられています。余韻は伸びやかに静かにフェードアウトしていき、辛みはやや強いものの、後味に糖蜜のような甘さを残し、バランスの良い仕上がりです。
https://www.imaday.jp/shopdetail/000000012226/nct01-12-12-03/page1/recommend/
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c341

[番外地8] 植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった

ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。
 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる

このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である

 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。

輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。
 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである

 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/301.html

[番外地8] プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています 中川隆
15. 中川隆[-11576] koaQ7Jey 2020年8月30日 16:52:30 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[21]
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」
三橋貴明 「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、皆さんの純資産収奪になります」

というのは正確には

「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」
「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、大企業や資本家の皆さんの純資産収奪になります」

なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。

三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化


政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。

円の価値が暴落しても日本の労働者の給料は変わらないので、人件費も上がらず、日本の商品価格は上がらないんですね。
つまり、円の価値が暴落しても国内の消費者物価は上がりません。
しかし、労働者の実質賃金が減って購買力がなくなるからデフレになるのです。

それから昔のイギリス植民地インドがそうだった様に、輸出すればする程国民が貧しくなってデフレが酷くなります。
輸出で儲けたドルは日本には戻らないでアメリカで再投資されるだけなんですね:

インドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/274.html#c15

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
342. 中川隆[-11575] koaQ7Jey 2020年8月30日 18:30:53 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[23]
千葉の日本酒ランキング2020 | 日本酒評価SAKETIME
https://www.saketime.jp/ranking/chiba/
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c342
[リバイバル3] ジャズを聴くなら JBL よりパルメコの方が遥かに上 中川隆
4. 中川隆[-11574] koaQ7Jey 2020年8月30日 20:29:34 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[24]
Parmeko LS1 BBC speaker
投稿日: 2018/08/14
Westrex LondonやLondon W.Eの系譜、
初代BBCモニター Parmeko LS/1 BBC スピーカー。
https://audiodripper.jp/parmeko-ls1-bbc-speaker


ボーカルがセンターにピシっと定位し、左右音圧差がない。ふつうのスピーカーであれば当たり前の事ですが、

こと、このスピーカー『Parmeko LS/1 BBC』ではそうはない。パルメコLS1は半世紀以上前のスピーカー。

8月下旬からご試聴ください!

英 Parmeko LS/1 B.B.C(片CH.右)


Parmeko LS/1 BBC【パルメコ LS1】って、どんなスピーカー?

このページはParmeko LS/1 BBCのレビューをご紹介するページではないため簡単に紹介すると、音像が立体的に定位し、手を広げると触れられるようなイメージです。同軸スピーカーの特性ですね。ダンピングと躍動感の良さはウーファーに使用されている蝶ダンパーの特性や鋳鉄フレームのおかげでしょうか。ネットワークも贅沢なものが搭載されています。サウンドが濃い!ミッドレンジの厚みや音離れの良さは快感です!音楽の主役がはっきり表現されるスピーカーでもあります。表現のコントラストや抑揚が巧み。

ソースは戦前のクラシックからアメリカのソウル・ミュージックまでダークな雰囲気で聴かせる同軸スピーカーはそうありません。このスタイルですとALTECを思い浮かべますが、造りが違います。BLUENOTEなどのイーストコーストの渋く暗いサウンドや、ウッドベースの鳴りっぷりなどはRCA LC1Aに近く、造りはKlangfilmでLOWの感触はとても似たサウンド。

ボーカリストの声が掌でささやくように。際立つ音楽力!Parmeko LS/1 BBC

Parmeko LS1 BBC sound stage

Westrex LondonやLondon W.Eから派生したParmeko LS/1 BBC はBBCの初代モニターで採用されました。その血統はまさに正統継承者とも言える立派さ。ですが、日本では有名ではありませんネ。今回のペアはオリジナルコーン紙とオリジナルネットワークで販売します!

ちなみにParmeko LS/1 BBCはオリジナルALTEC604(A)の数倍希少です。Parmeko LS/1 BBCと同じ素材のフレームは1920年代~WEやJensenのユニット、1940年代の一部Jimlan、ドイツKlangfilm、英TANNOY BLACK などごく少数。


英 Parmeko LS/1 B.B.C(片CH.右)

英 Parmeko LS/1 B.B.C(片CH.左) 下側はヴィスコロイドでコーン紙破れではありません。

Parmeko LS1 BBC鋳鉄フレームと大型アルニコマグネット

Parmeko LS1 BBC オリジナル蝶ダンパー

Parmeko LS1 BBC オリジナルネットワーク

内部ケーブルは聴かれる音楽によって変更されると良いかもしれません。ネジで固定されています。

Parmeko LS1 BBC

キャビネットは国産ですが、米松を使用したもので、嫌な個性がほとんどない響きの綺麗なキャビネット(おまけです)

Parmeko LS/1 BBC キャビネット&サランネット

JBL SE408S amppower
アンプはcello AUDIO SUITE&JBL SE408S

戦前から戦後の東欧のクラシック音源は時代の空気感もイメージさせます。意外とエリック・クラプトンLIVEから戦前のハイフェッツまでそれなりに鳴らしてしまうParmeko LS/1 BBC!です♪

Parmeko LS1 BBC CD play

ACT盤のユン・サン・ナのボーカルは超絶です!悶絶する程になまめかしい。。。立体感と音圧で音楽の主役が誰であるかが手にとうようにわかります。ミッドレンジの彫琢やソノリティは現代のスピーカーでは難しいのではと思うほど。。ある意味ではモニターであるけれど、1970年代のモニターとは明らかに目的がちがいます。

日本国内でここまで状態が良いペアは珍しいです。

https://audiodripper.jp/parmeko-ls1-bbc-speaker
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/945.html#c4

[番外地8] 世界中の狩猟民族と遊牧民族はすべて産児制限してるよ
世界中の狩猟民族と遊牧民族はすべて産児制限してるよ
東北の農民も子供をxしてるだろ

子供の神隠しもそうだな。
間引いたことは暗黙の了解。
間引いて床下に丁重に埋葬した後、村人総出で探し…
それがお地蔵様やこけしの裏の意味
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/302.html

[番外地8] 世界中の狩猟民族と遊牧民族はすべて産児制限してるよ 中川隆
1. 中川隆[-11573] koaQ7Jey 2020年8月30日 20:56:02 : 8aTGXsjL5o : WFVobXovL2luNEE=[25]
世界中の狩猟民族と遊牧民族はすべて sanji 制限してるよ
東北の農民も子供を xしてるだろ

子供の神隠しもそうだな。
mabiitaことは暗黙の了解。
mabiite 床下に丁重に埋葬した後、村人総出で探し…
それがお地蔵様やこけしの裏の意味  

ゲルマン人は美少女以外の女の子は全員 xしてたから美男美女ばかりになったんだな。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/302.html#c1

[近代史5] 縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
2019年6月25日
https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2019/06/20190625_01.html


縄文時代の終わりに急激な人口減少があった―。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。

東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体の塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。

現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。

すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。

縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。

縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している(提供・東京大学)

https://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2019/06/20190625_01.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/283.html

[近代史4] アイヌ人は本当に日本人から迫害や差別を受けた事が無いのか? 中川隆
5. 中川隆[-11572] koaQ7Jey 2020年8月31日 02:57:17 : Goh10gEN9S : eWUuelFXNnZkc28=[3]
アイヌ文化の否定
03-05-kiki_aratana_hatten-p144-151.pdf
https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/pdf/03-05-kiki_aratana_hatten-p144-151.pdf
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/403.html#c5
[近代史4] アイヌ人は本当に日本人から迫害や差別を受けた事が無いのか? 中川隆
6. 中川隆[-11571] koaQ7Jey 2020年8月31日 03:02:04 : Goh10gEN9S : eWUuelFXNnZkc28=[4]
時をこえて十勝の川を旅しよう! 第3章アイヌ文化期 |帯広開発建設部
https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc.html


第3章 十勝のアイヌ文化と川

第3章のすべてのページが入ったファイル (PDF:3.62MB)
※アイヌ文化・アイヌ語については、十勝のものを中心に紹介しています。アイヌ文化やアイヌ語は、同じ北海道内でも地方によって異なる場合があります
アイヌ文化期の年表 (PDF:255KB)
はじめに 擦文〜アイヌ文化と「大和」・「元」 (PDF:259KB)

1.アイヌ文化の始まりとチャシ
(1) アイヌ文化の全体的な特色 (PDF:68.9KB)
(2) アイヌ文化の広がり (PDF:89.0KB)
(3) アイヌ文化期の自然のようす (PDF:170KB)
(4) 川を見下ろす「チャシ」 (PDF:624KB)

コラム 目で見る自然の大変化 (PDF:114KB)


2.伝統的な暮らし
(1) 川で食べものをとる (PDF:253KB)
(2) サケを使った料理 (PDF:362KB)
(3) 「道」としての川と「コタン(集落)」 (PDF:116KB)
(4) 「チプ」に乗って川を行く (PDF:105KB)
(5) チセ(家)の建て方と川 (PDF:89.3KB)
(6) 語って伝える・歌やおどりで伝える (PDF:113KB)

コラム シシャモは「スサム」から (PDF:61.6KB)
コラム 魚以外の食べものをとる (PDF:85.5KB)
コラム 「ルイペ(ルイベ)」のあれこれ (PDF:103KB)
コラム サケ皮のくつチェプケリ (PDF:81.8KB)
コラム とても長い歴史をもつ丸木舟 (PDF:62.9KB)
コラム アイヌ文化の手工芸 (PDF:69.8KB)
(スサムの「ム」、チェプケリの(「プ」と「リ」は小文字です)

3.カムイとともに
(1) 「カムイ」って何だろう? (PDF:76.4KB)
(2) 「カムイ」としての川 (PDF:80.0KB)

4.和人とのかかわり
(1) 交易とアイヌ文化 (PDF:82.9KB)
(2) 松前藩の交易支配と「場所」 (PDF:126KB)
(3) シャクシャインの戦い (PDF:175KB)
(4) 「場所」での支配の「民営化」 (PDF:148KB)
(5) 「探検」される十勝 (PDF:61.3KB)
(6) 開拓者たちをむかえ入れるアイヌ民族 (PDF:90.6KB)

5.アイヌ文化の危機、そして新たな発展
(1) アイヌ文化の否定 (PDF:262KB)
(2) 乱獲と大雪によるシカの「絶めつ」 (PDF:62.9KB)
(3) 川でのサケ漁の禁止 (PDF:83.0KB)
(4) 農民化と「保護」そして農地改革 (PDF:115KB)
(5) 「アイヌ文化の新たな発展 (PDF:106KB)

コラム 晩成社とアイヌの人々とサケ (PDF:28.7KB)
コラム 農業経営に成功したアイヌの人もいる (PDF:50.7KB)
コラム 十勝のアイヌ民族に関する口承と記録 (PDF:66.7KB)

参考となる本やホームページなど (PDF:151KB)

https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/403.html#c6

[近代史5] アイヌ人の起源 中川隆
6. 中川隆[-11570] koaQ7Jey 2020年8月31日 03:04:00 : Goh10gEN9S : eWUuelFXNnZkc28=[5]
時をこえて十勝の川を旅しよう! 第3章アイヌ文化期 |帯広開発建設部
https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc.html


第3章 十勝のアイヌ文化と川

第3章のすべてのページが入ったファイル (PDF:3.62MB)
https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc-att/ctll1r000000cyls.pdf


※アイヌ文化・アイヌ語については、十勝のものを中心に紹介しています。アイヌ文化やアイヌ語は、同じ北海道内でも地方によって異なる場合があります


アイヌ文化期の年表 (PDF:255KB)

はじめに 擦文〜アイヌ文化と「大和」・「元」 (PDF:259KB)

1.アイヌ文化の始まりとチャシ
(1) アイヌ文化の全体的な特色 (PDF:68.9KB)
(2) アイヌ文化の広がり (PDF:89.0KB)
(3) アイヌ文化期の自然のようす (PDF:170KB)
(4) 川を見下ろす「チャシ」 (PDF:624KB)

コラム 目で見る自然の大変化 (PDF:114KB)


2.伝統的な暮らし
(1) 川で食べものをとる (PDF:253KB)
(2) サケを使った料理 (PDF:362KB)
(3) 「道」としての川と「コタン(集落)」 (PDF:116KB)
(4) 「チプ」に乗って川を行く (PDF:105KB)
(5) チセ(家)の建て方と川 (PDF:89.3KB)
(6) 語って伝える・歌やおどりで伝える (PDF:113KB)

コラム シシャモは「スサム」から (PDF:61.6KB)
コラム 魚以外の食べものをとる (PDF:85.5KB)
コラム 「ルイペ(ルイベ)」のあれこれ (PDF:103KB)
コラム サケ皮のくつチェプケリ (PDF:81.8KB)
コラム とても長い歴史をもつ丸木舟 (PDF:62.9KB)
コラム アイヌ文化の手工芸 (PDF:69.8KB)
(スサムの「ム」、チェプケリの(「プ」と「リ」は小文字です)

3.カムイとともに
(1) 「カムイ」って何だろう? (PDF:76.4KB)
(2) 「カムイ」としての川 (PDF:80.0KB)

4.和人とのかかわり
(1) 交易とアイヌ文化 (PDF:82.9KB)
(2) 松前藩の交易支配と「場所」 (PDF:126KB)
(3) シャクシャインの戦い (PDF:175KB)
(4) 「場所」での支配の「民営化」 (PDF:148KB)
(5) 「探検」される十勝 (PDF:61.3KB)
(6) 開拓者たちをむかえ入れるアイヌ民族 (PDF:90.6KB)

5.アイヌ文化の危機、そして新たな発展
(1) アイヌ文化の否定 (PDF:262KB)
(2) 乱獲と大雪によるシカの「絶めつ」 (PDF:62.9KB)
(3) 川でのサケ漁の禁止 (PDF:83.0KB)
(4) 農民化と「保護」そして農地改革 (PDF:115KB)
(5) 「アイヌ文化の新たな発展 (PDF:106KB)

コラム 晩成社とアイヌの人々とサケ (PDF:28.7KB)
コラム 農業経営に成功したアイヌの人もいる (PDF:50.7KB)
コラム 十勝のアイヌ民族に関する口承と記録 (PDF:66.7KB)

参考となる本やホームページなど (PDF:151KB)

https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/197.html#c6

[近代史4] 1ドル 30円から40円が適正価格 中川隆
8. 中川隆[-11569] koaQ7Jey 2020年8月31日 07:36:29 : 1W8zcIRgE2 : aUhEYmQ0L2hWREU=[2]

2020年08月31日
安倍首相辞任で動き出す為替相場、来年1ドル50円もありうる

超円高は過去に起き、これからも起きる

https://www.stepstep.biz/tag/%E5%86%86%E9%AB%98%E3%81%A7%E3%81%8A%E5%BE%97

過去の超円高のメカニズム

為替相場は一見安定していて不動に見えるが、きっかけがあると何かにぶつかるまで動き続ける。

1995年と2011年はいずれも日本の巨大地震をきっかけに動き、1ドル70円台の超円高になった。

いずれも自民党ではない野党政権(おかしな言い方だが)、革新政党の首相という共通点があった。


どちらの円高も自民党が衆院選で勝利し政権復帰することで終息し、その後しばらくは円安に推移しました。

これは結果として発生した出来事で、ドルに対して円が高くなった原因は日本の経常黒字(国際収支黒字)と思われます。

日本は年10兆円から20兆円もの経常黒字があり、ドイツに次いで世界二位となっています。


経常黒字が溜まっていくとドルから円に、ドルからユーロにお金が交換されドル安になります。

EUのほとんどの国が経常赤字なので、ドイツの経常黒字は大幅に薄められ、超ユーロ高にはなりません。

日本は一国だけで円という通貨を使用しているので、年20兆円黒字なら年20兆円分円高になる筈です。


超円高はネズミの集団心理

その筈なのだがトヨタやソニーはアメリカの売り上げを日本に送金せず、アメリカ国内や海外で再投資します。

メキシコに工場を建てたりアメリカでPS5を開発したりするので、通常経常赤字の多くは海外にとどまったままです。

日本政府は円高になると困るので、金融緩和や海外融資などで円高を防止しています。


金融緩和はお金の量を増やす事で、ドルに対して円を多く印刷したら(実際は印刷しないが)理論上は円安になります。

日本政府は海外援助や海外融資に熱心だが、為替介入と似た効果があります。

日本がアフリカの国に1兆円を融資し、その1兆円を円からドルに交換したら、言葉を言い換えた為替介入のようなものです。


こうして毎年20兆円の経常黒字でも通常は円高にならないが、突発的な出来事で一斉にドルから円へのお金の動きが起きます。


1995年や2011年は地震で日本企業が打撃を受け、海外の金を本社に送金したところから超円高が始まりました。

一匹のネズミが走り出したら全員が走り出すようなもので、一斉に同じ方向へ動き出しました。


それに海外投機ファンドが便乗して円高を加速し、円高への恐怖心からより一層大量の円買いが発生した。

これが超円高のメカニズムで、10年間円安だからと言って来年「1ドル50円」にならない保証はないのです。

円安を主導してきた安倍首相の辞任で、ある方向に動き出すかも知れません

http://www.thutmosev.com/archives/83781946.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/597.html#c8

[近代史4] 宮内庁御用達の馬場本店の「白味醂」
宮内庁御用達の馬場本店の「白味醂」


みりん | 馬場本店酒造オンラインショップ

最上白味醂 1.8L
国産もち米を使用し、江戸時代から手造りの製法を守っている伝統みりん。
いつものお料理が一段と美味しくなります。お得な一升ビン入り。

販売価格:2,108円(税込)
http://www2.enekoshop.jp/shop/babahonten/item_list?category_id=264784

Amazon.co.jp: 千葉・佐原・馬場本店 最上白味醂
内容量 : 600ml
価格: ¥1,650
対象商品¥2,000 以上の注文で通常配送無料
https://www.amazon.co.jp/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%9C%AC%E5%BA%97-%E5%8D%83%E8%91%89%E3%83%BB%E4%BD%90%E5%8E%9F%E3%83%BB%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%9C%AC%E5%BA%97-%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%99%BD%E5%91%B3%E9%86%82/dp/B0093WY570

「最上白味醂」 味醂 馬場本店 佐原  

東薫酒蔵の隣に位置する馬場本店。

勝海舟も逗留した事のある酒蔵ですが、ここのイチオシは宮内庁御用達の「白味醂」。
添加物一切無の味醂は、芳醇ですが、後味がさっぱりした甘さ。そのまま飲むと「リキュール」です。料理に使うと、家庭料理が料亭料理に早変わり。マジでスゴイです。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2631.html
https://green.ap.teacup.com/pekepon/1654.html#comment33123

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1014.html

[リバイバル3] ロンドン・ウエスタンの世界 中川隆
28. 中川隆[-11568] koaQ7Jey 2020年8月31日 08:58:22 : 1W8zcIRgE2 : aUhEYmQ0L2hWREU=[6]
イベント前夜
2018.02.9
https://soundcreate.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E5%89%8D%E5%A4%9C-2/

明日はLOUNGEで「名盤深聴」イベントです。
Legatoは15時で営業終了の予定です。

ただいま最終調整中…
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明日の主役ナットキング・コールを歌ってもらうのは、ALTEC。

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構成は、

ALTEC 825のグレータイプの初期型(キャビネット)に

Westrex 2080G(ウーファー)、
ALTEC 311(ホーン)、
Westrex 2090G(ドライバー)

で決定。

実は、キャビネットは、825の黒い縦スリットの初期箱もあり、ウーファーは2080Hもあり、ホーンはALTEC 805もあり、ドライバーはALTEC 288B(24Ω)もあり、組み合わせを様々試した上で、今一番良いと思える組み合わせで。

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加えて、SACDの3チャンネルマルチはこちらのシステムで!

LINN AKUDORIK EXAKT。

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そして、もしかすると特別出演で、新製品のこちらも鳴らすかも!?PIEGA Premium701。

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今は真空管アンプのOCTAVE V16の真空管をKT120からEL34に変えて、思案中です!
https://soundcreate.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E5%89%8D%E5%A4%9C-2/

締め切りました 9/29(土) 高橋健太郎さんと聴く「名盤深聴」LOUNGEイベント 第4回
2018.09.14
https://soundcreate.co.jp/929-2/

お待たせいたしました!LOUNGEの名物イベント「名盤深聴」の第4回を開催します!!
音楽評論家・高橋健太郎氏とオーディオ評論家・山本浩司氏による「名盤深聴」(※)。


今回もご用意するのは、現代&ヴィンテージと2システム。

現代のスピーカーはLINN Akubarik P。

ヴィンテージスピーカーはこちら。

キャビネットはALTEC825(縦スリット)ですが、ドライバー、ウーファー、ホーンは通称ロンドンウェスタンであるWestrexのもの。

ドライバー:2090A、
ホーン:2094 Horn、
ウーファー:20/80LF(※)

ネットワークはALTEC N-500-Cを使います。

(※20/80LFは売約済みですが、2080Aもあり。こちらも素晴らしい。)

第1回のNat King Coleで使用したものより、いずれも旧い時代のものでご用意いたします!
https://soundcreate.co.jp/929-2/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1074.html#c28

[近代史5] 関東大震災とJPモルガン 中川隆
3. 中川隆[-11567] koaQ7Jey 2020年8月31日 10:23:22 : 1W8zcIRgE2 : aUhEYmQ0L2hWREU=[9]

2020.08.31
第2次世界大戦で日本の敗北が決まったのは75年前の9月2日
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008310000/

 第2次世界大戦における日本の敗北が正式に決まったのは今から75年前、1945年9月2日のことである。この日、日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎がアメリカの軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したのだ。


 日本は1941年12月7日(現地時間)にハワイの真珠湾にあったアメリカ軍の基地を奇襲攻撃してアメリカとの戦争を始めたのだが、言うまでもなく、その前から東アジアで侵略戦争を続けていた。


 石油は日本とアメリカとの戦争においてキーワードのひとつだ。その当時、世界の石油生産量はアメリカが圧倒的で、全体の約50%を占めていたという。アメリカ政府の内部には日本への石油禁輸を主張する勢力があり、財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えていた。


 日本が使っていた石油の生産地はカリフォルニアと現在のインドネシア。アメリカが石油の輸出を止めたなら、日本にインドネシアを攻めさせることになると考えたフランクリン・ルーズベルト大統領は禁輸に消極的だったのだが、実行されることになる。


 真珠湾を攻撃する前に日本でも石油の需給見通しを試算、アメリカと戦争を始めると3年目から石油が不足すると見通されていたが、戦争を継続できる程度の石油は供給されていた。


 やはりアメリカに石油を頼っていたドイツの場合、ロックフェラーのスタンダード石油がベネズエラの支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。日本へも何らかのルートを利用して売られていたということだろう。


 1933年にアメリカ大統領となったフランクリン・ルーズベルトはファシズムや植民地に反対していたこともあり、日本に対しても批判的だったが、それはアメリカの支配層全般には当てはまらない。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、日本の支配層はウォール街の影響下にあった。1923年9月1日の関東大震災で大きな損害を受けた日本は復興資金を調達するために外債を発行したが、その発行を引き受けたのがJPモルガン。この巨大金融機関と最も緊密な関係にあったと言われている人物が井上準之助だ。それ以降、JPモルガンは日本の政治や経済に大きな影響を及ぼすことになる。


 アメリカの政治経済もウォール街によって動かされていたが、そうした強者総取りの政策に反発した人びとは1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトを選ぶ。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンなどの金融資本は1933年から34年にかけてクーデターを準備したわけだ。計画の詳細はスメドリー・バトラー少将が議会で証言している。


 ウォール街のクーデター派はヨーロッパのファシスト、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの話を聞いたジャーナリストのポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。金融資本と関係が深い国務省の内部、つまりアメリカの外交官にファシストが多かったのは必然ということだ。


 クーデターの司令官としてウォール街が選んだ軍人がバトラー。人望があるバトラーを抱き込まないとクーデターは成功しないという判断だったが、抱き込みに失敗した。計画を聞き出した上で彼はカウンタークーデターを宣言している。


 日本にはそうしたウォール街の傀儡が少なくない。総理大臣としてウォール街の意向に沿う政策を進めていた浜口雄幸は1930年に銃撃されて翌年に死亡、井上準之助は32年に殺された。井上と同じ年には三井財閥の大番頭と言われ、ウォール街とも緊密な関係にあった団琢磨も殺されている。


 団は1871年にアメリカへ渡り、マサチューセッツ工科大学を卒業しているが、同じ時に彼の親友、金子堅太郎も渡米した。金子はハーバード大学ロースクールで1878年まで学ぶ。金子はその後、セオドア・ルーズベルトと親しくなる。セオドアは1880年にハーバード大学を卒業しているが、そうしたこともあり、90年にセオドアの自宅でふたりは初めて会ったという。


 セオドアは1898年のアメリカ・スペイン戦争を主導した人物。1901年には大統領に就任した。イギリスと同じようにアメリカも日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えていた。


 アングロ・サクソン系のイギリスとアメリカはスラブ系のロシアを敵視、そのロシアを押さえ込むために日本を利用しようとした。日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした事情を理解していた金子はシカゴやニューヨークで、アンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)


 フィリピン、台湾、琉球、日本が東アジア侵略の拠点だとするなら、朝鮮半島は橋頭堡。日本が朝鮮の植民地化をセオドア・ルーズベルトが容認したのもそのためだろう。


 そうした日本側の動きを察知した朝鮮の高宗は特使としてホーマー・ハルバートをワシントンへ派遣するが、セオドア大統領やエリフ・ルート国務長官はその特使と会おうとしない。朝鮮は米朝修好通商条約の第1条に基づいて独立維持のための援助を求めたが、これをアメリカ政府は拒否している。すでにセオドア・ルーズベルト政権は桂太郎や金子堅太郎らと韓国併合で話がついていたのである。


 こうしたアングロ・サクソンと日本との主従関係は明治維新から現在に至るまで続いている。例外はフランクリン・ルーズベルトが大統領を務めていた1933年3月から45年4月までの期間くらいだろう。ソ連との平和共存を訴え、侵略戦争に反対、イスラエルの核兵器開発に厳しい姿勢で臨み、労働者の権利を認めて大企業の行動を規制しようとしたジョン・F・ケネディは暗殺で最初の任期を全うできなかった。フランクリンとセオドアは親戚だが、立場は全く違う。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008310000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html#c3

[近代史5] 認知症と糖尿病の原因はサラダ油とパーム油だった 中川隆
1. 中川隆[-11566] koaQ7Jey 2020年8月31日 10:56:16 : 1W8zcIRgE2 : aUhEYmQ0L2hWREU=[11]
「マーガリン=健康的な植物油」はウソだった
https://www.jca.apc.org/~misatoya/misatoyasaite/bargarine/margarin.html
 写真はふたつのフライドポテトを並べて、その様子を見てみようとした実験を写したものだ。ファーストフード店の製品と自家製である。みなさんは多くのフライドポテトはマーガリンで揚げていることをご存知だろうか。この報告は、このポテトが腐るか、腐らないかに関するものである。

 マーガリンが危険な食品であると聞いても、信じられないという人が多いのではないかと思う。日本ではこのことを問題にする人はまだ少数だからである。それでも2005年8月にニューヨーク市が市内にある3万4千軒の飲食店やスーパーにマーガリン類を調理用油として使用しないことを要請した時、またはアメリカ政府の食品医薬品安全局が2006年1月までにマーガリン類を含む食品に表示を義務づけた時には、日本でも報道されて話題となった。しかし日本では様々な事情で同じような規制が行われなかったために、社会問題化することはなかった。このことはたいへん重大な問題が野放しにされていることを示している。「外国ではその危険性が指摘されて規制が始まっている」事柄について、日本ではその対応が遅れているために深刻な事態を招いているという、アスベストや薬害エイズなどで起きてしまった悲劇を繰り返そうとしているのだ。毎朝パンにたっぷりぬって食べているという人は多いはずだ。なぜマーガリンが危険な食品なのか、日本ではなぜ諸外国のような規制が行われないのか、食品安全の課題であるこの問題について述べてみたい。

「マーガリンが固まっているのは、オイルのプラスチック化」

 バターなどの動物性の油脂より植物性のマーガリンのほうが健康のために良いと考えて食べている人は多いと思う。確かに動物性の油脂は「飽和脂肪酸」を多く含むのでコレステロール値を上げて心筋梗塞や動脈硬化のリスクを高める。融点(溶ける温度)が高いので常温では固体となって体内でも固まりやすく、過剰摂取は有害である。動物性油脂の食べすぎは危険であると多くの人が認識しているのは正しい。それに対して植物性の油脂は「不飽和脂肪酸」を多く含むのでコレステロール値を下げる働きがあり、融点が低いために常温では液体であり体内で凝固することもなく健康的だといわれている。このことが動物性油脂より植物性油脂が健康的だと信じられてきた理由である。  しかし植物油は酸化しやすくて品質の劣化が早く、日持ちしないという性質がある。またバターのように常温で固体を保つ油脂はパンや菓子類の製造に欠かせない物なので、バターに代わる固体の植物油脂として登場したのがマーガリンである。20世紀の初頭から行われ始めた「水素添加」という化学処理によって生まれた固体の植物油脂は科学的な組成が安定して、劣化しやすいという植物油の性質を一変させて酸化したり腐ったりすることのない便利な油として登場した。しかもバターよりも安く製造できるので、健康的な植物油だという神話とともにすぐに人気を得ることとなった。現在ではバターに代わる家庭用のマーガリンとして、またショートニングという名で製造用に使われる無味のマーガリンはパンや菓子類の練り込み材料として、フライドポテトやチキンの揚げ油として、アイスクリームやコーヒー用のミルク、カレーのルウなどの加工食品などに、広く使われている。  マーガリン・ショートニングが科学的に安定して腐らない植物油脂であることの理由は、水素添加という化学処理によって不飽和脂肪酸が「トランス型脂肪酸」に変化したことによる。不安定だった原子構造が、水素原子の移動(トランス)の結果きれいに整列して安定した構造となり、常温でも固体を保ち、酸化しにくくなることで保存性を持つこととなる。1998年にアメリカで「危険な油が病気を起こしている」という本を発表したジョン・フィネガンによるとこの水素添加した脂肪の分子を顕微鏡で見るとプラスチックにたいへん似ていて、科学者たちは「オイルのプラスチック化」と呼んでいたそうだ。このトランス脂肪酸は牛や羊の胃の中でも微生物によって生成されるために、バターやチーズ、食肉の中にも少量ではあるが天然の形で存在している。しかし水素添加によって生まれたトランス脂肪酸は自然界には存在しない物質である。アメリカやヨーロッパではこの天然のトランス脂肪酸と化学変化によって生まれたトランス脂肪酸を区別して規制している。

「トランス脂肪酸はとても危険な化学物質」

 2002年7月、アメリカの医学学会(Instiute of Medicine)がトランス脂肪酸についてのレポートを発表して、トランス脂肪酸は「悪玉コレステロール」を増加させるだけでなく肝臓に悪影響を及ぼして「善玉コレステロール」を減少させてしまうという2倍のマイナス効果で心臓病のリスクを高めると警鐘を鳴らした。それを受けてアメリカ政府の食品医薬品安全局もトランス脂肪酸の摂取量を減少させることが心臓病のリスクを低下させると発表して、2006年1月までにトランス脂肪酸の含有量表示を義務化することを決定した。2005年8月にはニューヨーク市がすべてのレストラン、スーパーにトランス脂肪酸を含む調理油を使用しないように呼びかけた。ヨーロッパの各国ではそれ以前からトランス脂肪酸の危険性が広く知られており、加工食品の含有率規制も行われている。欧米に比べて油脂の摂取が少ないといわれているアジアでも、韓国と台湾ではすでに含有率表示が義務化されている。WHO(国連世界保健機関)とFAO(国連食料農業機関)は合同で報告書を発表して、トランス脂肪酸の摂取量は最大でも1日あたりの総エネルギー摂取量の1%未満とするように勧告している。そして世界の国々でトランス脂肪酸フリーの「安全な新しいマーガリン」が発売されてトレンドを得ている。日本で市販されているマーガリンには平均値で約7%のトランス脂肪酸が含まれており、加工食品の製造過程で使用されるショートニングにはそれ以上のトランス脂肪酸が含まれていると思われる。  人体はトランス脂肪酸を他の油脂と同じように処理しようとするが、通常ではあり得ない分子構造のために処理しきれずに体内に蓄積してしまったり、悪影響を及ぼすことが様々な研究の結果でわかってきたことが、世界中でのマーガリン規制(トランス脂肪酸規制)につながっている。コレステロールのバランスを崩して動脈硬化などの心臓疾患のリスクを高めるほか、免疫力を低下させてアトピー性皮膚炎などのアレルギーの原因のひとつとなることも指摘されている。また体内を酸化させてガンを発生させる原因にもなるともいわれている。アメリカではガンによる死亡率とトランス脂肪酸を含む食品の消費率それぞれの増加がほぼ一致しているという報告もある。痴呆について長年にわたって研究したアメリカの科学者からは、トランス脂肪酸が認知機能を下げる恐れがあるという報告が出されている。血中の悪玉コレステロールが増えるために心臓だけでなく脳の動脈硬化も進むためではないかとみられている。

「フライドポテト1個で基準値を超えてしまう!」

 日本ではこのトランス脂肪酸がどのように扱われているのか。2007年に食品安全委員会は国内に流通するパン類、乳製品、マーガリンなど386種の食品に含まれるトランス脂肪酸を分析して国民の摂取量を推計して発表した。日本人の1日当たりの摂取量は平均してエネルギー摂取量の0.3~0.6%で、欧米での摂取量より少なく、またWHOが示した1%未満という基準値より少ない。この結果を食品安全委員会化学物質専門調査会の立松正衛・愛知県ガンセンター研究所副所長は「各国に比べて少なく、差し迫った危険性はない」と評価した。業界団体の「日本マーガリン工業会」は、トランス脂肪酸が血中の悪玉コレステロールを上昇させることを認めながら「エネルギー比2%以下ならほとんど影響しない」と主張、「WHOの基準は1%、日本人の場合はそれも下回る0.7%」として、「現在の日本人の食生活においては何ら問題はない」と結論づけている。また「リノール酸の摂取量がトランス脂肪酸より多いとその作用を低減させる」と主張して、日本人のリノール酸摂取量の多さにも言及している。  しかし食品安全委員会の調査には、外食産業で使われるショートニングなどは含まれていない。例えばあるファーストフード店のMサイズのフライドポテト(135g)には4gを越えるトランス脂肪酸が含まれており、WHOの基準値エネルギー比1%を摂取量に換算すると約2gとなることを考えると、このフライドポテトだけでこの1日当たりの基準値を超えることになる。コンビニで売っている菓子やケーキ、パンなど大量生産が前提の製品には1g以下であってもほとんどの製品にトランス脂肪酸が含まれていると考えられるので、若年層に限って見ると基準値以上のトランス脂肪酸を摂取させられている日本人は多いのではないかと考えられる。食品安全委員会が発表した「国民ひとり1日当たりの摂取量」とは、老若男女すべてを含む国民全体の平均値であって、淡白な和食を好む高齢の世代と洋風で油分が多い食事を好む若年世代を分けて分析する必要がある。ファーストフードとスナック菓子が大好きな子どもたちが特に食品に含まれる有害物質の影響を受けやすいことを考えると、このままでいいのかという疑問を持たざるをえない。  トランス脂肪酸の含有量規制も表示義務もない日本だが、最も多くのトランス脂肪酸を含む食品であるマーガリンについては安全な製品を作る努力も行われている。市販のマーガリンはトースト3枚にぬって食べるとWHOの基準をほぼ超えてしまうので、トランス脂肪酸を0.5%以下に抑えた新しい「バーガリン」という製品が誕生したのだ。水素添加などの化学処理をしないで、常温でも固体のパーム油をベースにする方法で作られている。しかしこのバーガリンは日本では辛い運命にある。「トランス脂肪酸0.5%」という表示をするとマーガリン業界の反発が強くて国内メーカーでは製造委託を引き受けてもらえなかった。そこでトランス脂肪酸規制の先進国であるオランダで2006年3月から製造を始めて6回の輸入ロッドをクリアーして製造されてきたのだが、2008年、石油価格や穀物価格の世界的な上昇の中でバーガリンの原材料も高騰して、オランダから運ぶことに耐えられなくなって挫折することになった。その後、韓国のメーカーに製造を依頼することになったが、ここでは家庭用のカップ入りの製品ができずに1ポンドの業務用サイズを紙で包んだ状態で輸入せざるを得なかった。販売単位の量が増えたので値上げではなかったが、1個の価格が200円も高くなった上に家庭では使いにくくなったのである。バーガリンはこの形態の変更でまた困難な状態に追い込まれている。  日本にはもうひとつトランス脂肪酸を抑えた「安全なマーガリン」が存在するが、こちらは国内生産をめざしたためにパッケージにトランス脂肪酸のことを表示できず、また一般の市場での販売もできていない。宅配専門の会社がグループ内で流通させるだけにとどまっている。これもマーガリン業界の圧力のためである。  ファーストフード店の中にもトランス脂肪酸の低減を実現して安全性をアピールする会社が現れている。ミスタードーナツはホームページで「日本での平均的なトランス脂肪酸は諸外国に比べて少なく特別な基準ももうけられていません。しかしミスタードーナツはいち早くこの課題に取り組み、2007年12月から全店でトランス脂肪酸を大幅に抑えたオイルを使用しています」と宣言して、ドーナツ1個あたりのトランス脂肪酸の量を、平均で1~1.5gだったのを、平均0.25gまで低減させたという。単純計算ではドーナツ2個でWHOの基準値を超えていたのを、8個まで基準値内になったのだ。この努力は賞賛に値するが、ミスタードーナツ以外に追随する会社は見当たらない。ケンタッキーフライドチキンやスターバックスコーヒーは、アメリカなどの規制がある国ではトランス脂肪酸の低減を実現しているが、日本の店舗では危険な油脂を使い続けている。また国内のインスタントラーメンの有名ブランド、日清のカップヌードルやサンヨー食品のサッポロ一番では、国内向けの製品は揚げ油にトランス脂肪酸が含まれているので製品にも含まれているようだが、規制がある海外向けに生産されたものはトランス脂肪酸ゼロの表示がある。つまり技術的には可能であるのに、規制がない国内向けの製品にはその技術を使っていないのである。  以前は日本のテレビでよく見かけたマーガリンのCMだが、2006年のアメリカでのトランス脂肪酸の表示義務の開始を境に見かけなくなった。マーガリンメーカーは家庭でトーストにつけて食べるための食品としては積極的に売り込むことを控えるようになったようだ。その代わりにマーガリンはショートニングや「植物性油脂」に姿を変えて大量生産されてコンビニなどで売られる菓子やパンに入り、またファーストフードやファミリーレストランの調理油になって使用も消費も広がった。トランス脂肪酸の摂取は目に見えにくい形に変化していったのだ。

「ショートニングで調理すると6ヶ月たっても腐らない!?」

 冒頭の写真の話に戻る。  プラスチック食品と呼ばれるマーガリン・ショートニングを含む食品は腐りにくく長持ちするといわれてきた。これはトランス脂肪酸の影響だと考えられるが、この腐りにくい性質がマーガリン・ショートニングを「便利な油」として使う理由である。原材料としての品質管理がたいへん楽な上にできた製品は腐りにくい、こんなにいいことはないということだろう。しかし前述したようにあるファーストフード店のフライドポテトは、Mサイズをひと袋食べただけでもWHOが勧告した1日あたりのトランス脂肪酸摂取量を超える。そこでファーストフード店のフライドポテトは本当に腐らないのかどうか調べて見ようとしたのがこの写真の実験である。このポテトを買った日本最大といわれる外食チェーンの揚げ油はショートニングである。このチェーンの本部があるアメリカでは、すでにすべての店舗でショートニングを使うのを中止してトランス脂肪酸の低減に取り組んでいるのだが、日本では規制がないためにショートニングを使い続けている。くどいようだが、Mサイズひと袋でWHOの基準値を超える可能性があるというのにである。じゃがいもの違いや揚げる環境や温度を同じにすることはできないので正確な比較とはいえないが、トランス脂肪酸0.5%以下のバーガリンでポテトを揚げて並べて置いてみた。この実験は2005年にアカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートされた映画「スーパーサイズ・ミー」の特典映像として添付されている実験の二番煎じである。この時点のアメリカではこのチェーンのフライドポテトは腐らなかった。まだショートニングを使っていたのだろう。私の実験は2009年4月の日本の店で買ったものがどうなるのかを調べようとするもので、結果はご覧のとおりである。バーガリンで揚げたポテトはすぐにカビが生えて腐り始め、2週間目には腐敗臭に耐えられずに実験を終えた。ファーストフードチェーンのポテトは微動だにせず、この原稿を書いている約6ヶ月を経過した10月になってもカビも生えず,腐りもしていない。  このファーストフード大手の会社は現在の不況下でも低価格を売り物にして最高益を出している。つまりショートニングの使用をやめないかぎり、トランス脂肪酸の摂取量が増え続けていることになる。またこのチェーンの子ども向けセットメニューはテレビCMが流されているから、子どもを集客の対象にしているのはいうまでもない。このようなまさにプラスチック食品と呼ぶのにふさわしい食べ物を育ち盛りの子どもに与えてもいいのだろうか。子どもたちは学校給食で出される紙包みのマーガリンをパンにつけて食べている。その上でのフライドポテトである。  学校給食でのトランス脂肪酸の規制をするべきだろう。またすべての食品において、せめて諸外国なみに表示を義務づけるべきではないだろうか。トランス脂肪酸の低減を打ち出した商品が圧力を受けるような社会はおかしいのではないか。食品安全行政の姿勢が問われている問題である。

参考文献
ウェブサイト「トランスファット注意報」http://www.burgarin.com
「危険な油が病気を起こしてる」ジョン・フィネガン著
「食用油には危険がいっぱい」氏家京子著

「マーガリン=健康的な植物油」はウソだった(2)
                藤川泰志(原水爆禁止調布市民会議・自然食品店店主)

  11月24日、福島瑞穂消費者担当大臣は記者会見で「マーガリンなどに含まれるトランス脂肪酸について、商品への含有量表示を義務づけるよう検討を消費者庁に指示した」と発表した。これは食品安全行政の画期的な前進である。本誌11月号で詳しく報告したように、この危険な油脂であるトランス脂肪酸への規制が無いのは先進諸国では日本だけだという状態であるにもかかわらず、今までこの一歩を踏み出すことができなかったのだ。含有量表示の導入という控えめな意思表示ではあるが、国民の健康を害しているこの問題が明らかにされていくことになる。マーガリンやショートニングといったこのトランス脂肪酸を多く含む油脂と深く関わる業界や、この油脂の恩恵を受けているあらゆる食品メーカーから圧力を受けることが予想されるが、一日でも早く含有量表示義務の導入を実現させて、規制につなげていきたい。  この記者会見の中で福島大臣はもうひとつ重要なことを発言している。この問題について食品安全委員会が「一般的な日本人の食生活では摂取しても直ちに問題がない」としていることに対して、「食品理解を深めるためにも表示する方向で検討してほしい」と述べたのだ。これにはたいへん重要な意味が込められている。トランス脂肪酸が多く含まれている食品はマーガリンそのものは別格として、ファーストフード店のフライドポテトやチキンのように危険な油で揚げた食品や大量生産された菓子パンやスナック菓子など、いわゆるジャンクフードと呼ばれているものであることを考えると、それらをたくさん食べている若年層が自分の健康を守るために「食品を選ぶ」ことができるようにすることが重要なのだということを示唆している。これは最近よくいわれるようになった「食育」の基本的な課題だといえるだろう。なぜならトランス脂肪酸の有無、あるいは含まれている量を確認しながら自分が食べるものを決めるということは、外来の食べ物であるシャンクフードを食べ続けるのか、あるいは日本の伝統的な食事を見直すのかという問題に必然的に行き着くからだ。福島大臣が食品安全委員会の見解を見直すことの論拠とした「食品を理解して選ぶ」ということは食育の基本問題であると踏まえて、食育とトランス脂肪酸について考えてみたい。

   「食育」というと思い出すことがある。2005年の総選挙で愛知4区から立候補して、比例東海ブロックで当選した藤野真紀子前衆議院議員のことだ。「小泉チルドレン」のおひとりで、料理研究家を本業とする方である。この藤野前議員が当選のインタビューで議員としてやりたいことを問われて、「食育」と答えた時、たいへんな違和感を覚えた。郵政民営化を踏み絵にした市場原理主義を推し進めようとする小泉・竹中政治の中から立候補した議員と「食育」はまったく結びつかなかったからだ。食育とは1980年代にイタリアで始まったスローフード運動が使い始めたことばである。大量生産、大量消費という現代の食のあり方、ファーストフード店の越境による世界的な味の均一化、海を越えて流入してくる食料による自国の農業への圧迫などに対して、地域の伝統的な味や食習慣、地元の農業を守ることなどをめざして提唱された運動である。新しい食文化のあり方を提案して実践していく運動だからかならずしも反ファーストフードではないが、この運動の出発点となったのは1986年にローマの旧市街の中心で観光名所でもあるスペイン広場にマクドナルドが出店しようとしたことに対する反対運動だった。日本でも使われ始めていた「食育」も同じような意味で、品質や栄養より収益のための効率を優先させ、売れる物なら何でも売るファーストフードの市場原理優先の食のあり方に対する異議申し立てであったはずである。それに対して藤野前議員の食育とは、ホームページなどを拝見すると「語り継ぐお菓子たち」という活動によって子どもたちにお菓子作りの楽しさを伝え、親子でお菓子を作ることの重要性を訴えることらしい。
 しかし藤野前議員は選挙前の「公約」で重要なことをいっている。その公約とは「食育で愛知4区の治安を日本一よくする」というものだった。藤野前議員の在任中の5年間に名古屋の治安が他と比べて少しでも良くなったという話は聞かないが、それでも「食」と治安を結びつけた発想には脱帽するしかない。食生活・医事ジャーナリストの氏家京子さんが著書の中で紹介しているアメリカでの調査によると、粗暴犯罪者の血液検査をすると血中の脂肪構成が悪くなっていることがわかるという。DHA(ドコサヘキサエン酸)の値が暴力経験のない一般の人の値より著しく低くなっていて、これは日ごろの食生活における脂肪の摂り方に問題がある結果だという。人の脳の大部分は脂質でできていて、その中でも重要な役割をもつ脳神経細胞は大量のDHAで作られているので、これが不足すると脳神経細胞の働きに影響が出て、学習能力や記憶力を衰えさせることが考えられるという。杏林予防医学研究所所長で分子栄養学博士の山田豊文氏は著書の「細胞から元気になる食事」の中で、トランス脂肪酸が細胞膜の組織内に大量に存在すると細胞膜が正常に機能しなくなることを指摘していて、それ自体が自然界には存在しない有害なものであるばかりでなく、他の必須脂肪酸が取り込まれて栄養として利用されるのを妨げると説明している。このように栄養の摂り方、または脂肪の摂り方が心と体のコンディションの問題と深くかかわっていることわかる。
 12月1日の朝日新聞では、小、中学校で児童生徒の暴力行為が前年度比で13%増、3年間で7割も増えたことが報じられている。子どもたちは「感情がうまく制御できない」「コミュニケーションの能力が足りない」と観察されていて、いじめは先生たちの様々な努力によって毎年のように減っているのに暴力行為は増え続けているという。この原因のすべてを食生活に求めるのは乱暴だが、魚や豆、海草や野菜をたくさん食べていた伝統的な和食の食卓が崩壊して、肉食と危険な油があふれた食事に変わったことが少なからず影響していることは容易に想像できる。不況による生活費の減少と、食品の低価格競争が招く食材の粗悪化がこれに追い討ちをかけているのかもしれない。
 ファーストフードの弊害をリポートしたアメリカの映画「スーパーサイズ・ミー」(2005年アカデミー賞ドキュメンタリー部門ノミネート作品)では、ウィスコンシン州にある不登校などの問題がある生徒を集めた高校でおこなわれたジャンクフードや炭酸飲料を好んでいた生徒たちに低脂肪、低カロリーのランチを食べさせる試みが紹介されている。オーガニックフードの会社に委託した野菜や果物たっぷりで、全粒粉のパンや、揚げたものをやめてオーブンで焼くことを心がけたすべて手作りの料理を導入して、そして糖分過多の炭酸飲料をやめることで生徒の行動に落ち着きが出て、学習への集中力が高まったと校長が証言している。

 このように栄養に関する様々な問題が心と体のコンディションを左右することを広く知らせて、安全な食べ物を選択していくことを子どもたちに教えていくことが現状での食育の基本だと思う。トランス脂肪酸についての理解を深めて、それが含まれている食べ物を避けることはそのための解りやすいテーマである。山田豊文博士はトランス脂肪酸を避ける時の注意を次のように記述している。「マーガリン以外にもトランス脂肪酸はその名前を変えてさまざまな食品に含まれています。買い物をするときに、食品のパッケージに貼られているラベルを注意して見るようにして下さい。クッキーやケーキ、チョコレート、菓子パン、コーヒーフレッシュをはじめ、多くの加工食品にマーガリンやショートニング、加工油脂、あるいはファットスプレッドなどと書かれていることにお気づきになったでしょうか。これはすべてトランス脂肪酸が大量に含まれていることを意味します」。山田博士は本誌11月号で詳しく述べたトランス脂肪酸が持つ危険性で最も重要なことが、血液中の悪玉コレステロールを増やして善玉コレステロールを減らすことによって心臓病のリスクを高めることであることも指摘している。そしてこの危険なトランス脂肪酸の含有量のラベル表示が2006年からアメリカで行われているのと同じように、日本でも早く対策を打つべきだと主張している。「本来の食事とは健康を維持していくためのものですが、これでは健康を害するための食品が店頭に並び、私たち消費者はわざわざそれを選んで購入していることになります」これが山田博士の結論である。福島大臣がトランス脂肪酸に関して「食品への理解」を呼びかけたのはまさに重要なことであり、消費者庁への指示が一日でも早く実現することが望まれる。

 

 写真はアメリカで売られているカップヌードルである。このように成分表示に「トランスファット0g」と表示されているばかりでなく、表にも「トランス脂肪酸0g」の目立つ表示がある。これが望ましい商品の見本である。このように表示されていれば、自分の健康を考えながら食品を選ぶことができる。同じ商品なのにアメリカで売る製品はこのようにトランス脂肪酸に関しては安全な製品ができるのに、日本向けの製品は依然として揚げ油にトランス脂肪酸が含まれているためにリスクを伴う製品のままだというのはおかしな事だが、それでも「やればできる」ことを示しているといえるだろう。山田博士が指摘したように菓子類やパンなども同様に表示をするべきだろう。バターを使った菓子とマーガリンやショートニングを使った菓子のどちらを選ぶのかという問題は食育の大事なテーマだと思う。カフェでコーヒーや紅茶を飲む時に「コーヒーフレッシュ」といういつでも常温に置いてある、そしていくつ使っても無料の「ミルク」を使うのかどうかも食育の重要なテーマである。冷蔵する必要がなく使い放題のこの白い液体は、ほとんどが牛乳成分など入っていない植物油を加工したもので、トランス脂肪酸を多く含んでいる。
 成分表示が義務づけられている加工食品はトランス脂肪酸の含有量表示で見分けやすくなる。しかしわかりにくいのはファーストフード店などの外食産業で出される料理やスーパーなどで売られる惣菜に含まれるトランス脂肪酸である。特に揚げたものは安くて粗悪な油を使うと多量のトランス脂肪酸を含んでいることがある。揚げ油としてショートニングを使うことはハンバーガー店やファミリーレストランでは普通におこなわれていることだが、これが最も危険である。マーガリン・ショートニングのように化学処理によってトランス脂肪酸が発生した油脂の他にも、通常の食用油の場合でも製造法によっては危険なものがある。大豆や菜種などの食用油には「圧搾法」で搾られたものと「抽出法」で化学的に作られたものがあるが、昔ながらの低温で搾る(コールドプレス)油が安全で栄養の面でも優れているのに対して、様々な薬品を加えて油を溶かし出して高温で無味無臭に精製する抽出油は効率的でたいへん安く製造できるが多くのトランス脂肪酸を発生させてしまっている。オリーブ油の場合ではエキストラバージンと明記されているものだけが圧搾法で作られていることが保障されていて、安いものには搾りカスに高温と高圧をかけて溶かし出したものが多く、これは危険な油である。残念なことだが食用油に関しては価格が安全性に比例しているといっていい。ちなみに筆者はレストラン経営者だが、揚げ油に使っているのは「圧搾一番しぼり」の菜種油で価格は一斗缶(16.5kg)で9700円である。業務用の食用油を売る店をのぞくと同じ一斗缶の植物油が2500円前後で売られている。
  2005年にニューヨーク市が市内のすべての飲食店やスーパーに対して、トランス脂肪酸を含む調理油を使用しないように呼びかけたのはこのようなリスクをなくすためであるのはいうまでもない。日本でも食用油に対してトランス脂肪酸の含有量表示を徹底して、外食産業や飲食店、スーパーなどに対してトランス脂肪酸の低減を要請するべきだろう。

 最後に山田博士の本からもう一度引用させていただくことにする。博士はショートニングの語源を、揚げ物やクッキーなどのサクサク感を出すこと、つまり「もろくする」という意味のshortenであると紹介して、次のように書いている。「家で揚げ物をするより、出来合いのものを買ってきたりお店で食べたりするほうがカラッと仕上がっているという印象を受ける方も多いでしょう。これらを『専門店のなせる業』と思っていたら、実はショートニングを入れた油で揚げているだけ、というケースも決して珍しくありません。私に言わせれば、ショートニングでもろく崩れていくのは、ずばり私たちの体です。」
  社会をあげてトランス脂肪酸の低減をめざすことが急務である。福島大臣と消費者庁の今後の仕事に期待したい。

参考文献:

「細胞から元気になる食事」山田豊文著
ウェブサイト「トランスファット注意報」
「危険な油が病気を起こしてる」ジョン・フィネガン著
「食用油には危険がいっぱい」氏家京子著
毎日新聞11月24日夕刊
朝日新聞12月1日朝刊
「この文章はみさと屋の藤川が、月刊社民編集部の要請を受けて執筆したものです」

https://www.jca.apc.org/~misatoya/misatoyasaite/bargarine/margarin.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/170.html#c1

[近代史4] 日本の真空管アンプメーカー 中川隆
1. 中川隆[-11565] koaQ7Jey 2020年8月31日 20:37:04 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[2]
真空管アンプ研究
60年代 懐かしの宝箱
http://mtomisan.my.coocan.jp/page199.html

ブログもご覧ください

60年代 懐かしの宝箱
http://mtomisan.cocolog-nifty.com/blog/

  オーディオ史を調べてみると実用的なメーカーアンプはWE社の3極管VT-1、VT-2によるもので、1918年のことらしいです。回路的には段間にトランスが入る、トランス結合方式。

 その中で特筆すべきなのが直結方式を使ったのが「ロフチン・ホワイトアンプ」1929年。
1930年代に登場した真空管が、2A3、42、6F6、6L6。

 戦後著名なアンプ(回路)が出てきます。

1947年 ウィリアムソン・アンプ KT-66の3結PP 全段で20dBのNF。1950年代に製品化。

     オルソン博士のすり替え実験。オルソンアンプ 6F6の3結パラPP、全段3極管・3結
     で負帰還なし。

1951年 ウルトラリニア・アンプ(SG端子付き出力トランス使用) 6L6

1954年 フッターマン・アンプ OTLで8、16Ωスピーカーを駆動 12B4

     リニアスタンダード・アンプ 36dBのNF 5881

1955年 マッキントッシュ MC60

1956年 マランツ モデル2

1957年 マランツ モデル3

1958年 マランツ モデル5

1959年 クォード22

1960年 マッキントッシュ MC240

1961年 マランツ モデル8B マッキントッシュ MC275

1968年 マッキントッシュ MC3500

主に海外製品の発表など。海外製品の影響は国内製品にも大きかったと思われます。日本製品では出力管が国内製の球に置き換えられた上で回路など影響を受けたと言われています。特にウィリアムソン型のアンプはその後多かったらしい。マッキントッシュはトランス巻き線が凝っていたのでアマチュアの製作などにはそのまま落とし込めなかった。またNFを大きくかけるには個人にはそこまで腕のたつものも多くなかったので、ラックスのキットなどは安心して扱えるものだったのかもしれません。出力トランスが音を決めるという時代であったけれど、50年代出力トランスのないOTLアンプも出てきて、60年代後半のスピーカーカタログを見ると200Ω、400Ωなどが残っていた記憶があります。これはOTL用のスピーカーの名残でした。

真空管アンプ時代(1960年代〜1970年代)

 自分が研究している1960年代では、オーディオは真空管からトランジスターへ、ソリッドステ
ート化の道を歩んだ。
1960年代の半ばにトランジスターアンプの時代がきて、トリオ(現ケンウッド)の石宣言は有名
となっている。
 丁度この時期、自分はラジオ少年よりはオーディオ少年であって、トランジスターのアンプ、
真空管のアンプを何も考えず好きに選んで組んでいました。

 他でも書いたけれど、1960年代も終わって高校生になって、真空管アンプを組もうとしたと
き、WE-300Bというものすごい真空管があること、そしてST管の2A3はもう入手が難しくなって
いました。

 オーディオ・ブームのピークはいつごろであったのか判りませんが、大学生になって、友人
からコンポを組むので相談に乗って欲しいとか、安く買えるところはないのか?そんな話が親
戚からも持ち上がるようになったのは70年代の半ばであったと思います。
 大学にはオーディオ研究会もありましたし、そんな研究会には一般誌の出版社から編集協
力の依頼が来たり、そこで知り合った他大学sんなことを考えると1970年代も半ばにはオーデ
ィオはブームになっていたのだと思います。

 手元に1974年のオーディオカタログがあります。これは当時オーディオ専門店などには良
く置いてあったものです。

 この資料を見る限り、真空管アンプは製品として出されていますが限られたもので、さらに
キットとなるとラックス社が出していたくらいだったようです。

プリメイン・アンプ

ラックス
 SQ38FD
「サンパチエフディー」の愛称で今日でも馴染み深いものです。
オーディオメーカーに入って販売実習の時、下取り補修した38FDを売ってしまい、専務の店
長からこんなもの売るか(メーカーのヘルパー実習なので、もちろん他社)と言われたのを思
い出します。
出力管は有名なNECの50CA10。近代管であるので純粋な3極管ではなく、多極管の内部接
続ですが。当然プッシュプルの回路構成で出力は30W×2.トランスは自社のOY−15シリー
ズを使っていました。回路構成は当時多かったムラード型。プリ部は2段NFイコライザー、NF
型のトーンコントロール回路。現在も人気で中古が出回っているようですが、出力管は90年代
には中国製が出回っていましたが最近はみません。当時の価格が138000円、もっと高かった
記憶もあるので以後価格改定があったかもしれません。

 A-1020 62500円
プリメインアンプのキット。3極出力管6RA8のプッシュプルでOY型のトランスを使っていまし
た。出力は10+10W。価格よりは豪華な見かけ、アクセサリー回路も豊富です。たぶん木の
ケースは別売りであったような。この6RA8も近代管で純粋な3極管ではありません。

このほかトランジスターを使ったA220というキットも出していました。

プリ・アンプ

A-3300 45800円
キットで、すでにプリント基板+ハーネスの構成をとっていたようで、配線箇所を少なく作り易く
したことが特長であったようです。
使用真空管は資料には12A×7、12AV7とありますがこれは12AX7、12AU7のことのようで
す。

CL35/U
いかにもマランツのプリアンプを意識したデザイン、12AX7を6本、12AU7を1本を使用。
当時も38FDを買える138000円の値段には驚いたものです。ヘッドホンアンプはトランジス
ター方式でした。
トーンコントール、アクセサリー回路も充実。最近の高級アンプには少なくなった流れです。
MC型のカートリッジには、別売の昇圧トランスが挿入できるソケットがあったようです。

パワーアンプ
MQ-36
6336AのOTLアンプ。これは当時のカタログの隅には乗っていた250000円の値段は存在
感がありました。
16Ωで25+25W、8Ω表示はなし、最適負荷は50Ωとなっておりました。

MB-88
モノラルタイプ。12万円。KT-88のプッシュプルで85W。「85Wもの膨大な出力を連続して取
り出せるアンプとすると、これは管球式の領域です。」というキャッチコピーはいかにも当時を
感じさせます。放送室にあっておかしくないデザイン。

A-2500
42100円。6RA8PPでOY14型の出力トランスという構成のキット。出力は10W+10Wと大出力
ではないけれどまとまりは良かったはず。
ボンネットは別売りで4500円していました。

A-3500
6CA7のプッシュプルのキット。ボンネット込みで59500円。こちらも雑誌広告によく乗りまし
た。
やはり、プリント基板組み立てで作り易くしています。性能も安定とあります。
出力管を6L6GCなどにも変更できましたが、販売はどうやってやっていたのか。

MQ60
79000円。38FDの出力部をパワーアンプ化したもので30+30Wが得られました。
50CA10の全く同一ではなく工夫改良がしてあったようです。

MQ60 Custom
89000円。こちらは無帰還方式。裸特性がそのまま出る。トランスの良さはラックスとして自慢
なところが出るというもの
看板のOY15シリーズを使っていました。今から考えるとお得な値段設定です。

MQ80
169000円。出力管にはレギュレータで使われる大型双3極管6336Aを使用。MQ36はOTL
でしたが、こちらは出力トランス付きでスピーカーは合わせやすかったはず。8Ωで40W出
力。トランス巻き線を利用した回路は複雑でありました。

ダイナコ マークIII
モノラルアンプ。当時音楽的視点で作られた・・・とされていました。確かにダイナコはオーディ
オ製品でも自分は別枠であまり興味を持ってなかったです。ローコスト組み合わせコンポでは
時折入る製品でした。

ダイナコ ステレオ70
数字が出力になって判り易い。35+35W。EL34のPPなので、比較的無理のない使用法で
あったと思います。
外形幅は33cmの中途半端な大きさ、ブロック状のデザインはダイナコお得意のもの。


<60年代から70年代へ>

それでは、このホームページの60年代の変化はどうであったか・・・ですが。
 あちこちのコーナー書いていますが、アンプのデバイスが変わったのは60年代。60年代の
初めは真空管、終わりはトランジスタに完全に変わっておりました。70年代はじめほぼ消え
た真空管アンプは、マルチアンプ、4chオーディオなど別方向進むオーディオの中で、趣味性
回顧の代表格でもあったと思います。
 この時期頑張ったラックスは真空管アンプで別格であったのです。手作りのキットや優秀な
性能、優美なデザインのOYシリーズトランスは無骨なタンゴのトランスに比べてはるか上位に
ありました。
 そのイメージからか、60年代にトランジスタアンプの道を開いたのがラックスであったのは意
外に知られていません。1962年のプリアンプPZ-11がそれですが、電源は006Pの乾電池で
ありました。このあと、SQ-11はやはりラックスからトランジスタ式のプリメインとして、時代は
簡単にトランジスタには変わらず、トリオのTWシリーズ、いろいろあって、オーディオとして真
空管アンプが駆逐されてしまうのは、ソニーのTAシリーズの影響が多大であったと思います。
1965年のTA-1120はマニア羨望のアンプで、1969年のTA-1120Fまで改良されてた頃には完
全にトランジスタの時代に変わっていました。


<ラックスのアンプについて>
 テレビのそうでありましたが高価な機材は自作があった時代。もちろん誰にでもできることで
はないのでキットが生まれます。
ラックスはトランスのパーツメーカーでしたが、キットを出すところが多い中、優良な部品を使
った、ラックスのキットは良心的で良い音がするということで定番でした。1960年代前半、市場
を制覇した6BQ5のアンプキット、SQ5シリーズ。
 6GW8を使ったSQ62は62年、そして63年は名器のSQ38が生まれます。初代は6RA8の
出力段でした。それが50CA10に出力管を変えSQ-38FDにまで成長します。

<各社の真空管アンプ>
 すでに別項目にありますが、異彩をはなったのは松下でしょう。テクニクス10A,20A,30
A,40A、いずれも普通のメーカーでは作らない趣味性の高いアンプたちです。これらが60年
代中かばに出て、一見時代に逆行したかと思われますが、1969年には50Aでは一気にトラ
ンジスタもOCLアンプを出した・・・それが松下でした。60年代後半、松下は真空管アンプの会
社であって、超弩級のOTL真空管アンプを製品化するなど、電化製品の会社とは思えないマ
ニアックな製品を出していた訳です。
 このあたりの理解の難しさ、1つは当時も、現在のように状況が見通せていた訳ではなかっ
たことや、トランジスタ化からIC化へ進む中。まさに発展途上であって状況は整理されていな
かったということで、はっきり進化、真空管アンプの位置づけが今日に近いものとなったのは
1970年代の半ば、オーディオやコンポが一般化した頃ではなかったかと思います。


そんな60年代最後1969年のオーディオカタログを見てみると・・・
<国内>
総合アンプ サンスイSAX-600、コロムビア MA-30、MA-400
プリメイン サンスイAU-111 コロムビア MAT-3、ラックスPL-45、SQ−38F、SQ-78
メインアンプ サンスイBA303,BA202、松下20A、40A、ラックスMQ36、KMQ7,KMQ8
<海外>
プリアンプ ダイナコ PAS-3X マッキントッシュ C-22
メインアンプ ダイナコ ステレオ35 ステレオ70 MARKIII マッキントッシュ MC-225 MC-
240, MC-275

となっており、5年ほどの変化を見てとれますが、海外でダイナコ、国内でラックスのラインナ
ップが継続していたことが判る訳です。

プリメインアンプ

SQ78 32500円

ボリウムノブが独特の形をしております。当時このアンプを見た記憶は残念ながらありませ
ん。
出力管には6RA8のPPが使われていたようです。10W+10W。調べるとSQ77とSQ38(旧製品)
の混血的存在とあります。


AU-111 66000円

正直当時はあまり注目していませんでした。山水のトランスには自作小型トランジスタラジオ
のイメージ(STシリーズ)が強かったせいでしょうか。
復刻の話が出て、そういえばあったという状況で。ブラックフェース、海外風の対象形のデザ
イン。6L6GCPPで40+40W、当時の雑誌にも「プリメインアンプの傑作」(藤岡誠氏)とありま
す。

SQ-38F 78000円

この後、38FDになるけれど、Fはファイナルの意味だったらしい。38→38D→38DS→と進化し
ました。
こちらはトランスは当然ラックス製、出力は3極管の6RA8からNECの50CA10に変わって唯一
ウィークポイントであった出力も30+30Wとなってさらに高い評価を得ました。


プリ・アンプ

テクニクス 30A 74000円
松下がテクニクスシリーズという名前を使い出したもので、メインアンプ40Aと遂になるデザイ
ン。
左側の黒い部分に並ぶのセレクターのプッシュスイッチ。当時はロータリー型のセレクタース
イッチが普通なので、珍しかった。
回路は12AX7を使ったマッキントッシュタイプのイコライザーで、当然のことながら耐入力は大
きかった。
当時の評価は海外著名アンプほどは高くなかったと思う。

ラックス PL45 75000円
部品は厳選されていたようで、記憶によれば通信用の12AX7が使われていたりした。回路は
マッキントッシュの変形だったらしいが、これも海外製品ほどの評価はなかったようだ。
MCタイプのカートリッジにはヘッドアンプではなく、昇圧トランスで、そのためのソケットが用意
されていた。

マッキントッシュ C-22 194000円
マランツ#7と並んで当時だけでなく、管球プリの代表格。#7が販売をやめても、国内販売
がされていた。もちろんマランツとの音の違いもあったが、概観もまったく違うもので、ブラック
で照明されるパネルなどは「高級」の言葉で片付けらるような簡単なものではなかった。
アクセサリー機能も充実しており、当時のトランジスタアンプへの影響も大きかったと思う。

パワー・アンプ

テクニクス40A 65000円
前作の20AのOTLがあまりにセンセーショナルで出力管の並ぶすがたのイメージが逆にこの
アンプにつまらなさを感じさせてしまった。
30Aに合わせたデザインで、出力管が外から見えないことを指摘した評論家も多かったと思
う。内容的にはDF(ダンピング・ファクター)コントロールがあって、スピーカーとの相性を決め
ることができた。回路前作のOTLとは逆行したトランス付。そんな戦略的な流れのなさも、マニ
アには覚める部分であったと思う。

マックトーン 63M 65000円
国産OTLアンプ。OTLながら30+30W。もちろん、当時見たことはないが、名前だけは良く出
てきた。

ラックスMQ36 160000円
その名前が暗示するように6336パラppのOTLアンプ。評価は非常に高かった。トランスメーカ
ーが作るトランスレスアンプというところに面白みがあった。

クオードII 41000円
モノラル構成であるけれど、モノラル時代から継承された伝統のあるアンプだった。KT-66PP
で15+15Wの表示は控えめなもので、システム構成的にはプリアンプの「22」となるけれ
ど、60年代末にはすでに管球式ということで発売を中止していた。トランジスタは特有のノイズ
があるというところをすでに克服しており、大電力を扱う・・・ということではまだ真空管にまだ
分があるという時期だったのだと思う。
独特の塊のような凝縮した形状とKT-66のスタイルが良くマッチしていた。

ダイナコ ステレオ70 60500円
EL34PPのステレオ構成。35+35Wということで動作的には無理のないものであったようだ。
この真空管の用途の中には最大定格ぎりぎりで、トラブルをおこすものもあった訳で。
価格を考えるとコストパフォーマンスは高かった

ダイナコMARK3 48000円 
KT-88PPで定格60Wのモノラルアンプ。

フッターマン
H-3a 130000円
雑誌などでもOTLアンプ回路で必ず名前が出てきた。欧米でOTLは珍しい存在であったらし
い。フッターマンは回路の発明者の名前。
H-3は16Ω負荷で50+50Wであったけれどこの3aでさらに90+90Wにパワーアップしてい
る。スピーカーの制動力もDF=200と大きかった。消費電力も大きく通風には苦労したらし
い。

マッキントッシュ
MC275 308000円
KT-88PPの業務系アンプとして有名だった。モノラル時代のMC75が原型。75+75Wの高
出力。値段も30万円ということで別格であった。系列機種に40+40WのMC240。25+25
WのMC225があった。

マランツ
8B 155000円
6CA7PP。40+40Wで有名なプリアンプ#7とペアになるパワーアンプ。出力は下がるが中
の配線を変えて3結にできる・・・とステレオガイド系の本に書かれていたりする。当時、日本
的なオーディオでは3極管の伝統は絶対であって、トランジスタアンプが発展して、真空管アン
プの位置づけが変わるまでは、出力の望めるビーム管や5極管のアンプは拡声用という認識
が強かった。

アンプ値段を見て、こんな名器やこんな構成のアンプがこんなに安い・・・と思えるかもしれま
せんが、当時を思うと貨幣価値、生活の程度またオーディオに対する考えなど大きく違う訳で
す。ステレオで言えば10万円で買えた・・・ということを考えれば、大変高価なものだったです
し、こうした管球アンプはどこのお店でも置かれていたものではなかったのです。
実際自分の海外の真空管を見たのは70年代に入ってからですし。

70年代になると手作りブームに乗ってトリオがアンプキットを出したりしますが、60年代はラ
ックスのアンプキットのほか、トランスキットというのもあり、回路は自由でケースとトランスを組
み合わせたものもありました。70年代の中ごろの真空管アンプの復権は、ジャズファンがマ
ッキントッシュのアンプを愛用したりで、入手の難しい300BよりはKT-88ということでありまし
た。ちなみに一般に300Bの入手ができるようになったのは80年代に入ってからのことです。

70年代では、ラックスはラックスキットとしてトランジスタやICを使いまた違った趣味性の方向
に発展します。スピーカーではパイオニアのPIM16キット、フォステクスのスピーカーキットもあ
りました。

自作派にはすでに別項で紹介したように雑誌が指針となっていました。人気の球もありました
が、いくつかの定番・著名回路も定着していました。ウィリアムソン型、オルソンアンプはいず
れも学者さんの作によるものです。ウィリアムソンはKT-66の3結、オルソンアンプは6F6の3
結。各段も3極管であって、良い音は3極管でなければ良い音はしないような錯覚にもなりま
した。

OTLアンプは特にトランジスターでのメーカー製が出てくると管球アンプにもスペックが求めら
れるようになり、十分な帰還がかけられものが多くなりました。その分、個性は失われて、個
人的には面白みがなくなっていったと思います。

ステレオガイドなどに乗らない真空管アンプもありました。これは自作系の雑誌などから見つ
けたものです。

画像はマックトーンという会社のアンプです。ある意味堅実なデザイン、スペックですが、オー
ディオ雑誌系の評論家たちは厳しい評価をしています。実際の音を聞いていないので判りま
せんが、スポンサーでないメーカーには好きなことを言えたのかもしれません。またメディアに
たいしても十分なプロモーションができていたとも思えません。

雑誌の広告から見つけたものですが。松下はマニアックな広告を作っていました。右は50
HB26を使ったOTLアンプテクニクス20Aです。

廃刊された「電波技術」でみつけたのはクリスキット。金田式DCアンプより前にも、趣味を超え
た精神的世界があったことを物語るところと思ってます。右はラックスのキットKMQ8、6
RA8PPです。

そして最後は故長岡鉄男氏の作られたと思われる自作アンプ。これは4万円ステレオ組むと
いう特集の中で出てきたもの。自分のシステムということで氏お気に入りのアシダボックスとの
組み合わせで、後日アンプは公開、本を出すという話でしたが、自分は見たこともありませ
ん。やはりスピーカー自作だけでよかったのでしょう。画像からは6BQ5あたりのシングル、前
段は12AX7片ユニットづつ、トランスはタンゴ、U-608あたりでしょうか。

<追加情報>
1974年というポイントでの紹介しました。
よく調べてみるとまだまだ、データが出てきます。

ダイナコ マークIII

完成品は68000円でしたが、59800円のキットも出ておりました。回路はアルティックタイ
プなので、出力が大きくてもシンプル。
前段は3・5極複合管の6AN8.整流は真空管なので4球で構成され、キットとして作り易いとい
うのもあったと思います。
使用トランスはアクロサウンド社開発特注品が使われていた・・あの伏せ型を立てたようなデ
ザイン。当然、6550とKT-88の挿し変えは可能でした。

ダイナコ ステレオ70

EL34PPステレオのこのアンプも完成品の68000円とキットの59800円があったようです。
EL34はヨーロッパ管ながらまだ馴染みがある品種で、6CA7が同等管。6CA7であれば松下
の球のイメージが強く残っています。
自分も実際に松下の6CA7でプッシュプルのアンプを組んでいました。ダイナコのキットをダイ
ナキットと言っていたことを思い出します。
プリアンプ(PAS3X)用の電源も出ておりまして、B電源、ヒーター電源ををパワーアンプへ供
給するものでした。

ラックスのキットがラックスキット

70年代半ばはカタログは回路集になって有料で販売されていました。これを見るのも楽しか
ったですね。

完成品 → キット
MQ60 → KMQ60
MQ80 → KMQ80
となっており、組み立てると製品になるところは格好良かった、満足度の高い人気のあるとこ
ろでした。
ダイナキットに比べると球の数も部品もけっして少なくなかったです。出来上がりを考えるとA
シリーズのキットとは別格なところでした。

KMQ80の回路からは前段がカソードフォロワードライブなどと凝ったものです。

A-3000は出力管8045GとすることもKT-88とすることもできました。79000円定価は真空
管をふくまないもので。
チューブキット(9900円)として8045Gが販売されていました。KT-88はユーザーが自分で
調達する・・・まだ市場にはKT-88が普通にあるという状況ではありまおうせんでした。一般の
販売店ではなく、・・・エンタープライズと言った輸入商社での販売であったと思います。

 A2500、A-3500にはプリアンプA-3300に電源を供給する端子が用意されていました。
A-2500は前にもふれたように、6R-A8のPPアンプでしたが、NFBを6dB/14dBと定数を変え
て製作できるようになっていました。
 A3500の組み方としては3結、UL接続、出力管を6L6にすることもできまして、この3例が雑
誌、広告で紹介されていたと思います。Aシリーズのパワーアンプにはオクタルのソケットでプ
リアンプA3300への電源が用意されていました。常時プラグが刺さっているのはショートプラ
グで、A3300をつなげばプリアンプから電源のON/OFFができる仕掛けです。

 A3300は12AX7を4本、12AU7を2本使ったプリアンプのキットでした。ヘッドフォンアンプも内
蔵していましたが、これはトランジスタ8石でした。電源は内蔵しておらず、パワーアンプから
貰うか、専用電源A33(6800円)を使いました。プリアンプキットはさらに上にA3400があって
108000円でした。

 ラックスには真空管のチャンネルデバイダーキットとして2002(2chで59800円)、2003
(3chで68000円)もありました。2chから3chにグレードアップする部品(OP2003、12000
円)も出ていましたが、利用された方もあったのでしょうか。

 このほか、キットとしてはKENオーディオ(シャーシが立派)、クリスキット、エルタスのブラン
ドがありました。
資料では1975年の製品としてエルタスのHF-300Bを使った、シングルとPPのアンプがライ
ンナップされていますが残念ながら市場で実物を見たことがありません。KENオーディオの製
品は製作系雑誌の広告でよくみかけました。クリスキットは「電波技術」記事連載があったと
思います。「電波技術」廃刊後のことは、自分は明確な記憶がありません。キットとしてはこの
頃、トリオがケンクラフトのブランドでやっていましたが、管球アンプはありませんでした。
 
 エルタスですが、マリックス製のトランスを使っていたということで、マリックス製のトランスも
販売されていたようです。ドライバー用があり、シングルとPP兼用で、キットはこれを利用して
いたようです。300Bのアンプと言ってもトランス結合というマニアックな構成であった訳です。
品番はKEL-12でシングル構成で11W、価格は88000円。

<自作記事>
 この時期、製作記事では断然「無線と実験」(MJ誌)で、「金田式DCアンプ」(回路もさること
ながら逸話が)に対抗するように管球式アンプの発表がありました。まだWE300Bは一般に
は入手が難しく、海外の球もKT-88、KT-66などくらいを知る中、ヨーロッパ管がつぎつぎと変
わった球で紹介されました。さながら真空管の宝箱であった訳です。誌面の魅力的な写真、
特性などにため息をついたものです。何があっても3極出力管という時代から、古典管などに
魅力を持つ時代に入り、それ以前ほど、出力やひずみ率にアイとらわれる傾向は小さくなっ
ていったと思います。それだけに近代型の3極管の評価が分かれた時期で、6RA8、50
CA10、8045Gなどビーム管構造の内部3極接続管を好まないという60年代中期〜後期で
は考えられなかったであろう現象は、逆に5極管、ビーム管の3極接続、UL接続などで見直
されることになり、2A3のような3極直熱管が脚光をあびることになりました。その流れは、送
信管を含む直熱3極管の製作記事が増える結果となった訳です。一時期あったOTL真空管
アンプには大きな魅力はなく、真空管の良さを生かした、また出力トランスを蔑視するのでは
なくそこまでを音質として、より優秀なトランスを求める動きとなりました。

このタイミングをうまくとらえたのがタンゴ(平田製作所)でしょう。負帰還を用いるアンプでは
位相補償が伴う都合上、オシロスコープを持たない読者には、雑誌記事をそのまま作る必要
があり、実際にタンゴのトランスを使う記事に溢れたことは認知購買に大きく貢献していたは
ずです。この時期、やはりトランスメーカーでもあった、サンスイやラックスは興味がなかった
のか、広告や記事中にはほとんど現れて来ない状況で、秋葉原の店頭からも知らないうちに
消えていったと思います。初歩のラジオなどエントリーと思われる雑誌でさえ、300BやKT-88
と言った名球を使った本格的な管球アンプ製作記事が掲載されて行くようになりました。

 60年代から70年代にかけての真空管アンプの製作事情から言うと、明らかに初級、上級と
言ったクラス化は使う部品などであって、たとば初級者で言うと、回路構成ならシングルアン
プ、出力管ならMT管、トランスはサンスイHS-5といった具合。

  

タンゴのトランスの名前すら出ない頃もあった訳です。(当時の各社認知されたトランスが角
が丸められたデザインの中、角ばったねじなどもでた、品種的でCOくらい)
 初心者は、6BM8、6AR5と言った出力管。せいぜい6BQ5どまり。サンスイのHS-5あたりの
トランスだったと思います。
ラックスは初心者には贅沢で、小型丸みのあるSS-5B,4Bと言ったシリーズ。PP用の三味線
胴のような形状のCSZ、さらにOYと言ったシリーズは最高級品でした。
http://mtomisan.my.coocan.jp/page199.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/117.html#c1

[番外地8] 安倍首相とトランプ大統領が画策していた欧米資本による日本の銀行と大企業の乗っ取り
安倍首相とトランプ大統領が画策していた欧米資本による日本の銀行と大企業の乗っ取り
安倍首相もトランプ大統領も反グローバリストではなく欧米資本のエージェント。
アベノミクスで日本が米国債を買いまくった為に、1ドルが70円以下になると日本の対外純資産はマイナスになり、日本の資産はすべて外資に乗っ取られる。特に日本国債を日銀に売って、その金でアメリカ国債を買った日本の銀行はすべて債務超過になって欧米資本に乗っ取られる。

2018.5.28「安倍首相の売国政策を糾弾する」大西つねきの週刊動画コラムvol.28
https://www.youtube.com/watch?v=VFEBdHhOv5A

資金不足を続けている対外純債務国(10兆ドル;1,100兆円)が発行する米国債は、ゼロ金利の日本・欧州の金利と、2%から2.5%の金利差(イールド)があるという理由から、売れていきました。

しかし今は、コロナショックからのFRBの緊急利下げで、米国債も金利ゼロです。ゼロ金利のドル国債を買うと、日本、欧州、中国からはドル安のリスクを、金利ではカバーできません。

短期で投機的なドル先物買いの動きは別ですが、2年単位の中期では、債務国の通貨のドルに金利差がない時は、基軸通貨とは言っても「円に対してドル安」の材料になります。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/303.html

[番外地8] 日本は輸出と観光を辞め、労働力を国内のために使うべき
日本は輸出と観光を辞め、労働力を国内のために使うべき
観光客が10倍に増えてもサービスを受け取るのは外国人なので、GDPが大幅に増えたりはしない
訪日外国人が過去最多になり3,000万人を突破し、これも「大変良い事だ」と言われています。
観光客が増えたり輸出が黒字になったら、ドルから円に交換するので、円高を招いてしまうだけです。
外人観光客が日本に来ると、ドルを売って円を買いますから、永久的に円高圧力が高まります。

円高になると日本は輸出でダメージを受けるので、外人観光客が使った金は泡のように消えるのです。

これが世界一の純債権国なのに、日本が世界一貧乏になっている仕組みです。

観光客が3,000万人来日して一人数十万円ずつを日本円に交換したら、いったいどれだけ円高になるでしょうか?

私には安倍首相の外国人観光客誘致は、自分の首を自分で締めているようにしか見えないのです。


輸出と観光にはもう一つ問題があり、それは日本人の労働力が外国人のために「浪費」されるという問題です。

日本人観光客に日本人従業員が奉仕するのは問題ないが、国内労働力を外国のために使ったら、理論上経済成長の足を引っ張ります。


日本が貧困国家だった頃には、自動車を生産してアメリカ人に使ってもらい、日本はドルを受け取ってドルで国内に必要な物を買っていました。

今の日本が自動車を生産してアメリカに買ってもらっても、それで経済成長はできないのです。

逆にアメリカから見て日本の自動車を輸入するのは、日本人の労働者を雇ってアメリカの資産を増やしている事になります。

外国人観光客で経済成長はしない

工場が日本に存在するというだけで、生産した自動車はアメリカの資産になり、日本はドルという紙切れを受け取ります。

自動車は廃車になるまでアメリカで走ってアメリカのGDPを増やし続け、日本は輸出代金を受け取る。

だがドルを受け取ったために円高を招いてしまう原理は、先ほど説明した通りです。


困った事に日本経済を主導している財務省はこれを分かっておらず「輸出が増えるのは良い事だ」「観光客が増えるのは良い事だ」と考えている。

良い事かも知れないが、観光客や輸出がいくら増えても、それで日本のGDPが増えたりはしません。

日本の工場で生産した自動車をアメリカに輸出するのは、日本の労働力が日本の為に使われず、アメリカに移住したのと同じ事です。


逆にアメリカから見ると、住所が日本にあるだけで、工場で生産したものはアメリカの資産になるのであり、対価として紙切れを印刷して渡せば良いだけです。

この理屈は分かり難いのだが、国内の労働力を国内資産を増やすために使わないと、労働力不足なのに経済はマイナス成長という結果になる。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/304.html

[番外地8] DNA鑑定しない限り皇位継承の正当性の議論は意味無いよ: 明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった 中川隆
3. 中川隆[-11564] koaQ7Jey 2020年8月31日 22:06:26 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[3]
DNA鑑定しない限り皇位継承の正当性の議論は意味無いよ:
明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)


鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1

こういう話もあるけどタブーになってるね:

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁している理由

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/298.html#c3

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
7. 中川隆[-11563] koaQ7Jey 2020年8月31日 22:29:48 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[5]
31名無しさん@お腹いっぱい。2020/08/26(水) 07:34:39.32ID:8hlREdxp

鬼界噴火の影響で轟式土器集団が釜山周辺と山陰に進出した
https://i.imgur.com/MzGV2fP.png
https://i.imgur.com/uVpUZu9.png
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c7

[近代史5] 縄文人の起源 中川隆
14. 中川隆[-11562] koaQ7Jey 2020年8月31日 22:30:16 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[6]
31名無しさん@お腹いっぱい。2020/08/26(水) 07:34:39.32ID:8hlREdxp

鬼界噴火の影響で轟式土器集団が釜山周辺と山陰に進出した
https://i.imgur.com/MzGV2fP.png
https://i.imgur.com/uVpUZu9.png
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/195.html#c14

[リバイバル3] 真空管アンプ自作は時間と金の無駄 _ 自作では まともな音にならない 中川隆
11. 中川隆[-11561] koaQ7Jey 2020年8月31日 22:57:28 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[7]
アンプの音色は電源ケーブルで殆ど決まってしまう


ケーブル類について - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年07月25日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/41081149a50ba6ffb446e36cda77ff93


皆さんは「ケーブル」(配線)についてどのようなお考えだろうか? かたくなにケーブルの価格は¥15000までと決めておられる方もいらっしゃいます。どんな機器をお使いか?と尋ねるとCELLOのプリ+パワーアンプを使っているとの事。CELLOのプリ+パワーアンプなら当然¥100万円は軽々と超えている。


私の考えとは相いれないお考えだ。しかしそれも個人の自由、止めたりはしない。ただ、自分がケーブル材や配線で色々実験してきた結果や、「ケーブル」は「必要条件」である事の認識をしている。


どんなに高額な機器やSPであっても、ケーブルなしでは音は出ない。(必要条件の所以) 出て来たサウンドの半分以上は「ケーブル(配線)の音」である事。機器ばかりが音に影響しているのではないと云う事。


昔、オーディオ雑誌で色々な機器(アンプ)の比較試聴記が掲載されていたが、当時は「直だし電源ケーブル」全盛時代である。アンプの音など「電源ケーブル」の音で決まっていた。


電源ケーブルの重要性に気づいたパイオニア社ではエクスクルーシブC5・M5から独自の電源ケーブルを開発し採用し始めた。海外メーカーは1980年代から電源ケーブルをインレット化して、自由に好きな電源ケーブルが使える様になっていた。国産アンプメーカーがインレット化を始めたのは1990年代に入ってから・・・。如何に国産メーカーの「音質」に対する認識が甘いかが良く分かる。バランス回路についても同じことがいえる。


ただ一般ユーザーが困る事がある。国産のケーブル材の出来は「どんぐりの背比べ」的な処が強く、8N・OFC等とネーミングは良いが、芯材の断面積がφ10mm以上ないと使い物にならない。(音数的に) 更に、周波数特性的にも下も上も物足りない。更にもう一つ、「エネルギー感」が全く不足。 (安物ケーブルを束ねてSPケーブルにして実験してみると良い)


「耳に痛い音」が飛んでくるのは大体決まって、アンプやSPが「活性化していないか、ケーブル類の質と量(断面積)が極端に不足しているからである。


オーディオマニアと云いつつ「音質」を良くすることを避けている様では本当のマニアではないと思う。小さなシステムでもオーナーが精魂込めて成長させたシステムには聴かせる所が有る。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/41081149a50ba6ffb446e36cda77ff93


アンプの音色 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年07月24日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/beb50f68a6789981c2672b203f4fa1dd


漸く落ち着きだした自宅システム。サウンドも大きく変貌して来ました。その中で「アンプ」の「音色」について述べておきます。


マッキントッシュC22を模倣したこの自作プリアンプには、大きな癖や音色は有りません。ソースから入ってきた信号をそのまま即座にパワーアンプに送り出す様な非常に俊敏なプリアンプです。音色的には「ライトブルー系」の淡い色合いかとも思います。使っている球は12AX7(テレフンケン)と12AU7(フィリップス5814A)です。それぞれ試聴して、自分の耳に合格した球しか使いません。「ライトブルー系」の音色は「内部配線」の音色ですね。

プリアンプに対してパワーアンプのWE101Dの音色は確実に出ていますね。どう表現すれば良いのか?・・・・1960年代に良い映画館に行った時のサウンド(おそらくWEの球や機器を使ってある様な・・・)です。おそらく周波数特性的には上も下もあまり伸びてはいませんが、音の通りが良くて中域が非常に充実しています。内部配線の影響か?独特の音色もそう強烈ではありません。「楽音」の再現には申し分ないサウンドです。特筆すべきは音の粒立ちでしょうね。


私の7SPユニットシステム3種とも、すべてのケーブルを自作の最高峰ケーブルで接続しています。その結果、「見通しの良い音」(ベールが全くない)になっています。音数もソフトに入っている情報をすべて引き出して、且、さらに余裕をもってSPから音を出していると思っています。その為にケーブル類はとんでもない太さ(銀線で)に見えるかも知れません。一般的なケーブルの太さでないことは確かです。これは「ケーブル材の断面積」がすべての情報を引き出すために必要な「断面積」にしているからです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/beb50f68a6789981c2672b203f4fa1dd


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自宅システムもやっと一息 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年07月07日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1fa78a4adca12c9bde0e7323eca24fc8
アンプの場合、コンデンサーの種類や容量の大きさで「音色」や「音数」が変わる事は承知していますが、私から言わせれば「些細な変化」です。「内部配線」の交換は「革新的変化」をもたらします。


自宅システムも昨年からアンプの入れ替えが続き、落ち着かない日々が続いていましたがやっと安息の日が訪れ様としています。


LUXMAN M06α→クレルKST-100→エクスクルーシブM4→ディネッセン:アンタレス

と目まぐるしくアンプ交換して来て、今年に入りネットワークシステムでの「Wアンプ化」実験をして、ようやく元の鞘のWE101Dppパワーアンプ×2台のWアンプ化にこぎつけました。当初の構想から10年もの月日が経ってしまいました。


管球プリアンプとWE101Dppパワーアンプの内部配線は「特殊な銀線」に全て交換しています。クラスは当方の「ゴールドスターシリーズ」と同じ配線です。

一般の内部配線が銅線のφ0.5mm程度に対し、20倍以上の断面積と銀線の伝送特性です。超ハイスピードなアンプにしています。


サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html


アンプの場合、コンデンサーの種類や容量の大きさで「音色」や「音数」が変わる事は承知していますが、私から言わせれば「些細な変化」です。「内部配線」の交換は「革新的変化」をもたらします。「劇薬」にも例えられるでしょう。


現在はパワーアンプの活性化(多分約1か月くらいで完了すると思う)中で、バッハ:チェンバロ協奏曲集をMDで、おとなしいサウンドで楽しんでいます。


非常に穏やかなサウンドで音数が多くてSPの存在が消えています。SP間の音の密度が市販のアンプとは違います。多分「蜜月」の時代かも知れません。最新のアンプの音の出方とは一線を画します。真空管自体が100年前くらい古いものですので「古臭い音」と感じる事も有りましたが、今回の組み合わせで「一つの世界」を描いています。ないものねだりしても仕方がないし、このサウンドで充分満足しているのでこのまま使い続けていくだろうと思います。予備の真空管も十分ストックを持っています。多分出力管のWE101Dは私の代では消耗することはないと思います。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1fa78a4adca12c9bde0e7323eca24fc8

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内部配線を変えれば安物アンプと超高級アンプの差は無くなる
Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムも鳴り出し、安定化して来た
2020年08月05日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f54b1ca204acfdc0ccee867785001db8

サブシステムも「鳴り出し」て安定化して来た。そうなると「触る処」が無くなって来る。

D208システムをドライブしているサトリのミニプリ+ミニパワーアンプ。このアンプには私の「音質対策」が完了している。RCAソケットは全てフルテックのロジウム仕様の最高級品に交換済。パワーアンプのSP端子も同じくフルテックの最高級品に交換済。内部配線も可能な処は全て当方の「特殊な銀線」に交換済。これでD208システムが鳴らない訳がない。1週間ほどで眠りから覚めて来た様だ。

D208システムの内部配線も「特殊な銀線」ですべて配線している。SP端子もフルテックのロジウム仕様の最高級品。・・・と出来上がっている。サンスイのSP-70純正ツイーターを使っているが、D208との相性は抜群に良い。JAZZのシンバルの音が浮遊する。その点が、JBLオリジナル配線の#4425では出ないサウンドだ。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f54b1ca204acfdc0ccee867785001db8


高域用アンプやチャンデバは50年も前の代物ですが、これがレビンソンのアンプ顔負けくらいの良い音色のサウンドを出してくれます。

何も高価なアンプで無くても良いサウンドは出ます。電源ケーブルとラインケーブルにはNo1グレードのケーブルを使用しています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840


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サウンドトレール 店主のつぶやき
http://soundtrail.co.jp/p14.html

サウンドトレール
http://soundtrail.co.jp/index.html

サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html


・販売業者: サウンドトレイル株式会社

・責任者 : 代表  錦戸 敏重


〒834-0065
福岡県八女市亀甲170-7番地

TEL:0943-24-8660 
 携帯:090-1878-1529(こちらをご利用ください)

営業時間/AM10:00〜PM5:30

定休日/木曜日


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92834-0065+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%85%AB%E5%A5%B3%E5%B8%82%E4%BA%80%E7%94%B2%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%90%E2%88%92%EF%BC%97/@33.21935,130.531093,14z/data=!4m5!3m4!1s0x3541aee7af852b1b:0xeb18a97c68144bf6!8m2!3d33.2193603!4d130.5311334?hl=ja

サウンドトレイル株式会社 錦戸敏重のブログ

オーディオ回り道 | PHILE WEBコミュニティ 2009年01月-2014年10月
https://community.phileweb.com/mypage/2051/
https://community.phileweb.com/mypage/entry_list/2051/200901/

Mr.トレイルのオーディオ回り道 2007年06月03日-
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1602485bc6b748da4c4c1430b2e11cbe

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1006.html#c11

[番外地8] 「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない
「放漫財政論」や「貨幣プール論」は正しい、お金をこれ以上増やしてはいけない
通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。
国内で流通する貨幣の価値の総額は国の工業製品、農作物、サービス価格、輸出量等の供給能力で決まっているので、貨幣が増えても減っても貨幣価値の総額は変わりません。 貨幣の名目数値が増減するだけです。
マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。
詳細そもそも日本は 生産年齢人口が減っている、輸出額が減っている、生産効率は変わらないのだから、GDP も政府支出も日本株時価総額も増えないのが正常なのです。因みに、総資産はゴールドベース、プラチナベースとかシルバーベースで見ないといけない、ドルは紙屑化しているからドルベースで判断するのは NG。 詳細は
ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

東京金(ゴールド)の上場以来の約38年間のロングチャート
https://www.rakuten-sec.co.jp/web/commodity/lineup/gold/long_chart.html

【日本のマネタリーベース、マネーストック(左軸、兆円)、貨幣乗数(右軸、倍)】
http://mtdata.jp/data_71.html#MBMS

日経平均を金(ゴールド)グラム当たりに換算したグラフ
https://golden-tamatama.com/blog-entry-biggest-decline-gdp.html

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない

しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね。  日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている。

マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になる。
別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。
貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。
商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。
これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっているよ。

ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になっている。こういうのをハイパーインフレーションというんだよ 。

因みに、僕がハイパーインフレーションと言っているのは
日本国民が日本で生産された野菜やミカンが高くて食べられなくなる事
日本国民が日本で生産された雨傘や衣類や日用品が高くて買えなくなる事
日本人が使うものが年収10万円の中国の農民と同じになる事

GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

日本のマネーストック M2 が増加し続けているのに名目賃金が増えない(実質賃金が減り続けている)というのは大西つねきさんが問題にしていますね。大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです:

いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

現在は国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスで“超異次元緩和”を実施することによって、これまで(リーマン・ショック以後の金融緩和)にも増してカネが有り余った状態が作り出されようとしています。

日銀、FRB(米連邦準備理事会)、ECB(欧州中央銀行)を中心とした各国の中央銀行が注ぎ込んだ資金は既に1000兆円を超えました。


MMT の資金供給で労働者の実質賃金が下がった為に実体経済は冷え込み、製造業はじめ各種産業には資金需要がないため、だぶついたマネーがみな金融市場に流れ込み、

2020年3月中旬から6月末だけでも、世界の富豪ランキングでトップのジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)は資産が46%も増加し、1650億j(約18兆円)になっている。

同2位のビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)は12%も増えて1097億jに、同4位のウォーレン・バフェット(世界三大投資家)は6%増の715億j、同5位のラリー・エリソン(オラクル創業者)は19%増加して702億j、同7位だったフェイスブックCEOのザッカーバーグに至っては63%も資産を増やし、891億jになった。

億万長者としては全体でコロナ禍に世界が沈み込んだ14週間(3月中旬から6月末)の期間に6280億jも資産が膨れあがった。

国際金融資本(とチャンネル桜のアホ評論家)が強力に推進している MMTポリティクスが原因で、富める者は実体と乖離した有り余ったカネによって働かずして富を得て、その他の圧倒的な国民、社会を実際に下支えしている側は失業や貧困、生活が破綻しかねない現実に直面しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/305.html

[番外地8] 「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
いま220兆円を配らなければいけない理由:大西つねきからの緊急告知と拡散のお願い - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dawE3Kjgmbg

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
大西さんの話は間違いが多いですが、この部分は正しいです。

三橋貴明 「プライマリーバランス黒字化目標は、国民赤字化目標です。」
三橋貴明 「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、皆さんの純資産収奪になります」
というのは正確には
「プライマリーバランス黒字化目標は、大企業や資本家の利益赤字化目標です。」
「プライマリーバランスの黒字化は、政府の貨幣回収、大企業や資本家の皆さんの純資産収奪になります」
なんですね。 金融はゼロサムなので、資本家が得すれば労働者が損します。

三橋さんの言う「損する国民」には労働者は含まれていないのですね。
デフレの原因は労働者の購買力の低下ですから、三橋さんが考えている様な財政出動ではデフレから脱却できません。
いくら財政出動しても大企業と資本家が儲かるだけで、労働者の賃金は上がりません。

一方、大西さんが考えているデフレ対策は

・輸出額を輸入額と同じになるまで減らし、内需主導経済に変える
・資本家から労働者への富の再分配は税金(累進課税)で行うのではなく、利子ゼロの政府紙幣を大量発行して意図的にインフレを起こす事によって行う(インフレ税)
・土地の公有化を進める
・農民を準公務員にして食料自給率を80%以上にする。
・移民と留学生の受け入れを止める
・郵政、JR、電力、大病院等のインフラの国有化
・利子付きの国債の発行を止めて、無利子の政府紙幣を大量発行する
・年金の積み立ては廃止、年金はすべて政府紙幣で十分な金額を給付
・医療費と大学までの教育費はすべて無料にする
・消費税は廃止
・高速道路は無料化

政府紙幣を大量発行すると円の貨幣価値が暴落し(為替にはあまり影響しない)、資産家の金融財産が目減りするので、資産家の財産を国民全員に再分配するのと同じ事になります。労働者がインフレで食べて行けなくなったら、生活費はまた政府紙幣を大量発行してベーシックインカム的に配布すればいいのです。
現代は技術の進歩で全国民が必要とする食料も工業製品も労働者が1日に 2,3時間も働けば十分生産できるので、その程度の労働者への福祉は可能なのです。

円の価値が暴落しても日本の労働者の給料は変わらないので、人件費も上がらず、日本の商品価格は上がらないんですね。
つまり、円の価値が暴落しても国内の消費者物価は上がりません。
しかし、労働者の実質賃金が減って購買力がなくなるからデフレになるのです。


それから昔のイギリス植民地インドがそうだった様に、輸出すればする程国民が貧しくなってデフレが酷くなります。
輸出で儲けたドルは日本には戻らないでアメリカで再投資されるだけなんですね:

当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

インドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。


 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/306.html

[近代史5] レバノン人の起源
レバノン人の起源


雑記帳 2020年06月14日
鉄器時代から現代のレバノンの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html


 鉄器時代から現代のレバノンの人口史に関する研究(Haber et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代近東はユーラシア西部の主要な文化間の相互作用の中心に位置し、エジプトやヒッタイトやアッシリアやバビロニアやペルシアやギリシアやローマや十字軍やマムルークやオスマン帝国など、さまざまな勢力に支配され、そのほとんどは在来集団に永続的な文化的影響を残しました。しかし、そうした支配勢力の遺伝的寄与はさほど明確ではありません。

 以前の古代DNA研究では、近東の現代人のゲノムの90%ほどは、上記の征服前となる近東の青銅器時代集団に由来する、と推定されています。この結果は、歴史的記録に人口移動・植民化・地元住民との混合が残っていることと、対立するように見えるかもしれません。たとえば、紀元後1307年、マムルーク朝はレバノン沿岸を300の新たに移住させたトルクメン人に分割しました。ローマはベイルートとバールベックを植民地および駐屯地と宣言し、ヘレニズム期の兵士たちとその子孫たちの名前は、シドン(Sidon)で発見された碑文で読み取れます。

 レバノンの十字軍の埋葬地の被葬者の古代DNA分析では、ヨーロッパから近東への移住と在来住民との混合が一般的で、ある期間にはヨーロッパ系および在来系と両者の混合子孫という異質な集団が共存していた、と示されています(関連記事)。しかし、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。十字軍の事例は、多くの征服と移住の後でさえ、近東青銅器時代系統が依然として近東現代人集団のゲノムで支配的である理由を説明できるかもしれません。

 したがって、これまでの古代DNA研究から、二つの未解決の問題が提起されます。まず、近東において一時的な混合事象は一般的だったのか、あるいは十字軍の事例は例外的だったのか、ということです。次に、近東現代人のゲノムは青銅器時代近東集団系統にほぼ由来しますが、全てではないので、どの青銅器時代後の事象が、近東現代人集団で観察される遺伝的多様性に寄与したのか、ということです。

 こうした問題の解明のため、近東における紀元前800〜紀元後200年の新たな古代人のゲノムデータが生成され、それは鉄器時代2期(紀元前1000〜紀元前539年)と鉄器時代3期(紀元前539〜紀元前330年)とヘレニズム期(紀元前330〜紀元前31年)とローマ前期(紀元前31〜紀元後200年)の4期に区分されます。これらのゲノムデータは、近東の既知のゲノムデータと比較されました。それは、中期青銅器時代(紀元前2100〜紀元前1550年頃)とローマ後期(紀元後200〜634年)と十字軍期(紀元後1099〜1291年)と現代で、過去4000年にわたっています。

 まず、ベイルートで発見された被葬者67人の側頭部の錐体骨からDNAが抽出されました。そのうち19人で有意なゲノムデータが得られ、網羅率は0.1〜3.3倍です。この新たなデータと、既知の古代人および現代人のデータが組み合わされ、2つのデータセットが作成されました。セット1には、2012人の現代人および914人の古代人と815791ヶ所の一塩基多型が含まれます。セット2には、2788人の現代人および914人の古代人と539766ヶ所の一塩基多型が含まれます。

 これらの標本群のうち近親関係にあるのは、ペルシア帝国支配下の紀元前500年頃となる鉄器時代3期の女性SFI-43と男性SFI-44で、1親等の関係にあり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はともにT2c1です。セット2の全標本を対象とした主成分分析では、近東とヨーロッパとコーカサスとロシア草原地帯とアジア中央部および南部の集団が区別されます。現代のレバノンに居住していた古代人は、現代および古代の近東人とクラスタ化します。本論文で取り上げられた新標本群は、青銅器時代集団(シドン青銅器時代集団)と現代レバノン人の間でクラスタ化します。

 1親等の2人(SFI-43とSFI-44)は外れ値として表示され、同時代人とはクラスタ化せず、青銅器時代標本群近くに位置します。1親等の2人が古代レバノン人以外の集団に対して遺伝的類似性を有しているのか、検証されました。SFI-43は古代エジプト人とクレード(単系統群)を形成し、その系統の全てを古代エジプト人もしくは遺伝的に同等な集団と共有していた、と推測されます。SFI-44の系統はより複雑で、本論文のデータセットではどの集団ともクレードを形成しませんが、SFI-43・古代エジプト人・古代レバノン人とは系統を共有しているようです。

 SFI-43とSFI-44は古代エジプト人とクラスタ化し、現代もしくは古代レバノン人と現代エジプト人との間に位置しますが、SFI-44はSFI-43よりもレバノン人の近くに位置します。SFI-43とSFI-44は1親等の関係にあるものの、その遺伝的系統は異なるようなので、SFI-44が、SFI-43由来の系統と、本論文のデータセットにおける他の個体群もしくは集団との混合なのかどうか、qpAdm を用いて検証されました。SFI-43はSFI-44と関連する集団の系統から70%と、古代レバノン人関連集団から30%の混合としてモデル化できます。しかし、これらの系統の割合は、家系において1回以上の混合が起きていなかったら、2人の1親等の関係を反映していません。

 そこで、古代エジプト人と古代レバノン人との間の1親等の混合を表す交雑ゲノムが再現され、SFI-44がSFI-43と交雑ゲノムとの間の混合に由来するとモデル化できるのかどうか、検証されました。そのモデルでは、SFI-44は系統の50%をSFI-43から、50%を交雑ゲノムと類似した系統の個体から有している、と示されます。したがって、SFI-43はエジプト女性で、SFI-44はその息子となり、父親はエジプト人とレバノン人両方の系統を有する、と示唆されます。レバノンにおけるこの家族の構造は、当時の集団移動と異質な社会を強調しますが、この文化間混合が一般的だったのか、それとも例外的だったのか理解するには、追加の標本抽出が必要です。SFI-43とSFI-44は、地域的な個体群が各期間を表すよう集団化される以下の分析では除外されています。

 連続した8期間の遺伝的表現により、経時的に連続した2集団がクレードを形成するのかどうか、その系統が共有される祖先集団にすべて由来するのかどうか、もしくはその後の混合が発生し、2集団がその結果としてクレード関係を失ったのかどうか、検証されました。まずf4統計では、本論文のデータセットにおける「古代」と関連した遺伝的変化が、レバノンの連続した2期間で起きた、との結果が得られました。青銅器時代の後、鉄器時代2期の開始において、古代ヨーロッパ人および古代アジア中央部人と関連するユーラシア系統の増加に特徴づけられる、有意な遺伝的変化が明らかになりました。

 この検証では、鉄器時代2期と3期の間の有意な遺伝的違いは観察されなかったので、この2期間の標本群は1集団としてまとめられ、qpAdmを用いて鉄器時代の混合モデルが調べられました。レバノン鉄器時代集団は、在来の青銅器時代集団(63〜88%)と古代アナトリア半島人もしくは古代ヨーロッパ南東部人(12〜37%)の混合としてモデル化できます。また、ヨーロッパ人で典型的に見られる草原地帯的系統が、鉄器時代2期の始まりに近東に出現することも示されました。この外来系統の起源として可能性があるのは、青銅器時代の後、紀元前1200〜紀元前900年頃に地中海東部地域を襲撃した「海の民」です。混合の成功モデルの一つでは、ベイルートから南方に約170kmに位置するアシュケロン(Ashkelon)の鉄器時代1期集団と関連する系統を含んでおり、以前には「海の民」関連の混合に由来するかもしれない、と推測されていました。さらに、古代エジプト考古学では、「海の民」はレヴァントを征服したものの、エジプトの征服には失敗した、とされています。

 鉄器時代におけるレバノンへのユーラシアの遺伝子流動が、古代エジプトに到達したのかどうか、時空間的に草原地帯系統を定量化することで検証され、古代エジプトは、レヴァントが鉄器時代に受けたユーラシア人からの遺伝子流動を受けたか、ユーラシア系統はエジプトでアシュケロンのように置換された、と示唆されます。アシュケロンでは、ベイルートの鉄器時代2期とは対照的に、ヨーロッパ系統がもはや鉄器時代2期集団では有意には見られません(関連記事)。レヴァントとエジプトからのさらなる鉄器時代標本により、鉄器時代の混合が起源集団の位置の結果として北から南への勾配を示すのか、それともこの期間のレヴァントにおける北方もしくは南方への成功した移住の規模の違いに由来するのか、解明されるでしょう。

 古代レバノンにおける第二の遺伝的変化は、ヘレニズム期とローマ前期で観察できます。本論文はこの2期間の個体群を1集団に統合しました。それは、この2期間の個体群の中に放射性炭素年代で重なる個体も存在したことと、f4統計では両期間の集団間で対称性が示されたからです。ヘレニズム期とローマ前期の集団は、在来のベイルート鉄器時代集団(88〜94%)とアジア中央部・南部集団(6〜12%)の混合としてモデル化できます。セット2において古代および現代レバノン人集団間で共有されるハプロタイプ区分の分析では、ヘレニズム期の2人(SFI-5とSFI-12)とローマ前期の1人(SFI-11)は、アジア中央部および南部人と過剰なハプロタイプを共有しており、qpAdmの結果が確認されました。

 古代レバノンとアジア中央部および南部との関係はまた、現代レバノン人のY染色体ハプログループ(YHg)に存在するL1a1(M27)でも現れます。YHg-L1a1は現在アジア中央部および南部では一般的ですが、他地域では稀です。YHg-L1a1である5人のレバノン人の合着年代を検証すると、紀元前450〜紀元後50年頃となる男性1人に由来する、と明らかになり、これはヘレニズム期と重なります。

 ヘレニズム期のレバノンにおけるアジア中央部・南部系統の存在は、アレクサンドロス(マケドニア)帝国支配下の接続された地理を反映しており、それはアレクサンドロス帝国に先行したペルシア帝国(アケメネス朝、ハカーマニシュ朝)も同化し、5世紀にわたって東西間の接続を維持しました。これらの大帝国は、エジプトとレバノンの家族に直接的に見られるように、人々の移動と混合を促進し、本論文では近東における混合個体群が示されます。

 ヘレニズム期およびローマ前期とローマ後期との間の遺伝的変化の検証では、f4統計からはほとんど遺伝的変化が見られませんでした。一方、この時期のローマでは、近東とヨーロッパの間の有意な集団移動が指摘されています(関連記事)。ローマ後期個体群をヘレニズム期およびローマ前期集団と他の古代集団との混合としてモデル化すると、古代アナトリア半島人およびヨーロッパ南東部人を含む成功モデルが見つかります。しかし、この系統はすでに鉄器時代の始まりからレバノンに存在していたので、ローマ後期個体群における在来集団遺骸の要素は、人口構造に起因している可能性があります。とくに、ヘレニズム期およびローマ前期標本群が沿岸地域から得られたのに対して、ローマ後期標本群は遠い山岳地域から得られており、さらに、混合モデルはベイルート鉄器時代集団を在来系統の起源として用いると有意ではないので、ローマ後期個体群は先行する在来集団にその系統の全てが由来する、と示されます。

 ローマ後期から中世にかけて、アフリカ系統の増加が検出されますが、これは統計的有意性をわずかに下回ったままで、アフリカ東部人を混合モデルで用いると、中世レバノン人の系統の2.9%以下を占めます。レバノンで観察された最後の遺伝的変化は十字軍期の後に起きましたが、上述のように、十字軍によるヨーロッパ系と在来集団との混合は永続的な遺伝的影響を残さなかったようで、レバノンの現代人において十字軍系統は検出困難なほど「希釈」されました。

 レバノンの人類集団におけるこの最後の遺伝的変化は、十字軍の影響ではなく中世の後に起き、コーカサスおよびトルコからの集団と関連した系統の増加が明らかになります。混合により起きた連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)崩壊を用いると、この混合はレバノンがオスマン帝国支配下にあった紀元後1640〜1740年頃に起きた、と示されます。連鎖不平衡崩壊検証はまた、ヘレニズム期に起きた有意な混合を検出し、それは本論文で分析された古代個体群からのより直接的な推定と一致します。

 セット2のデータを用いて、古代および現代レバノン人のデータを混合グラフに適合させると、他の古代集団との関係が示されます。グラフは上述の結果を支持し、青銅器時代以降のレバノンにおけるかなりの遺伝的連続性を示します。その間の主要な混合事象は3回で、鉄器時代とヘレニズム期とオスマン帝国期です。それぞれ、3%と11%と5%の外来系統の遺伝的寄与があった、と推定されます。以下、この関係を示した本論文の図3です。

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 本論文は、鉄器時代からローマ期の近東古代人の全ゲノム配列データを新たに提示し、それは主要な歴史事象と集団移動により特徴づけられる期間に及んでいます。本論文のデータは、これらの事象の遺伝的結果を捕捉しますが、一般的集団の遺伝的構成への影響は最小限で、近東における大きな文化的移行は、これらの事例では同等の遺伝的移行とは合致しないことも示します。支配層の交替による文化的変化は大きかったものの、多数を占める非支配層の遺伝的構成には大きな影響が及ばなかった、ということでしょうか。

 本論文で示されたように、時系列から標本抽出された古代集団を用いて検出される小さな遺伝的変化は、利用可能な歴史的記録を補足しており、歴史学においても古代DNA研究の役割はますます大きくなっていくだろう、と予想されます。日本史の研究においても、近いうちに古代DNA研究の成果が頻繁に活用されるようになるかもしれません。そうすると、現代日本人の基本的な遺伝的構成が古墳時代までにほぼ確立したことや、その後の小さいものの明確に検出されるような、地域間の移動も確認されるかもしれません。もっとも、これはあくまでも現時点での私の推測で、じっさいにどうだったのか、日本列島の前近代人を対象とした古代DNA研究が進展するまで断定はできませんが。


参考文献:
Haber M. et al.(2020): A Genetic History of the Near East from an aDNA Time Course Sampling Eight Points in the Past 4,000 Years. The American Journal of Human Genetics, 107, 1, 149–157.
https://doi.org/10.1016/j.ajhg.2020.05.008


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/284.html

[近代史5] フランス人の起源

フランス人の起源


雑記帳 2020年06月02日
中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html


 中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史に関する研究(Brunel et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。過去1万年、ユーラシア西部集団は2回の大きな文化的変化を経てきました。最初は、新石器時代における狩猟採集生活様式から食料生産に基づき生活様式への移行です。その次が、紀元前三千年紀と紀元前二千年紀における冶金術の発展と改善で、青銅器時代となり、次に鉄器時代へと発展しました。古代ゲノムは過去の集団を特徴づけるのに役立ってきました。通時的連続は、ヨーロッパと定義された地域の時間的なゲノム規模動態を調査してきており、これらの文化的変化が、ユーラシア西部集団の遺伝的構成を深く変えた人口統計学的変化の結果だった、と明らかにしました(関連記事)。

 現在のフランスでは、これらの移行の基礎となる人口統計学的過程は、地域全体の規模ではまだ調査されていません。部分的なミトコンドリア配列情報もしくは部分的なY染色体配列に基づいて、個々の考古学的遺跡に限定された一握りの研究が行なわれてきただけです。その地理的位置により、フランスはヨーロッパ西部の集団移住の理解に戦略上重要な位置を占めます。北部の新石器時代線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)と、南部のインプレッサ・カルディウム複合(the Impressa and Cardial complexes、略してICC)という新石器化のヨーロッパ中央部および地中海の両方の傾向は、フランスで確立ましたが、その相互作用の程度は未解決のままです。さらに、青銅器時代と鉄器時代の始まりにおける、ヨーロッパ全域の冶金術の発展と拡大のランスにおける遺伝子プールへの影響は、まだ不明です。

 本論文は、農耕開始前の中石器時代から鉄器時代までの7000年にわたる人口統計学的動態を調査するため、54ヶ所の異なる考古学的遺跡から標本抽出された243人を遺伝的に分析し、完全なミトコンドリアゲノムと、Y染色体を含む核の一塩基多型データを提示します。分析された243人のうち、40人で直接的な放射性炭素年代測定結果が得られました。また、223人で完全なミトコンドリアゲノムが得られ、62人の男性でY染色体ハプログループ(YHg)が決定されました。これらヨーロッパ西部のデータは、これまで欠けていた地理的間隙を埋め、ヨーロッパにおける過去の人口動態のより全体的な視野を可能とします。


●フランスの中石器時代の基層

 フランスのシャラント(Charente)県アグリス(Agris)のレペラッツ(Les Perrats)遺跡の中石器時代5人のゲノムデータが生成されました。放射性炭素年代測定法による較正年代は紀元前7177〜紀元前7057年で、この中には低網羅率のショットガン配列の3人が含まれます。この5人は全員ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)がU5bで、以前の研究で示されているように、mtHg-U5bは中石器時代のフランスでは主流で(85%)、U5a(15%)が続きます。

 フランスで発見された中石器時代狩猟採集民は、ゲノム規模の主成分分析では端に近く、ヨーロッパ西部中石器時代個体群の近くに位置します。14000年前頃となるイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体の系統が、ヨーロッパ西部および中央部全域で完新世狩猟採集民において支配的である一方で、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)に表されるマグダレニアン(Magdalenian)関連系統が、イベリア半島では完新世まで続いていた、と報告されています(関連記事)。

 イベリア半島の狩猟採集民ではこの両系統が見られますが、他のほとんどの地域ではヴィラブルナ関連系統のみが存在します。フランスの狩猟採集民におけるこの後期更新世2系統の割合を調べるためqpAdmが用いられ、レペラッツ遺跡の狩猟採集民は、スペインの中石器時代のラブラナ(La Braña)もしくはカネス1(Canes1)遺跡の個体群と比較して、相対的に高いマグダレニアン関連系統(31.3〜45.6%)を有しており、イベリア半島外の狩猟採集民におけるマグダレニアン関連系統が示唆されます。最近公表された研究でも、フランスで発見された新石器時代個体群のゲノムでマグダレニアン(ゴイエットQ2)関連系統が確認されています(関連記事)。


●フランス新石器時代における移住と混合の継続的な波

 新石器時代開始時のアナトリア半島新石器時代系統の到来は、単系統遺伝(父系と母系)でもゲノム規模でも明確です。紀元前5300年前頃に始まるフランスの新石器時代農耕民の母系は狩猟採集民よりも多様で、時間の経過に伴い頻度が変動します。前期および中期新石器時代個体群は、ヨーロッパ南部と遺伝的類似性をより多く共有しており、その遺伝的多様性は同時代のヨーロッパ集団に含まれます。LBK関連個体群のうち3人は、他のヨーロッパ中央部前期新石器時代(EN)個体群と遺伝的にクラスタ化し、LBK関連の他の早期農耕民と遺伝的浮動を共有します。フランス北東部の7100年前頃となるMor6個体は、LBK関連個体群として例外的に、イベリア半島EN個体群の遺伝的多様性の範囲内に収まり、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の共有されたアレル(対立遺伝子)の最高の割合を有します。qpAdmでその起源を検証すると、アナトリア半島新石器時代系統とゴイエットQ2の混合モデルが最適で、従来これはイベリア半島のEN個体群でのみ報告されてきた構成です。

 Mor6個体はゴイエットQ2系統の最北端の事例となります。これまで、ヨーロッパで新石器時代農耕民と混合したヨーロッパ西部の狩猟採集民集団におけるマグダレニアン(ゴイエットQ2)関連系統は、中石器時代狩猟採集民の遺伝的データの不足のため、明確ではありませんでした。イベリア半島におけるこの系統の観察は、ICCをLBK新石器時代移民と区別する特徴として解釈されてきました。ゴイエットQ2系統が、9100年前頃となるフランス西部のレペラッツ遺跡や、フランス中央部東方の15500年前頃となるRigney1(リニー1)遺跡や、ドイツ南西部の15000年前頃となるホーレフェルス(Hohlefels)および14600年前頃となるブルクハルツヘーレ(Burkhardtshöhle)という洞窟遺跡で発見された狩猟採集民で、ヴィラブルナ系統と一緒に見つかったという観察は、むしろこの混合がヨーロッパ西部の狩猟採集民の特徴であることを示唆します。本論文のデータセットで唯一の男性中石器時代個体のYHgがIである一方、フランスのLBK個体群のYHgは相対的に多様で、C1a2・G2a・H2に区分されます。

 フランス東部では、中期新石器時代への移行は、紀元前4700〜紀元前4500年頃となるドナウ川圏のグロスガルタハ(Grossgartach)文化の個体群に代表されます。グロスガルタハ文化個体群は、mtHg頻度とゲノム規模両方の主成分分析では、同時代のヨーロッパ中央部個体群と近く、ドナウ川圏内の遺伝的均一性が示唆されます。フランス北部の中期新石器時代個体(BUCH2)は、アナトリア半島新石器時代系統とともに狩猟採集民系統を有しており、この狩猟採集民系統はゴイエットQ2系統とヴィラブルナ系統との混合です。ここでも改めて、ゴイエットQ2系統が新石器時代ではヨーロッパ南西部に固有ではない、と確認されます。

 しかし、LBK個体群からWHGへの微妙な変化が観察され、WHGとの共有アレルの増加が反映されています。これは、ヨーロッパ全域における他の古代集団からの観察を反映しており、割合はより高くなっています。この現象はフランスではひじょうに早く出現するようで、新石器時代でも時代が進むと、さらにWHG関連系統が強くなります。mtHgでも、中期新石器時代以降の農耕民で、中石器時代狩猟採集民に特有の系統がさまざまな頻度で見られるようになり、たとえばU5bです。フランス北東部のシャンパーニュ地域で支配的なこれらのmtHgは、在来の狩猟採集民と拡散してきた農耕民との混合のさまざまな割合を示唆します。紀元前4500年頃以降となる中期新石器時代の後半になると、フランス北部および南部の個体群は、主成分分析ではほとんど区別されません。イベリア半島とは異なり、フランスの古代集団における新石器時代系統の起源となった移民は、明確には確定できませんでした。qpAdmを用いると、フランスの中期新石器時代後半の個体群における狩猟採集民系統の起源は、フランス南部の個体群のみ、ゴイエットQ2的系統のさまざまな水準を有しており、異なる狩猟採集民集団との混合が示唆されます。


●フランスの鐘状ビーカー複合期

 新石器時代末に、鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex、略してBBC)が出現し、ヨーロッパ中に広がりました。BBCは地理的分布が広範で、在来の後期新石器時代および銅器時代文化と共存しているという点で、独特です。本論文はBBC関連の2人(CBV95およびPEI2)を報告しています。フランスのBBC関連個体群は、ユーラシア草原地帯系統のさまざまな割合を示します。フランス北部のCBV95は、本論文のデータセットでは草原地帯系統のヤムナヤ(Yamnaya)系統の割合が最高となり、YHg-R1b1a1bで、紀元前2500年頃のフランスにおいてYHg-R1bの存在の最初の明確な証拠となります。YHg-R1bは後期新石器時代のヨーロッパ中央部における草原地帯からの移民の到来と関連づけられており、ヨーロッパの他地域とフランス南部のBBC関連個体群で報告されていますが、青銅器時代前のイベリア半島ではほぼ見られません。

 BBC人工物を伴うフランス南西部のカルカソンヌ(Carcassonne)近くの埋葬遺跡で発見された男性個体PEI2は、主成分分析では新石器時代個体群の遺伝的多様性の範囲内に収まります。しかし、アナトリア半島新石器時代とヴィラブルナとヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の3集団をソースとした混合比率のモデル化では、PEI2で28.3%の草原地帯系統が検出されます。これらの観察は以前の知見と一致し、草原地帯系統が後に出現し、ヨーロッパ南西部ではヨーロッパの他地域よりも低い影響を及ぼした、と確証します。CBV95でもPEI2でも、混合モデルではヴィラブルナ系統は含まれず、既知の後期新石器時代個体群とは異なります。


●青銅器時代と鉄器時代の相対的な連続性

 フランスの青銅器時代の個体群は、低頻度ながら新たなmtHgであるU2・U4・Iを示します。ヨーロッパ東部集団と後期新石器時代ヨーロッパ中央部集団で最初に報告されたこれらのmtHgは、青銅器時代の始まりにおけるポントス草原地帯牧畜民の母系に由来する集団との遺伝子流動を示唆します。BBC関連個体CBV95における早期出現で示されているように、青銅器時代にはYHgの劇的な置換が起き、本論文の標本でも、YHg-R1bが既存の新石器時代系統の多様性を置換しました。青銅器時代では13人のうち11人、鉄器時代では10人のうち7人がYHg-R1bです。

 青銅器時代と鉄器時代のフランスの個体群は、主成分分析では共通の位置を占め、現代のヨーロッパ中央部個体群の方へと移動し、青銅器時代のブリテン島およびヨーロッパ中央部の遺伝的多様性の範囲内に収まり、草原地帯構成は均質化します。ヨーロッパ中央部とは対照的に、鉄器時代にはユーラシア東部の遺伝子型へのさらなる移動は見られません。代わりに、青銅器時代個体群間で不均一に分布していた草原地帯構成(30〜70%)は均一になっていき、フランスのハルシュタット(Hallstatt)文化およびラ・テーヌ(La Tène)文化の個体群は、現代人および古代人の両方へと似た類似性を示します。

 これは、フランスにおける青銅器時代から鉄器時代への移行が、おもに文化拡散に起因しており、外部集団からの大きな遺伝子流動がなかったことを示唆します。この知見は、鉄器時代後半のケルト人がすでにヨーロッパ西部で確立されていた集団の子孫で、BBCの境界内にいた、という考古学的および言語学的仮説と一致します。しかし、青銅器時代までのヨーロッパ集団間の相対的な遺伝的均質性のため、ヨーロッパの異なる地域間のその後の移住は、これまでの水準の網羅率では容易に気づかれないかもしれない、と本論文は注意を喚起します。以下は、系統構成の経時的変化を示した本論文の図1です。

画像
https://www.pnas.org/content/pnas/early/2020/05/20/1918034117/F1.large.jpg


●表現型関連の遺伝標識の分析

 変化する生活様式と環境への遺伝的適応の進化的年表を調べるため、身体および生理学的特性と関連する、73人の常染色体遺伝子座が分析されました。まず、目や肌の色(色素沈着)と関連する遺伝的多様体(SLC24A5・SLC45A2・GRM5・HERC2・IRF4・TYR)が調べられました。中石器時代狩猟採集民とアナトリア半島新石器時代農耕民は、色素沈着アレルで異なっており、後者は現代ヨーロッパでほぼ固定されている明るい肌と関連する派生的アレルを有していますが、前者はむしろ濃い色の肌と明るい色の目を有します。中石器時代個体群は、SLC45A2とGRM5遺伝子座で祖先的な色素沈着多様体を有しており、より濃い色の肌と関連しています。対照的に、フランスの新石器時代集団ではこれら2遺伝子座の派生的アレルが顕著に高くなっていますが(SLC45A2で24.9%、GRM5で38.4%)、現代ヨーロッパにおけるこれらのアレルの頻度(SLC45A2で93.8%、GRM5で68.9%)よりはずっと低くなっています。SLC24A5は明るい肌の色と関連している主要な変異で、本論文で分析された新石器時代集団の96%で見られ、現代ヨーロッパにおける99%に近くなっています。

 これらの結果は、フランスにおけるそれらの変異の異なる進化的年表を示唆し、明るい肌の色という類似した表現型は、いくつかの選択事象の結果である可能性が高そうですが、こうした特製の遺伝的決定はより複雑で、これら3遺伝子座だけではコードされていない可能性が高いでしょう。目の色に関連する多様体(HERC2とIRF4)を有する中石器時代個体は、青い目と関連するアレルを有しています。新石器時代には、これら2多様体の頻度はそれぞれ29.6%と24.4%に達しました。興味深いことに、これら2多様体は新石器時代後の軌跡が異なるようです。HERC2の頻度は青銅器時代に37.5%から上昇して現代ヨーロッパで最終的に63%以上に達しましたが、IRF4は青銅器時代の23.81%から現代の11%に低下しました。遺伝型の特定された新石器時代個体群は誰も現代ヨーロッパ人の乳糖耐性関連変異を有しておらず、この変異のもっと後の起源と一致します。

 現代ヨーロッパ人集団における最近の正の選択の痕跡を示す、いくつかの自然免疫関連多様体も分析されました。多くの免疫応答関連遺伝子(NOS2A・TOLLIP・CCL18・STAT6・IL3)に関して、現代ヨーロッパ人と派生的アレルの頻度が比較されました。その結果、これらの遺伝子座の選択が新石器時代に先行する一方で、TLR1–6–10遺伝子座(自然免疫応答関連のToll様受容体ファミリー)の多様体の頻度は、フランス新石器時代集団では現代ヨーロッパ人よりもずっと低い、と示唆されました。TLR1–6–10遺伝子クラスタは、ハンセン病か胚結核か他の結核への耐性と関連している可能性があります。本論文のデータは、農耕と家畜への接近の開始がこの遺伝子座への選択圧とはならなかった、と示唆します。同様に、SH2B3もしくはSLC22A4におけるセリアック病と関連する多様体は、さまざまな環境毒素の炎症と除去に果たす役割に起因する正の選択の標的だった可能性がありますが、フランス新石器時代集団では現代人集団の頻度には達していません。


●まとめ

 古代ゲノム研究によるフランスの7000年の人口史は、現代ヨーロッパ集団で依然として痕跡の見られる、多くは大きな文化変化と混合事象を伴う、連続的な移動事象を明らかにします。フランス西部の中石器時代個体群のゲノムデータは、ゴイエットQ2に表される上部旧石器時代のマグダレニアン関連系統の遅い存続が、イベリア半島に限定されていなかった、と示します。この知見は、マグダレニアン関連系統が見られる地域を拡大し、この混合がどこで起きたのか、という問題を提起します。ヨーロッパ西部からのより多くの個体が、マグダレニアン関連系統の歴史をよりよく特徴づける研究に必要です。

 フランス北部の新石器時代人がアナトリア半島の早期農耕民の子孫で、したがって在来の狩猟採集民とは異なる集団を形成した一方で、その後の狩猟採集民との混合が検出され、農耕共同体との漸進的な統合が支持されます。狩猟採集民との混合の過程は、広範ではあるものの、地域的な変性と起源を示します。しかし、フランス南部の利用可能なデータは乏しく、LBKとICCの間の接触が起きたのかどうか結論づけることも、それに続く新石器時代文化に存在するかもしれない遺産を識別することもできません。他のフランス北部および南部の他地域のゲノムデータが、中期および後期新石器時代の異なる文化集団の起源と関係に関する仮説を確証するのに必要です。

 常染色体遺伝子座の研究は、フランスの新石器時代の人々と現代ヨーロッパ人との間の違いを明らかにしました。派生的アレル頻度は、高緯度と食性変化への適応と一致する、色素沈着と食性と免疫に関連する遺伝子座への選択を示唆します。また、フランスの中石器時代狩猟採集民も新石器時代農耕民も乳糖耐性アレルを有しておらず、青銅器時代末までにのみこのアレルの存在を報告した、より東方の新石器時代集団に関する研究と一致します。

 本論文の重要な結果は、フランスにおける青銅器時代と鉄器時代の個体群間の遺伝的継続性ですが、鉄器時代の個体群間では異質性がより低下しています。そのような状況では、ヨーロッパのある地域から他地域へけいの移動の追跡はより困難になるので、より深い時空間的分析が必要です。

 最近、中石器時代と新石器時代のフランス全域を対象とした古代ゲノム研究が公表されましたが(関連記事)、本論文はそれよりもさらに対象とする時代を拡大しています。本論文の見解は、じゅうらいの研究と大枠では一致していますが、最近公表された研究と同様に、イベリア半島外での新石器時代におけるマグダレニアン(ゴイエットQ2)関連系統の存在を報告するなど、新たな知見を提示しています。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究はユーラシア東部よりもずっと進んでいますが、より詳細なヨーロッパ人口史の解明には、さらに古代ゲノムデータが必要となります。本論文では、フランスにおける青銅器時代と鉄器時代の集団間の相対的な遺伝的連続性が示されていますが、本論文で指摘されているように、より高解像度の研究が提示されれば、ある程度大きな遺伝的変化が見えてくるかもしれません。日本人の私としては、ユーラシア東部、とくにアジア東部とヨーロッパとの古代DNA研究の差が今後少しでも縮まっていくよう、期待しています。


参考文献:
Brunel S. et al.(2020): Ancient genomes from present-day France unveil 7,000 years of its demographic history. PNAS, 117, 23, 12791–12798.
https://doi.org/10.1073/pnas.1918034117

https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/285.html

[近代史5] スイス人の起源
スイス人の起源

雑記帳 2020年04月28日
中期新石器時代〜前期青銅器時代のスイスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_43.html


 中期新石器時代〜前期青銅器時代のスイスの人口史に関する研究(Furtwängler et al., 2020)が報道されました。遺伝学的研究により、新石器時代のヨーロッパ中央部の人々は遺伝的に、先住のヨーロッパ狩猟採集民と、アナトリア半島西部早期農耕と関連した系統を有する新たに侵入してきた人々との混合だった、と明らかにされてきました。青銅器時代への移行直前の新石器時代末期には、ヨーロッパで新たな系統構成の到来が遺伝的に検出され、それはヨーロッパ中央部と東部の縄目文土器複合(Corded Ware Complex、CWC)の出現と一致します。この新たな遺伝的構成は、ヤムナヤ(Yamnaya)複合と関連する個体群で見られる、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの系統と最も密接に関連していました。この新たなヨーロッパ第三の系統構成は、ヨーロッパの多くの地域で証明されていますが、その他の他地域における到来の正確な年代は、この遺伝的混合の基礎となる人口統計学的過程と同様に、あまり明確ではありません。

 スイスの新石器時代は考古学的に、有機物が保存されている湖岸と沼地の定住地遺跡、ローヌ渓谷の高山遺跡、高山峠遺跡で占められています。定住地遺跡とは別に、新石器時代末期になると巨石墓など石製の遺跡が発見されてきました。湿地帯遺跡の木製品など、スイスでは年代測定可能な新石器時代の遺物が豊富に発見されており、ヨーロッパ中央部の人口史の研究に寄与しています。スイスにおけるCWC関連発見物は、湖岸の居住地で排他的に発見されており、東部のチューリッヒ湖地域と西部の三湖地域でとくに多く発見されています。ヌーシャテル湖(Lake Neuchâtel)の遺跡は、CWCの影響を受けた地域の南西端に位置します。東部では、新たな縄目文土器様式が急速に採用された一方で、西部ではこの過程が数世紀続きました。

 湖岸や湿地には多くの新石器時代および前期青銅器時代遺跡がありますが、それらと直接的に関連した埋葬はありません。これは、すでに紀元前五千年紀には石の墓が用いられていたからでもあります。しかし、この埋葬習慣はおそらく紀元前3800年頃に終わり、その頃には湖岸の居住地が多くなり始めました。前期青銅器時代の埋葬は、ローヌ渓谷など内陸部高山地域に集中しており、この時期の湖岸の居住地は知られていません。多くの墓がある期間では居住地がなく、その逆に多くの居住地がある期間では対応する埋葬がありません。そのため、これまでに刊行されてきたスイスの古代ゲノムは4個体分だけです。そのうち1個体は後期更新世狩猟採集民で、残りの3人は鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象と関連しており、支石墓に埋葬されています。

 本論文は、新石器時代から青銅器時代のスイスにおける遺伝的構成の移行、つまり草原地帯関連系統の到来時期・起源・混合過程と、この移行の前後の社会的・人口統計学的構造について、詳細に調査します。本論文は、スイスとドイツ南部とフランスのアルザス地域の、新石器時代から前期青銅器時代の96人のゲノム規模データを報告します。また、前期鉄器時代とローマ期から1人ずつ、ゲノム規模データを報告します。年代はすべて放射性炭素年代測定法に基づいています。

 96人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、N1a・W・X・H・T2・J・U2・U3・U4・U5a・U5b・K・U8です。全ゲノム解析では、120万ヶ所の一塩基多型が特定され、その中にはX染色体の49704ヶ所と、Y染色体の32670ヶ所も含まれます。Y染色体ハプログループ(YHg)はおもに、G2a2a1a2a・I2a1a2・R1b1a1b1a1a2b1です。この96人の遺伝的データは、ヨーロッパ中央部および西部の同時期の個体・アナトリア半島新石器時代農耕民・ポントス-カスピ海草原の同時代399人、さらには現代人と比較されました。

 主成分分析では、異なる2クラスタが識別されました。一方は紀元前4770〜紀元前2500年頃の個体群で、もう一方は紀元前2900〜紀元前1750年頃の個体群です。このうち最古級の個体群はアナトリア半島関連早期農耕民に近く、もっと後の巨石埋葬文化の個体群は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)およびイベリア半島もしくはドイツ中央部の前期〜中期新石器時代個体群の方へと移動するとともに、現代サルデーニャ島個体群に近縁です。この移動は、ヨーロッパの他地域でも観察されている、中期新石器時代における狩猟採集民系統の増加を反映しています(関連記事)。

 紀元前2900〜紀元前1750年頃のクラスタは、それ以前の個体群と比較して、それ以降の他のヨーロッパ集団と同じように、ヤムナヤ文化関連系統の方へと移動しています。このクラスタでは、最古級の個体群が草原地帯の後期新石器時代集団に最も近いのに対して、それよりも新しい個体群は、再び中期・後期新石器時代クラスタの方へと移動します。末期新石器時代と前期青銅器時代の全個体は、現代ヨーロッパ人の範囲内に収まりますが、本論文で取り上げられた新たに解析された個体群は、現代スイス人集団とは重ならず、中期青銅器時代以後のスイスにおける追加の集団遺伝的変化が示唆されます。

 本論文で新たに分析された個体群は、WHGとアナトリア半島西部新石器時代農耕民(ANF)とサマラ(Samara)の草原地帯の牧畜民(YAM)の間に位置し、ヨーロッパの「アイスマン」のような後期新石器時代個体群や青銅器時代の鐘状ビーカー複合個体群と類似しています。そこで本論文は、新たに分析した個体群をWHGとANFとYAMの3系統の混合としてモデル化しました。その結果、全体的なパターンは以前の分析と一致しており、前期〜中期新石器時代の個体群はWHGとANFの双方向の混合だったのに対して、紀元前2700年頃以降の個体群にはかなりのYAM関連系統が見られます。さらに、この構成比は遺跡間で大きく異なり、時間の経過とともに減少する傾向があります。

 直接的に移行期の個体群を取り上げていない、ドイツとイギリスの新石器時代と青銅器時代の個体群を分析した以前の研究と比較して、本論文は空白期間のない新石器時代から青銅器時代への移行期の個体群も対象としています。本論文で新たに分析された個体群では、YAM関連系統は紀元前2700年頃以前には実質的に存在せず、紀元前2700年頃になると急激に増加します。この移行期の個体群では、YAM関連系統の割合は0〜60%で、次の1000年では25〜35%に低下します。また、本論文の分析対象地域では、YAM関連系統が出現して1000年後にも、YAM関連系統なしでモデル化できる4人の女性がいます。

 新石器時代末期と青銅器時代の個体群の常染色体とX染色体の比較から、常染色体はX染色体よりもYAM関連系統にずっと密接と明らかになりました。これは、女性よりも男性がYAM関連系統をこの地域に多くもたらした、と推定する以前の研究と一致します。またこの地域では、紀元前2700年頃以降にミスマッチ率が増加していることから、遺伝的多様性が大きく増加した、と推測されます。本論文の分析対象個体群では、YAM関連系統のピークは紀元前2750年頃で、他の研究で推測されている紀元前2600年頃より古くなっています。この違いは、草原地帯関連系統がより早期に到来したことを示唆しているかもしれませんが、分析の不確実性の範囲内のため、決定的ではありません。また、分析対象の個体群の年代は時間的に不均一なので、将来のより高密度な標本での改善が期待されます。

 この新石器時代から青銅器時代にかけての遺伝的構成の大きな変化については、単一の混合事象ではなく、数百年にわたって起きていた、と推測されます。イベリア半島・ブリテン島・ドイツ・スイスの地域間比較では、YAM関連系統を有する集団と在来の新石器時代集団との混合は、紀元前3000〜紀元前2500年頃と類似した年代を示し、その最初の場所については明らかにされません。この混合は、まずスイスで起きたか、その他の場所で混合した集団が、スイスへと移動してきたのかもしれません。

 次に本論文は、YAM関連系統を有する集団と混合したのがどの新石器時代集団なのか、qpAdm分析で検証しました。その結果、イベリア半島の中期新石器時代集団とフランスの新石器時代集団では適合したものの、スイスの後期新石器時代もしくは球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(GA)個体群を追加すると失敗しました。これは、フランスやイベリア半島よりも東方に位置するスイスの後期新石器時代集団とGA関連集団が、より西方のANFおよび草原地帯牧畜民よりも、スイスの新石器時代末期と青銅器時代の集団の遺伝的起源として相応しいことを示唆します。

 5ヶ所の埋葬地の個体群で親族関係が確認されました。そのうち女性は少なく、孫の世代では女性のmtHgが継承されていない場合もある一方で、男性のYHgは孫の世代にも継承されています。この母方もしくは父方のみで継承される単系統遺伝の結果と安定同位体分析から、本論文の分析対象地域は当時、同時代のヨーロッパの他地域でも示唆されていたように(関連記事)、女性が出生地を離れて遠方の集落で結婚し、男性が出生地に留まるような、父系的社会だった可能性が高そうです。

 スイスの現代人と末期新石器時代集団との比較では、現代スイスが3言語(ドイツ語・フランス語・イタリア語)地域に分割されたうえで検証されました。その結果、これら3地域とも、単純な継続モデルは棄却され、末期新石器時代および前期青銅器時代個体群との遺伝的類似性は、現代イタリア語地域集団では最小限、フランス語地域集団ではより古い遺跡の個体群でアレル(対立遺伝子)の共有が多く、ドイツ語地域集団とはより新しい遺跡の個体群でアレルの共有が多い、と明らかになりました。

 機能的一塩基多型も分析されました。ヨーロッパ人では明るい肌の色と関連するSLC24A5の複数の派生的アレルは、本論文の分析対象の全個体で見られました。また、明るい肌の色と関連するSLC24A5の頻度は増加する傾向にあり、明るい目の色と関連するHERC2の頻度は、末期新石器時代にかけて増加する傾向にありました。ヨーロッパでは現在高頻度の乳糖耐性変異(rs4988235)は、本論文の分析対象となった中期および後期新石器時代個体群には存在しません。唯一の例外は紀元前2105〜紀元前2036年頃となる末期新石器時代の個体で、乳糖耐性変異の見られるヨーロッパの個体としては最古級となります。これら古代集団に乳糖耐性変異がほとんどないことは、この変異が末期新石器時代に生じ、青銅器時代の始まり以降に頻度が増加した、との仮説と一致します。

 本論文の分析結果は、中期および後期新石器時代のスイスの個体群はヨーロッパの後期狩猟採集民と早期農耕民の子孫で、紀元前2700年頃以後、草原地帯関連系統も見られるようになった、という以前の研究と一致します。ドイツのエルベ川〜ザーレ川地域とスイスのシュプライテンバッハ(Spreitenbach)のCWC個体群の遺伝的類似性は、CWCがヨーロッパ中央部の大半において比較的遺伝的に均一な集団だったことを示唆します。

 上述のように、遺伝的に推測される社会・家族構造は、草原地帯関連系統の到来前後を通じて同じく父系的だったようで、安定同位体分析でも確証されています。前期青銅器時代には女性の遊動性がより高かったことも、この社会・家族構造と関連しています。上述のように、前期青銅器時代までと現代とで、スイスの集団の遺伝的構成は異なっています。この変化をもたらした複数の要因のうちとくに本論文が注目するのは、西ローマ帝国末期以降のいわゆる大移動です。

 上述のように、草原地帯関連系統がスイスに到来してから1000年後まで、草原地帯関連系統の検出されない女性が複数確認されました。そのうち最も新しい個体の年代は紀元前2213〜紀元前2031年頃です。これは、青銅器時代開始期には異なる遺伝的構成の集団が近接して共存していたことを示唆します。この複数の女性のうち1人は、安定同位体分析により地元出身ではない、と明らかになっています。スイスで新たに確立した草原地帯関連系統を有する集団と、草原地帯関連系統をまったく或いはほとんど有さない遊動的な女性たちとの混合は、スイスにおける草原地帯関連系統の到来から数世紀にわたる、草原地帯関連系統の勾配の原因になった、と推測されます。

 そこで問題となるのは、この草原地帯関連系統を有さない集団がヨーロッパ中央部のどこにいたのか、ということです。初期の単系統遺伝の研究で示唆されるように、強い遺伝的分化を示す言語的に孤立したアルプス渓谷は、その有力候補と考えられます。しかし、類似したパターンを示すドイツ南部のレヒ川渓谷の事例(関連記事)を考慮すると、草原地帯関連系統のない集団の起源はそれほど南にあるとは限らない、と本論文は指摘します。安定同位体分析では、草原地帯関連系統を有さない4人の女性全員が生涯ずっとスイスにいたのか不明です。したがって、この4人の女性の出身地がさらに南方、たとえばまだこの時期の古代DNA研究の不足しているイタリアだった可能性もある、と本論文は指摘します。しかし、草原地帯関連系統を有さない個体群は、たとえばイベリア半島では紀元前2479〜紀元前1945年頃まで、クレタ島のミノア文化集団では紀元前2900〜紀元前1700年頃まで、サルデーニャ島ではその後でさえ確認されており、この時期のスイスにおける草原地帯関連系統を有さない集団の起源地の解明は今後の課題です。

 また本論文は、草原地帯関連系統がスイスに到来したのが、ドイツやイギリスと同じ頃か、やや早かったことに注目しています。ただ本論文は、イギリスとドイツのエルベ川〜ザーレ川地域において、後期・末期新石器時代と前期青銅器時代の間の標本が不足していることから、ヨーロッパ中央部における草原地帯関連系統の拡大経路の正確な解明には、さらなる調査が必要と指摘しています。このように、まだ詳細が不明な点もあるとはいえ、ヨーロッパにおける完新世の集団形成史は、アジア東部も含むユーラシア東部よりもずっと進んでいます。今後は、ユーラシア東部に関しても古代DNA研究が急速に進展することを期待しています。


参考文献:
Furtwängler A. et al.(2020): Ancient genomes reveal social and genetic structure of Late Neolithic Switzerland. Nature Communications, 11, 1915.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15560-x

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_43.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/286.html

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
49. 中川隆[-11560] koaQ7Jey 2020年9月01日 13:20:25 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[20]
晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その1.)
https://91683924.at.webry.info/201510/article_3.html


 私のオイロダイン前史・Part1.
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 (この度ベンプレ亭書斎に導入したクラングフィルム・オイロダイン、KL-L439です)

 我が家のメインスピーカーはダブルキャストです。書斎の西面に鎮座し、「西方の音」を奏でているのが、ビジュアル用にも使用するイギリスのThe Voice of a Queen、VITABOX BASS BIN(バイタボックス・バスビン)を中心とした5way。東面に鎮座するのはアメリカのThe Voice of the Theater、ALTEC(アルテック)A4を中心とした5wayです。
 どちらも映画館・劇場での使用を目的に第二次大戦前後に開発、改良されて行ったスピーカーで、ウェスタン・エレクトリック社の流れを汲むものですが、シアタースピーカーには忘れてはならないもう一人の巨人がいます。

 ドイツのklangfirm(クラングフィルム)社です。
 同社は世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が封切られた翌年、1928年に映画音響システムの提供を目的に発足した、SIEMENS(ジーメンス)とAEGの合弁会社です。

 私は30年ほど前、クラングフィルムの衣鉢を継ぐジーメンスのWIDE ANGLE(ワイドアングル)C70233-B5016-A11を導入し、2年前まで使用していました。これは22cm(25cm)コアキシャル2wayを片チャンネル3発使用したスピーカーで、ガッチリ、クッキリした隈取の濃い見事な音でした。現在も6発のユニットは大切に取ってあります(いずれドルビーアトモスの天井スピーカーに使用するつもり)。

 クラングフィルムのシアタースピーカーは御存じの様に1930年から米国のW.E.とカルテルを結び、世界の映画産業を二分していました(日本は辺境の地だからでしょう、カルテル除外地域)。当然ナチス・ドイツ御用達のPAスピーカーであり、ヒットラーがドイツ国民を熱狂させた大演説も、ベルリン・オリンピックの競技場の音声もクラングフィルムを通じて届けられました。

 クラングフィルムのスピーカーは実はW.E.より更に大掛かりで、戦前は家ほどもあるスピーカーまであったようです。1928年発表のEurope(オイロッパ)、Europe Klarton(オイロッパ・クラルトン)などウーファーのサイズが70cmもあります。雑誌等ではさらに大きい、ヤマタノオロチの頭の様な巨大ホーンを付けたモデル、高さ4mに達するEuronor(オイロノール)も見る事ができます。

 これらの恐竜時代の遺産の中で、日本に現物があるのはオイロッパだけと思われます。オイロッパは戦前、服部時計店経由で海軍に1台、他に西日本の映画館に1台輸入されているそうで、後者は某マニア氏のオーディオルームで今も鳴っているそうです。この方は雑誌取材には応じておられず、ブログやホームページも作っておられないようで、これ以上の情報がないのが残念です。
 
 映画館は判りますが、海軍というのは何かストーリーがありそうで面白いですね。元帥の誰かが数寄者で、資材調達の課長辺りを抱き込んで輸入、海軍省の大会議室に拡声用だと言い張って設置し、深夜こっそりワインガルトナーでも聴いていたのかも。
 それとも、海軍さんはモダンだったと聞きますので、将校向けのレストランかダンスホールがあって、ウィンナーワルツなぞ鳴らしていたのかもしれません。

 このオイロッパが現存していれば、映画館の物とペアにしてステレオで聴けたのに、残念ですね。空襲で焼けたのかな?まさか戦艦大和に積んであって、一緒に沈んだのではないですよね。
https://91683924.at.webry.info/201510/article_3.html


晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その2.)
https://91683924.at.webry.info/201510/article_4.html

 私のオイロダイン前史・Part2.
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https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/007/144454363341857109180.jpg.html

 (側面から見たオイロダインです。ウーハー、ドライバー共にバッフル面に固定するだけではなく、L型の鉄骨フレームを使用してマグネット部もガッチリ保持されています。これは音質にも好影響があると思われます)

 クラングフィルムの劇場用スピーカーのうち、かろうじて家庭に入る規模の物は、大型から順にEurope Junior(オイロッパ・ユニア)、Europe Junior Klarton(オイロッパ・ユニア・クラルトン)、オイロダイン、Biodyne(ビオダイン)でしょうか。

 従ってオイロダインはクラングフィルムのスピーカーの中ではむしろ小型のモデルなのですが、これ一本で800席の劇場の音響を賄う事が出来るよう設計されており、家庭用としてはもう十分すぎると言うか、オーバーパワーのスピーカーです。
 アルテックならA5、バイタボックスならBitone Major(バイトン・メジャー)クラスのシアタースピーカーと考えれば間違いなさそうです。ただしドイツ物の常として、価格はこれら英米の物より高価でしたが。

 雑誌、ネットによると、先に上げたクラングフィルムのスピーカーのうち、戦前のモデルであるオイロッパ・ユニア・クラルトンは3ペア、オイロッパ・ユニアはモノラル1本が国内のマニア氏の手元で鳴っている事が確認できます。  
 これらのスピーカーは戦前日本に輸入されたとの情報もなく、全て戦後、好事家がドイツから入手したものだと思われ、国内には合計数セットしかないのでは。

 戦後のモデルであるオイロダインは、国内で稼働しているのは20セット程度と言われています(私はもう少しあると思います)。バイタボックス・バスビンより少し多いかもしれませんが、オーナーも次々と鬼籍に入っており、生産完了から32年を経て補修パーツも払底している様です。
 
多くのモデルがあったクラングフィルムの劇場用スピーカーのうち最後まで残ったオイロダインですが、クラングフィルムのブランドで生産されたのは1965年まで、その後はジーメンス・ブランドに引き継がれました。

 なおビオダインはオイロダインの高域ドライバーをコーン型スピーカーとしたものだそうですが、本国ドイツでも殆ど生産されておらず、日本には1台もないと思われます。
 小劇場で使用されたワイドアングルは、その型番、C70233-B5016-A11から判る様にジーメンス製で、クラングフィルム・ブランドの物はありません。

 1972年、日本初のジーメンス・スピーカー正式輸入代理店が現れました。その会社「上弦」を運営していたのが、戦後しばらく東洋ウェストレックス日本支社の技術部長であった、故・伊藤喜多男氏です。
 氏はジーメンスのスピーカーに惚れ込み、代理店になるべくジーメンス日本支社に掛け合います。

 「このような高価なスピーカーは日本では売れない。貴殿の力だけでは無理である、何故ならば当社の社員が努力しても註文が全くない」という日本支社の詞を受けて「必ず売って見せる。貴殿等がいかに努力しても売れる代物に非ず。余以外にこのスピーカーの真価を知るものなし、即金にて支払う故、早急に二個輸入し、その結果を期して待つべし(もみくちゃ人生より)」と輸入を始め、新潟の関本特殊無線や徳島のシュミット、岡山のオーディオ・マエストロなどで一定量を販売したようです(私はマエストロからワイドアングルを入手)。

P.S.
 アルテックA4、バイタボックス・バスビンに相当するクラングフィルムのスピーカーは1954年発表のKL-L433、Bionor(ビオノール)でしょうか。二発の36cmアルニコ型ウーハーKL-L405に木製フロントロードホーンと大型のバッフルで低域部分が構成されており、高域はオイロダインと同じKL-L302ドライバー、KL-LZ30T100ホーンが使用されています。
 もちろん聴いたことは無いのですが、KL-L405ウーハーはオイロダインのKL-L406に比べてマグネットがかなり小さく、ダブルウーハーである事も加え、オイロダインよりもややファットな低域ではないかと想像しています。木製低音ホーンと広大なバッフルの何れにも補強桟らしい補強桟が入っていませんしね。
https://91683924.at.webry.info/201510/article_4.html


晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その3)
https://91683924.at.webry.info/201510/article_5.html

 私のオイロダイン前史・Part3. 私のオイロダイン前史・Part3.
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 (ホーンとドライバーを上から見たところ。ホーンは分厚いアルミ鋳物製、スフェリカル・カーブという形状で、開口が180度まで広がっているのが特徴です。
 スフェリカルはエクスポネンシャル・ホーンより理論的に優れているとの意見もあり、最近巷でウワサのオールホーン型スピーカー、アバンギャルドにも採用されています(そういえばアバンギャルドもドイツ製ですね。
 ドライバーはALTEC288やJBL375よりも更に巨大な怪物です)

 オイロダインは程なくディスコンとなり、コアキシャルも生産が終了、1983年にジーメンスはついに音響機器から撤退しました。上弦もシュミットも今はありません。関本特殊無線もFor music companyと名前を変え普通のオーディオショップに様変わりしたようです。
  しかしアルテックがそうであったように、日本では劇場用システムが家庭に持ち込まれたため、世界で一番最後までジーメンスのスピーカーが売られていたようです。
 1983年以降は補修用パーツを使ったのでしょうか、日本ではオイロダインは1987年まで、コアキシャルは1991年までカタログに載っていたそうです。

 実は私がワイドアングルを入手したのは1986年ですので、本国では生産が完了していた時期ですね(日本に生まれてよかった)。
 ウワサですが、末期のオイロダインはウーハーがイソフォン製の物、コアキシャルにはツィーターがイソフォン製の物が有るらしいです。もっとも、イソフォンは以前よりジーメンスのOEMをしていた様で、モノは同一なのかもしれません。

 さて、私が最初にオイロダインを知ったのは別冊FMファンに載った若き日の三上剛志先生のオーディオルームの写真。もう40年も前の事です。三上先生は今も「趣味の獄道」としてご活躍中ですね。最近の写真(ステレオサウンドVol.135)を見ると、オイロダインはジーメンス製からフィールド型のクラングフィルム製に変更されたようですが、現在もメインスピーカーの様です。

 真空管アンプメーカーを主宰され、オーディオ評論家でもあった故・上杉佳郎氏もオイロダインの愛用者でした。1970年頃、ラックスマン社が当時輸入を検討しており、オーディオフェア用に持ち込んだオイロダインを強奪するかのように買い取り、長く使用されていました。氏はエレクトロボイス30W・片チャンネル二発をサブウーハー、テクニクスのホーンツィーターEAS-9HH42をスーパーツィーターとして、4Wayに組んでいました。

 30年ほど前、徳島・シュミットで行われた伊藤喜多男氏の講演会を聴きに行ったとき、シュミットにはオイロダインが鎮座していたと思います。しかし講演会はお話だけで音出しは無く、気の弱い私は音を聴かせて下さいとも言えず、徳島を後にしました。
 私はワイドアングルの音は今でも素晴らしいと思っており、上級機種のオイロダインをいつか聴きたいものだと思っていました。

 伊藤氏の講演会と前後し、季刊ステレオサウンドに2度オイロダインを使用するマニアの方が取り上げられています。一度目は五味康祐氏の連載、単行本にもなっている「オーディオ巡礼」に「鎌倉のパルシファル」の題で(Vol.50)、もう一度はやはり連載の「ザ・スーパーマニア」でした(Vol.54)。前者はマランツ#7、#9で、後者は伊藤喜多男氏のアンプで鳴らされていましたが、どちらの方も大変高度なマニアでした。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その4)
https://91683924.at.webry.info/201510/article_6.html

 私のオイロダイン前史・Part4.
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 (裸の状態で周波数特性を測定しているところです)

 オイロダイン使いとしてもう一人、記憶に新しいのは昨年亡くなられた勝見洋一氏です。氏は映画マニア、ビジュアルマニアで、主な執筆先はHIVIでしたが、セリフ用のセンタースピーカーに一本だけオイロダインを使用されていました。アンプは確か新忠篤氏の手になる巨大な送信管アンプ、W.E.212シングルでした。
 勝見氏の文章は教養豊かで、私の知らない美術の世界、美食の世界や、もっと砕けた大人の事情を教えてくれました。もちろん面識はありませんが、「こんな兄貴分がいたら楽しいだろうな」といつも思っていました。

 氏は「オイロダインの音は素晴らしいが、左右のチャンネルまでオイロダインにしたら香りが濃すぎる。いくら良い香水でも、洗面器に香水を入れて顔を突っ込むわけにも・・・」といった事を書かれていたと思います。
 
 伊藤喜多男氏が惚れこみ、勝見洋一氏が愛用したオイロダイン、あこがれていました。しかし如何にもタマが出ない。時々出てもペアで状態の良い物なら数百万円の値が付いています。
 コリャー一生無理だなぁ・・・と思っていたのですが、ナント、ヤフオクに一本だけで出品されました。開始価格が699,000円、即決価格が700,000万円と格安です。
 なんでもドライバーの振動板がかなり使い込まれていて、一部薄くなっており、アルミ箔で補修してあるため安く出ている様です。しかしこの機会を逃したら二度と手に入らない。思案する事30秒、即決価格でポチってしまいました。

 ポチッた後、ヤフオクのページを再度見直しましたが、このオイロダインは出品されて3日目。入札は入っていませんでしたが、「出品者への質問」欄では質問した人、つまり興味を持った人もいました。よくまあ、私が落とすまで誰も入札しなかったものだと不思議に思います。
 やはりステレオペアでなければ売り難いのでしょうか。モノラル再生も良い物ですし、ビジュアルをやるならセンタースピーカーに持って来いだと思うのですが。

 こういったブツは御縁ですから、私と縁があったのでしょうねぇ・・・

P.S.
 オイロダインといえば重要人物を忘れていました。ピンキーガレージのピンキーさん、オーディオショップのオーナーです。
私はかつてセンタースピーカーに国産箱のバイタボックス・バスビンを使っていました。しかし左右のステレオ(こちらは英国純正のバスビン)の音に悪影響があるため、小型で剛性の高い密閉箱に仕込んだタンノイHPD385A、2台スタックに変更したことがあります。
そのためバイタボックスCN123ホーン・ペアが不要となり「無線と実験」の「売ります買いますコーナー」に出したところ、コレを引き取りに来てくれたのがピンキーさんです。

 ピンキーさんはアナログオンリーでメカニズム(エレクトロニクスではなく、という意味)に強いこだわりとウデを持つ方ですが、彼の常用スピーカーがオイロダインです。
 もちろんピンキー流に改造してありますが、ユニットの優秀さに惚れこまれている様です。
 氏はビンテージを有難がったり、伝説に惑わされるタイプではないので、オイロダインの素材としての優秀さは間違いないと思います。

P.S.のP.S.
 このご縁で、ピンキーさんに私のHPD385Aのコーン紙をモニターゴールドのコーン紙に張り替えてもらいました。今はもうゴールドのコーン紙は手に入らない様です。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その5)
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 落札したオイロダインの薀蓄・Part1.
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 (落札したオイロダインの裏面にネジ止めしてあるエンブレムです。Typ.KL-L439、Fab.Nr.240210と刻印してあります。従って、このモデルは10種類ある歴代モデルの中でも、結構値打ち物の8代目モデルだと思います)

 私のオイロダインに関する知識といえば、当初フィールド磁石でスタートし、その後アルニコ磁石になった事、最後期モデルはフェライト磁石のウーファー3発のモデルになった事くらいでしたので、落札してから改めてオイロダインを調べてみました。

 管球王国のバックナンバー(特にVol.64からの小林正信氏の連載、「クラングフィルムの歴史とドイツの名機たち」は極めて詳しい資料です。私は外国語がダメなので確かな事は言えませんが、クラングフィルムに関しては世界一の資料集じゃないかと思います。○代目オイロダインとこの後何度も出てきますが、この分類も小林氏の分類を引用しています)など数冊の成書とネット情報を元にすると以下の様ですね。

 クラングフィルムのスピーカーは裏面にエンブレムがネジ止めしてあるので型番は容易に判るのですが、外観、型式からも分類できます。
 まずマグネットでどの時代のオイロダインなのか、粗く分類できます。

 1945年に発表されたオイロダインは初代から6代目まではフィールド磁石(電磁石)、1953年発表の7代目はウーハーがアルニコ磁石、ドライバーはフィールド磁石の混成モデル、1954年の8代目と1965年の9代目がウーハー、ドライバー共にアルニコ、1977年のオイロダイン最終モデルである10代目はドライバーがアルニコ、ウーハーがフェライト磁石の混成モデルです。
 なお、一連のモデル、名称は全てオイロダインですが、クラングフィルムのブランドで販売されていたのは8代目まで、9代目からはジーメンス・ブランドになりました。

 オール・アルニコモデルの最初のタイプであり、クラングフィルム・ブランドの最終モデルが8代目、KL-L439(1954年〜1964年)です。ウーファーはKL-L406、ドライバーは巨大なマグネットを持つKL-L302、ホーンはアルミ鋳物製のKL-LZ30T100で構成されています。

 アルニコ後期モデル、ジーメンス・ブランドとなった第9代目(1965年〜1976年)はウーファーこそ8代目モデルと同じKL-L406ですが、ドライバーはKL-L303となり、振動板は同じであるもののマグネットはかなり小型化されました。ホーンも合成樹脂製のC70233-B501-A1に変更されています。
 1970年、9代目後期型になるとドライバーの型番がC70246-B560-A1に変更されています。しかしこのユニットの内容変更に関する情報はありませんので、型番だけジーメンス風に変えたのかもしれません。

 また、ユニットを支えるフレームも8代目と9代目は異なります。8代目は初代〜7代目と同じ直方体、9代目のみ後方が絞ってある台形のフレームになりました。
 「オイロダインを何台か放射状に並べて使うため台形にした」と書いたものを見ましたが、オイロダインはバッフルが無ければ成立しませんので、この見解はどうでしょうか。

 なお10代目(1977年〜1983年)はフレームが簡略化されました。ウーハーが22cmフェライト3発に変更、軽量化されたので、そのマグネット部を保持する必要が無くなった為でしょう。
 ドライバーはバッフル面から吊り金具にて引っ張って保持されていますが、9代目までと比べると、視覚的な安定感はイマイチですね。

 さて、私の手に入れたオイロダインはウーハー、ドライバー共にアルニコマグネット、大型ドライバー、アルミ鋳物ホーンで直方体型フレーム。ですからエンブレムの表示通り、KL-L439(第8代目)で間違いないと思います。

 8代目も厳密にいうと3モデルあるそうです。ホーンスロートにくびれがあり、音響レンズの無いものが1954〜56年のモデル。くびれがあり音響レンズのあるものが1957年〜59年のモデル。くびれが無く音響レンズのあるものが60年〜64年のモデルらしいです。
 落札品のホーンスロートの形にはくびれが有り、音響レンズが付属していないので1954〜56年のモデルと推測されます。

 フレーム裏のエンブレムに表記してあるFab.Nr.は240210です。最初から二ケタ目の数字は製造年月日を表すそうなので、このオイロダインは1954年制、8代目オイロダイン初期モデルの中でも初年度に生産されたものだと思われます。
 私は1958年生まれなので、このオイロダインは私より少しお姉さん(スピーカーはドイツ語では女性名詞だそうです)ですね。いろいろ教えてもらっちゃいましょうw
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その6)
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 落札したオイロダインの薀蓄・Part2.
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 (ウーハーの後部です。私の機材はマグネットに直接KL-L406とプリントしてありますがKlangfilm KL-L406のステッカーが貼付してあるモデルもあるようです。それにしても、何とまあ太いボルト・ナットでウーハーを固定してあるのでしょう。)

 古い物ほど有難がるのがヴィンテージ・オーディオマニアの悪い癖ですが、この悪癖に沿うと、私が手に入れたオイロダインはアルニコ型では最もクラシックなモデルですから、ナカナカの物ではないかとw
 日本で一番多く残っているのは1965年から1976年まで生産されたジーメンス時代の第9代モデル、小型ドライバーに樹脂製ホーンのオイロダインだと思いますので、大型ドライバーでアルミ鋳物ホーンの8代目モデル初期型は、少しは幅が聴くかもしれませんね。

 なお最後期、10代目となった1977年モデルのオイロダインは、ウーハーにコアキシャル・ユニット(C72233-A10-A7)のウーハー部分(C71233-A4-A3)を流用し、これを1台当たり3発用いた3ウーファー、1ドライバーのタイプになります。
 ウーハーが38cm一発から22cm(25cm)三発に変更され、そのマグネットもアルニコからフェライトになった為でしょうか、昔も今もあまり人気がありません。ワイドアングルを長く聴いてきた私としては、音は良さそうな気がするのですが。

 やはりオイロダインのウーハーは、樹脂を含浸させた紙の蝶型ダンパー、ストレートコーン、フィックスドエッジの14or15インチ、マグネットはせめてアルニコでなければ「らしくない」からでしょうね。  
 でも繰り返しになりますが、音は良いと思うけど、10代目。ワイドアングルの低域は男らしいゴツイ音で見事なものでしたよ。ハードバップ・ジャズを聴いても、ワーグナーの楽劇を鳴らしても、そりゃあ凄かったです。
 ベンプレ親父はオーディオ・マエストロで、2m×2mの平面バッフルに取り付けたワイドアングルの鳴らすウェーバー「魔弾の射手」の「狼谷」の部分を聴いて、そのドラマチックな響きに仰天し、即買いしましたから。

 ところで、肝心の私の8代目オイロダインKL-L439、どこからやって来たのでしょう。
私の前のオーナーは都内在住のマニア氏と聞きますが、日本の輸入代理店経由のものは9代目からですので、元はドイツ、若しくはクラングフィルムのテリトリーの国で使われていた物でしょう。
 日本以外では家庭に導入された形跡はありませんので、映画館、劇場、公会堂などで使用されていたブツの筈です。1本だけ単独で流通してきたものですから、映画館で使われていた物だと私は予想しています。

 モノラル音響時代の映画館は、スクリーンバックに1本だけスピーカーを置いてあったそうです。立体音響時代になるとその左右に2本のスピーカーを置き、3本で再生していました。
 従って、映画館から放出されるスピーカーは1本または3本(大きな映画館では5本)、奇数となります。
 そのため映画館からの放出物はステレオペアを組んだ後も1本だけスピーカーが残るのです。

 映画音響は1940年のディズニー映画「ファンタジア」から立体音響がスタートしたそうですが、音響を重視しない作品はその後も長くモノラル音声で製作されており、名画座、成人映画専門館(うーむ、どちらも死語になりつつある)は最後までモノラル音響でした。
 ドイツの古い名画座のスクリーンバックに1本だけ鎮座していた物だったら嬉しいですね、私のオイロダイン。「会議は踊る」や「嘆きの天使」の音響を再生していたのかもしれません。

 まてよ、成人映画専門館のものだったら、それはそれで嬉しいかもw

P.S.1.
 私が中学生の頃大ヒットした成人映画、「女子学生マル秘レポート」は西ドイツの洋ピン(ありゃ、これも死語だ)でした。あのころは町の電柱におっぱい丸出しの成人映画ポスターが普通に立て掛けてありましたね。なんだか社会全体が緩くて、管理されてなかった。
 あの頃が懐かしいですね。

P.S.2.
 コレ書いた後、深夜特有のノリで、「女子学生マル秘レポート」の3枚組DVD、ポチってしまいました。1971年(9代目オイロダインの時代)の封切りですが、届いたDVDは予想通りモノラル録音。
 早速私のオイロダインで再生、ドイツの成人映画専門館の暗がりに潜り込んだ気分で楽しかったです。

 でも解説によりますと、この映画、ドキュメンタリーの触れ込みながら、女子学生は出演していないそうです。女優さんは16歳から19歳のデパートの店員さんを安いギャラでかき集めて女子学生に仕立て上げ、テキトーに脱がせてるとか。ダマシですね。
 まあ、セリフや演技はほとんど意味がない映画だから、これで良いのかも。デパガはデパガで、なんだか別な感興をそそるというか、別な商品価値がありますよね。
 また脱線しちゃいました。暴言多謝w
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その7)
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 オイロダイン・マグネットの謎
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 (ホーンドライバー、KL-L302の巨大なマグネットカバーです。クラングフィルムのエンブレムがカッコイイですね。このエンブレムの製造番号も二ケタ目が4ですから、やはり1954年製造のドライバーだと思います。
 本体のフレームに張り付けてあるエンブレムも1954年製を示唆してありますので、ドライバーの交換はなされていない筈です)

 オイロダイン8代目と9代目は同じKL-L406ウーハーですのでドライバーに要求される能率は同一だとおもいます。マグネットの材質も同じアルニコ、加えてドライバーの振動板も同じものです。なのに何故8代目ドライバーのマグネットは、9代目より随分と大きいのでしょうか。

 当初、本来は能率の高い8代目ドライバーの音量を、抵抗で大幅に落としてあるのではと考えました。
 オイロダインのネットワークにはアッテネーターが無く、8代目は巻線抵抗で、9代目は酸化金属皮膜抵抗(見た目での推測)で出力を減衰させてあり、システムの能率を104db/w・mにしています。ですから8代目ネットワークの抵抗値は、9代目の抵抗値より大きいのではないかと。

 しかし、少なくとも8代目は抵抗で落としてある音量はわずかの様です。
 それというのも、後日マルチアンプで実験してみたのですが、KL-L302ドライバーへの入力レベルは、ウーハーのKL-L406と同じでバランスしましたから。

 そうすると8代目のマグネットは9代目の物より大きさ当たりの磁力が弱く、性能が劣るという事でしょう。

 付け加えますと私のKL-L302、アッテネーターの無いオリジナル・ネットワークのままでウーハーのKL-L406と能率が合っていますので、減磁してはいません。
 管球王国の記事には「オイロダインの減磁している物は見た事が無い」とありましたが、マグネットの保磁力が優秀だというよりも、ユニットが鋼鉄のフレームで覆われているため、マグネットに機械的衝撃が与えられないためではないかと私は思っています。

 それにしても、8代目が発表された1954年といえば、アメリカではアルテック288(1941年発表)、JBL375(1954年発表)、イギリスでもバイタボックスS2(1940年代後半?)などの能率110db/w・m以上の高性能ドライバーが普通に出回っており、アルニコマグネットの性能は既にプラトーに達していた時期です。
 能率104db/w・mのオイロダイン8代目モデルがこれほど大きなマグネットを必要としたのも、そのマグネットが1965年まで変更されずに使用されたのも不思議です。

 8代目オイロダインのドライバーはアルテック288、JBL 375より一回り、バイタボックスS2より二回りも大きく、38cmウーファーであるKL-L406のマグネット部分ほどもある異形のモデルで、「YL音響かっ!」と突っ込みたくなるほど巨大なのですが、ボイスコイルの直径は65mmに過ぎず、71mmの288、76mmのS2、102mmの375よりも実は小さいのです。この程度の振動板ならアルテック802ドライバー(ボイスコイル径44mm)のマグネットより少し大きなマグネットで充分性能が出せると思うのですが。

 世界に冠たる工業国、ドイツのマグネットが1965年まで性能が低かったとは、どうも腑に落ちません。
もっともドライバーの能率はマグネットの磁力だけではなく、振動板の重量やギャップの広さでも変わりますから、マグネットに全責任を負わせるわけにはいきません。
 アルテックやJBLのドライバーのボイスコイルがアルミなのに対し、クラングフィルムのドライバーは銅線なので振動板がやや重いのかもしれませんね。

 実はオイロダインのマグネットに関しては他にも不思議なところがあります。8代目が発表される1954年まで、即ち1945年〜1953年までは古色蒼然たるフィールド型だったという事です。
1 928年発表のオイロッパ、1935年発表のオイロッパ・ユニア・クラルトンなら当然ですが、戦後のモデルであるオイロダインが長い間フィールド型であったのは、どうも解せません。

 ドイツは敗戦国なので、終戦直後はレアメタル(アルニコマグネットにはコバルトが必要)を手に入れ難かったのでしょうか。それでフィールド型を採用し、良い結果が出たので1954年まで使い続けたのかもしれませんね。 
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その8)
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 オイロダイン・ドライバー振動板のスペアをGet !!
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 (ビンテージ・ショップから入手したオイロダイン・ドライバーのスペア振動板2枚組です)

 私が落札したオイロダイン、ワケアリ品にて安く出ていた物ですが、先に書いたようにワケとはドライバーの振動板が一部劣化しており(薄くなって穴が開きかけている)アルミ箔で補修してある事です。

 オークション出品者・川崎のマニア氏の話では、聴いた限り問題はなさそうとの事でしたが、振動板が割れたらさすがにオシャカです。何とかならないかなぁとネットサーフィンをしていましたら、ビンテージ・ショップでオイロダイン振動板のスペア2枚組なるブツを見つけました。

 ショップに電話すると、「いつの時代のオイロダインのドライバーに合うのかわからない」とエラク心細いと言うか、正直な対応でした。しかし管球王国65号の小林氏の連載によりますと、オイロダインのドライバー振動板はフィールドコイル時代からアルニコ後期まで同じものらしいです。

 値段は安くはありませんでしたが、コレを逃したらもう手に入らないかもしれません。しかしながらオイロダインを落札した時点で貯金ゼロ。矢も楯もたまらずベンプレ妻を拝み倒して購入させてもらいました。

 写真は手に入れた振動板です。型番を見ますとC70246-A56-36となっており、第9代目か10代目、ジーメンス・オイロダイン時代のパーツだと思います。しかし先の様に、オイロダイン振動板は全モデル同一なのでこれでOKです。
 念のためこの振動板のボイスコイル径を実測してみましたが直径65mm、確かに8代目までのドライバーと同じサイズでした。

 当然、補修パーツは9代目、10代目が生産されていた1965〜1982年のどこかの時点で製作されたものでしょう。私の8代目・初期型オイロダインは1954年の生産と思われますが、万一この振動板が破損したら、今回手に入れた振動板に入れ替えですね。

 この振動板はバージンパーツ、加えて高齢バージン(33歳〜50歳、おそらく40歳代)なので、ブレイク・インには手間ヒマかかりそうですが、彼女が良い声で鳴きはじめる(泣きはじめる?)まで調教するのも、ジジイとしては乙な気もしますなw

 まてよ、敵娼は800人の聴衆を前に朗々とアリアを歌いあげる猛女、きっとビルギット・ニルソンみたいな感じかな?
 これじゃ調教が進む前に、カヨワイ私が息切れして死んじまうでしょうなw

この記事へのコメント
ナカ
2016年04月06日 16:51
こんにちは、初めましてオイロダインのドライバー手にいれたのですね、こちらのは穴があきながらそのまま使用してます穴径1.5mm位、ウファーも蝶ダンパー切れて小林さんに接着していただきましたが音に影響がでて悩んでます
ベンプレ親父
2016年04月06日 20:20
ナカ様、コメント有難う御座います。

当方のオイロダイン振動板はひとまず修理してあり、音も当面、大丈夫な様です。
スペア振動板、2枚ありますが、1枚確保してあれば私の寿命が尽きるまで持つと思いますので1枚ならお譲りしても良いです。
シーメンスのオイロダインの保守部品なので、シーメンスにはまずOKと思いますが、クラングフィルムのオイロダインにシッカリ合うかどうかは確認できていません。

もし必要ならkojoh@pearl.ocn.ne.jpまでメール下さい。
ナカ
2016年04月20日 15:46
コメント気づかなく、遅れました

ダイアフラムの型番型番C70246-A56-36はKLL303に合うタイプのようですが、当方KLL302
型なので合わないようです残念です。

なにしろ古いSPなのでメンテが大変ですが
キレの良さは抜群かと思ってます。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その9)
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 オイロダインKL-L439、ベンプレ亭書斎にて第一声を
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 (38cmウーハー、KL-L406です。残念ながらオリジナルの布カバーは付いていませんでした。
クラングフィルムのウーハーはセンターキャップが無いため、磁気回路にゴミが入らない様にユニット全体を布で覆っていたそうです。しかしオイロダインのバッフルはウーハー開口部に細かい金網が取り付けられていますので、家庭で使用するならそこまで神経質にならなくても大丈夫では。もっとも裏側からも鉄粉が入る場合もあるそうですが・・・

 音のために布どころか金網まで取り払って使用されている方もおられますし、ゴミに関しては数年おきに分解掃除すれば良いとの話もありますので、音に変化を感じない限りこのまま行きます。
 私が生きていて、耳がまだしっかりしていれば、5年後、2020年にでも分解掃除を頼みましょう。

 それにしてもカッコイイですなぁ、KL-L406)

 2015年8月29日(土)、遠路はるばる兵庫県赤穂市から神奈川県川崎市まで小雨そぼ降る中、オイロダインを車で引き取りに行きました。
 私は27日、28日と東京で仕事でしたので新幹線で移動しておき、人を頼んでエルグランドを川崎まで乗って来てもらい、オイロダインを積み込んで一緒に帰るという算段です。

 余談ですが、車をもって来てくれた30年来のトレーニング仲間ですが、ナント彼女も車に乗せて来ましたよ。彼女はピクニックの様にお菓子や飲み物を車にイッパイ持ち込んで。まあ、遅い夏休みの旅行でしょうかw
でもこんな事に付き合わせるとは、彼女さんも気の毒ですね。

 AM10:00、オイロダインを譲っていただけるマニア氏亭に到着。早速オイロダインと対面しました。間違いなくKL-L439、写真で見た以上にユニット、ネットワーク、フレーム、バッフルともにキレイです。
 マニア氏は親切な人で、オイロダインで2曲ほど聴かせてくれました。
 一曲は小編成のクラシック、もう一曲はポップスのボーカルです。

 かつて聴いていたワイドアングルを更に強靭に、辛口にした音で、実に張りのある明快な音です。バッフルは無いのですが、この二曲を聴く限りでは曲趣を味わうのに何の問題もありませんでした。
 アンプは6AR6のP.P.を使用されていました。「やはり真空管が合う」との事でした。

 このオイロダインは都内にお住いの方が手放したもので、マニア氏はオークションの代理出品を依頼されていたそうです。手放す前に御殿場のベテランマニア氏のオーディオルームに運び込んで、一夜限りの「サヨナラ演奏会」をお仲間でやったとか。
 「大事に使います」とお約束し、マニア氏亭を早々に辞し、東名高速道路に乗り入れました。赤穂までは約8時間の行程です。

 PM7:30にベンプレ亭書斎に搬入完了、アンプは普段バイタボックス・バスビンのツィーターをドライブしている是枝アンプ、EL84・P.P.をひとまず繋ぎました。

 第一声はモノラルLP、ミルト・ジャクソンの「バグスグルーブ」から。いきなり力感みなぎる、切れ味抜群のモダンジャズが部屋中に鳴り響きました。
 我が家のオーディオ評論家、ベンプレ妻の感想は、
「あら良い音じゃない。こんなに最初から良い音がするなんて初めてじゃないの?」
 「後ろのゴリラ(アルテックA4のこと。先日までは巨人の棺おけでしたが・・・)が優しい音に聴こえるわね。」

 お褒めの言葉を頂くと同時に、オイロダインは音がキツ目との御示唆も頂きました。
ワイドアングルもそうなのですが、クラングフィルム、ジーメンスのシアタースピーカーにはアッテネーターが無いので、ゴマカシが効きません。今後バッフルを装着したら、その辺りはある程度解決するのではないかと思うのですが。
 頑張ります。

 ベンプレ妻が退室した後、マリア・カラスのモノラルSACD、「トゥーランドット」を鳴らしてみました。この盤は元々たいした録音ではないのですが、曲が好きなので良く聴きます。
 腰の強い、締まった良い音だと思います。これに膨らみやスケール感を付加するのはこれからの使いこなしでしょう。楽しみですね。

P.S.
 深夜オイロダインを眺めながら聴いていますと、凄く不思議な感じがします。この歴史的名機が私の様な者の傍にいて、私の好む音楽を従順に奏でていてくれるなんて。

 これから長い時間をかけ可愛がって、可愛がって、お互いの気が合う様になった頃、オイロダインも私の物になるのでしょう。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その10)
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 オイロダインはなぜ人気がある?
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https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/007/144454529909646053178.jpg.html

 (オイロダインの前面です。バッフル面はL型鉄骨フレームに板材が貼ってあります。この板材、当然合板だと思っていたのですが、実は無垢材でした。
 ホーンの左右に1枚ずつの無垢材、ウーハー部分は流石に巾45cmの大木は使えませんので縦に3分割してあります。合計6枚(ウーハー部分は左右1/3ずつで2枚、中央部は上下が分かれますので板が2枚、計4枚になります)の無垢材でバッフルは構成されています。

 無垢材が貼り合わせてあるので、バッフルをランバーコアと表記する人がいますが、ベンプレ親父は「無垢材」と言い張ります。
 だって、ランバーコアとはもっと幅の狭い木材の小片を継いだものでしょう?
 「幅15cmの無垢材3枚を継いでバッフルとしている」を決定稿としますw

 木の材質は何でしょうか。黒く塗装してあるのでよく判りませんが、松、ラワン、樺(フィンランド・バーチ)ではなさそうです。ドイツで良く使用されるポプラではないかと思うのですが。
 実は、ワイドアングルを使用していた時、家具屋さんが作ってくれた平面バッフルがポプラの合板でしたが、表面の感じが似ています。
 バッフル面が無垢材のスピーカーは珍しいと思います。案外オイロダインの音にはコレが効いているのかもしれませんね)

 さてクラングフィルム、ジーメンスのシアタースピーカーのなかでオイロダインは一番人気だと思います。では人気の秘密は何でしょうか。私なりに以下の4つがポイントではないかと考えます。

@適度なプレミアム感
 オイロッパやオイロッパ・ユニア、ユニア・クラルトン、ビオノールなどはまず入手不可能です。
かといって、ワイドアングルは使用ユニット(22cmコアキシャル)が鉄板フレーム、フェライトマグネット。ユニット単独ではアルテック755Eの様に、壁や天井に埋めて設備のスピーカーに使われる事も有り、少しナンダカナア感が。
 それに対しオイロダインは劇場や映画館以外で使われることはありません。マグネットはフィールド型、またはアルニコで、フレームも鋳物で高級感があります。
 タマは少ないですが、全く出ないわけでもないところも良い感じです。

Aバッフル、エンクロージャーのサイズが案外自由な事。
 本来は2m×2mの平面バッフルに取り付けて使うスピーカーですが、実はオイロダイン、さらに小さいバッフルでも、後面解放箱でもソコソコ鳴らせる様です。家庭で使う場合はバッフルが大き過ぎない方が音が良いという人もいます。
 自宅のオーディオルームに合わせたサイズのバッフル、エンクロージャーを工夫できますので部屋内のおさまりが良い。これは実用上、大切な要素では。

Bメカメカしくリジッドな事
 個人的にはコレが一番ではないかと。古今東西、シアター用、スタジオ用、家庭用にいくつもの「名器」が登場しました。ちょっと指を折るだけでも、ウェスタン・エレクトリック15Aホーン、アルテックVOTTシリーズ、RCAウバンギ、エレボイ・パトリシアン、JBLハーツフィールド、タンノイ・オートグラフ、バイタボックス・バスビン、ジェンセン・インペリアル、クリプシュKBWO、三菱2S-305、etc,etc
 これらのスピーカーにはそれぞれ魅力がありますが、メカメカしくリジッドな事に関してはオイロダインが一番では。
 L型鉄骨のガッチリしたフレーム、巨大なマグネット、そのマグネットをフレームに固定する鉄のアングル、アルミ鋳物の何の飾りもないホーン、クラングフィルムの黒と銀のエンブレム、そして漆黒の塗装。
 まるで兵器の様です。男の子ならだれでもグッと来ちゃいますよね。

Cイメージ通りの音
 この兵器然としたスピーカーから出てくる音が、また強靭で明快で、切れ味抜群。見た目通りの音が出てきます。
 このスピーカーから甘やかな、水も滴るような美音が出てきたら、却ってヘンですね。この剛直さ、凄みはone&only、代替不可能な音です。
 これは惚れちゃいます。
 物理特性もキッチリ抑えてあり、標準バッフルに装着すれば50Hz〜15KHzがフラットに再生され、音楽再生には不足のない事も評価できますね。この数値は当時のアルテックVOTT、バイタボックス・バスビンよりも実は優秀なのです。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その11)
https://91683924.at.webry.info/201510/article_13.html

 よせばいいのに、またマルチアンプw
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 (オイロダインのネットワーク、KL-LZ433(A)です。高域の減衰には巻線抵抗を使ってあり、ウーハー部には15Ω→7.5Ωのマッチングトランスが咬ませてあります。

 このネットワークはビンテージ・ショップで点検済だそうで、コンデンサーの抜けもなく良品だそうです。クロスオーバー周波数は500Hz、12db/octです。ウーハー部のトランスがクセモノですが、それを除けばオーソドックスなネットワークです)

 オイロダインのネットワークは強靭な音、浸透力の強い音を形作る、重要なパーツらしいですが、マルチアンプにしたらどうなるのか。
 まだ裸で鳴らしている段階なので気が早すぎると自分でも思うのですが、思い立つと直ぐにイジリたくなっちゃうのが悪い癖です。

 チャンネルディバイダーは手持ちのエレクトロボイスXEQ-2がそのまま使えます。オイロダインの500Hzクロスは、ウーハーの上の帯域にもドライバーの下の帯域にもキツイとの風評がありますので、減衰スロープが24db/octとネットワークより急峻なXEQ-2は好都合かもしれません。
 パワーアンプはやはり手持ちの是枝アンプ、6550P.P.モノラル2台がそのまま使えます。
 という事で、オソルオソル実験しちゃいました。

 マルチアンプは言うまでもなくユニットとパワーアンプが直結ですので、アンプが暴走したらユニットを一瞬で壊してしまう事もある代物です。ビンテージ物でヤルのは怖いのですが、私は壊れたら寿命、壊れたら運命と思う事にして、バスビンもA4もマルチアンプで鳴らしています。
 アンプは真空管式でトランス出力ですからOTLのトランジスタアンプを用いたマルチアンプシステムよりは多少安全ではありますが、まあ、賢い人はやりませんね。その点、私はアホに加えて老い先短いのでやりますよw。

 KL-L406ウーハー、KL-L302ドライバーは共にユニットにターミナルが無く、細い線が直接引き出してあります。 線の先には小さな圧着端子が付いていますので、オイロダインのフレームに手持ちの端子台を建築用両面テープ(強力です!)と結束バンドで取り付け、これを中継端子として配線しました。端子数は4個で足りるのですが、手持ちの物は8個も端子が有り、チョイ大げさでしたね。

 オイロダインの時代性を考えるとスピーカーコードも太い物は不自然ですが、手持ちのケーブルは案外太い物ばかり。妥協してベルデン8477(12GA、メッキ線)を繋いでおきました。ドイツのスピーカーにアメリカ製のベルデンはナニでしょうが、どちらも業務用ですのでコレで良い事にしました。

 マルチアンプはパワーアンプの入力感度をユニットに合わせて絞らなければS/N比が悪くなるのですが、幸いプリアンプも含め、是枝アンプはS/N比が十分取れているので入力ボリューム無しの6550P.P.が問題なく使用できました。

 E.V. XEQ-2は500Hzクロスオーバー、減衰スロープは24db/oct、正相接続、高域レベルは全開、高域のタイムディレイは1msでバランスが取れました。

 さて、音はどうか。オイロダインの「強靭な音、浸透力の強い音はネットワークの関与が大きい」との通説は・・・ウソです。
 マルチアンプにしたら益々音が鮮明になり、より「強靭、浸透力の強い」音になっちゃいました。

 マルチアンプにしたら大抵は音のエッジが立ってきますので、予想通りと言えば予想通りですが、それにしてもエッジが立ち過ぎかもしれません。昔、ステレオサウンドで故・長島達夫氏が、生涯愛したジェンセンG610Bの自宅での第一声を「怪鳥の叫び」、「耳から血が出る」と評されましたが、ややその様な傾向が出てきてしまいました。

 最近の愛聴盤、イザベル・ファウストの「バッハ無伴奏パルティータ第二番」なんか、音量を絞らないと聴くのがつらいです。
 しかし、フッシャー・ディースカウの「冬の旅」となると、急にサエが出て来て実に素晴らしい。これぞドイツ・リートと聴き惚れてしまいます。
 ジャズも良いです。最近エソテリックから出たSACD、キャノンボール・アダレイの「枯葉」のホーンセクションの切れ味は特筆ものです。

 バッフルを付けたら低域が伸び、少し聴き易くなる気もしますので、マルチで当分押してみます。というか、もう絶対マルチだね。

P.S.
 マルチアンプにして最初に観た映画はディアナ・タービンの「オーケストラの少女(1937)」。
アメリカ映画ですが、リストの「ハンガリー狂詩曲第二番」、ワーグナーの「ローエングリーン第三幕への前奏曲」なぞがガンガン流れる映画で、オイロダインに似合いそうと思いましたので。もちろんモノラル録音なので、全ての音はオイロダインから発せられます。
 
 ウーム、見事なものですね。これぞドイツのトーキーですなw
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その12)
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 平面バッフルの制作 Part1.
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   (一番上の写真が裸のオイロダインのF特、二番目が1.8m×1.8mの平面バッフルに取り付けたオイロダインのF特です。再生周波数60Hz〜15000Hzといったところでしょう。
 裸では150Hz辺りから音圧が低下しますので、オーケストラなどは無理ですが、1.8m四方のバッフルに付ければ60Hzまではフラットに出ます。これならパイプオルガン以外は何でも聴けます。バッフル効果によるのでしょうか、副次的に中域のアバレも抑えられる様です。
標準仕様の2m×2mのバッフルにしたら、50Hz近くまでフラットに出るのでしょう。
 
一番下はBOSE・AWCS-1なるサブウーハーをスタックで付加した物。ワイドレンジシステムの一丁上がりですね)

せっかく手に入れたオイロダイン、いつまでも裸で鳴らしておくわけにはいきません。オイロダインは密閉箱やバスレフで使われる例は無く、平面バッフルが標準仕様、次いで後面解放箱です。クラングフィルムの標準仕様は2m×2mの平面バッフル、上弦が輸入したオイロダインは国産の後面解放箱に入った物が多かったと思います。どちらが良いでしょうか。
 
 使用されている例を見ると、ベテランほど、マニア度の高い人ほど平面バッフルが多い様に思います。かつてオイロダインを後面解放箱で使っておられた三上剛志先生も、平面バッフルに変更されています。作り易さも考慮し、平面バッフルで行く事にしました。

 サイズはどうするか。家庭で使用する場合は、バッフルを大きくし過ぎない方が良いとの説があります。たしかに、部屋に比して大きすぎると設置の自由度が無くなり、音の調整が困難になると思います。
 また、大きなバッフルは共鳴し易く、補強を十分に入れないと付帯音が付くのかもしれません。
 
昔話になりますが、バイタボックス・バスビンを日本で一番多く売った京都の八木音響の八木社長の話では、「バスビンを壁に埋め込んだ人がいたが、壁全体がフカフカ鳴りだして、上手くいかなかった」と言われていました。バッフルは大きければよいだろうと安易に作ると、強度が取れずに苦労する様です。
 
 私のオイロダインを世話してくれた方は、30~40cmのウィングで家庭では十分と言われていました。するとバッフルの幅は120cm前後となります。
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 再掲ですが、写真は裸で鳴らしたオイロダインの周波数特性です。150Hzからダラ下がりになっています。音楽を聴く上では、少しトーンコントロールで低域を持ち上げてやれば、十分聴けるレベルですが、ホントに幅120cmの平面バッフルで大丈夫でしょうか。
 映画用センタースピーカーとしてセリフの再生に使うだけなら問題ないですが、モノラル音源のLP、SACDなどもオイロダインで聴きたいと思っていますので、やはり50Hz近い低域再生能力は確保したいところです。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その13)
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 平面バッフルの制作Part2.
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 (オイロダインを仮設置した塗装前の平面バッフル裏側です。補強桟はお約束通りランダムに。補強桟は4.5cm×6cmの米松ですが、オイロダインが乗る所だけアルテックA4ウィングを作った時の端材の4.5cm×10.5cm米松を使用しました)

 KL-L406ウーハーは50Hzまで再生できるそうですが、50Hzの1/4波長の長さは1.7mです。従って50Hzを再生するにはバッフルサイズは理論上3.4m×3.4m必要です。
 
 最もこれは理論値で、私が以前使用していたワイドアングルは1.8m×1.3mの後面解放したが、実は50Hzまでフラットに再生できていました。やはり一時期使ったハートレイ224HSも1.4m×1m×50cmの後面解放箱で使い、20Hzまでフラットに再生していました。 
 ですから理論値どおりのバッフルサイズは必要ないのでしょうが、やはり此処は2m×2mのバッフルになるべく近付けようと考えました。

 ベンプレ亭書斎ではビジュアル再生時に、西面に置かれた2台のバイタボックス・バスビンの前に184インチのサウンドスクリーンが降りて来ます。そのためセンタースピーカーとしても使用予定のオイロダインの設置場所は、2台のバスビンの間しかありません。
 ここに入るバッフルの最大サイズはどうなるでしょう。二台のバスビンの間隔は約2.4m、従って2m×2mのバッフルが入らないこともありません。しかし、こうすると西面がほぼ全面スピーカーバッフルになってしまい、スピーカーの裏に入り込むことが出来なくなります。

 さらに、バスビンの裏にはサブウーハーのBOSE・AWCS-1が二本設置してありますので、このサブウーハーの音を遮ってしまわないかと気になります。
 スピーカーの裏側に回れるように、またサブウーハーの音の通り道を確保するためにもバッフルの幅は1.8mに決定しました。

 高さはどうしましょう。平面バッフルの低音再生限界はウーハーのセンターから最も近い辺までの距離で決まりますので、1.8mより高くしてもあまり意味がないと思います。
 オリジナルも正方形のバッフルですから、私のバッフルも正方形とし、高さ1.8mで行く事にしました。

 次はスピーカーの取り付け位置です。平面バッフルの場合、ウーハーの中心と、4辺までの距離がすべて違う方が音のディップが分散してよいと言われます。事実、自作品はそうなっている物が多いのですが、今回は上下の辺とウーハー中心までの距離は変えるとして、左右は等距離にしました。伊藤喜多男氏の手になる平面バッフルも、左右の中央にユニットを取り付けていましたし、この方が見た目はバランスが良いです。

 板材はバスビンと同じフィンランド・バーチ18mm厚、補強材はアルテックA4のウィングを作った時に使用し、好結果だった米松角材を主に使いました。
A4のウィングは4.5cm×10.5cmの太い米松角材を補強に使用しましたが、今回は少し控えめに4.5cm×6cmを用いました。

 正直、補強材はもっと細くても良いと思うのですが、昔読んだ池田圭先生のスタジオ(先生は自身のオーディオルームをスタジオと称されていました)の取材記事には、氏が作られた平面バッフルは補強材が太く、裏面を文庫本の本棚にしていると書いてありました。そうなると4.5cm×6cmの補強材でも太いとは言えませんね。

 仕上げ前のバーチ合板は初めて手にしましたが、ラワン合板よりずっと美しく、積層の中の「ス」もなく、極めて上質でした。
 バーチ材は「米屋材木店」から切り出してもらったものを購入しましたが、極めて精度が良くて感心しました。搬送も養生に気を使ってあり、カドの痛みも全くありませんでした。
 スピーカーやラックを作られる方にはお薦めのお店です。
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その14)
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 平面バッフルの制作Part3.
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 (自作した平面バッフル、塗装前の仮組の状態です。写真ではわかり難いですが、上の桟にマルカンを二つ取り付けました。後日壁にアンカーを打ってもらい、マルカンと鎖で結んで地震時の転倒防止を図る算段です)

 バッフルは当初3分割、オイロダインが付く中央のバッフルを90cm×180cmとし、その左右に45cm×180cmのウィング(バッフルの延長)を取り付ける事にしました。
 使用したバーチ合板はヨンパチなので中央バッフルの幅は120cmまで可能でしたが、完成時はウィングとの継ぎ目が判るでしょうから、その継ぎ目の位置が不自然にならない様に、幅は90cmに留めました。
 ウィングと中央バッフルはボルト・ナットで締めるだけでなく接着剤も使用し、180cm×180cmの一枚物の平面バッフルにしました。
 この方がバッフル板は多少ともリジッドになりますし、一度組み上げたバッフルはバラす事は無いと思いますので。

 バッフルへのオイロダインの取り付け位置ですが、映画再生時にスクリーンのフレームがスピーカーユニットに掛からない様に、ある程度バスビンの中高域、高域の音源位置にオイロダインのドライバーの高さが近付く様に、そして見た目のバランスが取れる様に、底辺から44cm〜126cmの位置にオイロダインを取り付けるようにしました。

 鉄骨フレームに取り付けられたオイロダインは40kg以上の重量があります。従って、バッフルにオイロダインを取り付けただけでは、バッフルがオイロダインの重さに耐えきれず強度が足りません。
 そのため、まずオイロダインを乗せる丈夫な台を中央のバッフル板と一体に作り、中央バッフルに左右のウィングを固定しました。

 オイロダインを乗せる台に4個、左右に張り出したウィングには2個ずつ、合計8個の家具スベールを取り付け、移動が楽になるよう工夫しました。

 塗装前の写真を見てお分かりの様に、やはり素人大工、中央バッフルとウィングには多少歪がありますが、まあこれも「味」という事でw

 塗装は黒しか考えられませんが、塗料は一般的な水性塗料ではなく、18L売りの墨汁を使用、ローラーと刷毛で塗りました。
 墨汁を選んだのには理由があります。30年ほど前に導入したバスビンも同じく黒い塗装なのですが、10年ほど経つと表面に薄っすらと白いシミの様な物が浮いてきました。塗装の劣化か、カビのような物だったかもしれません。その時、濡れ雑巾でシミを丁寧に拭き取り、防虫・防カビ効果を期待して墨汁を塗ってみました。
 色合いも美しく、仕上がりも文句なし。さらに以来20年、全く塗装面の劣化を認めません。その後は、ちょっとした木製の小物に塗装をするときは墨汁を使っています。

 墨汁の黒は、よく見るとツヤがあるのですがテカリがなく、品の良い黒だと思います。屋外で使うには問題があるでしょうが、屋内使用なら私はコレが一番だと思います。
 ただし墨汁はビスの頭には塗れませんので、手間ですが金属部分はツヤ消しのアクリル塗料でタッチアップしました。

 オイロダインのバッフルにはジーメンス、またはジーメンス・ウンド・ハルスケのエンブレムが貼られているのを見かけます。これらのエンブレムは、ヤフオクでアラートをかけておくとたまに出てきます。
 以前使っていたワイドアングルにはヤフオクでgetしたジーメンス・ウンド・ハルスケのエンブレムを貼り付けていました。

 しかし今回はジーメンスではなくクラングフィルムです。さすがにクラングフィルムのエンブレムはオークションに出てこないでしょう。ジーメンスのエンブレムを貼ると9代目オイロダインと間違われ、値打ちが下がる気がします。

 こうなったら毒食わば皿まで、ネットで拾ったクラングフィルムのロゴをアルミ板にシルクスクリーン焼き付け塗装してもらい、エンブレムを作ってしまいました。
 もう解散した会社ですから、®の事は目を瞑って下さいねw
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晴耕雨聴 2015年10月11日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)導入記(その15)
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 ついに完成です
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 オーディオブログの長いヤツを書いてしまいましたのでご容赦w

 (完成し、バスビンの間に収まったオイロダイン+平面バッフルです。中央バッフルの外側下部に鉄製のハンドルを取り付け、移動時の手掛かりにすると同時に、万一前側に転倒した場合のスピーカー保護部材としました。
下の写真はデッチ上げたクラングフィルムのエンブレム、オイロダインの上方中央に貼ってみました)

 昨年作ったアルテックA4のウィング製作が大変でしたので、今回も覚悟していましたが意外に簡単でした。土日1回で工作は完成、次の土曜に塗装、作業期間は3日で済みました。
 アルテック製作時はベンプレ息子にかなり手伝ってもらいましたが、今回はオイロダインを台座の上に設置するとき手を貸してもらったくらいで、殆ど一人で作業終了となりました。

 アルテックA4のウィングは213cm×61cm×1.8cmに2本の腕木を付けたものを4枚でしたが、今回は180cm×180cm×1.8cmのバッフル1枚。板材の総面積は60%位ですし、補強桟も4.5cm×10.5cmから4.5cm×6cmと細径化しましたので、一つ一つの部材が小さくて軽いのが助かりました。
 また、同じものを何枚も作るのは素人には精神的にキツイのですが、今回は一品製作なので飽きませんでした。

 塗装完了後、オイロダインをバッフルに取り付けましたが、オイロダインのバッフル取り付け穴の四隅に少し隙間が出来るので、巾4cm、厚さ1mmの鉛テープを裏から貼り付け塞ぎました。
 また高域ホーンとオイロダイン本体に組み込まれている無垢材バッフルの間に、わずかに隙間が有る事が判りましたので、ここも同様に鉛テープで塞ぎました。

で は試聴記を。ソースはSACD、プレーヤーはラックス Du08、プリは是枝ラボ、チャンデバはエレボイのXEQ2、パワーは是枝ラボ6550P.P.です。

1.バッハ・ゴールドベルク変奏曲(G.グールド、ステレオサウンド社・ガラスCD)
 言わずと知れた名演奏です。クールな音のグールドのピアノがそのままクールに表現され、聴き応えがあります。透明感には特に優れると思いました。

2.リヒャルト・シュトラウス 歌曲ROTE ROSEN(Camilla Tilling、BIS・SACD)
 甘くふくよかな声のカミラの声が少し硬質に聴こえます。ハイを切って、良質なツィーターを繋ぐ方法もあるでしょうが、そうすると隈取の濃いオイロダインらしさが消えるような気がします。

3.ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」(ショルティ、ウィーンフィル、DECCA、エソテリック&ステレオサウンドのSACD)
 明瞭でエッジの効いたオケと声楽です。正直、張った声の部分ではキツさも感じますが、それも快感です。これはもう一本オイロダインを入れてステレオで聴きたくなりますね。

4.クールストラッティン(ソニー・クラーク ブルーノート&エソテリック・SACD)
 予想通り出だしのホーンからバッチリ決まりました。ドイツはジャズも盛んだそうですが、オイロダインの硬質な音が嵌まります。素晴らしいです。

次にビジュアルのセンタースピーカーとしての音を確認しました。Blu-rayプレーヤーはパイオニアのBDP-LX88、AVプリはマッキンのMSD4です。

1.レッドオクトーバーを追え(パラマウント・Blue-ray)
 冒頭のロシア語の男声合唱に、ショーン・コネリー等のセリフが重なる所が聴き物です。大変厚みのあるロシアの合唱らしい声です。ドイツの男声合唱も聴きたくなりました。「バルジ大作戦」のパンツァー・カイルなんかどうでしょう。

2.アトランティス(パイオニアLDC・DVD)
 これも冒頭の男性ナレーションに都会の騒音が重なるところを使用。作り込んだ声ですが迫力十分。これも聴かせますね。音声は英語ですが、いかにもトーキーサウンド。映画館のイメージが湧きます。

 以上、オイロダインは当初(ノーバッフル時)の印象通り構成の確かな骨太の音です。滑舌が良く、力感みなぎる音です。しかし甘さ、ニュアンスではあと一歩かもしれません。
 音を遠くに飛ばし、大観衆に明瞭に情報を伝え、映画に満足して帰ってもらうために、クラングフィルムはこの音を選択したのでしょう。
 正直、「ハイファイ」という点では一歩譲る音ですが、如何にも聴き応えがある、所謂トーキーサウンドです。伊藤喜多男先生の言われる「木戸銭の取れる音」だと思います。

 但し、このゴツイ音の印象はスピーカーが一本だけの場合で、ステレオ再生では多少違ってくるかもしれません。同一信号を複数のスピーカーで再生すると、柔らかく聴こえます。バイオリンのユニゾンも、AKB48の歌も、それぞれバイオリン一丁や独唱より膨らみが出てきますよね。

 今後パワーアンプをヨーロッパ系の出力管を使ったアンプに変えたいと思います。金欠病の時にテレフンケンV69b(F2a11のP.P.)を売り払ったのが悔やまれますね。

 これで英バイタボックス、米アルテック、独クラングフィルムのシアタースピーカーが揃い踏みしました。まだまだ遊べそうですから、もう少し生きていようかなと思いますw

 もしこの長文、駄文におつきあいして下さった方がおられましたら、深謝いたします。

この記事へのコメント
mambo
2015年10月11日 21:50
ベンプレ親父さま

こんばんは

いつかないつかな? と楽しみにしておりましたら、
な、なんと怒涛の15コマ
一気に読ませていただきました。
どこかの雑誌の投稿記事でも行けるんじゃあないでしょうか?

私が聴いたことがあるのは長野の方がお持ちのオイロパで、強靭さを感じる音量まで出ていなかったのかも知れませんんね。

是非お聴かせいただきたいです。
お疲れ様でした。
ベンプレ親父
2015年10月12日 13:16
mambo様、コメント有難う御座います。

オイロッパは長野にあるのですか。一度聴いてみたいです。
ウチのオイロダインはお聴かせする程のものではないと思いますが、いつでもご連絡ください。
良い音か否かは判りませんが、特徴ある音なのは確かそうですw
https://91683924.at.webry.info/201510/article_17.html


晴耕雨聴 2015年10月14日
Klangfilm Eurodyn(クラングフィルム・オイロダイン)続報
https://91683924.at.webry.info/201510/article_19.html

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https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/007/144504579920080554179.jpg.html

 オイロダインの続報です。上の写真の様に壁にアンカーボルトを打ってもらい、オイロダイン・バッフルに取り付けた丸環と鎖で結びました。これで地震時の転倒対策はバッチリだとおもいます。平面バッフルや後面解放箱は前方に倒れやすいですからね。

 正直、鎖はあまり格好の良いものではありませんが、なんだか昔のプロレスを思い出しました。
 グレート・アントニオという密林から現れた巨漢の怪物というギミックで、暴れださない様に鎖を体に巻き付けて、マネージャーに曳かれてリングに現れるレスラーが居ましたよ。

 まあ、オイロダインはそんな野蛮なスピーカーじゃありませんが、フツーじゃないのもまた事実ですから、これも一種のギミックとして楽しみましょうw

 次にベンプレ妻の提案で、オイロダインをバッフルに固定するトラス・ビスをクロムメッキのビスから黒色メッキのビスに取り換えました。
 銀色ビスもアクセントになるかなと思って選びましたが、完成すると少しくどいですね。黒色メッキに変更して正解でした。

 さてオイロダイン、先週末から今日までヒマがあるとずっと鳴らしっぱです。するとドンドン細かい音が出るようになり、当初のキツさが和らいできました。
 今日なんか、ちょっとエレガントに聴こえますよw

 60年前のスピーカーですが、暫く聴かれておらず、セカンド・バージン状態だったのでしょう。新品程ブレイク・インの時間はかかりませんが、それなりの鳴らし運転は必要だった様です。
https://91683924.at.webry.info/201510/article_19.html


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https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/007/144506808190439200177.jpg.html

写真はオイロダインの裏面です。オイロダインをバッフルに取り付けますと四隅にわずかに隙間が出来ますので厚さ1mm、幅4cmの鉛テープで塞ぎました。
 ホーンと無垢材バッフルも左右に細いスリット状の隙間が有る事が判りましたので同様に鉛テープで塞いであります。

 どちらもフレームの鳴き止め、ホーンの鳴き止めにも有効かと思います。
 もっとも、ホーンは鳴き止めし過ぎると音の躍動感が無くなる場合もあるとか。

 まあ、今回は特に問題はなさそうですね。
https://91683924.at.webry.info/201510/article_20.html


晴耕雨聴 2020年03月29日
よせば良いのに、オイロダインにもハートレイ224HSを追加しました
https://91683924.at.webry.info/202003/article_28.html

オーディオ
1.遠景.JPG
https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/000/158548157208438588887-thumbnail2.jpg.html

1.アップ.JPG
https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/000/158548159047638819446-thumbnail2.jpg.html

 (オイロダインのバッフルと、BOSE AWCS-Tの間に押し込んだハートレイ224HSアルニコ・後面開放箱です。
 サウンドスクリーンの裏に使うので、白いコーン紙が見えては具合が悪いので、こげ茶色のサランネットを付けています。
 遠景では判り難いのでアップも載せました。隙間から顔を出しているのが224HSアルニコです)

 ドルビーアトモスのリアスピーカー、ロンドンWEシステムの低域をハートレイ224HSネオジム2本で補強、ドルビーアトモス天井スピーカー、シーメンス・コアキシャル4本の低域もBOSE AWCS-U2本で補強しました。
 ドルビーアトモス・フロントスピーカーのバスビンは以前よりBOSE AWCS-Tを2本、サブウーハーとしています。

 残るはセンタースピーカーのクラングフィルム・オイロダインです。
 このスピーカーの低域は60Hz位まで伸びており、ダイアローグ中心のセンターチャンネルに、これ以上の低域は無くても良いのですが、毒食わば皿までと此処にもハートレイ224HSアルニコをブチ込んでみる実験をしました。
 こんなバカな事をすると音が悪くなる可能性大ですが、私はバカなのでw

 現在オイロダインはエレクトロボイスXEQ-2を用いて500Hzクロスオーバー、24db/oct減衰カーブで2wayにしてあり、高域、低域ともにアンバランス端子から信号を出し、是枝Lab.のEL60p.p.でドライブしています。
 今回はXEQ-2の低域信号のバランス端子からdbx223xsに信号を入れ、60Hzハイカット、24db/oct減衰の信号を作ってみました。

 ですから低域信号はバランス端子からdbx223xsへ、アンバランス端子からは直接オイロダインの低域用パワーアンプへ入っています。
 dbx223xsはサブウーハへの出力だけが通っており、オイロダインのウーハーに行く信号は通していません。

 一つのchを二分割するだけでも問題があるそうですし、二分割の片方がバランス、もう片方がアンバラではノイズが増えたり、音が歪んだりするかもしれません。
 ダメなら別な方法を考えるという事で、実験を続けました。

 真空管式パワーアンプはもう手持ちが尽きたので、以前天井用スピーカーに使用していた4chパワーアンプ、BOSE 1200Wを使いましょう。
 コレ、結構音が良いです。暖かい音質のアンプです。
 このアンプは25w×4ですが、BTL接続にすると50w×2になります。224HSは許容入力60wですから、BTLの1ch分、50wでOKでしょう。
1.合成.PNG
1.224.PNG
1.オイロ.PNG
 Audio Toolsで測定してみました。
 一番上がオイロダインと224HSを合わせたF特、中央が224HSのみ、一番下がオイロダインのみです。
 極性は逆相で良さそうです。

 この辺でモノラルのCD、デル・モナコの「道化師」の旧盤を聴いてみました。
 オイロダインだけでも堂々たる歌唱で凄いのですが、224HSを組み合わせると空気感が出て臨場感が増します。
 224HSのレベルを上げ過ぎると不自然になりますが、少し付加してやると大変塩梅が宜しい。
 心配していたXEQ-2の低域信号を二つの端子から出力する悪影響も無さそうです。

 どうやらオイロダインにも224HSがサブウーハーとして納まりましたね。
 これでドルビーアトモス9ch全てがサブウーハー付きというドアホウなシステムが出来上がりました。
 まあその、224HS三本、AWCS-U二本が全部無駄にならず良かったです
(^−^)/

 実は現在、バスビンのチャンデバのミッドハイRchに故障があり修理中で、映像ソフトは見られません。
 チャンデバが復帰したら「ゴジラ 怪獣惑星」や「フューリー」でも観てみようかな。
 いや、「アトランティス」の冒頭や「レッドオクトーバーを追え」の冒頭なんかも良いかも。

 ナニ、映像系は「準備万端なれど視聴極小」のベンプレ亭書斎ですが、子供のころカブ・スカウトで「備えよ常に」と習いましたから、これで良いんですよw

 チャンデバはdbx223xsでイケると思いますが、パワーアンプは先で真空管式にしたいですね。何か適当な回路図を拾ってきて、組んじゃいましょう。
 KT88p.p.とか、ごく普通のヤツで良いと思います。

 そうだな、ゴールデンウィークあたりにやっつけられる様に、ボツボツパーツを集めましょうかね。
 確かPT、OPT、CHは40年以上前に組んで、今は使っていないEL34p.p.のヤツがあるはず。これを外して使いましょう、タムラの高級品でしたぞ。
https://91683924.at.webry.info/202003/article_28.html


晴耕雨聴 2020年03月31日
センタースピーカーにもサブウーファーは必要でした
https://91683924.at.webry.info/202003/article_29.html

 先日オイロダインのサブウーハーにハートレイ224HSアルニコを使用開始したことを書きました。
 当初オイロダインの平面バッフルの後ろとバスビン用のBOSE AWCS-Tの間に押し込んでいたのですが、そうするとオイロダインを従来より20p程前に出さないといけません。

 このセッティングではオイロダインのバッフルとバスビンのウイングの間が30p足らずとなり、224HSだけでなくAWCS-Tの音の通り道がやや遮られます。
 それならと、下の写真の様に224HSをオイロダインの前に持ってきました。

IMG_0937.JPG
https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/000/158561612792076283641-thumbnail2.jpg.html

 これなら224HS、AWCS-Tともに音が遮られませんね。
 224HSはオイロダインのバッフルとバスビンのウイングにてバッフル効果が向上して低域の伸びが良くなるかもしれないと期待しましたが…

 224HSの低域は以前のセッティングと大差なく、より伸びるとは行きませんでした。しかし悪くは無いですね。
 位相も逆相で良さそうです。

 バスビン用のチャンデバも修理が出来ましたので、こちらのシステムも鳴らしてみました。特に224HSを設置する前と変化なしですね。224HSは今回の位置でOKですな。

 さてドルビーアトモス天井スピーカーの時にも実験しましたが、センタースピーカーにどのくらい低域信号が入っているのか調べてみました。ソースは今回も「ゴジラ 怪獣惑星」chap.25です。
 1.224HS.PNG
1.オイロ.PNG
 グラフの上が224HSあり、下が無しです。比較するのは青い横棒です。
 グラフの中の赤い棒グラフは部屋の暗騒音で、青い横線がそのchap.で記録された周波数ごとの最大音圧です。
 やはり224HSが無ければ再生できない周波数がソースに沢山入っていますね。センタースピーカーにも専用サブウーハーは意味がある様です。

 ドルビーサラウンド、ドルビーアトモスは鑑賞者が四方八方から音に包まれる臨場感を出すシカケだと思います。
 超低音は方向感が判り難くなるので、センター、リア、天井などは超低音をカットしてフロント2chに回し、フロント2ch以外のスピーカーは小型のもので賄うのだと思っていました。

 しかし実験してみると、家庭用のドルビーアトモスと云えども、フロント2ch以外のchにも躊躇せず超低音を盛り込んでありますね。
 この結果を見ると、家庭でのドルビーアトモス再生のみならず、映画館でもサラウンドスピーカーのF特は不足しているのではないでしょうか。
 過去にサラウンドchやセンターchに低域がどこまで記録されているかのレポートは、雑誌等でも私は気が付きませんでした(HIVIしか読んでないけど)。
 もしかすると民間発信としては本邦第一報かもしれませんな(^−^)/  

 何れにせよ、224HSはAWCS-Tより低域のレンジは広いので、ちょっとモッタイナイくらいの良いサブウーハーですぞw
https://91683924.at.webry.info/202003/article_29.html

晴耕雨聴 2020年04月02日
ハートレー224HSアルニコのパワーアンプを真空管式に変更しました(その1.)
https://91683924.at.webry.info/202004/article_1.html

1.EL34外観.JPG
 (36年前に作ったEL34p.p.三結無帰還アンプを復帰させました)
 
 昨日から新年度、経営者のお正月のようなものですが、入社式もないし経営指針書発表会もないし、全くそんな気がしませんね。
 埼玉の積仁会・旭ヶ丘病院では昨日から電子カルテの稼働が始まりました。
 うーむ、明るい話題はそれくらいですな。

 さて、先日よりクラングフィルム・オイロダインのサブウーハーにハートレイ224HSアルニコを導入しました。
 駆動アンプにはBOSE 1200Wという4chアンプ(25w×4)をブリッジ接続で2ch(50W×2)とし、そのRchを使用しています。

 この古いアンプは、喫茶店やブティックでBOSEの101MMを鳴らすために売られていた半業務用のアンプです(101用のイコライザーが付いています)。
 4chが重宝すると、ドルビーアトモス天井スピーカー4本用にオクで手に入れ、使用していました。
 特に期待していなかったのですが、このアンプ、トランジスタなのにナカナカ暖かな良い音のするアンプです。

 さて、オイロダインのSW、ここだけTr.アンプもナニですし、イメージが合いませんよね。ここは何か適当な真空管アンプを使いたいところです。
 当初、KT88か6550のp.p.で50〜60wくらいのアンプを作って、これに充てるつもりでした。部品集めを始めるにあたって、大昔に作って、今は使っていない真空管アンプのトランス類が使えないかなと、物置から古いヤツを引っ張り出してきました。

 EL34のp.p.です。ステレオサウンドの64号(1982年秋号)、65号(1983年冬号)に上杉佳郎先生が掲載された回路で、20wのオルソン型無帰還アンプです。

 現在、ドルーアトモス天井spの後ろ側の二本が、やはり上杉先生の6CA7オルソン型無帰還アンプ16wです。
 また同じ設計者、同じ出力管、同じ様な無帰還回路じゃつまらないと思っていましたが、実機を見るとナカナカ格好良く作ってますね(自分の事やがなw)。

 中を開けて見ると、配線もキレイです。当時はメッキ単線にエンパイヤチューブで作ってましたから、枝振りが宜しい。線のハーネスも結束バンドで横着せず、ビニールの撚り紐で丁寧にやってあります。

 パーツ類も凝ってます。トランスやチョークは今では手に入らないタムラの高級品。小物もアーレンブラッドレーの抵抗、スプラグの電解コン、カップリングコンなんてビタミンQですぞ。
 真空管も一流品、テレフンケン(ECC82、GZ34)、RCA(5692)、ムラード(EL34)です !!

 配線で気になる所はヒーター線が縒っていないところぐらい。これもメッキ線仕様ならこんな物でしょう。
 塗装は少し劣化していますが、これはこれで貫禄が出てますな。
 コレ使ってみましょう。

 ステサンの64,65号の発売日から類推すると、私がコレを作ったのは恐らく医学部の最終学年、1983年の春以降でしょう。
 医師国家試験の1年前だろ、勉強せーよ、コラ。
https://91683924.at.webry.info/202004/article_1.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c49

[近代史5] オホーツク文化人の起源
オホーツク文化人の起源

雑記帳 2019年10月03日
オホーツク文化人のハプログループY遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html


 一定以上の有名人の発言でも、イランは「広義のアラブ」というような、どうにも拡散・定着しそうにない馬鹿げたものを揶揄するように取り上げる(関連記事)のは時間の浪費だと考え、当ブログでわざわざ言及することはやめよう、と最近では心がけています。しかし、現代日本社会において、一定以上の比率で存在するだろう特定の政治的志向の人々の間でもてはやされ、定着しかねない与太話に関しては取り上げる価値があると考えているので、Y染色体について検索していて見かけた、以下に引用する表題の発言について私見を述べます。

これは擦文人との関係ではなくオホーツク文化人のハプログループY遺伝子を引き継いでいるという記事です。つまりオホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明。すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されているのでアイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね。

 まず、「ハプログループY遺伝子」という用語からして不適切です。ハプログループとは、類似したハプロタイプの集団のことです。ハプロタイプとは、ヒトのような二倍体生物では、単一の染色体上のアレル(対立遺伝子)の組み合わせです。ハプログループとは特定の遺伝子のことではなく、ハプログループの分類名の後に遺伝子をつけるような用語は不適切です。

 次に、上記発言は、2009年の北海道新聞の記事を引用したブログ記事に基づいており、そこでもすでに「Y遺伝子」とありますが、これはおそらく、紀元後7〜13世紀のオホーツク文化集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)を解析し、そのハプログループ(mtHg)を決定した研究(Sato et al., 2009)に基づいていると思います。この研究は、北海道「縄文人」にはmtHg-Yが見られないのに対して、現代アイヌ集団には20%弱存在することから、現代アイヌ集団は北海道の続縄文時代および擦文時代の集団とオホーツク文化集団との混合により形成された、と推測しています。つまり、「オホーツク文化人の男系遺伝子を引き継いだという証明」となる研究ではありません。上記発言では「すでに女系のmtDNAを引き継いでいる事は証明されている」とありますが、それがこの研究を指しています。

 おそらく上記の発言主は、「ハプログループY遺伝子」とあるので、Y染色体ハプログループ(YHg)についての研究だと誤認したのでしょう。ちなみに、現時点でもYHgの分類名でまだYは割り当てられていません。率直に言って、この程度の認識で「アイヌのホームタウンはアムール川流域である事を示していますね」と発言するのは、たいへん恥ずかしいことだと思います。以前当ブログでもこの問題を取り上げましたが(関連記事)、実は5年近く前(2014年11月18日)に、的場光昭氏でさえ、

「アイヌ民族の特徴であるY遺伝子がない。」は、体細胞核にあるY染色体と混同される恐れがあるので、誤解を招きます。
ミトコンドリアDNAのハプログループYと訂正お願いします。

と懸念を表明していたくらいでした。上記発言は、的場氏の懸念が杞憂ではなかったことを証明してしまいました。率直に言って、アカウントを削除してもおかしくないくらいの失態だと思うのですが、こういう発言をする人は多くがふてぶてしいので、今後もアイヌ問題関連で遺伝学的研究を都合よく理解して、というか誤認して恥ずかしい発言を続けるのでしょう。なお、検索してみたところ、すでに北海道新聞の記事で「ハプログループY遺伝子」となっており、上記のブログ記事や発言主にも多少は同情の余地があるかもしれませんが、遺伝学的観点からアイヌの由来を語っているわけですから、やはりアカウント削除級の恥ずかしい間違いとの私見は変わりません。


参考文献:
Sato T. et al.(2009): Mitochondrial DNA haplogrouping of the Okhotsk people based on analysis of ancient DNA: an intermediate of gene flow from the continental Sakhalin people to the Ainu. Anthropological Science, 117, 3, 171–180.
https://doi.org/10.1537/ase.081202


https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/287.html

[近代史5] ドイツ人の起源
ドイツ人の起源

雑記帳 2019年10月15日
ドイツ南部の青銅器時代の社会構造(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_29.html


 ドイツ南部の青銅器時代の社会構造に関する研究(Mittnik et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。古代DNA研究により、ヨーロッパ中央部における先史時代の遺伝的変化が明らかにされてきました(関連記事)。しかし、その社会構造に関しては、未解明の点が多く残されています。考古学では、前期青銅器時代には、豪勢な墓が確立していったことから、階層的な社会的構造が進展した、と考えられています。同位体分析では、広範な地域にわたる長期の族外結婚ネットワークの存在が示唆されています。

 本論文は、後期新石器時代から中期青銅器時代までの、小さな農場が密集するドイツ南部のレヒ川渓谷における、高解像度の遺伝的・考古学的・同位体データを提示します。本論文は、これらレヒ川渓谷の後期新石器時代〜中期青銅器時代遺跡群の104人のゲノム規模データを生成し、約120万ヶ所の一塩基多型データでその遺伝的系統と親族家系を推定されました。この時期のレヒ川渓谷の文化的区分は、紀元前2750〜紀元前2460年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)、紀元前2480〜紀元前2150年頃の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)、紀元前2150〜紀元前1700/1500年頃の前期青銅器時代、紀元前1700〜紀元前1300年頃の中期青銅器時代(MBA)となります。後期新石器時代〜中期青銅器時代レヒ川渓谷集団(以下、レヒ川渓谷集団)の遺伝的データは、993人の古代人および1129人の現代人と比較されました。また、レヒ川渓谷の後期新石器時代〜中期青銅器時代の139人のストロンチウムおよび酸素同位体データが得られ、生涯の移動履歴が推定されました。

 レヒ川流域集団は遺伝的にはヨーロッパ集団の範囲内に収まり、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の青銅器時代牧畜民と中期新石器時代および銅器時代ヨーロッパ人の間に位置します。レヒ川流域集団の古代系統は、青銅器時代以降の多くのヨーロッパ集団と同様に、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統とアナトリア農耕民系統とポントス-カスピ海草原の牧畜民であるヤムナヤ(Yamnaya)系統の混合として表されます。レヒ川流域集団では、BBCから中期青銅器時代にかけて次第にアナトリア農耕民系統の割合が増加しており、新石器時代以来のヨーロッパの在来集団と、後期新石器時代以降となるポントス-カスピ海草原からの外来集団(ヤムナヤ系集団)との混合の進展を示します。

 CWC 集団ではX染色体と比較して常染色体でヤムナヤ系統の割合が顕著に高いことから、ヤムナヤ系の割合の高い集団と在来集団との当初の混合は、前者の男性と在来集団の女性に偏っていた、と示唆されます。これは、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてのヨーロッパにおけるヤムナヤ系集団の拡大では男性が主体だった、とする以前の見解と一致します(関連記事)。しかし、後のレヒ川流域集団ではこうした性的偏りは観察されていません。レヒ川流域集団男性のY染色体ハプログループ(YHg)は、ほとんどが紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部および西部で高頻度のR1b1a1b1a1a2で、ヤムナヤ系統を有するCWC 集団の拡散に由来すると推測されます。このCWC 集団がヨーロッパ中央部に拡散してきて定着し、ヤムナヤ系統の割合の低い在来集団との混合が次第に進展していった、と考えられます。

 ストロンチウムと酸素の同位体比は、男性と未成年よりも女性において外来者が多かたことを明らかにします。これは、男性が出生地に居住し続けたか、出生地に埋葬されるという父方居住制を示唆します。すでに以前の研究では、後期新石器時代〜前期青銅器時代のレヒ川渓谷において父方居住の配偶形態と、知識の伝達における女性の役割が指摘されており(関連記事)、本論文は以前の研究を改めて確認し、さらに詳しく解明しています。ただ、成人男性のうち3人は例外的で、思春期に出生地を離れ、成人になると帰郷した、と推測されます。外来の女性は、思春期もしくはその後にレヒ川流域に到来した、と推測されます。

 レヒ川渓谷集団の血縁関係も推定され、2世代が3家系、4世代が1家系、5世代が2家系です。10組の親子関係のうち、母親と子供の組み合わせは6組で、子供は全員男性でした。また、10組の親子関係のうち、9人の子供は成人でした。これは、息子ではなく娘が出生地を離れた、と示唆しており、同位体比から推測される父系的な族外婚と一致します。ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づくと、レヒ川渓谷集団では母系が継続しなかったのに対して、父系は4〜5世代続いたと推定されます。さらに、YHgで支配的なR1b系統に分類されない男性は、同じ墓地に近親の被葬者がいないことも明らかになりました。

 副葬品では、男性における短剣や斧や鏃といった武器と、女性における銅製頭飾・太い青銅製足輪・装飾された銅製ピンなどといった精巧な装飾品は、おそらく社会的地位と関連しており、豊かな副葬品はその家系の富と地位を示す、と考古学では指摘されています。前期青銅器時代のレヒ川渓谷集団の墓地では、複数世代にわたる家系で男女双方ともに副葬品の顕著な蓄積が見られます。これを男女に分けて分析すると、この相関は男性で顕著です。武器は、親族のいない男性の墓地よりも、親族のいる男性の墓地で顕著に多く残っています。WEHR遺跡では、16人のうち母親と息子2人の計3人のみに副葬品が備えられており、富と地位が両親から子供へと継承されていたことを示唆します。成人間近の個体でも副葬品が充実しており、社会的地位は、自らの活動により獲得していくというよりもむしろ、出自により継承されることを示唆します。中核的家族は通常、隣接して埋葬されており、社会的つながりが強調されています。POST遺跡では、副葬品の高い地位は墳墓の建設と木製の柱により強調されます。これは、中核的家族への所属と精巧な形式の埋葬とのつながりを示唆します。

 各データを総合すると、埋葬者は、血縁関係があり副葬品の豊富な個体群と、それとは異なる2集団が識別されました。この2集団の構成員は、中核的家族とともに各農場で居住していた、と推測されています。その一方は外来の女性で、プレアルプス低地を越えてレヒ川流域に到来した個体もいます。これらの女性は血縁関係があり副葬品の豊富な個体群と血縁関係にはありませんが、そのほとんどで副葬品が豊富でした。もう一方は、他の個体群と血縁関係がなく、副葬品も乏しい個体群です。血縁関係のある副葬品の豊富な集団、血縁関係のない副葬品の豊富な集団、血縁関係のない副葬品の乏しい集団という3集団の間では、古代系統の顕著な違いは見られませんでした。豊かな副葬品と血縁関係を考慮すると、異なる地位および血縁関係の人々はおそらく同じ農場に居住し、複雑で社会的に階層化された組織だっただろう、と本論文は推測しています。復元された家系図と改善された個人の直接的推定年代を考慮すると、POSTの墓地では、家系全体の年代は233〜169年になる、と本論文は推測しています。

 古代の家族構造と社会的不平等の調査は、古代の人類集団の社会的組織の理解に重要となります。これまで、前期青銅器時代における社会的地位の違いは、多数の小作農と少数の傑出した支配層として推測されてきました。この支配層は、裕福な農民もしくは広大な地域あるいは集団を社会的・経済的に支配した王および王族と考えられてきました。本論文は、前期青銅器時代における社会的不平等の異なる形態を示します。それは、富と地位を子孫に継承するより高い地位の核となる血縁関係にある構成員と、血縁関係になく裕福で地位の高い外来女性と、地元出身で地位の低い個体群から構成される複雑な家族構造です。本論文は、こうした社会構造が700年以上という長期にわたって安定的に継続した、と推測しています。

 副葬品の比較に基づくと、高い地位の外来女性の何人かは、レヒ川渓谷から少なくとも350km東方となる現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在した、ウーニェチツェ(Únětice)文化集団から到来しました。ドイツ南部のほとんどの前期青銅器時代の証拠はレヒ川渓谷遺跡群とたいへん類似しており、レヒ川渓谷のような社会的構造はずっと広範な地域に存在した、と本論文は推測しています。さらに本論文は、前期青銅器時代レヒ川渓谷集団の社会構造は、血縁関係にある人々と奴隷から構成される、古典期ギリシアやローマの家族制度と類似しているように見える、と指摘します。ただ、使用人的なそうした社会構造は、古典期よりもずっと前に存在していたのではないか、というわけです。本論文は、学際的な方法で先史時代の社会構造を明らかにしています。伝統的な個別の方法では解明の難しい先史時代の社会構造も、学際的な方法ではかなりの程度分かるようになる可能性を提示したという意味で、本論文は注目されますし、こうした方法が広く用いられ、研究が大きく進展するだろう、と期待されます。

 本論文は、前期青銅器時代のドイツ南部において、すでに社会的地位と富が出自に基づいて継承されており、階層化社会が確立していた、と示します。社会的地位の高い家系の女性は、外部の集団に送り出されて地位の高い家系の男性と結婚し、地位の低い人々は配偶機会に恵まれないか、そもそも墓地に埋葬されることが少なかった、と考えられます。また本論文は、前期青銅器時代のドイツ南部の社会が父系的だったことも示しています。社会的地位の上下で古代系統の割合が大きく変わらないことと、地位の低い男性のYHgが支配層のR1b系統とは異なっていることから、ヤムナヤ系統の割合の高い外来集団、おそらくはCWC集団が男性主体で征服者としてドイツ南部に拡散してきて、その男系子孫が高い社会的地位を確立して継承していった一方で、在来の男系子孫は社会低層に追いやられ、配偶機会も少なくなっていった、と推測されます。

 こうした父系的社会は世界各地で珍しくありませんが、現生類人猿が現代人の一部を除いてすべて非母系社会を形成することから、人類は元々母系社会で、「社会的発展」により父系社会に移行した、という説明は根本的に間違っている、と私は考えています(関連記事)。この問題についてはまだ勉強不足なので明快には述べられないのですが、類人猿はずっと非母系社会を形成しており、ヒト・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の時点で時として父系的な構造の社会へと移行し、チンパンジー系統では明確な父系社会へと移行し、ヒト系統では、父系に傾いた非母系社会から、双系的な社会を形成していったのではないか、と考えています。そうした中で、母系に特化した社会も形成されたのであり、母系社会は人類史においてかなり新しく出現したのではないか、というのが現時点での私の見解です。


参考文献:
Mittnik A. et al.(2019):Kinship-based social inequality in Bronze Age Europe. Science, 366, 6466, 731–734.
https://doi.org/10.1126/science.aax6219


追記(2019年10月17日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_29.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/288.html

[近代史5] ドイツ人の起源 中川隆
1. 中川隆[-11559] koaQ7Jey 2020年9月01日 15:15:40 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[28]
雑記帳 2020年06月01日
フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html
 フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータに関する研究(Rivollat et al., 2020)が公表されました。採集から農耕への変化となる新石器時代への移行は、人類史における最重要事象の一つです。ユーラシア西部では、新石器時代の生活様式は、紀元前七千年紀から続く、レヴァント北部からのアナトリア半島経由の可能性が高い西方への拡大として示されてきました。二つの主要な考古学的によく定義された流れに沿って、農耕は拡大しました。一方はドナウ川沿いでのヨーロッパ中央部への拡大で、もう一方は地中海沿岸でのイベリア半島への拡大です。

 最近の大規模なゲノム研究では、農耕拡大は人々の拡散を通じての拡大によるものだったと示されますが、地域単位での研究では、拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の混合が複雑で地域的だった、と示唆されます。大陸経路はヨーロッパ南東部から中央部で比較的よく考古学的記録が見つかっており、とくに新石器時代線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)において、ひじょうに限定的な最初の生物学的相互作用を伴う急速な拡大が示されています。その後、千年紀以上にわたって、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民と共存し、文化的交換を続けた証拠があります。ヨーロッパ南東部における新石器時代の拡大は地中海沿岸経路と関連しており、拡散してきた農耕民の最初の定住後の、少なくとも千年紀の狩猟採集民との増加する混合パターンが、イベリア半島で観察されます(関連記事)。これらの研究から浮かび上がってくる全体像は、ヨーロッパ全地域において、最初の拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の混合はほとんどなく、新石器時代が進むにつれて狩猟採集民系統が増加していった、というものです。新石器時代でも後期段階で検出された狩猟採集民要素は、カルパチア盆地とイベリア半島に地域的起源がある、と示されてきました。

 考古学的観点から、後期狩猟採集民と早期農耕民との間の相互作用のさまざまな様式を定義して示すことは容易ではなく、明確で正確な時空間的枠組みを生成するには、高解像度データと正確な分析手法が必要です。大陸経路に沿って、中石器時代集団と新石器時代集団との接触の証拠が西方に向かって増加します。全体として、最後の狩猟採集民の石器群は技術的および様式的に、初期農耕民の石器群にむしろ類似しています。狩猟採集民との接触兆候は、中石器時代後期の石刃と台形石器の範囲における、地域的伝統を有するほぼ細石器タイプです。移住農耕民と狩猟採集民の間の接触の考古学的兆候は、ドイツ南西部において、ヘッセン州の最初のLBK遺跡群だけからではなく、ファイインゲン(Vaihingen)からも報告されてきました。フランス北西部のラオゲット(La Hoguette)やドイツ西部のリンブルク(Limburg)の土器のような農耕民および狩猟採集民と土器を有する集団の間の共存は、LBK集落内で記録されています。集落内での共存の証拠はもはや観察できませんが、特定の狩猟採集民装飾品がヨーロッパ西部中央の埋葬地で観察されてきており、中期新石器時代を通じてこれらの異なる集団の共存伝統が継続したことを示唆します。

 地中海西部経路では、主な不確実性は、イタリアにおけるインプレッサ・カルディウム複合(Impresso-Cardial complex、略してICC)の拡散の起源です。後期の狩猟採集民集落はイタリア半島北東部に集中していますが、最初期の農耕民は南部に出現し、地理的にはほとんど重なりません。対照的に、最後の狩猟採集民と最初の農耕民の間の不連続性は、フランス南部ではもっと顕著です。これは、最後の狩猟採集民の石刃と台形石器のインダストリーと、最初の農耕民の道具一式の顕著な様式の違いに基づいています。これらの不一致は、文化的・人口的変化を合理的に主張します。しかし、フランス南部もしくはイベリア半島における中石器時代から新石器時代への遷移を提供する層序系列はわずかで、ほとんどの場合、明確な層序の間隙が記録されており、推定される地域的相互作用と一致させるのは困難です。新石器時代系列における連続的な石器群、もしくは稀な石器時代の再発は、地中海沿岸の最初の農耕民の植民後、少なくとも3世紀にわたってアルプス南部のみで見られます。

 ヨーロッパ北西部では、新石器時代の生活様式の到来はもっと複雑です。考古学的研究では、中石器時代から新石器時代への相互作用と交換の様相はひじょうに違いがあり、地域的な多様性が見られます。紀元前5850年以降となるICC開拓者集団によるフランス南東部の植民と、紀元前5300年頃までとなるフランス北東部の最初期農耕民集団による植民との間には、もっと顕著な年代的間隙さえあります。大西洋沿岸へと至るヨーロッパ西部の新石器時代農耕民集団拡大の二つの主要な流れの経路と、在来の中石器時代社会との相互作用の程度は両方、次の世紀の地域全体の物質文化で見られる多様性のモザイク状パターンを生み出しました。このパターンは文化水準でよく説明されてきましたが、とくに現在のフランスでは、現在まで利用可能なゲノムデータはありません。パリ盆地の農耕民のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究は、狩猟採集民に特徴的なmtDNAハプログループ(mtHg)、とくにU5の割合が、ヨーロッパ中央部および南部よりも高いことを強調し、さまざまな過程の作用を示唆します。

 本論文の目的は、現在のフランスおよびドイツを主要な対象として、新石器時代最初期段階の人類集団間の文化的および生物学的相互作用の複雑さと変異性を解明することです。本論文の対象研究地域は、ヨーロッパ中央部(ドナウ川経路)の初期農耕共同体と、フランス南部(地中海沿岸経路)の初期農耕共同体との収束、および在来の後期狩猟採集民とのさまざまな形の相互作用を包含するのに適しています。


●主成分分析

 本論文は、現在のフランスとドイツの12遺跡で発見された101人のゲノム規模データを新たに報告します。年代は紀元前7000〜紀元前3000年頃で、中期石器時代が3人、新石器時代が98人です。約120万ヶ所の一塩基多型データ(平均網羅率0.6倍)と、mtDNAデータ(平均網羅率249倍)が得られました。一親等の関係は下流分析では除外されています。これらの新たなデータが、既知の古代人(629人)および現代人(2583人)と比較されました。また、古代人30個体の新たな放射性炭素年代測定結果も得られました。

 中期石器時代個体で新たに報告された、ドイツのバート・デュレンベルク(Bad Dürrenberg)の1個体(BDB001)とボッテンドルフ(Bottendorf)の2個体(BOT004およびBOT005)は、主成分分析ではヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まります。後期新石器時代となる漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRB)関連のエルベハーフェル(Elb-Havel)のタンガーミュンデ(Tangermünde)遺跡の1個体(TGM009)は、WHGと新石器時代農耕民の間の中間に位置します。新たに配列された新石器時代個体群は、既知の地域的な2亜集団とクラスタ化します。一方は、ヨーロッパ中央部および南東部の新石器時代個体群で、もう一方は、PC1軸でわずかにWHGに寄っているヨーロッパ西部(イベリア半島とフランスとブリテン諸島)の新石器時代個体群です。4集団を対象としたf統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、これらの観察はヨーロッパの狩猟採集民との類似性のさまざまな程度に由来する、と確認されます。ドイツのシュトゥットガルト・ミュールハウゼン(Stuttgart-Mühlhausen、略してSMH)とシュヴェツィンゲン(Schwetzingen、略してSCH)とハルバールシュタットHalberstadt(Schwetzingen、略してSCH)の前期新石器時代個体群(既知の44人と新たな42人)はLBKと関連し、ヨーロッパ中央部の早期農耕民集団の均一な遺伝的集団を形成します。

 フランスの新石器時代集団は、ヨーロッパ西部新石器時代個体群とクラスタ化しますが、ICCとなるフランス南部のペンディモン(Pendimoun、略してPEN)遺跡とレスブレギエーレス(Les Bréguières、略してLBR)遺跡の個体群は、さらにWHGへと寄っています。これは、他のあらゆる早期新石器時代個体群よりも高い狩猟採集民構成と、同時代のイベリア半島の西部早期農耕民集団と比較しての、混合の異なる歴史を示唆しています。PENおよびLBRの両遺跡については、狩猟採集民系統が少ないAと多いBという亜集団に区分されます。フランス南部の新石器時代個体群は、ヨーロッパ南東部および中央部農耕民の亜集団の範囲内に収まるアドリア海地域のICC関連個体群とは集団化しません。ヨーロッパ中央部および西部の両集団は依然として紀元前五千年紀と紀元前四千年紀に存在しており、ライン川沿いの地理的境界が示唆されます。フランス北部の中期新石器時代では、ギュルジー(Gurgy、略してGRG)遺跡とプリッセ・ラ・シャリエール(Prissé-la-Charrière、略してPRI)遺跡とフルーリー・シュル・オルヌ(Fleury-sur-Orne、略してFLR)遺跡の個体群が均質なように見える一方で、オベルネ(Obernai、略してOBN)遺跡の個体群は3集団を形成します。第1は同時代のヨーロッパ西部個体群と近く(OBN A)、第2はより強い狩猟採集民構成を有し(OBN B)、第3はヨーロッパ中央部農耕民と近くなっていますが(OBN C)、これら3集団は類似した文化的および年代的背景を共有しています。


●ヨーロッパ農耕民集団における一般的狩猟採集民系統の定量化

 qpAdmを用いて、直接的な放射性炭素年代の得られている新規および既知の新石器時代個体群の、経時的なヨーロッパ狩猟採集民系統の割合が推定されました(モデルA)。ヨーロッパ中央部および南部の各地域における農耕の最初期には、無視できる程度の狩猟採集民系統を有する顕著に類似したパターンが観察され、狩猟採集民系統は農耕確立の数世紀後に次第に増加していきました。追跡可能な狩猟採集民系統を有さない最後の個体群は、紀元前3800〜紀元前3700年頃に消滅します。ヨーロッパ南東部は、セルビアの鉄門(Iron Gates)地域と関連する個体群で特定のパターンを示し、ブリテン諸島は新石器時代の到来時期における突然で一定した狩猟採集民構成を示します。新たにゲノム規模データが報告されたライン川東方の西部LBK集団は、狩猟採集民系統がより高く変動的と報告されている、ブルガリアのマラク・プレスラヴェッツ(Malak Preslavets)遺跡のようなヨーロッパ南東部とは対照的な、エルベ・ザーレ川中流地域とハンガリーのトランスダニュービア(Transdanubia)からの推定を確証します。しかし、現在のフランスでは状況が異なり、ヨーロッパ他地域と比較して全体的に狩猟採集民系統の最高の割合が観察されるだけではなく、フランス南部のPENおよびLBR遺跡の最古の個体群にも狩猟採集民系統が見られます。この観察はまた、単系統遺伝標識でも支持されます。フランス南部地域の西部早期農耕民におけるY染色体ハプログループ(YHg)は、狩猟採集民に由来するI2aのみです。対照的に、mtDNAではもっと一般的な新石器時代の遺伝的多様性が見られ、以前に報告されたように狩猟採集民起源の可能性がある2系統のmtHgであるU5およびU8も見られます。

 ライン川のすぐ西に位置する中期新石器時代のOBN遺跡の2個体(OBN B亜集団)も、ライン川東方のLBK遺跡集団とは対照的に、狩猟採集民構成の高い割合を示します。追加の狩猟採集民系統の割合を定量化するため、ドイツのLBK関連集団がアナトリア半島新石器時代系統とヨーロッパ狩猟採集民系統の混合としてモデル化され、OBN亜集団がLBK関連集団とヨーロッパ狩猟採集民との混合としてモデル化されました。その結果、このモデルはよく支持され、OBN B亜集団において狩猟採集民系統の最大31.8%の過剰が得られました。ライン川東方のLBK関連集団における強い狩猟採集民系統の欠如を考慮すると、これは最初の農耕民の到来に続く数世紀の間の在来集団からの遺伝子流動と推定されます。さらに、OBNの男性個体群のYHgは在来狩猟採集民からもたらされたI2a1a2とC1a2bのみで、ライン川のすぐ西方の地域における狩猟採集民系統のより大きな割合のさらなる証拠を提供します。


●ヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的構造

 アナトリア半島新石器時代農耕民系統を有するヨーロッパ初期農耕民の共有された最近の系統と、ヨーロッパ本土全域での急速な拡大により、考古学で提案されているような、ゲノム水準で異なる新石器時代における農耕民拡大の複数の経路を区別することは、困難になっています。既知のデータでは、ヨーロッパ東部から西部へと、狩猟採集民系統の増加が観察されますが、これは単純に農耕起源地からの地理的距離の結果かもしれません。そこで、さまざまな拡大経路の兆候を検証するため、ヨーロッパの狩猟採集民系統における次第に出現してくる地理的構造を利用しました。本論文では、氷期後のヨーロッパの狩猟採集民系統は、それぞれ混合勾配のある主要な3クラスタにより説明されます。それは、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)的な系統と、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体と関連するWHG系統と、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)系統です。さらに、これらクラスタ間の2つの勾配が観察できます。一方は、イベリア半島の狩猟採集民により形成される(関連記事)ゴイエットQ2とWHGとの間の勾配で、もう一方は、ヨーロッパ南東部やスカンジナビア半島やバルト海地域の狩猟採集民により形成されるEHGとWHGの間の勾配です。

 この観察に続いて、全ヨーロッパ狩猟採集民個体がf4統計で検証されました。全ヨーロッパ集団で負のf4値が得られ、WHGクラスタと共有される系統が示唆される一方で、正の値はEHGの方へと引きつけられます。qpAdmでは、WHG関連のヴィラブルナとEHGとゴイエットQ2の混合としてヨーロッパの狩猟採集民個体群がモデル化でき、その最適なサブクレードが確立されます(モデルB)。早期農耕民との混合の兆候を示す狩猟採集民のいくつかに適合する、アナトリア半島新石器時代系統が追加されます。本論文はそれぞれの結果で、最も節約的なモデルを選択しました。ヨーロッパ南東部とスカンジナビア半島の狩猟採集民を含むEHGとWHGの間の勾配の個体群は、EHG 系統のかなりの割合を有するので、WHG個体群とは区別できます。上述のドイツの中石器時代個体群(BDBおよびBOT)はWHGクラスタの一部を形成します。

 以下では、ヨーロッパの農耕到来時期において、EHGとWHGの間の広範な系統勾配が、新石器時代の農耕民拡大で提案されているドナウ川経路と重なる、ヨーロッパ中央部および南東部の主要な地域(現在のドイツ・ハンガリー・セルビア・ルーマニア・ウクライナ)を覆っている、という観察を活用します。その結果、ICC土器と関連した地中海沿岸経路の前期新石器時代農耕民と、とくにフランスとスペインに到来した前期新石器時代農耕民が、EHGとWHGの間の勾配のEHG側からの系統は少なく、代わりにヴィラブルナ関連WHGおよびゴイエットQ2関連系統の支配的な混合兆候を示す、という仮説が提示されます。


●農耕民集団における異なる狩猟採集民系統の追跡

 狩猟採集民個体群と同様に、全新石器時代集団でもf4統計が実施され、新石器時代集団の狩猟採集民の東西勾配との類似性が推定されました。新石器時代集団のf4値はほとんど負で、ヴィラブルナとの共有された系統が示唆されますが、ヨーロッパ南東部のいくつかの集団ではEHGの共有された系統が同程度になる、と示唆されます。qpAdmを用いて、ヨーロッパの全新石器時代集団を対象に上述のモデルBでこれらの起源が定量化されましたが、多くの早期新石器時代集団では狩猟採集民構成がひじょうに少なかったことに起因して遠方のソースを用いたことで、モデルBはEHG構成を確実には検出できませんでした。

 そこで、分析をより近くのソースに限定し、WHG系統の代表として、また地中海沿岸経路の代理として、ライン川西方となるルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体が選ばれました。遺伝的には狩猟採集民に見えるものの、農耕文化との関連で発見されたハンガリーのKO1個体が、大陸経路の狩猟採集民系統として選ばれました。f4統計では、正のf4値は、EHGとWHGの間の勾配の代理としてKO1と共有された系統を示唆します。次に、負の値は、ロシュブールに代表されるWHGクラスタと過剰な共有された系統を示唆します。この結果は、ライン川東方の農耕民集団がKO1と、ライン川西方の農耕民集団がロシュブールとのとより多く共有された系統を有する、という傾向を示します。

 注目すべき例外は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡の中期新石器時代集団の個体群と、ボーランドの紀元前4700〜紀元前4000年頃となるレンジェル文化(Lengyel Culture)のブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、略してBKG)のN22個体(関連記事)と、タンガーミュンデ遺跡の1個体(TGM009)で、その全個体はWHG関連個体群との強い類似性を示しますが、ライン川東方に位置します。qpAdmで新石器時代集団の狩猟採集民構成がモデル化され、それには提案されている農耕民集団の両拡大経路で遭遇したかもしれない狩猟採集民2ソースが含まれます(モデルC)。狩猟採集民2ソースが支持される場合に、qpAdmで最適のモデルが選択されます。

 多くの新石器時代集団では狩猟採集民系統の割合がひじょうに低いので(10%未満)、最終的なソースを確実に特徴づけることは依然として困難です。それにも関わらず、支持されるモデルからの混合パターンは、明確な地理的兆候を示します。ヨーロッパ中央部(現在のハンガリー・オーストリア・ドイツ)のLBKと関連した新石器時代集団は、低い狩猟採集民系統の割合を有し、おそらくはEHGとWHGの間の勾配の狩猟採集民個体群との混合に由来し、それは起源前6000〜紀元前5400年頃となる新石器時代農耕民集団の拡大の先行段階に、ヨーロッパ南東部で起きました。ドイツのライン川東方の中石器時代個体(BDB001)も対象としたf4統計では、LBK集団への在来集団の影響は支持されませんが、それはライン川西方のロシュブールと同じパターンです。これは、近隣に存在した、ヨーロッパ中央部のBDB001のようなロシュブール的狩猟採集民からの追加の遺伝子流動が、最初の新石器時代集団ではごく僅かだったことを示唆します。

 しかし、紀元前4000〜紀元前3500年頃となるドイツのザクセン=アンハルト州のバールベルゲ(Baalberge)集団は、LBK集団へのKO1およびロシュブール的系統の両方の組み合わせと比較して、そのような狩猟採集民系統の顕著な増加を示します。バールベルゲ集団における最大で21.3±1.5%に達するWHG系統の増加は、在来のロシュブール的系統、もしくは考古学的データで示唆されているように、紀元前五千年紀にこの兆候を有する西方からの農耕集団の拡大により起きた、と示されます。本論文で対象とされたライン川西方の全ての新石器時代集団では、在来のロシュブール的狩猟採集民起源のように見える最初の農耕民集団も含めて、より高い狩猟採集民系統を有する異なるパターンが観察され、考古学的データと一致します。


●ヨーロッパ中央部における狩猟採集民系統の後期の存続

 ドイツ中央部の新石器時代集団とは対照的に、ドイツ北東部のタンガーミュンデ遺跡の1個体(TGM009)は、狩猟採集民系統の異なるパターンを示します。遠方のソースでモデル化すると、TGM009は63.6±5.2%のヴィラブルナ関連系統を有します。近くのソースを用いると(モデルC)、狩猟採集民系統は48.1±6.4%のKO1関連系統と、25.8±6.1%のロシュブール的系統に区分されます。KO1を通じてTGM009で観察されたEHG関連兆候が、スカンジナビア半島中石器時代との地域的な後期の接触という考古学的記録で示唆されているように、スカンジナビア半島狩猟採集民に由来するのかどうか決定するため、f4統計が適用されました。f4値は顕著に負で、TGM009がスカンジナビア半島狩猟採集民よりもヨーロッパ南東部狩猟採集民の方と多く系統を共有する、と示唆されます。そのため、ハンガリーのKO1の代わりにスウェーデンのムータラ(Motala)を用いたqpAdmモデルは、適合度が低くなました。

 TGM009の特定の場合では、紀元前3200〜紀元前2300年頃となる、「新石器時代狩猟採集民」とみなされる円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)の個体群が、外群のモデルCセットの適切な同時代の近位ソースであるのか、検証されました。その結果、アナトリア半島新石器時代系統とロシュブール系統とKO1系統の3方向モデルが支持されます。しかし、ムータラ狩猟採集民を外群として追加すると、4方向モデルが最も支持されます。それは、アナトリア半島新石器時代系統21.7±2.4%、ロシュブール系統24.4±6.2%、スウェーデンPWC系統12.6±1.1%、KO1系統41.3±7.3%です。ヨーロッパ中部〜東部の黄土地帯周辺におけるPWC集団の小さいながらも安定した寄与は、ヨーロッパ中央部における後期新石器時代集団と最後の狩猟採集民集団との間の相互作用の複雑さを追加します。


●狩猟採集民と初期農耕民との間の混合年代の推定

 DATESを用いて、早期農耕民と狩猟採集民との混合時期がさらに調べられました。主成分分析でも見られたように、両集団はライン川を挟んで東西のパターンを示します。このパターンは、狩猟採集民系統の割合だけではなく、その質的な痕跡にも依存しています。PENおよびLBR遺跡のフランス南部4集団の推定年代は、拡散してきた農耕民が、紀元前5850年頃の到来後比較的早く(100〜300年のうち、紀元前5740〜紀元前5450年頃)に在来の狩猟採集民と混合した、と示唆します。これらの推定年代は、初期農耕の確立に関する考古学的データとも一致しますが、混合がイタリア半島で起きた可能性も除外できません。

 フランスの他地域では、LBK後の集団はより古い混合年代を示し、狩猟採集民構成は強く、新石器時代初期段階におけるWHG関連系統狩猟採集民との混合事象が推定されます。対照的に、フランス北部のOBN 遺跡では、異なる狩猟採集民系統の割合と対応する混合年代を有する、区別可能な集団間の異質性遺伝的兆候が明らかになります。OBN3集団の推定年代間の違いは、OBN集団が最近の継続する混合事象よりもむしろ、遺伝的下部構造を示す、と示唆されます。


●フランスにおけるゴイエットQ2の追跡

 ゴイエットQ2とヴィラブルナとアナトリア半島新石器時代系統をソースとしてqpAdmを用い、マグダレニアン(Magdalenian)関連のゴイエットQ2的系統が新たなヨーロッパ西部新石器時代集団で推測されました(モデルD)。ゴイエットQ2関連構成は、フランス西部のPRI個体群(6±3%)とパリ盆地のGRG個体群(3.7±1.3%)で観察されます。イベリア半島新石器時代集団と類似して、紀元前4300〜紀元前4200年頃のPRI集団は、狩猟採集民構成の1つとしてゴイエットQ2でうまくモデル化でき、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後もゴイエットQ2構成を保持していたフランス西部の在来狩猟採集民との混合、もしくはもっと後の段階における新石器時代イベリア半島系統集団との遺伝的接触が示唆されます。注目されるのは、大西洋沿岸のPRI遺跡個体群が、ヨーロッパ狩猟採集民とのわずかに新しい年代(紀元前5200年頃)の混合を示唆していることで、これはフランス西端における新石器時代集団の到来がより遅かったことと一致します。


●ブリテン島およびアイルランド島とのつながり

 f4統計では、ブリテン島とアイルランド島の新石器時代集団が、他集団よりもフランスの大西洋沿岸のPRI集団と遺伝的浮動を共有しているのか、検証されました。以前の研究では、ブリテン島の初期農耕民集団は遺伝的にイベリア半島の農耕民集団と類似している、と示されていましたが(関連記事)、本論文でも改めて、LBR遺跡A亜集団とフランス中期新石器時代集団とイベリア半島中期新石器時代集団との類似性の共有が確認されました。これは、WHG 系統の多い狩猟採集民比率で示されます。しかし、本論文におけるフランス新石器時代遺跡群の結果に基づくと、イングランドとウェールズとスコットランドの集団は、大西洋沿岸経由だけではなく、ノルマンディーのFLR遺跡集団やパリ盆地のGRG遺跡集団やフランス南部のICC後のLBR遺跡A集団経由でも、地中海新石器時代集団とつながっている、と示唆されます。以下は、中石器時代から新石器時代にかけてのヨーロッパの狩猟採集民と農耕民の系統割合の変化を示した図4です。

画像
https://advances.sciencemag.org/content/advances/6/22/eaaz5344/F4.large.jpg


●まとめ

 ヨーロッパにおけるアナトリア半島農耕民系統は、多くの地域で報告されてきました。農耕生活様式と関連した個体群における狩猟採集民からの増加する遺伝子流動の再発パターンは、最初の接触および仮に「狩猟採集民再起」と呼ばれる事象の後に何世紀も起き、イベリア半島やヨーロッパ北部および中央部やカルパチア盆地やバルカン半島で観察されてきました。しかし、新石器時代農耕民集団拡大の主要な経路(ドナウ川沿いのヨーロッパ中央部への拡大と、地中海沿岸でのイベリア半島への拡大)に関する仮説では、ゲノムデータの比較は試みられてきませんでした。本論文が提示した一連の新たな結果は、両方の経路が交差した現在のフランスへの重要な洞察を提供します。ヨーロッパにおける異なる中石器時代の遺伝的基盤により、新石器時代集団で観察された混合狩猟採集民構成の質量に基づき、新石器時代の拡大経路の追跡が可能となります。

 フランス南部の新石器時代集団は地中海ICC拡大経路の一部で、他地域の拡大農耕民集団の早期と比較すると、異なる遺伝的構成を示し、大陸経路関連集団よりもかなり高い狩猟採集民構成の割合を示します(PEN遺跡B集団で最大56±2.9%)。フランス南部のPENおよびLBRの年代は、イタリア半島北西部のリグリーア州やフランス南東部のプロヴァンスやフランス南西部のラングドックといった地中海沿岸地域における最初の農耕民の定住よりも400年(16世代)ほど遅くなりますが、より近い世代での在来集団との混合事象(3〜6世代前)が示唆されます。考古学的研究では、新石器化第2段階の地中海西部、とくに狩猟採集民の人口密度がより高い地域における、拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用の増加が主張されています。本論文でも、フランス南部の新石器時代集団の拡大期における、そうした相互作用の遺伝的痕跡が確認されました。これは考古学的観点から、狩猟採集民が最初期農耕民の後の物質文化内で観察される明確な変化に寄与してきた、と示唆されます。

 しかし、アドリア海沿岸東部のICC個体群では、より類似しているヨーロッパ中央部集団と比較して、わずかな狩猟採集民系統しか有していません。これは、イタリア半島のアペニン山脈の両側で観察される物質文化内の技術的伝統の差異に関する仮説と適合します。それは、起源がまだ不明のバルカン半島およびティレニアとつながるアドリア海伝統集団です。ティレニア側の強い狩猟採集民構成を、同じ地域の特定の土器伝統と関連づけ、これを狩猟採集民の新たな意味づけの結果とみなす見解は魅力的です。しかし、イタリア半島中央部および南部の利用可能なゲノムデータが不足しているため、この仮説を直接的に検証はできません。さらに、イベリア半島のICC個体群も、狩猟採集民系統をあまり有しません。まとめると、ICC関連個体群がそれ自体均一な遺伝的構成を有するという仮説は棄却され、相互作用のより地域的に微妙なシナリオが主張されます。

 ヨーロッパ中央部早期農耕民は、狩猟採集民構成の割合がひじょうに低く(平均して5%)、それは農耕民拡大の初期段階におけるハンガリーのトランスダニュービアでの混合に由来する可能性が高そうです。これは、考古学的記録の一般的な観察と合致するだけではなく、最初のLBK石器群が後期中石器時代の石刃および台形石器複合と類似している理由も説明できます。これは、ドイツ黄土地域全域の最初の農耕民の速い拡大を主張する、以前の古代DNA研究も確証します。ドイツ南西部および東部のLBK集団は、ルクセンブルクのロシュブール遺跡個体よりもハンガリーのKO1個体の方と類似性を多く共有しています。ドイツ南部の遺跡群の農耕民集団における推定混合年代は、SMHで19.2±3.8世代前、SCHで12.3±8.2世代前で、カルパチア盆地およびオーストリアの混合年代より新しいか、同時代となります。共有されるKO1的狩猟採集民系統の、一時的な遅延と微妙な増加から、LBK集団を年代的に追跡でき、考古学的研究により示唆されているように、トランスダニュービアの中核地域からのLBKの拡大というモデルとよく一致します。しかし、現在の解像度では、フランス北西部のラオゲットやドイツ西部のリンブルクのような早期LBK期においてはとくに、狩猟採集民およびより西方の遺跡群の南方からの影響を有する集団との接触に関する考古学的証拠の増加は説明されません。

 ヨーロッパ中央部の状況とは対照的に、ライン川西方地域は、紀元前五千年紀に異なる遺伝的構成を示します。最初の農耕民はロシュブール関連狩猟採集民構成をより高い割合で有しており、OBN遺跡B集団に分類されるアルザス地域の個体群の中には、後には最大で33.3±3%まで増加する事例も見られます。mtDNAデータは、この知見を支持します。紀元前五千年紀のフランスの全集団において、狩猟採集民と密接な関連のあるmtHg-U5・U8の平均的な割合は、ライン川東方のLBK集団の1.4%よりも高い15.5%です。フランス北部のLBK関連個体群のゲノムデータはありませんが、この狩猟採集民構成から、最初の農耕民集団が到来した後に混合が起きた、と推測できます。

 フランス北西部中央に位置するOBN遺跡の3集団におけるヨーロッパ狩猟採集民構成をqpAdmでモデル化すると、4.3〜31.8%の間の狩猟採集民構成の増加が観察され、それは在来のロシュブール関連集団に区分されます。しかし、この手法は他の同時代のフランス集団には直接的に適用できません。それは、新石器時代農耕民集団拡大の地中海沿岸経路と関連した追加の移動の可能性があるからです。この場合、フランス北部における最初のLBK農耕民の到来に続き、双方向の狩猟採集民と農耕民の相互作用の単純な過程を複雑にする可能性があります。現在のゲノムデータでは、検出された兆候が、可能性のある南方からの遺伝的寄与により混乱しているのかどうか、決定できません。しかし、フランス北部におけるGRGおよびFLR遺跡集団の推定混合年代は、より古い混合事象が30世代(840〜930年前)以上前に起きた、と示唆します。フランス北部における最初の新石器時代定住の確立した年代と一致して、南部ICCで得られた重複・同時代の年代は、フランス南部における最初の狩猟採集民の寄与の兆候と一致し、それに続いて狩猟採集民系統を有する集団が北方へ拡大します。

 フランス西部中央の大西洋沿岸のPRI 遺跡とパリ盆地のGRG遺跡の個体群で検出されたゴイエットQ2的狩猟採集民構成は、LGM後もゴイエットQ2的構成が残存したイベリア半島とのつながりを示唆します。それは、ゴイエットQ2的狩猟採集構成を有する在来だったかもしれない狩猟採集民との混合、もしくはイベリア半島の最初の農耕共同体との接触、あるいは紀元前五千年紀におけるイベリア半島からの新石器時代集団との交流に起因するかもしれません。考古学的データは、これら3仮説すべてと適合的です。しかし、PRIとイベリア半島との間の遺伝的類似性が示される一方で、上述のブリテン諸島と地中海新石器時代との間の類似性から、パリ盆地経由でのおもにノルマンディーと地中海地域とのつながりが最良の説明となります。イングランドとスコットランドとウェールズは、フランス西部よりも、フランス北部・南部およびイベリア半島の方と高い遺伝的類似性を示します。対照的に、新石器時代アイルランド集団は、他のブリテン集団よりもフランス北部沿岸および地中海地域との類似性が低くなっており、大西洋の枠組み内で説明できます。この全体的パターンは、ブリテン諸島西部および東部への新石器時代農耕民集団拡大は、異なる2つの現象と速度だった、という考古学的データから提示された仮説と一致します。

 まとめると、本論文で強調されるのは、地中海西部沿岸とライン川西方地域との間の文化的および生物学的相互作用の多様なパターンです。これは、新石器時代農耕民集団の拡大期における高い変動性を確証し、過程および持続期間と同様に、狩猟採集民構成の異なる割合を示します。狩猟採集民集団間の遺伝的構造により、初期農耕民における地域的な混合をたどることができ、ライン川西方ではヨーロッパ中央部および南東部と比較して狩猟採集民系統の割合が高いものの、それは在来のWHG関連集団に起因します。狩猟採集民と初期農耕民のゲノムデータ数は増加しており、中石器時代から新石器時代への移行期の地域的な動態の解明と、大小の地域的な規模での、時間の経過に伴う過程と発展の理解を深めるのに役立ちます。本論文の観察に基づくと、大まかなモデルでは、農耕民と狩猟採集民の相互作用の充分な範囲と詳細を一致させる可能性がますます低くなった、と明らかになり、将来の研究では、より多くの地域に焦点を当てたモデルの使用が提唱されます。


参考文献:
Rivollat M. et al.(2020): Ancient genome-wide DNA from France highlights the complexity of interactions between Mesolithic hunter-gatherers and Neolithic farmers. Science Advances, 6, 22, eaaz5344.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz5344


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/288.html#c1

[近代史5] スカンジナビア半島人の起源
スカンジナビア半島人の起源


雑記帳 2019年10月12日
スカンジナビア半島の戦斧文化集団の遺伝的起源
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_25.html


 スカンジナビア半島の戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)集団の遺伝的起源に関する研究(Malmström et al., 2019)が報道されました。まず、本論文で取り上げられるおもな文化の略称を先に記載しておきます。戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)、縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)、鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)、単葬墳文化(Single Grave Culture、SGC)、櫛目文土器文化(Combed Ceramic Culture、CCC)。

 紀元前3000年頃に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の牧畜民がヨーロッパ中央部へと拡散していき、その影響力は現代ヨーロッパ人に強く残っています。これはヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡大によるものと考えられており、ヨーロッパ各地で多様な文化集団を形成していきました。ヤムナヤ文化集団の拡大範囲の北西部では、縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)がその代表例で、ヨーロッパ北部および中央部に紀元前3000〜紀元前2000年前頃に分布していました。しかし、CWCの形成におけるヤムナヤ文化集団の移住の影響に関しては、文化伝播もしくは地域的発展と人類集団の移住およびその遺伝的影響のどちらが重要だったのか、議論が続いています。

 また、ヨーロッパ中央部・スカンジナビア半島・バルト海東部では、ヤムナヤ文化集団の移住と混合の遺伝的痕跡が確認されているものの、そうした移住はさまざまな地域で異なる経路をたどったと考えられており、移住がヨーロッパにおいて人口史にどのような影響を与えたのか、正確には明らかではありません。スウェーデンでは、CWCは戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)と呼ばれています。紀元前3000〜紀元前2800年頃に始まるBACは、現在のスウェーデン中部とノルウェー南部までのスカンジナビア半島と、フィンランド北西部のバルト海東側にまで分布していました。

 これらバルト海周辺地域に関しても、BACおよびCWCの拡散が文化伝播もしくは地域的発展なのか、それとも外来集団により導入されたのか、議論が続いてきました。以前の考古学的研究は、BACおよびCWCを共通の文化的・社会的慣行を伴うものとして把握しており、埋葬習慣と土器形式と舟形戦斧の均一性を強調しました。最近では、これらの見解は単純すぎると議論されており、BACおよびCWC内の地域的パターンと特徴が強調されています。以前の考古遺伝学的研究では、BACおよびCWCの個体群のゲノム解析がポーランド(関連記事)やフィンランドおよびロシア北西部(関連記事)などで行なわれてきましたが、スカンジナビア半島でのBACの出現もCWC内の移住パターンの特徴と時間および地理的経緯については、まだよく解明されていません。

 本論文は、スカンジナビアにおけるBAC出現の様相をよりよく理解するため、現在のスウェーデン・エストニア・ポーランドの、紀元前3300〜紀元前1660年頃と推定されている11人のDNAを解析しました。ゲノム規模網羅率は0.11〜3.24倍です。遺伝的に、11人のうち男性は5人、女性は6人と推定されています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は全員、Y染色体ハプログループ(YHg)は3人が分類されました。

 11人のうち5人はBACおよびCWCの遺跡で発見されており、そのうち2人はポーランドのオブワチュコボ(Obłaczkowo)、1人はエストニアのカルロヴァ(Karlova)、2人はBAC埋葬地であるスウェーデンのベルグスグレーヴェン(Bergsgraven)で発見されました。年代は、オブワチュコボの2人(poz44とpoz81)が紀元前2880〜紀元前2560年頃、カルロヴァの1人(kar1)が紀元前2440〜紀元前2140年頃、ベルグスグレーヴェンの2人(ber1とber2)は紀元前2640〜紀元前2470年頃です。

 11人のうち6人は、BACおよびCWCではない遺跡で発見されています。そのうち5人はおもに漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)と関連している巨石墓に埋葬されており、2人(ros3とros5)がスウェーデン南部のヴェステルイェートランド(Västergötland)のレッスベルガ(Rössberga)で、3人(oll007とoll009とoll010)がスウェーデン南部のスカニア(Scania)のエルスヨ(Öllsjö)で発見されています。年代は、ros3とros5が紀元前3330〜紀元前2920年頃、oll007が紀元前2860〜紀元前2500年頃でBACの2人と重なっており、oll009とoll010はスカンジナビア半島の新石器時代後期〜青銅器時代となる紀元前1930〜紀元前1660年頃です。6人のうち残りの1人(ajv54)はスウェーデンのゴットランド(Gotland)の円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)遺跡となるアジュヴァイド(Ajvide)で発見され、年代は紀元前2900〜紀元前2680年頃です。

 BACおよびCWC遺跡の個体群は、巨石墓からのoll007も含めてmtHgでは、石器時代狩猟採集民と関連しているU4・U5と、新石器時代農耕民と関連しているH1・N1a・U3に分類されます。これはCWC遺跡の他の個体群に見られるmtHgの変異内におおむね収まりますが、本論文で新たに報告されたmtHg-U3およびN1aは、CWC遺跡で発掘された個体群では報告されていません。

 本論文で新たにYHgが分類された男性3人では、BAC遺跡のber1とCWC遺跡団のpoz81がともにYHg- R1aで、これは既知のCWC文化遺跡個体群の主流YHgです。またCWC集団では、少数派ながらYHg- R1bやYHg- I2aも見られます。YHg-R1aはヨーロッパ中央部および西部の新石器時代農耕民や狩猟採集民の間では見つかっていませんが、ヨーロッパ東部の狩猟採集民と銅器時代集団では報告されてきました。ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ文化集団ではほとんどがYHg- R1bで、YHg-R1aではありません。この他に、レッスベルガのros5がYHg- IJと分類されています。

 本論文は新たにDNAを解析した11人のうち、分析が可能な個体の表現型についても報告しており、カルロヴァの1人(kar1)には乳糖耐性関連アレル(対立遺伝子)が確認されています。また外見に関しては、髪の色は明暗両方、目の色も茶色と青色両方が見られました。炭素と窒素の安定同位体値からは、アジュヴァイドの1人(ajv54)を除いて、陸生の食性だったと明らかになっています。ベルグスグレーヴェンの個体のストロンチウム同位体データ、少なくともそのうち1人は死ぬ少し前にベルグスグレーヴェンに移住してきた、と示しています。

 11人のゲノム分析と既知のゲノムデータとの比較は、以前の結果を改めて確認します。第一に、ヨーロッパ全域の早期および中期新石器時代農耕民と中石器時代狩猟採集民は明確に分離します。第二に、ヨーロッパの狩猟採集民間の亜構造はおおまかに東西の勾配と対応していますが(WHGたるヨーロッパ西部狩猟採集民とEHGたるヨーロッパ東部狩猟採集民)、スカンジナビアは例外です(関連記事)。第三に、ほとんどの後期新石器時代および青銅器時代個体群は現在のヨーロッパ中央部および北部の人類集団と重なり、これはポントス-カスピ海草原からのヤムナヤ牧畜民関連の侵入集団との混合に起因します。

 スカンジナビア半島では、漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)と円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)と戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)という考古学的に異なる3文化間の明確な遺伝的分離が見られます。PWC遺跡の新石器時代採集民は遺伝的に中石器時代スカンジナビア半島狩猟採集民と類似していますが、農耕民集団との類似性もやや見られ、おそらくはスカンジナビア半島における狩猟採集民と農耕民集団の混合に起因します。

 BAC遺跡の個体群は、ヨーロッパの他のCWC遺跡の個体群との関連を明確に示します。とくに、スウェーデン南部のエルスヨ遺跡のoll007個体は、直接的にはCWC遺物と関連していませんが、年代的にはCWCと重なっており、CWCの個体群と一群を形成しており、それはもっと新しい年代のエルスヨ遺跡の2人(oll009とoll010)も同様です。エストニアのカルロヴァ個体とポーランドのオブワチュコボの個体群もBAC個体群と類似しており、バルト海地域全体のBACおよびCWC個体群との強い遺伝的類似性を示しているようです。オブワチュコボの2個体も含めてCWCの何人かは、ヤムナヤ牧畜民と関連する草原地帯系統と密接に類似します。これらの個体群は、CWC個体群でも年代は最古と推定されており、全体としてCWC個体群では、時間の経過とともに草原地帯系統の減少という類似した明確な傾向が見られます。

 本論文は、スカンジナビアへのCWC関連集団の拡大を調査し、CWCおよびBAC関連個体群で見られる系統の割合をよりよく理解するため、アナトリア農耕民とヨーロッパ西部狩猟採集民とヤムナヤ草原地帯牧畜民という3起源の系統のモデリングを実行しました。CWC個体群のほとんどはヤムナヤ系統(草原地帯系統)の割合が高いのですが、アナトリア農耕民およびヨーロッパ西部狩猟採集民系統も見られます。スウェーデンのBAC個体群も同様です。BACと同年代ではあるものの文化が不明か、何百年も早く巨石墓に葬られたエルスヨといった他の個体群は、スウェーデンの他地域の典型的なBAC個体群と同じ遺伝的構成を示します。

 BAC関連個体群は高い草原地帯系統を有しますが、ほとんどの他のCWC個体と比較してその割合は相対的に低くなっています。しかし、エストニアのカルロヴァのCWCの女性個体(kar1)もBAC関連個体群と類似しています。対照的に、ポーランドのオブワチュコボの2個体(poz44とpoz81)は草原地帯系統のひじょうに高い割合(90%以上)を示しており、もっと後のポーランドのCWC関連個体群とは異なりますが(関連記事)、ドイツやリトアニアやラトヴィアの他のCWC関連個体群とは類似しています。

 BAC集団の形成史に関しては複数のモデルが提示されており、PWC集団に関しては直接的な祖先か否か、判断が分かれていますが、CWC集団に関しては全モデルで一致して主要な祖先とされており、スウェーデンのBAC集団は他のCWC集団からの移住なしには出現しなかった、と推測されています。さらに詳しく見ていくと、BAC集団はエストニアのCWC関連集団の姉妹集団としては適合しますが、ポーランドもしくはリトアニアのCWC集団とは姉妹集団としては適合しません。これは、CWC集団とBAC集団との間の系統の多少の違いを示唆します。混合モデルでは、スカンジナビア半島におけるBAC集団の出現に関して、バルト海地域東部からのCWC集団の直接的移住、もしくはバルト海地域南部からCWC集団がスカンジナビア半島に移住し、FBC集団と混合した、と推測されます。本論文は、より多くの標本からゲノムデータを得ることで、さらに詳細な形成史が推定できる、と見通しています。以下に、スウェーデンのBAC集団の形成史に関する本論文の図3を掲載します。
画像

 本論文はこれらの知見を踏まえて、CWC遺跡群の人々は、紀元前三千年紀より前にはヨーロッパ北部および中央部には存在しなかった遺伝的系統を有する、と改めて指摘します。この草原地帯系統は、上述のように紀元前3000年頃にポントス-カスピ海草原からヨーロッパ東部へと拡散を始めたヤムナヤ文化牧畜民集団にまでさかのぼります。この遺伝的構成は、バルト海周辺地域のDNA解析されたBACおよびCWCの全個体において、遺伝的系統では最大の割合を示します。

 ここで注目されるのは、上述のように、これまでに分析された最初期のCWC個体群では草原地帯系統の割合が最も高いのに(90%以上)、もっと後の個体群ではこの割合がより低い、ということです。これは、アナトリア農耕民系統へとその遺伝的系統のほとんどをたどれるヨーロッパ北部のFBC集団のような、侵入する集団と在来集団との混合の漸進的過程を示します。この過程は、おもに侵入する男性と在来の女性との混合により推進されました(関連記事)。混合過程は、CWCの全体的な範囲にわたって明らかで、FBC集団もしくはその遺伝的に関連した集団が見つかっていないバルト海東部沿岸のような地域でさえ、確認されています。こうした混合の背景としては、CWC全体の交換ネットワークもしくはバルト海東部地域への特定の移住が想定されます。後者の場合、その潜在的な起源地域は、現在のポーランドもしくはスウェーデンで、そうした地域ではCWC集団の到達に先行するFBC集団が見つかっています。

 BACおよびCWC個体群で見られる父系の起源はよく分からないままです。これまでの研究では、CWC個体群のYHgはR1aで、推定されるヤムナヤ文化集団の大半はYHg- R1bとされています。YHg-R1aは中石器時代と新石器時代のウクライナで見られます。これは、ヤムナヤおよびCWCは父系的社会を形成し、まだDNA解析が進んでいないヨーロッパ中央部および北部の集団が、BACおよびCWCの父系の直接的起源だった可能性を提起します。

 スカンジナビ半島アの中期新石器時代の巨石墓はFBCと関連づけられています。しかし、BACおよびその後の文化で共通する人工物からは、後の文化集団による再利用が示唆されています。FBC関連のエルスヨ遺跡の巨石墓に埋葬された個体(oll007)はBACと同年代で、遺伝的にはBAC個体群とひじょうに類似しています。したがって、考古学的には巨石墓の再利用は早いと推定され、本論文の知見は、じっさいのFBC関連巨石墓をBAC集団も埋葬地として利用していたことを示す、最初の証拠になるかもしれません。これは、デンマークの単葬墳文化(Single Grave Culture、SGC)でも同様かもしれない、と本論文は指摘します。

 BACはスカンジナビア南部でFBCを置換しましたが、以前には在来集団の文化的変容との見解も提示されていました。しかし、本論文の知見で改めて確認されたように、スカンジナビア半島のBAC集団はより広範なCWC集団の一部で、外来集団の移住によりその遺伝的構成に草原地帯系統がもたらされ、ヨーロッパ西部狩猟採集民・アナトリア農耕民・草原地帯牧畜民の各系統の混合を示します。スカンジナビア半島のBAC集団は、紀元前2600年頃よりも前のバルト海沿岸南部もしくは東部地域のCWC個体群よりも、アナトリア農耕民関連系統を有しており、FBC集団との混合を示唆します。こうしたBAC個体群の混合系統は、すべての常染色体分析で明らかで、mtHgでも同様ですが、YHgでは外れたパターンを示します。これは、ヤムナヤ文化とその後のCWC集団で見られる、男性に偏った移住および混合過程を反映しているのでしょう。

 ただ、BAC集団が外来集団と在来集団との混合により形成されたのか、確定的ではなく、スカンジナビア半島以外で混合した集団が移住してきた可能性も考えられます。たとえば、BAC集団は櫛目文土器文化(Combed Ceramic Culture)のような他のバルト海東部地域の集団との特別な遺伝的関連性を示しません。CWCの人々はおもに陸路で拡散していたので、ヨーロッパ中央部から現在のデンマークやスウェーデンへと移住してきた、と推測されます。この期間にバルト海地域では土器の技術的交換が確認されており、遺伝子流動と関連していたかもしれませんが、まだ確証はありません。

 本論文は最後に、BAC個体群からの遺伝的データはまだ限定的で、本論文の知見から推測される遺伝子流動のパターンは、スカンジナビア半島への単一の移住事象と、社会的および技術的交換の広範なネットワークを伴う継続的過程の両方と一致する、と指摘します。この問題のより詳細な解明には、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となります。ヨーロッパを中心にユーラシア西部の古代DNA研究の進展は目覚ましく、ユーラシア東部圏の日本人である私としては羨ましくなりますが、今後はこの格差が縮小していくほど、ユーラシア東部の古代DNA研究が進展することを期待しています。


参考文献:
Malmström H. et al.(2019): The genomic ancestry of the Scandinavian Battle Axe Culture people and their relation to the broader Corded Ware horizon. Proceedings of the Royal Society B, 286, 1912, 20191528.
https://doi.org/10.1098/rspb.2019.1528

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_25.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/289.html

[近代史5] スコットランド人の起源

スコットランド人の起源


雑記帳 2019年11月26日
スコットランド人の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_47.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、スコットランド人の遺伝的構造に関する研究(Gilbert et al., 2019)が報道されました。ブリテン島とアイルランド島およびその周辺の島々では、移住と侵略により現代人集団が形成されてきました。ブリテン島に人類が移住してきたのは更新世で、完新世になると、紀元前4000〜紀元前3000年頃に農耕民が移住してきて、銅器時代〜青銅器時代には鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡散により大規模な人口置換があった、と推測されています(関連記事)。

 ブリテン諸島集団の遺伝的構造はここでほぼ確立し、その後の移住も遺伝的影響を及ぼしたものの、置換は起きませんでした。青銅器時代以後の遺伝的影響として、400〜650年頃のアングロサクソンの侵攻が、イングランド南部におけるより高いゲルマン関連系統と関連していることや、8〜11世紀のヴァイキングの侵略が、オークニー諸島とアイルランドにおけるノルウェー人関連系統の増加と関連していることなどが挙げられます。さらに、アイルランド北東部では、おもに17世紀においてスコットランドとイングランド起源の集団との混合がありました。

 ブリテン島とアイルランド島の集団遺伝学の以前のゲノム規模調査では、イングランド・ウェールズ・アイルランドと比較して、スコットランドとその近隣地域のデータが少ない、という問題がありました。本論文はこの問題に対処するため、既知のデータとシェトランド諸島・マン島・スコットランド西岸の遺伝的データを組み合わせて、ブリテン島とアイルランド島およびその周辺の島々の計2544人のゲノムデータセットを作成し、包括的に分析しました。さらに本論文は、2225人のスカンジナビアの人々のデータセットも比較しました。本論文はこの統合されたデータを用いて、スコットランドとその周辺の島々における、遺伝子構造、ヴァイキングの遺伝的影響、古代アイスランドの創始者集団の遺伝的起源を検証しました。

 これらのデータセットに基づく地理的集団の系統樹では、まずシェトランド諸島およびオークニー諸島集団とその他の他集団に分岐します。後者では、イングランドおよびウェールズ集団とその他の集団が分岐します。さらに後者では、アイルランド集団とスコットランド集団が分岐します。スコットランド集団は、ヘブリディーズ諸島集団とスコットランド北東部および南西部集団が分岐します。ブリテン島およびアイルランド島とその周辺の島々では、遺伝地理的構造がかなりの程度明確に示されています。

 これらの集団の遺伝的構成は、イングランド・ウェールズ・スコットランド・デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの6系統の混合モデルでも分析されました。このうち、ウェールズはケルト、イングランドはサクソン、ノルウェーはノースという古代集団をほぼ表しています。ノルウェー系統はヘブリディーズ諸島集団で約7%と低く、スコットランド北部および南西部(アーガイル)とマン島でも約4%と低くなっています。アイルランドでもノルウェー系統の割合は平均7%と低くなっています。スコットランド東部とマン島では、イングランド系統の割合が比較的高くなっています。

 これらのゲノムデータは古代集団とも比較されました。アイスランド古代集団は遺伝的にはゲール人系統とノース人系統とに二分されます。ゲール人系古代アイスランド集団は、スコットランドとアイルランドのゲール人系集団と最大の類似性を示します。ノース人系統古代アイスランド集団と最も低い遺伝的類似性を示すのは、ドニゴールとヘブリディーズ諸島とアーガイルで、これらは、ヴァイキングの激しい活動があったブリテン諸島北西部地域とアイルランド島です。こうした現代人集団の遺伝子的構造は、アイスランドの創始者集団が、ブリテン島北西部もしくはアイルランド起源だったことを示唆します。

 本論文は、ブリテン諸島において、北部ではノース人系統が、南東部および西部ではサクソン人およびケルト人系統が強いことを明らかにしています。とくにオークニー諸島とシェトランド諸島集団は、スカンジナビア外ではノルウェー系統を最高水準で有しています。本論文が示す現代のスコットランドの地域的な遺伝的構造は、明らかな自然障壁がないにも関わらず、暗黒時代(西ローマ帝国が崩壊した476年〜1000年頃)の王国の分布と地理的によく一致します。産業革命以後の流動性の増加にも関わらず、過去1000年ほど、スコットランドでは人類集団の大きな移住・遺伝子流動がなかったことを表しているのでしょう。

 また、ヘブリディーズ諸島とスコットランド高地とアーガイル地方とアイルランドのドニゴール州とマン島の集団は、他の地域集団と比較して遺伝的孤立の特徴を示します。ヨーロッパ北部からのヴァイキングの影響は、アイルランドでは以前の推定よりずっと低くなりました。本論文は、この新たな推定が、ヨーロッパ北部系がほとんど見られないアイルランドのY染色体データともよく一致している、と指摘します。また本論文は、これらの遺伝的知見がブリテン島とアイルランド島における地理的に異なる病気発生率の解明にも役立可能性も指摘しています。


参考文献:
Gilbert E. et al.(2019): The genetic landscape of Scotland and the Isles. PNAS, 116, 39, 19064–19070.
https://doi.org/10.1073/pnas.1904761116

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_47.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/290.html

[近代史5] イベリア半島人の起源
イベリア半島人の起源


雑記帳 2019年05月05日
イベリア半島南部の最初期現生人類をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_9.html


 今年(2019年)1月に、イベリア半島南部における43400〜40000年前頃の現生人類(Homo sapiens)拡散の可能性を報告した論文(Cortés-Sánchez et al., 2019A)が公表されました(関連記事)。この論文(以下、C論文)は、イベリア半島南部にも、ヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に現生人類が拡散してきた可能性を提示したことから、注目されました。その根拠となったのは、イベリア半島南部に位置するスペインのマラガ(Málaga)県のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)遺跡の中部旧石器時代後期〜上部旧石器時代の年代です。以下、この記事の年代は基本的に、放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 C論文は、バホンディージョ洞窟では第19層〜第14層(新しいほど上層となります)までが中部旧石器時代となり、まず間違いなくネアンデルタール人が担い手のムステリアン(Mousterian)インダストリーが46000年前頃まで続き、第13層では石刃や小石刃が出現するようになり、第12層は典型的な上部旧石器、第11層は発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)、第10層はグラヴェティアン(Gravettian)インダストリーになる、との見解を提示しています。C論文は第13層石器群について、数が少ないこと(100個未満)や骨器が共伴しないといった問題を指摘しつつも、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)もしくは早期オーリナシアン(Early Aurignacian)と分類しています。第13層の年代は43400〜40000年前頃です。

 この見解がなぜ重要かというと、今ではヨーロッパにおいてネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)はおおむね4万年前頃までに絶滅したと考えられているものの(関連記事)、イベリア半島南部への現生人類の拡散は、エブロ川を境とする生態系の違いによりヨーロッパ西部の他地域よりも遅れ(エブロ川境界仮説)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が4万年前以降も生存していた、との見解(ネアンデルタール人後期絶滅説)が根強いからです(関連記事)。ヨーロッパにおいては、ムステリアンはネアンデルタール人のみ、オーリナシアンは現生人類のみが担い手だった、との見解が通説となっています。C論文が妥当だとすると、イベリア半島北部に42868〜41686年前頃に出現したオーリナシアンは、ほとんど変わらない年代でイベリア半島南部にも拡散していたことになります。


 このC論文の見解にたいして、2本の批判論文とC論文の著者たちによる反論が掲載されました。まずは、おもに石器技術に関するC論文への批判論文(de la Peña., 2019)です(以下、P論文)。P論文はまず、バホンディージョ洞窟第13層石器群は以前には多くの文献で、特徴的なムステリアン剥片と上部旧石器要素の両方を有する曖昧な技術と説明されており、C論文も第13層石器群がプロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアンと明確に区分できるだけの充分な証拠がないことを認めている、と指摘します。

 そこでP論文は、第13層石器群の説明と定義が問題になり、プロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアン以外で説明することも可能だ、と指摘します。P論文がまず問題とするのは、第13層石器群には明確に石刃と関連しているものの、オーリナシアン石器群と異なる技術的特徴も有するのならば、まだ識別・定義されていない上部旧石器時代のインダストリーとしての定義も可能ではないか、ということです。P論文は、イベリア半島南部の早期上部旧石器時代においては、ヨーロッパの他地域とは異なり、よく発展した剥片戦略が見られる、と指摘します。次にP論文が挙げているのは、第13層がムステリアン集団による石刃技術の採用を反映している可能性です。P論文は、この二つの可能性のどちらが妥当なのか、判断は困難だと指摘しています。

 さらにP論文が明代としているのは、層序学的混乱です。第13層には明らかな上部旧石器時代インダストリーである発展オーリナシアンの第11層との接触が見られ、土壌が下方に移動していく仮定も報告されているのに、C論文はこの重要な堆積物形成過程を無視している、とP論文は指摘します。C論文は第13層石器群をオーリナシアンとよく関連づけられておらず、現生人類がイベリア半島南部へ43400〜40000年前頃というヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に拡散した、とする根拠は弱いと結論づけています。


 次に、同じくC論文への批判論文(Anderson et al., 2019)です(以下、A論文)。A論文は、バホンディージョ洞窟の土壌の移動が第11層〜第13層で識別されており、第14層〜第11層は層序的混合の疑いのために以前は年代測定計画から除外されていた、と指摘します。さらにA論文が問題とするのは、第13層は遺跡の中央部の限られた部分にしか存在せず、その下のムステリアン層およびその上の発展オーリナシアン層の両方と接触している、ということです。それにも関わらず、C論文は説明なしに混合のないオーリナシアンとしての第13層石器群という解釈を提示している、とA論文は指摘します。

 A論文は、石器技術的にも第13層の石器群がオーリナシアンと分類できるのか、疑問視します。以前の文献では、第13層の石器群の分類が、「中部旧石器/上部旧石器」、「中部旧石器?」、ムステリアンとオーリナシアンもしくは上部旧石器要素のおそらくは混合というように、曖昧というわけです。またA論文は、第13層石器群には石刃要素があるものの、剥片要素も強く見られることも問題としています。またA論文は、第13層石器群の掻器が発展オーリナシアンの第11層の掻器とは異なり、石刃よりもむしろ剥片から製作されている、と指摘します。第13層の掻器は中部〜上部旧石器時代の再加工剥片と類似しており、オーリナシアンと関連させる理由はない、というわけです。

 またA論文は、ムステリアンの第14層と比較して第13層では石刃が増加するものの、それだけではオーリナシアンへと分類する根拠にはならず、第13層石器群が年代的に中部旧石器時代のムステリアンと明らかな上部旧石器時代の発展オーリナシアンの間に位置することも、第13層石器群がオーリナシアンである根拠にはならない、と指摘します。オーリナシアンをどのように区分するのか、議論が続いているものの、いずれにしても、ある石器群をオーリナシアンと分類するには、広義のオーリナシアンと共通する特別な技術的特徴を示す必要がある、とA論文は指摘します。現時点で第13層石器群をオーリナシアンと分類し、現生人類のイベリア半島南部への4万年以上前の拡散と関連づけるのは時期尚早だ、というのがA論文の結論です。


 これら2本の批判にたいして、C論文の著者たちの一部による反論(Cortés-Sánchez et al., 2019B)が掲載されています(以下、C反論)。C反論は全体として、批判論文2本がバホンディージョ洞窟の層序と石器分類に関する研究の進展をしっかりと抑えていない、と強調しています。これらの問題はC論文では補足情報としてまとめられているものの、参考文献はスペイン語なので、見落とされているところが少なからずあるのかもしれません。また年代に関しても、2016年のイベリア半島地中海沿岸部の放射性炭素年代測定計画において、バホンディージョ洞窟遺跡の標本が計画の分析基準を満たしておらず、年代が採用されなかったことから、古い年代観が根強く残り、誤解を招来しているのではないか、とC反論は指摘します。バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が周知されない状況にあったのではないか、というわけです。

 まず第13層石器群の分類について、決してムステリアンではなく、一貫して上部旧石器として識別されている、とC反論は主張します。またC反論は、オーリナシアンおよびその下位区分の定義は一貫しているわけではない、と指摘します。P論文は第13層石器群がまだ識別されていない上部旧石器時代インダストリーである可能性を示唆していますが、C論文は、明確に上部旧石器である第13層石器群を「最も適切な」分類としてオーリナシアンと解釈している、とC反論は指摘します。

 バホンディージョ洞窟の層序撹乱の可能性について、C反論は否定する根拠を2点挙げています。一つは、第13層石器群には撹乱を示唆するような転移の証拠は見られない、というものです。次に、第13層石器群の発見場所の燃焼構造の基づく分析です。植物オパールと放射性炭素年代測定から、中部旧石器時代水準の炉床とは燃焼要素および温度の両方とは明らかに対照的なパターンが示される、とC反論は指摘します。こうした知見から、第13層石器群の年代を上部旧石器時代と判断するのは妥当だろう、というわけです。

 C反論は、バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が広く知られておらず、古い年代観と組み合わせて推測に推測を重ねた結果、第13層石器群が後代の嵌入であることを示唆するような批判がなされたのだ、と指摘します。C論文にたいする批判は、誤解の積み重ねだろう、というわけです。C反論は、C論文の提示した新たな年代観は、ヨーロッパ西部において、ネアンデルタール人の絶滅は4万年以上前、現生人類の拡散も遅くとも4万数千年前までさかのぼるとする、近年の知見と整合的だと指摘します。


 以上、C論文にたいする批判論文2本と反論をざっと見てきました。バホンディージョ洞窟第13層の攪乱を懸念する批判論文2本にたいして、C反論は的確に対応できているのではないか、と思います。やはり問題となるのは、第13層石器群の分類で、「広義のオーリナシアン」とするのが適切なのか、門外漢の私には的確な判断ができませんが、今後の研究の進展が期待されます。これは、ヨーロッパだけではなく、アジア南西部も含めての大規模な研究となるので、すぐに結論の出る問題ではなさそうですが。

 ヨーロッパ西部の他地域とほぼ変わらない43400〜40000年前頃に、イベリア半島南部に現生人類が拡散してきた、との見解については、現時点では保留しておくのが無難かな、と思います。それは、第13層石器群を「明確に」オーリナシアンと分類できないからでもありますが、何よりも、ヨーロッパの中部旧石器時代〜上部旧石器時代移行期の遺跡では人類遺骸が少ないため(それでも他地域よりはずいぶんと恵まれているのでしょうが)、この時期の各インダストリーの担い手の人類系統を多くの場合でまだ確定できないからです。担い手について議論が続いていますが、現生人類の影響を受けているかもしれないとはいえ、シャテルペロニアン(Châtelperronian)の担い手がネアンデルタール人だった可能性は低くないでしょうから(関連記事)、ネアンデルタール人がイベリア半島南部の上部旧石器的なインダストリーの担い手であった可能性も想定しておくべきだと思います。


参考文献:
Anderson L, Reynolds N, and Teyssandier N.(2019): No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 713.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0885-3

Cortés-Sánchez M. et al.(2019A): An early Aurignacian arrival in southwestern Europe. Nature Ecology & Evolution, 3, 2, 207–212.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0753-6

Cortés-Sánchez M. et al.(2019B): Reply to ‘Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns’ and ‘No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia’. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 714–715.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0887-1

de la Peña P.(2019): Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 712.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0886-2

https://sicambre.at.webry.info/201905/article_9.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/291.html

[近代史5] フェニキア人の起源
フェニキア人の起源


雑記帳 2018年01月13日
フェニキア人のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_13.html


 これは1月13日分の記事として掲載しておきます。フェニキア人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析についての研究(Matisoo-Smith et al., 2018)が報道されました。フェニキア人は紀元前1800年頃に北部レヴァントに出現し、紀元前9世紀までには地中海全域に拡散していました。しかし、フェニキア人の情報はおもにギリシアとエジプトの記録に依拠しており、そこには偏りが生じているかもしれません。本論文は、サルデーニャ島とレバノンのフェニキア人およびフェニキア人出現前の住民の古代mtDNA(14人分)と、現代のレバノンの87人分のmtDNAを新たに解析し、これらを以前に刊行されていたサルデーニャ島の21人の先フェニキア人のmtDNAと比較しました。

 その結果、先フェニキア時代〜フェニキア時代にかけて、いくつかのmtDNA系統で継続性が確認されました。フェニキア人は征服者として地中海各地に拡散していったのではなく、交易商として拡散しつつ、各地の先住民と融合していったのではないか、というわけです。この見解は、考古学的証拠と矛盾しない、と指摘されています。少なくともサルデーニャ島では、先住民とフェニキア人との融合の可能性がたいへん高い、と言えるでしょう。また、フェニキア人の所産であるサルデーニャ島のモンテシライ(Monte Sirai)遺跡では、ヨーロッパ系のmtDNAハプログループU5b2c1が確認されており、フェニキア人社会にはヨーロッパからの女性の移動もあったのではないか、と考えられています。

 Y染色体の解析でも、フェニキア人が地中海各地に拡散していき、現代でも影響を及ぼしていることが指摘されています。フェニキア人系と推定されているY染色体ハプログループは現代では、フェニキア人が影響を及ぼしたと考えられている地域では6%以上、レバノンでは30%以上確認されています。フェニキア人系と考えられるY染色体DNAとmtDNAの分布は必ずしも一致しないのですが、これは、フェニキア人の拡散における性差を反映しているのかもしれません。いずれにしても、フェニキア人の地中海での拡散は男女どちらかに偏っていたものではなく、男女ともに広範に移動し、フェニキア人社会の遺伝的多様性と文化的多様性が示唆されています。


参考文献:
Matisoo-Smith E, Gosling AL, Platt D, Kardailsky O, Prost S, Cameron-Christie S, et al. (2018) Ancient mitogenomes of Phoenicians from Sardinia and Lebanon: A story of settlement, integration, and female mobility. PLoS ONE 13(1): e0190169.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0190169


https://sicambre.at.webry.info/201801/article_13.html  
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/292.html

[近代史5] アイルランド人の起源
アイルランド人の起源


雑記帳 2020年06月21日
ゲノムおよび同位体分析から推測されるアイルランド新石器時代の社会構造
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html


 ゲノムおよび安定同位体分析からアイルランド島における新石器時代の社会構造を推測した研究(Cassidy et al., 2020)が報道(Sheridan., 2020)されました。古代ゲノムの以前の分析では、新石器時代大西洋沿岸社会間の共通系統が示されてきましたが(関連記事)、放射性炭素年代測定法による最近の研究では、フランス北西部からの巨石建造物の繰り返しの拡大が指摘されており、この地域の航海技術は以前の推定よりも発展していた、と示唆されています(関連記事)。これは、他の明確な巨石伝統とともにアイルランドに農耕が到来した、紀元前四千年紀の大西洋沿岸の羨道墳の拡大を含みます。これらの構造物はアイルランド島に関して、ヨーロッパでは既知の最高の密度と多様性に達しました。しかし、在来の中石器時代狩猟採集民からの遺伝的影響と同様に、これらの社会の土台となっている政治体制は曖昧なままです。

 これらの問題を調査するため、本論文はアイルランドの中石器時代2人と新石器時代42人のゲノムデータを提示します(平均網羅率は1.14倍)。この44人のうち43人を関連する古代ゲノムに帰属させ、これには追加の20人のブリテン島とアイルランドの個体が含まれます。本論文は次に、これらの個体群を既知の古代遺伝子型のデータセットと組み合わせ、集団構造の精細なハプロタイプおよび近親交配の推定を可能にしました。その後、主要な4人がより高い網羅率(13〜20倍)で配列されました。

 本論文は、紀元前4000年頃に始まるアイルランドにおける新石器時代の主要な葬祭伝統から遺骸を標本抽出しました。それは、宮廷墓(分割された玄室と前庭がある建造物)と支石墓(巨大な岩石と高い入口のある1部屋の建造物)と羨道墳とリンカーズタウン(Linkardstown)型埋葬と自然遺跡です。このデータセット内で、アイルランド最初の新石器時代人類遺骸はプルナブロン(Poulnabrone)の支石墓に埋葬されており、おもに「早期農耕民」系統で構成され、近親交配の証拠は見られません。これは、農耕がその当初から大規模な海上植民を伴っていた、と示唆します。ADMIXTUREおよびChromoPainter分析は、アイルランドとブリテン島の新石器時代集団を区別しません。両分析はまた、スペインの前期新石器時代標本群が、アイルランドの早期農耕民の最良の代理起源である、という以前の報告を確認し、それは祖先の拡大において大西洋と地中海の海路の重要性を強調します。ヨーロッパ大陸部やブリテン島と同様に、アイルランドでも農耕をもたらしたのは外来農耕民集団(その起源はアナトリア半島)だった、というわけです。

 全体的に、新石器時代アイルランドでは近親交配の増加は経時的には見られず、それは共同体が充分な規模と、5親等もしくはそれより近い親族間の配偶を避ける意思伝達を維持していた、と示唆します。しかし本論文は、ブルーナボーニャ(Brú na Bóinne)遺跡群のニューグレンジ羨道墳における、単一の極端な外れ値を報告します。20万トンを超えるつとと石を組み合わせたこの巨石墳墓は、ヨーロッパの類似した既知の墳墓の中で、最も壮観なものの一つです。外面的には公共消費用に設計されていますが、墓地の内部単一の狭い通路で構成され、特別な儀式的目的を有しており、冬至には選ばれた数人のみが太陽を見られました。この支配層は、太陽の動きを「制御」することにより、神の力を有していると主張した、と推測されています。火葬されず、関節の外れた人類の骨が、最奥の十字形玄室最も精巧に装飾された奥まった場所内で集中して見つかり、成人男性の頭蓋(NG10)を含みます。NG10はホモ接合性の複数の長い領域を有しており、それぞれが個々の染色体の大規模な断片を構成し、合計でゲノムの1/4になります(近交係数=0.25)。この結果は、NG10が1親等(英語では親子だけではなくキョウダイ関係も含みます)の近親相姦による子だと示します。近親相姦は、生物学的および文化的理由が絡んでいるため、ほぼ普遍的な禁忌です。しかし、埋葬の性質を考えると、この男性が社会的に認められた可能性はひじょうに高そうです。

 シミュレーションでは、この男性の両親が全キョウダイ(両親が同じキョウダイ)なのか親子関係なのか区別できませんが、そうした配偶の唯一の既知の容認は、「王室」または「王朝」近親相姦として知られる稀に観察される現象として、とくに一夫多妻のエリート内で起きます。たとえばヨーロッパ勢力との接触前のハワイやインカ帝国や古代エジプトなど、これらの記録された事例では、近親婚は政治指導者の神格化と同時に発生し、通常はその神性から社会習慣を免除される支配者家族に限定されます。全キョウダイおよび半キョウダイ(両親のどちらか一方のみを共有するキョウダイ)間の結婚は、複雑な首長制および初期国家で最も一般的に見られます。研究者たちは一般的に、より発展した官僚制度の欠如における、豪壮な記念碑的建築や公的儀式などの方策とともに、近親婚を階層強化および権力正当化の手段とみなしてきました。本論文は、比較可能な一連の社会的動態が中期新石器時代までにアイルランドで運用されており、ニューグレンジと類似した夏至もしくは冬至に沿った羨道墳がウェールズやオークニー諸島やブルターニュで建造されていたことを考えると、この社会的動態はアイルランド外でも同様に起きていたかもしれない、と提案します。とくに親族関係の水準は、本論文の古代ゲノムのより広範なデータセット全体で、一貫して低く、経時的に減少します。検出された近親交配の他の1事例は、スウェーデンの巨石で発見された2親等もしくは3親等の親族間の子供です。

 ブルーナボーニャ羨道墳は中世の神話で現れ、神話の部族による太陽周期の魔法操作の解釈と関連しており、数千年にわたる口承伝統の持続性に関する未解決の推測につながってきました。そのような長期の持続はなさそうですが、本論文の結果は、紀元後11世紀に最初に記録された、建築者の王が妹との性交により日々の太陽周期を再開する、という神話と強く共鳴します。ファータエ・チャイル(Fertae Chuile)というニューグレンジに隣接するドウス(Dowth)羨道墳のアイルランド中央部の地名は、この伝承に基づいており、「罪の丘」もしくは「近親相姦の丘」と訳されます。

 羨道墳の第二の中心はニューグレンジの西方150kmの、大西洋沿岸近くに位置します。この中心はスライゴ(Sligo)州のキャロウモア(Carrowmore)遺跡とキャロウキール(Carrowkeel)遺跡の巨大墓地で構成され、ニューグレンジの羨道墳に数世紀先行します。キャロウキールでの堆積は少なくとも新石器時代末まで続きました。一塩基多型とハプロタイプに基づく分析では、これらの遺跡群とニューグレンジ遺跡および北東部沿岸の非定形的なミリンベイ(Millin Bay)遺跡の巨石をつなぐ、関連性の網が明かされました。それは以前には、手工芸品と形態的特徴に基づき、より広範な羨道墳伝統の一部として認識されてきました。

 まず、lcMLkinにより、キャロウモアで埋葬された、データセットの最初の羨道墳ゲノムで、NG10と遠い親族関係が検出され、これはキャロウキールとミリンベイの後の個体群でも同様でした。NG10とキャロウキールの他の個体との間でも、類似の親族関係(6親等以上)が見られ、いくつかの家族関係が示されます。次に、主要な早期農耕民系統の大西洋沿岸のゲノム分析で、ニューグレンジとキャロウキールとミリンベイの標本群は、より大きなブリテン島およびアイルランドの分類と分岐する異なるクラスタを形成します。古代ゲノムのより大きなデータセットにより、このクラスタの堅牢性が確認されました。本論文のChromoPainter分析でも、過剰な相互ハプロタイプが、とくにニューグレンジ遺跡のNG10個体とキャロウキール遺跡のCAK532との間で特定され、その親族関係が確認されます。より遠い親族関係の証拠が、キャロウモア遺跡のcar004個体の推定される親族間で見つかり、相互に長いハプロタイプを共有しています。これは最近の共有された系統の痕跡で、キャロウキール遺跡のCAK530個体と同遺跡のCAK533個体およびニューグレンジ遺跡のNG10個体とのつながりが示されます。

 car004個体の以前のゲノム配列は低網羅率(0.04倍)なので、本論文のChromoPainter分析では除外されました。しかしD統計では、car004個体が、より大きなブリテン島およびアイルランドのクラスタの標本群の大半と年代的に近いにも関わらず、羨道墳クラスタと優先的にクレード(単系統群)を形成する、と示します。これは、上述の親族関係によってのみ駆動されます。より大きなデータセットのダウンサンプリング(標本数を減らして再度標本抽出すること)検定では、car004個体のD統計結果がひじょうに有意だと示されます。

 まとめると、本論文のデータセット内のハプロタイプ構造の分析は、羨道墳標本群間の過剰な同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)に起因し、それはアイルランド島の広範な領域での非ランダムな配偶を示唆する、との解釈が支持されます。NG10の血統により予測されるように、高度な社会的複雑さにはこれが要求されます。しかし、本論文における非羨道墳被葬者のゲノムは、大半がより早い年代で、精細な構造クラスタ化への時間的浮動の寄与を評価するには、後期新石器時代の多様な遺跡からのより高密度な標本抽出が必要です。安定同位体値も、羨道墳被葬者を他のアイルランドおよびブリテン島の新石器時代標本群とは区別します。羨道墳遺骸における高い窒素15値と低い炭素13値は、特権に関連づけられる肉および動物由来の食品で最もよく説明できますが、これがこの期間のより広範な食性変化とどのように関連しているのか、まだ不明です。

 単純な宮廷墓および支石墓には、羨道墳の手工芸品や権威を示す副葬品が欠けており、おそらくはより小規模で血統に基づく社会の現れです。これらの建物は通常、例外もあるとはいえ羨道墳の墓地内では見られず、遺跡間の親族関係の事例として報告された、キャロウモアの近くで建設された宮廷墓を含みます。プルナブロン遺跡の支石墓とパークナビニア遺跡の宮廷墓という、異なるものの10kmほど離れた別の組み合わせの間の、両方の遠い親族関係証拠と社会的構造の証拠が見つかりました。その標本群は、Y染色体ハプログループ(YHg)の頻度における有意な違いが、食性の違いと同様に示されます。どちらの墓にも親族関係が欠如していることを考えると、単独所有者としての小さな家族集団は除外され、父系に重点を置いたより広範な社会的分化の結果として解釈されます。アイルランド南東部リンカーズタウン遺跡の男性被葬者間で稀なYHg-H2aが二重に出現することは、これらの社会における父系の重要性のさらなる証拠を提供し、それはアイルランドとブリテン島の新石器時代集団において単一のYHg-I2a1b1a1a(M284)が支配的であることでも示されます。

 ブリテン島およびアイルランドへの農耕拡大は、地中海で発展した既存の海上のつながりにより進展した、と以前には仮定されていました。しかし、本論文の結果は、アイリッシュ海が新石器時代前には遺伝子流動への大きな障壁だったことを示唆します。アイルランドの狩猟採集民のゲノムデータは、北西部のリムリック(Limerick)州のキルラ洞窟(Killuragh Cave)で発見された紀元前4700年頃の個体と、西部のゴールウェイ(Galway)州のスラモア洞窟(Sramore Cave)で発見された紀元前4100年頃の個体から得られました。アイルランドの狩猟採集民は、ヨーロッパ北西部の中石器時代狩猟採集民のより広範な分類内で異なるクラスタを形成し、500年以上の分離にも関わらず、相互に過剰な水準の浮動を共有します。対照的に、ブリテン島の狩猟採集民はヨーロッパ大陸部どの同時代の狩猟採集民との違いを示しません(関連記事)。これは、中石器時代のほとんどの期間において、ブリテン島とヨーロッパ大陸部との間のドッガーランド(Doggerland)陸橋を想定する古地理モデルと一致しますが、完新世の前にアイルラン島は分離していました。

 またアイルランドの狩猟採集民は、報告されている古代人もしくは現代人と比較して、ホモ接合性の短い連続の最大程度を示し、これはアイルランド島の長い孤立期間を支持する祖先の収縮の痕跡です。これにより、ヨーロッパ大陸部とブリテン島の狩猟採集民には、アイルランド島との頻繁な接触維持を要求される技術もしくは刺激が欠如しており、中石器時代におけるアイルランド島の比較的遅い海上植民(8000年前頃)とその後の石器群の急激な分岐を反映している、と示唆されます。それにも関わらず、アイルランドの狩猟採集民は近い世代での近親交配の痕跡を示さず、3000〜10000人のみと推定される人口にも関わらず、島内だけで異系交配ネットワークを維持できていたようです。一部の考古学者の見解とは異なり、アイルランドの人々がブリテン島やヨーロッパ大陸部に渡って配偶者を得てアイルランドに戻ることはなかったか少なかった、というわけです。したがって、中石器時代集団が新石器時代農耕生活様式をアイルランドに導入した、という一部の考古学者の見解を支持する証拠はありません。

 究極的には、アイルランドの狩猟採集民の起源はイタリア半島の上部旧石器時代の個体群と関連する集団にあり、イベリア半島で存続したより早期の西部系統、つまりベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)からの遺伝的寄与の証拠は示されません(関連記事)。しかし、アイルランドとブリテン島の狩猟採集民と比較して、ルクセンブルクの中石器時代狩猟採集民においてゴイエットQ2系統の有意な過剰が検出され、イベリア半島外のこの系統の存続が示されます。イベリア半島外のゴイエットQ2系統は、フランスの新石器時代個体群でも確認されています(関連記事)。

 また、アイルランド狩猟採集民の遺伝的影響が新石器時代アイルランド集団にも残されているのか調べられ、直接的な痕跡が見つかりました。在来狩猟採集民集団に対するヨーロッパ農耕民間の高いハプロタイプ類似性のより広範なパターン内で、パークナビニア遺跡の宮廷墓個体(PB675)が、不均衡、具体的にはアイルランド狩猟採集民系統を示す外れ値である、と明らかになりました。PB675における、ゲノム全体の狩猟採集民系統の高い分散と、長いアイルランド狩猟採集民ハプロタイプの過剰は、4世代以内と推定される最近の遺伝子移入を支持します。

 この知見は、スコットランドの新石器時代集団への在来の狩猟採集民からの遺伝子流動の証拠と組み合わされ、ブリテン島とアイルランドにおける侵入してくる農耕民と在来集団との間で繰り返される相互作用を示唆します。とくに、PB675個体の4親等程度の親族が同じ墓に埋葬されたことは、この遺伝的外れ値個体が共同体内に統合されたことを示唆します。巨石被葬者に選ばれた個体群の多様性の代替的事例は、プルナブロン遺跡の男児個体(PN07)で見られ、母乳育児の食性痕跡を示します。PN07は明確な21番染色体トリソミーを有しており、紀元後5〜6世紀の個体で見つかっていたダウン症候群の事例より大きくさかのぼり、最古の事例となります。

 全体的に、本論文の結果は、集団移動だけではなく、記録が存在しない政治体制や社会的価値にも光を当てる、古代ゲノムの能力を示します。これはとくに、帰属およびハプロタイプ分析の使用時に当てはまり、古代の集団構造の解決において、一塩基多型に基づく一般的な手法よりも優れていることを確認します。近親交配と親族の推定とともに、これらの手法は、小さな首長制から文明までの農耕社会の発展を研究できる範囲を広げます。具体的には、本論文の知見は、大西洋沿岸の巨石文化における社会的階層化と政治的統合の再評価を支持し、アイルランドの羨道墳を建てる社会は、初期国家とその先駆者内で見られるいくつかの属性を有している、と示唆します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は最近では珍しく、紀元前をBCE(Before Common Era)ではなくBC(Before Christ)、紀元後をCE(Common Era)ではなくAD(Anno Domini)と表記しています。おそらく著者たちの意図とは違うでしょうが、私はこの使用を強く支持します(関連記事)。BCEやCEと言い換えたところで、しょせんキリスト教起源であることは否定できず、むしろ、「Common」と言い換えること自体がたいへん傲慢であるように思えるからです。

 本論文は、ゲノムと安定同位体の分析から新石器時代の社会構造を推測しており、たいへん興味深い結果です。ただ、上記報道では、ブルーナボーニャ遺跡の巨大な羨道墳から、初期国家社会およびその先駆者に見られる属性を認めることには疑問も呈されている、と指摘されています。また本論文では、新石器時代のアイルランドとブリテン島やイベリア半島との間の遺伝的類似性が強調され、アイルランド初期農耕民がイベリア半島から渡海してきた、と示唆する内容になっていますが、その考古学的証拠はない、と上記報道では指摘されています。その代わりに、考古学ではフランス北部起源でブリテン島を経由してアイルランドに初期農耕民が到来した、と想定されており、フランスの中石器時代と新石器時代に関する最近の研究(関連記事)でも支持されています。しかし、多くはまだ解明されておらず、アイルランド最初の農耕民の起源に関しては、フランスの新石器時代個体群の分析がさらに必要になる、と上記報道は指摘します。

 本論文で注目されるのは、支配層に属すると思われる男性の両親が1親等と推定されることです。人類史における近親交配については以前まとめました(関連記事)。本論文が指摘するように、こうした近親交配は人類社会において普遍的に禁忌とされているものの、エジプトやハワイやインカなど広範な地域の一部の支配層でよく見られます。近親交配の忌避は、人類社会において普遍的に見られ、それは他の哺乳類種でも広く確認されることから、古い進化的基盤があると考えられます。近親交配回避の具体的な仕組みは、現代人も含む多くの霊長類系統においては育児や共に育った経験です(関連記事)。したがって、人類系統においては、チンパンジー属系統や、さらにさかのぼってオナガザル科系統との分岐前から現代までずっと、この近親交配回避の生得的な認知的仕組みが備わっていたことは、まず間違いないでしょう。

 つまり、人類の「原始社会」は親子きょうだいの区別なく乱婚状態だった、と想定する通俗的な唯物史観的見解は的外れで、現代ではとても通用しない、というわけです。現代人と他の霊長類種とで共通する近親交配の回避は、人類系統において独自に起きた生得的な認知的仕組みの収斂進化ではなく、近親交配の弊害に気づいた文化的(後天的)禁忌のみで説明できる可能性も、無視してまったく問題ないと思います。人類社会に見られる近親交配の禁忌は、ひじょうに古い進化的基盤に由来し、人類史をずっと制約してきたのでしょう。

 しかし、本論文でも示されたアイルランドのニューグレンジ遺跡の男性のように、人類史における近親交配の証拠は文献記録でも遺伝学でも提示されています。これはどう説明されるべきかというと、そもそも近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体が、さほど強力ではないからでしょう。じっさい、現代人と最近縁な現生系統であるチンパンジー属やゴリラ属でも、親子間の近親交配はしばしば見られます(関連記事)。人口密度と社会的流動性の低い社会では、近親交配を回避しない配偶行動の方が、適応度を高めると考えられます。おそらく、両親だけではなく近い世代での近親交配が推測されているアルタイ地域のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が、その具体的事例となるでしょう(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としてもう一つ考えられるのは、本論文でも示されている、支配層の特権性です。支配層では、人口密度などの点では近親交配の必要性がありません。もっとも、こうした近親交配は社会的階層の上下に関わらず、何らかの要因で閉鎖性を志向するもしくは強制される集団で起き得る、と考えるのがより妥当だと思われます。支配層の事例は分かりやすく、神性・権威性を認められ、「劣った」人々の「血」を入れたくない、といった観念に基づくものでもあるでしょう。より即物的な側面で言えば、財産(穀類など食糧や武器・神器・美術品など)の分散を避ける、という意味もあったと思います。財産の分散は、一子(しばしば長男もしくは嫡男)相続制の採用でも避けられますが、複数の子供がいる場合、できるだけ多くの子供を優遇したいと思うのが人情です。こうした「えこひいき(ネポチズム)」も、人類の生得的な認知的仕組みで、他の霊長類と共通する古い進化的基盤に由来します(関連記事)。

 生得的な認知的仕組みが相反するような状況で、その利害得失を判断した結果、支配層で近親交配が制度に組み込まれたのではないか、というわけです。近親交配の制度的採用という点では、財産の継承も重要になってくると思います。その意味で、新石器時代以降、とくに保存性の高い穀類を基盤とする社会の支配層において、とくに近親交配の頻度が高くなるのではないか、と予想されます。もっとも、農耕社会における食糧の貯蔵の先駆的事例はすでに更新世に存在し、上部旧石器時代となるヨーロッパのグラヴェティアン(Gravettian)が画期になった、との見解もあるので(関連記事)、更新世の時点で、財産の継承を目的とした近親交配もある程度起きていたのかもしれません。

 もちろん、近親交配回避の認知的仕組みは比較的弱いので、支配層における制度的な近親交配だけではなく、社会背景にほとんど起因しないような個別の近親交配も、人類史において低頻度で発生し続けた、と思われます。近親交配の忌避は、ある程度以上の規模と社会的流動性(他集団との接触機会)を維持できている社会においては、適応度を上げる仕組みとして選択され続けるでしょう。しかし、人口密度や社会的流動性が低い社会では、時として近親交配が短期的には適応度を上げることもあり、これが、人類も含めて霊長類社会において近親交配回避の生得的な認知的仕組みが比較的緩やかなままだった要因なのでしょう。現生人類(Homo sapiens)においては、安定的な財産の継承ができるごく一部の特権的な社会階層で、「えこひいき(ネポチズム)」という生得的な認知的仕組みに基づき、近親交配が選択されることもあり得ます。その意味で、人類社会において近親交配は、今後も広く禁忌とされつつ、維持されていく可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古代DNA:新石器時代の墳墓建造社会における王家支配層

Cover Story:家族の絆:新石器時代のアイルランドの王家支配層の近親交配

 表紙は、冬至の後にアイルランド・ミース州にあるニューグレンジ羨道墳に差し込む太陽光である。今回D Bradleyたちは、この遺跡や他の巨石遺跡から得られた遺骸のゲノムを調べた結果を報告している。この結果は、5000年以上前のアイルランドの社会組織に新たな光を当てている。著者たちは、44人の全ゲノムを採取して、ニューグレンジ羨道墳の地位の高い成人男性の遺骸が、親子か兄弟姉妹間の近親交配の所産であることを発見した。さらに、他の2か所の主要な遺跡ではこの男性の遠い親類も見つかった。羨道墳で得られたゲノムと他のゲノムの間には食餌と遺伝子に大きな差異が見られた。これは、この男性たちがおそらく支配階級に属しており、その指導者は王家内で近親交配を行うことで他の住民との違いを維持していたことを示している。


参考文献:
Cassidy LM. et al.(2020): A dynastic elite in monumental Neolithic society. Nature, 582, 7812, 384–388.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2378-6

Sheridan A.(2020): Incest uncovered at the elite prehistoric Newgrange monument in Ireland. Nature, 582, 7812, 347–349.
https://doi.org/10.1038/d41586-020-01655-4

https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/293.html

[リバイバル3] 絶対に買ってはいけない アルテック VOICE OF THE THEATER A5・A7 中川隆
18. 中川隆[-11558] koaQ7Jey 2020年9月01日 17:04:59 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[30]
このほど A4 のウーハー アルテック515 をウェスタンエレクトリック・ロンドン 2080Aに交換してしまいました。

今回私が導入した2080-Aやホーンドライバーの2090-A はどちらも最初期のアルテックをベースに改良した物です。

 ノーザンエレクトリックがアルテック515、288をデカルだけ変えてそのまま販売していたのに対し、ウェスタンエレクトリック・ロンドンは英国内の技術者が知恵を絞って、これらの改良版を開発したと思われます。

晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その1.)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_8.html

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 ベンプレ亭書斎のメインシステムは2系統あります。西面がビジュアル用と兼用のバイタボックス・バスビンを中心とした5way、東面がアルテックA4にツィーターを加えた3wayです。

 バスビンは少しずつ弄りながら、もう30年も使っています。A4は導入してまだ日が浅く、2年足らずです。

 2年足らずだと言うのに年寄(?)は先を急ぐ為でしょうか、このほどA4のウーハーを写真のウェスタンエレクトリック・ロンドン2080Aに交換してしまいました。

 この導入記を書くにあたり、私の知るウェスタンの断片的知識を少々。

 ウェスタンエレクトリック・ロンドン、後のロンドン・ウェストレックスは米AT&Tの製造部門であるウェスタンエレクトリック直系の英国の会社です。
 ウェスタンはカナダにノーザンエレクトリック、日本にニッポンエレクトリック(現NEC)など直系の会社がありますが、ウェスタンエレクトリック・ロンドンもその一つです。

 各会社の米国ウェスタンエレクトリックとの関係はまちまちな様です。ノーザンエレクトリックの発足は1895年と古いのですが、旧ウェスタンエレクトリック時代(集中排除法で会社が分割される1937年まで)のコピー品は私の知る限り見当たりません。
 1928年からトーキーシステムに乗り出しているそうなので、555、594のコピー品があってもおかしくないのですが、市場でたまに見かけるのはオールド・アルテックの同等品だけの様です。
 1937年のウェスタンエレクトリック分割後、アルテックとIPCが同じものをブランドを変えて販売していたのと同じ様なイメージです。

 ニッポンエレクトリックは設立時に、米ウェスタンエレクトリックが株式の54%を保有していました。設立は1899年なのでノーザンエレクトリックより4年後に設立されたのですが、販売していたスピーカーはウェスタンエレクトリック555Wのコピーのドライバー(レシーバー)で、逆にアルテック時代のコピー品は無い様です。
 その後東洋ウェストレックス社が設立され、ニッポンエレクトリックは傍流になったのでしょう。
 それにしてもNEC、戦前の日本で自社製の555を売ろうなんて、ナカナカのチャレンジャーですね。
 
 余談ですが、NECで555コピー品を製造していた職人さんがYL音響を創立し、更にYL音響の職人さんが独立して、ゴトウユニットが創業したそうです。
 どの会社もルーツはウェスタンエレクトリックなんですね。

 ウェスタンエレクトリック・ロンドンは創立年がネットで調べても判りませんでした。
 地理的にも、当時の市場規模からも、ニッポンエレクトリックより後に設立されたとは考え難いのですが。
 同社も555、594直系のスピーカーを出していたというネット情報も見た事があるのですが、検索しても具体的な製品がヒットしません。現存するならなら必ず評判になり、多少は流通していると思いますが・・・

(※その後、コメント欄から情報を頂き、WE555のウェスタンエレクトリック・ロンドン版、30150を教えてもらいました)

 歴史の舞台に登場するのは1950年、今回私が導入した2080-Aやホーンドライバーの2090-Aが発表されてからです。これらはどちらも最初期のアルテックをベースに改良した物です。

 ノーザンエレクトリックがアルテック515、288をデカルだけ変えてそのまま販売していたのに対し、ウェスタンエレクトリック・ロンドンは英国内の技術者が知恵を絞って、これらの改良版を開発したと思われます。
 やはりジョンブル魂のなせる業でしょう、お国ぶりが感じられて楽しいですね。
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晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その3.)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_10.html

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 (写真はウェスタンエレクトリック・ロンドン2090-Aの姉妹品?アルテック288Bです。アルテック288が英国では2090-Aに改良され、米国では288Bに改良されました)

 ウェスタンエレクトリック・ロンドンの製品というと、「ウェスタン」の名前の為か、アルテックより旧いパーツだと一部で誤解されている様です。

 しかし2080-Aウーハーも、ウェスタンエレクトリック・ロンドンを代表するドライバーである2090-Aも、アルテックの515、288より後に、これらのモデルを下敷きにしてイギリスで作られたものです。

 515、288は1945年に開発されているのに対し、2080-A、2090-Aは1950年に発表されています。

 米国のウェスタンエレクトリックは独占禁止法(集中排除法)のため1937年にスピーカー製造部門がアルテック、IPCに分離されましたが、独禁法が無ければウェスタンエレクトリックのままで良かったわけです。

 米国の独禁法の権限は、当然海外には及びませんから、英国ではウェスタンエレクトリックの社名でスピーカーが作り続けられたのでしょう。

 ウェスタンエレクトリック・ロンドンの製品が英国のどこの工場で作られたのかは、確定的な話がありません。
同じシアターサプライを手掛けている事からバイタボックスが一枚噛んでいるらしいとか、工場の規模はグッドマンが最大だったのでココだろうとか、いや、創業者のガイ・ルパート・フォンテーンが昔ウェスタンエレクトリック・ロンドンに勤めていた関係で、タンノイが協力したという説もあります。

 私はウーハーに関してはバイタボックスのOEMではなかったかと推測しています。それは1954年に既に2080はアルニコ磁石からフェライト磁石に変更されているからです。

 フィールドコイル磁石の時代が終わるとスピーカーはアルニコ磁石に一斉に変更されました。その磁石が一斉にフェライトへ変更されたのは1970年代末期です。
アフリカ・ザイールの内戦でコバルトが高騰し、アルニコ磁石の材料が手に入り難くなったためだそうです。
 それまでもフェライト磁石のスピーカーはありましたが、ほぼ全て廉価版、高級機はどれもアルニコでした。

 フェライトに変更されるとき、JBLは「いや、フェライトの方が性能は良いんだ・キャンペーン」を打ちましたが、実際聴くと優劣は明らかで、この辺りからJBLは日本で売れなくなったらしいです。タンノイもアルテックもフェライトに変更された時にはファンから悲鳴が上がりました。

 私は当時タンノイを使用していましたが、例えアルニコモデルで一番評判の悪かったHPD385A(私の愛機)であっても新型のフェライトモデル、K3808より断然良い音でした。

 アルテック、JBL、タンノイが当時の海外製スピーカーの御三家でしたが、フェライト化に伴い一気にシェアを失って行ったと記憶します。

 この時代に悠然とフェライトを売っていた高級スピーカーメーカーがありました。英バイタボックスです。バイタボックスのウーハーは最初期こそAK150なるアルニコ磁石でしたが、コバルト高騰とは無縁の早い時期に、AK156/157のフェライト磁石に切り替えられていました。

 CN191コーナーホーンやバイトンメジャーは当時のクラシックマニア・垂涎の的でしたが、ウーハーは以前からフェライトでした。
 ドライバーもアルニコのS2とフェライトのS3が併売されており、どちらの方が上位機種との位置付けはなされてはいませんでした。

 つまりバイタボックス社は早い時期にフェライト磁石の使い方に習熟し、フェライトで美音を再生するノウハウに自信をもっていたのでは。

 ですから2080-AがバイタボックスのOEMなら1954年に早くもフェライト化(2080-F)されていても不思議ではないと考えるのです。
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晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その4.)
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 写真はアルテック210エンクロージャーに仕込むため揃えた4発の2080-Aです。
 さて、2080-Aに付いて少々。
 
 と思いましたが、私が駄文を書くよりステレオサウンド社の名文をコピペします。
 この文章は以前ステレオサウンド・オンラインに掲載されていた物ですが、既に公開が終了しています。
 他の方のブログにも「ステレオサウンドより」と但し書きをして引用されていますので、私も引用させて下さいませ。ステサン、40年前から全号揃えてる愛読者ですし、以前に姉妹誌のホームシアターの取材も受けましたのでお目こぼしをw

 『Western Electric London Receiver 2080-A
 塗色と磁気回路に付されたハンドルを除くと、アルテック「515」と外観的にはあまり差異はなく、本設計は明らかに同一と思われる。しかし細部に目を移すと、バスケット(フレーム)の磁気回路への取りつけ方、マグネット・ストラクチャー、コーン・エッジの裏と蝶型スパイダー(ダンパー)の中に柔らかいウール繊維が詰められている、などの差がある。

 それに重量が34ポンド(15.4kg)とまったく違う。カタログによるギャップの磁束密度は13200ガウス、ヴォイスコイル・インピーダンスは16Ωである。ただし、この「2080-A」にも、マグネット外形が「515」様の大型と、「803」様の小型のものがあるので注意が必要。後には「2080-F」というフェライトマグネットの製品まで登場した。

本機を1本から4本まで内蔵する低域バッフルとして、2081-A、2082-A、2084-C〜Fの6タイプがあり、指で押したくらいではピクリとも動かないコーン紙(アッセンブリーで約48gと軽いが、頑丈な造りで、「515」用とは漉き方が異なる。低域共振周波数は55Hz)は、これらの低域バッフルに組み込まれると、イギリス人の英知を思わせる、気品の高い風格ある大人のサウンドをもたらす。

 このヨーロッパ・トーンは、他では決して得られない味わい深いものである。
 数十年にわたる長いオーディオ遍歴の果て、ついに理想とするこのシステムに巡り遭い、その間の苦労について目をうるませながら語った人がいる。
 早速聴かせていただいたが、音楽を愛する「思い」に裏づけされた深い教養がありありと滲み出ており、めくるめく感動を覚えた。 人柄は遂に、音に反映するのである。』

 この名文の後にベンプレ親父の駄文を繋げるのも気が引けますので、稿を改めます。
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晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その5.)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_12.html

画像
https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/008/146038287075462632177.jpg.html

 ではベンプレ親父の見立てた2080Aに関する追加事項を再掲の写真を見ながら語りましょう。
 
 このユニットがアルテック515をベースに作られている事は間違いありません。
 バスケットの形状はアルテック515〜515B前期型と同じでリアマウント方式。バッフルに留めるネジ穴の位置も同じです。
 エッジも515と同じフィックスドエッジ、センターキャップの形状も、エア抜き穴のサイズも同一です(エア抜き穴に裏打ちしてある布の色がオレンジがかった茶色で、ココは黒である515と違います)。
ダンパーも515と同じベークライト製蝶型ダンパー(スパイダー)です。
 コードを留めるターミナルも515と同一のパーツです。

 515との違いは以下の様です。
 まず写真に見る通りアルニコ・マグネットがより大型で、515よりマグネットの奥行きが長くなっています。
 先ほどバスケット形状は515と同様と述べましたが、フレーム前面、バッフルに接する部分の厚みが515より約3mm厚くなっています。ガスケット(515はコルク、2080は黒い綿フェルト)も515より2mm程度厚いため、合計で5mm程フレーム前面が厚く仕上がっています。

 マグネットサイズとフレーム前面の厚みが増している為でしょうか、重量が15.4kgとなり、515Bの11.8kgより3.6kgも増加しています。38cmウーハーとしては破格の重さなので、取扱が容易なように、マグネットカバーにハンドルを付けたのでしょう。
 初めて見た時は「ハンドルとは大げさだなー」と思っていましたが、ユニットをバッフルに取り付ける段になってハンドルに随分助けられました。コレがなければ二人がかりでもユニットの取り付けには難渋しそうですね。

 次にコーン紙が違います。48gと515より軽量ですが、腰の強い丈夫なコーン紙です。
 流石に寄る年波には勝てず、ベンプレ親父が入手した2080-Aは一部エッジの補修がされていますが、繊維の長い特殊な和紙を使って丁寧に補修してあり、追加重量は最小限になっているため音質を損なうことは無いと思います。

 見てすぐ判るのはコーン紙の裏側、フレームとの間に羊毛フェルトが入っている事でしょう。
 これは音を聴いて決められたダンプ材だと思いますが、コーン紙の保護にも一役買っている筈です(未確認情報ですが、後にウレタンでダンプしてあるものも発売されたらしいです)。

 写真ではわかりませんが、中をのぞき込むと蝶型ダンパーの裏面にも羊毛フェルトが入れてあり、ダンプされています。
 同様に音を聴いて仕込まれたのでしょうが、やはりダンパーの保護に役立つと思われます。

 ここから先はベンプレ親父には判りませんが、先輩からの口伝に依りますと、ボイスコイルが違うそうです。ボイスコイルは515より細く、ターン数は515より多いそうです。
 中高音の細かい音を出すためには、このボイスコイル径と巻き方がポイントとの事でした。
 センターキャップの裏側にマス・コントロールリングが入っているとのネット情報もありましたが、これは裏が取れていません。

 アルテック515と515Bもボイスコイルが異なり、音の違いをもたらす要素になっている様です。どちらもエッジワイズ巻きですが、ボイスコイル長が515Bは6mm、515は10mm。
 よく判らないのですが、515Bはシングルターンで515はダブルターンとか。要するに巻き方も違うらしいです。  そのためなんでしょうか、515Bのインピーダンスは公称16Ω、DCR11Ωに対し、515は公称20Ω、DCR8Ωです。

 2080Aのインピーダンスは16Ωとも20Ωとも言われますが、まあ、クロスオーバー周波数でのインピーダンスでなければ意味が無い事ですから、気にしないでおきましょう。
https://91683924.at.webry.info/201604/article_12.html

晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その6.)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_13.html

画像
https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/008/146038312493556275180.jpg.html

 アルテック210エンクロージャーから515を外し、2080-Aを装填したところです。
 この時気が付いたのですが、アルテック515、515Bにはボルトを貫通する穴が8個開けてあるのに対し、2080-Aは4個なんですね。
 
 210側に開いているボルト孔は4個なので、別に困りはしませんが、515(11.8kg)より3.6kgも重い15.4kgの2080-Aが4個とはこれ如何に。別にキッチリ止まるので問題ないですが。

 バッフルへの装着はベンプレ親父、ベンプレ息子、ベンプレ妻の3人がかりで行いました。妻は懐中電灯係り兼ボルト等のパーツ渡し係り。息子はユニット保持係り。私はユニット保持兼ボルト回し係りで作業を勧めました。

 先輩から、「515とは重さが違うのでカクゴするように。手で保持しただけではボルト絞めの最中にユニットを取り落とさないとも限らないので、あらかじめ細いボルトをユニットとバッフル孔に通して仮固定し、作業を進めると良い。一人で作業する事は禁忌」とアドバイス頂き、作業用の細いボルトまで頂きました。
 2080-A、イヤ重かったです。体感上はアルテックの2倍くらいに感じました。先輩のノウハウが無ければ大惨事が起きていたかも・・・

 先に書きましたが、装着時に前面フレームの厚みが515より厚い事に気が付きました。ボルトが210側のナットに少ししか掛からないため、安全のために後日、東京・虎ノ門の三和鋲螺で515装着時のボルトより0.25インチ長いステンレスボルト(0.25インチ径、1.5インチ長)を仕入れて取り換えました。
 ボルト長の調節とユニットのフレーム保護のため、薄いワッシャーも噛ませました。
 これでユニットの装着は更に完璧ですw

 コード類は515使用時のものを流用しました。メインのスピーカーコードはウェスタンエレクトリックの10GA、2080-Aをパラ接続するための内部配線はベルデン8707です。
 どちらもメッキ線ですので、長期使用にも安心ですね。

 2080-Aは古い物なので、ハンドルの留めネジやフレームのネジに一部サビの浮いている所があります。あまり神経質にサビ取りをすると却って調子を狂わしそうなので、CRC5-56で簡単に拭き取る程度にしておきましたが、スピーカーターミナルのコードを咬み込む面だけは綿棒を使って念入りに清掃しておきました。

 さて、2080-A二発を納めるウェスタンエレクトリック・ロンドン製のエンクロージャーは先の伊藤喜多男先生のイラストの様に2084-Cですが、流石にこの箱は探せませんので、515を装着していたアルテックの210を流用しています。サイズは同一だと思われ、ホーンやバスレフダクトも同じ形状です。

 しかし全て同じではないようで、イラストが間違いないとすると、2084-Cには210にあるウィングを固定するための片側2本の腕木が省略されている様です。
 また、210の裏蓋は文字通りエンクロージャーの裏にしかありませんが、2084-Cのイラストでは「SIDE ENTRY」との記載があり、ここにも蓋が付いている様です。もしかするとユニットの取り付けが容易なようにコの字型の裏蓋にしてあるのかもしれませんね。

 イラストでは判りませんが、エンクロージャーの材質も違うはずです。210は当初オール米松合板、後に米松とパーチクルボードの混成になりました。
 2084-Cは英国製ですので、米松ではなく、バイタボックス・バスビンと同じくフィンランドバーチが使われていたのではないでしょうか。
 バーチ合板は米松合板より硬く、重く、響きもコツコツとした高音寄りの音なので、出てくる音もより締まった音だと思います。

 しかし2084-C、現存品が存在するのか否か不明ですし、そこまで望むのも欲が過ぎるでしょう。バーチ材で箱屋さんに作ってもらう事は可能でしょうが、オリジナルでない箱に入れても2080-Aが却ってモッタイナイ気がします。

 なお2084-Cの塗装はアルテックと同じグレーだと思います。ステレオサウンド53号のザ・スーパーマニアのページにジーメンス・オイロダインと一緒にアルテック825タイプのロンドン・ウェストレックス・スピーカーを使っている方が登場されています。
 この箱は825ではない事は確かな様で、ロンドン特有のサイドエントリーが有りますが、その写真を見ると箱の塗装はグレーです。
 写真なのではっきりした事は判りませんが、アルテックより少し明るいグレーの塗装ではないでしょうか。
 但しこの写真のロンドン・ウェストレックスの箱、キレイすぎるので再塗装かもしれません。バスレフポートから覗く吸音材が羊毛ではなく、最近の白いサーモウールの様に見えますので。

 この箱の型番は書いてありませんでしたが、2081-Aでは?
 という事は、もしかすると210エンクロージャータイプの2084-Cも日本に在るのかもしれませんね。
https://91683924.at.webry.info/201604/article_13.html


晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その7.)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_14.html


画像
https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/008/146038332219377223177.jpg.html

 アルテック210エンクロージャーの換装が完了した2080-Aです。とは言っても外観では殆どアルテック515装着時と区別が出来ません。センターキャップのエア抜き穴を蓋っているメッシュ布の色が茶色であること位でしょうか。
 コーン紙は515よりやや黒っぽい色です。
 
 210エンクロージャーには当初アルテック515B前期型、その後同社515、この度ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aと2年足らずで3代目のユニット交換となりました。
 515Bも515も不満があったわけではないのですが、より良い音を求めるうちに2080-Aまで来てしまいました。

 ウェスタンエレクトリックといえば、555、594のドライバー(レシーバー)、597ボストウィックツィーター、ジェンセンのOEM、TA4181ウーハー辺りが一番有名です。私はどれも聴いたことが無いのですが(聴いたことが有るのはWE713だけ。515ウーハーの上に使っておられました)、これらの素晴らしさを語る人は多く、それなりの良さはあるのでしょう。

 しかし私はこれらの米国ウェスタンエレクトリックに少し疑問もあります。
 ジェームス・バロウ・ランシング(JBL)の伝記を読むと、ウェスタンの音響に不満のあったMGM映画が劇場用スピーカーを開発し、ランシング社のスピーカーユニット(15XSウーハー、284ドライバー)を用いたシャラーホーン・システムを完成させました。
 これが極めて優秀で、映画芸術科学アカデミー賞を受賞し、MGM系列の映画館ではウェスタンに取って代わったと言われています。

 してやられたウェスタンエレクトリック社ですが、このランシング社ユニットの優秀性に目を付けたようです。
 ウェスタン後継のアルテック社は、財務担当者が飛行機事故で亡くなって後、経営難に陥ったランシング社を吸収合併し、アルテック・ランシングと社名を変更しました。
 ここでJ.B.ランシング副社長の指揮のもと製造されたのが515や288ですから、これらは旧型ウェスタンより上という論法も成り立たないとも言えません。
 まあ、555も聴いたことが無いのに何を言っても始まりませんがねw

 また耳の良さでは数々のエピソードを残した五味康介氏の実家は戦前戦中に興行師を営んでおり、経営する映画館ではウェスタンを使用していたそうです。
 五味氏が復員した時、「ご自慢のウェスタンも塵埃に化していた」と嘆き、「この様にして失ったものを二度と見たくない」と氏は書き残しています。

 五味氏は戦後、音楽を聴くために小説家になり、当初グッドマン、その後テレフンケン、そしてタンノイ・オートグラフにたどり着きますが、一度として米国ウェスタンに帰ろうとはしませんでした。

 確かに「二度と見たくない」と書いてはいますが、「良い音のためには女房を質に入れても手に入れる。私はそういう人間だ」とも書いています。
 つまり、五味氏はそこまでウェスタンエレクトリックの音を評価してはいなかったのでしょう。

 私は米国ウェスタンエレクトリックの旧型スピーカーよりもウェスタンエレクトリック・ロンドンに興味がありました。
 若いころから英国製スピーカーが好みで、学生の時からタンノイ、その後バイタボックスをメインに使用していましたから。

 米国ウェスタンを打ち破ったランシング社が後にアルテック・ランシング社として開発した515、288をイギリスの技術者が改良したのが2080-A、2090-Aですから、ここに興味が集中するのも私には無理からぬところなんですね。

 実はウェスタンエレクトリック・ロンドンの音響機械は結構日本にも設置されていたらしいです。なんでも米国ウェスタンエレクトリックよりリース代金が安かったからとか。
 確かにイギリス人は吝嗇で、アメリカやヨーロッパ大陸と異なり、カネに糸目付けない製品やバカ値の物は作りませんからね。
 この辺りも私の趣味に会います。

 それから内緒の話を一つ。
 伊藤喜多男先生は「米国ウェスタンよりロンドン・ウェスタンの方が音が良いんだ」と言ってたらしいです。伊藤先生が公式にそう発言すると影響が大きすぎますから、内緒の話です。
 伊藤先生は既に物故されていますので、もはや裏は取れません。伝説です。
 
 氏はウェスタンエレクトリック・ロンドンのスピーカーに関しては誠文堂新光社発刊の「続・音響道中膝栗毛」のp98に『英国のウェストレックスから種々な装置が入って来て、主に関西と中部地区に設置された。これらは相当な銘機であって、殊に2080及2090型のステージスピーカーは抜群なものであった。』と書き残すのみです。
https://91683924.at.webry.info/201604/article_14.html

晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その8.)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_15.html


 アルテック210エンクロージャーに2080-Aを装着し、過去に使用した515、515Bの周波数特性と比べてみました。
 計測した日時も、マイクを置いた位置も異なりますので、参考程度にしかなりませんがw
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 低域アルテック210+ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-A×2、高域アルテックH1505+288Bの周波数特性です。スピーカーが大きいので測定は軸上1mではなく、約4m離れた聴取位置のF特です。

 アッテネーターの目盛りは515を装着していた時から動かしていませんので、能率は515と変わらないと思います。低域は60Hz辺りまでフラットに再生する様です。
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 写真はアルテック515+288BのF特です。低域再生は50Hzまででしょうか。
 60Hz辺りにワンピークあるので、それ以前に使用していた515Bより低域が豊かに聴こえていました。
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 こちらは515B+288BのF特です。低域の再生レンジは40Hzと515より更に下まで伸びており、515の様な低域のアクセントが無いF特ですね。

 F特グラフに示すまでもなく、515BのF₀は25Hz、515は45Hz、2080-Aは55Hzとユニットを変えるたびに低域の再生限界は狭くなっているのですが、再生帯域のフラットネスでは2080-Aが最も優れている様です。
 聴感上は515の低域が一番豊かに、2080-Aの低域が一番自然に聴こえます。

 最初に使用した515Bも凡百のスピーカーと比較すると音の立ち上がり、立下りの速いハイスピードなウーハーですが、レスポンスの速さでは515には敵いませんでした。515を聴いた後では、「やはり電機の音だったなぁ」と思います。

 2080-Aは515以上にナチュラルで、自然の音、生の楽器の音に近いです。楽器の発する音を鳴らすだけではなく、ホールトーンを見事に再現しますので、録音現場に立ち会っているかのようです。もはや反応が速いとか遅いとかを意識させない音です。

 古いスピーカーですから、写実的な音ではなく、油絵の様な音かと想像していましたが、全く違いました。

 濃い味、薄味、柔らかい音、豊かな音、鋭い音を余裕で鳴らし分けます。「再生装置」として、実に完成度が高いスピーカーだと驚きました。
https://91683924.at.webry.info/201604/article_15.html


晴耕雨聴 2016年04月11日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(そ9.最終回)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_16.html

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https://91683924.at.webry.info/upload/detail/013/416/33/N000/000/008/146038385575768194179.jpg.html

 完成したウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-A×2+アルテック210エンクロージャー、アルテック288Bドライバー+H1505ホーンの外観です。

 音が鳴り始めてすぐ、我が家のオーディオ評論家、ベンプレ妻に聴かせましたが、「ビックリする位自然な音ね」、「前のよりずっと良いわ」、「何の調整もしないでいきなりこの音ってのは、凄いんじゃない?」、「いつまで聴いても疲れない音よね、自然だから」と絶賛の嵐です。

 妻は515と2080-Aの交換に立ち会い、帰り道に「二人でゴミの物々交換をしてるのね」と冷笑していましたが、音を聴いて目を丸くしていました。
 「古臭くなんて全然ないわね。濁りの無い音よ」とも。

 妻はオーディオには興味も知識もありませんが、ヘンな先入感や期待感が無い事から、かえって良い物は良い、悪い物は悪いとハッキリ指摘します。
 音の印象が私と異なった事はまずありません。

 今回ほど妻に音を絶賛された事はありませんでした。私も、これはもう、ベンプレ亭書斎で鳴った過去最高の音だと思います。
 特にここまでホールトーンの美しいスピーカーは聴いたことが有りません。余韻の出方が群を抜いていると思います。

 うーむ、こうなるとドライバー、ホーンもウェスタンエレクトリック・ロンドンが欲しくなりますね。
 
 それにしてもウェスタンエレクトリック・ロンドンを私の手で鳴らすことが出来る日が来るとは、夢にも思っていませんでした。これはワルハラ城に住まう神々の世界のスピーカーで、俗人であるベンプレ親父の近付けるものではないと・・・
 先ほどもほっぺたをつねり、夢ではない事を確かめたばかりです。

 もうこれで死ぬまでウーハーはコレ、2080-Aで決まりです。憧れの名器ですから大事に大事に使います。
 一日でも長く聴けるように長生きしないとね。
 それから70歳でリタイヤし、一日中聴ける日が来るまで難聴になりませんように。

 2ペアの2080-A、新品で入手した最初のオーナーはもう鬼籍に入られた事でしょう。
 私の手元にこれらがあるのは、ベンプレ親父がまだクタバッテいないからです。
 以前、茶碗の収集家の話を読んだことが有ります。
 「名器を手に入れるには、所有者が死んだらすぐに駆けつけ、ブツをかっさらって来る事。つまり長生きした者の勝ちだ」

 私も長生きして、もう暫くは「かっさらう」側でいたいです。もちろん私が死んで、私の所有物が欲しい人がおられましたら「かっさらい」に来てくださいね。ベンプレ妻にも協力するように言っておきます。

 これで「ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-A導入記」を終わります。
 なんだかもう、ベンプレ親父は涅槃が見えた気がしますぞ。
https://91683924.at.webry.info/201604/article_16.html

晴耕雨聴 2016年04月13日
ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-Aを導入しました(その10.追加稿)
https://91683924.at.webry.info/201604/article_17.html

 一昨日、ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080-A導入記、その1.〜その9.をブログにアップしましたが、先輩からメールで追加情報を頂きましたので追加稿としてアップさせて頂きます。

1.ウェスタンエレクトリック・ロンドンの日本導入に関する当方のブログ内容
  「実はウェスタンエレクトリック・ロンドンの音響機械は結構日本にも設置されていたらしいです。なんでも米国ウェスタンエレクトリックよりリース代金が安かったからとか。」

 【先輩の情報】
 『WEロンドンが日本の各地で使われたのは、何と言ってもフィールド型からパーマネント型の15インチと高能率ドライバーと小さなHornでよりコンパクトなシステムであったため、田舎でも導入しやすかったようです。加えて、WE時代から引き継がれた故障したら興行収入を全額補償する「安心のレンタルシステム」もあったからと言われています。何せ、県庁所在地の○○市よりより田舎である△△市の方が10館あった中で5館が導入していましたから…』
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 音響道中膝栗毛に載せてあった、伊藤喜多男先生の手書きの表(ベンプレ親父の生まれる丁度1年前、1957年12月のウェスタン設営館リスト)を写真に撮ってアップさせて下さい。

 愛知県や岐阜県は特にウェスタンエレクトリック常設館が多かった様ですね。名古屋は嫁入り道具が豪華な事では日本一ですから、映画館も道具に凝るのかな?
 それに引き換えベンプレ親父在住の兵庫県は、神戸の2館だけで恥ずかしいかもw

2.ウェスタンエレクトリック・ロンドン2080のフェライト化に関する当方のブログ内容
 「このスピーカーのイラストは1954年製と書かれているのですが、ウーハーが既に2080-Fというフェライト型に変更されています。」

 【先輩の情報】
 『2080ですが、フェライトの導入はずいぶん後だと聞いております。モデルで言うと2080E,2080F,2080Gで〜中略〜不思議なことに2080Hではアルニコモデルに戻されています。』

 どうやら1954年に既にフェライト化されていたというのは間違いの様です。伊藤喜多男先生のイラストに書き込んである年号が誤りなのかもしれません。

2.2080-Aのマスリングに関する当方のブログ内容
 「センターキャップの裏側にマス・コントロールリングが入っているとのネット情報もありましたが、これは裏が取れていません。」

 【先輩の情報】
 『マスリングが装着されていたのは2080EとFだと言われています。(2080Hは)マスリング、付いていませんでした。』

 2080-Aにはマスリングは付いていないようですね。

3.2080-AのOEM先に関する当方のブログ内容
 「ウェスタンエレクトリック・ロンドンの製品が英国のどこの工場で作られたのかは、確定的な話がありません。
 同じシアターサプライを手掛けている事からバイタボックスが一枚噛んでいるらしいとか、工場の規模はグッドマンが最大だったのでココだろうとか、いや、創業者のガイ・ルパート・フォンテーンが昔ウェスタンエレクトリック・ロンドンに勤めていた関係で、タンノイが協力したという説もあります。
 私はウーハーに関してはバイタボックスのOEMではなかったかと推測しています。それは1954年に既に2080はアルニコ磁石からフェライト磁石に変更されているからです。」

 ※上にも書きましたが、2080が1954年に既にフェライト化されていたというのは誤情報の様です。

 【先輩の情報】
 『Vitavoxのフェライトは、多分、ドイツにルーツがあるように思います。
大戦後、ロシアにもその断片が見られます。(フェライトでも良い音で鳴らせられる)
 2080の設計に関わっていたのはVitavox,、Wharfedal、Goodmans辺りでしょうか?映画館用ではBTHがありましたが、競争相手だったので交流は無かったのかと?』

 さらに下の一文も頂きました。
Westrex (London) was born out of the anti trust laws that resulted in ITT acquiring the european divisions of AT&T's corporate empire. In the UK, Standard Telephone & Cables (STC) continued manufacture of Western Electric products (555, 497a etc) under licence, still badged as Western Electric. From the 50's on, the sound equipment was badged as Westrex and possibly due to the demise of the field coil and WE getting JBL to manufacture an Alnico version of the 594a, the JBL 2440, Westrex (London) turned to Altec and produced the 2080 and 2090 drivers which were effectively re-engineered versions of the Altec 515 and 288 drivers but with much better build quality.

 どうやらウェスタンエレクトリック・ロンドンも555を生産してたようですね。
 この文章を書いた方もロンドンの2080を515より高く評価していた様で、なんだか嬉しいです。

 さて、米国ウェスタンエレクトリックに比べてウェスタンエレクトリック・ロンドンの情報はとても少ないです。
 このブログをご覧になった方で情報をお持ちの方は、コメント欄に書き込んでいただけますと有難いです。


この記事へのコメント

shunsuke
2016年04月13日 21:49

情報、何も持っていないのですが・・・

1.に関して
確かにWE・ロンドンは、結構日本にも設置されていたらしいですね。「続・音響道中膝栗毛」と同じ文章なのかも知れませんが、以下、伊藤喜多男氏の「うえすたん物語」よりの抜粋です。

「其の他英国のウェストレックスから種々な装置が入って来て主に関西地区と中部地区に設置されたが、これらは相当の名機であって、殊にラウドスピーカーが絶品であった。東京地区のシネマスコープの増設が終わってから、この英国ウェストレックスが輸入された関係で、東京地区には殆ど英国ものは設置されていない。」

田舎に設置されたのは(笑)、上記のような、遅れて入って来たという理由もあったようですね。

2080-A の評価に関しては、東洋ウェスターン電気に勤務されていた永井克正氏の「ウェスタン・エレクトリック、栄光の系譜〜トーキーの現場から」の中でも、以下のように語られておりました。

「かつての栄光が薄らいだとはいえ、その系譜を受け継いだウェストレックスの名品がある。ウェスタン・エレクトリック・ロンドンである。イタリアやインドでも作られるようになったウェストレックス・システムであるが、イギリス・ロンドンで作られた2090-A中・高域レシーヴァーと2080-A低域レシーヴァーは、ウェスタン・シアターサプライの最後の銘器といえるものである。」


shunsuke
2016年04月13日 21:50

3.に関して
ヴァイタボックス、グッドマン、タンノイ、ワーフェデールの他にも、ローラ、パルメコ等、諸説ある中、あくまで推測になるのですが・・ヴァイタボックスやタンノイは必要生産量に対する供給システムがまだ確立されておらず、とりあえず生産に関しては、やはり大規模なラインを有していたグッドマンではなかろうか?と考える方が多いようですね。果たして真実は?

あと、NEC版555が555Mであるように、WE・ロンドン版555が、T字型アルニコ・マグネットを採用した3015B、C、E になるのでしょうかね。「管球王国」Vol.67で555系振動板を採用したドライバーの試聴テストやってました。ご参考まで。

ベンプレ親父
2016年04月13日 22:57
shunsuke様、情報有難う御座います。

先ほど管球王国No.67引っ張り出してみました。30150B、ウェスタンエレクトリック・ロンドンの555、出ていました!!
2013年当時は自分がウェスタン物に縁が出来るとは思っていなかったので読み飛ばしていました。
有難う御座います。

記事を見るとずいぶん熱い音の様ですね。それにWE555の3倍はありそうな巨大なユニットですね。


ベンプレ親父
2016年04月18日 09:50
shunske様

済みません。コメント二本頂きましたのに、うっかりして1本しか掲載していませんでした。
伊藤先生の講演、徳島にあったシュミットで一度だけ聞きました。
口は悪いが優しい方でした。たぶんテレ屋だったのでは?
https://91683924.at.webry.info/201604/article_17.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1071.html#c18

[リバイバル3] 絶対に買ってはいけない アルテック VOICE OF THE THEATER A5・A7 中川隆
20. 中川隆[-11557] koaQ7Jey 2020年9月01日 17:18:21 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[32]
キット屋コラム「私のオーディオ人生」第28回 オーディオのパラレルワールド
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-028


 今回はオーディオのパラレルワールドになります。テレビで大人気であったドラマ「仁」の中で南方医師が江戸にタイムスリップして現代に戻って来た時にパラレルワールドと云うセリフが出てきました、パラレルワールドとは今の世界と平行したもう一つの世界をパラレルワールドと云います。

オーディオで云うならば皆さんが使っているアルテック、タンノイ、JBLや現代の代表的なスピーカーは一般的な(A)の世界の音ですが(B)の世界はこのようなスピーカーとは隔絶したもう一つの世界の音である。


 私が聴いた限り上手く鳴らされていたウェスタンエレクトリックのカールホーンを使ったホーンシステム、オイロダインやロンドンウェスタン及び直系の音こそ現代のサウンドとは異なる次元の違う(B)の世界と云えよう、

では私が体験したもう一つのパラレルワールドの音の世界をご紹介します。

家庭用のシステムに収めたロンドンウェスタン2080A、2090Aの2Wayシステム
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-028


でこの音を聴くと米国ウェスタンとはベクトルが若干異なるが貴賓と渋さがプラスされた品位の高い音である。音質は一言で云うならば巷でよく耳にする枯れたサウンドとはこの音である。
 

 

ロンドンウェスタンの2080A、2090Aボックス内部の写真でスピーカーは強力なアルニコマグネットが使われている。ボックス内部と可愛いワンちゃんのツーショット写真
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-028

ロンドンウェスタン2080A、2090A

 最後に拝聴させて頂いたのは幻のスピーカーシステムでロンドンウェスタンだ、私が持参したいつもリファレンスで聴いているビバルディのヴァイオリンソナタのレコードが果たして私のシステムの音とどう違うのか本家の音とはどのような音なのだろうか、不安と期待が入り混じっていたのは間違いない、

 自分のシステムと比較した場合まったく異質な音であれば私のユニットはニセモノになってしまうか上手く鳴らせない力量不足になってしまう、

 早速聴かせて頂くと先程聴いたウェスタンの音とは多少音色も異なるのとスケール感も違う、目を瞑ってビバルディのヴァイオリンソナタをじっくりと聴くと音質、音色が同じイメージに重なり自分の家で聴いているような錯覚を覚えた、このロンドンウェスタンの音は言葉では云えない一種独特のサウンドで現代の一般的なHiFiサウンドとは異なりこれこそパラレルワールドの音だ、

 ヴァイオリンの響きは電気臭くない木の香りすら漂ってくるのがわかる。オーディオを追求していくと最後はこの音に魅了されるのは私だけではないはず、

    このロンドンウェスタンのサウンドを聴くと現代のHiFiサウンドは申し訳ないが長く聴いていると時間の経過と共につまらなくなり飽きが来てしまうがロンドンウェスタン系はオーディオマニア、音楽マニアを引き付ける魅力たっぷりのスピーカーと云えよう、ただこのような音を出すには相当レベルの高いアンプと高度なテクニックと肥えた耳を持っていないと上手く鳴らないのではないか、
 


三上先生に想う

 今回はオーディオのパラレルワールドをご紹介しましたが現代のシステムは駄目とは云わないが(B)の世界の音を聴くとオーディオ観も音楽観も変わるような気がする。私もヴィンテージ愛好家ですから先生とは大変意気投合出来たのではと思う、

 三上先生はもうお亡くなりになりました伊藤喜多男先生や池田圭先生と長年交流があったと云われています。またステレオサウンド誌、管球王国などに先生のシステムが紹介されオーディオ評論家も先生宅へ訪問されている。

 三上先生は私より三つ年が上ですが大変(懐の深い)方で私はこの方こそオーディオの師匠、先生、教授と云える「器」を兼ね添えている方だと思う、

 よくネットなどを拝見すると達人とか師匠、教授、先生と呼び名がついているコラム、ブログを時々見ますがこの方たちは本当に音がわかってそのような呼び名でやり取りしているのだろうか疑問に思うこともある。オーディオに関してはレベルの高い方が沢山いますからそのような方が読まれたら馬鹿にされるか笑い者になるだけですからその辺を弁えないと恥ずかしい思いをするのではないだろうか、

 また真空管アンプ等は自由自在に設計製作が出来てオーディオのすべてを知り尽くしてその呼び名が付いているのなら納得する。

 私は小さな「器」しか持ち合わせていないマニアです。先生、師匠、達人、教授と云われている方達がどれ程の「器」なのか見せて頂きたいものである。
 


あとがき

 三上先生宅で特に良かったのは可愛い3匹のワンちゃんが私になつき傍で音楽を聴きながら居眠りをしていたのが音よりも印象に残りました、ワンちゃんも良い音はわかるんですね、

 今回はオーディオのパラレルワールドを題材にしましたが皆さんも是非このパラレルワールドのサウンドを体験されると面白い、

 ヴィンテージショップなどでウェスタンやその他ヴィンテージスピーカーを鳴らして店主は能書きばかりでまともに良い音で鳴っていないのが多いのとすべてヴィンテージスピーカーだからパラレルワールドのサウンドと思ったら大間違いである。やはりマニア宅で上手く鳴らされているのを聴くのがベスト、「百聞は一聴にしかず!」

 確かにオーディオは進歩しているが最終的に判断するのは聴く人の感性と鳴らし方ではなかろうか、またパラレルワールドのサウンドは装置を忘れてじっくりと音楽が聴ける。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-028

▲△▽▼


キット屋コラム「私のオーディオ人生」第27回 ロンドンウェスタンの試聴
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-027


 今回は幻のスピーカーと云われるロンドンウェスタンを題材に取り上げます。  


ロンドンウェスタン

 米国がウェスタンエレクトリックなら英国はロンドンウェストレックス、ドイツはクラングフィルムになります。

一口に云ってロンドンウェストレックス(ロンドンウェスタン)はアメリカのウェスタンエレクトリックとは多少異なります。

初期のロンドンウェスタンはアメリカ本国よりシステムを持ちこんでスタートでしたが英国の国策として海外からの輸入に制限を設けたためこのシアターシステムも対象になりロンドンウェスタンのシステムは自国での設計生産になったと思われる。
 

私が聴いた三上先生のロンドンウェスタンオリジナル
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-027


ロンドンウェスタン直系スピーカー

 初期のロンドンウェスタンは多分米国ウェスタンの改良型を使用したシステムでしたが私の憶測と情報ではその後ウェスタンエレクトリックからのシステムの供給はやめてイギリス本国での製品開発が行われたと推測されます。英国はアメリカと違って大変保守的なお国柄で海外から輸入するよりも自国で開発して販売する方法を取っていた、

 日本や米国と違ってロンドンウェスタンの立ち上げに当たってイギリス国内のスピーカーメーカーの第一線級のエンジニアが集まってロンドンウェスタンをスタートさせたと思われる。当時のスピーカーメーカーと云えばシアター専門のヴァイタボックス、民生用のグッドマン、ローラ、タンノイ、パルメコ等メーカーのエンジニアが共同開発に当たったのではないだろうか、この辺が米国のメーカーや日本のメーカーとは事情が異なる。

 開発終了に伴い英国本土のすべてのシアターに供給するには生産量が問題になってくる。当時はヴァイタボックス社やタンノイ社では絶対数の生産ラインの供給システムがまだ確立されていなかった、

 当時のスピーカーメーカーではグッドマン社が大掛かりな生産ラインを有していたから多分ユニットはグッドマン社が中心となって製造していたのではないだろうか、

 当時の技術集団が開発した初期モデル(1950年代)のスピーカーユニットはすべてロンドンウェスタン直系のスピーカーになるので音質音色は同じである。またロンドンウェスタンのシステムには低域用にグッドマン、高域用はタンノイ、ケリー、ヴァイタボックスなどでの組み合わせによる混成システムが多かったのでは、

 実際ロンドンウェスタンの2080,2090Aのシステムとパルメコ、私が所有しているユニット等は音質や音色は良く似ており私が聴かさせて頂いた三上先生宅のロンドンウェスタンと瓜二つの音に安堵感を覚えた、

 また米国のウェスタンエレクトリックはすべて業務用でしか販売されなかったがロンドンウェスタンは家庭用のシステムも販売されていたがほとんど日本には入って来なかったからロンドンウェスタンを含めてロンドンウェスタン直系のスピーカーは幻のユニットと云える。

 ロンドンウェスタンのスピーカーのサウンドは皆さんご存知のアルテック、JBL、タンノイ等のスピーカーと比較してまったく異なる音質、音色を持っているのがロンドンウェスタンの特徴でもある。私も沢山の英国ヴィンテージユニットを聴いてきたが今回手に入れたロンドンウェスタン直系のユニットはこれらの音とは違っていた、

 ロンドンウェスタンのパルメコは初代BBC放送局のモニタースピーカーに採用されていたが有名なアルテックの604Eと外観的に非常によく似ているが音質音色は全く違う、パルメコはもっと浸透力があり音味は大変美味しいエレガントな音ですがアルテックの604Eは残念ながら上手く調教された音を一度も聴いた経験がありませんので比較するのは無理かも知れません。

 またアルテックやJBLなどアメリカのスピーカーはジャズ向きと云われているがスピーカー開発者にとってこれはジャズ向きこれはクラシック向きとして設計はしていないはずですからやはり鳴らし方に問題がありそう、私の個人的な意見としてジャズが鳴ればクラシックも必ず鳴るはず、クラシックが上手く鳴らないのならジャズも鳴らない、ジャズが本当に上手く鳴れば大人のジャズサウンドになるはずだ、
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-027
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1071.html#c20

[リバイバル3] 絶対に買ってはいけない アルテック VOICE OF THE THEATER A5・A7 中川隆
21. 中川隆[-11556] koaQ7Jey 2020年9月01日 17:20:33 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[33]

ロンドン・ウエスタンの世界

Westrex London Acoustilens 20/80
これが究極のヴィンテージスピーカーであるらしい。2016年04月13日


伊藤喜多男といえばWesternの伝道師であり、自作アンプの大家として知られるのだが、


「カートリッジやアンプに凝る前に、まずスピーカーに情熱を叩きつけること、
それからが音に戯れる道が拓けるのである」

「デジタルであろうが、CDであろうがスピーカーが無ければ音にならないという
単純明快な事実を忘れてはならない。アンプはスピーカーを動作させるための
付属品であると思う位スピーカーを吟味する事だ」


と説いている。


「然らば如何なるメーカーのスピーカーが良品か問われても
製品によって異なるので回答することが出来ない」


としながらも、
「シーメンスのオイロダインとロンドン・ウエスターンの5010型システム(低域2080と高域2090)」
この二機種に格別な感情があると汲み取れた。


「狭い部屋で聴くには制限があり、ワイドレンジを求めるならコアキシアルで、
さもなければフルレンジがよい。劇場用のスピーカーは指定された箱に入れなければ
その性能を発揮しないに決まっている」としている。
Siemens Eurodynについて

「想像した以上の逸品である。それまでのスピーカーの音に対するイメージが
まるで狂ってしまう異質な音である。好きになれるものは狂い、
嫌いなものは外方をむく音である。本物の音を出せる音になんて出会わない。
つまり全部が虚構の音であり本物に紛うべく努力しているにすぎない」

「朝は五時半に起きて、正午には終わってしまう寸刻を争う仕事が好きである。
午後からは仕事がなく、好きな事をやれる勝手気儘な商売。遊ぶために働ける
稼業に魅力があった。遊びの方が本意という怪しからぬ魂胆であるのはいまも変わらない。
遊びたいために一所懸命で働くのである」

「ウエスターン・エレクトリックに入ってしまった事を顧みると、
わたしの廻りには専門家でもなく定職を持ってない人達がいかに
多かったことか 〜 専門的な教育を全然受けていない、
遊びに耽る事に邁進する人たちが、この世界を支えていた時代だったのである」

「音に凝り耳が冴え感覚が鋭敏になるほど、追究に励んで正常者と
異常者の分別が付かない人間になる。再生される音ばかりを
聞いていると再生音の比較に没頭して原音を忘却して聴覚が異常になる。
過ぎたるは及ばざるが如し、かもしれないが、限界がどの程度か、
正常と異常の差異ほどいい加減な物はない」

「各人は私がそうであるように自分だけは間違っていないと喚いて暮らしている。
精神異常者が正常者を評価できないのと同様、正常者が異常者を完全に評価できない。
正常者と思っている人間が異常者にされている人の数より多いということに
依存しているだけである」

「死ぬまで生きなければならない辛さ、人の為になっていると思ったら大間違い、

を受けた以上は知らぬ間に他人に迷惑をかけ通している。一人で暮らすのが一番楽しい。

孤独を味わうなどという雅なことではない。気兼をしない生活、人の顔色を覗わないで

済む日常生活は巨万の富より、美妓に囲まれる宴より私にとっては天国である。

そして美食(高価な料理ではない)だけは一生続けたい。それは独りで行える行動で

友を必要としないからである。よい装置で音楽を聴くのも友を必要としないし、

孤独で聴くのが最高の鑑賞法であるからこそ私の生き甲斐なのである。

大正十四年ラジオ放送開始以来自作に憂き身をやつして来たが未だに飽きない。

ペンチを持ったまま大往生を遂げたい」

Westrex London Acoustilens 20/80
これが究極のヴィンテージスピーカーであるらしい。2016年04月13日
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1071.html#c21

[リバイバル3] ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ 中川隆
60. 中川隆[-11555] koaQ7Jey 2020年9月01日 17:23:56 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[34]
伊藤喜多男といえばWesternの伝道師であり、自作アンプの大家として知られるのだが、


「カートリッジやアンプに凝る前に、まずスピーカーに情熱を叩きつけること、
それからが音に戯れる道が拓けるのである」

「デジタルであろうが、CDであろうがスピーカーが無ければ音にならないという
単純明快な事実を忘れてはならない。アンプはスピーカーを動作させるための
付属品であると思う位スピーカーを吟味する事だ」


と説いている。


「然らば如何なるメーカーのスピーカーが良品か問われても
製品によって異なるので回答することが出来ない」


としながらも、
「シーメンスのオイロダインとロンドン・ウエスターンの5010型システム(低域2080と高域2090)」
この二機種に格別な感情があると汲み取れた。


「狭い部屋で聴くには制限があり、ワイドレンジを求めるならコアキシアルで、
さもなければフルレンジがよい。劇場用のスピーカーは指定された箱に入れなければ
その性能を発揮しないに決まっている」としている。
Siemens Eurodynについて

「想像した以上の逸品である。それまでのスピーカーの音に対するイメージが
まるで狂ってしまう異質な音である。好きになれるものは狂い、
嫌いなものは外方をむく音である。本物の音を出せる音になんて出会わない。
つまり全部が虚構の音であり本物に紛うべく努力しているにすぎない」

「朝は五時半に起きて、正午には終わってしまう寸刻を争う仕事が好きである。
午後からは仕事がなく、好きな事をやれる勝手気儘な商売。遊ぶために働ける
稼業に魅力があった。遊びの方が本意という怪しからぬ魂胆であるのはいまも変わらない。
遊びたいために一所懸命で働くのである」

「ウエスターン・エレクトリックに入ってしまった事を顧みると、
わたしの廻りには専門家でもなく定職を持ってない人達がいかに
多かったことか 〜 専門的な教育を全然受けていない、
遊びに耽る事に邁進する人たちが、この世界を支えていた時代だったのである」

「音に凝り耳が冴え感覚が鋭敏になるほど、追究に励んで正常者と
異常者の分別が付かない人間になる。再生される音ばかりを
聞いていると再生音の比較に没頭して原音を忘却して聴覚が異常になる。
過ぎたるは及ばざるが如し、かもしれないが、限界がどの程度か、
正常と異常の差異ほどいい加減な物はない」

「各人は私がそうであるように自分だけは間違っていないと喚いて暮らしている。
精神異常者が正常者を評価できないのと同様、正常者が異常者を完全に評価できない。
正常者と思っている人間が異常者にされている人の数より多いということに
依存しているだけである」

「死ぬまで生きなければならない辛さ、人の為になっていると思ったら大間違い、

を受けた以上は知らぬ間に他人に迷惑をかけ通している。一人で暮らすのが一番楽しい。

孤独を味わうなどという雅なことではない。気兼をしない生活、人の顔色を覗わないで

済む日常生活は巨万の富より、美妓に囲まれる宴より私にとっては天国である。

そして美食(高価な料理ではない)だけは一生続けたい。それは独りで行える行動で

友を必要としないからである。よい装置で音楽を聴くのも友を必要としないし、

孤独で聴くのが最高の鑑賞法であるからこそ私の生き甲斐なのである。

大正十四年ラジオ放送開始以来自作に憂き身をやつして来たが未だに飽きない。

ペンチを持ったまま大往生を遂げたい」

Westrex London Acoustilens 20/80
これが究極のヴィンテージスピーカーであるらしい。2016年04月13日
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html#c60

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
50. 中川隆[-11554] koaQ7Jey 2020年9月01日 17:24:22 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[35]
伊藤喜多男といえばWesternの伝道師であり、自作アンプの大家として知られるのだが、


「カートリッジやアンプに凝る前に、まずスピーカーに情熱を叩きつけること、
それからが音に戯れる道が拓けるのである」

「デジタルであろうが、CDであろうがスピーカーが無ければ音にならないという
単純明快な事実を忘れてはならない。アンプはスピーカーを動作させるための
付属品であると思う位スピーカーを吟味する事だ」


と説いている。


「然らば如何なるメーカーのスピーカーが良品か問われても
製品によって異なるので回答することが出来ない」


としながらも、
「シーメンスのオイロダインとロンドン・ウエスターンの5010型システム(低域2080と高域2090)」
この二機種に格別な感情があると汲み取れた。


「狭い部屋で聴くには制限があり、ワイドレンジを求めるならコアキシアルで、
さもなければフルレンジがよい。劇場用のスピーカーは指定された箱に入れなければ
その性能を発揮しないに決まっている」としている。
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「想像した以上の逸品である。それまでのスピーカーの音に対するイメージが
まるで狂ってしまう異質な音である。好きになれるものは狂い、
嫌いなものは外方をむく音である。本物の音を出せる音になんて出会わない。
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「朝は五時半に起きて、正午には終わってしまう寸刻を争う仕事が好きである。
午後からは仕事がなく、好きな事をやれる勝手気儘な商売。遊ぶために働ける
稼業に魅力があった。遊びの方が本意という怪しからぬ魂胆であるのはいまも変わらない。
遊びたいために一所懸命で働くのである」

「ウエスターン・エレクトリックに入ってしまった事を顧みると、
わたしの廻りには専門家でもなく定職を持ってない人達がいかに
多かったことか 〜 専門的な教育を全然受けていない、
遊びに耽る事に邁進する人たちが、この世界を支えていた時代だったのである」

「音に凝り耳が冴え感覚が鋭敏になるほど、追究に励んで正常者と
異常者の分別が付かない人間になる。再生される音ばかりを
聞いていると再生音の比較に没頭して原音を忘却して聴覚が異常になる。
過ぎたるは及ばざるが如し、かもしれないが、限界がどの程度か、
正常と異常の差異ほどいい加減な物はない」

「各人は私がそうであるように自分だけは間違っていないと喚いて暮らしている。
精神異常者が正常者を評価できないのと同様、正常者が異常者を完全に評価できない。
正常者と思っている人間が異常者にされている人の数より多いということに
依存しているだけである」

「死ぬまで生きなければならない辛さ、人の為になっていると思ったら大間違い、

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孤独を味わうなどという雅なことではない。気兼をしない生活、人の顔色を覗わないで

済む日常生活は巨万の富より、美妓に囲まれる宴より私にとっては天国である。

そして美食(高価な料理ではない)だけは一生続けたい。それは独りで行える行動で

友を必要としないからである。よい装置で音楽を聴くのも友を必要としないし、

孤独で聴くのが最高の鑑賞法であるからこそ私の生き甲斐なのである。

大正十四年ラジオ放送開始以来自作に憂き身をやつして来たが未だに飽きない。

ペンチを持ったまま大往生を遂げたい」

Westrex London Acoustilens 20/80
これが究極のヴィンテージスピーカーであるらしい。2016年04月13日
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c50

[リバイバル3] 絶対に買ってはいけない アルテック VOICE OF THE THEATER A5・A7 中川隆
22. 中川隆[-11553] koaQ7Jey 2020年9月01日 18:03:36 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[36]

ALTEC 515 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=ALTEC++515

ヤフオク! -「altec 515」の落札相場・落札価格
https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch/altec%20515/0/

ALTEC LANSING ウーファーユニット一覧 アルテック ランシング
https://audio-heritage.jp/ALTEC/unit/index2.html

ALTEC LANSING 515B ※1966年発売
https://audio-heritage.jp/ALTEC/unit/515b.html

¥77,000(1台、1970年頃)
¥88,200(1台、1970年価格改正後)
¥90,300(1台、1976年頃)

アルテックの当時のウーファーラインナップの中で最も強力な38cmコーン型ウーファー。

磁気回路の構造はホーンロード向きに設計されており、特にフロントロード型の825B(A7)キャビネットに装着することでスケールの大きな重低音再生が可能です。



機種の定格

型式 38cmコーン型ウーファーユニット
周波数特性 20Hz〜1kHz
最低共振周波数 25Hz
インピーダンス 16Ω
定格入力 35W
許容入力 50W
出力音圧レベル 105dB/W/m
磁束密度 14,750gauss
推奨クロスオーバー周波数 500Hz
外形寸法 直径389x奥行197mm
重量 11.8kg
https://audio-heritage.jp/ALTEC/unit/515b.html


ALTEC LANSING 515C 価格不明(1台、1979年発売)
https://audio-heritage.jp/ALTEC/unit/515c.html

38cm口径のコーン型ウーファーユニット。

磁気回路にはアルニコV型の強力磁気回路を採用しています。



機種の定格

型式 38cmコーン型ウーファーユニット
インピーダンス 16Ω
許容入力 75W
出力音圧レベル 104dB(新JIS)
周波数特性 20Hz〜1kHz
最低共振周波数 25Hz
ボイスコイル径 76mm
外形寸法 -
重量 12.4kg
https://audio-heritage.jp/ALTEC/unit/515c.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1071.html#c22

[近代史5] アナトリア半島人の起源
アナトリア半島人の起源


雑記帳 2019年03月20日
在来の狩猟採集民により始まったアナトリア半島の農耕
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_32.html


 アナトリア半島を中心とした農耕開始前後の人類集団の遺伝的構成に関する研究(Feldman et al., 2019A)が報道されました。農耕はアジア南西部の肥沃な三日月地帯で紀元前10000〜紀元前9000年頃に始まり、その後ユーラシア西部の広範な地域へと拡大し、アナトリア半島中部には紀元前8300年頃に到達しました。農耕はアナトリア半島からヨーロッパへと拡散し、それは初期農耕民の移住によるものでした。アナトリア半島からの初期農耕民と在来の狩猟採集民とは、ヨーロッパで融合していきます(関連記事)。

 一方、肥沃な三日月地帯のレヴァント南部やザグロス地域(現在のイラク東部およびイラン西部)では、新石器時代への移行を通じて集団の遺伝的構造が持続し、在来の狩猟採集民が農耕を始めた、と推測されています(関連記事)。アナトリア半島中部は、肥沃な三日月地帯以外の地域では最も早く農耕の始まった地域なので、農耕拡散の様相を理解するための鍵となります。アナトリア半島の初期農耕民は、レヴァント南部およびザグロス地域の初期農耕民と遺伝的にはっきりと異なるので、アナトリア半島でも在来の狩猟採集民が主体となって農耕を始めた、と推測されます。

 じっさい、考古学的証拠からは、アナトリア半島中部らおける文化的継続性が指摘されていました。しかし、農耕前の人類集団の遺伝的データが欠けていたので、アナトリア半島の初期農耕の発展が移住者によりもたらされたのか、そうだとして在来の狩猟採集民との混合がどの程度だったのかは、明らかではありません。同様に、農耕開始前の近東とヨーロッパの狩猟採集民の遺伝的類似性も、アナトリア半島の狩猟採集民の遺伝的データの欠如のため、明らかではありません。

 これまでの遺伝学的研究は、近東集団がヨーロッパの狩猟採集民およびアジア東部集団と共通の外集団からの系統をかなりの程度有する、と示唆します。この非アフリカ系現代人系統における深い分岐系統はしばしば「基底部ユーラシア人」と呼ばれ、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団とは、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑前に分岐した、と推測されています(関連記事)。現代人集団において、この基底部ユーラシア人の遺伝的影響がユーラシア西部では強いため、アジア東部よりもネアンデルタール人の遺伝的影響が小さくなっている、とも推測されていますが、基底部ユーラシア人による「希釈」効果は大きくなかった、との見解も提示されています(関連記事)。

 14000年前頃以降のヨーロッパの狩猟採集民は、それ以前のヨーロッパの狩猟採集民よりも、現代の近東集団との遺伝的類似性が増加する、と示されていますが、この類似性がどのように形成されたのか、よく理解されていません(関連記事)。後期更新世のヨーロッパにおいて、文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連する集団系がイベリア半島も含めて広範に存在しており、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2(Goyet Q-2)個体に代表されます。その後、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表される系統が、マグダレニアン集団(ゴイエットQ2)系統をほぼ置換した、と推測されています。しかし、イベリア半島においては、ゴイエットQ2系統も存続した、と指摘されています(関連記事)。

 本論文は、末期更新世〜前期完新世にかけてのアナトリア半島とレヴァント南部の人類遺骸の新たなゲノム規模データを報告しています。このうち、直接年代測定された紀元前13642〜紀元前13073年頃のアナトリア半島の狩猟採集民のゲノム規模データは、アナトリア半島の続旧石器時代のものとしては最初となります。この他に、紀元前8300〜紀元前7800年頃となる5人の新石器時代アナトリア半島農耕民、1人の紀元前8269〜紀元前8210年頃のトルコの農耕民、紀元前7700〜紀元前7600年頃および紀元前7027〜紀元前6685年頃の2人のレヴァント南部の農耕民のゲノム規模データが報告されています。本論文はこれらの新たなゲノム規模データを、既知の587人の古代人および254人の現代人と比較しました。

 その結果まず明らかになったのは、アナトリア半島の更新世の続旧石器時代の狩猟採集民の遺伝的構成は、既知の他の後期更新世集団とは異なる、ということです。次に、アナトリア半島の初期農耕民は、遺伝的にはおおむね(90%ほど)続旧石器時代の狩猟採集民の遺伝的構成を継承している、ということです。残りの10%ほどは、新石器時代イラン・コーカサス集団系統に由来する、と推測されています。アナトリア半島における農耕は、考古学的証拠が示唆しているように、レヴァント南部ややザグロス地域と同じく、在来の狩猟採集民が主体になって始められただろう、というわけです。この後、新石器時代(先土器時代)のアナトリア半島では、レヴァント南部からの遺伝的影響を受け、その比率は20%ほどと推定されていますが、末期更新世〜前期完新世にかけての7000年の長期間、アナトリア半島では狩猟採集から農耕へと移行しても、遺伝的継続性はおおむね維持された、と本論文は指摘しています。ただ、アナトリア半島における狩猟採集から農耕への移行に関しては、均一でも必然的でもなかった、とも指摘されています(関連記事)。

 14000年前頃以降のヨーロッパの狩猟採集民における、それ以前と比較しての現代近東集団との遺伝的類似性の増加に関しては、とくに中石器時代のヨーロッパ南東部狩猟採集民において、アナトリア半島狩猟採集民との強い遺伝的類似性が指摘されています。本論文は、ユーラシア基底部系統の比率に関する分析の限界を認めつつ、アナトリア半島狩猟採集民から中石器時代ヨーロッパ南東部狩猟採集民の祖先への近東遺伝子流動だけでは、この類似性の説明には充分ではないかもしれない、と示唆します。本論文は追加の要素として、中石器時代ヨーロッパ南東部狩猟採集民の祖先からアナトリア半島狩猟採集民の祖先への遺伝子流動を想定しています。ただ、この過程を推測するには遺伝的データが欠如しているので、アナトリア半島とヨーロッパ南東部のデータの増加が必要とも指摘されています。

 狩猟採集社会から農耕社会への移行については、人類集団の移動と、それをあまり伴わないような農耕技術・概念の伝播のどちらが重要だったのか、各地で様相が異なっており、世界中を一律に論じられないのではないか、と思います(関連記事)。一般的に、アジア南西部のように近隣地域よりも早期に農耕の始まった地域では、在来の狩猟採集民が主体的に農耕を始め、近隣地域よりも農耕開始の遅れた地域では、ヨーロッパや日本列島のように、農耕集団の移住が大きな役割を果たす傾向にあるように思います。ただ、近隣地域よりも農耕の始まりの早いアジア東部の黄河流域や長江流域では、更新世の狩猟採集民と新石器時代の農耕民との間に置換があった可能性も指摘されています。アジア東部というかユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部よりもずっと遅れているので、今後の研究の進展により、現在のユーラシア西部並の信頼性で農耕開始の様相を推定できるようになるのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝学】アナトリア中部での農業の起源を探る

 1万5000年前のアナトリアの狩猟採集民のゲノム規模のデータを初めて示した論文が、今週掲載される。この知見は、「肥沃な三日月地帯」以外では最古の農耕コミュニティーのいくつかが存在していたアナトリア中部での農業の起源を解明する上での手掛かりとなる。

 農業は、紀元前1万〜9000年頃に西南アジアの肥沃な三日月地帯で始まった。その後、農耕技術は西ユーラシア全土に広がり、紀元前8300年頃にアナトリア中部(現在のトルコの一部)に到達した。しかし、その原因が、当時の近隣地域の農耕民が流入したことだったのか、地元の狩猟採集民が農耕技術を取り入れたことだったのかは、これまで明らかになっていなかった。

 今回、Johannes Krauseたちの研究グループは、アナトリアの狩猟採集民1人、新石器時代前期のアナトリアの農耕民5人、新石器時代前期の南レバントの農耕民2人のゲノム規模のデータを解析して、この地域に農業が出現した時期の遺伝的記録を作成した。その結果、新石器時代のアナトリア人の祖先の大部分を占めていたのが狩猟採集民であることが明らかになり、アナトリア中部の最初の農耕民が地元民であったことが裏付けられた。また、原始イラン人/白人、レバント人、南ヨーロッパ人との遺伝的連関も検出され、古代の遺伝子交換と技術交流の複雑な歴史が示された。Krauseたちは、こうした知見に基づいて、アナトリアは肥沃な三日月地帯からヨーロッパへ移動した原始農耕民にとっての経由地であり、地元の狩猟採集民はこの地でアイデアと植物と技術を入手し、農業で生計を立てられるようになったという考えを示している。


参考文献:
Feldman M. et al.(2019A): Late Pleistocene human genome suggests a local origin for the first farmers of central Anatolia. Nature Communications, 10, 1218.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-09209-7

https://sicambre.at.webry.info/201903/article_32.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/294.html

[近代史5] ブリテン島人の起源

ブリテン島人の起源


雑記帳 2019年04月16日
ブリテン島における新石器時代農耕民の起源
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_26.html

 ブリテン島における新石器時代農耕民の起源に関する研究(Brace et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパにおける初期農耕は、アナトリア半島起源の農耕民集団(エーゲ海集団)によりもたらされました。このアナトリア半島農耕民集団は、ヨーロッパで中石器時代以来の在来狩猟採集民集団とじょじょに混合していった、と明らかになっています(関連記事)。ただ、地域によっては混合・同化が早期に進行した、と推測されています(関連記事)。

 本論文は、ゲノム規模の解析により、ブリテン島における中石器時代〜新石器時代の人類集団の遺伝的構成を検証しました。年代は紀元前8500〜紀元前2500年で、中石器時代の6人と新石器時代の67人が対象とされました。ブリテン島における農耕の開始は紀元前4000年頃で、ヨーロッパ大陸部と比較して1000年ほど遅れています。まず明らかになったのは、中石器時代のブリテン島の狩猟採集民は、ヨーロッパ西部狩猟採集民集団と遺伝的に類似している、ということです。

 しかし、ブリテン島の新石器時代農耕民集団は、遺伝的にはおもにアナトリア半島農耕民集団起源で、中石器時代以降の在来の狩猟採集民集団との混合はほとんどなかった、と明らかになりました。また、ブリテン島の初期農耕民集団は遺伝的にイベリア半島の農耕民集団と類似しており、ブリテン島最初の農耕民集団が西岸で確認されることから、ブリテン島への農耕民集団の到来は、アナトリア半島からヨーロッパ中央部を経ての英仏海峡経由という最短の海路ではなく、より広大な航海距離を必要とする大西洋経路だったのではないか、と推測されています。

 また本論文は、石器時代におけるヨーロッパの人類集団の色素沈着水準も検証しており、かなりの多様性があった、と推測しています。1万年前頃のブリテン島の人類の肌の色は濃かった、と推測されています(関連記事)。しかし、ヨーロッパに農耕をもたらしたアナトリア半島農耕民集団の肌の色は中間的で、目は茶色だった、と推測されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


英国の新石器時代のヒト集団の起源

 ブリテン新石器時代のヒト集団は、イベリアの新石器時代のヒトと共通の遺伝的類似性を有しており、これらの集団と現地の中石器時代の狩猟採集民との間にはほとんど混血が生じていなかったことを明らかにした論文が、今週掲載される。この知見は、地中海沿いの経路をたどった大陸の新石器時代の農耕民によって、ブリテン島に農耕がもたらされたことを示している。

 ヨーロッパ大陸の農耕は、エーゲ系の新石器時代の農耕民とともに、2本の主要な経路を通って伝来した。一方は地中海沿いの経路、もう一方はヨーロッパ中部を経由してヨーロッパ北部へ向かう経路である。この拡大する集団は、途上で現地の中石器時代の狩猟採集民と混血した。ブリテン島では、紀元前4000年頃に新石器文化が出現しており、これはヨーロッパ大陸の隣接地域で農耕への移行が起こってからほぼ1000年後のことであった。しかし、ブリテン新石器時代のヒト集団の起源は、これまでよく分かっていなかった。

 今回Mark G. Thomas、Ian Barnesたちは、ブリテン島で発見され、紀元前8500〜2500年と年代決定された中石器時代の6個体と、新石器時代の67個体に関して、ゲノム規模のデータ解析を行った。その結果、ブリテン新石器時代のヒト集団は主にエーゲ系の新石器時代の農耕民の血を引いており、イベリアの新石器時代のヒトに近いことが明らかになった。また、ブリテン中石器時代のヒトと流入したブリテン新石器時代のヒトとの間には、実質的な混血の証拠がほとんど認められないことも判明した。ブリテン島では、この血統の変化は農耕への移行と共に起こっていた。ヨーロッパの他の地域とは異なり、農耕への移行は、現地の狩猟採集民との間に見いだされる混血には影響されなかった。著者たちは、ブリテン島とイベリアの間で認められる新石器時代のヒトの遺伝的類似性は、大陸の農耕民が主として地中海沿いの経路をたどってブリテン島に移住したことを示していると主張している。


参考文献:
Brace S. et al.(2019): Ancient genomes indicate population replacement in Early Neolithic Britain. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 765–771.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0871-9


https://sicambre.at.webry.info/201904/article_26.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/295.html

[近代史5] アシュケナージ系ユダヤ人の起源
雑記帳 2014年09月13日
アシュケナージ系ユダヤ人の起源
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_13.html


 アシュケナージ系ユダヤ人の起源についての研究(Carmi et al., 2014)が公表されました。この研究によると、アシュケナージ系ユダヤ人集団は800〜600年前頃にヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団が融合して出現したそうです。そのさいの遺伝子プールに占める両祖先集団の割合はほぼ同程度だった、と推測されています。アシュケナージ系ユダヤ人集団が形成された時期と近い頃に、集団ボトルネックが起きたようです。また、ヨーロッパ系祖先集団が最終氷期極大期の頃の22100〜20400年前に中東系祖先集団から分岐した時に、創始者集団のボトルネックが起きた、と推測されているようです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【遺伝】アシュケナージ系ユダヤ人のルーツ

 現代のアシュケナージ系ユダヤ人集団については、最近のいくつかの遺伝学的研究によって、特徴が明らかにされているが、今週掲載される論文によれば、この集団の出現は、約600〜800年前のことであり、ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団の融合の結果であった可能性が非常に高いとされる。

 過去の研究で、アシュケナージ系ユダヤ人は、他のユダヤ人集団と現代の中東系、ヨーロッパ系の人々に近縁な遺伝的に独立した集団とされていた。独立した集団には、独特な遺伝的特徴が見られることが多く、アシュケナージ系ユダヤ人の独特な遺伝的特徴の1つは、パーキンソン病、乳がん、卵巣がんなどの遺伝性疾患の罹患率が高いことだ。

 今回、Itsik Pe’erたちは、アシュケナージ系ユダヤ人の128件の完全ゲノムの高深度配列解読を行い、その結果を用いて、過去の研究によって報告されていた集団ボトルネック(集団内個体数の激減)があったことを確認し、それが25〜32世代前だったことを明らかにした。

 また、Pe’erたちは、現代のアシュケナージ系ユダヤ人が形成されたのが600〜800年前(集団ボトルネックが起こった時期に近い)で、ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団の融合によるものだったことを示すモデルを作成した。また、ヨーロッパ系祖先集団が20400〜22100年前(最終氷期極大期の頃)に中東系祖先集団から分岐した時に、創始者集団のボトルネックが起こったことも明らかになった。ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団のそれぞれの祖先も独自のボトルネックを起こしたことも判明し、それが「出アフリカ」事象に対応している可能性が非常に高いと考えられている。

 今回の研究は、ヨーロッパ人と中東人の歴史に関する手掛かりをもたらしているだけでなく、アシュケナージ系ユダヤ人集団の基準ゲノムを明らかにしており、これまでより容易に有害な遺伝的変異を同定できるようになった。


参考文献:
Carmi S. et al.(2014): Sequencing an Ashkenazi reference panel supports population-targeted personal genomics and illuminates Jewish and European origins. Nature Communications, 5, 4835.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms5835

https://sicambre.at.webry.info/201409/article_13.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/296.html

[近代史5] バイカル湖地域人の起源
バイカル湖地域人の起源


雑記帳 2020年05月27日
バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html


 シベリア南部のバイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史に関する研究(Yu et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。シベリアのバイカル湖地域には上部旧石器時代以来現生人類(Homo sapiens)が居住しており、豊富な考古学的記録があります。過去5年間で、古代ゲノム研究により、バイカル湖地域の人類集団における遺伝的変化と混合が明らかにされてきました。

 24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(MA1)に代表されるのが「古代北ユーラシア人(ANE)」で(関連記事)、旧石器時代にはシベリア全域に分布しており、多くの現代ユーラシア人とアメリカ大陸先住民に遺伝的影響を残しました。以前の研究では、ANE系統はバイカル湖地域では前期新石器時代に現代のアジア北東部人にほぼ置換されたと推測されており、ANE系統を間接的に有する集団の拡大による、前期青銅器時代におけるANE系統の「再起」は限定的でした。

 シベリアはまた、アメリカ大陸への拡散の複数回の波の起源地としても提案されてきており、その最初は25000〜20000年前頃に形成されたと推定されている創始者集団によるものでした。いわゆる古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)系統は、11500年前頃のアラスカの1個体(USR1)に代表され、この創始者集団の一部で、他のアメリカ大陸先住民系統とは23000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。シベリア北東部で発見された9800年前頃のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)は、アメリカ大陸外では最も密接にアメリカ大陸先住民集団と関連しています(関連記事)。

 古エスキモー系統を代表するグリーンランドの4000年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体は、シベリア北東部集団と分岐し、アメリカ大陸北極圏に6000〜5000年前頃に移住してきた、と推定されています。これらの移住の波は遺伝的に古代シベリア人集団と関連していますが、シベリア人の遺伝的歴史の文脈におけるその起源はまだよく理解されていません。アメリカ大陸先住民集団の形成をよりよく理解するには、古代ゲノムを用いてのシベリア人集団の歴史のさらなる研究が重要です。

 ユーラシアにおける新石器時代から青銅器時代への移行は、広範な集団移動により促進された複雑な文化的および遺伝的変化により特徴づけられますが、バイカル湖地域におけるその影響はまだ不明確です。西方では、ヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連したポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの前期青銅器時代集団が東西両方に拡大し、「草原地帯系統」と呼ばれる遺伝的影響を及ぼしました。この集団の東方への拡大は、前期青銅器時代にアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連している、と考えられています。

 しかし、ユーラシア草原地帯中央部の中期青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)文化関連集団は、草原地帯東部の後期青銅器時代のフブスグル(Khövsgöl)関連集団と同様に、草原地帯系統の割合は限定的です(関連記事)。したがって、ユーラシア東部における草原地帯系統の移住の効果、とくに青銅器時代バイカル湖地域の狩猟採集民と同時代の地理的に近いアファナシェヴォ集団との相互作用は、まだほとんど調査されていません。

 本論文は、上部旧石器時代から前期青銅器時代にいたる、バイカル湖地域とその周辺地域の狩猟採集民19人の新たなゲノム配列を報告します。それらを既知のデータと比較すると、上部旧石器時代シベリア人およびアメリカ大陸最初の人々と関連する最も深く分岐した系統が明らかになり、バイカル湖地域における前期新石器時代と前期青銅器時代の集団間の複雑な移行がより明確になります。また本論文は、前期青銅器時代のバイカル湖地域におけるユーラシア西部草原地帯集団の影響を示す、人類と病原体ゲノムの証拠も提供し、バイカル湖地域狩猟採集民のシベリア人集団への経時的な遺伝的寄与を議論します。

 より具体的には、この研究はバイカル湖地域の計10遺跡の19人の新たなゲノム規模データを生成し、既知の古代および現代のデータと比較しました。19人の内訳は、上部旧石器時代が1人(14050〜13770年前頃)、前期新石器時代が4人(7320〜6500年前頃)、後期新石器時代から前期青銅器時代(LNBA)が14人(4830〜3570年前頃)です。網羅率は0.04〜2.07倍です。性染色体と常染色体の網羅率の比較から、4人が女性で、15人が男性と明らかになりました。19人の間で親族関係は見つかりませんでした。


●人口構造

 主成分分析では、バイカル湖地域のほとんどの個体は、古代北ユーラシア人(ANE)と北東アジア人(NEA)の間の勾配に位置します。NEA系統は7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡個体群(関連記事)に、ANE系統は上述のシベリア南部中央のマリタ遺跡の上部旧石器時代の1個体(MA1)やアファナシェヴォ文化の2個体(AG2およびAG3)に代表されます。

 本論文で新たに報告された19人のうち、上部旧石器時代の1個体はバイカル湖南部のウスチキャフタ3(Ust-Kyahta-3)遺跡で発見されました。この個体(UKY)は、9800年前頃となる中石器時代シベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)と近く、PC2軸では他の古代バイカル湖地域個体群と比較して、アメリカ大陸先住民集団の方へと移動しています。新石器時代4個体は全員、バイカル湖地域の既知の前期新石器時代個体群とクラスタ化し、「バイカル湖地域前期新石器時代(EN)」集団とまとめられます。

 後期新石器時代から前期青銅器時代(LNBA)の個体群は4集団に区分されます。主要な「バイカル湖地域LNBA」集団は10人で、バイカル湖地域EN個体群と比較してANE関連個体群とより近く、古エスキモーのサカク(Saqqaq)遺跡個体とも同様に近くなっています。グラズコヴスコエ(Glazkovskoe)遺跡の2個体(GLZ001およびGLZ002)は同遺跡の他個体(GLZ003)とは異なり、主要クラスタから移動し、悪魔の門遺跡およびバイカル湖地域EN個体群の方とより近い遺伝的類似性を示します。カチュグ(Kachug)遺跡の6個体のうち1個体(KPT005)は、PC1軸ではバイカル湖地域LNBA集団からかなりずれてユーラシア西部人の方に動いており、ANE-NEA勾配ではなく、もっと後の青銅器時代集団に向かってなので、草原地帯関連系統の遺伝子移入の可能性が示唆されます。バイカル湖地域の西方に位置するエニセイ川地域のバザイハ(Bazaikha)遺跡の1個体(BZK002)は、顕著にANE関連系統へと移動しており、オクネヴォ文化と関連する既知の青銅器時代個体群の近くに位置します。

 ADMIXTUREでも主成分分析と同様のパターンが示されました。前期新石器時代から青銅器時代のバイカル湖地域集団では、既知の個体群も本論文で新たに報告された個体群も全員、ANE関連個体群とNEA集団とウラル語族集団のガナサン(Nganasan)集団に代表される中央シベリア人という主要な3構成でほぼ示されます。ANEおよび中央シベリア系統は、ほとんどのLNBAバイカル湖地域個体群において前期新石器時代個体群よりも高い一方、GLZ001およびGLZ002はより高いNEA系統を示し、前期新石器時代集団と類似しています。エニセイ川地域のバザイハ遺跡の1個体(BZK002)は、既知のオクネヴォ文化集団と類似しており、他のバイカル湖地域個体群と比較して、ANE系統がずっと多くなっています。KPT005には、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統からの寄与がかなり見られ、おそらくは西方からの遺伝子流動により獲得されました。

 ホモ接合連続領域(ROH:両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)の検証では、どの個体でも近親交配の痕跡は特定されませんでした。シベリア北東部の9800年前頃のコリマ遺跡個体では、他の個体群と比較して有意に多くのホモ接合連続領域が見られ、中石器時代シベリア北東部におけるより小さな人口規模が示唆されます。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示す、同祖対立遺伝子(IBD)領域の共有は、ウスチキャフタ3遺跡個体(UKY)とコリマ遺跡個体の間の密接な関係を示唆します。これは、ゲノム規模の一塩基多型データに基づく分析を支持し、バイカル湖地域のENおよびLNBA個体群が、より古いUKYおよびコリマ個体のゲノムと同様に、相互に遺伝的類似性を共有する、と明らかにします。


●上部旧石器時代バイカル湖地域系統とアメリカ大陸先住民とのつながり

 上述のように、バイカル湖地域の上部旧石器時代個体(UKY)が、シベリア北東部のコリマ遺跡個体と密接に関連している、と明らかになりました。これは、f統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)でも確認され、f3統計では、UKYはコリマ個体と同様にアメリカ大陸先住民およびベーリンジア集団との密接な遺伝的類似性を示します。f 4統計では、コリマ個体はUKYと比較してシベリア北東部および北アメリカ大陸の集団とより密接に関連している、と明らかになりました。さらに、f 4統計でUKYおよびコリマ個体とアメリカ大陸先住民および古代ベーリンジア系統の11500年前頃のアラスカの1個体(USR1)との関係が、非北極圏アメリカ大陸先住民全員を外群として調べられました。UKYおよびコリマ個体は両方、非北極圏アメリカ大陸先住民およびUSR1と対称的に関連している一方で、USR1はUKYおよびコリマ個体と比較して、アメリカ大陸先住民集団と顕著に多くの遺伝的類似性を共有しています。

 qpAdmモデリングを使用しての遺伝的構成の調査では、UKYおよびコリマ個体は、NEA系統を代表する悪魔の門個体およびアファナシェヴォ文化のAG3個体の双方向混合としてモデル化される場合、ANE系統を約30%と似た水準で有しています。このモデルはUKYおよびコリマ個体の両方で上手く合致せず、それは、アメリカ大陸先住民であるブラジルのカリティアナ(Karitiana)集団が、適合したモデルと比較して、検証された個体群とさらなる類似性を示したからです。この観察は、UKYおよびコリマ個体がアメリカ大陸先住民集団と遺伝的浮動をある程度共有し、その遺伝的浮動はアメリカ大陸先住民系統がANEおよびNEA系統と分岐した後に起きた、と示唆します。

 qpGraphモデリングを用いての、UKYとコリマ個体と古代アメリカ大陸先住民集団の間の関係が調べられました。UKYおよびコリマ個体は、アジア北東部系統と、USR1やカナダのオンタリオ州南西部古代個体群(ASO)やアメリカ合衆国カリフォルニア州チャンネル諸島の前期サンニコラス個体群(ESN)に代表される、アメリカ大陸先住民クレード(単系統群)の姉妹集団(関連記事)との間の混合としてモデル化できます。UKYおよびコリマ個体が同じグラフに含まれる場合、両者は一貫して2回の独立した混合事象の子孫としてモデル化され、それは共にアメリカ大陸先住民関連クレードとアジア北東部関連クレードに由来する古代系統の混合です。これらの知見は、アメリカ大陸先住民へのUKYおよびコリマ個体の密接な類似性を確証しますが、UKYに寄与した両系統が、コリマ個体に寄与した集団よりも祖先的であることを強調します。さらに、ベーリンジアを経由してのアメリカ大陸への最初の移住の波は別として、UKYがコリマ遺跡より3000km南西に位置し、4000年以上前であることから、アメリカ大陸先住民系統は上部旧石器時代にはシベリア全域でもっと広く分布していた、と混合モデリングは示唆します。じっさい、本論文の混合グラフは、この基底部アメリカ大陸先住民集団が、アジア北東部集団と複数回の遺伝的接触を経験し、別の古代シベリア集団を生み出した、と示唆します。


●バイカル湖地域の前期新石器時代と青銅器時代の間の複雑な移行

 本論文は、新たに配列されたバイカル湖地域のENおよびLNBA個体群を同時代の既知のデータと組み合わせ、さらに詳細にバイカル湖地域における遺伝的移行を説明します。外群f3統計を使用すると、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団が既知の同時代・地域集団と相互に最高の遺伝的類似性を示す、と明らかになりました。さらに、組み合わせた集団の外群f3統計から、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団は古代と現代のアジア北東部およびシベリア集団と最高の遺伝的類似性を共有する、と明らかになりました。バイカル湖地域LNBA集団はまた、古エスキモーのサカク個体と高い遺伝的類似性を共有します。そのNEA系統と比較すると、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団はともに、ANE関連集団と余剰の遺伝的類似性を有しますが、f4統計で示されるように、LNBA集団はEN集団よりもさらに多くの遺伝的類似性を有します。これらの結果は、バイカル湖地域EN集団におけるANE関連系統の存在を明らかにするとともに、余分のANE系統の遺伝子流動がバイカル湖地域のEN集団とLNBA集団との間の遺伝的移行の原因である、という以前の知見を確認します。

 本論文はさらに、qpAdmモデリングを適用してバイカル湖地域のENおよびLNBA集団とサカク個体とガナサン集団におけるANE関連系統の割合を定量化しました。NEA系統として悪魔の門遺跡の個体を用いると、UKYはバイカル湖地域のENおよびLNBA集団にとって、ANE関連系統の代理としてコリマ個体よりもよく合致しますが、アファナシェヴォ文化のAG3個体はバイカル湖地域EN集団によく合致します。NEAおよびANE系統として悪魔の門遺跡個体群とAG3個体を用いると、ANE関連系統はバイカル湖地域において、EN集団の14.3%からLNBA集団の22.7%に増加します。シベリア北東部のコリマ個体は、古エスキモーのサカク個体のANE関連系統の代理として機能できますが、バイカル湖地域およびウラル語族集団のガナサン個体にはよく合致しません。これは、バイカル湖地域の狩猟採集民とガナサン集団が、シベリア中央部もしくは南部で形成された可能性が高い一方で、古エスキモー系統はシベリア中央部もしくは北東部で形成された可能性を示唆します。

 DATESを用いてのバイカル湖地域集団におけるANE系統とNEA系統の間の混合事象の推定年代は、EN集団では21世代前、LNBA集団では71世代前ですが、LNBA集団は顕著に多くのANE関連系統を有します。各集団の平均的な放射性炭素年代測定結果と混合年代の標準誤差を考慮すると、混合事象は8500〜6000年前頃と推定されます。淡水リザーバー効果を考慮すると、混合事象は8000〜5500年前頃と修正されます。これは、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団が、在来集団とNEA関連集団との間の長期にわたる混合過程を通じて形成されてきた、と示唆します。したがって、バイカル湖地域EN集団は、以前に提案された個別的で突然の混合という仮説とは対称的に、長期にわたる混合過程を経てきたことになります。しかし、この混合は、後期新石器時代と青銅器時代には実質的には継続しませんでした。それは、LNBA集団の混合の年代が古く、均質なLNBAクラスタと比較してEN個体群間の遺伝的多様性が比較的大きいからです。


●遺伝的外れ値により明らかになる青銅器時代シベリアの高い移動性

 バイカル湖地域LNBA個体群のうち、主要集団とは遺伝的背景の異なる3人の外れ値が特定されました。このうち、カチュグ遺跡の6個体のうち1個体(KPT005)は、主成分分析およびADMIXTUREではユーラシア西部集団との類似性が示唆されます。qpAdmモデリングでは、KPT005はバイカル湖地域LNBA集団と複数の青銅器時代西方草原地帯集団との混合としてモデル化でき、草原地帯系統の堀合は42〜48%と推定されます。地理と年代を考慮すると、この混合の起源として最も可能性の高い候補は、アルタイ・サヤン地域のヤムナヤ(Yamnaya)関連アファナシェヴォ文化集団です。

 さらに、バイカル湖地域前期青銅器時代個体群のうち2個体(GLZ001およびGLZ002)は、バイカル湖地域LNBA主要集団と比較して、顕著にANEの混合水準が低くなっています。この2個体におけるANE関連系統の割合は、NEA系統として悪魔の門遺跡個体を、ANE系統としてアファナシェヴォ文化のAG3個体を用いると、約10%と推定されます。さらに、この2個体はともに、Y染色体ハプログループ(YHg)C2b1で、これはバイカル湖地域EN集団で支配的ですが、他のバイカル湖地域LNBA集団のYHgはQ1aのみです。これは、青銅器時代まで、バイカル湖地域EN集団と同等もしくはそれ以下の割合のANE系統を有する集団が残存していたか、より多くのNEA系統を有する周辺地域集団からの移住があったことを示唆します。

 そこで、バイカル湖地域個体群の遊動性が、11個体の歯のエナメル質のストロンチウム同位体分析により調べられました。このうち10個体の値はバイカル湖地域で報告されてきた範囲内でしたが、GLZ001は外来起源と示唆され、7歳(第二大臼歯の形成)以降にバイカル湖と続くアンガラ川流域に移動した、と推定されました。既知のストロンチウムデータに基づくと、GLZ001の起源はバイカル湖の南方および東方を含む地域と推定されます。もう一方の外れ値個体であるGLZ002は、GLZ001と遺伝的に類似しているにも関わらず、地元出身と推定されました。GLZ002は7歳以前にバイカル湖地域に移住してきたか、アンガラ川流域と類似したストロンチウム同位体比の範囲の地域から到来したのかもしれません。


●遺伝的外れ値個体群間のペスト菌感染

 最近の研究では、中期新石器時代から青銅器時代(4900〜3500年前頃)のヨーロッパおよびアジア中央部の複数地域にまたがって、人類のペスト菌(Yersinia pestis)感染の証拠が提示されています(関連記事)。これまでに特定された古代ペスト菌系統の大半は、LNBA系統とされる絶滅系統に属します。ペスト菌の古代DNAデータは人類集団の遺伝的枠組みとともに解釈されており、LNBAにおけるユーラシアの広範な地域でのヤムナヤ関連集団の拡大が、ペスト菌の拡大と関連している、と示唆されています。

 バイカル湖地域の個体群の病原体DNA痕跡の存在を調べるため、本論文で新たに報告されたバイカル湖地域の19個体が分析され、青銅器時代の2個体(GLZ001およびGLZ002)でペスト菌の古代DNAが明らかになりました。淡水貯水池効果を考慮すると、GLZ001は4556年前頃、GLZ002は4430年前頃と推定されます。ペスト菌ゲノムの網羅率は、GLZ001が7.2倍、GLZ002が12.8倍です。GLZ001およびGLZ002のペスト菌はLNBA系統に分類され、4800〜3500年前頃に分離しました。両者が最も密接に関連しているのは、バルト海地域で発見された系統で、このペスト菌に感染していたのは、縄目文土器(Corded Ware)複合と関連する4520〜4290年前頃の個体(Kunila2)です。上述のように、GLZ001およびGLZ002は同じ地域・年代の個体群と比較して、遺伝的に外れ値となります。さらに、LNBA系統に分類されるペスト菌ゲノムを有する既知の全個体のゲノムに共通するヤムナヤ関連草原地帯系統が、GLZ001およびGLZ002のゲノムには欠けています。GLZ001およびGLZ002のペスト菌は、LNBA系統としては最東端となります。


●オクネヴォ文化への遺伝的影響

 オクネヴォ文化は、バイカル湖の西方に位置するユーラシア草原地帯中央部の青銅器時代の文化です。以前の研究では、オクネヴォ文化個体群と古代バイカル湖地域個体群との遺伝的関係が示唆されています。本論文では、オクネヴォ文化が浸透していた、バイカル湖地域の西方に位置するエニセイ川地域のバザイハ遺跡の前期青銅器時代の1個体(BZK002)のゲノムと、既知のオクネヴォ文化関連個体群との間の高い遺伝的類似性が検出されました。BZK002のゲノムは、qpAdmでは、バイカル湖地域LNBA集団とアファナシェヴォ文化のAG3個体もしくはボタイ(Botai)文化的集団との双方向混合としてモデル化できます。ユーラシア中央部のボタイ文化集団には草原地位関連系統が見られません。BZK002はまた、オクネヴォ文化関連個体群で観察される系統を形成する、ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化関連集団と混合した集団の代理としても機能しました。さらに、オクネヴォ文化関連集団のモデリングは、バイカル湖地域LNBA集団とAG3もしくはボタイ文化的個体群と草原地帯関連系統集団の間の3方向混合として確認されました。

 オクネヴォ文化関連集団における3系統間の混合事象の年代は、異なる2期間に分類されました。バイカル湖地域LNBA集団とボタイ文化的集団を情報源として用いると、オクネヴォ文化関連集団とBZK002における混合事象は、前者が42.9世代前、後者が23.4世代前で、標本群の年代を考慮すると、6000〜5000年前頃の範囲と重なります。オクネヴォ文化関連集団における情報源の一つとしてヤムナヤ関連系統を含めると、交雑年代は17世代前(5000〜4500年前頃)と新しくなります。本論文は、オクネヴォ文化関連集団の遺伝子プールの形成は、ボタイ文化的系統およびバイカル湖地域LNBA系統の最初の混合から生じ、その後に紀元前三千年紀のヤムナヤ関連文化の拡大に伴い、ヤムナヤ関連系統の遺伝子流動が起きた、と推測しています。BZK002の直接的な放射性炭素年代測定結果は4700年前頃で、既知のクネヴォ文化関連個体群に200〜800年先行し、草原地帯関連系統の混合の推定年代範囲と重なります。さらに、BZK002のバイカル湖地域系統とボタイ文化系統との混合は、オクネヴォ文化関連集団の推定された期間の範囲内に収まり、BZK002がオクネヴォ文化関連集団の遺伝的構成の形成中の中間的状態を表す、と示唆されます。


●まとめ

 本論文は、バイカル湖地域において上部旧石器時代から青銅器時代にかけて、ANEおよびNEA系統の割合の大きな変動に見られるように、複数の人口交替が起きたことを示しました。しかし、本論文が提示するのは、以前に示唆された、NEA系統を含むアジア東部系統によるANE関連系統の完全な置換ではなく、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ遺跡の1個体(MA1)で最初に報告されたANE系統が、前期新石器時代(EN)集団でも上部旧石器時代となる14000年前頃のUKY個体でも明らかになったように、上部旧石器時代を通じて青銅器時代まで存続した、ということです。

 さらに、前期新石器時代から青銅器時代のバイカル湖地域集団の遺伝的移行は、NEA関連系統とANE関連系統との間の、紀元前六千年紀から紀元前四千年の長きにわたる遺伝子流動によりよく説明でき、UKY個体のゲノムは、コリマ個体関連系統のあり得た南方への拡大よりも、ANE系統の在来起源として優れている、と証明されました。対照的に、コリマ個体ゲノムは、古エスキモーのサカク個体の遺伝的構成の代理として表され、古エスキモー系統がシベリア北東部に出現した、という見解を支持します。ただ本論文では、古エスキモー系統がUKY関連系統からシベリア中央部もしくは南部で形成された可能性を除外できません。

 注目されるのは、バイカル湖地域の上部旧石器時代の人々と非北極圏アメリカ大陸先住民との強い遺伝的つながりの検出です。本論文では、アメリカ大陸先住民と14000年前頃のシベリア南部となるバイカル湖地域のUKY個体と、9800年前頃のシベリア北東部のコリマ個体はすべて、少なくとも一部は、ANEおよびNEAの両系統を有する同じ混合集団の子孫と示されました。この集団は上部旧石器時代においてシベリア全域に拡大しており、アジア北東部の関連集団と頻繁な遺伝的接触を経験した可能性が高く、異なる地域と期間においてANEおよびNEA系統のさまざまな割合の集団を生じました。コリマ個体および他のアメリカ大陸先住民集団へとつながるアラスカのUSR1のゲノムと比較して、UKYがより早期の分岐集団であることから、この基底部アメリカ大陸先住民系統がシベリア北東部で形成された、との以前に提示された仮説に本論文は異議を唱えます。アメリカ大陸先住民の祖先的遺伝子プールの起源の正確な場所と年代の説明には、上部旧石器時代シベリア集団からのさらなる遺伝的証拠が必要となります。

 さらに、人類と病原体のDNAデータに基づき、前期青銅器時代にシベリア南部と西方の草原地帯との間で遺伝的接触があった証拠も得られました。これは、当時のユーラシアにおける人類の高い移動性を示唆します。バイカル湖地域におけるヤムナヤ関連集団の遺伝的影響は、青銅器時代のKPT005個体で明らかです。さらに、以前の研究では、ユーラシア全域におけるペスト菌のLNBA系統の拡大が、ヤムナヤ関連集団の移住により促進された、と示唆されてきました。ペスト菌のLNBA系統を有する全個体のゲノムで、草原地帯関連系統が確認されていたからです。しかし本論文では、ペスト菌に感染しているバイカル湖地域青銅器時代の2個体(GLZ001およびGLZ002)のゲノムに、ヤムナヤ関連系統の遺伝的証拠が見られないことを示しました。また、この2個体のゲノムには、他の全てのバイカル湖地域および周辺地域の青銅器時代個体よりも、NEA系統の割合がかなり多い、と明らかになりました。この2個体のうちGLZ001は、ストロンチウム同位体分析により、外来者で、おそらくはアンガラ川流域外の出身でした。この青銅器時代バイカル湖地域のペスト菌ゲノムの系統は、ヨーロッパ北東部のバルト海地域の縄目文土器複合関連個体に感染していたものに最も近い、と明らかになりました。現在の解像度では、ユーラシア西部とシベリア南部との間の病原体伝播のパターンを推測するには不充分ですが、現時点でのデータは、ペスト菌の長距離拡散につながる1世紀もしくは10年単位の過程を示唆します。

 本論文はバイカル湖地域の人口構造における動的な変化を報告し、上部旧石器時代シベリアにおける最初のアメリカ人へとつながる遺伝的系統の広範な発生を明らかにします。さらに本論文は、ユーラシア草原地帯全域での人類の高い移動性の証拠を提示し、紀元前三千年紀におけるペスト菌の拡大についての新たな洞察を明らかにします。アメリカ大陸最初の人々の起源には高い関心が寄せられてきましたが、時として政治的問題にも発展しました(関連記事)。本論文は、シベリア南部の人類の新たな古代ゲノムデータを報告したというだけではなく、アメリカ大陸先住民系統の遺伝的起源が、シベリア北東部に限定されない可能性を提示したという点でも、大いに注目されます。近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、追いついていくのは大変ですが、今後、当ブログにてできるだけ多くの関連する論文と本を取り上げていきたいものです。


参考文献:
Yu H. et al.(2020): Paleolithic to Bronze Age Siberians Reveal Connections with First Americans and across Eurasia. Cell, 181, 6, 1232–1245.E20.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.037


https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html
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