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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100425
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[リバイバル3] チャンネル・デバイダ―は使ってはいけない 中川隆
5. 中川隆[-12001] koaQ7Jey 2020年7月28日 16:58:09 : qvCpCPFxe6 : SXdLWFhadjI5eHM=[32]
なかちゃんの考えるマルチアンプシステムについて
フルレンジスピーカーからマルチウェイスピーカーへ

スピーカーユニットが単発のフルレンジスピーカーなら
1つのユニットが音楽信号の全帯域を再生するため
スピーカーとアンプはスーピーカーケーブルを介して
ダイレクトに接続され、アンプから出力された音楽信号が
そのままユニットに入力されるので、色付けの少ない
生々しさを感じさせる再生音を得る事が可能である。

しかし、フルレンジスピーカーにも弱点はあり、
1つのユニットで音楽信号の全帯域を再生する事は
非常に困難であり、低域がある程度までしか出なかったり、
高域方向もある程度以上伸びない。
また、再生困難な帯域の音楽信号が歪んでしまう事も
考えられる。

とは言っても歪みなどはあまり気にされる事なく、
フルレンジスピーカーの再生可能な帯域内で
音楽の持つニュアンスは充分に伝わってくるのも事実である。

しかし、フルレンジユニットで再生困難な周波数帯域までをも
きちんと再現すれば音楽はよりダイレクトに、より生々しく
感じられるに違いない。

そのため、スピーカーユニットの数を増やし、低域の再生に
適した特性を持つユニットや高域の再生に適した特性の
ユニットを組み合わせる事で、再生周波数帯をより広げようと
2WAYスピーカーや3WAYスピーカーの様な
マルチウェイスピーカーが作られる様になった。

しかし、ただ単にいくつかのユニットを一緒に鳴らすだけでは
それぞれの音質はばらばらで能率(この場合分かり易く言うと音量)もまちまちなため各帯域で音が揃わず、再生音が
音楽として成り立たなくなってしまう。
それだけでなく、例えば低域再生に重点を置いて作られた
ウーファーユニットなどはある周波数より高い周波数の
音楽信号が入力されれば再生音は歪んでしまうし、
高域再生に特化したツィーターユニットなどは高い音の再生は
得意でもユニットの再生可能な周波数より低い周波数の
音楽信号が入力されれば、歪むだけでなく破損してしまう。

なぜなら、高域信号は低域信号に比べ信号(音波)の振幅が
小さくユニット自体が前後方向に動くストロークは
あまり大きくは作られていないし単位時間の振動回数も
周波数に比例して多くなり、ストローク(振幅)が大きいと
振動回数も稼げない。
そこへ振幅の大きな低域信号が入力されれば、ツィーターの
ストロークが許容量を超えユニットが破損するのである。

こういった種々の問題を解決するためマルチウェイスピーカー
にはネットワークという一種のフィルター回路が挿入されるので
ある。

ネットワークの働きは、ウーファーに対してなら高域側の信号をカットし、ツィーターに対しては低域信号をカットする。

この時、ウーファーとツィーターの能率(この場合、音量と考える)を合わせ、各ユニットの合成信号が全帯域でフラットに
なる様、クロスオーバーさせる。

これで広帯域の再生が可能なスピーカーが出来上がったので
ある。

だが、これで全てが解決した訳ではなかった。

もともと、違うユニット同士を繋げる訳だから、やはり無理も生じ
る。
各ユニットの合成波形を完全にフラットにするのは困難で
クロスオーバーポイントで歪みが生じる、ユニット毎に音色が
揃わないなどの問題が発生し音楽本来のニュアンスが
きちんと伝えられなくなってしまう。
他に位相特性などの問題も発生したりする。

いくら広帯域再生が可能になっても、音楽の感動が薄まって
しまうのでは本末転倒である。

なかにはこれらの問題を感じさせない優れたスピーカーも
勿論存在するがごく少数派である。

実際には現在発売されているスピーカーの殆どは
マルチウェイスピーカーであり、これらの問題を差し引いても
楽しく聴けるスピーカーはそれなりにあるので
あまり気にする事はないのかも知れない。

ただ、各ユニット間の繋がりが良くなってもフルレンジスピーカーの様にネットワークのないスピーカーとは音楽がダイレクトに
伝わる印象というか生々しさというか
そういったものにまだ差を感じるのである。


音楽信号を余すところなく再現するために広帯域の再生能力
は欲しい、かといってネットワークは使いたくない。

そこで出てくるのがマルチアンプシステムなのです。
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/newpage1.html



▲△▽▼

なかちゃんの考えるマルチアンプシステムについて その2
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/maruchiannpusono2.html

マルチアンプシステムとは何か?

マルチアンプシステムとはウーファーやスコーカー、
ツィーターなど、各スピーカーユニットに1台づつ
パワーアンプを繋げてスピーカーを駆動する方式の事である。


しかし、それだけではバイアンプやトライアンプと
同じではないか、という意見が聞こえてくる。もっともである。
マルチアンプとはそれだけではないのである。
バイアンプやトライアンプでもシングルアンプ駆動に比べれば
はるかに音質は向上し、音に厚みや実態感がかなり加わって
くる。
面倒なのが嫌ならば、これらの方式は非常に有効である。
パワーアンプを追加する費用だけで、セッティングなどの苦労は
殆どないと言って良いだろう。

では、何故ゆえそれでもマルチアンプなのか。
一言で言ってしまえば、マルチアンプの前ではバイアンプも
トライアンプも比較の対象にすらならないからである。

誤解の無きよう付け加えれば、きちんとセッティングされた
マルチアンプシステムの前ではいかにバイアンプ、
トライアンプであろうとも、その圧倒的な実在感の前に、
否が応にも聴き劣りしてしまうのである。

マルチアンプの真髄とはその様なものである。

しかし、かつて多くの方がそのマルチアンプに挑戦し、
あまりの調整の困難さ、デリケートさに悩まされ、
遂にはマルチアンプへの期待を失い、時にはマルチアンプを
否定するまでに至った事は、現在もマルチアンプで音楽を
楽しんでおられる方なら理解しているであろう。

私自身もマルチアンプの音質に納得いくまで10年余りの歳月を
費やしたのである。
なかなか、音がまとまらず音楽が音が苦になっていた時期もある。
しかし、そんな時でも未完成のマルチアンプが聴かせる音に
可能性を見出し、苦労を続けたのである。
その甲斐あって、現在では3WAYの各ユニットが一体となり、
見事に音楽を奏でているのである。
まるで目の前で演奏が行われているかの様に。

では、マルチアンプの構成について、私なりの解説をさせて頂こうと思います。

まず、再生ソース。これは通常のシングルアンプシステムと
何ら変わらない。
CDならCDプレーヤーがあればそれでいい。
次にアンプはプリ、パワー別体のセパレートアンプとなる。

CDプレーヤーから出た音楽信号はまずプリアンプへ入力される。
そして、インピーダンス整合と若干の電力増幅というシステムに
とって非常に重要なプリアンプでの信号処理を受け、
次にパワーアンプではなく、チャンネルディバイダーへと
その信号は出力されるのである。

チャンネルディバイダー?

それは一体どの様なものなのか。
このチャンネルディバイダーこそ、マルチアンプの心臓部である。
(厳密にはプリアンプもだが)
ここで、3WAYマルチアンプシステムなら、ツィーター(高音)、
スコーカー(中音)、ウーファー(低音)へと信号が分けられるので
ある。

一体どの様に?
チャンネルディバイダー 言葉を変えればアクティブネットワークである。
スピーカーに内臓されているネットワークをパッシブネットワークと言うが、チャンネルディバイダーは電源を必要とするアクティブ回路となっており、ゲインを持っているのである。

スピーカーに内臓されているパッシブネットワークでは一番能率の低いユニットはウーファーであることがほぼ全てだと思いますが、
ウーファーなら並みのユニットではせいぜい90〜91dB程度が限界であることが多く(一部の高能率ユニット除く)
パッシブネットワークがゲインを持たない事から、他のウーファーより能率の高いユニットもウーファーと同じ90〜91dB程度まで能率を下げて使わないと、各ユニットの音圧が揃わない。

そう、シングルアンプでのパッシブネットワーク使用はそのスピーカーの最低能率のユニットの性能に全体の性能が大きく左右されるのである。

これが、一つの問題である。

即ち、シングルアンプ方式におけるパッシブネットワーク内臓
スピーカーは一番性能の低いユニットに合わせて作られているので
ある。
往々にしてウーファーよりはるかに能率の高いスコーカーや
ツィーターはその性能を充分に発揮出来ないでいるのである。

補足しておくと、よく音圧という言葉で表されるスピーカーの
性能があり、最近音圧の低いスピーカーが結構多く、
しかしなかなか音楽のニュアンスを感じさせるスピーカーもあり
非常に多くの方が音圧の低さを気にしなくなっている様に思う。

しかし、問題はこの”音圧”という言葉で表される性能である。
音圧というとある一定のボリューム時に発せられる音の大きさだと
理解出来るが、スピーカーの場合一昔前まではこの”音圧”という
言葉ではなく、”能率”という言葉が同じ性能の項目として
カタログなどに載っていた。

”能率”とは”感度”と同義である。

そう、スピーカーに於ける感度の高さは「どれだけ小さな音楽信号を
再現出来るか」という事に他ならない。

マルチアンプシステムでは、まずこのパッシブネットワークが
存在しない。
要はスピーカーユニットとパワーアンプが直結状態になっているの
である。
直結状態になっている事により、各ユニットはネットワークによる
影響や能率低下の影響を受ける事なく、100dBなら100dB、
110dBなら110dBその性能を100%発揮出来るのである。
そして、各ユニットの能率差はパワーアンプの前に繋がっている
チャンネルディバイダーによってコントロールされるのである。
よく性能の良い(音質の良い)サブウーファーは中低域付近の
音も殆ど出さず、本当の低域しか再生していないが、
似た様なイメージをして頂ければ分かり易いのではないかと
思います。即ち、シングルアンプ方式におけるパッシブネットワーク内臓
スピーカーは一番性能の低いユニットに合わせて作られているので
ある。
往々にしてウーファーよりはるかに能率の高いスコーカーや
ツィーターはその性能を充分に発揮出来ないでいるのである。各パワーアンプが受け持つ周波数帯域が狭いことから、
広帯域再生時にどうしても避けられない混変調歪みが
非常に少なくなるのである。(なくなる事は原理的にない)

この混変調歪みが音質にもたらす影響はかなり大きいらしく、
私も測定など出来ないが、マルチアンプにする事で音の濁れが
一気に減り、粒立ちのよさや立体感、そして音楽の実在感が
恐ろしい程に向上するのである。一度この変化の大きさに気づくと、もうマルチアンプの呪縛から
逃れられなくなってしまうのではないかとさえ思う。

それ程までに、凄さを感じるのである。

しかし、ここまでなら、20から30年ほど前にあった
マルチアンプブーム時代に皆が嵌った世界である。
問題はこの後である。

ここまで読んだだけなら、じゃあ自分もやってみようかな、
と思える様な話である。

しかし、ここが入り口。

この後に精神衛生上最悪な日々が待っているのである。CDプレーヤーから出た音楽信号はまずプリアンプへ入力される。
そして、インピーダンス整合と若干の電力増幅というシステムに
とって非常に重要なプリアンプでの信号処理を受け、
次にパワーアンプではなく、チャンネルディバイダーへと
その信号は出力されるのである。まず、再生ソース。これは通常のシングルアンプシステムと
何ら変わらない。
CDならCDプレーヤーがあればそれでいい。
次にアンプはプリ、パワー別体のセパレートアンプとなる。
では、マルチアンプの構成について、私なりの解説をさせて頂こうと思います。しかし、かつて多くの方がそのマルチアンプに挑戦し、
あまりの調整の困難さ、デリケートさに悩まされ、
遂にはマルチアンプへの期待を失い、時にはマルチアンプを
否定するまでに至った事は、現在もマルチアンプで音楽を
楽しんでおられる方なら理解しているであろう。マルチアンプの真髄とはその様なものである。しかし、それだけではバイアンプやトライアンプと
同じではないか、という意見が聞こえてくる。もっともである。
マルチアンプとはそれだけではないのである。
バイアンプやトライアンプでもシングルアンプ駆動に比べれば
はるかに音質は向上し、音に厚みや実態感がかなり加わって
くる。
面倒なのが嫌ならば、これらの方式は非常に有効である。
パワーアンプを追加する費用だけで、セッティングなどの苦労は
殆どないと言って良いだろう。更にチャンネルディバイダー


チャンネルディバイダー?

それは一体どの様なものなのか。
このチャンネルディバイダーこそ、マルチアンプの心臓部である。
(厳密にはプリアンプもだが)
ここで、3WAYマルチアンプシステムなら、ツィーター(高音)、
スコーカー(中音)、ウーファー(低音)へと信号が分けられるので
ある。
私自身もマルチアンプの音質に納得いくまで10年余りの歳月を
費やしたのである。
なかなか、音がまとまらず音楽が音が苦になっていた時期もある。
しかし、そんな時でも未完成のマルチアンプが聴かせる音に
可能性を見出し、苦労を続けたのである。
その甲斐あって、現在では3WAYの各ユニットが一体となり、
見事に音楽を奏でているのである。
まるで目の前で演奏が行われているかの様に。


マルチアンプシステムでは、まずこのパッシブネットワークが
存在しない。
要はスピーカーユニットとパワーアンプが直結状態になっているの
である。
直結状態になっている事により、各ユニットはネットワークによる
影響や能率低下の影響を受ける事なく、100dBなら100dB、
110dBなら110dBその性能を100%発揮出来るのである。
そして、各ユニットの能率差はパワーアンプの前に繋がっている
チャンネルディバイダーによってコントロールされるのである。
よく性能の良い(音質の良い)サブウーファーは中低域付近の
音も殆ど出さず、本当の低域しか再生していないが、
似た様なイメージをして頂ければ分かり易いのではないかと
思います。即ち、シングルアンプ方式におけるパッシブネットワーク内臓
スピーカーは一番性能の低いユニットに合わせて作られているので
ある。
往々にしてウーファーよりはるかに能率の高いスコーカーや
ツィーターはその性能を充分に発揮出来ないでいるのである。各パワーアンプが受け持つ周波数帯域が狭いことから、
広帯域再生時にどうしても避けられない混変調歪みが
非常に少なくなるのである。(なくなる事は原理的にない)

この混変調歪みが音質にもたらす影響はかなり大きいらしく、
私も測定など出来ないが、マルチアンプにする事で音の濁れが
一気に減り、粒立ちのよさや立体感、そして音楽の実在感が
恐ろしい程に向上するのである。一度この変化の大きさに気づくと、もうマルチアンプの呪縛から
逃れられなくなってしまうのではないかとさえ思う。

それ程までに、凄さを感じるのである。

しかし、ここまでなら、20から30年ほど前にあった
マルチアンプブーム時代に皆が嵌った世界である。
問題はこの後である。

ここまで読んだだけなら、じゃあ自分もやってみようかな、
と思える様な話である。

しかし、ここが入り口。

この後に精神衛生上最悪な日々が待っているのである。CDプレーヤーから出た音楽信号はまずプリアンプへ入力される。
そして、インピーダンス整合と若干の電力増幅というシステムに
とって非常に重要なプリアンプでの信号処理を受け、
次にパワーアンプではなく、チャンネルディバイダーへと
その信号は出力されるのである。まず、再生ソース。これは通常のシングルアンプシステムと
何ら変わらない。
CDならCDプレーヤーがあればそれでいい。
次にアンプはプリ、パワー別体のセパレートアンプとなる。
では、マルチアンプの構成について、私なりの解説をさせて頂こうと思います。しかし、かつて多くの方がそのマルチアンプに挑戦し、
あまりの調整の困難さ、デリケートさに悩まされ、
遂にはマルチアンプへの期待を失い、時にはマルチアンプを
否定するまでに至った事は、現在もマルチアンプで音楽を
楽しんでおられる方なら理解しているであろう。マルチアンプの真髄とはその様なものである。しかし、それだけではバイアンプやトライアンプと
同じではないか、という意見が聞こえてくる。もっともである。
マルチアンプとはそれだけではないのである。
バイアンプやトライアンプでもシングルアンプ駆動に比べれば
はるかに音質は向上し、音に厚みや実態感がかなり加わって
くる。
面倒なのが嫌ならば、これらの方式は非常に有効である。
パワーアンプを追加する費用だけで、セッティングなどの苦労は
殆どないと言って良いだろう。


補足しておくと、よく音圧という言葉で表されるスピーカーの
性能があり、最近音圧の低いスピーカーが結構多く、
しかしなかなか音楽のニュアンスを感じさせるスピーカーもあり
非常に多くの方が音圧の低さを気にしなくなっている様に思う。

しかし、問題はこの”音圧”という言葉で表される性能である。
音圧というとある一定のボリューム時に発せられる音の大きさだと
理解出来るが、スピーカーの場合一昔前まではこの”音圧”という
言葉ではなく、”能率”という言葉が同じ性能の項目として
カタログなどに載っていた。

”能率”とは”感度”と同義である。

そう、スピーカーに於ける感度の高さは「どれだけ小さな音楽信号を
再現出来るか」という事に他ならない。一体どの様に?
チャンネルディバイダー 言葉を変えればアクティブネットワークである。
スピーカーに内臓されているネットワークをパッシブネットワークと言うが、チャンネルディバイダーは電源を必要とするアクティブ回路となっており、ゲインを持っているのである。

スピーカーに内臓されているパッシブネットワークでは一番能率の低いユニットはウーファーであることがほぼ全てだと思いますが、
ウーファーなら並みのユニットではせいぜい90〜91dB程度が限界であることが多く(一部の高能率ユニット除く)
パッシブネットワークがゲインを持たない事から、他のウーファーより能率の高いユニットもウーファーと同じ90〜91dB程度まで能率を下げて使わないと、各ユニットの音圧が揃わない。

そう、シングルアンプでのパッシブネットワーク使用はそのスピーカーの最低能率のユニットの性能に全体の性能が大きく左右されるのである。

これが、一つの問題である。では、何故ゆえそれでもマルチアンプなのか。
一言で言ってしまえば、マルチアンプの前ではバイアンプも
トライアンプも比較の対象にすらならないからである。

誤解の無きよう付け加えれば、きちんとセッティングされた
マルチアンプシステムの前ではいかにバイアンプ、
トライアンプであろうとも、その圧倒的な実在感の前に、
否が応にも聴き劣りしてしまうのである。


話が非常に長くなったので、この続きの私の10年間の
マルチアンプとの激闘の記録はその3にてお話ししようと
思います。

その2.5へ続く

http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/maruchiannpusono2.html



▲△▽▼


なかちゃんの考えるマルチアンプシステムについて その2.5
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/maruchiannpusisutemu2.5.html

 さて、前回の予告で「その3」にてなかちゃんの10年間にわたるマルチアンプシステム構築の歴史を語りますと申し上げておりました。しかし、更新までの間に心境の変化などもありいきなりマルチアンプシステムについてのお話をさせていただくのではなく、何故なかちゃんがオーディオを始めたのか、その間にあった出来事など、自身の半生という程のものではありませんが今回の更新にあたり更に私がマルチアンプシステムにたどり着くまでの、オーディオに興味を持ち趣味として始めるに至ったお話をさせて頂こうと思い、敢えてページNO.を「その3」ではなく「その2.5」とさせて頂きました。

なかちゃんの昔話なんか興味ないという声も聞こえてきそうですが、そんな時はアホな男の戯言程度に軽く流して下さいませ。

 私が小学生の頃はCDプレーヤーというものはまだ発明されておらず専らレコードによる音楽鑑賞が主流の時代だった。我が家にはまだオーディオと呼べるものなどなく当時手頃だった(ように思う)いわゆる「てんとう虫レコードプレーヤー」と呼ばれるものがあった。
子供ながらに親に買ってもらったレコードをプレーヤーの針先を不思議そうに眺めながら聴いていたものだ。レコードといっても何かの付録だった当時のアニメ(この頃はアニメという言葉はなくマンガと言っていた)ジェッターマルス(鉄腕アトムのそっくりアニメ)のソノシートを聴いていた。(ソノシート:呼び名の由来は知りませんが、薄っぺらい半透明の向こうが透けて見えるレコード)
テレビではキャンディーズやピンクレディ、ジュリー(沢田研二)に郷ひろみなどが全盛でドリフの「8時だよ全員集合」などは毎週欠かさず見ていた。
オーディオに目覚めるのはまだまだ先のことである。
 中学生になってから途中入部ではあったが吹奏楽部に入部した。特に音楽に興味があった訳ではないのだが、なにか部活をしようと思って何気なく吹奏楽部にしただけだった。ただ、そうなると欲がでるもので入部申し込み時にトランペットを吹きたいと要望したが「今、トランペットは空いていない。ドラムならいけるよ」と顧問の先生に言われ「じゃあそれで」と答えてそのままドラム担当になった。しかし、1ヶ月後に入部してきた女の子がトランペットを吹いていた。
この時に初めて気づいた、単にドラム担当が足りなかっただけだったんだと、騙された・・・
まあでもドラム担当になったおかげでちょっとしたバンド活動をしたりすることにもなった。
音楽に興味を持ちだすキッカケになったのだと今では思う。

 しかし、このあと色々不幸な事があり10数年間の極貧生活を強いられる事になってします。
その中でも音楽を聞きたいと思う気持ちがどこかにあり、安物ではあったがラジカセをなんとか手に入れて友人にカセットテープのダビングをさせてもらったりして音楽を聴いていた。時には粗大ゴミから拾ってきた学校教室の放送用スピーカーを細い導線でどういう風にしたのか忘れたが、ラジカセとつないで聴いたりもした。

 生活に余裕が全くなかったため、17歳の時からバーテン(喫茶店です)のアルバイトを始めそのまま23歳頃までその仕事を続けた。
地べたに這いつくばる様な苦しい生活に、ある種の絶望感を抱きながらもがむしゃらに働いた。
とにかく前に進むしかなかった。
時代はバブル絶頂、皆が羽振り良く遊びまくり、ジュリアナだなんだのと浮かれている時に遊ぶことも出来ずに地下街でモグラの様に働いていた。そのためか青春時代の思い出といえば仕事のことしか思い出せない。今となってはそれもいい思い出なのだと思えるようになったが。

 しばらく経って給料のほとんどは生活のため親に渡していたが残りで少しづつオーディオ機器を集め出せるようになってきた。
頑張って買ったのはAIWAのミニコンポ「CDS909」というモデルだった。当時はいわゆるミニコンポ全盛でPIONEER「PRIVATE」シリーズやKENWOOD「ROXY」シリーズなどが大人気だった。
なかちゃんはへそ曲がりなのかそんな中で敢えてAIWAのミニコンポを選んだのである。自分なりの理由としてカセット部が3HEAD構成であるとかダブルテューナーダブルイコライザーでテューナーとCDを同時録音しながら、ラジオの裏番組が聴けるなどの超多機能に惹かれた結果である。実際そんな使い方はほとんどしなかったが。
でも、意外と音質は良くしばらくの間気に入って使っていた。
この頃、以前バンドでも演奏していた高中正義の曲を好んで聴いていた。しかし、彼の曲調が16ビートから8ビートに変わったのを境にあまり聴かなくなった。その後は久保田利伸や大沢誉志幸などをよく聴いていた。彼らの曲は今でも好きだが、大沢誉志幸のSERIOUS BARBARIAN3部作は今でも好きでたまに聴いている。
 そうこうしている内にオーディオ雑誌を読むようになり、単品オーディオについて知り始める。
しばらくは、いいなぁ〜と思い眺めているだけだったがやがてその気持ちは欲しいという気持ちに変わっていく。
この時、まだ経済的な余裕はほとんどなかったので、またせっせと頑張って少しづつ集めていく事になった。
初めて組んだ単品システムはアンプがオンキョー A-701XD、CDプレーヤーがDENON DCD-1630G、スピーカーが
オンキョー D-77XD、カセットデッキがAIWA XK-009だった。
ONKYO A-701XD

DENON DCD-1653G

ONKYO D-77XD

AIWA XK-009

 この中でも最も気に入っていたのがAIWA XK-009だった。音質はストレートで癖がなくCDの音がそのまま録音出来るとさえ感じていた。もっともダイナミックレンジはCDのそれに及ばずやや圧縮されるが、搭載されているdbxシステムをONにするとダイナミックレンジが拡大され違和感はグっと少なくなる。dbxをONにすると微妙に音質に硬質感がつかなくもないが、あまり気にしていなかった。

 CDプレーヤーのDENON DCD-1630Gは内部のコンデンサーを10年程前まで製造されていた高音質で有名だった
ジェルマックスのBLACK GATEに交換し、電源のフィルターコンデンサーに100μF程度のBLACK GATEと同じジェルマックスのフィルムコンデンサー スーパーツイストLにメーカーは知らないがVITAMIN Qというオイルコンデンサーをパラ接続した。(スーパーツイストLとVITAMIN Qの容量は帯域バランスを考えて選んだが数値は失念しました。)
これがまた効果絶大。音の厚みは飛躍的に向上し潤い感、重量感が出て音楽の表情もすごくリアルになった。
当時30万円クラスのCDプレーヤーの中でも特に音質が良いと言われていたモデル(型番忘れました)と比べてもこちらの方が音質が良かったぐらいである。

この頃はデノンではなく
デンオンといった。

AIWAの高級オーディオEXCELIAシリーズの
トップモデル

プリメインアンプA-817XDに
D/Aコンバーターを搭載した
モデル

当時のなかちゃんシステム
畳の6帖間でオーディオにとっては決して条件が良いとは言えず、スピーカー台の下にブロックを置いたりと細々と対策していた。
この頃はサラウンドも行なっていたが、現在の様な
デジタルシステムはなくアナログのドルビーサラウンドである。そのサラウンドの音質は今のdtsなどとは比べるべくもなく、ちょっとそれっぽい程度であった。普段の音楽鑑賞はもちろん2chステレオ再生で聴いていた。
しかし、当時写真を撮る習慣がなかったなかちゃんだが、よくこんな写真が残ってたなと、今更ながらに感心してしまった。 この頃と前後して今までしていたバーテンの仕事を辞めた。その後2ヶ月程派遣の仕事をしたがあまりの待遇の悪さに(その会社だけだと思うが)社長室で大声で思いっきり文句を言って辞めてしまった。この後また2ヶ月程時間を作って車の免許を取った。そして次の仕事をどうしようか考えていたが、どうせなら趣味のオーディオに関係した仕事がしたいと思うようになり日本橋界隈を徘徊していたところある老舗オーディオ専門店で社員募集の張り紙を見つけた。すぐに店にいた店員さんに募集について聞いてみた。そして担当者に取り次いでもらい面接に。
採用が決まり希望の部署を聞かれたのでオーディオ売り場と答えたが、配属されたのは何故か配送課だった。
配送助手として冷蔵庫、洗濯機などの配達、取り付けを行なった。たまにテレビやビデオの配達があったのでここでその取り付け方を覚えた。ここの配送課に私のオーディオの師匠となるI氏がいた。入社後しばらくしてオーディオにすごく興味がある事を話したら、一度I氏の自宅にオーディオ聴きに来ないかと誘われたので喜んでお邪魔した。
 この事が私のオーディオ人生の本当の始まりになったのだと、今振り返って思う。
I氏の部屋に入り置いてあるシステムを見て、「うわぁ、パワーアンプが3台もあるんですね」と言ったら、これは3WAYマルチアンプと言うんだよと返事」が返ってきた。「マルチアンプ?」この時、なかちゃんはまだマルチアンプというものを全く知らなかったのである。そしていよいよ音出し。I氏がCDプレーヤーにCDをセットし再生ボタンを押した。音楽が流れ始める。
「!!!!!!!!!!!!」なかちゃんは驚愕した。
「なんじゃぁこりゃあ!!!!!」そのあまりのリアルな」再生音にひっくり返りそうになった。
次の瞬間、なかちゃんは徐にに立ち上がり、スピーカーの後ろ側へ行きスピーカーを指さしてI氏に「この中に人が入っているんだね」と言った。爆笑された。冗談で言ったのだが半分真面目に言ってもいた。
それ程の凄まじさだった。それに比べれば自分のシステムなどリアルというには程遠いものであった。
すぐにマルチアンプとは何かを教えてもらい「俺もマルチアンプやるっ」と答えていた。
それから数年間I氏の部屋に通い続ける事となる。

すぐにマルチアンプシステムを揃える余裕はなかったのだが、あまりの音質の差に今の自分のシステムでは満足出来ず、スピーカーの買い替えをする事にした。そのため、必死に働いた。
そして今度はVICTORのSX-900というスピーカーを導入した。ONKYO D-77XDが4セット程買える様なスピーカーだった。入れ替えてすぐ、その音質の違いに喜んだものである。
この会社では1年半程働いたが一緒に配達に廻っていて、先に会社をやめて新しく出来たほかのオーディオ店に勤め始めたI氏の仲介がありなかちゃんもその店に勤め始めた。ここではオーディオに触れる機会も多く、色々な機器の音を聞くことが出来た。

ある日I氏の友人T氏の内に2人で遊びに行く機会があった。T氏もI氏と同じくマルチアンプシステムで音楽聴いていた。T氏の装置はI氏とは全く違うモデルの組み合わせであったが、再生直後に、I氏の再生音とは異なる、T氏独自の再生音が鳴り出した。その音は非常にスムーズでムケが良く、空間の温度感はやや冷たい印象だったが今まで聴いたどの装置とも違うダイレクトな印象だった。その音がなかちゃんの中にある何かのスイッチを入れてしまったようだ。「この音は!! これ、この音を自分も出したい!」と思わず口にしていた。
それを聞いたI氏とT氏は揃って「じゃあ、ホーンスピーカーがいいね」と言った。なかちゃんは「ホーンスピーカー?」と聞き返した。ホーンスピーカーの存在は知っていたが、ホーンスピーカーがどんな音を出すのか、この時はまだよく知らなかったのである。


VICTOR SX-900
ウーファーは31.5cmでONKYO D-77XDの28cmより一回り大きく、ツィーターとスコーカーはダイヤモンド蒸着振動板という当時としてはかなり豪華な仕様だった。
音質はスムーズで非常に音色感が良く音楽を聴くのがより楽しくなった。

 暫くSX-900を導入したシステムを楽しんだ後、次になかちゃんのシステムに加わるのはCDプレーヤーだった。
会社の高級オーディオ売り場にあったESOTERIC(TEAC)のP・2/D・2というCDプレーヤーを聴いて、なかちゃんの中で欲しい欲しい病が発動してしまった。また一生懸命働いた。そして・・・買った。
早速自分の装置に繋いでその音質向上に喜んだものだった。このP・2/D・2は今でもなかちゃんのシステムとして稼働中である。途中トランスポーター(デジタル信号読み出し部)を後継モデルのP・2sのメカへとバージョンアップはしたが。
ESOTERIC P・2/D・2

P・2/D・2はドライブメカ(デジタル信号読み出し部)のP・2とD/Aコンバーター(デジタル信号→アナログ信号変換部)の2ボディ構成のいわゆるセパレートCDプレーヤーである。
特にP・2のメカ部であるVRDSシステムはドライブメカとしては最高の出来で
現在でもVRDSーNEO(SACD対応)として現役の画期的なメカである。

付属のP・2とD/2を繋ぐデジタルケーブル(VAN DEN FUL製)の音質はいまいちで、色々とほかのケーブルを使って、今は少し前にESOTERICが出していたERCA-100というケーブルに落ち着いている。中身は日立電線の6N-LCOFCを改良したものでエネルギー感がありヌケも良く非常にダイレクトな質感である。オリジナルの日立電線6N-LCOFCの持っていたステージの天井の低さも感じられず、オーディオ販売をしていた頃は良くお客様に薦めて購入して頂いたものです。
沢山のお客様に喜んで頂けました。

P・2のメカ部
ディスクの上部に頑丈なブリッジがあり、そこに付いている亜鉛ダイキャストのターンテーブルでディスクを固定し回転の安定性、信号の読み取り精度を向上させている。

P・2sのメカ部
P・2で亜鉛ダイキャストだったターンテーブル部が真鍮とアルミのハイブリッド構成となりより共振を抑え、読み取り精度を向上させることで音質も向上している。

ホーンスピーカーについて色々理解したところで、T氏が徐ろに押入れを開けた。中には大きな木で出来た箱が入っていた。「これ持って帰る?」とT氏が言った。「これ何ですか」となかちゃんが聞き返すとT氏とI氏が2人がかりで箱を押入れから取り出した。その箱一面には大きなウーファーユニットが付いていた。「これTADのTL1601aだよ」とT氏。なかちゃんは「ええ〜っTAD TL1601aっていったらホーン好きの憧れのユニットじゃないですかっ!」と思わず大きな声で答えた。T氏は「そうそう、その1601ね。もう使わないからあげるよ」言う。「本当にもらっていいんですか!」となかちゃん。「いいよ、持って帰り」とT氏。なかちゃんは「じゃあ、下さい!!!」と言って感動していた。そのあと3人がかりでなかちゃんの部屋まで運んだ。重かった(60〜70kg程ある)一緒に使わなくなったFOSTEXのホーンとドライバー(中高域ユニット)も貰った。
これがキッカケとなりなかちゃんのマルチアンプシステム化が本格的に始動する事となる。
この時貰ったTAD TL1601aは現在でも現役でなかちゃんのマルチアンプシステムの低域を受け持っているなくてはならない宝物のひとつとなった。

この時、よく聴く音楽はI氏やT氏の影響をモロに受けてアイドル系の歌謡曲が多くなっていた。
特におニャン子クラブのメンバーが出していたそろアルバムが多かった様に思う。
もっとも、アイドルの歌なんてと思っていたなかちゃんは彼女らがおニャン子のメンバーだったことは後になって知ったのだが。
ただ、アイドル全盛のこの時代、彼女らのCDの録音には多くの予算が掛けられていたようで、最近のアイドルのCDに比べると録音状態が良く、今聴いても音質調整に使えそうな曲が幾つもある。
悲しい事に最近のアイドルものは録音が酷く、殆ど調整には使えない。
そんなこともあり今はアイドルのもは聴かなくなった。

この頃になると生活も豊かではなかったが、多少趣味にもお金が掛けられる様になっていたので、なかちゃんのオーディオ人生は一気に加速するのである。

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なかちゃんの考えるマルチアンプシステムについて その3
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 いよいよなかちゃんのマルチアンプとの激闘の日々へ突入です。
色々アホな事もやっていますが、その全てが今のなかちゃんのシステムの肥やしとなっており、何一つ無駄だった事はないと思っています。たくさんの無駄の上に今のシステムがあるのです。失敗を恐る事はありません。失敗の全てが力になるのです。失敗なくして成功なし、と言っておきましょう。

では、次から本題に入りたいと思います。


 ここからマルチアンプシステムについてのお話を始めたいところですが、その2.5を書き終わったところでまだなかちゃんのシステムはマルチアンプになっていないので、ここではその2.5の続きから始めることにします。

 まず、その2.5で書いていなかったのですが最期のところではアンプがONKYO A-701からSANSUI AU-α607DRに変わっています。本当はAU-α607MOS PREMIUMが欲しかったのですが予算が足りず、607DRを購入したのです。DRとMOS PREMIUMでは音質は全く違う事はわかっていたのですがパワーアンプダイレクト端子が使いたかったので少し妥協してしまいました。でもこれならマルチアンプにするときにパワーアンプとして使用出来るのです。

それと話が少し前後してしまいますが、TADのユニットを譲ってもらったのはこのもう少し後のことで、この時点ではまだSX-900が現役で鳴っています。
(その2.5ではちょっと駆け足で書いてしまい、話の時間が前後してしまいました。)

暫くこのシステムで音楽を楽しんでいたのだが、オーディオ雑誌を読んでいると誌面ではいつもACCUPHASEのアンプが絶賛されていてその価格の高さもあって「凄い製品があるんだなぁ」といつも感心していた。
そしてこの時にACCUPHASEが国産メーカーだということも知りよけいに興味が」湧いてきた。
特にプリアンプのC-280Lの褒められ方は尋常ではなく、これがあれば最高のシステムになるとさえ思える様な褒め方をされていた。
雑誌を読めば読むほどACCUPHASE製品への憧れの」念が増していく。
もうお分かりだろう。
マルチアンプシステムに向けてプリアンプが必要ななかちゃんには目の毒以外のなにものでもない。

やってしまった・・・・・・・

さすがにC-280Lには手が出ないが旧モデルC-280の中古品を見つけて購入してしまった。
初めての高級オーディオである。

C-280が届いて箱から出した時にはもう頬ずりしたくなるような気分だった。
早速607DRのパワーダイレクトに繋いで音をだした。

「おおおおおおおおお〜」

感動ものである。今までと音楽の情報量が全く違う。ここまで変わるのかと衝撃を受けた。
これまでプリアンプって一体何?ぐらいに思ってたなかちゃんにとってその重要性を思い知らせてくれたアンプである。これがきっかけでプリアンプの働きを調べて、入力信号の電力増幅はもちろん、インピーダンス整合の重要性に気づかされる事になった。
この時はまだ良く知らなかったのだが、後になかちゃんはこのインピーダンス整合がプリアンプにおいてもっとも重要と考える様になるのである。

この組み合わせでの変化は大きく、この後また暫くこのままの組み合わせで音楽を聴く事になる。
それから少し時間が過ぎ、この音にも慣れてきた頃、例によって更なる高音質を求めてなかちゃんの中で何かがざわめき始めるのである。

さて、そうなると次はチャンネルディバイダーとパワーアンプです。パワーアンプはI氏のお下がりでPIONEER M-90aとACCUPHASE P-102を譲ってもらった。そしてチャンネルディバイダーだが、この時はまだ高価で手が出ないのでスロープ特性が-6dB/octのものを自作した。2way用でクロスオーバーは約500Hz付近のものだった。ただ簡易的なものだったので特性はすごくいいかげんである。
これらを使って取り敢えず2WAYマルチアンプシステムを構築する事にした。
スピーカーはSX-900を改造した。低域用ネットワークのハイカットと中域用ネットワークのローカットを取り除き低域にM-90a、中高域にP-102を接続して鳴らしてみた。


酷かった・・・・・・・・・・・


全く音楽になっていない。上下の帯域でバランスは取れていないし、-6dB/octという緩やかなクロスオーバーのせいで各帯域の重なりが改造前のSX-900より大きくなりもの凄く曖昧で緩慢な印象になってしまった。
とても我慢できない。しかしすぐにチャンネルディバイダーは買えないのでしばらくこのままで聴いていた。

それから暫くしてACCUPHASEのチャンネルディバイダー F-25の中古品がなかちゃんの勤めるオーディオショップに入荷した。

ムズムズムズムズ、、、、、なかちゃんの中で暫くなりを潜めていた欲しい欲しい病が再び発動した。
・・・・・・ローン組んじゃった。

そうしてF-25が我が家へやってきた。

F-25のスロープ切り替えには-12、-18、-24dB/octの3種類が選択出来る様になっている。
なかちゃんは迷わず-24dB/octを選んだ。このスロープ特性の選択には色々な意見があるのだが各帯域の位相が-24dB/octなら全て正相で揃う。-12dB/octなら正、逆、正、逆、・・・となり、-18dB/octなら各帯域で位相が90°ずつずれる。-12dB/octは各帯域の繋ぎ方で位相を揃える事が出来るが、-18dB/octでは位相を揃える事が出来ない。
それにどうせマルチアンプをするのならより立体感の得られやすい-24dB/octという急峻なカーブを使用したいこともあった。

そしてSX-900の中高域もネットワークをはずして、各ユニットをアンプと直結出来る様に改造した。
高域用パワーアンプにAU-α607DRのパワー部を使用しいざマルチアンプ始動!

おお〜っ、今までと全然違うじゃないか。決して各帯域の音が揃っていた訳ではないが、マルチアンプらしい彫りの深さがあり、一つ一つの音がすごく細かい。それに鳴りに力強さがあり聞いていて気持ち良く感じられた。

それからF-25の各帯域のゲインも細かく調整し、つながりを少しでも良くしようと試みた。
クロスーバーは低域側が500Hz、広域側が5kHzだった。ほかの周波数も試したが、この組み合わせではこれが一番良く感じられた。

この時点ではまだなかちゃんは各帯域の本当の意味での繋がりという事を理解していなかったので、大きな違和感を感じることなく暫くこのシステムを楽しむ事となる。


SANSUI AU-α607DR

SANSUI AU-α607MOS PREMIUM
PIONEER M-90a

ACCUPHASE P-102

音色感の良さと弾力的な低域が魅力敵だった607DR
このクラスのプリメインアンプとしては良く出来た方だったと思う。

AU-α607DRのパワー段にSANSUIお得意のMOSFETを使用したモデル。質感など607DRとは一線を画す音質で上級モデル707DR、場合によっては907DRよりも魅力的なモデルだった。ボリューム感がありドッシリイイとした低音が印象的。質感は単体パワーアンプの実力かプリメインアンプの607DRとは次元の違う凄さを発揮した。ACCUPHASEのアンプの中では当時唯一のA級駆動アンプ。質感、音色の再現性が良く、落ち着いて音楽を聴く事が出来るアンプだった。
ACCUPHASE F-25

ACCUPHASEは常に製品ライナアプの中にチャンネルディバイダーを用意している唯一のメーカー。当時ACCUPHASE製品」は国産アンプの最高峰と歌われなかちゃんも憧れていたメーカーのひとつである。(この時は)
チャンネルディバイダーは当時他に選択肢はなく、このF-25はマルチアンプ信者御用達のモデルともいえた。

この頃はどんな音楽を聴いていたかな?
I氏からの影響でアイドルものもあったが、アイドルじゃないポップスや洋楽も一部あった様に思う。
ただ、気楽聴いているというよりは、細かいところをああでもないこうでもないといいながら聴いていた。
いわゆる重箱の隅をつつくような聴き方だった。今考えると音を楽しむのではなく音に苦しんでいたという状態である。しかし、当時事はそれが楽しかったのである。少しづつ少しづつ音が良くなっていくのを感じながらわくわくしたものだ。まだ青かったといえばそれまでだが、こういう段階を踏んできたのも今のシステムに行き着くために必要だったのだろう。まだ、音楽ではなく音を聞いていたのだ。


ACCUPHASE C-280

ACCUPHASE C-280内部構造

ACCUPHASE C-280シリーズは当時オーディオ雑誌で絶賛の嵐であり、多くのオーディオファンが憧れたプリアンプである。内部も各ユニット毎に専用シールドボックスに収められておりその構造の美しさも絶賛の対象となった。音質だけでなく高級機ならではの操作感の良さなどマニア心をくすぐる製品であった。

ここで遂にTADユニットの登場である。

T氏から譲り受けたTAD TL1601aとFOSTEXのホーンユニットを部屋に持ち込んで早速SX-900と入れ替えた。
2WAYシステムとなり、セッティングなどは全く出来ていない状態だがそれでもTL1601aの余裕の低域とFOSTEXのホーンユニットから出る抜けの良いダイレクトな中高域はSX-900とは次元を異にするものであった。
なかちゃんは歓喜した。
しかし、いかんせん高域が伸びない。するとI氏から「今使っていないホーンツィーターがあるから使ってみる?」と提案が。言うまでもなく飛び付いた。
I氏が譲ってくれたのはCORALのH-100というホーンツィーターだった。
これを繋いで遂に3WAYホーンシステムが完成するのである。

良い  非常に良い

ダイレクトでヌケが良く音が飛び出して来る。

すると今度は高域のAU-α607DRが非力に感じられる。
せっかくのホーンシステム。そして嬉しさのあまり思い切って高域にも単体パワーアンプの導入を決意した。

丁度I氏がパワーアンプを1台入れ替えるタイミングだったのでお下がりのSANSUI B-2103MOS VUNTAGEが我が家にやって来た。(因みに、タダで譲ってもらったのはT氏からのTADとFOSTEXだけです)

SANSUI B-2103MOS VINTAGE
内部構造

SANSUI B-2103MOS VINTAGEは低域の駆動力の強さとシッカリとした質感で評判だったB-2102MOS VINTAGEの後継モデル。ややソリッドだったB-2102MOS VINTAGEに比べ、音に柔軟さが加わりしなやかで柔らかい表現も聴かせてくれた良くできたパワーアンプである。

SANSUI B-2103MOS VINTAGEを導入し、M-90a、P-102と色々鳴らし比べて低域にM-90a、中域にP-102、広域にB-2103MOS VINTAGEを使う事にした。B-2103MOS VINTAGEはどの帯域の音も良くできれば低域に使って安定感を出したかったちょころだが、この組み合わせではM-90aが低域以外で使い物にならず、P-102が良いのは主に中域付近の音質だったので自動的にB-2103MOS VINTAGEは高域用となったのである。

大きな不満もなく、この状態は暫く続いた
 次にオーディオ機器を購入するのに2年程時間が空いた。
その間になかちゃんは初めて自分の車を買った。この頃は生活も少しは安定してきていたので念願のマイカーである。買ったのは三菱のFTOというスポーティーカーだった。そのフォルムとエンジン性能に惹かれて買った。
2000ccのNAエンジンだったが当時この仕様で最高の200馬力/20.4kg・mというスペックだった。
この車ではI氏(TOYOTA MR-2ターボに乗っていた)と二人でよく走りに行ったものだ。走り屋という程のことではないが、峠の下りをハイペースで走ったりした。オーディオ以外で初めて楽しいと思った事である。
今はもう落ち着いてしまってそんな走りもしないが、運転そのものは好きである。(今はTOYOTA プログレ)


三菱 FTO GPX

初めて買った車でもあったせいか、非常に気に入っていた。
足回りと駆動系をいじっていた。オーリンズの20段調整ショックや強化クラッチ、ギア比の変更などもした。特に強化クラッチの効果は絶大でトラクションがダイレクトにタイヤに伝わり、いかにも走ってる感があった。
後に家族からの後ろに人が乗れない!というクレームによりセダンに乗り換える羽目になる。

下の画像は実際になかちゃんの乗っていたFTO GPX

 さて、その3でマルチアンプの話を完結しようと思っていたのだが、書いてみるととてもここで完結させられない事に気づいた。まだこれからもなかちゃんのオーディオ遍歴は続くのである。車の話など余談もあったが、次になかちゃんに起こるオーディオ歴の中でも最大級の衝撃は次回に持ち越す事にしようと思います。
まさかその4を書く事になるとは思わなかったが、この分だとその5も書かなきゃならなくなりそうだ。

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なかちゃんの考えるマルチアンプシステムについて その4
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その3で揃えたシステムでようやくマルチアンプらしい音になったなかちゃんシステム。これは良いなどと思いながら暫く楽しんでいたのだが、プリアンプにACCUPHASE C280を導入してから約2年程経った頃、音楽を聴いていてどうも釈然としない感覚が自分の中に芽生え始めてきた。

最初、これは一体なんなんだろうと思いながら聴いていたのだが、ある時ふと気づいたのだった。

「これ、音のヌケが悪い・・・」

そう、なんだかよそよそしく聴こえるというか音が前へ出てこない事に気づいたのである。
一体何が原因なんだろうと考えたがすぐにはわからなかった。
たまたまCDプレーヤーにアッテネーター(ボリューム)が付いていたので試しにプリアンプを外してCDプレーヤーをチャンネルディバイダーに直接繋いで聴いてみた。

「エエッ!?」

何と、音のヌケが俄然良くなった。
まさか、ACCUPHASE C280が原因なのか?気に入って使っていたので少なからずショックを受けたが、一度そう思ってしまうともうどうしようもない。
但し、一言断っておくと音のヌケは良くなったが音楽の情報量はガタ落ちである。プリアンプの持つ意味は大きく90年代前半に一時的に流行ったパワーアンプダイレクトはなかちゃんにとって音楽の空間表現を感じ取れないお馬鹿な評論家の戯言に過ぎなかった。しかし、そのためにプリアンプの必要性がわからなくなってしまった人も多く、パワーアンプダイレクトを雑誌などが良いと取り上げる度に腹立たしい思いをした。
もっとも、繋ぐとシステムの音が悪くなる、「プリアンプ」と称した酷い製品も多かったが。
もちろん勤めていたオーディオショップでなかちゃんはお客様に「パワーンプダイレクトは絶対にしてはいけないと散々伝えた。聞いてくれたお客様は半分程度だったが。
(パワーアンプダイレクトなんかクソくらいだ!!!←なかちゃんの叫び)

そして、暴挙に出た・・・・・・・

当時ACCUPHASE C280と並び称されていたSANSUI C2301VINTAGEとEXCLUSIVE C5という当時の国産最高峰のプリアンプ2台を購入したのである。もちろん経済力がそれ程ある訳もなく、どちらも中古品を探しての購入であった。

目の前にあのC280とC2301VINTAGEとC5が3台並んでいる。
はやる気持ちを抑えつつ、まずC280を繋いで聴いてみる。

「いつもの音だ。」(そりゃぁそうでしょう)

次にC280とSANSUI C2301VINTAGEを繋ぎ換えて同じ曲をかけてみる。

「こっ、これは!!!!! 全く違うじゃないか!」(驚)

C280に比べて音のヌケが断然良い!更に質感、情報量共こちらの方が良く感じられた。
どちらも国産最高峰、どうしてこれ程違うのか。この事実に少しの間戸惑った。
もう一度C280に戻して聴いてみる。

やはり音のヌケがあまり感じられなくなる。C280は非常に端正で折り目正しいというか、背広をビシツと着こなしたビジネスマンとでも言おうか、決して羽目を外す事がない。ちょっとお堅いイメージなのである。
それは悪い事だとは思わないのだが、困った事にノリの良いジャズやロック系の音楽を聴いている時でも、演奏者がスーツ姿で直立不動のままクソ真面目に演奏しているのである。
ジャズがスイングしない。ロックから魂の叫びが聴こえてこない・・・

もう一度C2301VINTAGEに換えて聴いてみた。

ジャズはスイングしロックからは魂の叫びが聴こえる。
やはりこの違いは間違いじゃない。そう思った。勝負ありだと思った。

次にEXCLUSIVE C5を繋いで聴いてみた。

「ムムッ、これもいいじゃないか」

音の出方が非常に自然である。質感、情報量も申し分無く、また帯域バランスも非常に良い。
いい意味でフラットバランスなのである。音にクセも感じられない。

この時点でC280を手放す事を決意。実に他のプリアンプ2台と比較してすぐの決断であった。

まさか2年程愛用していたC280をこんな形で手放す事になるとは思っていなかったが、他の2台を無理して購入しただけに、これを手放さないと経済的に全く余裕が無い。

C280は写っていないが、左下のシルバーのアンプが
EXCLUSIVE C5 右上のブラックのアンプがSANSUI C2301VINTAGE
我ながらなんとも贅沢な光景である。

さて、そうなると問題はC2301VINTAGEとC5のどちらを選ぶかである。
C2301VINTAGEは実に聴かせる音作りであり、ボーカルの質感がすごく良く音に潤いが感じられる。非常に魅力的である。特に女性ボーカルなどは絶品と思える程である。これは素晴らしい。

対してC5である。フラットなバランスでどこといっておかしなところも感じられない。
C2301VINTAGEに比べてスッキリとしていてクリアーな印象である。これはC2301VINTAGEで決まりかなと思ったのだが
不思議とこのC5は聴けば聴く程何かが心に響いてくる。

これは何だろうと思いながら、決断出来ずに2ヶ月が過ぎた。

決めた。C5を残そう。

C2301VINTAGEの魅力に感じ入りながらも、何故C5を選んだのか。
C2301VINTAGEは確かに魅力的で感じるものがある音である。しかしボーカルは良いのだがバックの演奏とボーカルの対比に少し違和感が感じられた。
クラシックなどでもそうなのだが、メインの音(ボーカルやソロ楽器)にスポットを当てた様な印象で伴奏が少し小ぢんまりと聴こえてくるのである。トータルとして楽曲のバランスに少し違和感を感じてしまう。
C5はそのあたりのバランスも非常に良く全く違和感がない。

C2301VINAGEがとても美味しい味付けがされた料理だとするとC5は味付け前の素晴らしい食材とでも言おうか。
今後、自分の求める音作りをしていく上でC2301VINTAGEの良さがかえって足枷になってしまうと感じたのである。
その点C5はやり方次第でどの様な音にもなり得るだろうと感じた。

そしてC2301VINTAGEもなかちゃんのもとを去っていくのである。
苦渋の決断だった。


SANSUI C2301VINTAGE
その潤い感豊かな音質は魅力的。
ガラス張りフロントパネルの美しさも絶品である。

EXCLUSIVE C5
シンプルなデザインのシルバーパネルにローズウッド製のケースが高級感を醸し出すC5。
音質は癖がなく素直で非常に良く練られた設計を窺わせる。

SANSUI C2301VINTAGE
C2301VINTAGE内部構造

EXCLUSIVE C5

C5内部構造

こうしてなかちゃんのプリアンプはEXCLUSIVE C5に落ち着いた。

この時、既にC5の後継モデルとなるEXCLUSIVE C7が発売されていたのだが120万円というその価格になかちゃんは手も足も出ない。でも1世代前のモデルとはいえその時の最高級モデル(一時は3台も)を所有する喜びみたいなものを感じていた。
ちょうどその頃、低域用に使っていたパワーアンプPIONEER M-90aの調子が悪くなり・・・というか壊れた(ガクッ)
M-90aはB2103MOS VINTAGEやP-102に比べると音質的にワンランク劣る印象があったので、内部を結構いじり倒していた。そのため基盤のパターンが浮いてしまったりなど何度か修理に出したり、基盤ごと交換したこともあったが、遂になかちゃんの酷な使い方に音を上げてしまったのだろう。(M-90aちゃん、ごめんなさい)

しかし、タイミングが良いというのか、その後すぐなかちゃんの勤めているオーディオショップにACCUPHASEのM-60というモノラルパワーアンプの中古品が入荷してきた。C-280での事もあり最初はあまり感心を持たなかったのだが、実際に試聴してみて「あれっ」と思った。C-280の時に感じたヌケの悪さがあまり感じられない。それにモノラルアンプの良さか価格帯がなかちゃん所有のパワーアンプよりも上級グレードのものであるせいか、なかちゃんの使っているパワーアンプより明らかに音質が良かったのである。
それに年式が古い事もあり販売価格もかなり手頃なものだった。

買ってしまった。(店員が買ってしまって、お客様ごめんなさい)

早速持って帰ってモニター用に使っていたPIONEER S-101CUSTOMというスピーカーに繋いで鳴らしてみた。

「良いではないか。エヘヘヘヘ」

ちょっと頬が綻んだかもしれない。
音場のスケール感も他の所有アンプよりあったので低域用に使おうと考え、M-90aの受け持っていた低域に繋いでみた。

「おお〜っ、良いではないか〜」

M-60の音質はやや緩い印象はあるものの、自然な音色感で中域に使っていたB2103MOS VINTAGEとの繋がりにも違和感はあまりなかった。寧ろM-60の受け持つ低域だけが他の帯域より音質が良く感じられ少しバランスを崩してしまった感は否めないが・・・。

ACCUPHASE M-60

M-60内部構造

ACCUPHASE M-60
なかちゃんにとって初めてのモノラルパワーアンプ 1台で一つのスピーカーを鳴らすアンプなのでステレオ再生では2台1組となる。
このアンプがモノラルパワーアンプのゆとりある再生音をなかちゃんに教えてくれた。

そうなると他のパワーアンプももっと良くしたくなるのが人情というもの。(なんと身勝手な屁理屈)
我慢出来ない。M-60購入から暫くして店に入荷したEXCLUSIVE M4aを購入した。(お客様 ごめんなさい)
この時、ACCUPHASE P-102が下取りに出された。

EXCLUSIVE M4aもまずPIONEER S-101CUSTOMに繋げて聴いてみた。

良い。非常に良い。

色彩感豊かなその濃密な音質はすぐになかちゃんの気に入るところとなった。
いい感じだったので暫くこのままM4aの音を楽しんだ後、いよいよマルチアンプシステムに組み込む事になる。

M4aのこの濃くて色彩感溢れる音質はもちろん中音域に使わなければとなかちゃんは確信していた。
が、しかし・・・・・・・

予期せぬ事態が起こったのだ。

M4aを中音域に繋いで鳴らしてみたのだが、音が引っ込む。全然前に出てこないのである。

「あれっ どうなってんだ」

なかちゃんは不思議に思った。これだけで聴いていればそんな事は全くなかったのだが。
エージング(鳴らし込みの事)が必要かなと思い暫く我慢してその音で聴いていた。
1週間が経った頃

「これは変わらんなぁ」

と悟った。どんなオーディオ機器にもエージングは必要だが1週間もすれば、その変化の方向性ぐらいは見えてくる。しかし今回はその兆候すら全くないのである。

M4aを中音域に使うのは諦めて、今度は低音域用のM-60と入れ替えてみた。

「うわぁ〜  もっと酷い!」

音が完全に詰まっている。中音域の時よりもっと引っ込んだ感じでもぞもぞした印象だ。
仮にエージングで変わったとしても、それで使い物になるレベルではない。

正直あせった。単体ではACCUPHASE P-102をはるかに凌ぐ表現力を持っているのに、マルチアンプシステムで使うとどうにも出来ない。尤も、他のアンプが同系統のものなら素晴らしい結果が出たのかも知れないが。

しかし気にったアンプだし手に入れたばかりなのでなんとかしたい。
最後に高音域に繋いでみた。

「おおっ、いけるじゃん」

今度は音が引っ込む事なくちゃんとヌケてくる。そして緻密な音である。

「よーし! OK!」

となったが、なんだこの耳に刺さる様な鋭さは。
まるでツィーターから針が飛んでくる様な鋭さである。
あの温かみがあって色彩感豊かなM4aがどうして・・・・・
この時なかちゃんは知ったのだ、アンプによっては単体で聴いていた時の良さがマルチアンプシステムに組み込むと必ずしも発揮されるとは限らないという事を。

なんとも奥深い事か・・・

でも、マルチアンプを始めた頃に比べれば遥かに音は良くなっている。

PIONEER S-101CUSTOM

PIONEER S-101CUSTOM
実はコノスピーカーは昔ONKYO D-77XDと同時にサラウンドのセンター用として購入していたもの。
当時はこの小型2WAYスピーカーがD-77XDより良い音に聴こえるのが不思議だったが
そのせいもあってかずっと手放せなくて持っていたものである。素直な音質と引っ掛かりのないスムーズな音の出方で今思えばすごく良く出来たスピーカーであった。独自のミッドシップマウント方式も音質に非常に効いていたと思う。
S-101CUSTOM内部構造


EXCLUSIVE M4a

EXCLUSIVE M4a
プリアンプのC5と同じくローズウッドのケースに収まったメーターのみのパネルデザインは高級感満点である。パワースイッチなどはフロントパネル下部のシーリングパネル内に収まっている。
なかちゃん初の純A級アンプ。天板に空いた放熱孔の上では本当に目玉焼きが焼けると思う。手で触ったら1秒と触っていられない。「熱っ」となるのである。

今回も話が長くなってしまいました。前回申し上げた衝撃の出来事(まあ、心を奪われたアンプとの出会いとでもでも言っておきます)までまだ暫く時間が掛かります。次回でもそこまで話が進まないかも知れません。
しかし、この時点でなかちゃんはまだ20代後半。(前回から歳取ってないんじゃぁという声も聞こえてきそうですが(^^ゞ )どんだけ濃いオーディオライフと言うか、どれだけオーディオと格闘しているんだろうと今更ながらに思う。
もっと短く終わると思っていましたが、まだまだ続きます。
こうなったら、端折らず出来るだけ細かく書いていきたいと思います。

次回その5にもご期待(?)下さい。

http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/aruchiannpusisutemu4.html


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なかちゃんの考えるマルチアンプシステムについて その5
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 その4で組んだシステムでそれなりに音楽を楽しんでいたなかちゃんだが、ある日I氏と話している中で「モノラルアンプってやっぱりいいよね」とM-60での体験もあったのでその良さを実感していたのだ。

するとI氏は「EXCLUSIVEのM5aが凄くいいよ」と言った。
この発言がなかちゃんの欲しい欲しい病に火を付けた。
しかし、大枚1本に手が届きそうな価格のM5aを買うだけの経済力がなかちゃんにあるはずがない。

悶悶とした日々が続く・・・
しばらく経って、中古品ならなんとかなるかも、と考える様になった。といっても中古品でも新品の半額ぐらいはするのでそれでも高額なものだった。
それに滅多に中古品が出るアンプではなく(所有者は皆、気に入って使っているのだろう)なかちゃんの勤めるオーディオショップはもちろん、他でも見かけた事がない。そんなある日、東京の某有名オーディオショップの中古品広告にEXCLUSIVE M5aの記載があった。価格も相場に比べて高くもない。意を決してなかちゃんはそのオーディオショップに電話してみた。

なかちゃん 「雑誌広告見たんですが、EXCLUSIVEのM5aまだありますか?」
ショップ店員「ああ〜、M5aはもう売れてしまいました。」

当時、M5aの中古品は出ればすぐに売れる程の人気アンプだったので掲載にタイムラグのある広告に載った時点で既に売れてしまっていたんだろう。

ショップ店員「よろしかったら入荷予約という事にさせていただきましょうか?」

もうその気になっていたなかちゃんにはこの提案を断る理由がなかった。

なかちゃん 「では入荷予約でお願いします。」

とはいってもそうそう中古品が出るアンプではないのであまり期待せずに連絡を待つ事にした。
 1ヶ月が過ぎた。なかちゃんはM5aの事はあまり意識しなくなっていて、いつもどおりの日常(いわゆるオーディオ漬けの日々)を送っていた。
そんなある日、滅多に鳴らないなかちゃんの携帯電話が鳴った。誰からだろうと思いながら(当時の携帯は相手の名前を表示する機能などない)出てみると、例の東京のオーディオショップからだった。

ショップ店員「EXCLUSIVE M5aが入荷しました」
なかちゃん 「ええ〜っ、入荷したんですか!」
ショップ店員「はい。滅多に入荷しないんですがたまたま入ってきました。どうされますか?」
なかちゃん 「買います!」

もう、即答だった。これを逃したら二度と手に入らないかもしれないと思ったからだ。

そしてM5aがなかちゃんのもとへやって来る事になる。
M5aはすぐに届いた。(対応速いね)

入れ替えでSANSUI B2103MOS VINTAGEがなかちゃんのもとを去っていく。いいアンプだった。

まず、S-101CUSTOMに繋いで鳴らしてみた。

「!!!!!!!!!!」
「こここ、これはぁ〜っ!!!!!」

もう、形容のしようがない。M5aの作り出す音楽再生空間はなかちゃんを吸い込むかの様に部屋中に広がり、またなかちゃんの心にダイレクトに入ってくる。

「この音だ!この音!!」

感動ものであった。
なかちゃんがこれまでイメージし続けた理想の表現力だった。 惚れた・・・
EXCLUSIVE M5a

M5a内部構造

EXCLUSIVE M5a
当時EXCLUSIVE(PIONEER)の最高峰パワーアンプ。この後すぐに後継機M7が発売されたがM5aの2倍の価格でなかちゃんとは縁がなかった。
M5aは擬似A級動作で300Wの大出力アンプ。擬似とはいえ通常使用の領域では殆ど純A級動作に近く、M4a程ではないが点天板は相当熱くなる。
A級動作のために専用の電源トランスと大容量フィルターコンデンサーが搭載されており、内部構造左側のトランス(四角いケース)1個と真ん中のコンデンサー(丸いやつ)の一番後ろの一つがそれである。M4aと同じ意匠のデザインはなかちゃんの気に入るところである。

 M5aの音・・・それは一言ではなかなか表現出来るものではないのだが、敢えて語ってみよう。
M5aを販売店などでちょい聴きした人もいると思う。しかし、その時に組み合わされていた他の機器などによってはM5aの良さがすぐに伝わらない事もあると思う。M5aは何気ないというかさり気ないというか、最初はサラッとした印象を受けることも多い。しかしこのさり気さは重要である。オーディオ機器に期待を寄せるが故にその音に濃さやインパクトを求めるといった事がよくある。だが、なかちゃんの経験上ではそういった機器は悪くはないのだが、往々にしてその後使い続けても最初に受けた印象と違う音を出せないという場合が多い。その音が好きならなんの問題もないが、色々な音楽をそれぞれの持つ表現力で楽しみたい時、その味わいが足を引っ張る事がある。
なかちゃんの求めていたのはどんな音楽でもその良さが伝わってくる様なアンプだったので、このM5aの何気ない鳴り出しに期待が持てた。そして暫く鳴らしていると、実はその音が非常に濃いものである事に気づく。
クリアーな空間の中から色々な音が実体感を伴ってスーッと出てくる。生々しさが感じられる。
そして時折「ハッ」とする様な表現を聴かせるのである。その音になかちゃんはゾクゾクした。
なかちゃんの五感は研ぎ澄まされ音楽空間の中にその身を委ねる。そんな感覚だ。
聴く音楽を変えてみる。すると今度はさっきまでと違うその曲独自の表現が伝わってくる。
更に曲を変えてもM5aはその曲の持つ表現を克明に伝えてくる。

まさに噛めば噛むほど味が出るというもいの。

最早逃げ出す事の出来ない世界に飛び込んでしまった。

 このアンプとの出会いがなかちゃんの音楽に対する感性を数段引き上げたようだ。音楽の聴き方が変わってしまった。振り返れば今までなんと細かな事にこだわっていたのか。解像度がどうとか、周波数レンジがどうとか、まるで重箱の隅をつつくような聴き方をしていたことを思い知らされた。
音楽の楽しさはそんなところにあるものではなかったのである。
音楽は体で聴くというか、全身で感じるものだったのだ!これまでは音楽を聴いていたのではなく分析していたのだ。愚かだった。
もう細かい事などどうでもよい。いまこの至福の時をずっと感じていたい。それこそが音楽の持つ本当の力なのだ。このアンプだけは今後何があっても手放せない。そう思った。
 この後M5aをマルチアンプシステムに繋ぐ。これだけの表現力を持ち合わせているので、主旋律が最も多い中音域に繋ぐ事にした。

良い

今までとは全然違う良さが感じられる。デザインも気に入ったM4aとM5a(あとM-60も)が並んだラックを眺めながら恍惚に浸っていたものだ。

 だが、オーディオ好きの悪い癖か、こうなると唯一ステレオパワーアンプだったM4aもモノラルパワーアンプにしたくなってきたのである。M5aがあまりに良いため、他の帯域が寂しく聴こえるのだ。
この後、一度使ってみたいと思っていたESPRIT(SONY)のTA-N900というモノラルパワーアンプを探して手に入れた。M4aを下取りに出した。M4aは中古市場でもかなりの人気で良い値で売れた。かなり気に入っていたアンプだったので手放す時はかなり惜しい気分だったが経済的に致し方ない。

 そうして全てのパワーアンプがモノラルアンプとなったなかちゃんのマルチアンプシステムが誕生した。
最後に入れたESPRIT TA-N900は密度感がありハッキrとした音で歯切れもよく積極的な印象の鳴り方だった。
やや音に明るめの色が付く印象があったが、細かい事は気にせず使う事にした。中音域はM5aで決まりなので、低音域と高音域に繋いでどちらで使うか決めることにした。

まずは低音域。音が締りバスドラムやベースの音がグイグイと前へ出てくる。ドライブ感がある。それはそれで良いのだが、ちょっと音が締まりすぎる。他のアンプとの対比で締まり過ぎてちょっと窮屈に聴こえる。高音域に繋いだM-60も元々再生周波数レンジの広いアンプではない事もあって、特に魅力が感じられない。

今度はTA-N900を高音域に。こっちの方がバランスが良い。中低域はこれまで通りで高音域からM4aで感じられたどぎつさが消えた。全体的に明るめな印象が加味されてしまうが、この組み合わせがベストだろう。


当時のなかちゃんシステム
置き場書が足りないためESPRIT TA-N900がスピーカーの上、ホーンの両外側に置いてある。
スピーカーに付いている「YAMAHA」のロゴはこのスピーカーとは無関係で前所有者がたまたま持っていたバイク用のステッカーを貼ったもの。スピーカー後方に置いてある白い衝立の様なものは吸音パネルであるが、この吸音パネルは殆ど効果がなかった。今も持っているがスピーカー後方の飾り(?)みたいなものになっている。

 これまではアンプの事ばかりだったが、ここにきて新たな問題が浮上する。
アンプの音質がかなり良くなったせいか、スピーカーの悪い部分がハッキリと再現されてしまうのである。
中音域に使っていたFOSTEXのホーン+ドライバーの音が薄く聴こえるのである。
このホーンは音のヌケも良く気持ち良い鳴り方をしてくれていたのだが、背後に取り付けられたドライバー(ホーンユニットに於ける振動板部分。この場合はリアコンプレッションドライバー)が原因の様だ。

アンプを換えたばかりなので少しの間はチャンネルディバイダーの調整やスピーカーユニットの位置合わせ(位相調整:この場合は各ユニットの前後位置調整)をしていた。調整によってかなりいい感じにはなったが、やはりドライバーの音の薄さは変わらない。
ここでなかちゃんはドライバーの交換を決断するのであった。
とはいってもこの譲ってもらったホーン+ドライバーのセット、最初から色々な対策がされていてホーンの上下に想版が貼ってあったりその上にビロードが貼られていたり、ドライバーもエポキシ樹脂で固められていてホーンとドライバーを取り外す事が出来ない。これだとホーンも交換せざるを得ない。
ドライバーはウーファーと同じTAD(TECHNICAL AUDIO DEVISES:PIONEERの業務オーディオ部門です)のTD2001と決めていたのですが、TADにはTD2001に合うホーンが用意されていない。1サイズ大きなTD4001ならそれ用のTH4001というホーンがあるがあまりに高価でとても買えない。それにこの部屋には大き過ぎて使いづらい。
そこでドラーバーはTD2001とし、ホーンは他メーカーのもので使えるものを探す事にした。

色々調べているとサイズ敵にも丁度良く、価格も手頃なホーンが見つかった。SANOというメーカーのSN500SUというモデルだ。


TAD TD2001

SANO SN500SU

TAD TD2001
振動板にベリリウムを使用。よくあるアルミニウム振動板に比べて再生音に癖が少ない。アルニがやや軽い音でパリッとした乾燥した印象なのに対して、重量感や潤い感がしっかりと再現されると感じている。
マグネットには強力なアルニコマグネットが採用されていて反応が良く繊細な音が出る。振動板の前部にスリット状のウコライザーが付くリアコンプレッションドライバーである。スロート径(音の出口)は2インチ(約5cm)で振動板は1インチ(約2.5cm)のいわゆる1インチドライバーである。
なかちゃんが購入した時に比べて物価、原材料価格の高騰などの影響もあり、今ではその定価は当時の2倍程になっている。

SANO SN500SU
確か材質はミズメザクラだったかと思う。非常に質感の高い仕上げである。ホーンの曲率はエクスポーネンシャルカーブ(指数関数曲線)になっていた。スロート出口(ホーンの奥の方)に5枚のフィンが付く。価格は当時のホーン相場からしてもかなりお買い得だった。そのかわりこのホーンは完成品ではなく、各パーツがバラバラの状態で販売されていた。購入後、自分でドライバー片手に組み立た。元々2インチドライバー用のホーンだったので同社の1インチ→2インチスロート変換アダプターを取り付けて使っていた。
なかちゃんが手の出なかったTAD TD4001ドライバーとTH4001ホーンTD4001は材質などはTD2001とほぼ同じだがサイズが全く違い、その再生音も凄いもの。殆ど金属の塊みたいなユニットで一人で持ち上げるのもやっとの重さ。TH4001はイタヤカエデ材となっており。TD4001と一緒に名機EXCLUSIVE 2402(スピーカー)に搭載されていた。間もなくSANO SN500SUを購入した。
早速FOSTEXのホーン+ドライバーと入れ替えた。


「うわぁ〜〜〜!  失敗したぁ〜!!!!!#$%&’%#$”##%$&’%$#」


確かにTD2001の方は全く問題ない。いやかなり素晴らしい。
だがSANO SN500SUの方は・・・・・
音が前へ出ないというより、左右方向によく広がる。ステージの広さとかはよく再現されるのだが、やんわりとした音でいまいちハッキリしない。ゆったり穏やかに聴いている分には悪くないが、音楽に躍動感やノリの良さ、エネルギー感を求めると全然ダメである。

ホーンスピーカーの音に引っ掛かりがなくスーッと出てくるところが好きななかちゃんにとっては方向性が全く逆のホーンだったのである。

ホーンというのは言ってみれば音響を考慮した筒みたいなもので、ドライバーを付けて他の帯域を受け持つユニットと繋いで初めて音がわかるものなので、購入前に試聴をすることは不可能である。SN500SUの購入もなかちゃんにとって冒険だったのである。しかし、見事に外した。好みや使い方によってはこのホーンでないといけないという方もおられると思うが、少なくともなかちゃんの望んでいたものではなかった。
しかし、またすぐに買い換えるなどということは出来ないので暫くこのホーンを使う事にした。
そんなある日の事だった。事件が起きた。
高音域用に使っていたCORAL H-100の一方が突然鳴らなくなった。最初は何が起こったのかわからずアンプやチャンネルディバイダーなどをあれこれチェックしていたが、どこにも問題はない。まさかと思いH-100を確認しようと持ち上げた。その時・・・・

カランカラン・・・・・・・・

「エッ」

H-100の内部から何かが転がる様な音が。

「ああっ 何か外れてる!」

どうもH-100の内部でスピーカーケーブルの端子が外れてしまっている様だった。構造的に専用の道具がないとこのホーンはバラす事が出来ない。メーカーへ修理に出すしかないのだがすでにCORAL社はなくなっていた。
どうしようもない状態である。自分でバラそうと試みたが、全く開ける事が出来ない。いくつかの業者に問い合わせたが修理は不能だった。

何故、突然こんな壊れ方をしたのだろうか?ほとんど動かすこともなく衝撃を与える事もなかったのに。考えられるのは使い始めた時から何かが外れかかっていたのかもしれないという事だが、今はそんな事を考えても仕方がない。
取り敢えずチャンネルディバイダーの設定を変更してツィーターなしの2WAY仕様にして聴く事にした。

2WAY仕様で少しの間聴いていたが、高音域があまり伸びない音にいつまでも耐えられなくなったなかちゃんは、再びお得意の暴挙に出る。

「出よ、欲しい欲しい病〜〜〜」

と言ったか記憶は定かではないが、ホーンツィーターの購入を決意した。
今まで散々色々と使ってきて(紹介していない小物もいっぱいあります)中途半端なものを買うとろくなことはない、大概は使い物にならない事を少しは学習していたので今回はシッカリとしたものを用意しようと思った。

それはEXCLUSIVE ET-703だ。基本的にTAD TD2001と同じ設計思想で作られており、音質的にもちゃんと合う事はわかっていた。


CORAL H-100

CORAL H-100
ホーンらしいヌケの良さがあり気持ちよく鳴ってくれた。音質には多少荒っぽいところもあったが、それも個性と鳴りっぷりの良さを楽しんだものである。

不意のお亡くなりにはショックを受けた。


EXCLUSIVE ET703

EXCLUSIVE ET703
EXCLUSIVEはPIONEERの高級オーディオブランド。このET703はEXCLUSIVEブランドだが、業務ブランドTADと同じ設計思想で作られており、音質的にも似た性格を持つ。振動板はTD2001と同じベリリウムとなっており、マグネットには強力なコバルトマグネットが使われている。

買った。ET703を買った。今思えばあの時無理して買っておいて良かった。TD2001同様現在その定価は思いっきり高くなっている。定価は2倍以上になっているのだ。

ET703は大正解だった。CORAL H-100とは一線を画す高音質でヌケが良いだけでなく、非常に緻密で透明度が高い。
歪も極めて良く抑えられており高音域の5kHz以上(-24dB/oct)でこれだけ鳴らしても歌声がクリアーにハッキリと聴こえる。JBLなどの同クラスのツィーターで同じ事を試した事があったが、もうジャリジャリで歪みが多く何を歌っているのか聴き取れないぐらいだった。
ET703は予想以上の音質だった。

これで再び3WAYマルチアンプシステム音楽を楽しむなかちゃんなのであった。


このまま順調にオーディオライフが続けば良かったのだが、

この後、またなかちゃんは不幸に見舞われるのである。

だが、この時なかちゃんはそんなことを知る由もなかった。

http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/maruchiannpusisutemu5.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1025.html#c5

[リバイバル3] チャンネル・デバイダ―は使ってはいけない 中川隆
6. 中川隆[-12000] koaQ7Jey 2020年7月28日 16:59:41 : qvCpCPFxe6 : SXdLWFhadjI5eHM=[33]
なかちゃんのシステム紹介
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/nakacyannosisutemu1.html

現在、なかちゃんがどの様なシステムで音楽を楽しみ、このホームページで色々と語ろうとしているのか、紹介させて頂こうと思います。

しかし、なかちゃんのシステムはあくまでもなかちゃんが音楽を思った音で楽しみたいための道具であり、もし同じシステムを他の人が使ったらなかちゃんとは違う音になるという事を最初に申し上げておきます。

そう、オーディオとは装置だけの音ではなく、それを使っている人の音になるのです。
ひいては極めれば極めるほどにその装置の音が使っている人そのものを表現する様になってきます。

オーディオに限らす、写真、絵画など趣味とはその人の自己表現であり、自分の映し鏡なのです。


左の写真を見て「あっ」っと思った方、かなりのマニアです。

そう、なかちゃんのシステムはとうの昔に滅んでしまったのではと思われているマルチアンプシステムなのである。

と言うと現在マルチアンプで音楽を楽しんでおられる方に失礼なので、付け加えると
「マルチアンプは滅んでいない!! 密かに脈々と受け継がれているのだ!!」
となかちゃんは声を大にして宣言する。

今ではマルチアンプをご存じない方も多いと思いますので一言、マルチアンプは今流行のマルチチャンネルとは全く違うものです。マルチアンプについてはこのコーナーの続編でお話し致します。
CDプレーヤー

なかちゃんのCDプレーヤーはESOTERIC P・2 D・2である。
P・2といえばあの有名なVRDSメカ(Vibration-FREE Rigid Disc-Clamping System)搭載のCDトランスポートである。(CDトランスポート:デジタル信号出力専用機)
そしてVRDSメカはモデルチェンジ版P・2sと同じアルミと真鍮のハイブリッドターンテーブル”Sタイプ”に換装されている。(自分で載せ換えました。実は大変な作業です。)

そしてD・2。こちらはCDトランスポートP・2より出力されたデジタル信号をアナログ信号へ変換しアンプへ送り出すためのいわゆるDAC(デジタル/アナログ コンバーター)というヤツである。

P・2からD・2へデジタル信号を伝送するケーブルには同じESOTERIC社のERCA−100というデジタルケーブルを使用している。
密度感が高く彫りの深い音質が特徴の日立電線6N-LCOFCのデジタルケーブルを改良し、唯一の欠点だった音場空間の天井の低さを解消した実にリアリティーの高い質感を再現出来るデジタルケーブルである。

このERCA−100と遜色のない音質を実現していたのはなかちゃんの知る限り、定価10万円以内ではWIRE WORLD社GOLD STAR LIGHTとMODSQUAD社WONDER LINKTだけである。
WONDER LINKTは実にニュートラルで癖がなくどんなジャンルの音楽でも素直に伝送出来る誰が使っても満足のいく音質のデジタルケーブルであり、GORD STAR LIGHTはストレートな表現に響きの良い豊潤さが加わりリアル且つゴージャスな音質を実現していた。
ERCA−100は愚直なまでにリアリティーを追求したケーブルで美しい音は美しく出すのだが汚い音がリアルに汚く、場合によっては音がキツイと感じられたりもしていた。
それでもなかちゃんはリアリティーを追求したこのERCA−100の正直さが気に入って使い続けている。
このケーブルの音質も他の機器やシステムの使いこなしで如何様にもなるのである。(なかちゃん的には)
WONDER LINKTとERCA−100は既に生産完了となっているので現在入手可能なのはGOLD STAR LIGHTの最新モデルGOLD STAR LIGHT5のみとなってしまった。


この組み合わせでの音質は3次元的な立体感を伴いエネルギー感もあり、克明に描き出すタイプのものである。
気品の高さみたいなものを感じさせつつも音色に癖を感じさせず単に綺麗なだけにならず、ゴリゴリした音やザラザラした、ともすると品の良くなさそうな音もサラリと再現する。

もっと高価なCDプレーヤーにはこれより音質の良いものは勿論存在するが、P・2 D・2購入後15年間ほかのプレーヤーに一切浮気せず使い続けてきたが、それだけの魅力はこのプレーヤーにもある。

オーディオシステムの音質はCDプレーヤーだけで決まるものではないので、これはこれで全然構わないのである。

PRE AMPLIFIRE (プリアンプ)

プリアンプはEXCLUSIVE C7aである。
C7aの前にはACCUPHASE C−280 、 SANSUI C−2301 、 EXCLUSIVE C5と当時(20数年前)に国産ハイエンドプリアンプと謳われた3機種を全て使ったが、このC7a(C5の次世代モデルです)は全く次元が違った。
アンバランス(RCA)出力時のインピーダンス(わかりやすく言うと音楽信号の電気抵抗)が0.1Ωと驚異的に低いというか殆どショート状態と思える程の低抵抗でもはやパワーアンプをドライブしてしまう(本当にそんな音がします)凄まじいプリアンプである。

よく雑誌などで高名なオーディオ評論家大先生方が国産オーディオは音が薄いなどと仰っておられるが、このC7aは全くそんな事はない。
一聴するとさらりとしてそうに聴こえるが、実はクリアーな空間の中に濃さのある色彩がきちんと再現されている。
海外製品でこの音を出そうとすると倍の価格を支払わないと無理だとなかちゃんは思っている。
しかし、倍払ったからこのクォリティーは手に入るかどうかも最近は疑問に感じている。
倍の価格で実際にC7aと遜色ないと感じたのはアメリカのJEFF ROWLAND社コヒレンスだけである。
このコヒレンスも今は生産が完了し入手不可能となっており、今音の良いプリアンプは一体何があるのだと思っている。

また、C7aはエージング(いわゆる慣らし運転ですな)に半年はかかる。最初に一聴した時にこのプリアンプの可能性を感じる取る事が出来なければこのアンプを使う事はないだろう。(プラス忍耐力も必要)

もはや手放せないプリアンプである。

追記:C7aはアンバランス接続で使いましょう。その方が音質が良い。
なでもかんでもバランス接続と謳う自称評論家諸氏に騙されてはいけない。

POWER AMPLIFIRE (パワーアンプ)

ELECTRONIC CROSSOVER NETWORK
(チャンネルデバイダー)
ELECTRONIC CROSSOVER NETWORK 通称チャンネルデバイダー
こんな名前のオーディオ装置は初めて聞いたという方も少なくないと思う。
これはマルチアンプシステムを構築するのに欠かせない機器で、マルチアンプシステムの要でもある。

なかちゃんのチャンネルデバイダーはSONYのESPRIT(エスプリ 80年代が全盛期 今はなきブランド)シリーズの最高峰TA−D900である。
マルチアンプシステムについては別の機会にお話しするが、簡単に説明すると3WAYスピーカー(なかちゃんの場合)の高域、中域、低域にそれぞれ別のパワーアンプを使用し各帯域のパワーアンプに全周波数ではなく必要な帯域の信号のみを送り込むためにプリアンプから出力された音楽信号をパワーアンプの手前で各周波数成分に分割するための装置である。(従ってスピーカーはパワーアンプと直結、パッシヴネットワークは使用しない)

このTA−D900の音質的特長は音の彫りが深く、立体的である事。
音色的にはいわゆるSONYの音がするが、そこはなかちゃん、内部配線などの一部変更で癖を消している。
今でもこのチャンネルデバイダーを探している方もおられると聞く。

常識的?な価格(といっても当時30万円程した)で入手出来るチャンネルデバイダーではおそらくこれが一番マルチアンプらしさを感じさせてくれるだろう。

このTA−D900の前にACCUPHASE F−25も使ったが、マルチアンプ的な音を感じさせてはくれたものの音像が平面的で音のエネルギーが何かに遮られてこちら側まで届かないという不満を感じて手放した。

最近アメリカのPASS社チャンネルデバイダーXVR−1をなかちゃんのシステムに組み込んで聴く機会があった。
これは良かった。TA−D900より色彩が濃くニュアンスの再現性なども非常に良かった。
「欲しいっ」と思ったが3WAY仕様で130万円はとても手が出ない。(ガクッ)

そしてTA−D900も故障すればもはや修理が出来ない。
なんとか壊れずにずっともって欲しいものだ。

同じアンプの写真が2つ・・・に見えるかもしれないがフロントパネル左下の形式名をよく見て欲しい。
そう、上はEXCLUSIVE M5 下はEXCLUSIVE M5aである。

今見るとレトロなウッドキャビネットのパワーアンプであるが、なかちゃんには何故か古臭くは見えない。
デザインに普遍的なものがあるのか古さを感じさせないのである。

シルバーパネルに一つ目のアナログメーター、そしてメーター左側の電源スイッチ。付いているのはこれだけである。

なかちゃんがマルチアンプを始めて少し経った頃、その時使っていたアンプより音質の良いパワーアンプはないかと考えていたら、オーディオ仲間にこれがいいと薦められ、音も知らずに手に入れた。
そして聴いてびっくり!なかちゃんの感性を擽る音がする。いや、これだっ!という感じだったか。

はまった。もうこのアンプは手放せない。さりげなくリアルな音がする。それも深い。何が凄いとかそんな程度のものではなく、ただひたすらありのままを再現しようとするのである。

気が付いたら、3WAYマルチの3チャンネルともM5(M5a)になっていた。
M5(M5a)はモノラルアンプなのでステレオ再生では2台(右用、左用)となり、3WAYで合計6台の一つ目アンプがラックに収まっている。

現在、高域(5000Hz〜) M5  中域(800〜5000Hz)M5a  低域(〜800Hz)M5 という構成になっている。 

SPEAKER (スピーカー)


一番左はスピーカー全景。

左上はトゥイーター背面

右上はドライバー背面

すぐ右はホーンとトゥイーター前面

なかちゃんのスピーカーはバラユニットを組み上げたものである。

マルチアンプ方式なのでネットワークはなく、全てパワーアンプから直結となっている。

トゥイーター(高域)はEXCLUSIVE ET−703

コバルトマグネットを使用したベリリウム振動板のリアコンプレッションホーントゥイーターである。
JBLのトゥイーターなどと比較しても、歪感が圧倒的に少なくクリアーで伸びがあり、緻密な描写をするユニットである。
変な形の台は自作のもので微妙に下向きになる様角度を付けてある。


ミッドレンジ(中域)はTAD(TECHNICAL AUDIO DEVICES:PIONEERの業務ブランドです)のTD2001(ドライバー)に山本音響工芸の桜材ウッドホーンSS−500の組み合わせである。

TD2001は1インチドライバーなのに2インチドライバーかと思わせる様なサイズの大きさである。
トゥイーター同様、歪感のないクリアーで緻密な描写である。
磁気回路には強力なアルニコマグネットが使用され、振動板はET−703と同じベリリウムとなっている。

SS−500はホーン開口がスロート部(ドライバーとホーンのつなぎ目付近とお考え下さい)からホーン先端へ向かって連続的に丸から四角へと段付きなしに形状が変化していき、四角の上下左右につなぎ目がないため、直角の角が存在せず音の解析が最小限に抑えられる設計となっている。
実際この組み合わせでは非常にスムーズでヌケの良い音質が特徴で桜材の持つやや明るめな響きを除いては、特に気になる所はない。


ウーファーはTADのTL1601aである。
40cm口径のパルプコーンにアルニコマグネットと強力な仕様となっている。

パルプコーンとギャザードエッジによるヌケの良い自然な質感はなkちゃんのお気に入りである。
そして、最近小口径のダブルウーファーなどがもてはやされ、小口径ユニットは振動板が軽くレスポンスに優れると言われているが、40cmウーファーをマルチアンプで駆動した時のレスポンスの良さやエネルギー量と、空間表現に感じる余裕度は別格である。やはり大型スピーカーにしか出せない領域というものは確かに存在する。

ANALOG PLAYER (レコードプレーヤー) 

なかちゃんの愛用レコードプレーヤーはEXCLUSIVE P3である。

ウッドキャビネットの中には頑丈な金属フレームが組み込まれており、このプレーヤーの重量はなんと47kgにも及ぶ。
重くて一人では持ち上げる事が出来ない。

導入時、搬入を手伝ってくれた友人が2階への階段の途中で「放してもいいか?」と言ったくらいだ。

スタートボタンを押した後、僅か0.3秒で定速回転に達する驚異的な高トルクモーターを採用しているが、モーターによる振動、コギングの類は全くと言っていい程感じられない。

ダストカバーはガラス製で側面と本体ウッド部はローズウッドで作られている。

じつはなかちゃんは専らCDを聴く事が殆どなので、レコードプレーヤーはそれ程徹底して鳴らし込んでいない。
カートリッジ(針ですな)にはGOLDRINGのMM1006GXというカートリッジとしては結構安価なものを使用している。
MM1006GXはGOLDRING社製カートリッジの中では最も廉価なカートリッジだが、プリアンプEXCLUSIVE C7aに内臓されているMM専用フォノイコライザーが癖のない素直な音質でこのカートリッジでもそれなりに良い音を聴かせてくれる。

GOLDRING MM1006GX(左)

とはいえ、単にカートリッジをヘッドシェルに取り付けただけで良い音がするはずもなくこのあたりの調整は行っている。
まず、カートリッジを取り付けた状態でレコード盤に針を落とすとアームが微妙に前傾(カートリッジ側が低くなる)する様にアームの高さを調整。次にオーバーハングはゲージを使用せず、カートリッジをターンテーブル中心に持ってきた時、針先がセンタースピンドルより役1.5cm外側に来る様に合わせている。
(オーバーハングとはわかりやすくいうと、針先がレコードの溝をトレースする際に盤の外周から内周へ向かって描く軌跡が出来るだけレコードの溝に直角に接する様になる針先の位置の事)

MM1006GXオーバーハング(右)

そしてインサイドフォースキャンセラーは”0”にしてある。アームが横方向に流されないのなら、横向きに余計な力を掛けない方が良いと考えるからである。
(インサイドフォースとはレコードに針を下ろして再生を始めた時にアームが内周に向かって引っ張られる様に流される向きに掛かる力の事である。経験された事のある方も多いのではないかと思います。)
そして最後に針圧である。MM1006GXの説明書にある適正針圧は1.5g〜2.0gである。しかし、針圧調整を行うことで他のカートリッジも含めてこの適正針圧なるものがいかに大雑把なものであるかが露になるのである。

現在このMM1006GXの針圧は1.73gに合わせてある。
1針圧が00分の1g単位となっており、「なんじゃそりゃ?」と感じる方もいると思う。
しかし、調整すればするほど0.1gという数字が針圧にとっていかに大きな数字であるかがわかってくる。
針圧が0.1gも違えば音は全然違ってくるのである。

幸いEXCLUSIVE P3の付属アームの針圧目盛りは0.1gの幅が大きく目視で0.01gを読み取る事が可能であり、1.5g、2.0g 1.6g、1.9g 1.7g、1.8gと適正針圧の範囲の両側から徐々に間隔を狭めながら音質をチェックしていくと1.7gと1.8gの間に良さそうなところがあるのに気づいた。
そして、1.75g針圧を合わせて試聴すると1.8gや1.7gより音質が良い。その後針圧を0.01g刻みで動かしていくと1.73gに合わせた時に「これだっ」という音質になった。(結構スイートスポット的に音質の変化があった。)

インサイドフォースキャンセラー(左)

針圧目盛り(右)

ここまで説明すると「そこまでするのか?」と言う人も出てきそうだが、これでもアナログプレーヤー調整の基本でしかない。なかちゃんはここまでの調整に留めているがコアなレコードマニア(変な意味ではなく本当に音楽を愛する人の事)はこんなものではない。
しかし、なかちゃんもこれ以上の調整を今行う気がないのでこれ以上は踏み込まない事にする。

CD RECORDER (CDレコーダー) 

なかちゃんのシステムにはCDレコーダーも存在する。PIONEERの業務用RPD−1000である。
滅多に使わないのだがカーステ用のCDを編集したりする事がたまにある。
編集用としてよりはメインのP・2 D・2が故障した時の非常用という意味合いが強い。
しかし、このCDレコーダー、CDプレーヤーとしての実力も侮れない。
同じPIONEERのコンシューマー機PD−T09の少し重たい低域を柔軟で自然な印象にした音質というとオーディオに詳しい人にはどんな音質なのかわかると思う。
ESOTERIC P・2 D・2には及ばないものの、その代役は充分にこなしてしまう実力機であり、優れものである。

CASSETTE DECK (カセットデッキ)

カセットデッキはAIWAのXK−009である。
元々なかちゃんはカセットデッキに非常に興味を持ったところからオーディオにのめり込む事になっただけに、このカセットデッキには愛着がある。
発売の1989年に購入してからずっと使用している。といっても最近めっきり出番がなくなってしまったのだが。このXK−009はAIWAがSONYに吸収される前のカセットデッキメーカー(AIWAは元々カセットデッキメーカーなのです。)として最後にベテランデッキ職人が手掛けた名作である。

XK−009はAMTS(安置モジュレーションテープスタビライザー)というテープを前側から押さえつけてテープ自体の振動による音質への悪影響を排除する機構を最初に搭載したカセットデッキでもある。
他のメーカーからもこれに続くようにテープスタビライザー搭載モデルが発売されたが、どれも形だけのもので機械的構造でテープを押さえてはいたが、XK−009は電磁フランジャーを使い1kgもの圧着力でテープを固定していたのである。
その他、発信機内臓によるバイアス調整が可能となっていたり、dbxノイズリダクションの採用でCD並みのダイナミックレンジの再現も可能としていた。(dbxを使うと微妙に音質が硬くなるような印象派はあるが) そしてこれは昔からAIWAのデッキには付いていたがADMS(アダムスと読む)という自動消磁機構が付いており、電源投入直後に数秒間動作を規制しその間にヘッドが帯びた磁気をキャンセルしていた。

XK−009の後継モデルKX−S9000は若手技術者達が往年のベテラン職人の作ったXK−009をベースの作り上げた機種で90年台に最高のデッキと謳われたが、XK−009と同条件で録音、再生を行うと音の立ち上がりはXK−009の方が早く音質的にはXK−009に少し及ばない。なかちゃんはこれが名作の最後だと思いXK−S9000も購入したがXK−009にどうしても及ばない事から一度手放した。しかし、悪い虫が騒ぐのか再びXK−S9000を購入し使ってみたがやはりXK−009に及ばない。こんな事を3度繰り返して今はXK−009一筋である。

だが悲しい事に、現在市販されているカセットテープに音質の良いものがない。昔はSONYのMETAL−ES(最近あった深緑色ハーフのESもどきではない。あれは駄作である。)やMETAL−S、METAL−MASTERなどお気に入りの高音質テープがあったのだが、昨今のMDやCDRの普及によりカセットデッキ、カセットテープは市場からどんどん姿を消して行き、今ではTEACの廉価機種V−1030が手に入るかどうかという悲しい状況となっている。
なかちゃんもカセットテープ数年前に最後の高音質METALテープのTDK MA−EXを10本程入手し保管している。(MA−EXはちょっとパチパチサウンドだが・・)
その他

電源アイソレーター

CDトランスポートとDAコンバーターにはCSE R−100を使用。好き嫌いの分かれる装置だがなかちゃんのシステムではこれがある方が音質の透明度が増し、立ち上がりの速さも得られるので愛用している。
アイソレーターからそれぞれの機械への給電へはWIREWORLDの電源ケーブルSEP(SILVER ELECTRA REFERENCE)を使用。
恐ろしく(?)高価な電源ケーブルだが、一度使うともう外せない、素晴らしい音質である。

ステップダウントランス

左の画像の左奥にあるのが200Vを100Vへ変換するステップダウントランスである。
なかちゃんのシステムはA級(擬似)300Wもの大出力パワーアンプを6台使用する大袈裟なシステムであるため、通常の100V電源では瞬間的に電力の供給不足が発生し音の腰が砕ける場面があった。そのため100V電源の4倍の供給能力(余裕)があるといわれる200Vの電源を部屋に引き込み、これをステップダウントランスで100Vへ変換してパワーアンプへ給電している。
この事により音の腰が砕ける事がなくなり、空間表現にも余裕が出た。但し目を見張る様な音質向上があったわけではない。
このステップダウントランスはTAMURA製でなかちゃんが購入したのが最後の1台となり、生産が打ち切られたものである。
実際なかちゃんが注文した時点で事実上生産は完了しており、手巻きの巻き線を使用していたこのトランスを作れる職人さんが既にいなくなっていたのに、他の職人さんがなかちゃんのこの1台のためだけに3台も同じこのトランスを試作し4台目でようやくTAMURA社のこのトランスに対する性能をクリアーしてなかちゃんに届けられたというメーカーの誇りと顧客に対する対応の凄さにただただ感服しました。
画像右側の白い細長い機械はチャンネルデバイダーへ電源を供給している電源アイソレーター ハルモニア社 IPS−40です。

以上が現在のなかちゃんのシステムです。
このシステムで本当に良い音を出すまで10年余りの年月を要しましたが、現在とても素直で実在感満点の音楽を聴かせてくれます。一生やめられない趣味ですな。

http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/nakacyannosisutemu1.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1025.html#c6

[近代史5] 中国人留学生は全員中国のスパイ
中国人留学生は全員中国のスパイ


海外でも組織を動員する北京政府の「やりすぎ」を見過ごしてよいのか?
2019/09/08





http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/249.html

[リバイバル3] CDクリーナー LEIQWA バランスウォッシャーCLエクササイズセット
CDクリーナー LEIQWA バランスウォッシャーCLエクササイズセット
https://www.amazon.co.jp/LEIQWA-BW-CL-EX-%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BCCL%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%88CD%E7%94%A8/dp/B0066IXLUG

価格: ¥3,080 + ¥330 配送料

CD用クリーニング液(62ml)と仕上げ用液(62ml)のセット
専用クロスのビスコ6枚付属


CDを始めとした光ディスク専用クリーナー。
指紋やカビなどの汚れ落としはもちろん、添加物を使用していないので、ディスクを痛める事がありません


▲△▽▼

カスタマーレビュー

オトキチ
5つ星のうち5.0 不思議な効果です。
2019年5月6日に日本でレビュー済み

カビ取り程度に考えて購入しました。使用機器はMarantz SA11S3。効果はかなり有ります。まず古いCDの表面がカビその他で汚れている事が良くわかりました。次に理由は分かりませんがクリーニング後は低域が伸びて全帯域に深みと透明感が出ます。本当に不思議。更に軽い傷の音飛びは解決する事がほとんどでした。これとは別に傷修復用の吹き付けて塗り込む(研磨では無く)補修剤を持っていますが、これを併用すると音の深みが消えてやや高域寄りになってしまう。デジタルなのにどうしてと考え込んでいます。とにかく良い面ばかりでした。


tomo
5つ星のうち5.0 CDクリーナーの決定版
2014年4月9日に日本でレビュー済み

 いろんなCDクリーナーを使いましたが、どれもこれも音に何かしら付帯音が付いたり曇ったりして、まともなクオリティーが得られるものがありませんでした。しかし本品は今まで聞いたことのないくらい良い音になります。封を切り立てのCDよりも良い音が得られます。理由は新品CDでもケース内部の湿気、ほこり等によって汚れているからです。本品を使用すると、いわゆるCDくささやデジタルくささというのとは遠くなり、音のエッジが取れ、歪感が消え、クオリティーの高いアナログらしい音になります。マスターテープはこんな音でないかと思わせるくらいの音になります。時には怖いくらいの高音質で驚きます。説明書にもありますように、デジタルマスターテープの化身がCDでしょう。それぞれのソースのデジタルマスターテープの音を聞けるのは世界中でほんの数人しかいません。本品を使用するとその音が聞けているような気さえします。やっぱりアナログレコードの方が音がいいといっている方、ぜひ本品で、CDというデジタル技術のものから最高のアナログの音を引き出してください。

 使用方法での注意点は、説明書にもありますように液を4〜5滴たらしてください。少ないとクリーニングするときの摩擦が大きくなりCDを傷つけます。また、つめを立てたりゴシゴシは絶対にやらず、軽くで十分です。

 CDは本来こういう音を収録していて、再生されるべきだという音が出てきます。

カスタマー
5つ星のうち4.0 音質、鏡面向上するが・・注意が必要。
2015年7月16日に日本でレビュー済み

使用して約2年、液も終わりに近くなってきた。海外から中古盤を買う機会が多く、海外の扱いは酷く、ディスクがかなり汚れて送られてくることが多い。そんな盤に威力を発揮する。 A液でレーベル面と記録面を拭き上げ、次にB液で両面を拭き仕上げるのだが、B液で仕上げるとまるで鏡にように記録面がピカピカに仕上がる。しかし、ここで気をつけないといけないのが乾拭きで拭く際、力を入れると傷を付ける恐れがある。因みに封をあけた新品のディスクに生まれ変わる程ではないのでご注意を。 音質はアナログ感に近くなり、音のエッジがはっきりとしてくる。良く言えば音質向上、悪く言えば音質変化。ここは聞く人の好みによるかと思う。決して安価なクリーナーではないが、とても良いクリーナーだと言える。くれぐれも乾拭きの際はディスクに傷をつけないよう注意が必要。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています


ロックンロールおじさん
5つ星のうち5.0 本当に凄い!
2013年11月4日に日本でレビュー済み

海賊盤DVDと輸入版DVDの中に画像の一部が飛んで再生できないものがあった。画像自体も汚かった。所詮海賊盤だから、アメリカ製品の品質管理なんてこんなもの・・・と諦めていた。先日ふと盤面の埃をとろうとして息を吹きかけてふと気が付いた。乾いた状態では気付かなかったが水蒸気が付着した状態だと表面に変な模様が浮かび上がって見える。何かの汚れが付着してるのか・・・?LP用にバランスウオッシャーを使用し劇的な効果に満足していた事からCD用を購入して使ってみた。すると見事に画像飛びが解消した!それだけじゃない。画像自体が色の滲みがなくなりシャープになった。そのせいか明るく感じる。画像飛びはプレーヤーのせいと考え高額なDVDプレーヤーを購入しようかと一時期真面目に考えた時もあった自分の浅はかさを恥じた。

 もしや、と思いCDを確認すると100%のCDで記録面にむらむら汚れがあると判明。決して誇張ではない。息を吹きかけて観察して貰いたい。原因不明のむらむらが確認できるはずだ。これをバランスウオッシャーで磨き上げるとピッカピカになる。間違いなく音が一皮剥ける。

 今までこんな画像を見ながら、こんな音を聴きながら昔のビデオの方が色が綺麗だった、CDなんかLPには敵わないぜなどと評価していたとは恥ずかしい。今からでも遅くは無い。全てのDVD、CDを磨き直そう。

ジョン
5つ星のうち4.0 音質向上は認めるが難点もあり。
2013年1月11日に日本でレビュー済み

 古いCDは指紋が付いていたり、時にはカビが生えたり。メガネふきで乾拭きしてもなかなかきれいにならないどころか、傷がついてしまったこともありました。アルコール入りのウェットティッシュでふいたら、きれいになりましたが、実はアルコールなどの溶剤はCDを溶かしてしまう危険性もあるとのこと。

 そこで、レコードのクリーナーで定評のあるレイカ社のCD用バランスウォッシャーを購入。A,B二つの液体があり、この液体をふきとるために使うのがビスコという使い捨ての布。以前はCD用のビスコCLというのが販売されていたようだが、今ではLP,CD両方ともにビスコ33を使用することとなっています。

 針と直接接触するレコードに比べて、CDではそれほどの音質向上は期待していなかったのですが、かなり音がクリアーになりました。CDって意外と汚れに弱いということも分かりました。

 ただ、ビスコ33で液をふき取っても、やはりCDに傷をつけてしまう時があります。レコードのクリーニングの時ほど、ごしごしやらないのは当然ですが、少し慣れが必要だと思いました。あと、LPに比べてCDは明らかに小さいのでビスコの使用量が少ないと思っていたのですが、そんなこともなく、けっこうすぐにビスコはなくなってしまいます。

 あと、プラケース収納のCDは問題ないのですが、紙ジャケなど、ビニールの内袋に収納する際、クリーニング後にCD両面に静電気が発生して、うまく内袋に入らない時があります。クリーニング以前よりもビニールの内袋との摩擦が大きくなって、傷がついてしまったCDもあります。

 こういった難点、そしてコストパフォーマンスも考えると、星4つという判断に至りました。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1065.html

[番外地8] 日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている
日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている
チャンネル桜のアホ評論家は日銀の金融緩和のために既に日本がハイパーインフレに近くなってるのを知らないんだな。これから更に財政出動までしたら国内価格もハイパーインフレになるよ。公共事業をいくらやっても資本家が儲かるだけで労働者の賃金は上がらないから、スタグフレーションになるだけだ。いくら公共事業をやっても賃金が増えなければ内需は拡大しないんだよ。公共事業ではなく、利子ゼロの政府紙幣をベーシックインカムとしてばら撒いて内需拡大するしかないんだ。
マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になるというだけですね。

別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。

貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。

商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。

これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっているよ。

ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になっている。こういうのをハイパーインフレーションというんだよ 。

最近はチャンネル桜のアホ評論家の嘘に騙されている人ばかりですね。
GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

マネーサプライが10倍になれば貨幣価値と実質賃金は1/10になり、GDP, 政府支出と株価は(大雑把には)約10倍になり、一般人は、ますます貧困化します。貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がるのですね。商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。それで日本の物価は上がらずデフレになるのです:

通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
逆に言えば、いくら通貨を増やしても、国の食品・工業製品やインフラの供給量で決まる国家資産は変わらないので、貨幣価値が減るだけです。お金をいくら増やしても、増やした金の分配以外の問題は起きません。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。
 

マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。

詳細は

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない
しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね。  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/111.html

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・芦田愛菜 ビューティフルレイン(フジテレビ 2012) 中川隆
10. 中川隆[-11999] koaQ7Jey 2020年7月28日 20:05:09 : qvCpCPFxe6 : SXdLWFhadjI5eHM=[36]
ビューティフルレイン 第12話「私が全部おぼえているよ」End



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/991.html#c10
[番外地8] 新型コロナの後遺症 症状と頻度は? 忽那賢志 | 感染症専門医 7/18 中川隆
1. 中川隆[-11998] koaQ7Jey 2020年7月29日 01:13:04 : SgTUxXFqow : QlM3L21tTE9wdHM=[1]
新型コロナの後遺症 症状と頻度は? 忽那賢志 | 感染症専門医 7/18
厚生労働省より新型コロナに罹患した患者さんの後遺症についての調査を行うという発表がありました。
どうやら新型コロナ患者では一定の割合で完全には回復せず、症状が続くことも分かってきました。
新型コロナから回復された方を外来でフォローアップしていると、ときどき慢性症状に悩まされている患者さんがいらっしゃいます。
「体がだるい」「胸が痛い」「息苦しい」「動悸がする」などといった症状を訴えられる患者さんが多い印象です。
しかし、検査を行っても特に異常は見られず、新型コロナ後のいわゆる「コロナ後症候群(post-COVID-19 syndrome)」ではないかと仮診断し経過観察を行っていました。

そんな中、2月下旬から3月にかけて大規模な流行がみられたイタリアから新型コロナの後遺症(コロナ後症候群)に関する報告が出ました。
急性期と亜急性期〜慢性期の新型コロナ患者の症状の頻度(doi:10.1001/jama.2020.12603)日本語は筆者
これによると、新型コロナから回復した後(発症から平均2ヶ月後)も87.4%の患者が何らかの症状を訴えており、特に倦怠感や呼吸苦の症状が続いている方が多いようです。

これは私の外来での実感と一致します。

その他、関節痛、胸痛、咳、嗅覚障害、目や口の乾燥、鼻炎、結膜充血、味覚障害、頭痛、痰、食欲不振、ノドの痛み、めまい、筋肉痛、下痢など様々な症状がみられるようです。

32%の患者で1〜2つの症状があり、55%の患者で3つ以上の症状がみられたとのことです。

4割の人が生活の質が低下していると答えており、新型コロナから回復した後も苦しんでいる方が多いことが分かります。

コロナに罹るだけでもぴえんなのに、後遺症まであるなんて、ぴえん超えてぱおんです。

ただし、この報告はイタリアの1施設からの報告であり、すでに症状がなくなっている人よりも、なんらかの症状が残っていて長く外来に通院し続ける理由のある人の方が多く研究に参加しているために、後遺症の頻度が多く見積もられている可能性があります。

加えて、どれくらいの期間こうした症状が続くのかも明らかではありません(例えばライム病やデング熱では慢性症状が数ヶ月〜数年くらい続くことがあります)。

また研究参加人数も143人と少ないため、より大規模な研究の結果が待たれるところです。

半数以上が退院1ヶ月後も呼吸機能が戻らない
この他にも新型コロナから回復した後も後遺症が残っている事例が報告されています。

中国の孫文大学第五附属病院からの報告では、新型コロナウイルス感染症で入院していた患者57人が退院した1ヶ月後も、半分以上が呼吸機能に何らかの異常が残っているとされます。

呼吸機能に関する後遺症はこれ以外にも多く出ており、特に重症であった患者さんでは、退院1ヶ月時点で肺機能低下がみられる頻度が高いようです。

この報告は重症度の高い症例が多いため「新型コロナになったら半分が呼吸機能が戻らない」というわけではなく、「重症例では半数以上に退院1ヶ月後も呼吸機能の後遺症がみられる」ということかと思います。

1割の患者で嗅覚・味覚異常が戻らない
嗅覚・味覚異常は2020年3月以降に注目され始めた新型コロナに特徴的な症状ですが、この嗅覚・味覚異常も回復後少なくともしばらくの間続くようです。

新型コロナ患者を対象とした嗅覚・味覚異常に関する調査では、発症から 4 週間後の時点で 48.7%の患者が嗅覚・味覚異常が完全に回復し、40.7%が完全には良くなっていないものの改善しており、10.6%は嗅覚・味覚異常が続いているまたは悪化していると回答しました。

つまり1割の患者では1ヶ月後も嗅覚・味覚異常が続いているということです。

ちなみに私は鼻茸があるため10年以上嗅覚がありません。だからどうということはないんですが。

回復後に脱毛がみられる患者も
この他にも筆者は多彩な症状を訴えられる新型コロナから回復した患者さんを経験しています。

中には「毛が薄くなってきた」と訴えられる患者さんもいらっしゃいます。

新型コロナは感染したときだけでなく、回復した後も私たちを悩ませる恐ろしい感染症です。
_________

若い人はすぐには死なないが、肺が線維化してエイズ様になって、5年かけてじんわり死んでいく。
「軽症・無症状」が脳梗塞に 30〜40代相次ぐ 合併症か


30代から40代で軽症か無症状の新型コロナウイルス患者が脳梗塞を起こすという症例が相次いでいるという。 急性虚血性脳卒中や見当識障害、注意力喪失、運動障害などが見られ、これらの症状は新型コロナから回復した後も残る。

アメリカでは30代などの患者に前触れのない脳卒中が見られるという報告が相次いでいる

新型コロナウイルス感染症の本態が、微小血栓症ではないかとされてきました。循環不全による臓器傷害です。肺をはじめとする全身諸臓器に循環不全を引き起こします。脳血管が詰まって脳梗塞となれば命取りですし、腎臓に飛んで行けば腎機能障害から人工透析、下肢に行けば壊疽で切断と、人生が一変するリスクがあります。

コロナウイルスは肺だけでなく、全身の血管に感染する能力をもっていることがわかりました。死んだ患者の血管内皮に、ウイルス粒子がビッシリとこびりついていたのです。

新型コロナウイルスは初期には新型肺炎と呼ばれており、呼吸器系に感染するウイルスだと思われていました。ですが増加する死亡者の検死解剖を行った結果、死者の多くに、複数の臓器にまたがる甚大な損壊が生じていることが明らかになってきました。

これは呼吸器系の症状からだけでは説明がつきません。そこでスイスの研究者は、原因を探るために、ウイルスにより亡くなった患者の臓器の詳細な観察を行いました。その結果、コロナウイルスは肺だけでなく、全身の血管に感染する能力をもっていることがわかりました。死んだ患者の血管内皮に、ウイルス粒子がビッシリとこびりついていたのです。そのため死者の臓器では末梢の血管が崩壊しており、血液の流出を引き起こし、臓器の壊死を引き起こしていました。また追加の分析で、高齢者や糖尿病や高血圧、心疾患などにより、既に身体中の血管にダメージを受けている患者ほど、ウイルスによる血管への感染に脆弱であることがわかりました。これは既知の知識である「高齢者や持病がある人ほど重症化しやすい」という現象の最終的な原因になると、研究者は結論付けています。

全身の血管を狙う新型コロナウイルスに対して、人類はどのような治療を行えばよいのでしょうか?新型コロナウイルスは全身の血管内皮に感染する力がある

新型コロナウイルスは、表面にあるスパイクと呼ばれる構造を、人間の細胞表面に存在するアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)に結合することで感染します。

今回の研究により、ウイルスは肺に存在するACE2にだけ感染するのではなく、体全体の血管内皮に存在するACE2にも感染することが判明しました。上の画像では、ウイルスが腎臓の血管内皮に入り込んでいる様子が示されています。

ウイルスが感染した血管内皮は炎症を引き起こすだけでなく、ウイルスが細胞を喰い破る物理的な破壊を受けて体内で出血を引き起こします。高齢者や血管系にかかわる生活習慣病などの持病がある人は既に血管が弱っているため、ウイルスによる感染と破壊に血管が耐えきれず、症状が重篤化すると考えられます。

今回の研究成果により、新型コロナウイルスの正体はただの肺炎ではなく「全身性血管炎症」であることがわかりました。そのため、感染した患者が高齢者や血管系にかかわる持病がある場合は、優先して血管を保護する必要性が生じます。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/110.html#c1

[近代史5] ALS患者を殺害した元厚労省医系技官らの優生思想 中川隆
4. 中川隆[-11997] koaQ7Jey 2020年7月29日 01:16:17 : SgTUxXFqow : QlM3L21tTE9wdHM=[2]
「安楽死」の名を借りてALS患者を殺害した元厚労省医系技官らのグロテスクな優生思想! 麻生財務相や古市憲寿も同類
2020.07.24


 全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症した京都市の女性に薬物を投与して殺害したとして、2人の医師、大久保愉一容疑者と山本直樹容疑者が京都府警に逮捕された。

 大久保容疑者は厚労省で医系技官を約7年半務めており、妻は2012年の総選挙で自民党から出馬し当選(比例復活)、衆院議員を1期務めた元“安倍チルドレン”議員だった。一体こんなエリート医師がなぜ?……。いや、問題はそれ以前だろう。

 メディアではこの事件を「安楽死」と報じているが、そもそもこれは「安楽死」と呼べるようなものなのか。彼らは殺害したALSの女性とSNSで知り合った関係で、担当医師でもなんでもなかった。被害者本人の明確な意思表示に基づき他にとれる手段がなく安楽死に協力したのではなく、むしろ自分たちの殺人欲求が先にあり、安楽死をのぞむ人間を積極的に探していた可能性も考えられる。

 しかも、2人は高齢者や障害者は死んだほうがいいと主張する典型的な優生思想の持ち主だった。

 それがよくわかるのが、2人が『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術:誰も教えなかった、病院での枯らし方』なるとんでもないタイトルの電子書籍を共著で出版していたことだ。Amazonには同書のこんな紹介文が掲載されていた。

〈認知症で家族を長年泣かせてきた老人、ギャンブルで借金を重ねて妻や子供を不幸に陥れた老人。そんな「今すぐ死んでほしい」といわれる老人を、証拠を残さず、共犯者もいらず、スコップや大掛かりな設備もなしに消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ。病室に普通にあるものを使えば、急変とか病気の自然経過に見せかけて患者を死なせることができてしまう。違和感のない病死を演出できれば警察の出る幕はないし、臨場した検視官ですら犯罪かどうかを見抜けないこともある。荼毘に付されれば完全犯罪だ。〉

 さらに、大久保容疑者のものとされる厚労省の英語の略称である「mhlw」をもじったアカウント名のツイッターにも、グロテスクな思想が露骨に表れていた。

 大久保容疑者のツイッターをめぐっては、「ドクター・キリコになりたい」と投稿していたことが話題になっているが、他のツイートを読むと、大久保容疑者が安楽死にこだわる理由が、患者を苦しみから解放するという目的ではないことがよくわかる。
https://lite-ra.com/2020/07/post-5538.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/244.html#c4

[近代史5] ALS患者を殺害した元厚労省医系技官らの優生思想 中川隆
5. 中川隆[-11996] koaQ7Jey 2020年7月29日 01:18:23 : SgTUxXFqow : QlM3L21tTE9wdHM=[3]
ALS 患者殺害の容疑者を石原慎太郎が差別丸出しで擁護! 松井市長ら維新も優生思想を批判せず“医療費削減の安楽死”推進に利用(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo274/msg/548.html

2020.07.28 松井市長ら維新がALS 患者殺害の優生思想を批判せず安楽死推進に利用 リテラ    

 元厚労省医系技官である大久保愉一容疑者と山本直樹容疑者の2名の医師が、ALS患者の女性に薬物を投与し殺害した事件。容疑者らは殺害した女性とSNSを通じて知り合っただけで担当医でもなく、さらにツイッターや電子書籍で「高齢者や障害者は死んだほうがいい」という主張を繰り返す典型的な優生思想の持ち主だった(詳しくは既報参照→https://lite-ra.com/2020/07/post-5538.html)。

 メディアではこの事件を当初「安楽死」などと報じているが、「安楽死」や「尊厳死」と呼べるようなものではなく、容疑者たちのグロテスクな優生思想に基づいた命の選別にほかならない。

 いまの日本社会にはこうした容疑者たちとそっくりな主張をしている連中がほかにも多数いる。ネトウヨだけでなく、政治家や学者、メディア関係者までが平気で「老人は安楽死させたほうがいい」「障害者を生かしておくのは無駄だ」「税金を使っているのを申し訳なく思え」などといった暴論を叫んでいる──。

 そう危惧していたら、案の定、石原慎太郎が27日、ツイッターで容疑者たちをこう擁護した。

〈業病のALSに侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性が尊厳死を願って相談した二人の医師が薬を与え手助けした事で「殺害」容疑で起訴された。武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ。裁判の折り私は是非とも医師たちの弁護人として法廷に立ちたい。〉

 石原慎太郎といえば、都知事に就任したばかりの1999年9月に障害者施設を訪れ、「ああいう人ってのは人格があるのかね」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」と発言したり、相模原障害者殺傷事件についも「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と理解を示すなど(詳しくは既報参照→https://lite-ra.com/2016/09/post-2583.html)、これまで日本社会に広がる“障害者排斥論”をさんざん煽ってきた。

 今回も、ALSを前世の悪行の報いでかかる病気という意味で、ハンセン病差別などにも使われてきた「業病」と表現し、殺人を「介錯の美徳」などと持ち上げるなど、差別性を全開したわけだ。

 しかし、今回の事件では、石原のような差別主義者の暴論よりもっと深刻な状況が起きている。それは、現役の政治家たちが今回の事件に乗じて、「尊厳死の議論をしよう」などと言い出していることだ。

 ほかでもない、「維新」の連中である。はじまりは、日本維新の会代表である松井一郎・大阪市長が、24日正午すぎ、「ALS患者を安楽死か 医師逮捕」というこの事件の一報をリツイートしたうえで、こうツイートしたことだった。

〈維新の会国会議員のみなさんへ、非常に難しい問題ですが、尊厳死について真正面から受け止め国会で議論しましょう。〉(7月23日 午後0時50分)

 この時点では容疑者が優生思想の持ち主であることがわかっていなかったとはいえ、すでに「主治医ではなくSNSで知り合った」ことは報じられており、多くの人が疑問を抱いていた。詳細もわかってないのに、こんな事件に乗じて前のめりで「議論しましょう」というのはあまりに軽率だろう。

■容疑者が優生思想ゆえの犯行だったことを知っても松井市長や維新議員は開き直り

 いや、松井市長にとっては、この容疑者たちが優生思想をもっていることを知っていても、同じだったのかもしれない。

 実際、容疑者の優生思想が発覚した後、批判を受けても、松井市長はツイートを訂正も撤回もしていない。それどころか、共産党の山本のりこ・大阪市議が〈今回の事件で殺害を犯した医師は優生思想を主張する人物で、そこに人間の命に対しての尊厳はありません。この事件を受けて尊厳死の議論を喚起するというのは優生思想、安楽死、尊厳死などの区別もついておらず、非常に危険であり首長の発言として問題だと思います〉と批判したことに対し、こう開き直ったのだ。

〈結局、共産党は難しい問題からは逃げる政党です。現実に難病患者の方が他人の手で命を絶ったのです。この様な悲惨な事案はこれまでもありましたが、国会でまともな議論がなされていません。政治家が難題課題を議論する当然の事です。〉

 維新のほかの国会議員たちも、同じような言動をしている。れいわ新選組の舩後靖彦参院議員がコロナ感染防止のため国会を欠席したことに対して歳費返納を要求したことで、障害者差別思想を露呈した音喜多駿参院議員がすぐに〈まさに避けて通れない問題です。まず議論を重ね、方向性と提言を出したいと存じます〉と松井市長に賛同。ネトウヨ・足立康史衆院議員は、松井市長の発言を批判した津田大介氏に対して、こうかみついた。

〈実際、今回の事件を契機に生きる権利/死ぬ権利、安楽死/尊厳死についての議論が活発になっています。私は良いことだと思いますよ。にもかかわらず津田さんは「今回の事件を機に」議論を深めようとする政治の取り組みを不適切不適格と断じる。津田さんのレッドラインを教えていただけると有難いです。〉

 いずれにしても、彼らの発言をみていると、今回の事件をとにかく安楽死正当化に利用したい気持ちだけがダダ漏れで、事件を生み出した優生思想そのものをまったく批判していない。

 あらためて説明しておくが、今回の事件は、ALS患者の生に寄り添い真剣に考えた上で止むに止まれず本人の意思を尊重したようなものではなく、優生思想の持ち主が「安楽死」の名を借りて殺人を犯しただけの可能性が高い。

「安楽死」「自己決定」の名のもとに、障害者や難病患者、高齢者が犠牲となってきた例は歴史上いくつもある。あのナチスが障害者を虐殺した「T4作戦」も、「安楽死」「自己決定」の名のもとに行われた。今回の事件はそうした危険な排外思想の延長線上にあるのだ。

■健常者の立場の「安楽死」の価値観を押し付け、障害者に延命を拒否させる維新の姿勢

 しかも、維新の連中が恐ろしいのは、ALS患者をはじめとする難病患者や障害者が置かれている状況への想像力をまったく欠いていることだ。

 自身もALS患者であるれいわ新選組の舩後議員が事件を受け、オフィシャルサイトにこう声明を出していた。

〈報道を受け、インターネット上などで、「自分だったら同じように考える」「安楽死を法的に認めて欲しい」「苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う」というような反応が出ていますが、人工呼吸器をつけ、ALSという進行性難病とともに生きている当事者の立場から、強い懸念を抱いております。なぜなら、こうした考え方が、難病患者や重度障害者に「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。〉

〈私も、ALSを宣告された当初は、出来ないことが段々と増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。その時、呼吸器装着を選ばなければ、今の私はなかったのです。〉

〈「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。〉

 また、自身もALS患者である日本ALS協会副会長・近畿ブロック会長の増田英明氏も、患者の「死にたい」を鵜呑みにしないでとこう訴える。

「私たちの団体には、彼女のように生きることに迷う人たちがたくさんいます。そういう人を前にして苦悩する家族や支援者もいます。生きることよりもそうじゃない方が楽なのかもしれないと傾きそうになりながら、必死に生きています。彼女を死に追いやった医師を私は許せません。私たちが生きることや私たちが直面している問題や苦悩を、尊厳死や安楽死という形では解決できません。生きてほしい、生きようと当たり前に言い合える社会が必要」(京都新聞24日付)

 舩後議員や増田副会長も語っているように、仮に患者が「死にたい」と口にしたからといって、「死にたい」というのが本当に患者の希望と言えるのかどうか、それが時間や環境の変化で変わらないものなのかどうか、簡単に判別できるものではない。

 仮にその時点で「死にたい」というのが本心であったとしても、友人や家族に「死にたい」と相談されて、じゃあ死ぬ方法を一緒に考えよう・手伝おうなどという人はほとんどいないだろう。なぜ死にたいと感じているのか、その苦しみを取り除くにはどうすればいいか、考えるだろう。

 だが、維新の連中には、そういう視点はまったくない。まさに健常者が想像上で考えているだけの「苦しみながら生かされるのは本当につらい」という価値観を押し付けて、障害者や高齢者に死を選ぶよう圧力をかけているのだ。

■「透析患者は殺せ」の長谷川豊を公認し、大阪万博にも「医療費削減」思想

 しかし、考えてみれば、維新がこんな事件に乗じて「尊厳死の議論を」などというのは、ある意味、当然なのかもしれない。

 維新は、橋下徹・元大阪市長の時代から財政健全化のための福祉切り捨てを推し進めてきたが、その底流には、人間を経済効率でしかみない、新自由主義的な弱肉強食思想がある。

 実際、2017年の衆院選では、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏を党の候補として公認。長谷川氏はその少し前に、〈「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ! 無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」〉と透析患者の殺害まで口にし、批判を浴びていたが、維新はまったく問題にしなかったのである。

 それどころか、2017年当時、長谷川氏の擁立を決めたことについて、維新の幹部は「維新の政策と長谷川氏の主張は近い」(産経ニュースより)などと語っていた。ようするに、長谷川氏の「透析患者は殺せ」発言が、維新の思想と大差ないということだ。

 たとえば、維新が推進する大阪万博にもその思想はあらわれている。大阪万博では「いのち輝く未来社会のデザイン」をキャッチコピーに、当初「健康」や「長寿」をテーマとし、「健康寿命の延伸」を訴えていたが、大阪府の基本構想では開催効果のひとつとして〈寿命の延伸による健康・長寿社会の実現、その結果として社会保障費の増加抑制〉をあげていた。また同万博について経産省が取りまとめた資料でも、健康寿命について〈我が国の医療費は、高齢者向けが約半分であり、入院関係が多くを占めている〉〈健康寿命が伸びれば、高齢者向け医療費が節約できる可能性〉などと書かれている。健康寿命が伸びることで、個々人がどのような豊かな生活を送ることができるかということではなく、医療費削減のことしか考えていないのだ。

 厚労省医系技官だった大久保容疑者は、ツイッターなどで、高齢者や障害者、生活困窮者にかかる医療や福祉の費用は社会資源の無駄であり、日本国の財政を逼迫させるだけ、早く殺してしまったほうがいいという主張を繰り返していた。

■コロナ禍で広がる「老人より若者の命を優先せよ」の命の選別論との合体

 本サイトは先日の記事で、大久保容疑者たちが語っていた高齢者排斥の優生思想は、この国の官僚と安倍政権の政治家たちの本音でもあると指摘したが、維新の政治家たちもまさに同じなのである。

 しかし、維新のこうした姿勢は批判されるどころか、今後、さらに勢いを増していくだろう。

 コロナ感染が拡大して以降、日本社会では、ICU病床や人工呼吸器、人工肺(ECMO)などの医療資源が限られた場合、高齢者より若者を優先すべき、高齢者は若者に譲るべきなどという意見が平気で語られるようになっているからだ。

 また、「高齢者しか死なない病気のために、若者の経済活動が制限されなくてはいけないのか」という意見も、ネットだけでなくワイドショーなどでもかなり普通に語られている。

 これらの議論について、災害現場などで行われる医療トリアージと同じようなものと勘違いしている向きも多いが、トリアージは、重症度や治癒の可能性に基づいて医療的に客観的に判断されるものであり、命の価値をはかるものではない。「高齢者より若者を優先すべき」などというのは、明らかに「命の選別」「優生思想」につながるものだ。

 今回の非道な事件をきっかけに、「尊厳死の議論をしよう」などと発言している維新政治家が次に叫び始めるのはおそらく、この「若者の命を優先しろ」という「命の選別」政策だろう。こんなファシストたちをこれ以上のさばらしてはならない。

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/244.html#c5

[リバイバル3] ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F
ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F

SONY TA-2000 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=SONY+TA-2000+

SONY/ESPRIT セパレートアンプ一覧
https://audio-heritage.jp/SONY-ESPRIT/amp/index2.html

ヤフオク! -「SONY TA-2000 」の落札相場・落札価格
https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch?auccat=&tab_ex=commerce&ei=utf-8&aq=-1&oq=&sc_i=&exflg=&p=SONY+TA-2000+&x=0&y=0


▲△▽▼


SONY TA-2000 ¥85,000(1968年頃) 

ソニーの持つ多くの技術を結集して開発されたプリアンプ。

ft=200MHz以上で増幅率が大きく、リニアリティの良いシリコントランジスタを使用しており、トランジスタ3個ずつの直結アンプをユニット化した回路設計となっています。これにより低歪化を図っています。

Phono入力は2系統備えており、Phono2入力にはON-OFF可能なヘッドアンプを設けることで、幅広いカートリッジに対応しています。

VUメーターとメーター用アンプにはBTS規格を満たす高い精度のものを採用しています。

テープヘッド入力を搭載しています。
テープ再生時はTA-2000底面のイコライザー調節つまみによってヘッドを含めた特性を調整できます。

ローフィルターとハイフィルターを搭載しています。

Phono1/2、Tape Head、Tuner、Aux1、Tapeの各入力に独立した入力レベル調節を搭載しています。

バリアブル・ターンオーバータイプの2dBステップ型トーンコントロールを搭載しています。
ブースト量に応じて周波数が変化するため、中低域や中高域が不自然に強調されません。

センターチャンネル出力端子や出力レベル切換えスイッチ、トーンキャンセルスイッチなどの機能を搭載しています。

別売りオプションとしてユーラシアンチーク仕上げのウッドケースと、マウント金具ケースがありました。


機種の定格

型式 コントロールアンプ

入力端子
後面:Phono1/2、Tape Head、Tuner、Tape、Aux
前面:Mic、Aux2

出力端子
後面:Rec out、Pre out1/2、Center out
前面:Line out、Headphone

使用半導体
トランジスタ:31個
ダイオード:9個

外形寸法 幅400x高さ145x奥行315mm
重量 9.0kg
https://audio-heritage.jp/SONY-ESPRIT/amp/ta-2000.html


▲△▽▼


SONY TA-2000F ¥128,000(1971年発売)

ソニーの持つ多くの技術を結集して開発したプリアンプ。

HiFi再生系の中で最も有害な混変調歪を極力発生させないため、オーディオ専用に開発したFETと耐圧の高い素性のすぐれたシリコントランジスタを使用しています。
信号の通過する各ユニットアンプの初段はすべてFETを起用し、優れた伝送特性を実現しています。

ヘッドアンプにかかる出力を考慮し、最大感度1.2mV、最大許容入力300mVに設計されています。
このため、高耐圧トランジスタと電源電圧150Vの設計がなされ、ボリューム前段で歪むようなことは起きません。
また、Phono1では低出力のMCカートリッジもそのまま使えるよう最大感度0.06mV(許容入力15mV)のFETゲート接地型FETヘッドアンプも組み込まれています。
さらに、マイクアンプもプロ用マイクの高出力でも使えるよう1V以上の許容入力を得ることに成功しています。

メーターとメーター用アンプは周波数特性、リニアリティ特性ともBTS規格を満足する精度の高いものを採用しています。
このVUメーターを利用することで周波数レコードや標準テープにより、レコードやテープの再生時における周波数特性をチェックすることができます。
また、特性のわかっているマイクロホンを使い、テストレコードやテープを利用すると、リスニングルームを含めた再生系全般のアコースティック状態までも調べることができます。このためマイクアンプは他のソース系とは別に専用のものが組み込まれています。

2台のテープデッキを接続すればファンクションレバーの切換だけでプリントができます。
しかも、テープをプリントしながらマイクからのミキシングが可能です。

低域は500Hzと250Hz、高域は2.5kHzと5kHzにそれぞれターンオーバー周波数が変えられます。さらに、それぞれの補償量(つまみの位置)によってもターンオーバー点が自動的に変わるバリアブル・ターンオーバー形を採用しています。
補償量は正確な2dBステップで、プログラムソースやスピーカーの特性、部屋の音響特性に合わせて最良の状態で楽しむ事ができます。
また、つまみがどの位置にあってもトーンコントロール回路をとばして瞬時にフラットな特性に切換えられるトーンキャンセル・スイッチがついています。

ローフィルター(50Hz)、ハイフィルター(9kHz)ともに肩特性のシャープな本格的パッシブ・フィルターが内蔵されています。

Phono2、Tuner、AUX1、AUX2、Tape1の各入力にそれぞれレベル調整用アッテネーターがついているため、Phono1のレベルに合わせて使えば入力を切換えても同一レベルで楽しめます。

Line out出力としてもそのまま使用できる程、品位の高いヘッドホン出力を搭載しています。専用の準コンプリメンタリーSEPP回路が組み込まれており、専用ボリュームを搭載しています。

センターチャンネル出力端子、2組のプリアウト端子、プリアウトレベル切換、3組のAUX端子、2組のPhono端子、など豊富な入出力端子を搭載しています。

Phono1は、FETのヘッドアンプを通すLow 0.06mV(10Ω、30Ω)とHigh 1.2mV(33kΩ、47kΩ、82kΩ)の5種類のインピーダンスに切換えられます。


機種の定格

型式 オールシリコントランジスタ・ステレオプリアンプ

回路方式
ヘッドアンプ:1FETゲート設置型回路
イコライザーアンプ:2FET、1PNP、2高耐圧NPNトランジスタ直結回路
フラットアンプ:オールFET Cカップル回路
ヘッドホンアンプ:準コンプリメンタリー回路
マイクアンプ:1FET、1高耐圧NPNトランジスタ直結回路

使用半導体
トランジスタ:44
FET:26
ダイオード:15

外形寸法 幅400x高さ149x奥行315mm
重量 9kg
https://audio-heritage.jp/SONY-ESPRIT/amp/ta-2000f.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html

[リバイバル3] ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F 中川隆
1. 中川隆[-11995] koaQ7Jey 2020年7月29日 08:53:52 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[1]


Mr.トレイルのオーディオ回り道


TA-4300Fは思いの外良いサウンドが出る 2020年02月26日

SONY TA-4300Fチャンネルデバイダーは1970年に発売された商品です。既に50年も経過しています。SS誌の菅野氏が長らく自宅システムで使われていたチャンデバです。その使用履歴も含めて、省スペースで使えるチャンデバとして入手しました。

50年前の商品なので音質については非常に心配をしていましたが、それが思いの外良いのです。最新のアキュフェーズのチャンデバのグレードまでは及ばないと感じていますが、素直な質感で意外と音のキレやヌケが良いのです。まだ電源ケーブルもインレット化して間もないので、これから活性化して行けばかなり改善されるのではないだろうか?・・・と期待しています。これから1年間ほどは「慣らし運転」になるだろうと思っています。その間に、未完成のシステムを完成させるように手を尽くして行きたいと思います。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/38fce0b6ea5dc4019139390ca9a68a81

Mr.トレイルのオーディオ回り道
今回購入した機器 2020年03月27日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/041e937217175c0832c184114324cdae

今回購入した機器の第1番目は、2台目の SONY TA-4300F チャンネルデバイダー。これは紹介済。
上の写真が2番目に購入したスピーカー。サンスイのSP-2005と云う30cmウーハーシステム。格子が特徴のサンスイのスピーカー、このSPの格子はラウンドが付いて曲がっています。かなりしっかりした箱(エンクロージャー)だと思っています。

ユニットが5個付いています。中・高音ユニットが2個づつ付いています。個人的には「Wの効果」が出ると予測しています。

背面には、アンプ1台で駆動できる様になって居ますが、切り替えれば直ぐに3ウェイマルチアンプで鳴らす事も出来ます。

高音用にパワーアンプを追加しました。SONY TA-N86 パワーアンプです。A級18W/chとB級80W/chに切り替えが出来ます。薄型なので3台重ねる事も可能(残り2台を追加の可能性も有り)

放熱フィンがかっこいいですね。A級の放熱に気を配ってあるのでしょう。

フロントパネルは100点ですが、リアパネルは30点しかあげれません。相当手を入れないと使い物にならないかな?

私が嫌うSPケーブルターミナル。これでは太いケーブルが使えないし、振動対策が出来ない。そのうちYラグ止め仕様に作り替える事になるだろう? 出来る様になって居るかは中を開けてみないと分からない。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/041e937217175c0832c184114324cdae


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ディネッセンのパワーアンプはちょっと厄介 2020年04月04日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/bdb05be0352a0a36ff9fc75c9755e08a

自宅のマルチアンプシステムで低域に使っているディネッセンのパワーアンプはちょっと厄介だ。このシステムの「ノイズ」の原因はこのアンプである。普通にプリ+パワーアンプの組み合わせで使えば「ノイズ」は出ない。マルチアンプにしてチャンデバを通して、低域の音量を絞る(音量調整)と「ノイズ」が出る。チャンデバでボリュームをMAXにすると「ノイズ」は消える。どうもインピーダンスがフラ付いているのか?

これが当該のディネッセンのパワーアンプ。サウンドは「ドラマチック」な表現で、他のアンプでは聴けないサウンドが出る。サイズもコンパクトで重量も10Kgチョイぐらいしかないのでこのアンプを使いたいと思っている。ゴットハンドにまたお願いして使える様にしたい。このアンプに「こだわり」たい。

元々、このアンプは入荷した時から「ノイズ」が盛大に出ていた。出品者(電気技術者)に2回も送り返して対処していただいたが、結局「ノイズ」を止める事が出来ず、「投げ出した」状態のモノ。これを当方の「ゴッドハンド」にお願いして「ノイズレス」にしていただいた。アースラインの引き回しで「ノイズ」を拾っていたとの事だった。

現在はまたサトリのミニパワーアンプに交代。このアンプにするとノイズは全くでない。クリアーなサウンドだが、「音楽」に「劇的」な表現が無い。SONY TA-N86に交代する様にも考えている。

SONY TA-N86パワーアンプを使える様にするには、

@電源のインレット化 
ASP端子のYラグ対応化、
BRCA端子の交換(強度アップ)、
CパイロットランプのLED化(現在パイロットランプは点かない・・・球切れ)

の4点を対策しないといけない。4月中にやる予定をしているが、直ぐには対応できない。・・・ゆっくりと準備して一気に仕上げる予定。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/bdb05be0352a0a36ff9fc75c9755e08a


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SONY TA-N86の電源インレット化やSP端子の交換をしたいが・・・ 2020年04月05日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5a589803d15b62fc04342dbb68bc7a17

SONY TA-N86パワーアンプの「音質改善対策」が出来ていませんので、予備知識を得る為にアンプの内部を拝見しました。

上面の蓋を開けて見ました。

見る処は、
@電源ケーブルの取付状況 
ASP端子の状況 

の確認です。電源のインレット化をするにはスペースが有りません。内部にもLアングルが入っていて、インレットが取り付け出来ません。SP端子も一体型で交換するにはちょっと大変です。

底面のカバーを外して確認をしましたが、やはり「難しい」と判断しました。

このアンプは電源のインレット化やSP端子をYラグ対応にするのは「やらない方が良い」と判断しました。やってやれない事はないが・・・。

SP端子への配線で、1ヶ所半田不良の処が有ったので、その場で修正しました。4ヶ所共に同じ作業をしました。何故なら使った半田が「銀入り鉛レス半田材」だからです。1ヶ所だけだと、そこだけ電気の流れが良くなり過ぎます。4ヶ所条件を揃える(バランスを取る)事も大事です。

このアンプの音質対策は「ヒューズ交換」のみでした。小さいアンプですが6.3Aのヒューズが使って有ります。フルテックのブルーのヒューズに交換です。SP端子の半田付けとヒューズ交換だけでも「電気が流れ始めた」と感じさせる変化が出ました。

電源のインレット化とSP端子の交換が出来ませんでしたので、マルチアンプで使うなら「高域用」ぐらいにしか使えないと判断しました。JBL#4425を軽々ドライブしますが、私の判断は厳しいのです。求めるのは「表現力」です
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5a589803d15b62fc04342dbb68bc7a17


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SONY TA-N86のサウンドは・・・ 2020年04月06日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1345f6677989481b2fa613cc970d094e

SPケーブルにベルデンやWE16GAぐらいのケーブルしか接続できないので致し方ないが、なかなか元気なサウンドがする。低域のドライブ力も高そうだ。現在A級18W/chの仕様で鳴らしている。

このアンプを選んだ理由の一つが「20W以下」の出力だから。
一般の方なら「大出力」ほど良いと考えるのかも知れないが、実際に使う出力が0.5W以下で有るなら、20Wも有れば充分である。出力よりも「表現力」が重要。音楽を聴いた後の感動が違う。

電源ケーブルのインレット化が出来ないと良い電源ケーブルが使えない。いくつか対策方法は有る。まだちょっと忙しいのでゆっくり考えている。SPケーブルももっと良いケーブルを使わないと、とても私のシステムには使えない。Yラグが使えるようにする事も出来ない訳ではない。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1345f6677989481b2fa613cc970d094e


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サンスイSP-2005のマルチアンプ化 2020年04月07日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5e1e45f0eac8b3548ba6f8c3451bb99b

一昨日入荷したSONY TA-3120パワーアンプを高域に使ってマルチアンプを組みなおしました。これがサンスイのスピーカーか?・・・と云うぐらい良く鳴っています。

これが高域用のTA-3120(1967年製)です。シンプルな作りが気に入っています。なかなか馬力の有るサウンドを出します。低域に使えるのですが、取り合えず高域に使っています。

低域にM4、中域にTA-N86、高域にTA-3120の組み合わせです。チャンデバはSONY TA-4300Fです。プリと低域がパイオニア、チャンデバと中・高域がSONY製と寄せ集めですが、なかなかのサウンドを出して来ます。ベーム/ウィーンフィルの「ベートーベン:交響曲第3番「英雄」をかけてじっくり楽しみました。サブシステムがこんなに良くなって良いのかしら?・・・と思えるサウンドになって来ました。

近日中にもう1台SONYのパワーアンプが入荷します。この1台が入って来たら、D208システムを鳴らして見たいと思っています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/5e1e45f0eac8b3548ba6f8c3451bb99b


Mr.トレイルのオーディオ回り道
新しいアンプが入荷した 2020年04月07日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b38ee8817fc0b45e6adbc03ff1607669

4月になって2台のパワーアンプを購入しました。昨日届いたのがSONY TA-3200。出力は50W/chです。早速サンスイSP-2005の高域用に使って鳴らし出しました。

外形は縦長の仕様で非常にコンパクトなパワーアンプです。実際にJBL#4425を鳴らして見ましたが、しっかりした低音が出てきます。なかなか好印象のアンプです。発売は1967年頃ですので50年以上前のアンプです。メンテ済のモノを選んで購入しました。そのおかげか特に不具合はなさそうです。

もう1台もSONY TA-3140Fです。出力は35W/ch。発売は1972年。こちらも50年前のアンプです。まだ発送されていない様なので今週末の入荷だろうと思います。

非常にコンパクトなアンプです。どちらのアンプも電源ケーブルがしょぼいヒョロ線です。これをインレット化して良い電源ケーブルを使うと「大化け」しそうな予想をしています。4月いっぱいはこのまま鳴らし込んで、「生き返らせる」事を優先します。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b38ee8817fc0b45e6adbc03ff1607669


Mr.トレイルのオーディオ回り道
オーディオ機器の「新旧」と「価格」と「音質」は? 2020年04月09日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e23cd2011ebebe0e7133b1cc51be88db

自宅システムの音質レベルが「オリンパスシステム」に近づいて来た。自宅システムで「新参機器」はSONY TA-4300Fチャンデバのみ。このチャンデバも2月25日から使い始め、約1ヶ月半を経過して来た。(累計250Hr以上の鳴らし込み) 昼間オリンパスシステムで聴いたニールセン作曲:「アラジン」ネーメ・ヤルヴィ/イエーテボリ交響楽団を昨夜自宅システムでも聴いて見た。ほぼ同じくらいのグレードのサウンドが出て来ている。

チャンデバのSONY TA-4300F(1970年製:入手価格:送料込み¥4万円)に対し、オリンパスシステムで使用しているアキュフェーズF-25V(2002年製:入手価格:約\30万円)で、製造年代や入手価格に相当な開きがある。しかし出てくる「音質」は互角である。使ってみて分かる事だが、このTA-4300Fはかなり使えるチャンデバである。一応割高であるが「メンテ済」のモノを購入した。

サブシステムで使っている2台目のTA-4300Fの入手価格は送料込み¥2万円である。こちらも問題なく使えている。かなり音質グレードも上がって来た。

今回、パワーアンプの追加でSONY製の@TA-N86 ATA-3120 BTA-3140F の3台を購入した。

それぞれ発売年代が違う。価格も中古なので非常にリーズナブル。しかし求める「音質レベル」は同じだ。

年代が異なればアンプの作り方そのものが変わっている。

1970年頃は、電子部品を単体で基板に挿し、裏配線で回路を作っていた。非常にメンテがやり易い上に、私流の「音質対策」が非常にやり易い。・・・高性能化させ易い。

これに対して1980年代以降は「プリント基板」が多用されている。プリント基板も時代とともに大幅に変化はしてきているが、「リフロー半田」を使った基板になると、簡単には電子部品の交換は出来なくなっている。この場合は「基板ごと交換」になりやすい。多種の電子パーツの載ったプリント基板のストックは簡単には行かない。結局「交換基板がない」と云う事でそのアンプの寿命が終わる。

個人的には1970年前後頃の、技術者たちが「良いものを作ろう」と奮闘した時代の製品に、本質をとらえた音質対策をしたアンプを目指した方が、廉価で音質グレードの高いアンプが作れると思う。高価なアンプでなければ「ハイエンドの音質」にならないと思うのは浅はかな考えだと思う。最後は「技術力」と「経験」が生きてくる。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e23cd2011ebebe0e7133b1cc51be88db

Mr.トレイルのオーディオ回り道
あーあ、ガックリ・・・ 2020年04月10日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/cd1a0e398a71b836a845cd6a3f70376e

SONY TA-3140Fが入荷しました。奇麗な個体です。TA-4300Fと同じサイズで非常にコンパクトです。

早速「音出し確認」をしましたら、Rchから音が出ません。古いアンプは使われなくなってから長い時間眠っています。この個体は某オクで「通電確認のみ、動作確認はしていない」商品でした。使い勝手の良いアンプみたいなので「ゴッドハンド」(オーディオ道場) にお願いして復活させたいと思います。

代替部品が有ると良いのですが・・・。50年前のアンプになると、音は出ても正常になるまで時間がかかります。今回の様に安く手に入れても「修理代」を出さなければならないと高くつきます。出来るだけ「メンテ済」のもので、まともに音の出るものを選択した方が無難ですね。今回は失敗です。「ガッカリ」でした。修理代も要れた金額でしか入札していません。

いつもうまく行くとは限りません。古いアンプには「リスク」が付きまといます。そうは云いながら、もう既に次のアンプを手配済です。こちらも似た様な「通電確認のみ」の物。安く買えたが動作確認して見ないと何とも言えない。うまく行かない時は続くもの・・・・怖いなー。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/cd1a0e398a71b836a845cd6a3f70376e


Mr.トレイルのオーディオ回り道
どうやらスピーカーを2セット壊した様だ 2020年04月14日

先週購入したSONY TA-3140FのRch「音出ず」の不具合アンプの音出し確認で、2セットのスピーカーを壊した様だ。壊れたのはD208ユニットとSP-2005システムの高域ユニット。

最初にSP-2005の高域用につないで音出し確認したが音が出なかったので、D208の方につないで再確認をした。この時にRchのみSPユニットを壊した様だ。先日来たTA-N86 2台目の接続確認の時にもRchから音が出なかった。SP-2005の中域や低域に使うと正常に音が出る。TA-3120も繋いで見たが同じ様だ。

修理費用を考えると「安物買いの銭失い」になってしまった。トホホ・・・。取り敢えずSPユニットを修理に出さないといけない。やはり「動作品」を待つべきだった。50年も前のアンプのテストをする時は、壊れても良いスピーカーを用意しなければいけませんね。こんなトラブルは初めてです。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3120パワーアンプの電源のインレット化 2020年04月18日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/513b52030036be6e50a82e628c3e8dfb

SONY TA-3120(1967年製)のパワーアンプも入荷して10日が経ちました。このアンプは「動作品」でしたが、内部を確認すると電源部のメインコンデンサー部の半田付けが怪しい状態でした。配線をカットして線の皮を剥きやり替えました。その後は異状なしで使っていました。

サブシステムではSPが壊れた結果、マルチアンプを止めて#4425のシンプルなシステムにしています。

このアンプのリア面です。1967年製ですので、当時の直出し電源ケーブルは非常にショボイケーブルです。この状態では「音質アップ」は大きく望めません。電源インレット化を最初から計画して購入しています。丁度アンプが眠るゆとりのある状態になっていますので、思い切ってインレット化を実施しました。

加工時間は2.5時間ほどで完了しました。スイッチドコンセントを使ってやった分、時短出来ましたし、取付位置も高く出来ました。インレットを止めるネジを取り付けるのが最大の難関でした。とにかく指の入る隙間が狭く、ナットの取付に一苦労しました。

ついでと云うか?電源のインレット化と抱き合わせで必ずヒューズのグレードアップをさせます。この機種は5Aのヒューズが使ってあります。フルテックの5Aのヒューズをストックしていましたので即交換です。

電源インレット化後の「慣らし運転」をしています。ヴォーカルを鳴らして見ると、中央よりLch側に15cm程「定位」がズレています。裏面のバランスネジで中央に来るように調整を完了しました。

さて「音質は?」・・・鳴らし始めですので「詰まった」様な感じで鳴り始めましたが、2時間ほど鳴らし込むと「詰まり」は取れてきました。結構な分解能で出てきます。後、数日鳴らし込めば自宅で使える様になると思います。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3120 パワーアンプはなかなか良いサウンドを出す 2020年04月23

先日、電源部のインレット化を完了し、鳴らし込みを続けているSONY TA-3120も、鳴らし始めはけばけばしいサウンドでしたが、角が取れて聴き易くなって来ました。型番はTA-3120A(1967年製)の様です。同じ型番でもパイロットランプ?が2個(セーフティランプ)の付いたTA-3120は1965年製です。

電源をインレット化させる前も「元気のあるサウンド」でしたが、インレット化した後は音数が増して更に良くなって来ています。元々はこのパワーアンプは「プリメインアンプ TA-1120」のパワーアンプ部を独立させたものの様ですが、それがどうしてなかなかのサウンドを聴かせてくれます。

このアンプより10年も遅れて、価格も数倍のアンプが簡単に音質で負けています。アンプの音質は聴いて見ないと分からないモノですね。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
先々厄介な買い物をしてしまった・・・ 2020年04月28日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6344188ca19d9d014bdccc1b856cbdea

自宅システムを良くする為にチャンデバや余分なアンプ・スピーカーを買い込んでしまった。

その中でSONYの1970年前後のアンプの「音質」が良い事に気付いてしまった。・・・で、SONYのアンプが増殖してしまった。・・・まだ他にも食指を動かしている自分がいる。・・・こんなに買い込んで「お守り」はどうするのか?

まだ追加でアンプが入って来る。更にもっと・・・聴いて見たい欲望に駆られている。ここは一旦ペンディングにして物欲が静まるのを待つしかない。アンプの修理は終わったが、スピーカーユニットの修理を出している。一段落させないと次に進んではならないと客観的な自分がいる。

サンスイのSP-2005のマルチアンプ化を済ませたが、やはり「オリジナル状態」では私には使えない代物だ。とにかく「音が薄い」。当初の目論見通り、JBLのユニットに換装するか? 内部配線やSP端子に手を加えてやらないと使い物にならないと感じる。一般の方には十分なサウンドが出ているが、個人的には「サムシング」が無い。

現在修理に出しているD208ユニット1個と、#4425用ウーハーのクロスエッジへの張替えが終わらないとユニットが回転しない。しばらく待とうと思う。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
また面倒なアンプを購入してしまった 2020年04月30日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f6d8bd2d453a30396588b5cdbb7ab401

先々週入手したSONY TA-3120アンプは実はTA-3120A(1967年製)と云うらしい。このアンプを電源のインレット化をして聴いて見たら素晴らしいサウンドが出て来た。2匹目のどじょうを狙って今回は、本物のTA-3120(1965年製)を購入した。

埃まみれで汚いアンプです。ただ作りはTA-3120Aとほぼ同じです。

電源コンセント部が「ネジ止め」になっている事が違います。(TA-3120Aはリベット止め) 電源ケーブルの付け根は非常に危ない状態で、内部の配線材が首の皮1枚程度で絶縁している状態。おまけに「ベトベト」していて、とても扱える状況にないので根元から切断しました。(現在インレット化中・・・ネジとナットが取れない!!!・・・一苦労しそうです)

そう云う訳で、インレット化できていないので音出し確認も出来ない状況。GWの連休中に仕上げてしまう予定。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3120(1965年製)の電源インレット化 2020年05月01日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/ed3c769c3f0360e84797cf72b972280e

先日購入した1965年製のSONY TA-3120。かろうじて電源は入りましたが、直出し電源ケーブルの付け根部分でショート寸前の状態。このままでは危なくて使えません。やむを得ず、音出し確認の前に「電源インレット化」をすることになりました。

その前にクリーニングしない事には手も付けられません。使い古しの歯ブラシを使って、外で埃を落とします。

一通り清掃を終わってようやく「インレット化」の実施です。前回TA-3120Aをやっていますので要領は分かっています。意外と早く完了しました。

実際の作業時間は2時間ほどで完了。ヤスリで隙間を広げて行きます。根気のいる仕事です。
やっとインレット化が終わったので「音出し確認」です。・・・・残念ながら「Rch不良」でRchのみ音が出ません。・・・また修理に出さないといけません。修理費用の方が高く付きます。・・・ほ捨てようか?・・・と思ってしまう。報われない一日でした。・・・疲れました。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3140Fのリアパネルの端子類交換 2020年05月02日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/c262e628c0248d88cdbd1737e3c5e6c8

スピーカーを2セットも壊したSONY TA-3140Fも修理を終えて安心して使える様になりました。

リアパネルの状況です。電源は「直出し配線」でショボい配線です。これでは「音質」を追及する状況に有りません。SP端子もプッシュ型で細い配線しか接続できません。ここは「8oYラグ」が使える端子に交換したい所です。RCA入力端子も古い端子で強度が足りません。GW期間中は外出できませんから一気にこれらの「交換作業」をしてしまおうと考えています。4月29日は1965年製のインレット化作業、4月30日と5月1日は当該TA-3140Fのインレット化・SP端子・RCA端子交換作業を始めました。

2日かかりでインレット化・SP端子交換・RCA端子交換を完了しました。さて音出し確認です・・・ん・・・SWを入れると安全装置が働いているのか?「カッチン・カッチン・・・」の音を繰り返します。あーあーまたドック入りを増やしてしまった。また修理に持って行かなくては・・・。あーあー疲れました。このアンプは自宅の高音用に使う予定だったのに・・・。

先日の1965年製TA-3120と今回のTA-3140Fは修理に出します。日程を調整しなくては・・・。帰ってくればこのシリーズだけでマルチが組めます。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
何故1970年頃のアンプに拘るか? 2020年05月04日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e850f3abb185ffb72eda46bf8cc585fd

上の写真はSONY TA-3140Fの内部です。実にシンプルな作りです。シンプルな分「余計な回路」が入っていないので、「ストレートな音」が出て来ます。

こちらはTA-3120の内部。実にシンプルな作りです。ただ60年前のアンプですので「半田付け」部のクラックや劣化が有ると思います。

当時のオーディオ技術では、端子類の使い易さや電源ケーブルの「直出し配線」等の技術が不足していた様です。この部分を最新の機器に対応できる様にすれば十分今でも使えると思う。ここまで来たのです。あと一息と云う処かな?辛抱強くやり遂げたいと思う。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
アンプがこの2ヶ月で5台も増殖 2020年05月23日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d16d1e17763ce009c0e8dd26eddb13ce

最近の2ヶ月で、チャンデバ2台・パワーアンプ5台・SP1セットも増殖させてしまった。
増設したパワーアンプは1965年から1977年頃のSONYのアンプばかり。

コンパクトでしっかりしたサウンドが特徴。これがなかなかのサウンドで鳴ってくれる。メインならいざ知らず、サブシステム用にはこの様にスペースファクターが良くて、軽いアンプが扱い易い。

1965年製のTA-3120。SONYは約10年間隔で新しいシリーズを作っているので、その年代のアンプの志向が分かる。1970年頃は「プリント基板」が使われ出した頃で「手差し」のパーツが特徴。1980年頃になると1枚の基板に殆どのパーツを載せて「リフロー半田付け」されている。1990年頃にはモジュール化されて来ていると思う。それぞれの作り方が違う処がメンテ性や音質に出て来ていると思う。どちらが良いかは好みの問題かも知れないが、長く使う事を考えると、1970年頃の「手半田」の機器はパーツの交換が容易で修理して使える利点がある。古いからダメではなく、古いからこそ逆に長く使えたりもする。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000 プリアンプを入手 2020年05月30日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/db7ea84100da35a57ba09060ed3648fc

50年以上前のSONYのアンプを集めています。特に「Fシリーズ」もしくはそれ以前の機器を狙っています。

50年以上前の「オーディオブーム」の走りの頃の製品です。当時は技術者たちが「良いものを作ろう」と必死で頭を絞っていた頃だと思います。

内部は整然と「手差しパーツ」の基板が並んでいます。非常に綺麗です。この辺にも意気込みを感じますね。TA-2000は1968年頃の製品です。FシリーズのTA-2000Fのどちらを買うか迷いましたが、1970年以前の製品にしました。

電源部も非常にシンプルな状態です。

フロントパネルの処は「手配線」で込み合っています。この「手配線」に技術者たちのエネルギーを感じます。当該機は特に普通に使える状態です。唯一の不具合はVUメーターの球切れぐらいです。交換を試みましたが、素人では難しいと判断しました。

当分はこのオリジナル状態で使って行きますが、後日落ち着いてきたら

⓵電源のインレット化 
ARCAソケットの強度アップ(交換) 
BVUメーターのLED化 
CヒューズをFXヒューズに交換

をする予定です。また「ゴッドハンド」(オーディオ道場) にお願いをしないといけません。パーツの手配を完了しています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリアンプを手配 2020年06月04日

先日TA-2000プリアンプを紹介した時に、「かべさん」からコメントをいただき、「TA-2000Fプリアンプも良いですよ」とお言葉をいただいた。「かべさん」は「SEED」さんと一緒に4年ほど前に当方の処においで頂き、当方のステレオのサウンドをご存じです。

今回は同じくSONYのプリメインアンプTA-4650と一緒に某オクで落札しました。競争相手が少なく、意外と手ごろな価格で入手できそうです。ただ、動作確認されていないとの事なので、正しく動いてくれればありがたいですが、動かない場合は「修理」して使いたいと思います。またしてもサブシステムが増殖してしまいました。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000FプリとTA-4650プリメインアンプが入荷 2020年06月06日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/039333ca7d5d7d9978d203af404c65cf

TA-2000FプリアンプとTA-4650プリメインアンプが入荷しました。
狙いはTA-2000Fの獲得でしたが、抱き合わせでTE-4650プリメインアンプも一緒に付いていました。早速本体を確認して見ると、長い間眠っていた機器の様で、リアパネルのRCAソケットには使った跡が分からない状態のくすみ方でした。アルコール綿と綿棒でRCAソケットを綺麗にして、電源を入れてしばらく様子を見ていましたら、煙がACインレット付近からモクモク出て来ました。素早くSWを切り、開腹して燃えた部分を確認しました。ACラインに付けてあるPSRが1個燃えていました。特に無くても問題ない部品の様です。他の部分は特に異常は無い様です。

ただ急ぐ訳でもないので「総合点検」も兼ねて「ゴッドハンド」(オーディオ道場)に見ていただこうと思っています。現在修理・改造に出しているブツの受け取りの時に持って行こうと思っています。音出し確認は「おあづけ」です。

プリメインのTA-4650はリアパネルのINPUTとOUTPUTの「ジャンパー線」が無い事は分かっていたので、手持ちのRCAピンを接続して音出ししましたら、最初は凄いガリ音でした。一旦電源を切り、ボリュームをぐりぐり回してから再度トライするとガリ音は無くなりました。何の問題もなく使えそうです。ただ鳴らすSPが無い。写真ではLo-dのミニSPを繋いでいます。前回アンプの保護回路が壊れていてSPを2セットも壊してしまいましたので、その修理代等を考えると用心深くなります。壊れても惜しくないSPを使わないと痛い目に会います。少し学習しました。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
なぜ?今更50年以上前のアンプを使うのか? 2020年06月07日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/dcbc4f1cc9ba31802125d40c312cfa30

50年前のアンプを懐かしく思い、当時手の届かなかったフラッグシップクラスのアンプを使って見ようと思いました。最初にアキュフェーズのC200+P300の最初期型。

次にパイオニアのエクスクルーシブシリーズの最初期型C3+M4の組み合わせ。どちらの機器も「眠っていた」機器の様で、最初は「寝起き」のボヤーっとしたサウンドでした。動作も不安定で「音のバランス」が崩れた状態で1年以上「鳴らし込み」をしていました。その間にあちこち不具合が出て、その度に「修理」が必要でした。

サブシステムと云えど、2セットのアンプを同時に使いこなすのは時間がかかります。アキュフェーズはメインシステムでも使っているので、1.5年ほど鳴らし込んだ状態で手放しました。残ったC3+M4には「私仕様」に改造し、ヒューズも良いものを使い、電源ケーブル・ラインケーブル・SPケーブルのグレードを半年毎にグレードアップして来て2年が経ちました。それでも満足なサウンドにはなりませんでした。そろそろ諦めかけて「見切り」をした直後に、本来の「潜在能力」が出始めて来た様で、まさに「激変」のサウンドになりました。

「4月にC3+M4に見切り」を付けたので、次の準備として白羽の矢を付けたのがSONYのアンプ群。わずか1ヶ月の差でSONYのアンプが増殖してしまいました。1か月早くC3+M4が「活眼」していれば、この様にSONYのアンプが増える事はなかったと思います。

50年前のアンプでも「活性化」させれば現在の最新のアンプと遜色ないサウンドを出して来ます。メンテナンス性は新しい機器よりはるかに優秀です。その辺はアンプの「作り方」に関係してきます。アンプをこれから数十年使おうとしたら、メンテナンス性(パーツの交換等)が簡単にできる事がキーになります。その点で50年前のアンプ達は「手差しパーツ・手半田配線」で作って有るので、パーツも大きく、パーツの信頼性も非常に高いのです。今ではC3+M4は安心して使える状態にまで回復しています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリ試聴 2020年06月08日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6617116f9614430a262d940339f4836a

先日、TA-2000FプリがTA-4650プリメインアンプと一緒に入荷しました。入荷時に「音出し確認」をしようと、暖機運転中で10分ほどして煙がもくもくとACインレット付近から出て来ました。開腹して中を確認した処、ACラインに入れてあるPSRが1個燃えていました。そのパーツを切り取り、試聴に進める様にしました。

TA-2000(1968年製)とTA-2000F(1971年製)と3年の違いが有ります。

「音出し確認」レベルのサウンド確認です。何せ「恐る恐る・・・」の心境ですから。ただ一聴しただけで、TA-2000よりは熟成されたサウンドですね。音の広がりや音の出方がより開放的で自然ですね。凄いポテンシャルを感じます。デザインで損をしていますね。これがもっと良いデザインのマスク(例えばマランツ#7の様な)を持っていれば、もっとファンが増えたはずです。

1〜2週間ほどは小音量で馴染ませて、電気回路を生き返らせてやりたいと思います。何せ永い眠りから覚めたばかりですから・・・。無理せずに時間をかけて本来の性能(潜在能力も含め)を発揮させるように鳴らし込んで行きます。多分2年ほどはかかるでしょう。

今回の音出し確認にTA-4650のメイン部を使用しようと電源を入れたら、今度はこちらの電源部から「煙」が・・・。なかなか思いどうりにはいかないものです。(電源部の抵抗器が1個焼けていました)
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
1970年頃のSONYのアンプについて 2020年06月12日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/7c0e02dc8297131c9f708e4a5b86da2b

SONYのアンプは若い頃使った事が無かった。1970年頃(オーディオブームの始まりの頃)のアンプの音をメーカー別に確認して見たかった。当時サンスイやLUXMANのアンプを勧められるまま使って来た。その後、アキュフェーズのアンプに移って行った。

当時はマッキントッシュやマランツのアンプがハイエンドマニアの常備品でした。国産のメーカーでは前述のサンスイ・LUXMAN・パイオニア・SONY・テクニクス等沢山のメーカーが乱立していました。その中で、アキュフェーズとパイオニアの当時のフラッグシップ機を入手して鳴らしてサウンドがどのレベル位あるのかを確認しました。パイオニアのC3+M4が覚醒した今、「当時のアンプでも完成の域にある」と判断しました。

今回は今まで使った事の無いSONYのアンプを確認して見たいと思いました。そこでTA-3120Aを入手してサウンドを確認してみた所、「素晴らしいサウンド」を出して来る事に驚嘆しました。その後TA-1320オリジナルも確認しました。1965年の時点ですでにアンプは完成していましたね。

TA-3120A(50W/ch)の重量は10Kgも有りません。一時アンプは重いほど良い・・・1Kg=1万円・・・等と云われて、重いほど良いアンプ等と雑誌で云われていましたが、それは間違いですね。音の良さは「パーツ」(特に半導体=CANタイプ)の性能が良い・・・と感じています。SONYのパワーアンプを確認したので、今度はプリアンプも確認して見たいと思っています。内部の作りなど当方の感じ方では「理想的」で「美しい」と思います。非常に良いイメージを持っています。

ただ、当時では「無かった技術」が有ります。特にリアパネルのパーツ(ソケット類)の強度不足や細い直出し電源ケーブルの部分を現在対応型に改善すれば、現在でも一級品のサウンドを出してくれると推測しています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/7c0e02dc8297131c9f708e4a5b86da2b


Mr.トレイルのオーディオ回り道
1970年頃には国産アンプは完成形 2020年06月14日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b0ea596f308d9949d3b8c4ae4fc0d650

サブシステムにはわざと古いアンプを使っている。最新の高級アンプは手の届かない金額になっているので、「遊べる」古いアンプにした。試しに購入したC3+M4を活性化させたら最新のハイエンドアンプと遜色ないサウンドとなって来た。これに気を良くして45年前のアンプから50〜55年前のアンプまで遡って来ました。

SONYのTA-2000+TA-3120Aの組み合わせは1968年に出来ている。自分が中学生の時のモノだ。実際に手にして中を見てみると、実にスッキリとしたパーツ配置と基板で、今まで見たアンプの中でも「白眉」な美しさがある。

電源部も「化け物サイズ」のトランスではなく、実にスッキリしている。これは、TA-3120Aパワーアンプでも変わらない。「ゴッドハンド」さん(オーディオ道場)に修理をお願いした関係で、彼もこのアンプのサウンドを確認された。彼曰く「サンスイ#777と似た様なピュアな音がする」、「あの頃のアンプに使って有る半導体(CANTIPE Tr)が良かったのではないか?」との事でした。

自分がオーディオを始めたのは1972年。その為、1968年製のSONYのセパレートアンプは全く知らなかった。実際に使って見て感じるのは、「音色」が素晴らしい。サイズや重量も非常にコンパクトで扱い易い。当時のオーディオショップでは、初心者には「プリメインアンプ」を勧めていた。その頃サンスイAU-9500を勧められ購入した経緯がある。

55年前のアンプを「生き返らせる」ので、現在は一般レベルの電源ケーブルで慣らしている。まずは安心して使えることを確認したい。一応、アンプも「家電品」なので、老朽化したパーツが「燃える」事も有る。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b0ea596f308d9949d3b8c4ae4fc0d650

Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY のパワーアンプを後2台購入予定 2020年06月15日
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今年に入ってから、SONYの1970年前後のアンプが増えて来ている。

⓵TA-4300Fチャンデバ×2台、
ATA-3120/TA3120A、
BTA-N86×2台、
CTA-2000/TA-2000F、
DTA-3140F、
ETA-4650
・・・

10台のアンプを購入している。購入金額と同額の修理代がかかっている。まだ修理や整備しなければならない。

更に後2セットのパワーアンプを購入予定しているが続けては止めておこう。機材が増えると懐は寂しくなる。無理をしない事だ。欲しいのはTA-N86を後1台。残りの1台はTA-2000Fとペアになるパワーアンプ。金額的には十分射程内である。

TA-N86パワーアンプは1977年頃の製品です。この頃には1枚基板のアンプになっています。このアンプはなかなか音質が良さそうだと思っている。ただこのアンプに組み合わせるプリアンプのRCAソケットが上を向いているので手を出せないでいる。C3の斜めリアパネルでも一苦労なのに、完全に真上を向いている様なプリアンプは使えない。(自作の硬く重いケーブルでは曲がりが極端になって来る)

今月中には整備に出しているTA-2000Fプリが帰って来るだろう。楽しみですが修理費用も馬鹿に出来ません。ただ50年前のアンプを安心して使うにはそれなりのリスクが有ると云う事。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e885b8ef48c9d8f97f10ed02896728c8


Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリアンプの修理完了 2020年06月17日
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SONYのプリアンプTA-2000Fの点検及びRCAソケットの交換を先週依頼していました。1週間で点検・交換が終わった様で昨日受け取りに行って来ました。

これがリアパネルのRCAソケット(ジャック)及び電源部のインレット化完了した写真です。これでようやく使える体制が整いました。

プリアンプ3台が並ぶと壮観です。当該のTA-2000FプリはサンスイSP-2005の3ウェイマルチアンプシステムに接続しました。

50年前の機器ですので、「眠りから覚ます」意味で、一般の電源ケーブルから鳴らし始めています。いきなり負荷をかけるとパーツが飛んだり、燃えたりしますので用心して鳴らし込んで行きます。この時点で、2.5年かけて鳴らし込んだエクスクルーシブC3のサウンドを超えています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
TA-2000Fプリアンプのサウンド確認 2020年06月18日
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まずは、「動作確認」が一番です。ソース機器の入力が正しく出てるか?(単に音出し確認)をして行きます。写真の状態でサンスイSP-2005を3ウェイマルチアンプで鳴らしています。

SONYオリジナル状態のフロント及びリアパネルです。

対策後のリアパネルです。機器の性能は「電源ケーブル」で決まります。オリジナルの「直出し細線」では機器の潜在性能を取り出す事は出来ません。おまけに50年も経てば、直出し配線に「べた付き」が出て来て、信頼性も危惧されます。

高級な電源ケーブルを使えば更なる「性能アップ」&「音質アップ」も可能になります。このTA-2000or2000Fは非常にシンプルな内部構造と、短い内部配線ですので当方の好みです。「内部配線が短い」と云う事は「鳴らし込みの時間の短縮」に繋がると推測しています。
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SONY TA-2000Fプリアンプ始動 2020年06月19日
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修理や「私仕様」のカスタム化が終わったので昨日試聴を始めました。その前に「レイアウト変更」を決行。余分な機器を取り外しました。エクスクルーシブ#C3+M4を取り外しました。

TA-2000は一時休止して、TA-2000Fのみ1系統のSPで鳴らし始めました。午前中朝8時から鳴らし出して夕方5時まで連続稼働しました。夕方4時頃には「少しヌケて」来ました。お昼くらいには「ふん詰まった」音になり、しばらくは無理かとも思ったのですが、4時頃からサウンドが「ヌケて」来ました。

今回は3ウェイマルチアンプで鳴らしましたが、1日でここまで「ヌケて」来るとは・・・凄いアンプです。まだ「活性化中」ですので「音質」や「グレード」の判断は後日報告します。ただ物凄く良くなるだろう・・・と推測は出来ます。エクスクルーシブC3+M4を「活性化」させるのに2.5年かかりましたが、このプリは多分1週間ほどで「活性化」するのではないかと思う超ハイスピードアンプです。こんなに早いアンプは初めてです。ビックリです。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
エクスクルーシブ#C3+M4のサウンド 2020年06月21日
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エクスクルーシブ#C3+M4+JBL#4425のラインが6月に「活性化」しました。そのサウンドは#4425が38cmクラスの大型SPに変身したかの様な凄みの有るサウンドでした。C3+M4はメインスピーカーに使うべきアンプなのだと思い知らされました。

C3プリが活性化していたおかげで、SONYのパワーアンプが非常に良いサウンドに聴こえました。この10Kgにも満たないアンプ達から重低音が聴けました。

現在はC3+M4は取り外してストックしています。それに代わりSONYの1965年〜1972年の「50年前」のアンプ達を鳴らし始めています。そのサウンドは現時点ではC3+M4の組み合わせには遠く及びません。C3+M4の音の厚みや音場感の表現にはとても及びません。最もC3+M4の組み合わせも「活性化」に2.5年ほど費やしています。SONYのアンプは来てから1〜2週間です。「活性化度」が全く違います。古いアンプなので「燃えやしないか?」とまだ冷や冷やしながらの稼働です。当分は無理をせず「特殊な音質対策」もせずに「馴染ませる」事から始めています。音質的には相当なダウンです。それでも1年も鳴らし込めばモノになりそうだと予測しています。繋いで直ぐに「全開サウンド」を期待するのは初心者でしょう。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000&2000Fアンプの比較 2020年06月22日
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SONYのTA-2000&2000Fプリアンプです。

最初に手に入れたのはTA-2000の方でした。「カチッと締まったサウンド」に好印象を受けました。開腹して内部を見てみると非常に整然と基板が並んでいて、こちらも好印象でした。

その記事をアップしたら、かべさんから「TA-2000Fも良いですよ」とコメントをいただいた。いつもの癖で直ぐに確認したくなるのが病気です。数日後にはTA-2000Fを入手し、チャンデバの修理が終わったタイミングだったので、入れ替えで「私仕様」に改造していただきました。そのおかげで、使いだしたのは今週の水曜日から。

TA-2000Fの改造したリアパネル。電源をインレット化とRCAソケットを全て強度を確保するために交換しました。「何故?」TA-2000ではなくTA-2000Fを先に改装したのか?・・・それは、その時点で比較試聴した結果、TA-2000Fの方が良いサウンドがした為です。

ただ開腹して内部を見てみると、上の写真はTA-2000です。こちらの方が私好みであると同時に「良い音」がしそうな気がします。

こちらがTA-2000Fです。基板の作りが少し違っています。同じ5枚ですがTA-2000の方が良い作りです。「作り」と「サウンド」には相関関係が有ると思っていますが、中にははみ出し分布も有りますので、実際に使って見ないと何とも言えません。こちらもTA-2000Fと同じ改造を予定しています。TA-2000Fは100V仕様ですが、TA-2000の方は北米仕様の115V仕様です。昇圧トランスが要りますね。(所有しているので問題なし)

2セットのアンプ達がこれからどの様に変化してくれるのか楽しみです。しばらくは我慢して聴かないといけません。ただ、「軽快なサウンド」の傾向なのでJAZZ等で楽しみたいと思います。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
TA-2000が鳴り始めた様だ 2020年06月23日
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TA-2000の内部はほれぼれする様な作りだ。TA-2000Fが来た時に比較したら、音数で負けていたが、こちらは鳴らし込みが2週間ほどになった。現在比較試聴すると「逆転」している感じです。どちらも眠っていた機器ですので、目覚めるまでは真の実力は分かりません。

上段がTA-2000、下段がTA-2000F。TA-2000は全くのSONYオリジナルの状態です。早くリアパネルをTA-2000Fの様にしたい欲望にかられますが、ここはじっくりと進めたいと思う。

TA-2000+TA-3120Aの組み合わせで、D208フルレンジを鳴らしているが、今まで聴いた事のないサウンドがD208から出ている。音数が非常に多く、繊細で力が有り、キリっと締まったサウンドで音色も明るい。非常にシャープなサウンドだ。JAZZを聴くのが楽しくなってくる。C3+M4ではサウンドが重すぎる・・・これが取り外した原因。

しかし凄いですね。50年前のアンプが部品交換もなく、安定して使えるなんて・・・。アキュフェーズのC200+P300は半田部分のフラックスの残渣が多く、この先トラブルが頻発すると思って先に手放しました。C3+M4は思いの外、内部配線が多くて長く、活性化の時間が非常に長かった。それに比べてSONYの2セットのアンプは活性化するのが非常に早い。

自宅の管球プリアンプ(内部配線を全て特殊な銀線配線)の様な音の出方をする。超ハイスピードのサウンドの様な気がする。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
毎日「鳴らし込み」を続けている 2020年06月24日
午前中はこのサブシステムをメインに「鳴らし込み」を続けています。このSONYのアンプは「活性化」の進捗が早い。こんなアンプは初めてです。何処まで良くなるのか?楽しみなセットです。50年前のアンプで殆どオリジナルの状態で使える事が素晴らしい。

自宅システムも現在「鳴らし込み」の最中。なかなかヌケてくれません。特にチャンデバが抜けてくれないので、ここは「我慢」の為所です。来年の今頃には「ヌケて」いるでしょうから、モクモクとやるしか有りません。
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オーディオ機器の選択は難しい 2020年06月26日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/eeea4efec93ec125cf61eb85ddf0ecc3

基本的に2000年以降に製作された機器をメインシステムで使う様にしている。その理由は、「半田」が「鉛レス半田」になっているから。鉛入りと鉛レスでは抵抗成分が一桁違う。音楽は「瞬時の連続」で成り立っている。その「瞬時に」沢山の情報を送れる事が「音数」や「エネルギー感」・「質感」に繋がると考えていた。

試しに45年前のアンプ(C3+M4)を使って「覚醒」させてみると、最新のアンプと変わらない性能を出してくる。
今度は日本のオーディオ黎明期の50年以上前の機器を入手してサウンドを確認して見た。まだ手に入れたばかりで「覚醒」しているとは思わないが、なかなか良いサウンドを出している。

中を開腹して見てみると、整然と並んだ手差し・手半田・手配線の作りの好い事にビックリした。半導体工場の測定機並みの作りだ。逆に新しい機器程「作りが雑」に見えてくる。一枚基板にマウンターでパーツを載せ、リフロー炉で一遍に半田付けする。この時に、半田材をスクリーン印刷するのだが、その半田材にはフラックスが多量に入っている。このフラックスがパーツの寿命に効いてくる。またパーツのサイズも段々と小型化している。この小型化は相反する効果を持っている。寿命についてはレッドチェックの結果では大きい物ほど有利だ。

現在はサブシステムを鳴らすのが楽しみだ。自分が中学1年生の時に作られたアンプが素晴らしいサウンドを奏でている。サイズも手ごろで出力は50Wも有れば十分だと教えてくれる。音の粒立ちや音色がすこぶる良い。手放せなくなりそうだ。
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SONY TA-2000プリアンプの作りを楽しむ 2020年06月28日
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SONY TA-2000プリアンプ(1968年製)フロントパネル。
電源部と基板が整然と並んでいます。
フロントとリアパネル間は「手配線」で半田付けされています。
「新幹線方式」と呼ばれるサーキット化されています。
底面です。テープデッキのゲインコントロールが底面についています。「生録」を意識されています。

リアパネルです。当時の「直出し電源ケーブル」は今見ますととてもショボい配線です。RCAソケット類も「旧式」ですね。

上の写真はリアパネルへ対策をしたTA-2000Fのモノです。同じ様な対策をTA-2000にも施したいと思っています。TA-2000の不具合点はVUメーターの照明が付かない点とリアパネルのRCAソケットとインレット化です。8月くらいまでには終わりたいと考えています。
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最近よく聴くCD 2020年06月30日
サブシステムのTA-2000F+TA3120+JBL#4425のラインでJAZZを聴く頻度が上がっています。寺島靖国氏のプロデュースしたCDを以前良く買っていました。久しぶりに聴き返しています。
2000年以降の録音は安心して聴けますね。CD棚にしまい込んでしばらく聴いていなかったので、新しいサブシステムで聴くと新鮮です。
TA-2000F+TA3120のプリ+パワーアンプの組み合わせは、非常にシャープな質感で、音の粒立ちや音色も良いです。とにかく軽快に鳴ってくれるので、JBL#4425が別のスピーカーになった様なサウンドです。以前のC3+M4のサウンドとは全くの別物の感じに聴こえます。面白いものです。どちらが正解か?と云う問題ではなく、聴く人の好みの問題でしょう。
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現在一番聴いているのは・・・ 2020年07月01日

SONYの1970年前後のアンプは「ハイスピード」と「音色が良い」事がとても気に入っています。
眠っていた機器なので「寝起き」のサウンドかも知れませんが、自作のNo2グレードの電源ケーブルを繋いで「ノイズ」を出さない機器は初めてです。午前中1番から夕方帰るまで電源を入れっぱなしで鳴らし込んでいます。おかげで十分聴ける音質と音数・質感になって来ました。凄いですね。私の処で1ヶ月で鳴りだすとは・・・。
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オーディオ黎明期の機器には技術者の真剣さが伝わってくる 2020年07月04日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/01461b24bad1855783f9a77a5ef79349

3年前から「古いアンプ」の評価をして遊んでいる。アキュフェーズのC200+P300、パイオニアのC3+M4、そして更に古いSONYのプリとパワーアンプ(TA-2000&2000F+TA-3120/3120A)と来ました。アンプは1970年頃には完成していますね。

まだC3+M4も持っています。SONYのアンプの方が私の好みです。透明感が有ってサウンド自体が軽快です。JAZZには良く合うと思います。音のキレが有ります。重量(質量)によって最低再生域の違いが「物性の音」として出て来ますが、SONYのアンプは小さいけれど力強いです。ボリュームが「Jカーブ」なので11時半の方向辺りから急激に立ち上がって来ます。小音量再生に適したボリュームです。9時くらいではか細い音しか出て来ません。

現在は、とにかく50年前・55年前のアンプですので「恐る恐る」鳴らしている状況です。そうは云いながら一日に8時間くらいは電源を入れています。4時間くらいは一緒に鳴らしています。
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SONY TA-2000Fのトラブルの後確認 2020年07月15日
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D208システムはSONY TA-2000+サトリミニパワーアンプでドライブしていましたが、サトリアンプのプリ+パワーアンプに戻して見ました。
元々D208システム用にしていたアンプです。久しぶりに繋いで音出しをして見ました。C3+M4のサウンドに似ています。

ここはやはりSONYの1970年頃のアンプの「音色」の方が優れていると思います。おそらくコストダウンされていない「CAN TYPEトランジスター」の音色だと思います。個人的には好ましく思います。
今後のトレンドはSONYの1970年頃のサウンドに「拘り」たいと思っています。
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サブシステムにSONYのアンプ復帰 2020年07月17日
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昨日までは#4425を鳴らしていたのはC3+M4でした。約1ヶ月ほど寝かしておりましたので、「活性化」の復帰に3日ほどかかりました。「活性化したC3+M4のサウンド」もなかなか良いのですが、「音色」でSONYの1970年前後のアンプには勝てません。その後も何度かSONYのアンプで組んで復帰を目指しましたが、「Lch」から音が出ない現象で悩みました。

写真に2セットのプリアンプとパワーアンプが有りますが、それぞれ1台づつ機能の確認をして問題ない事を再確認しました。この辺の確認に手間取りました。どうやら他にもケーブルの不具合が出ている様だと感じます。とりあえず「音質」のグレードを落とさない様にして組んでいます。

やはりこの時代のアンプでないと出せない「音色」と「音のキレ」が有りますね。SONYの1970年前後のアンプにハマっています。おそらくこれが最後のアンプシステムになると思います。アンプ遊びもこれで終わっても良いと思います。後は「活性化」させるだけです。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムには「サブシステムの世界を」2020年07月18日

サブシステムに使っていたC3+M4のサウンドでは、「オリンパスシステム」に近い雰囲気のサウンドになる。性能的にはアンプを「活性化」したので申し分ないが、サブシステムには「サブシステムの世界を・・・」が私の考え方である。

そこで拘っているのが「1970年前後のSONYの音色」である。なかなか良い音色がする。

オリンパスシステムとほぼ同じSPユニットを使った「自宅システム」も「オリンパスシステム」とは雰囲気の違う再生音にしている。どのシステムを鳴らしても「同じ様な世界」を描いたのでは面白くない。ケーブル類はすべて同じものを使う様にしているが、アンプの選択でかなり表現出来る世界が変わってくる。

「人のまね」をして見ても面白くない。「オンリーワン」の世界を「客観的に高い次元」で出せる様に考えている。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムが復元 2020年07月19日
SONYのアンプが元の状態で(ケーブル類も)使える様になったので、「要らないもの処理」を再開しようと思う。現在のサウンドにはご機嫌である。50年前・55年前のアンプでも何の問題もなく使える点が凄い。最近のアンプの方が「性能が高い?」なんて思っていたら逆でした。ローインピ対策とソケット類の高級化ぐらいしか進歩していないような? 逆にメンテナンス性は格段に50年前のアンプが良い。
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TA-2000FプリとTA-3120がヌケて来た 2020年07月28日
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TA-2000Fプリ(1972年製)とTA-3120(1965年製)の組み合わせで、JBL#4425を鳴らしています。鳴らし始めたのは6月初旬、あれから2ヶ月も経っていないのにもう随分とヌケて来ている。まろやかで爽やかな音色なのだ。聴いているとうっとりしてしまう。こんなに早く「ヌケる」アンプは初めてだ。相当作りが良いのだろう。

こちらのアンプは「ヌケる」までに2年半もかかっていた。その途中で何度手放そうとした事か? しかし結局は居残れそうにない。だいたいアンプの活性化には「1年」程は見ている。2000Hrを達成するには5時間/日稼働して、1年で1800Hrである。毎日2時間程度なら3年は見ていないと到達できない。3年と云う月日が待てないのも無理からぬ事。何度もアンプの「活性化」を経験して来ているから出来る事だろう。知らない方は3年はまず待てないだろう。
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html#c1

[リバイバル3] スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか? 中川隆
72. 中川隆[-11994] koaQ7Jey 2020年7月29日 08:55:20 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[2]


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TA-4300Fは思いの外良いサウンドが出る 2020年02月26日

SONY TA-4300Fチャンネルデバイダーは1970年に発売された商品です。既に50年も経過しています。SS誌の菅野氏が長らく自宅システムで使われていたチャンデバです。その使用履歴も含めて、省スペースで使えるチャンデバとして入手しました。

50年前の商品なので音質については非常に心配をしていましたが、それが思いの外良いのです。最新のアキュフェーズのチャンデバのグレードまでは及ばないと感じていますが、素直な質感で意外と音のキレやヌケが良いのです。まだ電源ケーブルもインレット化して間もないので、これから活性化して行けばかなり改善されるのではないだろうか?・・・と期待しています。これから1年間ほどは「慣らし運転」になるだろうと思っています。その間に、未完成のシステムを完成させるように手を尽くして行きたいと思います。
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今回購入した機器 2020年03月27日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/041e937217175c0832c184114324cdae

今回購入した機器の第1番目は、2台目の SONY TA-4300F チャンネルデバイダー。これは紹介済。
上の写真が2番目に購入したスピーカー。サンスイのSP-2005と云う30cmウーハーシステム。格子が特徴のサンスイのスピーカー、このSPの格子はラウンドが付いて曲がっています。かなりしっかりした箱(エンクロージャー)だと思っています。

ユニットが5個付いています。中・高音ユニットが2個づつ付いています。個人的には「Wの効果」が出ると予測しています。

背面には、アンプ1台で駆動できる様になって居ますが、切り替えれば直ぐに3ウェイマルチアンプで鳴らす事も出来ます。

高音用にパワーアンプを追加しました。SONY TA-N86 パワーアンプです。A級18W/chとB級80W/chに切り替えが出来ます。薄型なので3台重ねる事も可能(残り2台を追加の可能性も有り)

放熱フィンがかっこいいですね。A級の放熱に気を配ってあるのでしょう。

フロントパネルは100点ですが、リアパネルは30点しかあげれません。相当手を入れないと使い物にならないかな?

私が嫌うSPケーブルターミナル。これでは太いケーブルが使えないし、振動対策が出来ない。そのうちYラグ止め仕様に作り替える事になるだろう? 出来る様になって居るかは中を開けてみないと分からない。
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ディネッセンのパワーアンプはちょっと厄介 2020年04月04日
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自宅のマルチアンプシステムで低域に使っているディネッセンのパワーアンプはちょっと厄介だ。このシステムの「ノイズ」の原因はこのアンプである。普通にプリ+パワーアンプの組み合わせで使えば「ノイズ」は出ない。マルチアンプにしてチャンデバを通して、低域の音量を絞る(音量調整)と「ノイズ」が出る。チャンデバでボリュームをMAXにすると「ノイズ」は消える。どうもインピーダンスがフラ付いているのか?

これが当該のディネッセンのパワーアンプ。サウンドは「ドラマチック」な表現で、他のアンプでは聴けないサウンドが出る。サイズもコンパクトで重量も10Kgチョイぐらいしかないのでこのアンプを使いたいと思っている。ゴットハンドにまたお願いして使える様にしたい。このアンプに「こだわり」たい。

元々、このアンプは入荷した時から「ノイズ」が盛大に出ていた。出品者(電気技術者)に2回も送り返して対処していただいたが、結局「ノイズ」を止める事が出来ず、「投げ出した」状態のモノ。これを当方の「ゴッドハンド」にお願いして「ノイズレス」にしていただいた。アースラインの引き回しで「ノイズ」を拾っていたとの事だった。

現在はまたサトリのミニパワーアンプに交代。このアンプにするとノイズは全くでない。クリアーなサウンドだが、「音楽」に「劇的」な表現が無い。SONY TA-N86に交代する様にも考えている。

SONY TA-N86パワーアンプを使える様にするには、

@電源のインレット化 
ASP端子のYラグ対応化、
BRCA端子の交換(強度アップ)、
CパイロットランプのLED化(現在パイロットランプは点かない・・・球切れ)

の4点を対策しないといけない。4月中にやる予定をしているが、直ぐには対応できない。・・・ゆっくりと準備して一気に仕上げる予定。
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SONY TA-N86の電源インレット化やSP端子の交換をしたいが・・・ 2020年04月05日
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SONY TA-N86パワーアンプの「音質改善対策」が出来ていませんので、予備知識を得る為にアンプの内部を拝見しました。

上面の蓋を開けて見ました。

見る処は、
@電源ケーブルの取付状況 
ASP端子の状況 

の確認です。電源のインレット化をするにはスペースが有りません。内部にもLアングルが入っていて、インレットが取り付け出来ません。SP端子も一体型で交換するにはちょっと大変です。

底面のカバーを外して確認をしましたが、やはり「難しい」と判断しました。

このアンプは電源のインレット化やSP端子をYラグ対応にするのは「やらない方が良い」と判断しました。やってやれない事はないが・・・。

SP端子への配線で、1ヶ所半田不良の処が有ったので、その場で修正しました。4ヶ所共に同じ作業をしました。何故なら使った半田が「銀入り鉛レス半田材」だからです。1ヶ所だけだと、そこだけ電気の流れが良くなり過ぎます。4ヶ所条件を揃える(バランスを取る)事も大事です。

このアンプの音質対策は「ヒューズ交換」のみでした。小さいアンプですが6.3Aのヒューズが使って有ります。フルテックのブルーのヒューズに交換です。SP端子の半田付けとヒューズ交換だけでも「電気が流れ始めた」と感じさせる変化が出ました。

電源のインレット化とSP端子の交換が出来ませんでしたので、マルチアンプで使うなら「高域用」ぐらいにしか使えないと判断しました。JBL#4425を軽々ドライブしますが、私の判断は厳しいのです。求めるのは「表現力」です
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SONY TA-N86のサウンドは・・・ 2020年04月06日
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SPケーブルにベルデンやWE16GAぐらいのケーブルしか接続できないので致し方ないが、なかなか元気なサウンドがする。低域のドライブ力も高そうだ。現在A級18W/chの仕様で鳴らしている。

このアンプを選んだ理由の一つが「20W以下」の出力だから。
一般の方なら「大出力」ほど良いと考えるのかも知れないが、実際に使う出力が0.5W以下で有るなら、20Wも有れば充分である。出力よりも「表現力」が重要。音楽を聴いた後の感動が違う。

電源ケーブルのインレット化が出来ないと良い電源ケーブルが使えない。いくつか対策方法は有る。まだちょっと忙しいのでゆっくり考えている。SPケーブルももっと良いケーブルを使わないと、とても私のシステムには使えない。Yラグが使えるようにする事も出来ない訳ではない。
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サンスイSP-2005のマルチアンプ化 2020年04月07日
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一昨日入荷したSONY TA-3120パワーアンプを高域に使ってマルチアンプを組みなおしました。これがサンスイのスピーカーか?・・・と云うぐらい良く鳴っています。

これが高域用のTA-3120(1967年製)です。シンプルな作りが気に入っています。なかなか馬力の有るサウンドを出します。低域に使えるのですが、取り合えず高域に使っています。

低域にM4、中域にTA-N86、高域にTA-3120の組み合わせです。チャンデバはSONY TA-4300Fです。プリと低域がパイオニア、チャンデバと中・高域がSONY製と寄せ集めですが、なかなかのサウンドを出して来ます。ベーム/ウィーンフィルの「ベートーベン:交響曲第3番「英雄」をかけてじっくり楽しみました。サブシステムがこんなに良くなって良いのかしら?・・・と思えるサウンドになって来ました。

近日中にもう1台SONYのパワーアンプが入荷します。この1台が入って来たら、D208システムを鳴らして見たいと思っています。
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新しいアンプが入荷した 2020年04月07日
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4月になって2台のパワーアンプを購入しました。昨日届いたのがSONY TA-3200。出力は50W/chです。早速サンスイSP-2005の高域用に使って鳴らし出しました。

外形は縦長の仕様で非常にコンパクトなパワーアンプです。実際にJBL#4425を鳴らして見ましたが、しっかりした低音が出てきます。なかなか好印象のアンプです。発売は1967年頃ですので50年以上前のアンプです。メンテ済のモノを選んで購入しました。そのおかげか特に不具合はなさそうです。

もう1台もSONY TA-3140Fです。出力は35W/ch。発売は1972年。こちらも50年前のアンプです。まだ発送されていない様なので今週末の入荷だろうと思います。

非常にコンパクトなアンプです。どちらのアンプも電源ケーブルがしょぼいヒョロ線です。これをインレット化して良い電源ケーブルを使うと「大化け」しそうな予想をしています。4月いっぱいはこのまま鳴らし込んで、「生き返らせる」事を優先します。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
オーディオ機器の「新旧」と「価格」と「音質」は? 2020年04月09日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e23cd2011ebebe0e7133b1cc51be88db

自宅システムの音質レベルが「オリンパスシステム」に近づいて来た。自宅システムで「新参機器」はSONY TA-4300Fチャンデバのみ。このチャンデバも2月25日から使い始め、約1ヶ月半を経過して来た。(累計250Hr以上の鳴らし込み) 昼間オリンパスシステムで聴いたニールセン作曲:「アラジン」ネーメ・ヤルヴィ/イエーテボリ交響楽団を昨夜自宅システムでも聴いて見た。ほぼ同じくらいのグレードのサウンドが出て来ている。

チャンデバのSONY TA-4300F(1970年製:入手価格:送料込み¥4万円)に対し、オリンパスシステムで使用しているアキュフェーズF-25V(2002年製:入手価格:約\30万円)で、製造年代や入手価格に相当な開きがある。しかし出てくる「音質」は互角である。使ってみて分かる事だが、このTA-4300Fはかなり使えるチャンデバである。一応割高であるが「メンテ済」のモノを購入した。

サブシステムで使っている2台目のTA-4300Fの入手価格は送料込み¥2万円である。こちらも問題なく使えている。かなり音質グレードも上がって来た。

今回、パワーアンプの追加でSONY製の@TA-N86 ATA-3120 BTA-3140F の3台を購入した。

それぞれ発売年代が違う。価格も中古なので非常にリーズナブル。しかし求める「音質レベル」は同じだ。

年代が異なればアンプの作り方そのものが変わっている。

1970年頃は、電子部品を単体で基板に挿し、裏配線で回路を作っていた。非常にメンテがやり易い上に、私流の「音質対策」が非常にやり易い。・・・高性能化させ易い。

これに対して1980年代以降は「プリント基板」が多用されている。プリント基板も時代とともに大幅に変化はしてきているが、「リフロー半田」を使った基板になると、簡単には電子部品の交換は出来なくなっている。この場合は「基板ごと交換」になりやすい。多種の電子パーツの載ったプリント基板のストックは簡単には行かない。結局「交換基板がない」と云う事でそのアンプの寿命が終わる。

個人的には1970年前後頃の、技術者たちが「良いものを作ろう」と奮闘した時代の製品に、本質をとらえた音質対策をしたアンプを目指した方が、廉価で音質グレードの高いアンプが作れると思う。高価なアンプでなければ「ハイエンドの音質」にならないと思うのは浅はかな考えだと思う。最後は「技術力」と「経験」が生きてくる。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
あーあ、ガックリ・・・ 2020年04月10日
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SONY TA-3140Fが入荷しました。奇麗な個体です。TA-4300Fと同じサイズで非常にコンパクトです。

早速「音出し確認」をしましたら、Rchから音が出ません。古いアンプは使われなくなってから長い時間眠っています。この個体は某オクで「通電確認のみ、動作確認はしていない」商品でした。使い勝手の良いアンプみたいなので「ゴッドハンド」(オーディオ道場) にお願いして復活させたいと思います。

代替部品が有ると良いのですが・・・。50年前のアンプになると、音は出ても正常になるまで時間がかかります。今回の様に安く手に入れても「修理代」を出さなければならないと高くつきます。出来るだけ「メンテ済」のもので、まともに音の出るものを選択した方が無難ですね。今回は失敗です。「ガッカリ」でした。修理代も要れた金額でしか入札していません。

いつもうまく行くとは限りません。古いアンプには「リスク」が付きまといます。そうは云いながら、もう既に次のアンプを手配済です。こちらも似た様な「通電確認のみ」の物。安く買えたが動作確認して見ないと何とも言えない。うまく行かない時は続くもの・・・・怖いなー。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
どうやらスピーカーを2セット壊した様だ 2020年04月14日

先週購入したSONY TA-3140FのRch「音出ず」の不具合アンプの音出し確認で、2セットのスピーカーを壊した様だ。壊れたのはD208ユニットとSP-2005システムの高域ユニット。

最初にSP-2005の高域用につないで音出し確認したが音が出なかったので、D208の方につないで再確認をした。この時にRchのみSPユニットを壊した様だ。先日来たTA-N86 2台目の接続確認の時にもRchから音が出なかった。SP-2005の中域や低域に使うと正常に音が出る。TA-3120も繋いで見たが同じ様だ。

修理費用を考えると「安物買いの銭失い」になってしまった。トホホ・・・。取り敢えずSPユニットを修理に出さないといけない。やはり「動作品」を待つべきだった。50年も前のアンプのテストをする時は、壊れても良いスピーカーを用意しなければいけませんね。こんなトラブルは初めてです。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3120パワーアンプの電源のインレット化 2020年04月18日
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SONY TA-3120(1967年製)のパワーアンプも入荷して10日が経ちました。このアンプは「動作品」でしたが、内部を確認すると電源部のメインコンデンサー部の半田付けが怪しい状態でした。配線をカットして線の皮を剥きやり替えました。その後は異状なしで使っていました。

サブシステムではSPが壊れた結果、マルチアンプを止めて#4425のシンプルなシステムにしています。

このアンプのリア面です。1967年製ですので、当時の直出し電源ケーブルは非常にショボイケーブルです。この状態では「音質アップ」は大きく望めません。電源インレット化を最初から計画して購入しています。丁度アンプが眠るゆとりのある状態になっていますので、思い切ってインレット化を実施しました。

加工時間は2.5時間ほどで完了しました。スイッチドコンセントを使ってやった分、時短出来ましたし、取付位置も高く出来ました。インレットを止めるネジを取り付けるのが最大の難関でした。とにかく指の入る隙間が狭く、ナットの取付に一苦労しました。

ついでと云うか?電源のインレット化と抱き合わせで必ずヒューズのグレードアップをさせます。この機種は5Aのヒューズが使ってあります。フルテックの5Aのヒューズをストックしていましたので即交換です。

電源インレット化後の「慣らし運転」をしています。ヴォーカルを鳴らして見ると、中央よりLch側に15cm程「定位」がズレています。裏面のバランスネジで中央に来るように調整を完了しました。

さて「音質は?」・・・鳴らし始めですので「詰まった」様な感じで鳴り始めましたが、2時間ほど鳴らし込むと「詰まり」は取れてきました。結構な分解能で出てきます。後、数日鳴らし込めば自宅で使える様になると思います。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3120 パワーアンプはなかなか良いサウンドを出す 2020年04月23

先日、電源部のインレット化を完了し、鳴らし込みを続けているSONY TA-3120も、鳴らし始めはけばけばしいサウンドでしたが、角が取れて聴き易くなって来ました。型番はTA-3120A(1967年製)の様です。同じ型番でもパイロットランプ?が2個(セーフティランプ)の付いたTA-3120は1965年製です。

電源をインレット化させる前も「元気のあるサウンド」でしたが、インレット化した後は音数が増して更に良くなって来ています。元々はこのパワーアンプは「プリメインアンプ TA-1120」のパワーアンプ部を独立させたものの様ですが、それがどうしてなかなかのサウンドを聴かせてくれます。

このアンプより10年も遅れて、価格も数倍のアンプが簡単に音質で負けています。アンプの音質は聴いて見ないと分からないモノですね。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
先々厄介な買い物をしてしまった・・・ 2020年04月28日
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自宅システムを良くする為にチャンデバや余分なアンプ・スピーカーを買い込んでしまった。

その中でSONYの1970年前後のアンプの「音質」が良い事に気付いてしまった。・・・で、SONYのアンプが増殖してしまった。・・・まだ他にも食指を動かしている自分がいる。・・・こんなに買い込んで「お守り」はどうするのか?

まだ追加でアンプが入って来る。更にもっと・・・聴いて見たい欲望に駆られている。ここは一旦ペンディングにして物欲が静まるのを待つしかない。アンプの修理は終わったが、スピーカーユニットの修理を出している。一段落させないと次に進んではならないと客観的な自分がいる。

サンスイのSP-2005のマルチアンプ化を済ませたが、やはり「オリジナル状態」では私には使えない代物だ。とにかく「音が薄い」。当初の目論見通り、JBLのユニットに換装するか? 内部配線やSP端子に手を加えてやらないと使い物にならないと感じる。一般の方には十分なサウンドが出ているが、個人的には「サムシング」が無い。

現在修理に出しているD208ユニット1個と、#4425用ウーハーのクロスエッジへの張替えが終わらないとユニットが回転しない。しばらく待とうと思う。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
また面倒なアンプを購入してしまった 2020年04月30日
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先々週入手したSONY TA-3120アンプは実はTA-3120A(1967年製)と云うらしい。このアンプを電源のインレット化をして聴いて見たら素晴らしいサウンドが出て来た。2匹目のどじょうを狙って今回は、本物のTA-3120(1965年製)を購入した。

埃まみれで汚いアンプです。ただ作りはTA-3120Aとほぼ同じです。

電源コンセント部が「ネジ止め」になっている事が違います。(TA-3120Aはリベット止め) 電源ケーブルの付け根は非常に危ない状態で、内部の配線材が首の皮1枚程度で絶縁している状態。おまけに「ベトベト」していて、とても扱える状況にないので根元から切断しました。(現在インレット化中・・・ネジとナットが取れない!!!・・・一苦労しそうです)

そう云う訳で、インレット化できていないので音出し確認も出来ない状況。GWの連休中に仕上げてしまう予定。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3120(1965年製)の電源インレット化 2020年05月01日
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先日購入した1965年製のSONY TA-3120。かろうじて電源は入りましたが、直出し電源ケーブルの付け根部分でショート寸前の状態。このままでは危なくて使えません。やむを得ず、音出し確認の前に「電源インレット化」をすることになりました。

その前にクリーニングしない事には手も付けられません。使い古しの歯ブラシを使って、外で埃を落とします。

一通り清掃を終わってようやく「インレット化」の実施です。前回TA-3120Aをやっていますので要領は分かっています。意外と早く完了しました。

実際の作業時間は2時間ほどで完了。ヤスリで隙間を広げて行きます。根気のいる仕事です。
やっとインレット化が終わったので「音出し確認」です。・・・・残念ながら「Rch不良」でRchのみ音が出ません。・・・また修理に出さないといけません。修理費用の方が高く付きます。・・・ほ捨てようか?・・・と思ってしまう。報われない一日でした。・・・疲れました。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-3140Fのリアパネルの端子類交換 2020年05月02日
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スピーカーを2セットも壊したSONY TA-3140Fも修理を終えて安心して使える様になりました。

リアパネルの状況です。電源は「直出し配線」でショボい配線です。これでは「音質」を追及する状況に有りません。SP端子もプッシュ型で細い配線しか接続できません。ここは「8oYラグ」が使える端子に交換したい所です。RCA入力端子も古い端子で強度が足りません。GW期間中は外出できませんから一気にこれらの「交換作業」をしてしまおうと考えています。4月29日は1965年製のインレット化作業、4月30日と5月1日は当該TA-3140Fのインレット化・SP端子・RCA端子交換作業を始めました。

2日かかりでインレット化・SP端子交換・RCA端子交換を完了しました。さて音出し確認です・・・ん・・・SWを入れると安全装置が働いているのか?「カッチン・カッチン・・・」の音を繰り返します。あーあーまたドック入りを増やしてしまった。また修理に持って行かなくては・・・。あーあー疲れました。このアンプは自宅の高音用に使う予定だったのに・・・。

先日の1965年製TA-3120と今回のTA-3140Fは修理に出します。日程を調整しなくては・・・。帰ってくればこのシリーズだけでマルチが組めます。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
何故1970年頃のアンプに拘るか? 2020年05月04日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e850f3abb185ffb72eda46bf8cc585fd

上の写真はSONY TA-3140Fの内部です。実にシンプルな作りです。シンプルな分「余計な回路」が入っていないので、「ストレートな音」が出て来ます。

こちらはTA-3120の内部。実にシンプルな作りです。ただ60年前のアンプですので「半田付け」部のクラックや劣化が有ると思います。

当時のオーディオ技術では、端子類の使い易さや電源ケーブルの「直出し配線」等の技術が不足していた様です。この部分を最新の機器に対応できる様にすれば十分今でも使えると思う。ここまで来たのです。あと一息と云う処かな?辛抱強くやり遂げたいと思う。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
アンプがこの2ヶ月で5台も増殖 2020年05月23日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d16d1e17763ce009c0e8dd26eddb13ce

最近の2ヶ月で、チャンデバ2台・パワーアンプ5台・SP1セットも増殖させてしまった。
増設したパワーアンプは1965年から1977年頃のSONYのアンプばかり。

コンパクトでしっかりしたサウンドが特徴。これがなかなかのサウンドで鳴ってくれる。メインならいざ知らず、サブシステム用にはこの様にスペースファクターが良くて、軽いアンプが扱い易い。

1965年製のTA-3120。SONYは約10年間隔で新しいシリーズを作っているので、その年代のアンプの志向が分かる。1970年頃は「プリント基板」が使われ出した頃で「手差し」のパーツが特徴。1980年頃になると1枚の基板に殆どのパーツを載せて「リフロー半田付け」されている。1990年頃にはモジュール化されて来ていると思う。それぞれの作り方が違う処がメンテ性や音質に出て来ていると思う。どちらが良いかは好みの問題かも知れないが、長く使う事を考えると、1970年頃の「手半田」の機器はパーツの交換が容易で修理して使える利点がある。古いからダメではなく、古いからこそ逆に長く使えたりもする。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000 プリアンプを入手 2020年05月30日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/db7ea84100da35a57ba09060ed3648fc

50年以上前のSONYのアンプを集めています。特に「Fシリーズ」もしくはそれ以前の機器を狙っています。

50年以上前の「オーディオブーム」の走りの頃の製品です。当時は技術者たちが「良いものを作ろう」と必死で頭を絞っていた頃だと思います。

内部は整然と「手差しパーツ」の基板が並んでいます。非常に綺麗です。この辺にも意気込みを感じますね。TA-2000は1968年頃の製品です。FシリーズのTA-2000Fのどちらを買うか迷いましたが、1970年以前の製品にしました。

電源部も非常にシンプルな状態です。

フロントパネルの処は「手配線」で込み合っています。この「手配線」に技術者たちのエネルギーを感じます。当該機は特に普通に使える状態です。唯一の不具合はVUメーターの球切れぐらいです。交換を試みましたが、素人では難しいと判断しました。

当分はこのオリジナル状態で使って行きますが、後日落ち着いてきたら

⓵電源のインレット化 
ARCAソケットの強度アップ(交換) 
BVUメーターのLED化 
CヒューズをFXヒューズに交換

をする予定です。また「ゴッドハンド」(オーディオ道場) にお願いをしないといけません。パーツの手配を完了しています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリアンプを手配 2020年06月04日

先日TA-2000プリアンプを紹介した時に、「かべさん」からコメントをいただき、「TA-2000Fプリアンプも良いですよ」とお言葉をいただいた。「かべさん」は「SEED」さんと一緒に4年ほど前に当方の処においで頂き、当方のステレオのサウンドをご存じです。

今回は同じくSONYのプリメインアンプTA-4650と一緒に某オクで落札しました。競争相手が少なく、意外と手ごろな価格で入手できそうです。ただ、動作確認されていないとの事なので、正しく動いてくれればありがたいですが、動かない場合は「修理」して使いたいと思います。またしてもサブシステムが増殖してしまいました。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/8912142994f30520d9f3435419e72798

Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000FプリとTA-4650プリメインアンプが入荷 2020年06月06日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/039333ca7d5d7d9978d203af404c65cf

TA-2000FプリアンプとTA-4650プリメインアンプが入荷しました。
狙いはTA-2000Fの獲得でしたが、抱き合わせでTE-4650プリメインアンプも一緒に付いていました。早速本体を確認して見ると、長い間眠っていた機器の様で、リアパネルのRCAソケットには使った跡が分からない状態のくすみ方でした。アルコール綿と綿棒でRCAソケットを綺麗にして、電源を入れてしばらく様子を見ていましたら、煙がACインレット付近からモクモク出て来ました。素早くSWを切り、開腹して燃えた部分を確認しました。ACラインに付けてあるPSRが1個燃えていました。特に無くても問題ない部品の様です。他の部分は特に異常は無い様です。

ただ急ぐ訳でもないので「総合点検」も兼ねて「ゴッドハンド」(オーディオ道場)に見ていただこうと思っています。現在修理・改造に出しているブツの受け取りの時に持って行こうと思っています。音出し確認は「おあづけ」です。

プリメインのTA-4650はリアパネルのINPUTとOUTPUTの「ジャンパー線」が無い事は分かっていたので、手持ちのRCAピンを接続して音出ししましたら、最初は凄いガリ音でした。一旦電源を切り、ボリュームをぐりぐり回してから再度トライするとガリ音は無くなりました。何の問題もなく使えそうです。ただ鳴らすSPが無い。写真ではLo-dのミニSPを繋いでいます。前回アンプの保護回路が壊れていてSPを2セットも壊してしまいましたので、その修理代等を考えると用心深くなります。壊れても惜しくないSPを使わないと痛い目に会います。少し学習しました。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
なぜ?今更50年以上前のアンプを使うのか? 2020年06月07日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/dcbc4f1cc9ba31802125d40c312cfa30

50年前のアンプを懐かしく思い、当時手の届かなかったフラッグシップクラスのアンプを使って見ようと思いました。最初にアキュフェーズのC200+P300の最初期型。

次にパイオニアのエクスクルーシブシリーズの最初期型C3+M4の組み合わせ。どちらの機器も「眠っていた」機器の様で、最初は「寝起き」のボヤーっとしたサウンドでした。動作も不安定で「音のバランス」が崩れた状態で1年以上「鳴らし込み」をしていました。その間にあちこち不具合が出て、その度に「修理」が必要でした。

サブシステムと云えど、2セットのアンプを同時に使いこなすのは時間がかかります。アキュフェーズはメインシステムでも使っているので、1.5年ほど鳴らし込んだ状態で手放しました。残ったC3+M4には「私仕様」に改造し、ヒューズも良いものを使い、電源ケーブル・ラインケーブル・SPケーブルのグレードを半年毎にグレードアップして来て2年が経ちました。それでも満足なサウンドにはなりませんでした。そろそろ諦めかけて「見切り」をした直後に、本来の「潜在能力」が出始めて来た様で、まさに「激変」のサウンドになりました。

「4月にC3+M4に見切り」を付けたので、次の準備として白羽の矢を付けたのがSONYのアンプ群。わずか1ヶ月の差でSONYのアンプが増殖してしまいました。1か月早くC3+M4が「活眼」していれば、この様にSONYのアンプが増える事はなかったと思います。

50年前のアンプでも「活性化」させれば現在の最新のアンプと遜色ないサウンドを出して来ます。メンテナンス性は新しい機器よりはるかに優秀です。その辺はアンプの「作り方」に関係してきます。アンプをこれから数十年使おうとしたら、メンテナンス性(パーツの交換等)が簡単にできる事がキーになります。その点で50年前のアンプ達は「手差しパーツ・手半田配線」で作って有るので、パーツも大きく、パーツの信頼性も非常に高いのです。今ではC3+M4は安心して使える状態にまで回復しています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリ試聴 2020年06月08日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6617116f9614430a262d940339f4836a

先日、TA-2000FプリがTA-4650プリメインアンプと一緒に入荷しました。入荷時に「音出し確認」をしようと、暖機運転中で10分ほどして煙がもくもくとACインレット付近から出て来ました。開腹して中を確認した処、ACラインに入れてあるPSRが1個燃えていました。そのパーツを切り取り、試聴に進める様にしました。

TA-2000(1968年製)とTA-2000F(1971年製)と3年の違いが有ります。

「音出し確認」レベルのサウンド確認です。何せ「恐る恐る・・・」の心境ですから。ただ一聴しただけで、TA-2000よりは熟成されたサウンドですね。音の広がりや音の出方がより開放的で自然ですね。凄いポテンシャルを感じます。デザインで損をしていますね。これがもっと良いデザインのマスク(例えばマランツ#7の様な)を持っていれば、もっとファンが増えたはずです。

1〜2週間ほどは小音量で馴染ませて、電気回路を生き返らせてやりたいと思います。何せ永い眠りから覚めたばかりですから・・・。無理せずに時間をかけて本来の性能(潜在能力も含め)を発揮させるように鳴らし込んで行きます。多分2年ほどはかかるでしょう。

今回の音出し確認にTA-4650のメイン部を使用しようと電源を入れたら、今度はこちらの電源部から「煙」が・・・。なかなか思いどうりにはいかないものです。(電源部の抵抗器が1個焼けていました)
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
1970年頃のSONYのアンプについて 2020年06月12日
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SONYのアンプは若い頃使った事が無かった。1970年頃(オーディオブームの始まりの頃)のアンプの音をメーカー別に確認して見たかった。当時サンスイやLUXMANのアンプを勧められるまま使って来た。その後、アキュフェーズのアンプに移って行った。

当時はマッキントッシュやマランツのアンプがハイエンドマニアの常備品でした。国産のメーカーでは前述のサンスイ・LUXMAN・パイオニア・SONY・テクニクス等沢山のメーカーが乱立していました。その中で、アキュフェーズとパイオニアの当時のフラッグシップ機を入手して鳴らしてサウンドがどのレベル位あるのかを確認しました。パイオニアのC3+M4が覚醒した今、「当時のアンプでも完成の域にある」と判断しました。

今回は今まで使った事の無いSONYのアンプを確認して見たいと思いました。そこでTA-3120Aを入手してサウンドを確認してみた所、「素晴らしいサウンド」を出して来る事に驚嘆しました。その後TA-1320オリジナルも確認しました。1965年の時点ですでにアンプは完成していましたね。

TA-3120A(50W/ch)の重量は10Kgも有りません。一時アンプは重いほど良い・・・1Kg=1万円・・・等と云われて、重いほど良いアンプ等と雑誌で云われていましたが、それは間違いですね。音の良さは「パーツ」(特に半導体=CANタイプ)の性能が良い・・・と感じています。SONYのパワーアンプを確認したので、今度はプリアンプも確認して見たいと思っています。内部の作りなど当方の感じ方では「理想的」で「美しい」と思います。非常に良いイメージを持っています。

ただ、当時では「無かった技術」が有ります。特にリアパネルのパーツ(ソケット類)の強度不足や細い直出し電源ケーブルの部分を現在対応型に改善すれば、現在でも一級品のサウンドを出してくれると推測しています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/7c0e02dc8297131c9f708e4a5b86da2b


Mr.トレイルのオーディオ回り道
1970年頃には国産アンプは完成形 2020年06月14日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b0ea596f308d9949d3b8c4ae4fc0d650

サブシステムにはわざと古いアンプを使っている。最新の高級アンプは手の届かない金額になっているので、「遊べる」古いアンプにした。試しに購入したC3+M4を活性化させたら最新のハイエンドアンプと遜色ないサウンドとなって来た。これに気を良くして45年前のアンプから50〜55年前のアンプまで遡って来ました。

SONYのTA-2000+TA-3120Aの組み合わせは1968年に出来ている。自分が中学生の時のモノだ。実際に手にして中を見てみると、実にスッキリとしたパーツ配置と基板で、今まで見たアンプの中でも「白眉」な美しさがある。

電源部も「化け物サイズ」のトランスではなく、実にスッキリしている。これは、TA-3120Aパワーアンプでも変わらない。「ゴッドハンド」さん(オーディオ道場)に修理をお願いした関係で、彼もこのアンプのサウンドを確認された。彼曰く「サンスイ#777と似た様なピュアな音がする」、「あの頃のアンプに使って有る半導体(CANTIPE Tr)が良かったのではないか?」との事でした。

自分がオーディオを始めたのは1972年。その為、1968年製のSONYのセパレートアンプは全く知らなかった。実際に使って見て感じるのは、「音色」が素晴らしい。サイズや重量も非常にコンパクトで扱い易い。当時のオーディオショップでは、初心者には「プリメインアンプ」を勧めていた。その頃サンスイAU-9500を勧められ購入した経緯がある。

55年前のアンプを「生き返らせる」ので、現在は一般レベルの電源ケーブルで慣らしている。まずは安心して使えることを確認したい。一応、アンプも「家電品」なので、老朽化したパーツが「燃える」事も有る。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY のパワーアンプを後2台購入予定 2020年06月15日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e885b8ef48c9d8f97f10ed02896728c8

今年に入ってから、SONYの1970年前後のアンプが増えて来ている。

⓵TA-4300Fチャンデバ×2台、
ATA-3120/TA3120A、
BTA-N86×2台、
CTA-2000/TA-2000F、
DTA-3140F、
ETA-4650
・・・

10台のアンプを購入している。購入金額と同額の修理代がかかっている。まだ修理や整備しなければならない。

更に後2セットのパワーアンプを購入予定しているが続けては止めておこう。機材が増えると懐は寂しくなる。無理をしない事だ。欲しいのはTA-N86を後1台。残りの1台はTA-2000Fとペアになるパワーアンプ。金額的には十分射程内である。

TA-N86パワーアンプは1977年頃の製品です。この頃には1枚基板のアンプになっています。このアンプはなかなか音質が良さそうだと思っている。ただこのアンプに組み合わせるプリアンプのRCAソケットが上を向いているので手を出せないでいる。C3の斜めリアパネルでも一苦労なのに、完全に真上を向いている様なプリアンプは使えない。(自作の硬く重いケーブルでは曲がりが極端になって来る)

今月中には整備に出しているTA-2000Fプリが帰って来るだろう。楽しみですが修理費用も馬鹿に出来ません。ただ50年前のアンプを安心して使うにはそれなりのリスクが有ると云う事。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリアンプの修理完了 2020年06月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6fbc4c1680a5c6b3c6899f883860f261

SONYのプリアンプTA-2000Fの点検及びRCAソケットの交換を先週依頼していました。1週間で点検・交換が終わった様で昨日受け取りに行って来ました。

これがリアパネルのRCAソケット(ジャック)及び電源部のインレット化完了した写真です。これでようやく使える体制が整いました。

プリアンプ3台が並ぶと壮観です。当該のTA-2000FプリはサンスイSP-2005の3ウェイマルチアンプシステムに接続しました。

50年前の機器ですので、「眠りから覚ます」意味で、一般の電源ケーブルから鳴らし始めています。いきなり負荷をかけるとパーツが飛んだり、燃えたりしますので用心して鳴らし込んで行きます。この時点で、2.5年かけて鳴らし込んだエクスクルーシブC3のサウンドを超えています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
TA-2000Fプリアンプのサウンド確認 2020年06月18日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e6acb366cdf75e8c1119c5d981c5dc55

まずは、「動作確認」が一番です。ソース機器の入力が正しく出てるか?(単に音出し確認)をして行きます。写真の状態でサンスイSP-2005を3ウェイマルチアンプで鳴らしています。

SONYオリジナル状態のフロント及びリアパネルです。

対策後のリアパネルです。機器の性能は「電源ケーブル」で決まります。オリジナルの「直出し細線」では機器の潜在性能を取り出す事は出来ません。おまけに50年も経てば、直出し配線に「べた付き」が出て来て、信頼性も危惧されます。

高級な電源ケーブルを使えば更なる「性能アップ」&「音質アップ」も可能になります。このTA-2000or2000Fは非常にシンプルな内部構造と、短い内部配線ですので当方の好みです。「内部配線が短い」と云う事は「鳴らし込みの時間の短縮」に繋がると推測しています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fプリアンプ始動 2020年06月19日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1faf8f8e17a8f0a7017d2741d47df06f

修理や「私仕様」のカスタム化が終わったので昨日試聴を始めました。その前に「レイアウト変更」を決行。余分な機器を取り外しました。エクスクルーシブ#C3+M4を取り外しました。

TA-2000は一時休止して、TA-2000Fのみ1系統のSPで鳴らし始めました。午前中朝8時から鳴らし出して夕方5時まで連続稼働しました。夕方4時頃には「少しヌケて」来ました。お昼くらいには「ふん詰まった」音になり、しばらくは無理かとも思ったのですが、4時頃からサウンドが「ヌケて」来ました。

今回は3ウェイマルチアンプで鳴らしましたが、1日でここまで「ヌケて」来るとは・・・凄いアンプです。まだ「活性化中」ですので「音質」や「グレード」の判断は後日報告します。ただ物凄く良くなるだろう・・・と推測は出来ます。エクスクルーシブC3+M4を「活性化」させるのに2.5年かかりましたが、このプリは多分1週間ほどで「活性化」するのではないかと思う超ハイスピードアンプです。こんなに早いアンプは初めてです。ビックリです。
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エクスクルーシブ#C3+M4のサウンド 2020年06月21日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/935df2ee10383b670eca7ccd49e874fc

エクスクルーシブ#C3+M4+JBL#4425のラインが6月に「活性化」しました。そのサウンドは#4425が38cmクラスの大型SPに変身したかの様な凄みの有るサウンドでした。C3+M4はメインスピーカーに使うべきアンプなのだと思い知らされました。

C3プリが活性化していたおかげで、SONYのパワーアンプが非常に良いサウンドに聴こえました。この10Kgにも満たないアンプ達から重低音が聴けました。

現在はC3+M4は取り外してストックしています。それに代わりSONYの1965年〜1972年の「50年前」のアンプ達を鳴らし始めています。そのサウンドは現時点ではC3+M4の組み合わせには遠く及びません。C3+M4の音の厚みや音場感の表現にはとても及びません。最もC3+M4の組み合わせも「活性化」に2.5年ほど費やしています。SONYのアンプは来てから1〜2週間です。「活性化度」が全く違います。古いアンプなので「燃えやしないか?」とまだ冷や冷やしながらの稼働です。当分は無理をせず「特殊な音質対策」もせずに「馴染ませる」事から始めています。音質的には相当なダウンです。それでも1年も鳴らし込めばモノになりそうだと予測しています。繋いで直ぐに「全開サウンド」を期待するのは初心者でしょう。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000&2000Fアンプの比較 2020年06月22日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a025c6ba052afffb46977354d2349e5d

SONYのTA-2000&2000Fプリアンプです。

最初に手に入れたのはTA-2000の方でした。「カチッと締まったサウンド」に好印象を受けました。開腹して内部を見てみると非常に整然と基板が並んでいて、こちらも好印象でした。

その記事をアップしたら、かべさんから「TA-2000Fも良いですよ」とコメントをいただいた。いつもの癖で直ぐに確認したくなるのが病気です。数日後にはTA-2000Fを入手し、チャンデバの修理が終わったタイミングだったので、入れ替えで「私仕様」に改造していただきました。そのおかげで、使いだしたのは今週の水曜日から。

TA-2000Fの改造したリアパネル。電源をインレット化とRCAソケットを全て強度を確保するために交換しました。「何故?」TA-2000ではなくTA-2000Fを先に改装したのか?・・・それは、その時点で比較試聴した結果、TA-2000Fの方が良いサウンドがした為です。

ただ開腹して内部を見てみると、上の写真はTA-2000です。こちらの方が私好みであると同時に「良い音」がしそうな気がします。

こちらがTA-2000Fです。基板の作りが少し違っています。同じ5枚ですがTA-2000の方が良い作りです。「作り」と「サウンド」には相関関係が有ると思っていますが、中にははみ出し分布も有りますので、実際に使って見ないと何とも言えません。こちらもTA-2000Fと同じ改造を予定しています。TA-2000Fは100V仕様ですが、TA-2000の方は北米仕様の115V仕様です。昇圧トランスが要りますね。(所有しているので問題なし)

2セットのアンプ達がこれからどの様に変化してくれるのか楽しみです。しばらくは我慢して聴かないといけません。ただ、「軽快なサウンド」の傾向なのでJAZZ等で楽しみたいと思います。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
TA-2000が鳴り始めた様だ 2020年06月23日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/6eefd2691a531ca6fbc8d208c8238c4a

TA-2000の内部はほれぼれする様な作りだ。TA-2000Fが来た時に比較したら、音数で負けていたが、こちらは鳴らし込みが2週間ほどになった。現在比較試聴すると「逆転」している感じです。どちらも眠っていた機器ですので、目覚めるまでは真の実力は分かりません。

上段がTA-2000、下段がTA-2000F。TA-2000は全くのSONYオリジナルの状態です。早くリアパネルをTA-2000Fの様にしたい欲望にかられますが、ここはじっくりと進めたいと思う。

TA-2000+TA-3120Aの組み合わせで、D208フルレンジを鳴らしているが、今まで聴いた事のないサウンドがD208から出ている。音数が非常に多く、繊細で力が有り、キリっと締まったサウンドで音色も明るい。非常にシャープなサウンドだ。JAZZを聴くのが楽しくなってくる。C3+M4ではサウンドが重すぎる・・・これが取り外した原因。

しかし凄いですね。50年前のアンプが部品交換もなく、安定して使えるなんて・・・。アキュフェーズのC200+P300は半田部分のフラックスの残渣が多く、この先トラブルが頻発すると思って先に手放しました。C3+M4は思いの外、内部配線が多くて長く、活性化の時間が非常に長かった。それに比べてSONYの2セットのアンプは活性化するのが非常に早い。

自宅の管球プリアンプ(内部配線を全て特殊な銀線配線)の様な音の出方をする。超ハイスピードのサウンドの様な気がする。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
毎日「鳴らし込み」を続けている 2020年06月24日
午前中はこのサブシステムをメインに「鳴らし込み」を続けています。このSONYのアンプは「活性化」の進捗が早い。こんなアンプは初めてです。何処まで良くなるのか?楽しみなセットです。50年前のアンプで殆どオリジナルの状態で使える事が素晴らしい。

自宅システムも現在「鳴らし込み」の最中。なかなかヌケてくれません。特にチャンデバが抜けてくれないので、ここは「我慢」の為所です。来年の今頃には「ヌケて」いるでしょうから、モクモクとやるしか有りません。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/2f3b068c829daca7afe6c64d4dc6a070

Mr.トレイルのオーディオ回り道
オーディオ機器の選択は難しい 2020年06月26日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/eeea4efec93ec125cf61eb85ddf0ecc3

基本的に2000年以降に製作された機器をメインシステムで使う様にしている。その理由は、「半田」が「鉛レス半田」になっているから。鉛入りと鉛レスでは抵抗成分が一桁違う。音楽は「瞬時の連続」で成り立っている。その「瞬時に」沢山の情報を送れる事が「音数」や「エネルギー感」・「質感」に繋がると考えていた。

試しに45年前のアンプ(C3+M4)を使って「覚醒」させてみると、最新のアンプと変わらない性能を出してくる。
今度は日本のオーディオ黎明期の50年以上前の機器を入手してサウンドを確認して見た。まだ手に入れたばかりで「覚醒」しているとは思わないが、なかなか良いサウンドを出している。

中を開腹して見てみると、整然と並んだ手差し・手半田・手配線の作りの好い事にビックリした。半導体工場の測定機並みの作りだ。逆に新しい機器程「作りが雑」に見えてくる。一枚基板にマウンターでパーツを載せ、リフロー炉で一遍に半田付けする。この時に、半田材をスクリーン印刷するのだが、その半田材にはフラックスが多量に入っている。このフラックスがパーツの寿命に効いてくる。またパーツのサイズも段々と小型化している。この小型化は相反する効果を持っている。寿命についてはレッドチェックの結果では大きい物ほど有利だ。

現在はサブシステムを鳴らすのが楽しみだ。自分が中学1年生の時に作られたアンプが素晴らしいサウンドを奏でている。サイズも手ごろで出力は50Wも有れば十分だと教えてくれる。音の粒立ちや音色がすこぶる良い。手放せなくなりそうだ。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/eeea4efec93ec125cf61eb85ddf0ecc3


Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000プリアンプの作りを楽しむ 2020年06月28日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f1361b079cff142478b7df4e9a84aad4

SONY TA-2000プリアンプ(1968年製)フロントパネル。
電源部と基板が整然と並んでいます。
フロントとリアパネル間は「手配線」で半田付けされています。
「新幹線方式」と呼ばれるサーキット化されています。
底面です。テープデッキのゲインコントロールが底面についています。「生録」を意識されています。

リアパネルです。当時の「直出し電源ケーブル」は今見ますととてもショボい配線です。RCAソケット類も「旧式」ですね。

上の写真はリアパネルへ対策をしたTA-2000Fのモノです。同じ様な対策をTA-2000にも施したいと思っています。TA-2000の不具合点はVUメーターの照明が付かない点とリアパネルのRCAソケットとインレット化です。8月くらいまでには終わりたいと考えています。
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Mr.トレイルのオーディオ回り道
最近よく聴くCD 2020年06月30日
サブシステムのTA-2000F+TA3120+JBL#4425のラインでJAZZを聴く頻度が上がっています。寺島靖国氏のプロデュースしたCDを以前良く買っていました。久しぶりに聴き返しています。
2000年以降の録音は安心して聴けますね。CD棚にしまい込んでしばらく聴いていなかったので、新しいサブシステムで聴くと新鮮です。
TA-2000F+TA3120のプリ+パワーアンプの組み合わせは、非常にシャープな質感で、音の粒立ちや音色も良いです。とにかく軽快に鳴ってくれるので、JBL#4425が別のスピーカーになった様なサウンドです。以前のC3+M4のサウンドとは全くの別物の感じに聴こえます。面白いものです。どちらが正解か?と云う問題ではなく、聴く人の好みの問題でしょう。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/33909072351df7fd2d3d23d536d5c1a3

Mr.トレイルのオーディオ回り道
現在一番聴いているのは・・・ 2020年07月01日

SONYの1970年前後のアンプは「ハイスピード」と「音色が良い」事がとても気に入っています。
眠っていた機器なので「寝起き」のサウンドかも知れませんが、自作のNo2グレードの電源ケーブルを繋いで「ノイズ」を出さない機器は初めてです。午前中1番から夕方帰るまで電源を入れっぱなしで鳴らし込んでいます。おかげで十分聴ける音質と音数・質感になって来ました。凄いですね。私の処で1ヶ月で鳴りだすとは・・・。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/435b8d626c24ea00898d69dc5ccaf73d

Mr.トレイルのオーディオ回り道
オーディオ黎明期の機器には技術者の真剣さが伝わってくる 2020年07月04日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/01461b24bad1855783f9a77a5ef79349

3年前から「古いアンプ」の評価をして遊んでいる。アキュフェーズのC200+P300、パイオニアのC3+M4、そして更に古いSONYのプリとパワーアンプ(TA-2000&2000F+TA-3120/3120A)と来ました。アンプは1970年頃には完成していますね。

まだC3+M4も持っています。SONYのアンプの方が私の好みです。透明感が有ってサウンド自体が軽快です。JAZZには良く合うと思います。音のキレが有ります。重量(質量)によって最低再生域の違いが「物性の音」として出て来ますが、SONYのアンプは小さいけれど力強いです。ボリュームが「Jカーブ」なので11時半の方向辺りから急激に立ち上がって来ます。小音量再生に適したボリュームです。9時くらいではか細い音しか出て来ません。

現在は、とにかく50年前・55年前のアンプですので「恐る恐る」鳴らしている状況です。そうは云いながら一日に8時間くらいは電源を入れています。4時間くらいは一緒に鳴らしています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/01461b24bad1855783f9a77a5ef79349

Mr.トレイルのオーディオ回り道
SONY TA-2000Fのトラブルの後確認 2020年07月15日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1574aab0a94ac76bed713f91213b390e

D208システムはSONY TA-2000+サトリミニパワーアンプでドライブしていましたが、サトリアンプのプリ+パワーアンプに戻して見ました。
元々D208システム用にしていたアンプです。久しぶりに繋いで音出しをして見ました。C3+M4のサウンドに似ています。

ここはやはりSONYの1970年頃のアンプの「音色」の方が優れていると思います。おそらくコストダウンされていない「CAN TYPEトランジスター」の音色だと思います。個人的には好ましく思います。
今後のトレンドはSONYの1970年頃のサウンドに「拘り」たいと思っています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1574aab0a94ac76bed713f91213b390e


サブシステムにSONYのアンプ復帰 2020年07月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b32a1065fd5f855270f7b02fc4d2b94f

昨日までは#4425を鳴らしていたのはC3+M4でした。約1ヶ月ほど寝かしておりましたので、「活性化」の復帰に3日ほどかかりました。「活性化したC3+M4のサウンド」もなかなか良いのですが、「音色」でSONYの1970年前後のアンプには勝てません。その後も何度かSONYのアンプで組んで復帰を目指しましたが、「Lch」から音が出ない現象で悩みました。

写真に2セットのプリアンプとパワーアンプが有りますが、それぞれ1台づつ機能の確認をして問題ない事を再確認しました。この辺の確認に手間取りました。どうやら他にもケーブルの不具合が出ている様だと感じます。とりあえず「音質」のグレードを落とさない様にして組んでいます。

やはりこの時代のアンプでないと出せない「音色」と「音のキレ」が有りますね。SONYの1970年前後のアンプにハマっています。おそらくこれが最後のアンプシステムになると思います。アンプ遊びもこれで終わっても良いと思います。後は「活性化」させるだけです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b32a1065fd5f855270f7b02fc4d2b94f


Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムには「サブシステムの世界を」2020年07月18日

サブシステムに使っていたC3+M4のサウンドでは、「オリンパスシステム」に近い雰囲気のサウンドになる。性能的にはアンプを「活性化」したので申し分ないが、サブシステムには「サブシステムの世界を・・・」が私の考え方である。

そこで拘っているのが「1970年前後のSONYの音色」である。なかなか良い音色がする。

オリンパスシステムとほぼ同じSPユニットを使った「自宅システム」も「オリンパスシステム」とは雰囲気の違う再生音にしている。どのシステムを鳴らしても「同じ様な世界」を描いたのでは面白くない。ケーブル類はすべて同じものを使う様にしているが、アンプの選択でかなり表現出来る世界が変わってくる。

「人のまね」をして見ても面白くない。「オンリーワン」の世界を「客観的に高い次元」で出せる様に考えている。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/21611bc18f48813ee5a13551efa36ffa


Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムが復元 2020年07月19日
SONYのアンプが元の状態で(ケーブル類も)使える様になったので、「要らないもの処理」を再開しようと思う。現在のサウンドにはご機嫌である。50年前・55年前のアンプでも何の問題もなく使える点が凄い。最近のアンプの方が「性能が高い?」なんて思っていたら逆でした。ローインピ対策とソケット類の高級化ぐらいしか進歩していないような? 逆にメンテナンス性は格段に50年前のアンプが良い。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/9063ad9ceadffeb2b2278265df080caa


Mr.トレイルのオーディオ回り道
TA-2000FプリとTA-3120がヌケて来た 2020年07月28日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/900cd36dbcd66bccd9596599a7f9f0b9

TA-2000Fプリ(1972年製)とTA-3120(1965年製)の組み合わせで、JBL#4425を鳴らしています。鳴らし始めたのは6月初旬、あれから2ヶ月も経っていないのにもう随分とヌケて来ている。まろやかで爽やかな音色なのだ。聴いているとうっとりしてしまう。こんなに早く「ヌケる」アンプは初めてだ。相当作りが良いのだろう。

こちらのアンプは「ヌケる」までに2年半もかかっていた。その途中で何度手放そうとした事か? しかし結局は居残れそうにない。だいたいアンプの活性化には「1年」程は見ている。2000Hrを達成するには5時間/日稼働して、1年で1800Hrである。毎日2時間程度なら3年は見ていないと到達できない。3年と云う月日が待てないのも無理からぬ事。何度もアンプの「活性化」を経験して来ているから出来る事だろう。知らない方は3年はまず待てないだろう。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/900cd36dbcd66bccd9596599a7f9f0b9



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html#c72

[リバイバル3] ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F 中川隆
2. 中川隆[-11993] koaQ7Jey 2020年7月29日 09:04:05 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[4]
サウンドトレール 店主のつぶやき
http://soundtrail.co.jp/p14.html

サウンドトレール
http://soundtrail.co.jp/index.html

Mr.トレイルのオーディオ回り道
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840

サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html

・販売業者: サウンドトレイル株式会社

・責任者 : 代表  錦戸 敏重


〒834-0065
福岡県八女市亀甲170-7番地

TEL:0943-24-8660 
 携帯:090-1878-1529(こちらをご利用ください)

営業時間/AM10:00〜PM5:30

定休日/木曜日


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92834-0065+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%85%AB%E5%A5%B3%E5%B8%82%E4%BA%80%E7%94%B2%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%90%E2%88%92%EF%BC%97/@33.21935,130.531093,14z/data=!4m5!3m4!1s0x3541aee7af852b1b:0xeb18a97c68144bf6!8m2!3d33.2193603!4d130.5311334?hl=ja


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html#c2

[近代史4] 中川隆 _ アンティーク・オーディオ関係投稿リンク 中川隆
11. 中川隆[-11992] koaQ7Jey 2020年7月29日 09:05:34 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[5]
ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/109.html#c11
[近代史4] トランジスターアンプの世界 中川隆
5. 中川隆[-11991] koaQ7Jey 2020年7月29日 09:06:36 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[6]
ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/115.html#c5
[近代史3] 日本のオーディオメーカー 中川隆
12. 中川隆[-11990] koaQ7Jey 2020年7月29日 09:07:57 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[7]
ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html

パイオニア Exclusive M5
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1064.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/466.html#c12

[近代史4] 湯河原温泉 上野屋

湯河原温泉 上野屋

■ 「GoToトラベル」で湯河原に行って来ました ■
https://green.ap.teacup.com/pekepon/2617.html


東京近郊の温泉街と言えば、箱根や熱海が先ず頭に浮かびます。しかし、どちらも観光地化し過ぎていて「寂れた」とか「温泉情緒」とはは少し違う。その点、湯河原ならば「温泉情緒」を感じさせる風景や建物が残っています。

そこで、一度行ってみたかった湯河原の温泉旅館をポチっとなしてしまいました。創業300年、昭和初期の木造4階建てが今も残る老舗旅館の「上野屋」です。普段はちょっと高いかなと思う値段ですが35%オフならば値頃感が有ります。

浦安からは新幹線に乗る必要も有りません。東京から東海道線でノンビリと向かいます。早川から先は、風景が一気に変わります。車窓からは曇天と水平線が溶けあった伊豆の海が見えて来ます。

お昼頃に湯河原の駅に着きましたが、駅前の人通りは疎ら。みやげ物屋もシャッターを閉じている店も多い。近年は外国人旅行者で溢れ返る東京近郊の温泉街ですが、コロナの影響で外国人の姿は一切見かけません。・・・それどころか、日本人旅行者も殆ど見かけません。

チェックインは3時なので、のんびり千歳川沿いを歩きながら温泉街を目指します。駅からは3Km程の道のりですが、川辺の景色を楽しみながら歩けば遠く感じる事はありません。


東海道線の鉄橋を越えると「湯河原温泉」の看板が現れます。


湯河原の温泉街の街並みは古い建物が残っていて昭和の味わいがあります。「すずらん」と呼ばれる街燈が残っている所も少なくなりました。


温泉と言えば「射的場」。2軒程が営業していまいた。

明治5年創業の「冨士屋旅館」

藤木川沿いは温泉街としての風情が有ります


湯河原の老舗旅館「源泉・上野屋」


宿泊したのは江戸時代にこの場所で湯屋を営んでいたという、湯河原温泉最古の宿の「源泉・上野屋」。大正12年築の別館、昭和5年築の木造4階建ての本館、昭和11年築の玄関棟があり、どれも良く手入れされています。24日は16室前室満室でした。


明治時代の鳥観図に描かれる「上野屋」


建物は3棟ともに文化庁の有形文化財に指定されています

敷地内に源泉を2本も持っており、お風呂は源泉かけ流し、82度の源泉と冷却した源泉をブレンドして42℃にしてあります。加水していないのかな。もちろんかけ流し。(六瓢の湯)

PH8.8の弱アルカリ泉ですが、ミネラルを豊富に含むその泉質は、温泉通を唸らせるものとか。火傷などの外傷に良く効くそうで、昔は背中一面火傷を負った人が湯治に訪れ、その傷が見る見る癒えたと言います。

貸し切り風呂を含めて浴室が4つあるので、それぞれを30分の貸し切りにして、別の客と混浴にならない様に配慮されています。コロナ対策ですね。温泉は・・・もう最高の一言でした。若干塩味を感じる透明な湯は、過度に肌が滑る事も無く、「しっとり」という言葉がこれ程当てはまるお湯も珍しい。何回も入ってしまいました。


半露店風呂の「洗心の湯」。普段は貸し切り風呂となっています。


屋上の足湯も拘りの湯。無加水ですが、源泉が82℃と暑いので、
お湯の滴下量を気温によって調節して適温にしています。


敷地内にある源泉の一本。(二本有ります。片方は休めていますが)

「時間の止まった様な」という表現がぴったりですが、
柱時計の時間は「ピッタリ」現在を指しています。


玄関脇の談話室は洋室です。和洋折衷というのも時代を感じます。

カラー写真だと「ただの古い木造建築」に見えてしまいますが、セピアにすると・・・昭和5年建築の木造4階建て、急な階段、磨き込まれた床や手摺。トイレや浴室はリフォームされて清潔感が有ります。


夕食は和食。出汁がしっかり効いて普通に美味しい。2万円ちょっとの宿泊費としては妥当な内容でした。(今はGoTo価格表示なので1万7千円程度)。

むしろ朝食のアジの干物が脂の乗りと塩かげんが最高でした。近海もののアジは初夏が旬ですよね。一方、夕食に付けたキンメダイの旬は冬。今は脂が乗っていないので淡泊でした。これは是非冬に頂きたい。(煮つけの味付けも上品で、付け合わせの野菜が美味しかった)


所謂、女将さんが着物を着て出迎えてくれる旅館と違い、玄関で遊ぶお孫さんと話ししたり、女将さんやご主人が気軽に話してくれたりと、私としては非常に居心地の良い宿でした。「ザ・温泉旅館」として宿泊費の8割を温泉に「極振り」した様な旅館です。それも「泉質維持」に特化しています。「GoToトラベル」で無くとも又、是非訪れたいと思う旅館でした。

普通の旅行者にも心温まる良い旅館ですが・・・温泉好き、古い木造建築好きには「絶品」の太鼓判を押させて頂きます。


■ 古さと新しさが同居する湯河原 ■

翌日は、少し早めにチェックアウトして、バスで奥湯河原温泉郷まで登って行きます。藤木川の渓谷沿いに旅館やホテルが並んでいます。小雨ですが、むしろこの時期としては涼しくて快適です。


標高も高くなり、山の空気が心地よい

落ち着いた雰囲気が漂います

カワトンボです


藤木川の河原には多くの源泉が有、湯煙が漂い幻想的な雰囲気

古い小さな旅館の後ろにリゾートマンションが覆いかぶさる様に建っています


大手リゾートの会員制ホテル


この景色がいつまで有るのだろうか・・・コロナの影響は小さくありません。

ここの「かるかん」と「きび餅」は絶品です


27日からは大手旅行会社のネットの金額表示は35%値引き後の金額に改定されています。これで「GoToトラベル」も本格的に利用者あ増える事でしょう。

長年、必死の思いで守られて来た観光の火を絶やさない為にも、コロナエチケットを守って楽しい旅行を皆様もお楽しみ下さい。


外国人観光客と高齢者の居ない観光地・・・今しか味わえません!!

https://green.ap.teacup.com/pekepon/2617.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/980.html

[近代史5] 130人に「死の処方」ドクター・デス、90年代の米、「京都」と共通点

2020年7月29日
130人に「死の処方」ドクター・デス、90年代の米、「京都」と共通点
樫山幸夫 (元産經新聞論説委員長)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20330


 Dr.Death(死の医師)ー。京都の難病患者を薬物で殺害した疑いで逮捕された医師ではない。

 1990年代、この不気味な呼び名を奉られたアメリカの医師が、130人の患者を安楽死させ、またはその自殺をほう助し、大きなセンセーションを巻き起こした。「患者の選択」を尊重したというより、むしろ「死」という現象への興味、探求心が冷酷な所業の動機のひとつだったともいわれる。

 京都のケースと比べると、いずれも自らが主治医ではない患者を死なせているなど類似点がいくつかある。

 アメリカにおける最大の医療スキャンダルは、京都事件の真相解明に示唆を与えてくれるかもしれない

人気番組で安楽死を放映

ミシガン大学のあるアナーバー(Better Planet Media/gettyimages)
 ミシガン州出身のジャック・ケボーキアン医師は1998年11月、CBSテレビの人気番組「60ミニッツ」で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っていた52歳の男性を致死薬注射で安楽死させる模様を収めたビデオを公開、視聴者に衝撃を与えた。

 同医師はこの番組で「私を裁判にかけるか、さもなければ安楽死をやめさせてほしい」と当局に呼びかけ、暗に自らの行為について、法的なシロクロをつけるようよう訴えた。

 望み£ハりに殺人罪で起訴され、翌年春には、禁固10-25年の判決を受けて収監され、こちらのほうは希望がかなわなかった。

 医師を裁く法廷はテレビ中継され、当時ワシントン特派員だった筆者は、次々に明らかにされるおぞましい行為の内容に身震いを抑えられなかった。陰鬱このうえない容貌で平然と判事の説諭に答える医師の姿が恐怖心を増幅させた。 

45ドルの自殺装置
  ケボーキアン医師が「Dr.Death」としての仕事を始めたのは1987年。「デトロイトの新聞に「死のカウンセリング」の広告を出し、90年、広告を見て連絡してきた54歳のオレゴン州の女性の自殺を手助けをした。この女性は、アルツハイマー病で記憶や知的障害の症状が出ていた。

 この時は、マイカーであるフォルクスワーゲンのバンに、手製の自殺装置≠据え付けた。作成に使った3本の薬品瓶や部品は、金物屋などから計45ドルで購入した。場所はミシガン州内の公園。他人の土地で患者を安楽死させて、後になって問題が生じては、との配慮だった。致死薬を注入するボタンを押すのは、患者自らの手にゆだねた。医師は「いい旅を」という言葉で見送った。

 このことは後に表ざたになったが、ミシガン州で自殺ほう助禁止に関する法律が存在しなかったため、刑事責任を追及されることはなかった。しかし、医師免許ははく奪された。その後も2件の自殺ほう助に関わり、裁判所から出廷を命じられたが、いずれも有罪を免れた。

 96年にはミシガン州で「自殺クリニック」を開設、その行動はいよいよ大胆さを増した。「60ミニッツ」に出演したのは、その2年後だった。

死刑囚の生体解剖も提唱
 学生時代からの「死」への強い関心によって、医師免許取得わずか3年後にはすでに、「Dr.Death」と呼ばれていた。

 目の動きが死をつかさどるという持論を立証しようと、亡くなった患者の目を詳細に検査したことがあった。医学雑誌に、死刑囚の事前承諾を得たうえで、執行時に生体解剖、移植用の臓器を取り出すことを提案したこともあった。これらが不気味な呼び名の由来となった。

 91年に出版した著書のなかでケボーキアン医師は、安楽死、自殺ほう助について「効率のよいクリニックで、末期患者が、礼節と慈愛のもとで死を選択することだ」と説明している。錆びがきたフォルクスワーゲンのバンが「効率よいクリニック」といえるかはともかくとして、自らの行為の意義を強調したかったようだ。

「末期」は40%にすぎず
 1990年から98年までの間に、安楽死、自殺ほう助した患者130人について、同医師の地元、ミシガン州のデトロイト・フリー・プレス紙は、「末期」と診断された患者は、このうち40%にすぎなかったと報じた。痛みを訴えていなかった人も少なくとも13人にのぼるとして、その行為に強い疑問を投げかけている。 

 ケボーキアン医師のケースは、米国内で「安楽死」や「患者の選択」についての論議を呼んだが、その行為があまりに衝撃的であったことから、同様の考えを持つ医師らですら、議論を敬遠して盛り上がりを欠いてしまったという指摘がある。

 ケボーキアン医師は、テレビでの安楽死放映後に収監されたミシガン州内の刑務所で8年半刑期をつとめ、2007年に体調が考慮され仮出所を許された。

天才少年、絵画は不気味な題材
 トルコ移民の両親を持つケボーキアン医師は幼いころから天才少年として知られ、1952年にミシガン大学のメディカル・スクールを卒業した。

 友人らの証言によると、その私生活は、ひっそりとして、人目につかないものだった。反面、芸術に造詣が深く、ジャズを好み、作曲をなし、絵画を描くことにも親しんだ。しかし、絵画は虐殺、首つり、カニバリズムなど「死の医師」らしい不気味なモチーフが多かったという。

 2008年、大統領選と同時に行われた下院選に無所属で出馬したが、あえなく落選した。2011年に83歳で死去。「死」に強い関心を抱いていた医師は、自らの死をどう感じたのだろう。生前に、自伝「死を処方する」という本を1999年に出版、テレビ映画「死を処方する男」(2010年、アル・パチーノ主演)など、その生涯を描いた著作なども少なくない。

「死」に関心、京都事件と共通?
  「Dr.Death」の事件を、ケボーキアン医師本人にまつわる記事や筆者個人の取材にもとづいて再現したが、浮かんでくるのは、安楽死、自殺、生体解剖など「死」に関わるすべての事象に異常な関心を抱く医師の姿だ。

 翻って、京都の事件。医師2人が逮捕されたばかりで、いまだ真相解明には至っていないようだ。医師の1人の口座に、亡くなった女性から130万円がふりこまれていたというから報酬を得ることが目的のひとつだった可能性はある。もうひとりの医師が「訴追されるリスクを背負うのに、ボランティアではやってられない」ともツイッターに投稿していることからもそれがうかがえる。

 一方で、逮捕された2人の医師は以前、末期の高齢者を安楽死させる内容の電子書籍を出版していたとの報道もある。「扱いに困った高齢者を『枯らす』技術」という書籍で、「証拠を残さず老人を消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ」など、人間の尊厳を軽視するかのような記述をしている。「違和感のない病死を演出できれば、警察の出る幕はないし、犯罪かどうかを見抜けないこともある。荼毘に付されれば完全犯罪だ」とも書いている。

 こうなれば、患者の苦痛を和らげるためにやむなく安楽死の手助けするというよりも、何か別な意図、目的があるのではという疑念を抱かざるを得くなる。 

 わが国でも過去、末期患者を安楽死させて刑事責任を問われた医師が何人かいた。しかし、それらはいずれも主治医として、回復不能の患者本人の希望を入れた苦悩の末の決断だった。

 今回の場合、2人の医師は主治医でもなく、亡くなった女性とはSNSで接触を持っていたとはいえ、事件当日に初めて会って自殺に手を貸したというのだから、過去のケースとは全く異なる。

 ケボーキアン医師同様、2人の犯行は、「死の処方」、それ自体が目的だったのか。警察の今後の捜査、公判での真相究明を待ちたい。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/250.html

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
47. 中川隆[-11989] koaQ7Jey 2020年7月29日 11:55:09 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[14]

なかちゃんのシステム紹介
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/nakacyannosisutemu1.html

電源アイソレーター

CDトランスポートとDAコンバーターにはCSE R−100を使用。好き嫌いの分かれる装置だがなかちゃんのシステムではこれがある方が音質の透明度が増し、立ち上がりの速さも得られるので愛用している。

アイソレーターからそれぞれの機械への給電へはWIREWORLDの電源ケーブルSEP(SILVER ELECTRA REFERENCE)を使用。
恐ろしく(?)高価な電源ケーブルだが、一度使うともう外せない、素晴らしい音質である。

ステップダウントランス

左の画像の左奥にあるのが200Vを100Vへ変換するステップダウントランスである。

なかちゃんのシステムはA級(擬似)300Wもの大出力パワーアンプを6台使用する大袈裟なシステムであるため、通常の100V電源では瞬間的に電力の供給不足が発生し音の腰が砕ける場面があった。そのため100V電源の4倍の供給能力(余裕)があるといわれる200Vの電源を部屋に引き込み、これをステップダウントランスで100Vへ変換してパワーアンプへ給電している。

この事により音の腰が砕ける事がなくなり、空間表現にも余裕が出た。但し目を見張る様な音質向上があったわけではない。

このステップダウントランスはTAMURA製でなかちゃんが購入したのが最後の1台となり、生産が打ち切られたものである。

実際なかちゃんが注文した時点で事実上生産は完了しており、手巻きの巻き線を使用していたこのトランスを作れる職人さんが既にいなくなっていたのに、他の職人さんがなかちゃんのこの1台のためだけに3台も同じこのトランスを試作し4台目でようやくTAMURA社のこのトランスに対する性能をクリアーしてなかちゃんに届けられたというメーカーの誇りと顧客に対する対応の凄さにただただ感服しました。

http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/nakacyannosisutemu1.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c47

[リバイバル3] パイオニア プリアンプ EXCLUSIVE C7・C7A
パイオニア プリアンプ EXCLUSIVE C7・C7A


Pioneer Exclusive - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=MB2U_C99FVQ
https://www.youtube.com/results?search_query=Pioneer+Exclusive++

Pioneer/Exclusive セパレートアンプ一覧
https://audio-heritage.jp/PIONEER-EXCLUSIVE/amp/index2.html

ヤフオク! -「EXCLUSIVE C7」の落札相場・落札価格
https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch?auccat=&tab_ex=commerce&ei=utf-8&aq=-1&oq=&sc_i=&exflg=&p=EXCLUSIVE++C7&x=0&y=0


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なかちゃんのシステム紹介
PRE AMPLIFIRE 
(プリアンプ) EXCLUSIVE C7a
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/nakacyannosisutemu1.html

プリアンプはEXCLUSIVE C7aである。

C7aの前にはACCUPHASE C−280 、 SANSUI C−2301 、 EXCLUSIVE C5と当時(20数年前)に国産ハイエンドプリアンプと謳われた3機種を全て使ったが、このC7a(C5の次世代モデルです)は全く次元が違った。

アンバランス(RCA)出力時のインピーダンス(わかりやすく言うと音楽信号の電気抵抗)が0.1Ωと驚異的に低いというか殆どショート状態と思える程の低抵抗でもはやパワーアンプをドライブしてしまう(本当にそんな音がします)凄まじいプリアンプである。

よく雑誌などで高名なオーディオ評論家大先生方が国産オーディオは音が薄いなどと仰っておられるが、このC7aは全くそんな事はない。
一聴するとさらりとしてそうに聴こえるが、実はクリアーな空間の中に濃さのある色彩がきちんと再現されている。
海外製品でこの音を出そうとすると倍の価格を支払わないと無理だとなかちゃんは思っている。

しかし、倍払ったからこのクォリティーは手に入るかどうかも最近は疑問に感じている。
倍の価格で実際にC7aと遜色ないと感じたのはアメリカのJEFF ROWLAND社コヒレンスだけである。

このコヒレンスも今は生産が完了し入手不可能となっており、今音の良いプリアンプは一体何があるのだと思っている。

また、C7aはエージング(いわゆる慣らし運転ですな)に半年はかかる。最初に一聴した時にこのプリアンプの可能性を感じる取る事が出来なければこのアンプを使う事はないだろう。(プラス忍耐力も必要)

もはや手放せないプリアンプである。

追記:C7aはアンバランス接続で使いましょう。その方が音質が良い。
なでもかんでもバランス接続と謳う自称評論家諸氏に騙されてはいけない。
http://www.nakajimaharikyuuinn.jp/nakacyannosisutemu1.html


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Exclusive C7 ¥1,200,000(1991年頃)
https://audio-heritage.jp/PIONEER-EXCLUSIVE/amp/c7.html

真のステレオフォニックを求めて持てる技術をおしみなく投入し、ステレオフォニックの原点とも言える L と R からの音を同質のものとして再生する"ステレオ伝送誤差ゼロ"を目指した最高級ステレオプリアンプ。

電源コードから、後面パネルの入出力端子にいたるまで、完全に独立したモノコンストラクション構造を採用しています。
さらに、左右同質な再生に影響を及ぼすセット内の磁界、温度、振動などを、最新の計測機器を駆使して徹底解析し、新開発パーツの採用をはじめ、全てのパーツを左右独立対称型のレイアウトとし、伝送の同質化を図っています。
また、信号経路のシンプル化、セット内リモートコントロールシステムの採用など、ステレオ伝送誤差ゼロを達成するため、様々な配慮がされています。

パワートランスや平滑コンデンサーから発生する磁気が、伝送回路にも影響を与え、誘導ノイズを発生し音質を劣化させます。この影響に着目し、低磁束密度のパワートランスや、磁気をキャンセルするコンデンサーの開発など、主要部品の防磁対策、セット内における磁気分布の均一化を図っています。

アンプの外部、内部からの振動による影響を考慮し、新開発の低磁束密度のトランスをはじめ、互いに磁気を打消しあうプラス側とマイナス側がペアになったコンデンサー(コンプリメンタリーキャパシターペア)を新開発し、採用してます。
さらに、プリント配線基板のフローティング化、無共振化を実現したアルミダイキャストシャーシなど防振・制振対策を施しています
また、シャーシの熱による変形にも対応するため、応力を計算したシャーシの採用、熱変形などの影響を考慮した各パーツのレイアウトなど、機械的要素による音質への影響を解明し対応しています。

温度の変化が抵抗値の変化となる導体の特性が音質に影響を及ぼすのを考慮し、放熱のコントロールをはじめ、熱源となるパーツの適切なレイアウトにより、セット内を恒温槽のような温度環境にし、左右の音の同質化を図っています。

左右が完全に独立した完全モノコンストラクションの独立性を確保するため、ボリュームやファンクションスイッチもセット内リモートコントロールを採用し、左右の明確な分離を実現しています。

回路構成は1チャンネル2アンプ2バッファアンプ構成となっています。
ゆとりある高インピーダンスの入力から、ボリュームおよびRec出力を低インピーダンスでドライブするため、入力セレクターとボリューム間、ボリュームと位相スイッチ間にバッファアンプを設置し、さらに2つのフラットアンプはアルミハイブリットICによる増幅回路を採用しています。

電源部は、左右及びコントロール用の3つのトランスに独立し、音質への影響を排除するため、低磁束密度で動作するパワートランスを新開発して採用しています。また、リニアリティの良いポイントで動作するよう設定することによりノイズの発生を抑えています。
さらに、平滑コンデンサーはプラス側とマイナス側で発生する磁界に着目し、それぞれの磁界が互いにキャンセルしあうコンプリメンタリーキャパシターペアを新開発し、磁界が音質に与える影響を抑えています。

ノイズを徹底的に排除しソースからの信号の純度を確保するため、入力回路はホット側だけでなくアース側も同時にon/offするセパレートアース回路を採用しています。これによりアースラインから流入する他機器からのノイズをカットします。

フラットアンプの増幅部に採用したハイブリッドICの基板には、優れた熱伝導性とシールド特性を持つアルミニウムを使用しています。これにより音質劣化の原因となる熱や磁気の音質への影響を徹底して抑えています。

振動の影響を受けやすいプリント配線基板を特殊防振ゴムのダンプ材でホルダーからフローティング化し、振動の音質への影響をカットしています。

各チャンネルの独立性と左右の対称性を得るため、ボリュームとファンクションの切換えにセット内リモートコントロールシステムを採用し、左右の独立性の確保を実現しています。
フロントパネルの操作部を手動で操作すると、セット後部に配置されたボリューム及びファンクション切換えスイッチがモーターの駆動により動作し、希望のポジションにセットされます。
また、操作しない場合はモーター駆動用ジェネレーターがoffとなり、音質への影響がカットされます。

優れた音質を再生するため、部品のひとつひとつを丁寧に吟味しており、信号経路配線材には純度99.99%の無酸素銅シールド線を使用してます。

3つのトランスのそれぞれにエネルギーをダイレクトに供給するため、6芯の無酸素銅高品質極太電源コードを採用しています。
絶縁も2重にし、しかも絶縁材の着色顔料にカーボンを用いるなど、顔料による音質への影響にも対応しています。


機種の定格
型式 ステレオプリアンプ
入力感度/インピーダンス
Phono MM:2.5mV/50kΩ
CD、Tuner、Line1、2、3、4、5、Tape play1、Tape2:150mV/50kΩ
Balance in 1、2:150mV/600Ω

出力レベル/インピーダンス Tape rec1、2:150mV/1kΩ
Output1:1V/0.1Ω
Output2(Balance):1V/200Ω

電源電圧 AC100V、50Hz/60Hz
消費電力 70W(電気用品取締法)
外形寸法 幅460x高さ158x奥行446mm
重量 27.5kg
https://audio-heritage.jp/PIONEER-EXCLUSIVE/amp/c7.html


▲△▽▼
2019/08/27
EXCLUSIVE、修理受付終了へ
パイオニアのかつてのハイエンドオーディオブランド「EXCLUSIVE」シリーズのメーカーでの修理受付が今年の9月末で終了するそうで。

同ブランドにはスピーカーもあったわけですが、現時点での修理対象は下のような機種のようです。
もちろん、スピーカーや掲載外のものも可能な限りは受け付けてくれるとは思いますが。

EXCLUSIVE M10
EXCLUSIVE M3
EXCLUSIVE M4
EXCLUSIVE M4A
EXCLUSIVE M5
EXCLUSIVE M5A
EXCLUSIVE M7
EXCLUSIVE M8
EXCLUSIVE P10
EXCLUSIVE P3
EXCLUSIVE P3A
EXCLUSIVE V7
EXCLUSIVE C10
EXCLUSIVE C3
EXCLUSIVE C3A
EXCLUSIVE C5
EXCLUSIVE C7
EXCLUSIVE C7A
EXCLUSIVE F3

いちばん古いのはM3の1974年ですから相当な力の入れ具合だったということになります。
参考までにAccuphaseの初号機であるC-200やP-300は1973年と1年前の発売ですが、部品払拭もあって1984年以前のものは既にどれも修理不可な部分がある状態です。
それはエクスクルーシブもある程度同様だとは思いますけどね。

しかし今回は徐々に打ち切る形ではなく、一気に上記も含めた全製品の修理受付が終了するという形です。
パイオニア本体が立ち行かないような状態ですから仕方ない側面もありそうですが、せめてサービスマニュアルや残っている部品類はどこかで引き継いでもらえると良いのですが…。

そういう私はエクスクルーシブを所有したことがないわけで偉そうなことは言えませんけども、特に1980年代前後の製品は店舗で良く試聴させてもらった記憶があります。
印象深いのはモノラルパワーアンプのM5、それにレコードプレーヤーのP3辺りでしょうか。
スピーカーも2401twinは当時オーディオをやってた人は一度は憧れた記憶があるでしょうし、model2301も店頭でずいぶん聴かせてもらいました。

父親は少し前に聴きに行ったそうですが、天童市の天童レコードサロンには東北パイオニアから寄贈された機材やレコードがあるんだそうです。

そちらの運営もかなり厳しいようで、元々は天童オルゴール博物館だったものの、運営を委託されていらっしゃる方も退任されたりしているみたいですね。
そもそも父親が聴いた時も機材は立派なものの、ケーブル類には頓着しない父親でも「さすがにこれはないだろう」というくらい、お粗末なものだったらしいです。

かつて三菱やナカミチ、サンスイなどの工場など拠点が多くあった福島県もほとんどが消え去って、今だとD&Mがなんとか残っているというところでしょうか。
今回の修理に関しても、もし可能であるならば元々ゆかりのある天童市あたりに拠点が作れたら良いのでしょうけどね。

TADも経営状態はかなり厳しいようですし、オーディオ業界の道は険しそうですけれども、それは産業やビジネスとして捉えた場合の話である側面も大きいと思いますし、もっと技術者や職人さんの視点で伝承されていってくれれば良いなと願うばかりです。
https://www.sara-mac.com/audio/exclusive-repair-end.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1067.html

[リバイバル3] パイオニア プリアンプ EXCLUSIVE C7・C7A 中川隆
1. 中川隆[-11988] koaQ7Jey 2020年7月29日 13:51:29 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[16]

Pioneer EXCLUSIVE C7,M7を聞いてみました。
2013/07/28
https://ggkun318.blog.fc2.com/blog-entry-164.html


今日は縁あってPioneer EXCLUSIVE C7・M7の自宅試聴を許されましたのでレポしたいと思います。

Pioneer EXCLUSIVE C7
http://audio-heritage.jp/PIONEER-EXCLUSIVE/amp/c7.html

Pioneer EXCLUSIVE M7
http://audio-heritage.jp/PIONEER-EXCLUSIVE/amp/m7.html

部屋の中はこんな感じになりました。
う〜ん、ゴージャス(爆)


バブル絶頂期に発売された機器ですので金ピカで豪華感満点ですね。
見ようによっては仏壇のように見えないことも・・・^^;
ググってみましたがとにかく情報が少ない。

ハイハイ堂でも過去データベースにはM7は1件しかない!
「こりゃ〜かなりレア物か?」と思ったら俄然興味が湧いてきました(爆)

個人的にはパワーアンプのM7に興味がありますが問題もあって「低域に使っているAccuphase P-1000とレベル調整が必要かも?」という事もありますがとにかく使ってみる事にします。

まずはこんな組み合わせで使ってみます。(括弧内は出力方法)

CDトランスポート:Esoteric P2s (AES/EBU)
DDコンバータ:Esoteric DD-10 (ST)
DAコンバータ:Wadia 2000SH (RCA)
プリアンプ:Accuphase C-280V (RCA)
パワーアンプ(ウーハー):Accuphase P-1000×2
パワーアンプ(ドライバー):Pioneer EXCLUSIVE M7

プリにC-280VJを使ったのは聞き慣れているため音の比較がしやすいように、ケーブルは使用中の物をそのまま使いました。
幸いAccuphase P-1000とレベル調整も必要ない感じなんでそのまま使います。

でははじまりはじまり〜
音の広がりも申し分ないですし特に低域はボリュームが出ます。
ウーハーは変わりないのですがこの違いは圧倒的です。
石川さゆりの津軽海峡・冬景色なんか聞くと完璧で「これや〜♪」と逝ってしまいました(笑)

しかし改めて聞き込んでいくうちに「ほんとにこれでエエんやろか?」と思った事も事実です。

こんなハイエンドなシステムでなにが言いたいのかと言うと「もうすこし高域の伸びが欲しい!」

出てくる音に不満は無いですが多分私、この音だとすぐに飽きる気がします。
そう、高域はもっとキンキンして欲しいんです。

先に書きましたが石川さゆりの津軽海峡・冬景色なんかほんと完璧です。
録音の古いものは特に相性が良いように思います。
しかし今風の録音の物、例えばMISIAのSuper Bestなんかだと何か足りない感じに聞こえます。

スーパーツイータとか足せば補えるかもしれませんがやってみなけりゃ解りませんし手元にはありません(泣)

藤田恵美の「こころの食卓」から「アザミ嬢のララバイ」では余韻はそれほどでもないですが何か「盛り過ぎ」のような感じがします。
「盛り過ぎ」という理由を上手く説明できないのですが「もう少しすっきりしたい!」そんな感じ。

「音のキレが欲しい!」のかもしれません。
アンプをB2301Lにすると「これだよな〜」って感じなんでどうも私にはゴージャス過ぎるようです(TT)

またRCAでの接続(5m)としてますがハム音が出ますので小音量では聞けません。
こういうセッティングで聞いてる私が悪いのですけどね^^;
もしかしたらこれが原因で「盛り過ぎ」の印象があるのかもしれませんね〜XLRにしてみましょう。
・・・とここでトラブル、 「EXCLUSIVEのホットは何番?」聞いたところ3番でAccuphaseと同じだそうです。

試聴開始

う〜む、津軽海峡・冬景色を聞いてますがスッキリ、キレも出たようですがゴージャス感もなくなったか?^^;

ケーブルのせいかもしれませんが他にはありません(爆笑)
MISIAのSuper Bestもこれなら満足かな?低域は少し膨らみが残るような感じがしますが誤差範囲か?

藤田恵美の「こころの食卓」から「アザミ嬢のララバイ」では「盛り過ぎ」感も消えすっきりしました。

となると「RCAケーブル短くしたらゴージャスになってキレも出てバッチリ?」なんて妄想も出て来ますが・・・聞こえなかった事にしましょう^^;

次は単体で聞いてみたいと思います。

単体試聴の組み合わせはこうなってます。
CDトランスポート:Esoteric P2s (AES/EBU)
DDコンバータ:Esoteric DD-10 (ST)
DAコンバータ:Wadia 2000SH (RCA)
プリアンプ:Accuphase C-280V (XLR)
パワーアンプ:Pioneer EXCLUSIVE M7

接続はXLRにしてます。

一聴、「これ1台で十分でしょう!!」です。
先に試したXLR接続に近いかな。
このレベルならわざわざバイアンプにする必要はない程の音は出てるのではないでしょうか?

「アザミ嬢のララバイ」で感じる耳あたりの良い音の広がりがこのアンプの個性ではないかと思います。
RAC接続にすると「盛り過ぎ」感がありますのでこれはもしかしたらケーブルのせいかもしれません。
しかし、これ出力100Wですよ!!
さすがA級のハイエンドアンプは違いますね。
数値だけで音は語れない世界のようです。


C7
このプリアンプ、一応XLRも備えてますが入力の殆どはRCAですのでM7との接続はRCAで行いました。
入力はこんな感じです。

当たり前といえばそうですがC280Vで感じた「盛り過ぎ」感はなくなって素直な感じですね。

私の駄耳ではもう評価の限界を越えた域の音なのでなんと言っていいやら・・・^^;
M7特有のフワッとした音の広がりはC7でも継承されてこれはパイオニアの音なんでしょう。
やっぱりM7使うならC7は必須でしょうかね。
ちょいと値は張りますがは違うプリをあてがって悩むより「間違いない!」と思います。

総評
いや〜、ハイエンドモノパワーアンプの性能たるや恐るべしですね。
JBL S9500のウーハーをモノともせず鳴らし切るM7のドライブ力、恐れ入りました。
それともうひとつ、A級アンプは初めて使いましたが触れなくなるほどのその発熱たるや凄いものですね。
夏場に使うには確かにシンドイかもしれません(笑)
https://ggkun318.blog.fc2.com/blog-entry-164.html


▲△▽▼

パイオニア Exclusive C7 + Exclusive M7(JBL S9500との組合せ)
Posted by audio sharing on 1993年3月30日
井上卓也
ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」(1993年3月発行)
「ハイエンドアンプでProject K2 S9500を堪能する」より
http://audiosharing.com/review/?p=5133

 このアンプは、入出力信号系は不平衡型がメインで、平衡型にはすべてトランスで変換する設計であるため、結線はすべて不平衡で行なう。各アンプの設置場所は標準位置である。

 信号を加えた最初の音は、小さくまとまった、ひっそりした音で、それなりにまとまった音を聴かせる。

 数分間ほど経過すると、中低域の量感が加わり、全体に柔らかく、おとなしい音となり、中高域の見通しがよくなる。

 時間的にはゆっくりしたテンポでウォームアップは進み、聴感上で不足した部分が徐々に埋められていくように内容が濃く、充実していく変り方で、従来とは少し異なったウォームアップの傾向であり、最近のトップランクのアンプにみられるタイプだ。

 ウォームアップは素直なタイプで、ゆるやかではあるが一定の方向に進み、音の細部が少し見通せる音になるのは、おおよそ1時間は必要だ。その後は音場感的な情報量が増し、奥行き方向のパースペクティヴがナチュラルに感じられるようになると、ほぼ2時間は過ぎていることになる。

 S9500は、音場感的な再生能力は抜群で、とくに奥行き方向の拡がりの見事さは、これならではの魅力であるが、逆に言えば、アンプの音場感的な再生能力をチェックするためには、最適なスピーカーシステムであろう。

 低域は柔らかく、音の芯の甘さは残るが、アンプとスピーカー間はほどよくコントロールされているようで、かなりしなやかな低域の表情を聴かせる。

 中域以上も素直な音をもつため、このアンプ専用に部屋とスピーカーのセッティングを行なえば、スピーカー後の壁を超えてタップリと拡がるプレゼンスの良さと、しなやかで力感にほどよく裏付けされたナチュラルな音を手にすることができよう。

 TV電波などの外乱には、パワーアンプにやや弱い面があるようで、高域の伸び切った感じや、上下方向の音場感で高さを聴きたいむきには、少し不満を残すが、この試聴室の条件の厳しさでのことであり、一般的には問題ではなかろう。

 安定型で茫洋と鳴りやすいスピーカーを、柔らかく、豊かな音ながらほどよくシェイプアップし、いかにも2ウェイ型ならではの爽やかさ、鮮度感の高さを持つ音として聴かせるが、内面的にはストレートに押し出す強靭なエネルギーをもっているようで、時折グイッと押し切るようなダイレクトな表現が感じられることがある。平衡入出力では、ややナローレンジの管球アンプ的な音に変り、油絵的な陰影の深さは別な味だ。
http://audiosharing.com/review/?p=5133



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1067.html#c1

[近代史4] 中川隆 _ アンティーク・オーディオ関係投稿リンク 中川隆
12. 中川隆[-11987] koaQ7Jey 2020年7月29日 13:53:24 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[18]

パイオニア プリアンプ EXCLUSIVE C7・C7A
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1067.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/109.html#c12
[近代史3] 日本のオーディオメーカー 中川隆
13. 中川隆[-11986] koaQ7Jey 2020年7月29日 13:54:01 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[19]

パイオニア プリアンプ EXCLUSIVE C7・C7A
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1067.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/466.html#c13
[リバイバル3] プリアンプに金をかけなさい 中川隆
146. 中川隆[-11985] koaQ7Jey 2020年7月29日 15:37:58 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[21]
ソニー プリアンプ TA-2000・TA-2000F
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1066.html

パイオニア プリアンプ EXCLUSIVE C7・C7A
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1067.html

パイオニア Exclusive M5
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1064.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1027.html#c146

[番外地8] 東京裁判は昭和天皇の戦争犯罪を陸軍軍人に肩代わりさせるのが目的
東京裁判は昭和天皇の戦争犯罪を陸軍軍人に肩代わりさせるのが目的だよ:
1947年の12月、戦時中の首相、東条英機は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。
中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。

ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。


 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。 だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。

彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、 刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/112.html

[番外地8] 日本国憲法も東京裁判も「天皇制」の存続が重要な目的だった _ 昭和天皇はウォール街のエージェントだった
日本国憲法も東京裁判も「天皇制」の存続が重要な目的だった _ 昭和天皇はウォール街のエージェントだった
日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だった。

昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/113.html

[番外地8] 朝鮮人が反日になった理由 中川隆
1. 中川隆[-11984] koaQ7Jey 2020年7月29日 20:01:42 : y2yLmKFH22 : bWJVLmQxeDFjdUU=[1]
chousen人が反日になった理由
1.飢餓輸出させた
2.農民の土地を奪った
3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた
4.chousenの財産をすべて奪った
5.chousen女性を性奴隷にした
_______


chousen人が反日になった理由 1 _ 飢餓輸出させた
日本で米が足りなくなったのは日清戦争がきっかけでしたが、それが日露戦争のとき顕著になったと東京外語大の大月先生は語っていました。

   それ以降は米不足が慢性的になり、1918年にはそれが頂点に達し「米騒動」が起き政権が揺らぎました。

この時、政府は次の三つの対策案を練りました。

 1。タイなどから外地米を輸入する。
 2。国内産の米を増産する。
3。chousenや台湾など植民地で米を増産する。

第1案のタイ米はパサパサしてまずく評判がさんざんで話になりませんでした。

私も数年前にはタイ米をけっこう食べましたが、カレーやチャーハンにでもしないとなかなか箸が進みませんでした。

   第2案ですが、内地米の増産はその余地があまりなく効果は期待薄でした。

そこで結局、第3案の植民地での産米増殖計画が本格的に採用され、1920年から始まりました。

chousen総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。

また米の品種も、早神力など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。(早神力を番組では「わせしんりき」と発音していました)


こうした努力の結果が、chousenの食生活を少しでも豊かにしたのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら忘暮楼さんの指摘通り、米の生産量は増えてもchousen人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実がchousen農民を苦しめました。

   その実状を、番組は具体的にある農家の回想をとりあげ紹介していました。

秋に農民が米を70俵収穫しても、水利税や肥料代などもろもろ差し引かれ手元には15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうでした。

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の中に埋めたり隠したりしたのですが、冷酷な借金取りもさるもの、針金で地面をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、chousenの農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上したchousen米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/107.html#c1

[番外地8] アイヌは日本人じゃないよ、日本人はchousenからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫だから別民族だよ
アイヌは日本人じゃないよ、日本人はchousenからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫だから別民族だよ:
北海道は先住民のアイヌに返さないといけない
日本人には縄文人の遺伝子は10%しか入っていないです。
今生き残っている縄文人の子孫は douwa buraku民とアイヌ人だけです。
chousen からの渡来人が平安貴族や武士になって縄文系日本人を迫害したのが日本の歴史です。

ロシアには純血アイヌがいるみたいだね
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、

そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。
1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。
 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」
 
 ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。


▲△▽▼


アイヌ語を話していた縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話していた西日本縄文時代人は縄文時代後期に南朝鮮から渡来した

神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。

弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

従って結論は

日本人は朝鮮人だった
アイヌ人は北海道縄文人の直系の子孫だった  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/114.html

[番外地8] 日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている 中川隆
4. 中川隆[-11983] koaQ7Jey 2020年7月29日 20:24:12 : y2yLmKFH22 : bWJVLmQxeDFjdUU=[2]
日銀金融緩和の結果、国内物価が上がっていないだけで、円は海外では紙屑になっている
チャンネル桜のアホ評論家は日銀の金融緩和のために既に日本がハイパーインフレに近くなってるのを知らないんだな。これから更に財政出動までしたら国内価格もハイパーインフレになるよ。公共事業をいくらやっても資本家が儲かるだけで労働者の賃金は上がらないから、スタグフレーションになるだけだ。
金融緩和やMMTを推進しているのは欧米金融資本、中共やヒトラーの様な財政拡大政策は必ず全体主義的統制経済に行き着く。
全体主義とは巨大資本が支配する財政拡大を目指す統制経済の事
アメリカをはじめ、西側の支配層は現在、巨大資本が世界を支配する世の中を作り上げようとしている。巨大資本が支配する世界は当然、統制経済になる。ムッソリーニは1933年11月に「資本主義と企業国家」という文章の中で、このシステムを「企業主義」と呼び、資本主義や社会主義を上回るものだと主張した。これが彼の考えたファシズムであり、全体主義だとも表現されている。
財政拡大論者のヒトラーを支持・支援していたのはフォード、ロックフェラーやアメリカ金融資本でした。
1920年代の後半になると、ドイツ企業への融資という形でアメリカから多額の資金がドイツへ流れる。
 カネの流れを見ると、例えばITTはドイツの通信産業を、GMは大手自動車メーカーのアダム・オペルを、GEはエレクトロニクス関連のAEGやジーメンスをそれぞれ買収、またフォード・モーターはケルンに大規模な工場を建設、スタンダード石油は巨大化学会社のIGファルベンと合弁事業を展開している。

最近の金融緩和・財政出動でも事情は全く同じで、新型コロナ危機が始まってからの3カ月間、大規模金融緩和・財政出動のお蔭で米国の富裕層は資産を約5650億j(62兆円)増やした。アメリカの株価は90年代からバブルと言われていたが、10年に一度崩壊しては新記録の株価を更新していった。これを支えたのは中央銀行FRBによるお金ばらまきで、そもそも株を買うお金を政府が発行しないと株価は上がらない。これを支えたのは中央銀行FRBによるお金ばらまきで、そもそも株を買うお金を政府が発行しないと株価は上がらない。
2009年のリーマンショック、今回のコロナ騒動でもFRBは大量のお金を発行し、お金は資産家に渡って株を買っている。
富裕層や資産家はほぼ無利子で無限大のお金を銀行などから借り、ファンドに投資しファンドが株を買っている。


いくら公共事業をやっても賃金が増えなければ内需は拡大しない。公共事業ではなく、利子ゼロの政府紙幣を老人・学生と底辺の労働者だけにベーシックインカムとしてばら撒いて内需拡大するしかないのです。
マネーフローが10倍になれば貨幣価値が1/10になり、不動産価格と株価も本来の適正価格である10倍になるというだけですね。

別に金融緩和で増えた金で不動産価格や株価が上がるのではなく、不動産価格や株価が本来の適正値に戻るだけです。
貨幣価値が1/10になっても、給料はそれ程上がらないので、実質賃金も1/10になります。
商品価格の大半は人件費なので、物価はあまり上がりません。
これが金融緩和してもインフレにならない理由ですね。

そもそも欧米の物価と日本の物価を比較すれば 1ドル=20円程度が適正値なのに、1ドル=110円まで超円安になっている。タイでもラーメン1杯が1000円になっています。
ドル自体が紙屑になっていると言われているのに、そのドルに比べても円のこの安さ。

日本人がアメリカに留学できなくなったのはアメリカの授業料が年間何百万円になったからだよ。アメリカでアパートを借りてもワンルームが月30万円だから、日本人はアメリカ留学すらできない。

そもそも日本人が作っている日本の野菜や傘、洋服や日曜品ですら日本人には高値の花になってしまいました。こういうのをハイパーインフレーションというんです 。

最近はチャンネル桜のアホ評論家の嘘に騙されている人ばかりですね。
GDPの増加率や経済成長率には意味はありません。
中国やアメリカの様にGDPがいくら増えても、いくら経済成長しても国民の生活が良くなる訳ではありません。
政府がいくら金融緩和しても財政出動しても絶対にデフレから脱却できません。

マネーサプライが10倍になれば貨幣価値と実質賃金は1/10になり、GDP, 政府支出と株価は(大雑把には)約10倍になり、一般人は、ますます貧困化します。貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がるのですね。商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。それで日本の物価は上がらずデフレになるのです:

通貨は基本的にはバブルで、お金の総量を増やすと貨幣価値が減っていっていずれ紙屑になります。
逆に言えば、いくら通貨を増やしても、国の食品・工業製品やインフラの供給量で決まる国家資産は変わらないので、貨幣価値が減るだけです。お金をいくら増やしても、増やした金の分配以外の問題は起きません。
お金が増えれば貨幣価値がその分下がるので、要するに、紙幣に書かれている10,000円という数値を100,000円に書き換えたという様に貨幣単位が変わったというだけの話です。
 

マネーサプライが毎年増えている国は毎年貨幣価値が小さくなっているので、 GDP、政府支出、地価と株価は、実質価値が減らない様に、毎年上がり続けています。

詳細は

ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

ただし、貨幣価値が減ったからといって給料を上げてくれる親切な会社はないので、実質賃金は下がります。
2013年から2019年頃まで人手不足が続き、企業は外国人労働者で足りない人手を補いました。
アベノミクスで株価とGDPが上昇したのに給料は増えず物価も上がらなかったのは、外国人労働者が安い給料でも喜んで働いたからです。さらに悪いのは安倍政権が進めた「女性が輝く社会」で、女性労働者を増やし続けています。政府は高齢者の就労も促進していて、毎年何十万人も新たな就労者が増えています。

日本人の給料が上がらないから、人件費を反映する物価も上がらない

しかし、外国に行けば日本円が紙屑になっているのがわかります。
しかし、日本国内での商品価格のコストの大半は人件費なので、貨幣価値が減っても物価はあまり上がりません。
それで日本の物価だけは上がらずデフレ経済になるのですね
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/109.html#c4

[番外地8] アイヌは日本人じゃないよ、日本人はchousenからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫だから別民族だよ 中川隆
1. 中川隆[-11982] koaQ7Jey 2020年7月29日 20:37:44 : y2yLmKFH22 : bWJVLmQxeDFjdUU=[3]
アイヌは日本人じゃないよ、
日本人には縄文人の遺伝子は10%しか入っていないです。
今生き残っている縄文人の子孫は xx民とアイヌ人だけです。
xxからの渡来人が平安貴族や武士になって縄文系日本人を迫害したのが日本の歴史です。

ロシアには純血アイヌがいるみたいだね
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、

そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。
1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。
 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」
 
 ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/114.html#c1

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
14. 中川隆[-11981] koaQ7Jey 2020年7月30日 05:45:23 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[3]
広開土王(好太王)碑文の新解釈 −「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp
    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 −広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末〜5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 −広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 −臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 −女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c14

[近代史4] 世界中で植民地支配に対して謝罪と賠償をしたのは日本だけである
世界中で植民地支配に対して謝罪と賠償をしたのは日本だけである


閑話休題  ―日韓問題に思う―
2019年08月18日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/17bfa1e98f2d1f619c794a055aaa8ead

 日韓関係は戦後最悪との論調がマスコミを賑わしているが、現在、第二次大戦以前の歴史問題を持ち出す国は韓国以外見当たらない。なぜ韓国だけが国連やユネスコなど世界中に持ち出すのか。そこに韓国人の異常なカルト性がある。韓国人にとっては、日本の植民地支配は世界史の大事件であり、人類史上の最大の犯罪なのである。世界中の人たちは当然、このことに深い関心があるとの自己中心のカルト宗教なのである。ところが、意に反して、世界中の大半の人は韓国が地理上どこにあるかも知らないし、韓国なんぞに何の興味も関心もない。むしろ、第二次大戦以前のことを持ち出す韓国に不快感を抱いているのが現実である。一方、それを当然と韓国サイドに立って韓国を擁護する一団が日本にいる。この人たちは決して左翼でも何でもなく、日本に嫌悪感を持つただの幼児にすぎない。

 −世界中で植民地支配に対して謝罪と賠償をしたのは日本だけであるー

 前のパク・クネも今のムン政権も日本は謝罪も賠償もしていないと声高に世界中で叫んでいるが、これは完全なウソである。日本は1965年の日韓条約で5億ドルもの大金を支払っている。では、イギリスはインドに誠意ある謝罪と賠償をしたから、インド人は今の韓国人のように、「イギリスは謝罪と賠償をせよ」などと言わないのか。かって、サッチャー首相もエリザベス女王もインドを訪問したが、一言も謝罪の言葉を述べていないし、賠償もしていない。同じくフランスはベトナムに、オランダはインドネシアに謝罪も賠償もしていない。勿論、過去のいきさつから教育や医療などに援助はしているが、賠償として現金は渡していない。では、日本が敗戦国であるからか、ところが、同じ敗戦国であるイタリアは植民地にしていたリビアとエチオピアに謝罪も賠償もしていない。

 ーアフリカ会議は謝罪と賠償を要求したが ー

 20年ほど前、アフリカ会議(全アフリカ諸国が集まる会議、今もあるかどうかは知らないが)は欧米諸国に対して、植民地支配と奴隷貿易に対して謝罪と賠償要求を決議した。これに対する欧米諸国の回答は「 完全ネグレクト(無視)」であった。その時、欧米各国の首脳は何のコメントも出していない。奴隷貿易に携わったスペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、また黒人奴隷を買った南北アメリカ諸国も同様であった。謝罪だけなら誰でもできるが、数百年間に約2千万人も家畜同様に強制連行したことを犯罪と認め、賠償すれば天文学的お金が必要である。だから無視したのである。

 ー世界には隣国を嫌い、憎みあう国はいくらでもあるー

 バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)とロシア、また、ウクライナ、ポーランド、ハンガリー、ジョージア(旧グルジア)などもロシアを嫌っている。現在、サウジアラビアとイランは完全に国交断絶している。バルト三国はかってのソ連時代50年を、ソ連による「軍事占領の時代」と歴史を書き換えた。それまでは、バルト三国人民の総意でソ連邦に加入したと学校で教えられていた。今の韓国の教科書と同じである(「日帝の強占時代」と教えている)。事実、スターリン時代に反ソ的と見なされ、処刑もしくはシベリア流刑で死んだ人はこの三国だけで100万人にものぼる。反ロシア感情を持つのは当然である。では、ロシア人はどうか。自分たちを嫌っているのは空気と同じで在(あ)るものであり、無反応、無関心が実体である。しかし、日本人は違う。人間はみな同じであり、誠意をもって対応し、謝罪すれば相手は分かってくれる。そうして、未来永劫、真の友好関係を築ける。そこに日本人の幼児性がある。そこを韓国人に見透かされ、無理難題を吹っかけてくるのである。

 −韓国人は一体何に怒っているのかー

 韓国・朝鮮人が過去のいきさつから日本に恨みを持つのは当然である。その恨みは単純である。自分たちが国を奪われ、植民地支配されたことに対する屈辱感である。(この場合、植民地統治の内容は関係ない。よく日本が朝鮮を近代化してやったとか、小学校から大学まで作って教育の場を与えてやったとか言う人がいる。それはその通りであるが、それはあくまでもモノであり、人間の心はそれと関係ない)。今の文政権は過去に日本と韓国が結んだすべての条約や約束事を破棄しようとしている。そうして、その根拠として被害者である韓国人の心の傷がいまだ癒(いや)されていないと言っている。つまり、日本への恨みは永遠に続くと宣言したのも同然である。

では、植民地支配を受けたアジア、アフリカのすべての国は、かっての支配国である欧米諸国が誠心誠意、謝罪と賠償をしたから心の傷が癒(いえ)たのか・・。今、日本がとるべき道は、欧米諸国やロシアのように完全ネグレクト(無視)しかない。しかし、日本は民主主義の国だから、次の選挙でまた鳩山民主党と同じような政権が生まれる可能性がある。その時こそ韓国にとって、幼児国家日本を支配できるチャンス到来である。「日本は真の謝罪も反省もしていない」「天皇の謝罪で解決する」「たった5億ドルで韓国人の心の傷が癒(いや)されたとは言えない」と・・。(真の謝罪かどうか判定するのは韓国人である。客観的な基準があるわけではない)

 <追記>

 ナチス・ドイツの敗色が濃くなり、チェコ国内にソ連軍が進攻してきた時、ドイツ軍はチェコ国内のドイツ系住民を置き去りにしていち早くドイツ国内に撤退した。その時、とり残されたドイツ人は国境のズデーデン地方(元々、この地域はドイツ系住民が多く、ヒトラーの併合により第二次大戦の導火線となった)で約10万人がチェコ人からリンチにあい殺害されている。実は、これには伏線があった。チェコ軍はほゞ無抵抗でドイツに降伏したので戦死者はごくわずかであったが、その後、対独レジスタンスで約30万人の死者を出している。(チェコ・スロバキアから強制収容所に送られたユダヤ系チェコ人も含めて、その数は20万人を超える)。フランスやポーランドでも同様であったが、ドイツ軍は市民のレジスタンスに対し残虐な報復で応じた。ごく近年、ドイツとチェコ両政府はお互いに侵略と報復を謝罪し、今後、いっさい政治問題にしないと合意し和解した。今では、プラハーベルリン間に特急列車も走っている。

 では、終戦時の朝鮮半島ではどうだったのか。1945年8月15日(韓国の光復日)以降、朝鮮総督府から米軍政下を経て、1948年大韓民国が成立するまでの3年間、およそ80万人の日本人が半島から帰国したが、なんと、朝鮮人からリンチにあって暴行、殺害された日本人はただの一件の報告もない。満州では中国人に襲われて多くの日本人が殺されたが、鴨緑江をいち早く超えて朝鮮に入った日本人は、朝鮮人の農家の納屋にとめてもらい、出発時に握り飯をもらい助けられたとの証言が数多く残されている。一体全体、これはどういうことか。20万人の少女を強制連行して慰安婦にしたり、数百万の若者を強制徴用して奴隷労働させたというのに、その親兄弟はなぜ日本人を襲撃しなかったのか、日本の軍と警察の機能は完全に麻痺していたのに・・。それどころか、むしろ日本人を助けている。この事実がすべてを物語っている。( 厚生省は満州から帰国できなかった日本人を約15万人としている。一方、朝鮮、台湾からはほゞ全員が帰国した )

 たしかに、徴用されたのは事実であるが、それは日本人とて同じであった。今の高校生に当たる旧制中学、女学校の生徒たちは皆、勤労奉仕として軍需工場や陣地構築に動員されていた。今の韓国で流布している歴史はすべて創作である。しかし、このねつ造歴史を信じ、A新聞のように積極的にねつ造に関与して、日本を犯罪国家にしたい一部の日本人がいるのも又事実である。選挙でこのような勢力が政権を取ったとき、世界から尊敬される平和憲法を順守して、日本は本当に世界地図から消え去るであろう。

 最後に、日韓が永続的に友好関係を築ける方法は無いことはない。それは、すべての日本人が韓国側のいう「正しい歴史認識」を持つことである。つまり、日本は朝鮮の植民地支配という犯罪を犯した。現代の日本人もすべて犯罪者の子孫であり、この罪は永遠に時効となることはないという認識である。従って、日本人は犯罪者である以上、韓国・朝鮮には逆らえず、従属しなければならない。李氏朝鮮時代のヤンバン(貴族・地主)と白丁(奴婢)の関係と同じである。今の文政権は明らかに李氏朝鮮のヤンバンのDNAが濃厚である。犯罪者(白丁)が何をぬかすかと・・。過去のいきさつはどうであれ、国連加盟の独立国に対して「盗っ人たけだけしい」などの言葉を大統領や国会議長が平然と口にする国は韓国以外にない。ただ、問題は日本を犯罪国家と認識している日本人が少なからずいることである。韓国ではこういう人を「良心的日本人」(実際は「白丁」扱い)と呼ぶが、世界には良心的イギリス人もフランス人もいない、傲慢不遜なロシア人や中国人はいるが・・。 よく韓国人が言う「ドイツは謝罪と賠償をした」というのは嘘である。日本と比べるとスズメの涙ほどである。だから今、ポーランドやギリシャの首脳はその不満を口にしている。 自分たちが受けた被害は何十兆円にのぼると・・。だが、メルケル首相はダンマリを決め込んでいる。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/17bfa1e98f2d1f619c794a055aaa8ead

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/981.html

[番外地8] 右翼が必死にデマを流して本多勝一を貶めようとしているだけだよ
右翼が必死にデマを流して本多勝一を貶めようとしているだけだよ。
本多勝一はその後も何度も現地に行って調査しているよ。
そもそも当時は日中戦争に行っていた元日本兵が沢山生きていたから、嘘を書いたら指摘されるよ。
元日本兵は誰も反論しなかった。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/115.html
[番外地8] 小さな間違いが一つでもあったらルポ全部が捏造だと騒ぐのが右翼の手口だよ
写真が間違っていたというだけの事だろ
どんなルポでも間違いは無数にあるんだよ。
間違いがわかったらその時点で訂正するのが普通だろ。
小さな間違いが一つでもあったらルポ全部が捏造だと騒ぐのが右翼の手口だよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/116.html
[番外地8] 百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘
百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘
1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。
このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。

そうした試みの代表的な(そして最も「成功」を収めた)サンプルと言えるのが、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』です。

この本はその前半およそ半分を、南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎない「百人斬り競争」事件の否定に費やしています。鈴木氏はこの事件の信憑性に疑問を投げかけることで、本多氏のルポ全体、ひいては南京大虐殺全体が根拠のない「まぼろし」であるかのような印象を与えようとしたのです。

鈴木氏の「批判」が当たっていないこと、それどころか逆に『南京大虐殺のまぼろし』の方が証言の歪曲や捏造だらけであることは既に明らかになっているのですが、一時は多くの人がこの本に騙されました。

下記の議論が示しているように、最近になってさえこの件をネタに『中国の旅』を攻撃しようとする論者がしばしば現れます。残念なことですが、一度広まったデマは容易に根絶しがたいものなのです。

『南京大虐殺のまぼろし』後半部分については、そのデタラメさ加減を指摘する記事が「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。また、小林よしのりとの共著『朝日新聞の正義』でこの百人斬りを否定しようとする井沢元彦の無知ぶりとトリックを指摘する記事が、同じ「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。

野田、向井両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。
この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、
「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」
という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。) もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。

というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。

百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。

例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙が紹介されています。

ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところで紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示さ
れているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。


(1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に

「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」

とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。


(2)鈴木氏紹介の手紙には

『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見 ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』

と いう部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。


(3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には

『刑の執行の朝、彼等が、軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』

という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。

洞氏は、

『鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。

…鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつ たえられているか疑わしくなる。

フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 』


と述べていますが、私もまったく同感です。


また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/117.html

[番外地8] 南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube
南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube
貴重資料『南京事件U』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yrLPTGCXPr0

南京事件資料集
http://kk-nanking.main.jp/

南京事件(南京大虐殺)の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

▲△▽▼

本多勝一 中国の旅 (朝日文庫) が朝日新聞に連載された時の読者の批判は

今更そんな昔の事を掘り起こさないで欲しい
戦争というのはああいうものなんだ
みんな覚醒剤を飲んで異常な精神状態でやった事で、仕方なかったんだ
古傷をタワシでゴシゴシ擦る様な事を書くのは止めて欲しい

というのが大半だった。

連載当時はまだ実際に南京で戦った日本兵が沢山生存していたのですね。
本多勝一 中国の旅 が嘘だと反論する元日本兵は一人も居ませんでした

http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/118.html

[番外地8] 「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
何をどう間違うとこんな妄想脳が出来上がってしまうのだろうか?
まあ、ウヨさんたちは情念と妄執の世界に生きているのでマトモな理屈など通用しないのだが、それにしてもこの認知の歪みはひどい。
まず、「今私達が生きているのは特攻隊が護ってくれたから」というのは生物学的にあり得ない。特攻隊には航空特攻だけで4千名ほどが投入されたが、彼らが特攻などせず生きていてくれたら、今はもっと多くの「私達」がいたはずである。逆に、日本がポツダム宣言を受け入れず「一億特攻」などという当時のカルトスローガン通りの事態になっていたら、上のツイートをした「桜」さん本人も生まれていなかったかもしれない。

また、これは経済的にもあり得ない。特攻という無駄死にをさせられたのは、みな前途有為な若者たちだった。彼らが生きて戦後の復興に加わっていてくれたら、「私達」の国はより豊かになったはずである。
それとも、死ぬと分かっているのに爆弾を抱えて突っ込んでくる特攻が米軍を畏怖させ、「追い詰めると何をするか分からない」民族だからと、敗戦後の日本に対する扱いが良くなったとかいうポエムを信じているのだろうか。
確かに、フィリピン戦で特攻作戦が始まった当初は、常識では考えられない異常な戦法が米兵たちを恐怖に陥れた。しかし、特攻がそれなりの戦果を上げられたのは始めのうちだけで、米軍側が適切な対策を講じるようになると戦果は急速に減っていった。その上、特攻では出撃した機体も搭乗員も必ず失われるのだから、特攻をやればやるほど生産力でもパイロットの養成力でも劣る日本が不利になっていくのは当然だった。

大戦末期の沖縄戦の段階では、もはや旧式戦闘機や練習機に数ヶ月の速成教育を施しただけの搭乗員を乗せた特攻機は、ただ撃ち落とされるために出撃していくのも同然の状態となっていた。この頃になると米軍側は、畏怖どころか、無意味な自殺攻撃を繰り返すしか能のない日本軍をバカにしていたと言っていい。それは、神風パイロットを米兵が何と呼んでいたか、その呼び名からも分かる[1]。
(略)アメリカ軍の艦艇の乗組員たちの間では、神風パイロットに対してさまざまな言い方をした。前述の「バカ・ボン」などはそういう例であったが、それ以外にもまだ多くの蔑称があったのである。大体は「カミカゼクレイジー」という語で語られることが多かっだが、次のようにいわれた(ウォーナー書からの引用)。
「連合軍の艦艇では、神風パイロットにたいして、それぞれ彼ら自身の呼び名を持っていた。『オーストラリア』で特攻機を『ゾンビ』(間抜け)、『アランタ』では『カッツェンジャマー・キッド』(二日酔い坊や)と呼んでいた。米軍では彼らを、(中略)悪魔の烏や地獄の烏とか、四字綴りの蔑称などで呼んでいた」
当時、特攻隊員となった学徒兵の中には、「アメリカさんはわれわれを見てどう思うだろうか。またバカが飛んできたと思うだろうよ」とつぶやく者もいた。[2] 海外の情報から一切遮断され、翼賛マスコミのプロパガンダと軍隊による洗脳教育の中に置かれていても、まともな判断力のある者にはそれがわかったのだ。

さらに、理解不能の特攻作戦は米兵たちの中に日本人への畏敬どころか憎悪を引き起こしたことも知られている。米兵たちの間では、「(この戦争の)主要目的は日本を降伏させることではなく、できるだけ多くの日本人を殺すことにある」「そんなに死にたきゃ皆殺しにすればいい」といった会話が公然と交わされていたという。[3]

大戦中とは違って知ろうと思えばいくらでも情報が手に入る現代に生きていてこのざまなのだから、ネトウヨの愚かさというのは本当にどうしようもない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/119.html

[番外地8] 中島正、猪口力平『神風特別攻撃隊』の欺瞞
中島正、猪口力平『神風特別攻撃隊』の欺瞞
『神風特別攻撃隊』という戦後、ベストセラーになった本があります。大西瀧治郎中将の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。
英語にも翻訳され、世界に「カミカゼ」のイメージを伝えました。「積極的に自分から志願し、祖国のためににっこりと微笑んで出撃した」という、今も根強いイメージです。
『神風特別攻撃隊』では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。

初めて隊員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。


「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成である。かれらは若い。(中略)小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。(中略)これは若い血潮に燃えるかれらに、自然に湧きあがったはげしい決意だったのである」

ですが、生き残った浜崎勇一飛曹の証言によれば、23人の搭乗員達は、あまりの急な話に驚き、言葉も発せずに棒立ちになっていました。


「いいか、お前達は突っ込んでくれるか!」

玉井副官は叫びましたが、隊員達には戦闘機乗りとしてのプライドがありました。

反応が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、

「行くのか行かんのか!」と叫びました。その声に、反射的に総員が手を挙げたのです。

それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。

玉井副官は、その風景を見て「よし判った。志願をした以上、余計なことを考えるな」と答えました。全員が「自発的に志願」した瞬間でした(『敷島隊 死への五日間』根本順善 光人社NF文庫)。

それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、志願せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。

「志願、不志願は私のほかはだれにもわからない」ためにです。

けれど、やはり生き残った隊員は、そんな手順を踏まず、実際は、

「志願制を取るから、志願するものは一歩前へ」というものだったと証言しています。

中島だけに分かるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が一歩前に出たと言います。

当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせたと主張し続け、航空自衛隊に入り、第一航空団指令などの要職を経て、空将補まで上り詰めました。

■なぜ部下の内面に一歩も踏み込まないのか

『神風特別攻撃隊』は、徹底して特攻を「命令した側」の視点に立って描いています。特攻の志願者は後をたたず、全員が出撃を熱望するのです。

酒の席に招かれれば、「私はいつ出撃するのですか、はやくしてくれないと困ります」と迫られ、特攻隊員を指名する前には中島のズボンの腰を引っ張りながら「飛行長、ぜひ自分をやって下さい!」と叫ばれ、夜には自室に志願者が出撃させて欲しいと日参してくるのです。

隊員達の状態は次のように描写されています。


「出発すればけっして帰ってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、しばらくは本能的な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心とがからみあって、かなり動揺するようである。しかし時間の長短こそあれ、やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、常態にもどっていく。

こうなると何事にたいしてもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく底光りする眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。かれらのすることはなんとなく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」

死ぬことが前提の命令を出す指揮官が、「動揺するようである」という、どこか他人事と思われる推定の形で書くことに、僕は強烈な違和感を覚えます。

猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるのです。

どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀なリーダーなら、部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えます。

けれど、特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは見事なほどです。登場する隊員達は、全員、なんの苦悩も見せないのです。それは、今読み返してみると、異常に感じます。

隊員の内面に踏み込んだ描写をせず、関大尉の場合のように嘘を書く理由は、ひとつしか考えられません。

特攻隊の全員が志願なら、自分達上官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私を」と志願が殺到したのなら、上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、おめおめと生き延びていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」とか「最後の一機で私も特攻する」と演説していたのです。

大西瀧治郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/120.html

[番外地8] 南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube 中川隆
1. 中川隆[-11980] koaQ7Jey 2020年7月30日 10:17:21 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[8]
1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。
このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/118.html#c1

[番外地8] DNA鑑定しない限り皇位継承の正当性の議論は意味無いよ
DNA鑑定しない限り皇位継承の正当性の議論は意味無いよ:
明治天皇も昭和天皇も天皇家の血筋ではなかった
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)

大室寅之佑 (00:03:48)

明治天皇の秘密 (00:03:55)

大正天皇には、子種がない(00:18:39)

西園寺八郎 (00:19:26)

昭和天皇の秘密 (00:21:34)

昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)


_________

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁している理由 2

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/121.html

[番外地8] 年寄りは早く死ぬというだけで、若い人も死ぬ事に変わりはないです
年寄りは早く死ぬというだけで、若い人も死ぬ事に変わりはないです:

コロナウイルス肺炎に罹患すると、若い人でも完治せず予後5年で窒息死する
「新型コロナウイルス肺炎は間質性肺炎」岐阜大学 犬房春彦 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QIKeQ_JQlfc&feature=emb_title

▲△▽▼

新型コロナウイルスは

・突発性間質性肺炎、肺線維症となり一生後遺症(在宅人工呼吸器)
・精巣にダメージ、不妊化
・脳、神経への影響
・サイトカインストームによりショック・播種性血管内凝固症候群(DIC)・多臓器不全
「ほぼ全員に肺に後遺症が残る」という論文が世界中の医師から出ている

▲△▽▼

特発性間質性肺炎 
肺は肺胞というブドウの房状の小さな袋がたくさん集まってできています。間質性肺炎は、肺胞の壁に炎症や損傷が起こり、壁が厚く硬くなるため(線維化)、酸素を取り込みにくくなる病気です。間質性肺炎の原因は様々ですが、原因不明のものを特発性間質性肺炎(IIPs)と総称します。

【予後】
 IPFは一般的には徐々に肺の線維化が進行していく病気で、平均生存期間は欧米の報告では診断確定から28〜52ヶ月、わが国の報告では初診時から61〜69ヶ月とされていますが、病状の経過は患者さんによって様々です。特発性非特異性間質性肺炎や特発性器質化肺炎は一般に治療がよく効きますが、中には徐々に悪化していく場合もあります。
https://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=20

▲△▽▼

コロナ陰性後も続く“後遺症” 実態調査へ 日本呼吸器学会 2020年7月2日 17時35分

新型コロナウイルスに感染し陰性になって退院したあとも続く発熱や息苦しさなどの症状。こうした症状を訴える人が相次ぐ中、日本呼吸器学会は肺機能の低下を中心に陰性後も続くさまざまな症状について実態調査を進めることになりました。


新型コロナウイルスの感染者をめぐっては、陰性になって退院したあとも、数か月にわたって発熱やけん怠感が続いたり、呼吸機能や運動能力の低下で日常生活に支障が出たりする人が多くいることが国内外で明らかになっています。

また、新型コロナウイルス感染症は国の指定感染症になっているため、入院などでかかる医療費は全額、公費で負担されますが、陰性になり退院したあとの医療費の一部は自己負担となっていて、後遺症とみられる症状への理解や支援を求める声も相次いでいます。


新型コロナウイルス

感染したら、治っても肺が線維化し長くは生きられない事が判明
肺の繊維化は治療不可能、完治不可
感染した瞬間終わりな模様
キャバ&ホストで死人続出!!!
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/122.html

[番外地8] 中国侵略日本軍南京大虐殺犠牲者合葬墓地の電子マップが初公開
遺骨というか遺骸はすべて市内の何カ所かに埋葬されています。埋葬記録も残っています。
現在南京虐殺記念館が建っているのはそも埋葬地の一つの上で、窓から遺骸が見える様になっています。

中国侵略日本軍南京大虐殺犠牲者合葬墓地の電子マップが初公開
人民網日本語版 2019年12月12日
http://j.people.com.cn/n3/2019/1212/c94475-9640146.html

中国侵略日本軍が南京大虐殺の犠牲者を埋葬した場所の電子地図が、12月11日午前にリリースされた。この電子マップは、19ヶ所に及ぶ合葬墓地と記念場所の正確な位置を示した初めての地図となる。澎湃新聞が伝えた。


合葬墓地と記念場所19ヶ所の名称および住所(資料提供・南京市人民代表大会常務委員会)。

この「最も完全なバージョン」電子マップは、南京市人民代表大会常務委員会や市弁護士協会、地図ソフトウェア会社など多方面による協力によって完成したという。

11日から、高徳地図に合葬墓地の中国語である「叢葬地」を入力すれば、19ヶ所に及ぶ合葬墓地と記念場所の具体的な位置や開放時間などが表示される。

7日午後、南京市人民代表大会法制委員会の指導のもと、市弁護士協会と市法律援助基金会、南京大虐殺の歴史的真相を保護する弁護士大連盟が、「百名の弁護士が合葬墓地を再確認して犠牲者を弔う」活動を立ち上げ、フィールド調査を実施し、まだ地図に示されていない合葬墓地や記念場所を再確認した。

その後、各方面による努力を経て、地図ソフトウェア会社が位置表示や画像データのアップロードなどの作業を完成させた。こうして史上「最も完全なバージョン」と言われる犠牲者合葬墓地電子マップが正式に公開された。

南京市人民代表大会常務委員会の竜翔主任は、「これは、合葬墓地の位置に関するナビゲーションマップであり、さらに、南京における死や民族の痛みを示す歴史地図でもあり、82年前に民族に降りかかった災難について思いを巡らし、その歴史をさらにしっかりと心に刻み、平和を大事にするよう、人々をナビゲートする役割をも担っている」と指摘した。(編集KM)



http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/123.html

[番外地8] 南京大虐殺後の遺体の埋葬資料はちゃんと残っているよ
南京大虐殺後の遺体の埋葬資料はちゃんと残っているよ:
紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約六百名)は一月上旬来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙けつつあり
(『華中宣撫工作資料』p153より。片仮名は平仮名に修正)


紅卍字会の4月4日付の南京自治委員会に向けた書簡では、現在までに3万数千体を埋葬しなお続行中(『南京事件資料集 2』p273)とある。これは3月末までの累計が3万8780体になる埋葬記録と一致する。
また8月下旬に督弁南京市政公署社会処(南京市自治委員会の後身)に提出した書類では4万と少しの遺体を埋葬となっており、やはり埋葬記録(7月末までに4万2997体)と一致する。
つまり3月15日以降も埋葬活動が続けられていたことは事実であり、その数字の正確さも当時の資料で裏づけられているのである。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/124.html

[番外地8] 日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少

具体的な証拠は冒頭に書いた
南京事件資料集
http://kk-nanking.main.jp/

に出ているよ。 それから、南京事件前後の日本軍の人口調査では

日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少 2014年01月08日
吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。

同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集N
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/125.html

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
585. 中川隆[-11979] koaQ7Jey 2020年7月30日 17:38:33 : TAWjj7Db7o : OWNZZFdRNEdWZm8=[2]

2020年07月30日
過疎地のガソリンスタンド3割が今後閉鎖 全国の給油所は既に半減

今の日本はゴールの無い競争に疲れている


GS難民は日本政府の失策が原因

経済産業省は今後、過疎地のガソリンスタンドの3割が事業継続困難になり、閉鎖されるという予想を公表しています。

1994年に6万軒あったGSは現在2万8000軒程度になっていると考えられる(2018年末で3万軒)

減少(閉店)がもっとも多かったのは平成10年から20年で、リーマンショックの2008年は年間2000軒減少した。

最近は年間数百軒減少になったが、今も毎年2パーセント以上GSは減り続けています。

事業が継続困難な理由として、販売量の減少、従業員の確保、施設の老朽化が多かった。

2013年までに老朽化した地下タンクを改修しなければならないという国の政策によって、この頃閉店ラッシュがありました。


地下タンク改修には小規模施設でも500万円から1000万円が掛かるので、個人で営業する事業所は費用を捻出できなかった。


そこへ2012年の温暖化対策税や、2014年の消費増税が追い討ちを掛け、要するに政府の失策によって過疎地では営業が不可能になった。

ガソリンなど燃料の年間消費量は2001年に1億キロリットルを超えピークだったが、近年は年間1%ずつ減少しているといわれている。


政府がコスト増に繋がる政策を連発した結果、ガソリンスタンドは燃料販売では儲からなくなり、洗車や用品販売をメインにするようになった。

人件費を減らすためにセルフスタンドに改装した事業所も目立つが、これらは大手のチェーン店でしかできない。


セルフスタンドでも従業員は常に居なくてはならないので、1時間に数人しか来店がない事業所では、セルフにしても人件費は減らない。

廃止したものを再生するには何倍もの費用が必要

また田舎の小さな事業所では魅力的なグッズ類やサービスを揃える事もできないので、燃料販売以外の収益確保が難しい。

大手のセルフスタンドは24時間営業をやっているが、これも大手のチェーン店にしかできないでしょう。

そして大手のチェーン店は交通量が多い場所にしか出店しないので、ますます過疎地の給油所は減少します。


自動車の走行距離も減少し、特に若い男性の年間走行距離は20年前の半分にまで短くなっています。

ガソリンの年間消費量はピーク時の10%ほどしか減少していないのだが、ガソリンスタンドが半分に減ったのは、燃料販売の利益率が減少したからでした。

以前は1Lあたり10円以上の利益があり、ガソリンを売れば家が建つほど儲かったとされています。


現在は1Lあたり1円から2円なので乗用車1台給油して50円から100円という事になります。

個人のガソリンスタンドで1日100台給油してやっと5000円から1万円という事であり、自分の給料も出ないでしょう。

この事態を招いてしまったのが小泉総理の小泉改革で、なんでも競争原理を導入し社会の効率を高めようとしました。

その結果効率が高い大手チェーン店が市場を独占し、効率が悪い過疎地の給油所は軒並み破産してしまいました。

では過疎地の住民はどうするべきかなのだが、給油所が近くにないとガソリンだけでなく、冬場の灯油も買えなくなるでしょう。

農業機械や作業機械も燃料を消費するので、過疎地ではますます事業を継続しにくくなります。


燃料を消費しない電気自動車は今後徐々に普及するが、価格はガソリン自動車の2倍であり、とても70万円の軽トラックは作れません。

国は遅まきながら過疎地対策を検討しているが、一度なくなったものを再生するには、何倍もの費用と時間が掛かるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/71124105.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c585

[番外地8] 南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube 中川隆
2. 中川隆[-11978] koaQ7Jey 2020年7月30日 18:11:54 : TAWjj7Db7o : OWNZZFdRNEdWZm8=[3]
南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube
貴重資料『南京事件U』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yrLPTGCXPr0

南京事件資料集
http://kk-nanking.main.jp/

南京事件(南京大虐殺)の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

▲△▽▼

1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。

このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。

本多勝一 中国の旅 (朝日文庫) が朝日新聞に連載された時の読者の批判は

今更そんな昔の事を掘り起こさないで欲しい
戦争というのはああいうものなんだ
みんな覚醒剤を飲んで異常な精神状態でやった事で、仕方なかったんだ
古傷をタワシでゴシゴシ擦る様な事を書くのは止めて欲しい

というのが大半だった。

連載当時はまだ実際に南京で戦った日本兵が沢山生存していたのですね。
本多勝一 中国の旅 が嘘だと反論する元日本兵は一人も居ませんでした

http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/118.html#c2

[番外地8] 軽症者も苦しむ新型コロナの後遺症
軽症者も苦しむ新型コロナの後遺症 2020/07/24
https://www.msn.com/ja-jp/health/healthy-lifestyle/%e8%bb%bd%e7%97%87%e8%80%85%e3%82%82%e8%8b%a6%e3%81%97%e3%82%80%e6%96%b0%e5%9e%8b%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%8a%e3%81%ae%e5%be%8c%e9%81%ba%e7%97%87/ar-BB17737X?ocid=ientp


水俣病や福島原発の時に政府や専門家が情報隠蔽したのと同じで、パニックが起きると困るから本当の事を言えないだけだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/126.html

[番外地8] 日本軍が入場した時はヤラセ映画を撮って、その隣で強姦していた
日本軍が入場した時はヤラセ映画を撮って、その隣で強姦していたんだよ:
日本軍が撮った南京入場の映画は有名なヤラセ映画
日本側のパフォーマンス撮影については、1月9日のマッカラムの日記にも指摘がある。  
難民キャンプの入口に新聞記者が数人やってきて、ケーキ、りんごを配り、
わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、
かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、
こちらの写真は一枚も撮らなかった。

(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p266) また、この映画を元に虐殺はなかったとする者もいるが、この映画の撮影者は何を見たのか。

【白井茂 証言】虐殺の現場は二度見た。一度はサクがあったように思う。はるか離れているところで、銃殺していた。数は憶えていない。揚子江でない川のところで、機関銃で撃っているところも見た。私なら抵抗すると思ったが、彼等は従順に死を待っていたようだ。川にとび込んで、向うに泳ぎついた者もいた。二百人ぐらいいたと思う。場所は憶えていない。

【藤井慎一 証言】
小さな川の傍の門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た。白井氏と一緒だった。いくつかの死体に石油をまき、火をつけた。中に生きている兵隊がいて“早く射て”と胸を指さし、“蒋介石万歳”といったので、大変驚いたのを憶えている。それ以外にも、銀行の裏で百人以上が殺されているのを見た。胸のあたりを銃剣で突いていたように思う。虐殺の噂はきいたように思うが、見たのはこの時だけである。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/127.html

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 竹下登

売国政治家列伝 _ 竹下登


2020年07月31日
デスノートをつけて総理になる日を待った竹下登 総理の座の闘争とは

支えるふりをしながら、自分が上に上がる事しか考えていないのが国会議員


総理の座をめぐる闘争

安部首相はコロナ対応のまずさで支持率を大きく下げ、解散総選挙や退陣は確実と先読みする人も居る。

安倍首相の再選はなくなり遅くとも任期満了で総裁選が行われ、閣僚の中にも喜んでいる人が大勢居る。

安部首相が退陣すれば自分が総理大臣に成れると思っている人が何人か居て、安倍政権で干された議員は新政権で閣僚入りを狙っている。


その筆頭は石破の乱で安倍首相と対立した石破茂で、喜びを隠しきれないという顔で、テレビでは懸命に怒っているふりをしている。

国民の政治不信とか、自民党の建て直しとか色々言うが、ズバリ安倍首相は退陣して自分と交代するべきだと言いたいのです。

喜んでいる2番目は副総理の麻生太郎財務大臣で、2015年の安保法制で安倍首相の支持率が下がったときも、不穏な動きを見せた。


麻生太郎は麻生派や山東派を統一して「志公会」を結成し、安倍首相の細田派95人に次ぐ59人の勢力になった。

自民党総裁選挙は数の勝負なので最大派閥が有利であり、最大派閥の安倍派(細田派)が候補を出せなければ麻生総理の目が出てくる。

官房長官の菅義偉も総理の座を狙っているが、党内に強力な派閥の後ろ盾がない。


水面下では「菅派」を結成するべく勉強会を立ち上げているが、波風を立てずに静かに総理の座に近づこうとしている。

次の総理になりたい人達

二階俊博幹事長は安倍政権を支えているが信条としては安倍や麻生と対立する左派で、二階派(志帥会)41人を率いている。

人数としては第3グループだが自民党左派では最大であり、政治の流れが変われば一気に二階総理が誕生する可能性がある。


自民党総裁(総理)は2000年の森総理からずっと保守(右派)が続いているが、その前はずっと左派政治家だった。


自民党左派は17年間も冷や飯を食わされているわけで、二階総理の目があるなら団結するかも知れない。

総理の座を狙うもう一人の左派大物は岸田文雄外務大臣で、安倍首相は岸田総理へ禅譲したがっていると言われている。

岸田文雄は宏池会会長で、池田勇人が旗揚げした自民党最古の派閥の会長です。


池田隼人から鈴木善幸までは保守政治家だったが、最近の会長は宮澤喜一、加藤紘一、古賀誠という左派議員が就任している。

これら次期総裁を狙う議員に従う議員達も、安倍政権が崩壊したら自分が「上」に上がれると考えている。

自民党が衰退すると小沢一郎や鳩山由紀夫のように、反自民政党を作って自らが総理になろうという人間も現われる。

竹下登のデスノート

こうした政治家達の「総理に成りたい」という思いがいかに強いかを物語るエピソードが、竹下登のデスノートです。

竹下登は1987年11月から1年半総理を務めたが、そんな事より消費税を導入して『日本経済を破壊した犯人』として名高い。


竹下登さえ総理にならなければバブル崩壊は起きなかったかも知れず、日本は今でも好景気を謳歌していた可能性がある。


そして昭和の最後の総理大臣でもあり、まさに日本の繁栄が終わった時代の区切りに登場した。

竹下は1951年に27歳で初当選したが、1987年に総理になるまで自分が当選順位の何番目かをノートにつけていました。

昭和の時代には当選回数の多い順に総理大臣になるのが当たり前であり、順番を跳び越すのは謀反であり犯罪と同じでした。


自分が当選順位の何番目かは逆に言えば「あと何人しねば自分が総理になれるか」の順番でもあったのです。

ノートには赤と青の線が引かれていて、赤い線は「重病でもうすぐしにそうな議員」、青い線は「病気だがまだ生きそうな議員」でした。

竹下は低姿勢で有名で、自分より上の議員にはぺこぺこしながらも、「この人はあと何年生きるかな」と値踏みしていました。


竹下は特殊ではなく、国会議員とはみんなこんなもので、上の人間が失脚したり亡くなったりするのは「嬉しい」のです。

こうした人達が権力闘争を繰り広げて総理や首相が決まっていくので、選挙のキャッチフレーズのように美しい世界ではありません。

http://www.thutmosev.com/archives/71708608.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/982.html

[番外地8] 縄文人にはユダヤ人の遺伝子もアメリカ・インディアンの遺伝子も含まれていないよ
また嘘八百言ってる
縄文人にはユダヤ人の遺伝子もアメリカ・インディアンの遺伝子も含まれていないよ:
アメリカ先住民の Y 染色体ハプログループのほとんどはQ系統が占める。

Q はイラン付近で17000-22000年前または31,400年前に発生したと考えられ、その後中央アジア、アルタイ山脈北辺を通り、北シベリアのステップでマンモスなど大型哺乳類を狩りながら移動し、アメリカ大陸に移住していったと思われる。

Q のホームランドに近いアフガニスタンのパシュトゥーン人では Q*が16%観察され、中央シベリアのケット人でQ系統が90%以上を占めるなど、道中に足跡を残してはいるが、ユーラシア大陸では総じて低頻度である。

しかしアメリカ大陸(先住民)において大いに繁栄している。
アメリカ先住民にはその他 C2,R1 なども見られるが、Q系統が圧倒的である。

高頻度地域
アメリカ大陸

南アメリカの先住民:91%
北アメリカの先住民:77.2%

ユーラシア大陸
ケット人:93.7%
セリクプ人:66.4%
トゥバ人:38%
ユカギール人:31%

中国北部の約3000年前の周時代の人骨から59%の高頻度で発見されている。

日本人には1%以下のごく低頻度で観察されている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/128.html

[番外地8] 縄文人にはユダヤ人の遺伝子もアメリカ・インディアンの遺伝子も含まれていないよ 中川隆
1. 中川隆[-11977] koaQ7Jey 2020年7月31日 10:17:13 : 62pRJVql4w : SzFIdnZMRFRnNzY=[1]
また嘘八百言ってる
縄文人にはユダヤ人の遺伝子もアメリカ・インディアンの遺伝子も含まれていないよ:
アメリカ先住民の Y 染色体ハプログループのほとんどはQ系統が占める。

Q はイラン付近で17000-22000年前または31,400年前に発生したと考えられ、その後中央アジア、アルタイ山脈北辺を通り、北シベリアのステップでマンモスなど大型哺乳類を狩りながら移動し、アメリカ大陸に移住していったと思われる。

Q のホームランドに近いアフガニスタンのパシュトゥーン人では Q*が16%観察され、中央シベリアのケット人でQ系統が90%以上を占めるなど、道中に足跡を残してはいるが、ユーラシア大陸では総じて低頻度である。

しかしアメリカ大陸(先住民)において大いに繁栄している。
アメリカ先住民にはその他 C2,R1 なども見られるが、Q系統が圧倒的である。

高頻度地域
アメリカ大陸

南アメリカの先住民:91%
北アメリカの先住民:77.2%

ユーラシア大陸
ケット人:93.7%
セリクプ人:66.4%
トゥバ人:38%
ユカギール人:31%

中国北部の約3000年前の周時代の人骨から59%の高頻度で発見されている。

日本人には1%以下のごく低頻度で観察されている。
___

日本人Y-DNAハプログループ比率
D1a2--32%(旧表記D1b)
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%(旧表記C3)
C1a1----5%

_________

Sephardi Cohen(アシュケナージ以外の中東系ユダヤ人,本家ユダヤ人)Y-DNAハプログループ比率

J 75.4%
E1b1b 4.4%
R1b1 8.7%
R1a1a 5.8%
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/128.html#c1

[番外地8] 縄文人にはユダヤ人の遺伝子もアメリカ・インディアンの遺伝子も含まれていないよ 中川隆
2. 中川隆[-11976] koaQ7Jey 2020年7月31日 10:20:51 : 62pRJVql4w : SzFIdnZMRFRnNzY=[2]
また嘘八百言ってる
縄文人にはユダヤ人の遺伝子もアメリカ・インディアンの遺伝子も含まれていないよ:
アメリカ先住民の Y 染色体ハプログループのほとんどはQ系統が占める。

Q はイラン付近で17000-22000年前または31,400年前に発生したと考えられ、その後中央アジア、アルタイ山脈北辺を通り、北シベリアのステップでマンモスなど大型哺乳類を狩りながら移動し、アメリカ大陸に移住していったと思われる。

Q のホームランドに近いアフガニスタンのパシュトゥーン人では Q*が16%観察され、中央シベリアのケット人でQ系統が90%以上を占めるなど、道中に足跡を残してはいるが、ユーラシア大陸では総じて低頻度である。

しかしアメリカ大陸(先住民)において大いに繁栄している。
アメリカ先住民にはその他 C2,R1 なども見られるが、Q系統が圧倒的である。

高頻度地域
アメリカ大陸

南アメリカの先住民:91%
北アメリカの先住民:77.2%

ユーラシア大陸
ケット人:93.7%
セリクプ人:66.4%
トゥバ人:38%
ユカギール人:31%

中国北部の約3000年前の周時代の人骨から59%の高頻度で発見されている。

日本人には1%以下のごく低頻度で観察されている。
___

日本人Y-DNAハプログループ比率
D1a2--32%(旧表記D1b)
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%(旧表記C3)
C1a1----5%

_________

Sephardi Cohen(中東系 本家ユダヤ人)Y-DNAハプログループ比率
J 75.4%
E1b1b 4.4%
R1b1 8.7%
R1a1a 5.8%
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/128.html#c2

[番外地8] グローバリストは反共だよ、トランプと安倍晋三は典型的なグローバリストで国際金融資本のエージェントだしね
グローバリストは反共だよ、トランプと安倍晋三は典型的なグローバリストで国際金融資本のエージェントだしね:
第2次世界大戦でナチスが支配するドイツと西ヨーロッパで戦っていたレジスタンスはコミュニストが主力。そのレジスタンス対策としてアメリカとイギリスの情報機関はジェドバラというゲリラ戦用の組織を編成した。


 しかし、レジスタンスの活動が活発だったフランスやイタリアではコミュニストを支持する人が多く、そのコミュニストの影響力を弱めることはイギリスやアメリカの支配者にとって急を要した。

 ジェドバラの人脈は戦後も生き続け、アメリカ国内では軍の特殊部隊やCIAの秘密工作部門で核になる。西ヨーロッパではNATO参加国の内部で秘密部隊を作り、そのネットワークはCCWU(西側連合秘密委員会)、後にCPC(秘密計画委員会)が指揮する。その下部組織として1957年に設置されたのがACC(連合軍秘密委員会)。その下にNATOの秘密ネットワークが存在している。


 秘密部隊としてはイタリアのグラディオが有名だが、フランスで1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)もその人脈に属していた。こうした人脈が存在することは1947年6月にフランスの内務大臣だったエドアル・ドプが指摘している。


 OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、クーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画だ。


 CIAに支援を受け、4月22日にクーデターは実行に移されるのだが、大統領になったばかりのジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)


 その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任し、そのグループの暴力装置だった第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。


 OASは1962年に休戦を宣言するが、それに納得しないジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みるが、失敗。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン=チリー大佐だけだ。


 この暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリを追い出している。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのはソ連消滅から4年後の1995年。NATOへの完全復帰は2009年だ。


 アメリカは唯一の超大国で刃向かうことはできないとその頃までは考えられていたのだが、ウラジミル・プーチンが大統領になってからロシアが曲がりなりにも自立に成功、状況は変化した。そこでネオコンなどアメリカ支配層の一部はロシア潰しに躍起なのだが、成功しているとは思えない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/129.html

[番外地8] グローバリストは反共だよ、トランプと安倍晋三は典型的なグローバリストで国際金融資本のエージェントだしね 中川隆
1. 中川隆[-11975] koaQ7Jey 2020年7月31日 11:11:40 : 62pRJVql4w : SzFIdnZMRFRnNzY=[3]
馬渕先生は何でも半可通なんだなあ
そもそもグローバリストは反共だよ、中国共産党はマルクス主義ではなく古来の儒教的皇帝支配体制、
トランプと安倍晋三は典型的なグローバリストで国際金融資本のエージェントだしね:
第2次世界大戦でナチスが支配するドイツと西ヨーロッパで戦っていたレジスタンスはコミュニストが主力。そのレジスタンス対策としてアメリカとイギリスの情報機関はジェドバラというゲリラ戦用の組織を編成した。


 しかし、レジスタンスの活動が活発だったフランスやイタリアではコミュニストを支持する人が多く、そのコミュニストの影響力を弱めることはイギリスやアメリカの支配者にとって急を要した。

 ジェドバラの人脈は戦後も生き続け、アメリカ国内では軍の特殊部隊やCIAの秘密工作部門で核になる。西ヨーロッパではNATO参加国の内部で秘密部隊を作り、そのネットワークはCCWU(西側連合秘密委員会)、後にCPC(秘密計画委員会)が指揮する。その下部組織として1957年に設置されたのがACC(連合軍秘密委員会)。その下にNATOの秘密ネットワークが存在している。


 秘密部隊としてはイタリアのグラディオが有名だが、フランスで1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)もその人脈に属していた。こうした人脈が存在することは1947年6月にフランスの内務大臣だったエドアル・ドプが指摘している。


 OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、クーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画だ。


 CIAに支援を受け、4月22日にクーデターは実行に移されるのだが、大統領になったばかりのジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)


 その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任し、そのグループの暴力装置だった第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。


 OASは1962年に休戦を宣言するが、それに納得しないジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みるが、失敗。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン=チリー大佐だけだ。


 この暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリを追い出している。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのはソ連消滅から4年後の1995年。NATOへの完全復帰は2009年だ。


 アメリカは唯一の超大国で刃向かうことはできないとその頃までは考えられていたのだが、ウラジミル・プーチンが大統領になってからロシアが曲がりなりにも自立に成功、状況は変化した。そこでネオコンなどアメリカ支配層の一部はロシア潰しに躍起なのだが、成功しているとは思えない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/129.html#c1

[リバイバル3] ガソリンスタンドの押し売りが悪質化 中川隆
1. 中川隆[-11974] koaQ7Jey 2020年7月31日 11:41:38 : 62pRJVql4w : SzFIdnZMRFRnNzY=[4]

2020年07月30日
過疎地のガソリンスタンド3割が今後閉鎖 全国の給油所は既に半減

今の日本はゴールの無い競争に疲れている


GS難民は日本政府の失策が原因

経済産業省は今後、過疎地のガソリンスタンドの3割が事業継続困難になり、閉鎖されるという予想を公表しています。

1994年に6万軒あったGSは現在2万8000軒程度になっていると考えられる(2018年末で3万軒)

減少(閉店)がもっとも多かったのは平成10年から20年で、リーマンショックの2008年は年間2000軒減少した。


最近は年間数百軒減少になったが、今も毎年2パーセント以上GSは減り続けています。

事業が継続困難な理由として、販売量の減少、従業員の確保、施設の老朽化が多かった。

2013年までに老朽化した地下タンクを改修しなければならないという国の政策によって、この頃閉店ラッシュがありました。


地下タンク改修には小規模施設でも500万円から1000万円が掛かるので、個人で営業する事業所は費用を捻出できなかった。


そこへ2012年の温暖化対策税や、2014年の消費増税が追い討ちを掛け、要するに政府の失策によって過疎地では営業が不可能になった。

ガソリンなど燃料の年間消費量は2001年に1億キロリットルを超えピークだったが、近年は年間1%ずつ減少しているといわれている。


政府がコスト増に繋がる政策を連発した結果、ガソリンスタンドは燃料販売では儲からなくなり、洗車や用品販売をメインにするようになった。

人件費を減らすためにセルフスタンドに改装した事業所も目立つが、これらは大手のチェーン店でしかできない。


セルフスタンドでも従業員は常に居なくてはならないので、1時間に数人しか来店がない事業所では、セルフにしても人件費は減らない。

廃止したものを再生するには何倍もの費用が必要

また田舎の小さな事業所では魅力的なグッズ類やサービスを揃える事もできないので、燃料販売以外の収益確保が難しい。

大手のセルフスタンドは24時間営業をやっているが、これも大手のチェーン店にしかできないでしょう。

そして大手のチェーン店は交通量が多い場所にしか出店しないので、ますます過疎地の給油所は減少します。


自動車の走行距離も減少し、特に若い男性の年間走行距離は20年前の半分にまで短くなっています。

ガソリンの年間消費量はピーク時の10%ほどしか減少していないのだが、ガソリンスタンドが半分に減ったのは、燃料販売の利益率が減少したからでした。

以前は1Lあたり10円以上の利益があり、ガソリンを売れば家が建つほど儲かったとされています。


現在は1Lあたり1円から2円なので乗用車1台給油して50円から100円という事になります。

個人のガソリンスタンドで1日100台給油してやっと5000円から1万円という事であり、自分の給料も出ないでしょう。

この事態を招いてしまったのが小泉総理の小泉改革で、なんでも競争原理を導入し社会の効率を高めようとしました。

その結果効率が高い大手チェーン店が市場を独占し、効率が悪い過疎地の給油所は軒並み破産してしまいました。

では過疎地の住民はどうするべきかなのだが、給油所が近くにないとガソリンだけでなく、冬場の灯油も買えなくなるでしょう。

農業機械や作業機械も燃料を消費するので、過疎地ではますます事業を継続しにくくなります。


燃料を消費しない電気自動車は今後徐々に普及するが、価格はガソリン自動車の2倍であり、とても70万円の軽トラックは作れません。

国は遅まきながら過疎地対策を検討しているが、一度なくなったものを再生するには、何倍もの費用と時間が掛かるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/71124105.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/745.html#c1

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・藤原紀香 危険な関係 (フジテレビ 1999)


昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・藤原紀香 危険な関係 (フジテレビ 1999)


制作 フジテレビ
放送期間 1999年10月14日 - 12月23日


ドラマ・・・危険な関係 01 1999 VHSビデオ




脚本:井上由美子


音楽:吉俣良、神津裕之
(エンドロールでのクレジットは、オリジナル・サウンドトラック 危険な関係)


主題歌:井手麻理子「THERE MUST BE AN ANGEL(PLEASE WITH MY HEART)」 
※ユーリズミックスの全英1位になった曲のカヴァー。


演出:中江功、木村達昭、水田成英


『危険な関係』は、1999年10月14日から12月23日まで毎週木曜日22:00 - 22:54に、フジテレビ系の「木曜劇場」枠で放送された日本のテレビドラマ。主演は豊川悦司。



あらすじ


タクシー運転手の魚住新児(豊川悦司)は、ある日、19年ぶりに日本に帰国した高校時代の同級生・都築雄一郎(石黒賢)を成田空港で偶然客として乗車させることになる。高校時代は優等生だった新児に対し、劣等生だった雄一郎は、大手スーパー「都屋」の御曹司となっており、現在の新児の境遇を見下し嘲笑する。その別れ際、目に余る雄一郎の態度に対し、新児はタクシーで雄一郎を轢き川に捨て、衝動的に殺害してしまう。


後日、雄一郎の宿泊先ホテルで社長秘書の若林ちひろ(篠原涼子)から雄一郎本人と誤解されたことを契機に、新児は、ある自らの問いに答えを出すため、「都屋社長・都築雄一郎」に成りすますことを決意する。その頃、刑事の速水有季子(藤原紀香)は、異物混入ワイン販売による都屋の食品偽装事件を追っていた。


キャスト


魚住 新児〈36〉 - 豊川悦司
タクシードライバー。偶然再会した旧友・雄一郎から許しがたい屈辱を受け、衝動的に殺害する。その後、都築雄一郎に成りすまし生きることになる。


速水 有季子〈28〉 - 藤原紀香
男社会である警察に馴染めないでいる刑事。奔放な捜査に出るようになる。


河瀬 鷹男〈27〉 - 稲垣吾郎(SMAP)
有季子の友人であり、捜査協力もするフリーライター。


若林 ちひろ〈24〉 - 篠原涼子
都屋の社長秘書。19年ぶりの帰国のため顔がわからず、新児を雄一郎と間違える。雄一郎(新児)の秘書を務める。


都築 雄一郎〈36〉 - 石黒賢
都屋の後継者。父・勇三の遺産とスーパー相続のために香港から帰国。新児に殺害されるが…。


都築 綾子〈40〉 - 余貴美子
勇三の後妻。前妻との子・雄一郎が後継者となり疎ましい。
迫田 仁美〈34〉 - 床嶋佳子


新児の元妻。看護士。


宮部 暁〈14〉 - 山下智久
桜庭 恭子〈23〉 - 菊川怜
野々村 正一〈45〉 - モロ師岡
蟹江 欣也〈47〉 - 田窪一世
藤城 夏恵〈21〉 - 菅原禄弥
結城 敏則 - 小原雅人
大沢刑事〈44〉 - 中丸新将
梅本管理官〈44〉 - 小木茂光
栗原常務〈50〉 - 山田明郷


各話 放送日 サブタイトル 演出 視聴率
第1話 1999年10月14日 運命の出会い 中江功 15.5%
第2話 1999年10月21日 華麗なる嘘と誘惑 17.7%
第3話 1999年10月28日 栄光と転落の足音 木村達昭 14.1%
第4話 1999年11月4日 名前のないあなた 水田成英 13.8%
第5話 1999年11月11日 あなたはニセ者! 中江功 16.6%
第6話 1999年11月18日 違う!別人の写真 木村達昭 13.6%
第7話 1999年11月25日 みんなに全部ばらしてやる! 中江功 12.7%
第8話 1999年12月2日 同級生?しかも同一人物だ! 水田成英 14.3%
第9話 1999年12月9日 死んでなかった! 木村達昭 12.9%
第10話 1999年12月16日 危険すぎる恋 中江功 13.6%
最終話 1999年12月23日 さらば愛する人よ 12.4%


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E3%81%AA%E9%96%A2%E4%BF%82_(1999%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/994.html

[番外地8] 正論・チャンネル桜関係者の悪質な嘘 徴用工の強制連行は無かった、待遇も良かった
端島はどうでもいいんだ、xx人もどうでもいい、嘘が良くないと言ってるだけだよ:
正論・チャンネル桜関係者の悪質な嘘 徴用工の強制連行は無かった、待遇も良かった
西岡力氏は、
@終戦時の在日XX人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていたこと、
A植民地時代のxxで人口が増加したことや、
Bxxからの不法渡航者が強制送還されていたこと

などを根拠に「強制連行」を否定していますが、この主張には問題があります。まず、

@「終戦時の在日xx人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていた」ですが、これは明らかにオカシナ主張です。というのも「在日xx人の全てが徴用工として来たわけないこと」は当然の前提です。そして、西岡氏自らが、終戦時の日本内地xx人人口うち二割が動員現場(徴用先)にいたことを統計的に指摘しています。

つまり、その二割の人々が今回の徴用工問題の焦点となっているのであり、その他の八割が焦点になっているわけではないのです。このオカシナ主張は、従軍慰安婦問題を論じるときに、「自らの意志で売春婦になった」論にも共通するものです。そして、

A「植民地時代のxxで人口が増加した」、B「xxからの不法渡航者が強制送還されていた」

の問題も同様に、徴用された方々の人権とは全く無関係の話です。いくらそうだったからと言って、徴用された人がいるという事実には全く関係のないことです。こういうのを議論のすり替えというのです。日本なxx半島に投資していたから、日本に侵略意思は無かった論とよく似ています。まとめこのように西岡氏の徴用工問題否定論は、従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。

1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)

3「在日xx人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)

というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。
(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/130.html

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
211. 中川隆[-11973] koaQ7Jey 2020年7月31日 15:10:24 : 62pRJVql4w : SzFIdnZMRFRnNzY=[6]
アフリカ人男性をサル舎で見せ物に NYの動物園、114年後に謝罪
2020.07.31
https://www.cnn.co.jp/usa/35157548.html

114年前、アフリカ人男性をサル舎で見せ物にしたニューヨークの動物園が謝罪した/Library of Congress


(CNN) 米ニューヨーク市のブロンクス動物園を運営する団体が、1906年の1週間にわたり、中央アフリカ出身の男性を同動物園のサル舎のおりの中に閉じ込めて見せ物にしていたとして、公式に謝罪した。

中央アフリカ出身のオタ・ベンガさんは1906年、ブロンクス動物園で1匹のオランウータンと一緒に鉄製のおりに閉じ込められ、何百人もの見物客の目にさらされた。

同動物園の運営団体WCSは29日、114年前のこの出来事について公式に謝罪する声明を発表し、「あからさまで体系的な人種差別は今も続いている。我々はそれに立ち向かうため、より大きな役割を果たさなければならない」と強調した。

発表によると、ベンガさんは現在のコンゴ民主共和国の出身で、1906年9月8日の週に、ブロンクス動物園のサル舎で見せ物にされていた。地元の黒人有力者からの抗議を受けて解放されたという。

ベンガさんの生涯についての著書があるパメラ・ニューカークさんによると、ベンガさんは同動物園で非人道的な境遇に置かれ、オランウータンと一緒におりの中に閉じ込められた状態で、一度に何百人もの目にさらされたこともあったという。

しかし1週間後には抵抗を始め、見物人を脅かすようになったことから解放された。

WCSによると、解放後はニューヨーク市のブルックリンで牧師が運営する施設に引き取られた。しかし故郷に帰ることはできないまま、10年後に自殺した。

WCSはさらに、同団体の創業者2人についても、「優生思想に基づく疑似科学的な人種差別や著作および哲学」を説いたとして非難した。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c211

[番外地8] 言っていたのは、下級国民は働けなくなったらすぐに殺せ という事だよ

延命治療とかいうのは言い訳だよ
言っていたのは、下級国民は働けなくなったらすぐに殺せ という事だよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/131.html
[番外地8] 旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
建前と実際は違うよ。待遇も日本人とは全然違う、逃げると警察に捕まって凄惨なリンチで殺される:
旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。

 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人やchousen人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。

 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」

 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」

 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。

 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。

この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 

これが遊水池です。今でも水が満々としています。

旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24

 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー

 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。

 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」

 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。

 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」

 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」

 そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」

 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。

 「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。

 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。

 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。

 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。

 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。

 そこでは、強制連行されてきたchousen人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/132.html

[番外地8] 日本政府は英米の傀儡政権
>西洋文明に匹敵する/それ以上の産業機構を「日本人・韓国人が共に作り上げた」

そもそも日本政府は英米の傀儡政権ですからね:
徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。

 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。

 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/133.html

[番外地8] 日本政府は英米の傀儡政権 中川隆
1. 中川隆[-11972] koaQ7Jey 2020年7月31日 17:32:41 : 62pRJVql4w : SzFIdnZMRFRnNzY=[8]

>西洋文明に匹敵する/それ以上の産業機構を「日本人・韓国人が共に作り上げた」

そもそも日本政府は英米の傀儡政権ですからね:
徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。

 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。

イギリスは19世紀から中国(清)を食い物にしようとしてきた。そして実行されたのが1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。

 アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したものの、内陸部を支配する戦力がない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だった。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。

 要するに、イギリスは戦力が圧倒的に不足している。そこで目をつけられたのが日本だ。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面があるのだ。明治維新によって安藤昌益を生んだ徳川時代は終わり、大陸を侵略する天皇制の明治時代が始まる。

 イギリスがアヘン戦争を仕掛けたのは資本主義が破綻したからにほかならない。資本主義は富を循環させるのではなく集中させる。必然的に貧富の差が拡大し、経済は持続できない。そこで国外で略奪するしかないのだ。世界市場の形成、原料の入手と言えば聞こえは良いが、押し売りと略奪だ。押し売りの商品の中には麻薬も含まれている。

 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。

 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。

 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。

 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/133.html#c1

[番外地8] 警官は逃亡した徴用工を逮捕して職場に返すだけだよ
​ @わん太
>リンチ殺人なんかしてないから、日本の警官は。それだけは言っとく。

警官は逃亡した徴用工を逮捕して職場に返すだけだよ。
職場の上司が見せしめでみんなの前でリンチして殺すんだよ:

 タコ部屋労働に使われた外国人は、朝鮮人を中心に、中国人や連合国捕虜も含まれている。日韓併合によって「日本国民」にされた朝鮮人の場合には、朱鞠内歴史保存委員会のパンフレットによると、昭和14年09月に「募集」、昭和17年02月には「官斡旋」という名目で強制連行され、更に昭和19年09月には「国民徴用令」を朝鮮半島に適用して強制連行が行われたらしい。

 いずれにしても、タコとされた労働者は、粗末な食事で長時間労働をさせられて、過酷な労働に耐え切れずに逃亡を図ったり、不満を言った者には、管理者である世話役や棒頭から激しい暴行を加えられた。

 このような光景を目撃した地元住民も多く、警察は事実を知っていても表沙汰にする事はほとんどなかった。そればかりか、警察が逃亡したタコを追跡する事例があったらしい。

 暴行を目撃したり苛酷な労働を目撃した地元住民にとっては、この世の光景でなかっただろう。中にはこのような事実を話したくない方も非常に多いに違いないが、このような事は、今後絶対にあってはならないのだから、後世に語り継ぐ必要がある。

逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人ついていたそうで、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめとして派手に暴行を加えられて、大怪我を負って働けない状態になっても翌日には現場に連れて行かれたそうだ。

 そればかりか、逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例がいくつかあり、実際に、証言者は首だけ残して埋められたタコを足蹴にしたという。

 囚人労働でとりあげた湧別線建設概要の本文やタコ部屋労働でとりあげた瀬棚線建設概要の本文でわかるように、公文書では、往々にして自分達に都合の悪い事はほとんど触れないようなので、文章の背後に潜む事実を推測する必要があるかも知れない。

 いずれにしても、北海道では、日本が太平洋戦争で敗北するまで、鉱山や土木工事等ではタコ部屋労働が日常的に行なわれ、満足に栄養が与えられず劣悪な衛生環境でかつ、劣悪な工事環境で、利潤を生み出す「道具」として長時間働かされて、多くの犠牲者を出した。

 私は、戦前に着工されていた北海道の旧国鉄路線では、たとえ記録として残っていなくてもタコ部屋労働が行なわれたと思っており、特に、戦争中に何らかの工事が行なわれていた国鉄路線では、必ずタコ部屋労働が行なわれた
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/134.html

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
284. 中川隆[-11971] koaQ7Jey 2020年8月01日 05:39:50 : GIAE7uUHGt : ek9BeHkyV0xOSlk=[1]
阿修羅掲示板でデマを撒き散らしている頭がおかしい投稿者のリスト

・オリハル
・お天道様はお見通し
・魑魅魍魎男
・日高見連邦共和国
・けろりん
・BRIAN ENO
・櫻井ジャーナル 櫻井春彦
・てんさい(い)= 東海アマ
・小野寺光一
・仁王像
・西岡昌紀
・木村愛二
・こーるてん
・taked4700
・HAL
・ポスト米英時代=小沢内閣待望論
・佐伯まお=おおたこうじ=シノブ


阿修羅掲示板の中国工作員
・赤かぶ
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c284

[近代史3] 音楽を習わせても子どもは賢くならないとの研究結果

2020年07月31日
音楽を習わせても子どもは賢くならないとの研究結果


楽器を演奏すると脳が活性化し、老化が遅くなるといわれてきましたが、新たに「楽器を演奏に子どもを賢くする効果はほとんどない」という研究結果が発表されました。

Put down the banjo, Timmy: study finds learning music won’t make children smart - The National
https://www.thenational.ae/arts-culture/music/put-down-the-banjo-timmy-study-finds-learning-music-won-t-make-children-smart-1.1055974

Music training may not make children smarter after all -- ScienceDaily
https://www.sciencedaily.com/releases/2020/07/200728201550.htm

楽器の演奏と子どもの知能の関連について研究を発表したのは、日本の藤田医科大学に所属するジョヴァンニ・サラ准教授と、認知心理学の権威として知られるロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのフェルナンド・ゴベット教授です。サラ氏らは1986年から2019年の間に実施された54件の研究をメタアナリシスで分析し、音楽教育が認知機能や学業成績に及ぼす影響を調べました。

その結果、ダンスやスポーツなどの音楽とは違う技能を学んだ子どもたちを対照群とするといった質の高い研究では、音楽教育が認知機能や学業成績を向上させるという効果は認められませんでしたが、対照群や介入群などの無作為化を行わなかった研究は「わずかな効果が見られた」と結論付けていたことが判明。以上の結果を統合したサラ氏らは、「音楽教育は種類・期間や被験者の年齢に関係なく、認知能力や学業成績を高める効果を持たない」と結論付けています。

従来の調査では、「音楽は子どもを賢くする」といった結論が導き出されることが多く、1990年代に行われた心理学研究が「モーツァルトの『2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448』を聞かせた学生は、空間認識テストにおいて高い成績を示すようになった」と結論付けていたことから、モーツァルトを聴かせると頭が良くなるという「モーツァルト効果」という言葉まで誕生。音楽は知能に良い影響を与えるというのが通説でした。


しかし、サラ氏は「私たちの研究は、『音楽は子どもたちを賢くする』という通説が間違っていることを示しています」と述べ、音楽教育の意義について「子どもの認知能力や学力を高めることを目標に音楽を教えても、無意味かもしれないということです。音楽を演奏することで音楽が得意になるように脳を鍛えられるかもしれません。一方で、音楽を演奏して数学が得意になるというような、一般的な効果は存在しないでしょう」とコメントしました。一方、ゴベット氏は「音楽のトレーニングは社会的スキルや自尊心を高めるという点で、子どもにとって有益である可能性があります」と、知能向上以外の音楽教育の意義について語りました。

なお、日本の文部科学省は中学校における音楽教育の目標について、「表現及び鑑賞の幅広い活動を通して,音楽を愛好する心情を育てるとともに,音楽に対する感性を豊かにし,音楽活動の基礎的な能力を伸ばし,音楽文化についての理解を深め,豊かな情操を養う」と記しており、音楽を通して知能を高めるということは目的にしていません。

https://gigazine.net/news/20200731-music-training-not-children-smarter/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/995.html

[近代史5] 米GDP大幅落ち込み、大恐慌から世界を救うのは「浪費と無駄遣い」

2020年08月01日
米GDP大幅落ち込み、大恐慌から世界を救うのは「浪費と無駄遣い」

不況から救ったのは浪費、不況を悪化させたのは節約でした


米GDPは年間2桁減少ペース

米商務省が発表した2020年4から6月期のGDPは、年率換算で前期比32.9%減だった。

これは「この増加率が4回続いた場合の年間GDP」なので、実際は3か月間で約8.2%減だった。

同様に1月から3月のGDPはマイナス4.8%だったが実際は約1.2%減だった。


20年1月から6月GDPを合計するとマイナス約9.4%、これを通年でゼロ成長にするには後半4.6%成長を2回続ける必要がある。

通常一過性の経済危機は大きな減少があった後でリバウンドがあり、通年あるいは2年間の平均で僅かな減少にとどまる。

2007年から2010年まで続いた世界経済危機では、一時アメリカが亡びると言われドルの発行を停止するという噂すら流れた。

だが終わって見ると最悪だった2009年が−2.54%で2008年は−0.14%、2010年は+2.56%でした。

リーマンショックの4年間を合計するとプラスマイナスゼロという所で、打撃はほとんどなかった事になる。

このパターンではコロナで2020年に下がったとしてもリバウンドで成長率が上がる筈だが、もっと長引くという予想もある。


1929年のNY発世界大恐慌では1932年までに、世界のGDP合計は15%減少し、日独伊と米英仏の経済対立から世界大戦まで発生した。

無駄遣いが大恐慌からアメリカを救った

アメリカのGDPは1929年から1933年ごろまでマイナス成長で、元に戻ったのは1937年頃だった。

そこから大戦特需で超好景気になり、1945年まで高度経済成長があり大恐慌は帳消しになった。

世界大戦という無限大の消費があったから回復したので、もしなかったらアメリカはブラジル並みの国になっていたかも知れない。


不況や大恐慌は「誰もお金を使わない事」で、好景気やバブルとは「誰もが最大の消費をする」行為だと定義できます。

世界大戦は最大の無駄遣いをしても誰も文句を言わないので、全世界でスーパーバブル景気が発生した。

意外な事だが大戦中は米英仏も日独伊も参戦国すべてが好景気で失業者はいませんでした。


反対に不況を作り出してしまうのは緊縮財政や無駄をやめる政治、節約や自粛で、これが日本の失われた30年の正体です。

コロナで世界は大打撃を受けるが、「最も無駄遣いした国」が最速で立ち直り、「最も節約した国」は大不況に突入します。

これが経済の面白い所で、レンホーのように節約してしまうと却って財政難と不況を招きます。


アメリカはリーマンショック時にバーナンキFRB総裁とポールソン財務長官が2人ともお金の仕組みを理解していて救われました。

今回はトランプ大統領の支出に政府や議会がケチをつけて「節約しろ」などと言っているので、経済回復に失敗するかもしれません。

日本に必要なのも「無駄遣いと浪費」であって、間違っても倹約や節約などしてはいけません。

http://www.thutmosev.com/archives/83551639.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/251.html

[近代史4] 食費「1日2万円」の富裕層妻たちの金銭感覚「月2万円はあり得ない」
食費「1日2万円」の富裕層妻たちの金銭感覚「月2万円はあり得ない」
2020/07/31


食費にいくらかけるかは人それぞれだが…(イメージ)

 7月中旬、「#食費2万」というハッシュタグがTwitterで賑わった。〈子ども3人でも食費2万円台。節約上手のスーパーの回り方〉というネットニュースが話題になったからだ。だが、金銭感覚は人によってそれぞれ。東京・港区の麻布界隈に住む富裕層世帯の“麻布妻”たちはSNSなどを見て「月2万円」は何かの間違いではないかと驚いたという。自身も麻布妻でライターの高木希美氏が、その一般庶民とはかけ離れた金銭感覚をリポートする。

 * * *

 食費月2万円の記事が話題になったあと、何人かママ友が集まったときのことです。

「外食したら1回で2万円だよね」

「うちは週末は土日とも外食って決めてるから、週末だけで5万円行っちゃう」

「東京ミッドタウンのプレッセ(高級スーパー)でお肉とか手巻き寿司の材料買ったら、1回で2万8000円だった」

「月10万円以下って無理だよね」

 ──このように、それぞれ富裕層世帯ならではのコメントをしていました。外食費を入れれば月20万円、30万円は当たり前の人たちですが、自炊のための食費のかけ方で特に凄かったのが、20代の新婚麻布妻・マミさん(仮名)でした。夫は親の代からの開業医で、お金に無頓着。というよりも、経済観念が希薄と言ったほうがいいかもしれません。

「私、一人暮らし経験もなく嫁入りしたんで、母から習っていたのでお料理はできますが、どうやって節約するかとか知らないんです。食卓にどんなものが並ぶのが普通で、みんなはいくらくらいかけているのかがわかりませんでした。月2万円って、びっくりして……」

 そう語るマミさん。両親は高級スーパーとして知られる明治屋か紀ノ国屋でばかり買い物をしていたそうで、マミさんは麻布エリアでやはり高級スーパーとして有名な「ナショナル麻布スーパーマーケット」(通称・ナショナルマーケット)や「ナニワヤ」で買い物しているそうです。

「夫には健康第一でおいしいものを食べてほしくて、なるべくお惣菜も買わずに自炊しています! 1回の買い物は5000円とか7000円前後で、普通ですよね?」(マミさん)

 普通ではないのが、食材の使い方でした。

「実は、つい最近まで、買った食材はその日のうちに使い切らなければならないと思っていたんです。実家でもたぶんそうしていたと思います。にんじんが3本あったら、3本使い切るとか。作り置きとかもしなくて、5000円分の食材買ったら、全部をその日に出してました。で、余ったらしょうがないから捨ててました……。レストランでもそうだし、それが当たり前と思っていました。

 だから、1食5000円という感覚でした。それで『月2万円』という記事があるのを聞いて、“私っておかしいのかな?”って驚いたんです」(同前)

 いまは「使い切り」はしなくていいことは知ったものの、基本的に毎日5000円は変わらないそうです。

「夫はお肉が大好きなので、ステーキをよく買います。昨日の夕飯はステーキ肉2枚と、付け合わせのポテトサラダなどで5000円でした。先日は、ステーキ肉2枚とバジル、卵、ベビーリーフ、モッツァレラチーズ、トマト、フランスパンにガーリックバター、あと飲み物を少しで7000円くらい。週末とかにローストビーフ用の塊のお肉とワイン買うときは1日2万円ですが、これって凄い贅沢してるわけじゃなくて普通の自炊ですよね?」(同前)

 マミさんとは違って、意思を持って食費にお金をかけていると語っていたのがリエさんでした。

「主人がものすごく健康志向なので、オーガニック品しか買いません。塩も専門店に行くし、他の調味料も、通販で定期的に取り寄せているものを使っています。

 子供たちのお菓子も自然派食品の店で買うか、手作りです。ドレッシングは1度も市販のもの買ったことないし、焼肉のタレも最初から手作りしますね」

 そう語るリエさんは、素材にこだわるから月に30万円ほどかけているそうです。マミさん同様、1日2万円かける日も少なくありません。

「最近は、白ワインや赤ワインはもちろん、スパークリングやオレンジワインもオーガニックのものが買えるから、嬉しいですね。どこの産地か確認できないものは、飲み物も食べ物も買いません。コンビニ? 口に入れるものは買いませんね。かなり前に水は買ったことありますが」(リエさん)

 家族全員、ユニクロは着ているけれども「食費だけは絶対に譲れない」そうです。食費のかけ方は、その人のこだわりを反映すると言えそうです。

https://www.msn.com/ja-jp/money/personalfinance/%e9%a3%9f%e8%b2%bb-1%e6%97%a52%e4%b8%87%e5%86%86-%e3%81%ae%e5%af%8c%e8%a3%95%e5%b1%a4%e5%a6%bb%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e9%87%91%e9%8a%ad%e6%84%9f%e8%a6%9a-%e6%9c%882%e4%b8%87%e5%86%86%e3%81%af%e3%81%82%e3%82%8a%e5%be%97%e3%81%aa%e3%81%84/ar-BB17oWDD?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/983.html

[近代史3] 同位体分析から推測される初期人類の食性
雑記帳 2020年08月01日
同位体分析から推測される初期人類の食性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_2.html


 同位体分析から初期人類の食性を推測した研究(Martin et al., 2020)が公表されました。安定同位体分析により、過去の生物の生態・生理・食性を推定できます。初期人類の食性は、骨・歯の分析や同位体分析などに依存しています。しかし、同位体分析においては、栄養価の指標になるコラーゲンと窒素の同位体は、たとえば100万年以上前ではめったに保存されていません。初期人類の食性は多くの場合炭素同位体に依存しており、骨や歯のような化石ではあまり保存されていません。炭素同位体組成は、最終的な植物源の光合成経路を反映しており、過去の植生進化の復元と、人類も含めてアフリカの動物の食性調査に役立ちました。

 アフリカの人類の炭素同位体分析は、C3およびC4植物全体を反映します。たとえばアフリカ東部では、初期アウストラロピテクス属の食性はほぼC3植物に由来しますが、パラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)などもっと新しい人類は、その食性をほぼC4植物に依存しています(関連記事)。しかし、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)もしくはケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)のように、初期アウストラロピテクス属もしくは同年代の人類でも、食性でC4植物の顕著な割合を示す系統も存在します。アフリカ中央部では、アウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)がC4植物環境で食料を調達していた初期人類の別の事例となります。

 炭素同位体分析の重要な結果として、大きな歯を有するアウストラロピテクス属の分類群間の炭素13値の顕著な違いがあり、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)とアフリカ東部のパラントロプス・ボイセイが異なる資源を利用していた、と示されます。こうした結果は歯の微視的使用痕でも裏づけられています(関連記事)。本論文は、カルシウムと炭素の同位体を利用して、ケニアのトゥルカナ(Turkana)盆地の初期人類や共存していた霊長類の食性を調べます。脊椎動物におけるカルシウム同位体の研究から、カルシウム同位体44/42の比率の減少が栄養価の増加と関連している、と明らかになっています。

 まず、現生ゴリラの調査により、カルシウム同位体値と食性との関係が改めて確認されました。次に、トゥルカナ盆地の初期人類も含む霊長類(69個体)のカルシウム安定同位体が分析され、−0.69‰〜−1.88‰の範囲と明らかになりました。初期人類との食性の類似が指摘されることもあるヒヒ属は、カルシウム同位体値が低く、化石ヒヒ属(Parapapio)はそれよりもずっと高い値を示します。これは摂食選好の違いを反映しているかもしれませんが、アフリカの現生種であるアヌビスヒヒ(Papio anubis、オリーブヒヒ)は広範に分布しているので、本論文のデータでは地理的多様性を反映できていない可能性もあります。

 現生種のゲラダヒヒ(Theropithecus gelada)はC3草本植物に強く依存していると以前から推測されており、本論文のカルシウム同位体値でも、草本に依存しているとの結果が得られました。化石ゲラダヒヒ属2種(Theropithecus brumpti、Theropithecus oswaldi)のカルシウム同位体値は、現生ゲラダヒヒからさほど逸脱していません。しかし、ゲラダヒヒ属でもオズワルディと比較して大型のブランプティの一部個体は大型肉食動物と同じ値の範囲内にあり、ブランプティのカルシウム同位体値の範囲が広いことから、ブランプティは雑食と推測されます。

 化石人類のカルシウム同位体値では、共にアフリカ東部に生息していたアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とケニアントロプス・プラティオプスは、区別できませんでした。プラティオプスの炭素同位体値がC3植物とC4植物の混合環境での摂食を明確に示したのに対して、アナメンシスの方は、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)と同様のほぼ純粋なC3植物食性を示唆します。以前の頭蓋形態に関する研究では、アナメンシスは硬いものを接触していた可能性が示唆されていましたが、歯の微視的使用痕と炭素同位体分析に基づくその後の研究では、C3植物環境の柔らかいものを食べていた、と推測されています。アナメンシスのカルシウム同位体値は、アフリカ東部の現代および化石の木の葉食動物とほとんど重なっており、果物や草など様々なC3植物を摂食していた、と示唆されます。ただ、アナメンシスの一部個体は、酸素同位体値に基づくとより開放的な環境でも過ごした可能性があり、食料を獲得する場所と生息する場所とが分離されていたかもしれません。

 初期ホモ属のカルシウム同位体値は分散しており、雑食もしくは肉食選好が示唆されます。ただ、これはトゥルカナ盆地における初期ホモ属、たとえばハビリス(Homo habilis)やルドルフェンシス(Homo rudolfensis)やエレクトス(Homo erectus)の分類が明確ではないことを反映しているかもしれず、その場合、初期ホモ属内では植生が不均質だったかもしれません。また、初期ホモ属はゲラダヒヒ属のオズワルディと類似したカルシウム同位体値を示しますが、炭素同位体値は異なります。

 パラントロプス・ボイセイは、初期ホモ属やゲラダヒヒ属のオズワルディやトゥルカナ盆地の草の葉食哺乳類とも異なるカルシウム同位体値を示します。炭素13値とカルシウム同位体値を同時に比較した分析でも、ボイセイは他の人類および非人類草の葉食哺乳類の範囲とは重ならず、形態や歯の微視的使用痕や炭素同位体分析で強調されていたように、独自性を示します。ボイセイは、果物のような柔らかいものを食べていた、と推測されています(関連記事)。ボイセイの食性はかなり特異で、そのカルシウム同位体値は、トゥルカナ盆地の他の人類だけではなく、より低いカルシウム同位体値を示すアフリカ南部の同じパラントロプス属のロブストスとも明らかに異なります。

 興味深いことに、共にアフリカ南部に生息していたパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)では、炭素13値にもカルシウム同位体値にも違いがありません。ロブストスの食性に関しては、アフリカ南部の同時代の初期ホモ属とともに柔軟だった、と以前の研究では推測されていました。本論文の分析と炭素13値もしくは歯の微視的使用痕からは、アフリカ東部のボイセイが特殊な食性だったのに対して、アフリカ南部のロブストスは柔軟な食性だった、と示されます。これらの結果は、ロブストスとボイセイという明らかに咀嚼機能を共有する分類群間の食性の不一致を示し、歯と顎の特徴のみに基づくパラントロプス属の単系統性という主張に疑問を投げかけます。

 パラントロプス属の分類に関しては、以前取り上げました(関連記事)。日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)およびボイセイと南部のロブストスの3種に分類されています。パラントロプス属の系統関係については、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります。もしそうならば、これら3種はクレード(単系統群)を形成せず、パラントロプス属という区分も成立しません。

 本論文は、アフリカ南部のパラントロプス・ロブストスとアウストラロピテクス・アフリカヌスの食性の類似を示しており、パラントロプス属とされてきた3種がクレード(単系統群)を形成しない、という見解と整合的です。ただ、食性の違いは、霊長類全般に見られる柔軟性に基づく、異なる環境への適応とも解釈できます。最近の研究では、230万〜200万年前頃にアフリカ南部で大きな生態系と動物相の変化があり、広義のホモ・エレクトスもこの期間にアフリカの他地域、おそらくは東部から南部に拡散してきた、と推測されています(関連記事)。もしそうならば、ロブストスがエチオピクスから派生した一部系統で、東部から南部に拡散してきた、とも考えられます。そうすると、パラントロプス属という区分も成立することになりますが、この問題は今後の研究の進展を俟つしかなさそうです。


参考文献:
Martin JE. et al.(2020): Calcium isotopic ecology of Turkana Basin hominins. Nature Communications, 11, 3587.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-17427-7


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_2.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/996.html

[リバイバル3] アンプの音はトランスで殆ど決まってしまう 中川隆
25. 中川隆[-11976] koaQ7Jey 2020年8月01日 10:51:43 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[2]
Mr.トレイルのオーディオ回り道
ライントランスをCDラインに使うと・・・ 2015年10月11日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1e8ddd9af0d08d34220e6075ce17f94d?fm=entry_awp


上の写真は何か判りますか? 中にはWEのライントランスが入っています。入出力はフルテックのロジウム仕様XLRプラグを使い、内部配線は特殊な銀泉配線にしています。半田材も銀入り鉛レス半田を使っています。箱材は無垢花梨材で響きの良さを考えています。

正体はWE#15Aライントランス。型番から推測すると1910年ごろのモノではないかと推測されます。2セット目を探していましたが、この1セットしか手に入りませんでした。

入荷当時はこのようにして使われていました。

古い配線のままでは「古い音」しかしません。しかし、一聴しただけでただモノではないと感じました。音のキレ・ヌケ・ノビの良さと、質感の麗しさを感じました。このトランスに出会う前に、おなじWEのライントランスも#111C、93F、93A、90A、63C、63A、50Aと同じ仕様に作成して比較試聴を繰り返してきました。その結果、「どんどん古くなる」程「音質が高い」事を実感してきました。

ライントランスの選定は実際に使ってみて決めています。タムラ(複数)、タンゴ、UTC(21・22)等のトランスも使ってきましたが、サイズが大きいほどゆとりの有る音になり、音質的にも高くなる傾向がある様です。UTCのトランスは小さくてもそこそこ良い音がしました。(音楽的に)

トランスのサイズが大きいほど良いなら、一番大きいサイズを目指して、WE#111Cにたどり着きました。1個2Kg有ります。しかし、同じWEでも古いトランスほど「音質が良い」事がわかり、どんどん古いトランスを買い集めました。その結果、@#15A〜50AのグループとA60A〜63Cまでのグループ、B90A〜93Fまでのグループ、C111c以降のグループと音質の傾向がグループごとに違います。型番が古いほどいい音の傾向だと思います。

実際にライントランスを使うとどのような音になるかというと、平面的なCD音が立体的なアナログの音に変わると感じました。トランスが小さいとスケール感が小さく、大きくなるとスケール感も大きくなります。更にトランスの個性で「艶やかさ」等の質感も出てきます。今では15A等まず一般的には手に入らないと思います。私にとっては宝物のようなものです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1e8ddd9af0d08d34220e6075ce17f94d?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/760.html#c25

[リバイバル3] スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか? 中川隆
75. 中川隆[-11975] koaQ7Jey 2020年8月01日 10:54:01 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[3]
おなじWEのライントランスも#111C、93F、93A、90A、63C、63A、50Aと同じ仕様に作成して比較試聴を繰り返してきました。その結果、「どんどん古くなる」程「音質が高い」事を実感してきました


Mr.トレイルのオーディオ回り道
ライントランスをCDラインに使うと・・・ 2015年10月11日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1e8ddd9af0d08d34220e6075ce17f94d?fm=entry_awp

上の写真は何か判りますか? 中にはWEのライントランスが入っています。入出力はフルテックのロジウム仕様XLRプラグを使い、内部配線は特殊な銀泉配線にしています。半田材も銀入り鉛レス半田を使っています。箱材は無垢花梨材で響きの良さを考えています。

正体はWE#15Aライントランス。型番から推測すると1910年ごろのモノではないかと推測されます。2セット目を探していましたが、この1セットしか手に入りませんでした。

入荷当時はこのようにして使われていました。

古い配線のままでは「古い音」しかしません。しかし、一聴しただけでただモノではないと感じました。音のキレ・ヌケ・ノビの良さと、質感の麗しさを感じました。このトランスに出会う前に、おなじWEのライントランスも#111C、93F、93A、90A、63C、63A、50Aと同じ仕様に作成して比較試聴を繰り返してきました。その結果、「どんどん古くなる」程「音質が高い」事を実感してきました。

ライントランスの選定は実際に使ってみて決めています。タムラ(複数)、タンゴ、UTC(21・22)等のトランスも使ってきましたが、サイズが大きいほどゆとりの有る音になり、音質的にも高くなる傾向がある様です。UTCのトランスは小さくてもそこそこ良い音がしました。(音楽的に)

トランスのサイズが大きいほど良いなら、一番大きいサイズを目指して、WE#111Cにたどり着きました。1個2Kg有ります。しかし、同じWEでも古いトランスほど「音質が良い」事がわかり、どんどん古いトランスを買い集めました。その結果、@#15A〜50AのグループとA60A〜63Cまでのグループ、B90A〜93Fまでのグループ、C111c以降のグループと音質の傾向がグループごとに違います。型番が古いほどいい音の傾向だと思います。

実際にライントランスを使うとどのような音になるかというと、平面的なCD音が立体的なアナログの音に変わると感じました。トランスが小さいとスケール感が小さく、大きくなるとスケール感も大きくなります。更にトランスの個性で「艶やかさ」等の質感も出てきます。今では15A等まず一般的には手に入らないと思います。私にとっては宝物のようなものです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1e8ddd9af0d08d34220e6075ce17f94d?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html#c75

[近代史3] ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体 中川隆
6. 中川隆[-11974] koaQ7Jey 2020年8月01日 11:34:08 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[4]
下層階級の子供は電車内や学校でも、携帯電話とか電子タブレットに夢中だが、上流階級の子供は案外「伝統的な教育」を受けている。上層中流かスーパーリッチの親は子供の生活に介入し、電子機器の使用を制限したり、TVゲームやスマートフォンを与えなかったりする。例えば、「マイクロ・ソフト社」の創設者であるビル・ゲイツ(Bill Gates)や、「アップル社」の共同創設者で2012年に亡くなったスティーヴ・ジョブス(Steve Jobs)は、自分の子供を心配し、ハイテク機器を与えなかったそうだ。たとえ与えても、その使用時間を制限したらしい。ゲイツ氏はメリンダ夫人との間に、ジェニファー、ローリィ、フィーブという三人の子供をもうけているが、この大富豪は娘がビデオ・ゲームに目覚めると、その使用時間に一定の制限を加えていたという。(Chris Weller, "Bill Gates and Steve Jobs Raised Their Kids Tech-Free And It Should've Been a Red Flag", The Independent, 24 October 2017.)

Bill Gates 02Steve Jobs with family 1
(左 : ビル・ゲイツ氏の家族 / 右 : スティーヴ・ジョブズ氏の家族)

  一方、ジョブズ氏はロウリーン夫人との間に息子のリード、娘のエリンとイヴをもうけていた。IT産業で成功したジョブズ氏は、新製品のiPadが世に出た時、子供達にその使用を認めなかったそうである。シリコン・ヴァレーの重役達は偽善者というか二枚舌の持ち主で、他人の子供には最新型のスマートフォンや高性能のタブレット、あるいは高価なパソコンを売りつけているが、自分の子供には“昔ながら”の教育を施し、“紙”の本を与えて「創造性」が豊かになるよう育てている。高度な知識を持つアメリカ人は、電子機器の中毒性に気づいているので、可愛い我が子に与えることをためらう。ハイテク産業の大御所たちは、巨額な宣伝費をかけて新製品を売り込んでいるくせに、「こんなモノを与えたらウチの子供が馬鹿になるじゃないか!」と危惧している。一方、何も知らずに買い与えている平民の親は、子供と一緒に大はしゃぎ。高額な通信料金を払っても、新製品の魅力にゾッコンだから、子供への影響なんて考えない。それにしても、こうしたIT業者を眺めていると、つい、禁煙を信条とするタバコ会社の経営者を思い浮かべてしまう。大企業を運営する者は、巷の流行に流されず、長期的な視野で物事を考える。だから、易々とハイテク教育に追従しないのだろう。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68797862.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html#c6

[番外地8] フィリピン人の元慰安婦 「私の体験 強制の証明」
日本人は中国・朝鮮以外からも嫌われているのに気付いていないだけさ:
フィリピン人の元慰安婦 「私の体験 強制の証明」
 当時の状況は強制そのものだった−。シンポジウム会場にはフィリピン人元慰安婦の姿もあった。フェリシダッド・レイエスさん、86歳。「残り少ない証言者になってしまった」と声を振り絞った。

 「ある日、学校の教室に日本兵が2人やって来て、私を連行しました。駐屯地の一室に閉じ込められ、毎日多くの日本兵からレイプされ続けました」

 1943年9月、マスバテ島のミラグロス町。日本軍は小学校の敷地に建屋を建て、駐屯していた。役場には「日本軍歓迎」の垂れ幕が掛かっていたという。

 「先生はフィリピン人でしたが、日本軍を恐れていたので私を行かせるしかなかったのです。当時14歳。自分で売春宿のようなところへ行くなどと考えられるはずがない。無理やり手をつかまれ、駐屯地に連れていかれ、被害に遭ったのです」

 5日目に高熱を出し、解放されたという。日本兵は家まで送ろうとしたが、断ってふらふらになりながら一人で帰り着いた。

 「私の体験はまさに強制的に連行され、被害に遭ったことの証明です。安倍首相をはじめ日本政府は強制連行はなかったと言っているが、まったくの誤りです」

 93年、日本政府に損害賠償を求めた訴訟(2003年に最高裁で棄却)の原告46人のうちの1人。訴状によると、戦争が終わるまで学校には行けず、自殺も考えたという。

慰安婦にされた女性たち−フィリピン
 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。


 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。


多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。

ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。

日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。

また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。

このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。


ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。

ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。

ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。

ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。

4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。

ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。

ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。

そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。

マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。

6〜7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 


マリア・ロサ・ヘンソンさんロサ・ヘンソンさんの場合

マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。

1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。
そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。

彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。

彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/135.html

[番外地8] 天皇のための戦争 故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
天皇のための戦争
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA


戦争はすべて八百長(00:38:51)

熊毛郡田布施町 (00:00:21)

大室寅之佑 (00:03:48)

明治天皇の秘密 (00:03:55)

殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)

秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)

仕組まれた戦争 (00:15:35)

皇室スキャンダル (00:18:21)

大正天皇には、子種がない(00:18:39)

西園寺八郎 (00:19:26)

昭和天皇の秘密 (00:21:34)

昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)

住友と天皇家は、血族 (00:23:04)

秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)

天皇のための戦争(00:25:02)

戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)

昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)

真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)

海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)

パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)

天皇が内通していた(00:31:38)

スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)

天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)

終戦工作と白州次郎 (00:33:39)

ヨハンセングループ (00:34:17)

日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)

日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)

弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)

火事場泥棒なんです。(00:36:15)

こじつけ無罪論(00:36:19)

明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)

第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)

戦争はすべて八百長(00:38:51)

戦争は継続しなければいけない (00:40:48)

天皇が被爆に加担した(00:42:23)

白洲次郎の秘密(00:44:17)

吉田茂の秘密(00:46:20)

こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)

キッシンジャーと中曽根(00:57:00)

使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)  

▲△▽▼


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/136.html

[番外地8] 靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道
靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道
戦没者は恐ろしいものではないから神にはなれない.従って祭る必要もない.
神道の教義では,神になれるのは日本軍に残虐な殺され方をして,恨みを呑んで死んでいった中国やアジアの人々だけだろうね.
神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教だ.

アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる. 神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしただけだ.

日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物だ.だから仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された.キリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからだ.

しかし,靖国は神道の基本精神と合い入れないから,神道とは共存できない.

靖国は軍人を殺人の前に奮い立たせるためのものであって,信仰ですらないからだ.

靖国参拝は殺しの前の儀式行動としてやるものであって,宗教的な行動ではない.

 
▲△▽▼


靖国は日本の伝統的な神道から逸脱している。古事記の神道を伝統とすれば、古事記は天皇の祖先神である天照大神を祀る伊勢神宮と、天照大神の子孫が滅ぼした(殺した)大国主命を祀る出雲大社。この二つの神社からなる。天皇は自分たちの先祖よりも、むしろ滅ぼした出雲の方に大きな神社を建てた。


*自分たちが権力を取るために滅ぼした人たちを鎮魂する神社を、自分たちの祖先の神社より大きくつくるのが日本の清清しい伝統であります* 。元寇との戦いでも、鎌倉に戦死した元の人たちを祀る寺をつくっているし、あの虐殺鬼「秀吉」でさえ、朝鮮で殺した人々の耳塚までつくっている。

そういうことを、先の大戦でも行うべきであった。中国や朝鮮、東アジアの人々の犠牲は、日本の犠牲の5倍も多い。1千万人の方々が日本の犠牲となった。伝統的な神道であれば、その人たちの霊を厚く祀るべきなのだ。その人たちの霊を慰めることをしないで、自国の死んだ人たちだけを祀るのはおかしいこと。

靖国は明治の初めの廃仏毀釈とつながっている。廃仏毀釈は仏を廃し神を残したといわれるが、実は神も排斥した。というのは、それと同時に修験道が同時に廃止されているからだ。


修験道は神と仏を結びつけたもの。神仏習合は東大寺を宇佐からやってきた八幡神が祝福したことに始まる。ここで公式に神と仏は習合した。それを助けたのが行基。それが空海によって完成される。そこから修験道が始まる。神と仏が仲良くするのが修験道なのだ。

ところが、その修験道を禁じ、仏を殺し、神を殺して、そのかわり国家を神とする神道が、新しい近代神道として起こった。神道のなかではごく最近のものである。近代日本の国家主義の産物で、他の神仏を殺してしまった。つぶして再度、国家神道の下に神道を統合した。だから、それはほんとうの神様ではない。一木一草のなかに神をみる。これが日本の伝統。そういう神様を全部殺して、天皇と国家を神としたのが国家神道。そういう伝統にあらざる神道を首相が公式参拝して保護するのはどうなのか?

*日本の伝統は犠牲になったものを祀らないと怨霊となって祟りをなす。だからその祟りを鎮めようというもの。アジアの人たちに酷いことをして殺したことが祟りになって日本の前途を危うくする、だからそういう魂を祀るという精神が靖国には皆無だ。これは日本の伝統的神道に欺くことである* 。

靖国は密かに祀る。心の中で祀る。そういう精神にしたらよい。近所に迷惑をかけた以上は近所に対し黙って祀る。目立たないように祀るのが国と国との礼儀だ。日本人とは慎ましやかな民族であるはずなのである。コイズミのように声高に祀るのは、「恥」と云わざるをえない。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/137.html

[番外地8] 昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。

昭和天皇が戦後も続けていた靖国神社への参拝を、A級戦犯の合祀(78年)を理由にとりやめたのは事実であろう。ただしそれは「戦争への痛切な反省と世界平和への思い」からではない。自身の戦争責任追及を昭和天皇が恐れたからだ。

 A級戦犯を神と崇める神社に参拝などしたら、苦労して築き上げた「平和主義者・天皇」のイメージが一瞬にして瓦解する。

つまり昭和天皇は天皇家の延命という観点から、靖国神社の勝手な行動に激怒した−−こう考えたほうが自然である。

 昭和天皇が松岡洋右元外相らに開戦責任を押しつける発言をしていたことは他の史料でも明らかになっている。戦犯連中にしてみれば、「本来なら最高責任者の陛下こそ戦犯じゃないか」というツッコミをあの世から入れたい気分ではないか。


▲△▽▼


昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。

だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。

二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、

自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/138.html

[番外地8] 日本が軍隊を持てないのは天皇一族が軍隊のクーデター・共産革命を恐れた為だった
アメリカが日本から撤退しない本当の理由とは?
日本が軍隊を持てないのは天皇一族が軍隊のクーデター・共産革命を恐れた為だった
昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から危険な人間をすべて検挙・拷問していった

東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?
天皇家を共産革命から守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。


アメリカと戦わなくても日中戦争での日本の敗戦は既に明らかだったのですね。 現在のアメリカが朝鮮戦争以降の戦争すべてで負けている様に、正規軍ではゲリラ戦には絶対に勝てないのです。たとえアメリカと戦わなくても、あのまま行けばソ連が参戦してきて、日本国内のマルクス主義者がソ連に呼応して革命を起こせば日本が存続できる可能性は全く無かったのです。そこで昭和天皇は天皇家存続をかけて、アメリカ軍と組んで日本の一般大衆と戦う決断をしたのです:

因みに、ヒトラーと昭和天皇はウォール街のエージェントです。

フォードとかIBMはドイツへの輸出でボロ儲けしていたのでナチス支持だったのです。アメリカはモンロー主義で戦争参加したがらなかったのではなく、ドイツとの経済関係を重視してドイツとは戦いたくなかったのですね。しかし、ルーズベルトとニューディール派は共産主義者で反ウォール街だったので、ウォール街のエージェントのヒトラーと昭和天皇と戦いたかったのです。

鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/655.html

第一次世界大戦が終了した直後の1919年6月、「パリ平和会議」という名前の次の戦争を練る会議が開催される。日本の全権大使一行の内訳は西園寺公望、その私設秘書である近衛文麿、牧野伸顕、その私設秘書である女婿の吉田茂。松岡洋右以下略。

真珠湾攻撃を創案したのはアスター卿を中心とする親ドイツ派グループ

「クリブデン・セット」である。彼らはイギリスのバッキンガムにあるアスター家を本拠地にして、英米を動かしてヒトラーを営々と育てる一方で日米を大戦に引きずり込む作戦を練る。そしてこの黒幕はドイツ国際問題研究所である。

白洲次郎はウオーバーグの庶子でOSSエージェント。

吉田茂もコード名「ヨセフ」、CIAの最高傑作だという。牧野伸顕、樺山愛輔、吉田茂、白洲次郎、原田熊雄、岡田啓介が、開戦と敗戦のシナリオ(外交感覚)を知悉して演じていくグループである。トップには昭和天皇と貞明皇后がいる。

彼らは憲兵隊に「ヨハンセングループ」と名づけられ見張られている。

しかしこれもシナリオに沿ったヤラセである。

吉田は敗戦直前に逮捕され戦後をリードする経歴を手に入れている。

終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。

それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/139.html

[番外地8] 被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
被差別同和部落の起源 _ chousen からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

chousen から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


▲△▽▼


畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸chousen型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非chousen的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/140.html

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
283. 中川隆[-11976] koaQ7Jey 2020年8月01日 14:44:20 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[8]
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。
ギャラリー

土井ヶ浜弥生人の復元図。
*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c283

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
5. 中川隆[-11975] koaQ7Jey 2020年8月01日 14:45:14 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[9]
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c5

[番外地8] アイヌは日本人じゃないよ、日本人はchousenからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫だから別民族だよ 中川隆
5. 中川隆[-11974] koaQ7Jey 2020年8月01日 16:20:17 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[11]
>>2
日本人は朝鮮から渡って来た渡来人だと証明されているよ


土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/114.html#c5

[近代史5] 「血を流すしかない…」コロナで困窮する生活保護の申請者 自治体の追い返し横行
「血を流すしかない…」コロナで困窮する生活保護の申請者 自治体の追い返し横行
2020年8月1日

東京都新宿区内の炊き出し会場。生活困窮者は「自治体から必要な支援が受けられない」と訴えていた(自立生活サポートセンター・もやい提供)


<取材ファイル>

 新型コロナウイルスの影響による収入減や失業で、生活に困窮する人が増加する中、生活保護などの公的支援を頼る人も増えている。しかし、自治体の窓口で追い返されたり、希望が通らなかったりといった声は後を絶たない。東京都新宿区内の炊き出し会場で話を聞いて回ると、悲痛な声が聞こえてきた。(中村真暁)

◆望まぬ地域に連れられ

 収入が少なく、神奈川県内のネットカフェや友人宅を転々としてきた40代の女性が、地元自治体の福祉事務所で生活保護を申請したのは5月末。アパート住まいを希望したが、何の説明もなく車に乗せられ、都内の多摩地区にある社会福祉施設に連れられた。この自治体にある施設を運営するNPOの別施設に入れられたとみられる。
 女性は縁もゆかりもない地域で困惑。部屋は個室だが、天井はカビで真っ黒だった。その後、生活保護費の受給が決まり、福祉事務所を再び訪れ地元のアパートに住みたいと訴えたが、「都内で働けばいい」と受け入れられなかった。

 保護費から施設利用費や朝夕食費を抜かれて手渡されたのは月2万7000円。なじみのない都内ではなく、地元で就職活動をしたいが、そのための交通費もばかにならない。昼食を抜くなど節約するが、「生理用品も買えず、血を流すしかない。ぎりぎりのところで、生きています」。落ち込んでいる様子だった。

 この自治体の担当者は取材に「本人に説明もなく施設へ連れて行く運用はしていない」としている。

◆「役所は期待できない」

 路上で5年ほど生活する男性(54)は5月、居場所を失った困窮者にホテルを提供する都の救済事業を利用しようとしたが、訪れた自治体の窓口で「ネットカフェ利用者の事業だから」と断られた。路上生活者の自立支援事業もあるが、今も路上で暮らす。「役所なんて期待できない」と吐き捨てた。
 生活保護法では本人の意思に反し、施設入所させることを禁じているが、女性のように施設に入り、なじめず逃げ出したり、ひどい対応を受けて追い返されたりといった声は多い。ある福祉事務所の男性職員は「申請者を追い返す『水際作戦』などをする自治体があると、しっかり対応している自治体に人が集中してしまう」と愚痴をこぼす。

 新宿区内の炊き出しを開いた認定NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の大西連理事長によると、窓口で制度利用を拒まれた声が多く聞かれると指摘。こうした対応で、「制度利用を遠ざけ、自立を妨げ、生活基盤の安定とは程遠い状態に陥らせるリスクをはらむ。自治体には1人でも多く支えようという態度で積極的に動いてほしい」と求める。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/46380
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/252.html

[番外地8] チャンネル桜で大騒ぎしている中国人の土地買いとかどうでもいい小さな問題
チャンネル桜で大騒ぎしている中国人の土地買いとかどうでもいい小さな問題
それより遥かに恐ろしいのは安倍首相とトランプ大統領が画策している欧米資本による日本の銀行と大企業の乗っ取りだよ

安倍首相もトランプ大統領も反グローバリストではなく欧米資本(ディープステートとか言ってるな)のエージェントだ。

アベノミクスで日本が米国債を買いまくった為に、1ドルが70円以下になると日本の対外純資産はマイナスになり、日本の資産はすべて外資に乗っ取られる。特に日本国債を日銀に売って、その金でアメリカ国債を買った日本の銀行はすべて債務超過になって欧米資本に乗っ取られる。

2018.5.28「安倍首相の売国政策を糾弾する」大西つねきの週刊動画コラムvol.28
https://www.youtube.com/watch?v=VFEBdHhOv5A

資金不足を続けている対外純債務国(10兆ドル;1,100兆円)が発行する米国債は、ゼロ金利の日本・欧州の金利と、2%から2.5%の金利差(イールド)があるという理由から、売れていきました。

しかし今は、コロナショックからのFRBの緊急利下げで、米国債も金利ゼロです。ゼロ金利のドル国債を買うと、日本、欧州、中国からはドル安のリスクを、金利ではカバーできません。

短期で投機的なドル先物買いの動きは別ですが、2年単位の中期では、債務国の通貨のドルに金利差がない時は、基軸通貨とは言っても「円に対してドル安」の材料になります。  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/141.html

[番外地8] アイヌは日本人じゃないよ、日本人はchousenからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫だから別民族だよ 中川隆
6. 中川隆[-11973] koaQ7Jey 2020年8月01日 19:02:13 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[12]
>>4
シコタン島はアウシュビッツみたいな島だよ
鳥居龍三がどれ位悲惨だったか記録している。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/114.html#c6
[番外地8] 山本太郎と大西つねきの二人、経済思想的にはお互い真逆です。真逆なのに共闘していたのです。
山本太郎と大西つねきの二人、経済思想的にはお互い真逆です。真逆なのに共闘していたのです。
大西つねきの経済理論はMMTを知らなくてもおかしいし、MMTを知ってからだとなお、おかしいこと気にづきます。
大西つねきはまず、信用創造の説明、として「又貸しモデル」という嘘の説明をします。
それは2014年も2019年れいわ新選組出馬後も同様です。

大西恒樹の「日本から世界を変える動画vol_002/お金の発行のしくみ」
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2

6:37から「又貸しモデルを信用創造と嘘をついているシーン」

途中で「日銀ではなく民間銀行です」と言っておきながら日銀が関わらないとできない準備預金制度の説明も挟んできます。

いや、昔そう言ってただけで今は違うんじゃ?と思われる方もいるかもしれません。
でも、昨年、れいわ新選組に合流すると決意した後に「ベーシックインカム・実現を探る会の白崎一裕」さんと一緒にこんな対談をしています。
https://youtube.com/watch?v=zCROccYD64A

しかも、この動画の主題はMMTに関する説明です。

つまり、この思想のままれいわ新選組に入った、ということはMMTの貨幣発行の方法を金融的な「又貸しモデルにすり替えようとした」のです。

因みに、先ほど示した
https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2

10:34からは「こんな借金を増やし続けるシステムが持続可能なわけがない、いずれ破綻する!」を連呼し続けています。

https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2

11:31「皆さんは気づいたでしょうか?信用創造で発行されたお金の仕組みに?それはすべてのお金が誰かの借金だということです。」

特にこれは明確に違います。というか明らかに捏造です。
貨幣は「借金をしても破綻しない政府の借金であり、国民の借金ではありません」。

https://youtube.com/watch?v=IRSJ6G6ma6g&list=PLFU_7EoHUSO0J8JlpNA1qFrF1dw9drfcL&index=2

12:05からは、返済されるお金の「金利分も新たに借金という負担が国民に増える」、という嘘をついています。しかも面白いことに「借金を返済することがまるで良い事のような誘導」が言葉巧みに行われています。

現実は日本政府は金利分も国債発行をすることでこれまで賄ってきていました。そしてそれは破綻するはずがないのです。なぜなら、元々貨幣にプールはなく、空になった貨幣のプールという存在しないものを満たす必要がないのですから!
つまりこの人は2014年時点から「返済する必要がない政府の負債」を「国民の借金のように偽って、さらに金利まで上乗せされる地獄の貨幣のプールへのバケツリレー返済」をイメージさせることに終始し、そのイメージの源泉が「現在の通貨発行システムのせいである」という嘘を流布して、れいわ新選組で政治活動をしていた、ということになります。

今回問題になった「大西つねき」さんの「高齢者負担のリソース不足に伴う命の選別をよしとする意見」は、つまり以上のような「MMTによるリソース創出」を完全に無視し、「返さなくていい政府の負債」を
「借金は貨幣のプールに『国民が返さねばならない』」という嘘で塗り固めたが故に出た発言です。
この理論は山本太郎の積極財政理論、MMTともっと明確に意見を異にします。
最終的にこの動画の別の回では、大西つねきさんは「だから、負債によらない貨幣=国債廃止貨幣=「公共貨幣(政府紙幣)に切り替えましょう」といっているのです。

というわけで、以上のことから元々大西つねきさんは「積極財政派」ではなく、「緊縮派」であり、彼の言う積極財政は「国債のない貨幣である公共貨幣」の緊縮にならざるを得ない貨幣の積極財政である、ということです。



http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/142.html

[近代史5] ALS患者を殺害した元厚労省医系技官らの優生思想 中川隆
8. 中川隆[-11972] koaQ7Jey 2020年8月02日 06:30:46 : yVlHteqe6U : WlZyQ3E0R0lkTG8=[1]
嘱託殺人 女性が「安楽死」依頼したのは1人だけ?
2020/08/01

 難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の女性への嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件。出身大学や居住地が異なる2容疑者の接点は少なく、関係には謎も多い。捜査関係者によると、匿名のブログなどで「安楽死」を肯定し、女性とツイッターでやりとりしていたのは大久保愉一容疑者(42)だが、女性が対価とみられる現金を振り込んだのは山本直樹容疑者(43)名義の口座だ。大久保容疑者は山本容疑者の名前をかたっていたとみられる。

嘱託殺人 女性が「安楽死」依頼したのは1人だけ?© 産経新聞社 嘱託殺人 女性が「安楽死」依頼したのは1人だけ?
 昨年11月30日の事件当日。2人は京都市内の女性宅を偽名で訪れた。ヘルパーに席を外させると、わずか10〜15分で犯行を終え、逃走したとされる。

 捜査関係者によると、「安楽死」を望む女性と平成30年末ごろからツイッターでやりとりをしていたのは、大久保容疑者。だが、1年近いやりとりの中に、山本容疑者らしき人物は登場していない。

 一方、女性は主治医に対し、ALSの治療では専門外での山本容疑者を名指しして、紹介状を書いてほしいと依頼。また、犯行への対価とみられる現金130万円も、事件直前に山本容疑者名義の口座に振り込まれていた。女性は山本容疑者に「安楽死」を依頼したつもりだった可能性もある。

嘱託殺人 女性が「安楽死」依頼したのは1人だけ?© 産経新聞社 嘱託殺人 女性が「安楽死」依頼したのは1人だけ?
■同じサークルに

大久保、山本両容疑者の接点は少ないが、大学時代の約20年前には、同じサークルに所属していた。

 平成12年ごろ、全国の医科大の学生やOBらにより、学年や大学の壁を超えて医学知識を共有しようと設立された研究サークル。当時のホームページには1期生のナンバー2の「副総括」に大久保容疑者、2期生の役員に山本容疑者の名前が掲載されている。

 当時を知る医師の一人は、サークルを「インターネットを通じた勉強会」と説明。「大久保容疑者が通っていた弘前大から表彰された、と聞いたことがある」と振り返るが、「2人がそれほど親しかったという印象はない」と話す。

 北海道釧路市出身の大久保容疑者は弘前大医学部を卒業後、厚生労働省の技官を経て、宮城県内で呼吸器内科とメンタルクリニックを経営していた。一方、関西出身の山本容疑者は東京都内の医科大に在籍したが中退、海外の大学を卒業したとされ、千葉県救急医療センターなどで勤務。東京都内に勃起不全(ED)治療の専門医院を開いた。サークルでの接点以降、2人がどのような交流を続けていたのかは、よく分かっていない。

■共著で電子書籍

元同僚らが「おとなしい」「真面目で勤務態度は普通」と口をそろえる大久保容疑者と、知人らから「医師というよりビジネスマンのようだった」「金への執着がすごかった」と評される山本容疑者。大久保容疑者は匿名でのブログやツイッターで安楽死を肯定する意見を表明していたが、山本容疑者による同様の発信は確認されていない。

 だが5年前、2人の接点は再び表面化する。大久保容疑者は27年4月30日のブログで、山本容疑者と共著の電子書籍を出版すると紹介。書籍のタイトルは、「扱いに困った高齢者を『枯らす』技術」。現在は購入できないが、紹介文には「老人を、証拠を残さず消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ」などと、今回の犯行につながるような表現が散見される。

 京都府警幹部は「2人の役割分担や動機などを解明していく」としている。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%98%b1%e8%a8%97%e6%ae%ba%e4%ba%ba-%e5%a5%b3%e6%80%a7%e3%81%8c-%e5%ae%89%e6%a5%bd%e6%ad%bb-%e4%be%9d%e9%a0%bc%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%af%ef%bc%91%e4%ba%ba%e3%81%a0%e3%81%91/ar-BB17s3Mw?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/244.html#c8

[番外地8] 今、神道と呼ばれているのは複数の宗教の総称
加瀬英明もマンリオ・カデロ大使も全然わかっていないけど、今、神道と呼ばれているのは複数の宗教の総称なんだよ。
日本は多民族国家で
縄文人
狩猟採集民
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江からの渡来人(倭人)
稲作漁労民
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける、銅鐸の祭りを行う

chousen からの漢民族系渡来人
商人
中国鏡を神体とする太陽信仰


の三つの民族から構成されています。

・天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨

従来 弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江人、後期は漢民族系chousen人で、完全に別民族です。

天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作りchousenとの交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系chousen人です。

漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

天皇一族はchousenを追われて日本に移民して以降

中国華北 → chousenソウル
→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹後 → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土

の順に支配地域を広げて行った様です。

弥生時代後期から昭和までずっと連続してchousenから長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。

・東漢氏の遺産「祓いの神道」

「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるもの。
 これは、明らかに道教の神事。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/143.html

[番外地8] 今、神道と呼ばれているのは複数の宗教の総称 中川隆
2. 中川隆[-11971] koaQ7Jey 2020年8月02日 08:09:00 : yVlHteqe6U : WlZyQ3E0R0lkTG8=[3]
加瀬英明もマンリオ・カデロ大使も全然わかっていないけど、今、神道と呼ばれているのは複数の宗教の総称なんだよ。
日本は多民族国家で
縄文人
狩猟採集民
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江からの渡来人(倭人)
稲作漁労民
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける、銅鐸の祭りを行う

xxからの漢民族系渡来人
商人
中国鏡を神体とする太陽信仰


の三つの民族から構成されています。

・天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰

従来 弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江人、後期は漢民族系xx人で、完全に別民族です。

天皇一族は弥生時代後期に北九州に植民市を作りxxとの交易に従事し、漢文を書き、高価な中国製の鏡を大量に持って居たので、勿論漢民族系xx人です。


・東漢氏の遺産「祓いの神道」

「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるもの。
 これは、明らかに道教の神事。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/143.html#c2

[番外地8] 神道が宗教でなくなったのは明治天皇が神道を弾圧してからだよ、それ以前は宗教だった
神道が宗教でなくなったのは明治天皇が神道を弾圧してからだよ、それ以前は宗教だった:
神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。


羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/144.html

[番外地8] 日本人は縄文人の子孫ではなく 半島からの渡来人だと証明されている
日本人は縄文人の子孫ではなく 半島からの渡来人だと証明されているよ:
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
またxx半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨

▲△▽▼


アイヌ語を話していた縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話していた西日本縄文時代人は縄文時代後期に南xxから渡来した

神澤 秀明 2019年6月
x国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。

弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。

https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/145.html

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年)
昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年)


脚本・野島伸司
音楽・溝口肇
制作:フジテレビ


主題歌
尾崎豊「OH MY LITTLE GIRL」
第7話のエンディングでは本曲ではなく劇伴音楽担当の溝口肇のインストゥルメンタル曲が、第10話のエンディングでは本曲ではなくシューベルトの『アヴェ・マリア』がそれぞれ流れた。


ドラマ・・・この世の果て・・1話・2話 1994 VHS




『この世の果て』は、1994年(平成6年)1月10日から3月28日までフジテレビ系列月9枠で放送されたテレビドラマ。全12回。平均視聴率22.9%、最高視聴率25.3%。全ての回で20%以上の視聴率を記録している。


都会の絶望の果てで出会った、孤独なホステス・砂田まりあ(鈴木保奈美)と孤独な天才ピアニスト・高村士郎(三上博史)の究極の愛を描いた悲劇。オープニングとエンディングは士郎がまりあに語りかける形でナレーションが入る。メインキャスト全員が孤独であり、悲しい過去、心の傷をかかえており、この枠としては珍しい重厚な人間ドラマが描かれている。


鈴木保奈美と横山めぐみの初の汚れ役であり、その暗い演技が放送当時話題になった。野島作品の中でも特に暗い作品と言われている。同年10月21日に、ビデオ全4巻が発売されたが、DVD化は実現していない。


最終回はフジテレビオンエア版が20分延長であったが、ルミと井野が殺害した佐々木を埋めるシーンなど、いくつかの場面がカットされて1時間枠に収められている。地方で再放送される場合は、このカットされたバージョンの最終回が放送されることが多い。


制作経緯


脚本の野島伸司は、今まで誰も自分を認めてくれなかった、今まで誰も愛してくれなかった、そんな淋しい男女が出会って、初めてお互いを信じ合える相手と支え合いながら、東京という砂漠のような大都会で生きていく、都会の中の孤独を描いたドラマとして作製した[1]。野島とフジテレビのヒットメーカー・大多亮プロデューサーは、企画を詰めていく段階で、60年代のスキータ・デイヴィスの名曲「The End of the World」のイメージを根底として置いていた[1]。ドラマタイトルも同曲からとり[1]、作品の求めるものも同楽曲のイメージに近かったが[1]、洋楽で古い曲でもあり、ドラマの主題歌として使うにはリスクが大きいと大多が迷っていたら[1]、野島が日本の歌だと尾崎豊の「OH MY LITTLE GIRL」が世界観に近いと大多に聴かせ採用を即決した[1]。尾崎は浜田省吾と同じ須藤晃がプロデュースしていたため、本作の2年前1992年の『愛という名のもとに』で、「悲しみは雪のように」など浜田の楽曲起用を須藤に頼んでいた経緯もあって、すんなり「OH MY LITTLE GIRL」の主題歌採用が決まった[1]。1997年1月3日に放送されたSMAP主演の単発ドラマ『僕が僕であるために』の主題歌も「尾崎の同名楽曲」をモチーフの企画されたもの[1]。


大多亮が単独プロデュースで手掛けた最後の作品でもある。


キャスト


砂田 まりあ - 鈴木保奈美
幼い頃、父に愛されていないという思い込みから家に放火した。父は死んだが、在宅中だった妹のななが逃げ遅れて盲目に。そのため常に暗い表情をしている。ななの目から光を失った自分を責め続け、目を治すと心に誓い、手術費用を貯めるため、昼は郵便局員、夜はホステスとして働く。ヘビースモーカー。


言葉遣いが荒く、時々激昂するが、妹のななと士郎には自己犠牲的な愛をささげる。やがて士郎の子を妊娠するが、言い出せないまま二人の仲はすれ違い、士郎はルミの元で覚せい剤なしではいられない体に。そんな士郎に暴力を振るわれ、流産してしまう。士郎を助け出し、覚せい剤がぬけたことを機会に士郎に別れを告げ、征司と結婚する決意をするが結婚式当日ヘリコプターから飛び降りる。


高村 士郎 - 三上博史
ひき逃げに遭い負傷。警察に通報、救急車に同乗してくれたまりあと恋に落ちる。始めは記憶喪失のふりをし素性を隠していたが、実は世界的に有名なピアニストだった。幼い頃から男性のピアニストに預けられ、英才教育を受けた末、彼の娘、百合子と結婚。ピアノを弾く機械のような生活を送っていた。しかし、自ら左手を傷つけ、ピアニスト生命を絶つ。妻と離婚し、資産も名誉も捨ててまりあと暮らし始めてからは、過去のプライドと栄光が捨てられず自暴自棄になり、覚せい剤に溺れる。


砂田 なな - 桜井幸子
まりあの異父妹。自宅の火事が原因で盲目に。少々幼さが残るが障害を感じさせない健気な性格。一人暮らしをしながら村井夫妻の経営する花屋で働いていた(夫妻からは養子縁組の話をたびたび持ちかけられる)。ある日、コンビニ強盗が逃走するところに遭遇。口封じに暴行されかけていたところを助けてくれた純と恋に落ち、交際。しかしコンビニ強盗犯が純だと知ると激怒し別れを切り出す。村井の息子・道夫に心引かれていくが、のちに酷い目に遭ってしまう。家に訪ねてきた祖父から姉とは父が異なること、警察官だった祖父たちの力で、放火事件は事故ということにされたのを知る。しかし姉への愛情は変わらなかった。手術成功後は出版社へ就職し、年相応の印象を身につける。


神矢 征司 - 豊川悦司
経済界のプリンス、KAMIYAグループ御曹司。中学生の頃、本妻との間に子供ができなかった神矢の跡取りとして神矢家に。地位も名声も金も好きなように動かせるが、母を捨てた父を恨む気持ちも手伝い、愛を信じることができない。常に孤独を感じており、女を口説いて落ちるかどうかの賭けを部下としていた。まりあと結婚にこぎつけるが、そこで裏切りに遭う。


三島 純 - 大浦龍宇一
自動車整備工場に勤めている。赤ん坊の頃コインロッカーに捨てられていた天涯孤独の青年。顔の左側はやけど跡で覆われている。京子の弟とコンビニ強盗をした時に衝突したななに顔を見られたと勘違いする。ななが盲目であることを知り、安堵。仲間がななを暴行しようとしていたところを助けた事から恋愛関係になるが、彼女に真実を知られて破綻。しかし自分なりの「愛の形」を見つけてゆこうと模索する。勤務先に刑事がやってきたことで解雇され、セメント工場で働くようになる。


加賀美 ルミ - 横山めぐみ
まりあが働く「花葡萄」に大勢の客を従えて店がえしてきたホステス。趣味は陶芸。ある男を誘惑し、貢がせた自慢話を控え室でホステスたちに聞かせていたが、その男は店のNo.1・京子が暮らしていた男だった。中学生の頃、ボーイフレンドとデート中に見知らぬ男たちに襲われ、暴行された時にボーイフレンドが逃げ出してしまった。それからは愛や永遠という言葉を聞くと頭痛がするようになり、セックスをしても感じなくなり、同時に冷酷で攻撃的な性格になってゆく。


砂田 夕子 - 吉行和子
まりあとななの母、現在は居酒屋経営。元シナリオライター・葛木和也との間にまりあをみごもっていたが、廃人状態だった葛木との結婚は望めない状態にあった。それを承知の上で受け入れると言った砂田と結婚するが、まりあがおこした火事で死別。砂田には感謝はしているが、心から愛せなかった事と悔やんでいる。5年前に偶然再会した葛木をこっそりと匿い、最期を看取ると後追い自殺する。遺言により角膜はななに移植される。第1 - 11話の出演。


吉田 潔 - 清水紘治
ななの主治医。人の情を信じることをしない。まりあには高額の金を出せば角膜移植を優先的に受けさせると何度も言っている。偽善や人の善意を嫌う人物であり、自分の目の前で車に飛び込んだまりあを見て驚愕する。
ななの角膜移植手術後、結婚式の前日に交通事故に遭い、20年間植物状態になっている妻をまりあに対面させた。


佐々木 実 - 小木茂光
娘を探して京都から上京し、夕子の店で働き始める料理人。実は探しているのは自分を破綻させ、妻を殺害する原因を作ったルミであった。服役を終えてすぐにルミを探すために上京した。ルミと士郎が暮らし始めたことを知り、士郎と別れるようにまりあに忠告する。ルミに毒を盛られ絶命する間際に、ルミの顔に硫酸をかける。第4 - 11話の出演。


高村 百合子 - 高樹澪
士郎の妻。以前から父のもとで、ピアニストとしての英才教育を受けていた士郎と政略結婚をした。士郎の愛よりもピアニストとしての地位や手に興味がある。行方不明になった士郎を探し出すが、目の前で左手を傷つけた事から役に立たなくなったとして離婚を切り出す。第1 - 4話の出演。


二村 浩一 - 加藤善博
百合子から雇われた元刑事の探偵。まりあと士郎の恋愛に興味を持ち、士郎を見つけてもしばらくは百合子に居所を知らせず、士郎に失踪やまりあとの暮らしを聞いていた。後にまりあから依頼を受け、覚せい剤漬けになりヤクザから追われる士郎を救い出す。怪しげな雰囲気だが、性格は悪い方ではない。第1 - 5話、第11話の出演。


田辺 京子 - 秋本奈緒美
クラブ「花葡萄」No.1ホステス。入店間もないまりあと客の前で大喧嘩をするが、後に友人に。店では上品に振る舞っているが、プライベートではがさつな面がみられる。バイセクシャルの男と暮らし、一緒に店を開くために金を貯めていたが、金を持ち逃げされる形で破局。ルミが店に雇われて来た時に、皆の前でルミがその男に貢がせていたこと、京子との記念に買ったブランドの時計を偽物呼ばわりしたことなどを暴露し嘲笑したことから激怒。ルミに憎悪の念を抱く。弟が強盗で逮捕され服役することが決まると、故郷へ帰った。第1 - 6話の出演。


砂田 - 織本順吉
ななの祖父で元警察官。妻と共に息子と夕子の結婚に反対し、結婚後は断絶状態になっていたが、息子たちについて回る葛木をけん制したり、息子の死の真相を闇に葬る等、それなりに愛情を持っていた。息子の墓前でななと対面。息子の面影を感じ、そして彼女に真相を話すが、夕子とまりあを悪く言った事からななに注意を受けてしまう。


大前喬 - 塩見三省
征司の部下、孤独な征司の心の支えになっている。


西岸忍 - 濱田万葉
士郎がまりあと別れた直後に出逢った少女。第11 - 最終話の出演。


田川マキ - 神崎恵
忍の友人。


村井 良雄 - 鶴田忍
ななが勤める花屋の店主。ななを気に入り、資産も名義変更し相続させる約束で養子縁組する。一人息子・道夫がおり、勘当していた。


村井 早苗 - 茅島成美
良雄の妻。心優しい性格で、ややお人好し。のちにななが道夫に殺されかかったとして、実母の夕子に激しく罵られる。


村井 道夫 - 沢向要士
良雄と早苗の一人息子。勘当されていたが、借金を抱えていた事もあり、両親の財産相続をすることになったななに近づく。婚姻届にボランティア参加のサインだと偽りサインさせ、ななを殺そうとするが、後を追ってきた純により捕まえられる。第5 - 10話の出演。


井野 仁 - 松田勝
ルミとは長い付き合いのあるバーのマスター。怪力の大男。裏社会にも通じており、ルミに覚せい剤を分ける。ルミがまりあを殺そうとすると、わざと弾の入っていない銃を渡し、自分の目をつぶし、ルミに告白。第6話から登場。


三浦 博実 - 土屋久美子
道夫に借金をさせている派手な女。調布市のボランティアだと嘘をつき、道夫と共にななを殺そうとする。道夫と共に純に捕まえられる。第6 - 10話の出演。



サブタイトル
各話 放送日 サブタイトル 視聴率
第1話 1994年1月10日 雨のシンデレラ 24.1%
第2話 1994年1月17日 目の見えぬ純愛 25.1%
第3話 1994年1月24日 愛と死の十字架 24.4%
第4話 1994年1月31日 流血の運命 21.9%
第5話 1994年2月7日 愛だけを信じて 23.1%
第6話 1994年2月14日 すれ違う心 22.0%
第7話 1994年2月21日 引き裂かれた姉妹 25.3%
第8話 1994年2月28日 その愛を失う時 22.6%
第9話 1994年3月7日 小さな命が消える 21.2%
第10話 1994年3月14日 盲目の妹に光を 21.6%
第11話 1994年3月21日 愛する者の死 20.1%
最終話 1994年3月28日 未来を君に捧げる 23.7%
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html

[近代史4] ヒンズー至上主義とIT技術でインドは超大国になるのか

定年バックパッカー海外放浪記
2020年8月2日
ヒンズー至上主義とIT技術でインドは超大国になるのか
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20376

『秋の西インド ラジャスターン、グジャラート、マディアプラデーシュ』第4回
高野凌 (定年バックパッカー)


(2019.10.3〜12/3 62日間 総費用18万2000円〈航空券含む〉)
イスラムを完全否定するヒンズー至上主義の歴史認識

象の神ガネーシャ様はヒンズーのアイドル

 カジュラホは世界遺産に登録されたヒンズー寺院群で知られる。親日家のオーナー一家が経営するホテルに投宿し、大学生の二人の息子さんと親しくなった。

 二人は熱烈なモディ首相支持者でありモディ政権下でインドが飛躍的に経済発展すると熱心に語った。二人によると彼らの見解は今日のヒンズーの知識人青年が広く共有しているという。

 二人によると、インド(India)とはヒンズー(Hindu)、ヒンドゥスタン(Hindustan)と同義である。即ちヒンズーとはインドそのものである。人口の80%超がヒンズー教徒であり歴史的にもインドとはヒンズーであるという。

 イスラムを信奉するムガール帝国は西北インドを征服したが、インドとは無縁の外部勢力である。ムガール帝国の支配層はモンゴル系、トルコ系、アラブ系、ペルシア系などの寄せ集めで固有の文化や価値観を持たず烏合の衆だったとの指摘。

 ムガール帝国以前のインドは55の王国と600余りのマハラジャ(藩王)が割拠していた。ムガール帝国は武力と政略結婚で支配領域を拡大していった。こうしてラジャスターンのラージプートの諸王国もムガールに下った。

 ムガールはさらに南下して南インドに侵攻したが頑強な抵抗により断念。このために今日まで南インドにはインド古代からの文化、ヒンズーや仏教の遺跡が破壊されずに残っているという。

英国統治でインドの伝統的教育システムを破壊
 兄弟によると英国統治以前のインドではヒンズー寺院を拠点として初等教育から神学、哲学、医学、数学、天文学などの高度な学問が発達していた。しかし英国はヒンズーの伝統的教育システムを破壊して、インド人を下級官僚、労働力、兵士として利用するための職業訓練に変えた。


1728年建造のジャイプール天文台は当時の天文学の水準を物語る
 その結果インド人が兵士として大英帝国の対外戦争や植民地支配に利用された。ボーア戦争、第一次・第二次世界大戦においてインドは“大英帝国の兵舎”として数十万人の兵士を送り英国陸軍を支えた。

 ちなみに英国支配以前の南インドではコーヒーを生産し、インド人はコーヒーの他に乳酸飲料やジュースを飲んでいた。英国の東インド会社により紅茶の生産を強制され、紅茶を飲む習慣が広まったとのこと。

ネルー王朝とカシミール問題

ジャサルメールへ向かうバスの車内。ムガール帝国に対抗した誇り高い ヒンズーであるラージプートの民族衣装が艶やか
 兄弟によるとインド独立後長らく政権を担ってきたインド国民会議派(NCP)はネルー一族による世襲王朝だと批判。ネルーの娘のインディラ・ガンジー、その長男のラジブ、そのイタリア人妻のソニア、そして長男のラフールに至るまで連綿と一族支配が続いている。

 ネルーはインドの統一を優先するあまりイスラム教徒に妥協して4人の妻帯を合法化。さらにNCP政権下でジャンム・カシミールの自治権を認めイスラム教徒が多数を占めるカシミールの土地をカシミール住民以外が買えないように法制化した。カシミールは古来ヒンズーの土地であったがムガール帝国の征服により外来のイスラム教徒が入植した。

 ちなみにインディラ・ガンジーの功績は分離独立を要求したシーク教徒の暴動に対して暴徒が立てこもったシーク教寺院にインド軍を投入して制圧したことだという。

 自治権を剥奪してカシミールをインドに併合するのは歴史的な正義であり、モディ首相は外国からの干渉を排して選挙公約を守った英雄である。モディ首相の登場によって、ムガール帝国そして英国に支配されたインドはやっとヒンズーを代表する政権を持つことが出来たと兄弟は称賛した。

ヒンズーにとり中国は不倶戴天の敵

 二人はインド(=ヒンズー)が歴史上他の国や民族を侵略したことはないと力説。中国では歴史上国内統治が安定すると必ず近隣諸国を侵略してきたが、ヒンズーは根本的に平和主義であると強調。

 中国+ASEAN+日中韓豪NZにインドを加えた16カ国による自由貿易協定であるRCEP(東アジア地域包括的経済連携)からのモディ首相の離脱表明についても二人は当然の決断であると絶賛。

 中国からの工業製品流入による大幅貿易赤字は許せないし、モディ首相の主唱するインド製品購買運動(メーク・イン・インディア)のためにRCEPから脱退すべきと断言。

IT技術とデジタライゼーションで先進国に追いつく

買物客で溢れる日暮れのブージの町。年間人口増加2500万人というインドの人口爆発を実感する
 初代ネルー首相以来国民会議派(NCP)が主導する政権下で半世紀にわたる経済停滞が続いたと兄弟は批判。国民会議派は自動車や機械類など全て国産化するという輸入代替政策に固執して非効率で時代遅れの工業生産を温存した。

 インド人民党(BJP)が政権を取ってから外資導入を促進、2014年のモディ政権により本格的に経済改革に取り組み経済成長が加速した。

 インドは現時点で人口14億人に迫り数年で中国を追い抜く。同時に今後数年以内に英仏を抜いてGDPが世界第5位になるのは確実という。

 モディ政権は70%以上、時には80%に近い支持率を維持している。中国は市場経済導入で高度成長を達成したが、インドは得意のIT技術活用とデジタライゼーションにより先進国にキャッチアップすると二人は強調した。

 二人とも経済とIT関係を学んでおりホテル経営は片手間だ。ちなみに経営しているホテルはインドの若きホテル王が率いるOYOグループと提携しており、看板はOYO-〇〇ホテルとなっている。OYOは客室数世界2位の新興ホテルチェーンであるが、まさにITを駆使して数年間で驚異的に事業拡大した。

 アマゾンはいち早くインドの将来性に目を付けてムンバイに世界最大の拠点を設けてインドで6万5000人雇用しているという。インドのデジタライゼーションは急速に進行しておりカジュラホの村の雑貨屋や食堂ですらスマートペイによる電子決済ができるので兄弟は財布には小銭しか持っていないという。現金を使用するのは屋台でサモサを買う時くらいしかないと笑った。

インドにとり日本は信頼できるパートナー

超満員のため扉を開けて走るコルカタ近郊の通勤電車
 兄弟は日本が第二次大戦でインド人民部隊と一緒に英国と戦ったお陰で1947年にインドは独立を果たしたと日本の太平洋戦争を『欧米列強からアジアを解放した戦争』と位置付けた。

 注)インドの知識人と話すと、しばしば日本軍のインパール作戦を称賛する。初代首相ネルーも『日本がアジアを解放しなければインドの独立は50年遅れた』と語っていた。そしてインパール作戦で日本軍の支援を受けて蜂起したチャンドラ・ボース将軍は現代でもインドの英雄である。インドが親日的な由縁であろう。ちなみにコルカタ国際空港の正式名称はネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港である。

 二人は中国に対抗し同時に経済大国になるためには日本との協調が不可欠であると力説した。モディ首相はグジャラート州知時代に外資導入によりグジャラート州を先進工業地帯にすることで経済手腕を発揮した。州知事時代に日本の先進技術導入のためモディ首相は何度も訪日して企業誘致に努めたという。

 モディ政権下で地下鉄や高速鉄道を日本から導入することに決定した背景には高い技術力と日本への信頼感があると兄弟は指摘した。

 傍若無人な一党独裁の超大国の中国に正面から対抗できるのは世界最大の民主主義国家インドだけではないだろうか。兄弟の話を聞きながらインドの近未来に思いを馳せた。
 
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/984.html

[近代史4] 中国政府による強制不妊と虐待、ウイグル女性が語る「地獄」
中国政府による強制不妊と虐待、ウイグル女性が語る「地獄」
2020.08.02
https://www.cnn.co.jp/world/35157593.html


中国政府がウイグル女性に対し行っているとされる人権侵害に非難の声が高まっている/photo illustration/getty images

(CNN) ウイグル女性のズムラト・ダウートさん(38)は、中国政府に不妊手術を強制されたと語る。決められた数より1人多く子どもを産んだことが理由だ。

新彊ウイグル自治区の首府ウルムチに住んでいたダウートさんは2018年、子どもが3人いるとして1万8400人民元(現在のレートで約28万円)の罰金を科せられた。中国の統治下では、子どもは2人までしか持つことが許されていなかった。

罰金の支払いに出向くと、強制力を伴う「産児制限措置」を受ける必要があると告げられた。

病院へ連れていかれたダウートさんは、静脈注射で全身麻酔をかけられた。医師が後に明かしたところによると、ダウートさんにはこの間、卵管結紮(けっさつ)術が施されていた。これは鍵穴手術によって女性の卵管を切断したり結んだりする処置を指す。

医師は手術について、永久的な処置であり、もうダウートさんに子どもは出来ないと述べた。

亡命先の米国の自宅で取材に答えるウイグル女性のズムラト・ダウートさん/CNN


ダウートさんの話は特別なものではない。この数年、ウイグル族の女性は新彊の内部並びに世界各国から声を上げ、中国政府による虐待行為を糾弾し続けている。その中には強制不妊、文化的洗脳、性的暴力が含まれる。

これは中国共産党が新彊で行っているとされるより大規模な人権侵害の一部だ。中国当局は新彊において、イスラム教徒が大半を占めるウイグル族や他の少数民族を最大200万人拘束しているとして非難されている。これらの人々を巨大で厳重な施設に収容する措置は、地域に対する支配力をさらに強化する取り組みの一環とみられる。

新彊から亡命し、「世界ウイグル会議」の幹部として英ロンドンで活動するラヒマ・マフムート氏は、女性が新彊で暮らすのは「地獄」だと言い切る。

「あらゆるジェノサイド(大量虐殺)と同様、女性は常に第一の標的になる。極めて深刻な犯罪が、あまりに大きな規模で起きている」(マフムート氏)

中国政府は一貫してすべての糾弾を否定。新疆における施策は合法であり、過激主義を抑え込むために必要なものだと主張しつつ、国営メディアがテロ攻撃と伝えた14年と15年の事件を引き合いに出し、ウイグル族への弾圧を正当化している。

またダウートさんの話の信憑(しんぴょう)性を殊更に下げようと、国営紙の環球時報で本人の兄弟の言葉を引用してもいる。その中で兄弟は、ダウートさんが「ネットで嘘を広めている」と主張していた。

昨年には中国の警官の先導で目隠しをされた数百人の男性が拘置所に移送されるとした動画が流出した/YouTube/War On Fear


女性への弾圧
中国政府には女性の生殖権を規制した前歴がある。それは「一人っ子政策」と呼ばれる、国内の出生率を下げようとした大規模なキャンペーンの一環として行われた。1980年の導入以降、この政策は公式に4億人の誕生を「防いだ」と言われるが、報道によるとその陰では国家の強制による中絶や、避妊を義務付けるといった措置が取られていた。

一人っ子政策は2015年に緩和され、2人目の子どもを持てるようになった。背景にあるのは出生率の急速な減少だ。現在、新疆では農村部に住む夫婦に対し、3人まで子どもを持つことを認めている。当局はこれを、少数民族が受け継ぐ大家族の伝統を尊重するためのものと説明する。

現在、「(中国共産党による)新疆におけるウイグル出生率の抑制運動」と題された新たな報告書が、中国政府に対し、強制的な避妊や不妊手術を通じてウイグル人口の縮小を図っているとして非難の声を上げている。

新疆研究の第一人者であるエイドリアン・ゼンツ氏がまとめたこの報告書は、新彊並びに世界中の女性から寄せられた数年分の目撃情報や声明がもとになっている。

新疆は文化的にも民族的にも、中国の他の地域とは異なる。チュルク語系の少数民族を多く抱え、最近までは彼らが地域における多数派だった。長年にわたり、北京の中国政府とは不穏な関係が続いている。

ゼンツ氏によると過去数十年間、ウイグル族はしばしば公式に認められているよりも大人数の家族を作ってきた。子どもの数は9人もしくは10人になることもあった。当局が規制に動いた時も、たいていは罰金を科すだけで済んでいた。

ところが17年の初め、中国政府はゼンツ氏が引用した公式の政策指示の中で、行政当局者に対し「家族計画(の方針)に違反する行為を厳しく攻撃する」よう要請。同年以降、少数民族が暮らす地域では「産児制限違反を抑え込む特別な活動」が始まった。

報告書によれば、政策指示がより厳格に施行されることで産児制限の違反者に対する訴追は増加し、罰則も重くなっていった。

中国政府は新彊以外の地域に住む女性に対してより多くの子どもを産むよう奨励しているが、新彊では全く逆の事態が起きている。政府の記録によると、弾圧が始まる前年の14年には新彊での不妊手術件数は3214件だったが、18年には6万440件に跳ね上がった。

人口10万人当たりの不妊手術件数。中国の他地域が減少する中、新彊は17年以降急増している

またゼンツ氏が計算したところ、チュルク語系住民が支配的な新彊の全地域における自然人口増加率は、14年の15%超から18年にはわずか4%余りに激減していた。

これに対し環球時報は、ゼンツ氏の計算を誤りと主張。人口増加率の低下は、新彊での教育の拡大と所得水準の上昇が原因だとの見方を示した。中国政府も報告書に反論し、新彊におけるウイグル族の人口は1978年の550万人から2018年には1100万人に増加していると指摘した。

それでもゼンツ氏は、すでにつかんだ証拠から計画的な活動によってウイグル族の人口増加率を「二人っ子政策」の実施よりはるかに厳しくコントロールしようとしていると指摘。国連が「ジェノサイド」の定義とする5つの行為の1つに「出生の抑制」を挙げていることに触れ、現時点でこれらの証拠は新彊でのジェノサイドを裏付ける最も確かなものだとの認識を示した。

報告書は、新彊にある拘置所の中で注射や錠剤の使用によって生理を止められたとする複数の女性の証言を取り上げている。新疆から亡命した冒頭のダウートさんも、18年3月から3カ月ほど拘置所で過ごした際、無理やり薬物を使用され、生理が来なくなったと明かす。

組織的虐待

最も悪質な不法行為のいくつかは、域内にある大規模な拘置所の中で起きているとされる。それは屈辱と性的虐待という形で現れる。隣国カザフスタン出身のウイグル族で、拘置所に入った経験を持つグルバカー・ジャリロバさんは、17年5月に仕事で新彊を訪れた際、突然警察に連れ去られ、拘置所に放り込まれたと訴える。その後15カ月にわたり、収容生活が続いたという。

新疆の拘置所で性的虐待を受けたと訴えるグルバカー・ジャリロバさん/CNN


ジャリロバさんは刑務所のような部屋に20人ほどの女性たちと一緒に閉じ込められた。女性たちは10日に1度、中庭で裸にさせられ、看守の前でスクワットをやらされた。女性たちの中には14歳の少女もいたという。

ジャリロバさんは、看守の1人にレイプされたこともあると打ち明ける。抗議したところ、相手は電気ショックを与える棒でジャリロバさんを殴り、「お前は人間に見えない」と言い放った。

中国国営メディアは以前の報道でジャリロバさんを嘘つきと呼び、本人は職業訓練センターの中に入ったこともないと反論した。中国政府は新彊にある収容施設を職業訓練のためのものと主張している。

米国務省は昨年の報告書で、新彊での性的虐待について、拘置所内だけでなく、男性の中国政府当局者が域内の各家庭に滞在する中で行うケースも伝えられていると述べた。

CNNも新疆を脱出した複数の女性に取材し、拘置所の中で性的暴力があったとの証言を得ている。

消されゆく世代

中国の崔天凱駐米大使は先月、CNNのインタビューに答え、不妊手術のような仕組みは全く存在せず、強制的にウイグルの人口をコントロールするような取り組みは一切行っていないと強調。「一体どうしたらこんなバカげた作り話が出回るのか」と非難の声を一蹴した。

米国への亡命を望むダウートさんは、中国政府が新彊からウイグルの人々を「完全に消し去る」つもりなのだと確信している。「私たちの土地は広大で豊かだ。今その土地は私たちのものだから、彼らは私たちを消し去りたいのだ」と、ダウートさんは語る。

世界ウイグル会議のマフムート氏は新彊にいる4人の姉妹と17年以降連絡を取っていない。彼女らが当局に目をつけられるかもしれないという不安から、電話をかけることもできない。

地元政府や中央政府に大きな変化が訪れない限り、新彊の女性たちに希望はないとマフムート氏はみている。

「何かを変えるには、神様に奇跡でも起こしてもらうしかない」「(新疆は)この世で最大の監獄であり、中国政府が全ての個人を完全に支配している」(マフムート氏)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/985.html

[番外地7] 現世人類が今の民族に分かれたのは3万年前なので、同じ習慣が有るのは当たり前ですけどね。
そもそも現世人類が今の民族に分かれたのは3万年前なので、同じ習慣が有るのは当たり前ですけどね。
同じ神の原型でもイメージ化される場合には
エスキモーの神は海獣の毛皮を着ていて
熱帯の土人の神は裸で
という差が出てくるだけというのがユングの主張ですね。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/904.html
[番外地8] バブルはMMTみたいな人為的な金融緩和が原因で起きるんだ。 MMTを推進しているのは欧米金融資本だよ
全然わかってないな。 バブルはMMTみたいな人為的な金融緩和が原因で起きるんだ。
MMTを推進しているのは欧米金融資本だよ。
新型コロナ危機が始まってからの3カ月間、大規模金融緩和・財政出動のお蔭で米国の富裕層は資産を約5650億j(62兆円)増やした。
アメリカの株価は90年代からバブルと言われていたが、10年に一度崩壊しては新記録の株価を更新していった。
これを支えたのは中央銀行FRBによるお金ばらまきで、そもそも株を買うお金を政府が発行しないと株価は上がらない。
2009年のリーマンショック、今回のコロナ騒動でもFRBは大量のお金を発行し、お金は資産家に渡って株を買っている。
富裕層や資産家はほぼ無利子で無限大のお金を銀行などから借り、ファンドに投資しファンドが株を買っている。

普通の人がカードで借りると年利16%だが富裕層は0.5%以下などで借り、金融機関はゼロ金利で中央銀行から借りている。
こうして投機マネーが生まれて金や株や土地など、投機商品を買い支えています:

▲△▽▼

ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

▲△▽▼

その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/146.html

[番外地8] 日本人は縄文人の子孫ではなく 半島からの渡来人だと証明されている 中川隆
1. 中川隆[-11970] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:07:33 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[1]
日本人は縄文人の子孫ではなく 半島からの渡来人だと証明されているよ:
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
またxx半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨

▲△▽▼


アイヌ語を話していた縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話していた西日本縄文時代人は縄文時代後期に南xxから渡来した

神澤 秀明 2019年6月
x国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。

弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/145.html#c1

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
6. 中川隆[-11969] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:17:45 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[3]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c6

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
284. 中川隆[-11968] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:18:23 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[4]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c284

[近代史3] 日本語の系統とその遺伝子的背景 中川隆
3. 中川隆[-11967] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:23:22 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[5]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/729.html#c3

[近代史3] 韓国人と縄文人のルーツ 中川隆
14. 中川隆[-11966] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:24:03 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[6]
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html#c14

[番外地8] 昭和天皇の特攻命令で無意味な特攻をせざるを得なくなった
昭和天皇の特攻命令で無意味な特攻をせざるを得なくなった

2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。

「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。

さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。

及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。

「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」

宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。

とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。

しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。

「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」

一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。

__________

特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合
昭和天皇の特攻命令を誰も拒否できなかった

1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。

伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」

と“御下問”があった。及川総長はこれを

「水上部隊は何をしているのか」

という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく

「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」

にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」

という疑問の言葉は

「あるなら使ってはどうか」

という間接的・暗示的命令として解されうる。

「海上部隊はないのか?」

という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」

という“御下問”を深読みし,そこにまず

「あるなら使ってはどうか?」

という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。

こうして,戦艦大和がひきいる10隻の特攻艦隊は,死の南西海域へ向って出撃して行った。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/147.html

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
7. 中川隆[-11965] koaQ7Jey 2020年8月03日 12:39:19 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[10]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c7

[近代史3] 日本語の系統とその遺伝子的背景 中川隆
4. 中川隆[-11964] koaQ7Jey 2020年8月03日 12:40:26 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[11]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/729.html#c4

[近代史5] 朝鮮人の起源 中川隆
5. 中川隆[-11963] koaQ7Jey 2020年8月03日 12:42:06 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[12]
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/194.html#c5

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年) 中川隆
2. 中川隆[-11962] koaQ7Jey 2020年8月03日 14:18:45 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[13]
ドラマ・・・この世の果て・・5話・6話



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html#c2
[番外地8] コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和
MMTポリテクスは金融緩和・財政出動派がやっているから同じ事だろ
金融緩和・財政出動をしても資産家が資産を増やすだけで、一般人は更に貧しくなるよ:
コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和 2020年6月14日

 新型コロナ危機が始まってからの約3カ月間、米国の富裕層が資産を約5650億j(62兆円)増やしていたことがわかった。米国の進歩的な政策研究所(inequality.org)が統計データを集計し、4日に報告書を発表した。過去最大規模の金融緩和の恩恵を受ける1%の富裕層と、コロナ禍で生きる糧を奪われる99%との格差がかつてなく拡大している。


 報告書によると、コロナ危機による世界経済の急激な停滞によって、3月18日からの約3カ月間で、新規失業手当を申請した米国人は4300万人(労働統計局)にのぼり、リーマン・ショック不況後に創出された雇用のほとんどが消滅した。これには自営業者として支援を申請した数百万人は含まれておらず、実態はさらに深刻だ。

inequality.orgサイトより

 同じ3カ月間に、富裕層の累計総資産は約5650億j増加した。現在、億万長者の資産総額は3・5兆j(385兆円)に達しており、新型コロナ流行の開始時に記録された最低水準から19・15%上昇している。一方、米国ではコロナ感染ですでに10万人以上が死亡しており、報告書のなかでは「パンデミックの最中、億万長者の富が急増していると同時に、何百万人もの人々が苦しみ、多くの困難や死に直面している。米国社会の不平等でグロテスクな現実だ」とのべている。

 この間、資産を飛躍的に延ばした主な富裕層は以下の通り。IT大手や投資関連の大企業が目立っている。

ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)362億j増

マッケンジー・ベゾス(前妻)126億j増

マーク・ザッカーバーグ(フェイスブックCEO)300億j増

イーロン・マスク(テスラCEO)141億j増

セルゲイ・ブリン(グーグル共同創業者)139億j増

ラリー・ペイジ(グーグル元CEO)137億j増

スティーブ・バルマー(マイクロソフト元CEO)133億j増

ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)118億j増

フィル・ナイト(ナイキ創業者)116億j増

ラリー・エリソン(オラクル会長)85億j増

ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイCEO)77億j増

マイケル・デル(デル創業者)76億j増など。


 富裕層の資産拡大の背景には、株式市場の異常な回復がある。連邦準備制度理事会(FRB)が緊急措置としてゼロ金利、無制限の債券買いとりなど、かつてない規模の金融緩和策を講じ、2月19日をピークに29%減まで急下降していたナスダック指数が史上最高値に迫るなど、株式市場は大幅に値上がりした。実体経済と乖離した市場の活況が富の移動をもたらし、格差拡大を加速させている。

 国連は5月末、2020年の世界経済は少なくとも3・2%縮小し、3億人以上が失業し、米国だけで3900万人が失業すると予測したが、実態はそれを上回る。米国内の医療保険未加入者は3000万人をこえ、コロナ禍に見舞われながらも医療の恩恵を受けることができず、多くの死者を出している。米国の失業率は今後20%に達することが予測されており、リーマン・ショック恐慌を上回る深刻さをみせている。

 報告書共著者であるチャック・コリンズ氏は「数百万人の苦しみと窮状と引き換えにもたらされた億万長者の富の急増は、私たちが今後数年で社会を回復するために必要な社会的連帯を損なう。これらの統計は、私たちがかつてなく経済的、人種的に分裂していることを示している」と声明でのべている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/148.html

[番外地8] 現在はマルクスが預言した通りの階級社会になっているから、世界がこれから共産社会になるというのは正しいですね。

現在はマルクスが預言した通りの階級社会になっているから、世界がこれから共産社会になるというのは正しいですね。
共産社会の予行演習はGHQが終戦直後の日本で実際に実施して成功しているから、それをそっくりそのまま真似すればいいんだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/149.html
[番外地8] イザベラ・バードは日本人のアイヌ人に対する迫害と差別を詳細に記している
イザベラ・バードは日本人のアイヌ人に対する迫害と差別を詳細に記している:
イザベラ・バードは8月26日に平取を発ち門別、佐瑠太、湧別、苫小牧、白老と来たコースを逆にとり、白老では海辺のアイヌ人を詳しく観察している。さらに幌別を経て9月2日に旧室蘭に至る。その後、噴火湾(内浦湾)沿いに、紋別、有珠を通り、9月6日に礼文華(れぶんげ)に至る。

「ここ(白老)のアイヌの住居は平取のものと比較するとずっと小さく、みすぼらしくて汚い。・・・屋根は山のアイヌ人のものよりもずっと平たい。・・・このようなむさくるしい家でも、いつも広い棚があり、日本の骨董品を並べてあった。・・・この村の多くの事実から考えれば、アイヌ人が日本人と接触することは有害であり、日本文明との接触によって益するところはなく、ただ多くの損を得るばかりであったことは明らかである。」とアイヌ人の行く末を危惧している。

イザベラ・バードの公平な観察態度や人間観は道南のアイヌを訪問したときに最も発揮される。アイヌ人から子どもの患者を診てほしいと持ち込まれたときに、伊藤はイザベラがこれらの人々に興味をもつことを非常にいやがり、彼は何度も「ただの犬です。」と言う、と紀行にある。他の箇所でも「アイヌ人を丁寧に扱うなんて! 彼らはただの犬です。人間ではありません。」と伊藤が言う場面もある。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/150.html

[近代史5] CSIS _ 背景はヤバい奴らのガチバトル
CSIS _ 背景はヤバい奴らのガチバトル
2020/08/04




http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/253.html

[番外地8] 新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器
新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過 若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する

新型コロナウィルスの特徴
・致死率はインフルエンザの110倍
・インフルエンザ並みの感染力
・1年中感染し、物の表面上でも2週間生存する
・動物にも感染する
・紫外線に弱く、エタノール、アルカリ、オゾンで殺菌出来る

感染を予防する行動について
・外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・手洗い、手の消毒(接触感染防止)
・目を触らない、顔を舐めない(接触感染防止)
・体調が悪い場合は外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・服を洗濯(接触感染防止) ・シャワー(接触感染防止)
・外出先でトイレを使わない(粉塵感染防止)
・3密 集まらない、近寄らない、密閉しない  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/151.html

[番外地8] 大西つねきの貨幣理論や生産性至上主義はどこがおかしいか?
大西つねきの貨幣理論や生産性至上主義はどこがおかしいか?
東海アマブログ |れいわ新撰組にナチスが……
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1179.html

大西つねきの発言は優生思想じゃなくて姥捨て山の思想だという意見を見た
俺の理解だと大西つねきは人間は高齢者になっていくにつれ社会の負担を与えて若者の迷惑になっていく
高齢者が若者に負担を与えすぎるならどこかの時点で高齢者が早く死んでくれるように
社会システムを作る議論をするべきじゃないかという考え

若い人の時間を高齢者のために無駄に使わせたくないという事だろうが、若い人の時間には価値があって高齢者の時間には価値がないという意味ですね
それはもはや人権も何もない世界の話です

そして子供の命には価値があって中年の命には価値がないとか、仕事できる人の命には価値があって仕事できない人の命には価値がないとか、どんどん細部に分けられますよね
根底には人間は働けなくなって介護が必要になった段階ですぐに死ぬ種族になるべきとの
優生思想がある

この思想を広げていくと、いろんな状況・立場の人が殺処分の対象になるね。

まず障がい者
あと自分で稼げないナマポは捨てられ
年収300万以下は捨てられ
独身小梨は捨てられ
不細工は捨てられ
優秀で生産的で魅力的な素晴らしい人間だけが残る訳だ

この人の考え方は「何も生み出さないものは不要」だから、カジノやパチンコはダメ。
東京オリンピックも、スポーツが何も生み出さないから中止すべきとしている。

この考え方だと、あらゆるスポーツや趣味、嗜好に関連する産業・企画・イベントは不要ということになる。
こんな人がリーダーになったら、非常につまらない社会になることは間違いないだろう。

生産性とゼロ産業に拘ってるみたいだけど
株やFXすら庶民から取り上げて、趣味はおろか投資なんかしてもしょうがないと言い切る


あと老後に関しては何も準備してなくて考えていないそうだ
そりゃそうだ
老人福祉は何も生産しないからな

大西つねきさんは祖父母や曾祖父母が長生きだったんで金と手間がかかって苦労したという、つねき自身の
家庭事情から発生した選別哲学だろうね。一人っ子だから、たぶん自分の二人の親の面倒見るのも嫌だったんだと思う。俺のカネと時間を奪うなってことだろうけど。
確かに一人っ子は自分の二人の親と、結婚してれば相手の二人の親の面倒見なくちゃいけないから
負担は大きい。しかしそれを政治的に選別して殺すというのは狂気だ。
そんな一人っ子が困らない社会を作るのが政治だろ。
この人の思想は、「津久井やまゆり園」で45人殺傷した植松聖と同じもの。

人の大切な親も、「政治で決まったんで死んでもらいます」と言って引き剥がして殺処分するんだ
それができれば若い人ももっと奴隷労働に打ち込めるとお考えなんでしょうねえ
親を殺され自分も殺処分されると知りながらお国のために生きるのはさぞかし充実した生き方になると
笑いが止まらんわ全く


_________________

そもそもノーベル賞学者や大芸術家なら100歳になっても殺さないんだろ。
ロックフェラーやジョージ・ソロスも100歳になっても殺さないんだろ。
大西つねき氏はそういう命の選別の不平等を許容するんだね。
上級国民は70歳を過ぎても臓器移植を受けさせて貰い、
若い下級国民は年取った上級国民の為に臓器を提供させられる。
まさにマルクスが預言した階級社会だね。
大西つねき氏はそういう階級社会を目指している事になる。


大西つねきさんは
現代では技術の進歩・効率化で生産効率が上がって、労働者は1日2, 3時間も働けば食べて行けると言ってたよね。だったら若い人には老人の介護をするくらいの時間的な余裕は十分ある筈だよね。

失業者は常に沢山居るんだから、十分な給料さえ出せば介護職に就きたい若者は幾らでも出て来るしね。

大西つねきさんは何時も

貨幣は幾らでも発行できる、
技術の進歩・効率化で労働者は1日2, 3時間も働けば十分だ

と言っているのに、下級国民の年寄りの医療・介護に使うお金と時間だけは無駄だという主張だね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/152.html

[番外地8] 経歴自体が胡散臭いんだよね
大西つねきさんの経済の話は全部大嘘だし
悪人というのは大西つねきの事でしょう

悪人は経歴自体が胡散臭いんだよね
為替の専門家ならFXで幾らでも稼げる筈なのに一切やらない
IT企業も上手く行かなくなって、会社の業務をピザ屋に変える
経済の専門家気取りなのに貨幣の信用創造すら理解できていない

最初から最後まで詐欺師の匂いプンプンなんだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/153.html

[近代史4] 覚醒剤中毒者が体験する世界 中川隆
10. 中川隆[-11961] koaQ7Jey 2020年8月04日 12:49:29 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[4]
覚醒剤中毒者が体験する世界

昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html


高村 士郎 - 三上博史
ひき逃げに遭い負傷。警察に通報、救急車に同乗してくれたまりあと恋に落ちる。始めは記憶喪失のふりをし素性を隠していたが、実は世界的に有名なピアニストだった。幼い頃から男性のピアニストに預けられ、英才教育を受けた末、彼の娘、百合子と結婚。ピアノを弾く機械のような生活を送っていた。しかし、自ら左手を傷つけ、ピアニスト生命を絶つ。

妻と離婚し、資産も名誉も捨ててまりあと暮らし始めてからは、過去のプライドと栄光が捨てられず自暴自棄になり、覚せい剤に溺れる。


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/423.html#c10

[] 「覚醒剤」
96. 中川隆[-11960] koaQ7Jey 2020年8月04日 12:50:26 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[5]
覚醒剤中毒者が体験する世界
昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html


高村 士郎 - 三上博史
ひき逃げに遭い負傷。警察に通報、救急車に同乗してくれたまりあと恋に落ちる。始めは記憶喪失のふりをし素性を隠していたが、実は世界的に有名なピアニストだった。幼い頃から男性のピアニストに預けられ、英才教育を受けた末、彼の娘、百合子と結婚。ピアノを弾く機械のような生活を送っていた。しかし、自ら左手を傷つけ、ピアニスト生命を絶つ。

妻と離婚し、資産も名誉も捨ててまりあと暮らし始めてからは、過去のプライドと栄光が捨てられず自暴自棄になり、覚せい剤に溺れる。
http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/126.html#c96

[] 経験者としての意見です。
45. 中川隆[-11959] koaQ7Jey 2020年8月04日 12:50:57 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[6]
覚醒剤中毒者が体験する世界
昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html


高村 士郎 - 三上博史
ひき逃げに遭い負傷。警察に通報、救急車に同乗してくれたまりあと恋に落ちる。始めは記憶喪失のふりをし素性を隠していたが、実は世界的に有名なピアニストだった。幼い頃から男性のピアニストに預けられ、英才教育を受けた末、彼の娘、百合子と結婚。ピアノを弾く機械のような生活を送っていた。しかし、自ら左手を傷つけ、ピアニスト生命を絶つ。

妻と離婚し、資産も名誉も捨ててまりあと暮らし始めてからは、過去のプライドと栄光が捨てられず自暴自棄になり、覚せい剤に溺れる。
http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/131.html#c45

[昼休み52] 何も知らない普通の人をドラッグの世界に引きずり込む手口 中川隆
91. 中川隆[-11958] koaQ7Jey 2020年8月04日 12:51:31 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[7]
覚醒剤中毒者が体験する世界
昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 鈴木保奈美・三上博史 この世の果て (フジテレビ 1994年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/997.html


高村 士郎 - 三上博史
ひき逃げに遭い負傷。警察に通報、救急車に同乗してくれたまりあと恋に落ちる。始めは記憶喪失のふりをし素性を隠していたが、実は世界的に有名なピアニストだった。幼い頃から男性のピアニストに預けられ、英才教育を受けた末、彼の娘、百合子と結婚。ピアノを弾く機械のような生活を送っていた。しかし、自ら左手を傷つけ、ピアニスト生命を絶つ。

妻と離婚し、資産も名誉も捨ててまりあと暮らし始めてからは、過去のプライドと栄光が捨てられず自暴自棄になり、覚せい剤に溺れる。
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/902.html#c91

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
8. 中川隆[-11960] koaQ7Jey 2020年8月04日 16:04:15 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[6]
3.弥生時代の世界情勢

朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c8

[近代史5] 朝鮮人の起源 中川隆
6. 中川隆[-11959] koaQ7Jey 2020年8月04日 16:04:55 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[7]
3.弥生時代の世界情勢

朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/194.html#c6

[近代史3] 日本語の系統とその遺伝子的背景 中川隆
5. 中川隆[-11958] koaQ7Jey 2020年8月04日 16:05:45 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[8]
3.弥生時代の世界情勢

朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/729.html#c5

[近代史4] 放射能汚染地帯から子供たちを避難させなかった人々
放射能汚染地帯から子供たちを避難させなかった人々
2020年08月04日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1207.html


 木村とものブログより 全文引用
 http://blog.livedoor.jp/medicalsolutions/archives/51966467.html

 『原発事故被害地おける、医師らによる「被曝調査活動」の本質』

 福島第一原発事故により放射能汚染された地域では、福島県立医大、弘前大、長崎大、東大などの医師らが住民の被曝調査活動を行っている。
医師らによる住民に対するこうした調査活動は、一見「人道的活動」にも見えるが、その本質を十分に見極めないと、後々大きな禍根を遺すことにもなりかねない。

 特に、東大医科学研究所が主体となって浜通りで展開されている「活動」については不審な点が多く、今後十分監視していかねばならないと考えている。
一昨年10月、南相馬市において住民の被曝による危険をいち早く注意喚起し、南相馬市長をはじめ、他の南相馬市議が積極的注意喚起行動をとらないなか、孤軍奮闘されてきた大山こういち市議と連絡をとるようになってから、私は一層東大による被曝調査活動に対し疑念を抱くこととなり、彼らの活動、言動についての矛盾点をことあるごとにTwitterで発信してきた。

 それらを総括して、今までの彼らの「活動」を一言で言うならば、それは、住民を使って「低線量被曝研究」を行い、それにより住民に「安心」を与える、つまり政府の「福島県民を避難させない政策」に「科学的根拠(?)」を与える使命をも兼ねたもの、「医療活動」というよりもむしろ「政治的活動」というのがその「本質」である、と結論できる。

 そもそも浜通り地域で「実働部隊」としてこの活動を行っている坪倉正治医師は、先輩の上昌広東大医科研特任教授に南相馬行きを命じられた、医師になって未だ十年にも満たない「大学院生」であり、放射線医学の専門家でもなければ、ましてや被曝医療の専門家でもない。

 そしてこの上昌広教授という人物は、数多くのメディアに度々登場する有名な医師で、MRICという医療系メルマガの編集長もしており、私も過去十数本の医療関係の記事をこのメルマガに投稿してきた。http://medg.jp/mt/

 彼は新聞記者、メディア関係者に顔が広く、作家の村上龍氏のJMMというメルマガと、このMRICも連動しており、過去も医療現場のさまざまな問題を、これらメディアを駆使して広めてきた方である。

 今回、こんな名も無い「単なる大学院生」が新聞を始めとした数多くのメディアに登場し、ややもすると「内部被曝の専門家」のように扱われてきたのは、この上教授の得意技である「メディア戦略」に他ならない。坪倉医師は言わば、上教授によってメディアを通じ「作られた専門家」、単なる彼の「パペット」に過ぎないと言える。

 また上教授は政治家とも親交が多く、民主党の仙谷由人前衆議院議員、鈴木寛元文部科学副大臣らとは親密であることは、多くのひとが知るところである。

 今回、彼が南相馬を中心とした浜通りに入り込んだのは、その仙谷由人氏から「相馬市の立谷市長を助けてやってくれ」との依頼を直接発災4日目に受けたことが発端である。(仙谷由人氏は原発推進派として有名)

 相馬市の立谷市長は、相馬市で病院を経営する医師。彼はその自分の地位と利権を失いたくなかったのであろう、事故直後から「米と味噌があれば生きて行ける」などと、住民とともに「籠城」を決め込んだ市長として有名な人物。
すぐに立谷氏と上教授は懇意となった。

 (これは私の推測だが、当時の政府執行部は福島市、郡山市の汚染が甚大であることを把握していた。しかし彼らを避難させると「経済的損失」は甚大。そんななか福島市、郡山市よりも線量の低い浜通りから多くの避難者が出てしまったら、中通りからも多くの住民が流出してしまう。だから浜通りを死守せよ、という指令だったのではないか、と思っている)

 南相馬では、彼は原町中央産婦人科医院の高橋亨平氏という末期ガンに冒された産婦人科医と共同、除染研究所などを設立して、住民らの手で除染させる活動を始める。そしてこの高橋医師が、私財を投じて精度の高いキャンベラ社のホールボディカウンターを導入、南相馬市立病院で内部被曝調査を開始。このころから、坪倉医師の名前が出始め、おそらく早野龍五教授もこのころから関わってきたようである。

(早野教授は震災直後から精力的にツイッターを駆使して、「安全論」を拡散してきた人物として有名。当時の投稿はツイログでは読めるが、TLからはすでに削除している)

 この高橋医師は「子どもはセシウムに強い」などと、汚染地域での出産育児を奨励している人物。逃げ出す医師が多いなか、留まって診療活動を行い続けたことに対して称賛する声は多いが、妊婦や子どもを避難させようという行動、言動は一切なく、いかに子どもたちが安心して暮らせるようにするか、つまり子どもたちが逃げ出さないよう、いかに汚染地域で暮らし続け復興させるか、を最優先に考えていた人物として、その活動については強い違和感を覚えずにはいられない。
(過日、ご逝去された)
http://www6.ocn.ne.jp/~syunran/

 話は前後するが、2011年4月、ある勉強会の後に上教授と飲んだ際、彼が私に酔っ払って言っていた言葉には驚いた。
「福島市も郡山市も、とてもじゃないが避難させられん。将来奴ら(福島県民のこと)は、集団訴訟とかするんやろなあ」
福島県民のことを「奴ら」と言った彼の口元を、思わず見返した記憶が今も鮮明に残っている。

 また、昨年4月ころ、医療ジャーナリストの伊藤隼也氏から直接聞いた話だが、上教授は伊藤氏に「南相馬はアブナイですよ」とハッキリ仰っている。
つまり上教授は、そもそも浜通りの住民の健康被害が発生することを予測しながら、住民避難を訴えずに活動している、ということである。

 伊藤氏は「彼は確信犯だよ」とも言っていたが、私自身のなかで東大の「活動」に対する疑念が「確信」に変わった瞬間であったと同時に、かつてはむしろ懇意にしていた人物がこのような言動を、住民の知らないところで平然と言い放っているという事実に接して、さすがの私も愕然とした。

 また、上教授の側近医師にも、彼の主導する活動について疑問を述べている医師もいる。その医師の立場もあるので名前は現時点では明かせないが、以前お会いした折に、「上教授は浜通りの汚染地域に、多くの若い医師や医療関係者を送り込んで、『来たれ若者』のように各所で言っているがどう思うか」と問うたところ、「自分も非常に危惧している。特に妊娠可能な若い女性医療関係者に汚染地域へ行かせることには強く反対なのだが、とてもじゃないが彼に言える雰囲気ではない」と苦渋の表情をしていた。
内部でもこのような声が上がっているという事実に、さらに驚くと同時に、問題の深刻さを改めて感じる。

 一方、東大のHPには、
「原発災害で大きな影響を受けた福島県浜通り地方において、住民の健康不安を解消する目的、および低線量被ばくを含む原発災害が人体へ及ぼす影響について調査するため、一般健診および健康相談会を行う。福島県浜通り地区の市民の方を対象に、住民の健康不安を解消する目的で、放射線が人体に及ぼす影響などについて説明をする」とある。こちらもぜひご覧いただきたい。

 彼らの「活動」は、あくまで「不安を解消し安心をもたらす」ものであって、決して住民に「危険を解消し安全をもたらす」ものではないことが、ここでもハッキリと理解できよう。
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/recovery/project_list.html

 また彼と昔から懇意の鈴木寛元文科副大臣は、子どもの年間20mSv問題での「戦犯」の一人であることは、皆さんご承知の通りと思う。

 知人の参議院議員からの話だが、ある民主党内の会議の場で、その知人が鈴木寛氏に20mSvについて異論を唱えたところ、別人のような剣幕で激昂して恫喝されたとのことだ。当時の民主党内でも「子どもを避難させるべき」との声は、必ずしも少なくなかったと聞いているが、そのような良識派の声を、恫喝により握り潰し、今も福島県の子どもたちに被曝を強いるという、非人道的行為を推し進めた鈴木寛元文科副大臣の責任は、今後厳しく追及されるべきものである。

 そんな鈴木寛氏や原発推進派の仙谷由人氏と懇意の上教授が、子どもたちに関する避難や原発の是非を一切述べないのは、ある意味納得出来ることと言えよう。

 これらの人脈を見ても、彼らの言う「住民目線に立った活動」というのは、住民を守るものなどでは決してなく、それを装い「調査研究」し、その結果をもって住民を「安心」させ、住民を汚染地域に縛り付けているという、誠に非人道的なものであることは明白である。

 さらに彼らは、福島県や福島県立医大を徹底的にメディアを使って攻撃することで、「自分らこそが住民を守る、真の医療活動をしている」とことあるごとにアピールしている。
確かに、発災直後からの彼らの医療活動については賞賛されるべきものもあるが、医療活動をしながらも、本来医師として一番行わねばならない、住民を避難させ住民に被曝回避させるといった行動、活動、言動を「除染」のほかには一切行ってこなかったことは、医師として到底許されるべきものではない。

 最近の坪倉医師、上教授らの決まり文句は
「地元住民の家庭菜園、未検査食材の摂食が、高い内部被曝の原因であり、継続的な検査が必要。汚染食材を食べなければ内部被曝は減少している。現在の内部被曝レベルでは健康被曝は起きると考えられないが、油断は禁物」
だ。

 いかがであろうか、これぞいわゆる「東大話法」ではないか。
「安心」させつつ、ちょっと注意喚起という、なかなか巧妙な「東大話法」だ。

 以前、山下俊一氏の100mSv発言のことを「やり方がヘタだ」と、亀田総合病院副院長の小松秀樹氏が指摘していた。
小松秀樹氏は「立ち去り型サボタージュ」の著作で有名な医師の「論客」だが、彼はさんざん前述の医療系メルマガMRICで「放射能トラウマ」という言葉をつかい、被曝よりも「心配」のほうがデメリットであると主張した。

 つまり彼らの主張は
「食べ物にさえ注意すれば汚染地域でも住み続けることは可能、心配しすぎずに復興しましょう」
ということなのである。

 因みに、これも私が何度も指摘してきたことだが、上教授は南相馬市の復興有識者会議の委員も務めている。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/kikaku/fukkousimin.jsp

 この地域を「新たな放射線医学の研究フィールドに」、などという恐ろしい計画まで立案されているが、以前、上教授もネットメディアで、「浜通りの被曝データは世界が喉から手が出るほど貴重なものとなる、これらを蓄積して世界に発信する、この地域を廃墟にするも聖地にするもやり方次第」などとも論じていたことからも、彼らの活動が、決して住民の健康を被曝から守る活動でないことは明白である。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/9497

 そもそも汚染地域の汚染もそのままに復興推進に協力する立場の人間が、住民に居住が危険であるとの根拠になるデータなどを示すことなど考えられない。
彼らの「活動」の本質を、一刻も早く多くの県民、国民に気づいて欲しいと切に願うばかりである。

 坪倉医師らは、さかんに「内部被曝は思ったほどではない、健康影響が出るとは考えにくい」と、さも内部被曝による健康影響に「閾値」があるかのごとく喧伝しているが、それに対する「科学的根拠」は一切示すことは出来ていない。
さて以下の問いに対して、彼らは果たして正確にそして誠実に回答できるであろうか。

 ・南相馬市は内部被曝より外部被曝のほうが問題となる、と以前早野教授も仰っていたが、坪倉医師らの見解は。

 ・汚染食材の摂取さえ気をつければいいと、メディアで発信しているが、それはホールボディカウンターの結果が汚染食材摂取の前後で低下傾向にある、ということのみから導き出したものか。

 ・食品汚染や内部被曝のリスクはセシウムだけにあらず、ということについての見解は。
 ・空間線量に反映されない南相馬市に散在している超高度汚染物質についての見解は。
 ・内部被曝測定をホールボディカウンターのみで行う理由は。なぜバイオアッセイを併用しないのか。ホールボディカウンター結果とバイオアッセイの結果を突合させるつもりはないのか。

 ・南相馬市で捕獲された野生猿の各臓器における汚染状況について知っているか。
 ・ホールボディカウンターで正確に測定出来ない子どもらについては、その家族を測定することで推測するかのような言説があったが、その見解に相違ないか。
 ・「子どもはセシウムに強い」という医師が南相馬市の復興に関与しているが、坪倉医師らの見解も同様か。

 ・上司の上教授は「本当は南相馬市は危ない」と仰っているようだが、坪倉医師らの見解も同様か。
 ・浜通りで子どもを産み育てることについて、坪倉医師らの医師としての見解は。
 ・よく「このくらいの値なら健康影響は考えられないレベル」との表現を使っているが、内部被曝に閾値は存在するのか、存在するならその数値はいかほどか。

 彼らの行っているホールボディカウンターによる内部被曝調査の結果が、将来住民に何らかの健康被害が生じた場合に「内部被曝は少ない」ゆえに「被曝と健康被害に因果関係なし」という根拠に使われてしまうことが、非常に危惧される。

 彼らの活動、言動に疑問を感ずる医師、市民らが、これら事実を多くの方々と共有し、彼らの活動について、多くの問題提起をし、多くの意見を発信していくことが、今後早急に必要と感じている。
**************************************************************
 引用以上

 私が、フクイチ事故後に行われた政府や福島県の対応で、もっとも激しく憤ったのは、汚染地域の年間被曝許容量を、それまでのICRP勧告の1ミリシーベルトから、20倍に引き上げたことで、これによって、福島県汚染地の子供たちを安全地帯に避難させない根拠にすり替えたことだ。

 現実問題として、2011年当時、南相馬市・伊達市・郡山市・福島市など重汚染地域では、現地で毎時10マイクロシーベルト、年間換算すれば9ミリシーベルト近い被曝地はざらにあった。
 私が現地を8回訪れて、直接調査した範囲でも、福島市渡利地区では、数十マイクロシーベルト、郡山市で宿泊したルートインホテルの植え込みでも10マイクロシーベルトを確認して、度肝を抜かれた。

 飯舘村では、4台持参したGM測定器が、すべて振り切れてしまった。
 友人と宿泊した新野地温泉では、出された極上の鮎の天ぷらを食べたところ、友人の耳下腺が真っ赤に腫れ上がりゴルフボールのようになった。

 当時、米軍の戦闘規定で、毎時0.3マイクロシーベルトが確認されれば撤退することになっていた。(資料がネット上から消されている)
 それなのに、日本政府は、年間20ミリを毎時に換算した2.3マイクロシーベルトを超えるのが普通の福島県汚染地域から、子供たちを一切避難させず強制被曝させ続けている。こんな国は世界中のどこにもない、日本だけだ。

 私が、とてつもなく異様さを感じたのは、日本共産党が、エートスを容認し、子供たちを避難させないで被曝地域に住まわせる政策を推進したこと、それを民主党政権まで容認したことだ。
 このエートスを容認するか、子供たちを避難させるかの判断が、日本の子供たちを被曝で死滅させるか、健全な環境の未来を確保するかの分かれ道なのだ。

エートス運動とは何か? 2019年06月06日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-767.html

 東大医学部の児玉龍彦教授は、福島第一原発事故後、国会証言で感動的な演説をおこなった。
 https://blog.goo.ne.jp/wa8823/e/3da6e6b6efeda5c2eb1afb848d394ab6

 これほど被曝のイロハを分かっている人は滅多にいないが、その人物でさえ、「除染」という虚構を持ち出して、住民を避難させない国の方針に加担した。

 東京大学は、東京電力から年間数十億円の協力金を受け取り続けてきたといわれる。
https://www.ombudsman.jp/nuclear/todaikogakubu.pdf

おそらく、児玉教授の医学部にも莫大な協力金が渡っていたのだろう。民主党や共産党がエートスを受け入れたのも、おそらく東電による政治献金など鼻薬が効いていたせいだろう。民主党は、フクイチ事故後も、原発再稼働や輸出推進に実に熱心で、枝野や菅
が、電力総連から多額の金を受け入れていたことが分かっている。

 言い換えれば、児玉氏も、民主党も共産党も、こうした東電の支援金と引き換えに、重汚染地の住民の安全と健康を売り飛ばしたのだ。
 だから、自民党安倍政権による犯罪的なジェノサイドともいうべき、年間20ミリシーベルト被曝許容量は、ほとんどどこからも反対されずにスムーズに実現してしまった。

 それでは、ICRP勧告における世界的な放射線被曝リスク係数は何を意味しているのか?
 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/etc/13-10-3Nitiben.pdf

日本国民全員(1億3000万人)が毎年1ミリシーベルトの被曝を受けたら2007年勧告のガン死リスク係数は、1ミリシーベルト当り5.5×10-5なので、
 1(ミリシーベルト/年)×5.5・10-5(ガン死/ミリシーベルト)×1.3・108(人)=7150(ガン死/年)
 ICRPが導入しているDDRF(低線量・低線量率低減係数)=2を無視したら1万4300(ガン死/年)となる

 上の京大原子炉実験所による説明では、1億3000万人の日本国民が、等しく1ミリシーベルトの被曝を受けると、年間7150人が癌死する(別に致死的な重度障害者が800名生まれる) これは低線量では被曝が低減されるという仮説に基づいた計算だが、これは根拠が脆弱で、実際には年間14300名が死亡する可能性があるという意味である。

 今中哲治氏は、チェルノブイリ事故地域に入って、被曝被害の調査を行ったが、最初のうちは、被曝被害を、ひどく軽く見積もっていたので、私は今中氏に激怒していたが、後に彼は、ある程度訂正したようだ。

 今回、転載した木村とも氏のブログでは、東京大学が、どれほど悪質な被曝問題のすり替えを行って、重汚染地帯から住民を避難させずに、それを正当化しているかを告発している。
 上のICRPリスク係数からは、東京大学や日本共産党、旧民主党勢力が容認する年間20ミリシーベルトという被曝量で何が起きるのか鮮明に明らかになる。

 被曝被害の係数は一次関数なので、被曝量が20倍になれば、被害も20倍になる。
 つまり、日本国民1.3億人が年間20ミリシーベルトの被曝を受けた場合、年間143000名が癌死(根拠の不明瞭な低減係数を無視すれば、年間286000名)するのである。
 これを「ジェノサイド」といわずして何と言うのだ!

 ナチスのT4作戦で、ドイツの障害者をジェノサイドしたが、この総数が40万人と言われている。それほど大きな違いはないのだ。
 この恐ろしい被曝強要を、日本政府は福島県の放射能汚染被曝者たちに強要しているのだ。
 私は、政府を断じて許さないが、それ以上に、日本共産党や立憲民主党などのエートス容認を許さない。東京大学を許さない。 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1207.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/986.html

[番外地7] 北海道はアイヌ人に返してやれよ  中川隆
1. 中川隆[-11957] koaQ7Jey 2020年8月04日 22:44:39 : 4wa5lgiqGM : Zm5Xd04xSkducHM=[2]
日本人はyyからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫
日本人には縄文人の遺伝子は10%しか入っていない。

今生き残っている縄文人の子孫はxx民とアイヌ人だけです。
yy からの渡来人が平安貴族や武士になって縄文系日本人を迫害したのが日本の歴史です。

ロシアには純血アイヌがいるみたいだね
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、

そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。
1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。
 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」
 
 ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。


▲△▽▼


アイヌ語を話している東日本縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話している西日本縄文人は縄文時代後期に南朝鮮から渡来した

神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。

弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

従って結論は

日本人は朝鮮人だった

▲△▽▼
アイヌは日本人じゃないよ、日本人はyyからの渡来人、アイヌ人は縄文人の直系の子孫だから別民族だよ:
北海道は先住民のアイヌに返さないといけない
日本人には縄文人の遺伝子は10%しか入っていないです。
今生き残っている縄文人の子孫は xx民とアイヌ人だけです。
yy からの渡来人が平安貴族や武士になって縄文系日本人を迫害したのが日本の歴史です。

ロシアには純血アイヌがいるみたいだね
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、

そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。
1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。
2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。
 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」
 
 ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。


▲△▽▼


アイヌ語を話していた縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話していた西日本縄文時代人は縄文時代後期に南朝鮮から渡来した

神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393


現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。

弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

従って
結論は

日本人は朝鮮人だった
アイヌ人は北海道縄文人の直系の子孫だった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/877.html#c1

[近代史5] 日本語の起源
日本語の起源


朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。


朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

▲△▽▼

Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。


▲△▽▼


弥生時代の世界情勢 朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
1. 中川隆[-11956] koaQ7Jey 2020年8月05日 07:20:20 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[1]

日本語の系統とその遺伝子的背景
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/729.html

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html

弥生文化のルーツ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html

弥生人の鳥信仰と太陽信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html

弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c1

[近代史5] 弥生人の起源

弥生人の起源


朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。


言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3


▲△▽▼


Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。

ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。


▲△▽▼


3.弥生時代の世界情勢 朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
1. 中川隆[-11955] koaQ7Jey 2020年8月05日 07:26:20 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[2]

ハプログループ O1b2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/176.html

弥生文化のルーツ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html

弥生人の鳥信仰と太陽信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html

弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c1

[番外地8] トランプやクリントンは中朝のスパイだった
中国共産党の味方(スパイ)は現在はトランプだけだよ
トランプやクリントンは中朝のスパイだった

ボルトン前米大統領補佐官は暴露本で、トランプが習近平に大統領選の選挙協力を依頼したと書いた。

著書はまだ出版されておらず一部を公表しただけだが、現職大統領がスパイ行為を働きt工作員のようなことをしていた。

トランプは北朝鮮の金正恩とも取引をし、非核化したら日本が金を払うなどと言っていたようだ。

トランプは日本に関して米軍駐留費8500億ドルも払わせる計画で、まさにATM扱いしていた。

安倍首相は外交駆け引きがまったく分かっていない人なので、柴犬のように忠実に振舞い完全に舐められた。

こんな時トランプに重く扱ってもらいたいなら、北朝鮮のように核武装してアメリカに突きつけるのが正解

米中対立はトランプの演技か

米中対立はコロナ後の第二段階に突入しようとしており、試合前の駆け引きが活発化している。

米国内ではトランプ大統領に解任されたボルトン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)がトランプの暴露本を出版する。

トランプ大統領は中国の習近平に大統領選への協力を依頼し、米国製農産物を大量に買うよう勧めた。


見返りにトランプは「ウイグル弾圧を見逃す」と言ったというが、これが事実ならトランプはナチス以下という事になる。

トランプは「ウイグル人は強制収容所に入れれば良い」と言い、実際に中国はそうしているしアメリカは『見逃して』いる。

アメリカは表向き中国の少数民族弾圧を非難しながら、裏では見逃すことで見返りを得ていた。


こうした行為はトランプだけではなく、”人道派”のクリントン大統領はチベット弾圧を見逃して経済協力した。

オバマもウイグルやチベットを見逃す見返りに中国と経済協力していたし、一皮剥けば同じ穴のムジナだ。

トランプ大統領もそうだった訳で、国際社会とはこの程度の人たちによって構成されている。


とは言え大統領がどう考えようともアメリカの利害は中国を衰退させ潰す事にあり、そうしないとアメリカが亡ぶ。

もし1945年にアメリカが日独を潰せなかった世界を考えると、おそらく日独を中心に世界は動いていたでしょう。

アメリカが消滅する事はなかっただろうが、その後の戦後世界でアメリカは超大国になれなかった。

米中対立はトランプが中国のスパイでも変わらない

トランプの表裏

 ボルトン氏によれば、2019年に大阪で開催されたG20サミットの際の米中首脳会談で、習主席は米国の政治家が今日の米中関係を新冷戦だと呼んで、誤った判断をしていると指摘しました。トランプ大統領は政治家を民主党議員だと思い込み、習主席に賛意を表しながら同党の中に中国に対する敵意があると述べたと、ボルトン氏は振り返っています。

 その後でトランプ大統領が突然、習主席に中国経済は大統領選挙に影響を与えるとそれとなく言い、次の大統領選挙で勝つことを確実にするために、米国産の農産物の購入を熱心に頼んだというのです。ボルトン氏は、トランプ氏が農家の票と中国が米国産の大豆と小麦を購入することが重要だと強調したと明かしました。

 ただこの箇所についてボルトン氏は、トランプ大統領の正確な言葉で出版したかったが、出版前の政府による検閲プロセスの中で、別な方法で表現することになったと記述しています。

 米中西部アイオワ州及びウィスコンシン州などの農家は、トランプ大統領の極めて重要な支持基盤です。農家の票を固めて大統領選挙を有利に戦うには、中国による米国産の農産物購入が鍵を握ります。トランプ氏は昨年、演説の中で中国が米国産の農産物を大量に購入するので、農家は大きなトラクターと土地を買ったらどうかと勧めていました。

 トランプ大統領は米中貿易戦争において中国からの輸入品に容赦なく関税を課して厳しい態度をとり、表では有権者に「強いリーダー」をアピールしています。しかし裏では、習氏に「懇願」していたのです。回顧録でトランプ氏の表裏のある行動が明らかになりました。


「手玉」と「無知」

 ボルトン氏は米ABCニュースとのインタビューで、トランプ大統領は外国首脳にとってあやつりやすく、しかも驚くほど知識がなかったと率直に語りました。

 回顧録には18年12月にブエノスアイレスで開催されたG20サミットの際の米中首脳会談で、習主席がトランプ大統領に「あなたと一緒にもう6年間仕事をしたい」と伝えたと記されています。これに対して、トランプ大統領は「米国民は憲法で大統領の任期を2期までに制限しているのを廃止するべきだと語っている」と返事をしたというのです。

 同年12月19日に行われた米中首脳による電話会談においも、習主席はトランプ大統領に米憲法を修正して、大統領職に長く就いてもらいたいと述べたと、ボルトン氏は書いています。このあたりは、トランプ大統領を快適にして手玉に取ろうとする習主席の思惑がはっきり見えます。

 ボルトン氏は回顧録の中で、トランプ大統領が恥をかくような発言を紹介しています。例えば、トランプ氏が習主席に「あなたは300年の歴史の中で最も偉大なリーダーだ」と告げ、数分後に「中国の歴史の中で最も偉大なリーダーだ」と言い直したと書いています。米国は建国243年ですが、中国には3000年以上の歴史があります。

 さらに、トランプ大統領は民主化を求めて北京の天安門に集まった学生や市民を軍隊が武力行使で鎮圧した天安門事件に関して、「15年前のことは気にしない」と、ボルトン氏に語りました。天安門事件は1989年6月に起こりました。ボルトン氏は回顧録の中でトランプ氏の無知を指摘しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/154.html

[番外地8] トランプ大統領の姪のメアリー・トランプさん(55)が7月14日、同大統領に関する暴露本「Too Much and Never Enough: How My Family Created the World’s Most Dangerous
トランプは金以外には何も興味無い
臨床心理士でトランプ大統領の姪のメアリー・トランプさん(55)が7月14日、同大統領に関する暴露本「Too Much and Never Enough: How My Family Created the World’s Most Dangerous Man(終わりなき欲望:どのようにして我が一族は最も危険な男を作り上げたのか」を出版しました。トランプ一族が初めて書いた暴露本として全米で注目を浴びています。

 メアリーさんは著書で、どのような環境要因が叔父にあたるトランプ大統領の性格形成に影響を与えたと分析しているのでしょうか。トランプ氏にはどのような思考回路及び行動パターンがあると観察しているのでしょうか。また、この暴露本は11月3日の米大統領選挙にどの程度影響を及ぼすのでしょうか。

 本稿ではメアリーさんと6月に回顧録を出版したジョン・ボルトン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の告発の共通点を取り上げながら、暴露本を読み解きます。

トランプのパーソナリティ
 メアリーさんはトランプ大統領の父親であるフレッド・トランプ氏の世界観が、同大統領の性格形成に多大な影響を及ぼしたとみています。フレッド氏のルールは、男はタフであり続けることでした。そのためにはウソは許容され、ミスを認めて謝罪することは「弱さ」だと叩き込まれたのです。トランプ家では謝罪はタブーで、親切心は弱さでした。

 何が正しくて悪いのかの価値基準が、トランプ家と学校では全く相違していたのです。従って、同家の評価方法は社会のそれとも異なっていました。

 さらに、フレッド氏の世界観は「人生における勝者は1人のみ。他は敗者である」でした。同氏は勝者と敗者を明確に区別していたのです。

 メアリーさんの父親で長男のフレッド・トランプ・ジュニア氏は、フレッド氏の厳格なルール及び世界観を受容できませんでした。メアリーさんによれば、あるときジュニア氏が仕事がうまくいかなかったために、フレッド氏に謝ると長男の失敗をあざけったというのです。

 父親と長男の関係を観察して学習したのが、次男のトランプ大統領でした。トランプ氏は兄よりも自分の方が優れていると父親に信じ込ませることに成功し、信頼を勝ち取りました。

父親の影響
 メアリーさんのトランプ大統領の性格形成の分析は、かなり説得力があります。というのは、筆者がこれまでに参加した大規模集会でトランプ大統領は支持者に向かって、「勝って勝って勝ちまくるんだ」と繰り返し強調していたからです。同大統領が過度に勝ちにこだわる点は、明らかに父親の影響です。

 トランプ大統領の思考回路では、米国のみが勝者なのです。国際協調は弱さです。そもそもトランプ氏には自分と相手の双方が勝つ「ウイン・ウイン(勝者・勝者)」という概念がないことを同盟国の政治指導者は理解するべきです。

 「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」には、勝者と敗者の論理が根底にあります。この点も父親の影響といえそうです。

 加えて、謝罪をしないこと及びウソをつくこともトランプ大統領の特徴です。あるトランプ集会に参加したとき、白人女性の支持者の1人が筆者に「トランプはめったに謝らない」と語っていました。例えば、バラク・オバマ前大統領がアフリカで生まれたと間違った主張をしたときも、謝罪しませんでした。

 トランプ政権のジェームズ・マティス前国防長官並びにボルトン前大統領補佐官はトランプ大統領はウソをつくと指摘しています。元政府高官が公の場で明確にそう述べるのは異例でしょう。

 トランプ大統領の思考回路には父親のルール及び世界観が完全にインプットされています。トランプ氏のすべての言動は父親に通じているのです。

「替え玉受験」の真相
 暴露本の中で米メディアが特に取り上げているのが、トランプ大統領の「替え玉受験」です。高校時代のGPA(Grade Point Average:成績平均値)が低く、トップクラスにはるかに及ばなかったので、希望校に入学できないと懸念したトランプ氏は、頭の良い生徒であったジョー・シャピロ氏に金銭を支払い、大学進学適正試験(SAT)を「替え玉受験」させたと、メアリーさんは記述しています。

 当時は写真付きの身分証明書やコンピューターによる記録の必要がなかったので、「替え玉受験」が簡単にうまくやり通すことができました。しかも、トランプ大統領はメアリーさんの父親にペンシルべニア大学の入試担当事務局で働いている友人に連絡をとるように頼んだというのです。おそらくトランプ大統領は兄に口を利いてもらいたかったのでしょう。

 米メディアによれば、シャピロ氏は1999年に死亡しました。弁護士のシャピロ氏は、ウォルトディズニーの役員でカリフォルニア州立大学の講師でした。元プロのテニスプレーヤーの未亡人は、トランプ大統領とシャピロ氏はペンシルべニア大学で出会い、ゴルフ仲間であり、「替え玉受験」はなかったと語っています。

 しかし、メアリーさんは米ABCニュースとのインタビューでトランプ氏の「替え玉受験」について、「叔父に近い筋から聞きました。真実だと確信しています」と述べました。

 さて、今回の米大統領選挙はコロナ禍の影響で郵便投票で行われる公算が高まっています。これに対して、トランプ大統領は郵便投票における不正の可能性を理由として挙げ、猛反対して、写真付きの身分証明書の提示による従来型の投票を主張しています。

 仮にメアリーさんの告発が真実であれば、トランプ大統領は写真付きの身分証明書の必要がなかったので「替え玉受験」ができました。そのトランプ氏が、今度は「替え玉投票」をさせないために写真付きの身分証明書を厳しく要求しているのです。

ボルトン回顧録との共通点
 メアリーさんとボルトン氏の主張には共通点があります。メアリーさんは「トランプ大統領が2期務めれば、米国の民主主義は終わりだ」と警鐘を鳴らしています。ボルトン氏は「米国は後戻りができなくなる」と警告しています。

 さらに、メアリー暴露本とボルトン回顧録からトランプ大統領の行動パターンが明らかになりました。メアリーさんは著書で、トランプ大統領の姉のマリアンさんが、「ドナルドは撮影のあるときのみ教会に行く(中略)原則がない。何もない!」と語ったと紹介しています。カメラが回っているときにトランプ氏が礼拝に行く理由は、信仰心が厚いと見られたいからです。

 そう言えば、ホワイトハウス周辺に人種差別反対の抗議デモの活動家が集まると、トランプ大統領は催涙ガスやゴム弾で彼らを追い払いました。その後、徒歩でホワイトハウスの近くにあるセント・ジョンズ教会に行き、その前で右手に聖書を掲げて記念撮影を行ったのです。記念撮影を通じて、信仰心が厚い大統領を支持基盤であるキリスト教福音派にアピールしました。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/155.html

[番外地8] トランプやクリントンは中朝のスパイだった 中川隆
1. 中川隆[-11954] koaQ7Jey 2020年8月05日 08:30:31 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[3]
中国共産党の味方(スパイ)は現在はトランプだけだよ
トランプ大統領は日本や韓国に対し、「安全保障ただ乗り」批判を繰り返し、駐留米軍費用の大幅増額を要求してきている。大統領は日本や韓国が大幅な防衛分担増に応じない場合、将来的な米軍撤退も取引材料にする意向さえちらつかせてきた。
中国人民解放軍が南シナ海、尖閣諸島周辺での軍事活動をにわかに活発化させてきたのは、トランプ政権発足後だ。
トランプ大統領は一時、中国のご機嫌伺い目的で台湾への軍事援助に及び腰になり、日韓両国に対しては、防衛分担を現状の5倍という法外な増加を要求し、受け入れなければ米軍撤退をちらつかせるなど、同盟関係を弱体化させ、中国を大胆な行動へと駆り立てる言動を繰り返してきた。

トランプやクリントンは中朝のスパイだった
ボルトン前米大統領補佐官は暴露本で、トランプが習近平に大統領選の選挙協力を依頼したと書いた。

著書はまだ出版されておらず一部を公表しただけだが、現職大統領がスパイ行為を働きt工作員のようなことをしていた。

トランプは北朝鮮の金正恩とも取引をし、非核化したら日本が金を払うなどと言っていたようだ。

トランプは日本に関して米軍駐留費8500億ドルも払わせる計画で、まさにATM扱いしていた。

安倍首相は外交駆け引きがまったく分かっていない人なので、柴犬のように忠実に振舞い完全に舐められた。

こんな時トランプに重く扱ってもらいたいなら、北朝鮮のように核武装してアメリカに突きつけるのが正解

米中対立はトランプの演技か

米中対立はコロナ後の第二段階に突入しようとしており、試合前の駆け引きが活発化している。

米国内ではトランプ大統領に解任されたボルトン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)がトランプの暴露本を出版する。

トランプ大統領は中国の習近平に大統領選への協力を依頼し、米国製農産物を大量に買うよう勧めた。


見返りにトランプは「ウイグル弾圧を見逃す」と言ったというが、これが事実ならトランプはナチス以下という事になる。

トランプは「ウイグル人は強制収容所に入れれば良い」と言い、実際に中国はそうしているしアメリカは『見逃して』いる。

アメリカは表向き中国の少数民族弾圧を非難しながら、裏では見逃すことで見返りを得ていた。


こうした行為はトランプだけではなく、”人道派”のクリントン大統領はチベット弾圧を見逃して経済協力した。

オバマもウイグルやチベットを見逃す見返りに中国と経済協力していたし、一皮剥けば同じ穴のムジナだ。

トランプ大統領もそうだった訳で、国際社会とはこの程度の人たちによって構成されている。


とは言え大統領がどう考えようともアメリカの利害は中国を衰退させ潰す事にあり、そうしないとアメリカが亡ぶ。

もし1945年にアメリカが日独を潰せなかった世界を考えると、おそらく日独を中心に世界は動いていたでしょう。

アメリカが消滅する事はなかっただろうが、その後の戦後世界でアメリカは超大国になれなかった。

米中対立はトランプが中国のスパイでも変わらない

トランプの表裏

 ボルトン氏によれば、2019年に大阪で開催されたG20サミットの際の米中首脳会談で、習主席は米国の政治家が今日の米中関係を新冷戦だと呼んで、誤った判断をしていると指摘しました。トランプ大統領は政治家を民主党議員だと思い込み、習主席に賛意を表しながら同党の中に中国に対する敵意があると述べたと、ボルトン氏は振り返っています。

 その後でトランプ大統領が突然、習主席に中国経済は大統領選挙に影響を与えるとそれとなく言い、次の大統領選挙で勝つことを確実にするために、米国産の農産物の購入を熱心に頼んだというのです。ボルトン氏は、トランプ氏が農家の票と中国が米国産の大豆と小麦を購入することが重要だと強調したと明かしました。

 ただこの箇所についてボルトン氏は、トランプ大統領の正確な言葉で出版したかったが、出版前の政府による検閲プロセスの中で、別な方法で表現することになったと記述しています。

 米中西部アイオワ州及びウィスコンシン州などの農家は、トランプ大統領の極めて重要な支持基盤です。農家の票を固めて大統領選挙を有利に戦うには、中国による米国産の農産物購入が鍵を握ります。トランプ氏は昨年、演説の中で中国が米国産の農産物を大量に購入するので、農家は大きなトラクターと土地を買ったらどうかと勧めていました。

 トランプ大統領は米中貿易戦争において中国からの輸入品に容赦なく関税を課して厳しい態度をとり、表では有権者に「強いリーダー」をアピールしています。しかし裏では、習氏に「懇願」していたのです。回顧録でトランプ氏の表裏のある行動が明らかになりました。


「手玉」と「無知」

 ボルトン氏は米ABCニュースとのインタビューで、トランプ大統領は外国首脳にとってあやつりやすく、しかも驚くほど知識がなかったと率直に語りました。

 回顧録には18年12月にブエノスアイレスで開催されたG20サミットの際の米中首脳会談で、習主席がトランプ大統領に「あなたと一緒にもう6年間仕事をしたい」と伝えたと記されています。これに対して、トランプ大統領は「米国民は憲法で大統領の任期を2期までに制限しているのを廃止するべきだと語っている」と返事をしたというのです。

 同年12月19日に行われた米中首脳による電話会談においも、習主席はトランプ大統領に米憲法を修正して、大統領職に長く就いてもらいたいと述べたと、ボルトン氏は書いています。このあたりは、トランプ大統領を快適にして手玉に取ろうとする習主席の思惑がはっきり見えます。

 ボルトン氏は回顧録の中で、トランプ大統領が恥をかくような発言を紹介しています。例えば、トランプ氏が習主席に「あなたは300年の歴史の中で最も偉大なリーダーだ」と告げ、数分後に「中国の歴史の中で最も偉大なリーダーだ」と言い直したと書いています。米国は建国243年ですが、中国には3000年以上の歴史があります。

 さらに、トランプ大統領は民主化を求めて北京の天安門に集まった学生や市民を軍隊が武力行使で鎮圧した天安門事件に関して、「15年前のことは気にしない」と、ボルトン氏に語りました。天安門事件は1989年6月に起こりました。ボルトン氏は回顧録の中でトランプ氏の無知を指摘しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/154.html#c1

[番外地8] トランプやクリントンは中朝のスパイだった 中川隆
2. 中川隆[-11953] koaQ7Jey 2020年8月05日 08:36:41 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[4]
中国共産党の味方(スパイ)は現在はトランプだけだよ
トランプ大統領は就任直後の2017年2月、習近平氏との初の電話会談を行った際、中国側のかねてからの主張である「一つの中国」の立場への支持を早々と表明、これに気を良くした習近平氏は同年4月、早速、訪米し、フロリダ州のトランプ氏自慢の別荘で親密な首脳会談を行った。トランプ氏はその際、「中国の偉大な指導者である習近平主席を大いに尊敬している」と述べ、対中個人外交への自信を吐露した。

トランプ大統領は日本や韓国に対し、「安全保障ただ乗り」批判を繰り返し、駐留米軍費用の大幅増額を要求してきている。大統領は日本や韓国が大幅な防衛分担増に応じない場合、将来的な米軍撤退も取引材料にする意向さえちらつかせてきた。
中国人民解放軍が南シナ海、尖閣諸島周辺での軍事活動をにわかに活発化させてきたのは、トランプ政権発足後だ。
トランプ大統領は一時、中国のご機嫌伺い目的で台湾への軍事援助に及び腰になり、日韓両国に対しては、防衛分担を現状の5倍という法外な増加を要求し、受け入れなければ米軍撤退をちらつかせるなど、同盟関係を弱体化させ、中国を大胆な行動へと駆り立てる言動を繰り返してきた。

トランプやクリントンは中朝のスパイだった
ボルトン前米大統領補佐官は暴露本で、トランプが習近平に大統領選の選挙協力を依頼したと書いた。

著書はまだ出版されておらず一部を公表しただけだが、現職大統領がスパイ行為を働きt工作員のようなことをしていた。

トランプは北朝鮮の金正恩とも取引をし、非核化したら日本が金を払うなどと言っていたようだ。

トランプは日本に関して米軍駐留費8500億ドルも払わせる計画で、まさにATM扱いしていた。

安倍首相は外交駆け引きがまったく分かっていない人なので、柴犬のように忠実に振舞い完全に舐められた。

こんな時トランプに重く扱ってもらいたいなら、北朝鮮のように核武装してアメリカに突きつけるのが正解

米中対立はトランプの演技か

米中対立はコロナ後の第二段階に突入しようとしており、試合前の駆け引きが活発化している。

米国内ではトランプ大統領に解任されたボルトン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)がトランプの暴露本を出版する。

トランプ大統領は中国の習近平に大統領選への協力を依頼し、米国製農産物を大量に買うよう勧めた。


見返りにトランプは「ウイグル弾圧を見逃す」と言ったというが、これが事実ならトランプはナチス以下という事になる。

トランプは「ウイグル人は強制収容所に入れれば良い」と言い、実際に中国はそうしているしアメリカは『見逃して』いる。

アメリカは表向き中国の少数民族弾圧を非難しながら、裏では見逃すことで見返りを得ていた。


こうした行為はトランプだけではなく、”人道派”のクリントン大統領はチベット弾圧を見逃して経済協力した。

オバマもウイグルやチベットを見逃す見返りに中国と経済協力していたし、一皮剥けば同じ穴のムジナだ。

トランプ大統領もそうだった訳で、国際社会とはこの程度の人たちによって構成されている。


とは言え大統領がどう考えようともアメリカの利害は中国を衰退させ潰す事にあり、そうしないとアメリカが亡ぶ。

もし1945年にアメリカが日独を潰せなかった世界を考えると、おそらく日独を中心に世界は動いていたでしょう。

アメリカが消滅する事はなかっただろうが、その後の戦後世界でアメリカは超大国になれなかった。

米中対立はトランプが中国のスパイでも変わらない

トランプの表裏

 ボルトン氏によれば、2019年に大阪で開催されたG20サミットの際の米中首脳会談で、習主席は米国の政治家が今日の米中関係を新冷戦だと呼んで、誤った判断をしていると指摘しました。トランプ大統領は政治家を民主党議員だと思い込み、習主席に賛意を表しながら同党の中に中国に対する敵意があると述べたと、ボルトン氏は振り返っています。

 その後でトランプ大統領が突然、習主席に中国経済は大統領選挙に影響を与えるとそれとなく言い、次の大統領選挙で勝つことを確実にするために、米国産の農産物の購入を熱心に頼んだというのです。ボルトン氏は、トランプ氏が農家の票と中国が米国産の大豆と小麦を購入することが重要だと強調したと明かしました。

 ただこの箇所についてボルトン氏は、トランプ大統領の正確な言葉で出版したかったが、出版前の政府による検閲プロセスの中で、別な方法で表現することになったと記述しています。

 米中西部アイオワ州及びウィスコンシン州などの農家は、トランプ大統領の極めて重要な支持基盤です。農家の票を固めて大統領選挙を有利に戦うには、中国による米国産の農産物購入が鍵を握ります。トランプ氏は昨年、演説の中で中国が米国産の農産物を大量に購入するので、農家は大きなトラクターと土地を買ったらどうかと勧めていました。

 トランプ大統領は米中貿易戦争において中国からの輸入品に容赦なく関税を課して厳しい態度をとり、表では有権者に「強いリーダー」をアピールしています。しかし裏では、習氏に「懇願」していたのです。回顧録でトランプ氏の表裏のある行動が明らかになりました。


「手玉」と「無知」

 ボルトン氏は米ABCニュースとのインタビューで、トランプ大統領は外国首脳にとってあやつりやすく、しかも驚くほど知識がなかったと率直に語りました。

 回顧録には18年12月にブエノスアイレスで開催されたG20サミットの際の米中首脳会談で、習主席がトランプ大統領に「あなたと一緒にもう6年間仕事をしたい」と伝えたと記されています。これに対して、トランプ大統領は「米国民は憲法で大統領の任期を2期までに制限しているのを廃止するべきだと語っている」と返事をしたというのです。

 同年12月19日に行われた米中首脳による電話会談においも、習主席はトランプ大統領に米憲法を修正して、大統領職に長く就いてもらいたいと述べたと、ボルトン氏は書いています。このあたりは、トランプ大統領を快適にして手玉に取ろうとする習主席の思惑がはっきり見えます。

 ボルトン氏は回顧録の中で、トランプ大統領が恥をかくような発言を紹介しています。例えば、トランプ氏が習主席に「あなたは300年の歴史の中で最も偉大なリーダーだ」と告げ、数分後に「中国の歴史の中で最も偉大なリーダーだ」と言い直したと書いています。米国は建国243年ですが、中国には3000年以上の歴史があります。

 さらに、トランプ大統領は民主化を求めて北京の天安門に集まった学生や市民を軍隊が武力行使で鎮圧した天安門事件に関して、「15年前のことは気にしない」と、ボルトン氏に語りました。天安門事件は1989年6月に起こりました。ボルトン氏は回顧録の中でトランプ氏の無知を指摘しています。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/154.html#c2

[番外地8] トランプ大統領の姪のメアリー・トランプさん(55)が7月14日、同大統領に関する暴露本「Too Much and Never Enough: How My F… 中川隆
1. 中川隆[-11952] koaQ7Jey 2020年8月05日 08:44:27 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[5]
馬渕先生は何もわかっていない _ トランプは自分の損得以外には何も興味無い
臨床心理士でトランプ大統領の姪のメアリー・トランプさん(55)が7月14日、同大統領に関する暴露本「Too Much and Never Enough: How My Family Created the World’s Most Dangerous Man(終わりなき欲望:どのようにして我が一族は最も危険な男を作り上げたのか」を出版しました。トランプ一族が初めて書いた暴露本として全米で注目を浴びています。

 メアリーさんは著書で、どのような環境要因が叔父にあたるトランプ大統領の性格形成に影響を与えたと分析しているのでしょうか。トランプ氏にはどのような思考回路及び行動パターンがあると観察しているのでしょうか。また、この暴露本は11月3日の米大統領選挙にどの程度影響を及ぼすのでしょうか。

 本稿ではメアリーさんと6月に回顧録を出版したジョン・ボルトン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の告発の共通点を取り上げながら、暴露本を読み解きます。

トランプのパーソナリティ
 メアリーさんはトランプ大統領の父親であるフレッド・トランプ氏の世界観が、同大統領の性格形成に多大な影響を及ぼしたとみています。フレッド氏のルールは、男はタフであり続けることでした。そのためにはウソは許容され、ミスを認めて謝罪することは「弱さ」だと叩き込まれたのです。トランプ家では謝罪はタブーで、親切心は弱さでした。

 何が正しくて悪いのかの価値基準が、トランプ家と学校では全く相違していたのです。従って、同家の評価方法は社会のそれとも異なっていました。

 さらに、フレッド氏の世界観は「人生における勝者は1人のみ。他は敗者である」でした。同氏は勝者と敗者を明確に区別していたのです。

 メアリーさんの父親で長男のフレッド・トランプ・ジュニア氏は、フレッド氏の厳格なルール及び世界観を受容できませんでした。メアリーさんによれば、あるときジュニア氏が仕事がうまくいかなかったために、フレッド氏に謝ると長男の失敗をあざけったというのです。

 父親と長男の関係を観察して学習したのが、次男のトランプ大統領でした。トランプ氏は兄よりも自分の方が優れていると父親に信じ込ませることに成功し、信頼を勝ち取りました。

父親の影響
 メアリーさんのトランプ大統領の性格形成の分析は、かなり説得力があります。というのは、筆者がこれまでに参加した大規模集会でトランプ大統領は支持者に向かって、「勝って勝って勝ちまくるんだ」と繰り返し強調していたからです。同大統領が過度に勝ちにこだわる点は、明らかに父親の影響です。

 トランプ大統領の思考回路では、米国のみが勝者なのです。国際協調は弱さです。そもそもトランプ氏には自分と相手の双方が勝つ「ウイン・ウイン(勝者・勝者)」という概念がないことを同盟国の政治指導者は理解するべきです。

 「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」には、勝者と敗者の論理が根底にあります。この点も父親の影響といえそうです。

 加えて、謝罪をしないこと及びウソをつくこともトランプ大統領の特徴です。あるトランプ集会に参加したとき、白人女性の支持者の1人が筆者に「トランプはめったに謝らない」と語っていました。例えば、バラク・オバマ前大統領がアフリカで生まれたと間違った主張をしたときも、謝罪しませんでした。

 トランプ政権のジェームズ・マティス前国防長官並びにボルトン前大統領補佐官はトランプ大統領はウソをつくと指摘しています。元政府高官が公の場で明確にそう述べるのは異例でしょう。

 トランプ大統領の思考回路には父親のルール及び世界観が完全にインプットされています。トランプ氏のすべての言動は父親に通じているのです。

「替え玉受験」の真相
 暴露本の中で米メディアが特に取り上げているのが、トランプ大統領の「替え玉受験」です。高校時代のGPA(Grade Point Average:成績平均値)が低く、トップクラスにはるかに及ばなかったので、希望校に入学できないと懸念したトランプ氏は、頭の良い生徒であったジョー・シャピロ氏に金銭を支払い、大学進学適正試験(SAT)を「替え玉受験」させたと、メアリーさんは記述しています。

 当時は写真付きの身分証明書やコンピューターによる記録の必要がなかったので、「替え玉受験」が簡単にうまくやり通すことができました。しかも、トランプ大統領はメアリーさんの父親にペンシルべニア大学の入試担当事務局で働いている友人に連絡をとるように頼んだというのです。おそらくトランプ大統領は兄に口を利いてもらいたかったのでしょう。

 米メディアによれば、シャピロ氏は1999年に死亡しました。弁護士のシャピロ氏は、ウォルトディズニーの役員でカリフォルニア州立大学の講師でした。元プロのテニスプレーヤーの未亡人は、トランプ大統領とシャピロ氏はペンシルべニア大学で出会い、ゴルフ仲間であり、「替え玉受験」はなかったと語っています。

 しかし、メアリーさんは米ABCニュースとのインタビューでトランプ氏の「替え玉受験」について、「叔父に近い筋から聞きました。真実だと確信しています」と述べました。

 さて、今回の米大統領選挙はコロナ禍の影響で郵便投票で行われる公算が高まっています。これに対して、トランプ大統領は郵便投票における不正の可能性を理由として挙げ、猛反対して、写真付きの身分証明書の提示による従来型の投票を主張しています。

 仮にメアリーさんの告発が真実であれば、トランプ大統領は写真付きの身分証明書の必要がなかったので「替え玉受験」ができました。そのトランプ氏が、今度は「替え玉投票」をさせないために写真付きの身分証明書を厳しく要求しているのです。

ボルトン回顧録との共通点
 メアリーさんとボルトン氏の主張には共通点があります。メアリーさんは「トランプ大統領が2期務めれば、米国の民主主義は終わりだ」と警鐘を鳴らしています。ボルトン氏は「米国は後戻りができなくなる」と警告しています。

 さらに、メアリー暴露本とボルトン回顧録からトランプ大統領の行動パターンが明らかになりました。メアリーさんは著書で、トランプ大統領の姉のマリアンさんが、「ドナルドは撮影のあるときのみ教会に行く(中略)原則がない。何もない!」と語ったと紹介しています。カメラが回っているときにトランプ氏が礼拝に行く理由は、信仰心が厚いと見られたいからです。

 そう言えば、ホワイトハウス周辺に人種差別反対の抗議デモの活動家が集まると、トランプ大統領は催涙ガスやゴム弾で彼らを追い払いました。その後、徒歩でホワイトハウスの近くにあるセント・ジョンズ教会に行き、その前で右手に聖書を掲げて記念撮影を行ったのです。記念撮影を通じて、信仰心が厚い大統領を支持基盤であるキリスト教福音派にアピールしました。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/155.html#c1

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
9. 中川隆[-11951] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:10:33 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[7]
水稲農耕と突帯文土器 藤尾慎一郎
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html


T はじめに

U 突帯文土器の学史的研究

V 基礎的事実の確認

W 突帯文土器編年

X 各地の突帯文土器

Y 突帯文土器の地域色

Z 水稲農耕と突帯文土器

[ おわりに

参考文献


 T はじめに

 一.突帯文土器はどのような土器か

 突帯文土器とは、直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらせる文様を主文様とする土器である。突帯には刻目を施すことが多いが、時期と地域によってさまざまなあり方をみせる。刻目を施さない突帯(無刻突帯文)や刻目を施した突帯(刻目突帯文)などの単位文様は、縄文・弥生時代に普遍的な文様であるが、貼り付け突帯がこの時期の主文様となることに「突帯文土器」という名称の由来がある。無刻突帯文や刻目突帯文は壺や粗製の鉢などの他の器種にも単位文様としてさかんに用いられるので、突帯文土器とは煮沸用土器に主文様としての突帯を貼り付けた土器と言い替えることもできよう。筆者はこれまで西部九州の弥生時代早期から前期末までの時間幅に限定して刻目突帯文土器という名称を用いてきた(1)。それはこの地域の突帯文土器が刻目突帯文を主文様とする土器と特徴づけることができたからである。しかし本稿は近畿以西の突帯文土器を対象とするので、突帯上に刻目を施すかどうかが問題になる場合もある。そこで突帯文を主文様とする煮沸用土器を突帯文土器と呼び、突帯文土器の中に刻目の有無で区別できる無刻突帯文土器と刻目突帯文土器が含まれると定義する(表1)。


表1 突帯文土器の定義

突帯文土器 …主文様としての突帯を口縁部や胴部に貼り付けた煮沸用土器
無刻突帯文土器 …突帯に刻目を施文していない突帯文土器
刻目突帯文土器 …突帯に刻目を施文する突帯文土器


 突帯文土器を煮沸用土器にもつ土器のセットが突帯文土器様式である。この様式は現在までのところ水稲農耕に伴う最古の土器様式で、貯蔵用の壺、盛りつけ用の高坏などの新しく出現する器種と、浅鉢や鉢などの縄文時代からある器種からなる。しかし一部の地域や時期によっては縄文時代からの器種だけで様式を構成する例もあって器種構成は一様でない。同じ様式であるにもかかわらず器種構成が異なるのは、水稲農耕を生業とするかどうかが大きくかかわっているからである。
 突帯文土器様式の時期は、弥生時代早期が中心だが、なかには弥生時代前期末まで存続する地域もある。本様式が分布するのは、愛知や滋賀を東限とし、長崎を西限、鹿児島を南限とする地域である(2)。広い範囲にわたって分布するため地域色が強く、広域的に斉一性をもつ浅鉢とは対照的である(図1)。

図1 突帯文土器様式の主要遺跡と分布


 本稿では、近畿以西の突帯文土器を中心にあつかう。尾張や三河などの伊勢湾沿岸の突帯文土器も近畿と同時に成立するが、後述するように突帯文土器様式の甕組成が近畿以西より早く崩壊し、主文様としての突帯文は単位文様に転落して、しかも壺形土器の口縁部の単位文様へと転換してしまう。弥生時代早期の全期間にわたって、突帯文を主文様とする煮沸用土器を器種構成のなかにもつ近畿以西の地域とは明らかに異なる様相をもつ地域である。このような理由から伊勢湾沿岸地域をはずし、近畿以西の弥生時代早期から前期末までの突帯文土器様式と突帯文土器を対象とする。
 U章とV章では、学史を含めた突帯文土器様式の基本的な事実関係を確認したうえで、西日本各地の突帯文土器様式を概観する。地域間の併行関係についてはW章で確認したい。
 X章では、各地の突帯文土器様式や突帯文土器の問題点を検討する。
 Y章では、突帯文土器、突帯文土器様式にみられる地域性を検討して、突帯文土器様式圏内の地域的様式差、地域的小様式圏の識別を試みる。
 Z章では、水稲農耕の開始にあたって突帯文土器の組成に反映された受容形態の差を通して西日本における初期弥生文化の特質について考える。

 U 突帯文土器の学史的研究

 一.編年的位置が確定するまで

 突帯文土器の存在は1920年代から知られていたが、〔大山,1923:23〕・〔後藤,1923:44〕、当時はまだ晩期すら縄文土器の編年の中に設定されていなかった時代で、資料紹介の域にとどまっている。1930年代になると、山内清男は亀ヶ岡式土器が分布しない西日本にも亀ヶ岡式土器に併行する縄文土器が存在することをまず指摘する〔山内,1930〕。さらに山内が1937年に晩期の概念規定をおこなって〔山内,1937〕、突帯文土器を取り巻く環境はようやく固まったのである。
 突帯文土器にはじめて調査のメスがはいったのは、岡山県笠岡市黒土遺跡の調査である。この調査によって山内は突帯文土器の時間的位置づけに見通しをえて、「突帯文土器」という名称をはじめて用いるとともに、弥生式土器の古いところまで残存することを指摘し弥生土器との関係にも注目している(3)。
 突帯文土器と弥生土器との関係について、小林行雄や杉原荘介は福岡県立屋敷遺跡で出土した遠賀川式土器のなかに混じっていることに早くから注目していて〔小林ほか,1938〕・〔杉原,1950〕、遠賀川式土器と年代的に併行すると説く研究もあった。しかし肝心の晩期に属す突帯文土器の型式内容が不明なままであったので、弥生土器との関係の部分だけが先行して研究が進む。北部九州では、最古の弥生土器をみつける手段の一つとして突帯文土器が注目され、突帯文土器と混じって出土する遠賀川式土器の分布が大きな関心となっていたのである。
 山内は、1951年に縄文時代晩期の突帯文土器である黒土BU式を設定するが、内容は不明のままで突帯文土器の型式内容がはじめて明らかになるのは愛知県吉胡貝塚の報告中であった。その内容は、「口外側に點列ある隆帯を有する口縁は単純なものもあるが、外側に隆線を有しその上に刻目文又はハイガイ腹縁の刻目あるものが目立つ」〔山内,1952:22〕というもので、口縁部に刻目突帯をもつ土器の姿が浮かんでくる。山内はこれらの土器群を西日本縄文晩期の新相に位置づけ、三河・遠江以西の地域に多少の差異を認めつつも一連のものが分布するという見解を示したのである。ここに晩期土器としての突帯文土器は時間的・地域的に位置づけられる。


 二.時間的位置づけの変化−縄文時代から弥生時代の土器ヘ−

 亀ヶ岡式土器分布圏にも地理的に近く大洞式も単独で出土する近畿では、遺跡からの出土状況をもとに大洞式との併行関係をにらんだ突帯文土器の型式学的研究が縄文時代の研究者によって進められる。一方、亀ヶ岡式土器分布圏から遠くはなれた九州では、遠賀川式土器と突帯文土器が一緒に出土することに弥生時代研究者の注目が集まり、縄文時代と弥生時代をつなぐ接点の土器として注目されたので、弥生時代の起源を探る研究の中で突帯文土器が研究されることになった。ここに近畿や瀬戸内と九州の間の突帯文土器に対する取り組み方におのずと違いが生じたのである。

 1 縄文土器編年のなかで−近畿−

 近畿で最も古く突帯文土器を注目したのは、「刻目凸帯文土器」と呼称し近畿の縄文土器のなかでも新しい様式に属すと考えた小林行雄である〔小林,1943a:92〕。唐古遺跡から出土した突帯土器は口縁部と胴部に刻目突帯をもつ二条甕に相当する。近畿の突帯文土器は当初、橿原式の一部に位置づけられ〔佐原,1961〕、今でいう二条甕や一条甕、壺というセットがはじめて捉えられた。しかし、橿原式はその後、黒色磨研土器に相当するものとして、突帯文土器より古く位置づけられたので、突帯文土器はふたたび晩期土器編年における位置づけが必要とされる。船橋式はこのような状況の中で設定されるのである〔岡田,1965〕。船橋式は橿原式の精製土器を伴わない点や、第T様式の弥生土器の底部と形態が似ている点から橿原式以降に位置づけられ、弥生土器に時期的に近い土器として理解された。
 晩期土器編年上に位置づけられた突帯文土器の研究は、突帯文土器自身の変化に研究者の目が向けられ第2段階にはいる。外山和夫は、橿原式の黒色磨研土器から突帯文土器が成立する過程を刻目を施さない一条の突帯文土器から、刻目をもつ一条甕をへて、二条甕へといたる変化で説明した〔外山,1967〕。外山が示した変遷過程は、滋賀里遺跡の調査でその正しさが証明される〔加藤ほか,1972〕。滋賀里遺跡の層位にもとづいた晩期土器編年は、突帯文土器を二つに分けている。橿原式の一部にあてられた滋賀里W式は外山の一条甕の段階に、船橋式にあてられた滋賀里X式は外山の二条甕の段階に相当する。
 大まかに段階設定された近畿の突帯文土器は、深鉢や浅鉢を中心にした型式学的な検討の段階にはいる。近畿突帯文土器研究の第3段階である。和歌山県瀬戸遺跡の突帯文土器を検討した中村友博は、深鉢の刻目と口縁部突帯の貼り付け位置との相関性に注目する〔中村,1977〕。突帯文土器の属性分析はここに始まり、家根祥多に受け継がれる。家根は近畿から九州にかけての西日本を対象に、突帯文土器の成立と展開について論じた〔家根,1981・1984〕。家根が注目した深鉢の属性は、器形、口縁部突帯の貼り付け位置、突帯の断面形態、口縁端部形態、刻目の施文法である。これら5つの属性間の相関度をはかることによって、深鉢の変遷を口縁端部の整形と突帯の貼り付け、刻目の施文をいかに効率よく進めるかという製作工程上で捉え、滋賀里W式、船橋式、長原式へと手抜きの方向に進むと説明した。これ以後は各地に根ざした地域色研究に向かうとともに水稲農耕の伝播を意識した研究が進む。近畿突帯文土器研究の第4段階である。
 それまでの突帯文土器研究が、縄文社会の発展を背景とした縄文土器研究の一環として進んできたのに対し、兵庫県口酒井遺跡の調査は突帯文土器研究に大きな影響を与える。水稲農耕がおこなわれていたことを裏付ける証拠を多く出土した口酒井遺跡の突帯文土器を扱った研究が次々に発表される。南博は、甕の器形を重視して系譜を異にする甕の型式組列の復原を目指すとともに、胎土に注目して摂津産と非摂津産の区別をおこない地域によって器種構成が異なることを指摘し、あわせて突帯や口縁部形態をもとに地域色の抽出を試みた〔南,1988〕。浅岡俊夫は一条甕と二条甕の比率の変化を指標に口酒井遺跡出土の突帯文土器を3つに分けている〔浅岡,1988〕。
 基準資料が出そろったところで近畿突帯文土器編年の総括がおこなわれる。泉拓良は晩期を中心に長原式までの突帯文土器様式を対象に、浅鉢の形態変化から3つに大別した〔泉・山崎,1989〕。T期は西日本磨研土器様式の浅鉢の特徴を残し、一条甕単純の段階、U期は逆「く」の字口縁浅鉢で九州系の甕と壺が新しく出現する段階、V期は浅鉢がすでに消滅し皿状浅鉢が主になり、もはや縄文的な浅鉢の形式内構成比が崩壊した段階である。またU期は波状口縁方形浅鉢の違いから二つに細別される。南は、遠賀川式土器と共伴する突帯文土器を中心に、長原式以前の突帯文土器を3つに細分している〔南,1989〕。その方法は浅鉢の組成変化と突帯文土器の型式変化、共伴する遠賀川式土器に注目したもので、大阪湾沿岸地域の漸移的な変化を捉えた。しかし南も述べているように、甕の型式変化は広域編年では使えず、むしろ地域性を抽出する場合に有効との結論に達している点は興味深い。
 また、従来は伊勢湾沿岸地域に含まれ尾張や三河と同じうごきをもつ地域と考えられてきた伊勢地域の突帯文土器編年が発表された〔鈴木,1990〕。資料的にはまだ断片的であるが、早期における二条甕の存在は、伊勢地域が近畿地方と同じ甕組成をもち、いわゆる伊勢湾沿岸地域とは地域差をもつことを明らかにし、前期にいたっても突帯文土器が継続し遠賀川式土器と接触することで弥生化していく状況は、条痕文様式になる尾張や三河地域とは一線を画し、むしろ近畿に近い内容をもっている。早期から前期までを対象に突帯文土器を扱い、水稲農耕伝播の問題を強く念頭において編年を論じる姿勢は評価されよう。

 2 瀬戸内

 日本で初めて突帯文土器の型式として設定された黒土BU式の実態は、長いあいだ明らかにされなかった。坪井清足が明確にした黒土BU式は、器種構成や甕組成、器形、刻目に豊富な内容をもっており細分の可能性も示唆されている〔坪井,1956〕。1950年代の突帯文土器研究は黒土BU式に関する限られた情報をたよりに進められるが〔鎌木・木村,1956〕・〔鎌木・江坂,1958〕、資料不足の観はまぬがれず、黒土BU式が未報告であった影響は計り知れなかった。
 そのような中でも、このような状況を打開しようと、広島県帝釈峡遺跡群の突帯文土器に注目し、黒土BU式の細分をおこなった外山や〔外山,1964〕、瀬戸内全体を視野にいれて旧国別に地域性の抽出を目指した春成秀爾〔春成,1969〕の研究は、当時の制約された状況のもとで時間的・地理的な位置づけに一定の到達点に達していたことになる。
 1980年代になってようやく、この地方の突帯文土器研究に転機がおとずれる。1981年調査の岡山県百間川沢田遺跡である。近畿地方における口酒井遺跡と同様に、突帯文土器と水稲農耕を結び付けるきっかけになったのである。調査者の岡田博は、沢田遺跡の突帯文土器を「沢田式土器」と名づけ、黒土BU式(前池式)に後続し、弥生土器に先行するものとして位置づけた〔岡田,1985〕。これ以後、瀬戸内でも水稲農耕との関係を意識した突帯文土器研究が始まる。
 網本善光は、一条甕から二条甕への変化をもとに黒土BU式を細分しようとしたが、器形がよくわかる資料に恵まれなかったこともあって、実際には口縁端部の刻目文の有無を黒土BU式細分の指標とした〔網本,1985〕。平井勝は器形と文様の相関を定量的に捉え、南方前池遺跡、広江・浜遺跡、沢田遺跡などの突帯文土器を使って23種の深鉢土器文様類型を設定、さらに遺跡毎に文様類型のヒストグラムを作り、瀬戸内の突帯文土器を3群に大別している〔平井,1988〕。

 3 弥生土器との関連の中で−九州−

 詳細は拙稿に譲るが〔藤尾,1990a〕、西日本では唯一、突帯文土器研究が弥生時代の研究者を主体におこなわれ、さらに弥生時代と縄文時代の接点の土器として位置づけられたため、水稲農耕の証拠を求めて古い突帯文土器を求めて遡っていくという方法がとられた。その結果、九州の突帯文土器は弥生土器と共伴する夜臼式と、共伴しない山ノ寺式という二つの土器の型式学的な検討を十分におこなわないまま時間差として細分されてしまったのである。遠賀川式土器と共伴しない夜臼式の存在が、1964年の宇木汲田遺跡の調査で知られていたにもかかわらず認知されなかったのは、夜臼式単純の実態がもう一つ不明であったことが原因だが、板付遺跡の縄文水田の発見によってその内容は明らかになる〔山崎,1979〕。九州の突帯文土器研究はここに型式学的な検討にはいる〔中島,1982〕・〔橋口,1985〕。
 しかし、設定されてから30年以上たっているのに山ノ寺式の型式内容が明らかにされず、それにもまして型式内容が不明な山ノ寺式をあくまでも使用していこうという一部の研究者の存在も、九州の突帯文土器研究を混乱させる原因となった。いずれにしても遠賀川式土器と共伴しない突帯文土器が九州でも発見されたことは、突帯文土器の時間的位置づけを大きく変更することになる。遠賀川式土器と共伴しない突帯文土器の段階に明らかとなった水稲農耕の内容は、玄界灘沿岸に関しては弥生時代前期以降の水稲農耕の実態と比べてなんの遜色も認められず、森貞次郎が弥生文化の指標とした定型化した弥生土器をはじめとして、すべての要素はすでに出現していることが明らかになったのである。このような状況をうけて水稲農耕が始まった段階から弥生時代として認定しようとする動きが活発化し、それとともに縄文時代晩期の土器であった突帯文土器も、弥生時代の土器型式としてその時間的位置づけが変更されることになる。水稲農耕という生業形態の変化と直接に結び付いてその属する時代を大きく変更することになった九州の突帯文土器研究の特色はまさにここにある。晩期の指標である亀ヶ岡式土器に併行する突帯文土器が、社会の変化によってその属する時代を変更させられたことは社会が土器を規定するという考古学の定義にはまる好例といえよう。

 三.弥生時代前期の突帯文土器

 1 近畿・瀬戸内

 近畿の前期突帯文土器ははじめ近畿の中心部から遠く離れた周辺部における縄文土器の残存現象と考えられたこともあって、遠賀川式土器に混在して突帯文土器が出土したという報告は戦前からあったものの注目されず、本格的な研究がはじまったのは、和歌山県太田黒田遺跡の調査以降である〔森・白石,1968〕。同遺跡のSKO1土坑で第T様式中段階の遠賀川式土器と突帯文土器との共伴が確認され、船橋式の後続型式として前期突帯文土器としての太田型甕が設定される。中段階と船橋式の後続型式が共伴することは、古段階と船橋式が共伴することを意味していたので、近畿における弥生文化成立期の突帯文人と遠賀川人との関係についても大きな可能性を残すこととなった(4)。太田型甕は、形態や整形技法の共通性から同じ系統の土器と理解され、胎土中に占める砂粒の量が船橋式に比べて多く肩の張りも鈍化している点から、船橋式より後出すると考えられた。この前期突帯文土器は「太田甕」と命名される。太田甕は後に「紀伊型甕」と再定義される〔佐原・井藤,1970〕。しかし、太田黒田遺跡が和歌山県の紀ノ川流域の遺跡であったことや、近畿の中心部では太田型甕が見つからなかったこと、そしてなによりも研究の主眼が第U様式の紀伊型甕に移ったことで、畿内周辺部には縄文系の深鉢が残存するという理解が定着することになった。紀伊型甕は当時急速に高まってきた第U様式の地域色研究の中で、大和型甕や播磨型甕、近江型甕、和泉型甕などとともに弥生土器研究者によって実態が明らかにされていく。
 近畿中心部で前期突帯文土器が注目を集めるようになるのは、河内の長原遺跡が調査されてからである〔大阪市化財協会,1982〕。長原遺跡から出土した突帯文土器は船橋式に後続する突帯文土器で、第T様式古段階と中段階の弥生土器と共伴することから太田型甕と同じく前期突帯文土器が近畿の中心部にも存在することが明らかになったのである。また和歌山には太田型甕とは別に、県南の日高川流域から田辺湾周辺にかけて「瀬戸タイプ」と呼ばれる前期突帯文土器が、長原式併行からやや新しい時期にかけて存在することが明らかにされている〔中村,1984〕。
 長原式の存在は、河内に遠賀川式土器を使用する集団と突帯文土器を使用する集団が共存したことを意味する。この解釈をめぐってさまざまな説が提出された〔石野,1973〕・〔中井,1975〕・〔寺沢,1979〕・〔森岡,1984〕・〔春成,1990〕。春成は、「すでに水田稲作をおこなっている地域に、遠賀川式土器をもち技術も思想も縄文人とは一線を画す異系統の稲作集団が浸入してきた」と述べ、早期に水稲農耕をはじめた突帯文人と遠賀川人との関係で理解する。森岡秀人は、「第T様式古段階と船橋人が接触をはじめ積極的な交流を通じて稲作民へと急速に変貌していく」とし、非稲作民である船橋式を使っていた集団と遠賀川人との関係で捉える(5)。したがって、近畿には遠賀川式土器を使用する集団と突帯文土器を使用する二つの集団が同じ地域に居住していた河内などの中心部と、突帯文土器を使用する集団が圧倒的に多くを占める和歌山以南の地域があったと言えよう。
 最後に、第U様式以降の縄文系甕と認識されている土器についてふれておく。近畿では第U様式における地域型甕の研究が盛んであるが、これらの甕の出自をめぐって遠賀川式土器に系譜を求めるか、突帯文土器に求めるか大きく議論がわかれている。第U様式の地域型甕が成立するにあたって、前期突帯文土器を使っていた集団が重要な役割を果たしていたのは確実で、たとえば大和型甕が遠賀川式土器の如意状口縁甕からまっすぐに成立したとは考えられず、寺沢薫が示したように遠賀川式土器と突帯文土器との融合によって成立したと考えることができるし〔寺沢,1979〕、「近畿的な成立をたどった弥生系の甕」〔松本,1984:148〕とも考えられ、その出自をめぐっては多くの解釈が可能である。弥生時代中期の土器様式は、斉一性が強かった遠賀川式土器と歴史的伝統が強い各地の個性あふれる土器が融合することで成立したもので、前期に水稲農耕をもたらした移住者集団と在来者集団との接触・交流の結果である。これは九州や瀬戸内でも生じた現象である。そのような意味において、中期の地域型甕の成立は、遠賀川式土器や突帯文土器の片方のみを強調するだけでは理解てきないものであり、両者の協調こそが中期社会成立の原動力だったのである。
 瀬戸内には、逆L字口縁をもつ通称「瀬戸内甕」がある。この甕に縄文的色彩が強く残存していることは20年近くも前から指摘されているが〔今里,1971〕、早期突帯文土器からの型式組列の復原までは至っていない。

 2 九 州

 九州の前期突帯文土器は、板付遺跡の調査によって本格的に注目される。もともと夜臼式と板付T式の共伴は夜臼式が前期に属する突帯文土器であることを意味するが、共伴したのは早期の突帯文土器である。しかしこれ以外に板付遺跡から出土した突帯文土器の中には、夜臼式と形態的には類似するものの器形や器面調整、突帯の貼り付けなどに差異をもつ突帯文土器が含まれており、「板付U式甕形土器E」と分類され夜臼式との関係が指摘されている〔森・岡崎,1961〕。当時、弥生文化研究の中心であった福岡平野は前期突帯文土器様式の分布圏からはずれていたこともあってこの種の突帯文土器の出土も数えるほどであったが、熊本に近い福岡県の南部に位直する亀ノ甲遺跡が調査されるにおよび、甕組成の95%以上を占める前期突帯文土器の存在が明らかにされた。これらは「亀ノ甲遺跡甕形土器C」と分類されその後「亀ノ甲タイプ」として九州の研究者に認知されるのである〔小田,1964〕。
 東部九州でも、大分県佐伯市白潟遺跡の調査によって前期突帯文土器の存在を認識していた小田富士雄は〔小田,1958〕、熊本県加瀬川河底の資料〔乙益,1957〕、鹿児島県東昌寺〔川上,1952〕、長崎県原山〔森,1960〕、熊本県斎藤山〔乙益,1961〕、鹿児島県高橋〔河口,1963〕から出土した土器群に共通する「甕形土器に強く残された縄文系土器の伝統」を認めて、「亀ノ甲式」と「下城式」を九州の弥生時代前期後半における縄文系の土器として対峙させる図式を完成させた〔小田,1972〕。
 その後、前期突帯文土器が主体的に分布する地域の調査が進むと、それまでその存在を指摘するにとどまっていた前期突帯文土器の研究は、早期突帯文土器からの型式組列を復原する段階にはいる。福岡・熊本を中心に前期突帯文土器の系譜を明らかにした西健一郎の研究〔西,1982・1983・1985〕や、佐賀・福岡県南部を対象に早期突帯文土器から亀ノ甲タイプまでの型式組列を復原し、西部九州の前期土器様式は系譜的にみると突帯文系、板付系、折衷系から構成されることを指摘した拙稿〔藤尾,1984〕がある。東部九州でも下城式の系譜を探る研究が高橋徹を中心に進められている。〔高橋,1983a・1989〕。

 V 基礎的事実の確認

 一.器種構成

 突帯文土器様式が成立した当初の器種構成は甕と鉢で、のちに壺と高坏が加わる。ただし西部九州では突帯文土器様式が成立した当初から壺と高坏をもっていた可能性が高い(6)。縄文土器以来の器種構成に朝鮮半島起源の器種が加わっていく過程は、水稲農耕が始まり定着していく過程と密接な関連をもっているのである。


 二.器種の細別

 1 甕形土器

 近畿以西における突帯文土器様式の甕は、系譜や器形、文様の種類が多いので前稿で提示した西部九州を対象にした分類だけでは不十分である。具体的な分類にはいる前に、器形と文様にどのような種類があるか確認しておく。


図2 甕形土器の器形分類図
i) 器形

 屈曲せずに底部にむかって単純にすぼまる砲弾型(A)と胴部が屈曲・湾曲する屈曲型(B〜F)があり、とくに屈曲型は地域によって多くの差が認められる(図2)。
A 口縁部から底部にむかって単純にすぼまる砲弾型で、縄文時代からある深鉢形を呈す。胴部が張るものや直線的にまっすぐすぼまるものなどの違いはあるが、細分はしない。弥生早期の福岡平野に集中してみられる器形で、他の地域ではかなり少ないが、前期になると他の地域でも普遍的な器形になる。
B 胴部の上位で屈曲する器形のうち逆「く」の字に反転するものである。屈曲部分の胴径が胴部最大径になり口径をも上回るもので、西部九州に偏ってみられる器形であることから「西部九州型」と呼ぶ。細かくみれば口縁部から屈曲部までの長さが長いものや短いもの、その部分の形が湾曲するものや直線的なものなどいろいろな形態があるが細分はおこなわない。
 つぎの四つは環瀬戸内地域(瀬戸内海沿岸)に一般的な器形なので「瀬戸内型」と呼ぶ。
C 胴部から頸部にかけて「S」字状に緩やかな湾曲部をもち全体にずんぐりとしている。胴部の文様は胴部最大径より上位に施される例が多い。
D 球形の胴部をもち、上半で反転して外湾気味に立ち上がる頸部をもつ器形である。突帯文土器成立期まで存在する。突帯文が施文されることはない。
E 胴部上位で屈曲する器形のうち、「く」の字に反転して口径が胴部最大径を上回るものである。屈曲部に突帯文が施文されることはなく屈曲部の少し上に突帯を貼り付ける。また頸部に爪形文やへラ描文を施文する甕も多い。
F 球形の胴部をもち頸部が内湾しながら立ち上がる器形である。胴部文様はくびれ部に施される。
 B〜F(Dを除く)は砲弾型Aとならんで弥生時代早期に一般的な器形で、福岡平野を除く西日本では主となる器形であるが、前期まで継続せずきわめて縄文的な器形と考えられる。縄文以来の煮沸具の器形と弥生以降のそれとの違いがなにを意味しているのか興味深い。
ii) 単位文様

 突帯文土器の単位文様には刻目文、無刻突帯文、刻目突帯文があり、また施文される場所には口唇部、口縁部、胴部がある。これらの文様と施文場所が組みあわされて豊富な文様構成をとる。また中部瀬戸内と西部瀬戸内には、突帯文土器以前から継続する有文深鉢の伝統が見られるが、爪形文やへラ描きの直線文を屈曲型甕の頸部に施文する地域的な特徴である。したがって突帯文土器の基本となる単位文様は刻目文、無刻突帯文、刻目突帯文であることを強調しておきたい。
 口唇部、口縁部、胴部にみられる単位文様の組みあわせには理論上口唇部に1種類(刻目文)、口縁部と胴部にそれぞれ3種類で、文様を施文しない場合も一つの文様と考えれば、その組みあわせは32種類に達するが実際には表2にみるように14例が確認されている。瀬戸内や近畿で口縁部から胴部までつながった良好な資料が増加すれば、組みあわせが増える可能性はある。14例のうち、主文様の突帯文を含む11例は突帯文土器に属すが他の3例は突帯文土器が成立する以前から存在した煮沸用土器で、単位文様をまったくもたない粗製深鉢、刻目文を主文様とする刻目文土器である。このように突帯文土器様式の煮沸用土器は、文様系を異にする3つの土器から構成されているのである(表2)。

表2 無文・刻目文・突帯文・刻目突帯文の単位文様と施文部位との組合わせからみた突帯文土器様式の煮沸用土器 図3 突帯文土器様式の煮沸用土器分類図

凡例 無…無文、刻…刻目文、突…突帯文、刻突…刻目突帯文
    ? 今のところ未確認のもの
    ○ 存在が確認されているもの
    ◎ 普遍的に存在するもの 凡例 無…無文、刻…刻目文、刻突…刻目突帯文
    ○ 存在が確認されているもの
    ? 今のことろ存在が確認されていないもの


iii) 文様型(図3)

 さて11例にのぼる突帯文土器の文様型のなかで口唇部と口縁部に注目すると、時間的にも空間的にも普遍化できる四つの基本型がある。
 突帯に刻目を施文しない、いわゆる無刻突帯文土器は早期の環瀬戸内、土佐、西部九州、前期の近畿と西部九州に存在する。量的にまとまっているのは土佐西部で、本稿でも地域型甕という意味の土佐型としてあとで設定することになる。そのほかの無刻突帯文土器は時期や分布地域とも一つのまとまりとして設定することはできず、遺跡でのあり方も刻目突帯文土器と混在しているので、文様型の変異形の一つとして理解している。ただし、突帯文土器成立以前の隆起帯をもつ原下層式のようなものについてはこの限りでなくのちにふれる予定である。
 口唇部に刻目文、口縁部に刻目を施文しない突帯文をもつ文様型は突帯文土器の成立する段階に岡山以西の瀬戸内海沿岸にあらわれる。岡山県前池遺跡、高知県入田遺跡、福岡県長行遺跡、同春日台遺跡では10%前後の割合で存在するが、そのほかの遺跡では数%に満たないことから、やはり文様型の1パターンとして理解しておく。
 口唇部に刻目文、口縁部に刻目突帯文の文様型は、瀬戸内型の器形をもつ甕に最も多くみられ早期の環瀬戸内や土佐西部に分布する。平縁が基本で、岡山や愛媛、周防には口頸部に文様をもつ有文甕が数%の割合で存在する。さらに前期の下城式もこの文様型に属し、豊前及び豊後を中心に分布する。西部九州にこの文様型が少ないのは、西部九州の突帯文土器が瀬戸内や近畿に比べて1段階遅れて成立するからだとする考えがある。西部九州で口唇部に刻目文をもつ甕には刻目文土器やのちに述べる唐津型の突帯文土器があり西部九州においては、口唇部刻目は板付祖型甕と唐津型において最も盛行する文様である。このように早期の口唇部に刻目文をもつ土器には、瀬戸内型の甕に代表される突帯文土器と、西部九州の甕に二大別できる。両者の質的な違いは以下のような点にあると考えている。瀬戸内の甕の口唇部刻目は突帯文土器の単位文様として位置づけられ、主文様としての口縁部突帯の貼り付け位置が上昇するにつれ衰退するが、西部九州の口唇部刻目は口縁部に突帯を貼り付けない甕の主文様として位置づけられているので突帯の上昇の影響は受けず、その後は遠賀川式甕の主文様として発達を遂げていく。これは瀬戸内型の甕が分布する地域と西部九州の間に存在する口唇部刻目に対する位置づけの違いが反映したものと推測されるので、口唇部刻目の有無を時間的関係と直結して考えるのは慎重さに欠けよう。突帯文土器の従文様として口唇部刻目を位置づけた瀬戸内海沿岸と、口縁部に突帯文をもたない甕の主文様として突帯文と対等に位置づけた西部九州の違いをここにみることができるのである。
 口唇部が無文、口縁部に刻目突帯文の文様型は、早期の屈曲型の甕と砲弾型の甕に見られる。前期以降にもこの文様型はあるが、前期は口縁部の突帯が口縁端部に接して貼り付けられるため口唇部に刻目を施文しずらいという物理的な理由もあるのでこの文様型には含めない。平縁が基本である。岡山には20%〜10%の割合で口頸部に文様をもつ有文甕が存在する。
iv) 器種分類

 突帯文土器様式の煮沸用土器には、6つの器形、14通りの文様型から数十通りの組みあわせが存在することになるが、分布や時期などの歴史的親縁性を考慮して次のように分類した。


図4 甕形土器器種分類図


   粗製深鉢 T類(図4)


 縄文土器に一般的な無文の粗製深鉢で器表を条痕・削り・板ナデ調整を用いて仕上げる。弥生時代早期以前と早期に限定できる。器形によって二つに分ける。
 砲弾型粗製深鉢
  西日本全体に分布する。水平口縁が基本だが突帯文土器の成立期には波状口縁や突起をもつ口縁部がわずかに残っている。家根は西部九州の早期に朝鮮無文土器の成形技法でつくられた無文の深鉢「朝鮮無文土器系甕」〔家根,1987:20〕の存在を指摘する。今回の分類基準では粗製深鉢にあてはまることになるが、外傾接合で作られている点など製作技法を考えれば、系譜的に粗製深鉢には含まれない。
 屈曲型粗製深鉢
  器形によって次の二つにわかれる。
   瀬戸内型粗製深鉢 瀬戸内型の器形をもつ。
   西部九州型粗製深鉢 西部九州型の器形をもつ。
  いずれも平縁が主体である。
   刻目文土器 U・V類(図4)
 口唇部や口縁部、胴部に刻目文を直接施文し突帯文をもたない甕で、器形によってU類とV類に分ける。器面調整はT類と同じだが、一部に板ナデや刷毛目調整のあとナデによって丁寧な仕上げをする甕が存在する。突帯文土器成立以前から存在する。
U類 砲弾型の刻目文土器である。西日本全体に分布する。刻目文は口唇部に施文されるのが普通で、まれに胴部にも施文するものがある。また岡山や愛媛には爪形文や半裁竹管文を胴部に施文する甕も見られる。口唇部の刻目文は全面に施文するものと外端部に偏って施文するものがあり、一部の地域でこの施文位置の違いが時期差をもっている。基本的に縄文土器に系譜をもつ土器だが、西部九州には朝鮮無文土器の成形技法でつくられた土器の存在が指摘されている。しかしほとんどの砲弾型刻目文土器は砲弾形粗製深鉢の口唇部に刻目文を施文しただけの違いしかなく、器面調整などはまったく同じだが、西部九州のものだけは丁寧に仕上げるといった特徴をもつ。これらのなかにはやがて口縁部がわずかに外反するものが出現し、板付祖型甕〔山崎,1980〕とか弥生祖形甕〔家根,1984〕と呼ばれる甕へ変化する。将来的には、西日本で一般的な刻目文土器と、西部九州でしか見つかっていない板付祖型甕へとつながる刻目文土器を別の分類として設定する必要も出てこよう。
V類 胴部が屈曲したり湾曲する屈曲型の刻目文土器である。器形による地域差が強い。
 瀬戸内型刻目文土器
  瀬戸内型の器形をもつ。平縁が主体だが波状口縁や山形口縁もわずかにみられる。東部九州から近畿にいたる地域に存在し、特に愛媛から近畿にかけての環瀬戸内には頸部にヘラ描き山形文や縦列爪形文を施文する甕が分布する。
 西部九州型刻目文土器
  西部九州型の器形をもつ。口唇部に一条だけ直接に刺突文を施文するものと、屈曲部とあわせて二条の刺突文を直接に施文するものがある。突帯文土器が成立する段階に存在するが、出土例はまだ少ない。
   突帯文土器 W・X類(図4)
 口縁部から胴部にかけて一条以上の突帯を貼り付けてめぐらす甕である。突帯には無刻突帯文と刻目突帯文の二種類があり、時期と地域によってさまざまなあり方を示し、変異形も多い。器面調整は粗製深鉢や刻目文土器と同じで、のちに板ナデや刷毛目調整を用いるようになる。胴部に突帯文を施文するかしないかで細分できる。
W類 砲弾型の器形をもち、口縁部のみに突帯を貼り付けてめぐらす甕である。時期と地域によって以下の三つがある。
 砲弾型一条甕
  口唇部には刻目文を施文せず、口縁部に突帯文を施文する甕である。平縁しかない。早期と前期を通じて分布するが、分布の中心は西部九州にある。
 下城式甕
  口縁端部から突帯幅一つ分ほどさがったところに突帯を貼り付ける甕のなかで前期の豊前および豊後に分布する下城式の主となる煮沸用土器である。平縁しかない。口唇部に刻目文、口縁部に刻目突帯文をもつものと、口縁部の刻目突帯文だけのものがあり、前者から後者へと時間的に推移する。弥生時代前期以降に限定され、豊前および豊後に集中的に分布する。最近、四国の西半部に位置する中寺州尾遺跡〔大滝ほか,1989〕、斉院生遺跡〔西尾ほか,1988〕、田村遺跡〔出原,1982〕で前期中ごろから後半の時期にこの種の甕が検出されるようになり下城式との関連が注目されるが、本州を除く西部瀬戸内の地域に、前期の突帯文土器として分布する可能性もある。
 瀬戸内甕
  突帯を口縁端部に接して貼り付け刻目を施文する甕で、口唇部刻目はない。形態的に類似する甕は九州にも存在するが、胴部上半にヘラ描き直線文や山形文、刺突文、列点文を施文する点を異にする。前期後半以降の東部九州を除く瀬戸内海沿岸地域を中心に分布し、瀬戸内甕とか逆L字口縁甕と呼ばれている甕である。胴部に多彩な文様を施文する特徴は、早期の突帯文の頸部に文様を多用した有文深鉢の伝統が継承されたものと考えられようか。
X類 胴部が屈曲したり湾曲する甕や、砲弾型の甕の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらす甕である。大きく分けて次の三つがある。
A 一条甕 口縁部だけに突帯を貼り付けてめぐらす甕で、器形は屈曲するか湾曲するかのいずれかに属し、砲弾型の器形をとるものは含めない。器形をもとに三つに細別できる。
 瀬戸内型一条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。原則的に口唇部刻目文をもつものからもたないものへと変化する。文様の変異型が非常に多い。頸部に縦列刺突文やヘラ描き山形文をもつ有文の深鉢は、現在までのところ岡山と広島、愛媛で出土している。早期と前期前半の東部九州から近畿にかけての地域に分布する。西部九州を除く西日本の代表的な突帯文土器である。
 西部九州型一条甕
  西部九州型の器形をもつ。平縁口縁が基本である。口唇部の刻目文や無刻突帯文は基本的にみられない。西部九州を中心に分布するが西部九州では中心的な甕とはならず、存続幅も短く突帯文土器の成立期に認められるにすぎない。
 土佐型一条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。口唇部や口縁部の突帯に刻目文を施さない無刻突帯文土器である。平縁口縁が基本で、まれに山形口縁もある。無刻突帯文様自体は早期から前期末までのあいだ多用されるが、一条甕の無刻突帯文土器は突帯文土器の成立段階に偏る。甕組成のなかでは、ほとんどの地域で一文様型として存在するだけだが、高知県西部の四万十川流域では土佐型一条甕単純の甕組成をもつ中村T式が設定されている〔岡本,1968〕。大分県の大野川上・中流域でも「無刻突帯文土器」が上菅生B式として設定されている。これらの土器を突帯文土器の前段階として様式設定する意見〔高橋,1980〕もあるが、これについては後述する。
B 胴部突帯甕 胴部だけに一条の突帯を貼り付けてめぐらす甕である。基本的に胴部は屈曲するか湾曲している。刻目突帯文の場合が多い。口唇部に刻目を施すか施さないかによって、時期や地域毎にまとめることができる。
 口唇部が無文の甕
  瀬戸内型と西部九州型の器形がある。量的には非常に少なく、早期の西日本に分布する。愛媛の船ヶ谷遺跡では口頸部に縦列刺突文をもつ有文の甕が出土している〔阪本,1985〕。
 口唇部に刻目文をもつ甕
  瀬戸内型と西部九州型の器形がある。量的には西部九州型が絶対的で、とくに早期末の佐賀県唐津平野に集中的に分布し本稿ではのちに唐津型として設定することになる。
C 二条甕 口縁部と胴部に突帯を貼り付けてめぐらす甕で、胴部形態は屈曲するもの、湾曲するもの、砲弾型のものの三つがあるが器形から二つに細別する。
 瀬戸内型二条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。早期後半から前期中ごろの備後から近畿にかけての瀬戸内北岸に分布の中心をもつ。西部九州の影響のもとに成立すると考えられている。平縁口縁で口唇部には基本的に刻目文を施文しない。
 西部九州二条甕
  西部九州型の器形をもつ。早期から前期末の西部九州を中心に分布する甕である。平縁口縁で口唇部には刻目文を施文しない。

  2 壺形土器

 早期の壺に関しては西部九州以外では器種の細別をおこなえる状況にない。西部九州の状況については拙稿〔藤尾,1990a〕を参照していただくとして、西日本の早期段階の壺に限定して系譜の観点から整理してみる。また亀ヶ岡式の壺や、西部九州の縄文後期末から現れるという壺については別の機会に論じるとして、朝鮮無文土器文化の影響を受けて出現した壺と、その壺の影響をうけた土器について考えることにしたい(図5)。

図5 壺形土器系統分類図(縮尺不同)
1.曲り田 2.新町
3.百間川沢田 4.口酒井
〔各報告の原図を改変〕

 A 無文土器系壺形土器

 朝鮮無文土器に直接の系譜をもつ壺(2)である。菜畑遺跡や曲り田遺跡から出土した壺の中には、無文土器そのものと言ってもよいほど外見的によく似た壺がある(1)。後藤直の分類〔後藤,1980〕で言うと丹塗磨研壺U・V類に相当することから考えても、水稲農耕の開始期に無文土器の壺そのものが持ち込まれていたことは十分に考えられる。こういった現象は玄界灘沿岸地域だけではなかったようで、愛媛県松山市の大渕遺跡〔栗田,1989〕や兵庫県伊丹市の口酒井遺跡でも朝鮮半島とのつながりを想定できる壺が見つかり始めている。今のところ、西部九州以外の地域で見つかっている無文土器系の壺は、器高が20〜50cmの中形壺や、25cm以下の副葬小壺に限られている。西部九州にはまだ韓国で知られていない器高50cm以上の丹塗磨研を施した長胴壺を含めて、機能的に分化した壺がセットで存在する。西部九州の縄文社会が、水稲農耕を営むうえで必要な壺を、既存の土器様式構造の中に組み込んだのてある。当初の壺は無文土器との外見的な共通性をみせていたが、すぐに独自の変化をみせ始める。突帯文土器様式の壺である(7)。山ノ寺式や夜臼式の壺は、無文土器の影響を受けて成立し、板付T式の壺が成立するまでのあいだ、貯蔵用・埋葬用・副葬品・祭器などの機能を担っていた。突帯文土器様式の壺の型式変遷については拙稿で詳しく検証したが、今のところ無文土器の影響を受けた壺が成立し、型式変化を続け発達していく状況は西部九州に限定されている。西部九州以外の地域では、無文土器系の壺、すなわち西部九州の突帯文土器様式の壺に影響された動きが認められ、それは在来の深鉢・浅鉢が壺形へと変容するかたちをとる。
 B 縄文系壺形土器

 瀬戸内や近畿の早期にみられる壺は、既存の深鉢や浅鉢が器形を壺型に大きく変容することによって独自に出現する。この壺を縄文系壺形土器と便宜的に呼んでおこう。この変容現象に注目したのが泉拓良である〔泉・山崎,1989:348〕。泉によれば近畿地方で壺が明確になる時期、泉編年の突帯文土器第U様式の壺には、「磨研の著しい小型壺」・「浅鉢と区別しにくい広口壺」(3)・「凸帯のつく大形壺」(4)の三つがあり、このうち1番目の「小型壺」は先述した西部九州系譜の無文土器系壺に相当する。問題となるのはあとの二者である。「大型壺」は瀬戸内型一条甕の口径と胴部最大径が縮小し、頸部をつくりだしたことによって壺型に変容したと考えられるもので、「深鉢変容型」の壺である。「広口壺」は、胴部が「く」の字に屈曲する鉢の中でも屈曲部よりうえの立ち上がり部分が長い鉢の口径と屈曲部径が縮小し頸部をつくりだし器高を高くしたことによって壺型に変容したと考えられるもので、「浅鉢変容型」の壺である。西部九州でも深鉢変容型の壺の存在は橋口達也によって注目されており〔橋口,1979〕、筆者も中・小形壺Eとして設定している〔藤尾,1990a〕。変容型の壺の粘土帯の積み上げ方は縄文土器以来の技法そのままで、頸部と胴部の境は深鉢や浅鉢の屈曲部のつくりと完全に一致している。調整技法も当然のごとく縄文土器そのもので、とくに深鉢変容型の方は条痕やケズリ接法を駆使している。中にいれた物がこぼれにくいように細く締まった口。多くの物がはいるように大きく膨らんだ丸い胴部など壺の形態に近づけることで貯蔵という機能を果たすことがまず要求されたのであろうか。その反面、器表を研磨し丹塗りすることで貯蔵された内容物(種籾)を大切に保存し、生命力を高めるという農耕祭祀的機能は十分に理解されていなかった可能性が強い。これは早期水稲農耕の東進を考えるとき、重要な指標となる。
 西部九州ではこのような縄文系壺はごく少数で、無文土器系壺が圧倒的な優位にたっているが、近畿や瀬戸内では壺の絶対量が少ないこともあって壺の中における無文土器系と縄文系の比率はよくわからない。この比率は近畿や瀬戸内地方の早期水稲農耕の特質と深くかかわっているので、のちほど検証してみたい。


図6 浅鉢と壺の口縁部における外傾接合と
段の形成過程
(津島南は〔藤田,1982〕より引用)
 浅鉢変容型の壺にみられる縄文的な成形技術は、瀬戸内地方の遠賀川式土器に確実に引き継がれている(図6)。瀬戸内地方の遠賀川式の壺に多くみられる口縁部外側の段の出自である。この地方の浅鉢の外反口縁の製作は内傾して立ち上がる頸部に対して外傾接合によって口縁部を貼り付け、接合部の接着をより強固にするために、接合部にあたる口縁部の内面に沈線をめぐらす。この外傾接合は遠賀川式の壺の口縁部の外側に段を生じせしめた製作技術の祖型とは考えられないであろうか。浅鉢を壺へと形態的に近づけるための製作技術が脈々とつながっていたのである。これも縄文人が土器製作にたいして主体的役割を果たしたと考えられるに十分な証拠となりえよう。また、粘土帯を外傾につみあげる際に生じた口縁部の段が、板付T式の口縁部の段に比べて型式学的に先行するとした家根の説は正しい。しかし、夜臼式の壺と板付T式の壺との間に存在する非連続の要素こそ、板付T式を成立たらしめる外的な影響によってもたらされたのは確実である。したがって家根の言うように時間的な前後関係として捉えるのではなく、板付Tでは外的な要因によってもたらされた製作技法によって技術的に到達した壺の口縁部の段を外傾接合によって生じる段で達成しようとした。つまり瀬戸内の人々は外見的にただ模放することによって段を作ろうとしたのである。板付Ua式併行期の佐賀や熊本の壺とまったく同じ対応をみせている。
 縄文系壺形土器は、突帯文土器の分布圏内に全般的に見られるが、中部瀬戸内から伊勢湾沿岸地域にとくに集中しているようである(8)。


図7 鉢形土器器種分類図
(縮尺不同、〔泉・山崎,1989〕から引用)

  3 鉢形土器

 鉢は泉の器種分類に準じ次のようにおこなう(図7)。
T類 口縁部内面に断面カマボコ形の突帯をもつ鍵形口縁の浅鉢である。器形は頸部の長いもの、頸部が短く胴部が丸く張るもの、頸部が短く胴部の張りは弱いが鋭く屈曲するものの三つに分かれる。器面はすべて磨研調整されている。
U類 逆「く」の字形に外反する浅鉢である。波状口縁と平縁口縁があり器面は磨研されている。さらに器形からいくつかに分かれる。
V類 椀形の浅鉢である。器壁は薄く器面は研磨仕上げで丹塗りを施すものもある。

 この他にも、口径が器高をうわまわる鉢形の土器や粗製の鉢形土器も知られているが、今回は鉢を縄文土器に占める精製土器として位置づけるため、鉢T類からV類をもって鉢の代表とする。

  4 高坏形土器

 西日本では西部九州の一部に偏って分布する程度で、中国地方や四国地方以東ではほとんどみられない。また西部九州でも器種構成に占める割合はかなり少なく数%にすぎない。器形的には鉢U類の坏部に脚がつく程度のもので形態的には台付鉢に近く、縄文時代にもとからある器種を変容させ機能的に代用した段階にとどまっており、板付T式以降の高坏との距離は大きい。高坏の出現について家根は北部九州て無文土器とは無関係に成立したと考えている。〔家根,1987〕。


 三.土器の系譜−無文土器系・縄文系・変容系・折衷系−

 この問題は器種どうしのレベルと一つの器種内でのレベルで考えなければならない。範疇としては無文土器系、縄文系、変容系、折衷系の四者が考えられる。
 浅鉢はすべて縄文系としてよいであろう。
 高坏は、壺とならんで水稲農耕にかかわる農耕祭祀用の土器である。無文土器自身が持ち込まれている壺に対して、高坏には今のところ明らかに持ち込まれたと断定できる資料はない。突帯文土器に伴う高坏は形態的にすべて脚付鉢に相当する。浅鉢U類の坏部に脚をつけ、脚との境界部に刻目突帯文をめぐらせただけの土器は、農耕祭祀をおこなううえで用意された代用品といった観が強く壺とはかなり様相が異なる。高坏の系譜は、浅鉢との外見的な共通性からだけでは諭じられないので、成形技法、特に粘土帯の積み上げについての検討も必要になってこよう。脚付や台付の鉢であれば縄文土器のなかにあるので縄文系との位置づけも可能だからである。しかし、縄文の脚付鉢などは東日本に分布の中心をもつので、東日本からの影響で西部九州に成立したものとは考えにくく、無文土器文化の影響を受けて成立したと考えたほうが妥当であろう。つまり突帯文土器様式の高坏は、高坏としての役割を担わせるため縄文の浅鉢に脚をつけることによって高坏に変容させられたものと考えられる。これを無文土器系と呼ぶか、縄文土器変容系と呼ぶかは、製作技法が縄文土器の作り方なのかどうかで異なってくる。
 壺は、縄文土器に固有な器種だが水稲農耕との関係を考えれば機能を含めて外来的な器種と言える。西部九州では先述した無文土器系が圧倒的な割合を占めるが、瀬戸内や近畿では深鉢変容型と浅鉢変容型、そして無文土器系が併存する。しかしその割合はまだ不明である。
 甕は複雑である。従来は突帯文土器様式の甕を縄文系の出自で捉えても大きな問題はなかった。しかし、縄文土器からは出自を考えにくい甕の存在が指摘され始めている。粗製深鉢の一部と板付祖型甕である。特に祖型甕は最近まで弥生時代最古の土器と位置づけられていた板付T式甕の祖型にあたり、山崎純男によって命名された〔山崎,1980〕。この甕は口唇部に刻目文をもち、まっすぐに立ち上がる口縁部が如意状に外反することによって板付T式が完成すると説明されてきた。筆者もこの型式変遷を復原した際にいくたびかの内的・外的な刺激を受けながらも縄文土器の流れの中で板付T式土器が完成すると考えたのである〔藤尾,1987a〕。このような九州の研究者の縄文主体説に対して、家根や春成は疑義を唱える。
 家根は、日本の縄文土器が幅の狭い粘土紐を巻き上げていく内傾接合によって作られているのに対し、祖型甕は幅が広い粘土紐を積み上げていく外傾接合によって作られているため縄文土器の系譜上では捉えられないとし、韓国の無文土器に系譜を求めた〔家根,1984・1987〕。春成も板付祖型甕に刷毛目調整が顕著にみられることなどを根拠に系譜を無文土器に求めている〔春成,1990〕。
 祖型甕の器形は粗製深鉢と同じでも、色調が異なり丁寧な作りをしているという点で他の甕と識別できるのは事実である。今回、祖型甕の系譜を考えるにあたって二つの部分に分けて検討したい。一つは祖型甕の成立に関する部分、もう−つは祖型甕が板付T式へ変化していく過程の部分である(図8)。

図8 弥生甕の成立過程(家根説)
縮尺不同(〔家根,1987〕を改変)
 家根の弥生甕成立のモデルは、無文土器の影響を受けて成立する「朝鮮無文土器系甕」や、丁寧な器面調整を施した刻目文土器など「系譜の異なる伝統の混淆の中から、最終的には朝鮮無文土器に普遍的な製作技法が選びとられ」〔家根,1987:19〕、弥生甕が成立するというものである。家根が日本の縄文土器に影響を与えた無文土器として挙げているのは、韓国慶尚南道晋陽郡大坪里遺跡出土土器(図8−9)である。またその影響を受けて出現した「朝鮮無文土器系甕」として挙げているのは佐賀県唐津市菜畑遺跡出土土器(図8−7・8)などで、これを家根は朝鮮無文土器に類似する甕とした(9)。大坪里の甕は幅広い粘土紐を外傾接合によって積み上げて成形し、外面を磨研ないし丁寧なナデによって仕上げる。菜畑遺跡から出土した深鉢(7・8)は、器形や口縁部のおさめ方に無文土器とは多少の違いがあるとしながらも、粘土紐の幅が広く外傾接合で成形して無文土器的な器面調整を施していることを根拠に、朝鮮無文土器の一型式に由来する深鉢が日本において若干の在地化を遂げたものとした〔家根,1984:64〕。つまり器形と文様を指標にすえた筆者分類の砲弾型粗製深鉢のなかに、縄文土器に由来する粗製深鉢(1)と無文土器に由来し若干在地化した甕(7・8)、双方の技法をもつ甕たとえば内傾接合で擦痕調整をおこなう甕(3)などの複数の出自の存在を認めたのである。また刻目文土器にも縄文土器に由来する(2)と、内傾接合で擦痕調整をおこなう(4)の二者を認めている。家根の祖型甕は、西日本に突帯文土器が出現する以前から存在する刻目文土器とは完全に区別され、朝鮮無文土器系甕(7)が、口唇部刻目文を採用したり、刻目文土器が朝鮮無文土器の製作技法で作られることによって成立する。後者の場合は4のように内傾接合でも器面調整が無文土器の影響を受けていれば祖型甕に含まれる。
 いずれにしても家根の朝鮮無文土器系甕や祖型甕を無文土器系として認識するためには、粘土帯の積み上げ方法と器面調整が決め手になる。内傾接合か外傾接合か、丁寧な調整か粗い調整か、これらの組みあわせによって系譜が異なってくる。縄文系は内傾接合で粗い調整、無文土器系は外傾接合で丁寧な調整、これ以外の組みあわせならば折衷系である。この視点をもとに菜畑遺跡の土器を報告書の記載に従ってみると、次のようになる(表3)。


表3 菜畑遺跡出土の朝鮮無文土器系甕と弥生甕の特徴

朝鮮無文土器系甕 弥生祖型甕
9〜12層 外傾接合で外面タテ条痕,内面ナナメ擦痕が1,あとは内傾接合で擦痕調整。したがってすべて折衷系である。 すべて内傾接合で40%に擦痕,のこりは条痕調整である。したがって40%が折衷系,60%は縄文系。
8下層 外傾接合が4例,条痕のあとナデ消すものが多い。したがって折衷系が目立つ。 外傾接合が9例中7点,これらは擦痕調整。したがって無文土器系が多くなる。
8上層 外傾接合で擦痕が1例,内傾接合で条痕が1例。したがって無文土器系1,縄文系1。 外傾接合は24例中3例,これらはヨコナデ調整へ。したがって無文土器系の率は下がる。


9−12層では朝鮮無文土器系甕も祖型甕も折衷系と縄文系からなり、明確に無文土器系といえるものはない。8下層になると、祖型甕のほとんどは無文土器系になり家根が言うように朝鮮無文土器的な製作技法が選び取られた様相をみせている。もちろん以上のような議論はこの時期の無文土器がすべて外傾接合で、しかも突帯文土器以前の縄文土器が内傾接合であることが前提となることは言うまでもない。
 次に、板付T式土器への変遷過程である。家根説では祖型甕(図8−4)などの「系譜の異なる伝統の混淆の中から、最終的に朝鮮無文土器に普遍的な製作技法が選びとられ」、弥生甕が成立したと述べられているだけで、口縁部の外反がどうして起きるのかなどの背景についてはふれられていない。いずれにしても弥生甕は、成形・器面調整を無文土器から、文様を縄文土器から獲得し普遍化して成立する。この点に日本における初期稲作文化成立過程の内実が反映されていると理解できよう。本稿分類の粗製深鉢や刻目文土器のなかに無文土器に特有とされる製作技術をもつものがどれくらいあるのか、その割合は時間的にどのように推移していくのかという部分を明らかにしなければならない。それが明らかになってから無文土器系甕を粗製深鉢や刻目文土器から分離し設定していく所存である。
 韓国において大坪里以降の無文土器の動きはどうなっているのだろうか。藤口健二は、地域差の問題があるとしながらも、菜畑遺跡の山ノ寺式が欣岩里V式や松菊里T�U式と併行すると解釈している〔藤口,1986〕。欣岩里V式には、口縁端を上外方に引き上げたあと短く外反させた甕が確認されている。また松菊里T式からU式にかけては、甕の口縁部の外反度がまし胴部が外へ張り出し気味になって、プロポーションこそ異にするが細部形態の一部や刻目にも板付T式との共通性がある。外傾接合という縄文土器にはない非連続な製作技術が、器形や文様などの外見的な共通性よりも優先されるのは、製作技術の共通性が人の動きをともなうと考えられるからで、水稲農耕開始期の韓国と日本の関係を理解するには非常に魅力的である。韓国無文土器時代前期の終末段階に共通性をもった韓国と日本の煮沸用土器は、それ以後両国で特色ある道を歩み始める。その結果、外傾接合によって幅の広い粘土紐を積み上げ、同じ器面調整で仕上げるという製作技術を共有し、さらに外反口縁という点では共通しながらも、器形をかなり異にする甕を完成させる。祖型甕が板付T式へ変化していく過程において注目しなければならないのは、出発点が同じであっても母体とする文化が異なっていれば、完成したものに違いが生じるという点である。板付T式の成立を代表とする弥生文化(日本独自の初期農耕文化)が成立するためには、渡来人が持ち込んだ新しい製作技術と在来人がもつ歴史的な伝統の双方が必要条件となるので、どちらか一方を特に強調するのは偏った見方で春成が指摘するように公平な立場とは言えない。その点で前稿は在来人の側に偏って現象を見ていた。大事なのは、無文土器と突帯文土器との接触のなかから弥生甕が成立してくるという点である。
 以前にも指摘したように、祖型甕の変遷過程には二つの大きな転換点がある。一つは口縁部が外反を始めた段階。もう一つは外反化が強度をまして如意状口縁が完成した段階である。これらの契機については、具体的に示しておかなかったが、断続的な外的文化の影響を想定してもよいのではないだろうか。環濠集落の成立も、早期水稲農耕社会の内的発展だけでは説明できない可能性があるからである。
 以上のように、まだ検討課題を残しているとはいえ、板付祖型甕が無文土器の製作技術と突帯文土器の文様を融合させることで生成され、のちに板付・遠賀川系の甕として主要器種となっていく点を考慮すれば「折衷系」するのが妥当と考えられる(10)。したがって、突帯文土器様式の煮沸用土器には、出自を異にする粗製深鉢系、刻目文系、突帯文系、無文土器系、折衷系が存在したのである。


 W 突帯文土器編年

 一.早期突帯文土器編年の現状

 早期突帯文土器様式の編年は、縄文土器研究者が縄文土器の分析手法を用いて、浅鉢の変化を指標に作ってきた。浅鉢は縄文的な習俗と深くかかわっている土器であるから、浅鉢を指標とする編年は、縄文社会の変化をよく反映したものとなり、その性格上広域にわたり地域差も少ないので非常に有効である。しかし突帯文土器に伴う浅鉢は水稲農耕の波及にともなって弥生化していく社会システムに対する縄文側の抵抗を象徴する側面をもつ。鉢はこの時期の精製土器のなかで壺と対局に位置する土器である。壺と鉢が器種構成に占める割合は壺が増加するとそのぶん浅鉢が減少するという相関関係にある。またこの現象は全生業に占める水稲農耕の割合の変化とも強い関連をもつ。水稲農耕が発達すればするほど、種籾の貯蔵を主とする貯蔵機能の充実が要求され壺が増加するが、これだけでは浅鉢の減少を説明できない。水稲農耕の発達とともに浅鉢が有していた機能が社会の中で必要でなくなってきたことを反映したものである。浅鉢が衰退するにいたったプロセスはつぎのように考えられないだろうか。壺は種籾を貯蔵、保存して来期の豊作を祈り、穀霊を祭るという農耕儀礼のなかにくみこまれていた重要な祭具の一つであった。水稲農耕の発達は農耕儀礼の発達をうながし、その一方で縄文的な祭祀および祭具の衰退をもたらす。土偶や石棒の減少はこのような祭祀形態の変化を反映しており、浅鉢の減少もこのような一連の動きのなかで説明できよう。早期においては生業全体における水稲農耕の位置づけは地域や集団によって異なっていた可能性が高いので、壺と浅鉢が器種構成に占める割合もさまざまであった。縄文土器の編年では器種構成に占める浅鉢の比率に関係なく同じタイプの浅鉢を指標に同じ時期と考え、また同じタイプの土器は同じスピードで変化したと考えるのが普通である。土器の型式変化は社会の変化を正確に反映したものではないが、水稲農耕の発達が貯蔵用の壺の発達を早めることは十分に考えられる。
 したがって、この時期に関して浅鉢を指標とする編年は縄文社会がいかにして崩壊していくかをみることになり、結果的に崩壊の速度が同じで全国一律に縄文時代が終了し、縄文的器種構成の崩壊といった視点で弥生時代への転換が説明される。このような方法についてはつぎのような疑問がある。
 i) 縄文時代に特徴的な現象を取り上げ、その消滅を指標にして縄文時代のおわりとし、二次的に弥生時代の成立を考える時代区分上の方法的な問題。
 ii) 縄文時代の一型式の時間幅と弥生時代の一型式の時間幅が同じというわけではないのに、同じ時間幅をもつという前提にたった議論となっている。特に浅鉢が壺なみの速さで変化するという説明もないまま壺と同じように変化すると考えられている。その結果、古い浅鉢と壺や甕が伴うと判断されれば古い浅鉢が残存したものとは考えられずに、浅鉢にあわせて壺や甕の時期が引き上げられてしまう。浅鉢は壺と同じ早さで変化するのであろうか。
 iii) 浅鉢は水稲農耕の発達に対応するように衰退していくが、早期水稲農耕の発達が西日本一律でないにもかかわらず浅鉢の衰退だけは西日本一律で進むと考えられている。したがって西部九州と近畿における浅鉢の変化の早さや残存度を同じと考え、地域毎の差を想定していない。このような疑問をつぎに示すモデルで考えてみたい。A説は西部九州と瀬戸内・近畿の間に水稲農耕の発達度を考慮し、弾力的な浅鉢の変化と残存を想定したものである(図9)。B説は西日本において地域色の少ない浅鉢の変化がどの地域も同じ早さで進んだと仮定したものである(図10)。



図9 水稲農耕開始期の器種変遷
(甕・壺を基準−A説) 図10 水稲農耕開始期の器種変遷
(浅鉢を基準−B説)
 A説では浅鉢一型式の存続幅が突帯文土器一型式の3倍にあたることや、地域によって浅鉢一型式の存続幅が異なることを表したもので、西部九州と近畿・瀬戸内の併行関係が無文土器系壺や二条甕からとれることが表されている。B説では西日本はすべて一律に変化する浅鉢を指標に、浅鉢がなくなる長原式をもって縄文的器種構成の消滅と理解する。したがって板付T式の成立より浅鉢と共伴しない板付Ua式(第T様式)の成立が重視される結果となり、さらに古・中段階の遠賀川式土器と共伴する長原式のおわりごろに第T様式が成立することになって、遠賀川式土器と突帯文土器の時間的な関係が不合理なものとなっている。本稿ではA説の立場に立ち、長期にわたって存続し縄文時代の指標である浅鉢を基準とせず、甕や壺を指標とした時間軸を設定する。甕と壺は水稲農耕社会を維持する基本的セットで、縄文時代になかった壺や新しい形態をもつ甕が器種構成の変化を論ずる際の決め手になる。また地域色を反映しやすい点も好都合である。さらに前期突帯文土器も対象にするためには早期からの一貫した指標で論ずる必要がある。

図11 各地における外来系土器実測図
(縮尺1:8)
(沢田と有田七田前遺跡の
土器以外は各報告からの転載)
 二.西部九州と近畿・瀬戸内の併行関係

 搬入品とまでは言えないが、西部九州で出土した近畿・瀬戸内系の土器と近畿・瀬戸内で出土した西部九州系の土器を使って、先ほどのA説に準じて併行関係を考えてみよう(図11)。西部九州から出土した近畿・瀬戸内系の土器には、有田七田前遺跡〔松村,1983〕の滋賀里Vb式(1)、板付E−5・6区〔山口譲治,1980〕の沢田式(4〜6)がある。板付遺跡の土器は、胴部の屈曲がかなり緩く口縁部突帯の位置も口縁端部に接していることから沢田式に相当するものと考えられ、夜臼T式に比定される層から出土している。有田の場合は滋賀里Vb式相当の刻目文土器が夜臼T・Ua式相当の土器と混ざって出土した。いずれも遺構に伴う一括遺物ではなく包含層の資料であるため厳密な同時性は問えないので、幅をもたせて考えるしかない。一方、近畿・瀬戸内から出土した西部九州系の土器には、大渕遺跡から出土した山ノ寺式相当の西部九州型一条甕(8)、長行遺跡〔山口信義,1980〕出土の夜臼T式相当の砲弾型一条甕(7)、沢田遺跡出土の夜臼Ua式相当の無文土器系壺(10・11)と、砲弾型一条甕(9)がある。以上の点から沢田式は夜臼T�U式の双方と同時性があることになる。このような相反する事実があるかぎり外来系の土器からの結論は出せない。しかし沢田遺跡の無文土器系壺と砲弾型一条甕は、早期水稲農耕の伝播にともなって西部九州から瀬戸内・近畿へ伝わったものであるから、今のところ西部九州より早くこれらが成立することは考えられないので、夜臼Ua式がともなう沢田式は夜臼Ua式よりは遡る可能性は少ない。そうすると山ノ寺・夜臼T式と前池式の関係は突帯文土器を型式学的に比較すると刻目の施文や器形には西部九州と瀬戸内・近畿の間に地域差があって比較する指標とはなりえないが、口縁部突帯の貼り付け位置は有効で山ノ寺式・夜臼T式と前池式はいずれも口縁端部から下がった位置に貼り付けられ差はない。甕の比較からは山ノ寺・夜臼T式と前池式の同時代性を否定することはできない。有田七田前遺跡の滋賀里Vb式も同時代性を裏付ける根拠となっている。ただ、西部九州において一条甕と二条甕の間に型式学的な差があるのは拙稿のとおりで〔藤尾,1990a〕、その意味では前池式が若干古く位置づけられる可能性もある。したがって前回同様に同じ時期に属すものと考え段階差を想定しておこう。浅鉢ではなく壺や甕を重視した併行関係である。


 三.突帯文土器編年

 弥生時代早期から前期にわたる西日本の突帯文土器をT期からX期に大別する。

  T期 突帯文土器の成立

 西日本に突帯文土器様式が成立する。甕は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器に大きく分かれ、まだ突帯文土器以外の比率がかなり高い段階である。突帯文土器は一条甕を中心として成立し、西部九州や伊勢湾沿岸には砲弾型一条甕も成立する。二条甕の成立は一条甕の成立と時間差をもつとの意見があるが、これがあてはまるのは瀬戸内・近畿で、西部九州ではそれほどの時間差は考えられない。西部九州と東部九州の一部では壺が出現する。突帯文土器様式に属すにもかかわらず、壺をもつ地域ともたない地域がある段階である。壺には無文土器そのものと言えそうな壺と、無文土器が在地化した山ノ寺式や夜臼式に代表される壺の二種類がみられる。西部九州の壺は機能的な分化を完成しており、埋葬用、貯蔵用、副葬用の三つが機能に応じて使い分けられている。浅鉢は鍵形口縁黒色磨研浅鉢(T類)と逆「く」の字口縁浅鉢(U類)が混在する段階である。鉢T類は、西部九州を除く地域で突帯文土器とセットとなるが、西部九州の水稲農耕をおこなっている地域ではセットとならない。山ノ寺遺跡B地点では鍵形口縁の浅鉢と突帯文土器が出土しているが、セットとして認定できるのかどうかは明らかでない。西部九州の突帯文土器は鍵型口縁浅鉢と基本的なセット関係になくただ残存した可能性もある。したがって浅鉢を基準に編年をくめば西部九州の突帯文土器が瀬戸内や近畿に遅れて出現することになる。
  U期 西部九州系突帯文土器の東進
 近畿や瀬戸内に水稲農耕の存在を裏付ける証拠が出はじめる段階である。甕は、西部九州系の砲弾型一条甕が近畿や瀬戸内に少数であるが出現し、沢田遺跡の土坑資料では、突帯文甕の25%を占めている。また二条甕も備後以東の山間部(帝釈峡遺跡群)や瀬戸内海北岸、近畿地方に出現する。四国は二条甕を基本的に受け入れない。また瀬戸内や近畿の深鉢の底部が尖底・丸底・凹底から平底へ転換する。西部九州では、甕の器面調整に刷毛目技法を用いる甕の存在が明らかになり、祖型甕の口縁部が外反化をはじめる。
 壺も、西部九州から東方への波及が活発になる。口酒井遺跡や大渕遺跡に無文土器系の磨研壺が伝播するとともに、その影響を受けて成立したと考えられる在地の壺が既存の器種の変容系というかたちで出現する。深鉢変容型と浅鉢変容型を代表とする縄文土器変容系壺の成立は、瀬戸内や近畿の突帯文人がみせた対応行動の一つとして理解できる。
 浅鉢は西日本全体が逆「く」の字口縁浅鉢の段階にはいる。泉は、この種の浅鉢が波状口縁で方形となる傾向が顕著な段階と、方形を呈さなくなる段階に細別する。この細別は口酒井式から船橋式への変化に対応する。西部九州では菜畑9−12層と8下層段階に波状口縁方形浅鉢が出土している(菜畑遺跡、宇木汲田遺跡1984年調査第\層〔横山・藤尾,1984〕、曲り田古・新式)。したがって浅鉢を基準とする広域編年を使って西部九州と瀬戸内・近畿との併行関係を捉えれば泉の第U様式の下限を夜臼Ua式、中島の夜臼単純、橋口の夜臼式におさえることができ、瀬戸内では岡山大学学生寮〔松岡,1988〕や沢田式が相当する。西部九州と瀬戸内や近畿の併行関係を方形浅鉢からこのように捉えると、甕の型式学的な変化とも一致するが、口酒井や沢田における鍵形口縁浅鉢の量的な存在だけが問題になる。岡大や沢田ではくの字口縁浅鉢の段階に大量の鍵形口縁浅鉢が伴うのである。これは浅鉢一型式の存続幅が甕や壺より長いという先の仮説を裏付けるものである。
 U期は従来の、口酒井式、船橋式、沢田式、夜臼Ua式、中島の夜臼式単純に相当する。

図12 突帯文土器成立直前の煮沸用土器
(粗製深鉢を除く)
(4、6〜8は報告書の原図を改変)縮尺1:10
  V期 板付T式土器の成立と遠賀川式土器の伝播

 西部九州の一角(玄界灘沿岸地域)で板付T式が成立する(11)。板付T式は西部九州の突帯文土器である夜臼Ub式と相互補完的な関係にある。夜臼Ub式は前段階の型式が残存したものでない。特に甕については板付T式甕との機能的な使い分けがはっきりとしている。共伴期の甕組成は、板付T式、二条甕、砲弾型一条甕、祖型甕だが、なかでも板付T式と二条甕主体で前期初頭の煮沸行為は維持されるので、二条甕以外の甕は残存したものと考えても差し支えない。すべての突帯文土器が必要とされたのではなく二条甕だけが必要だったのである。板付T式甕と二条甕の比率は3:4で後者が多い。二つの甕の最大の違いは、口縁部の違いからくる蓋のうけかたと胴部が屈曲するかどうかにある。3:4の比率は、器形や蓋の受け方が違う二種類の甕が使用目的を異にして使い分けられていたことを意味している。板付T式が成立する以前の二条甕と砲弾型一条甕の比率を見ると、玄界灘沿岸地域をのぞく西部九州では二条甕が圧倒的に多く4:1の比率をみせる。東部九州以東でも屈曲のある一条甕や二条甕が圧倒的に多い。しかし福岡平野だけは屈曲する二条甕の比率が低く、1:4から1:7の比率で砲弾型一条甕が最も多くを占める。また屈曲する甕が多いところでは浅鉢が多く壺が少ないという傾向がみられるところから、生業基盤に占める水稲農耕の比重と関係して甕の器形が異なるとは考えられないであろうか。
 壺は板付系がほぼ壺組成を独占するので板付甕と突帯文土器にみられた補完関係は存在しない。
 鉢は器種構成の10%弱を占めるが、縄文系浅鉢の比率は5%弱で少なく古い型式が残存したものと理解できる。
 高坏については資料数が少なくはっきりしたことは言える状況でない。しかし、長脚で大きく広がった坏部をもつ器形が成立しているので、数が少ないといっても弥生土器の高坏として定型化していたと考えられる。
 V期は板付T・遠賀川式文化が西日本全体に伝播する時期として位置づけられよう。しかしその影響をまともに受けた地域もあれば、間接的もしくはほとんど受けなかった地域もあり、これらの複合的な動きの中で前期社会は発展していく(12)。
  W期 前期突帯文土器の完成と中期土器の萌芽
 遠賀川式土器を用いる移住者集団と在来者集団の間に存在した関係が変質し、水稲農耕という生業以外の分野に在来人の伝統が復活してくる。玄界灘沿岸地域を除く西部九州(佐賀・熊本・薩摩)や和歌山の紀ノ川以南の地域ではV期以来の突帯文土器様式が継続し発展するが、そのほかの地域では遠賀川式土器様式に突帯文土器が煮沸用土器として加わる。また地域によっては突帯文土器と遠賀川の甕との比率が逆転してしまう。豊後の下城式、瀬戸内の逆L字口縁甕は前期突帯文土器の代表的な例である。従来の板付Ub式第T様式中段階に相当する。
  X期 前期突帯文土器から中期地域型甕へ
 突帯文系と遠賀川係が接触・交流を重ねた結果、各地に新しい土器が成立する。西部九州では、器形や文様に突帯文土器の特徴を多くもつ遠賀川以西系の土器様式である城ノ越式が成立し、瀬戸内や近畿でもW期に成立した前期突帯文土器と遠賀川式がさらに融合した甕が出現する。いわゆる第U様式の地域型甕である。西日本の中期土器様式は水稲農耕が定着するにあたって、各地域でおこった移住者と在来者との交流の結果が反映されたものなのである。

 X 各地の突帯文土器

 本章では近畿以西の突帯文土器を地域毎に検討する。西部九州についてはすでに編年案を発表しているので、問題点と特色を指摘することにとどめる。

 一.西部九州(図13)

 この地域特有の問題には、突帯文土器の成立、二条甕の成立、山ノ寺式土器と夜臼T式土器の関係、板付T式土器の成立などがある。特に二条甕の成立や板付T式の成立はこの地域を舞台にしたものである。


図13 西部九州の突帯文土器編年図 1(左)、2(右)
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10


 1 突帯文土器の成立

 西部九州は、T期に主要な突帯文土器がほとんど出現する西日本でも唯一の地域である。突帯文土器の主要な甕には一条甕・二条甕�砲弾型一条甕があって、西部九州を除く地域ではまず一条甕だけの段階があり、一時期遅れて二条甕や砲弾型一条甕が甕組成に加わる。西部九州における突帯文土器の成立について議論するとき、近畿・瀬戸内からの影響のもとに出現すると考える意見と西部九州自生説の二つがある。
 突帯文土器が成立する前段階には、西日本全体に刻目文土器と粗製深鉢を煮沸用土器とする土器様式が存在していた。この段階をかりに先T期とする。図12は従来の黒色磨研土器を指標とする様式を煮沸用土器からみたものである。煮沸用土器のなかには少数ながらも隆起帯をもつ土器(4・5)も含まれており、まさに突帯文土器が成立する直前の段階にあたる。この段階の西部九州と近畿・瀬戸内では主となる煮沸用土器が異なっていた。すなわち、粗製深鉢を除くと西部九州は砲弾型の胴部で口唇部刻目文をもつ土器(1)と、西部九州型の胴部をもち口縁部や屈曲部に刻目文をもつ土器(2・3)が大勢を占めていたのに対し、近畿・瀬戸内では、瀬戸内型の胴部をもち口唇部に刻目文をもつ土器(6・7・8)が大勢を占めていた。近畿で口唇部の刻目文が出現するのは滋賀里Vb式中段階(13)、瀬戸内では原下層式〔鎌木・江坂,1956〕、西部九州では晩期Y〔橋口,1985〕、菜畑13層〔中島,1982〕である。また有田七田前遺跡からは、西部九州で最も古い突帯文土器にともなって滋賀里Vb式中段階の刻目文士器が出土していることから考えても(図11−1)(14)、西日本ではほぼ同時に突帯文土器が成立し、少なくとも突帯文土器の成立に関しては近畿・瀬戸内から西部九州への一方的な文化伝播を考えなくてもよいと考える。

 2 二条甕の成立

 前稿では、一条甕と二条甕の型式学的な差を根拠に一条甕の胴部に刻目突帯文をめぐらすことによって成立すると判断したが〔藤尾,1990a〕、突帯文土器の成立にあたって想定したように、刻目文土器と突帯文土器を文様から比較すると、刻目文土器が口縁部と屈曲部に刻目文を、突帯文土器が同じ部位に刻目突帯文をという文様の違いでしかないので、一条甕の胴部に突帯文をもう一条貼り付けて二条甕が成立すると考えるより、むしろ刻目文土器(図12)から二条甕が直接成立すると考えてもよいのではないか。一条甕を介しての二条甕成立だけに固執する必要はないのである。西日本全体の動向からみるとこのような見方が最も妥当と判断されるので、一条甕が単純で出土する遺跡が熊本の上南部遺跡A地点〔富田,1979〕しかないことなど、出土状況からも裏付けられよう。しかし、前稿で指摘したように、一条甕と二条甕の間に存在する型式差も大きいことからしばらく状況を見守りたい。


図14 山ノ寺式と夜臼式の甕組成の変化
(〔藤尾,1987a〕、および各報告の原図を改変)
 3 山ノ寺式土器と夜臼T式土器の関係

 山ノ寺遺跡や菜畑9−12層出土土器に代表される山ノ寺式土器と福岡平野最古の突帯文土器である夜臼T式土器との関係である。まず夜臼T式が板付遺跡G−7a・7b区下層出土土器だけを指しているのではないことに注意を要する。また両様式の甕組成は主体となる甕が異なり、山ノ寺式は二条甕、夜臼T式は砲弾型一条甕を主とする(図14)。この甕組成の違いが二つの土器群を時期差とする考えに大きな影響を与えていた点は否定できない。刺突刻目をもつ二条甕(2)は山ノ寺式分布圏に多く、押し引き刻目をもつ二条甕(8)が夜臼式分布圏に多いことから、二条甕における新旧関係が地域間で言えるとすれば、山ノ寺式分布圏に多く分布する砲弾型一条押し引き甕(5)と夜臼式分布圏に多い砲弾型一条刺突甕(3)との時間差もまた言えることになり、先述した二条甕の成立の問題とも深くかかわってくることになる。したがって、最古の二条甕は山ノ寺式分布圏で成立したあと夜臼式分布圏や瀬戸内・近畿へ広がり、また、最古の砲弾型一条甕は夜臼式分布圏で成立したあと山ノ寺式分布圏や瀬戸内・近畿に広がったと考えられるのである。残存する傾向が強い浅鉢を指標とせず、甕自身の型式学的な操作からこのような結論が導き出せることで、山ノ寺式と夜臼T式は分布を異にする西部九州最古の突帯文土器様式として認められるのである。

 4 板付T式土器の成立

 板付T式土器は、朝鮮無文土器の製作技法や煮沸用土器としての範型にしたがって製作された砲弾型刻目文土器が日本的に変容して成立したものである。したがって、板付祖型甕は縄文土器がすでに変容した土器を指し、晩期最終末の西日本に広く分布する砲弾型刻目文土器は含まれない。粘土帯の接合法や器面調整などの特徴によって系譜を判断しなければならない難しい土器である。板付祖型甕は、突帯文土器と同じくT期に成立し、U期になると口縁部が外反する祖型甕と、直口口縁のまま口唇部の刻目の位置が口縁端部に偏って施文される甕に分かれ、後者は板付T式へは発展しない。中寺・州尾遺跡で出土した祖型甕はまさにこの後者に相当する。祖型甕は西部瀬戸内を含む地域までは分布するようだが、口縁部の外反化をおこした祖型甕は、現在までのところ玄界灘沿岸地域に限定される。V期に成立した板付T式とU期の祖型甕との型式学的な距離は大きく、スムーズな変化と言うよりはもう一つ別の契機を要したと考えられる。それがどのようなものであったのか明らかにできないが、環濠集落の成立にみられるような水稲農耕社会がある一定の水準に達したことと無関係ではない。無文土器の製作技法が導入され、また形も砲弾型で外反口縁という点まで無文土器と共通するにもかかわらず、まったく同じ姿とならなかった事実に弥生文化の本質が含まれているのである。


 二.瀬戸内

 1 東部九州

 福岡県の北東部を響灘にむかって北流する遠賀川から鹿児島県大隅半島までを九州山地の東の際に沿って南北に結ぶ線を西限とする地域で、周防灘や日向灘に面する沿岸部を対象とする。前期における甕組成の違いから豊前と豊後に分けて考える。宮崎と鹿児島東部は早期から前期にかけて一貫した資料に恵まれていないのでその都度ふれることにする。

図15 豊前の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 i) 豊 前(図15)

 この地域は長い間まとまった資料に恵まれず空白地域とされてきたが、近年の調査によって資料が充実しつつあり、これらの資料を扱った晩期土器編年も発表されている〔前田,1989〕(15)。
  先T期
 春日台遺跡〔上村,1984〕の隆帯文土器(10・22)や貫・井手ヶ本遺跡の屈曲型刻目文土器(8)に代表される。定型化した刻目突帯文土器はまだ成立していないが無刻突帯をもち口唇部に刻目文をもたない甕(11)がある程度である。壺はなく鍵型口縁浅鉢がともなう。
  T期
 定型化した突帯文土器の一条甕(23)、砲弾型一条甕(12)が成立する。いわゆる長行式の新しい段階である。粗製深鉢や刻目文土器の方が量的に多く突帯文土器との比率は2:1である。壺が存在する可能性は高いがまだ明確でない。鍵型口縁の浅鉢がともなう。
  U期
 二条甕(24)が出現し一条甕(13)とセットになる。粗製深鉢(3)や刻目文土器はもはやほとんどみられなくなる。中貫遺跡出土土器〔前田,1989〕を標識とする。壺は確実に存在し、くの字口縁浅鉢が伴う。甕の平底化や壺の出現などから水稲農耕が始まったと考えられる。
 V期以降の突帯文土器研究はまだ始まったばかりである。下條信行は下関市綾羅木川下流域の突帯文土器を五期に分けたが、後よりの二期は板付Ua式と前期突帯文土器の共伴期と考えている〔下條,1990〕。今のところ突帯文土器が遠賀川式の甕・壺・高坏にともない、このような共伴現象が瀬戸内の各所でみられることは興味深い。北九州市石田遺跡〔梅崎,1985〕で弥生化した一条甕(16)と、砲弾型一条甕(15)、遠賀川式土器が出土している。福岡県苅田町の葛川遺跡でも突帯文土器を甕組成にもつ〔酒井,1984〕。この遺跡は貯蔵穴型の環濠集落として有名で、前期突帯文土器が遠賀川式土器に伴って出土した。この突帯文土器も中寺・州尾遺跡や田村遺跡の突帯文土器と同様に完全に弥生化している。二条甕はなくすべて砲弾型の器形をもち口縁部に突帯を貼り付け、刻目文を施文している(18)。さらに弥生化が進んだ砲弾型一条甕(17)がわずかながら認められる。表面は刷毛目またはナデ調整仕上げで、また口縁部の突帯は口縁端部から下がった位置に貼り付けてあり、この時期の西部九州の砲弾型一条甕とは外見状異なる。口唇部の刻目文は施すものと施さないものがある。この種の甕は宮崎県檍遺跡でも出土していることから、周防灘や日向灘沿岸に点々と分布するようである〔森,1961〕。
 このようにV期には遠賀川式土器と早期突帯文土器が共伴する例はなく、弥生化した前期突帯文土器が遠賀川式土器の組成に加わっている事実が明らかになっている。行橋市の下稗田遺跡は本稿編年W期以降に主体をおく遺跡でやはり突帯文土器の甕をもつ(19)〔長嶺,1985〕。この甕も葛川遺跡と同じく砲弾型一条甕で口唇部に刻目文をもつものともたないものがある。突帯はやはり口縁端部から下がった位置に貼り付けている。
 豊前の弥生前期は福岡県内に関する限り遠賀川式主体の甕組成をもち、遺跡によっては比率がわからないけれども前期突帯文土器が伴っている。前期水稲農耕の東進ルートの一角に前期突帯文土器が分布することの意味は大きい。この地域の前期突帯文土器の系譜はいまのところよくわからないが、早期の一条甕からつながってくると考えるのが自然であろう。四国西部の弥生前期の状況を考えれば、東部九州から四国西部を含む西部瀬戸内の地域に一条甕系の前期突帯文土器が存在したことは確実で、突帯文土器を伝統的に用いる集団が存在した可能性を強く示唆するのである。

図16 豊後の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 ii) 豊 後(図16)

 この地域の突帯文土器は高橋徹によって集大成されている〔高橋,1989〕。無刻突帯文土器から刻目突帯文土器への変化と、この地域の前期突帯文土器である下城式の成立が豊後の地域的特徴である。
  先T期
 高橋は晩期後半最終末の様式を無刻目突帯文土器の段階とし、黒川式の浅鉢がともなうと考える。つまり無刻目突帯文土器の段階を弥生時代に含めないのである。刻目突帯文土器が成立する直前の段階に無刻目突帯文土器の段階をはじめて想定したのは高橋である〔高橋,1980〕。上管生B遺跡では、無刻突帯文土器(9・10)が口縁部外側に凹線をもつ粗製深鉢と黒川式の鍵型口縁の浅鉢とともに出土しているが、瀬戸内や豊前に一般的な刻目文土器はみつかっていない。現在のところ無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と共伴せずに出土するのは高知県西南部の四万十川流域の中村T式と、大野川の上流域に位置する上管生B式に限られている。上菅生遺跡と同じ地域にあり無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と混在して出土するネギノ遺跡の無刻突帯文土器には貼り付け突帯とつまみだし状の突帯がある〔橘,1976〕。分類上これらは西部九州型の一条甕に属し、口唇部刻目は施さないなど、甕にみられる型式学的な特徴からは大野川の上流域が西部九州に含まれることは確実で、これは前期における突帯文土器の展開を考えても妥当である。突帯文土器の主文様が突帯文であることからすれば、突帯文土器成立の前段階に位置づけられるのは、刻目のない突帯文土器でなく隆帯文や刻目文をもつ土器である。その意味で瀬戸内の原下層式は隆帯文と刻目文土器(15)からなり、隆帯文と刻目文の関係の中から突帯文土器が成立することを考えれば、突帯文土器成立直前の段階は隆帯文と刻目文土器(15)、精製の無刻突帯の浅鉢の段階として認識したほうがよくそれは西日本全体にあてはまる。そして隆帯文様と刻目文様が融合するところに突帯文土器成立の意味があるのである。
  T期
 突帯文土器の成立をもって豊後は弥生時代早期にはいる。海岸部は瀬戸内型一条甕の地域である(16)。口唇部に刻目文は施さない。大野川上・中流域は西部九州型一条甕の地域で同じく口唇部に刻目文を施さず(3)、二条甕(11)とセットになる鍵形口縁の浅鉢が退化したものがともない泉編年のTからUa式段階に相当しよう。下黒野遺跡〔清水,1974〕では無文土器系の壺がともなうにもかかわらず甕の底部が平底でないという特徴をもつ。
  U期
 海岸部では大分市丹生川遺跡などで夜臼U式の黒色磨研の壺が出土しているが〔鏡山,1964〕、二条甕は発見されておらず、四国の西部と同じく二条甕が伝播しなかった地域の可能性もあるが詳細はまだ明らかでない。早期水稲農耕の伝播ともあわせて興味深い事実である。大野川上・中流域では宮迫遺跡〔清水ほか,1976〕(4)やネギノ遺跡のように二条甕が中心の組成で海岸部とは別の甕組成をとる。壺はまだ明らかでない。
  V期
 豊後に遠賀川式土器が伝播するのは板付Ua式併行期だが、器種構成はまだ明らかでない。 典型的な下城式はこの段階にはまだ成立していない。
  W期・X期
 海岸部で下城式が成立する(18・19)。X期になると大野川の上・中流域や宮崎にも分布が拡大する。下城式は遠賀川式土器の甕とセットになるが比率は不明である。下城式は口唇部の刻目文の有無や突帯上の刻目の比率に地域差の存在が指摘されている〔高橋,1989〕。また豊前や豊後の前期突帯文土器といえば下城式だが、宇佐平野や安心院盆地、日田市地域では西部九州系の亀ノ甲式甕も入っており複数の前期突帯文土器が遠賀川式土器の甕とセットになっている。
 山間部は突帯文土器に壺がともなうが遠賀川式甕はない。駒方B遺跡では、直径が数十cmもあるような大形の甕を使った土器棺葬を営んでいる。口頸部に貼り付け突帯を利用した山形文(13)や特異な形態の甕(7・8)も多く前期突帯文土器はきわめて特殊な展開をみせている。日常土器の器種構成がどうであったかはまだ不明である。


図17 西部瀬戸内の突帯文土器編年図
(周防・安芸・伊予)
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 2 西部瀬戸内(図17)

 周防、安芸、伊予地域を対象とする。西予を中心に状況が明らかになりつつあり、その動向は宮本一夫がまとめている〔宮本,1989〕。山口県奥正権寺遺跡〔山本ほか,1984〕、愛媛県船ヶ谷遺跡、同大渕遺跡、同中寺・州尾遺跡を使ってこの地域の突帯文土器を考える。

  先T期
 大渕遺跡土坑資料を標識とし、粗製深鉢、刻目文土器(1・10)、鍵型口縁浅鉢がセットになる。宮本の船ヶ谷式に相当する。
  T期
 船ヶ谷遺跡を標識とし、瀬戸内型一条甕(2・11)と鍵型口縁浅鉢が基本的なセットで、これに大量の粗製深鉢と屈曲型刻目文土器がともなう。早期水稲農耕が伝播する以前の土器相を示す。
 これに対して大渕遺跡は早期水稲農耕が伝播した状況を示す。まだ未報告ということもあって詳細は不明だが最も多くの土器を出土した第5層の器種構成は、過半数を占める瀬戸内型一条甕(13)にわずかな砲弾型一条甕(12)と瀬戸内型二条甕(23)がともなう。また無文土器系の壺がみられくの字口縁浅鉢がともなっている。
 くの字口縁浅鉢や二条甕の存在は、船ヶ谷遺跡より新しい特徴をもっているものの、甕底部の大半が凹底で平底はわずかしか見られないことなどは古い特徴をもっている。大渕の時間的位置づけは西予地域における水稲農耕の始まりを左右する問題なので、本報告をまちたい。ただ大渕で営まれていた水稲農耕のあり方は、限りなく地域的変容を遂げた石庖丁や土偶の存在などもあわせて考えると、瀬戸内の中でも特殊な存在である。
  U期
 大渕遺跡の一部と南海放送遺跡〔宮本,1989〕を標識とする。二条甕(23)は確実に存在するがその数は少なく岡山や近畿の比ではない。大渕遺跡の評価いかんによっては二条甕の出現がT期までさかのぼる可能性もあるが、胴部突帯の破片をみる限りはU期の瀬戸内型一条甕の胴部形態と同じなので、今のところU期に二条甕が出現すると考えておく。
  V期
 中寺・州尾遺跡1号溝出土土器、中山T式〔松崎・潮見,1961〕を指標とする。中山T式が遠賀川式土器単純の組成に対して、中寺・州尾遺跡では突帯文土器と遠賀川式土器が共伴している(16)。遠賀川式土器と共伴する突帯文土器は、瀬戸内型一条甕(15・16・17)と砲弾型一条甕(14)、砲弾型刻目文土器(3)の系譜を引く前期突帯文土器である。小ぶりの木口刻目や、家根分類の小O、小V、小D字刻目をもつ突帯を口縁端部から下がった位置に貼り付ける土器で、U期の突帯文土器より型式学的に新しい。とくに16・17は口唇部の刻目文と刻目突帯文が二重の効果をあらわしており、遠賀川式甕の口唇部刻目の影響を強くうけている。遠賀川式土器の影響がみられる突帯文土器は、遠賀川式土器単純の組成をみせる中山T式の中にもあるので(4)、突帯文土器を使う集団との接触・交流が存在したことは疑いない。
  W期
 古いところでは阿方・片山式〔杉原,1949〕、中山U式などの前期突帯文土器を甕組成に多くもつ土器群を標識とする。突帯文土器には口縁端部に接して突帯を貼り付ける、いわゆる瀬戸内甕(24・25)と口縁端部から下がった位置に貼り付ける下城式にそっくりな土器(18・19)がある。両者は分布を異にしているようで瀬戸内甕は吉備、讃岐、播磨などの中部・東部瀬戸内に、下城式に類似する突帯文土器は伊予、安芸などの西部瀬戸内にみられる。W期の突帯文土器は、少条のへラ描き沈線文(2−3条)や、削り出し突帯文(25)を特徴とする。甕組成においては遠賀川式甕の比率がまだ高い段階である。
  X期
 W期から継続する二つの突帯文土器が甕組成に占める割合を高め、遠賀川式甕との比率が逆転する地域が出現する。瀬戸内甕はヘラ描き沈線と沈線の下方に1〜2列の列点文を組みあわせて多条化し(26)、とくに西部瀬戸内の瀬戸内甕はもっとも多条化傾向が強い。下城式に類似する突帯文土器も多条化するが(20)、瀬戸内甕ほどではなくまた沈線をもたないもの(19)もあって、瀬戸内甕とは明らかに文様構成を異にしている。


図18 土佐の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
*入田B式と田村前T・Uは地域を異に
する同じ時期の土器である
 3 南四国(土佐)(図18)

 i) 東土佐
  先T期
 土佐市倉岡遺跡から出土した倉岡T式を標識とする刻目文土器の段階である〔岡本,1983〕。
  T期
 倉岡U式を標識とする。口唇部に刻目文をもつ瀬戸内型一条甕を主とし、半精製の無刻一条甕が加わる甕組成である。U期はよくわからない。
  V期
 新段階になって突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する(17)。共伴する突帯文土器は完全に弥生化した前期突帯文土器であることが、入田B式と異なっている。突帯文土器の組成は、一条甕系(14・15)と砲弾型一条甕系(12・13)がある。前者は屈曲の痕跡を胴部に残す器形で、口縁端部から下がった位置に突帯をめぐらし刻目を施文する。口唇部の文様は無文(15・16)と刻目文(14)があり、後者は遠賀川式甕の影響を受けたものである。器面調整は刷毛目やナデ調整である。
 砲弾型一条甕は、口縁端部より下がった位置に突帯をめぐらすもの(12)と、口縁部に接して突帯をめぐらすもの(13)がある。後者の刻目の方が小さく弱々しい。器面調整は一条甕と同様に刷毛目かナデである。
 その後東土佐では遠賀川式甕単純の組成になるが、X期に瀬戸内甕が1点(18)だけ存在するものの基本的に瀬戸内甕の分布域には含まれない。
 一般に口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付ける技法は、早期の最も古い段階の特徴だが、四国や東部九州ではかなり新しい時期まで存続し、中寺・州尾遺跡や田村遺跡、下城遺跡から出土する前期突帯文土器は口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付けるものがほとんどである。西部九州や近畿など突帯の位置が上昇する前期突帯文土器に対して豊後水道や日向灘をはさんだ地域の地域色と言えよう。
 砲弾型一条甕の中で口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付けた甕は、東部九州の下城式と関連が注目される。下城式の最も古いタイプは内湾気味に立ち上がる口縁部をもち、口唇部の外端部に刻目文、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付ける甕である。両者は文様や細部形態に違いがあるので直接に結び付けることはできないが、V期の新段階に瀬戸内の各地で遠賀川式土器と共存していた突帯文土器を基盤に成立してくるもので、地域によって瀬戸内型甕や下城式などのかたちをとった点こそ重要と考える。
 東土佐の甕組成の特徴は、V期新段階における遠賀川式甕と前期突帯文土器との共伴と、二条甕の欠落にある。突帯文土器と遠賀川式土器の比率は約1:1で板付遺跡と同じ相互補完関係が成り立っている。しかし完全に弥生化した突帯文土器と遠賀川式土器の共伴の意味は早期突帯文土器の遠賀川式が共伴する板付遺跡とは質的に異なる。系譜を違える土器の使い分けでは説明できないこの地域独自の事情を反映したものであろう。
 ii) 西土佐
 四国では例外的に二条甕をもち、西部九州的な要素も強い地域である。
  T期
 無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と共伴しない中村T式土器を指標とする。器種構成は刻目のない一条甕を主とし、砲弾型無刻一条甕、粗製深鉢、鍵形口縁浅鉢からなり菜畑9−12層に併行すると考えられている。無刻一条甕は瀬戸内型(1)が主だが西部九州型一条甕(4)も10%の割合で存在する。前者がナデ調整で仕上げるのに対し、後者は東部九州と同じヨコ方向の貝殻条痕で仕上げる。器面調整の差が器形差と対応している点は系譜を考えるうえで非常に興味深い。またヘラ研磨で仕上げる精製の一条甕もある。鍵形口縁の浅鉢がともなうことからすれば前池式より古く位置づけることはできず、突帯文土器より古い様式として無刻突帯文土器を考えることができない証拠の一つともいえよう。西土佐の地域的特徴である。
  U期
 刻目突帯文土器の中村U式を標識とする。瀬戸内型一条甕(2)、無刻瀬戸内型一条甕そして西部九州型二条甕(5)の組成で、夜臼Ua式併行と考えられている。西部九州型二条甕が甕組成の中心である。二条甕はT期の西部九州型一条甕と同じく条痕調整である。甕にみられる西部九州的な特徴は早期水稲農耕の伝播を強く窺わせ、またイネ科の栽培型の花粉が高い比率で検出されたことともあわせて、水稲農耕の存在が強く推定されている〔木村,1988〕。伝播ルートについては「大陸から北九州に伝播された稲作は、豊後水道に敷かれた縄文早期からの伝統もつ姫島産黒曜石の交易ルートを通り本地方へ一足飛びに持ちこまれたものと考えられる」〔木村,1988:372〕と説明される。しかし、壺は伴わず打製の石庖丁形石器と大量の打製石斧が目だつばかりである。甕にみられる西部九州的な要素にしてもいまのところ東部九州には分布せず、どの地域からの影響を受けたのか推定できない。
  V期
 有岡式を標識とする。甕の組成は二条甕を主とするようだが、西部九州型か瀬戸内型か判断できる資料は少ない。胴部の屈曲はかなりなくなっており口縁部の突帯も端部に接して貼り付ける。斜行条痕調整である。甕の底部はすでに平底化している。
 新段階は、入田B式を標識とする。入田B式は9割をこえる甕とわずかな壺と鉢からなり、甕をもたない遠賀川式土器の入田T式と共伴する。入田B式の甕組成は瀬戸内型二条甕(6・7)、瀬戸内型一条甕、砲弾型一条甕(3)、無刻の一条甕と二条甕で、瀬戸内型二条甕を主とする。口縁部突帯の貼り付け位置は口縁端部からわずかに下がった位置か口縁端部に接するかでかなり上昇している。器面調整は条痕である。壺は条痕調整があることからみて縄文変容系の可能性がある。
  W期・X期
 突帯文土器は原則的に存在しないが、中村市のツグロ橋下遺跡〔木村,1988〕からは下城式(17)が出土している。
 入田遺跡における突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は、中寺・州尾遺跡や田村遺跡にみられるような前期突帯文土器と遠賀川式士器の共伴ではなく、板付遺跡と同じ早期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴である点に注目する必要がある。ところが最近になって岡本は入田B式と入田T式との共伴現象を否定し、入田B式を入田T式に先行させる見解を示している〔岡本,1979〕。これは中村市有岡遺跡で入田B式単純の土器群が発見されたのを考慮したものである。早期突帯文土器と遠賀川式土器との共伴現象が玄界灘沿岸地域以外でも見られるのかどうかは、前期水稲農耕文化の伝播と深くかかわってくる問題なのでその展開には注目していきたい。

図19 中部瀬戸内の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 iii) 中部瀬戸内(備後、備中、備前、讃岐)(図19)
 吉備、讃岐の瀬戸内海沿岸地域を対象にする。1960年代の春成による晩期土器編年の総括〔春成,1969〕以降、藤田憲司の遠賀川式土器成立期の研究〔藤田,1982〕、平井勝の突帯文土器研究〔平井,1988・1989〕によってこの地域の縄文から弥生への転換期の様相は急速に明らかになってきた。
  先T期
 古くは原下層式、最近では谷尻式〔平井,1989〕(1・2)を標識とする。刻目文土器や隆帯文土器の段階である。
  T期
 前池式〔潮見・近藤,1956〕を標識とするが量的に少ないので岡山市広江・浜遺跡出土土器〔間壁,1979〕を使って検討する。器種構成は甕と浅鉢である。甕組成は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器で、量的には粗製深鉢が最も多い。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(3)単純に近く、これに無刻一条甕が加わるのみで二条甕や砲弾型一条甕はまだ出現していない。口縁端部から下がった位置に突帯をめぐらしV字・D字刻目を刻む。頸部と胴部の境界を明確に区分するためにへラで沈線状の段をいれたり、爪形文をめぐらす。中部瀬戸内の一条甕の特色は、他の地域に比べて口唇部に刻目を施文することが多くその比率は50%にも達する。また口頸部にへラや爪を用いて文様をつける有文甕が顕著である。底部は丸底または凹底で注意を要する。
  U期
 岡山大学学生寮や沢田式を標識とする。器種構成に壺が加わる。甕の組成は突帯文土器が主になっていてわずかに粗製深鉢と刻目文土器が伴う。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(13)と瀬戸内型二条甕(17)、砲弾型一条甕(4・5)と器種が増加する。口縁部破片が多いので三者の組成比はわからないが、沢田遺跡の土坑資料は二条甕中心の組成である。口縁部の突帯は口縁端部からわずかに下がった位置にめぐらされるようになり、小ぶりになった刻目も登場する。口頸部と胴部の境界があまくなるもの(18)も出現する。口唇部刻目文は一条甕にはほとんど見られなくなり、二条甕はもたないものがほとんどである。二条甕の器形は一条甕とまったく同じで、へラによる段や爪形文が施文されていた部位に突帯を貼り付けて刻目を施文したものである。砲弾型一条甕の法量は、屈曲型の突帯文土器に比べて小形である。また甕の底部はそれまでの丸底や凹底から西部九州の平底へ変化する。壺はまだ数こそ少ないが、小形壺と大形壺がある。系譜的には無文土器系と縄文変容系の二者がある。U期は甕の器種の増加や、底部の平底化、壺の出現にみられるように西部九州から早期水稲農耕が伝播する段階なのである。
  V期
 この地域に遠賀川式土器が出現する。この段階に突帯文土器が存在するのは確実で香川では遠賀川式土器と突帯文土器が共伴する。岡山はまだよくわかっていないが津島南地点〔藤田,1982〕や、香川県大浦浜遺跡〔大山,1988〕では瀬戸内型一条甕の最終末型式と考えられる甕(15・16)や砲弾型一条甕(6・10)が遠賀川式土器とともに出土している。大浦浜遺跡の突帯文土器は、中寺・州尾遺跡と同じく早期突帯文土器(沢田式)と前期突帯文土器からなっている。津島南地点で遠賀川式土器と共に出土した突帯文土器は、二条甕を中心としたものである(19)。胴部は屈曲の痕跡を残しているとはいえ、口縁部は外に向かって大きく開くかたちをとる。沢田式の段階に衰えた口唇部刻目文が遠賀川式土器の如意状口縁の刻目の影響を受けて復活して、突帯の貼り付け位置も再び下がった甕が存在するなど、長原式とは異なった変化を遂げる。しかし砲弾型一条甕は、長原式と同じように変化するので、西日本における前期の突帯文土器は、器種によって個別の変化を遂げることが推定される。
  W・X期
 前期突帯文土器が大量に増加する。逆L字口縁甕として知られる瀬戸内甕(11)が遠賀川式土器と共伴し、そのあと徐々にその比率を増して、X期になると甕組成のなかにおける遠賀川式系甕と突帯文土器の比率が逆転する大浦浜や中ノ浜遺跡〔藤好,1982〕もある。このあり方は早期の突帯文土器様式でなく、煮沸用土器として遠賀川式土器の甕組成に加わるものである。砲弾型の胴部をもつ甕の口縁端部に接して突帯を貼り付け、突帯上面が平坦になるようヨコナデ調整し刻目文を施文する。胴部上位にヘラ描き直線文を施文するのが一般的で、その条数は新しくなるにつれて増加する傾向にあるが西部瀬戸内ほどは多条化しないのが中部瀬戸内の特徴といえよう(12)。また直線文の下位に1ないし2列の列点文を組み合わせて多条化させた甕もある。

図20 近畿の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 三.近 畿(図20)

 大阪湾沿岸の摂津、河内、和泉、そして和歌山県を対象にする。

  先T期
 滋賀里Vb・Vc式を標識とする。刻目文土器(1・5)や隆帯文土器の段階である。
  T期
 滋賀里W式を標識とする。器種構成は甕と鍵型口縁の浅鉢である。甕組成は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器で恩智遺跡や鬼塚遺跡のデータによると粗製深鉢や刻目文土器が高い比率を占める。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(6・7・16)単純に近く、二条甕や砲弾型一条甕はまだ出現していない(18)。底部は尖り底気味の丸底で、器面をケズリ調整で仕上げ、口縁部を面取りしたあとに口縁端部より少し下がった位置に突帯を貼り付けて、刻目を施文する。また口唇部に刻目をもつ場合もあり、大振りのD字やV字刻目を施す。滋賀里W式の一条甕の口縁部付近は、家根のいうところの五段階仕上げで作られており、最も手間をかけて作っている。
  U期
 口酒井式、船橋式を標識とする。器種構成に壺が加わる最大の画期である。突帯文土器の組成は一条甕(9)と二条甕(17・21)、砲弾型一条甕(8)である。一条甕と二条甕の比率は口酒井15次のデータによると9:1で一条甕が多い〔泉,1988〕。底部が平底化し新しい煮沸形態に変化したことを窺わせる。しかし、器形は瀬戸内型のままで、四国の西部のように西部九州型はなく、瀬戸内型の胴部に刻目突帯という文様要素だけを受け入れる。瀬戸内と同じ受容形態である。器面調整はT期と変わらず、口縁部を成形した後に口縁端部から少し下がった位置に突帯を貼り付けて刻目を施文するが、口縁端部を面とりしない点と、口唇部に刻目を施文しない点、そして小D字刻みがあらわれる点に変化があらわれる。家根が示した三段階仕上げで作られており、T期にくらべて口唇部刻目と口縁端部の面取りに手抜きがおこなわれている。壺は無文土器系と縄文変容系があるが、前者は小壺に限られ、大形壺は後者の深鉢変容型に相当する。
 この段階の突帯文土器様式にあらわれた一連の変化は、西部九州からの早期水稲農耕の伝播に伴うものであるが、壺にみられた搬入品と変容系の存在は、水稲農耕の伝播形態を考える上で、重要な視点となる。
  V期
 長原式を標識とする。遠賀川式土器が出現する段階である。突帯文土器の組成は二条甕(18・22)と砲弾型一条甕(10・11)で一条甕は消滅している。二条甕と砲弾型一条甕の比率は4:1である。壺には無文土器系と、縄文変容系、大洞系がある。浅鉢の比率は5%以下でもはや縄文土器の組成ではなく、弥生化した前期突帯文土器の組成である。甕は瀬戸内型に混じって西部九州型がわずかに含まれる点が興味深い。胴部下半は削り調整で仕上げるが、胴部突帯から上はナデ調整で、刷毛目を使用しない点が注目できる。


(*)

口縁部の突帯は口縁端部まで上昇することで口縁部の成形と同じ工程でつくることが可能となり、突帯の断面形態がAやB(*)に変化する。刻目は小D、小V、小O字で小振りになる。浅鉢は黒色磨研土器とはいっても焼成と硬度の点でその範疇には含まれないといい、椀・皿形の浅鉢がみられる程度である。これらの突帯文土器は第T様式古・中段階の土器に併行し共伴する場合も多い。


  W期
 河内や摂津の近畿中心部では、突帯文土器を使用する集団が遠賀川式土器を使用する集団と占地を異にして生活を営んでいたが、突帯文土器自身の型式変化については不明な点が多い。水走遺跡出土土器が長原式の後続型式として考えられているが、器種構成は不明である。近畿の中心部から遠くはなれた紀ノ川流域やさらに南の田辺湾の周辺では、突帯文土器(12・19)を使用する集団が存在していたが、それ以外のほとんどの地域では遠賀川式土器を使用する集団との日常交渉の中で前期突帯文土器を使っていた集団は吸収されていったと考えられている。〔寺沢,1981〕。
  X期
 山賀遺跡〔大阪府教委ほか,1984〕で瀬戸内甕が出土しているが(14・15)、甕組成に占める割合は数%にすぎず、瀬戸内地域からの持込みと考えられる。

 Y 突帯文土器の地域色

 一.地域色研究の視点

 弥生土器の地域色研究は、櫛描文様の有無によって区別された九州とか近畿とかの地域単位毎の差を「地域的様式差」として概念化した小林行雄にはじまる〔小林,1943b:122〕。その後、佐原眞が近畿地方の内部における中期弥生土器の地域色の解明をめざし、最終的には旧制の国の単位程度の広さにおける地域差の認識へ進んだ〔佐原,1962・1970〕。都出比呂志も第X様式や第V様式の地域色を抽出するにいたっている〔都出,1974・1983〕。地域色を認識する差異の指標には、「同一の「時間的様式」内における特定の器種の存否、あるいはその構成比、主流を占める文様の種類や施文手法、ハケメやケズリなど調整手法の違い」〔都出,1989:302〕などがあるが、対象とする地域単位の広さのとりかたによって各種のレベルがあり、もっとも有効な指標を探すのは容易ではない。また識別された地域色も特に小さな地域単位のレベルでは、明確な境界線をもってひきうる性質のものでなくなってくる場合が多い。地域色をかたちづくる個々の地域の実態については、土器製作技法の接触頻度の関係から説明され、都出はもっとも接触頻度の高い地域単位を「地域的小様式」と呼んでいる。また弥生土器の地域色の出自についても、すべての出発点が畿内地方において弥生土器が成立した時点に求められている。
 突帯文土器の地域色は、突帯文土器が成立する以前の地域色を反映したものと考えられ、そうした突帯文土器の地域色が水稲農耕開始による社会の変化を受けてどのような影響を受けたのか知ることは、弥生土器の地域色研究の出発点になる。この章は、突帯文土器の地域色を識別し各地域がみせた水稲農耕の受容形態から弥生文化の定着形態を知る基礎作業にあたる。


 二.早期突帯文土器の地域色

 1 早期突帯文土器の地域的様式差

 突帯文土器様式が存在する西日本は、亀ヶ岡式土器様式が存在する東日本と識別できるが、このうち伊勢を除く伊勢湾沿岸地域に突帯文土器様式が存在するのはT期の段階に限定される。それは、主文様だった突帯文様が単位文様として壺や甕に用いられることで条痕文土器様式に取り込まれていくからである。したがって本稿では、近畿以西の突帯文土器の地域色をみていくことにする。この作業は佐原や都出が近畿の弥生土器を対象に地域色を検討した地域的小様式の識別を目的とするものである。まず、突帯文土器様式が分布する西日本には小林が識別したような「地域的様式差」が認められるのであろうか。
 はじめに、突帯文土器自身に目を向けると、近畿以西の突帯文土器には東と西に大きな器形差が存在し明確な線びきができる。すなわち屈曲型の突帯文土器には瀬戸内型と西部九州型という大きな器形差があって、瀬戸内型は東部九州から近畿にいたる範囲に、西部九州型は西部九州に分布するので、瀬戸内型の有無や、西部九州型の有無という指標で識別できる。この東西の器形差は、突帯文土器が成立する以前から存在したもので突帯文土器もその器形差を継承したにすざない。この器形差はすべての突帯文土器が砲弾型になるV期新段階まで存在する。
 器形にみられた東西の地域差を裏付ける指標は他にもある。それらは屈曲型の器形差のように存否で識別できるほど強くはないが、比率で識別できるものである。先T期とT期における屈曲型と砲弾型の構成比率をみる。参考のために粗製深鉢と刻目文土器の構成比も提示した(表4)(19)。すると地域によって構成比が異なっていることがわかる。砲弾型がまさる西部九州と屈曲型がまさる東部九州以東との地域との違いは一目瞭然である。胴部形態は調理対象物の違いや調理具の使い分けを反映すると考えられる指標である。さらに突帯文土器の成立期から二条甕をもつ地域と、途中から二条甕をもつ地域の境界線もここに引くことができる。


表4 先T期とT期における砲弾型甕と屈曲型甕の比率

 このように近畿以西の突帯文土器様式には、瀬戸内型甕と西部九州型甕の存否、屈曲型甕と砲弾型甕の比率、一条甕と二条甕の分布や比率に大きな違いをみせる対照的な二つの地域差の存在が明らかになった。近畿以西の西日本を九州のほぼ中央で東西に二分する地域的なまとまりは、なにも突帯文土器様式に限られたものではない。縄文土器や弥生時代中期の櫛描文の分布においても地域差は存在し、同じところに東西の境界線を引くことができる。都出が弥生時代中期の土器の地域性を論じる際に規定した畿内地方と北部九州地方の関係、「畿内と北部九州という大きい地方どうしの間には土器製作技術の日常的交流は、中期には、ほとんどなかったことが大きな要因として働いているというべきであろう」〔都出,1989:308〕が早期の西部九州と瀬戸内�近畿地方の間にも存在したのである。すなわち突帯文土器様式の地域的様式差は西部九州と東部九州以東の地域の間に認められるのである。

 2 西部九州における地域的小様式

 i) 煮沸用土器の組成

 西部九州における煮沸用土器の組成は、すべての地域で同じ組みあわせを示しているわけではない。西北九州・唐津・福岡平野などの玄界灘沿岸ではすべての煮沸用土器がみられるが、佐賀と薩摩を除く有明海沿岸では祖型甕が欠落する。また佐賀と薩摩に祖型甕があるといっても板付T式へ変化していくタイプではない。その意味で有明海沿岸が板付T式の成立に関与していないことがわかる。有明海沿岸の突帯文土器の文様型をみると、西部九州にはもともとない組みあわせを除けば屈曲型で口縁部か胴部に一条だけ突帯を貼り付ける文様型は欠落し、特に佐賀・筑後・薩摩では多くの文様型が欠落することがわかる。
 このように煮沸用土器の組成からみると西部九州には突帯文土器の成立と展開にあたっての中心と周辺というまとまりが存在したことがわかる。すなわち煮沸用土器の量や変異型が豊富な島原半島や熊本、唐津、福岡平野などの中心地域と、それらに乏しく定型化した突帯文土器ばかりの佐賀、筑後、西北九州、薩摩などの周辺地域である。
 ii) 突帯文土器の甕組成
 T期は砲弾型一条甕が主の福岡平野を除いて屈曲型の甕が主である。U期もT期と同様、甕組成は基本的に変化しない。V期になると有明海沿岸は継続して二条甕を主とするが、玄界灘沿岸は板付T式甕と屈曲型の突帯文土器が共伴する。板付T式甕の器形は砲弾型であるが口縁部が外反するため、調理時の蓋使用に関して突帯文土器との使用法の違いが指摘されている。
 V期の屈曲型突帯文土器は強く屈曲したり湾曲する器形は少なくなり砲弾型の器形に近づいている。早期の突帯文土器の胴部形態は福岡平野をのぞいて屈曲する甕を主としていたことを考えれば、縄文的な煮沸形態の終末的状況といえる。また砲弾型がずっと主流であった福岡平野でもこの時期になって初めて屈曲型の二条甕が主流となり、いままで主だった砲弾型一条甕が激減した理由は、砲弾型一条甕が担っていた役割が同じ砲弾型の器形である遠賀川式甕に吸収されたことを示している。そして二条甕と板付T式甕の共伴は、調理法や調理対象物の面である種の使い分けがおこなわれていたことを意味するのである。
 このように早期の西部九州には、器形をまったく異にする突帯文土器が主流となる二つの地域ブロックが存在する。
 iii) 屈曲型甕の型式学的特徴
 西部九州の代表的な突帯文土器である二条甕を中心に、西部九州内の地域色を考えてみる。表5は、早期に属する西部九州の二条甕を対象に、刻目の施文法、口縁部に貼り付ける突帯の位置、器形という主要3属性がどのような組みあわせを示すか地域別にみたものである。数字は個体数をあらわし、数字を「〇」で囲んだものが各地の各型式のなかで最も多い組みあわせを示し、「△」で囲んだものは各期のなかでその地域にしか存在しない組みあわせであることを示したものである。


表5 西部九州の二条甕にみられる異変

屈痕
屈無





弱 屈曲するもの
屈曲の痕跡を残すもの
屈曲がとれたもの
口縁部突帯の貼り付け位置
口縁部から突帯幅一つ分以上
下がった位置に張り付けるもの
口縁端部からわずかに
下がった位置に貼り付けるもの
口縁端部に接して貼り付けるもの
刻目の施文法
刺突刻み
押し引き刻み
弱く刻むもの
 T期の最も多い組みあわせをみると、薩摩と福岡が一致している他は地域毎に別々で属性レベルでの地域色が強い段階と言えよう。しかし、V期になると各地域とも砲弾型の胴部をもち口縁端部に接して突帯を貼り付け、押し引き刻目を施す組みあわせ(屈無、C、押)が最も多くなっていて属性レベルでは統一されている。このように西部九州の二条甕を属性レベルでみると、地域色が強い段階から斉一的な段階へと移行することがわかる。それでは、T・U期の地域色はどの属性に最も強くあらわれているのだろうか。T期において最も多い組みあわせは刺突刻目で屈曲する器形をもつものだが、口縁部突帯の貼り付け位置に関しては福岡、薩摩はBで新しい傾向をもっている。U期になると福岡だけが口縁部突帯をCに貼り付けるようになり他の地域も、V期になってようやく口縁部突帯をCに貼り付けるようになる。この事実から刻目の施文法と器形が各地域おなじ歩調で変化するのに対し、口縁部突帯をどこに貼り付けるかという点においてはバラツキが多く、特に福岡平野では他の地域よりも早く突帯の貼り付け位置が上昇するという傾向を導くことができる。福岡の突帯文土器が新しい雰囲気をもつ一つの理由である。貼り付け位置が上昇すれば口縁部の成形と同時に突帯を成形することができ、作業工程の簡略化が可能となってくる。
 各期毎の特徴的な組みあわせは、T期は有明海沿岸に、U期とV期は福岡平野に存在する。特にU期とV期の場合にどこが特徴的かというと、U期は器形と口縁部突帯の位置が同じで刻目を異にする(屈痕、C、刺)。V期は屈曲がとれた器形と口縁部突帯の位置Bが同じで、刻目を異にするものと口縁部突帯の位置Cと弱い刻目が同じで器形を異にしており、これらから考えると、刻目と器形に古い要素が残り口縁部突帯が早く変化するという、先ほどと同じ知見がえられる。しかも福岡平野に顕著な点まで一致している。組みあわせの豊富さを見ると有明海沿岸、唐津、福岡のように豊富な地域と、薩摩や西北九州のように乏しい地域があったこともわかる。
 このように二条甕を主な三つの属性に限って属性レベルで検討した結果、西部九州の二条甕が地域色の強い段階から福岡平野主導のもとに口縁部突帯の位置を上昇させることで斉一的な段階へと移行していく状況が明らかとなったり、有明海沿岸・唐津・福岡などの中心地域と、薩摩・西北九州などの周辺地域を識別することができた。

図21 西部九州の地域型甕模式図
 iv) 地域甕の設定(図21)

 西部九州の屈曲型甕の中には、口頸部形態、口縁部突帯と胴部突帯までの間隔、器面調整、器形変化に特徴をもつ地域型甕が存在する。
 福岡平野に特徴的な二条甕は、内湾する口頸部をもち突帯間の間隔は広くアナダラ属の貝殻条痕調整から板ナデ・刷毛目調整へと変化する甕(1)である。また器形は口頸部の形が内湾したまま胴部の屈曲を弱める方向で変化する(2)。この甕は全体的に繊細な雰囲気をもつので新しい印象を受ける。福岡平野を中心に分布し唐津や西北九州地域、薩摩などの外洋に面した地域にも点在している。このような特徴をもつ福岡平野の二条甕を「筑前型」と呼ぶことにする。
 有明海沿岸に特徴的な二条甕は、直線的に内傾する口頸部をもち突帯間の間隔は広い。条痕調整だが貝殻条痕ではなく板や植物質の原体を用いた条痕で、のちに板ナデやナデ調整に変化する(3)。器形の変化は大きな流れが二つ認められる。一つは口頸部が直線的な形態をたもったまま、さらに強く内傾したあと胴部の屈曲を弱めていく変化(4)と、外湾しながら胴部の屈曲を弱めていく変化(5)である。この甕は全体的に粗剛な雰囲気をもつので古い印象を受ける。福岡や唐津などの外洋に面する地域にはほとんど分布せず、内陸的な甕とでも言えようか。このような特徴をもつ有明海沿岸の二条甕を「有明海型」と呼ぶことにする。後述するが前期になると器形は砲弾型になり、突帯間の間隔が広い佐賀(6)や薩摩の甕と狭い亀ノ甲式甕(7)が見られる。刷毛目調整をまったくおこなわないのが有明海型の最大の特徴である。
 唐津平野のU期およびV期の古段階に主となる突帯文土器は、屈曲型の胴部をもち口唇部に刻目文、屈曲部に刻目突帯文をもつ甕(8)で西部九州の他の地域が二条甕を主とするのとは対照的であるうえに、口唇部は特別な手法を用いて整形している。口唇部を端正に面取りし平らな端面を明確に造りだした後、口唇部内面に強いヨコナデ調整を施し、この部分に凹線に似た窪みを巡らすものである(9)。このような特殊な調整をくわえた文様型の甕を「唐津型」と呼ぶことにする。
 以上のような西部九州の地域型甕以外にも、器形や文様、整形技法では明確に識別できないにもかかわらず、土器自身がもつ雰囲気とか表情といったレベルで他とは区別できる土器は存在する。たとえば福岡平野の板付遺跡の甕と有田遺跡の甕は、どちらの遺跡のものか識別できるものがある。このような違いをはたして地域色と言えるのかという問題もあるが、集団毎の違いを反映していることは事実でこのような差異をどのような指標をつかってどのように表現していくかが今後の課題である。
 v) 西部九州における突帯文土器の地域差と甕組成
 これまで二条甕を中心とする屈曲型甕の型式学的検討、地域型甕の抽出、突帯文土器甕組成などの指標を使って地域差を検討してきた。その結果、早期の西部九州は大きく二つのブロックにわかれることがわかった。
  有明海沿岸・唐津・西北九州・薩摩
 屈曲型の甕が突帯文土器の主となる地域ブロックで、地域型の甕として有明海型や唐津型がある。この地域ブロックは二つの地域にわかれる。二条甕の変異型が豊富で煮沸用土器は欠落する器種がないという、いわば突帯文土器の成立と展開にあたって中心的な地域であった有明海沿岸・唐津と、もう一つは二条甕の変異型が乏しく欠落する煮沸用土器が多いという、突帯文土器の成立と展開にあたって周辺的な様相をもつ西北九州と薩摩である。
  福岡平野
 砲弾型一条甕が主となる地域ブロックで、二条甕は筑前型が分布する。筑前型は西部九州の中では口縁部突帯の位置を他の地域に先駆けて最も早く上昇させる土器で、この変化が西部九州の二条甕にみられた地域差を地域差が強い段階から斉一的な段階へと転換させた現動力となったのである。
 以上の二大別は、佐原が畿内第U様式を畿内周辺部と中心部に分けた2大別に対応するのか、もしくは同じ時期の畿内を北部と南部に分けた大別に相当するかのどちらかで、都出のいう地域的小様式には相当しない。

 3 近畿・瀬戸内における地域的小様式

 i) 煮沸用土器の組成>
 この地域の早期の煮沸用土器には、突帯文土器以外にも粗製深鉢や刻目文土器がある。ほとんどの地域では比率を別にするとすべてがみられるが、砲弾型刻目文土器だけはもっている地域の方が少なく近畿や吉備に限られる。しかしそれが祖型甕といえるかどうかといえば祖型甕とはいえず、内傾接合で縄文的な器面調整を施す縄文系に相当する。したがって現状では近畿や瀬戸内に砲弾型刻目文土器はわずかに認められても祖型甕はまったく存在しないと考えられる。
 突帯文土器の組成は、胴部だけに突帯を貼り付ける胴部一条甕は伊予を除いて存在しない他はほとんどの地域でそろっている。また文様型の変異型も西部九州に比べるとより豊富である。
 ii) 突帯文土器の組成比
 近畿や瀬戸内の突帯文土器の中で主体となる突帯文土器を抽出してみよう。T期はすべての地域で一条甕が主になる。U期になると、ほとんどの地域で二条甕が主となるが、豊後・伊予は一条甕のままである。このように主になる突帯文土器をみると、早期の間ずっと一条甕が主になる豊後や伊予と、一条甕から二条甕へと主になる突帯文土器がかわる地域が存在することがわかる。
 iii) 一条甕と二条甕の型式学的特徴
 西部九州ほど細かくは検討できないが、器形や文様および器面調整に若干の地域的な特徴を指摘できる。屈曲型は圧倒的に瀬戸内型であることは前にも述べたが、伊予に西部九州型一条甕が1点みられるのと、西土佐のT期とU期に西部九州型一条甕と西部九州型二条甕がみられ、特にU期には西部九州型が瀬戸内型よりも多くみられる。また当然のこととして西部九州型の器面調整は東部九州的な特徴をみせる。文様は口唇部と口頸部に地域毎の特徴がある。まず一条甕の口唇部刻目文をみると豊後にはまったくみられないのをはじめ、豊前・東土佐・紀伊・畿内では20%にとどまるのに対して、周防・伊予・吉備の一条甕は50%の比率で施文されるという。参考までに西部九州の口縁部に突帯をもつ屈曲型の甕の口唇部にはいっさい施文されない。口頸部の文様も口唇部刻目の動向とほとんど同じで、豊前・土佐・紀伊ではまったく施文されず、豊後・伊予・近畿にわずかみられる他は吉備に偏っており、この伝統は前期突帯文土器まで継続する。
 このように西部九州に近いほど西部九州型の器形と器面調整が多く、文様的にも突帯文以外の文様は施さないという無文化傾向を指摘できた。

図22 近畿・瀬戸内の地域型甕模式図
 iv) 地域型甕(図22)
 iii)の型式学的な特徴をもとに地域型甕を設定してみよう。
東部九州型 瀬戸内型一条甕に属すが、屈曲部には段やヘラ描き沈線はなく口頸部のヘラ描き文や口唇部刻目文を基本的に施文しない甕で、長門・豊前・豊後の海岸部に分布する(1)。
吉備型 瀬戸内型一条甕、同二条甕に属す。文様的に豊富な甕である。屈曲部や湾曲部にはヘラで段をいれたり沈線を巡らしたり爪形文をまわしたりして、口頸部と胴部を明瞭に区別する。口唇部には刻目文を施し口頸部にへラ描きの沈線文をもつ甕(2)である。吉備や伊予を中心に分布し周防や近畿にもみることができる。
 v) 近畿・瀬戸内における突帯文土器の地域差と甕組成
 これまで近畿や瀬戸内を甕組成や屈曲型突帯文土器の型式学的検討や地域型甕を指標に地域差を検討してきた。その結果、早期の突帯文土器は大きく二つに分けられることがわかった。
  豊後・伊予・西土佐
 屈曲型一条甕が突帯文土器の主となる地域ブロックで器形や器面調整には西部九州的な特徴が強くあらわれる地域である。文様的には西部九州的な無文化傾向をもつ豊後や土佐と有文傾向が強い伊予にわかれるが、全体的に西部九州の影響が強く西部九州と近畿や瀬戸内の中間的な様相を示す地域ブロックと言えよう。
  豊前・周防・吉備・近畿
 屈曲型一条甕から屈曲型二条甕へと主となる突帯文土器が転換する瀬戸内北岸の地域ブロックである。器形的にはすべて瀬戸内型に属すが、東部九州型と吉備型にみられるような形態差をもっている。文様的には吉備が最も装飾が豊富で、東や西へ行くほど無文化傾向が強くとくに西部九州に近い豊前や長門ではまったく文様が無いといってよい状況である。

 近畿や瀬戸内でみた二大別は、西部九州でみた二大別と質的に同じで、地域的小様式までには至っていない。


 三.前期突帯文土器の地域色

 1 地域型甕の設定

 前期の突帯文土器にも、器形や口縁部突帯と胴部突帯までの間隔や器面調整、文様の面に特徴をもつ甕が存在する。前期の器形はすべてが砲弾型のため器種的には二条甕と砲弾型一条甕しかない。分布は二条甕が主体の西部九州と一条甕が主体の東部九州・瀬戸内にわかれる。
 西部九州では早期の有明海型二条甕が弥生化したものが主となる。亀ノ甲型や高橋U式として有名な甕で刷毛目をいっさい使用せずナデ調整で仕上げ、刻目文や突帯文、1〜2条の沈線以外はほとんど文様をもたない。前期末には底部が脚台化するという特徴をもつ。口縁部突帯と胴部突帯の間隔が広い佐賀や薩摩の二条甕(図21−6)と、狭い亀ノ甲型(図21−7)があり、特に後者の分布範囲は西部九州全体へと広がっている。このような特徴をもつ二条甕も「有明海型」と呼ぶことにする。
 西北九州に特徴的な前期の突帯文土器は、突帯間の間隔がひろくナデ調整を用い胴部は前期であるにもかかわらず湾曲しており、また口縁部突帯も口縁端部から下がった位置に貼り付ける(図21−10)。甕の組成に占める割合こそ少ないが薩摩にもみられ外洋的な分布をみせる。このような特徴をもつ前期の突帯文土器を「西北九州型」と呼んでおこう。
 大分県の大野川上・中流域には、きわめて地域的な発展をとげた突帯文土器が存在する。これは突帯文を駆使して口頸部に山形文やそのほかの文様を造形するものである(図22−3)。今のところ埋葬用の大形甕しか見つかっていないが、熊本県塔の原遺跡でも見つかっているので阿蘇の外輪山を中心とした山間部に分布の中心をもつ可能性もある。このような特徴をもつ甕を「大野川型」と呼ぶことにする。
 さて前期の突帯文土器の中で最も地域的な特徴をもつのは砲弾型一条甕である。西部九州に分布するのは有明海型で亀ノ甲型や高橋U式として知られている。ただし、これは二条甕より少く甕組成に占める割合も低いので、これから述べる瀬戸内沿岸の砲弾型一条甕とは性格を異にしている。
 豊前の南部から豊後の海岸部にかけて分布する砲弾型一条甕は器種分類でも設定した「下城型」で、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付け突帯の下位には文様を施文しない(図22−3)。口唇部に刻目文をもつものは成立期にみられる程度である。これには刷毛目調整を用いる甕もある。安芸や西土佐、伊予にもわずかではあるが確認されている。
 最後に吉備、讃岐、伊予、安芸を中心に分布する「瀬戸内型」がある。口縁端部に接して突帯を貼り付けるもので突帯の下位にヘラ描き沈線や刺突文、山形文を組みあわせて豊富に装飾する点は早期突帯文土器の吉備型甕の伝統を引いている(図22−5)。なかには沈線の数が十数本にも及ぶものもある。これは刷毛目調整を用いない点に特徴をもつ。西土佐や近畿にもわずかに存在する。

 2 前期甕組成にみられる四つの型

 弥生時代前期は遠賀川式土器の時代と認識されてきた。遠賀川式土器は如意状口縁の甕や壺、高坏をセットにもち、文様や器形に地域色は存在するものの九州から伊勢湾にいたる地域に分布する強い斉一性をもつ土器である。遠賀川式土器が斉一的であることの理由は短期間のうちにおこなわれた集団的・組織的な前期水稲農耕の伝播に求められてきたのである。
 前期水稲農耕の伝播に複数のルートと伝播形態が存在したことは最近の調査で明らかにされつつあり、それは従来の弥生前期観を一掃する内容をもつ。前期水稲農耕の伝播の実体を探る方法の1つに甕組成を調べる方法があり、筆者も遠賀川式甕と前期突帯文土器の組成比が地域によって異なる事実を、前期水稲農耕を開始するにあって各地域がみせた受容形態の差と考え、A・B・Cに類型化したことがある。〔藤尾,1987b〕。Aパターンは、前期を通じて遠賀川式甕が煮沸用土器の主体となる組成で、遠賀川式甕が甕組成に占める割合は90%以上に達する。玄界灘沿岸、周防灘沿岸、近畿地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映したパターンである。Bパターンは、前期を通じて突帯文土器が煮沸用土器の主体となる組成で、突帯文土器が甕組成に占める割合は90%以上に達する。玄界灘沿岸を除く西部九州地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映しているパターンである。Cパターンは、前期の中ごろまでは遠賀川式甕が煮沸用土器の主体を占めその比率は90%以上に達するが、後半以降は前期突帯文土器の比率が増し30%から90%に達する組成で、遠賀川式甕と突帯文土器の使い分けがおこなわれる。豊後、安芸、吉備、讃岐、伊予などの環瀬戸内地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映したパターンである。
 しかしその後の調査の結果、新たな甕組成の存在が明らかになった。前期中ごろに遠賀川式甕と前期突帯文土器が1:1の割合で共伴する現象が伊予や土佐で確認されたのである。遠賀川式土器と突帯文土器との共伴は玄界灘沿岸でもみられるが、玄界灘沿岸の場合は早期突帯文土器との共伴である点が異なるところで注意を要する。また遠賀川式土器と前期突帯文土器の比率にこだわらなければ、共伴する遺跡はもっと増加し、福岡県石田遺跡、山口県綾羅木川下流域、岡山県津島南遺跡、香川県永井遺跡、同大浦浜遺跡、近畿の長原式など東部九州から近畿にいたる広範囲にみられる現象であることがわかる。さらに地域毎に異なったと考えた甕組成は、一つの地域の中でも遺跡毎に異なる場合が指摘されはじめている。たとえば近畿地方の前期遺跡から出土した甕の組成を調べた春成は、長原式だけを出土する遺跡、長原式が主で遠賀川式が従の出方をする遺跡、長原式が従で遠賀川式が主の出方をする遺跡、遠賀川式だけを出土する遺跡が存在すること指摘している〔春成,1990:68−73〕。近畿地方では遠賀川式を使う集団と長原式を使う集団が両極として存存し、それぞれが別の土器を使う集団と交渉・交流するその度合によって煮沸用土器の組成が集団毎に微妙な違いをみせると考えたのである。
 春成が示した四つのタイプと筆者が以前に示したパターンとの対応をはかると、長原式だけを出土する遺跡と長原が主の出方をする遺跡がBパターン、遠賀川式だけを出土する遺跡と遠賀川式が主の遺跡がAパターンに対応し春成の分類が一見きめ細かくみえるが、これは春成が第T様式の古・中段階に限定しているからで、筆者のように前期水稲農耕の伝播の問題を考える場合には長い時間幅で考えることが必要となるので、以上の点を考慮して前期の甕組成を四つに再編成する。
  板付パターン
 遠賀川式土器が出現した当初には、早期突帯文土器と遠賀川式甕が1:1の割合で共伴するが、その直後から遠賀川式甕が主で前期突帯文土器が従の組成になる(約9:1)。玄界灘沿岸がこの甕組成を示す地域である。玄海灘沿岸はV期古段階に早期突帯文土器(夜臼Ub式)と板付T式が共伴する。これ以降は両地域とも遠賀川式土器が主で、亀ノ甲式甕が数%入る程度である。
  亀ノ甲・長原パターン
 前期を通じて突帯文土器が主、遠賀川式土器が従の組成(9:1)である。西部九州の有明海沿岸と薩摩は地域全体がこの甕組成を示す。遠賀川式土器を使う集団は、この地域にほとんど進出しなかったと考えられる。近畿地方の長原遺跡や鬼虎川遺跡などはこの甕組成を示す遺跡で、早期から突帯文土器を使っていた集団の流れをくむ。遠賀川式土器を使う集団との交流において遠賀川式土器が入ってくるに過ぎない。
  今川・唐古パターン
 前期を通じて遠賀川式土器が主の組成を示し豊前・長門・周防と近畿の遺跡はこの組成を示す。遠賀川式土器を使う集団が進出先で営んだ遺跡がこの組成を示す可能性が高い。進出時は遠賀川式土器単純の組成をみせるが、やがて周辺の突帯文土器を使う人々との交流・接触を通じて前期突帯文土器が入ってくるに過ぎない。今までの弥生前期の遺跡の典型的な姿として考えられていた遺跡がこの甕組成を示すのである。
  瀬戸内パターン
 前期の最初の頃は遠賀川式土器単純に近い組成を示すが、後半以降は突帯文土器が3割以上みられる。豊後の海岸部や安芸・吉備・伊予・讃岐の地域的特徴と考えられる。遠賀川式土器を使う人々が進出した先で在他の突帯文土器を使う人々との密度の濃い接触・交流がおこった結果、突帯文土器の比率が高くなったのであろうか。
  土佐パターン
 前期突帯文土器と遠賀川式甕が1:1割合で共伴するが(20)、その直後から遠賀川式甕が主で前期突帯文土器が従の組成になる(約9:1)。東土佐にみられる甕組成である。

 Z 水稲農耕と突帯文土器

 一.土器の地域色と水稲農耕の受容形態(個別的対応)

 前章まで突帯文土器をさまざまな側面から検討してきた。早期には土器製作に関する日常的な接触交流が及ぶ範囲として、西部九州と瀬戸内から近畿という「地域的様式差」と判断できる二つの地域が存在し、さらにそれぞれの地域の中で旧国単位までとはいかないまでも中間的な地域ブロックを識別した。また前期には遠賀川式土器の伝播にともなってそれぞれの地域や集団がみせた受容形態の違いを反映したと思われる四つの甕組成を識別した。西部九州と近畿・瀬戸内の内部には指標のとりかたで幾つもの線びきが可能な地域色が存在する。特に水稲農耕を始めるにあたって地域や集団がみせた個別的な対応、すなわち稲作の受容形態はさまざまであったろう。突帯文土器を対象にした地域色の識別はX章であげた指標がほとんどすべてといってよい。したがって突帯文土器を使って都出のいう地域的小様式に対応する地域色を識別するためには新たな指標をみつけてもちいるか、いまある指標を定量化することが必要である。今回は突帯文土器の地域色の識別をこれまで示したレベルにとどめ別の側面から研究を進める。
 突帯文土器は遠賀川式土器とならんで水稲農耕の開始に深くかかわっている土器なので、各地域が水稲農耕の受容にあたってみせた個別的な対応は、突帯文土器になんらかのかたちで残っているはずである。各地域がみせた個別的な対応という歴史的・社会的背景をもとに突帯文土器の地域色は生じたからである。逆にいえば、当該期における地域色研究の目的は水稲農耕の個別的な受容形態を明らかにすることである。したがって、突帯文土器の組成をもとにした地域性の認定はこの命題にせまるものと考えられる。その際にはX章でみた甕組成や地域甕、型式学的特徴をもとに地域性を認定するが、土器以外の遺物や遺跡自身を含めて西日本を概観しておこう。


 二.突帯文土器以外の指標からみた地域色

 近畿以西の地域に壺が出現する時期をみると、西部九州では突帯文土器の出現時から壺が存在するが、無文土器そのものが存在したり機能差による器種分化をとげた壺の組成が完成している玄界灘沿岸や佐賀平野と、縄文変容系の壺が目だったり器種分化をとげていない有明海沿岸地域がみられる。また豊後も突帯文土器の成立時から壺が存在する可能性はある。豊後以東の瀬戸内・近畿ではU期に壺が出現するが、縄文変容系の比率はかなり高く器種分化も進んでいない。
 石器や木製農具など水稲農耕と直接かかわる農工具はどうであろうか。早期突帯文土器の段階において大陸系磨製石器がセットで存在するのは玄界灘沿岸だけで、またU期の近畿や瀬戸内にみられる石器は石包丁が単独で出土するほかは縄文時代からの石器組成を維持している。これらの地域では大陸系磨製石器がそろうのは前期以降、遠賀川式土器の出現期まで待たねばならず、なかには最後までそろわない地域もある。木製農具は石器に比べて見つかる可能性が少ないが、玄界灘沿岸地域では突帯文土器の成立当初から揃っている。そのほかの地域は香川県林・坊城遺跡でU期相当の木製農耕具が見つかっている以外は不明である。紡錘車や鉄器は玄界灘沿岸に集中して見つかっている。
 このように突帯文土器以外の遺物を指標にすると、最初から水稲農耕にかかわる土器や農工具がセットで存在していた玄界灘沿岸と、一時期遅れて出現するうえにそのあり方はセットでなく単品で存在する有明海沿岸や近畿・瀬戸内が明らかとなった。
 集落や墓は早期段階の遺構が検出された例が西部九州に集中しているので近畿・瀬戸内と比較するには至っていない。ただ西部九州における遺跡のあり方をみると、突帯文土器以前の縄文的なあり方がかなり変化していることがわかる。特に集落に比べて比較的状況が明らかになっている墓の構造を例にとると、朝鮮半島の墓制である支石墓が出現することは言うまでもないが、埋葬専用の壺棺が出現したり墓域が集落とは分離されて造営されるようになり弥生的な遺跡構造がすでに完成しているといえる。


 三.各地の水稲農耕受容形態

 1 指標の説明

 本稿では近畿以西の西日本がみせた水稲農耕の受容形態をできるだけ細かい単位で類型化するための指標に、早期に主となる突帯文土器の種類と類型化した前期甕組成を選ぶ。それはこの二つが最も小さい地域単位で受容形態を識別できる指標となりうるからである。そこで二つの指標を重ねあわせると七つの受容形態を類型化できる。西日本はこの七つのうちのいずれかにあてはまる。その結果、受容形態を共通する地域的まとまりは「地域圏」として認識できる。本稿では地域圏にその地域を代表する型式名をかぶせて呼ぶことにする(表6)。


表6 地域圏の設定

早期の主な突帯文土器 前期甕組成 地  域  圏
砲弾型一条甕 板付パターン 夜臼・板付地域圏(福岡,早良)
二 条 甕 山ノ寺・板付地域圏(唐津,西北九州)
亀ノ甲・長原パターン 山ノ寺・亀ノ甲地域圏(有明海沿岸,薩摩,九州山地)
一 条 甕 滋賀里・長原地域圏(紀伊,畿内の一部)
今川・唐古パターン 長行・立屋敷地域圏(豊前,周防,長門)
滋賀里・山賀地域圏(畿内)
瀬戸内パターン 下黒野・下城地域圏(豊後海岸部)
船ヶ谷・阿方地域圏(伊予)
前池・百間川地域圏(吉備・讃岐)
土佐パターン 中村・田村地域圏(土佐)

図23 各地域圏の内容と壺形土器・大陸系
磨製石器・水田・環濠集落の出現時期
 図23は、各地域圏の内容と壺形土器・水田・大陸系磨製石器・環濠集落の出現時期を示したものである。まず項目の説明をしておこう。
 i)とii)は早期の甕の器形である。i)は突帯文土器が出現する以前の段階と突帯文土器の段階において、砲弾型と屈曲型の胴部のどちらが多いかを示したもの。ii)は屈曲型が西部九州型か瀬戸内型なのかを示したものである。
 iii)は前期甕組成の類型を見たものである。
 iv)は突帯文土器の文様型がどのように分布するか示したもので、「◎」は主となるもの、「〇」は存在するもの、「×」は現在までに出土が知られていないことを意味する。
 v)は壺、水田、大陸系磨製石器、環濠集落の上限が各地においてどこまでさかのぼるか可能性を含めて図示したもので、特に水田については水田址が検出されている場合は格子目であらわし、将来検出される可能性が高い地域は幅広の斜線で表現した。
 以上のようにi)からiv)は甕、v)は甕以外の土器、土器以外の遺物や遺跡を指標としたものであるが、項目はi)からv)の順に地域単位を広くとる指標から狭くとる指標がくるように並べているので、i)とii)で西部九州と近畿・瀬戸内を、iii)以降でそれぞれの内部の地域差を識別できるように配慮した。

 2 西日本の水稲農耕受容形態

 西部九州は日本で最初の水稲農耕が始まった地域だが朝鮮無文土器文化の影響を直接に受けた玄界灘沿岸と間接的に受けた有明海沿岸にわかれる。このような無文土器文化の影響の強弱は、水稲農耕とともに新しく縄文社会に持ち込まれた文化領域を中心にあらわれている。
  山ノ寺・亀ノ甲地域圏
 早期に西部九州型二条甕を主とし前期は亀ノ甲・長原パターンを示す地域圏である。早期と前期の全期間にわたって突帯文土器様式の分布圏で有明海沿岸と薩摩、九州山地が該当する。
 早期は、器種構成や大陸系磨製石器のあり方、支石墓の分布からみて代表的な小地域がある。島原半島と熊本平野は突帯文土器の種類こそ豊富に存在するが祖型甕は欠落する。壺や高坏は定型化してなく大陸系磨製石器も単発的なあり方でセットとしてはいっていない。支石墓は島原半島に存在する。この二つの小地域は西部九州の突帯文土器の成立と展開にあたって中心的な役割を果たした地域と言えよう。佐賀平野は埋葬遺跡から出土した土器をみる限りでは器種構成こそそろっているが突帯文土器は二条甕など定型化したものが目立ち、一条甕や胴部一条甕などは顕著でない。玄界灘沿岸に近いこともあって水稲農耕に関する情報は有明海沿岸の中では多い。薩摩は佐賀平野的な状況である。海を介して玄界灘沿岸との交流があったのであろうか。
 前期は、亀ノ甲型甕が中心となる。壺も高坏もようやく定型化するが石器や木器の完備はかなり遅れ薩摩でV期後半、佐賀、熊本ではW〜X期になる。V期に佐賀でW期に熊本で環濠集落が成立し農耕社会が完成したことがわかる。
 この地域圏は突帯文人が急速に水稲農耕を受け入れたものの玄界灘沿岸からの農耕集団の進出がほとんどなかったため〔後藤,1985〕、突帯文人による水稲農耕が彼らによって営まれたのであろう。
  山ノ寺・板付地域圏
 早期は西部九州型二条甕、前期は板付パターンの地域圏である。西北九州と唐津が該当する。早期は器種構成や突帯文土器ともそろい大陸系磨製石器や木製農具などの農工具も完備する唐津平野と、佐賀平野的なあり方を示す西北九州がある。ただし唐津では木製農具の未製品が見つかっていない点に注意を要する。支石墓はいずれにも分布している。唐津には唐津型甕が分布しV期の甕組成に占める割合は平均60%を超え板付甕との使い分けがおこなわれる。前期、唐津平野では福岡平野とともに農耕社会が発展するが環濠集落はいまだ見つかっていない。また亀ノ甲型甕はX期になるまで入らず前期突帯文土器はない地域圏である。
  夜臼・板付地域圏
 早期は砲弾型一条甕、前期は板付パターンを示す地域圏である。福岡平野が該当する。V期に西部九州型二条甕と板付甕が共伴し使い分けがおこなわれる。突帯文土器の器種も豊富で器種構成や石器組成、農工具も完成しているが支石墓だけは欠落する。
 前期初頭に日本ではじめて環濠集落が成立し集落と墓地も分離して営まれていることから早期からの蓄積をもとに完成・定着した農耕社会の姿をみることができる。W期になって山ノ寺・亀ノ甲地域圏から亀ノ甲型がはいり、のちの遠賀川以西系の土器様式をつくる基盤が固まる。
  長行・立屋敷地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕に転換し前期は今川・唐古パターンを示す地域圏である。筑前東部(宗像以東)から豊前北部、長門・周防が該当する。玄界灘沿岸と瀬戸内や近畿をつなぐ中間地帯にあることから早期および前期水稲農耕の伝播を考えるにあたって重要な役割を担った地域圏と思われるが詳細はわからない。V期新段階には遠賀川式土器を使う集団と突帯文土器を使う集団が接触したことを示す、遠賀川式土器と突帯文土器が共伴した遺跡が増加している。しかしその後は遠賀川式土器を使う集団と突帯文土器を使う集団が接触した様子はわずかに認められる程度で、X期になって遠賀川以西系の甕がはいる程度である。
  下黒野・下城地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕で前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。豊前南部と豊後の海岸部が該当する。早期および前期の前半までは欠落する器種や農工具も多く、本格的な水稲農耕が始まるのはW期以降と考えられる。
  船ヶ谷・阿方地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕で前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。伊予や安芸が該当する。早期は壺の器種分化もみられ器種構成は整っているが、農工具は大陸系磨製石器そのものはなく縄文時代以来のサヌカイト製剥片石器が顕著である。この地域の早期水稲農耕に関する情報のあり方はきわめて選択的で、壺は入っているにもかかわらず農工具は縄文時代からの道具を改変して使っている。前期には前期突帯文土器と遠賀川式が共伴するところもあって、早期からの突帯文人と前期に移住してきた遠賀川人が協同して集落を営んでいることがわかる。このことからこの地域圏では、突帯文土器を使う集団が遠賀川人をうまく取り込んで水稲農耕を発展させていった。このことが突帯文土器の流れをくむ瀬戸内甕を組成的には遠賀川式甕にまさる土器へと発展させることにつながったのである。
  中村・田村地域圏
 早期、前期とも西部九州の影響が強い地域圏である。早期は瀬戸内型一条甕、前期は土佐パターンを示す地域圏である。四万十川流域では西部九州型一条甕、同二条甕の比率が高い。しかしその一方で壺の比率は低く大量の打製石斧が存在することと考えあわせれば、水稲農耕を他の生業にもましておこなっていた可能性は低い。
 V期新段階になって前期水稲農耕が伝播する。四万十川流域では早期最終末の突帯文土器である入田B式と遠賀川式土器が共伴し高知平野では前期突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する。しかしこの二つの現象が意味するものはまったく異なる。早期突帯文土器との共伴は一見、夜臼式と板付T式の共伴と同じにみえるが、玄界灘沿岸では環濠集落が成立していることからみれば、水稲農耕社会の内容に大きな開きが予想される。最近は入田B式は遠賀川式土器と伴わないとする意見が出始めているので、入田B式の共伴現象は在来者と移住者の集団差を反映した可能性もある。一方前期突帯文土器との共伴は九州の石材で作られセットで存在する大陸系磨製石器や田村編年の前U期における環濠集落の成立から考えれば、九州から進出してきた遠賀川式土器を使う集団と前期突帯文土器を使う集団がともに生活を営んだものとも考えられよう。
  前池・百間川地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕へ転換し前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。吉備や讃岐が該当する。
 早期水稲農耕の伝播の際には情報の断片的な選択にとどまったので大量のサヌカイト製剥片石器と打製石斧からなる石器組成や、胴部突帯という文様だけを取り入れた瀬戸内型二条甕などにこの地域圏の独自性を認めることができる。石器に関しては前期も同様で磨製石器を拒否するという選択的な受容形態に、備讃地域の集団間の強い結び付きをうかがえる〔平井,1989〕。そしてその強い結びつきが遠賀川式の甕さえも組成的に凌賀する瀬戸内甕を生み出す基盤となるのである。
  滋賀里・山賀地域圏、滋賀里・長原地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕へ転換して同じ組成をとるが、前期は今川・唐津パターンと亀ノ甲・長原パターンが集団毎にみられる地域圏である。近畿が該当する。前期において一つの地域に二つの甕組成が明らかになったのは遠賀川式土器を使う移住者集団と突帯文土器を使う在来者集団が確認されているからである。早期には水稲農耕の伝播にともなって突帯文土器を使う集団のなかに、水稲農耕を受け入れた人々と、受け入れなかった人々が生じた。ただし、両者の違いは生業の中に水稲農耕が加わるか加わらないかの違いだけで、前者の場合も水稲農耕を中心とした生活に転換したわけではなかった点に注意しておく必要がある。器種構成や石器組成、木製農具のあり方は吉備と同じで選択的である。
 ところがV期新段階の前期水稲農耕の伝播は遠賀川式土器を使う集団の進出をともなっていたので、それまでの集団関係を一変させることになった。すなわち生業基盤の中心に水稲農耕をもつ移住者集団、早期からの水稲農耕民、生業に水稲農耕を加えない集団の三者が同じ地域に占地することになったのである。これらを考古学的に識別するためには、前期突帯文土器と遠賀川式土器の比率や石器や木器の未製品と製品の遺跡毎の分布、土偶の存在などが指標となる。遠賀川式土器単純、もしくは主となる組成が今川・唐古パターンを示せば、遠賀川式土器を使う移住者集団と位置づけられよう。逆に長原式単純、もしくは主とする組成が亀ノ甲・長原パターンを示せは突帯文土器を使っていた在来者集団と位置づけられる。しかしこの集団が稲作民か非稲作民か、または水稲農耕が生業のどの程度まで占めていたかについては農工具や土偶などの遺物から判断する必要がある。
 西日本の中で生業を異にする遺跡の識別が可能なのは近畿地方だけだが、将来的には岡山や四国、九州でも確認していかなければならない。その意味で地域圏として認識してきた七通りの地域圏は、偶然に調査されたある集団差をその地域全体の傾向として代表させてしまった可能性もあるので前提的な作業として理解していただきたい。
 つぎにT期から順をおって甕組成の変化と水稲農耕の広がりを中心に、各地域がどのような対応をみせていくのか検討してみよう。

図24 T期 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始
(一条甕と二条甕の分布模式図)
  T期(図24) 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始

 西日本に突帯文土器様式が成立する。突帯文土器の成立と水稲農耕の開始は一致せず後者がわずかに遅れる。その関係で基本的な器種構成が地域圏によって異なり、東部九州より東の地域では甕と浅鉢、西部九州では甕、壺、浅鉢、高坏からなる。図には甕と壺、高坏しかのせていない。
 東部九州以東の普遍的な突帯文土器は瀬戸内型一条甕だけで、尖定または丸底の底部をもち口唇部の刻目文やへラ描き沈線で華美に装飾する吉備型甕や、同じ器形だが平底で突帯文以外の文様はほとんどつけない下黒野型甕、刻目をつけない突帯文土器の土佐甕がある。水稲農耕が存在した証拠はまだみつかっていないが、西部九州に近い東部九州や伊予ではこの時期まで水稲農耕がさかのぼる可能性は残されている。
 西部九州では、突帯文土器が成立したときから水稲農耕を営なんでいたと考えられる。しかし水稲農耕の内容は一様でない。山ノ寺・板付地域圏や夜臼・板付地域圏は朝鮮無文土器文化とほとんど同じ道具を使い同じやり方で同じ思想にもとづいて水稲農耕を営んでいた。器種構成には、定型化した無文土器系の壺、組成率の低い浅鉢、祖型甕や朝鮮無文土器系甕といったかたちで反映されている。突帯文土器も西部九州型一条甕、同二条甕、砲弾型一条甕がそろい底部は平底である。一方、山ノ寺・亀ノ甲分布圏では水稲農耕をおこなっていた状況証拠はあるものの、定型化していない壺や高い浅鉢の組成率、セットで揃っていない大陸系磨製石器からみると、突帯文土器を使っていた人々による水稲農耕の姿が想像される。
 突帯文土器の組成は地域圏毎にかなり異なっている。山ノ寺・亀ノ甲地域圏と山ノ寺・板付地域圏では有明海型甕に代表される西部九州型の二条甕が最も多く、夜臼・板付地域圏では砲弾型一条甕が最も多く使われており西日本の中でも異色である。この突帯文土器にみられる甕組成の違いは壺と浅鉢の比率とも相関がある。二条甕が多い地域圏では、壺が低く浅鉢が高い比率をみせるが、砲弾型一条甕が多い地域圏では壺の比率が高く浅鉢の比率が低い。全生業に占める水稲農耕の割合が低く他の生業と同じ位置づけがされていた山ノ寺式分布圏と、他の生業とは一線をかくし水稲農耕に全面的に依存していた夜臼式分布圏の違いを反映したものと考えられる。
 西部九州では突帯文土器の出現時からはじまる遺跡が圧倒的に多く、突帯文土器以前から継続する遺跡はほとんどみられない。逆に黒川式の段階で消滅し突帯文土器の段階までは続かない遺跡も多いのである。水稲農耕の開始や支石墓の出現に代表される外来文化の波及が遺跡の動向に反映されたものであろうがその形態はさまざまであったろう。近畿や瀬戸内の遺跡の消長をみると西部九州とは異なっていることに気づく。これらの地域では突帯文土器が成立する以前から継続して常まれる遺跡が多く、突帯文土器の段階から水稲農耕の状況証拠があらわれる。しかしこれらの遺跡は西部九州のようにそのまま遠賀川式土器の段階までは継続しない。西部九州において晩期末から早期初頭にみられた遺跡の断絶が、近畿や瀬戸内では早期末から前期初頭にかけてみられるのである。このことは早期と前期の二回にわたってみられる水稲農耕の伝播を考えるとき興味深い事実となる。
 T期は縄文時代からの地域性そのままに突帯文土器の文様面に地域色を発現した近畿・瀬戸内と、水稲農耕の開始によって突帯文土器だけにとどまらずあらゆる面に地域色が発現した西部九州が対照的な様子をみせた段階と言えよう。

図25 U期 西部九州系突帯文土器の東進と
早期水稲農耕の伝播
(一条甕と二条甕の分布模式図)
  U期(図25) 西部九州系突帯文土器の東進と早期水稲農耕の伝播

 西部九州で始まった水稲農耕が瀬戸内や近畿に伝わる時期で、これらの地域に西部九州系の要素が強くあらわれる段階である。早期水稲農耕の伝播には伝播ルートや質的に異なった伝播形態が複数存在したとみえて多くの受容形態が存在した。
 近畿・瀬戸内にあらたに出現する突帯文土器には二条甕と砲弾型一条甕があるが、これらのはいりかたは地域圏毎に異なる。豊前南部・豊後・伊予・土佐東部は二条甕をほとんど受け入れず砲弾型一条甕を中心に受容し、周防・吉備・讃岐・近畿は二条甕と砲弾型一条甕を受容する。甕の底部はすべて平底化する。したがって近畿・瀬戸内は一条甕から二条甕に転換する中国・近畿と、一条甕のままの豊後と四国西部がある。壺がこの地域にも出現するのもこの段階で大きな画期だが、器種構成に占める割合はどこも10%程でしかも無文土器系と縄文変容系からなっている。もちろん法量毎の分化も未完成だが無文土器系に小壺が縄文変容系に大形壺が目立つ点は興味深い。大陸系磨製石器はセットで出ることはなく石包丁が出土する程度で、なかには打製の石包丁様石器で代用するところもある。木製農具はまだ一遺跡だけの出土ではあるが弥生的である。早期水稲農耕の受容形態は水稲農耕に必要な道具でも縄文以来の道具で代用できるものは代用するか、若干の改変をくわえることで使用する。どうしても在来の道具でたりないときには新しい道具を受け入れる。早期水稲農耕の実態とふかくかかわる問題である。
 西部九州では、T期とめだった違いはない。壺の比率が増すとともに浅鉢の比率がさらにさがり甕や壺に刷毛目調整が顕著になる。
 近畿・瀬戸内は水稲農耕の伝播にあたって、T期における有明海沿岸となんら変わりないきわめて選択的な受容をみせている。二条甕が出現するといっても西部九州の二条甕が動いたと考えられるのは土佐西部だけで、それ以外の地域の二条甕は胴部に突帯文をめぐらすという文様レベルの情報が動いたにすぎない。瀬戸内型一条甕の胴部に突帯を貼り付けたにすぎず、そこは本来、段や爪形文や沈線文が施文されていた部位なのである。これは大規模な集団によって稲作が持ち込まれたというよりも、大規模な人の移動をともなわない稲作情報の伝播といった形態に近いのではないかと考えている。

図26 V期 板付T式土器の成立と
前期水稲農耕の伝播
(前期甕組成からみた西日本の模式図
/環濠集落は報告の原図を改変)
  V期(図26) 板付T式土器の成立と前期水稲農耕の伝播

 山ノ寺・板付地域圏と夜臼・板付地域圏に板付T式土器が成立する。この時期の器種構成は、突帯文・板付両様式とも甕・壺・高坏・鉢をもっているが、甕と浅鉢は突帯文土器、壺と高坏と鉢は板付T式土器が比率的にみると多い。突帯文土器の組成は二条甕が主でU期まで砲弾型一条甕が主であった夜臼・板付地域圏も二条甕が主になる。つまり早期突帯文土器と板付T式土器の共伴現象は、屈曲する胴部をもつ二条甕と板付T式甕との使い分けによって説明でき、調理対象物や調理法の違いが器形を異にする甕の使い分けを必要としたと考えられる。このようにみてくると板付甕の成立はコメを調理する道具の完成と見なすこともできよう。しかし、その一方で環濠集落を成立させるだけの農耕社会を完成させていながらも、コメ以外の食糧に依存した初期水稲農耕社会の姿をみることができる。早期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴現象の中にこそ真実があるのである。この点で四国にみられた前期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴現象とは質的に異なっている。夜臼・板付地域圏の共伴現象は稲作の開始から150年をへて環濠集落が出現し農耕社会が成立した社会での現象なのである〔藤尾,1990b〕。
 玄界灘沿岸において、早期の水稲農耕文化を母体にうまれた板付T式文化は無文土器文化の影響なしには成立し得ないが、土器や石器などどれ一つをとってみても無文土器文化の内容と完全に同じではない。玄界灘沿岸は朝鮮半島に接していることもあって昔から結び付きは強く、直接持ち込まれたと思われるものも数多く存在する。玄界灘沿岸から遠くなればそれだけ朝鮮半島の情報も乏しく断片的になるのは当然で、情報の担い手になる集団の規模や接触の頻度が絶対的に低くなるのは想像にかたくない。U期において近畿�瀬戸内にみられる無文土器文化の文物に無文土器系壺があるが、これなどは種籾を入れて移動したものと考えることもできる。とくに農耕具や加工具においては単品の出土にとどまっている。したがって近畿�瀬戸内においては玄界灘沿岸と同質の朝鮮無文土器文化の波及は考えにくく、突帯文人主体の稲作をおこなっていた可能性が高い。
 新段階になると、近畿・瀬戸内に遠賀川式土器が出現し前期水稲農耕が伝播する。今度は早期水稲農耕の伝播の時とは異なり各地でさまざまな受容行動がおこる。山ノ寺・亀ノ甲地域圏には大陸系磨製石器を含む水稲農耕の道具がもたらされるが、板付系の甕だけは10%にみたず甕組成は亀ノ甲・長原パターンである。甕は動かないが道具は動くというこの現象は板付式土器を用いる集団の進出が少なかったことを意味し、突帯文人による水稲農耕が営まれたことを予想させる。
 長行・立屋敷地域圏や前池・百間川地域圏、滋賀里・山賀分布圏では、遠賀川式土器と前期究帯文土器が共伴したり、共伴しなかったりする。遠賀川式土器にともなうのは一条甕系の突帯文土器で、その比率は10%以下である。最近までは晩期の突帯文土器が残存したか持ち込まれたものとの判断が大勢であったが、現在では遠賀川式土器を使う集団の周辺に居住していた突帯文土器を使う集団との日常的な接触・交流によって混ざりこんだものとする説が有力になってきた。つまり従来は時期差と考えたのに対し、同時に存在した集団差と理解するものである。そうであるなら、長原遺跡のような遺跡がこれらの地域にもっと見つかってもいいはずなのに例はまだ少ない。遠賀川式土器を使う集団とは生活基盤を異にするため占地がまったく違うのであろうか。またこれらの地域圏は早期において二条甕を受け入れた地域圏と完全に一致している点も見逃してはならない。情報や人が伝わる場合の最も太いルートなのであろうか。
 船ヶ谷・阿方地域圏と中村・田村地域圏では、遠賀川式土器と前期突帯文土器が共伴する。共伴する突帯文土器は砲弾型一条甕系の前期突帯文土器で、遠賀川式甕との比率は1:1という。夜臼・板付分布圏における前期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は器形を異にすることから使い分けを想定したが、こちらの場合は器形は同じで違うところを探せば蓋の使用法が異なる程度である。しかし、この共伴現象は、早期に突帯文土器を使っていた人々みずから変化させてきた前期突帯文土器と遠賀川式土器が共伴することを意味する。したがってもともとその地に居住していた突帯文人と前期になって新たに進出してきた遠賀川式土器を使う集団との関係が相当強いものであったことを予想させる。もし前期突帯文土器と遠賀川式土器の比率を気にしなければ春成が大阪平野で指摘したように、両集団の日常的な接触・交流で説明できる場合もあろうが、この場合は比率が1:1のため別の説明を要する。移住者もしくは在来者が一方の集団を相当数とりこんだ場合なども想定できようが今のところはこれという回答を持ちあわせていない。
 滋賀里・長原地域圏では、二条甕を主な甕としてもつ突帯文土器様式を有し前期甕組成は亀ノ甲・長原パターンである。長原式を使用する集団は早期に稲作をおこなっていた集団の流れをくむ可能性があるが(21)、生業全体の中では狩猟や採集といった縄文時代からの生業と同じ程度に稲作を位置づけていたと考えられ、最後まで水稲農耕を全生業の中のトップに位置づけることに対して抵抗した集団である。彼らは土偶や石棒といった縄文的な習俗を保ちながらも浅鉢はほとんどもっていない。遠賀川式土器を使う集団とは日常的に接触・交流を保っていたと考えられる。まさに縄文から弥生の過渡期に位置する人々であった。彼らはやがて周辺の遠賀川式土器を使う集団と融合・同化していく。
 前期水稲農耕の伝播は早期水稲農耕の伝播とは根本的に異なっている。水稲農耕関連遺物の組みあわせや集落や墓地の営まれかたからみて、集団的・組織的で大がかりな集団移住が行われた可能性が高い。集団移住の背景については送り手側の事情による意見が多い。集団移住の内容や移動ルート、移住先での突帯文人との接触の仕方はさまざまだが共通しているのは近畿・瀬戸内にもたらされた水稲農耕文化は板付T式文化に代表されるよう文化複合体とはかならずしも同質でないということである。この違いが移住した側に起因するのか移住先の突帯文人との接触の過程で生じたのか即断はできない。前期水稲農耕の伝播に際して受け入れ側の地域や集団がみせた受容形態の違いにかかわってくる。

図27 W・X期 前期突帯文土器の定型化と
中期土器様式の成立
(前期甕組成からみた西日本の模式図
/環濠集落は報告の原図を改変)
  W期(図27) 前期突帯文土器の定型化と中期土器の萌芽

 山ノ寺・板付地域圏、夜臼・板付地域圏、長行・立屋敷地域圏、中村・田村地域圏、滋賀里・山賀地域圏は遠賀川式土器単純の組成で今川・唐古パターンを示す。前期の突帯文土器が存在する地域もあるが、これは地域圏外の亀ノ甲・長原パターンを示す地域や瀬戸内パターンを示す地域からもたらされたものにすぎない。しかし、このようにしてもたらされた突帯文土器は、遠賀川式土器と積極的に融合して中期甕の祖型となる甕を創造し始める。また、前池・百間川、中村・田村、滋賀里・山賀地域圏には環濠集落や方形周溝墓が成立し、前期社会が一定の水準に達して農耕社会が成立する。
 山ノ寺・亀ノ甲地域圏と滋賀里・長原地域圏はV期同様に亀ノ甲・長原パターンを示し、砲弾型二条甕を主な甕とする。各地には佐賀型や亀ノ甲型などの地域型甕が存在する。
 下黒野・下城地域圏と船ヶ谷・阿方地域圏、前池・百間川地域圏は、瀬戸内パターンを示す地域で砲弾型一条甕を主な甕とする。各地域圏には特徴的な地域型甕が存在し、下城型、瀬戸内型甕に代表される。遠賀川式土器一色であった土器様式も弥生土器へと転換を遂げた突帯文土器の登場によって中期土器様式構造の基盤が固まる。これも移住者と在来者の接触と交流の中で理解できよう。
  X期 前期突帯文土器から中期土器へ


 西日本は中期社会にはいる。弥生時代開始の画期が水稲農耕の始まりという経済的なものであったのに対し、青銅器の国内生産や墳墓への青銅器副葬が始まる点は、政治的側面の画期として理解できる。後藤直は「弥生社会が自らの要求に基ずき、自らの中から交渉担当者を選んで彼地へ派遣し、また無文土器社会からのいわば「使節」を受け入れることによって成り立つ関係であった」と表現し、それ以前の無文土器社会から弥生社会へという一方的な関係からの脱却をはかるまで成長した弥生社会の姿を指摘した〔後藤,1980〕。西部九州では前期突帯文土器と板付・遠賀川式の融合による遠賀川以西系土器(城ノ越式)〔田崎,1985〕の成立、近畿における大和型・播磨型・紀伊型・近江型などの中期地域型甕の成立に代表されるように、在来者と移住者の関わりのなかで日本独自の農耕文化=弥生文化は完成するのである。


 [ おわりに

 突帯文土器は、水稲農耕の開始にともなって各地域がみせた対応の実体をもっとよく反映する考古遺物である。したがって各地の突帯文土器に関するさまざまな特徴を検討して地域色を識別することは、各地が水稲農耕に対してみせた地域的対応を知るのに有効な手段である。
 早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。たとえば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用した。突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られていることから、土器作りが女性の仕事であることを考え合わせれば、在来者の関与は間違いない。しかしわずかに無文土器の製作技法で作られた甕が数%の割合で存在する事実は、在来の甕を大量に使用しながらも無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。こうして出来あがった土器が板付T式土器であるわけだが、無文土器の製作技法を選択的に採用して作ったとしても、外見や文様はもはや無文土器とは似て非なる土器になっている。そこに実用的な部分は無文土器の技術で、非実用的な部分には在来の伝統がうまく使い分けられて作られた板付T式土器の姿がある。
 早期のうちに九州から近畿にかけての広い地域に水稲農耕は伝わるが、玄界灘沿岸ですべてそろっていた弥生文化の要素は九州以外の地域では部分的にしかみられないにもかかわらず水田が営まれている。大陸系磨製石器や農耕の土器のセットが完全でないところに早期水稲農耕伝播の実態がありいくつかの可能性が推測できる。一つは、水稲農耕の情報が縄文時代から機能していた情報ネットワークにのって伝播した可能性がある。森貞次郎のいう縄文的稲作農耕の伝播である〔森,1982〕。もう一つは、受け入れ側の強い規制が存在し稲作は受け入れても技術や道具、思想などは厳しい選択がおこなわれた可能性である。稲作を中心とする弥生文化に対する縄文側の自己防衛がすさまじかったことがわかる。土偶や高い比率の浅鉢は、縄文的な道具をもちい縄文祭祀を活発におこなうことによって自らの集団の精神的な紐帯を高め引き締めてアイデンティティの確認がおこなわれたことを意味している。いずれにしても、九州以外の地域には早期水稲農耕を受け入れた集団といっても、水稲農耕を生業の基盤にすえ、稲作を中心とした生活に傾斜していく動きはなかったのである。早期から前期に継続する集落がまだ少ない事実もこれをものがたるものと言えよう。
 玄界灘沿岸以外の稲作社会は、前期になっておこるあらたな稲作集団の移住によって成立する。環濠集落を成立させるほどに発展を遂げた玄界灘沿岸は、人口増による可耕地の拡大が早急に迫られていたと考えられる。フロンチィアたちは九州を南下せずに東へ東へと進む。前期水稲農耕の伝播である。遠賀川人が移住先で営んだ集落の土器組成は基本的に遠賀川式土器単純で在来者となんらかのかたちでかかわれば突帯文土器と共伴する。そのかかわりかたの違いは、突帯文土器と遠賀川式土器の組成比で判断できる。田村や中寺・州尾のように1:1の遺跡もあれば、数点の突帯文土器が混じる程度の遺跡までさまざまである。しかし遠賀川人がかかわった在来者はほとんどの場合、早期に稲作を経験していた模様で、それは共伴する突帯文土器がすべて前期突帯文土器であることからもわかる。早期以来の経験が素地にあったことが前期水稲農耕の急激な普及を容易にした原因の一つなのである。
 この段階の遠賀川式土器には地域色はほとんど認められないが早期突帯文土器の地域色がすべて反映されている。玄界灘沿岸のV期新段階の甕が口唇部の刻目を口縁端部の下端に施文するのに対し、それ以外の地域では板付T式甕の特徴である口唇部全面刻目のままである。そして前期末にかけて口唇部全面刻目が使われ続ける。この例は西部九州と近畿・瀬戸内という地域的様式差に対応するもので他にも器形や文様などにみることができる。また如意状口縁の甕は胴部に段や刻目を施文し在来の突帯文土器と盛んに接触する。
 W期に前期突帯文土器の地域型甕が完成するが、遠賀川式甕も地域色が顕著になってくる。この地域色の地域的な単位は、早期突帯文土器にみられた地域色の地域単位とまったく同じであることは興味深い。今川・唐古パターンを示す地域においては、これらの伝統が甕にあらわれるかわりに、壺の文様というかたちになって登場する。木葉文に代表される縄文からの伝統的な文様で華美に飾られた壺である。
 前期末から中期になると、西部九州では遠賀川以西系、東部九州では遠賀川以東系の土器様式が成立。瀬戸内では瀬戸内甕の盛行、近畿でも中期の地域甕が出現する。以上のように近畿以西の西日本では、突帯文系と遠賀川系の接触・交流の結果、成立した折衷・融合系の土器が甕の中心になる。弥生時代中期は、まさに伝統と新しいものとが融合したことで成立したものである。中期は遠賀川式土器の各地における定着形態がもとになっており、それがあとあとまで規定的な役割を果たしたと言えよう。


 横山浩一先生の退官記念論文集を編むにあたり、日本における初期弥生文化の成立という大テーマの中で突帯文土器を扱うことになりましたが、先生のご学恩に報いるだけの内容かどうか不安に思っております。先生のご指導にあずかるようになってから早くも10年の歳月が流れました。時折、九州文化史研究施設の比較考古学研究室に入ってこられては、煙草の煙をくねらせながらのさりげない質問に、ものの見方を教わったことがついこの間のような気がしてなりません。九州大学時代の七年の間、考古学にとどまらない先生のご造詣にふれることができたことは、まことに幸いでした。九州を遠くはなれた関東の地で先生からいただいた多くの教えをもとに、今後とも努力していきたいと思います。
  なお、このテーマを最初に与えてくださった岡崎先生が1990年6月11日におなくなりになりました。先生のご冥福を祈りこの論文を捧げたいと思います。

 最後に、本稿を草するにあたって多くの方々のお世話になり、ご指導、ご教示をいただきました。末筆ながら記して感謝の意を表します。

 浅岡俊夫、安楽勉、泉拓良、岡崎敬、岡山大学埋蔵文化財調査室、小田富士雄、乙益重隆、神谷透、河口貞徳、川越哲志、河瀬正利、木村幾多郎、栗田茂敏、潮見浩、塩屋勝利、設楽博己、下川達彌、正林護、白石太一郎、高島忠平、高田明人、高橋徹、田崎博之、田中良之、谷若倫郎、田平徳栄、出原恵三、中越利夫、中島哲郎、中島直幸、長津宗重、西健一郎、西谷正、橋口達也、春成秀爾、東中川忠美、平井典子、藤口健二、間壁忠彦、松永幸男、松村道博、真野和夫、森貞次郎、柳沢一男、家根祥多、山口譲治、山崎純男、渡部明夫、渡辺芳郎の諸先生、諸氏 (五十音順)


(1990年9月30日 稿了)



(1)  西部九州とは九州を東西に二分した場合の西側の地域を指す。西部九州は北は福岡県の遠賀川から九州を南北に貫く九州山地、南は鹿児島県の錦江湾を境に東部九州と区別される。この地域区分は旧石器時代から九州島に存在した大きな文化史的な区分と一致する〔藤尾,1990a〕。
 また突帯文土器単純段階は水稲農耕を中心とする生産経済にはいった画期として、弥生時代早期と考える立場をすでに明らかにしている〔藤尾,1988〕。
(2)  設楽博己によれば、遠江は将来的に本様式の分布範囲に含まれる可能性が高いとのことである。また突帯文土器の分布をみると、突帯文土器様式の分布範囲よりも北や東の地域にひろがっている。石川県や静岡県で突帯文土器が確認されているほか、群馬県内でも突帯文土器が土器棺として使用されている。しかしこれらの地域における突帯文土器は、在地の様式構造のなかに含まれるのではなく搬入品か模倣品として存在しているのにすぎないので、西日本の突帯文土器様式とは一線を画することができる。ただし、粗製土器である煮沸用土器が移動している事実は、生業(水稲農耕)との関係で注意しておかなければならない。
(3)  1947年、東京でおこなわれた日本人類学会例会において示された見解とのことである〔坪井,1981〕。
(4)  九州では夜臼式土器と板付T式土器の共伴が確認されたものの、近畿や瀬戸内では早期の突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は確認されなかった。その理由として両者を時間的な前後関係で捉え、遠賀川式土器と共伴する突帯文土器はまだ発見されていないのだとする意見と、遠賀川式土器は弥生人が使用し突帯文土器は縄文人が使用して同じ地域に住みわけていたと考え、両者は時期的に併行するとする意見があった。したがって太田甕の発見は、T様式古段階と船橋式の年代併行説を浮上させるきっかけになったのである。
(5)  突帯文土器単純期の玄界灘沿岸地域で住みわけが存在した可能性を山崎純男が述べている〔山崎,1980〕。板付遺跡の器種構成は壺を含み浅鉢がわずかに存在するのにすぎないのに対し、板付遺跡南方の油山山塊に所在する柏田遺跡の器種構成は、壺が欠如し浅鉢が縄文的な比率で存在する。つまり、近畿の長原式と遠賀川式にみられた関係は早期段階の玄界灘沿岸にも存在したことになる。また、瀬戸内や近畿でも早期段階に非稲作民と稲作民が住みわけていた可能性は十分にある。
(6)  山崎は、夜臼T式の前に壺や高坏をともなわない突帯文土器が存在した可能性を示唆している〔山崎,1980〕。
(7)  前稿で刻目突帯文系とした壺は今回の無文土器系にあたる。ただし深鉢変容型の中・小形壺Eは無文土器系の範疇に含めない。
(8)  伊勢湾沿岸において深鉢変容型の壺が出現するのは、口酒井式併行期にあたる馬見塚式段階である。時期的には近畿・瀬戸内と同じ時期である。ところが伊勢湾沿岸には形態的には無文土器系に類似した研磨仕上げの中・小形壺が存在している。今のところこの種の壺は近畿・瀬戸内にはみられないことから設楽は西からだけではなく東からの影響を含めるべきと考えている。したがって深鉢変容型とした壺の出自についてはなお議論の余地があろう。
(9)  筆者は大坪里の甕を実見していないのでここでは家根の説に従う。
(10)  韓国にも突帯文土器が存在する。実見した土器は屈曲型甕や砲弾型甕の破片で口縁部に一条の刻目突帯をもっている。刻目はヘラで切り取られたように刻まれていることや、口縁部突帯の位置がかなり上昇していることなどから、板付T式に共伴する突帯文土器に一番近い印象をもった。現状では無文土器の器種構成に一般的な甕であるかどうかわからないので紹介にとどめておく。
(11)  遠賀川式土器の成立については瀬戸内の一部を含めた広い範囲で考えるべきで、板付T式の成立はむしろ九州の西辺部の地域的な現象と捉える意見が出されている。これは、いままで板付T式から板付Ua式に変化する根拠とされていた型式学的特徴に疑問をはさむところから出発している。
 たとえば板付T式壺の底部の特徴である円盤貼付底を在地的な古い特徴の残存とみなしたり、壺の口縁部外側にみられる段を製作技法から考えた場合、口縁端部となる粘土紐の継目を利用して段をつくる瀬戸内の壺から、口縁部外側にあらたな粘土紐を貼り付けてつくる板付T式壺へ技術変化していくものであるため、板付T式が古く位置づけられるのはおかしいというものである。このような型式学的な疑問から出発したあと、「重要な点は、縄文土器の組成を払拭した外傾手法のみによって製作された弥生土器単独の組成がどの地域でいかに出現したかにあり、上述の検討からもそれを福岡平野に限定する根拠はない」〔家根,1987:22〕として、突帯文土器と弥生土器が共伴する玄界灘沿岸地域はこれに該当しないと考える。高橋護〔高橋,1987〕や平井勝〔平井,1988〕の意見は、弥生土器が突帯文土器と共伴すること自体が周辺部の現象だとしてやはり板付T式を完成された弥生土器の姿とはみない。
 家根が山ノ寺式で成立したという複合的土器組成とは、外傾手法による単純な器形の甕、弥生祖型甕、夜臼系の甕、縄文土器本来の深鉢と浅鉢、および新たに独自に成立した高坏という内容をもつ。この土器組成が確認されているのは突帯文土器単純段階においては唐津から福岡平野にかけての玄界灘沿岸地域だけであるが、将来、遠賀川流域や瀬戸内で発見されないとは断言できない。東部九州から西部瀬戸内にかけての地域で山ノ寺式が発見され、それを母体に縄文土器本来の深鉢と浅鉢をもたず外傾手法によってつくられた甕と壺からなる弥生土器単独の土器組成が成立することが確認されれば、家根説はその正しさを証明されたことになる。今川遺跡などの土器組成は遠賀川式土器単純の組成にあたるので、これらの地域で長行式や船ヶ谷式のあとに複合的土器組成が将来発見されるまで静観しよう。しかしその前に若干疑問を提示しておく。
 まず板付T式壺口縁部の段の成立は、西部九州では口縁部外側に粘土紐を貼り付けることによって達成され、その後に粘土紐の継目を利用して段とするものが出現して増加することは層位的に確認されている。家根説ではこれを北部九州西辺部の一地域現象として理解するのであろうか(この問題はV章で検討した)。また板付T式の甕口唇部の全面刻目の出自については祖型甕からの変遷過程を復原しているが〔家根,1984・1987〕、そこで示された外端部刻目から全面刻目への変化は今のところ確認できない。
 家根説では玄界灘沿岸において渡来人と在地の縄文人との協調において成立した複合的土器組成をもつ稲作文化が、口酒井式や沢田式併行期に遠賀川流域から瀬戸内にひろがり、そこで生業基盤を確立し縄文土器の組成を払拭して、今川遺跡を残したような集団に発展したことになろうが、それを可能とする農工具の実態はまだ明らかではない。遺跡の存続幅からみると瀬戸内では突帯文土器の出現以前から継続している集落が多く、これらの集落は遠賀川式出現以前に消滅するか一旦中断する。あらためて遺跡が出現するのは遠賀川式出現時である。なお沢田遺跡では家根説を裏付ける証拠はまだ見つかっていない。
(12)  1970年代までは遠賀川式土器だけを使う集団の遺跡だけが調査され、そこでわずかに出土した突帯文土器は、すべて晩期の突帯文土器が混じりこんだものとの理解が一般的であった。斉一的な遠賀川式土器に覆いつくされてしまうという歴史観が定着する原因はここにあったのである。しかし、近年の調査は突帯文土器だけを使い、わずかに遠賀川式土器が混じる遺跡や、遠賀川式土器をまったくもたない突帯文土器だけの遺跡、突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する遺跡の存在が、特別な現象ではないことを明らかにしつつある。遠賀川式土器が西日本を覆いつくすことに文化史的な意味があるように、それと積極的にかかわった集団やまったく関わりをもたなかった集団の存在にも歴史的な意味があるのである。画一的な前期像が一掃されるのもをそう先のことではないと思われる。
(13)  家根祥多教示。
(14)  山崎純男教示。
(15)  北九州市域の早期突帯文土器を三つに分けている。この編年案に示された注目すべき点は突帯文土器の成立を黒川式まで遡らせたこと、無刻突帯文土器と刻目突帯文土器に型式差を認めたこと、この段階を縄文時代晩期終末と認識したことである。
 黒川式相当の突帯文土器(図15−11)は、貫・井手ヶ本遺跡の無刻突帯文土器である。この甕は瀬戸内型と推定される器形をなし口唇部に刻目文をもつもので、粗製深鉢にともなって1点のみ確認されたものである。この文様型の突帯文土器は黒川式相当の遺跡ならどこでも出土するわけではなく、また山口県奥正権寺遺跡では前池式の瀬戸内型一条甕にともなっている。この土器は精製土器に近く、突帯文土器の成立を考えるときの決めてと目されている黒色磨研浅鉢との関係がうかがえるものである。突帯文土器が粗製の深鉢・甕を指す以上、この土器を突帯文土器の中に含めるわけにはいかないと考える。高橋徹もこの種の時は刻目突帯文土器の中には含めず無刻突帯文土器として晩期最終末に位置づけ、刻目突帯文土器の成立から弥生時代早期と考えている〔高橋,1989〕。したがって、突帯文土器の中に含めることが妥当なのかどうかという判断と、前池式と黒川式の併行関係の検討まで想定した議論が必要となろう。
 前田編年では、壺が黒川式段階に出現するとなっている。根拠は南方・上ヶ田遺跡の2号溝の資料である。壺自身は口縁部の外反がかなり進んだものだが、口唇部に刻目がない瀬戸内型一条甕とともなっている。器種構成は突帯文土器が82%でこれに粗製深鉢とかなり崩れた黒川式の浅鉢がわずかにともなうことから考えれば、菜畑9−12層の内容と変わらない。したがって黒川式に壺がともなうと考えるよりも、突帯文土器様式の中で考えた方がよいのではないだろうか。前田は菜畑との関係について、南方・上ヶ田に二条甕がともなわないことを理由に菜畑9−12層より古く位置づけている。しかし、北九州市域の早期突帯文土器の組成を考えれば瀬戸内と同様に、一条甕単純の段階から二条甕の段階へと変遷するので、菜畑9−12層に併行する時期は一条甕単純の時期にあたることもあって二条甕がともなわないのはおかしなことではない。
 東部九州で突帯文土器の成立が西部九州に先行する可能性は高いが、それは黒川式の中で捉えるのではなく突帯文土器様式の中で考えた方がよいと思われる。したがって前田が示した今回の資料だけでは突帯文土器の成立や壺の出現を黒川式の段階までさかのぼらせて考えるのは資料不足といえよう。
 黒川式の次の段階、前田のいう山ノ寺式の段階に二条甕が成立する。中貫遺跡の包含層資料の中に一条甕と二条甕(図15−24)があるが、口縁部破片が多いこともあって全体像はわからない点も多い。一条甕は西部九州型だが口頸部と胴部の調整を違える手法は瀬戸内の手法そのままである。また口唇部の刻目はもはや施文されていない。浅鉢はくの字口縁が出現する。前田はこの資料を山ノ寺式に比定するが壺の内容が不明な点と、菜畑9−12層の土器にくらべて型式学的に新しい特徴をもっていることから山ノ寺式にはあたらないと考える。
(16)  1号溝の突帯文土器と遠賀川式土器はそれぞれ壺や鉢をもちセットで出土していることもあり、調査者はこの現象を単なる混じり込みとは考えていない。突帯文土器様式には谷尻式相当の刻目文土器や前池式相当の一条甕、鍵型口縁の浅鉢、方形浅鉢があり、1号土坑出土土器と同じ時期の土器がある。1号土坑でもこれらの早期突帯文土器と遠賀川式土器が出土しているが、これは出土状況から遠賀川式土器が混じりこんだものと判断されている。しかし1号溝は出土状況からは混じりこんだとは考えられないとされている。常識的に考えればT期の突帯文土器と遠賀川式土器が共伴することはありえない。
 1号溝の突帯文土器の組成は瀬戸内型一条甕が7割を占めるほかは、砲弾型一条甕(図17−14)、無刻一条甕である。二条甕が欠落したり砲弾型一条甕が顕著な状況はU期の大渕遺跡に近い。外傾接合かどうかはわからなかった。伊予に一般的なこの組成は沢田式相当の一条甕と前期突帯文土器の一条甕・砲弾型一条甕である。後者は、V期古からV期新段階に相当しいずれも弥生化が完了している。最近の調査で明らかにされつつある田村や大浦浜の前期突帯文土器と同じ一群である。前期の一条甕は胴部の屈曲はかなり弱まり、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付け押し引き刻目を施したあとヨコナデし、ナデによって器面をそろえる(15〜17)。また遠賀川式土器の影響をうけて口縁部が外反した土器もあり、前期水稲農耕の伝播をうけて四国に成立した突帯文土器なのである。沢田式の新しい部分がV期に残るのは本稿の編年では問題ないので、甕については前池式を除いて遠賀川式土器と共伴したとしても支障はなかろう。問題は前池式相当の甕と鍵形口縁浅鉢である。田村では浅鉢はともなっていないので比較できない。これについては類例を待ちたい。
(17)  田村の共伴現象は次のように理解されている。「したがってそれは、夜臼Ub式が板付T式と共伴するような現象ではなく、弥生化した「晩期土器」が淘汰されずに残存したものと考えられる。ここに九州とも畿内とも異質の、弥生文化受容の姿がみられる」〔出原,1982:472〕。
 本遺跡の前期突帯文土器は、突帯の条数や口唇部文様、器形を指標に分類されているが、口縁部破片が多いこともあって一条甕と砲弾型一条甕との識別が十分におこなわれていないので、報告書の比率では一見、砲弾型一条甕(図18−12・13)の比率が高いようにみえるが、LOC16とLOC25の資料を実見した限りでは一条甕主体の組成をとるようである。型式学的には、口縁部より下がった位置や口縁部端部に接して突帯を貼り付けたあと丁寧な押し引き刻目を施しヨコナデをおこなう。一条甕の器形はもはや屈曲の痕跡がみられる程度で、西部九州V期新の亀ノ甲型甕と同じものとして理解できる(14)。出原の言う「弥生化した晩期土器」とは、このことを指していたのである。
(18)  図20−20は本稿の分類では砲弾型一条甕に相当する。しかし、胴部に段や屈曲部こそないものの器面調整は外面上部がヨコ方向のケズリで、下部はナナメまたはタテ方向のケズリとなっており、明らかに上と下を区別している点で瀬戸内型一条甕の調整技法と共通する手法である。また底部も丸底でU期以降の砲弾型一条甕とは別系統のものとみてよい。近畿から伊勢湾沿岸に分布する甕であろうか。
(19)  「砲」は砲弾型甕を、「屈」は屈曲型甕をあらわす。また不等号で両者の量的関係を表現した。括弧内の数字はこのたび扱った遺跡における比率の最少と最大の幅を意味している。たとえば西部九州の粗製深鉢は8:1から2:1の割合で砲弾型のものが多いという意味である。
(20)  遠賀川式土器と共伴する突帯文土器が早期に属すか前期に属すかの違いは、水稲農耕の開始を考える上でも大きな問題である。しかし、板付と田村は早期突帯文土器と前期突帯文土器の違いこそあれ、ともなった突帯文土器はすべて屈曲型の系譜を引くものである点は同じである。早期突帯文土器か前期突帯文土器かの違いはあるが、前期甕組成の同質性と瀬戸内では唯一、大陸系磨製石器がセットでそろう点、しかも九州の石材を用いている点など、なにかと北部九州との関連がうかがわれる点は興味探い。
(21)  瀬戸内・近畿の早期突帯文人と水稲農耕との関係については二つの見方がある。一つは水稲農耕を他の生業と同じ位置づけにしておいたと考える見方、そしてもう一つは玄界灘沿岸と同じように水稲農耕がすでに生業基盤の中心であったとする見方である。この問題を考える判断基準には農工具の組みあわせや壺と浅鉢が器種構成に占める比率などがあるが、現在のところこれらの指標から得られる仮説は前者の考えに近いとせざるを得ない。

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鎌木義昌
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栗田茂敏 1989: 松山市大渕遺跡の縄文晩期農耕文化.四国における農耕のはじまり.古代学協会四国支部第3回大会資料.松山:1-14.
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後藤守一 1923: 三河における見聞(1).考古学雑誌,13(6):39-66.
小林行雄 1943a: 第四章土器類−縄文式土器−.大和唐古弥生式遺跡の研究.京都帝国大学文学部考古学研究報告,16:92-94.
1943b: 第五章弥生式土器再論−各様式土器における櫛描文様について.大和唐古弥生式遺跡の研究.京都帝国大学文学部考古学研究報告,16:122-143.
小林行雄
・藤岡謙二郎
・中村春寿 1938: 近江坂田郡春照村杉沢遺跡−縄文式土器合口甕棺発掘報告.考古学,9(5):221-235.
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佐原 眞
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杉原荘介 1949: 伊予阿方遺跡・片山遺跡調査概報.考古学集刊,2:12-23.
1950: 古代前期の文化.新日本史講座.
鈴木克彦 1990: 伊勢湾沿岸地方における凸帯文深鉢の様相−伊勢地方からの視点−.三重県史研究,6:45-78.
高橋 徹 1980: 大分県考古学の諸問題T−刻目突帯文土器の出現とその展開について−.大分県地方史,98:43-52.
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橘 昌信 1976: ネギノ遺跡.大分県文化財調査報告,35.
立石泰文 1980: 大門西遺跡.九州横断自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書(1).佐賀県文化財調査報告書,51.
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長嶺正秀
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1989: 縄文時代晩期における中・四国の地域性.考古学研究,36(2):31-43.
藤口健二 1986: 朝鮮無文土器と弥生土器.弥生文化の研究3−弥生土器T−.雄山閣:147-162.
藤尾慎一郎 1984: 弥生時代前期の刻目突帯文系土器−「亀ノ甲タイプ」の再検討−.九州考古学,59:35-46.
1987a: 板付T式甕形土器の成立とその背景.史淵,124.九州大学文学部.福岡:1-27.
1987b: 稲作受容期の甕形土器研究.東アジアの考古と歴史 中−岡崎敬先生退官記念献呈論文集−.同朋舎出版.京都:294-323.
1988: 縄文から弥生へ−水田耕作の開始か定着か−.日本民族・文化の生成−永井昌文教授退官記念論文集.六興出版.東京:437-452.
1989: 九州の甕棺−弥生時代甕棺墓の分布とその変遷−.国立歴史民俗博物館研究報告,21.千葉:141-206.
1990a: 西部九州の刻目突帯文土器.国立歴史民俗博物館研究報告,26.千葉:1-75.
1990b: 環濠集落の成立と衰退.再現 古代豪族の居館企画展図録.国立歴史民俗博物館:54.
藤田憲司 1982: 中部瀬戸内の前期弥生土器の様相.倉敷考古館研究集報,17:54-132.
前田義人 1989: 下吉田遺跡の縄文時代晩期資料−突帯文土器出現期の一様相−.古文化論叢,20下:23-49.
間壁忠彦
・間壁葭子 1979: 広江・浜遺跡.倉敷考古館研究集報,14:1-203.
松岡かおり 1988: 学生部男子学生寮改築に伴う発掘調査.岡山大学構内遺跡調査研究年報,5:13-19.
松崎寿和
・潮見 浩 1961: 広島県中山遺跡.日本農耕文化の生成.東京堂:263-273.
松村道博 1983: 福岡市有田七田前遺跡.福岡市埋蔵文化財調査報告書,95.
松本洋明 1985: 弥生土器の考察−弥生時代中期の大和型の甕を中心として−.末永先生米寿記念献呈論文集 坤.奈良:115-151.
南 博 1988: 伊丹市口酒井遺跡−第11次発掘調査報告書−.伊丹市教育委員会・(財)古代学協会.京都.
1989: 大阪湾周辺地域における縄文晩期凸帯文土器の変遷−口酒井遺跡第11次調査を中心として−京都文化博物館紀要 朱雀,2:1-23.
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森 浩一
・白石太一郎 1969: 南近畿における前・中期弥生式土器の一様相.考古学ジャーナル,33:13-19.
森 貞次郎 1960: 島原半島(原山・山ノ寺・礫石原)及び唐津市(女山)の考古学的調査−おわりに−.九州考古学,10:6-10.
1961: 宮崎県檍遺跡.日本農耕文化の生成.東京堂:183-189.
1982: 縄文晩期および弥生初期の諸問題.末廬国.六興出版:373-378.
森 貞次郎
・岡崎 敬 1961: 福岡県板付遺跡.日本農耕文化の生成.東京堂:37-77.
1965: 長崎県南高来郡原山遺跡.日本考古学年報,13 昭和35年度.誠文堂新光社:131-133.
森岡秀人 1984: 縄文ムラと弥生ムラの出会い−畿内北部を中心として−.縄文から弥生へ.帝塚山大学:38-48.
家根祥多 1981: 近畿地方の土器.縄文文化の研究4−縄文土器U−.雄山閣:238-248.
1982: 縄文土器.大阪市平野区長原遺跡発掘調査報告U.大阪市文化財協会:142-157.
1984: 縄文土器から弥生土器へ.縄文から弥生へ.帝塚山大学:49-91.
1987: 弥生土器の誕生と変貌.季刊考古学,19.雄山閣:13-18.
山内清男 1930: 所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末.考古学,1(3):139-157.
1937: 縄紋式土器と細別と大別.先史考古学,1(1).
1952: 第三節第ニトレンチ.吉胡貝塚.文化庁埋蔵文化財発掘調査報告.吉川弘文館.
山口譲治 1980: 板付.福岡市埋蔵文化財調査報告書,73.
山口信義 1980: 縄文時代晩期の土器とその編年的位置.長行遺跡.北九州市埋蔵文化財調査報告書,20.福岡:191-194.
山崎純男 1979: G−7a・b調査区.福岡市板付遺跡調査概報.福岡市埋蔵文化財調査報告書,49:40-51.
1980: 弥生文化成立期における土器の編年的研究−板付遺跡を中心としてみた福岡・早良平野の場合−.鏡山猛先生古稀記念古文化論攷.同論文集刊行会.福岡:117-192.
1983: 西日本後・晩期の農耕.縄文文化の研究2−生業−.雄山閣:267-281.
山崎純男
・島津義昭 1981: 九州の土器.縄文文化の研究4−縄文士器3−.雄山閣:249-261.
山本源太郎他 1984: 南国大崎ニュータウン奥正権寺遺跡T.山口県埋蔵文化財調査報告,77.
横山浩一
・藤尾慎一郎 1986: 宇木汲田遺跡1984年度調査出土の土器について.九州文化史研究所紀要,31:59-101.

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http://www.rekihaku.ac.jp


https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c9

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
10. 中川隆[-11950] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:39:52 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[9]
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物
館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c10

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
288. 中川隆[-11949] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:41:10 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[10]
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物
館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c288

[近代史5] 縄文人の起源 中川隆
8. 中川隆[-11948] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:41:53 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[11]
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物
館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/195.html#c8

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
3. 中川隆[-11947] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:46:49 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[12]
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD


形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c3

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
11. 中川隆[-11946] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:47:21 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[13]
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD


形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c11

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
289. 中川隆[-11945] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:48:05 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[14]
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD


形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c289

[近代史3] 韓国人と縄文人のルーツ 中川隆
15. 中川隆[-11944] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:09:58 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[15]

Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。


▲△▽▼

弥生時代の世界情勢 朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html#c15

[近代史3] 韓国人と縄文人のルーツ 中川隆
16. 中川隆[-11943] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:11:32 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[16]
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm


▲△▽▼


土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html#c16

[近代史3] 韓国人と縄文人のルーツ 中川隆
17. 中川隆[-11942] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:16:12 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[17]
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html#c17

[近代史5] 弥生人の起源 中川隆
4. 中川隆[-11941] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:16:46 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[18]
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/255.html#c4

[近代史3] 弥生文化のルーツ 中川隆
12. 中川隆[-11940] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:17:21 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[19]
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/964.html#c12

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
290. 中川隆[-11939] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:18:18 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[20]
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c290

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
2. 中川隆[-11938] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:19:14 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[21]
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c2

[近代史5] 日本語の起源 中川隆
3. 中川隆[-11937] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:21:27 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[22]
土井ヶ浜弥生人 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/254.html#c3

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 安田成美・岸谷五朗 この愛に生きて (フジテレビ 1994年)
昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 安田成美・岸谷五朗 この愛に生きて (フジテレビ 1994年)


この愛に生きて 1話



フジテレビ 1994年4月14日〜6月30日(全12回)


脚本 : 野沢 尚
音楽 : 岩崎 工
主題歌 : 橘 いずみ
「永遠のパズル」



内容紹介


■野沢尚作品『夫婦三部作』ここに完結。


 同枠で共に高視聴率をマークした『親愛なる者へ』('92.7月放送・最高24.4%)、
『素晴らしきかな、人生』('93.7月放送・最高・25.0%)は「夫婦の恋愛」「夫婦(家族)の解体」を描き、同世代に深い共感を呼ぶと同時に、作品の持つ独自性で新しい「恋愛ドラマ」の世界を確立したことは記憶に新しいことと思います。
本企画では「悲しい夫婦関係を前提にした妻の幸福の追求」をテーマに、前2作品に続く「夫婦三部作」として、野沢尚ワールドが完結します。


■安田成美+新鋭俳優にみる斬新なキャスティング


 主演には、1年3ヶ月ぶりの連ドラ出演、結婚後初ドラマとなる安田成美。従来のイメージを180度転換した妻像にチャレンジします。また、相手役も映画「月はどっちに出ている」で各映画賞総ナメの実力派、連ドラ初出演、今最も注目されている俳優岸谷五朗。その他に、ドラマ界でも人気急上昇の個性派豊川悦司や、演技派怪優嶋田久作といった男性人に対し、美保純、深津絵里といった花のある個性派女優が揃いました。
 こうしたラインナップで、お分かりの様に、本企画では従来の知名度重視のキャスティングを敢えて否定し、斬新かつ勢いのある個性派実力派俳優の緊張感から生まれる新しいコラボレーションを提供します。


■アバンギャルドなパッケージ


 上述したキャスティング、ラインナップに加えて、主題歌には、女性版尾崎豊の呼び声高い実力派アーティスト橘いずみ(ソニーレコード)を起用し、斬新な勢いを更に明確にイメージ付けようと考えております。


 また演出は「秋の駅」で平成4年度放送文化基金優秀賞を受賞し、その後の連続ドラマ「都合のいい女」を含めて、作品のクオリティーが高く評価されている河毛俊作が担当します。


 木曜劇場という連続ドラマの枠組みの中で、従来と違ったキャスティング、音楽性、映像世界を構築するということ__
加えて、野沢ワールドの真骨頂とも言える文学性の高い「愛」の完結性。
 ドラマ史の中で「新しい何かの予感」を感じ取って頂ければ幸いです。


企画主旨


■主婦が女になる時


 家庭には特に不安があるわけではない。東京郊外の建売一戸建てに住み、夫は仕事熱心なサラリーマン。今年から小学校の子供一人。経済的には特に不自由ない生活。___どこにでもある平凡でありがちな家庭の図でしょう。
主婦じゃ「一児の母」であり「家事をする妻」であり、そして「女」でもあります。ここで、夫婦関係が冷めた時<例えば夫の不倫という形をとって>、子供だけで繋がった関係は、どこにでもある平凡な図の陰影で、主婦にとっての自立=「女」を浮き彫りにします。
それは同時に家庭が檻に変貌する瞬間でもあるのです。


■愛を金で買う女  不倫ドラマとして、こうした状況は過去に数多く描かれていますが、本作品では、きっかけとして、売春世界での出会いから、金によって一線を画す恋愛として、不倫が描かれます。互いに愛せば愛するほど、平凡な日常を否定せざるを得ない男女。


二人の互いへの思いやりが、その歯止めとして、介在させるというパラドックス。
 それは、主婦の不倫の精一杯の誠意であり、愛情表現なのです。


■もしも、子供を失くしたら…
 子供だけで繋がった夫婦が突然、子供を失ってしまい、ましてやそれが母である自分の責任によって引き起こされてしまう。
どこにでもある平凡な家庭はやがて崩壊してしまう。自責の念にかられ、堕ちて行くしかない一人の女になってしまう時、それでも堕天使として包み込める男の愛に出逢い、
「俺が一生守るから」と__。
 二人の間には、子供だけの夫婦関係とは全く状況の違う『純愛』が存在します。


■究極の純愛ストーリー


 本作品はどこにでもある平凡な主婦が、子供だけで繋がる夫婦関係の中で「女」を自覚し、子供が失われて堕ちて行き、子供の為に立ち上がる壮絶な「女」として生きる様を追いかけることで、主婦にとっての「女」とはを極限まで描こうと考えています。
それは同時に、波乱を全て受けとめる男の愛のあり様を通じて、生半可な不倫愛では決して見つけるの事のできない『究極の純愛』の形を表現することでもあるのです。


主要登場人物


◇植草曙美(うえくさあけみ)26才_______安田成美


夫・聖一と一人息子の和(5)と東京近郊の一軒家に住む主婦。
花が好きな物静かな少女だった曙美は、両親の愛に守られて大切に育てられた。短大卒業後、医療機器の会社に就職。聖一とは20才の時、仕事の関係で知り合い、不倫の末、
妊娠して結婚に至った。父親はこの結婚を許さず、その後も父娘関係は
断絶したままである。


和が生まれてから、曙美は夫に女として見られていないことをいつも意識しているようになる。曙美と聖一は子供だけで繋がっている夫婦だった。ところが2人目を妊娠中に流産してから、曙美とは二度と子供を産めない体になってしまった。
そして夫の不倫を知ってしまう。しかもその相手は彼の前の妻であるという最悪の事実。お嬢さん育ちでで世間知らずの曙美には、どう対処したらいいのかわからない。
孤独のどん底にいるとき、運命の出会いが訪れる。


◇標 悠作(しめぎゆうさく)29才_______岸谷五朗


渋谷警察防犯課の刑事。
岐阜県で生まれ育ち、東京の私立大学に進む。学生課の掲示板で警察官募集の告知を見て「誰かを守ってやる仕事もいい」と思い、警察学校の門をくぐる。
型破りな熱血漢である悠作は防犯課で活躍。人間臭い優しさを持つ悠作は、
取り締まる非行少年や容疑者たちから妙に慕われ、
若いながら「顔」になっていった。


ところがあるとき、利用していた情報屋が殺されてしまう。警察上層部は事件を隠すため、遺族に、世間に、謝罪することさえ悠作に許さない。天職とも思っていた刑事という仕事を捨てようとしたとき、曙美と出会う。


◇植草聖一(うえくさせいいち)34才______豊川悦司


曙美の夫。一流商社九条物産に勤めるエリート商社マン。
京都大学在学中に立子と知り合い、就職後、結婚。野心家で征服欲の強い聖一にとって、立子の女として魅力とは別に、中央政界とパイプをもつ彼女の父親の存在も魅力だった。
結婚3年後、曙美と知り合い不倫の関係に。遊びのつもりだったが、結局曙美の情熱に圧されて立子と離婚して、2度目の結婚をする。


家庭的な曙美との暮らしは暖かく、安らぎがあった。しかし10年近くにもなる立子との関係は夫婦という枠組みがなくても続けていける男と女の関係だった。男の顔と良き父の顔を使い分ける聖一。


しかし仕事で過剰な野心を抱きすぎたことから運命が変わっていく……。


◇江波田立子(えばたりゅうこ)33才______美保 純


聖一の先妻。大手出版社で雑誌編集者として働くキャリアウーマン。父親は群馬の地元の名士で有力者。父のことは好きだったが、旧家特有の複雑な人間関係や、狭い町の息苦しさから離れたくて、京都の大学へ進学。聖一と出会い結婚する。夫にさえなかなか本心を見せない、男の征服欲をかきたてる女だった。


結婚3年目、夫の若い愛人が目の前に現れた。どんなにひどく裏切られても変わらず夫を愛している自分が悲しかったが、ショックを隠し通して、あっさりと離婚した。聖一と続けられる自信も一方ではあったのだ。そして元夫との不倫が始まった。
http://nozawahisashi.jp/works/01_003.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/998.html

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
133. 中川隆[-11936] koaQ7Jey 2020年8月05日 12:51:05 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[29]
内部配線を変えれば安物アンプと超高級アンプの差は無くなる

Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムも鳴り出し、安定化して来た
2020年08月05日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f54b1ca204acfdc0ccee867785001db8


サブシステムも「鳴り出し」て安定化して来た。そうなると「触る処」が無くなって来る。

D208システムをドライブしているサトリのミニプリ+ミニパワーアンプ。このアンプには私の「音質対策」が完了している。RCAソケットは全てフルテックのロジウム仕様の最高級品に交換済。パワーアンプのSP端子も同じくフルテックの最高級品に交換済。内部配線も可能な処は全て当方の「特殊な銀線」に交換済。これでD208システムが鳴らない訳がない。1週間ほどで眠りから覚めて来た様だ。

D208システムの内部配線も「特殊な銀線」ですべて配線している。SP端子もフルテックのロジウム仕様の最高級品。・・・と出来上がっている。サンスイのSP-70純正ツイーターを使っているが、D208との相性は抜群に良い。JAZZのシンバルの音が浮遊する。その点が、JBLオリジナル配線の#4425では出ないサウンドだ。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f54b1ca204acfdc0ccee867785001db8
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c133

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
134. 中川隆[-11935] koaQ7Jey 2020年8月05日 12:53:09 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[30]
サウンドトレール 店主のつぶやき
http://soundtrail.co.jp/p14.html

サウンドトレール
http://soundtrail.co.jp/index.html

Mr.トレイルのオーディオ回り道
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840

サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html

・販売業者: サウンドトレイル株式会社

・責任者 : 代表  錦戸 敏重


〒834-0065
福岡県八女市亀甲170-7番地

TEL:0943-24-8660 
 携帯:090-1878-1529(こちらをご利用ください)

営業時間/AM10:00〜PM5:30

定休日/木曜日


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92834-0065+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%85%AB%E5%A5%B3%E5%B8%82%E4%BA%80%E7%94%B2%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%90%E2%88%92%EF%BC%97/@33.21935,130.531093,14z/data=!4m5!3m4!1s0x3541aee7af852b1b:0xeb18a97c68144bf6!8m2!3d33.2193603!4d130.5311334?hl=ja
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c134

[リバイバル3] 3万円のドイツ製プロ用パワーアンプ thomann S-75mk2 と数百万円のハイエンドアンプとでは電源ケーブルを変えた位の差しか出ない 中川隆
41. 中川隆[-11934] koaQ7Jey 2020年8月05日 12:53:30 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[31]
サウンドトレール 店主のつぶやき
http://soundtrail.co.jp/p14.html

サウンドトレール
http://soundtrail.co.jp/index.html

Mr.トレイルのオーディオ回り道
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840

サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html

・販売業者: サウンドトレイル株式会社

・責任者 : 代表  錦戸 敏重


〒834-0065
福岡県八女市亀甲170-7番地

TEL:0943-24-8660 
 携帯:090-1878-1529(こちらをご利用ください)

営業時間/AM10:00〜PM5:30

定休日/木曜日


地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92834-0065+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%85%AB%E5%A5%B3%E5%B8%82%E4%BA%80%E7%94%B2%EF%BC%91%EF%BC%97%EF%BC%90%E2%88%92%EF%BC%97/@33.21935,130.531093,14z/data=!4m5!3m4!1s0x3541aee7af852b1b:0xeb18a97c68144bf6!8m2!3d33.2193603!4d130.5311334?hl=ja
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/983.html#c41

[リバイバル3] ゴールドムンド _ その奇跡の音色の秘密 中川隆
6. 中川隆[-11933] koaQ7Jey 2020年8月05日 12:57:26 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[32]
内部配線を変えれば安物アンプと超高級アンプの差は無くなる
Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムも鳴り出し、安定化して来た
2020年08月05日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f54b1ca204acfdc0ccee867785001db8


サブシステムも「鳴り出し」て安定化して来た。そうなると「触る処」が無くなって来る。

D208システムをドライブしているサトリのミニプリ+ミニパワーアンプ。このアンプには私の「音質対策」が完了している。RCAソケットは全てフルテックのロジウム仕様の最高級品に交換済。パワーアンプのSP端子も同じくフルテックの最高級品に交換済。内部配線も可能な処は全て当方の「特殊な銀線」に交換済。これでD208システムが鳴らない訳がない。1週間ほどで眠りから覚めて来た様だ。

D208システムの内部配線も「特殊な銀線」ですべて配線している。SP端子もフルテックのロジウム仕様の最高級品。・・・と出来上がっている。サンスイのSP-70純正ツイーターを使っているが、D208との相性は抜群に良い。JAZZのシンバルの音が浮遊する。その点が、JBLオリジナル配線の#4425では出ないサウンドだ。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/f54b1ca204acfdc0ccee867785001db8


▲△▽▼

サウンドトレール 店主のつぶやき
http://soundtrail.co.jp/p14.html

サウンドトレール
http://soundtrail.co.jp/index.html

Mr.トレイルのオーディオ回り道
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840

サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html

・販売業者: サウンドトレイル株式会社

・責任者 : 代表  錦戸 敏重


〒834-0065
福岡県八女市亀甲170-7番地

TEL:0943-24-8660 
 携帯:090-1878-1529(こちらをご利用ください)

営業時間/AM10:00〜PM5:30

定休日/木曜日


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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/948.html#c6

[リバイバル3] オーディオ機器の性能は「電源ケーブル」で決まる 中川隆
17. 中川隆[-11932] koaQ7Jey 2020年8月05日 12:59:06 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[33]
内部配線を変えれば安物アンプと超高級アンプの差は無くなる

Mr.トレイルのオーディオ回り道
サブシステムも鳴り出し、安定化して来た
2020年08月05日
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サブシステムも「鳴り出し」て安定化して来た。そうなると「触る処」が無くなって来る。

D208システムをドライブしているサトリのミニプリ+ミニパワーアンプ。このアンプには私の「音質対策」が完了している。RCAソケットは全てフルテックのロジウム仕様の最高級品に交換済。パワーアンプのSP端子も同じくフルテックの最高級品に交換済。内部配線も可能な処は全て当方の「特殊な銀線」に交換済。これでD208システムが鳴らない訳がない。1週間ほどで眠りから覚めて来た様だ。

D208システムの内部配線も「特殊な銀線」ですべて配線している。SP端子もフルテックのロジウム仕様の最高級品。・・・と出来上がっている。サンスイのSP-70純正ツイーターを使っているが、D208との相性は抜群に良い。JAZZのシンバルの音が浮遊する。その点が、JBLオリジナル配線の#4425では出ないサウンドだ。
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1060.html#c17

[番外地8] 昭和天皇の命令で無意味な特攻をせざるを得なくなった戦艦大和
昭和天皇の命令で無意味な特攻をせざるを得なくなった戦艦大和
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。

及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。

「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」

宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。

とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。

しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。

「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」

一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。

自分の命が削られていく音

1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。

「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。

皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」

この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。

自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。

筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。

根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。

艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。

「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」

1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。

同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。

水上特攻の成果は…

「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。


____________


特攻作戦の人間学:戦艦大和の場合
昭和天皇の特攻命令を誰も拒否できなかった

1945年4月6日,第二艦隊司令長官・伊藤整一中将座乗の巨大戦艦「大和」は,9隻の艦艇をしたがえて徳山沖を出航,沖縄本島西部海域をめざす征途についた。連合艦隊の生き残りをあつめた最後の艦隊出撃である。作戦計画では航空機による護衛は皆無。燃料は全艦片道分しか搭載せず,生還を期さない海上特攻であった。

作戦構想の内容とは,はじめ敵迎撃機の攻撃を吸収する海上の“囮”となって特攻機の突撃を助け,次に敵上陸地点へ殴り込んで徹底的な艦砲射撃を加え,最後に銃をとって陸上戦をたたかう,というものであった。しかしこんな計画が実行できるはずはない。実際,南西海域の制空権と制海権はすでにアメリカ側に握られている。その海域を,わずか10隻の残存艦隊が航空機による護衛もなく進攻すればどうなるかは問うまでもない。出撃命令の下命以前から,伊藤・第二艦隊司令長官は断固反対との意見具申をおこなった。

伊藤中将の頑強な反対を異例の事態と認めた中央は,説得のための特使として,連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将を派遣, “説得”は成功した。しかしそれは,「一億総特攻の模範となるよう,立派に死んでもらいたい」という言葉によってであった。

本作戦発動の一週間前,及川軍令部総長が沖縄方面の戦況ついて,「航空機による特攻攻撃を激しくやります」と天皇に報告した。

すると天皇から重ねて,

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」

と“御下問”があった。及川総長はこれを

「水上部隊は何をしているのか」

という叱正の言葉と解した。

及川総長から連絡を受けた豊田連合艦隊司令長官は,さっそく

「畏レ多キオ言葉ヲ拝シ恐懼二堪エズ」

にはじまる緊急電を発し,あくまで作戦の完遂を期すべし,と呼びかけた。

「海上部隊はあるか?」

という疑問の言葉は

「あるなら使ってはどうか」

という間接的・暗示的命令として解されうる。

「海上部隊はないのか?」

という否定疑問文では,こうした間接的・暗示的命令性がいっそう強まるだけではなく,

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”のニュアンスまでが加わってくる。


こうして及川総長と海軍首脳部は

「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか?」

という“御下問”を深読みし,そこにまず

「あるなら使ってはどうか?」

という間接的・暗示的な命令を発見する。連日出動してゆく特攻機群にくらべて,空しく係留・温存されている海上部隊は顔向けができない。天皇に対しても,特攻機に対しても面子まるつぶれではないか。間接的・暗示的な命令は

「あるのになぜ使わないのか!」

という“叱正”と解され,“恐懼”の感情を誘発し,海上部隊活用への「焦り」を生む。

海軍上層部の空気は変化し,ついには海上特攻艦隊という構想へ到達したと推定されるのだ。それだけではない。天皇の発言を契機として生じた海軍上層部の空気のこうした変化こそが,草鹿特使の“説得”の真の内容であったと推定することによって,伊藤中将の態度急変の謎も初めて解けるのだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/156.html

[番外地8] 昭和天皇は対米戦争が八百長戦争だとバレない様に特攻までさせた
昭和天皇は対米戦争が八百長戦争だとバレない様に特攻までさせた
鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA


戦争はすべて八百長(00:38:51)

熊毛郡田布施町 (00:00:21)

大室寅之佑 (00:03:48)

明治天皇の秘密 (00:03:55)

殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)

秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)

仕組まれた戦争 (00:15:35)

皇室スキャンダル (00:18:21)

大正天皇には、子種がない(00:18:39)

西園寺八郎 (00:19:26)

昭和天皇の秘密 (00:21:34)

昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)

住友と天皇家は、血族 (00:23:04)

秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)

天皇のための戦争(00:25:02)

戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)

昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)

真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)

海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)

パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)

天皇が内通していた(00:31:38)

スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)

天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)

終戦工作と白州次郎 (00:33:39)

ヨハンセングループ (00:34:17)

日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)

日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)

弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)

火事場泥棒なんです。(00:36:15)

こじつけ無罪論(00:36:19)

明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)

第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)

戦争はすべて八百長(00:38:51)

戦争は継続しなければいけない (00:40:48)

天皇が被爆に加担した(00:42:23)

白洲次郎の秘密(00:44:17)

吉田茂の秘密(00:46:20)

こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)

キッシンジャーと中曽根(00:57:00)

使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)  
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/157.html

[番外地8] トランプ大統領の圧力に屈し、安全が脅かされる日本の食卓
日本人は全員反トランプだろ:
トランプ大統領の圧力に屈し、安全が脅かされる日本の食卓 2020/07/23

危険な農薬が付着した食品が知らぬ間に日本に輸入されている

 新型コロナウイルスの影響で、食の安全が脅かされている。中国・北京市の新発地卸売市場では、輸入サーモンの加工に使われていたまな板から、新型コロナウイルスが検出されたと報じられた。その一方で、中国は、アメリカの大手食肉工場からの鶏肉の輸入をストップさせている。理由は工場での新型コロナウイルスの集団感染だ。


「鶏肉だけではありません。中国では、従業員600人以上の感染が確認されたドイツの食肉工場からも豚肉の輸入を停止しています。実はまな板の汚染について、中国は輸入したサーモンに原因があるという見方をしてもおり、中国に輸入される食材についてかなり疑心暗鬼になっているのです。中国はアメリカ、ブラジル、そしてカナダに対して、輸入する大豆が新型コロナに汚染されていないことを証明するようにも求めています」(全国紙外信部記者)

 そもそもなぜ、衛生面に配慮しているはずの食材を扱う場で集団感染が広がるのか。

「食品工場の労働環境は、お世辞にも整っているとはいえません。出稼ぎに来た外国人労働者や移民が中心の従業員は宿舎に詰め込まれ、仕事中も行き帰りも、そして休憩時も、常に同じ狭い空間で過ごしています。つまり、1人が感染すればそれが爆発的に拡大する素地が整ってしまっているのです」(前出・外信部記者)

 こうした劣悪な労働環境の改善が問題収束のカギになるだろう。実際に、工場を閉鎖して立て直しを図っている会社もアメリカにはある。しかし、かの国の大統領が一筋縄でいくはずがない。アメリカのトランプ大統領は食料を安定供給するため「国防生産法」に基づき、食肉工場が操業を停止できないようにする大統領令に署名したのだ。

「アメリカ政府の圧力は日本の食卓にも影響が出ていて対岸の火事ではないですよ」(流通ジャーナリスト)

 日本国内の移動の全面解禁を目前に控えた6月18日、厚労省は「ジフェノコナゾール」という耳慣れない農薬を、ひっそりと食品添加物に指定した。

 食品表示一元化検討会委員を務めたことのある薬学博士の中村幹雄さんは、こう説明する。

「これは“ポストハーベスト農薬”と呼ばれる類いのもので、じゃがいもの収穫後に防かび剤として散布されます。ジフェノコナゾールは浸透性が高いため、じゃがいもを洗ったり皮をむいたりしても、その内側に残留する可能性があります。今後、アメリカ産などのじゃがいもには添加物として、この“ポストハーベスト農薬”が散布されるリスクがあるのです」

 こうした規制緩和は今後も続く見通しだ。

「オレンジやレモンなどの柑橘類に使われている『アゾキシストロビン』という農薬も、近々、じゃがいもの防かび剤として使えるようになります。(厚労省の)薬事・食品衛生審議会で審議中ですが、食品安全委員会は許可を出しているので、時間の問題です。なぜこうした変更が続いているかというと、輸出を増やしたいアメリカ側の圧力に日本政府が屈したからです」(前出・中村さん)

 これまでは比較的安全だった食品も、安全なままではなくなってしまう。



http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/158.html

[番外地8] 新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器 中川隆
1. 中川隆[-11931] koaQ7Jey 2020年8月05日 21:09:48 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[37]
新型コロナウィルスは免疫を破壊し血管を破壊するウイルス
エイズとエボラ出血熱とサーズの遺伝子を人工的に組み込んだ生物兵器

感染した人の症状と経過 若い人でも
・脳に重大な損傷を受ける
・免疫細胞を破壊される(エイズと同じ)
・倦怠感や風邪の症状が一生続き、元気を失う
・無症状でも10年以内に100人中80人死ぬ
・一生、味や香りを感じなくなる
・100人中87人後遺症が残る
・無症状でも他人にうつす
・100人中15人が死に、100人中50人は無症状
・血管をズタズタに壊し最後は血管が破れて死ぬ(エボラ出血熱と同じ)
・息、鼻水、汗、糞、尿からウィルスを放出、感染させる
・血管内に入り全身でウィルスが増殖する

新型コロナウィルスの特徴
・致死率はインフルエンザの110倍
・インフルエンザ並みの感染力
・1年中感染し、物の表面上でも2週間生存する
・動物にも感染する
・紫外線に弱く、エタノール、アルカリ、オゾンで殺菌出来る

感染を予防する行動について
・外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・手洗い、手の消毒(接触感染防止)
・目を触らない、顔を舐めない(接触感染防止)
・体調が悪い場合は外に出ない(空気感染、飛沫感染、接触感染防止)
・服を洗濯(接触感染防止) ・シャワー(接触感染防止)
・外出先でトイレを使わない(粉塵感染防止)
・3密 集まらない、近寄らない、密閉しない  

▲△▽▼

レナ・ダナムが明かす苦しいコロナ体験。回復後も続く地獄
2020/8/2

 手足の感覚の麻痺。発疹。音への異常な反応。回復してからも、ひどい頭痛と関節炎に悩まされる。

 アメリカで新型コロナの感染者が増え続けているにもかかわらず、まだ事態を深刻に受け止めない人がいる現状を見て、女優レナ・ダナム(34)が自分の体験を明かした。彼女がインスタグラムに投稿したその告白文によると、感染したのは3月なかば。今まで黙っていたのは、「すでに多くのことが言われていて、実際にたくさんの命が失われているところに、不必要な声を足すことはしたくなかったから」だ。書いては削除し、削除してはまた書くということを繰り返した彼女は、しかし、コロナにかかるということがどんなに苦しいのかを人々に知ってもらおうと決めたという。

「コロナウィルスは、人を殺します。それはみんな知っています。でも、それだけでなく、このウィルスは体を変え、感染した人に予測できなかった体験を与えるのです」というダナムに、最初に出た症状は、関節の痛み。さほど気にしないでいたら、すぐに極度の疲労感と発熱が加わった。

「足の神経が焼けたような感じになり、筋肉が思うように動かなくなりました。手の感覚も無くなりました。大きな音に耐えられなくなりました。眠れなくなり、起きられなくなりました。味覚と嗅覚が失われました。咳が、まるでメトロノームが音を刻むような感じで出続けました。コップの水を飲む程度の簡単なことをしても、息ができなくなるのです。あちこちに発疹も出ました。目と目の間にひどい頭痛を覚えました。自分があたかもコンセントを抜かれた後に間違った配線をされた機械であるかのように感じました」。

 そんな状態が21日も続いたが、入院はせず、医師の助言を受けながら、自分で隔離生活を続けた。1ヶ月後に受けた検査で、結果は陰性。それでも楽になったわけではない。手や足がむくみ、頭痛と疲労感のせいで、体が思うように動かないのだ。「普段から慢性的に体調が悪い」と自認する彼女でも、「あれほど苦しかったことはありません」。関節炎がひどく悪化したため、副作用のある薬を飲まねばならず、ほかにも「ここでは言いたくない、変な症状がいくつかあった」という。

「はっきりさせておきたいのですが、新型コロナにかかる前、こういう症状はありませんでした。どうして私の体がこんなふうに反応したのか、また私がどのように回復していくのか、お医者さんたちはまだわかっていません」「COVID-19がもたらす長期に及ぶ後遺症は、今、まだ研究がなされているところです」と語る彼女は、「だから、いいですか、聞いてください。これは同僚に風邪をうつすのとは違うのです。『悪かったね。次、ランチおごるから』では済まないのですよ」と、人々に訴えかけた。「自分と他人を守るための行動を取り続けて。そうすることで、こんな苦しみを体験しなくて済むのです」
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/151.html#c1

[番外地8] 1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った
大西さんは 元J.P.モルガン社員なのに日本の歴史を全く知らないというのが不思議ですね:
1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。


 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。


 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーがJPモルガンと極めて緊密な関係にあることも本ブログで繰り返し書いてきた。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる。


 日本の侵略を受けていた国々の人びとは、そうした軍人以上に厳しい目を向けていた。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという。(堀田善衛著『上海にて』)


 天皇制官僚システムを維持するためには、アメリカが日本で主導権を握っているうちに天皇制の存続を定めた憲法を制定し、天皇を被告席に立たせずに戦争責任を問う裁判を終わらせてしまう必要があった。それをアメリカは実行した。


 第2次世界大戦の帰趨が決したのは1944年6月にアメリカ軍を中心として実行されたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)だと考えてる人が高名な学者の中にもいるが、実際はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで壊滅、1943年1月に降伏した時に勝負はついていた。ノルマンディー上陸作戦で決着がついたという話はハリウッドが作り上げた幻影だ。


 アドルフ・ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスが飛行機でスコットランドへ渡ったのが1941年5月。そこでイギリス政府の要人と何かを話し合ったはずだが、その内容は未だに秘密。そして6月に310万人のドイツ軍が西側に90万人を残してソ連へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。


 当然のことながら、このときにドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、アドルフ・ヒトラーがそれを退けたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)ヒトラーは西側から攻めてこないことを「予知」していたのだろう。


 ドイツ軍の主力が壊滅したことに驚いたアメリカとイギリスは急遽会談し、1943年7月に米英軍はシチリア島へ上陸、そしてノルマンディー上陸作戦だ。それと同時に西部戦線で戦っていたレジスタンスに対抗するため、OSSはゲリラ戦部隊ジェドバラを組織、それが大戦後、CIAの秘密工作部門になる。


 それまで傍観していた米英軍が慌てて動き始めたのだが、それと並行してドイツ側はOSS(CIAの前身)と盛んに接触するようになる。こうした接触はルーズベルト大統領には秘密にされていた。


 OSSのアレン・ダレスたちが接触した相手にはSA(突撃隊)を組織したヘルマン・ゲーリングも含まれ、ダレスたちは彼を戦犯リストから外そうとしたのだが、失敗した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)


 しかし、ナチスの大物たちをアメリカ支配層は保護、逃亡させ、後に雇っている。その逃走にローマ教皇庁の一部勢力が参加していたことも広く知られている。


 日本では天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/159.html

[番外地8] 1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った 中川隆
1. 中川隆[-11930] koaQ7Jey 2020年8月05日 21:35:05 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[38]
大西さんは 元J.P.モルガン社員なのに日本の歴史を全く知らないというのが不思議ですね:
1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。

 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。

 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。

こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭


こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。

世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。


軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本

どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/159.html#c1

[昼休み52] 日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない 中川隆
25. 中川隆[-11929] koaQ7Jey 2020年8月06日 04:56:17 : Sq9OvAHq8Y : NTBVeEl2MU0xWms=[1]
日本語の起源


朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。


朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

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Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。


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弥生時代の世界情勢 朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html  

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弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。


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土井ヶ浜弥生人 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。
弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html#c25

[番外地8] 南京大虐殺・慰安婦強制連行の背景 _ 福沢諭吉先生とその教え子の天皇一族はアジア人が大嫌い
南京大虐殺・慰安婦強制連行の背景 _ 福沢諭吉先生とその教え子の天皇一族はアジア人が大嫌い
福沢諭吉はchousenや台湾の人びとのことをどう述べているか:
「chousen……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、
「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……
chousen人は唯頑固の固まり」(本書121頁)
chousenは、野蛮な国であり、chousen人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。

「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「chousen……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160−161頁)

なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ


「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」


と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)

中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。


なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。


「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」


という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに


「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」


という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)

目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。

「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。

たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから


金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する


という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、

豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ


という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、

「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」


と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)


筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/160.html

[番外地8] 大西さんは信用創造を全く理解できていないよ。 そもそも大西さんの種本のエンデは商品貨幣論だしね
大西さんは信用創造を全く理解できていないよ。
そもそも大西さんの種本のエンデは商品貨幣論だしね。

そもそも大西さんが信用創造の説明に使っている「又貸しモデル」は商品貨幣論のモデルだよ。

単に銀行が資金が不足している人に資金が余っている人の預金を融通するというだけの事で、貨幣は増えていない。 大西さんが意図的に嘘を書いているのか、単に経済を理解していないだけなのか、はわからないけどね。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/161.html

[番外地8] 利子が付いていても貨幣であるというのは変わらないよ、定期預金を発行するか当座預金を発行するかだけの違いさ
>MMTは信用創造が貨幣発行であるという説明。
>その対極にあるのが政府管理にある国債発行や政府通貨発行。

利子が付いていても貨幣であるというのは変わらないよ、定期預金を発行するか当座預金を発行するかだけの違いさ

国債は日本政府が発行する貨幣
日銀当座預金は日本銀行が発行する貨幣
銀行預金は民間銀行が発行する貨幣

大西さんは民間銀行が発行する銀行預金だけしか貨幣と認識していないんだな
政府紙幣なんか発行しなくても国債は既に貨幣なんだよ
大西さんは貨幣がどういうものか理解できていないだけさ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/162.html

[番外地8] 日本政府は日本の資金が欧米に流れる様な経済政策と取っているんだよ 大西さんもアメリカ金融資本のエージェントだから、それに協力している
日本政府は日本の資金が欧米に流れる様な経済政策と取っているんだよ
大西さんもアメリカ金融資本のエージェントだから、それに協力しているんだな
大西さんの信者にはそれがわからないから、大西さんを救世主だと勘違いしているんだな。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/163.html
[近代史3] チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない 中川隆
20. 中川隆[-11928] koaQ7Jey 2020年8月06日 09:58:19 : Sq9OvAHq8Y : NTBVeEl2MU0xWms=[3]
先週、チャンネル桜が歴史修正主義をテーマにした討論会を放送し、ゲストの一人である筑波大学の掛谷英紀(かけや・ひでき)が、米国における人種問題と黒人暴動についてちょっと述べていた。掛谷氏は左翼思想と黒人運動を説明するため、若手知識人であるベン・シャピロ(Ben Shapiro)の著書を参考にしていたが、シャピロの保守主義には“胡散臭い”ところがあるので、そのまま信じるのは危険である。

掛谷氏の発言を切っ掛けに色々な事を述べてしまったが、チャンネル桜の視聴者のみならず、一般の保守派国民はアメリカ社会に興味を持っていても、その知識が乏しいので、ちょくちょく知識人から騙される。

なぜなら、一応「保守派雑誌」と呼ばれている『正論』や『WiLL』、『Hanada』といったオピニオン誌が、目先の話題を追求するだけの週刊誌(月刊の同人誌)になっているからだ。月刊『Hanada』の花田紀凱編集長は、元々『週刊文春』の編集長なので、時事ネタを扱って部数を伸ばせばいいという考えだ。それゆえ、知的な記事を求める読者でも、いつの間にか凡庸な論調に慣れてしまい、気楽な記事しか読まなくなる。

まぁ、『Hanada』は娯楽雑誌だからいいけど、問題なのは『正論』の凋落だ。編集長が上島嘉郎になってからは衰退が著しく、田北真樹子になったらもう廃刊前の『新潮45』と同じ状態だ。

  平成の頃から保守の言論界は徐々に落ちぶれてきた。こんな状態だから、チャンネル桜が掛谷氏を招くのも当然だし、彼がベン・シャピロに引っ掛かっても不思議じゃない。一般の視聴者は掛谷氏の解説に頷き、「さすが、掛谷先生すごい!」と大感激。「なんで?」と疑問に思う視聴者の方が圧倒的に少数派である。

日本の総合雑誌は「米国の保守派がどうなっているのか?!」については無関心だし、購読者自身が幼稚になっているから救いようがない。これじゃあ、雑誌の中身が適当な政治記事で埋め尽くされていても当然である。保守派雑誌を買う一般人は、国内政治のゴタゴタと「韓国・中国けしらからん!」という特集記事を目にすれば満足なんだから、馴染みの無い話題は敬遠となる。こうした知的頽廃に気づけば、どうして櫻井良子なんかが未だに支持されているのかが分かる。「チョコプラ」の松尾じゃないけど、Ikkoを真似て「驚愕ぅぅ〜!」と言いたくなるよねぇ〜。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815064.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html#c20

[番外地8] 日本政府は日本の資金が欧米に流れる様な経済政策と取っているんだよ 大西さんもアメリカ金融資本のエージェントだから、それに… 中川隆
1. 中川隆[-11927] koaQ7Jey 2020年8月06日 11:11:49 : Sq9OvAHq8Y : NTBVeEl2MU0xWms=[4]
日本政府は日本の資金が欧米に流れる様な経済政策と取っているんだよ
大西さんもアメリカ金融資本のエージェントだから、それに協力しているんだな
大西さんの信者にはそれがわからないから、大西さんを救世主だと勘違いしているんだな。
証券マンは口が上手いからなあ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/163.html#c1
[リバイバル3] スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか? 中川隆
76. 中川隆[-11926] koaQ7Jey 2020年8月06日 12:02:11 : Sq9OvAHq8Y : NTBVeEl2MU0xWms=[6]
TA-2000F+TA3120の組み合わせは「活性化」が異常に早い
2020年08月06日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/88a313f1ac70bdf16e6fba95fc984134


今まで色々なメーカーのアンプを使って来たが、SONYの1970年前後のアンプの「活性化」のスピードの速さには驚嘆している。使い出してわずか2ヶ月でヌケて来ている。累計時間で云えば200Hr程度だろう。他のアンプ達が2000Hrくらいかかるのにその1/10の時間で活性化している。

アキュフェーズ(C280/290/M-100/M-60他)にしろパイオニア(C3/M4)のアンプ達は2000Hrかかっている。マッキントッシュ(C29/MC2500他)もマークレビンソンのアンプも2000Hr必要だと感じている。本当にSONYの1970年前後のアンプは凄い。同じSONYでも1977年製はこうは行かない。

スピーカーにしろアンプにしろ、「オーディオ黎明期」のモノが集まって来ている。JBLのスピーカーユニットは1950〜1960年のモノが良い。これはアメリカでの「オーディオ黎明期」にあたる。技術者たちが「良いものを作ろう」と頑張った時期である。その後はお決まりのインフレとコストダウン。価格は高くなったのに性能はダウンしていると感じるのは私だけだろうか?
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/88a313f1ac70bdf16e6fba95fc984134

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html#c76

[番外地8] コロナは細菌兵器だよ 空気感染するエイズだから、どんなに軽傷でも5年後には死ぬ運命だ
若くて軽症のコロナ患者も5年で死ぬから、心配しなくても これからコロナ死者は何千倍にも増えるよ

コロナは細菌兵器だよ
空気感染するエイズだから、どんなに軽傷でも5年後には死ぬ運命だ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/164.html

[番外地8] 南アメリカで縄文式土器が見つかっており

>南アメリカで縄文式土器が見つかっており

南アメリカのは浅鉢で保存用、縄文土器は深鉢で煮炊き用
用途が全く違うから起源も作った民族も違うよ

>旧約聖書の話と日本の神話は驚くほど似ています。

現世人類は3万年前は同一部族だったから似ているに決まってるよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/165.html

[番外地8] アイヌ人のY-DNA D1a2a はアメリカ大陸からは全く見つかっていません
  2001年8月1日付読売新聞によると,「アメリカ大陸一番乗りは縄文人」の新説を
   報じている。ミシガン大学教授C.ローリング.プレイスによると,米国各地の9000年前
   の頭蓋骨の調査結果によると,モンゴロイド人の共通点は少なく,日本の縄文人やアイヌ
   人,ポリネシア人の特徴を持っているとのこと。この興味のある報告は,内外の学者より
   「少々強引な結論」の声もある。

DNA解析は日進月歩なので、2001年の解析は既に時代錯誤なんですね。
そもそも、アイヌ人のY-DNA D1a2a はアメリカ大陸からは全く見つかっていません:

アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループ D1a2a が 87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。


ハプログループ D1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/166.html

[番外地8] 経歴自体が胡散臭いんだよね 中川隆
2. 中川隆[-11925] koaQ7Jey 2020年8月07日 09:07:47 : hHZB9i4vVw : MUkzQ2pkOWZvWkU=[6]
詐欺師に引っ掛かったのが信者「〜Ist」
教祖は経歴自体が胡散臭いんだよね
為替の専門家ならFXで幾らでも稼げる筈なのに一切やらない
IT企業も上手く行かなくなって、会社の業務をピザ屋に変える

50歳で白髪というのも異常だし
奥さんにも逃げられる

大西つねきさんの経済の話は全部大嘘だし
経済の専門家気取りなのに貨幣の信用創造すら理解できていない
最初から最後まで詐欺師の匂いプンプンなんだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/153.html#c2

[番外地8] 経歴自体が胡散臭いんだよね 中川隆
3. 中川隆[-11924] koaQ7Jey 2020年8月07日 09:15:27 : hHZB9i4vVw : MUkzQ2pkOWZvWkU=[7]
詐欺師に引っ掛かったのが信者「〜Ist」
教祖は経歴自体が胡散臭いんだよね
為替の専門家ならFXで幾らでも稼げる筈なのに一切やらない
プロなのにチャートすら読めない
IT企業も上手く行かなくなって、会社業務をピザ屋に変える
50歳で白髪というのも異常だし
奥さんにも逃げられる

大西つねきさんの経済の話は全部大嘘だし
経済の専門家気取りなのに貨幣の信用創造すら理解できていない
最初から最後まで詐欺師の匂いプンプンなんだよ
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/153.html#c3

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