http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100385.html
47. 中川隆[-14241] koaQ7Jey 2020年1月21日 23:13:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1109]
カラヤン
Mozart: Adagio And Fugue In C Minor, K.546 - Orchestral Version
Berliner Philharmoniker · Herbert von Karajan 1995-01-01
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c47
564. 中川隆[-14240] koaQ7Jey 2020年1月22日 00:12:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1108]
月額4万円で地方の空き家や遊休別荘に住み放題 「ADDress」は地方創生の救世主になれるか
ビジネス 2020年1月21日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/01211100/?all=1
シェハウス、アドレスホッパー、テレワーク、コワーキング……。近年は職場や住居に縛られないライフスタイルが浸透してきており、新たな造語が次々に生まれている。そうした時代の中で、地方の空き家や遊休別荘を誰かに貸したい人と、滞在したい人とをマッチングさせるクラウドコミュニティ型サービス「ADDress」が登場した。日本人の働き方や暮らし方が多様化する今、その登場によって地域活性化も期待されているという。
***
映画や音楽、ゲーム、ブランドバッグ、服などをサブスクリプション(サブスク)サービスで楽しむ人が増えている。サブスクとは、月額料金を支払うことで一定のサービスを受けられるビジネスのことで、特定の商品やサービスに限って代金を支払うレンタルとは似て非なるものだ。
そんな折、ついに住まいを定額で提供するサブスクサービス「ADDress」が開始された。前述の通りこれは、家を貸したい人と住みたい人を繋ぐマッチングサービス。借り手は月額4万円〜(税別、年契約)でADDressが管理・運営する家具付きの物件にどこでも住み放題となる。物件間の移動はいつでも自由(事前予約制)で、敷金や礼金も不要だ。
会員になると、専用サイトで部屋の予約ができ、1回の予約につき最大7日間連続で滞在が可能。2020年1月20日時点で、東京、関西、九州など全国25カ所の拠点が登録されている。
「現在、日本では少子高齢化が急速に進んでおり、特に地方では空き家が増え、多くの企業が撤退しています。このビジネスは、そうした地方の空き家に都市部の住民が住めるようにすることをコンセプトに立ち上げました。言わば、都市と地方の人口のシェアリングです」
そう語るのは、ADDressを運営する株式会社アドレスの代表取締役社長、佐別当隆志氏だ。現在までに、20〜40代を中心に会員数は数百人、入会希望者が5千人弱いるという。
フリーランスやテレワーカーの拠点に
一昔前までは、ひとつ屋根の下で一緒に暮らす相手といえば、家族や恋人などが一般的だった。が、今やそれも多様化してきている。
「ADDressは、複数の物件に対して複数の人たちが借りる『N対N』(「大人数:大人数」という意味)の賃貸借契約を結んでいます。シェアハウスのように1つの物件を複数の人たちで共同利用するケースもあります」
読者の中には、地方の空き家と聞いて、老朽化した物件をイメージする人もいるだろう。が、それでは利用者からは敬遠され、人は集まらない。ADDressは、提供する物件にリノベーションを施し、和や洋を基調としたモデルルームのような空間に仕上げている。
また、ADDressが提供している物件は、オフィス環境を共有して打ち合わせや作業などができる「コワーキングスペース」も確保している。このようにシェアハウスとコワーキングスペースを組み合わせた施設を海外では「コーリビングスペース」と呼び、近年、利用者が急増しているという。
「今やインターネットでどこでも仕事ができるようになり、社員の働き場所を会社のオフィスに限定しない企業も増えてきました。また、従来は企業に社員が所属するというのが主流な働き方でしたが、今は組織から抜け出した個人がフリーランスなどで活躍するようになってきています」
クラウドソーシング大手ランサーズの調査によれば、日本の労働人口の17%がフリーランスであり、今後も伸びていくと予想されている
地域運営やビジネスの拠点となるADDress
ADDressは、若者不足に喘ぐ地方に福音をもたらす可能性もある。
「さまざまなエリアにある家をシェアしてお気に入りの場所で過ごすことで、そこに滞在者や地元住民とのコミュニティーが生まれ、地域の活性化にもつながるはずです。拠点の管理はADDressが家守に管理を委託し、清掃やゴミ出しなどをしてもらっているため、それも交流を促進する一助になっていると思っています」
佐別当社長によれば、今や社会のあり方そのものが、中央集権型社会から自律分散化型社会へと移行しつつあり、それに合わせて国・自治体や町会、企業のあり方も見直さなければならない時代に突入しているという。
「今の地域は、自治体や町内会などの組織が運営していますが、少子高齢化が進む中で既存のやり方では立ち行かなくなってきているように感じます。そこで私たちが提案したいのが“分散化した個人が支える新しい家”です。従来、国や自治体、町内会、企業などが担ってきた役割を、今後はそうした拠点に住む分散化した個人が担っていく。あるいは、これまでは企業ができて仕事が生まれてきましたが、今後は個人が集まってきて仕事が生まれるという流れが出てくることも考えられます」
家を持たず、いつでも好きなところで好きな仲間と仕事をする――。そんな生活スタイルを送る人が増えていけば、日本が抱える社会問題のいくつかは解決できるのかもしれない。
48. 中川隆[-14239] koaQ7Jey 2020年1月22日 00:36:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1107]
コープマン
Mozart - Missa Brevis in C KV 317 [COMPLETE!!] (Coronation Mass) by Ton KOOPMAN
The Amsterdam Baroque Orchestra & Choir
00:01 Kyrie
02:55 Gloria
07:23 Credo
14:01 Sanctus
15:46 Benedictus
18:55 Agnus Dei
Soprano: Barbara SCHLICK
Alto: Elisabeth von MAGNUS
Tenor: Paul AGNEW
Bass: Matthijs MESDAG
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c48
49. 中川隆[-14238] koaQ7Jey 2020年1月22日 00:38:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1106]
コープマン
Mozart - Ave Verum Corpus - K. 618 [Amsterdam Baroque Orchestra | Ton Koopman]
Wolfgang Amadeus Mozart
Ave Verum Corpus - K. 618
Ton Koopman
Amsterdam Baroque Orchestra
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c49
50. 中川隆[-14237] koaQ7Jey 2020年1月22日 00:57:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1105]
Mozart Requiem Karl Bohm
モーツァルト: レクイエム ニ短調 K.626 ベーム 1971
カール・ベーム指揮 Karl Böhm 1971年4月
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 Wiener Philharmoniker
エディット・マティス(ソプラノ)ユリア・ハマリ(アルト)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)カール・リッダーブッシュ(バス)
ハンス・ハーゼルベック(オルガン)
Mozart : Requiem in D minor, K.626
1.入祭誦 9:36
2. キリエ
3. セクエンツィア(続誦)
怒りの日 1:59
妙なるラッパの 4:17
みいつの大王 3:10
憶えたまえ 7:02
呪われた者 3:50
涙の日 4:10
4.奉献誦
主イエス・キリスト 4:39
犠牲と祈りを 5:05
5.サンクトゥス
サンクトゥス(聖なるかな)1:57
ベネディクトゥス(祝福されますように)6:53
アニュス・デイ(神の子羊よ)11:28
7.聖体拝領唱
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c50
51. 中川隆[-14236] koaQ7Jey 2020年1月22日 01:08:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1104]
>>50 のデータの訂正
ベームのモーツァルト:レクイエム
だいぶ以前にTV放映され、話題になったベーム晩年のモーツァルトのレクイエムが初めてソフト化されます。
昨今のモーツァルト演奏とは正反対のいわゆる“重厚長大型”演奏の極致を示す演奏で、死者のためのミサ曲にふさわしい、息長く悲痛なその進行には、有無を言わせず聴き手の心を動かす力が確かに備わっています。
ピアリステン教会で収録されたことも手伝って、深みある色彩を湛えるウィーン国立歌劇場合唱団の力唱が、ジュスマイヤー完成部分でさえきわめて雄弁に聴かせてくれるのが印象的。ヤノヴィッツの美しい高音域に、ルートヴィヒのほの暗く豊かな声、シュライヤーのスタイリッシュな歌唱、ベリーの迫力ある低音と、ソリストも高水準です。
・モーツァルト:レクイエム K.626
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(S)
クリスタ・ルートヴィヒ(Ms)
ペーター・シュライヤー(T)
ヴァルター・ベリー(B)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン交響楽団
カール・ベーム(指揮)
収録:1971年12月、ピアリステン教会、ウィーン
フーゴー・ケッヒ(映像監督)
画面:スタンダード、カラー
音声:リニアPCMステレオ、DTS 5.1
字幕:ラテン語/ドイツ語/フランス語/スペイン語/中国語
収録時間:64分
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c51
52. 中川隆[-14235] koaQ7Jey 2020年1月22日 01:12:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1103]
カール・ベーム指揮 Karl Böhm 1971年4月
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 Wiener Philharmoniker
エディット・マティス(ソプラノ)ユリア・ハマリ(アルト)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)カール・リッダーブッシュ(バス)
ハンス・ハーゼルベック(オルガン)
の演奏は
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c52
53. 中川隆[-14234] koaQ7Jey 2020年1月22日 01:21:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1102]
Mozart: Piano Concerto No. 20, Lefébure & Furtwängler (1954)
モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ルフェビュール
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
Piano Concerto No. 20 in D minor, K. 466
(00:05) 1. Allegro
(12:54) 2. Romanze
(21:59) 3. Allegro assai
Yvonne Lefébure (1898-1986), Piano
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c53
ヘンデル 音楽劇『ヘラクレス』
Handel: Hercules (COMPLETE)
Anne Sofie von Otter, David Daniels, Gidon Saks, Richard Croft, Lynne Dawson
Les Musiciens du Louvre
Marc Minkowski
▲△▽▼
『ヘラクレス』(Hercules)HWV 60は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1744年に作曲し、翌年初演した英語の音楽劇。
前年の『セメレ』同様、演技や舞台美術を伴わない形式で上演されたものの、内容的にはソポクレスの悲劇『トラキスの女たち』およびオウィディウス『変身物語』をもとにした世俗的な古典劇である。
ポール・ヘンリー・ラング(en)は、この作品を後期バロック音楽劇の頂点と評価している[1][2]。しかしヘンデルの生前には成功しなかった。
台本はソポクレスおよびオウィディウスにもとづき、トマス・ブロートン(en)によって書かれた[3][2]。
ヘンデルは7月19日に作曲を開始し、1か月で完成した[4][5]。
ヘンデルのライバルであるヘイマーケット国王劇場でのオペラ興業はこの年は休みであった[6]。この機会を利用して、ヘンデルは1744年11月から1745年にかけて、ヘイマーケット国王劇場で24回の予約演奏会を計画した[7]。しかしこの計画は野心的に過ぎた。『ヘラクレス』は1745年1月5日に初演されたが、成功しなかった。ヘンデルは計画の1⁄4にあたる6回で上演を中断し、返金する旨を発表したが、客の多くが返金を辞退したため、16回まで継続上演された[8]。ライバルであるオペラ派の本拠であるヘイマーケットを使ったため、妨害活動も展開された[9][10]。
音楽はオペラ的で、とくに第2幕には長大なダ・カーポ・アリアが多い。
1745年のシーズンでは『ヘラクレス』は2回しか上演されなかった[11]。1749年と1752年に、かなり省略した形で再演された。ほかに1756年にソールズベリーで1回上演された[12]。
登場人物
1745年のシーズンでは、ラインホールド(en)がヘラクレスを、ロビンソン夫人(en)がデイアニラを、エリザベト・デュパルク(en)がイオレを、ジョン・ビアード(英語版)がヒュルスを、シバ夫人(en、トマス・アーンの妹)がリカスを歌った[13]。ただし初演時にはシバ夫人が病気のために出られず、1月12日の再演から出た[14]。1749年の再演からはリカスが登場しなくなった[13]。
ヘラクレス:バス - 英雄、ユピテル神の子。
デイアニラ:メゾソプラノ - ヘラクレスの妻。
ヒュルス:テノール - ヘラクレスとデイアニラの子。
イオレ:ソプラノ - オエカリアの王女。
リカス:アルト - デイアニラの従者。
ユピテルの神官:バス
第1のオエカリア人:ソプラノ
第1のトラキス人:テノール
あらすじ
第1幕
トラキスにあるヘラクレスの館で、妻のデイアニラは長期にわたる夫の不在を嘆いている。息子のヒュルスがやってきて、不吉な予兆があり、神官がヘラクレスの死とオエタ山(en)から立ちのぼる炎を予言したと知らせる。絶望するデイアニラに対し、ヒュルスは父を探しに行こうとする。
そこにオエカリア征伐を終えたヘラクレスが捕虜を連れて凱旋したという知らせがはいり、デイアニラは喜ぶ(Begone, my fears)。ヒュルスは捕虜の中のオエカリア王女イオレに心を動かされる。
盛大な行進曲の後、ヘラクレスが現れてイオレに自由を保証するが、父を殺されたイオレの悲しみは晴れない(My father!)。ヘラクレスはデイアニラのもとへと向かう。トラキス人の華やかな喜びの合唱で幕になる。
第2幕
我が身の上を悲しむイオレの前にデイアニラが現れる。ヘラクレスがイオレの美しさを知って自らのものにするためにオエカリアを滅ぼしたという噂を聞いて嫉妬したデイアニラは怒りをあらわにし、イオレが否定しても聞く耳をもたない。
リカスもヘラクレスが他の女を愛することなどないというが、デイアニラは聞かない。合唱が嫉妬の恐しさを歌う(Jealousy! Infernal pest)。
一方ヒュルスはイオレの前に現れて愛を語る。イオレは自分が父の仇の子を愛するはずがないとはねつける。
デイアニラはヘラクレス本人を面罵するが、ヘラクレスは根も葉もない噂として取りあわず、ユピテルの祭儀に参加するために去る。
デイアニラは夫の愛が自分から離れてしまったと嘆くが(Cease, ruler of the day, to rise)、ケンタウルスのネッススの血にひたされた衣を利用することを思いつく。ネッススの話によるとこの衣は愛の炎を再び燃えたたせる効果があるはずだった。もう一度愛を取りもどすため、この衣をヘラクレスに着せるようにデイアニラはリカスに頼む。
イオレがデイアニラのもとを訪れる。デイアニラは悲しむイオレに同情して和解し、二重唱を歌う。
第3幕
衣にしみこんだネッススの血は実際には毒であり、ヘラクレスは毒の痛みと熱さに苦しむ。断末魔のヘラクレスはデイアニラを呪い、自分をオエタ山で火葬にするようヒュルスに願う。
自らの手で夫を死に追いやったことを知ったデイアニラは半狂乱に陥る(Where shall I fly)。イオレは一家の運命に同情する。
ユピテルの神官が登場し、オエタ山で火葬に付したヘラクレスの魂がユピテル神によって神々の世界に上げられたことを伝える。神官はまたヒュルスとイオレの結婚の神託があったことを告げる。イオレとヒュルスは喜びの二重唱を歌う。ヘラクレスを賛美するトラキス人の合唱で劇を終える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘラクレス_(ヘンデル)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/828.html
ヘンデル オラトリオ『サムソン』
Handel - Samson
Sheila Armstrong · Martina Arroyo
Helen Donath · Ezio Flagello
Norma Procter · Thomas Stewart
Alexander Young
Münchener Bach-Chor
Münchener Bach-Orchester
Karl Richter
________
Handel 1743 Samson Oratorio HWV 57 Harry Bicket The English Concert & The New Company
Harry Bicket conducts The English Concert & The New Company
Singers: Susan Gritton, soprano; Lucy Crowe, soprano, Iestyn Davies, countertenor; Mark Padmore, tenor; Ben Johnson, tenor; Neal Davies, bass; Christopher Purves, bass
_________
Georg Friedrich Händel - Samson HWV 57
SAMSON HWV 57
Oratorio in three acts by Newburgh Hamilton
SAMSON: Thomas Randle
ISRAELITE MAN/PHILISTINE MAN: Mark Padmore
DALILA: Lynda Russell
ISRAELITE WOMAN/PHILISTINE WOMAN/VIRGIN: Lynne Dawson
MICAH: Catherine Wyn-Rogers
MESSENGER: Matthew Vine
MANOAH: Michael George
HARAPHA: Jonathan Best
THE SIXTEEN
The Symphony of Harmony and Invention - Harry Christophers
▲△▽▼
『サムソン』(Samson)HWV 57は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1741年に作曲し、1743年に初演されたオラトリオ。
『メサイア』とほぼ同時期に作曲された。ヘンデルが作曲した最大のオラトリオ作品である。
ジョン・ミルトンの劇詩『闘士サムソン』(Samson Agonistes, 1671)にもとづき、ニューバラ・ハミルトン(en)によって翻案されたテキストに作曲された。
1741年9月14日に『メサイア』を完成したヘンデルは、ほとんど休むことなく『サムソン』を作曲し、10月29日にいったん完成した。
ハミルトンによる台本は基本的に『闘士サムソン』の抜粋にもとづくが、ミルトンの他のいくつかの詩も使われている[1][2]。
ヘンデルは11月から翌1742年9月までダブリンへ演奏旅行に出かけた。ダブリンでは『メサイア』が初演されたが、旅行の間『サムソン』は放置された。ロンドンに戻った後に加筆を行い、1743年2月18日にコヴェント・ガーデンで初演された。演奏会は盛況であり、このシーズン用に予約した6日間はすべて満席となった。ヘンデルはさらに6日間の追加公演を行った[3]。『サムソン』はシーズン中8回上演された[4]。『サムソン』はヘンデルの生前常に変わらない人気を保っていた[5]。
『サムソン』は『メサイア』とほぼ同時期に作られ、その音楽には共通点もあるが、劇的オラトリオである『サムソン』は『メサイア』のような宗教的オラトリオとは異なって登場人物の個性をはっきり表すオペラ的な作曲がなされている[6][7]。
ヘンデルはしばしば他人の音楽を自作に転用したが、この作品でもジョヴァンニ・レグレンツィ、ゲオルク・フィリップ・テレマン、ゲオルク・ムッファトらの音楽を拝借している。とくにジョヴァンニ・ポルタ(英語版)が1720年にロンドンで初演したオペラ『ヌミトーレ』からは多数の借用が見られ、オラトリオの最後に出現する有名なアリア「輝かしい天使よ」(Let the bright seraphim in burning row)も原形が『ヌミトーレ』に見られるという[8]。
登場人物
初演では主役のサムソンをジョン・ビアード(英語版)、デリラをクライヴ夫人(en)、ミカをシバ夫人(トマス・アーンの妹のスザンナ・マリア・シバ(en))、マノアをウィリアム・サベジ(en)、ハラファをラインハート(en)、イスラエル人とペリシテ人の女をクリスティーナ・マリア・アヴォーリオ(en)とエドワーズ夫人、イスラエル人とペリシテ人の男および使者をトマス・ロウ(en)が演じた[9][10]。アヴォーリオ以外の歌手はすべてイギリス人だった[3]。
サムソン:テノール - ダン族出身の士師。
ミカ:コントラルト - サムソンの友人。
マノア:バス - サムソンの父。
デリラ:ソプラノ - サムソンの妻。
ハラファ:バス - ガト(英語版)出身のペリシテ人。
ペリシテ人の女:ソプラノ
イスラエル人の女:ソプラノ
ペリシテ人の男:テノール
イスラエル人の男:テノール
使者:テノール
あらすじ
第1幕
フランス風序曲とメヌエットについで、ペリシテ人たちがダゴン神をたたえる祭のにぎやかな合唱が歌われる。サムソンは捕えられ、両目をくりぬかれてガザで奴隷として鎖につながれている。
友人のミカが現れ、憔悴したサムソンをみて、これがかつて獅子を引きさいた英雄であろうかと嘆く。サムソンは自分の弱点をデリラに漏らしてしまったことを後悔し、盲目にされたことを悲しむ(Total eclipse)。
老いた父親のマノアも現れ、かつて誕生を望みそして祝った子が今や悲しむべき状態になったと歌う。サムソンがダゴンを祭るペリシテ人の手にひきわたされたことによってイスラエルの神が侮辱されたと感じ、真の神の怒りによって復讐がとげられることを願う。
サムソンは自らの死によって苦しみを止めることを望む。イスラエル人の合唱は天上の栄光をたたえる。
第2幕
マノアはサムソンに、絶望せずに神を信じるように説く。ミカは神がサムソンに目をかけるように祈る。
デリラが現れ、サムソンをだましたことを悔い、自分はサムソンを今も愛しているので夫婦のよりを戻そうと言う。デリラとペリシテ人の女は愛について歌うが、サムソンは聞く耳をもたずデリラを拒絶する(二重唱「Traitor to love」)。
かねてサムソンの怪力について聞いていたペリシテ人のハラファがやってくるが、盲人と戦うのは沽券にかかわるという。サムソンはハラファを臆病者と侮辱する。ハラファがダゴン神を呼んだことから、ミカはダゴンとエホバのどちらが真の神であるかがこれで明らかになるという。エホバに祈るイスラエル人とダゴンに祈るペリシテ人の合唱が続く。
第3幕
ハラファが再びやってきて、サムソンがその怪力をダゴンの祭で示すように依頼する。サムソンは、異教の祭に参加することは許されていないとして断るが、無理矢理にでも連れていくと言われ、サムソンはイスラエルの民に自分はまちがったことはしないと言い、ひとりで祭へ赴く。
ペリシテ人たちはダゴン神が敵のサムソンを引き渡してくれたことを祝う。マノアは何とかサムソンを解放できないかと考えるが、突然激しい音楽が聞こえ(「恐怖と混乱のシンフォニー」と題されている)、ペリシテ人たちが助けを求めて叫ぶ。
使者がミカとマノアに事情を告げる。サムソンはペリシテ人が多数集まった建物をその怪力で引き倒し、自分ごとペリシテ人たちを潰したのだった。ミカはサムソンを哀悼し、人々は遺体を探しだして埋葬する(『サウル』で使われた葬送行進曲がここでも流れる)。
マノアは「サムソンは英雄として生き、英雄として死んだ」と言い、人々に嘆くのをやめさせる。ミカは人々にエホバを称えることを促す。トランペット・ソロつきのイスラエル人の女のアリア(Let the bright seraphim in burning row)と合唱によって幕を閉じる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/サムソン_(ヘンデル)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/829.html
ヘンデル オペラ 『フラーヴィオ』
Georg Friedrich Händel - Flavio HWV 16
FLAVIO, RE DE' LONGOBARDI HWV 16
Dramma per musica in tre atti di Nicola Francesco Haym
FLAVIO: Jeffrey Gall
GUIDO: Derek Lee Ragin
EMILIA: Lena Lootens
TEODATA: Bernarda Fink
VITIGE: Christina Högman
UGONE: Gianpaolo Fagotto
LOTARIO: Ulrich Messthaler
ENSEMBLE 415 - René Jacobs
▲△▽▼
日本ヘンデル協会:ヘンデル《フラーヴィオ》
実演では10年ぶり(!)に接するヘンデルのオペラへ。
やはり、ヘンデルは天才です。改めて、ヘンデルの音楽(オペラ)がどれだけ見事に創り上げられているかということを実感しました。
オーケストラの編成はシンプルですし、歌手も多くはない(当然、合唱隊やバレエも無し。ラモーのあの華やかさとの違い!)。限られたもので最上のオペラを作り上げていく、それはひとえにヘンデルの音楽が雄弁にドラマを創り上げていくからにほかなりません。もちろんカストラートを始めとした歌手の力を忘れてはいけませんが、それもヘンデルの音楽がベースにあってこそ、その魅力を最大限に発揮できたに違いありません。
このオペラは、ヘンデルの中でも好きな作品の一つですので、今回の公演を楽しみにしていました。作品自体も、質の高いものだと思います、上演していただけるだけで、嬉しい限り。
久し振りのヘンデルに、あっという間に心が鷲掴みに。なんといっても実演はダイレクトに音楽に浸ることができます。
ヘンデルの音楽はやはり素晴らしい、ということをずっと感じていました。時代を超えるというのはこういうことだなと。
日本でもカウンターテナーが増えてきて、嬉しいことですね、10年前とは変わりました。一回きりとの公演とは、本当にもったいない限り。
近いうちに、またヘンデル作品の上演に触れたいものです(オペラをまた是非!)
https://marupuri23.exblog.jp/23444365/
ヘンデル《フラーヴィオ》
HWV番号16の作品。1723年5月14日にロンドン、 ヘイマートの国王劇場で初演された。
台本作者はニコラ・ハイム(Nicola Francesco Haym)。 初演の時のメンバーにフラーヴィオがにアルト・カストラート(去勢歌手)の ベーレンシュタッット(Gaetano Berenstadt (alto-castrato)),グイド役 にフランチェスコ・ベルナルディ(通称セネジーノ)(Francesco Bernardi, called "Senesino" (alto-castrato)),エミーリア役に クッツォーニ(Francesca Cuzzoni (soprano))が出てます。又 ヴィティージは歌劇「アグリッピーナ」 にも出ていたソプラノのマルゲリータ・ドュラスタンティ(Margherita Durastanti (soprano))が当たっています。又再演の際も女性が演じて います。粗筋から見ても解る通りヴィティージはズボン役と言う事の様です。
初演の練習の時にテノールのゴードン(Alexander Gordon)と言う歌手が ヘンデルのハープシコード伴奏についていけず,「あんたのハープシコード に飛びのって演奏をやめさせてやる」と脅した所,ヘンデルは「それは 良い。君の歌よりずっと観客に受けるから本番でやってくれ」と軽く いなしたと言う話もあるそうです。これはウゴーネ(唯一の)の 第二幕のアリア"Fato tiranno e crudo"の事です。 歌手の我儘にはヘンデルは随分悩まされたみたいです。
フラーヴィオはタイトル・ロールですが重要な役柄であるかどうかは 疑問です。アリアの数も多くない様ですので,主役かどうかはちょっと 解りません。実際初演はベーレンシュタッットで,この歌手はプリモ・ウォーム を一度も歌わなかった脇役専門の歌手です(しかし有名な人です)。この歌手は ポルポラの歌劇の初演の時に二階の客席から煙草の粉末をばらまいて メチャクチャにしたと言う話があるそうです。非道い事をする物です。
物語の粗筋は以下の通りです。
中世のロンバルディア地方。その地方は当時英国の王でもあった フラーヴィオ王に支配されていた。王はウゴーネとロターリオと 言う二人の相談相手がいた。ウゴーネの息子の若い騎士のグイド はロターリオの娘の高貴な心のエミーリアと結婚するまさにその 日の事。ウゴーネには又愛らしいテオダータと言う娘があった。 彼は娘に独身時代に一人きりでいる辛さから逃れるさせようと宮 廷の女官としての口を得る様に仕向けた。彼は娘には既に秘密に している恋人がいた事を少しも知らなかった。それは王の軍の副 官であるヴィティージと言う者であった。歌劇はその恋人の逢引 の場面から始まる。
第一幕
老いたウゴーネの家の前。夜明け前ヴィティージはテオダータの 室内から抜け出し恋人達は素敵な二重唱を歌う("Ricordati, mio ben")。
ロターリオの火の照らされた部屋。グイドのエミーリアとの結婚 式が近い親戚の者と共に花嫁の父親の家で執り行われている。花 嫁と花婿は無上の喜びを歌い夜明けに王の城で行われる結婚祝賀 会までそれぞれ別の場所に行く事になっていて一時の別れの歌を 歌う。
王の城。ウゴーネが王に娘を会わせ王に仕える女官に彼女がなり たがっていると言う。フラーヴィオ王は彼女の美しさに夢中にな ってしまい、そして直に妻のエルネリンダに仕える様にさせる。
ロターリオは王を祝いの席に案内する。その時にフラーヴィオ王 は英国の長官からナルセストが年の為に自身の役目を譲りたいと 要求していると言う手紙を受け取った。王は最初は後任にロター リオを任命しようとする様に振舞う。ロターリオは自分が任命さ れる物と思い喜ばしく思う。しかし直ぐにフラーヴィオは自分が テオダータに言い寄ろうとする目的の為にウゴーネに任命する事 にしてしまう。ロターリオは自分が無視された事に大変憤慨して 怒りに満ちたアリアを歌う("Se a te vissi fedele...")。
フラーヴィオ王はヴィティージにテオダータの美しさを賛美して ヴィティージにどう思うか尋ねる。彼女との関係を隠しているヴ ィティージは何とも思わないと嘘をつく。フラーヴィオ王はテオ ダータに心を奪われたと話すのでヴィティージは嫉妬に苦しむ。
城の中庭。ウゴーネが彼の息子にむかって怒りの為に頬を紅潮さ せてよろよろと歩いて行く。ロターリオがその妬ましい同僚を侮 辱したのである。騎士の取り決めに従い侮辱に対しては復讐をし なくてはならないが、剣を抜くにはウゴーネは老齢すぎる。それ で息子に代わって決闘をする様に要求して去る。それでグイドは 彼の父に従う事と結婚したばかりのエミーリアに対する愛の間で 悲劇的な心の葛藤に悩まされる("Amor, Emilia onore,")。
エミーリアがやって来るので彼はお別れだと言う。エミーリアは 訳がわからない。何があっても彼に従って行くと言う言葉にグイ ドは彼女を抱きしめて立ち去る。彼女の混乱したアリア"Amante stravante"で第一幕が終わる。
第二幕
フラーヴィオ王がテオダータに言い寄っている。ウゴーネがそこ に急いでやってくる。王はどうしたのかと尋ねるが彼は整然と話 すには余りにも苦痛に満ちた状態にある。王は彼とテオダータを 残してその場を離れる。ウゴーネは家族の名誉が失われたと夢中 で喋る。テオダータは自分の秘密にしていた恋人の事が知られて しまったと思いヴィティージの事を告白する。ウゴーネは「何と 不名誉な中に私は生きているのだ」と言った後で怒りに満ちたア リアを歌う("Fato tiranno e crudo")。
ロターリオの家。エミーリアの父はもはや仇の息子に娘を渡す事 は望まず、ぶっきらぼうに彼女の結婚は無効になったと告げる。 もしグイドがエミーリアの事を望むなら彼には既に何の感情も持 っていないと告げる様に命令して退場する。グイドが現れて、エ ミーリアにロターリオはどこにいるかと尋ねる。グイドは少しの 間別れていた方が良いとエミーリアに告げ、エミーリアも彼を愛 しているがその通りにすると言い退場する。グイドの悲しみのア リア("Rompo i lacci")。
城では恋に狂ったフラーヴィオ王が軍の副官のヴィティージにテ オダータを連れて来る様に命ずる。ヴィティージはテオダータに 彼の不幸な任務の事を告げる。テオダータは彼女の父がヴィティ ージとの秘密の婚約の事を知ってしまった事を告げる。彼らは王 を暫くの間欺く事にする。ヴィティージはテオダータに王を愛し ている様な様子で欺いてくれと言いテオダータもその通りしよう と言う。
ロターリオの家の中庭。グイドがロターリオに決闘を申し込む。 老獪な戦士は若者の向こう見ずをあざ笑うが倒されてしまう。エ ミーリアがロターリオを血の海の中に見つける。彼はグイドが自 分を殺そうとした人物であると告げて死ぬ。絶望の中でエミーリ アは復讐を誓う。
第三幕
城の一室。エミーリアとウゴーネが王に裁きを要求している。エ ミーリアは彼女の父の殺人者に死罪を要求し一方ウゴーネは息子 を弁護している。色々な出来事の為、フラーヴィオ王は暫くの間 熟考したいと言い彼らを退かせる。さてヴィティージがテオダー タを伴って入ってくる。彼女の姿にフラーヴィオ王はしばし言葉 がなくし、その後ヴィティージにフラーヴィオ王は自分の心を伝 える様に言いつける、しかし当然の事ながらそれはヴィティージ にとっては気乗りしない仕事であった。そこでフラーヴィオ王は 直ちに自分から心を伝える事にした。王はテオダータを私の女王 と呼び直ちに寝室に連れていこうとする。一方ヴィティージは嫉 妬に悩まされる事になる。
エミーリアが悲しみに沈んでいる。それは彼女の父の事件の為で あり又彼女から去ったグイドの為でもあった。彼女は再び容赦の ない復讐を誓うのであった。グイドが現れ彼女に剣を渡し自分を 殺しても構わないと言う。エミーリアは剣を受け取るが故意に落 として立ち去る。グイドは愛の神に助けを求めるアリアを歌う( "Amor, nel mio penar")。
ヴィティージとテオダータがお互い嫉妬の為に言い争いをしてい る。その間にフラーヴィオ王が部屋に入って来て全てその様子を 見てしまう。ヴィティージとテオダータはお互いが愛し合ってい た事を告げる。フラーヴィオ王は失望する。
グイドが入ってくる。彼はエミーリアが自分を自分が行為のため に未だ憎んでいるなら死を賜りたいと願う。ウゴーネはそれは自 分のせいであると言う。フラーヴィオ王はエミーリアを呼びグイ ドに隠れている様に命ずる。フラーヴィオ王はエミーリアの要求 通りににグイドが処刑されたと告げる今ここで彼の首を見る事が 出来ると告げる。しかしエミーリアは跪きグイド無しの人生は無 意味であると言い自分も死なせて欲しいと言う。フラーヴィオ王 はグイドに出てくる様に合図する。エミーリアは喜びの余り気絶 しそうになる。ヴィティージとエミーリアはお互いを許すと二重 唱を歌う。
フラーヴィオ王はヴィティージに刑罰を下すと言い、それはヴィ ティージ自身の心を射た女性と結婚しなければいけないと言う事 であった。全員の喜びの合唱で幕。
https://www-math.ias.tokushima-u.ac.jp/~ohbuchi/taste/handel/flavio.html
ヘンデル 音楽劇 『セメレ』
Handel Semele - Cecilia Bartoli
______
Handel / Semele, HWV 58 (Curnyn)
Semele (musical theatrical entertainment in three acts), HWV 58 (1743)
Libretto: William Congreve
Semele (soprano) - Rosemary Joshua
Iris (soprano) - Gail Pearson
Ino/Juno (contralto) - Hilary Summers
Athamus (countertenor) - Stephen Wallace
Jupiter/Apollo (tenor) - Richard Croft
Cadmus/Somnus (bass) - Brindley Sherratt
Early Opera Company, dir. Christian Curnyn (2007)
▲△▽▼
『セメレ』(Semele)HWV 58は、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1743年に作曲した音楽劇。
演技や舞台美術を伴わないオラトリオ形式で初演されたが、それまでのヘンデルのオラトリオのように聖書から題材を取っているわけではなく、オウィディウス『変身物語』のセメレーの話をもとにした世俗的作品である。現代ではオペラ形式で上演されることも多い。
台本はもともとウィリアム・コングリーヴ(英語版)が1706年ごろ英語のオペラ用に書いたもので、ジョン・エックルズ(英語版)によって作曲されたが、上演はされなかった[1][2]。ヘンデルは、おそらくニューバラ・ハミルトン(en)の協力を得て、オラトリオ形式で上演するためにレチタティーヴォを減らし、合唱を加えるために加筆するなど台本に大幅に手を入れた[3]。
1743年5月はじめにヘンデルは病気で作曲ができない状態にあったが、回復後の6月3日から7月4日までかけて作曲した[4][5]。作曲中にデッティンゲンの戦いでジョージ2世が勝利し、ヘンデルはその後『デッティンゲン・テ・デウム』と『デッティンゲン・アンセム』を作曲・上演している。
『セメレ』は翌1744年2月10日にコヴェント・ガーデンで初演された。1744年のシーズン中に4回上演されたが、前年の『サムソン』の人気にはまったく及ばなかった[6]。次のシーズンにはかなりの修正を加えた上で別の歌手によって2回再演された[7][8]。その後ヘンデルの生前に再演されることはなかったが、いくつかのアリアは評判が高く、独立して演奏された[9]。
アリアは各登場人物の性格を反映し、劇的効果が大きい。
『セメレ』は長い間忘れられた作品だったが、1878年にケンブリッジ大学音楽協会が復活上演した[10]。1925年にやはりケンブリッジで、オペラ形式で復活上演された[11]。
登場人物
初演ではエリザベト・デュパルク(en)が主役のセメレを、ジョン・ビアード(英語版)がユピテルとアポロを、エスター・ヤング(en)がユノとイノを、アヴォーリオ(en)がイリスを、カウンターテナー歌手のダニエル・サリヴァンがアタマスを、ラインホルド(en)がカドモス・神官・ソムヌスを歌った[12]。
カドモス:バス - テーバイ王。
セメレ:ソプラノ - カドモスの娘。
イノ:メゾソプラノ - セメレの姉妹。
アタマス:アルト - ボイオティアの王子。セメレの婚約者。
神官:アルト
ユピテル:テノール - 主神。
ユノ:メゾソプラノ - 結婚の女神。ユピテルの妻。
アポロ:テノール
イリス:ソプラノ - 虹の女神。
ソムヌス:バス - 眠りの神。
なお、元のコングリーヴの台本には愛の神(ソプラノ)が登場するが、ヘンデル版では割愛されている[13]。
あらすじ
第1幕
フランス風序曲とガヴォットの後、女神ユノの神殿で人々はセメレとアタマスの結婚の祭儀をとり行う。父カドモスやアタマスはセメレに結婚を促すが、セメレはユピテル神を愛しているためにためらう。一方、セメレの姉妹のイノはアタマスをひそかに愛していたため、アタマスの結婚に感情を爆発させる。カドモス、アタマス、セメレは困惑し、イノを加えて四重唱「Why dost thou thus untimely grieve」を歌う。
激しい雷鳴とともにユピテル神が地上に降りてきたために神官たちはあわてふためき(Avert these omens)、祭儀は中止になる。消沈するアタマスにイリスは愛を語る。
カドモスはセメレが鷲にさらわれたとアタマスに告げる。神官と占い師は鷲がユピテル神であることを告げ、カドモスを祝福する。セメレと[14]合唱による喜びの歌(Endless pleasure)で終わる。
第2幕
イリスはユノに、ユピテルがキタイロン山中にセメレのための家を作ったことを教える。ユノは大いに怒ってセメレを滅ぼすことを誓う。
セメレは夢からさめて寂しさを歌う(O sleep)。人間の姿で現れたユピテルに対し、セメレは死すべき人間が不死の神を愛することの悩みを告げる。ユピテルはセメレをなだめるためにイノを連れてくる。イノとセメレの二重唱および天上の合唱で幕を閉じる。
第3幕
チェロとファゴットによる前奏につづき、ユノとイリスは眠りの神ソムヌスのもとにやってくる。眠りたがるソムヌスに対し、ユノはパシテアをだしにして言うことをきかせ、ユピテルに情欲的な夢を見せ、またセメレの家を守る猛獣たちを眠らせる。
セメレは夢によっても癒されない悩みを歌う(My racking thoughts)。そこにイノに化けたユノが現れ、女神の姿をしたセメレを鏡に映してみせ、セメレを高慢にさせる(Myself I shall adore)。ユノはセメレに、ユピテルの本来の姿を見れば永遠の命が得られると教える。
夢に悩まされたユピテルがセメレを求めてやってくるが、セメレは拒絶する。ユピテルはセメレの頼みを何でもきくとステュクスの水とオリンポス山に誓う。セメレはユピテルに人間の姿から本来の姿に戻ってみせるように要求する。しかし本来の姿を現すと炎によってセメレが焼き殺されてしまうことを知るユピテルは嘆く。復讐がなったことに喜ぶユノのアリアが続く。セメレは後悔しつつ焼け死ぬ。
イノは地上に戻ってセメレの運命を伝え、アタマスと結婚する。アポロが出現し、セメレの灰の中からフェニックスのように神が現れて、すべての悲しみを止めるであろうと言う。神官たちの合唱がバッカス神の誕生をたたえて劇が終わる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/セメレ_(ヘンデル)
79. 中川隆[-14236] koaQ7Jey 2020年1月22日 12:43:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1098]
ヘンデル 音楽劇 『セメレ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/831.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c79
2020年1月22日
「フランチャイズ」という搾取システム〜大企業が仕掛ける「詐欺」に騙されるな!〜
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/15251
こんにちは、表現者クライテリオン編集長、京都大学の藤井聡です。
別のところで配信した記事でも詳しく解説差し上げましたが、先日、映画「家族を想うとき」を観て参りました。
「映画評論『家族を想う時』 〜政府与党の政治家達が理解できない、『山本太郎人気』の背景にあるもの〜」
https://foomii.com/00178/2020011712374762765
この映画は、イギリスの普通の労働者が、「マイホーム」を実現するために、「独立」をして個人事業主となり、宅配企業と「フランチャイズ」契約を結ぶものの・・・尋常ではない超長時間労働を強いられると共に、様々なトラブルによる「罰金」のせいで、働けば働くほど「稼ぐ」どころか「借金」がかさんで行くという悪夢のような泥沼にはまりこんでいく・・・という様を描いています。
(詳しくは、当方の映画評をご参照ください。本当に衝撃的な映画でした。
https://foomii.com/00178/2020011712374762765)
この映画を観てから、改めて、「フランチャイズ契約」について、これまで見聞きしてきたお話を思い起こしながら、あれこれ調べてみたのですが・・・
当初、当方は誠に恥ずかしながら「フランチャイズ契約」というものがそこまで危険なものとは思っていなかったのですが、よくよく調べてみると、とんでもない危険性と、それを取り結ぼうとする大企業側のおぞましくも浅ましい魂胆が明確に潜んでいる実態がありありと見えて参りました。
もちろん、分野によっても様々な違いもあるでしょうし、デフレが深刻化していくにしたがって、その内容もどんどん悪質化して来ているのだと思いますが、「家族を想うとき」に描かれていた様な阿漕(あこぎ)なフランチャイズ契約は、決して遠い異国のものなのではなく、まさに今、我が国日本で、激しく横行している、という様子が改めて浮彫となりました。
特に昨今話題になっているのが、コンビニ業界のフランチャイズ契約の問題。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/seven-eleven-mitoshi-matsumoto_jp_5d26d24ae4b07e698c4578eb
この問題は、要するに、以下のような話です。
「・24時間営業のコンビニの中には、深夜営業は売り上げが少なく、人件費がかさむだけで、コンビニ店の個人事業主(店長)さんは「赤字」になってしまう(ならびに、バイトがいなければ自分が店で超長時間働き続けなければならなくなっていまう)ところが多い。
・だから、(そういう)個人事業主は、深夜は店を閉めたいと考えている。
・しかし、「コンビニ本社は、モノが一つでも売れれば利益が出る」という契約内容になっているので、本社は、深夜営業の停止を認めない(というか、そもそも、24時間営業をするという契約になっている)。
・だから、個人事業主さんは、仕方なく赤字覚悟、超長時間労働覚悟で、深夜もお店を開け続ける。」
もちろん、夜中も大量にお客さんが来てくれるところは、こうした問題は比較的軽微で済むわけですが、多かれ少なかれ、24時間営業のコンビニ店はこうした問題を抱えているようです。
ちなみに、「コンビニ本社は、モノが一つでも売れれば利益が出る」となっているのは、その契約内容が次のようなものになっているからです。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/062800034/
1)個人営業主は、売り上げから原価を差し引いた金額(つまり、粗利益)を計算し、そのおおよそ半分(4〜7割程度)を、本社に支払う、
2)そして、個人事業主は、残った金額(粗利益の3割〜6割)から、人件費を払う、
つまり、(多くの契約ケースにおいて)本社は、人件費を一切負担しない契約内容になっているわけです! そして、夜中に100円の利益がでるジュースが一本売れるだけで、本社は、40円〜70円の利益を得ることになるのです!
要するに有り体に言えば、コンビニ本社のビジネスというのは、単なる「ピンハネ」商売なわけです。だから、本社は兎に角24時間働かせ続けたいわけです。
何とも理不尽な話ですが、コンビニ本社の強みは、(ほとんど誰も読み切れない程の大量の事項が)全て書かれてある契約書に個人営業主がサインをした、という点。コンビニ本社にしてみれば、
「契約書に、そう書いてあるじゃないか。お前が勝手にサインしたんだろ!? 今更文句を言うな!」
という次第。そして、コンビニ本社は何もかも分かった上で、
「だいたい俺のブランド名使って、金儲けさせてやってるんだし、超高度な物流システムやら料金システム使わせてやってるんだから、文句言うなんざぁ、100年早いわ!! 文句があるんだったら、別に辞めてもらってもいいんだよ。お前の代わりなんて掃いて捨てるほどいるんだから。」
という高圧的な態度に出るわけです。で、多くの個人事業主さん達は、こう言われてしまえば、結局は何も文句が言えなくなり、泣き寝入りする・・・というのが、哀しい現実なのです(そして、その理不尽さを克明を描いたのが、映画「家族を想うとき」なわけです)。
要するに、フランチャイズ本社からしてみれば、個人事業主をたくさん集めて、彼等を締め上げて、働かせて、売り上げを1円でも多くあげさせればそれだけで、何のリスクもなく金儲けができる、という次第。
・・・
ただし、資本家が労働者からこうやって「搾取」するというのは今に始まった話しじゃなくて、18世紀に産業革命と共に「資本主義」(キャピタリズム)始まったころから、繰り返されてきた事でもあります。
つまり、資本主義というものは、よくよく注意しておかないと、労働者から理不尽に搾取する資本家(キャピタリスト)が出てくるものなのです。
人類は、資本主義が生まれてから200年以上の時間をかけて様々に「労働法制」を築き上げ、「経営者・資本家が、労働者をあまりに理不尽に酷使・搾取できないような仕組み」を作り上げてきました。
しかし、今、抜け目のない大企業達・資本家達は、その労働法制の「抜け穴」をかいくぐって、合法的に労働者を理不尽に酷使・搾取できる仕組みを作り上げたのです。
それこそ、「フランチャイズ」、という新しい仕組みです。
「がんばりゃぁ、すごい儲かるぞぉ・・・」
「マイホームも夢じゃないぞぉ・・・」
「もう嫌な上司にこき使われず、店を持って、一国一城の主になれるんだぞぉ・・・」
なんていう甘い言葉で誘い出し、フランチャイズ契約のリスクをきちんと説明しないままに契約書にサインさせる―――しかしサインしたら最後、全てのリスク(そして、全ての人件費!)を個人事業主に負わせて、後は、事業主を脅して締め上げて24時間働かせ、搾取し、ノーリスクで金儲けをしよう・・・と企んでいるわけです。
それはもはや、「詐欺」といって、何ら言い過ぎではありません。
※ 詐欺=他人をだまして錯誤におとしいれ、・・・瑕疵(かし)ある意思表示(この場合はフランチャイズ契約)をさせたりする行為。
つまり、フランチャイズ本社にとっての顧客とは、実は、お店に来るお客様方だけじゃないです。個人営業主こそがフランチャイズ本社にとっても最大の「客」というか「搾取対象」なのです。
そして恐るべきことに、こうしたフランチャイズビジネスは、宅配ビジネスやコンビニだけではなく、
「ラーメン店、ファーストフード、居酒屋、串焼き屋、カフェ、パン屋、イタリアン、パソコン教室、学習塾、個別指導塾、保育園、幼児教育、子ども向け英語教育、デイサービス介護、マッサージ、掃除、ビル清掃、靴修理、鞄修理、美容室、金券ショップ、放置自転車回収、貴金属買取、接骨院」
http://www.jicl.jp/old/hitokoto/backnumber/20170306.html
等、あらゆる業種に浸透しています。
もちろん、あらゆるフランチャイズ本社が、阿漕な搾取を続けているとは言いませんし、誰もが「ウィンウィン」の状態になっているフランチャイズもあるとは思いますが、多かれ少なかれ、フランチャイズ契約にはそうしたリスクがあり、かつ、現実に阿漕な搾取を続ける悪質業者がたくさんいるというのは、否定し難い事実なのです。
ついては、読者の皆様におかれては、フランチャイズ契約にリスクがあることをしっかりとご認識いただき、決して「だまされ」ないように、そして契約するとするなら覚悟を持って契約されるよう、お気をつけいただきたいと思います。
そして、これまで資本主義国家が延々と続けてきた「労働搾取」との戦いの最前線は、今、単なる会社内の労使関係のみならず、フランチャイズの本社・事業主関係に至っているのだという事実をご認識頂きたいと思います。
適正な労働法制・フランチャイズ規制法制が一日も早く出来上がらん事を、心から祈念したいと思います。
追伸:この問題をしっかりご理解頂くためにも是非、こちらご一読ください。
https://foomii.com/00178/2020011712374762765
「映画評論『家族を想う時』 〜政府与党の政治家達が理解できない、『山本太郎人気』の背景にあるもの〜
51. 中川隆[-14235] koaQ7Jey 2020年1月22日 15:59:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1096]
「フランチャイズ」という搾取システム〜大企業が仕掛ける「詐欺」に騙されるな!〜
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1035.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 22 日 15:52:27: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
(回答先: 起業するより多国籍企業に投資する(現物株を買う)方がギャンブル度は遥かに低い 投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 25 日 18:23:53)
2020年1月22日
「フランチャイズ」という搾取システム〜大企業が仕掛ける「詐欺」に騙されるな!〜
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/15251
こんにちは、表現者クライテリオン編集長、京都大学の藤井聡です。
別のところで配信した記事でも詳しく解説差し上げましたが、先日、映画「家族を想うとき」を観て参りました。
「映画評論『家族を想う時』 〜政府与党の政治家達が理解できない、『山本太郎人気』の背景にあるもの〜」
https://foomii.com/00178/2020011712374762765
この映画は、イギリスの普通の労働者が、「マイホーム」を実現するために、「独立」をして個人事業主となり、宅配企業と「フランチャイズ」契約を結ぶものの・・・尋常ではない超長時間労働を強いられると共に、様々なトラブルによる「罰金」のせいで、働けば働くほど「稼ぐ」どころか「借金」がかさんで行くという悪夢のような泥沼にはまりこんでいく・・・という様を描いています。
(詳しくは、当方の映画評をご参照ください。本当に衝撃的な映画でした。
https://foomii.com/00178/2020011712374762765)
この映画を観てから、改めて、「フランチャイズ契約」について、これまで見聞きしてきたお話を思い起こしながら、あれこれ調べてみたのですが・・・
当初、当方は誠に恥ずかしながら「フランチャイズ契約」というものがそこまで危険なものとは思っていなかったのですが、よくよく調べてみると、とんでもない危険性と、それを取り結ぼうとする大企業側のおぞましくも浅ましい魂胆が明確に潜んでいる実態がありありと見えて参りました。
もちろん、分野によっても様々な違いもあるでしょうし、デフレが深刻化していくにしたがって、その内容もどんどん悪質化して来ているのだと思いますが、「家族を想うとき」に描かれていた様な阿漕(あこぎ)なフランチャイズ契約は、決して遠い異国のものなのではなく、まさに今、我が国日本で、激しく横行している、という様子が改めて浮彫となりました。
特に昨今話題になっているのが、コンビニ業界のフランチャイズ契約の問題。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/seven-eleven-mitoshi-matsumoto_jp_5d26d24ae4b07e698c4578eb
この問題は、要するに、以下のような話です。
「・24時間営業のコンビニの中には、深夜営業は売り上げが少なく、人件費がかさむだけで、コンビニ店の個人事業主(店長)さんは「赤字」になってしまう(ならびに、バイトがいなければ自分が店で超長時間働き続けなければならなくなっていまう)ところが多い。
・だから、(そういう)個人事業主は、深夜は店を閉めたいと考えている。
・しかし、「コンビニ本社は、モノが一つでも売れれば利益が出る」という契約内容になっているので、本社は、深夜営業の停止を認めない(というか、そもそも、24時間営業をするという契約になっている)。
・だから、個人事業主さんは、仕方なく赤字覚悟、超長時間労働覚悟で、深夜もお店を開け続ける。」
もちろん、夜中も大量にお客さんが来てくれるところは、こうした問題は比較的軽微で済むわけですが、多かれ少なかれ、24時間営業のコンビニ店はこうした問題を抱えているようです。
ちなみに、「コンビニ本社は、モノが一つでも売れれば利益が出る」となっているのは、その契約内容が次のようなものになっているからです。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/062800034/
1)個人営業主は、売り上げから原価を差し引いた金額(つまり、粗利益)を計算し、そのおおよそ半分(4〜7割程度)を、本社に支払う、
2)そして、個人事業主は、残った金額(粗利益の3割〜6割)から、人件費を払う、
つまり、(多くの契約ケースにおいて)本社は、人件費を一切負担しない契約内容になっているわけです! そして、夜中に100円の利益がでるジュースが一本売れるだけで、本社は、40円〜70円の利益を得ることになるのです!
要するに有り体に言えば、コンビニ本社のビジネスというのは、単なる「ピンハネ」商売なわけです。だから、本社は兎に角24時間働かせ続けたいわけです。
何とも理不尽な話ですが、コンビニ本社の強みは、(ほとんど誰も読み切れない程の大量の事項が)全て書かれてある契約書に個人営業主がサインをした、という点。コンビニ本社にしてみれば、
「契約書に、そう書いてあるじゃないか。お前が勝手にサインしたんだろ!? 今更文句を言うな!」
という次第。そして、コンビニ本社は何もかも分かった上で、
「だいたい俺のブランド名使って、金儲けさせてやってるんだし、超高度な物流システムやら料金システム使わせてやってるんだから、文句言うなんざぁ、100年早いわ!! 文句があるんだったら、別に辞めてもらってもいいんだよ。お前の代わりなんて掃いて捨てるほどいるんだから。」
という高圧的な態度に出るわけです。で、多くの個人事業主さん達は、こう言われてしまえば、結局は何も文句が言えなくなり、泣き寝入りする・・・というのが、哀しい現実なのです(そして、その理不尽さを克明を描いたのが、映画「家族を想うとき」なわけです)。
要するに、フランチャイズ本社からしてみれば、個人事業主をたくさん集めて、彼等を締め上げて、働かせて、売り上げを1円でも多くあげさせればそれだけで、何のリスクもなく金儲けができる、という次第。
・・・
ただし、資本家が労働者からこうやって「搾取」するというのは今に始まった話しじゃなくて、18世紀に産業革命と共に「資本主義」(キャピタリズム)始まったころから、繰り返されてきた事でもあります。
つまり、資本主義というものは、よくよく注意しておかないと、労働者から理不尽に搾取する資本家(キャピタリスト)が出てくるものなのです。
人類は、資本主義が生まれてから200年以上の時間をかけて様々に「労働法制」を築き上げ、「経営者・資本家が、労働者をあまりに理不尽に酷使・搾取できないような仕組み」を作り上げてきました。
しかし、今、抜け目のない大企業達・資本家達は、その労働法制の「抜け穴」をかいくぐって、合法的に労働者を理不尽に酷使・搾取できる仕組みを作り上げたのです。
それこそ、「フランチャイズ」、という新しい仕組みです。
「がんばりゃぁ、すごい儲かるぞぉ・・・」
「マイホームも夢じゃないぞぉ・・・」
「もう嫌な上司にこき使われず、店を持って、一国一城の主になれるんだぞぉ・・・」
なんていう甘い言葉で誘い出し、フランチャイズ契約のリスクをきちんと説明しないままに契約書にサインさせる―――しかしサインしたら最後、全てのリスク(そして、全ての人件費!)を個人事業主に負わせて、後は、事業主を脅して締め上げて24時間働かせ、搾取し、ノーリスクで金儲けをしよう・・・と企んでいるわけです。
それはもはや、「詐欺」といって、何ら言い過ぎではありません。
※ 詐欺=他人をだまして錯誤におとしいれ、・・・瑕疵(かし)ある意思表示(この場合はフランチャイズ契約)をさせたりする行為。
つまり、フランチャイズ本社にとっての顧客とは、実は、お店に来るお客様方だけじゃないです。個人営業主こそがフランチャイズ本社にとっても最大の「客」というか「搾取対象」なのです。
そして恐るべきことに、こうしたフランチャイズビジネスは、宅配ビジネスやコンビニだけではなく、
「ラーメン店、ファーストフード、居酒屋、串焼き屋、カフェ、パン屋、イタリアン、パソコン教室、学習塾、個別指導塾、保育園、幼児教育、子ども向け英語教育、デイサービス介護、マッサージ、掃除、ビル清掃、靴修理、鞄修理、美容室、金券ショップ、放置自転車回収、貴金属買取、接骨院」
http://www.jicl.jp/old/hitokoto/backnumber/20170306.html
等、あらゆる業種に浸透しています。
もちろん、あらゆるフランチャイズ本社が、阿漕な搾取を続けているとは言いませんし、誰もが「ウィンウィン」の状態になっているフランチャイズもあるとは思いますが、多かれ少なかれ、フランチャイズ契約にはそうしたリスクがあり、かつ、現実に阿漕な搾取を続ける悪質業者がたくさんいるというのは、否定し難い事実なのです。
ついては、読者の皆様におかれては、フランチャイズ契約にリスクがあることをしっかりとご認識いただき、決して「だまされ」ないように、そして契約するとするなら覚悟を持って契約されるよう、お気をつけいただきたいと思います。
そして、これまで資本主義国家が延々と続けてきた「労働搾取」との戦いの最前線は、今、単なる会社内の労使関係のみならず、フランチャイズの本社・事業主関係に至っているのだという事実をご認識頂きたいと思います。
適正な労働法制・フランチャイズ規制法制が一日も早く出来上がらん事を、心から祈念したいと思います。
追伸:この問題をしっかりご理解頂くためにも是非、こちらご一読ください。
https://foomii.com/00178/2020011712374762765
「映画評論『家族を想う時』 〜政府与党の政治家達が理解できない、『山本太郎人気』の背景にあるもの〜
https://38news.jp/economy/15251
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c51
54. 中川隆[-14234] koaQ7Jey 2020年1月22日 16:31:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1095]
グーセンス レナー四重奏団
Mozart;Oboe Quartet K.370 _ Leon Goossens & Lener String Quartet (1933)
Leon Goossens (British oboist 1897-1988)
Recording / 1933
78rpm / Jpn Columbia : J-8209
electric reproduct
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c54
55. 中川隆[-14233] koaQ7Jey 2020年1月22日 16:38:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1094]
ドレーパー レナー四重奏団
Lener Quartet & Charles Draper(Cl.) - Mozart : Clarinet Quintet K.581 (1928) 再復刻
Mozart:Clarinet Quintet in A (K.581)Lener Quartet & Charles Draper-8 sides-78's
Charles Draper (1869-1952), British famous clarinetist.
Recorded 2 Nov. 1928
transferred from Jpn Columbia 78s /J-7451-2 (AX-4228/4231)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c55
累進課税の緩和が世界大恐慌の原因だった
米国は1910年代後半から、50−75%の高累進所得税制で空前の好景気に沸いたが、1925年に最高所得税率を史上最低の25%へ所得規制緩和し、承継したフーバー大統領誕生の1929年アメリカで株価大暴落が発生し世界大恐慌へ突入した。
◆資本主義で失業率改善と税収増と株高を同時達成する 吉越勝之
http://www.geocities.jp/mirai200107/p0.htm
「別表日米90年間の年度別最高税率と経済」を調べてみると、米国は1910年代
後半から、50−75%の高累進所得税制で空前の好景気に沸いたが、1925年に
最高所得税率を史上最低の25%へ所得規制緩和し、承継したフーバー大統領誕生の
1929年アメリカで株価大暴落が発生し世界大恐慌へ突入したのです。
___
人口100人の青い目の人達の村_新自由主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
新自由主義村では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 新自由主義村より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
56. 中川隆[-14232] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1093]
ゲザ・アンダ
Mozart / Piano Concerto No. 15 in B-flat major, K. 450 (Anda)
Piano Concerto No. 15 in B-flat major, K. 450 (1784)
00:00 - Allegro (Cadenza: Mozart)
10:14 - (Andante) (Cadenza: Mozart)
15:48 - Allegro
Géza Anda (Piano & Conductor) and Camerata Academica des Salzburgers Mozarteums perform.
_____
Géza Anda plays Mozart - Piano Concerto No 16 in D major, K 451
Piano Concerto No. 16 in D major, K451
I. Allegro assai
II. Andante
III. Allegro di molto
English Chamber Orchestra
cond. Géza Anda
broadcast recording
Recorded: BBC Studios, 28 November 1968
______
Piano Concerto No 17 in G major, K 453
1 Allegro
2 Andante
3 Allegretto - Presto
Géza Anda, piano/conductor
English Chamber Orchestra
Recorded live, April 1975
______
Mozart / Piano Concerto No. 18 in B-flat major, K. 456 (Anda)
Piano Concerto No. 18 in B-flat major, K. 456 (1784)
00:00 - Allegro vivace (Cadenza: Mozart/Anda)
12:13 - Andante un poco sostenuto
22:26 - Allegro vivace (Cadenza: Mozart)
Performed by Géza Anda (Pianist & Conductor) and the Camerata Academica des Salzburgers Mozarteums (1965).
______
Mozart / Piano Concerto No. 19 in F major, K. 459 (Anda)
Piano Concerto No. 19 in F major, K. 459 (1784)
00:00 - Allegro vivace (Cadenza: Mozart)
12:10 - Allegretto
20:22 - Allegro assai (Cadenza: Mozart)
Performed by Géza Anda (Pianist & Conductor) and the Camerata Academica des Salzburgers Mozarteums (1967).
______
Mozart, Piano Concerto No 21, Geza Anda, Piano
____
Mozart / Piano Concerto No. 22 in E-flat major, K. 482 (Anda)
Piano Concerto No. 22 in E-flat major, K. 482 (1785)
00:00 - Allegro (Cadenza: Anda)
12:59 - Andante
22:39 - Allegro (Cadenza: Anda)
Performed by Géza Anda (Pianist & Conductor) and the Camerata Academica des Salzburgers Mozarteums (1962).
Géza Anda plays Mozart - Piano Concerto No 17 in G major, K 453
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c56
57. 中川隆[-14231] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:27:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1092]
ゲザ・アンダ
Mozart: Piano Concerto No.20 In D Minor, K.466 - Cadenza: Géza Anda
Géza Anda · Camerata Academica des Mozarteums Salzburg
℗ 1965 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c57
58. 中川隆[-14230] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:29:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1091]
ゲザ・アンダ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c58
59. 中川隆[-14229] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:33:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1090]
ゲザ・アンダ
Mozart: Piano Concerto No.23 in A, K.488 Cadenza: Mozart
Géza Anda · Camerata Academica des Mozarteums Salzburg
℗ 1964 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c59
60. 中川隆[-14228] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:39:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1089]
Mozart: Piano Concerto No. 24, Anda (1966)
モーツァルト ピアノ協奏曲第24番 アンダ
Piano Concerto No. 24 in C minor, K. 491
(00:05) 1. Allegro
(12:48) 2. Larghetto
(19:50) 3. Allegretto
Anda Géza (1921-1976), Piano & Conductor
Camerata Salzburg
Rec. April 1966, Das Kleine Festspielhaus, Salzburg
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c60
61. 中川隆[-14227] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:43:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1088]
ゲザ・アンダ
Mozart: Piano Concerto No.27 in B flat, K.595 - Cadenza: Mozart
Géza Anda · Camerata Academica des Mozarteums Salzburg
℗ 1970 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c61
62. 中川隆[-14226] koaQ7Jey 2020年1月22日 17:59:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1087]
>>60 に追加
Mozart: Piano Concerto No.24 in C minor, K.491 - Cadenza: Géza Anda
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c62
63. 中川隆[-14225] koaQ7Jey 2020年1月22日 18:07:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1086]
ゲザ・アンダ
Mozart: Piano Concerto No.9 in E flat, K.271 - "Jeunehomme"
Géza Anda · Camerata Academica des Mozarteums Salzburg
℗ 1970 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html#c63
12. 中川隆[-14224] koaQ7Jey 2020年1月22日 18:49:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1085]
本当に食べるもののなかった時代 2020年01月21日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1005.html
壱番屋カレーチェーンの創業者、宗次徳治さんが、孤児院で育ち、里親に引き取られても地獄のような生活で、学校に弁当を持ってゆけず、昼休みになると学校の裏で一人で過ごしていたというエピソードは、聞く方も辛い。
https://oitachi-ima.com/jjitugyouka-oitachi/3638/
宗次さんは、1948年生まれだから、今は72歳だ。今の70歳代は、「団塊の世代」と呼ばれ、もの凄くたくさんの子供がいた時代である。
一学級に60人もの子供がひしめいていた。机も椅子も足らなかった。私の時代さえ、50人近くいた。
当然、競争も激しかったが、みんな貧しかった。
実は、当時、学校に弁当を持って行けない児童は、たくさんいた。
まだ食糧事情も悪い時代だから、弁当を持っていける子だって、決して贅沢ではなかった。田舎では、ジャガイモやサツマイモをふかしたものが弁当箱に入っている程度、児童はみんなお腹を空かしていた。
給食制度ができたのは、弁当を持参できない子供が、あまりにも多かったからだ。
私も経験した、1950〜60年代の給食といえば、コッペパンと脱脂粉乳、今なら口に入らないほどお粗末な食事だったが、当時は、それでも美味しかった。お腹が満たされるだけマシだったのだ。
やがて、おかずがつくようになり、近所にオリエンタルの工場があったので、鯨肉の入ったカレー味のモヤシ野菜炒めが一番多かった。
ちなみに、私は1960年代はじめ頃まで、肉と言えば鯨肉と豚小間肉しか知らなかった。
肉屋に買い物に行っても、買ってくるのはコロッケだった。当時、「貧乏人の味方、焼酎、たばこはシンセイ」という歌があったが、まさに貧乏人の味方コロッケだった。
日本の米作の増産が軌道に乗ったのは、1960年代半ば以降で、東京オリンピックのころまで、寒冷地では米が取れない地域が多かった。
私の住む中津川では、栗と五平餅が名産なのだが、米で作る五平餅は、今から半世紀以上も前、最高の贅沢だった。当時、米は今のように大量に生産できなかったからだ。
私は、昔、民俗学を学んでいたので、地方の生活に関心を持って、日本人が豊かになる前の時代を調べて歩いたことがある。
内陸部の寒冷地では、豊かな米作が可能な場所の方が少なくて、そんな地域では、ほとんど寒冷地でも採れる蕎麦かジャガイモが主食になっていた。暖地では稗が主食だった。
だから、蕎麦が名産になっている地域は、1960年代まで米が多く採れなかった地域で、蕎麦や芋類が大切な主食だった。
また内陸部では、沿岸部のような豊富な海産物蛋白質を得られなかったので、動物性蛋白質といえば、まずは川魚、次に蚕や地蜂や蝗など昆虫類を良く食べた。
信州では、飢饉になると虫を食べ、山芋を掘った。
当時は、イノシシや熊などは大ご馳走として片っ端から捕獲して食べられたので、今よりはるかに少なかった。
戦後、大量の引き揚げ者が還ってきたものの、もう、みんなを食べさせる土地がなくて、やむをえず、「開拓」が広く行われた。
まだ「未開の地」として、十分な余裕があったのは、第一に北海道や青森だが、苛酷な気象だった。
それでも、意を決して北海道に渡った人々は、斧と鍬を抱えて原生林を開墾し、最初に馬鈴薯をたくさん作った。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2019/03/06/121469
家族が1年を過ごせるほどの馬鈴薯の収穫に成功すれば、それを食べながら、どんどん農地を増やしてゆける。やがて、蕎麦やトウモロコシや豆類も作れるようになる。
だから馬鈴薯は、開拓の希望そのものだった。最初は、決して美味でなく、腹が満ちればよかった程度だが、男爵イモの普及から、品種改良が進み、大切な食料になっていった。
信州や岩手の開拓地も、気候的には北海道なみの苛酷さがあって、やはり米が採れず、蕎麦や馬鈴薯が主食になった。南方の開拓地では、サツマイモが主力だった。
そもそも、薩摩軍が日本最強といわれた理由は、よく育つ甘藷のおかげで食料の心配が少なかったせいである。
さて、ここから主題だが、もしも今年、巨大震災が発生して、極端な食料不足に陥った場合、都会や近郊農地は修羅場になってしまう可能性があるので、結局、「ぽつんと一軒家」で紹介されているような、過疎の山村に退避して、食料を自給することになる。
都会では、子供たちにプログラミングを学ばせることが流行っているようだが、残念ながらコンピュータは食料を生産してくれない。腹を満たしてくれることもない。
そこで、人間の歴史的な知恵を総動員して、過疎の田舎に移住して、食料を生み出す段取りを考えなければならない。
日本経済が崩壊して輸入が途絶えれば、日本社会は、たちまち食糧危機に陥る。都会に住んでいては、他人の食料を盗むことくらいしか手がないのだ。
私は、極端な食糧不足のなかで何が起きるのか、考えてきた。
大都会では、近郊の農家に人々が押し寄せ、食料をねだるのは、敗戦後の混乱期と同じだ。しかし、今では、秩序の崩壊から、食料泥棒が横行するにちがいない。
だから、移住するなら、泥棒がやってこれないほどの深い山村がいいと書いてきた。食料とともに石油も輸入できなくなるので、たぶん車も使えなくなるだろう。
そこで、私は「ポツンと一軒家」のある過疎の限界集落に注目している。
千年も続いた過疎集落なら、過去千年間、集落を破壊するような災害がなかったことを意味するし、山村ならば良質な飲料水が容易に手に入る。
また、放棄された畑地は、簡単な手入れで立派な田畑を作ることができる。廃屋も手入れすれば、寝泊まりには不自由しないだろう。
まずは、最初の一年、北海道開拓史に学んで、馬鈴薯を大量に生産する。一人あたり200Kgも収穫できれば、一年間飢えずに過ごせる。
馬鈴薯の収量は、病気や事故がなければ、一反(300坪)あたり1〜2トンは採れる。つまり5人の1年分の食料だ。
だから、仮に、10人の互助会(共同体)を結成して、過疎の田舎にダーチャを確保し、1年分の食料を生産するためには、最低2反(600坪)の畑地があればいいことになる。
今は、山村で放棄された畑地が無数にあるので、その程度の畑地を確保するのは、決して難しいことではない。
あとは、燃料の薪を集めたり、少し贅沢なおかずを作ったり、みんなで助け合って生活を楽しめば良い。
繰り返すが、コンピュータは食事を用意してくれない。
また株投機で儲ければいいと思ってる人も多いだろうが、基本的に博打はゼロサムゲームであり、負けたときには餓死の運命しか残されていない。
とりあえず、子供たちの未来をつないでゆける方法は、過疎の山村にダーチャを共有することしかないのだ。
http://www.ruralnet.or.jp/ouen/mes/m408.html
助け合い共同体を考える上で、数の多いスケールメリットは、あまり勧められない。
人数が増えると、分業による合理化が必須となり、組織の上に立つ者に権力が生まれるからである。これは社会発展史史を研究してきた者なら、誰でも理解できることだ。
権力が生じれば、組織内に格差ができて上下関係ができてしまう。それでは楽しい共同体にならないのである。
私は、おおむね10〜20名を共同体(互助会)の一単位と考えている。それ以上、人が集まらない方が合理的だ。数が少なければ分業が通用せず、一人が、どんな仕事もこなさねばならず、大変だが特権階級が成立することはない。
あんまり少ないと、老人介護や子育てが大変になってしまう。
以上は、「捕らぬ狸の皮算用」なのだが、もしも飢饉や食糧危機が訪れた場合、人間には、今の我々の生活からは想像もできないような潜在能力があることを知っておいた方がいい。
実は、縄文時代の人々は、三食どころか、毎日の食事にありつくことは困難だった。出土遺骨から、数十日程度の絶食は珍しくなかった。だから平均寿命は30歳に満たなかった。
現代の、クマやイノシシも同じで、毎日の食事など、とんでもないのだ。
人類が、毎日一食を得ることができるようになったのは、古代から中世にかけてであるが、毎日三食という習慣は、実は大正時代以降のことにすぎない。
つまり、人間の体は、一日一食生活に、余裕を持って適応できるのである。それどころか、人には冬眠の能力さえ眠っているといわれる。
https://www.dplay.jp/article/science/0000000067
タモリやタケシも、一日一食主義だといわれる。本当に食べ物がなくなれば、まずは、一日一食にし、次に三日に一食にしても、十分に耐えてゆける能力が人間には備わっているのである。
だから、「飢える」ということには、それほど心配しなくていい。
「水が飲めない」という場合でも、比叡山の千日回峰行者は、9日間の不眠不臥、不飲、不食の修行をしなければならないが、あまり死んだ者は聞かない。
まあ、人には、食べなくとも簡単には死なないという性質があることを知っておけば、多少の食糧危機には慌てずにすむだろう。
だから、最初に考えるべきは、住む場所とともに、食料生産のための「ダーチャ」をどう確保するかなのだ。
そして、何よりも、「信頼できる仲間」が必要である。私も、一人で過疎地帯に住んでいる人を知っているが、他人との交流がないと、人間、どんどん退化して廃人に向かってゆくのである。
私なども、人との付き合いがないと、どんどん認知症が進み、家もゴミ屋敷になって、片付けるという習慣さえ失ってしまう。
だから、仲間を作るというのは、何よりも大切であって、他人に完全主義を求めてはならない。人に厳しいと、誰も寄ってこなくなる。
人を集めるには「優しい性格」が必要である。突き詰めれば「利他主義」ということなのだが、利他主義の波動を持っている人には、同じ波動を持った人が近寄ってくるという「波動の法則」を江原啓之が指摘している。
そんな波動の自然体でいれば、黙っていても、信頼のおける仲間が集まってくるというわけだ。
新自由主義者のような利己主義に洗脳された人は、利他主義者を見ると軽蔑したくなるらしい。とても嫌な人間に見えて近寄れない。
利己主義者には、利己主義者が寄ってくる。利他主義者には詐欺師も近寄ってこれないのである。
だから、自分と波長の合う人を見つけ、子供たちの未来のために、余生を捧げるという考え方が一番合理的だろうと私は思う。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1005.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/484.html#c12
ブルーノ・ワルター _ モーツァルトの名盤
▽▼ 1928年 ▲△
Bruno Walter, cond. Mozart Festival Orchstra Mozart: The Magic Flute – Overture
Mozart: The Magic Flute – Overture
Bruno Walter, conductor
1928 Mozart Festival Orchstra, Paris
Recorded in June 1928 , Paris
▲△▽▼
Symphony No. 40 in G Minor, K. 550: Berlin State Opera Orchestra 1928
Conductor: Bruno Walter
Orchestra: Berlin State Opera Orchestra
▽▼ 1932年 ▲△
Bruno Walter - Mozart : Le nozze di Figaro
フィガロの結婚ーOverture(1932)
British Symphony Orch.
recorded in the central Hall, Westminster, 4/15, 1932
transfer from Jpn Columbia 78s / J-8175(CAX-6387)
▽▼ 1934年 ▲△
Mozart: Symphony No. 39, Walter & BBCso (1934)
モーツァルト 交響曲第39番 ワルター
Symphony No. 39 in E-flat major, K. 543
(00:05) 1. Adagio; Allegro
(08:54) 2. Andante con moto
(17:43) 3. Menuetto
(21:39) 4. Allegro
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
BBC Symphony Orchestra
Rec. 22 May 1934, in London
▽▼ 1935年 ▲△
D.Giovanni 1935 Salzburg B.Walter, Arangi-Lombardi, Pinza, Lazzari, Borgioli, List
Don Giovanni - Mozart
EXCERPTS ONLY
Salzburg Festival
Broadcast
1st August, 1935
Don Giovanni...........Ezio Pinza
Donna Anna.............Giannina Arangi-Lombardi
Donna Elvira............Luise Helletsgruber
Il Commendatore....Emanuel List
Don Ottavio..............Dino Borgioli
Leporello..................Virgilio Lazzari
Zerlina......................Lotte Schöne
Masetto....................Karl Ettl
Conductor................Bruno Walter
Ballet of the Vienna State Opera
Choir of the Vienna State Opera
Vienna Philharmonic Orchestra
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html
1. 中川隆[-14223] koaQ7Jey 2020年1月22日 21:07:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1083]
▽▼ 1936年 ▲△
Mozart conc. k. 466 Bruno Walter Wiener Philarmoniker
W. A. Mozart : Concerto n. 20 K. 466
Wiener Philarmoniker
Bruno Walter ( piano and cond.)
(rec. 1936)
▲△▽▼
Wolfgang Amadeus Mozart, Eine kleine Nacht Musik in G major K.525
Bruno Walter, Vienna Philharmonic Orchestra
December 17, 1936, Musikverein Saal
RCA Victor DM364-1 - 4
Genaral Electric RPX-046 3-mil Diamond stylus.
SME 3010R
Vacuum tube type phono equalizer Tuen over : 250Hz, Roll off : flat
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°38 - Vienna / Walter 1936
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony n°38 K.504 "Prague"
I. Adagio - Allegro
II. Andante
III. Presto
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Studio recording, Vienna, 1936
▽▼ 1937年 ▲△
Bruno Walter / VPO - Mozart ; 3 Deutsche Tanze K.605 (1937)
Bruno Walter (Cond.), Vienna Philharmonic Orch.
recorded 4 May,1937
transfer from Jpn Columbia 78s /S-60(OVH-277/8)
▲△▽▼
W. A. Mozart: Requiem, K. 626 / Bruno Walter (1937)
Elisabeth Schumann, soprano
Kerstin Thorborg, mezzo-soprano
Anton Dermota, tenor
Alexander Kipnis, bass
Chor der Wiener Staatsoper
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Paris, 1937
▲△▽▼
Bruno Walter: Mozart: Le Nozze Di Figaro:
(R.Live Salzburg Festival 08-1937)
The great Italian basso Ezio Pinza as Figaro in Mozart's Le Nozze di Figaro, a live performance at the Salzburg Festival on 19 August 1937 conducted by Bruno Walter:
Figaro - Ezio Pinza
Susanna - Esther Réthy
Conte Almaviva - Mariano Stabile
Contessa Almaviva - Aulikki Rautawaara
Cherubino - Jarmila Novotná
Marcellina - Angelica Cravcenco
Bartolo - Virgilio Lazzari
Barbarina - Dora Komarek
Wiener Staatsoper
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter, conductor
19 August 1937, Salzburg, Live
-------------------------------------
Act 1.
Cinque... dieci... venti... (3:58)
Se a caso Madama (7:18)
Se vuol ballare (12:02)
La vendetta, oh, la vendetta (15:33)
Via resti servita, madama brillante (19:01)
Non so più cosa son, cosa faccio (22:35)
Cosa sento! (29:01)
Non più andrai (38:19)
Act 2.
Porgi, amor (43:45)
Voi, che sapete (49:46)
Venite, inginocchiatevi (53:45)
Susanna, or via sortite (1:00:32)
Aprite, presto, aprite (1:04:40)
Finale II (1:07:14) Esci omai, garzon malnato... Conoscete, signor Figaro... Voi signor, che giusto siete
Act 3.
Crudel! perchè finora (1:26:44)
Hai già vinta la causa? (1:32:11)
Riconosci in quest' amplesso
E Susanna non vien!... Dove sono (1:45:06)
Sull'aria (1:51:32)
Ricevete, o padroncina (1:54:41)
Ecco la marcia... Amanti costanti (1:58:31)
Act 4.
L'ho perduta (2:04:40)
Aprite un po' quegli occhi (2:10:57)
Giunse alfin il momento... Deh, vieni, non tardar (2:13:42)
Finale IV (2:20:38) Pian, pianin... Pace, pace, mio dolce tesoro... Gente, gente, all'armi, all'armi!
▲△▽▼
Don Giovanni, K. 527: Ouverture
Don Giovanni, K. 527: Ouverture
Wiener Philarmoniker
Bruno Walter, conductor
Salzburger Festspielen, August 2, 1937
▽▼ 1938年 ▲△
Mozart - La Clemenza di Tito - Vienna / Walter
La Clemenza di Tito K.621 - Overtura
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Studio recording, Vienna, 15.I.1938
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°41 - Vienna / Walter
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony n°41 K.551 "Jupiter"
I. Allegro vivace 0:00
II. Andante cantabile 7:59
III. Menuetto & Trio 16:06
IV. Finale. Molto allegro 20:35
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Studio recording, Vienna, 1938
▲△▽▼
Bruno Walter /VPO - Mozart : La Finta Giardinera
偽の花作り女 - Overture K.196 (1938)
Vienna Philharmonic Orch.
recorded 15 January, 1938
transfer from JPN Columbia 78s /JS-22(2VH-7048)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c1
2. 中川隆[-14222] koaQ7Jey 2020年1月22日 21:10:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1082]
▽▼ 1942年 ▲△
DON GIOVANNI - Ezio Pinza, dir Bruno Walter, Met 1942 (Complete Opera Mozart)
Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
7th March, 1942
Don Giovanni - Ezio Pinza
Donna Anna - Rose Bampton
Don Ottavio - Charles Kullman
Donna Elvira - Jarmila Novotna
Leporello - Alexander Kipnis
Zerlina - Bidú Sayão
Masetto - Mack Harrell
Commendatore - Norman Cordon
Conductor - Bruno Walter
▽▼ 1944年 ▲△
Le Nozze di Figaro 29/1/1944 MetOpera (Pinza, Sayão, Brownlee, Steber, Novotna, Baccaloni - Walter)
Le Nozze di Figaro - Mozart
Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
29th January, 1944
Figaro..................Ezio Pinza
Susanna.................Bidú Sayão
Count Almaviva..........John Brownlee
Countess Almaviva.......Eleanor Steber
Cherubino...............Jarmila Novotna
Dr. Bartolo.............Salvatore Baccaloni
Marcellina..............Irra Petina
Don Basilio.............Alessio De Paolis
Antonio.................Louis D'Angelo
Barbarina...............Marita Farell
Don Curzio..............John Garris
Peasant.................Mona Paulee
Peasant.................Lillian Raymondi
Dance...................Julia Barashkova
Dance...................Mary Smith
Dance...................Leon Varkas
Dance...................Allan Wayne
Conductor...............Bruno Walter
▽▼ 1945年 ▲△
Mozart: Overture to "Cosi fan Tutte" (Bruno Walter, 1945)
Mozart: Cosi fan Tutte, K. 588 - Overture
Philharmonic-Symphony Orchestra of New York
Bruno Walter, conductor
Recorded on January 23, 1945, in Carnegie Hall, New York City, on Columbia 78-rpm matrix XCO 34188. Issued as Columbia Masterworks 12074-D in Set MM-565, as a filler for Walter's recording, made the same day, as Mozart's "Jupiter" Symphony.
▽▼ 1950年 ▲△
Mozart Symphony No.40 K550 - Bruno Walter - NYP (Live 1950)
New York Philharmonic, 05.02.1950
▲△▽▼
W.A.Mozart Symphony No.40 - B.Walter BPO 1950
Symphony No.40 in G minor K.550
Bruno Walter
Berliner Philharmoniker
Berlin Titania Palast 25, September 1950
Musikstadt Berlin Tonfilm Bruno Walter Mozart 1950 (?)
▽▼ 1952年 ▲△
Bruno Walter - Mozart: Symphony No. 40 - Finale - Berlin Philharmonic
This is a historic piece of film in which Bruno Walter and the Berlin Philharmonic play the finale from Mozart's G minor Symphony. It comes from a German TV documentary made many years ago about Walter's life and career. ... NOTE: The concert programme illustrated shortly after the start gives the concert date as 17th March 1930. However, due to the many comments below questioning this date I've deleted "1930" from the video title! ... Furthermore, the clip evidently comes from a 1952 West German TV documentary entitled "Botschafter der Musik" ("Ambassadors of Music") details of which can be found under the Wiki article of that title.
▽▼ 1953年 ▲△
Mozart - Symphony n°35 "Haffner" - NYP / Walter
Symphony n°35 K.385 "Haffner"
I. Allegro con spirito 0:00
II. Andante
III. Menuetto. Trio
IV. Presto
New York Philharmonic
Bruno Walter
Studio recording, New York, 1953
▲△▽▼
Mozart: Symphony No. 39, Walter & NYP (1953)
モーツァルト 交響曲第39番 ワルター
Symphony No. 39 in E-flat major, K. 543
(00:05) 1. Adagio; Allegro
(08:37) 2. Andante con moto
(17:06) 3. Menuetto
(20:50) 4. Allegro
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
New York Philharmonic Orchestra
Rec. 21 December 1953 & 5 March 1956
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°40 - NYP / Walter
Symphony n°40 K.550
I. Molto allegro 0:00
II. Andante 6:19
III. Menuetto. Allegretto - Trio 14:49
IV. Allegro assai 19:14
New York Philharmonic
Bruno Walter
Studio recording, New York, 23.II.1953
▽▼ 1954年 ▲△
Mozart - Symphony n°25 K.183 - Columbia / Walter
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony n°25 K.183
I. Allegro con brio 0:00
II. Andante 4:47
III. Menuetto - Trio 9:16
IV. Allegro 12:58
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, New York, 10.XII.1954
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°28 K.200 - Columbia / Walter
Symphony n°28 K.200
I. Allegro spiritoso 0:00
II. Andante 3:58
III. Menuetto. Allegretto - Trio 10:16
IV. Presto 13:55
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, New York, 3.XII.1954
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°29 K.201 - Columbia / Walter
Symphony n°29 K.201
I. Allegro moderato 0:00
II. Andante 4:53
III. Menuetto - Trio 12:04
IV. Allegro con spirito 16:10
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, New York, 29.XII.1954
▲△▽▼
Mozart “Symphony No 38, K 504 ‘Prague’” Bruno Walter & New York Philharmonic Orchestra, 1954 3
▲△▽▼
Mozart: Symphony No. 38 `Prague`, Walter & NYP (1954)
モーツァルト 交響曲第38番「プラハ」ワルター
Symphony No. 38 in D major, K. 504 "Prague"
(00:05) 1. Adagio - Allegro
(10:47) 2. Andante
(19:29) 3. Finale: Presto
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
New York Philharmonic Orchestra (New York Philharmonic)
Rec. 6 December 1954
▽▼ 1955年 ▲△
Symphony No. 38 in D Major, K. 504 - "Praga"
Orchestre National de France Bruno Walter
Walter À Paris - 1955
▲△▽▼
Mozart: Symphony No. 36 `Linz`, Walter & ColumbiaSO (1955)
モーツァルト 交響曲第36番 ワルター
Symphony No. 36 in C major, K. 425 (Linz Symphony)
(00:05) 1. Adagio - Allegro spiritoso
(08:01) 2. Andante
(16:50) 3. Menuetto
(21:16) 4. Finale: Presto
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 26, 28 April 1955
▽▼ 1956年 ▲△
Die Zauberflöte 3/3/1956 English MetOpera
(Sullivan, Uppman, Amara, Peters, Hines - Walter)
Die Zauberflöte - Mozart(In English)
Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
3rd March, 1956
Tamino......................Brian Sullivan
Pamina......................Lucine Amara
Königin der Nacht.....Roberta Peters
Sarastro....................Jerome Hines
Papageno..................Theodor Uppman
Papagena..................Laurel Hurley
Monostatos...............Paul Franke
Speaker.....................George London
Erste Dame...............Heidi Krall
Zweite Dame ............Madelaine Chambers
Dritte Dame...............Sandra Warfield
Genie.........................Emilia Cundari
Genie.........................Rosalind Elias
Genie.........................Margaret Roggero
Priest........................James McCracken
Priest.........................Osie Hawkins
Guard........................Albert Da Costa
Guard.........................Louis Sgarro
Slave..........................Henry Arthur
Slave..........................John Frydel
Slave..........................Hal Roberts
Conductor.................Bruno Walter
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°40 - Vienna / Walter 1956
Symphony n°40 K.550
I. Molto allegro 0:00
II. Andante
III. Menuetto. Allegretto
IV. Allegro assai
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Live recording, Vienna, 24.VI.1956
▲△▽▼
W. A. Mozart: Requiem, K. 626 / Bruno Walter (1956)
Lisa della Casa, soprano
Ira Malaniuk, contralto
Anton Dermota, tenor
Cesare Siepi, bass
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Salzburg, 1956
▲△▽▼
Symphony No. 25 in G Minor, K. 183: I. Allegro con brio (Live)
Conductor: Bruno Walter
Orchestra: Wiener Philharmoniker
録音:1956年7月26日 ザルツブルク祝祭劇場(ライヴ)
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°41 - NYP / Walter
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony n°41 K.551 "Jupiter"
I. Allegro vivace 0:00
II. Andante cantabile 8:33
III. Menuetto. Allegretto - Trio 17:27
IV. Molto allegro 22:19
New York Philharmonic
Bruno Walter
Studio recording, New York, 5.III.1956
▲△▽▼
Mozart Maurerische Trauermusik K477 - Bruno Walter - Orc. National de France - 1956
Mozart Maurerische Trauermusik K477.
Bruno Walter - Orc. National de France - 14.06.1956
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c2
3. 中川隆[-14221] koaQ7Jey 2020年1月22日 21:12:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1081]
▽▼ 1959年 ▲△
Mozart - Symphony n°38 "Prague" - Columbia / Walter
Symphony n°38 K.504 "Prague"
I. Adagio - Allegro 0:00
II. Andante 10:55
III. Presto 20:00
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, Hollywood, 2.II.1959
▲△▽▼
Mozart: Symphony No. 40, Walter & ColumbiaSO (1959)
モーツァルト 交響曲第40番 ワルター
Symphony No. 40 in G minor, KV. 550
(00:05) 1. Molto allegro
(06:44) 2. Andante in E-flat major
(15:35) 3. Menuetto. Allegretto - Trio
(20:45) 4. Finale. Allegro assai
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 13, 16 January 1959, at American Legion Hall, in Hollywood
▽▼ 1960年 ▲△
Mozart - Symphony n°39 - Columbia / Walter
Symphony n°39 K.543
I. Adagio - Allegro 0:00
II. Andante con moto 9:21
III. Menuetto. Allegretto - Trio 18:35
IV. Finale. Allegro 22:37
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, Hollywood, 20 & 23.II.1960
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°36 "Linz" - Columbia / Walter
Symphony n°36 K.425 "Linz"
I. Adagio - Allegro spiritoso 0:00
II. Andante 8:42
III. Menuetto - Trio 17:07
IV. Presto 21:25
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, Hollywood, 28 & 29.II.1960
▲△▽▼
Mozart - Symphony n°41 "Jupiter" - Columbia / Walter
Symphony n°41 K.551 "Jupiter"
I. Allegro vivace 0:00
II. Andante cantabile 8:52
III. Menuetto. Allegretto - Trio 18:01
IV. Molto allegro 23:09
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, Hollywood, 25, 26, 28 & 29.II.1960
▽▼ 1961年 ▲△
Mozart: Masonic Funeral Music, Walter & ColumbiaSO (1961)
モーツァルト フリーメイソンのための葬送音楽 ワルター
Masonic Funeral Music in C minor, K. 477(479a) (Maurerische Trauermusik)
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 8 March 1961, at American Legion Hall, in Hollywood
▲△▽▼
Mozart - Opera Overtures - Columbia / Walter
Wolfgang Amadeus Mozart
Der Schauspieldirektor K.486 0:00
Così fan tutte K.588 4:02
Le nozze di Figaro K.492 8:56
Die Zauberflöte K.620 13:40
Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter
Studio recording, Hollywood, 5 & 31.III.1961
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c3
4. 中川隆[-14220] koaQ7Jey 2020年1月22日 22:44:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1079]
W.A.Mozart "Eine Kleine Nachtmusik" [ B.Walter Columbia-SO ] (1958)
セレナード第13番 ト長調 K. 525「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」
指揮:ブルーノ・ワルター
コロンビア交響楽団
録音:1958年12月17日 アメリカン・レジオン・ホール (ハリウッド)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c4
グルック オペラ 『オルフェオとエウリディーチェ』
Gluck - Opera Orfeo ed Euridice, Wq.30 | René Jacobs Freiburger Barockorchester
Opera Orfeo ed Euridice, Wq.30
Personaggi:
Orfeo: Bernarda Fink, mezzo-soprano
Euridice: Verónica Cangemi, soprano
Amore: Maria Cristina Kiehr, soprano
Rias Kammerchor
Sopranos: Gurdun Brath, Magdalena de Faria, Kristin Foss, Judith Hoff, Sabine Nürmberger-Gembaczka, Stephanie Petitlaurent, Judith Schmidt, Marianne Schumann, Hannelore Starke, Ines Villanueva
Altos: Ulrike Andersen, Ulrike Bartsch, Monika Degenhardt, Andrea Effmert, Bärbel Kaiser, Claudia Türpe, Waltraud Heinrich, Marie-Luise Wilke
Tenors: Volker Arndt, Reinhold Beiten, Horst-Heiner Blöß, Wolfgang Ebling, Wilhelm Füchsl, Friedemann Körner, Christian Mücke, Kai Roterberg
Basses: Erich Brockhaus, Janusz Gregorowicz, Werner Matusch, Paul Mayr, Johannes Niebisch, Rudolf Preckwinkel, Ingolf Seidel, Klaus Thiem
Performers:
Violins I: Perta Müllejans, Martina Graulich, Daniela Helm, Julita Forck, Franka Palowski, Martina Warecka-Tjuvajev
Violins II: Drian Dean, Beatrix Hülsemann, Rachel Harris, Thomas Mittelberger, Kathrin Tröger
Violas: Christian Goosses, Ulrike Kaufmann, Annette Schmidt, Lothar Haass
Violoncellos: Guido Larisch, Melanie Beck, Patrick Sepec
Double-basses: Love Persson, Dane Roberts
Flutes: Susanne Kaiser, Marion Hofmockel
Oboes: Annkathrin Brüggemann, Kristin Linde
Chalumeau: Daniele Latini
Bassoons: Javier Zafra, Yukiko Murakami
French Horns: Teunis van der Zwart, Erwin Wieringa
Trumpets: Freidemann Immer, Francois Petit-Laurent
Trombones: Katherine Couper, Peter Stelzl, Werner Engelhard
Timpani: Charlie Fischer
Harp: Mara Galassi
Harpsichord: Nicolau de Figueiredo
René Jacobs, conductor
Freiburger Barockorchester
[on period instruments]
_________
Wilhelm Furtwängler Live @ Milan 1951: Gluck: Orfeo ed Euridice (Barbieri, Güeden & Gabory)
Fedora Barbieri (Orfeo)
Hilde Güeden (Euridice)
Magda Gabory (Amore)
Wilhelm Furtwängler, director
Orchestra and Chorus of the Teatro alla Scala, Milan 1951
_______
Gluck - Orfeo ed Euridice (Raymond Leppard)
▲△▽▼
「精霊の踊り Reigen Der Seligen Geister」
Dance of the Blessed Spirits
From Pina Bausch's production of Orpheus and Eurydice at the Palais Garnier, 2008
______
Gluck - Reigen seliger Geister - Dance of the Blessed Spirits - Karajan
Reigen seliger Geister (Dance of the Blessed Spirits) aus der Oper "Orpheus und Eurydice"
Karlheinz Zoeller, Flöte
Berliner Philharmoniker
Herbert von Karajan
__________
Moyse plays Gluck on Disque Gramophone
Marcek Moyse plays Gluck's Melody from 'Orfeo ed Euridice' on Disque Gramophone
Marcel Moyse - Gluck : Ballet des Champs Ellysees 精霊の踊り (電気再生)
"Dance of the blessed Spirits" (from the Orfeo ed Euridice)
Orchestre Symphonique de Paris, Henri Tomasi (cond.)
transferred from Jpn Columbia 78s / S-1002(CPTX-56)
_______
Gluck-Kempff - Plainte d'Orphée & Dance of the Blessed Spirits for Piano [Score-Video]
Henryk Szeryng - Gluck Melodie
Henryk Szeryng (violin)
Vsevolod Petrushansky (piano)
______
Ginette Neveu plays Gluck - Mélodie (from Orfeo ed Euridice)
Recorded in 1938 when she was just 19!!
_______
Jascha Heifetz plays Melodie by Gluck
Jascha Heifetz plays Melodie (from Orfeo ed Euridice) by Christoph Willibald von Gluck (Transcribed by Heifetz).
Accompanist: Emanuel Bay
▲△▽▼
『オルフェオとエウリディーチェ』(Orfeo ed Euridice )は、クリストフ・ヴィリバルト・グルックが作曲した3幕からなるオペラ。
グルックのオペラの中で最も有名な作品である。
グルックは1741年に、メタスタージオの台本によるオペラ『アルタセルセ』(現在は紛失?)によって、オペラ作曲家としてデビューを果たす。イタリア国内で8作ものオペラを発表したのち、ロンドンに招かれ、同地でヘンデルと親交を結んだ。1750年に結婚したのち、1754年にオペラ『中国人』を発表して大成功を収め、これにより宮廷音楽監督の称号を得た。
『オルフェオとエウリディーチェ』は1762年に作曲された。台本作者のラニエーリ・カルツァビージと共にオペラ・セリアの改革に乗り出し、オペラ改革理論を実践で示した最初の作品である。同年、神聖ローマ皇帝フランツ1世の霊名日に当たる10月5日にウィーンのブルク劇場で初演された。音楽劇の改革理論に基づいて作曲されたもので、初演当時から大成功を収め、グルックのオペラの代表作となった。このオペラによって、ベルリオーズやワーグナーらに多大な影響を与えた。
1774年パリ版
『オルフェオとエウリディーチェ』には2つの版が存在し、ウィーン版(Wq.30、ウィーン原典版とも)とパリ版(Wq.41)と呼ばれている。
上記の1762年にウィーン宮廷劇場で初演されたのがウィーン版であるが、パリ版は1774年8月にパリのオペラ座での上演に際して改作したものである。
パリ版にはバレエ曲やアモーレの最初のアリア、フルート独奏の「天国の野原」(いわゆる「精霊の踊り」)の場面が追加されている。
またフランス語台本は詩人のピエール・ルイ・モリーヌがイタリア語台本から翻訳している。パリではカストラートが好まれなかったことから、オルフェオ役はオート・コントルに変えられ、歌や器楽曲が増やされて、作品全体の規模が大きくなり、オペラ座の大編成のオーケストラを十分に生かすように手が加えられた。
精霊の踊り
「精霊の踊り Reigen Der Seligen Geister」(または「精霊たちの踊り」)は、オペラの第2幕第2場で天国の野原で精霊たちが踊る場面で演奏される有名な楽曲で広く知られている。
のちにヴァイオリニストのフリッツ・クライスラーがヴァイオリン用に編曲し、「メロディ」というタイトルで作曲したが、これも知られている。
ピアノ用の編曲はジョヴァンニ・ズガンバーティとヴィルヘルム・ケンプによる二つが一般的に演奏会で使用される。
中間部に哀調を帯びた旋律をもつ3部構造の清楚で優雅な趣をもっており、旋律はオペラから独立してフルートの曲として現在も演奏されている。短調部分のみを演奏した歴史的録音としてマルセル・モイーズのものが知られており、晩年に日本での公開レッスン(1973年)でも採り上げられている。
原作と台本
ギリシア神話のオウィディウスの「転身物語」(または転身譜)第10巻第1章と第11巻、及びウェルギリウスの「農耕歌」第4篇に基づく。
台本はラニエーリ・カルツァビージ
登場人物
エウリディーチェ(ソプラノ)、オルフェオ(ウィーン版はカストラート、パリ版はオート・コントルで初演時はテノール。現代では、カウンターテノール、バリトン、メゾ・ソプラノが多い。)、愛の神(ソプラノ)
あらすじ
第1幕
月桂樹と糸杉の木立がエウリディーチェの墓を取り巻いている。オルフェオは友人と共に妻エウリディーチェの死を悼んでいる。オルフェオは泣き崩れ、「エウリディーチェ」と悲痛な声をあげる。絶望のあまり妻を連れ戻しに黄泉の国に下がると神々たちに言う。そこに愛の神が現れ、オルフェオの嘆きに心を動かされたゼウス神たち神々は憐れみ、彼が黄泉の国に行って妻を連れてくることを許すという。ただし愛の神は、彼の歌によって地獄の番人たちをなだめること、そして何があっても決してエウリディーチェを振り返って見ないことが条件である。もしオルフェオが自分の事態を説明しようとしたり、振り返ったりすると彼女は永久に失うという。オルフェオはこの難しい試練に挑み、黄泉の国へと向かう。
第2幕
第1場、洞窟の入口
嘆きの川の先におどろおどろしい洞窟の入り口に、復讐の女神や死霊たちが踊っている。復讐の女神たちはオルフェオを恐ろしがらせようとして、地獄の入り口で彼を押しとどめる。オルフェオは勇気をもって竪琴を取り、甘い歌声で彼女たちを静め、オルフェオに道をあける。そして復讐の女神や死霊たちは静かに消えて行く。
第2場、エリゼの園(エリシウムの楽園)
エリゼの園でエウリディーチェは妖精と共に、エリゼの園の静けさと平和を讃えて歌っている。その時オルフェオはエウリディーチェを発見し、オルフェオはエウリディーチェの姿を見えないようにして手を取り、地上へと向かう
第3幕
第1場、薄暗い洞窟の迷宮の中
オルフェオがエウリディーチェの手を引いて上がって来る。エウリディーチェは初めのうちは喜んでいたが、オルフェオがすぐに自分の方に見ようとしないことに不審を抱き、ためらう。エウリディーチェは夫の愛が冷めたのではないかと怪しんで、それ以上夫について行こうしなかった。絶望したオルフェオは耐え切れず、エウリディーチェの方を振り向いてしまう。そのとたん、エウリディーチェは倒れて息絶える。オルフェオは嘆き、そして短剣を取り上げて自ら自殺を決意する。その時、愛の神が現れ、彼を押し留める。愛の神は「お前の愛の誠は十分示された」と告げ、エウリディーチェは再び息を吹き返す。2人は喜んで抱き合う。
第2場、地上の愛の神の宮殿
オルフェオが羊飼いやニンフたちと共に愛の神に感謝し、羊飼いやニンフは踊りを捧げる。エウリディーチェも愛の神に感謝し、全員が愛を讃える。
オペラの中の有名な楽曲
精霊の踊り(メロディ)
オルフェオのアリア「エウリディーチェを失って」
復讐の女神たちの踊り(Air de furie)(バレエ音楽『ドン・ファン』の終曲に同じものが使われている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/オルフェオとエウリディーチェ
81. 中川隆[-14219] koaQ7Jey 2020年1月22日 23:20:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1078]
グルック オペラ 『オルフェオとエウリディーチェ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/833.html
ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/819.html
ヘンデル オラトリオ 『サムソン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/829.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c81
1. 中川隆[-14218] koaQ7Jey 2020年1月22日 23:23:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1077]
オペラ改革者・グルックの「精霊の踊り」は何が新しかったのか 2019/3/14
https://www.j-cast.com/trend/2019/03/14352703.html?p=all
選挙のシーズンになると、「改革」という言葉を頻繁に候補者などから耳にするようになりますが、クラシック音楽も、長い歴史があるだけに、改革の試みはいくつもありました。
今日は、その中でも「オペラの改革者」といわれる、18世紀のドイツに生まれ、オーストリアやフランスで活躍した作曲家、クリストフ・ヴィリバルト・グルックを取り上げましょう。曲は、大変かわいらしい、「精霊の踊り」という曲です。
「精霊の踊り」は、彼の代表作、オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の中の1曲、間奏曲として作曲されたものですが、現在では単独で器楽曲としてよく演奏されます。
マリー・アントワネットの先生を務める
1714年、現在はドイツ、その当時は神聖ローマ帝国内だったバイエルンに生まれたグルックは、当時は同じ帝国内のプラハに学び、音楽家を志してからは、南はイタリアから北は英国まで広く、欧州を旅します。旅のあと、ウィーンに腰を落ち着けたグルックは、マリア・テレジアが実質統治する宮廷の楽長の地位につきます。ローマでは、教皇ベネディクト14世の御前で自作のオペラを上演して称号を賜わり、この時期からグルックの活躍は目覚ましいものとなります。彼は、宮廷の子女にも音楽を教えたので、マリア・テレジアの娘であるマリア・アントーニア、フランスに輿入れしてマリー・アントワネットとなった彼女の先生でもあります。アントワネットが優秀な音楽家だったのは、グルックの教育の賜物、と言われています。
グルックが、「オペラを改革」したという事実には、たくさんのことが含まれているため、すべてを書ききることは難しいのですが、そのころ、オペラの発祥の国であり、当時も最先端だったイタリアのオペラは、歌手の名人芸を披露することを第一に考えた作品が作り続けられていました。その分、ドラマや音楽の流れが不自然だったのです。それをグルックは、筋書きや音楽がより自然に流れるようにし、芝居の流れのためには、個々の歌手の超絶技巧の披露を制限さえするという方向性を打ち立てました。オペラが、単なる歌手のテクニック披露の場ではなく、一つの音楽演劇として、意義のあるものにしたのが彼の「オペラ改革」の大きな部分です。もちろん、これは拒絶反応も生み出し、マリー・アントワネットに従って移ったフランスでは、守旧的な作品を作り続ける作曲家との対立を、周囲にあおられています。
勇気をもって新たなシンプル・スタイルを提案
「オペラの改革」で、以後に続く本格的なオペラへの道筋をつけたグルックですが、オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の幕間のダンスの時に流れる「精霊の踊り」には、もう一つ特徴があります。和声...ハーモニーとも言いますが、他の音楽ジャンルでは、コード進行といわれる和音の種類が、とても少なく、単純なのです。
それ以前の作曲家、例えば、J.S.バッハやヘンデルなどのバロックの作曲家が、人間の感情の憂いや悲しみを表現するために、実に多彩な和音を駆使したのと、それは対照的でした。特に重要とされる3つの和音・・・専門的には「1度の和音」「4度の和音」「5度の和音」といったりしますが・・・・で、曲のほとんどをつくっているのです。
結果、この曲は、非常にシンプルで、聞きやすいものとなり、また、ハーモニーが無駄に複雑でないために、その上に載っている旋律に集中することができます。一見、たくさんの和音を駆使し、時にはネガティヴな感情を描くことさえ辞さなかったそれ以前のバロック音楽に対して、退歩のように見えますが、グルックなどの「古典派」の人々は、当時流行していたフリーメーソン思想(グルックも、モーツアルトもメンバーでした)の影響などもあり、音楽の調和を大事にしたのです。そのもとに作られた音楽は、秩序があり、聞きやすく、誰にでも受け入れられる音楽となっていったのです。
それは、現代のクラシック以外のポピュラー音楽の遠い先祖、といってもよいかもしれません。事実、バロック時代のバッハなどは、今そのまま聴くと難しさと時代の隔たりを感じますが、グルックとその同時代の人たちのいわゆる「古典派作品」は、古めかしさこそ感じるものの、現代人の我々にもすぐなじむ音楽的構造を持っているのです。同時に、この時代の音楽は「ほがらかさ」を持っています。ハイドンやモーツァルトの作品が、明るい「長調」の作品が多いことにもつながりますが、まだ芸術家は自我よりも、「人を楽しませること」を目的に作曲していた時代です。
「精霊の踊り」は、ヴァイオリンの名手にして作曲家でもあったF.クライスラーがヴァイオリン用に編曲したり、またはピアノ伴奏を伴うフルートで演奏されることも多く、グルックの作品の中で今日もっとも耳にする機会が多くなっています。そのシンプルな響きに耳を傾けると、複雑なものを整理することによって「改革」を成し遂げた、グルックの卓越した美意識を感じることができます。進化すると「複雑」になりかねない芸術の中にあって、勇気をもって新たなシンプル・スタイルを提案したグルックは、だから「改革者」と呼ばれているのです。
本田聖嗣プロフィール
私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミ エ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソ ロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。
https://www.j-cast.com/trend/2019/03/14352703.html?p=all
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/833.html#c1
2. 中川隆[-14217] koaQ7Jey 2020年1月22日 23:27:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1076]
クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日)は現在のドイツに生まれ、現在のオーストリアとフランスで活躍したオペラの作曲家。
バレエ音楽や器楽曲も手懸けたが、現在では歌劇《オルフェオとエウリディーチェOrfeo ed Euridice 》によって、中でも間奏曲〈精霊たちの踊り〉によってとりわけ有名。
オペラの改革者として歴史に名を残す。ただし、ドイツ語オペラは1作も書いていない。
生涯
バイエルン・オーバープファルツのエラスバッハ Erasbach(現ドイツ)出身。父親はボヘミア系の貴族ロプコヴィツ家に仕える林務官だった。すぐにボヘミアに引っ越し、18歳の時プラハ大学で音楽と哲学を学ぶ。1741年に最初の歌劇《アルタセルセ Artaserse 》を作曲し、大量に舞台音楽の作曲を始める。この時期の作品は、かなり保守的なイタリア語のオペラ・セリアであった。1747年にはバイエルンとザクセンの両選帝侯家の結婚を祝うオペラ・セレナーデ《ヘラクレスとヘベの結婚》を作曲しドレスデンで初演した。1754年にヨーロッパ中を広く旅して、マリア・テレジアの宮廷楽長の地位を得、ウィーンに定住する。1756年にローマ教皇ベネディクトゥス14世により、黄金拍車勲章を授与され、これ以降は「騎士グルック(独語:Ritter von Gluck 、仏語:Chevalier de Gluck )」の称号を用いた。
ウィーン滞在中に、最も有名なバレエ音楽《ドン・ジュアン Don Juan 》(1761年)と、代表作の歌劇《オルフェオとエウリディーチェ》(1762年)を作曲した。これらはいずれも様式上の変化を表しており、その頂点は歌劇《アルチェステ Alceste 》(1767年)において全面的に示される。この作品では、オペラの新しい様式についてのグルックの考え方が表面上に展開されている。出演するスター歌手よりも作品が重視され、レチタティーヴォはセッコを取り除いて、すべて、劇的に構成されたレチタティーヴォ・アッコンパニャートにして演技に割り込まないようにするというのがグルックの考えであった。それが、オペラ改革につながった。その結果生じた、より流麗で劇的な作曲様式は、リヒャルト・ワーグナーの楽劇の先駆と看做されている。
しかしながらグルックのオペラ改革は、作曲者の生前は議論の的であった。1773年に、音楽教師として仕えていた皇女マリー・アントワネットに従い、パリに移る。同地で《オーリードのイフィジェニー Iphigénie en Aulide》などの作品が上演されると、評論家の意見は評価をめぐって二分した。一方はグルックの新様式を褒めそやし、もう一方はグルックを悪し様に罵り、より伝統的なニコロ・ピッチンニの歌劇を支持した。二人の作曲家同士が論争に巻き込まれることはなかったものの、グルックが作曲中であると知られていた台本に、ピッチンニが作曲するよう依頼されたことが知れ渡ると、グルックはそれまで書き溜めていたものをすっかり破棄した。
グルックはパリ公演に向けて《オルフェオとエウリディーチェ》と《アルチェステ(英語版)》の2作を改訂し、元のイタリア語からフランス語へと翻訳した。《アルミード(英語版)Armide》は1777年に、《トーリードのイフィジェニーIphigénie en Tauride》は1779年に初演され、それからウィーンに戻る。より小規模な作品の作曲を続けたが、ほとんど引退したも同然だった。1787年にウィーンで他界し、ウィーン中央墓地に埋葬されている。
35曲ほどの完成されたオペラと、いくつかのバレエ音楽と器楽曲がある。ベルリオーズはグルックの心酔者であり、重要な影響を受けている。
主要作品
オペラ
アルタメーネ Wq.4 (Artamene,1743) - 3幕のオペラ
奴隷の娘 Wq.6 (La finta schiava,1744) - オペラ・セリア、数人のパスティッチョ
巨人の没落 Wq.10 (La caduta dei giganti,1746) - 2幕のパスティッチョ
ヘラクレスとヘベの結婚(英語版) Wq.12 (Le nozze d'Ercole e d'Ebe,1747) - オペラ・セレナーデ
エツィオ(初版)(英語版) Wq.15 (Ezio,1749) - 3幕のオペラ
神々の闘い Wq.14 (La Contesa dei numi,1752) - 2幕のオペラ
皇帝ティートの慈悲(英語版) Wq.16 (La Clemenza di Tito,1752) - 3幕のオペラ
中国の女たち(英語版) Wq.18 (Le Cinesi,1754) - 1幕のオペラ
メルラン島、または逆世界(英語版) Wq.23 (L'isle de Merlin, ou Le monde renverse,1758) - 1幕のオペラ・コミック
包囲されたシテール(初版) Wq.26 (La Cythere assiegee,1759)
テティデ(英語版) Wq.27 (Tetide,1760) - 2幕のオペラ
欺かれた回教の裁判官(英語版) Wq.29 (Le Cadi dupe,1761) - 1幕のオペラ・コミック
予期せぬ邂逅、またはメッカの巡礼者たち(フランス語版) Wq.32 (La rencontre imprévue, ou Les pèlerins de la Mecque, 1764) - 3幕のオペラ・コミック
オルフェオとエウリディーチェ Wq.30/パリ版=Wq.41 (Orfeo ed Euridice, Wq. 30, 1762 (Vienna) / Orphée et Eurydice, Wq. 41, 1774 (Paris)) - 3幕のドラマ・エロイコ
冠(英語版) Wq.35 (La corona,1756) - 1幕のファルサ(azione teatrale)
プロローグ Wq.36 (Il prologo,1767)
パリーデとエレーナ(英語版)Wq.39 (Paride ed Elena,1770) - 5幕のオペラ・セリア
包囲されたシテール(改訂版)(フランス語版) Wq.43 (La Cythere assiegee,1775) - オペラ・バレエ
オーリードのイフィジェニー(英語版)Wq.45 Iphigénie en Aulide, Libretto: François-Louis Gand Le Bland Du Roullet nach Jean Racine, Uraufführung: Paris, 19. April 1774
トーリードのイフィジェニー(英語版)Wq.46 (Iphigenie en Taulide,1778-79) - または『タウリスのイフィゲニア』。4幕のオペラ
アルチェステ(英語版)Wq.37/改訂版=Wq.44 (Alceste,1767/改訂=76) - 3幕のオペラ・セリア
エコーとナルシス(英語版)Wq.47(Echo et Narcisse,1779/改訂=80/再改訂=81) - 3幕のオペラ(ドラム・リリック)
バレエ音楽
中国の孤児 Wq.51 (L'orfano della China,1761年初演) - 偽作
ドン・ファン Wq.52 (Don Juan,1761初演) - パントマイム
包囲されたシテール (La Citera assediata,1762初演) - 3幕のバレエ。Wq.26のバレエ版 (音楽は逸失)
アレッサンドロ (Alessandro,1764初演) - または『アレッサンドロとロクサーヌの愛 (Les amours d'Alexandre et de Roxane)』
セミラーミデ Wq.56 (Semiramide,1765初演) - 1幕のバレエ
管弦楽曲、協奏曲
行進曲 ト長調 (作曲年不詳)
17のシンフォニア (作曲年不詳)
フルート協奏曲 ト長調 (疑作の説あり)
室内楽曲
6つのソナタ (6 Sonatas,1746年出版) - 2つのヴァイオリンと通奏低音のための
2つのトリオ・ソナタ (2 Trio Sonata,作曲年不詳) - 2つのヴァイオリンと通奏低音のための
宗教曲
深き淵より (De profundis,1787年出版)
2つのモテット (Motets,1779以前出版)
世俗声楽曲
讃歌と歌曲 (1773〜85頃) - 全7曲、F.G.クロプシュトックの詞
若者 (1775年出版)
死への讃歌 (1783)
夏の夜 (1785出版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/クリストフ・ヴィリバルト・グルック
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/833.html#c2
ウェーバー オペラ『魔弾の射手』
Carlos Kleiber - Weber: Der Freischütz, J. 277 (1973/2018)
Personnel:
Franz Crass, bass
Siegfried Vogel, bass
Bernd Weikl, baritone
Theo Adam, bass baritone
Peter Schreier, tenor
Edith Mathis, soprano
Günther Leib, baritone
Gundula Janowitz, soprano
Leipzig Radio Chorus
Dresden Staatskapelle
Carlos Kleiber, conductor
____
Furtwängler "DER FREISCHUTZ" 1954
Elisabeth Grümmer--Agathe
Rita Streich--Ännchen
Hans Hopf--Max
Kurt Böhme--Kaspar
Wilhelm Furtwängler--Conductor
Wiener Philharmoniker
Salzburger Festspiele
1954
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Der Freischütz Ernst Kozub Arlene Saunders Edith Mathis Hans Sotin Gottlob Frick Hamburg
Max - Ernst Kozub
Agathe - Arlene Saunders
Kaspar - Gottlob Frick
Ännchen - Edith Mathis
Ottokar - Tom Krause
Kuno - Toni Blankenheim
Kilian - Franz Grundheber
Hermit - Hans Sotin
Zamiel - Bernard Minetti
Conductor: Leopold Ludwig
Orchestra: Philharmonisches Staatsorchester Hamburg
Chorus: Chor der Hamburger Staatsoper
Recorded: 1968
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『魔弾の射手』(まだんのしゃしゅ、独:Der Freischütz)は、カール・マリア・フォン・ウェーバーが作曲した全3幕のオペラ。
台本はヨハン・アウグスト・アーペル、フリードリヒ・ラウンの『怪談集』を元にヨハン・フリードリヒ・キーントが書いた。
1821年6月18日にベルリンの王立劇場で初演された。
原題は、ドイツの民間伝説に登場する、意のままに命中する弾(Freikugel)を所持する射撃手(Schütz)[1]の意である。この伝説では7発中6発は射手の望むところに必ず命中するが、残りの1発は悪魔の望む箇所へ命中するとされる。
舞台は1650年頃のボヘミアと設定されている。当時のボヘミアはドイツ=神聖ローマ帝国支配下にあり、ドイツ人も多数住んでいた地域(14世紀には帝都が置かれていたこともある)なので、ドイツ伝承説話の舞台として矛盾はない。
ドイツの民話を題材とし、魔の潜む深い森や、封建時代の素朴な中にも良き生活を描いたこの作品は、オペラにおけるドイツ・ロマン主義を確立した記念碑的作品であり、その清新な音楽は新しいドイツ音楽を確立するものとして受け止められ、後のワーグナーなどにも大きな影響を与えた。序曲は特に有名であり、その冒頭部分は賛美歌『主よ御手もて引かせ給え』としても知られている。
登場人物
マックス:若い猟師。射撃の名手だが深刻なスランプ中。
アガーテ:マックスの恋人。
カスパール:若い猟師。マックスの同僚で、悪魔ザミエルに魂を売っている。
クーノー(訳によってはクーノ):森林保護官。アガーテの父。
エンヒェン:アガーテの従姉妹。
オットカール侯爵:ボヘミアの領主。
隠者
キリアン:富農。
ザミエル:悪魔。魔弾の作り方を伝授する。
楽器編成
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部 舞台上にクラリネット、ホルン2、トランペット、ヴァイオリン2、チェロ、第2幕のフィナーレにピッコロ2を追加する。
あらすじ
第1幕
狩人のマックスは明日行われる射撃大会の予行演習をしていた。しかし彼の放つ弾は的を射抜くことができない。このままでは明日の結果は目に見えている。しかも恋人のアガーテの父・クーノーは、彼の明日の結果次第ではアガーテとの結婚を認めないといっている。
狩人仲間のカスパールは、自信を失っているマックスにつけこみ、「人々から恐れられている狼谷へ深夜に来たら、勝つ方法を教えてやる」と言い、マックスを誘い出す。
第2幕
その夜、アガーテの部屋を訪れるマックスは、狼谷へ行くことを彼女に告げた後、狼谷に向かった。その頃、カスパールは狼谷でマックスの命を引き換えに契約の延長と、7発中6発は自分の意図するところに必ず命中し、残りの1発は悪魔の望む箇所へ命中する魔弾を作るように、悪魔のザミエルに頼んだ。そこへマックスが狼谷へやってきて、カスパールと共にその魔弾を鋳造した。
第3幕
射撃大会当日、アガーテは花嫁衣裳を着て、マックスとの結婚に備えていた。婚礼の花冠を持ってくるが、それは葬儀用の冠だった。そこでアガーテは森の隠者から貰った白いバラで花冠を編んでもらい、それを代わりにかぶることにした。
一方、射撃大会ではマックスが魔弾の効果で素晴らしい成績を上げていた。領主はマックスに最後の1発で鳩を撃つように命令した。その弾は飛び出してきたアガーテに向かって発射されてしまうが、バラの花冠がお守りになってくれたお陰で弾はそれ、間一髪命中をまぬがれた。だが、それた魔弾がカスパールに命中してしまい、彼は死んでしまう。
不審に思った領主はマックスにその理由を問い、マックスは正直に全てを答える。激怒した領主はマックスに追放を宣告するが、そこに隠者が登場し、マックスの過ちを許すように領主に諭す。領主はそれに従い、1年の執行猶予の後にマックスとアガーテとの結婚を許した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/魔弾の射手
1. 中川隆[-14216] koaQ7Jey 2020年1月23日 00:23:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1074]
『魔弾の射手』序曲
Weber, Ouvertüre zu 'Der Freischütz', Furtwängler 1954(pseudo-stereo)
Ouvertüre zu 'Der Freischütz'
Wiener Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler 1954(pseudo-stereo)
_____
Weber - Freischütz Overture - Berlin / Furtwängler 1944
Der Freischütz - Ouvertüre
Berliner Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Berlin, 20/22.III.1944
_______
Weber: Overture Der Freischütz - Adagio - Molto vivace (Live)
Berliner Philharmoniker · Wilhelm Furtwängler
Wilhelm Furtwängler - Recordings 1942-1944
_______
Wilhelm Furtwängler "Overture" Der Freischütz 1933
" Overture" from Der Freischütz
Berlin Philharmonic
Wilhelm Furtwängler, conductor
1933
_______
Weber: Der Freischütz; Overture, Furtwängler & BPO (1926)
Carl Maria Friedrich Ernst von Weber (1786-1826)
Der Freischütz; Overture, Op. 77
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 16 October 1926
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.html#c1
2. 中川隆[-14215] koaQ7Jey 2020年1月23日 00:27:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1073]
カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ウェーバー(ドイツ語: Carl Maria Friedrich Ernst von Weber、 1786年11月18日 - 1826年6月5日)は、ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト。
姓は、一般には慣用的な日本語表記であるウェーバーと、正確なドイツ語読みに従ったヴェーバーという表記が混在して用いられている。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトによるドイツオペラの伝統を継承し、自らの『魔弾の射手』によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてリヒャルト・ワーグナーへと流れを導いた作曲家として重要である。
11歳で初めてオペラを作曲し、『魔弾の射手』や『オベロン』などのオペラのほか、『舞踏への勧誘』などの器楽曲も残す。また、オーケストラの配置を現在に近い形に改めたり、指揮棒を初めて用いた人物としても知られる。
モーツァルトの妻コンスタンツェは父方の従姉にあたる。
生涯
現在のドイツ・リューベック近郊のオイティーン(英語版、ドイツ語版)に生まれる。父フランツ・ウェーバーの兄フリードリンの娘コンスタンツェは人気作曲家であったモーツァルトと結婚していた。
片足が不自由であり、小児麻痺であったとも伝えられる。
ウェーバーが生まれた次の年、父は劇団を結成する。こうして彼は、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなった。幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せなかった。しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼン(英語版)でヨハン・ホイシュケル(英語版)から本格的な音楽教育を受け、才能を見せる。その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーにも師事している。1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲するが、翌1800年に火事で消失している。
1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、2年後には楽長を退く。この年にエッチング用の硝酸をワインと間違え飲んでしまい、声を出せなくなった(声を失うまではかなりの美声だったと言われる)。その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とする。
1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力する。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させた。
1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移る。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑む。結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功する。また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行った。
1821年、ベルリンで『魔弾の射手』が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てた。この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われている。この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。
1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』を作曲する。そのとき彼は結核を患っていたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していた)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化、同年の6月5日にロンドンで客死した。39歳没。その遺骨は、18年のちの1844年、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還した[1]。デスマスクが現存する[2]。
『魔弾の射手』はヴルフ・コーノルト『ドイツオペラの知識』(シンフォニア刊、1999年)でドイツでの上演人気30傑に挙げられているが、ドイツオペラの全曲レコードを精力的に残したベーム、カラヤン、ショルティの3人は、このオペラのスタジオ録音を残していない。ドイツ圏の外での上演はさらに少なく、歴史的名声の高さに比してやや寂しい状況にある。
作品
作品目録は、一般にフリードリヒ・ヴィルヘルム・イェーンス(Friedrich Wilhelm Jähns)の"C.M.von Weber in seinen Werken" (1871/1967) によるイェーンス番号 (J.) が用いられている。
詳細は「ウェーバーの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウェーバーの楽曲一覧
オペラ
『森の娘』Anh.1(断片のみ現存)(1800年初演)
『ペーター・シュモルとその隣人たち』J.8 (1803年初演)
『リューベツァール』(断片のみ現存) (1804年初演)
『シルヴァーナ』J.87 (1810年初演)
『アブ・ハッサン』J.106 (1811年初演)
『3人のピント』Anh.5(1幕のスケッチのみ、マーラー補筆完成) (1820〜21年、1888年初演)
『魔弾の射手』J.277 (1821年初演) - ドイツ国民オペラの代表作であり、ナチス時代には盛んに演奏された。
『オイリアンテ』J.291 (1823年初演)
『オベロン、または妖精の王の誓い』J.306 (1826年初演)
劇付随音楽
『トゥーランドット』 作品37 J.75 (1809年)
『イングルト王』J.214 (1817年)
『ドンナ・ディアナ』J.220 (1817年)
『フランス王アンリ4世』J.237 (1818年)
『ザッフォー』J.240 (1818年)
『心からの愛』J.246 (1818年)
『灯台』J.276 (1820年)
『プレチオーザ』作品78 J.279 (1820年)
『今日こそザクセンの子に娶らせよ』J.289 (1822年)
『Das osterreichische Ferdlager』Anh.43〜45(消失) (1813年)
交響曲
交響曲第1番ハ長調 作品19 J.50 (1807年)
交響曲第2番ハ長調 J.51 (1807年)
協奏曲、協奏的作品[編集]
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品11 J.98
ピアノ協奏曲第2番変ホ長調 作品32 J.155
ピアノと管弦楽のためのコンチェルトシュトゥック(小協奏曲)ヘ短調 作品79 J.282
クラリネット小協奏曲 ハ短調 作品26 J.109
クラリネット協奏曲第1番ヘ短調 作品73 J.114
クラリネット協奏曲第2番変ホ長調 作品74 J.118
ファゴット協奏曲 ヘ長調 作品75 J.127
ホルン小協奏曲 ホ短調 作品45 J.188
オーストリア民謡による6つの変奏曲(ヴァイオリンとオーケストラ)J.49
グラン・ポプリ ニ長調(チェロとオーケストラ) 作品20 J.64
アンダンテと変奏曲 ニ短調(同上) J.94
ロマンツァ・シチリアーナ ト短調(フルートとオーケストラ) J.47
アンダンテとハンガリー風ロンド ハ短調(ヴィオラまたはファゴットとオーケストラ) 作品35 J.79(ヴィオラ版)、J.158(ファゴット版)
室内楽曲
フォーグラーの『サモリ』による6つの変奏曲 変ロ長調 作品6 J.43
ノルウェーの歌による9つの変奏曲 ニ短調 作品22 J.61
ピアノ四重奏曲 変ロ長調 作品18 J.76
6つのヴァイオリンソナタ 作品10 J.99〜104
アダージョとロンド ヘ長調 J.115(クラリネット、ホルン、ファゴット各2)
クラリネットとピアノのためのメロディ ヘ長調 J.119
『シルヴァーナ』のアリアによる協奏的変奏曲 作品33 J.128(クラリネットとピアノ)
クラリネット五重奏曲 変ロ長調 作品34 J.182
クラリネットとピアノのための協奏的大二重奏曲 変ホ長調 作品48 J.204
ギターとピアノのためのたいへん易しいディヴェルティメント 作品38 J.207
フルート三重奏曲 ト短調 作品63 J.259
ピアノ曲[編集]
ピアノソナタ第1番ハ長調 作品24 J.138
ピアノソナタ第2番変イ長調 作品39 J.199
ピアノソナタ第3番ニ短調 作品49 J.206
ピアノソナタ第4番ホ短調 作品70 J.287
6つのフゲッタ 作品1 J.1〜6
創作主題による6つの変奏曲 ハ長調 作品2 J.7
12のアルマンド 作品4 J.15〜26
6つのエコセーズ J.29〜34
フォーグラーの『カストールとポリュックス』のエール・ド・バレエによる8つの変奏曲 ヘ長調 作品5 J.40
ビアンキの『ここにおいで、美しきドリーナよ』による7つの変奏曲 ハ長調 作品7 J.53
創作主題による7つの変奏曲 ヘ長調 作品9 J.55
モメント・カプリチオーソ 作品12 J.56
グランド・ポロネーズ 作品21 J.59
グランド・ポロネーズ 作品28 J.141
メユールの『エジプトのヨゼフ』のロマンスによる7つの変奏曲 ハ長調 作品28 J.141
フランス王妃マリー・ルイーズの親しみ易いワルツ J.143〜8(全18曲)
ロシア民謡『美しきミンカ、私は別れなければならない』による9つの変奏曲 作品40 J.179
ジプシーの歌による7つの変奏曲 作品55 J.219
華麗なるロンド『戯れごと』変ホ長調 作品62 J.252
舞踏への勧誘 変ニ長調 作品65 J.260
華麗なポラッカ『笑いこける』ホ長調 作品72 J.268
四手ピアノのための6つのやさしい小品 O作品3 J.9〜14
四手ピアノのための6つの小品 作品10 J.81〜86
四手ピアノのための6つの小品 作品60 J.248、264、253、242、236、255、266、254
歌曲
カンタータ:『戦争と勝利』作品44 (1815年)
『祝典カンタータ』作品58 (1818年)
重唱曲『自然と死』作品61 (1818年)
男声合唱曲:『リラと剣』作品42 (1814年)
5つの男声4部合唱曲 作品53 (1814年)
6つの男声4部合唱曲 作品68 (1812年)
ギター伴奏付5つの歌 作品13 (1818年)
6つの歌 作品15 (1818年)
8つの歌 作品64 (1819年)
6つの歌 作品66 (1818年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール・マリア・フォン・ウェーバー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.html#c2
ヴェルディ オペラ『椿姫』
La traviata: Act 1, Brindisi / Trinklied / Toast(乾杯の歌)
La traviata: Act 1, Brindisi / Trinklied / Toast
Ileana Cotrubas · Plácido Domingo · Chor der Bayerischen Staatsoper München
Bavarian State Orchestra · Carlos Kleiber
____
Carlos Kleiber -Verdi "La Traviata"- Live in München, 1975
Giuseppe Verdi “La traviata”
München, Bayrisches Staatsoper
26 April, 1975, Live Recording
Carlos Kleiber
Bayerische Staatsorchester und Chor
Violetta: Ileana Cotrubas
Alfredo: Giacomo Aragall
Giorgio: Wolfgang Brendel
Flora: Doris Linser Annina: Helena Jungwirth
Gastone: WillBrokmeir Barona Douphoi: Hans Wilbrink
Marchese d'Obigny: Kar Hoppe Dottore Grenvil: Max Pröbstl
Un commisssario: Paul Winter
0:00 Act1
27:35 Act2 scene 1
1:02:30 scene 2
1:22:58 Act3
ヴェルディ 「椿姫」
カルロス・クライバー(指揮)
バイエルン国立管弦楽団、同合唱団
ヴィオレッタ:イレアナ・コトルバス(Sp)
アルフレート:ジャコモ・アラガル(T)
ジョルジョ:ヴォルフガング・ブレンデル(Br)他
録音:1975年4月26日(ライヴ,モノラル)
▲△▽▼
『椿姫』は、ジュゼッペ・ヴェルディが1853年に発表したオペラである。
原題は『堕落した女(直訳は「道を踏み外した女」)』を意味する
La traviata(ラ・トラヴィアータ)。
日本では原作小説『椿姫』と同じ「椿姫」(仏: La Dame aux camélias(椿の花の貴婦人)の意訳)のタイトルで上演されることが多い。
作品は全3幕からなり、アレクサンドル・デュマ・フィスによる原作小説に基づきフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが台本を書いた。長編の原作から、要領良く主要なエピソードを取り上げて、聴きどころに富んだ構成となっている。悲劇でも音楽的には明るさ、華やかさ、力強さを失わないヴェルディの特質がもっとも良く発揮されており、人気の源泉となっている。
作曲の経緯
1852年、パリに滞在したヴェルディはデュマ・フィスの戯曲版『椿姫』の上演を見て感激し、当時新作の作曲依頼を受けていたヴェネツィアのフェニーチェ劇場のために、翌1853年初めに比較的短時間で作曲された。
初演の大失敗
初演当時は娼婦を主役にした作品ということで、イタリアの統治国側の検閲により道徳的な観点から問題視されたが、ヒロインが最後に死ぬということで上演がゆるされたと言われる[1]。初演は1853年3月6日、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で行われた。しかし、準備不足(作品の完成から初演まで数週間しかなかった)などから、初演では聴衆からも批評家からもブーイングを浴び、歴史的大失敗を喫した(蝶々夫人、カルメンと共に有名オペラの3大失敗ということがある)。しかし、翌年の同地での再演では入念なリハーサルを重ねた結果、聴衆に受け入れられた。その後も上演を重ねる毎に人気を呼び、今日ではヴェルディの代表作とされるだけでなく、世界のオペラ劇場の中でも最も上演回数が多い作品の一つに数えられる。
作品の背景
当時、先妻マルゲリータ亡き後のヴェルディは、歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニと同棲していた。ジュゼッピーナ自身も父親違いの3児の未婚の母であった。敬虔なカトリック信者であった彼としては、支援者でもあった先妻の父への気遣いもあり、後ろめたさはあったと思われる。そのため、原作がデュマ・フィスの実体験を元にしたように、ヴェルディ自身も自らの境遇との暗合を強く意識していたものと推察される。
原作の『椿の花の貴婦人』という名前を用いず、「道を踏み外した女、堕落した女」を意味する「トラヴィアータ」というタイトルをつけた。 またヒロインの名前は、奇しくも先妻と同名のマルグリットから、「スミレ」を意味するヴィオレッタに、恋人の名前はアルマン・デュヴァルからアルフレード・ジェルモンに変更された。
原作のヒロイン、マルグリットは娼婦であることを特に恥であるとも罪であるとも思ってはいないが、個人として誇り高く生きているよう描かれている。純情な青年アルマンの思いを受け入れた後でも、現実世界の立場(貴族の支援を受けているという立場)との折り合いをつけようとする。彼はそれを理解できずに嫉妬心と恋心の相克に悩んだり、衝動的に彼女を攻撃してしまい、それにより彼女は酷く傷つく。
オペラではヒロインの行動は原作よりもアルフレードとの純愛に偏って描かれており、現実との葛藤は第2幕の父ジェルモンとの対決場面に集約される感がある。この場面はこのオペラでも重要なところで、音楽的にも聴き所となった。ジェルモンは保守的な良識の持ち主かつ少々偽善的ながら基本的に善人として描かれている。父に比べるとアルフレードの役柄は比較的単純で、前2者の精神的年齢に達していない青年の行動を示す。
一人寂しく死を迎えたデュマ・フィスの恋人や小説のマルグリットの場合とは異なり、最後の幕で恋人は再会し、ヴィオレッタはジェルモン親子に看取られて亡くなってゆくのであるが、オペラの上演で見せ場を作る必要性からそうなったという見方のほか、作曲者がジュゼッピーナに配慮したのだとも考えられる。おそらく同様の理由で、原作で重要な意味を持つ、アルマンがマルグリットの墓を暴く場面や、「最後の一夜」の場面(バレエ(ノイマイヤー版)では最大の見せ場)は描かれない。
なお、今日の演出の中に、二人は実際には再会できず、第3幕のジェルモン父子の登場は死に際のヴィオレッタの幻覚であるという設定のものがある。日本の上演で、冒頭アルフレードが「自分は彼女の最期に間に合わなかった」と台詞で語るものもあったが、これは他の演出上の表現で語るべき、という批判があった。また、演出家・映画監督のフランコ・ゼフィレッリは、冒頭で死の床に横たわるヴィオレッタを見せることで、作品全体が彼女の心に浮かんだ回想であるように描いた。映画で常識的なフラッシュバックの手法を応用した優れたアイディアであり、第1幕と第3幕の前奏曲の共通性が大きな意味を持ってくる。映画版では、いったんヴィオレッタ一人に寄ったカメラが死の瞬間にズームアウトすると周りには他に誰もいないという映像で幻覚説をよりはっきりと打ち出した。
楽器編成
フルート2(第2奏者はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チンバッソ、ティンパニ、大太鼓(慣例的にシンバルを重ねて演奏される)、トライアングル、弦五部
舞台上
タンブリン(複数)、(闘牛士の)槍(複数)
舞台裏
シーンにより、次のように異なる楽器が要求される。
第1幕、別室から聞こえてくるワルツの音楽
バンダ(ヴェルディはピアノ譜を書いたのみで、具体的な編成を指定していない。)
第1幕、ヴィオレッタのアリア「花から花へ」
ハープ
第3幕、謝肉祭の合唱
ピッコロ2、クラリネット4、ホルン2、トロンボーン2、タンブリン(複数)、カスタネット(複数)
あらすじ
第1幕から
前奏曲
第3幕冒頭の場面の哀愁をおびた旋律が奏でられたのち、第2幕でヴィオレッタがアルフレードに別れを告げる場面の旋律が引き継ぐ。華やかに装飾しつつも、どこか物悲しい気分を作り、静かに終わる。
第1幕
ヴィオレッタの住む屋敷。今夜も賑やかなパーティーが開かれており、女主人は来客をもてなしている。そこへアルフレードがガストーネ子爵の紹介でやってきてヴィオレッタに紹介される。歌を1曲歌うよう勧められた彼はいったん辞退するが皆の再度の勧めでグラスを片手に準備をする。一同の沈黙と緊張のなかアルフレードは情熱を込めて歌い、ヴィオレッタが加わってデュエットになる。さらに皆が加わって華やかに歌い上げる(乾杯の歌)。
別室から、ヴィオレッタが用意した舞踏会の音楽が聞こえてくる。皆で行こうとすると、ヴィオレッタがめまいをおこして椅子に座り込む。何でもないからと一人部屋に残った彼女の所にアルフレードが来る。アルフレードはヴィオレッタに、こんな生活をしていてはいけないといい、1年前からあなたを好きだったと告白する(ある日、幸運にも)。ヴィオレッタは最初は軽くあしらうが、彼の真剣さに少し心を動かされる。ヴィオレッタは椿の花を渡して再会を約し、「この花がしおれるころに」という。有頂天になるアルフレードに「もう一度愛しているといってくれますか」とヴィオレッタが尋ねると、「はい、何度でも!」と彼は応ずる。
アルフレードに続き来客が去って一人になったヴィオレッタは物想いにふける。「不思議だわ」(作品を通じ、彼女はこの言葉を各幕で1回、計3回繰り返す)と純情な青年の求愛に心ときめかせている自分の心境をいぶかる。そして、彼こそ今まで待ち望んできた真実の恋の相手ではないかと考える(ああ、そは彼の人か)。しかし、現実に引き戻された彼女は「そんな馬鹿なことをいってはいけない。自分は今の生活から抜け出せる訳が無い。享楽的な人生を楽しむのよ」と自分に言い聞かせる。(花から花へ)彼女の中でアルフレードとの恋愛を肯定するもう一人の自分との葛藤に、千々に乱れる心を表す、コロラトゥーラ唱法を駆使した華やかな曲で幕切れとなる。
第2幕
第1場
パリ郊外のヴィオレッタの屋敷
二人の出会いから数か月が経った。ヴィオレッタは貴族のパトロンとの華やかな生活を捨て、この家でアルフレードと静かに暮らすことを選んだのである。彼女との生活の幸福を語るアルフレード(燃える心を)は、丁度帰宅した召使いから、この家での生活費のためにヴィオレッタが彼女の財産を売却していたことを聞き、気付かなかった自分を恥じるとともに売ったものを取り戻そうとパリに向かう。
そこへヴィオレッタが登場し、彼のパリ行きを聞き(理由は知らない)、いぶかる(2度目の「不思議ね」)。そこにアルフレードの父親ジョルジョ・ジェルモンが突如来訪する。驚きながらも礼儀正しく迎える彼女に、あたりを見回し「息子をたぶらかして、ずいぶんと贅沢な暮らしをしていますな」といきなりなじったため、ヴィオレッタは「私の家で女の私に失礼なことを言わないでください」と毅然と応じ、たじたじとなるジェルモンに秘密を打ち開ける。彼女が自分の財産を息子との生活のために手放しつつあることを知ったジェルモンは非礼を詫びる。アルフレードをどんなにか愛しているかと理由を説明する彼女に対し、ジェルモンは本題を切り出す。息子と別れてくれというのである。駄目ですと即座に断るヴィオレッタに、彼はアルフレードの妹の縁談に差し支えるから、助けて欲しいと迫る(天使のように清らかな娘)。ついに要求を受け入れ、彼女は身を引くことを決心する(お嬢様にお伝え下さい)。しかし単に家を去ってもアルフレードは追いかけてくるだろう。方法は任せて下さいと請合うヴィオレッタに礼を言って、父ジェルモンはいったん去る。
一人になったヴィオレッタは一計を案じ、アルフレードに手紙を書く。彼女はアルフレードと別れて元のパトロンとの生活に戻る、という偽りのメッセージを送ろうとしたのである。そこへアルフレードが帰宅する。彼は父が訪ねていくという手紙を見て、すでに父が来たとは知らずに、ヴィオレッタに大丈夫だなどという。ヴィオレッタは、アルフレードの父が来るなら席を外して庭にいると言いその場を去る。別れ際に彼女は「アルフレード、いつまでも愛しているわ、あなたも私と同じだけ愛して。さようなら」と第1幕の前奏曲の後半の旋律で歌う。アルフレードは彼女の様子を不審に思うが、父親が来ることに動揺しているのだと思い込む。アンニーナが登場し、ヴィオレッタが急遽出かけたこと、手紙を預かったことを告げる。不安にかられつつ手紙を読み、アルフレードは自分が裏切られたと思い込んで激怒する。そこに父ジェルモンが再登場して、息子を慰め、故郷のプロヴァンスに帰ろうとなだめる(プロヴァンスの海と陸)。しかし息子は自分の受けた恥辱を濯ぐのだといい、パリに向かう。
第2場
パリ市内のフローラの屋敷
相変わらず貴族と愛人たちが戯れあう日々である。丁度仮面舞踏会が開かれている。フローラとドビニー侯爵、グランヴィル医師らは、アルフレードとヴィオレッタが別れたという噂話をしている。ジプシーの占い師やマタドールなどの仮装の後、アルフレードが登場、彼らはカードの賭けを始める。そこにドゥフォール男爵にエスコートされたヴィオレッタが登場、ドゥフォールはアルフレードを避けるようヴィオレッタに指示する。アルフレードはつきまくり、ヴィオレッタへの皮肉を言う。それに激高したドゥフォールも賭けに参加するが、ドゥフォールはアルフレードに大負けする。そこに夕食の準備ができ、一同退場する。アルフレードとドゥフォールも後ほどの再戦を約束して退場する。アルフレードの身を案じたヴィオレッタは彼を呼び出し、自分のことなど忘れ、逃げて欲しいと訴える。それに対してアルフレードは復縁を迫るが、ジェルモンとの約束で真意を言えないヴィオレッタはドゥフォールを愛していると言ってしまう。それに激高したアルフレードは皆を呼び出し、これで借りは返したと叫んで先程賭けで得た札束をヴィオレッタに投げ付ける。自分の真意が伝わらず、皆の面前で侮辱された彼女は気を失う。一同がアルフレードを非難しているところに父ジェルモンが現れ、息子の行動を諌める。自分のやったことを恥じるアルフレードと、真相を言えない父ジェルモンの独白、アルフレードを思いやるヴィオレッタの独白、ヴィオレッタを思いやる皆の心境をうたい、ドゥフォールはアルフレードに決闘を申し込んで第2幕を終わる。
第3幕の前奏曲
第1幕前奏曲と同じ音楽が、やはり弦楽合奏で始まる。いっそう悲痛な調子で演奏され、アルフレードに愛を告げる音楽はもはや登場しない。切れ切れになったフレーズでひっそりと、弱々しく終わる。
第3幕
パリのヴィオレッタの屋敷
数か月が経った。アルフレードは男爵と決闘して勝ち、男爵は傷ついたが快方に向かっている。国外に出たアルフレードに父親は手紙を書いてヴィオレッタとの約束を告白し、交際を許すことを伝えてヴィオレッタの元にもどるよう促しており、そのことをヴィオレッタにも手紙を書いていた。しかし、皮肉なことにヴィオレッタの生命は尽きかけていた。持病の肺結核が進行していたのである。
幕が上がると、ヴィオレッタがベッドに寝ている。彼女はアルフレードの帰りを今か今かと待ちわびている。何度となく読んだジョルジョからの手紙をもう一度読む(ここは歌わずにほとんど朗読する)。読み終わった彼女は一言「もう遅いわ!」と叫び、過ぎた日を思って歌う(過ぎし日よ、さようなら)。「ああ、もう全ておしまい」と絶望的に歌い終わると、外でカーニバルの行進の歌声が聴こえる。
医師がやってきてヴィオレッタを診察し励ますが、アンニーナにはもう長くないことを告げる。そこにとうとうアルフレードが戻ってくる。再会を喜ぶ二人は、パリを出て田舎で二人楽しく暮らそうと語り会う(パリを離れて)。しかし、死期の迫ったヴィオレッタは倒れ臥す。あなたに会えた今、死にたくないとヴィオレッタは神に訴える。そこに医師や父ジェルモンが現れるが、どうすることもできない。ヴィオレッタはアルフレードに自分の肖像を託し、いつか良い女性が現れてあなたに恋したらこれを渡して欲しいと頼む。
彼女は「不思議だわ、新しい力がわいてくるよう」といいながらこと切れ、一同が泣き伏すなかで幕となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/椿姫_(オペラ)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/835.html
ユダヤ人の起源
海外の研究者はユダヤ人集団をひとくくりではなく「Cohen」、「Israelite」と「Levite」の3種類に分けて 調査していました。
・Cohen(Kohen)は世襲の司祭者の末裔らしく、アロンの男系子孫と考えられているらしい。 アロンはモーセの兄なので当然Levite出身であることは言うまでもないのですが、何故モーセの子孫がいないのか?は、これから調べてみます。
・Israeliteは俗人、要するに一般大衆のことらしい、勿論、政治家も首相も宗教従事者以外は皆ここに属するようです。
・Liviteは「主みずからが嗣業」だそうで、あのモーセの出身部族だそうです。Cohenの男系先祖はモーセの兄のアロンと考えられているらしい。 ということはCohenも本来はLeviteの一部のはずなのですが違うらしい。
また研究者はAshkenazi(アシュケナージ)とSephardi(セファルディ)に分けても調査しています。
Y-DNAの頻度分布を見ると
● CohenのY-DNA頻度分布はAshkenaziでもSephardisでもセム系のY-DNAであるY-DNA「J」が80%近くを占めており、 ユダヤ人本来のセム系の遺伝子を維持しているオリジナルJewであることが見て取れます。
いわゆる純系のレヴィ部族に近いと言え、由緒正しいユダヤ教徒=ユダヤ人のようです。「司祭」なので厳しく男系部族遺伝子を 守ってきたのでしょう。
● LeviteはSephardiとAshkenaziでかなり異なる様子です。
Ashkenajiではスラブ系Y-DNA「R1a」が52%も占め、10%のセム系「J」からスラブ人がレヴィ族を乗っ取った様子が見て取れます。 「主嗣系」にもかかわらずです。過去に何か入れ替わる歴史があったはずですが、一体何が起きたのだろう? Ashkenaziをにせユダヤ人と呼ぶ人もいますが、この遺伝子頻度を見るとAshkenajiのLeviteに関しては充分納得出来ます。
一方、Sephardiではスラブ系「R1a」は4%しかないのですが、代わりにインド亜大陸発の移行期のY-DNA「K」が23%も占めており、 バルカン系と思われるY-DNA「I」も20%を占めています。40%以上が他遺伝子に置き換わっているのです。 不思議な頻度分布です。主嗣系にもかかわらず、他の遺伝子の混入が激しい。一体どこで交配したのだろう? これではSephardiを 中東系と定義するのは非常に無理があります。
ともかくLeviteと呼ばれる集団は、本来のセム系ではなくすっかり他の遺伝子集団に変貌している。ユダヤ教にとってはLeviteという 存在はどうでも良い包末集団なのかもしれない。
いや、それも変です。Leviteを調べると包末どころか、他のCohenやIsraeliteのように相続できる土地や財産を持たない代わりに、 彼らから寄付・寄進を受ける神聖な立場のようです。 何しろモーセの出身家系の子孫のはずなのですから。その神聖な存在のはずにも関わらず、ある時Y-DNA「R1a」,「I」や「K」等の 異遺伝子集団にごっそりと乗っ取られたのだと思われます。 そうしてAshukenaziとSephardiは確立し、現代まで存続してきたようです。
● ユダヤ人全体としては、セム系Y-DNA「J」が約43%なので今でも中東系と言っても差し支えなさそうですが、次が約17%の 地中海(ラテン)系、11%のゲルマン系Y-DNA「R1b」と続きます。
いかにAshkenaziやSephardiのLeviteが異様で特徴的な特異なY-DNA頻度分布を持つかが改めて良くわかります。 とにかく「主嗣系」のLeviteが何のためにセム系以外の他Y-DNA遺伝子をAshkenajiでは71%も取り込んできたか、非常に興味深いのです。 当然そうしなければユダヤ教は消滅する危険性があったからには間違いなかったのでしょうが、どんなことが起きたのか?ディアスポラなのか? Leviteがヨーロッパ系Y-DNA遺伝子「E1b1b」,「I」,「R1a」と「R1b」を71%も取り込む過程で、現地の先住ヨーロッパ女性と 交配を強力に進めた結果、 mtDNAの約80%もがヨーロッパ系に変貌したものと考えられます。 アシュケナージやセファルディはユダヤ人が中東をでてヨーロッパ大陸に新天地を求めて移動したときに現地ヨーロッパの 先住女性と交配しながら 新しいユダヤ教徒=ユダヤ民族を形成していったものと思われます。 その間に現地改宗男性も教徒に加わり、アシュケナージはセム系からヨーロッパ的に大きく変貌していったと思われます。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/437.html
3. 中川隆[-14214] koaQ7Jey 2020年1月23日 10:41:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1070]
フルトヴェングラー _ ウェーバーの名盤
Weber:Overture of Euryanthe/Furtwängler
Furtwängler VPO 1954
_________
Weber: Overture Euryanthe, Op. 81 (Live)
Weber: Overture Euryanthe, Op. 81 (Live) · Berliner Philharmoniker · Wilhelm Furtwängler
_________
Wilhelm Furtwängler - Weber - Oberon Overture
Vienna Philharmonic Orchestra
_______
Furtwängler_" Invitation to the Waltz
" 舞踏への勧誘 (Weber-Berlioz)
フルトヴェングラー指揮、Berlin Philharmonic Orch.
78rpm / POLYDOR-45100, recorded in 12,1932
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.html#c3
4. 中川隆[-14213] koaQ7Jey 2020年1月23日 10:53:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1069]
ムラヴィンスキー _ ウェーバーの名盤
Weber - Oberon - Leningrad / Mravinsky 1978
Oberon - Overture
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Leningrad, 29.IV.1978
_________
Weber - Oberon - Leningrad / Mravinsky Tokyo 77
Oberon - Overture
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Tokyo, 1977
_______
Weber: Oberon Overture, Mravinsky & LeningradPO (1951)
Oberon, or The Elf King's Oath: Overture
Yevgeny Aleksandrovich Mravinsky (1903-1988), Conductor
Leningrad Philharmonic Orchestra (Saint Petersburg Philharmonic Orchestra)
Rec. 2 January 1951
_______
Weber: Invitation to the Dance, Mravinsky & USSRso (1949)
ヴェーバー 舞踏への勧誘 ムラヴィンスキー
(arranged by Louis Hector Berlioz)
Invitation to the Dance, Op. 65
Yevgeny Aleksandrovich Mravinsky (1903-1988), Conductor
USSR State Symphony Orchestra (State Academic Symphony Orchestra of the Russian Federation)
Rec. 1949, in Moscow
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.html#c4
5. 中川隆[-14212] koaQ7Jey 2020年1月23日 11:07:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1068]
ブルーノ・ワルター _ ウェーバーの名盤
Bruno Walter conducts Weber: Oberon, Ouverture (rare video)
1931 Berlin
_____________
Weber Oberon ouv Bruno Walter
Weber : Oberon Ouv,
San Francisco Symph. orch.
Bruno Walter
(live rec. 18.04.1954)
________
Paulina Carter plays Weber Konzertstück in F minor (dir. Bruno Walter)
Los Angeles Symphony Orchestra
dir. Bruno Walter
live recording, 1950
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.html#c5
5. 中川隆[-14211] koaQ7Jey 2020年1月23日 11:28:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1067]
ブルーノ・ワルター
Bruno Walter: Eine Kleine Nachtmusik 1931 in Restored Sound
Mozart: Eine Kleine Nachtmusik (Serenade No. 13 in G), K. 525
Symphony Orchestra conducted by Bruno Walter (1876-1962)
Recorded May, 1931 at Central Hall Westminster, London
78 rpm 12-inch: Columbia Set X 19
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c5
6. 中川隆[-14210] koaQ7Jey 2020年1月23日 11:30:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1066]
ブルーノ・ワルター
Mozart's "Eine Kleine Nachtmusik" - Bruno Walter, San Francisco Symphony
Recorded 1954. Live performance.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c6
8. 中川隆[-14209] koaQ7Jey 2020年1月23日 11:38:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1064]
ブルーノ・ワルター ウィーン・フィル
Bruno Walter / VPO - Mozart : Eine kleine Nachtmusik (1936) Pitch/ A=445
A=453 → A=445 (-1.7% speed down)
Vienna Philharmonic Orch.
recorded 12 /17, 1936
transferred from Jpn Columbia 78s / JS-23(2VH-234/5)
re-transferred
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c8
3. 中川隆[-14208] koaQ7Jey 2020年1月23日 12:07:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1063]
フルトヴェングラー _ グルックの名盤
Wilhelm Furtwängler : Dance of the blessed spirits
Collegium Musicum Italicum
________
WILHELM FURTWÄNGLER 'IPHIGENIE EN AULIDE' Gluck, Overture
Wiener Philharmoniker, diretti da Wilhelm Furtwangler, è del 1954.
______
Gluck - Alceste Overture - Berlin / Furtwängler 1942
Alceste - Overture
Berliner Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
Studio recording, Berlin, 28.X.1942
______
Gluck: Alceste Overture, Furtwängler & BPO (1951)
グルック アルチェステ序曲 フルトヴェングラー
Alceste: Overture
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 5 September 1951, at Schiller Theater, in Berlin (Live Recording)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/833.html#c3
4. 中川隆[-14207] koaQ7Jey 2020年1月23日 12:12:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1062]
フルトヴェングラー ウィーン・フィル
Alceste: Overture · Wiener Philharmoniker
Conductor: Wilhelm Furtwängler
Orchestra: Wiener Philharmoniker
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/833.html#c4
14. 中川隆[-14206] koaQ7Jey 2020年1月23日 12:22:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1061]
アイヌが今も社会の最底辺にいるのは組織的な迫害を受けていたからです。
アイヌが 日本人と同化したなら所得も日本人と同じにならないとおかしいですね。
アイヌ差別や迫害については本多勝一さんが60年前から取り上げていますが、完全に無視されました。最近チュチェ思想家と関係ができたのはアイヌの声が全く届かなかったからなのです。
ベートーヴェン オペラ 『フィデリオ』
LUDWIG VAN BEETHOVEN-FIDELIO-LEONARD BERNSTEIN-COMPLETO
Conductor Leonard Bernstein - 29 de Enero de 1978
Orchestra - Wiener Philharmoniker
Chorus - Wiener Staatsoper
Leonore - Gundula Janowitz
Florestan - René Kollo
Pizarro - Hans Sotin
Rocco - Manfred Jungwirth
Marzelline - Lucia Popp
Jaquino - Adolf Dallapozza
Fernando - Hans Helm
Erster Gefangene - Karl Terkal
Zweiter Gefangene - Alfred Sramek
_______
Beethoven "Fidelio" Hans Knappertsbusch
Fidelio, Oper in 2 Akten von Ludwig van Beethoven
Frederick Guthrie (Don Fernando)
Gustav Neidlinger (Don Pizarro)
Jan Peerce (Florestan)
Sena Jurinac (Leonore)
Dezsö Ernster (Rocco)
Maria Stader (Marzelline)
Gerhard Unger (Jaquino)
Georg Paskuda (1.Gefangener)
Paul Neuner (2. Gefangener)
Chor der Bayerischen Staatsoper
Bayerisches Staatsorchester
Dirigent: Hans Knappertsbusch
München, Dezember 1961
__________
Furtwängler Salzburger Festspiele, 1950
Kirsten Flagstad; Elisabeth Schwarzkopf; Julius Patzak; Josef Greindl
Kirsten Flagstad--Soprano--Leonore
Elisabeth Schwarzkopf--SOprano--Marzelline
Julius Patzak--Tenor--Florestan
Anton Dermota--Tenor--Jaquino
Josef Greindl--Bass--Rocco
Paul Schöffler--Pizarro
Hans Braun--Don Fernando
Wilhelm Furtwängler--Conductor
Orchestra der Wiener Staatsoper
Salzburger Festspiele, 1950
___________
Beethoven: Fidelio, Furtwängler & VPO (1953)
ベートーヴェン 歌劇「フィデリオ」フルトヴェングラー
Leonore: Martha Mödl (1912-2001), Soprano
Florestan: Wolfgang Windgassen (1914-1974), Tenor
Rocco: Gottlob Frick (1906-1994), Bass
Don Pizarro: Otto Edelmann (1917-2003), Bass
Don Fernando: Alfred Poell (1900-1968), Baritone
Marzelline: Sena Jurinac (1921-2011), Soprano
Jaquino: Rudolf Schock (1915-1986), Tenor
Prisoner: Alwin Hendricks, Tenor
Prisoner: Franz Bierbach (1911-1985), Bass
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
Vienna State Opera Chorus
Rec. 13-17 October 1953, at Musikvereinsaal, in Vienna
_________
Beethoven - Fidelio - Vienna / Furtwängler 1953 live
Fidelio
Don Fernando : Alfred Poell
Pizzaro : Otto Edelmann
Florestan : Wolfgang Windgassen
Leonore : Martha Mödl
Rocco : Gottlob Frick
Marzelline : Sena Jurinac
Jaquino : Rudolf Schock
Erster Gefangener : Alwin Hendriks
Zweiter Gefangener : Franz Bierbach
Chor der Wiener Staatsoper
Orchester der Wiener Staatsoper
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Vienna, 12.X.1953
_______
Fidelio 22/2/1941 MetOpera (Flagstad, Maison, Kipnis, Farell, Huehn, Janssen - Walter)
Fidelio - Beethoven
Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
22nd February, 1941
Leonore.................Kirsten Flagstad
Florestan...............René Maison
Don Pizarro...........Julius Huehn
Rocco....................Alexander Kipnis
Marzelline.............Marita Farell
Jaquino.................Karl Laufkötter
Don Fernando.......Herbert Janssen
First Prisoner........Emery Darcy
Second Prisoner...John Gurney
Conductor.............Bruno Walter
_____________
Fidelio 10/Mar/1951 MetOpera (Flagstad, Svanholm, Schöffler, Conner, Hines - Walter)
Metropolitan Opera
Matinée Broadcast: 10th March 1951
Leonore........................Kirsten Flagstad
Florestan......................Set Svanholm
Don Pizarro..................Paul Schöffler
Rocco...........................Dezsö Ernster
Marzelline....................Nadine Conner
Jaquino........................Peter Klein
Don Fernando.............Jerome Hines
First Prisoner...............Brian Sullivan
Second Prisoner.........George Cehanovsky
Conductor...................Bruno Walter
▲△▽▼
『フィデリオ』(Fidelio)作品72は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが完成させた唯一のオペラである。
原作はジャン・ニコラス・ブイイにより、ドイツ語台本はヨーゼフ・ゾンライトナーおよびゲオルク・フリードリヒ・トライチュケによる。
主人公レオノーレが「フィデリオ」という名で男性に変装して監獄に潜入し、政治犯として拘留されている夫フロレスタンを救出する物語。
ベートーヴェンが構想したオペラには、他に『ヴェスタの火』(Vestas Feuer)H115(1803年)があるが、結局1幕のみで未完となった。
第2幕のフロレスタンと再会した時に歌われるレオノーレのアリアには『皇帝ヨーゼフ2世葬送カンタータ』(WoO.87、1790年)の第4曲が転用されている。
この作品は、ベートーヴェンの作品群の中でも特に難産に見舞われた作品のひとつであり、成功を収める版が完成するまでに何度も書き直しがなされている。
このオペラはベートーヴェン中期の代表作に挙げられる。ブイイの原作の英雄主義的な性格や、当時のヨーロッパの知識人層に浸透し始めていた自由主義思想へのベートーヴェン自身の強い共感を背景として、英雄的な中期の作風が存分に反映されている。
ベートーヴェンの声楽曲によくあることだが、このオペラも歌手にとっては必ずしも歌いやすい音楽ではない。特に、レオノーレとフロレスタンのパートを歌うには高度な技術を要し、そうでなければ要求された緊張感を表現することは到底不可能である。このため、これらの配役を見事に演じた歌手は賛美の的となる。
囚人達の合唱、政治犯達の自由を謳う合唱、フロレスタンをレオノーレが助けにきた場面、そして救出が成功した場面などは、特筆に価する。最後は、ソリストや合唱が代わる代わるレオノーレの勝利を讃えて、フィナーレを迎える。多くの楽曲分野で後世の指標となる業績を残したベートーヴェンとしては完全な成功作とは言えない(ドイツオペラの最初の成果としても『魔笛』や『魔弾の射手』が挙げられることの方が多い)との批判もあるが、いちおう代表作のひとつとして今なお上演回数も多い。これによって作曲者はモーツァルトとともに、主要音楽分野のほとんどに代表作を残した稀有の存在となった。ドイツ圏ではバッハ以来、オペラをまったく残していない(または成功作がない)作曲家が多いだけに、貴重な作である。
作曲の経緯
『レオノーレ』第1稿
ブイイの原作は、役人だった頃トゥーレーヌで起こった事件を元に書かれた。これを基に作曲されたオペラの先行作品としては、1798年にピエール・ガヴォーによる『レオノール』、次いで1804年にドレスデンで初演されたフェルディナンド・パエールによる『レオノーラ』がある。これと前後して、ウィーンの主要歌劇場を手中に収めたブラウン男爵が腹心のゾンライトナーに原作をドイツ語に翻訳させ、ゾンライトナーを通じてベートーヴェンに作曲を依頼した。何度も書き直すなどの苦労もあったが、だいたい1年ぐらいで完成され、初演は1805年10月15日に内定した。
ところが、ナポレオン軍がウィーンに迫った(11月13日に占領)影響で、初演日は11月20日に繰り下げられた。ベートーヴェンは『レオノーレ』というタイトルでの上演を主張したが、前記2作との混同を避けるため、結局劇場側の推す『フィデリオ』のタイトルに決まり、アン・デア・ウィーン劇場でベートーヴェン自身の指揮により3日間上演された。しかし、何人かのベートーヴェンの友人と新聞記者を除けば、観客の大半がフランス軍兵士であり、ドイツ語を理解できる兵士がいなかったこともあり大失敗に終わっている。
『レオノーレ』第2稿
この初演ののち、ベートーヴェンは友人の勧めに従ってこのオペラを改訂することを決める。シュテファン・フォン・ブロイニングの協力を得て、『レオノーレ』を2幕のオペラへと改作し、さらに序曲も新しいものへ差し替えた。改訂は1805年暮れ頃から年明けにかけて行われ、1806年の3月29日にリッター・イグナーツ・ザイフリートの指揮により初演、4月10日に再演され、いずれも成功を収めた。しかし、ベートーヴェンとブラウン男爵との間の金銭トラブルから、それ以上は公演されなかった。このときの公演でも、ベートーヴェンのタイトル案『レオノーレ』は受け入れられなかった。
『フィデリオ』
第2稿による初演のあと、1810年に『フィデリオ』の楽譜が出版され、しばらく上演されることもなかったが、1810年頃からベートーヴェンの作品(例えば『ウェリントンの勝利』)が人気を博すようになり、ウィーンの劇場主や人気歌手がその人気に便乗しようと、ベートーヴェンに『フィデリオ』上演を盛んに打診するようになった。その中で、主要歌劇場ケルントナートーア劇場(ケルントネル門劇場)の運営を任されていたトライチュケの申し入れをベートーヴェンが台本の改訂を条件として受け入れ、同時に音楽の改訂も行われた。改訂は1814年3月から5月の2ヶ月間に行われ、その際、タイトルも『レオノーレ』に強くこだわることをやめて『フィデリオ』を受け入れることとなった。
初演は1814年5月23日に行われた。当時ベートーヴェンは難聴が急速に進んでいたが、ミヒャエル・ウムラウフの手助けを借りながら自分自身で指揮をした(1823年に行われたウィーン再演や、その翌年の『第九』の初演もこのコンビで行われた)。当時17歳だったシューベルトも教科書を売り払ってまでしてチケット代を捻出し、これを聴きに訪れている。ちなみに、このときのピツァロ役はヨハン・ミヒャエル・フォーグルで、彼は後に「シューベルティアーデ」を通じてシューベルトと深い友情を結ぶことになる。序曲は、初演当時は作曲が間に合わず、『アテネの廃墟』序曲で代用されたが、5月26日の上演から『フィデリオ』序曲を付して上演され、以後ウィーン会議のために来訪した諸侯のための上演を含め、1814年中に何度も上演された。
最終的に、この版は大成功を収めて、以後『フィデリオ』は重要なオペラのひとつとして知られるに至っている。 このオペラは3つの版ともに作品72として出版された。
上演史
欧米
ウィーンでの第3稿初演後、最も早く『フィデリオ』のウィーンの外での初演が行われたのは1814年11月21日のプラハで、指揮はカール・マリア・フォン・ウェーバーであった。ウェーバーは1823年4月29日のドレスデン初演も指揮するなど、『フィデリオ』の普及に陰ながら尽力した(ベートーヴェンはウェーバーに感謝の手紙を書いている)。1815年にはベルリン宮廷歌劇場でカール・グラーフ・フォン・ブリュール(モーツァルトの『魔笛』の上演などドイツ語オペラの普及に尽力)の指揮によりベルリン初演が行われ、1816年にはブダペストとヴァイマルで、1818年にはリガ、1819年にはサンクトペテルブルクで初演が行われた。
1820年代以降になるとパリなどでも上演されるようになり、さらに海を渡って1832年5月18日にはロンドンのヘイマーケット劇場で、1839年9月9日にはニューヨークでも初演された。19世紀が終わるまでには欧米の主要歌劇場で上演されるようになった一方で、スカラ座では1927年4月7日になって初めて上演されたが(指揮はアルトゥーロ・トスカニーニ)、不成功に終わった。
アメリカでは最初は評判が芳しくなかったが、アントン・ザイドルが1884年にメトロポリタン歌劇場において初めてドイツ語で上演(それまでは英語での上演。第二次世界大戦前後の頃も英語で上演)して以降は人気レパートリーとなった。メトでは主にワーグナー歌手が主役を務めた。
歌劇場と並んで『フィデリオ』を盛んに上演しているのがザルツブルク音楽祭である。ベートーヴェン没後100年の1927年にフランツ・シャルクの指揮によって初めて取り上げられて以来、戦前期にはリヒャルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス、トスカニーニ、ハンス・クナッパーツブッシュが、戦後にはヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、カール・ベーム、ロリン・マゼール、ゲオルク・ショルティ、レナード・バーンスタイン ら名指揮者・大指揮者が指揮をしている。 元来台詞つきのオペラであるが、台詞をカットした上演もしばしば行われている。古くはトスカニーニとNBC交響楽団による上演(1944年)、最近ではサイモン・ラトルによる上演がある。
『フィデリオ』は『アイーダ』と並んで杮落しなどの記念公演でよく上演される。例えば、1955年11月15日に行われたウィーン国立歌劇場再建記念公演(指揮はカール・ベーム)がそうである。
一方で負の歴史もある。ドイツ第三帝国時代には「ドイツ精神を高揚するオペラ」として盛んに上演された。トーマス・マンは、内容的にはナチの思想に合致しないはずの『フィデリオ』が、ナチ支配下で盛んに上演された不思議さを友人に書き送っている。
また、『フィデリオ』は「自由を勝ち取る」「解放の」オペラ(Befreiungsoper)とも呼ばれる。オーストリアは第二次世界大戦でナチス・ドイツに併合された形で敗戦を迎える。ウィーン国立歌劇場は終戦直前の1945年3月、戦火に焼けた。(爆撃した操縦士が駅と間違えたという説明がある。)1945年5月8日には正式に終戦となるが、すぐに国立歌劇場の再建が始まる。終戦と共にイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の4ヵ国に占領されたオーストリアは1955年10月26日にその4ヵ国との平和条約調印により中立国として占領軍から「解放」されて「自由」になる。(Österreich ist frei!) 翌月5日にその祝いをも兼ねて国立歌劇場は再開し、戦後初めてのオペラ上演となる。オーストリア共和国再建国・国立歌劇場再開の演目にベートーベンの「解放のオペラ」『フィデリオ』が選ばれたのである。1955年11月5日、4ヵ国占領から「自由」になったウィーンで、戦後再建されたウィーン国立歌劇場で『フィデリオ』はカール・ベームの指揮によって上演された。
原典版での上演
第3初演版が出版されてからはもっぱらそれによる上演が行われていたが、早くも1850年頃にベドルジハ・スメタナらが第1初演版による上演を試みている(実現はしなかった)。その後、初演100年に当たる1905年にリヒャルト・シュトラウスが第1初演版を上演した。第1初演版による上演の一大転機はジョン・エリオット・ガーディナーによる、ザルツブルク音楽祭での第1初演版をベースにした独自の版での上演である。ガーディナーの言によれば「現存する第1初演版の楽譜では不完全な部分が多々あるので、第2初演版なども参照して構成した」。なお、第1初演版と第3初演版の間に挟まれる第2初演版による上演もたまに行われており、2005年3月19日にはクリスティアン・アルミンク指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団によって、第2初演版の日本初演が行われた。
フィデリオ序曲
ベートーヴェンは『フィデリオ』への序曲を作曲するにあたり何度も推敲を重ねたため、「フィデリオ序曲」(あるいは「レオノーレ序曲」)としては4曲が書かれている。
1つ目のものは『レオノーレ』第1稿の初演に使用された序曲であり、現在『レオノーレ』序曲第2番として知られているものだと考えられている。
2つ目のものが『レオノーレ』第2稿の初演に使用された序曲で、現在『レオノーレ』序曲第3番として知られている。この版は4つの序曲のうち現在もっともよく知られており、また同時に最も高く評価されている版でもある。しかし、この版はオペラへの序曲とするにはあまりにも音楽的な内容が濃密に過ぎ、実用的な軽い序曲への変更を要する結果となった。この序曲は現在では演奏会用序曲として、オーケストラのコンサートなどの前プロで演奏されることが多い。
ベートーヴェンは続いて、1807年のプラハでの上演に向けて再び序曲を書き直した。これが「レオノーレ序曲」の第3稿であり、現在『レオノーレ』序曲第1番として知られているものだと考えられている。
最後の版は、『フィデリオ』のために作曲されたもので、これが現在『フィデリオ』序曲として知られている曲である。調性上の理由や軽快な曲想から、4つのうち最もオペラの序曲に適している。『フィデリオ』序曲の編成は以下の通り。
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、ティンパニ、弦五部
『レオノーレ』序曲第3番の扱いについて
マーラーは1904年に『フィデリオ』を指揮した際、第2幕第2場への間奏曲として『レオノーレ』序曲第3番を演奏し、賛否両論を巻き起こした。反対派の意見としては「表現力が壮大すぎて、終幕の力を弱めてしまう」といったものが多かった。一方で、演出面からすれば、第2幕の第1場と第2場では場面が明らかに違うので、場面転換のためにも必要という意見も多かった。もっとも、マーラー存命時から死後しばらくは、この方法は定着しなかった。
この習慣が定着しだしたのは1930年代になってからである。マーラーのやり方に賛同したフルトヴェングラーは次のように述べている。
たった1箇所『レオノーレ』序曲第3番が演奏されるのに相応しい場所がある。それはまた、マーラーによって打ち出されたウィーンの伝統に従うことにもなるのだが、それは第2幕の長い「牢獄の場」が終わったところである。この箇所に『レオノーレ』序曲を置くならば、それは『神々の黄昏』でジークフリートの死に続く「葬送行進曲」が占めるのと同じような意義を獲得するであろう。序曲は過去への追憶となり讃美となるのである。
("Ton und Wort, Aufsätze und Vorträge, 1918 bis 1954"より、日本語訳は『音と言葉』ISBN 978-4102024010で読むことができる)
今日でもマーラーのやり方で上演する指揮者もいる。ただし、この場面でこの序曲を使用すると、救出の場面を繰り返してしまうことになり、話の流れが乱れてしまうという意見も多い。最近では、上演で『レオノーレ』序曲第3番を演奏しない指揮者も多い。模範的な上演のウィーン国立歌劇場では現在でも普通は『レオノーレ』序曲第3番を入れている。
管弦楽
オペラ本体
フルート2、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、ティンパニ、弦五部
レオノーレ序曲第3番
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部
このほか、舞台裏にもB♭管のトランペット奏者1が配置される。
あらすじ
舞台は16世紀末、スペインのセビリャから数キロメートルほどのところの刑務所。
第1幕
ヤキーノとマルツェリーネの2人が舞台にいる。ヤキーノはマルツェリーネに「もし結婚してくれるなら」と頼む。しかし彼女は「絶対結婚しない、フィデリオに夢中だから」と返事する。フィデリオはレオノーレの扮装した姿である。(「ねえ、俺たちだけ。」Jetzt, Schätzchen, jetzt sind wir allein)
ヤキーノは退出し、マルツェリーネはフィデリオの妻になりたいと歌う。(「もし私があなたと結ばれていたら」O wär ich schon mit dir vereint)
ロッコとヤキーノが、フィデリオを探しながら登場する。フィデリオは、修理したばかりの鎖の重い荷物を運びながら入ってくる。ロッコはレオノーレの技術を褒めるが、彼の控えめな返答は、自分の娘の気を惹くためではないかと誤解する。マルツェリーネ、レオノーレ、ロッコおよびヤキーノは四重唱で、マルツェリーネのフィデリオへの愛について歌う。(「不思議な感情が私を満たす」Mir ist so wunderbar この歌はカノンの四重唱である)
ロッコはレオノーレに、知事がセビリャに出発したらすぐマルツェリーネと結婚して良い、と言う。彼はさらに、金が無ければ幸せになれないと言う。(「もし、余分な金がないなら」Hat man nicht auch Gold beineben)
レオノーレは金と同様に重要なものが欲しいと言う。そして、ロッコがある牢屋に立ち入る時は、絶対自分の手伝いを許さず、戻ってくる時は息も絶え絶えなのは何故か、知りたい、と尋ねる。ロッコは、特別の牢屋にいる囚人には会わせられない、その囚人は権力をもつ敵のせいで牢屋で2年間を無駄に過ごしているのだと言う。マルツェリーネは自分の父親に、レオノーレがそのような恐ろしい有様を見ないですむようにして欲しいと言う。対して、ロッコとレオノーレは勇気について歌う。じきにマルツェリーネも歌に加わる。(「大丈夫だ、息子よ」Gut, Söhnchen, gut)
ロッコを除く人々が退出する。ドン・ピツァロが護衛と共に登場し,行進曲が演奏される。ロッコはピツァロにメッセージを渡す。それには、ピツァロが暴君であるという告発の調査のために、大臣が抜き打ちで明日来所すると警告されていた。ピツァロは、監禁されているドン・フロレスタンは死んだと思われているし、大臣が見つけられるはずはない、と叫ぶ。代わりにピツァロがフロレスタンを殺してやると歌う。(「は! なんだって」Ha, welch ein Augenblick!)
ピツァロは大臣の到着の時にトランペットを鳴らすように命令する。彼はロッコに金を渡し、フロレスタンを殺すように言うが、ロッコは断る。(「ちょっとだんな。オレは急がないと」Jetzt, Alter, jetzt hat es Eile!)
かわりにピツァロは牢獄の中の古井戸の中に墓穴を掘るように命令する。墓穴ができたらロッコは音を出して知らせ、ピツァロは偶然を装って牢獄に入って自分でフロレスタンを殺す、と。
レオノーレはピツァロが筋書きを立てる様子は見ていたが、声は聞こえていなかった。彼女の心は波立つが、夫のことを考えて冷静を取り戻す。(「人間の屑! 何をしているつもり? かかってきなさい、希望は捨てないわ、最後には星が出る」Abscheulicher! Wo eilst du hin? ... Komm, Hoffnung, lass den letzten Stern)
ヤキーノはマルツェリーネに結婚を申し込むが、彼女は断る。レオノーレはフロレスタンを見つけたいと思い、哀れな囚人たちが気持ちの良い天気を楽しめるよう、庭を散歩させてはどうか、とロッコに提案する。マルツェリーネも同様に頼み、ロッコも囚人たちを少し自由にするためにピツァロの手を煩わせることに同意する。囚人たちはつかの間の自由を非常に喜び、嬉しそうに歌う。しかし囚われの身であることを思い出して、間もなく静まってしまう。(「なんて嬉しいことか」O welche Lust)
ロッコが再び登場し、ピツァロの了解を取り付けたとレオノーレに語る。ピツァロは結婚を許し、ロッコの牢獄の巡視にレオノーレの同行も許されたと。(「どうだったのか,話そう」Nun sprecht, wie ging's?)
ロッコが1時間以内に殺さないければならないと言っている囚人の独房に行くために、彼らは準備する。レオノーレは震えているので、ロッコは残るように言ったが、彼女は行くと言い張る。彼らが出かける準備が整った頃、ヤキーノとマルツェリーネが駆け込み、ロッコに急いで来てほしいと言う。ピツァロが、囚人たちの自由を見て怒り狂っていると言う。(「お父さん,お父さん,急いで」Ach, Vater, Vater, eilt!)
彼らが動く前、ピツァロが登場し、説明を求めた。ロッコは、王の命名日を祝っているのだと作り話をして、ピツァロに怒りを収めるように言う。ピツァロは墓穴掘りを急ぐように言い、囚人を再び牢屋に入れるように言う。ロッコ、レオノーレ、ヤキーノ、マルツェリーネは渋々囚人たちを牢屋に戻す。(「さようなら,暖かな日光」Leb wohl, du warmes Sonnenlicht)
第2幕
フロレスタンは一人で、牢獄の奥深くの独房にいる。彼ははじめ、神への信頼を歌い、その次にレオノーレが自分を救いにやってくる幻想を見る。(「神よ、ここは暗い」Gott! Welch Dunkel hier!―「人生の春の日に」In des Lebens Frühlingstagen)
彼は倒れて眠り込んでしまう。ロッコとレオノーレは彼の墓穴を掘りにやってきて、フロレスタンが眠っているのを見つける。掘りながらロッコはレオノーレを急かす。(「この地下房はとても寒い」Wie kalt ist es in diesem unterirdischen Gewölbe! この歌は墓掘り人夫のデュエットである)
フロレスタンが目覚め、レオノーレは彼に気づく。フロレスタンは、自分がピツァロに囚われていることを思い出し、自分の妻であるレオノーレ・フロレスタンにメッセージを送ってくれと頼むが、ロッコはそれは不可能だと返事する。フロレスタンは一滴でいいから飲み物が欲しいと乞い、ロッコはレオノーレに飲み物をやるように言う。フロレスタンはレオノーレに気づかないが、彼女が天国で報われるだろうと言う。(「良い世界であなたは報われるだろう」Euch werde Lohn in bessern Welten)
彼女は、彼にパンの皮を与えさせてくれと願い出て、ロッコはそれを許す。フロレスタンはそれを食べる。
ロッコは命令に従ってピツァロのために警報を鳴らし、現れたピツァロは準備が整ったか尋ねる。ロッコはそうだと言い、レオノーレに立ち去るように命じる。しかし彼女は代わりに物陰に隠れる。ピツァロはフロレスタンに、彼の殺人を告発したのは自分だと明かす。(「彼を殺せ! しかし、その前に彼に知らせてやる」Er sterbe! Doch er soll erst wissen)
ピツァロが短剣を振り回すと、レオノーレが物陰から飛び出してピツァロとフロレスタンの間に立ち、フロレスタンを殺すならその前に妻の自分を殺さなくてはならないと言う。ピツァロは二人を一度に殺すチャンスだと喜ぶ。レオノーレがピストルを取り出すまでは。
ちょうどその時、大臣の来訪を知らせるトランペットが聞こえる。兵隊を伴ったヤキーノが現れ、大臣が門で待っていると告げる。ロッコは兵隊たちに、ピツァロに供して上に行くように話す。ピツァロが復讐を誓うのに対して、フロレスタンとレオノーレは勝利の歌を歌い、ロッコはこれから何が起こるのだろうと恐れる。(「復讐の鐘が鳴る」Es schlägt der Rache Stunde)
フロレスタンとレオノーレは共に愛の歌を歌う。(「おお、名付けようのない歓喜よ!」O namenlose Freude!)
時々、ここでレオノーレ序曲3番が演奏される。
囚人たちと町の人々が、正義の訪れた日時の歌を歌う。(「この日に敬礼!」Heil sei dem Tag!)
大臣ドン・フェルナンドは暴政は終わったと宣言する。ロッコが、フロレスタンとレオノーレとともに登場し、彼らを助けて欲しいとドン・フェルナンドに頼む。(「助けてください。この哀れな人々を!」Wohlan, so helfet! Helft den Armen!)
ロッコは、レオノーレが自分の夫を助けるために、変装してフェデリオとして働いてきたことを説明する。マルツェリーネはショックを受ける。ロッコはピツァロの殺人計画を話し、ピツァロは牢獄へ入れられる。レオノーレの手によってフロレスタンが鎖から解き放され、群衆はレオノーレの夫に対する忠節を讃えて歌う。(「良い妻を娶った者は」Wer ein holdes Weib errungen)
https://ja.wikipedia.org/wiki/フィデリオ
6. 中川隆[-14205] koaQ7Jey 2020年1月23日 16:19:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1059]
共産主義は極悪? 2020年01月23日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1007.html
今はネトウヨの全盛期、ネット界を見渡せば、どこもかしこもネトウヨだらけ。
安倍晋三自身が極右ネトウヨの権化みたいな人物で、まるで赤狩り時代の共和党みたいに、共産主義の中身を一度も学んだこともないのに、ペスト菌や天然痘のように無条件の拒絶反応を示し、「共産主義を許すな!」と全力で唱和する。
まさに情緒的集団扇動の見本のような有様だ。若者の多くも、共産主義運動について、何一つ知識もないまま、それが時代の最先端の流行であるかのようにファッションとして反共主義を口に出している。
私が、過去30年以上、ネットにかかわってきたなかで、共産主義の本当の意味を理解している人には、ほとんど出会ったことがない。
最近、私が高く評価しているオリーブの木の黒川党首でさえ、共産主義について、歴史的な反共主義の立場でのみ捉えていて、その本当の意味を理解していない。
https://www.youtube.com/watch?v=tllhNFi7WCo
彼は、ソ連共産党や日本共産党が、共産主義と信じ込んでいるのだが、私に言わせれば、まったくピント外れの間違った知識である。
コミンテルンに代表される世界の共産党は、「共産」ではなく、単に官僚利権主義である。「共産」の本当の意味は、すべての民衆が平等に、幸福を追求できるという意味であって、国家組織を利用して官僚が特権利益を得ることではない。
表向きの共産主義国というのは、共産党政権という組織を利用して、官僚が甘い汁を吸い続けるための機構であって、あんなものが真実の共産主義であろうはずがない。
中国共産党こそが、官僚利権主義の代表的事例であって、単に、マルクス主義思想の上面を大義名分に利用しているだけだ。
共産主義を本当に理解するには、その対極にある思想を知ることが手っ取り早い。
共産主義の対極思想は、時代によって異なるが、半世紀前では、アメリカ共和党の「赤狩り思想」リバタリアニズムを考えればよいし、今では、リバタリアニズムが生み出した「新自由主義」を考えればよい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9
新自由主義とは、反ケインズ学派を代表するミルトン・フリードマンが提唱した経済学説である。
ケインズは、景気の根底に「需要=消費」を据えて、社会の富の流動性を高めるためには、底辺の消費者を富ませることが必要であり、積極的な財政出動を行ってでも、底辺の労働者たちの消費力を高めることで、社会全体の景気の高揚を生み出してゆくという思想である。
ただし、ケインズは、ニューデール大恐慌からの回復の切り札として、世界戦争を示唆し、ケインズ学徒であったルーズベルトは、故意に第二次大戦を演出したともいわれる。
なお、ケインズと非常に似た考えの、ドイツ人、ヒャルマル・シャハトは、アウトバーン建設を公共事業の切り札として、600万人失業者の救済を通じて、ヒトラードイツの復興に大成功している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
フリードマンは、すべてのアメリカの大金持ち、共和党リバタリアンを代表して、ケインズの提起した「底辺の労働者を富ませる」という思想が、共産主義だとして大反対し、「金持ちを豊かにすれば、おこぼれ(トリクルダウン)によって底辺も豊かになる」と真逆の思想を主張した。
「底辺の労働者を富ませるなんてのは、もっての他で、むしろ国家の規制を撤廃し金持ちにどんどん金を与えて、自由に金儲けさせることだけが経済全体を発展させる」
という思想であって、これはアベノミクスと同じであり、安倍がフリードマン新自由主義思想の影響下に金持ち、大企業最優遇策、無制限の金融緩和=じゃぶじゃぶ金を刷って、どんどん金持ちに垂れ流すという政策を行っている理由は、共産主義が提示する「国家による経済規制」の真逆を行けば、国家は自由に発展するとい新自由主義の妄想を、そのまま実現しようとしたものなのだ。
つまり、新自由主義者は、「経済がうまくいかないのは、国家官僚による共産主義的な規制のせいだ」 と決めつけていて、「大きな国家を支配する官僚制度こそ共産主義」とみているわけだ。
だから、国家による、あらゆる規制を目の敵にしていて、国は最低限の「小さな政府」にして、経済活動には何の規制も設けず、金持ちに自由に金儲けさせる社会こそ、理想社会だと言っているわけだ。
こうした思想の結果として、例えば、アメリカの保険業界は、CEOが年間数百億円の収入を得ることと引き換えに、大衆が骨折しただけで治療費を2000万円も請求するという地獄社会が成立している。
また一般的な自営者が、ありふれた健康保険に入ろうとすると、一人毎月10万円もの保険料を徴収する社会になっている。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-990.html
また、先祖代々受け継がれてきた農業のなかで、種苗を自分で採取生産すると、罰金1000万円、懲役10年という信じがたい罰則を設けて、カーギルやモンサント(バイエル)のようなバイオ種苗の独占業界を保護するという事態が起きている。
TPPのISD条項では、大企業の金儲けを邪魔した国家に対し、賠償請求を行う条約まで作ろうとしている。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-977.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E8%B3%87%E5%AE%B6%E5%AF%BE%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%B4%9B%E4%BA%89%E8%A7%A3%E6%B1%BA
例えば、日本がTPP条約に加盟すれば、日本の廉価な健康保険制度がアメリカ保険業界の利権を損ねているとISD裁判に訴え出れば、日本の健保制度をやめさせて、アメリカなみの盲腸手術600万円という治療費が請求される社会になる可能性がある。
「金持ちに、もっと金儲けさせろ!」
「大企業に、もっと利権を与えよ!」
というのが、新自由主義の思想の根元であり、この利権を世界共通にするために「グローバルスタンダード」という、世界標準の経済ルール強要制度を作り出してた。
しかし、ここで「グローバルスタンダード」→「ワンワールド社会」
という概念を口にしているメンバーの正体を調べてゆくと、とんでもない歴史的なカラクリが浮かび上がってくる。
実は、「共産主義」という概念を世界に公開した張本人、マルクス・エンゲルス・レーニンは、すべてユダヤ人であった。
ロシア革命を経済的にバックアップしたのもロスチャイルドやアーマンドハマーのようなユダヤ人であった。ロシア革命の主体を担った、レーニン・トロツキー・ブハーリン、それにスターリンに至るまで、みなユダヤ人であった。
さらに、新自由主義思想を公開したフリードマンもユダヤ人であった。ゴールドマンサックスも、FRBもユダヤ人銀行である。
世界に2000万人しかいないはずのユダヤ人が、人類のあらゆる思想・経済に顔を出していて、結局、グローバルスタンダード・ワンワールドという思想の背後に、実はロスチャイルド、ユダヤ金融資本が存在していることがわかる。
世界経済を事実上動かしている、ユダヤファンドグループ、ドイツ銀行、ゴールドマンサックス・モルガンスタンレー・JPモルガン、シティ・アメリカバンク、それに大本のFRB・BISまでも、ユダヤ人の支配下にある。
さらに恐ろしいのは、彼らユダヤ人=ユダヤ教徒が信奉する聖典であるタルムードのなかに、「ユダヤ人だけが神に選ばれた人間であり、他の人種、異教徒は、すべてユダヤ人に奉仕するための家畜(ゴイム)である」
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-75.html
と、明確に書かれていて、全世界のユダヤ人=ユダヤ教徒には、このタルムードの世界観を実現し、さらに旧約聖書創世記15章に記載された「約束の地」を回復させる義務(シオニズムという)があることが、民族の目標、宗教的理念として描かれていることである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-987.html
ユダヤ人の世界支配は、決して権力奪取ではない。それはフリーメーソンという「友愛団体」を利用して、国家の中枢に入り込み、その経済活動を支配することである。
その国の中央銀行(FRBや日銀を意味する)を乗っ取ることに成功すれば、その国の通貨にはフリーメーソンの真のマーク「ルシファーの眼」が印刷される。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-397.html
こうして、最終的には、神に選ばれた民族であるユダヤ教徒が、全世界を支配することになり、これをグルーバルスタンダード=ワンワールドと呼ぶのである。
まあ、しかし「ユダヤ陰謀論」を持ち出すと、話が複雑になりすぎて、読者も何がなんだかわからなくなる恐れがあるので、ユダヤ問題を抜いて話を進めよう。
ただ、トランプ大統領が、アメリカ福音派リバタリアンの支持によって当選し、正式なユダヤ教徒として、エルサレムの嘆きの壁を参拝し、イスラエルとユダヤ教徒ために活動すると事実上、宣言していることだけは理解していただきたい。
アメリカはユダヤ人の利権を守るためにある国なのだ。
もう一度「共産主義」に戻るが、「共産主義というのは、特権階級を作らない、すべての国民が平等な権利を持った国家を作ろうという運動」である。
ある特定の邪心を抱いた人間が、国中の富を独り占めし、他の人々を自分のための奴隷として使役しようと考えることを許さない体制のことである。
特別の大金持ちや究極の貧乏人を作らず、国全体が平均化し、平等な社会を作ろうという運動であり、このため、国によって特定の人だけが大金持ちになったり、特定の人だけが貧乏になったりの仕組みを監視して、一定の経済規制を作り、みんなが住みやすい社会を作ろうというわけだ。
つまり、個人の金儲けを優先させるのか、みんなの平等を優先させるのかが問題なのだ。
だから、共産主義を否定する社会では、特権を持った人々がたくさん出てきて、立場の弱い人を、自分の奴隷のように使役するという社会が成立するわけで、これを認めるのが新自由主義の本当の意味である。
つまり、新自由主義社会とは、格差・差別を許容する社会のことである。
戦後の一定時期、日本社会が「自由主義の皮を被った社会主義」と揶揄されていたのは、大きな累進課税や、大企業に対する課税、貧乏人に対する優遇措置などから、国民の平等を目指す社会主義思想だと受け取られていたからで、中曽根康弘から始まって小泉政権で、竹中平蔵らが、こうした平等主義、社会的保障を廃止し、社会的強者の利権を守る、弱肉強食の社会システム、差別社会に変えていったのである。
つまり、新自由主義は、大金持ちに、ますます金を与え、貧乏人をますます貧乏にするシステムだと考えたほうがいい。
日本では、新自由主義思想が、竹中平蔵らの奮闘により、大きく力をつけ、社会の主流になり、若者たちも、平等思想を否定して、差別社会を容認する右翼社会に変わっていった。
だが、今の日本が、安倍晋三自民党の愚かな経済崩壊政策のせいで成長が止まり、日本全体が競争力を失って「後進国」の地位に貶められながら、世界中から観光客が殺到するようになっている本当の理由は、日本の戦後「社会主義時代」に、人々の平等が保障され、人が人を愛する思想が行き渡っていて、とても心優しい、思いやりのある国民性が作られていて、このことに外国から来た人々が感動するからである。
つまり、竹中平蔵らが、人々に格差と差別を持ち込んで、人間性崩壊の社会に変えようとしていることに対し、多くの日本人が、戦後の平等社会のなかで、人を大切にする人生観、社会観を身につけていて、それが後進国に転落した日本社会を辛うじて支え、救っていることに気づくべきである。
今後、我々が、どちらの道を選ぶのか?
竹中平蔵や安倍晋三、麻生太郎らが求めている、苛酷な差別社会に向かって進むのか? それとも、戦後の助け合い社会のなかで経験してきた、差別のない、平等で人を愛する社会に戻るのか? が問われている。
冒頭に紹介した、オリーブの木の黒田君は、はたして、どちらを向いているのだろう?
彼は、日本経済の問題点を正しく分析して、何をするべきかが見えているようにも思うが、一方で、右翼的立場で靖国神社に参拝したりして、国家主義の道を進もうとしているようにも見える。
今、YouTubeを覗くと、大半がネトウヨ系の安倍政権応援コンテンツばかりであり、「差別のない平等な社会」を目指そうとする思想が、ほとんど見えない。
私は、ブログのなかで、世界がすでに2極分裂社会に突入していると書いた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-79.html
つまり、2極に分裂した社会は、もう互いに交流し対話することもなく、「カラスの勝手」のように、それぞれが我が道を行くことになる。
バシャールは2050年頃には、ネガティブ社会は消えてしまうと予言している。
人を愛する社会を選ぶポジティブな思想の社会と、差別と格差を容認し、他人を蹴落として、自分だけが成り上がろうとするネガティブな社会に分裂し、もう対話も交流もなく、まるでパラレルワールドのように、それぞれが進行してゆくのである。
私は、差別が嫌だ。特権階級に成り上がりたければ、そうすればよい。
私は、大金持ちになることよりも、人の温かい笑顔を見られる社会を選ぶ。
私は、大都会の高層ビルに囲まれた生活よりも、カモシカや熊が出てくる大自然と融合した土地を選ぶ。
私の食料は、人々の笑顔なのだ。私は利他主義の社会に生きたい。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1007.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/702.html#c6
ベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』
Beethoven - Missa Solemnis - Berlin / Böhm
Maria Stader
Marianna Radev
Anton Dermota
Josef Greindl
Chor der St. Hedwigs-Kathedrale
Berliner Philharmoniker
Karl Böhm
Studio recording, Berlin, I.1955
________
Carl Schuricht Beethoven - Missa Solemnis [1957rec]
Maria Stader
Elsa Cavelti
Ernst Haefliger
Heinz Rehfuss
Carl Schuricht
St. Hedwig's Cathedral Choir
Northwest German Radio Symphony Orchestra
1957年録音
____________
Beethoven: Missa solemnis, Toscanini & NBCso (1940)
Zinka Milanov (1906-1989), Soprano
Bruna Castagna (1905-1983), Contralto
Jussi Björling (1911-1960), Tenor
Alexander Kipnis (1891-1978), Bass
Westminster Choir
Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra
Rec. 28 December 1940, in New York (Live Recording)
_________
Beethoven: Missa solemnis, Toscanini & NBCso (1953)
Lois Marshall (1924-1997), Soprano
Katherine Ann "Nan" Merriman (1920-2012), Mezzo Soprano
Eugene Conley (1908-1981), Tenor
Jerome Hines (1921-2003), Bass
Robert Shaw Chorale
Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra
Rec. 30-31 March & 2 April 1953, at Carnegie Hall, in New York
_________
Beethoven - Missa Solemnis - Kölner RSO / Klemperer
Annelies Kupper
Sieglinde Wagner
Rudolf Schock
Josef Greindl
Kölner Rundfunkchor
Chor des Norddeutschen Rundfunks
Kölner Rundfunk-Sinfonie-Orchester
Otto Klemperer
Radio recording, Cologne, 1955
________
Beethoven - Missa solemnis - Amsterdam / Klemperer
Elisabeth Schwarkopf
Nan Merriman
József Simándy
Heinz Rehfuß
Tonkunstkoor Amsterdam
Collegium Musicum Amstelodamense
Koninklijk Concertgebouworkest
Otto Klemperer
Live recording, Amsterdam, 17.V.1957
________
Beethoven "Missa Solemnis Otto Klemperer
Elisabeth Söderström, Soprano
Marga Höffgen, Contralto
Waldemar Kmentt, Tenor
Martti Talvela, Bass
New Philharmonia Chorus
Wilhelm Pitz, Chorusmaster
New Philharmonia Orchestra
Otto Klemperer, Conductor
1965
▲△▽▼
ミサ・ソレムニス(Missa solemnis 盛儀ミサ)は、ミサの名称の一つ。典礼文を唱えて行われる「読唱ミサ(missa lecta)」、歌唱によって行われる「歌ミサ(missa cantata)」に対し、主司式司祭と助祭・副助祭による読唱ミサに、合唱による歌ミサを伴うものを呼ぶ[1][2]。音楽用語としては『荘厳ミサ曲(そうごんみさきょく)』と訳されることも多いが、日本カトリック教会では、現在は荘厳ミサを廃して「盛儀ミサ」を正式名としている[2]。
ベートーヴェンのミサ・ソレムニス ニ長調 作品123 は、1823年に完成された晩年の大曲である。
献呈の相手は親交のあったルドルフ大公。
当初、大公の大司教就任祝いとして書き始められた。しかし、書き進むうちに次第に構想が広がって、就任式に間に合わなくなり、完成までに結局5年間を要した。実際に大公が演奏したかは不明だが、現在でもベートーヴェンが書いた最後の大宗教曲として広く演奏されている。
概要
ベートーヴェンは壮年期のミサ曲ハ長調と、晩年のミサ・ソレムニス ニ長調を残しているが、前者は伝統的な教会音楽の上に作られた作品であるのに対し、後者は単なる教会音楽を超えたより深く普遍的なものを含む、と見るのが一般的である。その理由としては、テキスト自体はカトリックの典礼文に則っているものの、『クレド』以降の歌詞の取り扱い方が伝統的なそれとかなり異なっている事などが挙げられる。また、この作品は主に教会でなく演奏会で演奏され、ミサの式典ではごく稀にオーストリアなどで演奏されるに過ぎない。
ベートーヴェンは権威的・教条主義的なキリスト教会に対しては十分批判的な思想と宗教観を持っていたという事も注目されてきた。
例えば、ワーグナーはこのミサ曲を「真正なベートーヴェン的精神を持つ、純粋な交響曲的作品」と評し、20世紀を代表するベートーヴェン研究家のパウル・ベッカーなども、「(バッハのような)素直な信仰から生じる歌詞に(音楽を)合わせる様な処理はベートーヴェンの考えには現れえず」、音楽家として自身の深く自由な思想を、単なる歌詞の意味を超越した音楽によって表現した、と語っている。
一方、ベッカーと相対する研究家ヴァルター・リーツラーは、作品の成立過程から見ても、これは教会で演奏されるべき作品である、すなわち「一つ一つのミサの言葉をベートーヴェンが重視した事を見逃してはならない」とした。しかし、その歌詞は「生成発展する音楽の有機的な連関に組み入れられたため」、おのずとバッハやパレストリーナのミサ曲の歌詞とは異なる意味を持ち、しかもより「深く正しい」意味を持つと論じた。ゆえに「(この曲について)心理的な写実主義を論じたあらゆる説明は誤りであるか少なくとも浅薄である」と結論付けている。
何れにせよ、この曲はただ歌詞に見合った曲をつけたような旧来型のミサ曲ではなく、ミサの言葉の外面的な意味よりも豊かな内容を含む交響曲的なミサ曲である、と見るのが一般的である。
内容
同時期に作曲された第9交響曲が主にホモフォニーで書かれているのに対し、ミサ・ソレムニスはベートーヴェン晩年独特のポリフォニックな表現が主体となっているのも特徴である。この曲における対位法はバッハなどのそれに比べてある意味で簡素であり、その技巧や意匠の披瀝が中心となっている作品ではないが、『グローリア』、『クレド』などは、かなりアクロバティックな対位法的処理を含む。
『キリエ』冒頭には「心より出で−願わくば再び−心に向かうよう」にと記され、『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれている。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示している。
『アニュス・デイ』においては、ヘンデルの影響も古くから指摘されている。
初演
1824年4月7日にサンクトペテルブルクでの「音楽家未亡人のための慈善演奏会」で初演されている。ウィーン初演は1ヵ月後の5月7日で交響曲第9番とともに演奏されたが、全曲ではなく、『キリエ』、『クレド』、『アニュス・デイ』しか演奏されなかった。楽譜の初出版は1827年。
編成
独唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)、混声四部合唱
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3(アルト、テナー、バス)、ティンパニ、オルガン、弦五部
構成
ミサ曲の通常文による歌詞はこちらなどを参照のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E6%9B%B2#ミサ曲の構成
キリエ(Kyrie)
3部形式。楽譜冒頭部に有名な、「Vom Herzen―Möge es wieder zu Herzen gehen」という言葉が記されている。「Kyrie eleison」による第1部(アッサイ・ソステヌート)と、「Christe eleison」による第2部(アンダンテ・アッサイ・ベン・マルカート)よりなる。第3部は第1部を再現する。
グローリア(Gloria)
6部よりなり、いかにもベートーヴェンのニ長調といった激しい高揚感に溢れる曲である。光輝に満ちた爆発的な響きでアレグロ・ヴィヴァーチェの第1部が開始され、「Gloria in excelsis Deo」が歌われる。第2部はメノ・アレグロで「Gratias agimus tibi...」が歌われ、第3部は再び冒頭の爆発的な主題で「Domine Deus,...」が歌われる。ラルゲットの第4部では四重唱で「Qui tollis...」が静かに歌われる。「Quoniam tu solus sanctus,...」からアレグロ・マエストーソの勢いのある第5部が開始され、そして「in Gloria Dei Patris,Amen」による第6部の大変充実したフーガ(アレグロ・マ・ノン・トロッポ・ベン・マルカート)に至る。フーガ後半ではテンポがプレストへと加速され、第1部の爆発的な主題も加わって、ベートーヴェンらしい華々しいクライマックスを築く。
クレド(Credo)
3部形式。アレグロ・マ・ノン・トロッポで合唱が力強く「Credo...」と歌い、輝かしい第1部が開始される。「Et incarnatus est...」から始まる第2部は、テンポ・調性を変えながらキリストの生誕、受難、昇天を示す、パレストリーナ風の部分である。第3部の始めは第1部の力強い主題がまず再現される。その後、「Et vitam venturi saecli. Amen.」から静かに変ロ長調のフーガが開始され確固とした意志が示される。このフーガは極めて壮大かつ壮麗なもので、ベートーヴェンが遺したフーガの中で、内容においても形式においても、最高のものの一つであり、ベートーヴェン晩年の精神的深さを端的に示す箇所として注目されてきた。フーガがクライマックスに達した後、「Amen」を繰り返して曲を閉じる。
サンクトゥス(Sanctus)/ベネディクトゥス(Benedictus)
第1部のSanctusでは、アダージョで静かに「Sanctus,...」が唱えられる。通常のミサ曲ではSanctusは最強音で奏されるのが通例であり、ここもベートーヴェンのミサ・ソレムニスの独特な点である。その後、勢いのある「Pleni sunt,...」「Osanna in excelsis」が高らかに奏され、テンポは再びアダージョに戻る。フルートと独奏ヴァイオリンの下降音から静かに第2部Benedictus(アンダンテ・モルト・カンタービレ・エ・ノン・トロッポ・モッソ)が開始される。独奏ヴァイオリンはオブリガード風に通奏される。Benedictusに与えられた旋律は、ベートーヴェンが用いた旋律の中でもとりわけ美しいものである。Benedictusとしては他のミサ曲に比べて内容がかなり濃く、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスを特徴付ける部分でもある。
アニュス・デイ(Agnus Dei)
3部形式。第1部(アダージョ)は、バス独唱による重々しく不穏な雰囲気で始まり、独唱者、合唱が「Agnus Dei,...」を繰り返す。アレグレット・ヴィヴァーチェにテンポを変え、第2部が開始される。ここには作曲者が「内的な平安と外的な平安を祈りつつ」という言葉を記している。合唱は「Dona nobis pacem」と平和への祈りを歌う。その後、テンポがアレグロ・アッサイに変わり、トランペットとティンパニによる、戦争を暗示するといわれる不穏な部分が激しく奏される。その後またアレグレット・ヴィヴァーチェに戻り、平和への祈り「ドナ」の部分となり「pacem」が繰り返される。第3部はプレストのフガートに始まり、合唱が力強く「Agnus Dei」と歌った後、独唱者と合唱団により再び「pacem」が繰り返される。最後に合唱団が「ドナ」を堂々と歌い、器楽が全曲を力強く結ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/837.html
1. 中川隆[-14204] koaQ7Jey 2020年1月23日 17:14:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1058]
ブルーノ・ワルター
Mass in D Major, Op. 123, "Missa Solemnis": Applause - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=yFrkU3fPuAE&list=OLAK5uy_nQbWfsDqOkI3RoDISX8IRXoit1zWkjVmk&index=1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/837.html#c1
ベートーヴェン 『交響曲第9番』
Hans Knappertsbusch conducts Beethoven's Ninth Symphony (1943)
____________
Beethoven - Symphony No 9 "Choral" - Weingartner, VPO (1935)
Symphony No. 9
Felix Weingartner
Vienna P.O.,
Vienna State Opera Choir
Luise Helletsgruber, soprano,
Rosette Anday, contralto,
Goerg Maikl, tenor,
Richard Mayr, bass
Recorded 2-5 February, 1935 at Mittlerer Konzerthaussaal, Vienna
__________
Beethoven, Symphony No. 9 - Toscanini, NYPh, 1936
Arturo Toscanini
Rosa Tentoni, Rose Bampton, Charles Kullman, Ezio Pinza
New York Philharmonic-Symphony Orchestra
Schola Cantorum of New York - Chorus Master: Hugh C. M. Ross
Live, New York, Carnegie Hall
March 8th, 1936
_________
Beethoven - Symphony No. 9 "Choral" - NBC Symphony Orchestra, Toscanini (3 April 1948)
Symphony No.9 in D minor, Op.125, 'Choral'
Anne McKnight - soprano; Jane Hobson - contralto; Erwin Dillon - tenor; Norman Scott - bass; Memebers of the Collegiate Chorale
NBC Symphony Orchestra conducted by Arturo Toscanini
Telecast: 3 April, 1948 at NBC Studio 8-H, New York City
______________
Beethoven Symphony No.9 Willem Mengelberg 1938
ウィレム・メンゲルベルク 指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
(S)トー・ファン・デル・スルイス (A)スーゼ・ルーヘル (T)ルイ・ファン・トゥルダー (Bs)ウィレム・ラヴェッリ
1938年5月1日録音
________
Beethoven “Symphony No 9 ‘Choral’” Willem Mengelberg, 1940
Concertgebouw Orchestra, Willem Mengelberg, To van der Sluys, Suze Luger, Louis van Tulder, Willem Ravelli, Toonkunst Chorus
__________
Beethoven - Symphony n°9 - Berlin / Furtwängler 1942
Symphony n°9 op.125
Tilla Briem
Elisabeth Höngen
Peter Anders
Rudolf Watzke
Bruno Kittel Chor
Berliner Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Berlin, 22-24.III.1942
___________
Beethoven: Symphony no. 9 "Choral" (Furtwangler, Bayreuth 1951)
Bayreuth Festival Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Recorded live* on July 29. 1951
Soloists:
Elisabeth Schwarzkopf, soprano
Elisabeth Höngen, alto
Hans Hopf, tenor
Otto Edelmann, bass
*With takes from rehearsals spliced in
___________
Beethoven "Symphony No 9" Furtwängler 1951 Wien
Symphony No 9 in D minor by
Irmgard Seefried, soprano
Rosette Anday, contralto
Julius Patzak, tenor
Otto Edelmann. bass
Chor der Wiener Musikakademie
Wiener Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler, conductor
Wien, 07.I.1951
_____________
Beethoven - Symphony n°9 - Vienna / Furtwängler 1952
Symphony n°9 op.125
Hilde Güden
Rosette Anday
Julius Patzak
Alfred Poell
Chor der Wiener Singakademie
Wiener Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Vienna, 3.II.1952
_______
Beethoven - Symphony No.9 - Furtwängler, WPO (live 1953)
Ludwig van Beethoven. Symphony No.9 in D minor, Op.125
Irmgard Seefried, soprano
Rosette Anday, alto
Anton Dermota, tenor
Paul Schöffler, bass
Wiener Singakademie
Wiener Philharmoniker - Wilhelm Furtwängler, conductor.
Recorded live at the Musikverein, Vienna, May 31 1953
________
Beethoven "Symphony No 9" Wilhelm Furtwängler Lucerne 1954
Elisabeth Schwarzkopf, Soprano
Elsa Cavelti, Alto
Ernst Haefliger, Tenor
Otto Edelmann, Bass
Lucerne Festival Chorus
Philharmonia 'Orchestra
Wilhelm Furtwängler, Conductor
Live concert 22.VIII.1954
Lucerne Festival
___________
Beethoven "Symphony No 9" Bruno Walter 1947
Symphony No 9 (Choral) in D minor, op 126
Isobel Baillie, soprano
Kathleen Ferrier, contralto
Heddle Nash, tenor
William Parsons, baritone
London Philharmonic Choir
Chorus master: Frederic Jackson
London Philharmonic Orchestra
Bruno Walter, conductor
Royal Albert Hall, 13.XI.1947
_____________
Beethoven n 9 Walter Wiener phil
Beethoven : Sinf. n. 9
Wiener Philarmoniker
Bruno Walter (live rec. 13.11.1955)
__________
Beethoven - Symphony n°9 - OSCC / Schuricht
Symphony n°9 op.125
Wilma Lipp
Marga Höffgen
Murray Dickie
Gottlob Frick
Choeurs Elisabeth Brasseur
Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire
Carl Schuricht
Studio recording, Paris, 27-29 & 31.V.1958
▲△▽▼
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125(ドイツ語: Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲。
第4楽章の旋律は有名な「歓喜の歌(喜びの歌)」で、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。
演奏時間
ウィーン初演での演奏時間は、明確な数字が記された書類は無いが、1825年3月21日にロンドンで『第九』を初演したジョージ・スマートがベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片がベートーヴェンの会話帳に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている[6]。
リヒャルト・シュトラウスはジークフリート・ワーグナーの追悼演奏会で45分で演奏したという逸話があるが[7]、真偽のほどは定かではない。
SP時代であるフェリックス・ヴァインガルトナーの1935年の録音は62分程度、
アルトゥーロ・トスカニーニの1939年の録音は60分強だが、LP時代入って話題になったヴィルヘルム・フルトヴェングラーのバイロイト音楽祭での録音は75分弱である。
LP時代でもルネ・レイボヴィッツ、ヘルマン・シェルヘンらはベートーヴェン本人が記したテンポこそ絶対の理想であるとの信念を崩さず、それに忠実な演奏を目指していたが、それらの解釈は当時の指揮業界の中では異端であり、全体の時間は1980年代ごろまでの伝統的なモダン楽器による演奏で70分前後が主流であった。
ベートーヴェンの交響曲中で最長である。80分に届こうとするもの[8]まであった。また21世紀になってもこのような雄大なテンポでの演奏を行う指揮者もいる[9]。
「通常のCDの記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある[10]。
CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現した。
まず、デイヴィッド・ジンマンが1999年にベーレンライター版によるCD初録音を行った際は、トラック1-2-3-4-6の順で計算すると58分45秒になる[11]。
ベンジャミン・ザンダー(英語版)指揮ボストン・フィルハーモニー管弦楽団(英語版)による演奏は全曲で57分51秒であった。
同じくザンダーの指揮によってフィルハーモニア管弦楽団を振った演奏は全曲で58分37秒[12]、フランソワ=グザヴィエ・ロトとBBCウェールズ交響楽団とのライブ演奏[13]においても58分44秒で、双方ともモダン楽器を使用したにもかかわらず1時間を切った。
マーラー編曲版でも59分44秒で終わる快速の演奏がある[14]が、マーラー本人の演奏による第9の演奏時間は不明である。
研究家が考証を行なった古楽器による演奏では大概63分程度であり、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、さらに研究が進んでテンポの数字も他人の手で代筆されたものであることが判明し、ベートーヴェンが望んだテンポについての議論がすべて決着したわけではない。
作曲の経緯
ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、1792年のことである。ベートーヴェンは当時22歳でまだ交響曲第1番も作曲していない時期であり、ベートーヴェンが長きに渡って構想を温めていたことがわかる。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。
交響曲第7番から3年程度を経た1815年ごろから作曲が開始された。さらに1817年、ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始したものと見られる。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこのころだが、ベートーヴェンは異なる作品に何度も旋律を使いまわしているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。
ベートーヴェンは第5、第6交響曲、および第7、第8交響曲を作曲したときと同じように、当初は2曲の交響曲を並行して作曲する計画を立てていた。ひとつは声楽を含まない器楽のみの編成の交響曲であり、さらに別に声楽を取り入れた交響曲『ドイツ交響曲』の制作を予定していた。しかしさまざまな事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年ごろのことである。
なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用された。
1824年に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、1824年5月7日に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。楽譜は1826年にショット社より出版された。
この作品は、当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定だったが、崩御によりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈された。
初演
初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デルマーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる[15]。
演奏史
初演は1824年5月7日、ベートーヴェンによる立ち会いの下、ウィーンのケルントナートーア劇場においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」、「献堂式」序曲とともに初演された。指揮はミヒャエル・ウムラウフ(Michael Umlauf )。
当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い留めた。
ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた、という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話まで残っている。
このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話におかれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある[16]。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた[17]。過去1809年の『合唱幻想曲』の初演では実際に合奏が崩壊して、最初から演奏し直して大失敗した。
さらに5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ・アリアを入れたこと、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている。
なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演ではあらかじめ1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。後年プロイセン王への献呈の際、ベートーヴェンに指輪が贈られたが、宝石鑑定士に鑑定させた結果300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、売り払ってしまった。その指輪は今でも行方不明である。
その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたが、全て失敗か微妙な評価に終わった。また、第4楽章がその前の三つの楽章に比べて「異質」とされ、「長大すぎる」ということで演奏機会に恵まれなくなった。実際にベートーヴェンも初演の後、第4楽章を器楽のみの編成に書き改める、またソロ・テナーパートを歌いやすくすることを計画していた。1827年、まともに評価されることなくベートーヴェンは死去する。
初演以外の演奏が失敗に終わった理由の一つに、当時のオーケストラの演奏水準の問題があった。ベートーヴェンの時代は、プロの音楽家養成機関が未整備で、宮廷オーケストラの類を除くと、「プロ・オーケストラ」は民間に存在しなかった。プロ・オーケストラによる正当な演奏は後世を待たなければならなかった。
パリでの部分的再演
世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アントワーヌ・アブネックは、パリ・オペラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は、「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者をつとめるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。
1831年、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。ただし、第4楽章は上記のような理由で演奏されず、第1-3楽章のみの演奏だった。その後、アブネックは度々、「第4楽章抜きの第九」を演奏した。この演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。
一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズ。彼は、ベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。このころから第9は複数人の作曲家によるピアノ編曲がなされて地味に浸透し始める。
ワーグナーによる復活演奏
リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年ドレスデンで歌劇『リエンツィ』を上演、大好評を博した。この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。
ドレスデンでは、毎年復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声が挙がったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得につとめるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。
彼は、「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。
徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習のときから満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。[18]
バイロイト音楽祭と第九
1872年、バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。
以後、何度か演奏されている。
1933年リヒャルト・シュトラウス、
1951年と1954年 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、
1953年パウル・ヒンデミット、
1963年カール・ベーム、
2001年クリスティアン・ティーレマン。
フルトヴェングラーと第九
指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。
その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。
第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。[24]
第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ヒトラーの誕生日前日に『第九』を指揮しゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった。
1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し再開を祝した。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感があったと語っている。
しかし録音そのものは1951年当時の技術水準を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。もともとこの演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある。[25]
しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。
近年もう一種類の録音(バイエルン放送の放送録音)がCD化(「オルフェオ」レーベル)され、本番なのかリハーサルテープなのかの諸説があるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある[26]。
戦後復興と第九
1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で『第九』が演奏された。なお、再建のこけら落しはカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送協会による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。
ドイツ分断と第九
1964年の東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた。
1989年のベルリンの壁崩壊の直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一のときの統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏されTV中継されている。
演奏のみのバージョンがEUの国歌として使用されている。2007年にはルーマニアとブルガリアがEUに加盟したが、2007年の1月元旦の0時を切ったとき演奏されたのがこの『第九』であった。
レコード録音史
アコースティック録音時代
1921年2月7日、エドゥアルト・メーリケ指揮 シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団によって、第4楽章の前半(低弦が歓喜の主題を奏で始める直前まで)と中間部をカットした演奏がパーロフォン・レーベルにレコード録音された。これが第4楽章の世界初録音となったが、すぐには発売されなかった。
1923年、独ポリドール社がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー(ドイツ語版)指揮 新交響楽団(実態はベルリン国立歌劇場管弦楽団の団員を中心に組織された臨時の演奏団体)ほかによる全楽章のレコードを録音(世界初の全楽章録音だが、第2楽章にカットがある。また、録音の制約上シンバルが抜けている)し、同年12月に発売された。このレコードは日本にも紹介され、好評を博した。
1923年10-11月に収録されたアルバート・コーツ指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが1924年5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。
1924年1-2月、フリーダー・ワイスマンがベルリン・ブリュトナー管弦楽団を指揮して第1-3楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが1921年に収録した第4楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英パーロフォン社から発売された。しかし、全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第4楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった。(1997年にカナダのレコード研究家が真相を発表)。
1925年1月、エドゥアルト・メーリケがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して第4楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが1924年に録音した第1-3楽章を組み合わせたアルバムが独パーロフォン社から発売された。
なお、これらの録音は全て『合唱が原語(ドイツ語)ではない』あるいは『曲の一部がカットされている』のどちらかに該当し、この曲本来の姿での録音ではなかった。完全な録音は、この後1928年のオスカー・フリートとベルリン国立歌劇場管弦楽団によるものが世界で初めてである。
電気録音時代
1926年3月16-17日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ロンドン交響楽団(英訳詞による合唱)
1926年10月、アルバート・コーツ指揮 交響楽団(英訳詞による合唱)
1928年、オスカー・フリート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(世界初の原語版によるカット箇所のない完全録音)
1934年4月30日、レオポルド・ストコフスキー指揮 フィラデルフィア管弦楽団(英訳詞による合唱)
1935年2月2-4日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(世界初の交響曲全集に収録された)
以降はオイゲン・ヨッフム(1938年)、カール・ベーム(1941年(昭和16年))、橋本國彦(1943年5月・日本初録音)、山田一雄(1943年11月・日本初全曲録音)、ユージン・オーマンディ(1945年)と続く。 1930年代以降は多くの指揮者によるライブ録音も多数残されている。(現在確認されている最古のものは1936年3月のアルトゥーロ・トスカニーニ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団)
またカラヤンはベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲集をドイツ・グラモフォンでアナログ、ドルビーNR、デジタルの3期にわたって制作しており、映像も複数残っている。映画『時計じかけのオレンジ』にも使われた62年録音は2009年になっても重量盤LPレコードが企画されるなど人気が高く、通常CD、スーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)、スーパーオーディオCD(SACD)に加えガラスCD化も行われた。
編成
二管編成・追加楽器・声楽が用いられる。ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンはベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に交響曲第5番、交響曲第6番で使用されているのみである。また、ホルンが4本、打楽器は他の交響曲では使われていないトライアングル、シンバル、バスドラムを使用しており、この時期の交響曲の編成としては最大級のものである。前述の通り声楽を交響曲に用いるのは当時としてはきわめて奇抜なアイディアである。
またこの楽器編成はワーグナーの楽劇の3管編成の基礎になった。
歓喜の歌
詳細は「歓喜の歌」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/歓喜の歌
フリードリヒ・フォン・シラーがフリーメイソンリーの理念を書いた[29]詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté 1785年)がフランス革命の直後『ラ・マルセイエーズ』のメロディーでドイツの学生に歌われていた[30]。そこで詩を書き直した『歓喜に寄す』(An die Freude 初稿1785年、改稿1803年)にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として1822年から1824年に書き直したものである。
「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である1808年の『合唱幻想曲』作品80と、1810年のゲーテの詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。
歌詞(ドイツ語原詞・日本語訳)
An die Freude
O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
(ベートーヴェン作詞)
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!
Deine Zauber binden wieder,
(1803年改稿)
Was die Mode streng geteilt;
Alle Menschen werden Brüder,
(1785年初稿:
Was der Mode Schwert geteilt;
Bettler werden Fürstenbrüder,)
Wo dein sanfter Flügel weilt.
Wem der große Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein,
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Jubel ein!
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund!
Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur;
Alle Guten, alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur.
Küsse gab sie uns und Reben,
Einen Freund, geprüft im Tod;
Wollust ward dem Wurm gegeben,
und der Cherub steht vor Gott.
Froh, wie seine Sonnen fliegen
Durch des Himmels prächt'gen Plan,
Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen.
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuss der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
Ihr stürzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schöpfer, Welt?
Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.
「歓喜に寄せて」
おお友よ、このような音ではない!
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか
(ベートーヴェン作詞)
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上の楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝(歓喜)の聖所に入る
汝が魔力は再び結び合わせる
(1803年改稿)
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
(1785年初稿:
時流の刀が切り離したものを
貧しき者らは王侯の兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で
ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ
そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい
すべての被造物は
創造主の乳房から歓喜を飲み、
すべての善人とすべての悪人は
創造主の薔薇の踏み跡をたどる。
口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を
創造主は我々に与えた
快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ
智天使ケルビムは神の御前に立つ
天の星々がきらびやかな天空を
飛びゆくように、楽しげに
兄弟たちよ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ
抱擁を受けよ、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない
諸人よ、ひざまずいたか
世界よ、創造主を予感するか
星空の彼方に神を求めよ
星々の上に、神は必ず住みたもう
版の問題
この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナー、マーラー、ワインガルトナー[31]といった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、ストコフスキー、近衛秀麿、トスカニーニなども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。
ベートーベンの本意
また自筆スコアの他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは会話帳の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡に至るまで数多くの出版/筆写史料が残っており、細かな違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのか写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。
『ミサ・ソレムニス』という更なる大曲と並行して作られ、出版やウィーン以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの筆跡判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが1823年に亡くなり作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは細部の改訂を執拗に行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の校正も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。このような状況で1826年に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。1864年に出たブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる[32]。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。
ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後ベルリン国立図書館に収められたが、国立図書館は戦後東ベルリンに属したため容易に研究に用いる事が出来ず「行方不明」とも言われていた。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える岩城宏之、クレンペラーなどの例も有った[33]のだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。
再解釈の時代へ
20世紀末になると、東西ドイツの統合とソ連の崩壊に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、ヨーロッパからアメリカの各地に散らばっていたのである。大部分がベルリンにある自筆スコアも数ページがパリの国立図書館やボンのベートーヴェン研究所にあるなど、所在は今も分散したままである。
イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デルマーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し[34]、この研究は楽譜化され1996年にベーレンライター社から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にも無い音形が数多く表れている点もこの版の特徴である[35]。
21世紀に入って旧ベートーヴェン全集の出版社であるブライトコプフ社もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデルマーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている[36]。いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も入れて編集された批判校訂版である。2019年春にはベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集版の刊行も予定されている[37]。
なお、かつて教育テレビで1986年秋に放送されたNHK趣味講座「第九をうたおう」では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した井上道義は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からのVn.1パートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際史料状況や編曲の実態について解説したのは金子建志であった。
全音楽譜出版社による第9の新版スタディスコアにもその版元の変遷が明示された上で、独自の解釈を行っている[38]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第9番_(ベートーヴェン)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html
1. 中川隆[-14203] koaQ7Jey 2020年1月23日 20:10:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1057]
アーベントロート
Hermann Abendroth, 1950, Berlin RSO, Beethoven's "Symphony no. 9, Choral"
Symphony No. 9 in D minor, Op.125 "Choral"
Tilla Briem, Diana Eustrati, Ludwig Suthaus, Karl Paul
Rundfunk-Sinfonie-Orchester Berlin
December 31, 1950
__________
Beethoven Symphony No. 9 Abendroth / Leipzig Radio O. & Chorus. (1953, restored)
Beethoven: Symphony No. 9
(perf. Leipzig, 1953)
Anny Schlemm(soprano)
Diana Eustrati(alto)
Gert Lutze(tenor)
Karl Paul(bass)
Leipzig Radio Symphony Orchestra & Chorus
Hermann Abendroth
1953-01-06
_______
Beethoven "Symphony No 9" Hermann Abendroth
Symphony No 9 in D minor op 125
Edith Laux, Soprano
Diana Eustrati, Alto
Ludwig Suthaus, Tenor
Karl Paul, Bass
Rudfunkchor Leipzig
Unjversitätschor, Leipzig
Rundfunk-Sinfonie-Orchester Leipzig
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c1
110. 中川隆[-14202] koaQ7Jey 2020年1月23日 20:37:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1056]
2020年01月23日
韓昌祐 パチンコ・マルハン会長の生涯
引用:http://www.jarba1.com/bogu032-3.jpg
パチンコマルハンの会長として知られる韓昌祐は、戦前の朝鮮南部で、日本人として生まれました。
日本の敗戦で朝鮮は米国の植民地になり、15歳で日本の兄の下へ渡り、兄の事業を引き継いで成功しました。
少年、海を渡る
マルハングループの創業者で知られる韓昌祐(ハン・チャンウ)(かん しょうゆう)は1931年に朝鮮の農村で生まれました。
韓国慶尚南道泗川郡三千浦という場所で、現在は合併して慶尚南道泗川市という名前になっています。
朝鮮半島の南端で現在の人口は約11万人、港湾と基地、田んぼ、海水浴場くらいしかなく、主な産業は農業らしく、発展した地域ではありません。
現代ですらひなびた農村なので70年前には農地と漁村、港しかなく、韓昌祐は平凡な農家の次男として生まれました。
日韓併合は1910年なので韓昌祐は日本人として誕生し、西原昌佑という名前も持っています。
朝鮮半島は第二次大戦の戦場にならず、日本帝国は朝鮮人を(例外を除き)徴兵せず、労働者としての徴用もほとんどしませんでした。
朝鮮人にとって第二次大戦は「他人事」であり、日本の敗戦と独立は棚からボタモチで、むしろ困った事でした。
突然日本という国が消滅し、金無し人無し何も無しで、放り出される破目になってしまいました。
そこへドヤドヤと乗り込んできたのが占領米軍で、朝鮮人はただの侵略者と見做し猛反発しました。
15歳の韓昌祐少年はそんな祖国を見て嫌になったのか、兄の居る日本に行けるうちに渡ろうと思い立った。
朝鮮半島南部の港からは最強を誇った日本軍が続々と撤退し、後に残されたのは烏合の衆である朝鮮人と、占領米軍でした。
朝鮮に残った方が良いのか、日本に渡ったほうが良いのか、一種の賭けであり結果を見ると日本に行って正解でした。
兄の下に身を寄せ大学へ
1945年10月に三千浦の港から下関に向う船に密航し、来日を果たしたと本人は語っています。
兄は日本でレンガ積みの仕事をしていて、兄の招待を受けて渡航したが、終戦直後なので半島から日本へ引き上げる人は多く、紛れ込んだのでしょう。
1945年から1948年の韓国建国までの3年間、朝鮮人は日本国籍から外れ、半島へ帰るように日本政府の命令が出ていました。
朝鮮半島は米軍の占領下にあったが、激しい反米運動が巻き起こっていて、日本に残留した朝鮮人が50万人以上居ました。
1948年の韓国建国によって、日本に残った朝鮮人は不法滞在者となり、全員に聞き取り調査をして、自分の意思で日本に居るのを確認している。
1965年に日韓国交樹立し日韓基本条約が結ばれると、朝鮮人は在日韓国人と定義され、在日1世には永住権が認められる事になった。
日本は北朝鮮を承認していないので北朝鮮出身者でも在日韓国人です。
その後基本条約改定によって、在日韓国人2世にも永住権が与えられましたが、3世以降については今でも日韓基本条約で「不法滞在者」のままです。
韓昌祐少年が下関に着いた後、どこでどうしたのか判然としないが、おそらく兄の下に行き学校に通ったのだと思われる。
1948年、朝鮮奨学金を得て、大学入学資格検定(大検)を受けて法政大学専門部に入学したと書かれているので、朝鮮学校に通ったのかも知れない。
この後1950年に朝鮮戦争が勃発し、韓国国土の9割近くが一時北朝鮮に占領され、故郷の村も戦地になった。
1953年に法政大学を卒業したが就職先が無かったので、京都府峰山町(現・京丹後市)でパチンコ店を始めた兄の下に再び身を寄せた。
韓昌祐少年が出て行った頃の韓国、激しい反米闘争が展開されていた
Anti-Trusteeship_Campaign
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Anti-Trusteeship_Campaign.jpg/640px-Anti-Trusteeship_Campaign.jpg
兄のパチンコ店を継いで拡大
つまりパチンコ店は兄の事業で、韓昌祐が始めた訳ではありませんでした。
パチンコの起源はアメリカのピンボールのようなゲーム台だと言われていて、場所が狭いので横型から縦型になったようです。
1920年代に夜店の遊戯としてパチンコ台が始まり、戦後は店舗型のパチンコ店が名古屋から全国に広まっていきました。
1947年に風営法が施行され、パチンコが法的に認められるとさらにパチンコ店が増え、韓昌祐少年が京都に行った1953年はまさに開業ブームでした。
当時のパチンコ店は今のように本格的ではなく、狭い店に20台ほどの台を置くだけで商売を始められました。
1967年まで兄の手伝いをした後、独立してボーリング場を初め、60億円の借金を抱えた。
1972年の60億円は現在の1200億円だったが、1980年代までには完済したようなので、当時のパチンコ業がどれほど儲かったのかが窺い知れる。
現在の個人資産は1300億円と言われていて、1999年には勲三等瑞宝章を叙勲している。
ところで日本政府が特別永住者資格を与えている在日韓国人は、日韓基本条約で定義された韓国人だけです。
永住資格がある韓国人は「戦前から日本に滞在していた韓国人」だけで、戦後に入国した人は対象外です。
1945年10月22日に入国した韓昌祐少年は、2002年に日本に帰化するまで57年間も、滞在していました。
終戦後に入国した人は永住許可の対象外なので、本来の資格は無かったたという指摘もされています。
http://www.thutmosev.com/archives/45966499.html
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/515.html#c110
7. 中川隆[-14201] koaQ7Jey 2020年1月23日 20:38:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1055]
2020年01月23日
韓昌祐 パチンコ・マルハン会長の生涯
引用:http://www.jarba1.com/bogu032-3.jpg
パチンコマルハンの会長として知られる韓昌祐は、戦前の朝鮮南部で、日本人として生まれました。
日本の敗戦で朝鮮は米国の植民地になり、15歳で日本の兄の下へ渡り、兄の事業を引き継いで成功しました。
少年、海を渡る
マルハングループの創業者で知られる韓昌祐(ハン・チャンウ)(かん しょうゆう)は1931年に朝鮮の農村で生まれました。
韓国慶尚南道泗川郡三千浦という場所で、現在は合併して慶尚南道泗川市という名前になっています。
朝鮮半島の南端で現在の人口は約11万人、港湾と基地、田んぼ、海水浴場くらいしかなく、主な産業は農業らしく、発展した地域ではありません。
現代ですらひなびた農村なので70年前には農地と漁村、港しかなく、韓昌祐は平凡な農家の次男として生まれました。
日韓併合は1910年なので韓昌祐は日本人として誕生し、西原昌佑という名前も持っています。
朝鮮半島は第二次大戦の戦場にならず、日本帝国は朝鮮人を(例外を除き)徴兵せず、労働者としての徴用もほとんどしませんでした。
朝鮮人にとって第二次大戦は「他人事」であり、日本の敗戦と独立は棚からボタモチで、むしろ困った事でした。
突然日本という国が消滅し、金無し人無し何も無しで、放り出される破目になってしまいました。
そこへドヤドヤと乗り込んできたのが占領米軍で、朝鮮人はただの侵略者と見做し猛反発しました。
15歳の韓昌祐少年はそんな祖国を見て嫌になったのか、兄の居る日本に行けるうちに渡ろうと思い立った。
朝鮮半島南部の港からは最強を誇った日本軍が続々と撤退し、後に残されたのは烏合の衆である朝鮮人と、占領米軍でした。
朝鮮に残った方が良いのか、日本に渡ったほうが良いのか、一種の賭けであり結果を見ると日本に行って正解でした。
兄の下に身を寄せ大学へ
1945年10月に三千浦の港から下関に向う船に密航し、来日を果たしたと本人は語っています。
兄は日本でレンガ積みの仕事をしていて、兄の招待を受けて渡航したが、終戦直後なので半島から日本へ引き上げる人は多く、紛れ込んだのでしょう。
1945年から1948年の韓国建国までの3年間、朝鮮人は日本国籍から外れ、半島へ帰るように日本政府の命令が出ていました。
朝鮮半島は米軍の占領下にあったが、激しい反米運動が巻き起こっていて、日本に残留した朝鮮人が50万人以上居ました。
1948年の韓国建国によって、日本に残った朝鮮人は不法滞在者となり、全員に聞き取り調査をして、自分の意思で日本に居るのを確認している。
1965年に日韓国交樹立し日韓基本条約が結ばれると、朝鮮人は在日韓国人と定義され、在日1世には永住権が認められる事になった。
日本は北朝鮮を承認していないので北朝鮮出身者でも在日韓国人です。
その後基本条約改定によって、在日韓国人2世にも永住権が与えられましたが、3世以降については今でも日韓基本条約で「不法滞在者」のままです。
韓昌祐少年が下関に着いた後、どこでどうしたのか判然としないが、おそらく兄の下に行き学校に通ったのだと思われる。
1948年、朝鮮奨学金を得て、大学入学資格検定(大検)を受けて法政大学専門部に入学したと書かれているので、朝鮮学校に通ったのかも知れない。
この後1950年に朝鮮戦争が勃発し、韓国国土の9割近くが一時北朝鮮に占領され、故郷の村も戦地になった。
1953年に法政大学を卒業したが就職先が無かったので、京都府峰山町(現・京丹後市)でパチンコ店を始めた兄の下に再び身を寄せた。
韓昌祐少年が出て行った頃の韓国、激しい反米闘争が展開されていた
Anti-Trusteeship_Campaign
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Anti-Trusteeship_Campaign.jpg/640px-Anti-Trusteeship_Campaign.jpg
兄のパチンコ店を継いで拡大
つまりパチンコ店は兄の事業で、韓昌祐が始めた訳ではありませんでした。
パチンコの起源はアメリカのピンボールのようなゲーム台だと言われていて、場所が狭いので横型から縦型になったようです。
1920年代に夜店の遊戯としてパチンコ台が始まり、戦後は店舗型のパチンコ店が名古屋から全国に広まっていきました。
1947年に風営法が施行され、パチンコが法的に認められるとさらにパチンコ店が増え、韓昌祐少年が京都に行った1953年はまさに開業ブームでした。
当時のパチンコ店は今のように本格的ではなく、狭い店に20台ほどの台を置くだけで商売を始められました。
1967年まで兄の手伝いをした後、独立してボーリング場を初め、60億円の借金を抱えた。
1972年の60億円は現在の1200億円だったが、1980年代までには完済したようなので、当時のパチンコ業がどれほど儲かったのかが窺い知れる。
現在の個人資産は1300億円と言われていて、1999年には勲三等瑞宝章を叙勲している。
ところで日本政府が特別永住者資格を与えている在日韓国人は、日韓基本条約で定義された韓国人だけです。
永住資格がある韓国人は「戦前から日本に滞在していた韓国人」だけで、戦後に入国した人は対象外です。
1945年10月22日に入国した韓昌祐少年は、2002年に日本に帰化するまで57年間も、滞在していました。
終戦後に入国した人は永住許可の対象外なので、本来の資格は無かったたという指摘もされています。
http://www.thutmosev.com/archives/45966499.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/566.html#c7
358. 中川隆[-14200] koaQ7Jey 2020年1月23日 20:39:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1054]
2020年01月23日
韓昌祐 パチンコ・マルハン会長の生涯
引用:http://www.jarba1.com/bogu032-3.jpg
パチンコマルハンの会長として知られる韓昌祐は、戦前の朝鮮南部で、日本人として生まれました。
日本の敗戦で朝鮮は米国の植民地になり、15歳で日本の兄の下へ渡り、兄の事業を引き継いで成功しました。
少年、海を渡る
マルハングループの創業者で知られる韓昌祐(ハン・チャンウ)(かん しょうゆう)は1931年に朝鮮の農村で生まれました。
韓国慶尚南道泗川郡三千浦という場所で、現在は合併して慶尚南道泗川市という名前になっています。
朝鮮半島の南端で現在の人口は約11万人、港湾と基地、田んぼ、海水浴場くらいしかなく、主な産業は農業らしく、発展した地域ではありません。
現代ですらひなびた農村なので70年前には農地と漁村、港しかなく、韓昌祐は平凡な農家の次男として生まれました。
日韓併合は1910年なので韓昌祐は日本人として誕生し、西原昌佑という名前も持っています。
朝鮮半島は第二次大戦の戦場にならず、日本帝国は朝鮮人を(例外を除き)徴兵せず、労働者としての徴用もほとんどしませんでした。
朝鮮人にとって第二次大戦は「他人事」であり、日本の敗戦と独立は棚からボタモチで、むしろ困った事でした。
突然日本という国が消滅し、金無し人無し何も無しで、放り出される破目になってしまいました。
そこへドヤドヤと乗り込んできたのが占領米軍で、朝鮮人はただの侵略者と見做し猛反発しました。
15歳の韓昌祐少年はそんな祖国を見て嫌になったのか、兄の居る日本に行けるうちに渡ろうと思い立った。
朝鮮半島南部の港からは最強を誇った日本軍が続々と撤退し、後に残されたのは烏合の衆である朝鮮人と、占領米軍でした。
朝鮮に残った方が良いのか、日本に渡ったほうが良いのか、一種の賭けであり結果を見ると日本に行って正解でした。
兄の下に身を寄せ大学へ
1945年10月に三千浦の港から下関に向う船に密航し、来日を果たしたと本人は語っています。
兄は日本でレンガ積みの仕事をしていて、兄の招待を受けて渡航したが、終戦直後なので半島から日本へ引き上げる人は多く、紛れ込んだのでしょう。
1945年から1948年の韓国建国までの3年間、朝鮮人は日本国籍から外れ、半島へ帰るように日本政府の命令が出ていました。
朝鮮半島は米軍の占領下にあったが、激しい反米運動が巻き起こっていて、日本に残留した朝鮮人が50万人以上居ました。
1948年の韓国建国によって、日本に残った朝鮮人は不法滞在者となり、全員に聞き取り調査をして、自分の意思で日本に居るのを確認している。
1965年に日韓国交樹立し日韓基本条約が結ばれると、朝鮮人は在日韓国人と定義され、在日1世には永住権が認められる事になった。
日本は北朝鮮を承認していないので北朝鮮出身者でも在日韓国人です。
その後基本条約改定によって、在日韓国人2世にも永住権が与えられましたが、3世以降については今でも日韓基本条約で「不法滞在者」のままです。
韓昌祐少年が下関に着いた後、どこでどうしたのか判然としないが、おそらく兄の下に行き学校に通ったのだと思われる。
1948年、朝鮮奨学金を得て、大学入学資格検定(大検)を受けて法政大学専門部に入学したと書かれているので、朝鮮学校に通ったのかも知れない。
この後1950年に朝鮮戦争が勃発し、韓国国土の9割近くが一時北朝鮮に占領され、故郷の村も戦地になった。
1953年に法政大学を卒業したが就職先が無かったので、京都府峰山町(現・京丹後市)でパチンコ店を始めた兄の下に再び身を寄せた。
韓昌祐少年が出て行った頃の韓国、激しい反米闘争が展開されていた
Anti-Trusteeship_Campaign
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Anti-Trusteeship_Campaign.jpg/640px-Anti-Trusteeship_Campaign.jpg
兄のパチンコ店を継いで拡大
つまりパチンコ店は兄の事業で、韓昌祐が始めた訳ではありませんでした。
パチンコの起源はアメリカのピンボールのようなゲーム台だと言われていて、場所が狭いので横型から縦型になったようです。
1920年代に夜店の遊戯としてパチンコ台が始まり、戦後は店舗型のパチンコ店が名古屋から全国に広まっていきました。
1947年に風営法が施行され、パチンコが法的に認められるとさらにパチンコ店が増え、韓昌祐少年が京都に行った1953年はまさに開業ブームでした。
当時のパチンコ店は今のように本格的ではなく、狭い店に20台ほどの台を置くだけで商売を始められました。
1967年まで兄の手伝いをした後、独立してボーリング場を初め、60億円の借金を抱えた。
1972年の60億円は現在の1200億円だったが、1980年代までには完済したようなので、当時のパチンコ業がどれほど儲かったのかが窺い知れる。
現在の個人資産は1300億円と言われていて、1999年には勲三等瑞宝章を叙勲している。
ところで日本政府が特別永住者資格を与えている在日韓国人は、日韓基本条約で定義された韓国人だけです。
永住資格がある韓国人は「戦前から日本に滞在していた韓国人」だけで、戦後に入国した人は対象外です。
1945年10月22日に入国した韓昌祐少年は、2002年に日本に帰化するまで57年間も、滞在していました。
終戦後に入国した人は永住許可の対象外なので、本来の資格は無かったたという指摘もされています。
http://www.thutmosev.com/archives/45966499.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c358
2. 中川隆[-14199] koaQ7Jey 2020年1月23日 20:56:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1053]
Wilhelm Furtwängler site by shin-p
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu01.htm
フルトヴェングラー年代順資料室
フルトヴェングラーの第九の名盤
1930年
●6月16日 16 June 1930 BPO Philharmonie
ベートーヴェン/交響曲9番〜2楽章 Beethoven:Sym.No.9 2ndMov.
not issued
ドイツ・ラジオ収録 German Radio RRG937-9
▼ディスコグラフィーでしか知られていない最初期の放送録音。もちろん未発売。当時の技術からして実況ではないのでは?[参考資料A]でも、この録音の存在が明記されていた。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu01.htm#19260000
1937年
●5月1日 1 May 1937 BPO London Queens Hall (Live)
ベートーヴェン/合唱 Beethoven:Sym.No.9
BBC収録 EMI所蔵 EMI Archive (Matrix:2EA3559-75)
LP/PR: ToshibaWF600073-4('84) Electrola02701231('84)
CD: M&ACD818('95)WFJ19-21('03)EMI CZS5628752(04/06)
▼没後30年記念盤としてEMI系から発売予告が出て初めて世に知られた、ジョージ6世戴冠祝賀公演のためロンドンを訪れた際の実況盤。EMI系のLPはSPのつなぎめが不自然で不評だった。特に終楽章は巨匠の「間」を大切にした表現が全く伝わらず、鑑賞に大きな支障がある。
また部分的に音の途切れが目立ち、残響にも乏しい録音だ。CD(TOCE6057)では若干改善されている。M&A盤(CD818='95)は、未聴だが「EMIより音質改善を図った」(タワー店頭)というのが売り。オリジナルSP盤から復刻したとされる日WF協会盤は音質は盤面のつなぎ目をブランクにした賛否両論のCD。グレイトコンダクター企画で発売されたEMI CZS5628752は収録時間の関係で2楽章反復を省略。ノイズリダクション多用音質だが、聞きやすさでは一番。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu04.htm
1942年
●3月22-24日 22-24 March 1942 BPO Philharmony(RRG=Melodiya)
Beethoven:Sym.No.9
ベートーヴェン/第九 (o-68)
BPO フィルハーモニー RRG録音 SFB所蔵(1987=all/91=only 2nd Mov.)
LP/PR: MelodiyaD010851-3('61?) UNI100-1(68/06) Turnabout(VOX)TV4346-7(69/12)TV4353-4('70) JapanFontanaPL1101('76)
CD: TahraFURT1004-7('95) M&ACD653('90) TahraFURT1034-9(98/11) TOCE3734(00/08) ARPCD0001('00) VENEZIA V-1019(02/06) OpusKuraOPK7003(03/11) DeltaDCCA0004-5(04/12) DreamLifeDLCA7006(04/12=SACD) Berliner Philharmoniker KKC5952(18/12)
▼収録日が正確だとすれば、キッテル合唱団40周年記念演奏会ライヴ。西側では68年Unicorn盤発売以降「板おこし」といわれる音質の芳しくないLPしか流通していないとされていた。87年にモスクワ放送から西独SFBにコピーテープが返還され、SWF盤TAHRA盤などそのテープによると思われるものも出現した。
89年に日WF協会などの協力で日本に輸入され新世界レコードが発売したM10規格黒盤メロディア盤LPはこの戦時下の状況をよく伝えている。ただしブルーたいまつ61年規格が最初といわれる最初期のメロディアLPにはかなわない。61年規格でも60年代後半発売のピンク・ダブルレターになると音質は若干落ちるという。おそらく現在ではRRGの原テープは再生不能で、コピーテープしか使えないと思われる。91年の原テープ返還でも2楽章の一部しか返還されなかった。91年返還テープがRRGオリジナルではなかった(当時のテープを使用しているもののオリジナルからのコピー)という意見もある。
メロディア盤のブルー&ピンク、灯台&たいまつなど、レーベルの識別については浅岡弘和氏HPを参照のこと。
この録音は4月19日ヒトラー誕生祝賀前夜祭の録音であるという桧山説が日本では広く信じられていた。shin-pは、4楽章第2部の中半部にテープの継ぎ目があり、その前後の独唱者の声に違いがあり別録音の2種のテープを編集していると感じていた。桧山氏はステレオ芸術誌上で68年頃聞いたメロディア初期盤は「1楽章のレベル変動が多く、別物のように思える」とするが、初出と思われる61年規格以降、音質に差があるものの同じ録音を使っている可能性大。没後50年、ARPCD0270(04/10)4月録音盤が発売され、上記演奏の「3月録音」はほぼ確定した。
00/06レコ芸相談室によると、2000年発売の東芝全集盤について「ユニコーン原盤は以前と同じマスター・テープからリマスタリング」しているというが、実際は以前の録音よりも限りなくメロディアCD並に改善されている。
この演奏のテープは旧ソ連以外には存在せず、桧山氏によると以前のユニコーン盤は68年頃ソ連のコレクターからスポーツシャツと交換で当時の米フ協会長が入手したメロディア盤を当時の英フ協会長ミンチン氏に送り、板おこしとされたテープを使用しているという。浅岡氏によれば第九の初出は59年頃といい、ユニコーン盤が使ったというメロディアLPは再発盤という可能性が高い。ユニコーン盤の音源入手の経路はこの桧山氏の記述の通りではなく「関係者がソ連に打診し、夫人の元に送られたコピーテープによる」という説もある。
さらに当時の英WF協会であるUnicornの認証があるTurnabout(VOX)TV4346-7(69/12)は、当時の他のLPよりも音質がよく板おこしではないと思われ、RRGが作った数種のコピーのうちアメリカに渡ったものを使用したのではないかという推測もある。ただし、私がこの曲を初めて聴いたUnicorn経由Turnabout原盤(と出谷氏がジャケ解説でいう)の日FontanaPL1101('76)は使用したメロディア盤の状態が悪いのか、レベル変動がひどくハッキリ聞こえない部分が多い。桧山氏によれば同じく1枚に詰め込んだ米Evelest疑似ステ盤は2楽章に欠落とピッチの問題があり音質は「最悪」という。
音楽評論家・浅岡氏プロデュースで発売されたVENEZIA V-1019(02/06)は、メロディア初出前に厚紙アルバムに封入された全ソ連芸術家養成所刊のVSG盤を復刻したもの。当時のソ連製LP盤の盤質は平均的な西側のものにはかなわないが、ストレートに製盤し現在発売中の中では最も明瞭感のある貴重な音源。平林氏のSerenadeからもピンクレーベル復刻CD-Rが02/04発売された。その後、平林氏はDreamLifeからもSACDでDLCA7006(04/12=SACD)を発売。この2人の有名評論家プロデュース板起こしCDに触発された形で更なる原音再生を目指した
OpusKuraOPK7003(03/11)DeltaEntertainmentDCCA0004-5(04/12)の2種も発売され、没後50年以降実質新譜が発売されない現状にあって板起こし盤がマニアの話題をさらっている。[shin-pHPのポリシー]
Archipel盤はどういう経路の「オリジナルテープ」を謳っているのか不明だが、明瞭で聞き易い廉価盤。
●4月19日 19 April 1942 BPO Philharmony(RRG)
Beethoven:Sym.No.9
ベートーヴェン/第九 (o-なし)
BPO フィルハーモニー RRG録音 Private Archive(Decelith disc)
CD-R/PR: Truesound Transfers TT-2403N('04)
CD/PR: Archipel ARPCD0270(04/10)
▼没後50年、ナチスへの協力疑惑の証拠にもされたヒトラー生誕前夜祭の録音が発売された。当初ドイツの通販サイトTruesound TransfersからCD-R盤TT-2403Nとして出ていたが、版権をGebhardtに売却、Archipelレーベルで04/10に発売された。Archipel盤のジャケットにはTruesound Transfersのマスタリング者の名前が明記されており、上記2種のCD/CD-Rはほぼ同じものと思われる。
shin-pは、発売元のご厚意で04/10/02にArchipelARPCD0270試聴盤を聞かせていただいた。3月の演奏と同じものかどうかというのが焦点だが、shin-pの試聴後の感想は別の演奏。マグネトフォン開発前から実績のあったDecelith discという収録時間5分強の78回転盤で収録されている。
furt-lによればエルンスト・ルンペ氏がクリスチァン・ツヴァルク氏から聞いた情報では「この14枚のDecelith disk (片面盤)をツヴァルク氏は昨年ウィーンのアンチークショップで見つけて購入。ウィーン在住の人が放送を1台のDecelith レコーダーで録音したものらしく、原盤にはディスクを取り替える際のギャップがあり、ツヴァルク氏はこれらを1942.3の録音の当該部分を用いて補修した。以上のようなことを全てライナーノートに書くようにARCHIPELに求めたが容れられなかった。」(仙台S氏の報告による)という。
ただ、ギャップを補修したと思われる部分をshin-pは確認できず、おそらく同日の演奏で完全録音のように思える。放送局がテープ収録し、ダビングして関係者に配った「ディスク」と考える方が自然だ。仙台S氏によれば、塩化ビニール系の録音ディスクというが、アセテート盤という表現をしているサイトもある。開演前後の拍手とアナウンスも収録されているが、終演後の拍手には10秒ほどの間がある。Archipel盤の録音状態は、ディスク録音としては雑音が少ないが、周波数帯域が狭く、ノイズリダクションのせいか弱音がぼやけて聞こえなくなる部分も多い。演奏的には、3月録音より迫力の点で勝っており、コーダ部分はさらにものものしい。
この日の終楽章の映像は、多くのLD/DVDなどで発売されている。URHS氏のコメントにもあるように、この映像に収録されている演奏の音声は3月録音である可能性が高い。
[Furtwangler Beethoven 1942 4 by YouTubeSEARCH]
●4月21-24日 21-24 April 1942 VPO Musikverein(Private Archives=LIVE)
Beethoven:Sym.No.9 2ndMov.Excerpt
ベートーヴェン/合唱〜第3楽章断片(約15分58秒) (o-なし)
VPO ムジークフェライン 実況録音 Private Archives
CD/PR: SYMPOSIUM(GB)1253(00/04)
▼突然発表された英SYMPOSIUM盤は、Ionisationという題でトスカニーニなど他の巨匠の演奏も入ったオムニバス盤。ムジークフェラインでの実況で放送用ではなく、コンサートの関係者によってアセテート盤4面に収録されているが、面を換える際の欠落がある。
清水氏によると33-36、65-74、115-116、149-157(end)の各小節が欠落しており、3楽章開始前のインターバル13秒を含んで15分58秒が収録されている。マグネトフォンによるテープ録音は42年当時はまだ帝国放送ベルリン放送局でしかできない状態だったと思われる。ムジークフェラインでの実況テープ録音は、44年12月の「英雄」が聴衆あり実況で残されているという意見もあるが、現時点で確認されたところではドイツ帝国脱出直前の45年1月29(28)日しか残されていない。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu05.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c2
3. 中川隆[-14198] koaQ7Jey 2020年1月23日 21:05:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1052]
1949年
28 May. 1949 Scala Orc. Milan(private archive)
Beethoven:Sym.No.9
not issued
●5月28日 ベートーベン/合唱 スカラ座o ミラノ・スカラ座 未発売
▼TAHRA本は、この録音については誰も知らない−とし、シミオナート(S)はないといっており、Angelo Scottiniがトリノでアセテート盤を見つけた−と記している。RAIが収録したものは、当時テープ録音されたもののディスクにコピーされ保存されているケースが多い。53年リングは特に有名だが、他にも51年のブルックナー7番や52年のチャイコ5番などテープは消去され、ディスクからCDに復刻されている。
またオルセンはミラノにprivate archiveが存在するがRAIトリノにarchiveがあるかどうか不明としている。録音されたアセテート盤は再生不能状態なのだろう。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu13.htm
1951年
7 Jan. 1951 VPO Musikverein (private archive)
Beethoven:Sym.No.9
●1月7日 ベートーヴェン/合唱 VPO ムジークフェライン (初出盤では10日ソフィエンザールとなっている) RAVAG/RWR収録 private archive
LP/PR: King(JP)K22C173('82)K19C287-8('83)CetraFE33('82)
CD: CetraCDC1('84)KingJapanKICC2291('91)BellaPhone689.22.005('90?)ORFEO834118(13/02)
>>>K22C173(Laudis Italy) is the same performance as K19C287-8(Cetra). But K22C173 contains 1951 Bayreuth performance on a part of 4th movement. K19C287-8 is better sound than others.
▼フィナーレの一部、映画も存在する。かつてキングから発売されたLPでは7日(K19C287-8=原盤CetraFE33)と10日(K22C173=原盤Laudis)と2種の録音があるとされていたが、現在は同じ物とされている。TAHRA本では6日か10日としている。K22C173では4楽章が一部51年バイロイト盤で補修されているが継ぎ目が荒く、音質が極端に異なり興ざめだ。K22C173は全体的に音質が劣悪でエアチェックと思われる。この解説文にあるように「きけばきくほど味が出て新発見がある」とは到底思えない。K19C287-8の方はK氏のご協力で聞かせていただいたが、比較的良好な音質で、オリジナルの存在を感じさせる録音状態となっている。
WF氏によれば「ベルラフォン盤16:15に電話の呼び出し音が1回混入。まさに現代の携帯電話の着信音にそっくり。」といい、調査の結果、現時点('02末)までに発売されている全ての盤で確認された。つまり、現在発売中の非公認盤はすべてコピーテープの可能性が高いということだ。
13年2月巨匠が44-54までVPOと残したライヴをほぼ収録したORFEO盤が発売され、ORFの前身であり当時のソ連管轄放送局RAVAGとRWRが共同収録したオリジナルと思われるテープからCDが発売された。
29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. The last rehearsal & Live(EMI=Legge)
Beethoven:Sym.No.9
29 July 1951 Bayreuth Fes. Orc. Concert Live(Bavarian Radio)
Beethoven:Sym.No.9
●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭最終リハーサル&実況 EMI収録 EMI所蔵
LP/PR: EMI(GB)ALP1286-7(55/11)Pathe(F)FALP381-2(55/12)WALP(G)1286-7('55)ToshibaHA1012-3(56/02)
LP(WF's footsteps Version)/PR:ToshibaXLP5006-10(61/09)
CD(WF's footsteps Version): ToshibaTOCE6510('90)TOCE7530-4(91/12)
CD: ToshibaCC35-3165(84/11)EMI7470812('84)EMI7690812('88)MythosNR5009(03/05)
●7月29日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭o バイロイト音楽祭実況 バイエルン放送収録 バイエルン放送所蔵
CD/PR: WFHC013(07/07)Orfeo754 081('07)
>>>French Pathe FALP381-2(55/12) is the best sound quality.
▼shin-pが最初に聞いたバイロイト合唱のブライトクランク盤LPは音質が芳しくなかったが、CDになってからは若干こもりぎみながらも比較的明瞭なサウンドで聴くことができるようになった−と思っていた。
ところが2000年になってコレクターの方に各国初出盤LPを聞かせていただいてから考え方は大きく変わった。英独仏初出盤のなかでは仏パテFALP381-2(55/12)がもっとも明瞭なサウンドを聞かせ、終演後の拍手もドイツの聴衆らしく整然とした印象。ついで英盤。独盤は音がこもり気味で、日本初出盤に近いクオリティ。終演後の拍手もなぜか日独盤は共通して唐突なテープ編集がなされている。英仏盤も含めてEMI系のLP/CDは全て拍手の編集があるという説もある。原盤マトリクスは同じながら各国で別テープを使用しているようだ。00/07レコ芸相談室によると演奏前の足音入りテープは現在日本にしか存在しないという。また2000年東芝全集盤でも61年当時英EMIから送られてきたテープを使用してリマスターしているという。
MythosNR5009(03/05)は初出盤ALP1286-7(55/11)を板おこしした話題のCD-R。
足音入りの部分は演奏部分に比べて音が明瞭、マイクの位置もステージ際と思われ、聴衆ノイズの少ない演奏部分とは別のマイク位置による収録と思われる。さらに、もしこの足音部分のみバイエルン放送テープを使ったとすれば、同局が収録した他の音源と比べて51年録音としては明瞭すぎ、出所については疑問が残る。
足音や終演後の拍手のみならず詳細に聞けば、残響が不自然にとぎれ、いたるところでテープ編集されているのがわかる。
この演奏は同年のカラヤン「ワルキューレ3幕」と共にEMIのレッグが収録。これだけの記念碑的大演奏会だけにリハーサルからテープは回っていると考えるのが順当だろう。英ART盤の解説によれば「終演後、レッグがWFの控室を訪れ『良い演奏だったが、今まで以上にすばらしい演奏とは言えなかった』と実演の感想を述べた」ことが書かれている。
オルセンによれば、実況録音はバイエルン放送が生中継し、テープも所蔵しているという。 EMIが現在「バイロイト盤」として発売している最終リハーサルを中心としたテープおよびバイエルン放送が本番の実況を録音したテープの2種の録音の存在が推定された。
2007年7月ついに日本WFセンターが、バイエルン放送のテープを使った真正実況を頒布。これの録音状態は、51年放送録音としては標準的なもの。EMI盤は3楽章をはじめとして若干の実況を含んだ「最終リハーサル」を中心とした編集版である可能性がさらに強まった。
さらに、EMI盤とセンター盤の同じ演奏部分の収録状況の違いから、真正実況もEMIとバイエルン放送の2つの音源があり、51年バイロイトに関しては計3種テープの存在が07年時点で推定される。
クナの神々をデッカが収録しているが、音質ではEMIはデッカに及ばなかった−という世評。ただ、初出盤などを聞くにつけ、もっといい音で残されている期待もある。
演奏については、唯一「コーダの決めが録音のせいかあやふやな感じで終わっている」といった趣旨の演奏評も多いが、この切れたような終わりかたこそshin-pはこの曲にふさわしいと思える。至る所で編集がされていたとしてもこの演奏の偉大さは変わらない。完璧な決めがほしい人は54年ルツェルン盤をどうぞ。
宇野本では東芝が2088を採用する前にマスタリングしたTOCE7530-4(91/12)を推薦している。また06年時点で比較的入手が容易なTOCE6510('90)も音質好評のCD。よりよい音を求めて初期盤や「初期盤板起こしCD」を求める傾向が顕著になっているが、最新盤TOCE55701(04/12)も含めてこの曲を鑑賞するのに東芝系CDに大きな遜色はないと今(06年)のshin-pは思う。
31 Aug. 1951 VPO Salzburg Fes.(Rotwaiser Radio = ORF)
Beethoven:Sym.No.9
●8月31日 ベートーヴェン/合唱 VPO ザルツブルク音楽祭 RWR収録
PrivateArchive
CD/PR: Orfeo533001(00/08)
LD(4thMov.MOVIE): Dreamlife Japan DMLB27(LD)
Net(4thMov.MOVIE): aeiou-film.f0624a(aeiou is the culture information system of bm:bwk)
▼終楽章の一部が映像で残されLDとして出ていたのみだったが、2000年8月オルフェオが初出CDを発売。録音状態は、直前のブル5EMI盤よりは良いが、同じOrfeoのマーラーには劣る。オリジナルに近いテープのようだが、所々つぎはぎがあり音質も若干変化している。エコーをかけぼかしているが、製品化するには難のある音質。演奏もキレが悪く1カ月前のバイロイト盤とは比較にならない出来。この直後、ベルリンでの演奏会の第9は巨匠の要求でテープが消去されたが、この演奏と同じように不出来だったのかもしれない。
4. 中川隆[-14197] koaQ7Jey 2020年1月23日 21:08:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1051]
1952年
3 Feb. 1952 VPO Musikverein(Archive of VPO)
Beethoven:SymNo.9
●2月3日 ベートーヴェン/合唱 VPO ムジークフェライン Rot-weiss-Rot/RAVAG収録 VPO所蔵
LP/PR: 2259012-3(=JP'75?)Rococo2109('75?)
CD: DisquesRefrainDR910003('91)WFSG TMK002038(01/05)Andante4988(02/09)TAHRA FURT1075(02/11)M&ACD1117(03/02)ArchipelARPCD0110(03/04)
>>>DR's CD is dull sound.
▼Rococo盤やDR盤、日本製私家盤しか存在しなかった当時、音質は悪いが演奏は51年バイロイト、53年VPO以上という人もいた。それでもこれらの音質は51年1月合唱のラウディス原盤K22C173('82)よりはマシだった。VPOにテープが保存されているというが、本物はどれくらいの音質なのだろう。→ついにオリジナルテープから独協会盤が01/05頒布された。日本協会でも01/08頒布。andanteからも市販正規盤が02/09出現。独協会とAndanteは、巨匠の正規VPO盤で著名なマスタリングの人物で全楽章平準化された音質はエッジの甘さが気になる。
Q氏によれば、独WF協会盤andante盤は全く同じ音質。M&A盤とTAHRA盤はマスタリングの違いで若干音質が異なる。shin-pは、TAHRA盤はバランス良く仕上がっていると感じるが、M&A盤はノイズリダクションをかけすぎで色彩感のない音質になっていると思う。協会盤以降発売されたCDは、DR盤で聞ける「残響の終了を待った拍手」ではない「歓声入りの大喝采」が収録されている。初出日本製私家盤LPには拍手は未収録だが、終演時の「間」がDRと酷似している。つまり音質はともかく「正規の拍手」は、正規盤ではなくDR盤のようだ。全ての拍手が本物ではないとする意見もある。
shin-pは廉価盤Archipelが生々しさでは一番だと思う。音質明快になり、演奏の内容も良く見渡せるようになったが、落ち着いた揺ぎ無い印象の51年バイロイトに比べ、ライヴ感満点のスリリングな演奏に感じる。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c4
5. 中川隆[-14196] koaQ7Jey 2020年1月23日 21:12:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1050]
1953年
30 May 1953 VPO Musikverein(ORF)
Beethoven:Sym.No.9
●5月30日 ベートーヴェン/合唱 VPO ムジークフェライン ORF収録 ORF所蔵
LP/PR: Dreamlife(JP)RILP0002(09/02)
CD/PR: Dreamlife(JP)RIPD0003(09/02)
31 May 1953 VPO Musikverein( Rot Weiss Rot=VPO)
Beethoven:Sym.No.9
●5月31日 ベートーヴェン/合唱 VPO ムジークフェライン RWR収録 VPO/ORF所蔵
LP/PR: DiscocropRR460('76?)Columbia(JP)OC7131-2('77)WFSG F669056/7('83?)
CD: WFSJ WFJ10/11('90?)DG4353252('91)DG(JP)POCG2624('92)Altus(JP)ALT076(04/02)
>>>DG is miss date(30 May). WFJ's CD sound quality is different from DG's.
▼31日はウィーン芸術週間でのLIVE、30日はその前夜祭で、WFが病気のため1月23日に演奏途中中止となったニコライ演奏会(shin-pの古いノートには、場所はソフィエンザールとある。日本協会の資料ではムジークフェライン)の延期公演でもある。91年DGからVPO創立150周年記念盤で30日として発売されたが、Discocropなどで既出の31日盤と同じ演奏で、演奏会場とソリストの関係から31日が正確なデータとされた。
当時はなぜDGが単純な日付の間違いをしたのか−といろいろな憶測が流れたが、2004年発売のAltus盤では録音日をDGと同じ30日とし、VPO所蔵のテープにそういう記載があるということがわかり、従来31日とされた録音の収録日に再び疑念が生じた。ちなみに31日のソリストはゼーフリート(S)アンダイ(A)デルモータ(T)シェフラー(B)だが、日本協会の資料によれば30日のソプラノはザデックとなっている。またOC7131-2の小林利之氏の解説によれば29日にもゲネプロ(公開総練習)が行われたという。近接するVPO演奏会のプログラムには、30日の演奏会がゲネプロとの記載があるが、29日の演奏会は記載がない。6月1日リンツでの演奏は、アルト以外の独唱者が変更されているとの資料が多いが、ウィーンジングアカデミーのアーカイブによれば、1月と6月1日のリンツでの演奏会を含めすべて31日と同じ独唱者で、ウィーンで行われた演奏はすべてムジークフェラインとなっている。
2009年2月Dreamlifeから5月30日録音とされるCDが発売された。shin-pは、既出の5月31日録音とされるものとはまったく別の演奏で、ソプラノはゼーフリートであると思う。戦後すべてのWFの録音とも違いがあり、「新発見」であることは確実。ただし、上記の疑問点から日付や会場、ソリストが正確かどうかは不明。DreamlifeがORFにオファーした31日のテープが現在31日とされる録音と別録音だったために30日の日付がDreamlifeによって付与された経過もあり、現在30日とされる録音と31日とされる録音の日付が逆である可能性もある。
演奏については、「すばらしい」「注目される」という賞賛の意見も多いが、shin-pは完成度の点で31日とされる録音に大きく劣り、決してWFの好調なときの演奏ではないと思う。
音楽評論家の間でも真偽について意見は分かれ、平林氏は「何回聴いても同じにしか思えない。」とし「大地の歌と同様、偽装音源である」としている。桧山氏は「31日録音が、一部挿入されている」疑念が残るものの「31日と同じもの、という見解には同意しがたい」としている。
[平林直哉 盤鬼のつぶやき 第4回 奇々怪々、新発見の『第9』]
https://yomimono.seikyusha.co.jp/hirabayashinaoya/hirabayashinaoya4.html
[フルトヴェングラー新発見の「第9」−Musikfreund by 野田爺@クラシック]
http://musikfreund.blog64.fc2.com/blog-category-8.html
(↑疑問点についての詳細なまとめとレポートがあります。)
桧山氏は[参考資料@]で75年頃に発見されたRot-Weiss-Rotのテープについて「一向に姿を見せない」としていたが、そのテープを使って91年に出たDG盤の録音は良好で、Rot-Weiss-Rotが返還したVPO所蔵のオリジナルテープは良質だったと思われる。
ノンオーソライズ盤の方は、終楽章に他のポピュラー音楽やDJの声などが混入している。エアチェック音源かあるいは電信ケーブルを使って中継されたものを他の放送局が録音したものだろう。(米進駐軍放送局Rot-Weiss-Rotの録音については50年フィデリオ参照のこと。)
42年BPO・51年バイロイト・54年ルツェルンにくらべれば平凡に聞こえてしまうのは仕方ないか。それでもコーダの締めは51年バイロイトよりさらに42年BPOに近いくらい高揚しており、演奏と録音のバランスを考えて、これをベストとする意見も多い。
DG4353252にはEMIの協力による発売と明記され、94年没後40年記念の日本DGの全集盤には収録されていない。imat氏によると、独&日協会盤の音はDGよりオンマイク気味で、生々しい音だ−としている。DGと同じ製作者のリマスターとして出たAltus盤は、しもけん氏によれば「低域が豊かになり、音に厚みが出て、細部も明瞭になり・・・買い直す価値はある」という。shin-pはT店試聴器で聞いたのみだが「この演奏にそれほどの思い入れがなく、この程度の音質差では買い直すほどではない」と判断した。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu18.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c5
6. 中川隆[-14195] koaQ7Jey 2020年1月23日 21:17:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1049]
1954年
8 Aug. 1954 Bayreuth Fes. Orc.(Private Archive)
Beethoven:Sym.No.9(3&4mov.reh.)
9 Aug. 1954 Bayreuth Fes. Orc.(Private Archive)
Beethoven:Sym.No.9
●8月8日 ベートーヴェン/合唱から3/4楽章リハーサル バイロイト祝祭O バイロイト音楽祭 Private Archive
LP/PR: AT07-08(88?)
CD: DR920033('92)WFHC001-2(03/12)
●8月9日 ベートーヴェン/合唱 バイロイト祝祭O バイロイト音楽祭 Private Archive
LP/PR: W16(87?)
CD: DR910016('91) M&ACD1127(04/01)WFHC001-2(03/12)WFJ56(07/08)ORFEOR851121(12/11)
▼上記ドンジョヴァンニの公演の合間をぬって行われたバイロイトでの第9。録音の存在自体はかなり以前から知られていた。終楽章の有名な旋律すら聞き取りにくいほど各楽器間のバランスが悪く、劣悪な音質のため、長い間未発売だったが、本番・リハともにLPが80年代後半そしてCDが90年代にでた。いずれも日本では70年前半からテープで流通していたとされるものからおこしたと思われる日本製プライヴェート盤。
9日実演のM&A盤は「良好音質」という鳴り物入りで登場する予定だったが、発売されたCDはW盤やDR盤との音質差が僅かで、終演後の拍手は明瞭な音質の別物を繋いだと思われるものだった。03年秋設立された日本WFセンターは、この両日の演奏を2枚組で頒布。2世代以上若いテープからの復刻ということだが、こちらも大きな差が感じられるまでには至っていない。
センター盤ジャケットの写真ではソリストの前にマイクが確認でき、録音が「正規」に行われたことは証明された。Veneziaは8日のリハーサルをCD化。バイエルン放送の放送用オリジナルテープの存在を示す資料は未確認だが、EMIは巨匠の死後、第9を発売するためにこの後のルツェルン盤とともにこの54年バイロイト録音も試聴したとされ、現在EMIがオリジナルを所有している可能性はある。
日本協会は2007年8月にオリジナル音源によるこの日の実演とリハーサル終結部を頒布したが、音質はセンター盤とほぼ同等。市販正規版として12年11月登場したORFEO盤は、ミュンヘンのセレモニー社による修復装置で、音程や音揺れの改善が見られるものの録音自体の大きな印象変化にはつながらなかった。それでも、演奏自体はもしかすると51年バイロイト以上と思わせる部分が多々あるという、吉田秀和氏の演奏評がORFEO盤によって実証されたのも事実で、現時点(2013年)におけるこの演奏のファーストチョイスであることは間違いない。
[(FLV Audio)フルトヴェングラー バイロイトの第9 1954年8月8日のリハーサル on ニコニコ動画]
https://www.nicovideo.jp/watch/sm5406759
(↑試聴にはログインが必要です)
22 Aug. 1954 PO Lucerne Fes.(SwissRadio)
Beethoven:Sym.No.9
●8月22日 ベートーヴェン/合唱 フィルハーモニアo ルツェルン音楽祭 SRF収録 バーゼル・スイス放送(DRS)/スイス放送協会(SRF)所蔵
LP/PR: MF18862-3('75?)CetraLO530('78)KingJapanLPK19C21-2('78)
CD: TAHRA
FURT1003(94/06)KingJapanKKCC4231(98/03)OtakenTKC307('08)DeltaClassicsDCCA-0065(09/11)audite95.641(14/11)
▼70年半ばに出た初出日本製MF盤の音質は劣悪ながら、最後の決めが51年のバイロイト盤より完璧で、演奏者のオーソライズが取れないためオリジナルから発売できないことが長年の懸案だった。78年一般発売された版権切れテープを使ったLPのチェトラ盤・ワルター協会盤も若干修正されたものの枯れた印象しか残さないもので、おそらく何度もコピーを繰り返したものだろう。MF盤は、以前から関西を中心とした日本の愛好家の間で流通していたテープを元にしたといわれている。
Rodolphe盤は夫人のオーソライズがあり、夫人所有のテープからのものと思われる。左右のチャンネルに別々の録音を入れ、3枚組で交響曲全集という変わった種類のCDである。
そして放送局テープを使ったTAHRAの正規CDが発売されるや、その透明感あふれるサウンド、そして終楽章の完璧な締め、など54年録音とは思えない瑞々しいサウンドに驚いてしまった。85年以降shin-pはWFを含めて全くクラシック音楽を聞かない時期があったが、その呪縛を解いてくれたのがこのTAHRA盤。4楽章のみレリーフからすでに正規盤(CR1882='90?)が出ており、SK氏によるとTAHRA盤ほど修正していないものの「ほぼ同等のクオリティ」という。演奏ではやはり、私はバイロイト盤だが・・。
この録音は現在ではWFの中で最高音質の録音とされ、OTAKENやDeltaなどのマイナーレーベルも、オリジナルテープを使って音質の向上を探っている。死の直前になり、現在でも通用する音質の名演奏を遺してくれたWFと演奏会および放送スタッフには感謝しなければならないだろう。
2014年末、音楽祭を収録したSRF(スイス放送協会 Schweizer Radio und Fernsehen)からのアーカイブを元にしたaudite盤がSACD/CDともに発売された。TAHRAの音源はDRS(バーゼル、スイス放送)に所蔵するオリジナルだが、audite盤にはいつもの「1st master release」というシールが貼られ、日本の輸入代理店からもスイス放送協会(SRF)の保管庫に「秘蔵」されていたオリジナルマスターテープとのコメントが出ており、いままでで最もオリジナルに近いものを使ったと感じさせる記載になっている。しかし、DRSは前記SRFと統合されており、いままでのものと何が違うのかは想像の域を出ない。
audite盤のブックレットによれば、音楽祭運営とオーケストラとのトラブルによりこの54年はフィルハーモニア管が招聘されたという。この際の演奏では、ロイヤル・フィルと兼任するホルンの名手デニス・ブレインも参加していたという。
スイスロマンド放送(RTS=フランス語放送)による第9についてのスピーチもある。(仏協会SWF961-2=全部/TAHRA FURT1003=抜粋)
[私とclassic]
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/comp02.htm#rireki
ルツェルン フルトヴェングラー on YouTube Search
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%80%80%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC&aq=f
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu19.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c6
7. 中川隆[-14194] koaQ7Jey 2020年1月23日 21:21:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1048]
Wilhelm Furtwängler Composer INDEX 1
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu08.htm
このコーナーでは、主要な作曲家・作品別にフルトヴェングラーのディスクを掲載します。
特に「スタジオ録音」と記載のないものはすべてライヴ録音です。
Beethoven:Sym.No.9
1)37/05/01 BPO london Queen's Hall
2)42/03/22-4(04/19) BPO Berlin Phil.(RRG)
3)43/12/08 StockholmPO Stockholm
4)49/05/28 scalaO milano
5)51/01/07 VPO Musikverein
6)51/07/29 Bayreuth Fes.O Bayreuth Fes.
7)51/08/31 VPO Salzburg Fes.
8)52/02/03 VPO Musikverein
9)53/05/30 VPO sofien
10)53/05/31 VPO Musikverein
11)54/08/08 Bayreuth Fes.O Bayreuth Fes.
12)54/08/22 PO Lucern Fes.
▼30/06/16の2楽章と32/04/18の断片がある。2)は現在流通している録音はすべて4月19日のものと推測される。メロディアLP初版が3月22-4日の録音か?9)10)は同じ録音?但し10)は終楽章の映像あり。4)7)は未発売。特に4)はその存在そのものが意見が分かれる。
▲4)7)未聴。やはり演奏では6)、録音とのバランスで12)。11)は全WF録音中"最悪"の録音状態(DR盤)だが、演奏はもしかすると6)を上回っているかも−
>>>>>My Best is 6)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu08.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c7
8. 中川隆[-14193] koaQ7Jey 2020年1月23日 22:47:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1047]
フルトヴェングラー、「もう一つのバイロイトの第9」
フルトヴェングラー1954年8月「バイロイトの第九」
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19447032
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19447138
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19447289
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19450599
フルトヴェングラー1954年「バイロイトの第九」リハーサル
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19446810
https://www.nicovideo.jp/watch/sm19446892
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」
演奏日:1954年8月9日
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
管弦楽:バイロイト祝祭管弦楽団
ソプラノ:グレ・ブルーウェンスティン
アルト:イラ・マラニウク
テノール:ヴォルフガング・ヴィントガッセン
バス:ルートヴィヒ・ヴェーバー
合唱:バイロイト祝祭合唱団
________
『ベートーヴェンの第九を彼みたいにやった人はいない。そうして50年たった今、これまでお前の聴いたものの中で一番第九らしい第九の演奏は?と聞かれたら、やっぱり私はあの年(54年)バイロイトで聞いた第九をあげるだろう。』
〜2003年9月17日 朝日新聞『吉田秀和 音楽展望』より
凄まじい54年バイロイトの第9
有名な51年バイロイトの四年後、フルトヴェングラー晩年の爆発的演奏。
51年盤に比べると細部に荒が散見し、歌唱も劣るが演奏のテンションの高さは他の演奏をしのぐ。個人的にはこれは53年のルツェルンの英雄同様、フルトヴェングラー最後の咆哮としてそれまでの演奏とは切り離して考えるべきだと思う。
フルトヴェングラーの戦後の第九の解釈は53年ウィーン芸術週間の第九で完成されており、それ以降のこれとルツェルンはそれらから外れた彼の遊びに思えるのだ。
ちなみに吉田秀和が生で体験した演奏であり、当人曰く「あらゆる演奏体験の王者」だとか。
https://www.amazon.co.jp/バイロイトの第九-フルトヴェングラー-ヴィルヘルム/dp/B009SASPSC
バイロイト1954 フルトヴェングラーの『第九』
ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』
グレ・ブロウエンスティ−ン(ソプラノ)
イ−ラ・マラニウク(アルト)
ウォルフガング・ヴィントガッセン(テノール)
ル−トヴィヒ・ウェ−バ−(バス)
バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団
ヴィルヘンム・フルトヴェングラ−(指揮)
録音時期:1954年8月9日
録音場所:バイロイト祝祭劇場
録音方式:モノラル(ライヴ)
独・オルフェオ(オルフェオド−ル) CD ORFEOR851121 オ−プンプライス
フルトヴェングラー&バイロイト1954の『第九』
故吉田秀和氏がバイロイトで聴いた超名演がオルフェオから登場!
バイロイトでの『第九』演奏は戦後5回しか行われていない。
1回目は戦後第1回目のバイロイト音楽祭となった1951年の音楽祭開幕日である7月29日の記念碑的公演(フルトヴェングラ−の指揮)であり、
2度目はその2年後の1953年8月11日(パウル・ヒンデミット指揮)、翌54年8月9日の演奏がこの録音であり、
4回目が1963年(ワ−グナ−生誕150年)7月23日にカ−ル・ベ−ムの指揮、そして5回目が2001年8月10日のクリスティアン・ティ−レマン指揮の演奏である。
先ごろ亡くなった音楽評論家、吉田秀和氏がこの演奏を実際に聴いたという。当時の日本人が現地で生演奏に接するということがいかに貴重であったかはここで語らずも解るというものであるが、それが吉田氏であったということは、われわれ後輩にとって救いであろうと思う。
彼は後年、文章でその演奏風景を語ってくれたのだから。例えば、1957年の『音楽紀行』で吉田氏は、
「フルトヴェングラーは、その後、ザルツブルクで『ドン・ジョヴァンニ』と『フライシュッツ(魔弾の射手)』を、バイロイトで『第9』をきいた。
ことに『第9』は感心した。第3楽章がよかった。
第4楽章の歓喜の主題がバスで出た時はずいぶん遅く、それが反復されるたびにだんだん速くなり、次第に盛り上がっていって、合唱にもってゆくところは、なんともめざましいばかりだった。」
と語り、後年の1984年刊のレコード芸術・別冊『フルトヴェングラー』では、
「私が彼から受けた最も深刻な感銘は・・・これも前に書いたことだが・・・バイロイトできいたベートーヴェンの第9交響曲の演奏から来たものである。あれは本当にすごかった。その後、私も『第9』を何回、何十回きいたか知れないが、あの時以上の『第9』は、ついに、きいたことがない。フルトヴェングラーにとって『第9』はあらゆる交響音楽の王者、至高究極の作品だったように、私にも、あの『第9』はあらゆる管弦楽演奏会の経験の王者だった。」
と語っているほどだ。
上記のように、フルトヴェングラー最晩年の1954年のバイロイトでの『第九』は、当時のバイロイト音楽祭の主宰者ヴォルフガング・ワーグナーをして「1951年の演奏とは、比較にならない程優れた演奏」とまで言わしめた伝説的な名演として知られているものの、残念ながらこれまでリリースされていた録音はいずれも1954年という年代ににもかかわらず音質が非常に悪く、その演奏内容を自然に享受するという段階には達していなかったのが現状であった。
今回、オルフェオから登場したものも、とてもじゃないが正規盤と言える代物ではないが、それはオリジナルの放送テープは消失しており、遺されているテープの状態も良くないことに起因している。今回は現存するテープからミュンヘンの会社が開発したデジタル修復機器を使って、比較的聴きやすい音質にまで甦らせることに成功させたことによって、このCDから伝わってくる音楽は本物だ。
演奏は個人的には(少々荒っぽい表現だが)『1951年のバイロイト盤』よりも遥かに燃焼度が高い壮絶な演奏と断言したい。フルトヴェングラーが最後の力を振り絞ってタクトを振っている凄まじい気迫が伝わってくる凄演であり、心を奥底から揺さぶる演奏であることは間違いない。
特にフィナーレ最後の猪突猛進で最後の最後にブレーキをかける大上段な芸当は、彼の人生の総決算をあたかも暗示しているかのようだ。随所にこの日ならではの、得も言われぬ感動的な表情があり、まさに『サイコ−の演奏!』と言い切れる。なるほどバイロイトでの最後の演奏に賭けた彼のただならぬ雰囲気が伝わってくる演奏で、そんな演奏を録音で聴ける今って、ボクは幸せだなぁ、と思わずにはいられない。
なお、国内盤にはボーナスCD(前日のリハーサル)が付く。ボーナスCDには、前日におこなわれたリハーサル音源が収められていて、これは日本フルトヴェングラー協会より音源提供を受けて、キングレコードが関口台スタジオで最新リマスタリングを施したもので、遺された音源は一部(第3、4楽章)ながら、本番をしのぐ激しさで、フルトヴェングラーの肉声も聞くことができる。
日本独自の大特典!ほかにもブックレットには、平林直哉による解説と、クリストフ・シュティッケル&クラウス・シュルツのテキスト(吉田光司・訳)、リハーサルでのフルトヴェングラー発言(シュトク・カチャ・訳出)、歌詞対訳(門馬直美・訳)が掲載されているほか、オリジナル・ブックレットにあるフルトヴェングラーの当時の貴重写真6点もそのまま掲載されている。
http://o-arcadia.jugem.jp/?eid=1563
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c8
9. 中川隆[-14192] koaQ7Jey 2020年1月23日 23:02:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1046]
Furtwangler: Beethoven Symphony no. 9 "Choral" (Bayreuth 1951, Alternative version)
https://www.youtube.com/watch?v=95Wl6SxPKtQ
This is of course from Bayreuth's reopening concert on July 29, 1951, conducted by Wilhelm Furtwangler.
This is not EMI's recording of it, however, which contains takes from rehearsals.
Instead, this has been taken from the Bavarian Radio tapes that the record label Orfeo used in its issue of the concert.
The orchestral playing here is rather better, and the performance is more exciting. The trade-off is in the sonics, which are decidedly rougher- but the chorus is recorded with more presence. Take your pick.
Bayreuth Festival Orchestra, Wilhelm Furtwangler
Live Recording, July 29, 1951
▲△▽▼
バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団
エリーザベト・シュヴァルツコップフ(S)、エリーザベト・ヘンゲン(A)、ハンス・ホップ(T)、オットー・エーデルマン(B)
ORFEO。C754 081 B。1951年7月29日,バイロイト祝祭大劇場ライヴ。
バイエルン放送協会による正真正銘のライヴ録音!....
ということは、過去半世紀にわたってこの記念すべき演奏会のライヴ録音とされてきたEMI盤は、実はリハーサルなどの録音との編集盤である、ということになる。フルトヴェングラー研究史上最大の衝撃といえよう。
私も、EMI盤とORFEO盤を交互に聴き比べてレポートを作成してみた。
結論からすると「確かにEMIは録音上特徴的な場面でリハーサル中心、ORFEO盤はライヴ」ということが言えそうである。
ORFEO盤では終楽章ラストのアンサンブルがかろうじて崩壊せずに踏みとどまっている。その後の拍手はカットされている。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven9-m.htm
OEFEO盤バイロイトの第9正真正銘ライヴ盤
フルトヴェングラー研究史上最大の衝撃!ORFEO盤「バイロイトの第9」
2007年11月末、HMVからの広告メールに「バイロイトの第9」のバイエルン放送音源がORFEOから発売されるとの情報があり、早速注文した。この音源は日本フルトヴェングラー・センター会員向けにはすでに7月に頒布されているらしい。そんなわけでShin-p氏のサイトを見てみると、
「EMI盤は3楽章をはじめとして若干の実況を含んだ「最終リハーサル」を中心とした編集版である可能性がさらに強まった。さらに、EMI盤とセンター盤の同じ演奏部分の収録状況の違いから、真正実況もEMIとバイエルン放送の2つの音源があり、51年バイロイトに関しては計3種テープの存在が07年時点で推定される。」
とコメントされている。
さて、12月23日にORFEO盤が届いたので早速通して聴いてみる。
EMI盤と比べて弦がよく聞こえる録音なので雰囲気はかなり違うが、演奏の全体的な形はEMI盤と同じように思える。第1〜3楽章までは特に違和感なくバイロイトの第9として聴ける。しかし最終楽章ではやはりちょっと違うかな?と感じられる所があった。
そこで、CDプレーヤーとDVDプレーヤーにEMI盤とORFEO盤をセットして、少しずつ区切って比較しながら聴いてみた。
まず、比較する際、普通ならば聴衆ノイズの位置が手がかりになることが多いのだが、どうもこの2枚の比較においてはあまりそれが役に立たないようだ。というのは、EMI盤のマイクが舞台の奥の方、すなわちティンパニや管楽器を明瞭に捉えるように設置されているようなので(その分弦がモヤッている)、EMI盤にセキが聞こえないからといって本当にセキがなかったとは言えなさそうだからである。ただ明らかにセキの有無のありようは両盤で異なっている。
しかし「EMI盤で聞き覚えのあるフルトヴェングラーの足音がORFEO盤に無い」という場合、これはかなり大きな証拠になる。ORFEO=バイエルン放送協会のマイクは、明らかに舞台前方の音をよく捉える位置にあるのだから、EMI盤の足音はもっと良く聞こえるはずだからである。
さて、第1楽章はいきなりORFEO盤冒頭で演奏開始前後にかけてシューッというノイズが入っていてビックリさせられる。これは何なのだろう?その後も4分ぐらいの間にセキの聞こえ方が違ったりするが、ティンパニが活躍する前後のあたりは同じ演奏のような気がしないでもない。しかし、EMI盤13:24、スコア415小節の前での気合いを入れる足音がORFEO盤にはない。この楽章は実測でEMI盤17:43、ORFEO盤18:00。
第2楽章は、タイミングから何から何までEMI盤とORFEO盤にほとんど違いがないと私は思う(実測11:51,11:50)。
第3楽章は、ORFEO盤では木管→低弦と入ったあと3小節目からはいるべき第1Vnがフライングで早く弾き始めてしまっているように聞こえる。あと、EMI盤では5分すぎあたりでフルトヴェングラーの息の音がかなり聞こえるのだが、ORFEO盤では聞こえない。10分手前のホルンのひっくり返り度合いは同じか?しかし、一番最後のトゥッティでフォルテで鳴らす際、ORFEO盤ではフルートがほんの少しフライングしているのはEMI盤にはない特徴だ。この楽章はEMI盤19:28、ORFEO盤19:20。
最終楽章。例のテーマが出てくるまでは楽段ごとに微妙にタイム差はあるものの大きな違いはない。(直前のトゥッティとテーマ開始までの間は、EMI盤で2:59-3:04、ORFEO盤で3:01-3:07。)しかしバスのテーマが出てくる所からORFEO盤は録音レベルが上げられていて少しノイズが目立つ。ORFEO盤3:48のセキはかなり大きいがEMI盤にはない。EMI盤の5:25頃、第1Vnによるテーマ後半からの流麗なアッチェレの絶妙さは、ORFEOではイマイチのような気がする。第2の嵐の開始はEMI盤6:51、ORFEO盤6:55。
エーデルマンの第1声レチタティーフはあまり違いはない。だがその後の「Freude!」では決定的な違いがある。EMI盤ではまずエーデルマンが「Freude!」とやったあと合唱の「Freude!」の出が遅いと見るや、フルトヴェングラーはエーデルマンの2回目の「Freu−−de!」の「Freu」とともに足音を一発かまして合唱をしっかり入らせる。これはEMI盤バイロイトの第9を長年聴いてきた人なら誰でも知っている場面である。ところがORFEO盤では、エーデルマンの1回目の「Freude!」の1拍前からいきなり2発連続で足音をかましている。だからEMI盤の所では逆に足音はない。
「vor Gott!」のフェルマータは、EMI盤10:27-10:37(次のバスの音は10:46)、ORFEO盤10:32-41(同10:50)。ORFEO盤ではEMI盤ほどクレッシェンドしていない感じだ。
テノールソロの後、弦のフガートが始まるとEMI盤12:27、スコア441小節から3拍足音が聞こえて早いテンポでアンサンブルを揃えにかかるのもよく知られた特徴だが、これもORFEO盤にはない。
その後の合唱については、両者のマイクバランスがあまりに違いすぎるので、同じなのか違うのか判別が困難である。四重唱部分のシュヴァルツコップのブレス位置は同じのようだが、同じ演奏と言えるかどうかはわからない。ただ、最後の最後でORFEO盤ではオーケストラがあまり崩壊していないように聞こえるのはかなり大きな違いだ。終楽章はEMI盤24:44、ORFEO盤25:00。なお、ORFEO盤は最後の拍手が全くカットされている。(EMI盤の拍手は編集でくっつけたもの、というのは今や定説らしいが、本当はどんな拍手だったのだろう。)
以上、がっちり聞き比べた結果、「EMI盤はリハーサル中心」ということの傍証が得られたと思う。確かにフルトヴェングラーはライヴ本番でもアンサンブルを合わせる足音を鳴らす人だったが、EMI盤にしかない足音はリハーサル、「Freude!」の場面は合唱に対してリハーサルでの失敗をしないように本番では先取りで足音を鳴らした、と考えられるからである。
また、今まで「EMI盤バイロイトの第9は録音がこもっている」などと評されてきたが、この聞きくらべのあとは、これはこれでポリシーのある録音のような気がしてきた。バイエルン放送協会=ORFEO盤は放送局によるライヴ録音としては申し分ないもので、弦の立派な響きが聴ける。しかし、ティンパニは直接の打撃音にその反響が混ざってしまってるし、木管のバランスも悪い。それに対しEMIの録音は何と言っても、この曲のオケの中の主人公であるティンパニの打撃音一つ一つが非常にクリアである。木管・金管のバランスも良い。弦と合唱はマスとしての響きがあれば良いと割り切ってのマイク配置だったのではなかろうか。
EMI盤はリハーサル中心の編集盤だとして、どの程度ライヴの音源が入っているのだろう。上の聞きくらべ結果によれば、第2楽章は全くライヴ録音とイコールのようだが、他の楽章は基本骨格はリハーサル録音のような感じである。しかし、そのリハーサル中心のEMI盤のほうが、ORFEO盤よりもより感動的である。これは今までの常識が覆すことになる。
今まで「バイロイトの第9」が感動的である所以は、それが記念碑的な「ライヴ」だったから、ということになっていた。しかし、ライヴのORFEO盤より、リハ中心のEMI盤のほうがスケールの大きさを感じさせる。「フルトヴェングラーはライヴでこそ真価を発揮する指揮者である」と言われているが、やはり彼とてナーバスになってしまうライヴよりは、「上手くいったリハーサル」のほうがより多く注意の行き届いた演奏ができた、ということなのではなかろうか。(これは、彼がライヴを何よりも大切に思っていた、ということとは別の次元の話である。)
ORFEO盤の登場によって、半世紀もの間クラシック音楽界の聖書だった「バイロイトの第9」が、正真正銘ライヴではない、ということが判明してしまった。これは確かにショックなことである。しかし、一方でORFEO盤とEMI盤の違いがほとんどない、ということも確かである。それは「フルトヴェングラーの偉大さの証明」がまた一つ追加されたということでもある。よってEMI盤「バイロイトの第9」の歴史的価値が不滅であることには変わりはない。
Kenichi Yamagishi
http://classic.music.coocan.jp/wf/item/orfeo-1951-7-beth9.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c9
10. 中川隆[-14191] koaQ7Jey 2020年1月23日 23:15:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1045]
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」ニ短調 作品125 モノラル録音
フルトヴェングラーの録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven9-m.htm
モノラル録音に関しては所有する全ての盤を記載する。
その半数を占めるフルトヴェングラー指揮の演奏は、ここにあげた10種類で全てである。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団
エリーザベト・シュヴァルツコップフ(S)、エリーザベト・ヘンゲン(A)、ハンス・ホップ(T)、オットー・エーデルマン(B)
EMI全集中に含まれる。1951年7月29日,バイロイト祝祭大劇場ライヴ。
戦後再開されたバイロイト音楽祭初日の記念演奏会。演奏については左のリンク先に書いた。
EMI Referenceシリーズ輸入盤が長く愛聴盤だったが譲渡した。
1997年、EMI 100周年でART処理したニューリマスター盤CDH5 66218 2(写真左端)は音質がかなり改善されている。その後このART処理盤は、GREAT RECORDINGS OF THE CENTURYシリーズでCDM5 66953 2(同2番目)という番号でデザインも変わって再発売されたが、マスターは同一である(物好きにも両方入手してしまった。ART処理のマスタリング技師はSimon Gibson)。
1990年発売の国内盤TOCE-6510(同3番目)は、開演前の大拍手とフルトヴェングラー入場の足音とその後の奏者への二言三言が収録されているマスターからの初CD化である。またこのジャケットは、国内盤初出LPのデザインに準じたものである。(というのは、初出時は第1番とカップリングされていたので、3段目のno.9の文字が左寄せで、その右脇に&no.1と小さく書かれ、その下にエンジェルマークが入っていた。なおこの時は冒頭の足音は入っていなかった。)
このいわゆる“足音入り”のマスターテープは現在日本にしかないらしい(←shin-p、00年7月レコ芸相談室より)。そのテープを東芝EMIが、2004年に没後50周年記念で24bitリマスタリングしたものがTOCE-55701(同4番目)である。このリマスタリングはなかなか良い。
上でTOCE-55701を評価していると書いたが、この盤についてはひとつだけちょっと疑問がある。それは、その富樫哲佳氏による解説の文章構成が、私の文章と似ていることである。ヴァーグナーと第9、バイロイト音楽祭と第9、ヒトラーとバイロイト音楽祭、ヒトラー生誕祭とフルトヴェングラーのエピソードなどを順に綴っていくあたりが、どうもパクられたような気がしてならないのである。確かにこれらは歴史的事実なので、誰が書いても同じかもしれないのだが...
2005年になって面白いCDが出てきた。イギリス製と同じ規格と思われるオーストラリア盤HMV初期LPのほとんど通針していないも同然のものが大阪で発見され、オタケンレコードの太田憲志氏によってシンプルに復刻されたTKC-301(同5番目)である。一応話のネタに入手してみた。なるほどこれがLPの音か、とも思ったが、私個人としては「バイロイトの第9」に関してはARTなどのリマスタリングをプラスに評価しているので、何とも言えない。
2011年には、フルトヴェングラー生誕125周年ということでSACD Hybrid国内盤が出た。“足音入り”なのだが、リマスターはARTの技術陣である。
さらに翌2012年には、「英雄・第1」「運命・第7」とともに3枚組BOXでシングルレイヤーのSACD国内盤が出た(写真右端はBOX内の第9のジャケット)。SACDマスターは同一なので、Hybrid盤のほうは人に譲った。(オタケン盤およびSACD盤のジャケットは海外盤初出LPのものである。)
2007年末、この歴史的名盤の伝説のヴェールをはがすようなCDがリリースされた。それが次のものである。
バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団
エリーザベト・シュヴァルツコップフ(S)、エリーザベト・ヘンゲン(A)、ハンス・ホップ(T)、オットー・エーデルマン(B)
ORFEO。C754 081 B。1951年7月29日,バイロイト祝祭大劇場ライヴ。
バイエルン放送協会による正真正銘のライヴ録音!....ということは、過去半世紀にわたってこの記念すべき演奏会のライヴ録音とされてきたEMI盤は、実はリハーサルなどの録音との編集盤である、ということになる。フルトヴェングラー研究史上最大の衝撃といえよう。
私も、EMI盤とORFEO盤を交互に聴き比べてレポートを作成してみた。詳しくはこちらを読んでいただきたいが、結論からすると「確かにEMIは録音上特徴的な場面でリハーサル中心、ORFEO盤はライヴ」ということが言えそうである。ORFEO盤では終楽章ラストのアンサンブルがかろうじて崩壊せずに踏みとどまっている。その後の拍手はカットされている。
フィルハーモニア管弦楽団、ルツェルン音楽祭合唱団
エリーザベト・シュヴァルツコプフ、エルザ・カヴェルティ、エルンスト・ヘフリガー、オットー・エーデルマン
TAHRA FURT 1003(写真左端、譲渡済み)。
1954年8月22日,ルツェルン音楽祭ライヴ。
まずキングから発売され、のちM&Aからも発売されたが、ついにTAHRAから正式リリースされた。従来の海賊盤とは全く違う次元のすばらしい音質で、フルトヴェングラーの「第9」の決定盤の座をバイロイト盤から奪い取ったといっても過言ではない。
「一切が枯れていなければなりません。しかし、その中に炎の核があって全体を隈無く照らしていなければなりません。」というフルトヴェングラーの「理想の演奏」を実現している!
2000年末に、TAHRAが「残響付加無し、24bitリマスター盤」4枚組FURT1054/57が出た(写真左から2番目)。上の従来盤とはだいぶ印象が異なる。
2009年、SACD Hybrid盤FURT 2001(写真右から2番目)。フルトヴェングラー録音の中での初SACDである。
2014年末には、auditeからもSACD Hybrid盤が出た(写真右端)。
ベルリン・フィル、ブルーノ・キッテル合唱団
ティラ・ブリーム、エリーザベト・ヘンゲン、ペーター・アンデルス、ルドルフ・ヴァッケ
TAHRA FURT 1034/39。1942年3月22〜24日。
旧フィルハーモニーでのブルーノ・キッテル合唱団創立40周年記念ライヴである。
この演奏は、EMIユニコーン国内盤、M&A盤と渡り歩き、ついにTAHRAからFURT 1004/7というもので発売されたのだが、私はこれを入手できないでいた。しかし、98年末に上記6枚組の戦時中録音集が発売され、やっと素晴らしい音質でこの劇的な演奏を聴けるようになったのである。
さて、今まで私はこれを下記1942年4月19日のヒトラー誕生日前夜祭のライヴだと考えていた。その最大の理由は、終楽章の終わり近く四重唱の最後の部分のちょっとしたアンサンブルの乱れと気まずい雰囲気が、フィルムで残されたその誕生日前夜祭の音と同じであることは明らかだったからである。
しかし2004年10月に入手した本物の4月19日の録音とされるARCHIPEL盤でものを聴くと、やはりこの3月表記のものとは別演奏であることが明らかとなった。よって記述を大幅に訂正する。その他詳しくは下記ARCHIPEL盤の項に書く。
ベルリン・フィル、ブルーノ・キッテル合唱団
エルナ・ベルガー、ゲルトルーデ・ピッツィンガー、ヘルゲ・ロスヴェンゲ、ルドルフ・ヴァッケ
ARCHIPEL。ARPCD 0270。没後50年2004年発売。
1942年4月19日、ヒトラー誕生日前夜祭の演奏会を、ドイツ国内の他、海外に向けても放送した際のアセテート盤をもとに復刻したもので、開演前の拍手や楽章間の音、終演後の拍手とアナウンスがすべて収録されている。
(HMVによれば、拍手1:16、第1楽章17:06、楽章間1:14、第2楽章11:29、楽章間1:29、第3楽章18:59、楽章間0:03、第4楽章24:09、拍手1:21、アナウンス0:55、演奏時間正味71:43、その他合計6:18となっている。)
ノイズは多く音質は良くないが資料的価値は高い。フルトヴェングラー関係のディスクではここ数年で一番の発掘品であろう。
私は、終楽章終結部の共通点から、3月表記のものが実はこの誕生日前夜祭のものだ、と思っていて、ここにもそのように記述していた。しかしここに本物の4月19日盤を聴くと、全く上の3月表記盤とは別演奏である。
しかしそうなると、新たな問題が発生する。今まで比較のポイントとしてきた「終楽章終わり近くの四重唱終結部」は、3月表記盤とフィルムは共通して気まずい雰囲気だが、この4月19日ARCHIPEL盤の該当箇所はどうもそんな様子ではない。またこのARCHIPEL盤のフィナーレは明らかに、3月表記盤及びフィルム以上の大熱演である。
つまり、フィルムの映像は確かに誕生日前夜祭でゲッベルス臨席だったのだろうが、音のほうは3月の演奏と同じようのである。これはいったいどうしたことなのだろうか。一つ謎が解けたと思ったらまた新たな謎の出現である。
Shin-p氏のサイトの掲示板「フルトヴェングラー会議室」には当原盤が発掘されたいきさつが、仙台S氏より投稿されている(04年10月30日21時57分付)。引用させていただく。
「この14枚のDecelith disk (片面盤だそうです)をツヴァルク氏は昨年ウィーンのアンチークショップで見つけて購入したそうです。ウィーン在住の人が放送を1台のDecelith レコーダーで録音したものらしく、原盤にはディスクを取り替える際のギャップがあり、ツヴァルク氏はこれらを1942.3の録音の当該部分を用いて補修したそうです。以上のようなことを全てライナーノートに書くようにARCHIPELに求めたが容れられなかったとのことです。」
ツヴァルク氏というのは当ARCHIPEL盤にRemastering: Christian Zwargとある人物である。当盤の原盤表記は「Private off-the-air recording on seven 12-inch 78rpm "Decelith" discs(14 sides)」となっているが、実は14枚14面であるというわけだ。しかも、個人が自宅で録音したのだから、当然録音盤を換える時にブランクができる。しかもそれは数秒というわけにはいかないだろう。やはり1回ごとに10秒ぐらいはかかったのではないだろうか。そのブランクを当CDでは3月表記録音で補ったという証言である。
しかしShin-p氏は、「ギャップを補修したと思われる部分をshin-pは確認できず、おそらく同日の演奏で完全録音のように思える。放送局がテープ収録し、ダビングして関係者に配った「ディスク」と考える方が自然だ。」とコメントされている。また当ヒトラー誕生日前夜祭映像フィルムに関して「音声部分は3月のものを使用している」とお考えのようである。
フルトヴェングラーは、ヒトラー生誕記念前夜祭の「第9」の指揮を、ずっと仮病を使って避けていたが、この年は医者がニセの診断書を書いてくれなかった、という。(しかし、コンサート記録によれば、1937年にも4月18,19日に「第9」を「Broadcast Live」で演奏している。放送用ライヴということは客がいなかったということなのだろうか?)
ウィーン・フィル,ウィーン国立歌劇場合唱団、ザルツブルク大聖堂聖歌隊員
イルムガルト・ゼーフリート、ジークリンデ・ヴァーグナー、アントン・デルモータ、ヨゼフ・グラインドル
ORFEO。1951年8月31日、ザルツブルク音楽祭閉幕演奏会ライヴ録音。
初めは単品で発売されたC533 001B(写真左)。のち2004年にザルツブルク録音集8枚組C409 048L(写真右)に買い換え、単品は譲渡した。
バイロイトの名演の1ヶ月後の演奏ということになる。バイロイトで共演したソリスト4人はその後もバイロイトにとどまり「マイスタージンガー」「指環」に出演しているため、このザルツブルクは全く違う4人である。この4人はまたいずれも、この年のフルトヴェングラーとの「魔笛」に出演している。最後のソリスト四重唱はバイロイト盤よりも端正で好感がもてる。
フルトヴェングラーの指揮は、バイロイト盤の神かがり的演奏をもう一度咀嚼しなおしているわけであるが、そのため最後の猛スピードの部分などはやや二番煎じ的に感じられる。行進曲部分はデルモータのソロは健闘しているのに男声合唱の合いの手がほとんど聞こえない(この部分シンバルにマイクが近すぎて録音バランスが悪いのが原因と思われる)。
ウィーン・フィル、ウィーン・ジンクアカデミー合唱団
イルムガルト・ゼーフリート、ロゼッテ・アンダイ、アントン・デルモータ、パウル・シェフラー
1953年5月30日(DG,Altus)、or 31日(ORFEO)、ムジークフェラインでのライヴ。演奏・録音とも良好。
DGのウィーン・フィル創立150周年記念CD(435 325-2、写真左)。これは既に入手困難だが、2004年、Altusからこの録音が出た(ALT 076、写真中央)。
2012年にORFEOから、ウィーン・ライヴ録音BOXでも出た(C834 118Y、写真右)。
ルネ・トレマン編のTAHRAのコンサート記録によれば、5月29,30,31日の第9は、この年の1月にこの曲を演奏中にフルトヴェングラーが倒れてしまいキャンセルされた演奏会の代わりに計画されたものである。29日と30日は午後3時開演で、30日の演奏はライヴで放送された。また、31日は午後3時と夜7時半からの2回開催された。3日間ともゼーフリート他のソリストだが、31日は「ゼーフリートが同じ日に2回歌ったかどうかはっきりしない」と書いている。その上で、ディスコグラフィのほうでは当録音を31日のものと記載している。
ウィーン・フィル、ウィーン・ジンクアカデミー合唱団
ヒルデ・ギューデン、ロゼッテ・アンダイ、ユリウス・パツァーク、アルフレート・ペル
1952年2月3日、ムジークフェラインでのライヴ。
TAHRA FURT 1075(写真左端)。
ANDANTEから出たウィーン・フィルのベートーヴェン録音集(ANDANTE-4988、左から2番目)にも収録されている。
2012年、TAHRAからSACD Hybrid盤も出た(FURT 2012、右から2番目)。
さらにORFEOから、ウィーン・ライヴ録音BOXでも出た(C834 118Y、写真右端)。
以前は劣悪な音質の海賊盤しかなく、宇野功芳氏の本にも「聴いているのが苦痛」と書かれていたが、2002年以降に相次いで出たこれらはいずれも良い音質である。演奏も実にすばらしく、バイロイト盤やルツェルン盤に匹敵する。終楽章のラストの盛り上がりももの凄く、この部分だけは音がビリつくのも仕方がない。
ベルリン・フィル、同フィル合唱団
エルナ・ベルガー、ゲルトルーデ・ピッツィンガー、ヴァルター・ルートヴィヒ、ルドルフ・ヴァッケ
EMI。TOCE-6057。1937年5月1日、ロンドン,クイーンズホールでの英王ジョージ6世戴冠記念コンサート。
同時期のロンドンでの「指環」ともどもEMIがライヴ録音したもので、海賊盤ではない。
演奏は壮絶だが、録音が悪く鑑賞に向かない。しかし声楽付き大編成の曲だからこの時代にしては精一杯か。
「終楽章の主題の第2変奏の後半部リピートが1回多い」が、「完全ディスコグラフィ」によれば、この重複は復刻ミスではなく78回転ビニールプレス盤の第15面途中にあるもののようである(以下のものもそうなっている)。
また、アラ・マルチアの冒頭のコントラファゴットの最初の音がその前の「vor Gott!」のフェルマータの直後に重なってしまっているか、もしくは欠落しているように聞こえるのも、このフェルマータの後のフルトヴェングラー・パウゼのところで録音原盤を交換したことによるものと思われる。
1984年、巨匠の没後30年に初めてLPリリースされた。TOCE-6057は世界初CD化と思われる(TAHRAのディスコグラフィにも載っている)。
2003年春、新星堂からの復刻盤SGR 7180-82を入手。復刻に使用したのは金属原盤からLPと同じ塩ビ盤にプレスされたもので、従来のSP盤と比べて音質が柔らかくノイズも少なくなっている。
2004年6月に入手したGREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURYシリーズ2枚組(5 62875 2、写真)に収録されたものは、「収録時間の関係から第2楽章スケルツォ主部の第1部反復をカットした」とのことである。(この2枚組CDは1枚目に「53年9月の英雄(これは素晴らしい)」と第9の1・2楽章(総収録時間80分ジャスト)、2枚目に第9の3・4楽章と「運命(これは44年表記だが43年盤と同じ)」が収録されている。)
ウィーン・フィル、ウィーン・ジンクアカデミー合唱団
イルムガルト・ゼーフリート、ロゼッテ・アンダイ、ユリウス・パツァーク、オットー・エーデルマン
ORFEO。C834 118Y。1951年1月7日、ムジークフェラインでのライヴ。
「1月10日録音」という表記で出回っているものもあったようだが、それは劣悪編集盤らしい。「1951年1月」盤としては、長らくチェトラの「CDC1(ANF輸入 ANF302)」というのが一番まともなものであった(譲渡済み)。
ようやくこのORFEOのBOXが出て、Rot-Weiß-Rotの正規音源からの正規CD化となった。
しかし、チェトラ盤・ORFEO盤とも録音に同じキズがある。第1楽章147小節目、4分の2拍子の2拍目の表(8分音符で数えて3拍目)が欠落して詰まってしまい、8分音符で2拍目の直後に4拍目のヴァイオリン他がアウフタクトで出てきてしまうのだ。まるでピッチが下がったように聞こえるが、そうではなく時間的欠落のみである。結局、オリジナルテープの欠陥なのだろう。仕方が無い。
ストックホルム・フィル、同合唱団
Hjördis Schymberg(S), Lisa Tunell(A), Gösta Bäckelin(T), Sigurd Björling(B)
TAHRA TAH488/9(左)。1943年12月8日、ストックホルムでのライヴ。
同じオケ・合唱・ソリストでの半年前のアーベントロートの演奏と合わせて2枚組。
WEITBLICK。2019年発売、ストックホルム・フィル全録音集4枚組(右)。
こちらのほうが放送局の原盤からのCD化という感じで、結構生々しい音質で聴ける。第4楽章最後のプレストは合唱が入ってすぐにトンデモナイ速さになり、遅くなるところでいろいろ上手くいかないことがあるものの、オケの最後はバイロイト盤以上のスピードにもかかわらずバッチリ決まっている。拍手も入っているが、終わった後、皆があっけにとられてしまい、少しずつ始まった拍手で我に返るという感じ。
バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団
グレ・ブルーウェンスティン、イラ・マラニウク、ヴォルフガング・ヴィントガッセン、ルートヴィヒ・ヴェーバー
ORFEO。C851 121B。1954年8月4日,バイロイトでのライヴ。
吉田秀和氏がナマで聴いた演奏である。
2012年末、ようやくなんとか鑑賞可能な盤が出た。HMVの解説を引用する。
この1954年の録音は、長いこと、効果のある修復ないしはリマスタリングをすることは技術的問題から不可能だと思われていた。(中略)まださらに深刻な問題があった。部分的にオリジナルのテープ録音の際に生じたとても強いピッチの狂いがあるのだ。おそらく録音テープの欠陥のせいで、テープが再生機のヘッドに沿って滑らかに走ることができなかったのだろう。テープは何度もヘッドに引っかかっては動くを繰り返し、それによって前述のフラフラしたピッチの狂いや突然のハウリングを引き起こしたのである。(中略)
問題なのは一様なピッチの狂いではなく、気紛れなほど多様に生じる音揺れである。こうした不規則な症状はつい最近まで分析したり除去したりすることは不可能だった。2011年の初頭になってようやく、ミュンヘンのセレモニー社によって修復装置キャプスタンが開発された。これはこの問題を専門に扱うもので、音揺れを分析し音質改善をするが、そこに音響技師が調整できる余地を多く与えている。1954年のバイロイト音楽祭でのベートーヴェンの第9交響曲は、この装置を用いて修復された最初の録音の一つである。
今までディスク・ルフランDR910016-2、M&A盤CD-1127と入手してきたが、いずれも音質が悪くて鑑賞に堪えなかったのはそういうことだったんだ、と納得した次第。
なお、ディスク・ルフランからは別売りで、リハーサル風景も発売されていた(DR 920033、戦後のコンセルトヘボウのブラームス第1他ライヴとカップリング)。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン・フィル、ウィーン楽友協会合唱団
エリーザベト・シュヴァルツコプフ、エリーザベト・ヘンゲン、ユリウス・パツァーク、ハンス・ホッター
EMI。1947年11-12月録音。SPモノラル録音。ソリストが凄い。
2005年にカラヤン・コレクションART処理輸入盤が出たので買い直した。
ベルリン・フィル、聖ヘトヴィヒ大聖堂聖歌隊
エリーザベト・グリュンマー、マルガ・ヘフゲン、エルンスト・ヘフリガー、ゴットロープ・フリック
audite。1957年4月25日、ベルリン高等音楽院大ホールにおけるライヴ録音。
この演奏会はベルリン・フィル創立75周年記念コンサートだった。
カップリングは53年の「英雄」で2枚組。2008年リリース。
その他のモノラル録音
カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団・合唱団
グンドゥラ・ヤノヴィッツ、グレース・バンブリー、ジェス・トーマス、ジョージ・ロンドン
ORFEO C935 171B。1963年7月23日、バイロイト祝祭劇場ライヴ。
16:01, 12:10, 17:11, 25:52、計71:17。
ヴァーグナー生誕150年・没後80年記念の音楽祭開幕コンサートである。
ここでのベームの指揮はこの頃の引き締まったもので期待通りである。
ベームの記念碑的バイロイト録音としては「指環」が1967年、「トリスタン」が66年、「マイスタージンガー」が68年がある。この63年は「指環」をケンペが指揮していた。ヤノヴィッツは前年録音のカラヤンの第9を歌っている。バンブリーは61年の「タンホイザー」でヴェーヌスを歌ったが、これは同劇場初の黒人歌手登場だった(ヴィーラント演出、サヴァリッシュ指揮、タンホイザーがヴィントガッセン、エリザベトがヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス)。
バイロイトの第9は、戦前の33年にリヒャルト・シュトラウスが指揮、戦後51,54年にフルトヴェングラー、53年にヒンデミットが指揮した。このベームの63年の後は2001年まで演奏されていない。
エーリヒ・クライバー指揮ウィーン・フィル、ウィーン楽友協会合唱団
ヒルデ・ギューデン、ジークリンデ・ヴァグナー、アントン・デルモータ、ルートヴィヒ・ヴェーバー
DECCA。425 955-2。1952年6月、ムジークフェラインでの録音。
15:53, 10:19, 15:56, 23:45
指揮者・オーケストラ・ソリスト、どれをとっても第一級のメンバーである。モノラルのスタジオ録音では、EMIが戦争直後に録音したカラヤン盤と並ぶ名盤だったであろう。
クライバーのDECCA録音6枚組を入手したので上記425 955-2は譲渡した。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団、ロバート・ショウ合唱団
アイリーン・ファレル、ナン・メリマン、ジャン・ピアース、ノーマン・スコット
RCA。1952年3月31日、4月1日、カーネギー・ホール。
この演奏を初めて聴いた時の驚きといったらなかった。第1楽章の第1主題が初めて全貌をあらわす所では少しテンポをおとすのが当然だった頃、トスカニーニはそこをインテンポでやってしまっていたのである。あれには本当に面食らったものだ。(しかしオリジナル楽器派が次々と録音するようになってからは、それが当たり前になってしまった。隔世の感がある。)
UV22 Super CD Encording方式のリマスター盤(74321-55837-2、写真左)では「ミサ・ソレムニス」とカップリングで2枚組。
2008年、XRCDシリーズでも入手(写真右)。冒頭の6連符の音が柔らかい!トスカニーニNBCは堅くて無機質の音、という定評が間違いであることは昔から言われてきたことだが、なかなかそれを実証するレコードはなかった。この「第9」は他のXRCD盤と比べても、もっとも音質改善がめざましいものである。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団、ロバート・ショウ合唱団
アン・マックナイト、ジェーン・ホブソン、アーウィン・ディロン、ノーマン・スコット
東芝EMI。NBC。1948年4月3日、8Hスタジオ。DVD
第2回TVコンサートの映像である。
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィル、同国立歌劇場合唱団
ヒルデ・ギューデン、エリーザベト・ヘンゲン、エーリヒ・マイクート、ゴットロープ・フリック
ORFEO。1955年11月13日、ウィーン国立歌劇場再建記念コンサートのライヴ録音。
15:00, 9:54, 15:05, 24:19。
おおかたベームが仕切ったと言って良いこの再建記念シリーズだが、クナッパーツブッシュが「ばらの騎士」、ライナーが「マイスタージンガー」を担当した。(エーリヒ・クライバーが招かれなかったのは不思議だ。)その中でアメリカに渡っていたワルターは、こけら落としのベーム指揮「フィデリオ」(5日)から1週間後、ブルックナー「テ・デウム」とベートーヴェン第9のコンサートを担当した。まあ、翌年に引退表明する直前の巨匠に対して、最大の敬意を表した形になっているだろう。
ワルターの第9と言えば、コロンビア響とのステレオ録音のできが良くないので有名だが、ドイツ語圏の団体との良好な音質の録音が残っていたのは大変にうれしい。もちろんワルターの演奏スタイル自体、「運命」・第7・第9などとは相性が良くないことを承知の上で聴くべきではあるが、この録音はまずまずと評価できよう。
フルトヴェングラーやカラヤンによって慣れてきたこの曲のプロポーションとは、だいぶスタイルが違うが、このワルターを聴くことで、エーリヒ・クライバーの演奏への理解が深まった気がする。
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団・合唱団
アグネス・ギーベル、クリスタ・ルートヴィヒ、リチャード・ルイス、ヴァルター・ベリー
TESTAMENT。SBT 1332。1961年11月27日、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールにおけるライヴ録音。
同じ場所で1957年に行われた演奏はステレオなのに、こちらはモノラルであるのが残念である。(音源はBBC)。
演奏は57年よりもほんの少し速めである。
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、ウィーン楽友協会合唱団
ヴィルマ・リップ、ウルズラ・ベーゼ、フリッツ・ヴンダーリヒ、フランツ・クラス
membran。1960年6月7日ライヴ。モノラル録音。
手兵フィルハーモニア管を率いてウィーンにのりこんでの演奏会。ヴンダーリヒのソロは貴重。
「クレンペラー・イン・コンサート」というタイトルの4枚組。他の3枚にはミサソレ・ドツレク・マーラー第4&亡き子を偲ぶ歌が収録。
フェリックス・ヴァインガルトナー指揮ウィーン・フィル、同国立歌劇場合唱団
ルイーゼ・ヘレツグルーバー、ロゼッテ・アンダイ、ゲオルク・マイクル、リヒャルト・マイール
EMI。1935年2月2〜5日、MusikvereinにおけるコロンビアによるSP録音(LX 413-420)。15:14, 9:57, 14:35, 22:27
SP原盤が残っているらしく全く素晴らしい音質で復刻されている。当時としては奇跡的優秀録音だったに違いなく、ウィーン・フィルの音色を堪能できる。
opus蔵から出たSPからの復刻盤OPK2040も素晴らしい。
もう1つ、彼の「第9」には1926年英語歌唱の録音があるようである。
ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
テレサ・シュティヒ・ランダル、ローレ・フィッシャー、フェルデナント・コッホ、ルドルフ・ヴァッケ
TESTAMENT。1955年10月10日、フランスのレコード頒布クラブ「クラブ・フランセ・デュ・ディスク社」への録音。
ヴァントらしい引き締まった演奏である。第3楽章に17:20かけているのは意外だったが、そこでも一つ一つ音符を丁寧に刻んでいき、決してべたっとしたものになっていない。
ウィレム・メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ, トンクンスト合唱団、王立オラトリオ協会
To van der Sluys, Suze Luger, Louis van Tulder, Willem Ravelli
M&A。CD-1005(5CD)。1940年5月2日ライヴ録音。チクルスの完全ライヴ全集。14:41, 11:37, 15:30, 25:47
終楽章最後のリタルダンドが「なんともはや...」という感じ。決して許されるべきではない超・裏技である。
(この直後、5月10日にドイツによる対オランダ電撃戦が開始され、14日にオランダ降伏。→歴史的録音)
PHILIPSから単品でも出ていた。
ヘルマン・シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・アカデミー室内合唱団
マグダ・ラースロー、ヒルデ・レッスル=マイダン、ペトル・ムンテアヌ、リヒャルト・シュタンデン
WESTMINSTER。1953年7月、ウィーン、モーツァルト・ザールでの録音。モノラル全集。17:15, 12:25, 16:10, 26:12
テンポ設計がかなりフルトヴェングラーに近い。特に第1楽章、中でもコーダ開始部分の荘重さなどそっくりである。
しかし、後の1965年のステレオ・ライヴ録音では、全く違う演奏になっている。
フリッツ・ブッシュ指揮デンマーク放送交響楽団・合唱団
DG。1950年9月7日、コペンハーゲンにおけるライヴ録音(デンマーク放送)だが音も悪くない。
14:38, 10:55, 14:02, 23:41
DG創立100周年のベートーヴェン・エディションの最終巻「ヒストリカル・レコーディング」に収録(写真)。
ブッシュという指揮者はあまり録音がないので貴重である。
ヘルマン・アーベントロート指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
TAHRA。1951年6月9日、プラハの春音楽祭でのライヴ。
「英雄」やヴァイオリン協奏曲とのカップリングで3枚組だが、この「第9」は音も悪く、演奏も雑である。
ヘルマン・アーベントロート指揮ストックホルム・フィル、同合唱団
Hjördis Schymberg(S), Lisa Tunell(A), Gösta Bäckelin(T), Sigurd Björling(B)
TAHRA TAH488/9。1943年4月7日、ストックホルムでのライヴ。
上記フルトヴェングラーのものとカップリング2枚組。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven9-m.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c10
11. 中川隆[-14190] koaQ7Jey 2020年1月23日 23:25:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1044]
巨匠フルトヴェングラーの「名盤」の真相 第一回 「バイロイトの第九」の「真相」
本間俊哉
http://www.britannia.co.jp/column/2016/08/149/
巨匠フルトヴェングラー(一八八六年生、一九五四年没)の数ある録音の中でも、最も声望の高いものといえば《バイロイトの第九》であろう。一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭が第二次大戦後に再開された折の、記念演奏会の演奏記録である。
フルトヴェングラーは、一九五四年八月九日にも同じくバイロイト祝祭のオープニング・コンサートでベートーヴェンの《第九》を演奏し、録音も残っている(セブンシーズ国内盤【KICC-1053】)が、もともとがプライベート録音で音質が劣悪すぎ、演奏の真価を問うことはできない。
通常、フルトヴェングラーの指揮した《バイロイトの第九》といえば一九五一年録音の演奏を指す。とはいえ、これは実のところ、問題だらけなのだ。
2種の《バイロイトの第九》
《バイロイトの第九》は、演奏年月日が同じで、収録された演奏の異なるものが二種、存在する。一つはイギリスHMV(EMIと同一の会社)が一九五五年に2枚組LP【ALP-12986~7】として初めて発売したもの(これは後述するがCD時代になってからいろいろ手が加えられている)。もう一つは日本フルトヴェングラー・センターが二〇〇七年に会員用にCD頒布【WFHC-013】し、同年暮れに独オルフェオ【C754081】からも一般向けにリリースされたものである。EMI発売盤をE盤、オルフェオ盤(つまり日フルトヴェングラー・センター盤)をO盤とする。
O盤は、バイエルン放送局内で「放送禁止」と書かれた箱に保管されていたテープから復刻されたもので、発見者である日フルトヴェングラー・センターは、「従来のE盤ではなく、このO盤こそが本物の本番ライヴ録音である」と主張している。E盤はいろいろに原テープを編集したもので、O盤は一貫した録音であるから、E盤は本番の一発録音としては信憑性に欠ける、ともセンターは主張するのである。
だが、一聴して分かるようにE盤を貫く只ならぬ緊迫感や高揚は、O盤には見られない。特に、終楽章の結尾のプレスティッシモ(最高に速く≠ニいう演奏指示)が、E盤では勢いあまって演奏が怒涛のように完全に崩壊しているが、O盤は最後まで冷静に整った演奏ができており、本番舞台らしい熱気がまるで感じられない。
さらに、E盤の全曲をなんど聴いてもセンターが主張するような、テープ編集の痕跡はどこにも見られない。一九五一年における一発勝負の舞台録音である。まだEMIは磁気テープ録音を導入したばかりだった。テープの編集は、ハサミとセロハンテープで行なっていた。だから、録音時はもちろん、その後のマスター・テープの編集等の加工があれば、録音年代から見ても、どうしても聴き手に分かる跡が残ってしまう筈である。
センターは、具体的にE盤の終楽章における”vor Gott”のフェルマータ(長く伸ばす≠ニいう演奏指示)末尾のクレッシェンドは不自然で、誰かがマスター・テープに手を入れた証拠と強調しているが、注意して聴き直しても特に不自然さは感じられない。これは、音楽雑誌等で複数のプロの批評家や録音エンジニアも述べていることである。
O盤も一聴してあからさまなテープ編集跡はないが、E盤に問題がない限りマスター・テープの編集云々は意味がない議論である。
音楽批評家・平林直哉氏によるとこのコンサート当日、公演本番の少し前に全曲の通し稽古があったとソプラノ歌手のシュワルツコップが証言しているとのことで、この通し稽古こそがO盤の正体ではないかと平林氏は述べているが、私もこの意見に賛同する。平林氏は前述の”vor Gott”のフェルマータ末尾のクレッシェンドについても、「EMIが操作したようには感じない」と著書にも書いている(《フルトヴェングラーを追って》青弓社)。
私も、日フルトヴェングラー・センターの、このO盤を発掘して世に問うた功績は大いに認めるものだ。しかし、完全に裏を取り、E盤がどういった録音であったかを資料等によってはっきりさせない(確実な証拠もないのに、センターは「E盤はリハーサル録音と本番録音の混合」と決めつけている)まま公にしたために、このような混乱が起きていることを、センターには直視して欲しいと思う。
私の考えでは、《バイロイトの第九》はE盤で聴くべきだ。あるいは、E盤があればそれで良い。E盤とO盤とでは、聴いていて受ける感銘の度合いにかなりの差があるからだ。
足音入り
一九九〇年に東芝EMIからリリースされた《バイロイトの第九》のCD【TOCE-6510】は、指揮者の「足音入り」ということで話題になった。帯にもその旨が書かれている。舞台にフルトヴェングラーが登場して指揮台に乗り、聴衆に挨拶をするまでの足音が録音に含まれていたからである。それだけでなく、演奏開始直前にオーケストラに向かってフルトヴェングラーが何ごとか話しかける音声が八秒ほど入り、開演前、終演後の熱烈な拍手も、ややたどたどしいが録音技師が始まりを揃えようとしている感があった。
従来のディスクでは、フルトヴェングラーの足音も話し声もいっさい含まれてはいなかった。また、開演前の拍手はなく、終演後の拍手はあまり綺麗に録られておらず、フェイド・アウトもいま一つ手際が良くなかった。しかし一九九〇年以降、この《バイロイトの第九》のEMI系録音盤には、必ず足音、声、整った拍手が収録されている。ただし、テープの継ぎ目が明らかで、後付けの効果音であることははっきりしていた。
この効果音は、東芝EMI盤よりEMIミュージック・ジャパン盤SACD【TOGE-11005】のほうがさらに手際が良い。テープ編集の痕跡は殆んど分からない。私は、最近のデジタル技術を駆使したものだと思う。演奏直後の熱狂的な拍手が、ひとしきり鳴り渡った後でフェイド・アウトするのも綺麗に整えられている。
先ごろ亡くなった音楽批評家・宇野功芳氏はこの音声についてオーケストラに「虚無の中から聞こえて来るように」と注意した、と《フルトヴェングラーの全名演名盤》(一九九八年、講談社)で書いているが、本当かどうかはかなり疑わしい。この本の前身である著書《フルトヴェングラーの名盤》(一九七七年、芸術現代社)でも、すでに宇野氏は同じように書いていた。この時点で、指揮者の声入りのレコードはまだ出ていない。
宇野氏は個性的な辛口批評で知られ、カリスマ的批評家として大いに活躍した。特に、日本で無名だった数多くの名演奏家たち(指揮者ハンス・クナッパーツブッシュ、ピアノ奏者リリー・クラウス、ヴァイオリン奏者チョン・キョンファ等々)を意欲的に紹介し、人気を博すまでに導いた功績は極めて大きい。
だが、彼は日本ではまだあまり知られていないことなどについて、手前勝手な作り話をよく書く人物でもあり、私はこの「虚無」云々の「注意」も、恐らく氏の想像だろうと思っている。
初版HMVのLPレコード【ALP1286-7】を聞いても開演前の拍手はいっさい収録されておらず、演奏直前の声もなく、終演後の拍手はたちまちブツリと消されてしまう。だから、揃った拍手や指揮者の声は、私はEMIがCD時代に入ってから臨場感を演出させるために施したものであろうと思う。
日フルトヴェングラー・センターが生前のフルトヴェングラー夫人(一九一一年生、二〇一三年没)にこのCDを聴かせたところ、夫人も足音や話し声に関して「おかしい」と訝しげであったという。夫人は一九四三年にフルトヴェングラーと結婚して以来、ほぼ常にフルトヴェングラーの舞台や録音には立ち合っていた。もちろん、この時も賓客として客席にいたのである。
そもそも、これから《第九》のような大作を演奏しようという、ホール内の誰もが緊張している本番直前に、指揮者がこと改めて演奏者たちに口頭で注意をしたりすることは、まず考えられない。私の聴いた数多くの《第九》の実演でも、このようなことは決してあり得ないことだった。
録音と発売の経緯
この《バイロイトの第九》のプロデューサーはウォルター・レッグという人物(一九〇六年生、一九七九年没)である。
レッグはEMIの重役で、二〇世紀を代表する多くのアーティストをEMIの専属とし、自らプロデューサーを務めて彼らのスタジオ録音を厳しく監修し、主にオペラとオーケストラ曲において、いくつもの歴史的名盤〈R.シュトラウスの楽劇《ばらの騎士》(指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン、録音:一九五六年)や名ソプラノ歌手マリア・カラス(一九二三年生、一九七七年没)の数多くの傑作オペラ録音、大指揮者オットー・クレンペラー(一八八五年生、一九七三年没)によるオーケストラ曲の名演盤等々〉を制作したことで知られる。だが、《バイロイトの第九》のプロデューサーとなったのはまったく偶然のことだった。
一九五〇年、若きカラヤン(一九〇八年生、一九八九年没)に肩入れするレッグはフルトヴェングラーと決定的なトラブルを起こした。もともとフルトヴェングラーとカラヤンの仲は険悪だった。この事件は長い説明を避けるが、要はレッグがプロデューサーを務める歌劇《魔笛》のカラヤンによるスタジオ録音を、オーケストラも歌手たちもほぼ同じフルトヴェングラーの同曲上演の直後に設定し、実質的にフルトヴェングラーをカラヤンの練習指揮者に仕立ててしまったのである。
このことを知って怒り心頭に達したフルトヴェングラーは、同年で切れるEMIとの録音契約更新に当たり、「一九五一年以降の録音では二度とレッグをプロデューサーとしないこと」を条件に挙げたほどである。
バイエルン州のバイロイトは大作曲家リヒャルト・ワーグナーのオペラの聖地であり、ワーグナー家の当主だったヴィニフレート・ワーグナー〈ワーグナーの一人息子ジークフリート・ワーグナー(一八六九年生、一九三〇年没)の妻、一八九七年生、一九八〇年没〉が熱烈なナチ信者だったために、一九五一年まで本来のオペラ・ハウスとしての機能を果たすことが禁止されていたのである。因みにヴィニフレートは死ぬまでナチズムとヒトラーの崇拝者だった。
一九五一年から、ヴィニフレートが引退してバイロイト祝祭の開催にはいっさい関わらず、全権を彼女の長男ヴィーラント(一九一七年生、一九六六年没)、次男ヴォルフガング(一九一九年生、二〇一〇年没)に譲渡すること、ナチズムを完全撤廃することを条件として、連合国軍はこの祝祭再開を許可した。ここに、バイロイト祝祭は6年ぶりに復活したのである。
この祝祭(音楽祭)は一風かわっており、ワーグナーの創造したオペラしか上演しない。そもそも、ワーグナーのオペラを理想的に上演できるように、ワーグナー自身が開催を決め、劇場までを建設したのである。だから演目は限られるが、演出等において新しい試みを積極的に導入することによって、新鮮な舞台を創り上げているのである。運営はワーグナーの血族によって行なわれている。
一八七六年にこのバイロイト祝祭劇場が完成した時、その記念としてワーグナーは自ら指揮棒を執り、劇場でベートーヴェンの《第九》を演奏した。ワーグナーは大作曲家であったばかりでなく名指揮者でもあった。
そこで、第二次大戦後の祝祭復活記念にも、その故事に倣って《第九》のコンサートを催すことを祝祭関係者たちは企画した。そのタクトを任される名誉ある役割は、祝祭関係者たちはワーグナー・オペラの指揮者としても世界的に知られている当代第一の指揮者、フルトヴェングラーに果たしてもらいたかったのである。
祝祭主催者中の最高責任者はヴィーラント・ワーグナーだった。彼はフルトヴェングラーを直接たずねて演奏を打診したが、同時期に催されるザルツブルク音楽祭との兼ね合いを考えて、フルトヴェングラーは即答を避けた。フルトヴェングラーは、ザルツブルク音楽祭における指導者の一人というべき立場にあったからである。この年も、すでにモーツァルトの《魔笛》と、ヴェルディの《オテロ》を数回にわたり上演することがすでに決まっていた。二作とも、なかなか大掛かりなオペラである。
一方ヴィーラント・ワーグナーは、復活なったバイロイト祝祭で、できればワーグナーのオペラを一作なりとフルトヴェングラーに上演して欲しい意思もあった。すでに上演する作品の指揮者の用意はできていた〈ハンス・クナッパーツブッシュ(一八八八年生、一九六五年没)とカラヤン〉が、フルトヴェングラーが来てくれるとなれば、指揮者の急遽交替も辞さない構えだったのだ。当時の欧州楽壇で、いかにフルトヴェングラーが尊敬されていたかがよく分かる。
だがヴィーラントは、予想以上に多忙だったフルトヴェングラーの都合を考え、開幕記念演奏会の《第九》演奏のみに交渉を絞り、遂に説得に成功した。「あなたに、大戦後の再開なったバイロイト祝祭の最初の音を出して欲しいのです」というヴィーラントの言葉が、迷っていたフルトヴェングラーの心を動かしたという。
この話を耳にしたレッグは、早速「バイロイトで演奏する《第九》をライヴ録音してはどうか」とフルトヴェングラーに申し出たが、フルトヴェングラーは「音響効果が良くない」という理由で断わっている。レッグは同年バイロイト祝祭に招かれてオペラの指揮をする、カラヤンの上演をライヴ録音してレコード化するつもりだった。
一九五一年七月二九日、バイロイト祝祭は第二次大戦後ようやく再開され、オペラ上演に先立つ記念コンサートでフルトヴェングラーは《第九》を指揮した。EMIのレッグは、「記録用」といった軽い気持ちでこれをライヴ録音した。本命のカラヤンのオペラ録音の方がレッグにすれば重要だったが、ことのついでだった。
先に書いたように、演奏前と終演後の拍手がきちんと収録されていないのも、この録音がレッグにとっては大して重要な仕事ではなかったからだろう。それでも録音責任者である彼は「プロデューサー」には違いなかった。
終演後、楽屋に自分を訪れたレッグに対して、フルトヴェングラーは「《第九》の演奏はだめだったかなあ?」と問いかけ、「むかし聴いた《第九》のほうがずっと良かったですよ」と返答された。終演後、夢うつつのような状態だったフルトヴェングラーは完全に無防備だったので、レッグのこの言葉に心底ショックを受けてひどく落ち込んだ、と居合わせたフルトヴェングラー夫人はインタビューに応えて話している。この言葉がレッグの本音だったか、それとも自分を拒否したフルトヴェングラーに対するちょっとした嫌がらせだったかは分からない。
EMIは一九五〇年からフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集の企画を立てていたが、一九五四年末にフルトヴェングラーは六八歳で急逝してしまう。EMIは交響曲の「第二」、「第八」、「第九」の録音を済ませていなかった。
関係者の誰も、フルトヴェングラーがそんなに早死にするとは思っていなかったのである。しかし、「交響曲全集」を完成させるためにEMIは躍起になった。
そして、まず一九七二年、「交響曲第八番」の録音をEMIはリリースした。一九四八年にフルトヴェングラーがストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮したテープがスウェーデン放送局で見つかって、レコード化されたのである。
次に一九七九年になって、一九四八年にロンドンに、フルトヴェングラーがウィーン・フィルを率いて楽旅した際の「交響曲第二番」の録音がようやくロンドンの放送局のテープからレコード化された。これは、フルトヴェングラーの指揮によるこの交響曲の唯一の録音である。EMIは、録音テープの存在確認から発売まで、放送局との交渉に数年かかった。
ただし、両曲とも録音状態は極めて劣悪であり、鑑賞用というより熱烈なフルトヴェングラーのマニア向けである。「第二交響曲」にしても、オーケストラはウィーン・フィルだが、その美質はまったく聴き取ることができない。指揮者の表現も聴き取れず、異常に情報量が少ないディスクである。
結局フルトヴェングラーの指揮による『ベートーヴェン交響曲全集』のレコード・セットがEMIから発売されたのは、フルトヴェングラーの没後二五年となる一九七九年のことだった。
肝心の《第九》は、フルトヴェングラーが亡くなった時点で、EMIが使用できるマスターとしては、差し当たり二点の録音テープが存在した。レッグが録音したバイロイトでの演奏と、死の年にルツェルン音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団他を指揮した、スイス放送局が保存していた演奏録音である。フィルハーモニア管弦楽団のオーナーはレッグだったので、EMIでのレコード化が検討された。
ともにライヴ録音であり、音質の点ではルツェルン音楽祭の録音の方が新しい分やや良かったが、ソプラノのシュワルツコップ(一九一五年生、二〇〇六年没)がレコード化に賛同しなかったため、EMIはルツェルン音楽祭の記録ではなく、バイロイト祝祭の録音を使用することに決めた。シュワルツコップは前者における自分の歌唱がベストではないと考えたらしい。因みに、シュワルツコップはレッグの妻だが、フルトヴェングラーのことを終生尊敬してやまなかった。フルトヴェングラーも、シュワルツコップの優れた才能を認め、最後まで彼女を繁々と起用した。
バイロイト祝祭の演奏でもソプラノはシュワルツコップで、こちらのレコード化には彼女は異議を唱えなかった。
この《バイロイトの第九》の録音は、非公式のもので「ハイファイ」ではない、という理由からこれまで発売されなかった、とアメリカEMI初出盤LP(一九五六年発売)の解説には記述があり、要するに《バイロイトの第九》はあくまでテスト用の録音で、音質の問題で発売用のマスター・テープとは区別して保管されていたものであろう。そのままであれば、遠からず廃棄されていたかも知れない。
ついでながらこの時お蔵入りしたルツェルン音楽祭の《第九》は、一九八〇年になって国内盤二枚組LPで、レコード会社二社からほぼ同時にリリースされた。日本コロムビア盤(アメリカ・ワルター協会原盤、OB7370~71)と、キングレコード盤(イタリア・チェトラ原盤、K19C21~2)で、前者は《第九》のみ二枚四面に《第九》のみをカッティングし、価格は二八〇〇円でリリース。後者は第四面に同じ指揮者によるベートーヴェンの「交響曲第八番」の一九五四年のライヴ録音(演奏はウィーン・フィル)が組み合わされて、三八〇〇円でリリースされていた。音質はだいたい互角とされ、フルトヴェングラーのファンはどちらを選択するか悩んだ。
この演奏は、特にフルトヴェングラーのファンに《ルツェルンの第九》と称され、巨匠最晩年の演奏記録として愛聴された。いまでは放送局のオリジナル・テープから制作した正規版SACD【KICC-17】までが出ている(セブンシーズ)。
この《ルツェルンの第九》は、指揮者の没年ということもあってか、バイロイト盤に比べて劇的効果はそれほどでないが、枯淡の境地というか枯れたなりの味わいがあって、バイロイト盤よりこちらを好む音楽ファンも少数派ながらいる。
だが、フルトヴェングラーの指揮する《第九》を聴くならやはりバイロイト盤が最上だろう。楽器のバランスも、ルツェルン盤はトランペットがオン・マイク過ぎて、ときどき耳障りになる。バイロイト盤はティンパニがやや遠いが、他はなんら問題ないし、SACD化によって音質の鮮度もずいぶん上がった。
一九五四年当時、レッグはカラヤンにとって初めての「ベートーヴェン交響曲全集」を鋭意制作中(レーベルはもちろんEMI、オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団)で、自分が特別に力を入れて録音したわけではないフルトヴェングラーのバイロイトにおける《第九》をリリースしたところで、それがセンセーショナルな成功を収め、歴史的名盤として持て囃されるとは思ってもいなかったであろう。《バイロイトの第九》の録音とは、まさに偶然の産物だったのだ。
SACD
東芝EMIは、二〇〇七年にEMIミュージック・ジャパンと名を変え、つかのま日本のEMI盤を統括した(二〇一二年、ユニバーサル・ミュージック合同会社に吸収され、遂にEMIは消滅する)。フルトヴェングラーに関しては驚いたことに、主要なディスクをすべてハイブリッドSACDで発売するということで、フルトヴェングラー・ファンを驚喜させた。値段もSACDにしては比較的安めに設定されていた。普及版としてのSACDハイブリッド盤だけでなく、割高ながらSACDシングルレイヤー盤も発売した。
SACDとは、フィリップス社(現在は音楽ソフト制作を廃止)とソニーが共同開発した最先端技術によるCDのことである。”Super Audio CD”の略で、従来のCDよりも多くの情報を記録できる。ハイブリッドSACDは音溝が二層に別れており、普通のCDプレイヤーでも再生できるが、シングルレイヤーSACDは音溝が一層なので、SACD再生可能機でなければ再生できない。現時点ではハイブリッドよりシングルレイヤーの方が割高である。
EMIミュージック・ジャパンのSACDは、従来の音源をそのまま引き継ぐのではなく、英EMI本社のオリジナル・マスター・テープやSPの金属原盤を使用して、復刻を一からやり直すということだった。その結果、一九五一年録音のケルビーニ作《アナクレオン》序曲、チャイコフスキー作「交響曲第四番」、《弦楽セレナーデ》抜粋などは、以前と比べて非常に優れた音質になった。
《バイロイトの第九》は、東芝EMIの頃から音質の劣化が取り沙汰されていた。CD時代になってそれが特に問題となっていたが、その中では先に触れたように一九九〇年に東芝EMIからリリースされた【TOCE-6510】が最良の音質と言われた。やがて、二〇〇五年に平林直哉氏の制作による、グランドスラム・レーベルの【GS-2009】が出て、優れた音質という点では非常に高い評価を得た。このグランドスラム盤は最初期の状態優秀なLP盤からのCD復刻である。
だが、二〇一一年にEMIミュージック・ジャパンのハイブリッドSACDが出て音質を一新し、一気に決定盤の座を我がものにした。現在は、一部がワーナー・クラシックスから継続してリリースされている。EMI本社のオリジナル・マスター・テープからマスタリングしたSACDで、「これ以上はあり得ない」音質を誇った。
この盤は、聴衆ノイズを極力ていねいに除いているのも特徴である。もともとの音楽の感興を損なわない程度でのノイズ取りはした、とCDのライナーノーツにも書かれている。
私はシングルレイヤーの三枚組SACD【TOGE-15201~03】を持っているが、これに含まれる《バイロイトの第九》は、音質の向上もさることながら、よくもここまで、と思うほど咳払い等の聴衆ノイズが綺麗に除去されている。以前から歴史的録音の過度なノイズ除去には好感が持てなかった私だが、このフルトヴェングラーSACDシリーズを聴いていらい認識が変わった。
現在の大手メーカーの技術は極めて高度で、少し前までの、ノイズとともに演奏の良さまで削り取ってしまうような不手際はあまりない、と言っていい。響きの豊かさ、自然な残響なども元とまったく変わらない。同じく聴くならば、音楽に集中できるディスクの方が受ける感銘は圧倒的に深い。空気感がどうこう、という聴き手もいるが、それは個人的嗜好であって万人の求めるものかどうかは判らない。臨場感とか空気感とかをあれこれ言う人もいるが、それなら一切の雑音やミスを排したスタジオ録音をどう思っているのか、聞いてみたいところである。
ライヴ録音の演奏ミスを正す、ということにも賛否両論あるが、私はどちらか一極には左袒し得ない。この《バイロイトの第九》でも、一つ大きなミスの修正がある。オリジナル録音の第三楽章、東芝EMI盤【TOCE-6510】の[9:55]にはホルン・ソロに重大なミスがあり、これは本当にだらしない。天上の憩いを思わせるくだりで、ホルンは特に重要なのに、失敗しているのだ。ところが、EMIミュージック・ジャパン盤の同じ箇所[9:59]では綺麗に修正されている。ミスがなくなっているのである。
これは、非常に大胆な試みと言っていい。大指揮者フルトヴェングラーの録音の中でも、歴史的遺産の最右翼に属する演奏を一部とはいえ改変してしまったのである。
初めて聴いたときは、ハッとするほど驚いたが、あるていど聴き慣れてみると、絶対に修正されていた方が聴いていて心地良い。あのミスのために、ずっと味わわされていた興醒めから解放されるのである。
これは好き好きだろうが、頑なにライヴ録音はまったくそのままで聴くべきだ、ノイズ除去や修正は間違っている、といった主張は今の私は必ずしも賛同しかねる。とりわけ、重要な箇所での演奏ミスや客席での大きな咳払いなどは、興を殺ぐこと夥しいものがある。下手に手を加えた跡が残るような修正は耳障りだが、そうでないならある程度までは容認しても良いと私は思っている。
http://www.britannia.co.jp/column/2016/08/149/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c11
12. 中川隆[-14189] koaQ7Jey 2020年1月24日 00:23:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1043]
戦後再開されたバイロイト音楽祭の「第9」(1951年7月29日)
http://classic.music.coocan.jp/wf/item/1951-7-beth9.htm
バイロイト音楽祭とは
ドイツの作曲家リヒャルト=ヴァーグナー(Richard Wagner)は、自分の作品を「楽劇」と称して、その他のオペラ(歌劇)と区別していた。彼の作品はどれも演奏時間が4時間をこえる度外れて巨大なものであり、脚本も全て自作であった。まさに「詩・演劇・音楽の融合した総合芸術」と呼ぶにふさわしいものである。しかしその演奏は多くの困難を伴ったため、その作品の理想的上演を行なうためには、夏のシーズンオフに全ドイツから優れた演奏家を集めて自分の作品だけを上演する音楽祭を開催する以外に方法はない、と彼は考えるに至った。
このようにして1876年に、第1回バイロイト音楽祭が、代表作「ニーベルングの指輪」4部作の一貫演奏によって開催されたのである。
この時、音楽祭開幕記念オーケストラ・コンサートにおいて、ヴァーグナー自身が指揮をして演奏されたのが、ベートーヴェンの第9交響曲である。この音楽祭で彼以外の作曲家の作品で演奏されるのはこの曲だけなのである。
ヴァーグナーと「第9」
ヴァーグナーは、ベートーヴェンの第9交響曲の真価をはじめて明らかにした「指揮者」としても知られている。この曲は、1824年にベートーヴェン自身の指揮で初演されたのだが、しばらくの間は「よくわけがわからない曲」というのが通り相場であった。特に終楽章の合唱がどうも座りが悪く、その他に演奏困難な箇所(特に終楽章のコントラバス)も多くあった。
ヴァーグナーは、ドレスデンの宮廷劇場の音楽監督だった時、この曲をオーケストラ・コンサートでとりあげて、長期間の特訓で困難を克服し、見事な演奏を行なったのである。以来、この曲は名曲としての地位を不動のものにしている。
ヴァーグナーとヒトラー
ヴァーグナーは、はっきり言って反ユダヤ的思想の持ち主であった。雑誌に反ユダヤの論文を発表したことすらあった。また、「ドイツ的な」という形容詞を、芸術に対する最高の評価の言葉として用いていた。(「ニュルンベルクのマイスタージンガー」)
こうした点で、ヴァーグナーはヒトラーの「思想的先輩」であった。ヒトラーも彼の曲をナチスの党大会で効果的に用いるなどしたため、ヴァーグナーはナチスの垢にまみれてしまった。そのため、ユダヤ人国家イスラエルにおいては、つい最近まで彼の曲は演奏が禁止されていたのである。(最近「解禁」になったらしい?)
また彼の息子ジークフリートの嫁ヴィニフレートは、1923年のミュンヘン一揆の失敗後、ヒトラーが獄中にあった時、密かに差し入れに通っていたといわれ、1930年にジークフリートが亡くなった後は、バイロイトはまるでナチスのたまり場と化してしまっていた。戦争末期、音楽祭の演目は「マイスタージンガー」一本立てで、それをフルトヴェングラーが指揮し、終幕の歌合戦の舞台の上には「かぎ十字」が林立していた。
そんなわけで、この音楽祭は戦後、連合軍によって禁止されてしまったが、それも全く仕方のないことであった。連合軍は、ヴィニフレートが音楽祭経営から退いて、その息子たちによって運営されない限り、再開を許可しない方針であった。
フルトヴェングラーの第9について
フルトヴェングラーは、若い頃から「第9」を最も感動的に演奏する指揮者として知られていた。
ヒトラーもフルトヴェングラーのファンで、自分の誕生日の前夜祭で彼に「第9」を指揮させたがっていた。フルトヴェングラーは、毎年4月19日が近づくと医者にニセ診断書をかいてもらって、その役目をまぬがれていた。
だが、一度だけ1942年に医者がおそれをなして診断書を書いてくれなかったため、総統誕生前夜祭で「第9」を演奏するハメになった。宣伝大臣相ゲッベルスはこれを全世界にラジオ放送し、宣伝映画用に撮影した。フルトヴェングラーがナチス式敬礼をしないのを見ると、演奏終了直後に自ら舞台に歩み寄り、彼と握手をして、その場面を映画や新聞記者に撮影させもしたのである。この場面は現在LDでみることができる。
この「バイロイトの第9」について
この「第9」は、戦後再開された最初の音楽祭開幕記念コンサートの実況録音である。ヴィニフレートの息子ヴィーラントとヴォルフガングによる新しい運営陣により、開幕の「第9」をフルトヴェングラーが、「マイスタージンガー」をカラヤンが、「パルジファル」をクナッパーツブッシュが、「指環」をカラヤンとクナッパーツブッシュが指揮した。(3人ともナチス時代にドイツに留まっていた....)
「第9」は一般に「おめでたい」時に演奏されている。しかし、本当にそれが正しい「使用法」かどうかは疑問である。 ベートーヴェンは、フランス大革命の自由主義の下でこの曲を作曲したのではなく、自由主義弾圧の中心地ウィーンで作曲したのである。当時は(当時も!)検閲が厳しく、新作の自由を求める詩を用いることは許されない状況であったため、すでに古典になっていたシラーの詩を歌詞に使用したのである。その中に「ひざまづかないか!人々よ!創造主の存在に気付かないのか!世界よ!」という一節がある。ここにベートーヴェンは非常に崇高な曲をつけている。その意図は全く明らかである。人間の基本的人権を抑圧する為政者に対する弾劾である。
ということは、この曲はドイツ統一の時よりも、前段のようなナチス支配下において演奏されるほうが「正しい使用法」と言えないこともない。
しかし、ここに聴くバイロイト再開記念の演奏は、全くすばらしい演奏だ。
第1楽章冒頭の、ほとんど限界とも言えるピアニッシモのきざみの中で第1主題の切れ端が次第に形を成していき、ついに主題として完成した時の何とも言えない充実感からして、余人の追随を全く許さない。同じ1楽章の中間あたりでの第1主題の再現にティンパニの連打がかぶさる所!!また終結部もこのテンポ以外考えられない。
第2楽章のものすごい速度による切迫感も素晴らしいが、それにも増して第3楽章の信じられない遅さはなんということだろう。吉田秀和氏は次のように書いている。
「この曲の中でこの楽章が、高度に精神的でしかも強い官能性をもった音楽の魅力という点で、彼の一般的な精緻の枠にいちばんうまくはまっていると思われる。と同時に他面、ここほど一枚ヴェールで隔てられた向こう側の出来事のような間接性というか、夢幻性というか、そういう定かでないものとして聞こえてくる音楽は、他にはない。」
第4楽章も全く素晴らしいが、特にあげるとすれば、例の「歓喜の主題」の現れる所であろう。楽譜には無いものすごく長い総休止のあと、ほとんど聞こえないpppp(楽譜の指示はp)で、これまた楽譜のアレグロの指示を無視したアダージョに近いテンポで、例の主題が聞こえてくる・・・。
また、前に書いた「ひざまづかないか!」の所もフルトヴェングラーの演奏で聴いて初めて意味がわかる、といってもいいのではないだろうか。そして、終結部のプレストのめくるめくスピード感!!!!!これを聴いた後、他の指揮者でここを聴くと「ふぬけ野郎!」と言ってやりたくなるのは、私だけではあるまい。
http://classic.music.coocan.jp/wf/item/1951-7-beth9.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html#c12
6. 中川隆[-14188] koaQ7Jey 2020年1月24日 00:40:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1042]
ヴェーバー 歌劇「魔弾の射手」
http://classic.music.coocan.jp/opera/weber/freischutz.htm
これはフルトヴェングラーが最も愛したオペラである。エリーザベト夫人によれぱ、彼がこのオペラから受ける感動は、幸福な幼年時代を偲ぶときのそれに似たところがあるという。
彼は「魔弾の射手」というエッセイ(フルトヴェングラー「音と言葉」所載、白水社1978年、芦津訳)を残しているが、そこではこうのべられている。
これはたんなるロマン派オペラではなく、このジャンルの最初の作品であり、しかも他のいかなるオペラにも増してそれを代表し、その真髄をきわめた作品であり、ドイツ人は与えられたままの姿、オペラという形で受け取らなければならない。このオペラを理解するためには、作品の本来の意図を読み取る能力が聴衆に望まれる。このオペラの世界、登場人物は、素朴な素直な直接的把握によってのみ真に理解される。この神秘に満ちた作品にふれて、国際政治や技術の時代に生きる罪に汚れた現代人は、無垢の恵みを新たに体験することができるのだ。このオペラはひたすら「ロマン派的に」演奏されなければならない。そうすれば、聴衆によって作品の本性にふさわしく「ロマン派的に」受け取られる必然性と可能性を見出すのである。
このオペラを理解するには、ゲルマン人は「森の民」「狩りの民」であったということを知らねばならないだろう。理知的・都会的な近代ドイツ人とこのオペラとでは、イメージが重なるところがないように思われる。(しかし、ドイツ人が環境問題に目覚め、徹底した対策をとるようになったキッカケの1つは、酸性雨による森林破壊だった。)
「Der Freischütz」を「魔弾の射手」とはよく意訳したものだ。直訳だと「自由射手」となるが、これでは何のことだかサッパリわからない。物語の中では、「魔法の弾」のことを「Frei Kugel」と言っているが、これは「自由自在に的中できる弾」という意味なのだろう。
2001年に発売されたブルーノ・ヴァイル録音の解説に収録されたヴァイルのインタビューからは、教えられることが多い。
狩人や射撃の名人たちの祝祭的な集いという雰囲気のわりに、「魔弾の射手」で描かれている世界は、我々からすると非常に自由がなく、束縛に満ちています。たとえば、狩人たちの社会では、射撃の名人たることは人間の価値を決めるための基本的な基準です。実際にマックスに困難だがまっとうな道から彷徨わせた社会が持つ多くの側面を、私たちは批判的に観察する必要があります。試練の苦しみと緊張が、このオペラの内容に盛り込まれています。「魔弾の射手」で提示されている問題は、学校の生徒たちが成績のためにがんばるという場合と似ているのです。
確かに、隠者が最後にマックスの弁護をする中で、「一つの過失がそのような罰に値しますかな?」「二つの気高い心の幸福(マックスとアガーテの結婚)を、一つの弾丸の行方に賭けることは正しいことであろうか?」と言うのはその文脈で理解できる。
おそらくヴェーバーは、子供からお年寄りまで、全世代の人間に直接語りかけることに成功した最後の作曲家ではないでしょうか?モーツァルトの「魔笛」のように。フルトヴェングラーは「魔弾の射手」を“人類の世紀の時”と呼びました。それは、フルトヴェングラーの次のような言葉でしか理解できません。“簡単に意味を掴むことができる直裁さ、それは容易に誤解されうる「素朴」という単語によって表される”
ヴァイルまでもフルトヴェングラーを引用するとは思わなかった。“人類の世紀の時”とはどういうことかよくわからないが、フルトヴェングラーが愛したのは真の意味での「素朴」であったことは確かであろう。彼はハイドンや「カルメン」を高く評価していた。
配役は、マックス、アガーテ、エンヒェン、狩人カスパール、護林官クーノー、領主オトカール、隠者
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル、国立歌劇場合唱団
ハンス・ホップ、エリーザベト・グリュンマー、リタ・シュトライヒ、クルト・ベーメ、オスカー・チェルヴェンカ、アルフレート・ペル、オットー・エーデルマン
EMI。1954年7月26日、ザルツブルク祝祭劇場ライヴ。
オーストリア放送の正規音源から2000年にCD化。上質なモノラル録音である(写真左)。
しかしこれより前に、RODOLPHEレーベルから「ステレオ録音」CDとして発売されたのを持っている(写真中央)。
それにはエリーザベト未亡人が一筆書いており、決して海賊盤ではない。Shin-p氏は「本物(のステレオ録音)」と評価している。
そして2005年には、フルトヴェングラーの友人アルフレート・クンツ氏所蔵のテープからCD化された「ステレオ録音」がTAHRAから発売された(FURT 1095/7、写真右)。
(これには何と、前年53年8月30日の「グレイト」も、モノラルではない録音で収録されているが、こちらは???である。)
演奏は、下の2つと比べるとかなり重量級でテンポも遅い。この年のザルツブルク音楽祭を聴いた吉田秀和氏は、「単に遅いだけでなくメッツァ・ヴォーチェで、夢想的な演奏だった。あんなにきれいな「花輪の歌」は以来2度と聴いたことがない。」と書いている。男声陣がちょっと大時代がかった歌唱なのに対し、グリュンマーとシュトライヒは非の打ち所がない。
しかし、RODOLPHE盤の荒井秀直氏の日本語解説にはこう書かれている。
「魔弾の射手」を音楽祭でとりあげることに積極的だったのは、フルトヴェングラーだけだった。音楽祭当局も消極的だったが、その反対を押し切ってとりあげられたこのオペラは、最初からつまずいた。演出家の協力かなかなか得られなかったのである。やっとひきうけたレンネルトにも、情熱が欠けていた。公演も予想されたように失敗で、観客の入りも悪かった。フルトヴェングラーがいない翌年にはこのオペラはもうプログラムから姿を消し、その後はいまだにとりあげられていない。
結局、このオペラは真にゲルマン民族的な特徴を有しており、それは辺境とはいえローマ帝国領だったオーストリアのあたりとは、文化的に肌があわないものがあったのだろう。そういえば、ウィーン・フィルによるこの曲の録音はおそらく他にないはずである。
カルロス・クライバー指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ライプツィヒ放送合唱団、ペーター・シュライヤー、グンドゥラ・ヤノヴィツ、
エディト・マティス、テオ・アダム、ジークフリート・フォーゲル、ベルント・ヴァイクル、フランツ・クラス
DG。1973年録音。OIBP化。
クライバーのデビュー録音である。セリフは別に役者を使っている。
Orphee d'or 1973、Grand Prix International du Disque 1974、
Prix Mondial du Disque Montreux 1974、Grand Premio del Disco Ritmo 1976 の各賞を受賞している。この曲の魅力がもっともよく表現された名盤である。
シュトゥットガルト放送交響楽団をクライバーが指揮しての、この序曲のリハーサル風景の映像がLD化されているが、そこでいろいろ注意していることが、この演奏でも実現されている。序曲冒頭のホルンの音色は、さすがペーター・ダムである。ドレスデンのルカ教会での録音もすばらしい。
http://classic.music.coocan.jp/opera/weber/freischutz.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.html#c6
9. 中川隆[-14187] koaQ7Jey 2020年1月24日 09:40:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1041]
Mozart/Süssmayr: Requiem, Walter & NYP (1956)
モーツァルト レクイエム ワルター
Requiem in D Minor, K. 626
Irmgard Seefried (1919-1988), Soprano
Jennie Tourel (1900-1973), Mezzo Soprano
Leopold Simoneau (1916-2006), Tennor
William Warfield (1920-2002), Bass Baritone
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
New York Philharmonic Orchestra
Vienna State Opera Chorus
Rec. 10-12 March 1956, at Carnegie Hall, in New York
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c9
10. 中川隆[-14186] koaQ7Jey 2020年1月24日 09:53:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1040]
ブルーノ・ワルター シカゴ交響楽団 レクイエム
Requiem In D Minor, K. 626
https://www.youtube.com/watch?v=Nw7MBW043cA&list=OLAK5uy_m8h8kDiv726Rohkn-WcynWltuzm7B_lqY
Mozart, W.A.: Requiem (Walter) (1958)
Artist: Maria Stader
Artist: Maureen Forrester
Artist: David Lloyd
Artist: Otto Edelmann
Choir: Chicago Symphony Chorus
Conductor: Bruno Walter
Orchestra: Chicago Symphony Orchestra
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c10
11. 中川隆[-14185] koaQ7Jey 2020年1月24日 09:57:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1039]
ブルーノ・ワルター ウィーン・フィル レクイエム
W. A. Mozart: Requiem, K. 626 / Bruno Walter (1937)
Elisabeth Schumann, soprano
Kerstin Thorborg, mezzo-soprano
Anton Dermota, tenor
Alexander Kipnis, bass
Chor der Wiener Staatsoper
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Paris, 1937
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c11
12. 中川隆[-14184] koaQ7Jey 2020年1月24日 09:59:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1038]
ブルーノ・ワルター ウィーン・フィル レクイエム
W. A. Mozart: Requiem, K. 626 / Bruno Walter (1956)
Lisa della Casa, soprano
Ira Malaniuk, contralto
Anton Dermota, tenor
Cesare Siepi, bass
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Salzburg, 1956
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html#c12
モーツァルト 『レクイエム』
カール・ベーム モーツァルト レクイエム
Mozart Requiem Karl Bohm
モーツァルト:レクイエム K.626
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(S)
クリスタ・ルートヴィヒ(Ms)
ペーター・シュライヤー(T)
ヴァルター・ベリー(B)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン交響楽団
カール・ベーム(指揮)
収録:1971年12月、ピアリステン教会、ウィーン
フーゴー・ケッヒ(映像監督)
____________
Mozart Requiem Karl Bohm
カール・ベーム指揮 1971年4月
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
エディット・マティス(ソプラノ)ユリア・ハマリ(アルト)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)カール・リッダーブッシュ(バス)
ハンス・ハーゼルベック(オルガン)
▲△▽▼
ブルーノ・ワルター モーツァルト レクイエム
W. A. Mozart: Requiem, K. 626 / Bruno Walter (1937)
Elisabeth Schumann, soprano
Kerstin Thorborg, mezzo-soprano
Anton Dermota, tenor
Alexander Kipnis, bass
Chor der Wiener Staatsoper
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Paris, 1937
__________
W. A. Mozart: Requiem, K. 626 / Bruno Walter (1956)
Lisa della Casa, soprano
Ira Malaniuk, contralto
Anton Dermota, tenor
Cesare Siepi, bass
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Salzburg, 1956
_________
Mozart/Süssmayr: Requiem, Walter & NYP (1956)
Irmgard Seefried (1919-1988), Soprano
Jennie Tourel (1900-1973), Mezzo Soprano
Leopold Simoneau (1916-2006), Tennor
William Warfield (1920-2002), Bass Baritone
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
New York Philharmonic Orchestra
Vienna State Opera Chorus
Rec. 10-12 March 1956, at Carnegie Hall, in New York
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Requiem (Walter) Chicago Symphony Orchestra (1958)
Requiem In D Minor, K. 626
https://www.youtube.com/watch?v=Nw7MBW043cA&list=OLAK5uy_m8h8kDiv726Rohkn-WcynWltuzm7B_lqY
Artist: Maria Stader
Artist: Maureen Forrester
Artist: David Lloyd
Artist: Otto Edelmann
Choir: Chicago Symphony Chorus
Conductor: Bruno Walter
Orchestra: Chicago Symphony Orchestra
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カール・シューリヒト モーツァルト レクイエム
Mozart "Requiem" Carl Schuricht for Addiobelpassato
Mozart "Requiem" KV 626 for Addiobelpassato
Maria Stader, soprano
Marga Höeffgen, contralto
Nicolai Gedda, tenor
Otto Wiener, bass
Wiener Singakademie (directed by Hans Gillesbeger)
Wiener Philharmoniker
Carl Schuricht, conductor
Wien, Stefansdom, 19.06.1962
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レクイエム ニ短調(独語名:Requiem in d-Moll)K. 626は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年 - 1791年)が作曲したレクイエム(死者のためのミサ曲)である。
モーツァルトの死により作品は未完のまま残され、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成された。
作曲の経緯
1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い、苦しい生活を送っていた。旧知のシカネーダー一座から注文を受けたジングシュピール『魔笛』K. 620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、プラハでのボヘミア王としての皇帝レオポルト2世の戴冠式で上演するオペラ・セリア『皇帝ティートの慈悲』K. 621の注文を7月末に受け、これを優先して作曲する。ジュースマイヤーにレチタティーヴォの部分を手伝わせてようやく完成の目処が立ち、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男性が彼を訪ねた。男性は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていった[注 1]。
9月中旬、プラハから戻ったモーツァルトは『魔笛』の残りを急いで書き上げ、9月30日の初演に間に合わせる。その後、レクイエムの作曲に取りかかるが、体調を崩しがちとなり、11月20日頃には床を離れられなくなってしまう。12月になると病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界する(享年35)。彼の葬儀は12月6日にシュテファン大聖堂の十字架チャペルで行われ、4日後の10日にはエマヌエル・シカネーダーなどの勧めによりホーフブルク宮殿の前にある皇帝用の聖ミヒャエル教会でのミサで「レクイエム」の「初演」がそれまで完成した形(第2曲以下をクワイアーは斉唱)で行われた。[1]
モーツァルトの死後、未亡人コンスタンツェと再婚したゲオルク・ニコラウス・ニッセンの著したモーツァルト伝などにより、彼は死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ、という伝説が流布した。
当時、依頼者が公になっていなかったことに加え、ロレンツォ・ダ・ポンテに宛てたとされる有名な書簡において、彼が死をいかに身近に感じているかを語り、灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のためにレクイエムを作曲していると書いているのである。いかにも夭折した天才にふさわしいエピソードとして長らく語られてきたが、1964年になってこの匿名の依頼者がフランツ・フォン・ヴァルゼック(英語版)伯爵という田舎の領主であること、使者が伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープ (Franz Anton Leitgeb) という人物であることが明らかになった。
ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家であり、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていた。彼が1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトにレクイエムを作曲させたというのが真相だった。したがって、何ら神秘的な出来事が起こったわけではない。ただ、モーツァルトが自身が死へと向かう病床にあってなおレクイエムの作曲をしていたのは事実である。
コンスタンツェの妹ゾフィーは、モーツァルトが最後までベッドでジュースマイヤーにレクイエムについての作曲指示をし、臨終はまだ口でレクイエムのティンパニの音をあらわそうとするかのようだったと姉アロイジアとニッセン夫妻に宛てた手紙の中で述べている。
なお、イタリア語で書かれたダ・ポンテ宛ての手紙は偽作説も有力である。というのも、イギリスに滞在していたダ・ポンテが見知らぬ男性のことを知り得ないはずだから、というのが主な根拠である。
ダ・ポンテ宛の手紙
あなたのお申し出に喜んで僕は従いたいのですが、しかしどうしてそのようにすることができましょう。僕は混乱しています。話すのもやっとのことです。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。僕はいつでもその姿が見えます。彼は懇願し、せきたて、早急にも僕に作品を求めるのです。僕も作曲を続けてはいます。休んでるときよりも、作曲しているときのほうが疲れないのです。それ以外、僕には恐れるものもないのです。最後のときが鳴っているように思えます。僕は自分の才能を十二分に楽しむ前に終わりにたどり着いてしまいました。しかし、人生は、なんと美しかったことでしょうか。生涯は幸福の前兆のもとに始まりを告げたのでした。ですが、人は自分の運命を変えることは出来ません。人はだれも、自分で生涯を決定することは出来ないのです。摂理の望むことが行われるのに甘んじなくてはいけないのです。筆をおきます。これは僕の死の歌です。未完成のまま残しておくわけにはいきません。
この文は全文がイタリア語で書かれており、死の年の9月に書かれたとされるが、自筆の書簡は失われており、偽作という疑いも強い。なお、初めの文での「あなたの申し出」とはダ・ポンテがモーツァルトにイギリス行きを勧誘したことであり、後半の「死の歌(カント・フネープレ)」というのはもちろん、レクイエムのことである。また、この手紙が一般にダ・ポンテ宛てだと言われているのは、全文がイタリア語で書かれているということからの推測に過ぎず、確固たる根拠はない。
作品の補筆から初演・出版
モーツァルトの死後、貧窮の中に残されたコンスタンツェは、収入を得る手段としてこの作品を完成させることを望んだ。まず、モーツァルトも高く評価していたヨーゼフ・アイブラーが補作を進めるが、なぜか8曲目の途中までで放棄する。作業は他の弟子、ヤコプ・フライシュテットラーおよびジュースマイヤーに委ねられ、ジュースマイヤーが改めて一から補筆を行って最終的に完成させた。完成した総譜は作品を受け取りに来た使者ライトゲープを通じてヴァルゼック伯爵に引き渡され、コンスタンツェは作曲料の残りを得た。
伯爵は自分の作品であるとして、1793年12月14日にウィーンのノイクロスター教会において自身の指揮でこの曲を演奏したが、コンスタンツェは手元に残した写譜から亡夫の作品として出版する。このため後に伯爵が抗議するという一幕もあったというが、モーツァルトの名声はすでに高まりつつあり、この作品はモーツァルトの作品として広く認知されるようになった。なお、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン(ドイツ語版)男爵の計らいで、コンスタンツェのために1793年1月2日に本当の初演が行われたという説がある。
典礼の際に利用するため、「リベラ・メ」【我を救い給え】の補作が行われることがあった。著名なものに、1819年にリオ・デ・ジャネイロで演奏するために作曲されたジギスムント・フォン・ノイコムによるものと、1827年のベートーヴェンの葬儀で演奏されたイグナーツ・フォン・ザイフリートによるものがある[2]。
作品の概要
このレクイエムは次のような構成を持つ。
なお、テキストはレクイエムを参照されたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/レクイエム
イントロイトゥス(入祭唱)
第1曲 レクイエム・エテルナム【永遠の安息を】 (ニ短調 アダージョ 4分の4拍子 合唱・ソプラノ独唱)
全曲中唯一モーツァルト自身の手で最後まで完成されている曲。冒頭のD-C#-D-E-F…の動機は全曲に渡って用いられている。第2曲へ休みなく続く。
第2曲 キリエ【憐れみの賛歌】 (ニ短調 アレグロ 4分の4拍子 合唱)
壮大な二重フーガ。
セクエンツィア【続唱】
第3曲 ディエス・イレ【怒りの日】 (ニ短調 アレグロ・アッサイ 4分の4拍子 合唱)
全曲中特に有名な曲で、テレビや映画などでよく用いられている。
第4曲 トゥーバ・ミルム【奇しきラッパの響き】 (変ロ長調→ヘ短調 アンダンテ 2分の2拍子 バス、テノール、アルト、ソプラノ独唱・四重唱)
歌詞の通り、トロンボーンに導かれてバスが最後の審判について歌う。
第5曲 レックス・トレメンデ【恐るべき御稜威の王】 (ト短調 グラーヴェ 4分の4拍子 合唱)
「グラーヴェ」はジュースマイヤーの指定。彼以降の補筆版(後述)では、速いテンポで演奏されることが多い。
第6曲 レコルダーレ【思い出したまえ】 (ヘ長調 アンダンテ 4分の3拍子 四重唱)
第7曲 コンフターティス【呪われ退けられし者達が】 (イ短調 アンダンテ 4分の4拍子 合唱)
第5曲同様、他の補筆版では速いテンポで演奏されることが多い。
第8曲 ラクリモーサ【涙の日】 (ニ短調 ラルゲット 8分の12拍子 合唱)
モーツァルトの絶筆(8小節、"judicandus homo reus:" まで)。9小節以降はジュースマイヤーの補筆であるが、作曲は必ずしも曲順に進められるわけではないため、後述の通り、続く第9、10曲も第3〜7曲同様、旋律や和声など主要な部分はモーツァルトの作曲である。
オッフェルトリウム【奉献文】
第9曲 ドミネ・イエス【主イエス】 (ト短調 アンダンテ・コン・モート 4分の4拍子 合唱・四重唱)
第10曲 オスティアス【賛美の生け贄】 (変ホ長調 アンダンテ 4分の3拍子 合唱)
サンクトゥス【聖なるかな】
第11曲 サンクトゥス【聖なるかな】 (ニ長調 アダージョ 4分の4拍子 合唱)
全曲で唯一、シャープ系の調性の曲。"Hosanna" 以降はフーガとなる。
第12曲 ベネディクトゥス【祝福された者】(変ロ長調 アンダンテ 4分の4拍子 四重唱・合唱)
前曲と同一のフーガで締めくくられる。
アニュス・デイ【神の小羊】
第13曲 アニュス・デイ【神の小羊】 (ニ短調 ラルゲット 4分の3拍子 合唱)
次の曲に休みなく続く。
コムニオ【聖体拝領唱】
第14曲 ルックス・エテルナ【永遠の光】 (ニ短調 アダージョ 4分の4拍子 ソプラノ独唱・合唱)
曲構成・作曲内容
合唱部分は全て混声四部合唱で、四重唱はソプラノからバスまでの独唱者による。
この全14曲のうち、モーツァルトが完成させることができたのは第1曲だけであり、第2曲 第3曲等はほぼ出来ていたものの残りは未完のまま作曲途中にモーツァルトは世を去る。第2曲はフライシュテットラーとジュースマイヤーによってオーケストレーションが行われた。他に第3曲から第7曲、第9曲から第10曲の主要部分(四声の合唱部と主要な和声のスケッチ)と第8曲「涙の日(ラクリモーサ)」の8小節までがモーツァルトによって残され、それを基に弟子のジュースマイヤーが補筆完成を行っている。残りの第11曲以降についてはモーツァルトによる草稿は伝わっていないものの、フライシュテットラーやジュースマイヤーに対し何らかの指示がされた可能性はある。また、全曲の最後を飾る第14曲「聖体拝領唱」はモーツァルトの指示により(コンスタンツェの証言が残っている)第1曲「入祭唱」の一部および第2曲「キリエ」のフーガの歌詞を入れ替えたもので、これは当時のミサ曲の慣例でもあった。
第1曲「入祭唱」の冒頭で提示されるD-C#-D-E-F-G-F-E-Dという主題は「レクイエムの主題」と呼ばれ、形を変えながら作品全体(草稿の伝わらない、ジュースマイヤー作曲とされる曲も含めて)を通して現れる。これはマルティン・ルター作とされるコラール「わが死の時に臨みて」(Wenn mein Stündlein vorhanden ist)が元であり、モーツァルトの前にもヘンデルやミヒャエル・ハイドンが用いている。特にミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」は、モーツァルトがこのレクイエムを作曲する上で大きく影響したと言われる。また、同じく「入祭唱」で提示されるF-E-G-Fという動機も各所に現れる。
アーメン・フーガ
1962年、音楽学者ヴォルフガング・プラート(英語版)がベルリン州立図書館において、『魔笛』 K.620の序曲のスケッチ、第5曲「恐るべき御稜威の王(レックス・トレメンデ)」の一部などと共に、「アーメン」を歌詞とする4分の3拍子、16小節のフーガのスケッチ(通称「アーメン・フーガ」)が記された草稿(声楽部のみ)を発見している。
1791年に書かれたと見られ、主題は「レクイエムの主題」の反行形である(A-B♭-A-G-F-E-D)。こうしたことから、一部の音楽学者は【入祭唱】をフーガである「キリエ」で締めくくるのと同様、【続唱】の最終曲「涙の日(ラクリモーサ)」の終結部に置き、区切りとする構想があったとする意見を唱えており、近年の補筆版にも度々補筆・導入されている[注 2]。
楽器編成
声楽: ソプラノ・アルト・テノール・バスの独唱および混声四部合唱
器楽: バセットホルン2、ファゴット2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部、オルガン
フルート、オーボエ、クラリネットといった明るい音色の楽器を使わず、かわりにクラリネット属だが低音のくすんだ、しかし奥深い響きを持つバセットホルンを用いた。モーツァルトはこの楽器を好んでおり、知人のアントン・シュタードラー兄弟のために多数の作品に採用している。
ジュースマイヤー版とジュースマイヤー版への批判的補作
現在出版されているジュースマイヤー版の総譜は、ブルックナー作品の編集で有名なレオポルト・ノヴァークの校訂を経たものである。CD、コンサートなどで使用している版が特記されていなければ、ジュースマイヤー版である可能性が高い。
前述の通りモーツァルトの死後、貧窮の中に残されたコンスタンツェは、収入を得る手段としてこの作品を完成させることを望んだ。多少の曲折の後、本作はモーツァルトの弟子であるジュースマイヤー(およびフライシュテットラー)によって補筆完成された。フライシュテットラーは、第2曲のオーケストレーションのみ担当した(合唱のパートを木管楽器と弦楽器にユニゾンで重ねた)。後述のような問題点も指摘されるものの、他の版にはない利点である作曲者モーツァルト本人から直接指示を受けた人物(ジュースマイヤー)による補作として価値は高く、演奏可能な作品として完成させたジュースマイヤーの功績を不当に低く評価すべきではないという考えを示す研究者、演奏家も多い。また、モーツァルトの自筆譜への加筆ではなく、アイブラーの補筆部分を取り除いた筆写譜を作成した後に補作に取りかかった点も忘れてはならない。
しかしジュースマイヤーの補作の不出来な点に対する批判は、作品の出版直後からすでに見られた。20世紀にモーツァルト研究が進むにつれ、モーツァルト自身の筆になる部分とその他の弟子、とくにジュースマイヤーによる書き込みの区分がなされると、ジュースマイヤー補作版に基づきながら、彼の作曲上の誤りやモーツァルトの真正な様式にそぐわない部分を修正した改良版を出版することが行われるようになった。
主な補作
バイヤー版
ミュンヘン音楽大学教授フランツ・バイヤーによる補作。最も有名なものは1971年の「バイヤー版」で、フランツ・バイヤーの行った研究成果を反映したものであり、全体的に、ジュースマイヤーの仕事を認める方向で楽曲の構成には手を加えず、「饒舌」なオーケストレーションの修正、特に伴奏のカットが主眼である。最もわかりやすい変更箇所は、「キリエ」の最後のフェルマータ以降のトランペットとティンパニの追加、「奇しきラッパの響き」の "Mors stupebit et natura" 以降のトロンボーンのカット(これは歌詞の内容に合わせたもの)、「恐るべき御稜威の王」の2拍目の金管楽器による相の手の削除[注 3](これは前者と共に以下の版でも採用されている)、「涙の日」の "Dona eis" の部分で、テノールパートが上昇音型から下降音型に変更されている点、「オッフェルトリウム」の始めのほうに現れる弦楽器のシンコペーションを単純なリズムに変更した点、そして「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」の最後の部分「オザンナ」のフーガに新しい終結部を追加した点である(アーノンクールは演奏の際この部分はカットした)。
尚、バイヤーは2005年に新たな補作を出版しており、上記のものとは異なる新版が存在する。
モーンダー版
イギリスの音楽学者・数学者リチャード・モーンダー(ドイツ語版)による補作。曲自体はあくまで未完だとして、ジュースマイヤーが作曲した曲、およびオーケストレーションを削除し、モーツァルトの他の楽曲(特に「魔笛」や「皇帝ティートの慈悲」)を参考に補筆するという方針を取っているが、「神の子羊よ」は、「レクイエムの主題」の引用、「雀ミサ」K.196bとの類似など、モーツァルト自身が関与した可能性が強いと指摘し、修正を施した上で残された。最大の特徴は「涙の日」の「アーメン」の部分に「アーメン・フーガ」を導入したことである。モーツァルトの絶筆("judicandus homo reus:")以降は「入祭唱」の "Te decet hymnus" の部分を転調して繋ぎ、"Dona eis requiem" で半休止させてアーメン・フーガへと入る。アーメン・フーガは 「自動オルガンのための幻想曲」 K.608を参考に補筆したといい、フーガの終結部ではモーツァルトの絶筆部分のモチーフ(D-E-F-F#-G-G#-A-C#.)を引用している。
ランドン版
アメリカの音楽学者H.C.ロビンス・ランドンによる版。アイブラーの補筆がある「呪われ退けられし者達が」まではそれを採用し、「涙の日」以降はジュースマイヤーのものを用いて、その上でランドンが一部に加筆している。ジュースマイヤーによって破棄され、使われなかったアイブラーの補筆部分を初めて利用した版である。編者の「モーツァルトの作品を完成させる作業には、学識に優れた20世紀の学者たちよりも、同時代人であるアイブラー、フライシュテットラー、ジュースマイヤーの方が適していると信じる」という言葉と相まって、ジュースマイヤー再評価のきっかけとなった。判別のポイントは「恐るべき御稜威の王」の6小節目で伴奏が無くなる部分。
レヴィン版
アメリカのピアニスト・作曲家ロバート・レヴィンによる補作。1991年のレクイエム200年記念演奏会のために作成された。基本的には、ジュースマイヤー版の曲の骨格を元にオーケストレーションを書き換える方針を取っている。最大の特徴は「涙の日」の「アーメン・フーガ」であり、これはモーンダーとは異なる独自の補作である(ジュースマイヤーの補筆は極力残してフーガに入る。なお、当時の慣例に基づき、このフーガは属調以外ほとんど転調しないのが特徴)。また、「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」は「オザンナフーガ」が大幅に拡大されるなど、改作に近い修正が施されている。
ドルース版
イギリスの音楽学者・作曲家・弦楽器奏者ダンカン・ドルース(英語版)による版。「モーツァルトのつもりでというよりは、モーツァルトのスタイルに共鳴し、モーツァルトの技法に精通した18世紀の有能な作曲家になったつもりで」補作しようとしたという。「涙の日」のモーツァルトの絶筆以降と「アーメン・フーガ」を独自に補作した。「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」および「オザンナ・フーガ」はジュースマイヤー版の主題を基に新たに作曲しなおしている。「聖体拝領唱」の冒頭には「入祭唱」から取った器楽演奏部が挿入されている。「涙の日」の9-10小節目に、アイブラーが補筆した2小節を使用しており、「涙の日」は「怒りの日」とパラレルになるように作曲したという。
その他
主要なものとして、古いものではフロトホイス(1941年)から、近年のものではTamás(2005年[3])、Cohrs(2013年[4])、Dutron(2017年[5])による版がある。また、日本人による補作としては鈴木優人による版(2013年)がある[6]。
その他
本作品は弟子による補作によっているとはいえ、モーツァルトの傑作の一つとしてしばしば演奏される。演奏会だけでなく、ミサ曲本来の目的である死者の追悼のためにも使われてきた。ショパンの葬儀でも演奏され、カトリック信者であったアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの追悼ミサでもエーリヒ・ラインスドルフが指揮して演奏が行われた。また、1991年にはモーツァルト没後200年ミサがゲオルク・ショルティ指揮、ハンス・ヘルマン・グローエル枢機卿の司式で、ランドン版を用いて執り行われた。
映画『アマデウス』においてサリエリに本作品の第7曲を口述筆記させるモーツァルトの作曲シーンが描かれるが、史実ではなくまったくのフィクションである。この映画にはモーツァルトの楽曲が全編に渡って使われているが、バイヤー版、ジュースマイヤー版の両方で録音を発表している音楽監督のネヴィル・マリナーは、この映画では2つの版を混成で使用しており、特にモーツァルト埋葬の場面でバイヤー版の特徴が現れている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/レクイエム_(モーツァルト)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/839.html
ブラームス 『ドイツ・レクイエム』
フルトヴェングラー
Brahms - Ein deutsches Requiem - Stockholm / Furtwängler(1948)
Ein deutsches Requiem op.45
Kerstin Lindberg-Torlind
Bernhard Sönnerstedt
Musikalista Sällskapet Kör
Stockholm Konsertförenings Orkester
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Stockholm, 19.XI.1948
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カール・シューリヒト
Mozart "Requiem" Carl Schuricht for Addiobelpassato
Mozart "Requiem" KV 626 for Addiobelpassato
Maria Stader, soprano
Marga Höeffgen, contralto
Nicolai Gedda, tenor
Otto Wiener, bass
Wiener Singakademie (directed by Hans Gillesbeger)
Wiener Philharmoniker
Carl Schuricht, conductor
Wien, Stefansdom, 19.06.1962
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Brahms "Ein deutsches Requiem" Carl Schuricht 1955
Ein deutsches Requiem op 45 by Johannes Brahms
Elfride Trötschel, Soprano
Heinz Rehfuß, Bass
Choeurs de la RTF
Orchestre National de la RTF
Carl Schuricht, Conductor
Paris, 10.II.1955
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ブルーノ・ワルター
Brahms-Requiem Tedesco-op.45-R. Careri sp.-B.Christoff bs.-Dir. B. Walter-Orch.Rai Torino 16.4.1952
Brahms-Un Requiem
Tedesco-op.45-Rosanna Careri sp.-Boris Christoff bs.
Dir. Bruno Walter
Orchestra Rai Torino 16.4.1952
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Bruno Walter: Brahms Live - Edinburgh Festival 08-09-1953 (Fischer-Dieskau & Seefried)
JOHANNES BRAHMS
• Tragic Overture, op. 81
• Ein Deutsches Requiem, op. 54
Irmgard Seefried, sp
Dietrich Fischer-Dieskau, br
Edinburg Choral Union & the Wiener Philharmoniker: BRUNO WALTER
Live - Edinburgh Festival September 8, 1953
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New York Philharmonic Orchestra Live Recording 1954
A German Requiem, To Words of the Holy Scriptures, Op. 45 (Ein deutsches Requiem)
Irmgard Seefried (1919-1988), Soprano
George London (1920-1985), Bass Baritone
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
New York Philharmonic Orchestra (New York Philharmonic)
Westminster Chor
Rec. December 1954, at Carnegie Hall, in New York (Live Recording)
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ドイツ・レクイエム( Ein deutsches Requiem)作品45は、ヨハネス・ブラームスが作曲したオーケストラと合唱、およびソプラノ・バリトンの独唱による宗教曲。
1868年に完成し、翌年1869年初演された。全7曲で構成され、歌詞はドイツ語。
通常レクイエムはカトリック教会において死者の安息を神に願う典礼音楽のことであり、ラテン語の祈祷文に従って作曲される。しかし、ハンブルクで生まれ、ウィーンで没したブラームスはルター派信徒であるため、ルター聖書のドイツ語版の文言から、ブラームス自身が選んだ旧約聖書と新約聖書のドイツ語章句を歌詞として使用している。 これは、メンデルスゾーンが1840年に作曲した交響曲第2番『讃歌』ですでに行われた手法である。
また、演奏会用作品として作曲され、典礼音楽として使うことは考えられていないのが、大きな特徴として挙げられる。ブラームス自身も、「キリストの復活に関わる部分は注意深く除いた」と語っている。
ブラームスの作品としては珍しいほどポリフォニーが巧みに活かされた作品であり、初期作品ピアノ協奏曲第1番の第3楽章にも見られるようなバロック音楽、特に大バッハやハインリヒ・シュッツの影響が顕著に見て取れる。また第1曲の旋律が全曲にわたり用いられており、楽曲構成にも統一が意図されている。
なお、この曲の理解者で1868年に一部演奏を担当した指揮者カール・マルティン・ラインターラーは、ブラームスの詞の選択に納得がいかず、ヘンデルの『メサイア』のソプラノによるアリア「私は知る、私を贖う者は生きておられる」[1]を挿入した。ブラームスは彼への書簡で、「私は、喜んでこの曲のタイトルから『ドイツ』の名を取り去り、『人間の』と置き換えたいと公言してもいい」と述べている。
作曲の経緯と初演
この曲は1857年頃から書かれ始めた。この曲が構想されたきっかけは、1856年に自らを世に出してくれた恩人ロベルト・シューマンが死去したことにあったと言われている。1857−59年には早くも現在の第2楽章[2]を完成させるが、そこからは進まなかった。しかし、1865年、ブラームスの母が死去し、これが彼に曲の製作を急がせることとなった。
まず、初演2年前の1867年12月1日、作曲されていた第1曲から第4曲までのうち、最初の3つの楽章の試演が、ヨハン・ヘルベックの指揮によりウィーン楽友協会で行われたが、演奏がうまくいかず聴衆の罵声を浴びて失敗した。エドゥアルト・ハンスリックもこの時、皮肉を込めた批評を書いている。しかしブラームスは諦めることなく作曲を続けて、第6曲と第7曲を書き上げ、初演1年前の1868年4月10日、ブレーメンで第5楽章を除く全曲を自らの指揮で演奏し、成功を収めた。これにより、ブラームスは35歳にしてドイツ屈指の作曲家としての地位を確立した。その直後の4月28日、ラインターラーの指揮で再演され(上述)、5ヶ月後の9月17日、チューリッヒで8月までに完成した第5楽章がフリードリヒ・ヘーガーの指揮で演奏された。
この5ヶ月後の1869年2月18日、カール・ライネッケ指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により7楽章全曲が初演された。この作品のユニークな特色の一つに、この初演以前に、上述のような部分的に作曲した楽章の分だけ演奏されてきた遍歴を持つことが挙げられる。
編成
ピッコロ 1
フルート 2
オーボエ 2
クラリネット 2
ファゴット 2
コントラファゴット 1
ホルン 4
トランペット 2
トロンボーン 3
チューバ 1
ティンパニ 3台(1player)
ハープ 1ないしは2
弦五部(ヴァイオリン第1・第2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)
オルガン(任意)
混声4部合唱
ソプラノ独唱(第5楽章)、バリトン独唱(第3、第6楽章)
なお、第1楽章ではヴァイオリンは使われず、ヴィオラが弦楽の中心となっている。
構成
1.悲しんでいる人々は幸いである(Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (01) Selig sind, die da Leid tragen.ogg Selig sind, die da Leid tragen[ヘルプ/ファイル])(マタイ伝5:4、詩篇126:5-6) ヘ長調 4/4拍子
2.人は皆草のごとく(Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (02) Denn alles Fleisch, es ist wie Gras.ogg Denn alles Fleisch, es ist wie Gras[ヘルプ/ファイル])(1ペテロ1:24、ヤコブ書5:7、イザヤ書35:10) 変ロ短調 3/4拍子
3.主よ、我が終わりと、我が日の数の("Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (03) Herr, lehre doch mich.ogg Herr, lehre doch mich[ヘルプ/ファイル]")(詩篇39:4-7、知恵の書3:1) ニ短調 2/2拍子
4.万軍の主よ、あなたの住まいは(Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (04) Wie lieblich sind deine Wohnungen.ogg Wie lieblich sind deine Wohnungen[ヘルプ/ファイル])(詩篇84:1-2、4) 変ホ長調 3/4拍子
5.このように、あなた方にも今は(Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (05) Ihr habt nun Traurigkeit.ogg Ihr habt nun Traurigkeit[ヘルプ/ファイル])(ヨハネ伝16:22、シラ書51:27、イザヤ書66:13) ト長調 4/4拍子
6.この地上に永遠の都はない(Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (06) Denn wir haben hie keine bleibende Statt.ogg Denn wir haben hie keine bleibende Statt[ヘルプ/ファイル])(ヘブル書13:14、コリント前15:51-55、黙示録4:11)、所謂ブラームスの「怒りの日」である。 ハ短調 4/4拍子
7.今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである(Johannes Brahms - Op.45 Ein Deutsches Requiem - (07) Selig sind die Toten.ogg Selig sind die Toten[ヘルプ/ファイル])(黙示録14:13) ヘ長調 4/4拍子
歌詞
第1曲「幸いなるかな、悲しみを抱くものは」
[Ziemlich langsam und mit Ausdruck. F-Dur, C]
Selig sind, die da Leid tragen,
denn sie sollen getröstet werden.
Matthäus 5, 4
Die mit Tränen säen,
werden mit Freuden ernten.
Sie gehen hin und weinen
und tragen edlen Samen,
und kommen mit Freuden
und bringen ihre Garben.
Psalm 126, 5.6.
[かなりゆっくりと、表情をつけて。ヘ長調、C]
幸いなるかな[3]、悲しみを抱くものは、
かれらは慰められんゆえに。
マタイによる福音書 5:4
涙とともに蒔くものは、
喜びとともに刈り入れん。
かれら出で行き、泣きて、
とうとき種を携える。
されど喜びとともにきたりて、
穂束を持ち運ぶ。
詩編 126:5-6
第2曲「肉はみな、草のごとく」
[Langsam, marschmäßig. b-Moll, 3/4]
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras
und alle Herrlichkeit des Menschen
wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret
und die Blume abgefallen.
1. Petrus 1, 24
[Etwas bewegter. Ges-Dur, 3/4]
So seid nun geduldig, liebe Brüder,
bis auf die Zukunft des Herrn.
Siehe, ein Ackermann wartet
auf die köstliche Frucht der Erde
und ist geduldig darüber,
bis er empfahe den Morgenregen und Abendregen.
So seid geduldig.
Jakobus 5, 7
[Tempo I. b-Moll, 3/4]
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras
und alle Herrlichkeit des Menschen
wie des Grases Blumen.
Das Gras ist verdorret
und die Blume abgefallen.
[Un poco sostenuto. B-Dur, C]
Aber des Herren Wort bleibet in Ewigkeit.
1. Petrus 1, 24.25
[Allegro non troppo, B-Dur, C]
Die Erlöseten des Herrn werden wiederkommen,
und gen Zion kommen mit Jauchzen;
Freude, ewige Freude,
wird über ihrem Haupte sein;
Freude und Wonne werden sie ergreifen,
und Schmerz und Seufzen wird weg müssen.
Jesaja 35, 10
[ゆっくりと、行進曲的に。変ロ短調、3/4]
肉[4]はみな、草のごとく
人の光栄はみな
草の花のごとし。
草は枯れ
花は落つ。
ペトロの手紙一 1:24
[いくらか感動的に。変ト長調、3/4]
かく今は耐え忍べ、愛しき兄弟よ、
主の来たらんとするときまで。
視よ、農夫は待つなり、
地のとうとき実を。
また耐え忍ぶなり、
朝の雨と夕の雨を得るまで。
かく耐え忍べ。
ヤコブの手紙 5:7
[初めと同じテンポで。変ロ短調、3/4]
肉はみな、草のごとく
人の光栄はみな
草の花のごとし。
草は枯れ
花は落つ。
[音をある程度十分に保って。変ロ長調、C]
されど主の御言葉は保つなり、とこしえに。
ペトロの手紙一 1:24-25
[はなはだしくなく軽快に。変ロ長調、C]
主に救われしもの再びきたりて、
歓呼とともにシオンにきたる。
喜び、とこしえの喜びが、
その頭の上にあらん。
喜びと歓びとをかれらはつかみ、
苦しみと嘆きとは逃げ去るべし。
イザヤ書 35:10
第3曲「主よ、知らしめたまえ」
[Andante moderato. d-Moll, C]
Herr, lehre doch mich,
daß ein Ende mit mir haben muß.
und mein Leben ein Ziel hat,
und ich davon muß.
Siehe, meine Tage sind
einer Hand breit vor Dir,
und mein Leben ist wie nichts vor Dir.
[(Andante moderato. d-Moll) 3/2]
Ach wie gar nichts sind alle Menschen,
die doch so sicher leben.
Sie gehen daher wie ein Schemen
und machen ihnen viel vergebliche Unruhe;
sie sammeln und wissen nicht,
wer es kriegen wird.
Nun Herr, wes soll ich mich trösten?
[(Andante moderato.) D-Dur (3/2)]
Ich hoffe auf Dich.
Psalm 39, 5-8
[(Andante moderato.) D-Dur, C]
Der Gerechten Seelen sind in Gottes Hand
und keine Qual rühret sie an.
Weisheit Salomos 3, 1
[ほどよくゆっくりと歩くように。ニ短調、C]
主よ、知らしめたまえ、
われに終わり必ずあること、
わが命に末あること、
我この世より必ず去ることを[5]。
視よ、わが日々は
手の幅ほどのものなり、御前にては。
わが命は無のごとし、御前にては。
[3/2]
げに、まことに無のごとし、すべての人は、
かれら確かに生きれども。
かれら影がごとく移ろい、
むなしく思い悩む。
かれら積み蓄えるが、知らず、
誰がそれを手にせんかを。
されば主よ、何によりてか、われ己を慰むべし?
[ニ長調]
われは待ち望む、汝を。
詩編 39:5-8
[ニ長調、C]
正しき人の魂は神の御手のうちにあり、
いかなる責め苦もそれらに触れることなし。
知恵の書 3:1
第4曲「いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、万軍の主よ」
[Mäßig bewegt. Es-Dur, 3/4]
Wie lieblich sind Deine Wohnungen,
Herr Zebaoth!
Meine Seele verlanget und sehnet sich
nach den Vorhöfen des Herrn;
Mein Leib und Seele freuen sich
in dem lebendigen Gott.
Wohl denen, die in Deinem Hause wohnen,
die loben Dich immerdar.
Psalm 84, 2.3.5
[適度に感動的に。変ホ長調、3/4]
いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、
万軍の主よ!
わが魂は求め慕う、
主の前庭を。
わが身と心は喜ぶ、
命の神の御前で。
幸いなるかな[3]、なんじの家に住むものは、
なんじをつねに讃えまつるものは。
詩編 84:2-3, 5
第5曲「汝らも今は憂いあり」
[Langsam. G-Dur, C]
Ihr habt nun Traurigkeit;
aber ich will euch wiedersehen,
und euer Herz soll sich freuen,
und eure Freude soll niemand von euch nehmen.
Johannes 16, 22
Ich will euch trösten,
wie einen seine Mutter tröstet.
Jesaja 66, 13
Sehet mich an: Ich habe eine kleine Zeit
Mühe und Arbeit gehabt
und habe großen Trost gefunden.
Jesus Sirach 51, 35
[ゆっくりと。ト長調、C]
汝らも今は憂いあり、
されどわれ汝らを再び見ん。
そのとき汝らの心よろこぶべし、
その喜びを汝らより奪う者なし。
ヨハネによる福音書 16:22
われ汝らを慰めん、
人をその母が慰むるごとく。
イザヤ書 66:13
われを視よ。われに束の間の
労苦と働きのみありしが、
われ大いなる慰めを見いだせり。
シラ書 51:27[6]
第6曲「われらここには、とこしえの地なくして」
[Andante. c-Moll, C]
Denn wir haben hie keine bleibende Statt,
sondern die zukünftige suchen wir.
Hebräer 13, 14
Siehe, ich sage Euch ein Geheimnis:
Wir werden nicht alle entschlafen,
wir werden aber alle verwandelt werden;
und dasselbige plötzlich in einem Augenblick,
zu der Zeit der letzten Posaune.
[Vivace. c-Moll, 3/4]
Denn es wird die Posaune schallen
und die Toten werden auferstehen unverweslich;
und wir werden verwandelt werden.
Dann wird erfüllet werden das Wort,
das geschrieben steht.
Der Tod ist verschlungen in den Sieg.
Tod, wo ist dein Stachel?
Hölle, wo ist dein Sieg?
1 Korinther 15, 51.52.54.55.
[Allegro. C-Dur, C]
Herr, Du bist würdig
zu nehmen Preis und Ehre und Kraft,
denn Du hast alle Dinge erschaffen,
und durch Deinen Willen haben sie das Wesen
und sind geschaffen.
Offenbarung Johannis 4, 11
[ゆっくり歩くように。ハ短調、C]
われらここには、とこしえの地なくして、
ただ来たらんとするものを求む。
ヘブライ人への手紙 13:14
視よ、われ汝らに神秘を告ぐ、
われらはことごとく眠るにあらず、
われらみな化せられん、
たちまち、瞬く間に、
終わりのラッパのときに。
[生き生きと。ハ短調、3/4]
すなわちラッパ鳴り
死人は朽ちずして蘇り、
われらは化せられん。
かくて言葉は成就せん、
かく記されたるものは。
「死は勝利に呑まれたり。
死よ、なんじのとげは、いずこにかある?
地獄よ、なんじの勝利は、いずこにかある?」
コリントの信徒への手紙一 15:51-52,54-55
[軽快に。ハ長調、C]
主よ、なんじはふさわし、
称賛と栄光と力を受けたもうことに。
なんじは万物を造りたまい、
御心によりてそれらは存在を保ち、
かつ造られたるゆえに。
ヨハネの黙示録 4:11
第7曲「幸いなるかな、死人のうち、主にありて死ぬるものは」
[Feierlich. F-Dur, C]
Selig sind die Toten,
die in dem Herrn sterben,
von nun an.
Ja, der Geist spricht,
daß sie ruhen von ihrer Arbeit;
denn ihre Werke folgen ihnen nach.
Offenbarung Johannis 14, 13
[おごそかに。ヘ長調、C]
幸いなるかな[3]、死人のうち、
主にありて死ぬるもの、
今よりのちに。
「然り」と霊も言いたもう、
「かれらはその労苦から[解かれて]休まん。
かれらの行い、のちより従うなれば」
ヨハネの黙示録 14:13
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/840.html
ベートーヴェン 『交響曲第5番』
ハンス・クナッパーツブッシュ 指揮 ベートーヴェン 『交響曲第5番』
KNAPPERTSBUSCH 1943 5TH BEETHOVEN
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怪物クナッパーツブッシュの恐ろしさ、空前絶後の大演奏にしばし呆然。
これぞクナッパーツブッシュ無類の超絶芸!
激遅テンポにして実に生き生きとしたリズム感。
これぞクナッパーツブッシュの真骨頂!
『運命』は小さな細胞動機をもとに大きく発展していく作品ですが、クナッパーツブッシュの手にかかると動機そのものが巨大に鳴り響き、「踏みしめるようなスローテンポ」と「抜群のリズム感」が両立する独特の演奏スタイルによって、異様な立体感が生まれます。
『運命』は果てしなく轟く雄大なスケールで、聴く者を圧倒しながら全曲を閉じます。
唯一無二の超怪演!
Symphony No. 5 in C Minor, Op. 67
Hans Knappertsbusch
Berliner Philharmoniker
Rec:April 1956
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Symphony No. 5 in C Minor, Op. 67 1962 live recording
Frankfurt Radio Symphony Orchestra
Knappertsbusch
1962年3月2日 live recording
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Symphony No. 5 in C Minor, Op. 67
ヘッセン放送交響楽団
ハンス・クナッパーツブッシュ(指揮)
録音時期:1962年3月20日
録音場所:フランクフルト
録音方式:モノラル(ライヴ/ヘッセン放送収録)
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交響曲第5番 ハ短調 作品67 は日本では一般に「運命」と呼ばれ、クラシック音楽の中でも最も有名な曲の1つである。
ロマン・ロランの評するいわゆる「傑作の森」の一角をなす作品である。この作曲家の作品中でも形式美・構成力において非常に高い評価を得ており、ベートーヴェンの創作活動の頂点のひとつと考えられている。
ベートーヴェンの交響曲の中でも最も緻密に設計された作品であり、その主題展開の技法や「暗から明へ」というドラマティックな楽曲構成は後世の作曲家に模範とされた。
なおピアノソナタ第23番『熱情』などが、主題や構成の面から関連作品と考えられている。
『運命』という名称
本交響曲は、日本では『運命』または『運命交響曲』という名称で知られているが、これは通称であってベートーヴェン自身による正式な命名ではない。
この通称は、ベートーヴェンの弟子アントン・シンドラーの「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」とベートーヴェンが答えた(後述)ことに由来するとされる。しかし、シンドラーはベートーヴェンの「会話帳」の内容を改竄していたことが明らかになっており、信憑性に問題がある。
学術的な妥当性は欠くものの、日本では現在でも『運命』と呼ばれることが多い。海外においても同様の通称が用いられることがある[2]。
作曲の経緯
交響曲第3番『英雄』完成直後の1804年頃にスケッチが開始されたが、まず先に交響曲第4番の完成が優先され、第5番はより念入りにあたためられることになった。そのほか、オペラ『フィデリオ』、ピアノソナタ第23番『熱情』、ラズモフスキー弦楽四重奏曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲第4番などを作曲した後、1807年から1808年にかけて、交響曲第6番『田園』と並行して作曲された。
ロマン派的な標題音楽の先駆けとも言われる第6番とは対照的に、交響曲第5番では極限まで絶対音楽の可能性が追求された。この2つの交響曲はロプコヴィッツ侯爵とラズモフスキー伯爵に併せて献呈された。
楽譜の初版は1809年4月にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版された。同年中の増刷においても若干の修正が加えられた。
初演
1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場にて「交響曲第6番」として初演。現在の第6番『田園』は、同じ演奏会で第5番として初演された。
初演時のプログラムは以下の通りであった。
交響曲第5番ヘ長調『田園』(注:現在の第6番)
アリア "Ah, perfido"(作品65)
ミサ曲ハ長調(作品86)より、グロリア
ピアノ協奏曲第4番
(休憩)
交響曲第6番ハ短調(注:現在の第5番)
ミサ曲ハ長調より、サンクトゥスとベネディクトゥス
合唱幻想曲
この演奏会の記録によると、当日は「暖房もない劇場で、少数の観客が寒さに耐えながら演奏を聴いていた」とされている。
コンサートのプログラムは交響曲を2曲、ピアノ協奏曲、合唱幻想曲、全体で4時間を越えるという非常に長いものであって、聴衆や演奏家の体力も大きく消耗したこともあり成功しなかった。さらに、第1部で演奏されるはずであったアリアは、出演予定歌手が演奏会当日に急遽出演できなくなり、代わりの歌手が緊張のあまり歌えなくなって割愛された。また第2部のフィナーレを飾る合唱幻想曲も演奏途中で混乱して演奏を始めからやり直すという不手際もありコンサートは完全な失敗に終わっている。
評価と影響
交響曲第5番は初演こそ失敗に終わったが、評価はすぐに高まり多くのオーケストラのレパートリーとして確立されていった。また、後世の作曲家にも大きな影響を与え、ヨハネス・ブラームス(交響曲第1番で顕著)やピョートル・チャイコフスキー(交響曲第4番、第5番で顕著)といった形式美を重んじる古典主義的な作曲家ばかりでなく、エクトル・ベルリオーズやアントン・ブルックナー、グスタフ・マーラーのような作曲家も多大な影響を受けている。
楽器編成
ベートーヴェンは交響曲第5番で、史上初めて交響曲にピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンを導入した。当時の管弦楽では「珍しい楽器」だったこれらの楽器がやがて管弦楽の定席を占めるようになったことを考えると、後の管弦楽法に与えた影響ははかり知れず、この点においても非常に興味深い作品であるといえる。
自筆譜の最初のページにはBASSI と書かれたパートが、BASSO に訂正されている。
これはヴィオローネではなく、コントラバスを指定したことを示す。
当時の調弦はC-G-Dの三弦であり、初演に加わったドメニコ・ドラゴネッティの名人芸抜きには、この作品は成立しなかったといっても良いだろう。
学術的な問題
運命の動機
ベートーヴェンの弟子のカール・ツェルニーによれば、キアオジという鳥のさえずりがヒントだという。中期のピアノソナタ第18番、ピアノソナタ第23番『熱情』いずれにも現れている。ただし、第1主題として激しく現れるのは本作が初めてである。
なお、アントン・シントラーの伝記には以下のように記されている。
「 作曲家はこの作品の深みを理解する手助けとなる言葉を与えてくれた。ある日、著者の前で第1楽章の楽譜の冒頭を指差して、「このようにして運命は扉を開くのだ」という言葉をもってこの作品の真髄を説明して見せた。」
運命の動機と関連する動機は、上述したほかの作品でも見られ、たとえばピアノ協奏曲第4番、弦楽四重奏曲第10番『ハープ』などがある。そのほか、同一のリズムや音形が楽章全体を支配する前例としてはピアノソナタ第17番『テンペスト』の第3楽章が有名である。
また、フルトヴェングラーは著書『音と言葉』の中で冒頭の5小節に関して、2小節目のフェルマータは一つの小節にかけられたものであるが、5小節目のフェルマータはタイでつながれた4小節目を含んだ2つの小節にわたってかけられたものであり、つまりこれは最初のフェルマータより後のフェルマータを長く伸ばすことを指示したものである、と分析している。
他の同じ部分、例えば展開部の冒頭、そして終結部の終わりにも同じフェルマータの指示があるが、これは、この部分が作品全体に対しての箴言としての機能を果たすことを聴衆に叩き込むため、この部分を調和した一つの全体として、その他の作品の部分から切り離すためだったに違いない、と述べている。
第1楽章の第2主題の冒頭
第1楽章の第2主題の冒頭のホルン信号が楽器法においてよく問題になる。提示部ではホルンで演奏されるのに対して再現部ではファゴットで演奏されるように指定されていることをめぐって、再現部はファゴットで演奏されるべきかホルンで演奏されるべきかで意見が分かれている。
ホルンで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「当時のEs管ホルンでは再現部のホルン信号は演奏困難であったため、ベートーヴェンは音色が似通っているファゴットで代用した。しかし楽器が発達した現代ではこの代用は不要である」ということを挙げる者が多い。
一方、ファゴットで演奏されるべきだと主張する意見の根拠は、「ベートーヴェン自身が書いた音符を尊重すべきである」「Es管ホルンで演奏困難なのは事実だが、C管ホルンに持ち替えさせれば容易に演奏できる(実際ベートーヴェンは、交響曲第3番の第1楽章再現部で、ヘ長調のソロを吹く1番ホルンに対して「ここだけEs管からF管に持ち替えよ」という指示をしている)。第4楽章で歓喜を表現するために、わざわざ当時珍しい楽器だったピッコロやトロンボーンを導入した作曲家が、これほど重要な箇所で中途半端な妥協をしたとは考えにくい」などのものがある。
現在では、音色の違うファゴットをあえてベートーヴェンが指定したものと解釈し、そのままファゴットに演奏させることが多い。
調性
ベートーヴェンの選んだハ短調という調性はベートーヴェンにとって特別な意味を持つ調性であるといわれ、それらの作品はみな嵐のようでかつ英雄的な曲調という共通点を持つといわれる。有名な例としてはピアノソナタ第8番『悲愴』、ピアノソナタ第32番、ピアノ協奏曲第3番、弦楽四重奏曲第4番、ヴァイオリンソナタ第7番、序曲『コリオラン』、交響曲第3番『英雄』の葬送行進曲などがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第5番_(ベートーヴェン)
1. 中川隆[-14183] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:03:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1034]
ニキッシュ
Beethoven - Symphony No 5 - Nikisch, BPO (1913)
Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Arthur Nikisch
Recorded 10 November, 1913, Berlin
▲△▽▼
ワインガルトナー
Felix Weingartner - Beethoven - Symphony No.5
Royal Philharmonic Orchestra 1927
Technics SL1200MK4
________
Weingartner/LPO - Beethoven : Symphony No.5 Op.67 (1933) - 再復刻
London Phiharmonic Orch.
recorded 31 January & 2 Feb. 1933, EMI Abbey Road Studio, London
transferred from Jpn Columbia 78s / J-8120(CAX-6682/3)
▲△▽▼
メンゲルベルク
Beethoven: Symphony No. 5 in C minor (Mengelberg 1937)
Concertgebouw Orchestra conducted by Willem Mengelberg
_______
Beethoven Symphony No.5 (Willem Mengelberg 1940)
Joseph Willem Mengelberg (1871- 1951) , the great Dutch conductor.
Concertgebouw Orchestra Amsterdam
Recorded in 1940
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c1
2. 中川隆[-14182] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:04:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1033]
トスカニーニ
Toscanini - Beethoven : Symphony No.5 Op.67 - Finale (1920)
La Scala Orchestra, recorded 12/24, 1920
transfer from U.S.Victor 78s / 6304
__________
Beethoven Symphony No.5 Toscanini 1931
Recording Date : March 4 & 6 ,1931
________
Beethoven Symphony No.5 Toscanini 1933
The Philharmonic Symphony Orchestra of New York
Arturo Toscanini
Recording Date : April 9,1933
_________
Beethoven, Symphony No. 5 - Toscanini, BBC, 1939
Live, Londra, 12 maggio 1939. Dal Ciclo Beethoven per la BBC •
Arturo Toscanini
BBC Symphony Orchestra
Live, London, Queen’s Hall
May 12th, 1939
________
Beethoven Symphony No.5 Toscanini 1939
Recording Date : February 27,March 1 & 29 ,1939
__________
Beethoven: Symphony No. 5 (1939, live, restored) Toscanini / NBC
___________
The 1939 Beethoven Cycle: Symphony No. 5 Toscanini/NBC
Arturo Toscanini, conductor
The NBC Symphony Orchestra
Recorded on November 11, 1939
Studio 8-H, New York City
______
Beethoven: Symphony No. 5, Toscanini & NBCso (1952)
Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra
Rec. 22 March 1952, at Carnegie Hall, in New York (Live Recording)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c2
3. 中川隆[-14181] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:09:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1032]
ブルーノ・ワルター
Beethoven: Symphony No. 5, Walter & ColumbiaSO (1958)
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 27, 30 January 1958
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c3
4. 中川隆[-14180] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:10:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1031]
クレンペラー
Beethoven: Symphony No. 5, Klemperer & The Phil (1957)
Otto Klemperer (1885-1973), Conductor
Philharmonia Orchestra
Rec. October 1957, at Kingsway Hall, in London
_________
Beethoven - Symphony n°5 - Philharmonia / Klemperer 1959
Philharmonia Orchestra
Otto Klemperer
Studio recording, London, 22-24.X.1959
_____________
Beethoven: Symphony No. 5 - Vienna Philharmonic Orchestra/Klemperer (1968)
Vienna Philharmonic Orchestra
OTTO KLEMPERER, cond.
Recording: Musikverein, Wien, 26 May 1968
____________
Beethoven: Symphony No. 5 ( BRSO & Otto Klemperer )
Symphonie-orchester des Bayerischen-Rundfunks
Otto Klemperer
Herkulessaal, München, 30. V. 1969
______
Beethoven Symphony n 5 - NPO Klemperer (Live1970)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c4
5. 中川隆[-14179] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:11:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1030]
ムラヴィンスキー
Beethoven - Symphony n°5 - Leningrad / Mravinsky 1949
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Studio recording, Leningrad, 1949
________
Beethoven "Symphony No 5" Yevgeny Mravinsky 1972
_____
Beethoven "Symphony No 5" Yevgeny Mravinsky 1974
Symphony No 5 in C minor op 67
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, Conductor
15.IX.1974
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c5
6. 中川隆[-14178] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:12:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1029]
カルロス・クライバー
Beethoven - Symphony No 5 - Kleiber, VPO (1974)
Vienna Philharmonic Orchestra conducted by Carlos Kleiber
Studio recording, Musikvereinssaal, Vienna, Austria, April 1974
___________
Kleiber in Chicago - Beehoven - Fifth.1978
Carlos Kleiber conducst Beethoven: Symphony No.5
Chicago Symphony Orchestra
October 12, 1978 ; Live in Chicago, private live recording.
_______
Beethoven 5. Sinfonie in c-Moll Opus 67 Schicksalssinfonie Carlos Kleiber Symphony No 5 "Fate"
Carlos Kleiber conducts Wiener Philharmoniker Mexico 1982
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c6
7. 中川隆[-14177] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:43:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1028]
フルトヴェングラーのベートーヴェン 『交響曲第5番』 名盤
Wilhelm Furtwängler Composer INDEX 1
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu08.htm
このコーナーでは、主要な作曲家・作品別にフルトヴェングラーのディスクを掲載します。
特に「スタジオ録音」と記載のないものはすべてライヴ録音です。
Beethoven : Sym. No.5
1)26/??/?? BPO Berlin Polydor Studio(DGstudio)
2)37/10/08-11/03 BPO Berlin(EMI Studio)
3)39/09/13 BPO Berlin Phil.(RRG)
4)43/06/27-30 BPO Berlin Phil.(RRG=No Audience)
5)47/05/25 BPO Titania(RIAS)
6)47/05/27 BPO Haus des Rundfunks Berlin(DRA)
7)50/09/25 VPO Stockholm
8)50/10/01 VPO Copenhagen
9)52/01/10 RAIRomaO RAIRoma
10)54/02/28-03/01 VPO Musikverein(EMI Studio)
11)54/05/04 BPO Paris Opera
12)54/05/23 BPO Titania
▼戦中のRRGのBPO実況盤が収録された記録があるが存在は不明。
3) は4楽章に一部欠落がある。
▲世評では 6)だが、私は 5)。 最近いつも聴いているのは11)。
>>>>>My Best is 5)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c7
8. 中川隆[-14176] koaQ7Jey 2020年1月24日 16:57:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1027]
Wilhelm Furtwängler site by shin-p
フルトヴェングラー資料室(WF Archives)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu01.htm
▲△▽▼
【フルトヴェングラーの《運命》初録音】Furtwängler & BPO - Beethoven: Sym. No.5 in C Minor, Op.67 (1926.10)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1926年10月16, 30日 & 1927年、ベルリン、ポリドール・スタジオでのセッション録音
ポリドール78回転盤(Polydor69855-9)より復刻
▲△▽▼
1926年
●10月16日、10月30日、1927年 16 & 30 Oct. 1926 & 1927 BPO Belrin Polydor Studio
ベートーヴェン/交響曲第5番「運命」 Beethoven:Sym.No.5
Matrix:174-75+216-18+179+330(1/2)+214-15bm
SP/PR: Pol69855-9(27/01)
LP/SB: WFSJ NA122('70?) Fontana(JP)PL1020('75)
CD:DG(JP)DC1-1067('94) IDI(Italy)IDIS272-3(98/09)=*1 Koch('95?) DG4775238(04/10=only 1stMov.)
▼ローマイタリア響の運命とのカップリングで75年発売された1300円盤は、shin-pの思い出の品。
録音は貧弱で、曲の骨格とWFの特徴は何とかわかる程度。
フォンタナ盤が復刻に使ったSPは、その前に「正規盤」を出し、このLPの解説も担当されている日フ協会川上氏所蔵のもの。DGは没後50年記念として1楽章のみ復刻CDを発売したが音質の向上はないものねだりだった。
日付は「魔弾」と同じくMike Gray氏のリサーチによるもの。以前は11月30日とされていた。 10月16日に1楽章と3楽章が録音され、30日に2楽章と4楽章中後半部、翌年に残り部分が収録されたという。但し、3楽章の録音はノイズに埋もれ難航したといい、たった1日で収録が完了したかどうかには疑問が残る。
3楽章の9小節は前述のようにノイズに埋もれたためのカットがあるが、録音表の清水氏によれば、逆に2楽章のSP4面から5面にかけては9小節の重複があるという。
日本協会盤はこの重複部分もボーナストラックに収録している。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu01.htm#19260000
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c8
9. 中川隆[-14175] koaQ7Jey 2020年1月24日 17:21:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1026]
Furtwangler with BPO: Beethoven's Fifth symphony in c-moll (1937)
▲△▽▼
1937年
●10月8日、11月3日 8 Oct. & 3 Nov. 1937 BPO Berlin Beethoven Saal(EMI Studio)
ベートーヴェン/運命 Beethoven:Sym.No.5
Matrix:2RA2335-3/36-3A/37-3A/38-4A/39-3A/40-1A/41-3A/42-2/43-2A
SP/PR: DB3328-32S(37/12)
LP: HA5101('58)
CD: BIDDULPH WHL006-7('93) Tahra FURT1032-3(98/01)
CD/SB: WFSJ WFJ15-16('00)
▼戦前の巨匠の代表盤。
はっきりいってこれ以前の録音は、巨匠の音楽を日常的に楽しむものではない。
独Polydor に録音した最初期のSPにもすばらしい演奏があるのだが、いかんせん現代人の耳にはあまりに貧弱な音である。
この運命は SP復刻ながら状態も良く壮年時の巨匠の表現が楽しめる。
スタイルとしては47年盤をスタジオ録音にしたような、迫力のある名演である。
Roger Smithson氏は上記録音日を10月8日ではなく7日としている。
日本協会盤はエレクトローラSPが使用した別テイクも収録している貴重盤。
[運命 1937年 on Youtube Search]
https://www.youtube.com/results?search_query=Furtw%C3%A4ngler+1937+Beethoven+Symphony+No+%EF%BC%95&oq=Furtw%C3%A4ngler+1937+Beethoven+Symphony+No+%EF%BC%95
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu04.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c9
10. 中川隆[-14174] koaQ7Jey 2020年1月24日 17:29:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1025]
Wilhelm Furtwängler site by shin-p
フルトヴェングラー資料室(WF Archives)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu01.htm
1939年
●9月13日 13 Sep. 1939 BPO Berlin Philhamonie(Live for Broadcasting)
ヘンデル/合奏協奏曲op6-5
Haendel:Concerto Grosso op.6 No.5
ベートーヴェン/運命
Beethoven:Sym.No.5
RRG収録 DRA所蔵ディスク(No5=DRA 5500999)
CD/PR THARA FURT1004-5(97/04)
▼TAHRAから発売された未発表録音。
運命はSP75回転盤全8面中第7面が紛失(4楽章の486-668小節に欠落)し、HMV収録37年スタジオ盤で修復している。その部分は音質が多少異なり、HMV盤の方が若干高音が伸びて明瞭な感じを受けるが、各面のつなぎ目は良好で、全体としてこの時期のものとはしては音質は平均点。
演奏は37年盤とスタイルも酷似しており、また針音のせいで会場のノイズは聞き取れない。実況ではないかも。
なおハンガリー協会のNEWSではTAHRA FURT1014-5に含まれる演奏は96年にシュトゥットガルトで発見されたとしている。
TAHRAは戦前の巨匠の録音の発掘に力を注いでいるというが、今後さらに発見される可能性は?
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu04.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c10
11. 中川隆[-14173] koaQ7Jey 2020年1月24日 18:03:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1024]
Beethoven: Symphony No.5 Furtwangler (1943)
Recording: June 30, 1943
Conduct: W. Furtwangler (1886 - 1954)
Berlin Philharmonic Orchestra
▲△▽▼
1943年
●6月27-30日(1944年1月録音?) 27-30 June 1943 BPO Philharmony (without audience)DRA 5500557
Beethoven:Sym.No.5 ベートーベン/交響曲第5 (o-86/98)5
LP/PR: D05800-1('59) UNI106(69/10) SWF7002/R(70/02) Columbia(JP)DXM102UC(70/10) DXM157VX('72) Turnabout(Vox)TV4353('70) TV4361('70)
CD/SB: TAH272(97/08) MEL10 00720('93) TOCE3732(00/08) OpusKuraOPK7001(03/11) VeneziaV1021(03/12)EMI CZS5628752(04/06=miss data) Berliner Philharmoniker KKC5952(18/12)
>>>TAHRA CD(TAH272) is the best sound.
第5の43年録音は全楽章聴衆なしの放送録音盤。
初出のメロディア盤はブルー灯台56年規格が確認されており、メロディアのWF戦中録音シリーズでは最も早い('59?)発売という。
演奏は強烈な迫力を伴って運ばれているが、DG盤はエコー(ソ連で入れていた)が強くかけられ、歪みが多い。
ユニコーンUNI106('69)はメロディア盤をダビングしたものとされる西側初出盤だが、エコーは少なく音質は比較的良好。
桧山氏はレコ芸紙上で当時の西側諸国に残されたこの「第5」のテープを用いて、メロディア盤よりクオリティの高いレコードを作る計画を示唆していたが→TAHRAがフランクフルト、ウィーンなどに残された録音テープを使用したCD(TAH272)を97/08発売した。
オルセンはこれらのテープは誤った録音年(1944年)が記載されていたとしている。
またVOX原盤のコロムビアDXM157(72/10)はメロディア盤を起源とするユニコーン系とは別の西側に残されたコピーテープを使っているとオルセンは指摘し、当初「録音日不祥」でメロディア盤とは別録音の扱いになっていた。
蔵盤もストレートにメロディア盤を音化した評判の良いCD。
Venezia盤は盤質が良く音質良好の板おこし。
会議室におけるWF氏清水氏などの書き込みによれば、メロディア盤には「ガスト73」規格以降のLP/CDは1楽章7'07"付近に音の間延び現象があり、コーダに向かっての盛り上がりに「ズッコケて」感興を殺がれる−という。NHKFMで放送された87年返還テープでも「ズッコケ」は確認できる。01年末に日本に輸入されたギリシャdacapo盤と89年DG盤CDはこのテープを使っていることからこの「ズッコケ」が確認できるが、87年返還テープを使ったCD/LPと73年規格以降のメロディア板おこしCD/LP以外は正常。「1楽章欠落44年2月の運命」というフレコミのEMI CZS5628752(04/06)は従前の演奏と同じ録音で欠落もなかった。
コリオランは日本直輸入メロディアLP登場('89)までの西側盤は歪みが多く、音質的に大きなハンディがあった。最後のピッチカートには欠落があり西側のレーベルでは修復されていた。桧山氏は最後のピッチカートが弦だけに聞こえることから、「どこから持ってきたのだろう」とこの演奏とは別演奏のものの可能性を臭わせていたが、マグネトフォン特有(?)のブーというハム音が最後の音も聞こえることから、即断できない状況。
初期のメロディア盤は、この時のモノではないと思われる明瞭な音質の拍手と共に最後のピッチカートが聞こえる。
最新のメロディアLPなどではこの欠落が修復され、現在は形の上では正常になっている。
しかし近年正常な形で発売されたメロディア盤やM&A盤にしても最後のピッチカート部分にはテープの継ぎ目が感じられ、収録ミス説もある。
仙台S氏によれば、(1)メロディア初期盤(青聖火・ピンク)およびSFB返還テープと(2)メロディア黒盤およびCDの2種のテープが存在するという。
前者がピチカート欠落版でメロディア盤は明瞭すぎる拍手をかぶせている。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu05.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c11
10. 中川隆[-14172] koaQ7Jey 2020年1月24日 20:57:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1023]
【渡邉哲也show】台湾総統選スペシャルC台湾(中華民国)いついて
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c10
15. 中川隆[-14171] koaQ7Jey 2020年1月24日 21:35:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1022]
77 72 分前(編集済み)
小野寺まさるさんは悪質な嘘ばかり言っていますね。そもそも現時点でもアイヌ人は北海道社会の底辺の人間で、大学にも行けないし、所得も遥かに低いのです。
アイヌ人が日本人と区別できないとか、日本人に完全に同化しているというのは悪質な嘘です:
2015/05/12 - 北海道アイヌ生活実態調査
アイヌ世帯の平均年収は355.8万円、「年収なし」を除くと369.2万円である。100万円ごとの年収区分では、回答のあった2,903世帯のうち、「200万円以上300万円未満」が567世帯(19.5%)ともっとも多く、「100万円以上200万円未満」が432世帯(14.9%)、「300万円以上400万円未満」が409世帯(14.1%)、「400〜500万円未満」が280世帯(9.6%)、「100万円未満」が195世帯(6.7%)で続いている。年収500万円以上の世帯は550世帯(18.9%)、「年収なし」の世帯は92世帯(3.2%)であった。
なお、厚生労働省大臣官房統計情報部による『平成25年国民生活基礎調査』によれば、北海道の平均年収は473.5万円で、もっとも構成比率の高い年収区分は「200万円以上300万円未満」であり、全国の平均年収は537.2万円、構成比率の高い年収区分は「200万円以上300万円未満」となっている(表4)。世帯年収を年代別でみると、「年収なしから200万円未満」の世帯は、世帯主が「30歳未満」の年代層において14世帯(25.0%)、「60歳〜70歳未満」の年代層に223世帯(37.0%)、「70歳以上」の年代層に177世帯(56.0%)と多くなっている。世帯主が現役世代であっても、「年収なしから200万円未満」の世帯が「30歳〜40歳未満」において47世帯(21.1%)、「40〜50歳未満」において96世帯(18.3%)、「50〜60歳未満」において156世帯(19.8%)と各年代層において約20%を占めている。
アイヌ民族の大学進学率は、1990(平成2)年頃から増加に転じてはいるものの、一貫して低い水準であり、もっとも進学率が高かった2005(平成17)年でも27.1%(補正値では21.1%)と、全国平均の5分の3程度となっている。また、1970(昭和45)年頃から1990年頃までは、全国平均が伸びているなかでアイヌ民族の平均は同水準で推移しており、事実上不平等が拡大していたことがわかる」。
また、アイヌ民族の高校進学、大学進学について、以下の特徴が指摘されている。@ 進学者が増えたにもかかわらず、中途退学する者が多い。高校進学者のうち、中退した者は12.9%に達している。1999(平成11)年の高校中退率が全国平均で2.1%、北海道で1.9%であったのに比べるときわめて高い数字であるといえる。また、大学進学者の中退率は20.3%であり、「在学中」の者を母数から除いた30歳未満の中退率は23.2%まで増える。2007(平成19)年度の私立大学中退率は2.7%であり、アイヌの大学生が中退する可能性は、全国平均の9倍に達している。A 高等学校の定時制に通う者が多い。高校進学者のうち12.8%が定時制高校に進学している。もっとも、アイヌ子弟の定時制高校への進学者は急激に減少しており、30歳未満では2.3%である。2008(平成20)年における全高校生に占める定時制高校生の割合は3.2%であり、わずかではあるものの全国平均を下回っている。
https://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2015/05/20150512_ochiai_report.pdf
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/340.html#c15
7. 中川隆[-14170] koaQ7Jey 2020年1月24日 21:50:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1021]
アイヌ系住民はアイヌ人だとわかると差別・迫害されるので、日本人に成りすましているアイヌ人と日本人の混血の事で、日本で10万人います。混血が進んでいない純粋に近いアイヌ人も2万人存在して、DNA鑑定で日本人とは全く違うのがわかっています:
国立科学博物館の神沢秀明研究員らは、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。
縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。
__
江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた[33]。
現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。
2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人[34][14]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。
1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[35]。この結果を裏付ける他の研究はない。
北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された[34]。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる[14]。 日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると1992年に報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある[36]。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキが樺太アイヌの女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔は日本にいる。
2017年の調査では、道内のアイヌ人口は約1万3000人となっている。これは2006年の2万4000人から急激に減少しているが、これは調査に協力している北海道アイヌ協会の会員数が減少したことと、個人情報の保護への関心の高まりから、調査に協力する人が減っていることが挙げられ、実際の人数とは合致しないと考えられている[37]。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/416.html#c7
12. 中川隆[-14169] koaQ7Jey 2020年1月24日 22:30:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1020]
Beethoven - Symphony n°5 - Berlin / Furtwängler 1947
Berliner Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Berlin, 25.V.1947
▲△▽▼
1947年
25 May 1947 BPO Titania (RIAS)
Beethoven:Sym.No.6 & 5
●5月25日 ベートーヴェン/田園・運命 BPO ティタニア RIAS録音
LP/PR: CetraFE32('83) King(JP)K19C266-7(83/07)KIJC2001-2('90?)
CD/SB: WFSG TMK008080('96) EvangelFRL1004(97/04)
CD: CetraCDE1014('90=ANF307) RodolpheRPC32522-4('90?) TAHRA FURT1016(97/06) King(JP)K33Y193(86/10)KICC7091(91/04)KICC2293(93/07)KKCC4232(98/03) M&ACD789('93)CD922('96)
>>King(Japan)KICC2293 were dull sound. German WFS's CD is the best sound. But I don't like TAHRA sound. TAHRA use much noise reduction.
CetraFE32, King K33Y193(from Cetra) and KICC2293(from Italy My Sound) are authentic 5/25 performance. But King KICC7091(from Cetra), ANF(Japan)307(from Cetra) and Cetra CDE1014 are 5/27 performance.(according to Mr.Tsushimi)
Egmont wasn't recorded. Italian Laudis CDS1-6007('87) Egmont is doubtful date.
▼初出のCetra盤 LP やそれを原盤としたキング盤(K19C266-7)は劣悪な音で有名。
局出し音源の独協会 TMK008080('96)の音質は DG の27日盤を上回るほど。
それをデジタルコピーしたと思われるEvangel盤(FRL1004)も同様。
97/06 TAHRA から正規市販盤が出たが、これも金管が生々しく47年とは到底思えない音質。
SK氏は協会盤や Evangel盤のほうがいい音質−としている。
shin-pも聞き比べたが TAHRA盤はノイズリダクションが強くかかりすぎて本来の明瞭な音がしない。
独フ協会盤とEvangel盤はヒスノイズが若干多いものの音自体が生々しく良好な音質。
キングは98年 TAHRA盤を国内盤扱いで発売。
演奏は時にアンサンブルが乱れたりもするがそんな些細なことはどうでもよくなるほど熱気あふれるもの。
RIAS は西側(米)占領軍による放送局で、oda氏によれば、ベルリンの壁崩壊後90年代半ばまで存在したという。そのアーカイヴは Deutschlandfunk に移管されたと思われる。ただし、独協会盤頒布以降の運命の音質向上は目が覚めるほどだったが、田園はそれほどではない。
この日はエグモント序曲も演奏されたが録音はない。その理由としてチェトラ盤の解説では「紛失した」とし、キングLP盤(Cetra原盤)はタスキに「テープが切れてしまった」と記している。
伊LaudisCDS1-6007('87)は4/25録音(5/25の意味?)と称するこの曲を収録しているが、5/27 とノイズが一致。
この日の「運命」には27日と混乱しているものが多い。
shin-p は未聴だが、90年にでたANFコーポレーション盤(ANF307=チェトラ直輸入国内盤)は 1楽章のみ 5/27盤で、KICC7091(91/04=チェトラ原盤)は部分的に5/27が入っていると宇野氏はいう。
但しこの両盤は直輸入形式で日本発売されたもので、同じ物だと思われる。
日KingK33Y193 は LP初出時にCetraから送られてきたテープを流用しているらしく表記通り 5/25演奏。
KICC2293(93/07=伊マイサウンド原盤=チェトラの原盤保有会社で Arkadia やHUNT、MovimentMusica などもこの系列)は再び表記通りの5/25の演奏となっている。
現時点で録音日に誤記があるものを列挙すると−、
25日録音との表記ながら全曲27日なのは
独ベルラフォン689.22.003 独ArchipelARPCD 0105
25日録音との表記ながら 1楽章のみ27日なのは
伊CetraCDE-1014 その日本輸入盤ANFコーポレーションANF-307、キングKICC7091
(但しCetraCD およびそれを原盤にするものには1楽章のみ27日と
全楽章27日さらに部分的27日の3ヴァージョンがある可能性も)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu11.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c12
13. 中川隆[-14168] koaQ7Jey 2020年1月24日 23:11:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1019]
L.V.Beethoven Symphony#5 [ W.Furtwängler Berlin-PO ] (May/27/1947)
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 27 May 1947, in Berlin (Live Recording)
▲△▽▼
1947年
27 May 1947 BPO The Broadcasting House occupied by USSR at Masurenallee in Berlin(DRA)
●5月27日 ベートーヴェン/エグモント序曲・運命 BPO ベルリン英占領区ソ連放送局スタジオ 旧VEB(旧DDR)/DRA所蔵
LP/PR: DG LPM18724(61/11)2535810('77) Eterna820280(64/11) DG(JP)LGM1070('62)MG1439('68)MG6006('77)
CD: DG439832-2('85) DG(JP)POCG2131('90?)DG(JP)POCG3788(97/08) SWF013('01)MythosNR5003('02)
>>>MG6006(Japan DG) is my unforgetable LP.
I listened at highschool student, and I was moved to tears.
"Originals" only released in Japan are good sound.
▼久しく廃盤になっていた70年代、このMG6000シリーズの登場を、高校生だった私も心待ちにしていた。現在のように HMV/Virgin/Tower がない時代で、しかも私は当時四国の地方都市にいたので国内盤のみが頼みだったのだ。CDになってさらに良好な音質(1年半後の名盤48年ブラ4番より良好な音質)で聴けるようになったのはうれしい。
なお、収録場所については1997年までティタニアパラストとされていたが、実際はイギリス占領地区にあるソ連管轄の放送局スタジオでの聴衆を入れての収録となっている。
45年4月22日ソ連戦車隊のベルリン市街突入、5月2日ベルリン占領の際、このベルリン放送局から多くのRRG収録テープや機器がソ連側に接収された。この演奏を収録した放送局は49/10/07ドイツ民主共和国(東独)建国後 DDR となり移転、その所在地Masurenallee では1954年SFBが放送を開始、現在は公共放送の統廃合がされ RBB(ベルリンブランデンブルグ放送)となっている。
[Rundfunk Berlin-Brandenburg by de.Wikipedia]
[現在もMasurenalleeに建つRBB社屋 by de.Wikipedia]
Eterna は東独の国営レコード会社でDDR(東ドイツ国営放送)と同じVEB(国営企業体)にあり、その音源を使ったエテルナ LP が音質最高という声もある。
日本独自企画オリジナルスについては、元々この演奏が当時としては驚異的な音質だったため、大きな改善は見られなかった。
さらにDGオリジナルスや SWF盤では3楽章の弦のミスを修復している。
またHS氏から「手元にあるLP2種(DG 2721 202及び2740 260)どちらもA面(第1,2楽章) のみ疑似ステレオです。これはA面は古い88 011の原盤を使用していますが、 B面はカップリングの関係(エグモント序曲が88 011には無い)からか、 新しい「ヒストリカル・シリーズ」の原盤を使用した為こうなってしまった ものと思われます。」というご意見を頂きました。
これについて01/12/28伊豫守氏は
「A面は古い88 011の原盤に使用された同じ擬似ステレオ音源を使用」
とするのがより正確なようだ。88 011のA面の音溝部分の幅は約6ミリ、
2740260は約7ミリで、2740260の方が出力レベルが高く、ステレオ感も
88 011より、顕著であるように聴こえる。
とされています。
但し日本盤MG6006は別原盤を使用し、オリジナルのモノだが、音質は初期盤よりも劣るという声大。
Mythos NR5003('02)は初出盤 LPM18724 の板おこしとされる。
日本初出盤 LGM1070('62)も人気がある。
また、25日と表記されながら全曲あるいは部分的に27日を使っているものもある。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu11.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c13
14. 中川隆[-14167] koaQ7Jey 2020年1月24日 23:27:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1018]
Beethoven Symphony No. 5 ‘Schicksal’ (Wilhelm Furtwängler 1950)
Wilhelm Furtwängler, Wiener Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler (1950)
▲△▽▼
1950年
25 Sep. 1950 VPO Stockholm Koncerthuset Stora salen(SwedishRadio)
Swedish & Austrian national anthem
Beethoven:Sym.No.5
●9月25日 スウェーデン国歌・オーストリア国歌 ハイドン/驚愕 シベリウス/伝説 R・シュトラウス/ドンファン ベートーベン/運命 VPO ストックホルムコンサートホール スウェーデン放送収録
LP/PR(Swedish): GC570234-5('70?) AT13-14('89?)
CD: Theatre400353-1('90?)
LP/PR(O): GC570234-5('70?) AT13-14('89?)Mullyhill92885X(?)
CD: Theatre400353-1('90?)
LP/PR(Hydon): GC570234-5('70?)DiscocropRR399('75?)Columbia(JP)OZ7511BS('76)AT13-14('89?)King(JP)KIJC2019-20('90?)
CD: M&A CD802('94)King(JP)KICC2119('91)History(G)20.3133('99)
LP/PR(Donfan): GC570234-5('70?)DiscocropRR460('75?)King(JP)KIJC2019-20('90?)AT13-14('89?)
CD: King(JP)KICC2353('92)M&A CD802('93?)
LP/PR(Sib): GC570234-5('70?)WFSJ NA117('70?)DiscocropRR403/507('75?)Columbia(JP)OZ7548BS('76)AT13-14('89?)
CD: Theatre400353-1(?)King(JP)KICC2119('91?)M&ACD799('94?)
LP/PR(No5): GC570234-5('70?)WFSJ JP1191('75?)Columbia(JP)OZ7548BS('76)AT13-14('89?)
CD: Crawn(JP)PAL1024('88)King(JP)KICC2119('91?)M&ACD802('95)
▼この北欧への演奏旅行、ストックホルムではあと1曲(おそらくアンコールで演奏されたもの)モーツアルトのアイネクライネから終曲が演奏されており録音も存在するという。ただし、全曲ともディスクからの復刻で録音状態は戦前43年のVPO公演を下回る。
運命において、WFはすでに晩年のスタイルを模索しているようだが、VPOとの呼吸が上手くいかず、アンサンブル面においてももどかしさが感じられる。
録音も3楽章後半部でマイクのセッティングを移動するようなノイズが聞こえるなど、常時の鑑賞には堪えない。
驚愕はスタジオ盤を大きく上回る出来で、録音状態も気にならない。初出私家盤のGCは両国国歌から次曲が始まるまでのインターバルを収録し雰囲気満点のコレクターズアイテム。Q氏は「海賊らしい海賊盤」と表現する。
shin-pはQ氏のご協力でGC盤を聞かせていただいた。KICC2119はノイズリダクションを多用したせいか音が不明瞭だが、GCはノイズは盛大なものの明快に感じられる。
音質的には運命驚愕ともにDiscocrop盤やその日本盤の日C盤LPの方がさらに明瞭。43年よりは若干落ちる程度。
[Stockholms konserthus sv.Wikipedia]
_________
1 Oct. 1950 VPO Copenhagen Odd Fellow Palaet(Danish Radio)
Beethoven:Sym.No.5
●10月1日 ベートーベン/運命 シューベルト/未完成
VPO コペンハーゲンオドフェローパレス デンマーク放送収録
LP/PR(No5): DanacordDACO114('85?)
CD: DanacordCD301('86)
未完成未発売 No8 not issued.
▼このデンマーク製のDanacord盤CDは輸入盤店で良く見かけた。カップリングは他のアーチストのブラームスの歌曲など。録音状態は直前のスウェーデン盤と同程度。
[Copenhagen Odd Fellow Palaet da.Wikipedia]
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c14
15. 中川隆[-14166] koaQ7Jey 2020年1月24日 23:37:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1017]
Furtwangler Beethoven 5th symphony 1952 in Roma 実況録音
▲△▽▼
1952年
10 Jan. 1952 RAI Roma Orc. RAI Roma studio
Beethoven:Sym.No.6 & 5
●1月10日 ベートーヴェン/田園&運命
RAIローマ放送響 RAIスタジオ(Auditorium del Foro Italico) RAI収録
CD: KingKICC2346-7('94)
LP/PR(No5):OlympicOL8120-7('75?)
CD: KingKICC2346-7('94)
▽初出は日本フォノグラムからも出た世界初の巨匠のベートーヴェン交響曲全集からのもの。
14 Jan. 1952 RAI Roma Orc. RAI Roma studio
▼RAIローマ響との一連の録音は3月のトリノ録音と比べれば音質良好。
ステレオ録音ではないかとされる CetraLPも米Olympicと同様「テープから保存用にコピーされたパデローニという放送用ディスク」からの復刻。
STEREO と明記された FE5の田園や桧山氏がステレオではないかとするFE6のエロイカは「疑似ステ」と思われる。ただし音の明瞭さはCetraが優る。
音質は、運命/英雄/田園の順。
Pconは音質的にドロップアウトが多く、演奏もあまり良い状態とは思えない。
運命は47年のものと比較すると冷静に曲を解釈した好演だが、英雄の演奏に見られるように枯れていない「巨匠らしさ」をベートーヴェン交響曲で味わえる最後の録音。
[Scarpini Furtwangler by YouTube Search]
https://www.youtube.com/results?search_query=Scarpini+Furtwangler&page=&utm_source=opensearch
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c15
16. 中川隆[-14165] koaQ7Jey 2020年1月24日 23:56:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1016]
L.V.Beethoven Symphony#5 [ W.Furtwängler Vienna-PO ] (Feb/28~Mar/1/1954)
Wilhelm Furtwängler, Wiener Philharmoniker
▲△▽▼
1954年
28 Feb.-1 March 1954 VPO Musikverein(EMIstudio)
Beethoven:Sym.No.5
●2月28日-3月1日 ベートーヴェン/運命 VPO ムジークフェライン EMIスタジオ録音
LP/PR: ALP1195(55/02)
CD: EMI747120-2('89)
▼デジタルリマスタリングされた89年英EMIのCDは、音質が良好で、特に3楽章の低域がリアルに響いている。他の52年以前のVPOとのベートーヴェン録音とは一味違ったものである。
演奏の方は、43年の戦時下の放送録音や47年のベルリン復帰当日の録音などに比べると、もちろん物足りないのはあたりまえで、この演奏の神髄は、細部にわたって「運命」を分析的に演奏したものであることだ。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu19.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c16
17. 中川隆[-14164] koaQ7Jey 2020年1月25日 00:11:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1015]
Furtwangler conducts Beethoven Symphony 5 (Paris 1954)
Wilhelm Furtwangler leads the BPO in Beethoven's fifth symphony on May 4, 1954 at the Paris Opera. While not as well known as the wartime performance or the last recorded performance (5.23.54), I believe that this version is the best realisation of Furtwangler's overall conception of the score, despite the BPO being in less than perfect form.
▲△▽▼
1954年
4 May 1954 BPO Paris Opera(INA Paris)
Beethoven:Sym.No.5
●5月4日 ウェーバー/オイリアンテ序曲 ブラームス/ハイドン変奏曲 シューベルト/未完成 ベートーベン/運命 BPO パリオペラ座 ORTF収録 INAパリ所蔵
CD: POCG2351('91)SWF941-2('94)
CD: SWF941-2('94)ElaborationELA902('94)
CD: SWF941-2('94) ELA901('96)
LP/PR(No5): CetraLO519(80?)
CD: SWF941-2('94) ELA901('96)
▼仏協会(SWF)盤でやっとこのパリでの演奏会が良質の音で聴け、楽器一つ一つの音が手に取るようにわかるようになった。
運命の演奏はEMI 54年盤に「実況」の味を加えたもの。
スタジオ盤でも4楽章終盤でわずかにテンポが速くなるのが感じられるが、このパリ盤ではそれが顕著だ。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu19.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c17
18. 中川隆[-14163] koaQ7Jey 2020年1月25日 00:24:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1014]
【高音質復刻】Furtwängler & BPO - Beethoven: Sym. No.5 (1954.5.23)
ベートーヴェン:交響曲第五番《運命》
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1954年5月23日
ベルリン、ティタニア・パラストでのライブ録音
▲△▽▼
1954年
23 May 1954 BPO Titania(RIAS)
Beethoven:Sym.No.6 & 5
●5月23日 ベートーヴェン/田園・運命 BPO ティタニア RIAS収録
CD: HuntCD503('91?)Virtoso2697162('89)EMBLEM F4003(94/03)M&ACD869('95?)
LP/PR(No5): WFSG F669310-1M('85?)
CD: WFJ12('90?)EMBLEM F4004(94/03)TAHRA FURT1009(94/10)
▼日本の世評が高いこの5/23盤「運命」だが、やはりティタニアの音であることにかわりはなく、同じ分析的なスタイルならば乾いた音ながら細部がよく聞き取れるパリ盤をとりたい。
Furtwangler Beethoven 1954 May 23 on YouTube Search
https://www.youtube.com/results?search_query=Furtwangler+Beethoven+1954+May+23&search_type=&aq=f
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu19.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c18
19. 中川隆[-14162] koaQ7Jey 2020年1月25日 00:32:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1013]
1947年5月25日 フルトヴェングラー ベルリン歴史的復帰演奏会「運命」
http://classic.music.coocan.jp/wf/item/1947-5-beth5.htm
1933年1月30日、ヒトラーがドイツの首相となり、多くのユダヤ人や、非ユダヤ系であるが心ある人々の多くがドイツから亡命した後も、フルトヴェングラーはドイツに留まって音楽活動を続けたため、結果的にナチスに都合よく利用されてしまった。
しかし彼自身は----党員になることで出世したカラヤンとは異なり----決してナチスではなく、たびたびVIPの特権を活かしてナチスの政策を批難したり、また非常にしばしば政府高官と交渉しては、多くのユダヤ人を強制収容所から救出したり、その国外亡命を助けたりした。しかし所詮、外国からみれば彼はナチスの文化政策の一枚看板であった。
1945年のドイツ敗戦後、彼は「戦犯」の扱いをうけ、「非ナチ化」が済むまでは演奏活動禁止の処分を受けた。
1947年、フルトヴェングラーは2年ぶりにベルリンに「歴史的復帰」を果たす。
この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも、彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。
そんなベルリン市民の期待に応えるべく、フルトヴェングラーが用意したのは全てベートーヴェンの作品----エグモント序曲、「田園」「運命」の3曲----からなるプログラムであった。コンサートは同じプログラムで5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。この曲が作曲されて以来、最も感動的に演奏された日であった、と言っても決して過言ではないだろう。
フルトヴェングラーは、音楽についての深い洞察に満ちた論文集「音と言葉」を書き残した。
その中に「ベートーヴェンの第5交響曲について」という論文がある。彼はその中で、この曲の冒頭について、素晴らしい解釈を示している。
彼は、ベートーヴェン自筆の楽譜を調べた結果、4小節目の二分音符は全曲の清書が終わってから書き加えられた、ということを発見したのである。だとすると、ベートーヴェンがそうした理由はただ1つ、1回目の「タタタターン」よりも2回目のほうを長くのばすことを要求したからである。そのようにすることで、どのような効果を期待したのか。
それはこのモティーフを他の部分と区別しこの曲全体のモットーとして強調するためである。その証拠に第1楽章の同様の箇所の全てに、ベートーヴェンは二分音符を追加しているのである。
フルトヴェングラーの演奏はこの論文の結論を実演で証明したものである。彼は全曲に渡って「運命の動機」と呼ばれる3連打を強調して、この8分音符ばかりでできた「単純にして偉大な」曲の生命を蘇らせたのである。
http://classic.music.coocan.jp/wf/item/1947-5-beth5.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c19
20. 中川隆[-14161] koaQ7Jey 2020年1月25日 00:49:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1012]
ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」ハ短調 作品67 モノラル録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5-m.htm
この曲はモノラル録音の名盤を聴かなくては話にならないと思う。よって、全集ページに載せたものも含めて、録音年代順に私の所有している全録音を列挙する
。
タイム表示は、第1楽章(提示部)、第2楽章、第3楽章、第4楽章(提示部、Preso部)である。第1楽章提示部がリピートされてない演奏の場合にはカッコ内のタイムに「+」を付けた。
また、ここにあげたもので楽譜通り第4楽章のリピートをしているのはクレンペラーだけである。
トスカニーニとセルのモノラル・モノクロ映像が見られるのはうれしいことである。
最近の入手
オットー・クレンペラー指揮ベルリン・フィル
TESTAMENT。SBT 1387。1966年5月12日、フィルハーモニーでのライヴ録音。8:38(1;40), 11:09, 6:02, 11:49(2:13R, P61)。
同日の第4番とカップリング。これもステレオだったら良かったのに! だが大変良好な音質だ。演奏はもちろんウィーン・フィル盤同様に素晴らしい。
第1次世界大戦前の録音
アルトゥール・ニキシュ指揮ベルリン・フィル
DG。1913年11月10日録音。
6:41(+1:42), 9:44, 5:30, 8:54(2:05, P58)
国内盤では以前にPOCG-2126「ニキシュBPO録音集」でCD化されていた。外盤では1997年にDG100周年で出た「COMPLETE BEETHOVEN EDITION」のVol.20「歴史的録音集 453 804-2」に収録されている(写真)。
当然のことながらアクースティック録音であり、録音上の制約からニキシュの本領がどこまで発揮されているか疑問もある。トスカニーニがこの録音を聴いて「これは私の知っているニキシュとは違う」と言って物議をかもした、ということもあったらしい。確かに一般鑑賞向きではないだろうが、この資料的価値は高い。
上記のようにタイムを計測してみると、この録音は、1920年代後半の巨匠たちの一連の録音よりも遅めのテンポであることがわかる。もちろんこのタイムだって「録音上の制約」を受けてはいるだろうが、しかし彼は「詩人ニキシュ」と呼ばれていたわけで、少なくとも勢いにまかせた演奏はしなかったと思われる。このテンポは案外信用できるのではなかろうか。
はじめに蚊の鳴くような音質にちょっと我慢していれば、聴き進むうちに慣れてきて、終楽章ではしっかりその音楽に浸らせてくれるのは、やはりニキシュの偉大さなのだろう。
当録音は「運命」の史上3番目の録音である。最初はドイツ・オデオンが無名の指揮者と弦楽オケで録音したもの、2番目はブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー指揮でベルリンの新フィルハーモニカーと称するオケで録音したものである。(いずれも同じ1913年録音である。)
またこの録音当時は、ドイツ・グラモフォンはイギリス・グラモフォン社のドイツ支社だった。(翌年からのWWIで分離。何という昔の録音であることか!) だから2003年春に新星堂がEMIのロゴで当録音を復刻しているのは間違いではない。
1920年代=ヴァイマル時代の録音
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
1926年10月16,30日、ポリドールによるSP録音。電気録音最初の年である。6:18(+1:35), 10:56, 5:30, 8:36(2:16, P51)
ISTITUTO DISCOGRAFICO ITALIANOレーベル輸入盤2枚組(IDIS 272/3)。このイタリアのレーベルは、98年夏に全3巻(各2枚組)でフルトヴェングラーの戦前SP録音を全部(ポリドール、EMI、テレフンケン)復刻して発売した。私が持っているのはその第1巻で1926〜30年録音の全てポリドール録音のものである。おそるおそる聴いてみたが、なかなかしっかりした音で入っている。望外の喜び、と言える。レコ芸の広告にもあったが、「イタリアのレーベルとは思えない出来」である。演奏もフルトヴェングラーの特徴が結構良くでているように思われる。
ポリドールのSPは、DGの日本盤3枚組でほとんど全て復刻され3枚組POCG 2342/4で発売されているが、1926年の2つの録音、「魔弾の射手」序曲とこの「運命」は、ドイツのDG本社の強い主張で復刻されなかった。よって、その2つが聴けるCDとして貴重である。(独KOCH盤Koch 3-7059-2にも収録されているのだが、私はそれを入手できないでいた。)
2004年、没後50周年記念でDGから出た2枚組00289 477 5238に、第1楽章のみOIBPリマスタリングされて収録されている。どうせなら全曲、しかも「魔弾の射手」序曲も入れてくれればよかったのに。
2005年、ANDROMEDAレーベルから出たフルトヴェングラーの戦前SP全録音集6枚組ANDRCD 5008も入手(写真)。優秀な復刻で知られるGebhardtレーベルと同一グループらしい。
リヒャルト・シュトラウス指揮シュターツカペレ・ベルリン
DG。1928年、ポリドールによるSPを原盤から復刻した国内盤POCG-9063。5:46(+1:30), 8:57, 4:29, 8:15(1:59, P63)
上のフルトヴェングラーの初録音は、アメリカから提供された電気録音機器を使ってのものだったらしい。しかしこのシュトラウス盤では、ドイツ・グラモフォンが独自で開発した機器(ポリファー式)による録音で、かなり音質の向上が見られる。
速めのテンポで始まるが、フェルマータ及びその後の“間”は長めにとっている。主部はさらに速く一気呵成という感じだ。第4楽章Presto部では、途中415小節あたりで一度テンポを溜めてから再突入している。オケも気合いを入れて弾いており録音の古さを感じさせない。
フランツ・シャルク指揮ウィーン・フィル
EMI。1929年10月26〜28日録音。HMVのSPから新星堂の企画により復刻 SGR-8005。7:38(1:30), 8:41, 5:02, 8:35(2:02, P58)
このレコードはSP発売当初から、冒頭の3連打の頭がずれているので有名だったらしい。確かに「なんじゃこりゃ」という感じで始まる。いかに当時の録音技術が面倒なものであったにしても、冒頭からコケてしまっているのに録音し直さないというのは...惜しい。
しかし、その後の展開は見事である。主題提示部をリピートしており、そのリピートではバッチリ決まっている。
1930年代=ファシズム時代の録音
暗黒の時代ではあったが、巨匠たちの全盛期でもあった。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィル
NAXOS。1933年4月4日、カーネギー・ホール、ライヴ録音。
6:14,(+1:33), 9:58, 5:00, 9:01
時代のわりにはしっかりした録音である。これを聴くとトスカニーニの本当の音は、柔軟性のあるものだったことがわかる。
1942年の三重協奏曲とのカップリング。
フェリックス・ヴァインガルトナー指揮ロンドン・フィル
EMI。Columbia LX 274-277。1933年11月13-14日,Abbey Road Stadio,London。7:50(1:33), 9:44, 5:11, 8:42(2:03, P56)
東芝EMI(TOCE-9285/9)、GRAMOFONOの2種類の全集復刻セットで所有している。東芝の復刻のほうが落ち着きがあって聴きやすい音質である。
なお、新星堂からもヴァインガルトナーの全録音が復刻されて出ている。そのデータによれば、ヴァインガルトナーは、他に1924年,27年,32年の3回も「運命」を録音している。いかに彼がベートーヴェンの権威だったかということであろう。
演奏は実に見事なものである。気合いの入った冒頭3連打から第1主題と、実にしなやかな第2主題とのコントラストを聴くだけで、この演奏が“古典的”表現として完成されたものであることがわかるだろう。
ウィレム・メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ
TELEFUNKEN。1937年4月5日録音。
戦前のSP時代にフルトヴェングラー盤と争った名盤。
7:50(1:33), 9:04, 5:06, 8:23(2:00, P58)
大のフルトヴェングラー・ファンだった丸山真男氏がこの演奏について、「(当初は)フルトヴェングラー盤よりも押し出しがはっきりしていて良いと思った」と発言されている(岩波新書「フルトヴェングラー」)。確かにこれは“メンゲルベルク流”の表現が尽くされた演奏である。さすがに曲が「運命」なだけに、「悲愴」のようなメロメロな所はないが、それでも所々にあざといテンポルバート(第4楽章冒頭ホルン・パッセージの前でのrit.など)がある。また、オーケストレーションもかなり改変しており(木管に金管を重ねている)、おや?という音色がする所もある。
初め「コンセルトヘボウ100周年」のCD(243 725-2、第8番とのカップリング)で持っていた。
しかし、1999年11月、テルデック創立70周年で、テレフンケン時代のSPの名盤を原盤からリマスターしたシリーズが出た。原盤あるいはSP盤をきちんと清掃してリマスターしたので音質に深みがある。紙ジャケットの作りも凝っている。こちらは「田園」とのカップリングである。(3984-28408-2)
2001年秋、OPUS蔵レーベルからも良質の復刻盤が出た。これは第4とのカップリング。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
1937年10月8日&11月3日、ベルリン、ベートーヴェンザールにおけるHMVによるSP録音。
Biddulph盤によるタイム計測は、7:33(1:31), 10:08, 5:49, 8:06(2:00, P49)。
私が所有する復刻盤は次の通り。
Biddulph WHL-006/7 ---- 2枚組で「悲愴」「トリスタン」「パルジファル」などこの頃のHMVのSP録音を全て収録。(写真左)
TAHRA FURT1032/33 ---- 1943年、1954年の2種類のライヴとの聴き比べができる。(写真右)
opus蔵 OPK 2037 ---- 2003年初めに発売された驚くべき音質のSP復刻。SPではこう聞こえていたのか!と耳が洗われるようだ。カップリングは「エグモント」(1933)、およびVPOとの「コリオラン」(1947)。
新星堂 SGR 7180/2 ---- 2003年春発売。Biddulph盤と同じHMV録音と1937年「第9」を収録した3枚組。
ANDROMEDAレーベル6枚組ANDRCD 5008 ---- フルトヴェングラーの戦前SP録音3レーベル全録音集(26年録音の項参照)。
2011年、フルトヴェングラー生誕125周年ということでEMI国内盤で発売されたSACDにも収録されている。(1947年のベートーヴェンV協、1948年の自己犠牲などとカップリング2枚組TOGE 11026/7。)
SP時代のフルトヴェングラーの「運命」と言えばこれを指す。岩波新書「フルトヴェングラー」には、戦前の日本のレコード雑誌で野村光一が「フルトヴェングラーは吉右衛門の芸風に似ている」と書いた、とある。丸山真男氏がそれを解説して「大見得を切っているようでいて、実は非常にすみずみまでピリピリと神経が通っている」神経質なベートーヴェン、と言っている。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
RCA。1939年2月27日,3月1日,3月29日、ニューヨーク、8Hスタジオでの録音。7:16(1:27), 9:43, 5:09, 9:04
戦前のトスカニーニの代表的名盤。1000円の限定廉価盤BVCC-9703は、K2レーザーカッティング処理されており、同年の「第8」及び「エグモント序曲」とのカップリング。
2003年にopus蔵から出た復刻盤も入手。「エグモント序曲」およびハイドン「V字」とカップリング。
第2次世界大戦中の録音
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
TAHRA。FURT-1014/15。1939年9月13日、LIVE。7:40(1:32), 10:07, 5:35, 8:02(1:57, P49)
第2次世界大戦勃発直後、ゲッベルス宣伝大臣の指示で開かれた一連の演奏会の1つである。
まだテープではなくディスク録音だった。その原盤matrix EA 55971〜55980のうち55979が欠落しているため、第4楽章の113〜295小節を上の1937年HMV盤で補完している。(よって上記第4楽章全体のタイムは無意味だが、提示部およびPresto部はこの時の演奏のものである。)
同日演奏のヘンデルの合奏協奏曲op6-5や、1944年のウィーン・フィルとのモーツァルト第40番など、新発見の録音ばかりの2枚組。
ウィレム・メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ
M&A。CD-1005(5CD)。1940年4月18日、ライヴ。
第1楽章リピート無し 6:14(提示部 1:33)
4〜5月に行われたベートーヴェン・チクルスの完全ライヴ全集。スタイルは上のTELEFUNKEN盤と変わらない。音質は悪いが、こちらのほうが若干流れが良い。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
1943年6月、ドイツ帝国放送局によるマグネットフォン録音。8:07(1:39), 11:07, 6:01, 8:09(2:01, P47)
HMV録音のスタイルはそのままに、より自然に流れるような演奏になっている。戦後の復帰演奏会のようなデフォルメも、あまり目立たない。DG盤の解説(ディヴィッド・ケアーンズ)に、「この録音は、フルトヴェングラーが一定の崩れのない速度で、楽章の初めから終わりまでを完全に通すことができた、ということを思い出させてくれる」と書いてある通りである。にもかかわらず「壮絶」な印象が強いのは、がらんどうのフィルハーモニーザールの残響が「冷たさ」を感じさせるからであろうか。
この録音は様々な形で出ている。私が持っているのは、次の4種類である。
DG盤(427 775-2,F20G29088)・・・・「6月30日ライヴ」と表記。
メロディア盤(MEL CD 10 00720)・・・・「6月27日ライヴ」と表記。
TAHRA盤(FURT 1032/33)・・・・「6月30日ライヴ」と表記。(写真左)
TAHRA盤(FURT 1034/39)・・・・「6月27-30日ライヴ」と表記。(写真右)
このようにライヴと表記されているが、全く聴衆ノイズらしきものが聞こえない。よって聴衆なしの放送用録音である、とshin-p氏のフルトヴェングラー資料室にも書かれている。
音質的にはTAHRA盤が最も優れている。(同レーベルからの初出はTAH 272という番号で、アーベントロート指揮の「田園」とカップリングだった。)
2004年6月、EMIのGREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURYシリーズに収録された「44年2月7日」盤は、shin-p氏によればこの43年盤と同じものらしい。
1940年代後半=第2次世界大戦直後の録音
ここでのトスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤンの3人の置かれた境遇の差!
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
M&A。1945年5月8日、VEデー(ヨーロッパにおける戦勝記念日)のライヴ録音。5:28(+1:22), 8:48, 4:33, 7:51
ここでの演奏は、冒頭からやや前のめりの急速テンポである。
偶然ではあるが、この曲の動機「・・・−」はモールス符号で「V」、すなわちVictoryを表している。そこでトスカニーニは、1943年9月のムッソリーニ失脚に際して、この曲の第1楽章のみを演奏し、残りの楽章はドイツが降伏したあかつきに演奏して全曲を完成させる、と予言した。これを実行したのがこの演奏なのである。このCDのカップリングは、VJデー(対日勝利、9月1日)の「英雄」ということで史料的価値が高い。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
TAHRA FURT-1016(写真左)。
ドイツ・フルトヴェングラー協会盤 TMK008080。
2009年にはauditeからRIAS録音集12枚BOX(中央)、
さらに同じくauditeからこの日の録音がシングルレイヤーのSACD国内盤でも出た(右)。
8:02(1:39), 10:40, 5:46, 7:54(1:57, P46)。
1947年5月25日、ベルリン、Titania Palastにおける、歴史的復帰演奏会初日のライヴ録音。この日は聖霊降臨祭の日曜日だった。(→カルラ・ヘッカーによるこの日の記述)
上記3セットとも同日の「田園」とカップリングで出ている。
演奏は、DGから出ている3日目よりも、フルトヴェングラーが緊張していたせいか、やや柔軟性に欠けるが、終楽章コーダのアッチェレランドなどは直線的でバシッと決まっている。
このCDは、はじめキングの国内盤で購入し、のちM&A盤に買い直し、ついにTAHRA盤でオリジナル音源に到達できた。
しかし、shin-p氏のフルトヴェングラー資料室によれば、これでもノイズ・リダクションがかかりすぎており、ドイツ・フルトヴェングラー協会盤や、それをコピーした海賊盤のほうが生々しいという。そこで99年4月、池袋TOWER RECORDの店頭に協会盤があるのに気がついて入手した。それまでは店で売ってるとは思わなかったので探しもしなかった。しかし2枚組で10000円とは高い! なんで2枚組かというと、同日の「田園」のほか、47年9月のメヌーヒンとのベートーヴェンのVn協奏曲なども一緒になっているからだ。で、確かに音質はTAHRA盤よりも自然である。しかし終楽章の最後の音の切り方はTAHRA盤のほうが良いのではないか。協会盤はちょっと切るのが早すぎる気がする。
audite盤の音質は協会盤に似ている。最後の音も切り方もまずまずである。それにしても昔キングから出ていたLPでは、最後にもの凄い拍手が入っていたのだが、TAHRA盤・協会盤・audite盤ともそれをカットしているのは大変残念である。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
DG。7:59(1:40), 11:04, 5:50, 8:01(1:59, P48)
1947年5月27日、歴史的復帰演奏会3日目のライヴ録音。同日の「エグモント」序曲とカップリング。
あらゆるクラシック音楽のCDの中でもっとも感動的な1枚と言えよう。
この歴史的復帰演奏会の3日目の場所は、従来は「ティタニア・パラスト」となっておりCDにもそのように記載されている。しかし、近年の研究により、27日の演奏会は「ベルリンのイギリス占領地区にあるソ連管轄の放送局」に聴衆を入れてのライヴ録音と訂正された。これはマズーレンアレーにあった戦前の帝国放送局のことである。
私は学生時代に朝のFM放送でこの演奏を聴いて以来、フルトヴェングラーにどっぷりハマり、その音源であるMG-6006という番号のLPを購入した(これはまだ実家にある)。
大学卒業後まもなく、「レコ芸」の企画での「名盤コレクション 蘇る巨匠たち」シリーズ第1弾ORG-1001として初CD化されたのを通販で入手した。(これは下記のOIBP盤を入手した際に手放した)。
次に正規国内盤としてOIBP化されたPOCG 3788を入手。これには序曲の他に、52年の大フーガも収録されている。これも次の紙ジャケット盤を入手したので手放した。
ヴィンテージ・コレクションの紙ジャケットOIBP盤POCG 90445では初期海外盤LP(18 724)のジャケット・デザインを復刻している(写真左端)。カップリングはLPと同じく序曲のみである。
にもかかわらず、外盤でのCD化は、2003年のeloquenceシリーズ474 728-2(写真左から2番目)の発売まで全くなされていなかった。この盤は、同日のエグモント序曲は入っておらず、かわりに53年のシュナイダーハンとのヴァイオリン協奏曲がカップリングされている。
しかし! 2004年に宇野功芳氏編集の学研ムック「フルトヴェングラー 没後50周年記念」において、平林直哉氏が次のような指摘をされているのを読んで愕然とした。
(OIBPリマスター盤は、)第1楽章22小節(第1主題提示部の中間部、印象的な第1ヴァイオリンのみのフェルマータの後のフルトヴェングラー・パウゼのところ)のノイズをカットしてしまい、一瞬ではあるが、間合いが短くなり、前につんのめるようになっている。
うーむ、気がつかなかった。「2004年8月に再発されたUCCG 3696はそのカットもなく音質も良いのでおすすめできる」とも書かれていたので、それを入手。没後50年記念の国内盤フルトヴェングラー・エディションである(写真右から2番目、カップリングは序曲のみ)。
そこで3つを聞き比べてみた。なるほど確かにUCCG3696ではフルトヴェングラー・パウゼのところで残響と客席のノイズがちゃんと残っているが、OIBP盤ではそこが無音状態になっている。eloquence外盤でも同じような処理がなされているようだ。ただ、間合い(=パウゼの時間)が短くなっているかどうかは計測できない。ノイズとともに残響成分もカットして無音になってしまった結果、聴いていて息がつまった感じになるだけかもしれない。
もちろんこの違いは、指摘されて注意深く聴いて初めてわかる程度のものであり、素人にはあまり問題はなかろう。全体の音質としては、OIBP盤やeloquence盤のほうが、全体的に抜けがよく聴きやすい音質だと私は思う。
2011年、フルトヴェングラー生誕125周年ということでシングルレイヤーのSACDも発売された。同日の「エグモント」序曲と52年の「大フーガ」とのカップリングである。(UCGG 9016、写真右端、このジャケット写真は私が買ったLP MG-6006と同じである。)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィル
EMI。1948年11月、ムジークフェラインでの録音。ART処理輸入盤5 66391 2。第1楽章 7:24(提示部 1:26)。
戦後の活動停止処分が解除された翌年の録音である。(カップリングの第8は活動停止中、録音活動を開始した46年9月録音。)
演奏は後年のステレオ初期とかわらないスタイルである。1948年というのに、同じ頃のフルトヴェングラーの録音と比べると、格段に音質が良い。
1950年代以降の録音
巨匠たちの最晩年の芸風が聴ける。
ヴィットリオ・デ・サバタ指揮ニューヨーク・フィル
TAHRA。TAH 449。1950年3月16日、カーネギー・ホールでのライヴ録音。
8:24(1:36), 9:54, 5:11, 8:51(2:07, P55)。テンポをくずさずに3連打のモチーフを浮かび上がらせることができている。その意味で、トスカニーニとフルトヴェングラーの良い部分を両方受け継いだ演奏と言える。
同日演奏のブラームスのヴァイオリン協奏曲(ナタン・ミルシテイン)とカップリング。TAHRAレーベル10周年記念のリリースである。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル
TAHRAから出た没後50周年3枚組FURT 1090/3。1950年10月1日、コペンハーゲンでのライヴ録音。
デンマーク放送の録音で、開演前後のアナウンスも入っている。8:29(1:40), 11:33, 6:07, 8:39(2:09, P52)。
なんとなくぎこちないカクカクした感じで始まり、その後もずっと慎重な進行である。結果的に54年のスタジオ録音に近い外観を呈する。
オットー・クレンペラー指揮ウィーン交響楽団
VOX。1950〜51年録音。第1楽章 7:59(提示部 1:33)
十分恰幅の良い演奏ではあるが、後年の演奏と比べるとまだ速めのテンポということになる。後年の演奏同様、終楽章もきちんとリピートしている。
同時期に録音された「田園」及び「ミサ・ソレムニス」とカップリングで2枚組。
トマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィル
EMI。1951年録音。ただし第3楽章と第4楽章のリハーサル風景である。
実に気合いの入った名演である。ビーチャムの叫び声が実にまたキマっている。なんできちんと録音しなかったのだろう?
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ローマRAI交響楽団
URANIA。1952年1月10日、ライヴ録音。第1楽章 8:44(提示部 1:43)
出だしはかなりハッキリと振ったようで、フルトヴェングラーの指揮にしてはピッタリ合いすぎている。その後の展開も54年ウィーン・フィルとのスタジオ録音とよく似た、堂々とした風格で勝負する演奏になっている。宇野氏も指摘するように、オケとあまり慣れていないことが逆に幸いしているようだ。
カップリングは9日後の同オケとスカルピーニのソロでピアノ協奏曲第4番。
2005年、ANDROMEDAレーベルから出た52年RAI録音集6枚組ANDRCD 5010に2曲とも収録されている(写真)。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
RCA。1952年3月22日、カーネギー・ホールでのライヴ。全集中のもの。7:12(1:27), 8:50, 4:37, 8:23(2:00, P52)
この演奏は、LDで見ることもできる。(カップリングは同日の「ローマの松」)。
2002年夏に東芝EMIからDVDでも発売された。
カール・ベーム指揮ベルリン・フィル
DG。1953年3月23〜25日、イエス・キリスト教会での録音。第1楽章 8:07(提示部 1:36)
フルトヴェングラー時代のBPOの実に重厚な演奏である。
「レコード芸術」誌の企画物でブラームス第2番(1956)とカップリングの盤を入手。
2004年7月、ヒストリカル・シリーズで58年「第7」とのカップリングで輸入盤初CD化。474 984-2(写真)。
Emil Berliner Studioにおけるリマスタリングによって音質が良くなっている!
よってレコ芸企画CDは手放した。
ユージン・オーマンディ指揮ウィーン・フィル
ANDANTE。ANDANTE-4988。1953年6月13日、ライヴ。第1楽章7:10(1:27)。
何ともめずらしいコンビの録音である。演奏はまっとうなものである。快速テンポの楷書体で、ライナーやショルティ同様ハンガリー出身者の特徴がよく出ている。
エーリヒ・クライバー指揮コンセルトヘボウ
DECCA。1953年9月録音。
7:10(1:22), 9:12, 5:20, 9:16(2:16, P56)。
基本テンポが速い上に、フェルマータの後の“間”を楽譜通りの8分休符しかとらない、というのはこの時期のドイツ系の巨匠の中では珍しい。演奏スタイルはかなりトスカニーニに近いものがある。
だいぶ前に入手した輸入盤417 637-2(田園とカップリング)で聴いていた。
2000年10月に出たDECCA LEGENDS輸入盤467 125-2(写真左、「英雄」とカップリング、96kHz, 24bitリマスタリング)を聴くと、この演奏の魅力があらためてよくわかる。
さらにクライバーのDECCA録音6枚組も入手したので、田園とカップリングの古い盤は譲渡した。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル
EMI。1954年2月28日〜3月1日、HMVのLP用録音。全集中のもの。
8:30(1:40), 11:14, 6:03, 9:40(2:23, P60)
晩年の芸風である。終楽章も「超スロー・インテンポ」のまま進む巨大な演奏だ。
写真は2012年末発売のシングルレイヤーのSACD国内盤BOX内の1枚。第7番とカップリング。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
TAHRA。FURT 1023/24。
1954年5月4日、パリ・オペラ座でのライヴ録音。8:18(1:37), 11:01, 6:07, 8:48(2:08, P53)
同日の「未完成」、ハイドン変奏曲、オイリアンテ序曲とカップリング。この日のコンサートは吉田秀和氏が聴いている。これは、上のEMIスタジオ録音に示された晩年の芸風でやろうとして、あまりうまくいかなかった例であろう。フェルマータは短いし、アンサンブルは乱れるしで、あまり感銘を受けない。これは「背後で聴いているのがドイツ人でない」ということと関係があるのではなかろうか。どうも神経質になりすぎているような気がする。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル
TAHRA。FURT 1008/11。
1954年5月23日、ベルリン、Titania Palastでのライヴ録音。8:22(1:38), 11:12, 6:13, 8:43(2:09, P53)
演奏旅行からホームグラウンドに帰ってきての演奏会、ということで、全集盤に近い晩年の芸風のライヴ版がベストの状態で聴ける。オリジナル音源からのCD化ということで音質も素晴らしいが、やや残響を付加しているのが、気になる人は気になるだろう。
同日演奏の「田園」(素晴らしいプログラム!)のほか、「英雄」「グレイト」などをカップリングした没後40年記念の4枚組FURT 1008/11(写真左端)が初出だが、3種の運命聴き比べのFURT 1032/33(写真左から2番目)でも聴ける。
2000年末に、TAHRAが「残響付加無し、24bitリマスター盤」4枚組FURT1054/57(写真中央)を出したのを入手。上の従来盤とはだいぶ印象が異なる。
2009年発売のaudite盤RIAS録音集12枚BOX(写真右から2番目)にも収録されている。さらに2012年にはこの日の「田園」とともにシングルレイヤーのSACD国内盤も出た(写真右端)。
ヘルマン・シェルヒェン指揮ロイヤル・フィル
WESTMINSTER。1954年9月録音。全集中のもの。6:56(1:23), 10:14, 5:29, 7:31(1:47, P47)
レイボヴィッツ、ギーレンと受け継がれる「ゲンダイオンガク」的演奏の最初のもの。
特に思い入れを込めることもなく − ここがトスカニーニと違う点 − 、曲そのものの強さだけで勝負する派閥である。
(その点、1965年ステレオ・ライヴ盤は、やや趣が異なるものになっている。)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア
EMI。1955年10月6-7日、12月17日録音。
ステレオ全集盤よりも、かなり締まった演奏だ。8:05(1:36), 10:07, 5:41, 11:05(2:05, P56)
GREAT RECORDINGS OF THE CENTURYシリーズでART処理された輸入盤。
これの直前10月4-6日に録音された全集中の第7番とカップリング。(つまり第7をステレオ録音したあとにモノラルで「運命」を録音したことになる。)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィル
ORIGINALS。SH948。
1956年4月8 or 9日、ベルリン高等音楽院でのライヴ。第1楽章 8:59(提示部 1:44)
海賊盤にしては良好な音質。結構締まった演奏をしている。
この演奏の安定感は、半分はオケの功績である。
ケルン放送交響楽団とのブラームス第4とカップリング。
カール・シューリヒト指揮パリ音楽院管弦楽団
EMI。1957年4月25-27,29日録音。Salle Wagram,Paris。全集中のもの。7:30(1:28), 9:40, 5:10, 8:27(1:59, P54)
颯爽とした歯切れの良い演奏である。第2楽章も抒情的だが粘ることはない。また、終楽章のホルンパッセージの最後の延ばし(第28,32小節)で、低弦を聴かせるためか音量を落としているが、これは表現としてあまり巧くいっていない。
なお、シューリヒトはこれより前にDECCAにも同じオケでこの曲を録音している。
ジョージ・セル指揮シカゴ交響楽団
DENON。DVD。1961年収録。7:38, 9:43, 5:38, 9:40(P55)
ライナーが60年に心臓発作を起こして以来、シカゴ響は数多く客演指揮者に頼る時期が続いた。それらがTV収録されて残されたものがDVD化されたわけである。後世にとっては幸運だったといえよう。他に、ベルリオーズ「ローマの謝肉祭」などが収録されている。(この映像のほんの一部だけは既にLD「アート・オヴ・コンダクティング」にも収録されている。)
セルの指揮ぶりは、「これぞ指揮者の模範!」と感心せざるを得ないものである。指示は緻密なのだが、同時に一種独特の「大らかさ」も兼ね備えているのである。(緻密で巧いだけの指揮者ならいくらでも現存している。)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ヘッセン放送交響楽団
TAHRA。TAH213。1962年3月20日、フランクフルトでのライヴ。
9:51(1:54), 12:20, 6:32, 11:31(2:46, P70)!
同日のハイドン「V字」とのカップリング。正規音源からのCD化で実に良好な音質。
クナの特徴が良く出たもの凄い名演。フルトヴェングラーBPOライヴ、クレンペラーVPOライヴと並ぶ「3大演奏」である。
あまりに遅いテンポのため、第1楽章の特に後半あたりは、いつアンサンブルが崩壊するかとハラハラさせられる。クナ自身も結構頑張ってオーラを発してはいるが、オケの団員が「えらいこっちゃ」と苦心惨憺して何とか持ちこたえている。
最初は暖まっていない大型エンジンがそろりそろりと始動した感じだが、次第に興が乗ってくると滑らかに走行するようになる。最後は圧倒的な盛り上がりで終わる。
なお当CDではトラックの打ち方が間違っている。第3楽章12:11、第4楽章5:53などと書かれているが、これは第3楽章のトラックを、第4楽章再現部の第3楽章回想部まで含めてしまっているのだ。記載だけでなくCDそのものもそうなっているので注意が必要である。
エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル
ERATO。ムラヴィンスキー12枚組。1974年9月15日、モノラル・ライヴ録音。
この曲はステレオ・ライヴもある。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5-m.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c20
21. 中川隆[-14160] koaQ7Jey 2020年1月25日 01:00:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1011]
ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」ハ短調 作品67 ステレオ録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5-s.htm
タイム表示は、第1楽章(提示部)、第2楽章、第3楽章、第4楽章(提示部、Presto部)である。第1楽章提示部がリピートされてない演奏の場合にはカッコ内のタイムに「+」を付けた。また第4楽章提示部をリピートしている場合には提示部のタイムの後に「R」を付けた。また、ブーレーズ、マズア、ノリントンとアバドの新盤では、第3楽章をリピートしている。
最近の入手
オットー・クレンペラー指揮ケルン放送交響楽団
WEITBLICK(WDR原盤)。SSS0206-2(2CD)。2017年リリース。
1966年3月17日、ケルン、Klaus-von-Bismarck-Saalでのステレオ・ライヴ録音。
8:41(1:41), 11:02, 5:56, 11:46(2:11R)。
ウィーン・フィルとの名演ライブと比べ、より筋肉質な演奏となっている。
カップリングは同日演奏の第4番とレオノーレ第3番で2枚組。
シルヴァン・カンブルラン指揮南西ドイツ放送交響楽団
GLOR。2003年11月29日、フライブルク・コンツェルトハウスでの録音。
07年の「田園」とカップリング。「英雄」につぐベートーヴェン第2弾である。
以下、録音年代順
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団
RCA。1955年5月2日録音。
6:01(+1:29), 10:45, 5:34, 9:16(2:12, P52)。
ボストン響の弦パートは強さよりも柔らかさが特徴だし、加えてステレオ最初期の録音の質が薄いため、ミュンシュの気合いの入った指揮ぶりが十分に伝わってこないもどかしさがある。
はじめ、「英雄・運命・第9」の2枚組で聴いていたのだが、1998年5月に、K2レーザーカッティングされた1200円の限定廉価盤が出たので「運命&田園」を入手した。かなり改善されているが、しかしオリジナル・マスターテープからの処理ではなさそうなので限界はある。
ついに2005年、XRCD24で出た(写真)。カップリングは同日録音の「未完成」とである。ようやくマスターテープの音が聴けたという感じがする。
ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団・合唱団
TESTAMENT。1956年12月録音。
7:33, 9:35, 5:13, 8:25
2枚組で、同年6月モノラル録音の「第4」とカップリング。
フランスのレコード頒布クラブ「クラブ・フランセ・デュ・ディスク社」への録音である。
グィド・カンテルリ指揮フィルハーモニア
EMI。1956年ステレオ録音! ただし、第1楽章が欠けている!!
この年5月から6月にかけて、カンテルリはベートーヴェン第7番、モーツァルト第29番などをステレオ録音するセッションを行った。前記2曲は完了したが、この「運命」の録音は近辺の工事の騒音とカンテルリの過労のため、第1楽章は翌年に行なうこととしてセッションは中断された。しかし、この年11月にカンテルリは飛行機事故で亡くなってしまい、結局録音は完成しなかったのである。
アルトゥール・ロジンスキ指揮ロイヤル・フィル
WESTMINSTER。1956年録音。6:14(+1:34), 9:46, 4:51, 8:05(1:57, P50)
いやー、オリジナル・テープが見つかってほんと良かった。
演奏としてはレイボヴィッツ盤に似ているという印象。(オケが一緒、時期もほぼ同じ、ということもあるが)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
ソニー。1958年1月27,30日録音。6:21(+1:38), 10:47, 5:48, 9:29(2:13, P61)
第1楽章はフェルマータが長い。特に2回セットの1回目がやたら長い。(吉田秀和氏が「世界の指揮者」の中で指摘されていた通り。)また423小節で溜めを作っているのはワルターらしい(モーツァルトの40番でも似たような所がある)。この演奏は、全体を通して、低弦の音が残響の多いホールに響き続けており、それが心地よく感じる反面、細かい音が聞こえないのは曲の性格上問題もあろう。私はこの演奏を初めて聴いた頃はあまり評価していなかったが、クレンペラーやクナッパーツブッシュの演奏も聴いた後改めて聴き直してみると、80才をすぎてこんな演奏ができるワルターの精神の若々しさに感銘を受けた。
2009年、「未完成」とカップリングのSACD国内盤を入手した(写真)。
ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィル
DG。1958年5月13,14日、6月20日録音。
7:52(1:33), 10:49, 4:51, 8:37(1:59, P56)。
オーストラリアELOQUENCEシリーズ輸入盤で入手。カップリングは「田園」。
マゼール死後、初期DG録音BOXでも入手した(写真)ので、上記の盤は人に譲った。
これが28才の彼のレコーディング・デビューとなった。(正確にはLPのカップリング曲「献堂式」序曲のほうが5月12-13日録音と1日早いが..)
この演奏は、大学時代に45回転LPで入手し、なかなか気に入って聞いていたものである。3連打のタメなどはフルトヴェングラーの影響なのであろうか?
ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィル
DECCA。1958年9月録音。
7:18(1:24), 11:05, 5:07, 8:35(1:59, P55)
カルショウのプロデュース、ゾフィエンザールの素晴らしい響きは古びることはない。
2001年春、DECCA LEGENDSで「英雄」「第7」とともに2枚組となった。いずれも「指環」と並行して録音されたものである。
当時のショルティは案外伝統的な演奏スタイルであり緩徐楽章は結構遅めのテンポをとっていた。
オイゲン・ヨッフム指揮バイエルン放送交響楽団
DG。1959年4月25-27日、ヘルクレスザールでの録音。
ベルリン・フィルとバイエルン放送響を使い分けてのステレオ・モノラル混在の全集。
8:05(1:37), 11:08, 5:46, 8:57(2:09,P55)。
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団
RCA。1959年5月4日録音。7:28(1:26), 10:04, 5:27, 7:55(1:50, P54)。
泣く子もだまる。吉田秀和氏も絶賛。硬派でしかも品があるベートーヴェンが聴ける。
その快速テンポは、ライナー時代のシカゴが黄金時代であったことをハッキリ示している。終楽章は主部のアレグロが十分速いためPrestoとの速度差があまりない。最後は以外にも結構リタルダンドして終結させている。
2000年9月、日本ビクターからXRCD2というもの凄いリマスタリング盤が出た(写真、コリオラン序曲とカップリング)。オリジナルの3トラック・マスターテープを見つけだしてリマスタリングしたらしい。
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
EMI。1959年10月録音。ART処理輸入盤全集。
8:51(1:44), 11:06, 6:14, 13:15(2:32R, P63)
クレンペラーのこの曲の演奏の特徴は、第1楽章の展開部で弦が主題を奏した後3小節のばす所(第182〜184小節、第190〜192小節、その上で管楽器が次々と合いの手を入れる)で、その弦をディミヌエンドすることである(下のライヴも同じ)。これは私としては曲の勢いを殺ぐものと感じるので、あまり賛同できない。しかし演奏全体の巨大さからすれば、これは些細なことでしかない。
ヨゼフ・クリップス指揮ロンドン交響楽団
EVELEST原盤。キング国内盤SACD Hybrid(2015発売)。
1960年1月、ロンドン、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホールでの録音。
8:19(提示部 1:39),
10:50, 5:47, 9:03(2:07,P58)。
ヨゼフ・カイルベルト指揮ハンブルク国立フィル
TELDEC。1960年前後の録音。第1楽章 8:41(提示部 1:44)
録音データもはっきりしない、何となくすみに追いやられているかのようなカイルベルトのベートーヴェン録音だが、この「運命」は全く素晴らしい。遅いテンポで古き良きドイツ的演奏をくりひろげる。第3楽章もかなり遅いのだが、アタッカで終楽章に入ると冒頭から案外速く始まるので逆に意外な感じがする。
フランツ・コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
Berlinクラシック。1959〜61年、ライプツィヒ、ベタニア教会での録音。7:58(1:35), 10:24, 6:08, 11:41(2:14R, P57)
LP時にはPHILIPSから出ていた全集中もの。全曲、これ「力こぶ」といった感じの演奏。いわゆる「ドイツ的」名演の典型である。
冒頭の8分音符を中庸のテンポでひとつひとつ強調して始まる。しかし、その後の展開も同じテンポであり、冒頭だけ遅くする古いタイプの演奏ではない。音符を1つ1つ積み上げていくクレンペラーのやり方を全体的にやや速くした演奏と言ったらよいだろうか。
ピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団
DECCA。1961年録音。
7:05(1:26), 9:08, 5:01, 8:48(2:01, P53)。
443 479-2(2CD)にLSOとの録音の4曲収録(第2,4,5,7番)。この「運命」は素晴らしい。
モントゥーのベートーヴェン演奏と聞いて、「田園」や「英雄」ならともかく、「運命」に対してはあまり期待していない人が多いのではなかろうか。かく言う私もそうだった。しかしこの演奏はあらゆるそういった先入観を打破してしまう名演である。
最初のモットーはドイツ伝統のやや遅めのテンポで、それなりに重厚な音でやるのだが、そこに全く「ドイツ的田舎臭さ」がないのが不思議だ。続くアレグロ部の弦楽器の弓使いがすばらしい。1つ1つ短い音で歯切れが良く、このあたりは「春の祭典」初演者だなぁ、と思わせるモダンさがある。その後もずっとその調子。実にすばらしい。
ルネ・レイボヴィッツ指揮ロイヤル・フィル
CHESKY。1961年録音。
6:48(1:21), 8:52, 4:37, 8:11(1:55, P50)
「運命&第2」はPHCF-5231で国内盤仕様でも出ていた。それを買って「ギーレンより30年前にこんな録音があったのか」とビックリして、他のも輸入盤で入手したのである。このレーベルの録音も素晴らしい。
フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィル
DG。1961年9月、ベルリン、イエス・キリスト教会での録音。
9:05(1:50), 13:10, 6:23, 9:24(2:15, P58)
これは重量級の演奏だ。最も長時間かけた演奏とされている。しかし終楽章後半は普通のテンポで追い込んでいる。
やはり前2つの楽章が相当に遅い。第1楽章は、このテンポでリズムの音楽を聴かせるのは無理というものだが、そこをなんとか気合いで乗り切ったという感じだ。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
DG。1962年3月、イエス・キリスト教会での録音。
OIBP化された輸入盤全集。
7:08(1:23), 10:01, 4:55, 8:50(2:03, P53)。
カラヤン壮年期の名演。後のカルロス・クライバーよりもほんの少し速めのテンポで流麗な演奏である。
2009年、SACD Hybrid輸入盤(同全集中の「田園」とカップリング、写真左)も入手。
2014年には全集がBru-ray Audio化された(写真右)。
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
ソニー。1963年10月録音。吉田秀和氏絶賛の全集中のもの。
7:29(1:26), 9:57, 5:30, 8:32(1:54, P54)。
ヘルマン・シェルヒェン指揮スイス・イタリア語放送(ルガノ放送)管弦楽団
ERMITAGE。ERM 126。1965年2月24〜26日、ライヴ録音。
7:55(1:36), 10:08, 5:49, 8:49(2:07, P50)
この盤にはリハーサル風景も収録されていて、本番ともども度肝を抜かれる。本番でも所々でシェルヒェンがオケに気合いを入れる声が入っている。第1楽章の冒頭はフェルマータの後の間合いがやや長めで、そこにもの凄い緊張感があるが、オケの性能がイマイチで、アンサンブルにやや乱れもある。
国内盤ではPLATZレーベルでこの年のチクルス・ライヴが全集として発売されており、それによってシェルヒェンは一躍ブームになった。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
UNITEL。Blu-ray映像。
1966年1月収録。演出:アンリ・ジョルジュ・クルーゾ。
リハーサルおよびヨアヒム・カイザーとの会話がBonus映像でついている。
カップリングは1977年ジルベスターの第9である。
ジョージ・セル指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
PHILIPS。1966年11月録音。
7:32(1:28), 10:09, 5:35, 8:41(1:56, P57)
2001年に、PHILIPSの50周年で96kHz-24bitリマスタリングされた輸入盤。シベリウスの第2番とカップリング。
ピーエル・ブーレーズ指揮ニュー・フィルハーモニア
ソニー。1968年録音。
9:13(1:48), 10:08, 9:52(R3:56), 9:21(2:08, P59)
「版」の問題の発端とも言うべき第3楽章のリピートを最初に行った録音である。
しかし現代の耳で聞くと、あのブーレーズが何という遅いテンポで演奏しているのだろう! ということのほうが「驚き」である。
リピートに関して言えば、第4楽章提示部はリピートしてないので「片手落ち」としか言いようがない。
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィル
DECCA。1968年録音。全集中のもの。
8:10(1:39), 10:30, 6:02, 8:57(2:03, P59)
初出LPは、第8番とカップリングで1969年度レコード・アカデミー賞受賞。
オットー・クレンペラー指揮ウィーン・フィル
DG。VPO創立150周年記念CD(写真左)。
1968年5月26日。ムジークフェラインでのウィーン音楽週間ライヴ。
9:00(1:45), 11:32, 6:28, 12:07(2:18R, P60)
吉田秀和氏が「世界の指揮者」のクレンペラーの項で絶賛されている演奏と同じものである。第1楽章最後のフェルマータの後、アンサンブルに乱れがあるのが残念。
2005年夏、TESTAMENTから同年の音楽週間ライヴ録音8枚組SBT8 1365で再発売された(写真右)。
なお、DG盤では「25日」表記であったが、TESTAMENT盤の「26日」表記にあわせて当項を書き換えた。この音楽祭でのクレンペラーは、とことんドイツ的ながっちりした演奏を繰り広げているが、中でもこの日のオール・ペートーヴェン・プログラム(第4、コリオラン序曲)はその白眉であった。
オットー・クレンペラー指揮バイエルン放送交響楽団
EMI。ART処理。1969年5月30日、ヘルクレス・ザール、ライヴ。
7:33(+1:48), 12:05, 6:52, 10:59(2:31, P69)
これがクレンペラーが同オケと行った最後のコンサートであった、という。上のウィーン・フィルとのライヴ同様、大変な名演である。音質もウィーン・フィル盤より深みとコクがあって良い。同日の第4番とカップリング。
しかし、いつものクレンペラーなら省略するはずのない両端楽章提示部のリピートがない!
このリピートの件について、以前「編集ではないか」と疑義を表明しておいたが、「レコ芸」99年2月号の読者相談室にも質問があり、それに対する解答(平林直哉氏)を読むと、
イギリスEMIに問い合わせた結果「音楽以外のノイズは除去したが、音楽そのものを編集した形跡がないために、クレンペラー自身が反復なしの演奏を選択したものと考えている」との回答がありました。(中略)
一部に流布していたCDでこの第5番と同一演奏と称するものも同様に反復がなかったそうなので・・・
とある。正規発売元からの回答だし、ディスク・ルフランから出ていた海賊盤も反復なしだったことが分かったので、信用しよう。というわけで一件落着。
ジョージ・セル指揮ウィーン・フィル
ORFEO。1969年8月24日、ザルツブルク祝祭大劇場ライヴ録音。
7:42(1:28), 10:09, 5:35, 8:34(1:57, P55)
ステレオ録音であることに感謝する! ライヴでここまで起伏のある演奏を完璧にやってのけるあたり、さすがセルである。終楽章のプレスト部ではかなり激しい追い込みの後に急ブレーキをかけており「フルトヴェングラー張り」である。
同日のピアノ協奏曲第3番(エミール・ギレリス)、エグモント序曲を収録。
レオポルド・ストコフスキ指揮ロンドン・フィル
DECCA。phase4。1969年9月録音。
6:29(+1:35), 11:10, 6:03, 8:49(2:04, P53)
これは押し出しのしっかりした名演である。スコアの改変ではっきりわかるのは、終楽章Lastで合いの手のピッコロをダブらせて(or フルートを重ねて)、レガートで華々しく吹かせているところぐらいである。「未完成」とカップリング。
齋藤秀雄指揮日本フィル
フジテレビ。DVD。1969年9月16日、東京文化会館ライヴ。ステレオ。
7:42(1:36), 10:04, 5:23, 8:23(2:02,P47)
あの「サイトウ・キネン・オーケストラ」の名前のもとになった、桐朋学園の創立者、小澤征爾らの師匠による貴重な映像である。自らの指揮法教程を実践しているのかもしれないが、決してそれだけではなく彼自身が相当の表現意欲をもったロマン的指揮者であったことがわかる。カッコつけのための技術などは持ち合わせておらず、指揮ぶりはむしろ「素人っぽい」といってもよい。その格好の悪さはフルトヴェングラーにも通じるところがある。
(近衛秀麿指揮、園田高弘ソロによる「皇帝」の2週間後のコンサートである。)
カップリングは、モノラル音声で、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ。
略歴。1902年生まれ。チェロを学ぶ。1922年から近衛秀麿に随伴してドイツに渡り、ライプツィヒでチェロをクレンゲルに師事。27年に帰国し新交響楽団の首席チェリストとなり、指揮活動も始める。30〜32年、再びドイツに渡り、ベルリン音楽大学でフォイヤーマンにチェロを学ぶ。(ライプツィヒやベルリンでフルトヴェングラーを聴いたことはまず確実だろうと思われる。)
1941年まで新響に在籍しヨーゼフ・ローゼンシュトックから多くを学ぶ。戦後は東京フィル、東京交響楽団の指揮者をつとめる一方、48年に「子供のための音楽教室」を井口基成・吉田秀和らと開設し、そこから桐朋学園へと発展させていく。74年没。
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
audite。1969年11月20日、ヘルクレスザールにおけるライヴ。
7:58(1:32), 10:45, 5:16, 9:10。
DGの全集ではボストン響との録音であるが、やはり手兵とのライヴのほうが力強く締まった演奏になっている。録音もDG盤以上に鮮明である。第4(79年ライヴ)とカップリング。
カール・ベーム指揮ウィーン・フィル
DG。1970年4月25-30日、Simmeringer-Hof での録音。
8:29(1:39), 10:49, 6:16, 9:14(2:11, P59)
ベートーヴェン生誕200年を記念して第9と同時期に録音されたもの。OIBP化された全集に含まれる。
この演奏をもって「じっくり型」の標準とすべきであろう。ウィーン・フィルがまだ古風な音を残していた最後の録音である。
ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘン・フィル
EMI。1971年録音。全集録音の一部。
7:59(1:35), 10:52, 5:41, 8:35(1:59, P55)
音色が良い。重厚一点張りではなく「南ドイツの田舎」といった温かい素朴さがある。
しかし、フェルマータは長めなのにその直後の“間”がほとんどない、というやり方は私にはしっくりこない。
輸入盤7243 4 749373 2(「田園」とカップリング)で入手した。後に、DISKYから全集CD化されたのも入手した。
ルドルフ・ケンペ指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
SCRIBENDUM。1971年3月24〜25日録音。
8:07(1:39), 10:30, 5:31, 8:58(2:03, P58)
演奏の特徴は上の全集録音と同じである。「新世界」とのカップリング。
この録音は、LP末期にはTUDORレーベルで出ており別項のブルックナー第8番とカップリングだったこともあるものである。
エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル
BMG。1972年1月29日、モスクワ音楽院でのライヴ。
7:38(1:31), 9:46, 5:08, 9:05(2:08, P53)
レニングラード・フィルハーモニー協会創立50周年(オケ自体は1882年創立だが)でのモスクワ客演であり、この時同協会は「アカデミー」の称号を与えられた。
第1楽章など少々強引な感じがしないでもないし、アンサンブルにも乱れがある。終楽章ではティンパニが1つの音符を両手で時間差でダブらせてたたいているようだ。こんなに熱くなっているムラヴィンスキーは大変珍しい。しかし、私はもっと冷徹な演奏を期待していたのだが...。同日の第4番とカップリング。
2004年にSCRIBENDUMからム出たラヴィンスキーの「1972年1月末モスクワ・ライヴ」3枚組にも収録されている(日付が「1月26日」と表記されているが同じものである)。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
DG。1972〜73年、ユニテル制作のLD。
7:01(1:22), 9:04, 4:46, 8:24(1:57, P53)。
同時期に制作された「第4」、及び75年制作の序曲「エグモント」「コリオラン」とカップリング。
70年代のカラヤンの映像作品の中では、「第9」についで自然さがあるものとなっている。特に弦パートはカラヤンの指揮姿と一緒に全体が映る場面が多く、その圧倒的アンサンブルを目にすることができる。コンマスはシュヴァルベ、その隣がブランディスである。それに対して管楽器は全く顔が映らないのは残念(オーボエのソロの所もカラヤンのアップである)。
ラファエル・クーベリック指揮ボストン交響楽団
DG。1973年11月録音。
8:16(1:36), 11:01, 5:20, 11:07(2:04R, P59)。
様々なオーケストラが聴けるおもしろい全集。ボストン響は弦の音が柔らかいので、その後ろの管楽器のハーモニーがよく聞こえる。リズムはティンパニ主導の所が多い。第1楽章のフェルマータがどれも大変短いのが特徴的だ。しかしそのフェルマータの後にきちんと間をとっているのが良い。
セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団
METEOR。MCD 043。第1楽章(提示部)ブラームス第3番とカップリング。
海賊盤であり、録音年不詳だが、おそらく70年代か。演奏についてはEMI正規発売盤とほぼ同様のことが言える。
カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィル
DG。1974年録音。
7:15(1:26), 10:00, 5:09, 10:46(2:06R, P52)。
私はこの曲をこの録音で初めて全曲聴いたのだが、それはあまり幸運なことではなかった。のちにフルトヴェングラーの名演の魔力によって、この演奏を「よくある演奏」の1つにしか感じられなくなってしまったのである。しかし、その後いろいろな演奏を聴くにつれて、この演奏ほどスピードとリズムのバランスがとれた演奏はない、と思えるようになった。
長くレギュラー盤では1曲のみの収録だったが、OIBP化されて「第7」とカップリング(写真左)になり、やっとお買い得になった。
2009年3月に「運命・第7」のカップリングSACD Hybrid輸入盤を入手した(写真中央)。
また2010年にシングルレイヤーのSACD国内盤も出ていたが、それに気づいたのは2011年末のことだったので、限定盤ということもあってHMVでは入手不可だった。しかしラッキーなことにAmazonでは運良くまだ在庫があったので入手できた。(ジャケットデザインは同じ。)
2014年初め、「運命・第7」のカップリングのBlu-ray-audio Discを入手。同年にはDGに録音した全交響曲録音がセットでBlu-ray-audio Discになった(写真右)。
オイゲン・ヨッフム指揮ロンドン交響楽団
EMI。1977年2月28日-3月1日、10月7日、キングズウェイ・ホールでの録音。
8:21, 11:07, 5:51, 11:49。
ヨッフムのEMI全録音BOXで初めて入手。2012年にリマスターされている。
カール・ベーム指揮ウィーン・フィル
Altus。1977年3月2日、NHKホールにおけるライヴ録音。8:28(1:39),10:47,6:17,8:52(2:05,P56)
3楽章のテンポはややダレるが、終楽章は遅めながらもティンパニが最後のほうをしっかり締めていて、さすがである。
同日演奏の「田園」、アンコールの「レオノーレ第3番」とカップリング。
2006年、この日の演奏がNHKからDVD化されたのも入手。画質は75年よりはマシになっており、指揮者正面からの映像もある。音はFM放送のものを使用している。
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
DG。1977年9月8〜9日、ムジークフェラインでのライヴ録音全集。
8:33(1:39), 10:14, 5:22, 11:11(2:05R, P58)
遅めのテンポをとって、場面場面に丁寧に表現をつけている。第1楽章の展開部冒頭を、ややテヌート気味に女性的表現で開始し、提示部との対比を図り、またそこから力強さを増していく...といった具合である。そういった表現の工夫が必ずしも狙い通りの効果を聴く人に与えるかどうか...好みがわかれるところであろう。
なお、並行して行われたUNITELの映像収録はコンツェルトハウスでの演奏である。(DVD)
各楽章のタイミングの違いも数秒程度であり、上に書いたような演奏設計も同じである。映像付きなので、より説得力が感じられる。
カルロス・クライバー指揮シカゴ交響楽団
HYPNOS。海賊盤である。シューベルト第3番、及び「魔弾の射手」序曲とのカップリング。
記録によれば、クライバーは1978年10月にシカゴ響を振ってアメリカ・デビューを果たした。その時のプログラムがこのCDと同じだが、これがその時のものかどうかは不明である。確かにシカゴのオーケストラ・ホールの音がする。(このオケにしては狭い!)
アメリカのオケが、クライバーの指揮のノリの良さを表面的にとらえているため、バタバタした感じになってしまっている。終演後、音が鳴り止むか止まないかで大喝采。
クラウス・テンシュテット指揮キール・フィル
WEITBLICK。1980年3月20日、キール城でのライヴ録音。7:10(1:23),10:11,4:57,8:26(1:59,P53)。
キール・フィルはキール市立歌劇場のオケである。テンシュテットが西側に亡命して最初についたポストはここの音楽監督だった。
同日の「エグモント」序曲、東ドイツ時代のベートーヴェン第1(メクレンブルク・シュターツカペレ)とカップリングされている。
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィル
DG。1981年録音。
7:19(1:26), 11:18, 5:35, 12:04(2:18R, P59)
3連打が少し横に流れた感じの音になっているのが気になる。ここはスタカートでない、ということを意識しての演奏なのだろう。国内盤の解説によれば、ジュリーニはこの録音に際して、終楽章のタッカタッカのリズムで「8分音符、16分休符、16分音符」であることをオケに注意していた、ということだ。なるほど確かにスコアにスタカートが書いてある所でのみスタカートにしており、他の大部分の所ではレガート気味の演奏になっている。
OIBPではないがリマスターした輸入盤でシューマンの「ライン」とカップリングで入手。
2011年、LAPO録音集6枚組でも入手したので、上記の盤は人に譲った。
オトマール・スイトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン
DENON。ドイツ・シャルプラッテンとの共同制作全集。1981年8月、東ベルリン、キリスト教会での録音。
この全集ではこの曲だけはギュルケ校訂版で演奏されており、第3楽章がリピートされている。7:20(1:24), 9:38, 8:48, 10:36(2:01,P53)。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
DG。1982年11月録音。カラヤン&ベルリン・フィル3度目の全集の第1弾となったものである。
7:18(1:25), 9:14, 4:48, 8:38(2:00,P57)。
初出は「田園」とのカップリングだが、私が持っているCDは国内編集盤のカラヤン・ベスト・アルバムで、リスト「前奏曲」などとカップリングのものである。OIBP化されていないため、初期デジタルのバシャバシャした音のままである。
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィル
CAPRICCIO。1982〜83年録音。SACD Hybrid CDの全集。
7:09(1:26), 10:18, 4:58, 8:28(1:58,P56)。
この時期に終楽章をリピートしないのはめずらしい(同じ全集中の第7ではやっているのに)。かなりそっけないザハリヒな演奏だ。
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団
RCA。1987年2〜3月、ハンブルク、フリードリヒ・エーベルト・ハレでのDHM全集録音。
7:14(1:22), 9:36, 5:14, 10:22(1:56, P54)
2001年にBMGが24bit-96kHzリマスターした2枚組×3セット分売を入手。
3連打を特別扱いすることなく第1主題のフレーズの中にきちっと収めている。同じ全集でも第7番などはかなりエキサイティングな演奏なので、この曲を特別なものとして聴きたい人にとっては、サービス精神に欠けるような気がしないでもない。しかし、十分に立派な演奏ではある。
クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
PHILIPS。1987年3月、新ゲヴァントハウスにおける録音。
「ペータース版による初全集」の第1弾として録音された(要するにこの曲ではギュルケ校訂版ということ)。第3楽章がリピートされている。
私は学生時代に、このコンビによるこの曲を仙台で聴いている。その時も第3楽章はリピートされていた。
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィル
DG。1987年10月、ライヴ録音の全集。
7:50(1:33), 10:04, 5:25, 10:59(2:04R, P58)
アバドは「フルトヴェングラーの自然なテンポ・ルバートに惹かれる」と言っているが、しかし第4楽章の第27,31小節のホルンのテンポ・ルバートはあまりに表面的すぎて変である。
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィル
Altus。ALT-056。1989年10月18日、サントリーホール、ライヴ。
8:12(1:32), 12:29, 6:01, 9:36(2:14, P64)
この日のアンコール曲であるバッハのアリアとカップリング。また、ALT-055で同日演奏された「エグモント序曲&田園」も発売されている。
これら2枚については、あまりに書きたいことがあるので別ページを作る。
ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィル
DECCA。1990年5月、ムジークフェラインでのライヴ。
7:24(1:28), 9:41, 5:09, 10:44(2:01R, P55)
年とって緩急おりまぜてのピッチングになったショルティが久しぶりに直球勝負に出た、と評された演奏である。(そもそもこの曲でショルティが変化球というのは考えにくいが..)第2楽章が速くなっていることと第4楽章でリピートしていること以外は1958年録音とほとんど同じタイムである。
ショスタコの第9番とのカップリングというのも話題だった。
クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィル
BBC LEGENDS。1990年8月30日、ロイヤル・アルバート・ホールでのプロムス・ライヴ。
7:36(1:29), 10:44, 5:14, 9:11(2:07,P56)。
これはフルトヴェングラーの47年盤的な名演である。運命の3連打の扱いと、その後の展開でのテンポ設計が実によくフルトヴェングラーに似ている。終楽章の凱歌の3音もテンポをためて高らかに奏するなど、かなり時代がかった演奏である(よって終楽章のリピートはしない)。最後のコーダだけはフルトヴェングラーみたいにトチ狂うことはなく、ある程度のところで踏みとどまっている。
同日の「オベロン」序曲の他、翌年の「エグモント」序曲、前年の交響曲第1番も収録されている。
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
キャニオン。1992年4月25〜26日録音。5度目の全集。
9:39(1:51), 11:47, 6:40, 13:31(2:32R, P69)
こういう演奏はライヴで聴いてはじめてその偉大さがわかるのだろう。どんなに録音技術が進歩しても、なかなか朝比奈のライヴの良さは全部を収録することはできないと思う。
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル,cho
EMI正規発売第1弾。1992年5月28,31日、ミュンヘンのガスタイクでのライヴ。
この演奏はどうも気に入らない。第1楽章は、提示部をリピートせず、なんとなくせかせかした印象。後半の楽章は逆にもたれ気味である。
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団
インターコード(現EMI発売)。1992年8〜9月録音。
6:41(1:18), 8:39, 4:38, 10:45(2:02R, P55)
これは凄い名演! 渋いジャケットの「運命&第1」盤を店頭で見かけ、「これはいかにもゲンダイオンガク的演奏に違いない」と予想して、買って聴いたら予想通りだった。そこで他の曲も買い揃えたのである。現在、オリジナル楽器派に対抗できるモダン楽器演奏はこれしかない。
クリスティアン・ティーレマン指揮フィルハーモニア
DG。1996年録音。7:55(1:33), 11:43, 5:57, 10:51(2:02R, P58)。
冒頭の3連打は重々しく始まるが、フェルマータの後の“間”がほとんど無い。第4楽章も最初の数小節のみやたら遅いが、すぐに速くなってしまう。重厚な音色でフルトヴェングラーを目指しているようだが、快速テンポとのバランスがとれていない。
新人でいきなりデビュー盤が第5と第7のカップリングというドイツ期待の若手である。
ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン
TELDEC。1999年5月〜7月、旧東ドイツ放送局ホールでの録音。
7:49(1:31), 11:06, 5:41, 11:07(2:04R, P57)
「バレンボイムはフルトヴェングラーを目指している」という印象は、この全集でも変わらない。オリジナル派の新校訂版ばかりが注目される現在においては、とことん復古的な名盤である。
(ベルリン・フィルの演奏会でバレンボイムがこの曲を振っているのをNHK-BS2で見た。そこでも、小さな身体・短い腕をフルに動かして、この曲を重厚に演奏していた。)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル
DG。2000年5月録音。全集。
7:10(1:26), 9:06, 7:47(3:00R), 10:36(2:01R, P52)
この全集では、アバドはジョナサン・デル・マーのベーレンライター版を基本にした演奏を行っているというが、この「運命」では第3楽章でリピートをしている、などベーレンライター版に即していない点もある。
加えて全集盤特典のブックレットでのインタビューでは、相変わらずフルトヴェングラー賛美の言葉を述べているなど、アバドのおかれた「引き裂かれた状況」がよくわかる全集ではある。
サイモン・ラトル指揮ウィーン・フィル
EMI。2000年12月1〜3日、ムジークフェラインにおけるライヴ録音。
7:11(1:26), 8:59, 4:50, 10:23(1:57R, P54)
デル・マー校訂ベーレンライター版による演奏。(よって、第3楽章はリピート無し)。
ラトルは、クリティカル・エディションを採用する上、たまに古楽器オケの指揮もしている。しかし一方で、彼はデビュー直後の頃に、「私にもっとも影響を与えた指揮者はフルトヴェングラーです」などと発言してもいる。こうした点で、ベルリン・フィルの前任者アバドと共通するところがあるわけだが、このベートーヴェンを聴くと、その相反する要素をよりバランスよく消化しているのはラトルのほうであると思われる。アバドのベルリン・フィルとの全集の演奏を聴くと、オケがあまりに貧血気味に聞こえるのだが、このラトル指揮のウィーン・フィルは変に音をやせさせることなく、ホルンやティンパニも大活躍して、しっかり全力を出しきった演奏をしている。やはりベートーヴェンは、− 古楽器だろうがモダン楽器だろうが − 奏者が全力を出していることがわかるように演奏しなくてはならないのである。
カップリングは、チョン・キョンファのソロでブラームスのヴァイオリン協奏曲である。
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル
TDK。DVD。2001年2月12日、聖チェチーリア音楽院ホールでのライヴ。
DGへの全集録音後、ガンの手術を受けた翌年の映像全集中の1枚。ベーレンライター版によりながらも第3楽章リピートを行うというのはDG盤と同じ。ライヴのため生き生きとしており良い。
サイモン・ラトル指揮ウィーン・フィル
EMI。2002年4月〜5月、ムジークフェラインにおけるライヴ録音。7:14(1:24), 8:58, 4:47, 10:24(1:57R, P55)
全集に収録されているものである。全体の設計は2年前の録音とほとんど同じであるので、優劣をつけるのは意味がない。
ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団
ヘンスラー。2002年9月3日、シュトゥットガルト・リーダーハレ・ベートーヴェンザールにおける「ヨーロッパ音楽祭」ベートーヴェン・チクルスのライヴ録音。
ベーレンライター版と表記されているが、第3楽章をリピートさせている。同版ではこのリピートは採用されなかったのだから、少なくともこの曲に関してはベーレンライター版と表記するのはおかしかろう。
しかし演奏は素晴らしい。6:11(1:14), 7:59, 7:47(2:56R), 10:32(2:02R,P50)。
この第1楽章はモダン楽器のオケとしては驚異的なスピードである。しかしティンパニ&トランペットのリズム部隊が実に良い。「古楽器的奏法を理解し、ナチュラル・トランペットや細管トロンボーンといった楽器の選定にも意をはらった」(HMVの解説広告より)というが、それに加えて、同じ南西ドイツ放送傘下にあるギーレン&バーデン=バーデンの現代音楽的要素も兼ね備えた名演である。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5-s.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c21
22. 中川隆[-14159] koaQ7Jey 2020年1月25日 01:04:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1010]
ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」ハ短調 作品67 オリジナル楽器「派」の録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5-org.htm
全て全集録音の一環である。彼らオリジナル派は、新しい校訂版の研究者たちとの共同作業で演奏・録音を行っている。よって、彼らの録音においては第3楽章のリピートが行われていることが多い。しかしブライトコプフ新版では「リピートは ad libitum(ご自由に)」、ベーレンライター版では「リピート無し」である。
なお言うまでもないことだが、第1楽章・第4楽章は、ここにあげた盤は全てリピートしている。
ニコラウス・アーノンクール指揮
コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン
SONY。2015年5月8〜11日、ムジークフェラインでのライヴ録音。第4番とカップリング。
手兵のピリオド楽器団体を用いての新たな全集を作る、とのことだったが、同年末に突如「引退」を表明することになり、このディスクが「最後の録音」ということになった。第3楽章でのルフトパウゼだけなら、往年の巨匠フリッツ・ライナー盤という前例もある。この楽章でリピートしているのは旧盤と同じだ。しかし、終楽章のラストの和音の叩き付けに不自然な間をとって、「いつ、終わるんだ?」と聞き手を不安に陥れる。しかし、そういうことをやる必然性は全く感じられない。最後の録音でこういう変なことをやって終わる、というのも彼らしいということか。
ヨーロッパ室内管弦楽団
STYRIARTE。DVD。2007年6月、グラーツ、ヘルムート・リスト・ハレにおけるThe styriarte Festivalでの収録。
ハ長調ミサ曲ととカップリング。演奏はもちろん悪かろうはずがない。下記のTELDECの交響曲全集から15年以上たっての再録音となる。
このDVDは、2011年5月ドイツ旅行の際、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスのロビーにあるショップで購入した。せっかくこういう所で買うのだから、日本では入手できないものを探したのである。帰国後、HMVなどを調べてみたが、案の定どうやら扱っていないようだ。
ヨーロッパ室内管弦楽団
TELDEC全集。1990年6月29日、グラーツ、シュテファニエンザールでのライヴ録音。第3楽章リピートあり。
トランペットのみナチュラルで他はモダン楽器のオケである。終楽章冒頭はフルート、ピッコロの音色が目立つ。LD「田園・第8、及び第1〜8番のリハーサル風景」によれば、その部分でアーノンクールは同パートに「口笛(whistle)のように響かせるように」と指示している。また同じ部分で金管に対しては、「アンブシュア(口の形)に注意して、できるだけ金属的な音で」と注文している。
テンポはオリジナル派の中でもっとも遅いが、そのテンポの中でひとつひとつ丁寧に表情をつけており、聴いていて興奮はしないが実に面白く退屈しない。
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
SDG。2011年11月16日、NY,カーネギー・ホールでのライヴ録音。
6:39, 8:36, 7:50, 10:40, 計33:50。同日の第7番とカップリング。
オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
ARCHIV全集。1994年3月、バルセロナ、Palau de la Musicaでのライヴ録音。
(ガーディナーは、この場所でモーツァルト没後200年のレクイエムを演奏している。)
第3楽章リピート有り。
6:30, 8:15, 7:12, 9:50。
この全集はデル・マー校訂(ベーレンライター新版)を用いているが、この「運命」のみはブライトコプフ新版の先取りであり、同版校訂者クライヴ・ブラウンの解説が載っている。しかし、演奏に際してはガーディナー自身が最終的判断をしているはずである。
最初から最後までもの凄い快速テンポであるが、オケはそれにしっかりつけており、なおかつその見事なフレージングは他の追随を許さない。まさにオリジナル楽器演奏の極致というべきである。
第3楽章最後のブリッジ・パッセージ中の第295小節からのホルンの合いの手のつぶれた音色が面白い。(似たような音をガーディナーは幻想交響曲の終楽章でも要求しているのが同曲のLDで確認できる。)
ティンパニの音も理想的だ。終楽章の150〜152小節ではブリュッヘンのようなテンポの溜めはほとんどないが、弦の弾力のある音にティンパニの連打が加わってもの凄い効果である。終楽章は基本テンポがとにかく速いので、これなら最後のプレストへ向けてのテンポ処理に頭を悩ます必要がない。そのままのスピードで“引力にまかせて大気圏突入”しても、名人集団ORRは崩壊することはない。
このコンビの初来日の時、92年10月、水戸芸術館のあの小さなホールで、「運命」と「第9」というとんでもないプログラムを聴いた。→こちらへ。
ジョス・ファン・インマゼール指揮
アニマ・エテルナ
ソニー。1999年10月18〜20日、東京すみだトリフォニーホールでのライヴ録音。
第3楽章リピート無し。カップリングは「田園」。
インマゼールは基本的にベーレンライター版を用いて録音していくようであるが、この「運命」はCDケース裏に「ブライトコプフ版も参照した」と記載されている。
「第3楽章でリピートするためのブライトコプフ新版採用か」と疑ったのだが、その予想に反して、うれしいことにこの録音はリピート無しである。どうやらこれで「第3楽章リピート無し」が再び主流になりそうである。
しかし演奏そのものは、特に第1楽章でテンポが速すぎて犠牲になったものが多い。この楽章でこんなに速いテンポで、なおかつフェルマータの後に“間”をおかずに続けていくやり方は、私は好きではない。終楽章は主部は普通のテンポだが、プレストに入って急に速くなる感じである。
「レコ芸」00年4月号で小石忠男氏はこの「運命」の評で、「ブライトコプフ版参照とある理由は、第3楽章でギュルケ版のようにスケルツォを反復せず、旧来のブライトコプフ版にしたがっているためであろう」などという間抜けなことを書かれている。インマゼールが参照したのはブライトコプフの旧版ではなく新版なのに!
インマゼールはこのあと、ZigZagレーベルに別に全集を完成している。ソニーへの単品での録音は「運命・田園」と「第9」の2枚のみ。
アニマ・エテルナ
EPR-Classic。DVD。
2009年9月22日、ブリュッセル、Concert NobleのBall Roomでのライヴ収録。
この録音会場は、コンサートホールではなく、宮殿か高級ホテルの宴会場のような雰囲気の場所である。聴衆はそれこそ結婚披露宴会場のように丸テーブルを囲んでワインを飲みながら、演奏を聴いている。
付録のドキュメンタリー(日本語字幕無し)では、インマゼールがウィーンのロヴコヴィッツ侯爵邸を訪れる場面がある。こういう所でこの曲は演奏されたのだ、と言っているのかな? 「運命」「英雄」は同侯爵に献呈され、「英雄」は確かにロヴコヴィッツ邸で非公開初演がなされているが、しかし「運命」の初演はアン・デア・ヴィーン劇場である。
その他
フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
PHILIPS全集。1990年12月録音。第3楽章はリピート無し。
第1楽章冒頭は、古楽器派には珍しく最初の3連打のみテンポをためており、しかもフェルマータの後で間を空けている。主部のテンポもアーノンクールにつぐ遅めのテンポである。一方で終楽章のテンポは速めで、しかもプレスト以後は快速ガーディナー盤よりも速いテンポで追い込んでいる。また、終楽章の第3楽章再現直前(150〜152小節)の全音符伸ばしでリテヌートしてタメをつくるあたりは、表現主義者ブリュッヘンの面目躍如である。
彼は、他のオリジナル派の人たちとは異なり新しい校訂版にはあまり興味がないようである。
ブリュッヘンは、GLOSSAレーベルに2011年10月のチクルスで全集をライヴ録音している。
チャールズ・マッケラス指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル
EMI。1992年6月25,26日、リヴァプール、The Philharmonic Hallでの録音。第3楽章のリピート無し。
ベーレンライター版の校訂者デル・マーとの協力による全集。楽器はすべて「現代楽器」である。(アーノンクールのようなナチュラルトランペットの音も聞こえない。)
マッケラスは、2006年のエジンバラ音楽祭でスコットランド室内管(第9のみフィルハーモニア管)と全集ライヴ録音をしている。
ブルーノ・ヴァイル指揮ターフェルムジーク・オーケストラ
SONY。2004年10月17-19日、トロント、ジョージ・ウェストン・リサイタルホールでの録音。
「田園」とカップリング。
クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オヴ・エンシェント・ミュージック
オワゾリール。1986年8月、ウォルサムストウ・タウン・ホールでの録音。第3楽章リピートあり。
オリジナル楽器全集の草分けである。第2楽章以降の落ち着いたテンポ設定は、むしろ古楽器アレルギーの人に受け入れられるかもしれない。
ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
EMI。1988年4月、アビー・ロード・スタジオでの録音。第3楽章リピートあり。
オリジナル楽器の「騒音性」をもっとも良く活かした名演。これと比べるとガーディナーなどの響きはちょっと洗練されすぎている気がしてしまう。ただ、第1楽章の長いフェルマータにおいて、弓を返す時に音をさらに後押ししてふくらませているのは、ちょっと違和感がある。
デイヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
ARTE NOVA。1997〜98年録音。第3楽章リピート有り。
「モダン楽器によるベーレンライター新全集版による世界初録音」と記載されているが、実際は、ジンマンはデル・マーの校訂報告を読んでいないらしい。(→山江氏のジュラシックページ参照)
また第1楽章のオーボエ・ソロに装飾あり。(他の曲でも、ところどころ木管のソロに、バロックのアリアのようにかなり自由な装飾を許しているのは、本全集の特徴であり、評価がわかれるところであろう。)
しかし、弦のキザミがかなりハッキリ聞こえるのは大変気持ちがよい。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5-org.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c22
23. 中川隆[-14158] koaQ7Jey 2020年1月25日 01:06:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1009]
ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」ハ短調 作品67
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5.htm
私は、大学時代の1987年5月に仙台においてマズア指揮ゲヴァントハウス管で、また、92年10月に水戸芸術館においてガーディナー指揮ORRで、この曲の名演を生で聴いている。どちらも第3楽章リピート付きだったが、良い演奏であった。またこれも大学の時、大町陽一郎指揮東北大学交響楽団でも聴いたはずだが、これはリピート無しだったと思う。
1803〜08年にかけて作曲。1808年12月22日、アン・デア・ヴィーン劇場初演。
クラシック音楽界でもっとも有名な曲である。全編にわたって「8分音符3連打」がモチーフになっている。第3楽章から第4楽章へはアタッカで続けて演奏される。また第4楽章の再現部では、第3楽章から第4楽章へのブリッジ部分まで戻って「闇から光りへ」が再現される。
この曲は演奏家にとって大変難しい問題を抱えている。
たとえば第4楽章、AllegroからコーダでPrestoになるわけだが、これをノーマルにその通りにやって人々をうならせるのは容易ではない。「勝利の凱歌」をえんえんと続けた後のコーダで腰砕けになってしまう例は枚挙にいとまがない。
フルトヴェングラーの47年ライヴのようなトチ狂った演奏は、「禁じ手」のように思えるが、実はAllegro→Prestoという点では楽譜に忠実なのだ。これに対してトスカニーニは、フルトヴェングラーへの対抗意識からかどうか知らないが、意識的にコーダではPrestoをそんなに速くないテンポでやっている。
またクレンペラーのような全編雄大なテンポで押し切るやり方は、それが可能ならば非常に偉大な演奏になる。しかしこれもAllegroと言えるかどうかは疑問である。(なお、こういった議論においてはクナッパーツブッシュの演奏は文字通り「論外」である。)
第1楽章は、終楽章以上に問題が多い。3連打のテンポと、頻出するフェルマータをどう処理するか。
まず伝統的なやり方として、冒頭の3連打2回はその後の主部よりも遅めに演奏するやり方がある。これを理論化したのがフルトヴェングラーの「音と言葉」所収の論文である。彼は、冒頭5小節は全曲のモットーであり、真の主題はその後の部分からである、ということを、ベートーヴェンの自筆楽譜の状態から結論づけたのである。
ベートーヴェンは、3連打2回のうちの2回目のフェルマータがついている第5小節は全曲を書き終えてから追加した。その部分と似たようなパターンの所全ても同様に1小節追加した。これは、2回目のフェルマータは1回目よりも長く延ばしてほしい、という意志を示したものである。それによってこの部分を他の部分から切り離して特別な意味を持たせたいということなのだ。フルトヴェングラーはこのように解釈して、それを実行しているのである。
しかし音楽理論的には、この冒頭2回も第1主題の構成要素である。それは、提示部最後のリピート記号で冒頭まで戻らせていることからもわかる。
このことを気にしてか、フェルマータの後に「間」をほとんどあけない演奏がある。これは私はおかしいと思う。フェルマータは、「待つ」=「時の流れを止める」という役割があるのだから、フェルマータを長く延ばせば延ばすほど、その後に長めの「間」をあけるべきだと思うのだ。具体的に言えば、特に楽譜通りの速いテンポで演奏する場合には、フェルマータを切る動作と、次の拍とは別にするべきである。(LDのカラヤンはそうやっている。)そうでないと、会場の残響の中で、フェルマータの次の始まりの音が聞き取れなくなってしまうからである。フルトヴェングラーが「テンポはそれが演奏される場所によって異なる」と言っているのはそういうことなのである。だから、クレンペラーのように基本テンポが遅い場合には、切る動作を次の小節のアインザッツにしても問題はない。
まだある。
いったいこの曲は第1楽章の悲劇性が主なのか、それとも終楽章の勝利が主なのか、ということである。これによって両端楽章のテンポのバランスが違ってくるのである。
両方とも遅い(この場合、終楽章の堂々さが目立つ)・・・・クレンペラー、クナッパーツブッシュ、ベーム
両方とも速い(楽譜通り)・・・・ライナー、ガーディナー、カルロス・クライバー、カラヤン
第1楽章は速めで、終楽章は堂々と終結・・・・エーリヒ・クライバー、トスカニーニ、ホグウッド、インマゼール
第1楽章を重々しく、終楽章は速めのテンポで追い込む・・・・フルトヴェングラー指揮BPO47年5月27日DG盤
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven5.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c23
国会は既に法案の中身を審議する場では無くなっている
2020/1/24
『恋と国会』・・・国会の不思議、丸分かり!! マンガ
https://green.ap.teacup.com/pekepon/
■ とうとう西炯子のマンガを買ってしまった・・・ ■
書店のマンガコーナーで何とも言えないオーラを放つ西炯子。10年程前、『娚の一生』を買おうか迷いながらも、まん丸な瞳の絵柄が好きで無かったので買わなかった事で、「自分的に乗り遅れた」作家というイメージが強く、今まで買う事に躊躇していました。
しかし、最近書店に並ぶ『恋と国会』というタイトルには抵抗出来ませんせんでした。だって「恋」と「国会」ですよ。このミスマッチ感、気になるでしょう。(ついでに『未亡人登山』というマンガも買ってしました。こちらのミスマッチ感もナカナカ。)
■ 秋葉原の地下アイドルが国会議員になった!? ■
『恋と国会』より
海藤福太郎(25)は祖父、父共に元首相経験者のサラブレット議員。幼い頃より国会議員の何たるかを叩き込まれた福太郎は父の引退で地盤を引き継ぎ国会議員となります。
そんな彼の前に表れたのは同じ1年生議員の山田一斗(25)。何と「元秋葉原の地下アイドル」という経歴の持ち主。2人は政権与党・大国民党に所属します。
国会の「と」の字も知らない一斗の言動はとにかく破天荒。国会冒頭の首班指名でいきなり自分の名前を書いて、「造反行為」として大国民党を除名されそうになるなど、とにかく無知故の型破りが目に余る状態。福太郎はそんな彼女を苦々しく思っていますが、何故か幹事長から「世話を見ろ」と言われてしまう。
何を言い出すか分からない一斗に振り回されながら、国会のリールや慣習を教えて行く内容ですが、「職業議員としての常識」はことごとく我々国民の常識からかけ離れている事に読書は驚きます。
■ 多忙な国会議員がどうして委員会に出席出来るの? ■
一例を挙げると委員会における「さしかえ」という習慣があります。国会には法務委員会や外務委員会など様々な委員会が有ります。各法案は関連委員会で事前審議されて本会議に提出される。議員は委員会に所属していますが、多忙な議員は委員会に出席する時間が作れません。
こういう時、「さしかえ」が行われます。1年生議員を中心に代理で委員会に出席するのです。法案が委員会を通過する為には1/2以上の出席が必用なので、その数合わせの為に与党は若手議員を代理出席させるのです。若手議員は「さしかえ」を掛け持ちしたりするので、「さしかえ」がどんどん入れ替わってゆく事も・・・。
私は常々、多忙な大物政治家が良く委員会に出席出来るなと疑問に思っていましたが、これを読んで、その疑問が氷塊しました。「なーーんだ」と思うと同時に、「民主主義」を「ルールとして形骸化」している国会の姿に飽きれました。
こんな「国会のトリビア」が満載の『恋と国会』。今後、福太郎は一斗に惹かれて行くのでしょうが、恋のライバルと思しき野党議員も現れ、2巻目以降が楽しみな一冊です。
■ 「多数決が正義」の国会で野党は「時間闘争」しか対抗手段を持たない ■
「民主主義」は単純に言ってしまえば「多数決」が全てです。国会で多数派の与党は、審議などせずとも強硬採決によって、どんな法律も成立させる事が出来ます。
しかし、それでは「数による独裁」となってしまうので、形だけでも国家で与野党が充分に法案について話し合って採決するというポーズを取ります。
ところが、皆さんも不満を持たれている通り、国会で法案の中身が議論される事は少なく、政府のスキャンダルの追及に野党は明け暮れています。これをして「くだらない野党」とか「無力な野党」と揶揄する人がネトウヨに限らず大勢居ます。(国民の殆どがそう感じています)
しかし、これが少数派の野党に精一杯の抵抗だという事を知っている国民は少ない。法案の内容を審議した所で、最後は「数の力」で法案は成立してしまいます。国民も「充分内容を審議した」と納得してしまいます。
そこで、少数派の野党は「時間切廃案」という「時間闘争」で抵抗するしか手が有りません。
本来、時間稼ぎは法案の内容の審議であるべきですが、国民はこんな細かい事に興味はありません。国民を見方に付けない限り「審議は充分尽くされた」として採決に持ち込まれてしまいます。だから野党は「国民が興味を示し易いスキャンダル」で審議時間を使い尽くし、「強硬採決を許さない空気を醸成」して、法案をまとめて「時間切れ廃案」に持ち込む「時間闘争」を常套手段にしています。
■ 国会は既に法案の中身を審議する場では無くなっている ■
そもそも日本の国会は法案の中身を審議する場では無くなっています。その理由は「議員が勉強不足」だから。
日本の法律は「議員立法」が少ない事は皆さんもご存じだと思います。法律の多くは「閣法」です。「閣法」は、内閣が閣議決定して国会に提出される法案の事です。
1) 官僚が法案の雛形を作る
2) 自民党内の政務調査会の部会で法案の内容が審議される(利権の調整)
3) 自民党の「総務会」で法案の内容が検討される(さらなる利権の調整)
4) 国会への法案提出が閣議決定される
5) 国会内の委員会で法案が審議される(野党との調整)
6) 法案が本会議に提出され、審議後に採決される
自民党は「政治主導」の名の元に小泉政権時代から国会議員の国会での自由な裁量を制限して来ました。議員は国会で自民党が提出した議案に反対すると、次の選挙で党の公認が得られなくなるのです。だから、現在の国会議員は「数合わせ」に過ぎないのです。
当然、国会議員の質も低下します。かつては政策に精通した議員も多く居ましたが、現在では「選挙で勝てる議員」が「良い議員」です。世襲議員で後援会の基盤がしかかりしていたり、或いは話題性があって当選が見込める人が党の推薦を受け易くなります。
かくして国会で法案の中身を審議出来る議員が居ない、いえ必用無くなったのです・・・。
イギリス議会にしても、アメリカ連邦議会にしても、民主主義は形骸化しており、民主主義の理想とは大きくかけ離れた物になっていますが、日本の国会の形骸化はその最たるものかも知れません。「民主主義」が本当に機能する為には「理知的で公平な国民」が必須ですが、実際には国民は「利己的な集団」に過ぎません。結果的に民主主義を国民の手に委ねると国家は滅亡します。だって、税金払う人、居なくなりますから・・・。
「民主主義」は近代政治が生み出した「妥協案」ですが、様々な手段を使って「民主主義を制約」する事で機能して来ました。日本の国会システムも、長い年月をかけて作られた「妥協案」の一つです。
国民から見ると「理解不能」な国会システムですが、これも先人の知恵(と欲望)の結晶と思えば、評価する点もあるのかも知れません。
『恋と国会』とセットで買ってしまった『未亡人登山』。はっきり言って「タイトル買い」です。どちらのタイトルもミスマッチ感がMAX。
内容は、山で最愛の夫を亡くした「未亡人」が、夫が残した登山手帳を元に、夫の山での足跡を辿るというもの。最初の谷川岳こそ「喪服で登山」というエキセントリックな内容でしたが、その後は若い男性とイチャイチャ登山に変容。・・・おい、未亡人、夫があの世で泣いてるぞ!!とツッコみながら読みました。
まあ、どーでも良い作品ですが・・・軽い内容だけに、何故だか「気軽に山に行きたくなる」そんな不思議な機能を持った一冊です。二巻完結の様ですが・・・。
しかし、「未亡人」という言葉、何故こんなにも男心を刺激するのでしょうか・・・。同じ対象を表現する「若後家さん」とは雲泥の差です。私的には「未亡人」のイメージはジャンヌ・モローですね。これにピンと来た人は、多分それなりのお年ですね。トリフォーの『黒衣の花嫁』、私も騙されて殺される側だな・・・。(「若後家さん」のイメージは関根恵子・・・)
ジャンヌ・モローの妖艶さに比べると、『未亡人登山』の未亡人は、全然「未亡人指数」が足りません。むしろ生娘って感じで原点5。
https://green.ap.teacup.com/pekepon/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/842.html
1. 中川隆[-14157] koaQ7Jey 2020年1月25日 10:09:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1007]
77 71 分前(編集済み)
戦前は一切公衆の面前に出なかった皇族が終戦直後から人前で手を振って芸能人化する方向に転向した理由
戦争を主導した昭和天皇の戦争犯罪を隠すのが目的だった
終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。
何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。
戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。
戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。戦争後の四年間、昭和天皇は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。
そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/426.html#c1
今上天皇に敬意を払う必要が無い理由
昭和天皇は天皇の血筋ではないから
大正天皇は4人の男子を生んだが本当は「種なし」であったために,東久邇宮稔彦のような〔皇族の立場にある女性になぞらえていえば「〈天皇の配偶者:皇后〉を出せる資格がある」とされた皇族の立場にあった〕男性が主に,万世一系の維持のために性的に協力したという話になる。
明治以降の天皇家の種が断絶していてはまずい。それゆえ,皇室の藩屏たるそれも「皇族のなからその種」を提供し,万世一系の系譜を創作しつづけてきたわけである。
明治天皇自身が何人もの側室(典侍および権典侍といったが,要するに正妻以外の2号以下の妾)をもち,5人の側室に女10人:男5人を産ませた。だが,男子のうち成人したのは大正天皇だけであった。
この大正天皇が〈種なし〉であったために,明治天皇があえて裕仁天皇の種つけをした話もある。
大正天皇は実際には正妻:貞明〔皇后〕とのあいだで子どもができていなかった。そこで,貞明に子どもを産ませて天皇「後継者:男子」をえようと,東久邇宮稔彦などが代わりにその「人間再生産」の製作作業 [大正天皇も嫌々ながら認めていた自分の配偶者の他者との性交渉] に参与したという筋書なのである。
貞明は,最初に押しつけられた男〔明治天皇(舅!)か?〕を嫌がっていた。それで,裕仁に拒否反応をもっていた(この段落,鬼塚,前掲書,408頁, [ ] 内のみ 422頁)。
それにしても,裕仁と秩父宮・高松宮・三笠宮の全員が顔つきが違う。
秩父宮の父〔東久邇宮稔彦?〕が貞明の心を射止めていたので,貞明は秩父宮を溺愛した。貞明はそのせいで,裕仁を皇位継承から外し,秩父宮を天皇の座に送りたかった。これを画策したのが山県有朋であった。これはさらにまた,昭和天皇の妃が薩摩藩の血を引く良子に決定されたさい〈色盲〉問題が提起されたひとつの背景である。昭和天皇の出生の疑惑
大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。
とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。
まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。
この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、
「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」
と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。 次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。
この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。
また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。 ここで疑問に思うのは、以下の3点である。 1.東久邇稔彦の発言の信憑性
東久邇稔彦は皇室と縁戚関係にあるものの、自分の妻・聡子内親王の兄である義兄の大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の崩御の際にも留学先から帰国しなかった。
その大正天皇を貶めるため、あえて混乱を招くような嘘をついたのか、戦後の臣籍降下をあれほど熱望していたものの、辛酸を舐めて皇室に怨恨でも持ったゆえの発言なのか。
2.三笠宮誕生の必要
明治時代に貞明皇后は3人の親王を産んで皇統を守ったのだから、大正時代に三笠宮を産む必要はなかったと思われる。なぜ、明治天皇も昭憲皇太后も亡くなった後に子供を産む必要があったのか。
東久邇稔彦の発言から感じる矛盾である。 3.大正天皇の子種なしについての決定的証拠がないこと
大正天皇に子種がないとする証拠は、東久邇稔彦の発言しか見当たらない。
あとは、噂や風説などであり、医学的見地から見た証拠はどこにもないのである。
確かに大正天皇は病弱だったものの、貞明皇后と結婚した当初は健康体であった。
皇族の中にも病弱だった賀陽宮邦憲王のように健康を回復して、子供をもうけたり、伏見宮貞愛親王の嫡子・邦芳王は病気により宮家の存続が危ぶまれ、宮家を継承できず、代わりに兄の博恭王が継いだ場合もある。
原武史は、大正天皇に万が一のことがあった場合、有栖川宮威仁親王が次の皇位継承者であったと語っている。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/438.html
337. 中川隆[-14156] koaQ7Jey 2020年1月25日 10:27:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1006]
化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明!
日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化
https://tocana.jp/2020/01/post_138772_entry.html
子供たちのIQ低下が深刻だ。科学ニュース「Science Alert」(1月15日付)によると、この度ニューヨーク大学が科学ジャーナル「Molecular and Cellular Endorinology」に発表した論文で、有毒物質が子供たちのIQを大幅に奪っていることが明らかになったという。
論文共同執筆者レオ・トラサンデ氏は、鉛、水銀、難燃剤、殺虫剤を「当て逃げ化学物質」と呼んでいる。子供たちの脳に不可逆的なダメージを与えるからだ。
「子供たちの脳の発達は繊細で傷つきやすいのです。わずかでも脳が発達する過程を乱せば、永久的な結果を残すことになるのです」(トラサンデ氏)
【重要】化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明! 日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化!の画像2
画像は「getty images」より
研究チームが2001年〜2016年のIQスコアを分析したところ、この15年の間に鉛により7800万ポイント、殺虫剤により2700万ポイント、水銀により250万ポイントも子供たちのIQが低下していたことが分かったという。
鉛や水銀による影響は以前から指摘されてきたが、難燃剤と殺虫剤もIQの低下と深い関係があるそうだ。実は同期間に、難燃剤に使用されるポリ臭化ジフェニルエーテルと殺虫剤に使用されるリン酸エステルに起因する学習障害の子供の割合が、67%から81%に増加していたという。難燃剤は可燃性の素材を燃えにくくするもので、家電製品や建築素材に含まれている。殺虫剤とともに日常的に接する機会が多いものだ。
「重金属への被曝を減らすという我々の努力は功を奏していますが、有毒物質一般への被曝はアメリカ国民の肉体・精神・経済の健康への驚異的なリスクであり続けています」(トラサンデ氏)
【重要】化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明! 日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化!の画像3
画像は「getty images」より
重金属や難燃剤、殺虫剤への日常的な被曝により、2001年〜2016年の間におよそ120万人の子供たちが何らかの知的障害を発症しているという。さらに、これは米国経済へも大きな打撃となるとのことだ。トラサンデ氏によると、IQ1ポイントのロスは、生涯年収の2%を失うことに等しいという。
「子供たちの脳は経済のエンジンです。もし自分の子供が1ポイントのIQを失って帰ってきても、親は気付かないでしょう。しかし、10万人のこどもがそれぞれ1ポイントのIQを失ったら、経済が気づくのです」(トラサンデ氏)
2001年〜2016年の間に子供たちのIQロスにより6兆ドル(約660兆円)の損失があったというから恐ろしい。個々人の損失は数%だとしても、国家的には大問題だ。だが、さらに恐ろしいのは、これは氷山の一角に過ぎないということだ。今回の研究では鉛、水銀、ポリ臭化ジフェニルエーテル、リン酸エステルの影響だけが調査されたが、トラサンデ氏によると他にも脳の発達に悪影響のある物質は多くあり、現実はさらに悪い状況だという。
それは日本も同じだろう。いや、さらに深刻かもしれない。たとえば、日本政府は世界中で使用禁止が進んでいる除草剤の「ラウンドアップ」に含まれるグリホサートの残留農薬基準を大幅に緩和するなど、化学物質の人体への影響に無頓着だからである。また、EUのRoHS指令は鉛、水銀、ポリ臭化ジフェニルエーテルなどを含む10種類の有害物質を指定しているが、日本のJ-Mossグリーンマークでは6種類にとどまっている。
日本の子供は諸外国以上に有害物質に曝されている恐れがある。政府には国の未来を見据えた判断をしてもらいたいものだ。
参考:「Science Alert」、「日経XTECH ACTIVE」、ほか
158. 中川隆[-14155] koaQ7Jey 2020年1月25日 10:27:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1005]
化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明!
日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化
https://tocana.jp/2020/01/post_138772_entry.html
子供たちのIQ低下が深刻だ。科学ニュース「Science Alert」(1月15日付)によると、この度ニューヨーク大学が科学ジャーナル「Molecular and Cellular Endorinology」に発表した論文で、有毒物質が子供たちのIQを大幅に奪っていることが明らかになったという。
論文共同執筆者レオ・トラサンデ氏は、鉛、水銀、難燃剤、殺虫剤を「当て逃げ化学物質」と呼んでいる。子供たちの脳に不可逆的なダメージを与えるからだ。
「子供たちの脳の発達は繊細で傷つきやすいのです。わずかでも脳が発達する過程を乱せば、永久的な結果を残すことになるのです」(トラサンデ氏)
【重要】化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明! 日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化!の画像2
画像は「getty images」より
研究チームが2001年〜2016年のIQスコアを分析したところ、この15年の間に鉛により7800万ポイント、殺虫剤により2700万ポイント、水銀により250万ポイントも子供たちのIQが低下していたことが分かったという。
鉛や水銀による影響は以前から指摘されてきたが、難燃剤と殺虫剤もIQの低下と深い関係があるそうだ。実は同期間に、難燃剤に使用されるポリ臭化ジフェニルエーテルと殺虫剤に使用されるリン酸エステルに起因する学習障害の子供の割合が、67%から81%に増加していたという。難燃剤は可燃性の素材を燃えにくくするもので、家電製品や建築素材に含まれている。殺虫剤とともに日常的に接する機会が多いものだ。
「重金属への被曝を減らすという我々の努力は功を奏していますが、有毒物質一般への被曝はアメリカ国民の肉体・精神・経済の健康への驚異的なリスクであり続けています」(トラサンデ氏)
【重要】化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明! 日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化!の画像3
画像は「getty images」より
重金属や難燃剤、殺虫剤への日常的な被曝により、2001年〜2016年の間におよそ120万人の子供たちが何らかの知的障害を発症しているという。さらに、これは米国経済へも大きな打撃となるとのことだ。トラサンデ氏によると、IQ1ポイントのロスは、生涯年収の2%を失うことに等しいという。
「子供たちの脳は経済のエンジンです。もし自分の子供が1ポイントのIQを失って帰ってきても、親は気付かないでしょう。しかし、10万人のこどもがそれぞれ1ポイントのIQを失ったら、経済が気づくのです」(トラサンデ氏)
2001年〜2016年の間に子供たちのIQロスにより6兆ドル(約660兆円)の損失があったというから恐ろしい。個々人の損失は数%だとしても、国家的には大問題だ。だが、さらに恐ろしいのは、これは氷山の一角に過ぎないということだ。今回の研究では鉛、水銀、ポリ臭化ジフェニルエーテル、リン酸エステルの影響だけが調査されたが、トラサンデ氏によると他にも脳の発達に悪影響のある物質は多くあり、現実はさらに悪い状況だという。
それは日本も同じだろう。いや、さらに深刻かもしれない。たとえば、日本政府は世界中で使用禁止が進んでいる除草剤の「ラウンドアップ」に含まれるグリホサートの残留農薬基準を大幅に緩和するなど、化学物質の人体への影響に無頓着だからである。また、EUのRoHS指令は鉛、水銀、ポリ臭化ジフェニルエーテルなどを含む10種類の有害物質を指定しているが、日本のJ-Mossグリーンマークでは6種類にとどまっている。
日本の子供は諸外国以上に有害物質に曝されている恐れがある。政府には国の未来を見据えた判断をしてもらいたいものだ。
参考:「Science Alert」、「日経XTECH ACTIVE」、ほか
8. 中川隆[-14154] koaQ7Jey 2020年1月25日 10:28:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1004]
化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明!
日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化
https://tocana.jp/2020/01/post_138772_entry.html
子供たちのIQ低下が深刻だ。科学ニュース「Science Alert」(1月15日付)によると、この度ニューヨーク大学が科学ジャーナル「Molecular and Cellular Endorinology」に発表した論文で、有毒物質が子供たちのIQを大幅に奪っていることが明らかになったという。
論文共同執筆者レオ・トラサンデ氏は、鉛、水銀、難燃剤、殺虫剤を「当て逃げ化学物質」と呼んでいる。子供たちの脳に不可逆的なダメージを与えるからだ。
「子供たちの脳の発達は繊細で傷つきやすいのです。わずかでも脳が発達する過程を乱せば、永久的な結果を残すことになるのです」(トラサンデ氏)
【重要】化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明! 日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化!の画像2
画像は「getty images」より
研究チームが2001年〜2016年のIQスコアを分析したところ、この15年の間に鉛により7800万ポイント、殺虫剤により2700万ポイント、水銀により250万ポイントも子供たちのIQが低下していたことが分かったという。
鉛や水銀による影響は以前から指摘されてきたが、難燃剤と殺虫剤もIQの低下と深い関係があるそうだ。実は同期間に、難燃剤に使用されるポリ臭化ジフェニルエーテルと殺虫剤に使用されるリン酸エステルに起因する学習障害の子供の割合が、67%から81%に増加していたという。難燃剤は可燃性の素材を燃えにくくするもので、家電製品や建築素材に含まれている。殺虫剤とともに日常的に接する機会が多いものだ。
「重金属への被曝を減らすという我々の努力は功を奏していますが、有毒物質一般への被曝はアメリカ国民の肉体・精神・経済の健康への驚異的なリスクであり続けています」(トラサンデ氏)
【重要】化学物質が「1億6千万以上のIQ」を米国の子供から奪ったと研究で判明! 日本はもっと悲惨…政府が国民を馬鹿化!の画像3
画像は「getty images」より
重金属や難燃剤、殺虫剤への日常的な被曝により、2001年〜2016年の間におよそ120万人の子供たちが何らかの知的障害を発症しているという。さらに、これは米国経済へも大きな打撃となるとのことだ。トラサンデ氏によると、IQ1ポイントのロスは、生涯年収の2%を失うことに等しいという。
「子供たちの脳は経済のエンジンです。もし自分の子供が1ポイントのIQを失って帰ってきても、親は気付かないでしょう。しかし、10万人のこどもがそれぞれ1ポイントのIQを失ったら、経済が気づくのです」(トラサンデ氏)
2001年〜2016年の間に子供たちのIQロスにより6兆ドル(約660兆円)の損失があったというから恐ろしい。個々人の損失は数%だとしても、国家的には大問題だ。だが、さらに恐ろしいのは、これは氷山の一角に過ぎないということだ。今回の研究では鉛、水銀、ポリ臭化ジフェニルエーテル、リン酸エステルの影響だけが調査されたが、トラサンデ氏によると他にも脳の発達に悪影響のある物質は多くあり、現実はさらに悪い状況だという。
それは日本も同じだろう。いや、さらに深刻かもしれない。たとえば、日本政府は世界中で使用禁止が進んでいる除草剤の「ラウンドアップ」に含まれるグリホサートの残留農薬基準を大幅に緩和するなど、化学物質の人体への影響に無頓着だからである。また、EUのRoHS指令は鉛、水銀、ポリ臭化ジフェニルエーテルなどを含む10種類の有害物質を指定しているが、日本のJ-Mossグリーンマークでは6種類にとどまっている。
日本の子供は諸外国以上に有害物質に曝されている恐れがある。政府には国の未来を見据えた判断をしてもらいたいものだ。
参考:「Science Alert」、「日経XTECH ACTIVE」、ほか
ベートーヴェン 『交響曲第3番』
エロイカの数々の伝説の名演の中でもクナッパーツブッシュのエロイカだけは何かが違います
Knappertsbusch conducts Beethoven's "Eroica" finale (1944)
A clip from a German documentary. "Kna" conducts the Eroica finale.
The orchestra is the Berlin Philharmonic.
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No. 3, Knappertsbusch & BremenPO (1951)
Hans Knappertsbusch (1888-1965), Conductor
Bremen Philharmonic State Orchestra (Bremer Philharmonisches Staatsorchester)
Rec. 9 May 1951 (Live Recording)
▲△▽▼
L.V.Beethoven Symphony No.3 - Hans Knappertsbusch 1953
Hans Knappertsbusch
Münchner Philharmoniker
17, December 1953
▲△▽▼
Beethoven "Symphony No 3" Hans Knappertsbusch 1961
Wiener Philharmoniker
Hans Knappertsbusch, Conductor
1961
▲△▽▼
▲△▽▼
交響曲第3番変ホ長調『英雄』(原題:伊: Sinfonia eroica, composta per festeggiare il sovvenire d'un grand'uomo 英雄交響曲、ある偉大なる人の思い出に捧ぐ)作品55は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1804年に完成させた交響曲。
『英雄』のほか、イタリア語の原題に由来する『エロイカ』の名で呼ばれることも多い。ベートーヴェンの最も重要な作品のひとつであると同時に、器楽音楽による表現の可能性を大きく広げた画期的大作である。
フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンのナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは「奴も俗物に過ぎなかったか」とナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てた、という逸話がよく知られている[1]。
この曲は、ハイドンやモーツァルトなどの古典派の交響曲や、自身の交響曲第1番・第2番からの飛躍が著しい。曲の長大さや、葬送行進曲やスケルツォといったそれまでの交響曲の常識からすると異質にも思えるジャンルとの本格的な融合、マーラーを先取りする「自由に歌うホルン」を取り入れたオーケストレーション、さらに英雄的で雄大な曲想などの点において革新的である。
この曲の題名のように用いられているエロイカ (eroica) は、男性単数名詞を形容する eroico という形容詞が女性単数名詞である sinfonia (交響曲)を修飾するために語尾変化したものである。sinfonia eroica を直訳すると「英雄的な交響曲」となる。したがって交響曲第6番「田園」の場合のように交響曲をもとにしてに田園の情景を描いたいわゆる標題交響曲とは異なり、「英雄を描写した交響曲」という意味は持っていない。
1817年(第9交響曲を作曲中のころ)、「自作でどれが1番出来がいいと思いますか」という詩人クリストフ・クフナーの質問に対し、ベートーヴェンは即座に「エロイカ」と答え、「第5交響曲(運命)かと思いました」と言う言葉に対しても「いいえ、いいえ、エロイカです!」と否定している。
作曲の経緯
作曲者の「無給の秘書」シンドラーが書いた伝記によると、当時ウィーン駐在のフランス公使だったベルナドット将軍(後のスウェーデン国王カール14世ヨハン)の勧めにより作曲を始めたものとされていたが、このエピソードはシントラーの創作であるとする説が有力視されており、この交響曲の作曲に着手したきっかけはよくわかっていない。
なお、ナポレオンが皇帝に即位したという知らせを聞いたベートーヴェンが「奴もまた俗物に過ぎなかったか。これから、人々の人権を踏みにじって自分の野心のためだけに奔走し、誰よりも自分が優れていると誇示する暴君になるのだろう」と激怒し、献辞が書いてある表紙を破り取ったという、弟子フェルディナント・リースの回想に基づく有名なエピソードが伝えられている。しかし実際は、ウィーン楽友協会に現存する浄書総譜には表紙を破り取った形跡はなく、表紙に書かれた「ボナパルト」という題名とナポレオンへの献辞をペンでかき消した上に「シンフォニア・エロイカ」と改題され、「ある英雄の思い出のために」と書き加えられている。
ナポレオンへの献呈は取り止めになり、最終的な献呈先はロブコヴィツ侯爵に落ち着いた。この書き足された「ある英雄」が誰であるのかに関しては昔からいろいろ推測されてきたが、ごく最近「この「ある英雄」は、非公開の初演に立会い、1806年7月9日にイェーナの会戦で戦死したプロイセン王子ルイ・フェルディナント(フリードリヒ大王の甥で音楽的才能もあった)ではないか」という説も出てきている。
またそれゆえに、ベートーヴェンが皇帝に即位したナポレオンに激怒したという件についても、事実であるかどうか疑いが持たれている。ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し献呈を取り止めたという説もある[2]。
初演
1804年12月、ロブコヴィツ邸にて(非公開)
1805年4月7日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場にて(公開)
編成
作曲当時のオーケストラの一般的な編成ではホルンは2本または4本である[3]が、この曲はホルン3本という変則的な編成を採用している。第3楽章・トリオではこの3本による演奏が行われる。
演奏時間
かつては第1楽章の繰り返しを含めて約52分程度が標準的であったが、近年はベートーヴェンのメトロノーム指定を尊重する傾向が強まり、繰り返しを含めて42分から48分ほどの演奏も増えている。
曲の構成
第1楽章 Allegro con brio
変ホ長調。4分の3拍子。 ソナタ形式(提示部反復指定あり)。交響曲第1番および第2番にあったゆっくりした序奏を欠いている。ただし、主部の冒頭に(修飾がつくこともあるが)2回和音が響き、3度目からメロディーが流れていく、というリズムパターンは第1番から第4番まで共通しているのではないか、と指摘する学者もいる。
第1主題は「ドーミドーソドミソド」とドミソの和音を分散させたものである。モーツァルトのジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』K.50(1767年の作)の序曲の主題に酷似しており、ベートーヴェンによる引用という説がある。
テーマはチェロにより提示され、全合奏で確保される。その後、経過風の部分に入り、下降動機がオーボエ、クラリネット、フルートで奏される。第2主題は短く、ファゴットとクラリネットの和音の上にオーボエからフルート、第1ヴァイオリンへ受け継がれる。すぐにコデッタとなり、提示部が華やかに締めくくられる。提示部には反復記号があるが、長いので反復されずに演奏されることが多い。展開部は第1番、第2番のそれと比べても遥かに雄大で、245小節に及ぶ。展開部は第1主題を中心にさまざまな変化を示して発展する。再現部は第1主題がさらに劇的に再現されるなど多少の変化を伴うが、ほぼ提示部の通りに進行する。143小節に及ぶ長大なコーダは、ベートーヴェン自身のそれ以前の作品と比較しても、格段に大規模であり、第2の展開部とも言うべき充実内容の濃いものである。(最後のトランペットの音域の問題については下を参照)、最後に最高音域に達した第1ヴァイオリンがなおも半音階をトレモロで上って行き、力強く締めくくられる。半ば標題的な楽想の表現のために不協和音を巧みに使うという個所が、複数の要所に置かれているという意味でも画期的な楽章である。
412小節から第1ホルンがE♭管からF管へ持ち替えて主題を演奏していることもこの曲の特徴の一つでもあるが、そのため前後に(前41小節、後89小節)長い休符があることから、管の差し替えに要する時間を確保しているのではないかと考えられる[4]。
コーダにおけるトランペットの第1主題に関して
かつては汎用スコアでの、コーダの655小節からの主題をトランペットが最後まで(662小節まで)吹き通すようにしたハンス・フォン・ビューローによる改変[注 1]を採用する指揮者が多かったが、20世紀終盤からは本来のオリジナルの形での演奏も増えている。
このコーダの主題については、オリジナルではトランペットが657小節3拍目から主題を外れ、低いB♭音を奏する(E♭管なので記譜はG音)。
当時のトランペットでは、主題を通して演奏できなかったためと言われているが、実際には当時使用していたトランペットの自然倍音列でも、658小節の高いB♭音までは655小節開始時のスタイルのまま2本のトランペットが1オクターヴ差で主題を演奏することは可能である。659小節から662小節にかけては第2トランペットの音域では倍音列に含まれない音が多く当時のトランペットでは吹くことは出来ない。第1トランペットの高音域でなら659小節1拍目の高いF(記音はD)は倍音系列音なので吹くことができ、659小節3拍目の高いA♭(記音はF)は倍音系列音ではA(記音はF#)になってしまうものの、唇のピッチ調整で主題を演奏することは不可能ではない(この曲の第2楽章をはじめよく使われる音である。ただし金子建志は「音程的に#になってしまうために嫌った可能性が強い」としている[5])。
このため、第2楽章が「葬送行進曲」となっていることと関連し、ニコラウス・アーノンクールはトランペットの脱落を「英雄の失墜(死)」を表すと主張している[5]。
ちなみに、ベーレンライター新版では、ブライトコプフ旧全集で八分音符の刻みだった658小節の低いB♭音が、浄書スコアを基に付点二分音符に替わっており、658小節までは1オクターヴ下げて主題を吹くことになるため、トランペットが旋律の途中で突然脱落するような様相にはならない。
金子建志は657小節から658小節にかけての高いB♭音を避け、その後主題ではなく低いB♭を吹かせたのは「英雄の失墜」ではなく単にトランペットの高音の甲高い音色を避けるためだったのではないか、としている[5]。
なお、440小節から443小節の主題演奏においても、トランペットは442小節においてメロディーラインを崩されており、同様に高いB♭音は避けられている[5]。ベートーヴェンの交響曲作品においてこの高いB♭音が使われるのは、第6番「田園」の第4楽章の雷雨の場面、85小節と第8番の第4楽章330小節から333小節だけである。
第2楽章 Marcia funebre: Adagio assai
ハ短調。4分の2拍子。葬送行進曲。A-B-A'-C-A"の小ロンド形式。ベートーヴェンの長大楽章によく見られることだが、三部形式、あるいはソナタ形式に類するところも見られる複雑な構造を持っている。(A)は、まず「葬送行進曲」の名にふさわしい主要主題が第1ヴァイオリンで現れる。これがオーボエに移された後、対旋律が変ホ長調で提示され、やはりこれも第1ヴァイオリンからオーボエに移され、コデッタ調の経過で締められる。ここまではソナタ形式の提示部に近い。続く第1副部(B)はハ長調に転調し、伸び伸びとした旋律が木管でフーガ調に広がりながら、明るく壮大な頂点を築く。再び主要主題(A')が戻るが、これは、主要主題を第1ヴァイオリンの原型で一度示すだけで、すぐに悲痛な第2副部(C)を呼び込む。((A')はあまりに短いので、(B)と(C)の橋渡しにすぎないと考えれば、全体はA-B-C(B')-A"という三部形式に近いものともとれる)(C)は、(B)の主要旋律と類似したものがヘ短調で第2ヴァイオリンから出て、やはりフーガを形成しながら、緩徐楽章にはかつて見られなかったような金管とティンパニの威力や、不協和音の効果も交えて、クライマックスを築く。これを収束させていくリズムが刻まれるなかでソナタ形式の再現部のような(A")部に入る。主要主題、対旋律と続き、コデッタ調の経過部分では、(A)の弦で刻まれていた「ダダダ・ダン」というリズムがティンパニで繰り返される。その後、38小節に及ぶ厳かなコーダに入り、余韻を引きながら静かに終了する。 第1副部(B)の冒頭にMaggiore(長調の意、ここでハ長調に転調する)、第2主部(A')の冒頭にMinore(短調、ハ短調に戻る)と記されている。
第3楽章 Scherzo: Allegro vivace
変ホ長調。4分の3拍子。複合三部形式。冒頭4小節の弦の刻むリズムの第1ヴァイオリンは「ソラソ・ラソラ」の反復なので「ソラ・ソラ・ソラ」にも聴こえヘミオラとなっている。2小節の半音階的経過句の後、7小節目からオーボエで主題が提示される。トリオ(中間部)ではホルン三重奏が見られ、特に第2ホルンはストップ奏法を多用する、当時としては難度の高いものとなっているが、緊張感のある音となるので、トリオのコーダでは大きな効果を得られる。
ベートーヴェンが当時のホルンの特色を熟知していたことを示す一例であるが、音色が均質な現代のヴァルヴ・ホルンでは逆にそういった効果は得がたい。終結部では2分の2拍子になる部分もあり、総じて可変拍子的な感覚が多用されている。
第4楽章 Finale: Allegro molto
変ホ長調。4分の2拍子。自由な変奏曲の形式。パッサカリアであるという指摘もある[6]。主題と10の変奏による。ただし、第4、第7変奏については、ソナタ形式における展開部の様相を示すため、変奏に数えず変奏と変奏の間の間奏のような形で捉えることもある。第10変奏もコーダの様相を示すため、変奏に数えないことがある。
なお、第4楽章の主題はバレエ音楽『プロメテウスの創造物』の終曲から転用している。
ベートーヴェンは他にもこの主題をピアノのための変奏曲(通称:エロイカ変奏曲)にも用いているが、この曲以降この主題を用いた楽曲を書いていない。
なお、第1楽章で避けられたトランペットの高いB♭音は、316小節においてこの楽章でも注意深く避けられている。381小節からは当時としては珍しく、第1ホルンが協奏曲ばりに半音階を含む主題を朗々と奏でる。
楽譜
ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社によって旧ベートーヴェン全集が1860年代に出版されて以来、他のベートーヴェン作品同様、旧全集やその改訂版が演奏されて来たが、研究が進むにつれてベートーヴェンが関わった原稿や初版譜の点検が行われ、旧全集の譜面との差異が明らかになり、新たな楽譜を作ろうとする動きが出て来た。
ベートーヴェンの生前出版された『英雄』の楽譜はパート譜が最初で、それを元にロンドンとボンの出版社からスコアが出版された。そのため両版には食い違いがみられる。自筆スコアは失われているが、ベートーヴェンの立会った演奏で実際に用いられた筆写スコアとパート譜が残っている。
ベートーヴェン作品の新しい全集を企画したボンのベートーヴェン研究所は、バティア・チャーギン (Bathia Churgin) の校訂で第3、4番をヘンレ社から刊行すると発表した。チャーギンは筆写スコアに残るベートーヴェンが訂正した箇所が「ほぼ全ページにある」と言い、写譜師の不注意によって逆にベートーヴェンの意図を確認できることに感謝せねば、とさえ書いている。そうした新発見が多数反映される予定だった新全集は、1996年に出版の目処がついたという報が流れた。ヘンレ社は出版準備中を告知、第4番以降も印刷作業に入り、資料評価の経緯を記した校訂報告の作成が難航、という関係者の非常に現実的な証言もあったが、実際の刊行は行われなかった。ベートーヴェン研究所の資金難と版刻師の人手不足が主な原因といわれる。交響曲の他の巻も、新資料の発見による校訂のやり直しなど様々な問題を抱えている。以来交響曲の巻は10年以上出版が無く、2013年にようやく再告知、4番とともに交響曲第2巻として刊行が実現した。同年末に5・6番を収録した第3巻も刊行された。
新全集版が刊行停止している間に『英雄』の原典版は2種類刊行された。ベーレンライター社から、実演・録音で賛否両論を捲き起こした『第九』同様ジョナサン・デルマー校訂の原典版が刊行されている。この版は出版前にジョン・エリオット・ガーディナーなどの指揮者が試験的に採用しており、新発見が反映されただけでなく、演奏上の問題を考慮した楽譜という点でも画期的なものである。旧全集の出版社ブライトコプフ社も東西ドイツ統一直前にペータース社の原典版を準備していたペーター・ハウシルトの校訂で新版を出した。現在まで残る手稿、初版のパート譜・スコアなどあらゆる資料を参照して作成された批判校訂版となった。
なお、『英雄』旧全集版は当時ドレスデンの宮廷楽長でチェリスト、作曲家、指揮者として活躍していたユリウス・リーツが校訂したものである。旧全集では他に『田園』がリーツの校訂である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第3番_(ベートーヴェン)
1. 中川隆[-14156] koaQ7Jey 2020年1月25日 11:32:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1005]
ワインガルトナー
Beethoven "Symphony No 3" Felix Weingartner
Wiener Philharmoniker
Felix Weingartner, Conductor
22.& 23.V.1936
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c1
2. 中川隆[-14155] koaQ7Jey 2020年1月25日 11:33:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1004]
メンゲルベルク
Beethoven: Symphony No. 3 "Eroica" (1930) Mengelberg/NYP
Willem Mengelberg, conductor
The New York Philharmonic Orchestra
Recorded on January 4 and 9, 1930
at Liederkranz Hall, New York City
_____
Beethoven - Symphony n°3 - Amsterdam / Mengelberg 1940
Koninklijk Concertgebouworkest
Willem Mengelberg
Live recording, Amsterdam, XI.1940
_________
Beethoven “Symphony No 3 ‘Eroica’” Willem Mengelberg, 1942
Philips never released the live version of the Eroica from the 1940 cycle because the recording of April 14 being incomplete.For this reason,Philips preferred to issue the studio 78 rpms made by Telefunken.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c2
3. 中川隆[-14154] koaQ7Jey 2020年1月25日 11:34:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1003]
トスカニーニ
Beethoven, Symphony No. 3 Eroica, Funeral March - Toscanini, Stockholm 1934
2rd Movement, Funeral March
Arturo Toscanini
Konsertföreningens Orkester, Stockholm
(broadcast of December 2, 1934, in Konserthuset, Stockholm)
____________
Beethoven Sinfonia n.3 op.55 "Eroica" - Toscanini NBC 1938
3 Dicembre 1938, live recording
_________
The 1939 Beethoven Cycle: Symphony No. 3 "Eroica" Toscanini/NBC
Arturo Toscanini, Conductor
NBC Symphony Orchestra
Recorded Live on October 28, 1939
in Studio 8-H, Radio City, NY
_________
Beethoven, Symphony No. 3 ‘Eroica’ - Toscanini NBC 1944
Arturo Toscanini
NBC Symphony Orchestra
Studio 8H, New York City
November 5th, 1944
_________
Beethoven Symphony 3 - Arturo Toscanini / NBC SO (1949)
Arturo Toscanini
NBC Symphony Orchestra
Recorded Nov28 and Dec5,1949 in Carnegie Hall
_______
Beethoven: Symphony No. 3, Toscanini & NBCso (1953)
Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra
Rec. 6 December 1953, at Carnegie Hall, in New York
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c3
4. 中川隆[-14153] koaQ7Jey 2020年1月25日 11:34:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1002]
ブルーノ・ワルター
L.V.Beethoven Symphony#3 "Eroica" (B.Walter Symphony of The Air)(1957)
Symphony of the Air
Bruno Walter (Cond)
3 II 1957 (Live)
______
Beethoven - Symphony n°3 - New York / Walter 1941
New York Philharmonic
Bruno Walter
Studio recording, New York, 20.I.1941
_________
Beethoven - Symphony n°3 - NYP / Walter 1949
New York Philharmonic
Bruno Walter
Studio recording, New York, 21.III, 16.IV & 4.V.1949
__________
Beethoven: Symphony No. 3, Walter & ColumbiaSO (1958)
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 20, 23, 25 January 1958
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c4
5. 中川隆[-14152] koaQ7Jey 2020年1月25日 11:36:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1001]
カール・シューリヒト
Beethoven: Symphony No.3 "Eroica" / Schuricht Wiener Philharmoniker (1961 Live Mono)
Carl Schuricht
Wiener Philharmoniker
1961.8.23 Salzburg Live
___________
L.V.Beethoven Symphony No.3 - Carl Schuricht 1963
Carl Schuricht
Orchestre national de France
Paris Théâtre des Champs-Élysées 14,May 1963
_______
Beethoven: Symphony No. 3, Schuricht & PCO (1957)
Carl Adolph Schuricht (1880-1967), Conductor
Paris Conservatoire Orchestra (Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)
Rec. 18, 20, 23 December 1957, at Salle Wagram, in Paris
__________
Beethoven Symphony No.3 in E flat, Op.55 "Eroica" - Carl Schuricht / Berliner Philharmoniker
Live, on 8 October 1964
Philharmonie, Berlin
_________
Beethoven: Symphony No. 3 (Heroic), Schuricht & BPO (1937)
Carl Adolph Schuricht (1880-1967), Conductor
Berlin Philharmonic Orchestra
Rec. 1937
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c5
6. 中川隆[-14151] koaQ7Jey 2020年1月25日 11:37:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1000]
ムラヴィンスキー
Beethoven - Symphony n°3 - Leningrad / Mravinsky Bergen 1961
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Bergen, 24.VI.1961
________
Beethoven "Symphony No 3" Yevgeny Mravinsky 1968
Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, Conductor
31.X.1968
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c6
7. 中川隆[-14159] koaQ7Jey 2020年1月25日 12:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-999]
フルトヴェングラーのベートーヴェン 『交響曲第3番』 名盤
Wilhelm Furtwängler Composer INDEX 1
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu08.htm
このコーナーでは、主要な作曲家・作品別にフルトヴェングラーのディスクを掲載します。
特に「スタジオ録音」と記載のないものはすべてライヴ録音です。
Beethoven:Sym.No.3
1)44/12/16-18 VPO Musikverein(RRG)
2)44/12/19-20 VPO Musikverein(RRG=No Audience)
3)47/11/10-7(49/02/15) VPO Musikverein(EMI Studio)
4)50/06/20 BPO Titania
5)50/08/31 VPO Salzburg Fes.
6)52/01/19 RAIRomaO RAIRoma
7)52/11/26-7 VPO Musikverein(EMI Studio)
8)52/11/29 VPO Musikverein
9)52/11/30 VPO Musikverein(ORF)
10)52/12/07 BPO Titania(SFB)
11)52/12/08 BPO Titania(RIAS)
12)53/08/26 Lucern Fes.O Lucern Fes.
▼日仏両協会は44年録音が実況(91年SFB返還テープ)と放送録音の2種があるとしているが、shin-pは 1) 2)は同じ物だと思う 。つまり 1)は存在しない?
4)10)11)は日付が混乱している。
5)8)は未発売。
さらに39/10/01のBPO放送録音も存在するという。
▲強烈な高校時の印象からやはり2)。
BPOでは 11)という意見が多いが、私は 4)。
>>>>>My Best is 4)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c7
8. 中川隆[-14158] koaQ7Jey 2020年1月25日 12:52:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-998]
Beethoven - Symphony n°3 "Eroica" - Vienna / Furtwängler 1944
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
Rec. 19-20 December 1944, at Großer Musikvereinssaal, in Vienna
▲△▽▼
1944年
●12月18日 18 Dec. 1944 VPO Musikverein(RRG=Melodiya=SFB)
Beethoven:Sym.No.3(2nd Mov. missing) ベートーヴェン/交響曲3番(2楽章欠落) (o-104)
VPO ムジークフェライン RRG実況録音(?) SFB所蔵(1991=2ndMov.Missing=the same recording of Urania LP.)
CD/PR: Preiser90251('95)
>>>>It is said this performance is Live Version. But I think this performance is same as Urania LP's performance. PreiserCD used SFB tape from Russia on Mov.1,3&4, Urania LP on 2nd Mov. and 1952 performance(7 Dec.) on a part of 1st Mov.
●12月(19)20日 20(19) Dec. 1944 VPO Musikverein(RRG=DDR)
Beethoven:Sym.No.3 ベートーヴェン/交響曲3番 (o-104)
VPO ムジークフェライン RRG放送録音 Funkhausベルリン(旧DDR)所蔵 DRA B003313465
LP/PR/SB: UraniaURLP7095('53) VoxTV4343(69/11) Fontana(JP)FCM50('73) UnicornUNI104(70/05) Columbia(JP)DXM101(70/08) SWF7001(70/02)
CD: TahraFURT1031(98/05) ToshibaTOCE3730(00/08)
>>>>This is Magnetofonkonzert. TAHRA CD has the Best sound.
▼16日と18日の実況2種と19/20日の放送録音1種の最大計3種の録音がある可能性も指摘されていたが、実際はテープの経由により音質が若干違うものの放送録音1種類しかないと思われる。
20日収録とされる聴衆なしの放送録音は有名なウラニア盤。この米盤は、Voxと同じ系列で発売されていた。発売直後に巨匠から発売さし止めの訴訟が提訴された。訴状でこの録音の収録日を12月20日としている。ウラニア盤は、歪が少なく力強い印象だが、プレスによって差異が大きいとも言われている。SK氏によると90年頃CDに復刻したもの(URCD7095)の音質は劣悪だったという。69年になってVOXとユニコーンから再び市販され、UNI104は繊細な音質といわれたが現在のTOCE3730(00/08)でそれを確認するのは困難。TAHRA FURT1014-5の解説書では19、20日の録音とされ、ベト1とともにフリードリッヒ・シュナップ博士の手で録音されたとしているがベト1の存在は不明。
ユニコーンの認証がありながらもUraniaのテープを用いたのでは?とされるTurnabout(VOX)TV4343(69/11)の評判が良いが、私はその日本盤フォンタナFCM50('73)ではじめてこの演奏に接した。当時高校生の私には巨匠初の1000円盤に加えて、十分すぎるほどの演奏にインパクトがあった。これを聞いた日以来、WFのLPを買いあさる日が始まろうとは・・・。録音も現在のAMラジオ並みの音質で、雑音も少なく聞きやすい。熱のこもった宇野功芳氏の解説にも驚いた。最近shin-pが入手したTV4343の3枚組TV4352とFCM50の音質には明瞭度の点で大きな差が感じられた。
91年ロシアからRRGのカートンに入ったマグネトフォンテープの現物が返還され、それを用いたと思われるCD=Preiser90251が聞きよい音質となっているが、同じソースを用いたと思われるメロディア盤でも確認できる1楽章13分17秒付近の音質低下を52/12/07BPO盤で修復している。さらに欠落した2楽章は旧DDRのテープを用いていると思われ音質が違う。メロディア盤は56年頃に初出されたが、現在のところ初出盤ではEMIと同じ演奏のものしか確認されていない。メロディア盤では2楽章のみ板おこしと思われるM10番号以降で初めて44年盤が確認できる。上記Turnabout盤のLP用テープを使用したとするBAYER BR20002やPRICELESS D16395も評判のよいCD。
メロディアCD直輸入盤で日フ協川上氏は「このCDの演奏は放送録音で、SFB返還のテープはそれとは別の実況盤で2楽章が欠落」としており仏フ協でも「別演奏」としているが、おそらく同じ演奏。
TAHRA は43年運命(TAH272)と同じように旧西側に残されたテープを使って「最良の」44年放送録音「英雄」(FURT1031)を発売。平林2盤、GREEN DOOR、Mythos、Archipelはウラニアおこし盤。
上記ウラニアのエロイカ、45年1月のブラ2&フランクは、帝国放送ウィーン放送局が収録したもののその(コピー?)テープがアメリカに渡ったらしく「英雄」は53年にUraniaから、「フランク」は52年にVOXから発売された。演奏者には無断で発売したものだが、当時のアメリカの法律では「放送局から正規に入手している」ため合法だったという。他にもアメリカのマイナーレーベルから戦時中の様々なマグネトフォン録音がLP化され、50年代に発売された。一時WFではないかといわれたアレグロのエロイカ(ALL3113=現在まで本当の演奏者不明)や41年新世界(Royale1257=1944年カバスタ指揮ミュンヘンフィル?)、44年ロンドン(Royale1401=アルフォンス・ドレッセル指揮バイエルン放送o?)も同様の経緯といわれる。
Furtwangler Beethoven "Eroica" Vienna 1944 Urania on YouTube Search
https://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=Furtwangler+Beethoven+%22Eroica%22+Vienna+1944&aq=f
米Fi Magazineの編集者Michael Gray氏によると
「英雄」は19日 (9:00 - 11:00 and 18:00 - 21:00)に、
ベト1が20日 (9:00 - 11:00 and 18:00 - 21:00)に
それぞれ録音されたという。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu05.htm
50年代アメリカのマイナー盤について
▼K氏からのメールでM&A CD1072カバスタ録音集の解説書の内容を知ることが出来た。そこには、MercuryやVoxがバイエルン放送に著作権料を支払ってテープを正規に購入した(演奏家の承諾は不明−)ことが書かれていた。あのWF指揮といわれたハイドン/ロンドンAlfons Dressel指揮ミュンヘン放送響の戦中放送録音もその一例。バイエルン放送の正規テープを使ってMercuryがMG10050として発売している。この録音は、Royalでは1401カール・リスト指揮として52年に出た後、76年Discocrop RR441として出て、メロディアやSFB返還テープを使ったDGのCDでもWFの録音として扱われた。(Royaleでは1370で43年のWFのティルが指揮者名なしのベルリン交響楽団として出ている。また「新世界」で有名なカールリストという指揮者は実在する。)
研究家として有名なMr. Ernst A. Lumpeによると「これらは不充分な研究が誤った結果を招いた」としている。本当に今まで日本のWFフリークと言われる人々は手をつけてこなかった分野なのかもしれないし、手をつけていたとしても発表しなかった分野であろう。[ARSC Journal Ernst A. Lumpe氏の論文](Lumpe氏は技術的にも音楽的にもWFではないとしている)
またあの巨匠のエロイカで有名なUraniaであるが、これもWard BotsfordというVoxのプロデューサーによって作られたVoxのレーベルである。VoxのHP[Voxのポリシー]にはこのことについて書かれている。おそらくUraniaエロイカは合衆国的には「合法的」に作成されたものなのだろう。Voxのフランクも同じプロセスといえるようだ。
米国の私家盤AllegroとRoyaleは「歴史的プロデューサー」として合衆国では名高いMr. Eli Obersteinによってつくられた。これらはRecord corporation of Americaのレーベルのひとつ。LumpeによるとMercury盤やDecca盤をコピーしたり、消息筋からドイツの放送局音源を購入したとしている。Mercury社が当時のバイエルン放送の米代表と契約したという情報もLumpeの論文にある。
アメリカのマイナーレーベル(ウェストミンスターも含む)や私家盤製作者が、米国の演奏家を使わず、欧米の報酬の安い演奏家や戦前の放送音源を使ったのには理由がある。戦中から50年代にかけて「高額な報酬」を主張したアメリカの演奏家組合が原因だ。マイナーレーベルには米国の演奏家は高嶺の花であり、カタログを充実させるためにそのような手段に出たようだ。(2000年9月)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/mingei.htm
Preiser90251 英雄(rec.44)の「編集」について
1944年12月18日収録とされる英雄(Preiser90251)
まず、編集されている部分を列挙しよう−
1)1楽章冒頭の「ジャン」2回が同じ音が2度使われている。(旧フォーラム13番のTI氏の見解)
2)実況録音の聴衆ノイズが確認できる部分がある。
3)2楽章のみ音質が異なり、ギャップ部分に針音(?)がある。
4)3楽章1'13"から針音(?)が聞き取れ、1'34"ではテープ編集ミスがある。さらに4楽章後半部でも針音(?)が聞き取れる。
2)についてはshin-pが−
◎shin-p97/10/04:Preiser盤の1楽章の聴衆ノイズは13分32秒で聞き取れます。
実は13分17秒付近から40秒まで音質が急に鮮明になる部分があるのですが、
これは52/12/07のBPOとの実況録音が使用されています。
DR盤では同じノイズが13分42秒に確認できます。
と報告し、SFBに返還されたマグネトフォンのオリジナルテープからリストアする際にメロディア盤でも確認できるこの部分の音質低下を同じSFB録音の52/12/07BPO録音で修復したと思われる。
また3)についてはウラニア盤と同じ頃の録音と思われる2楽章が欠落しているSFBに返還された実況盤のテープがある−というメロディアの日本語解説につけられた日フ協会K氏のコメントがあり、仏フ協会でも「別録音の実況盤」としているが、桧山レポート(レコ芸92/11)やトレマン本などでは同じ演奏と分類されており、このプライザー盤の状況からして99%実況ではない。
またST氏がPreiser盤の板おこし説をUPしておられます。がshin-pは、同じ頃のVPOとのマグネトフォンコンサートである「ブルックナー8番」や「レオノーレ3番」や戦前最後のVPOとのコンサート「ブラームス2番」のDG盤にも問題の2楽章のギャップ部分のノイズと同じような針音に似たテープの切れ目が確認できることから「板おこし」ではないと思う。
TI氏はshin-pへの私信で「独プライザーのCDは板おこしなのか否か?について。 第2楽章切れ目の部分のノイズが針音である!の指摘にはうなづく。」また「独preiserはウラニア(&仏パテ)=VOX(&独インターコード)=UNICORN(&東芝EMI)=フィリップスのLP系の音です。」とされています。
<shin-pの最終結論>プライザー盤は欠落している2楽章のみ最初期のテープの状態のよいときにディスクに復刻したウラニア盤を板おこしした可能性はあるが、他はSFB返還テープからリストアしたCDだと思われる。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu10.htm#pre
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c8
9. 中川隆[-14160] koaQ7Jey 2020年1月25日 13:02:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-997]
Furtwangler: Sinfonia Eroica by Beethoven (1947) by Vienna Philharmonic Orchestra
Dir: Wilhelm Furtwangler
Recorded on November 10~17, 1947, at Musikvereinssaal, Wien, Austria
Note: The 3rd part of the set in the 1st mov is a little bit damaged, which results in a poor dynamic range to my regret.
▲△▽▼
1947年
Beethoven:Sym.No.3
●11月10-17日及び49年2月15日 ベートーヴェン/英雄 VPO ムジークフェライン EMIスタジオ録音
Matrix:2VH7068-1/69-1/70-4/73-2/74-2(74-5)/75-2/76-1/77-1/78-1/79-1/80-1/81-1/82-4
SP/PR: HMV(GB/Fr)DB6741-7S(48/11)
LP: DiscocropRR456('75) WFSJ JP1191('75) SWF7903('79) ToshibaWF70044(77/09)WF60004(80/09)
CD: DanteLYS197('97) ShinseidoSGR8221(98/03) TAHRA FURT1027('98) ToshibaTOCE37(00/08)
>>>>The 5th SP disc(The first half of 2nd mov.) was recorded on Feb. 1949. EMI made this disc for a Auto Change SP Player.
▼英雄と下記ブラームスは 11/16の VPO演奏会でとりあげられた。
当時ウィーンでは巨匠の戦時中の行動を非難する人が多く、演奏会にデモ隊が押し寄せるなどしたという。
SP第5面(2楽章冒頭部)の別テイク収録は49年2月ブラームスザールを使用している。この別テイクは47年録音のテイクが4'53"でオートチェンジャー用プレーヤーにかからなかったため、速めのテンポ(4'39")にして収録したとされる。(初出DB9296S-9302)
東芝は特典盤(BCDS1004='98 / BCD-0052=00/06)としていた。
仏フ盤LP以外は47年テイクでまとめているという。
新星堂から98/03に川合四朗氏所蔵のSPから復刻した47年テイク(2VH7074-2)と49年テイク(2VH7074-5=49/02/15録音)を入れたCDが出た。
TESTAMENTもEMIの版権を得て、この演奏を発売する予定があると言っていたが、結局TAHRAから出た。(FURT1027)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu11.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c9
10. 中川隆[-14162] koaQ7Jey 2020年1月25日 13:20:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-999]
Symphony No. 3 in E-Flat Major, Op. 55 'Eroica': I. Allegro con brio (1950 recording) (Live)
1950 recording (Live)
Berliner Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
▲△▽▼
1950年
●6月20日 ヘンデル/合奏協奏曲Op.6-10 ブラームス/ハイドン変奏曲 ヒンデミット/オーケストラのための協奏曲 ベートーヴェン/英雄 BPO ティタニア RIAS録音
LP/PR(Eroica): RVC RCL3334('84)GreenHill GHLP-FUR07-08HQ('95?)
CD: RVC R32C1091('88)WFSG MMS9010/TMK6949('94?)M&ACD711('94)EMBLEM E-F4001('95)TahraFURT1030(98/05)M&ACD1117(03/02)
>>>TAHRA said RVC RCL3334('84=LP) is the same as TahraFURT1008-11('94=CD). But I think RVC'sCD is the same as MMS9010(EmblemF4001). Almost all of Japanese LPs & CDs have the right date.
▼英雄の日付については、没後25年の記念としてラジオフランスが放送した50年英雄が、当時52年12月8日録音として発売されていたLPと同じだという意見が提示され混乱していた。1994年独協会盤発売以降、現在では明らかな日付ミスを除いて日付は確定している。充氏によれば「348小節目のフェルマータのティンパニをトレモロに変えるのを常としていますが、1950年6月20日の演奏のみ楽譜通りで改変していません。」という。
EMBLEMから出たものはジャケットには12月8日とあるが、この50年6月20日のもの。
ArkadiaCDWFE363は、ジャケットには52年12月3日とあるがTAHRA盤と同じもので、12月8日録音。
この3つの英雄の中で日本初出のコロムビアのロココ、再発のワルター協会盤はやはり12月7日で正解。
なお独協会盤LPの12月7日という記載を本当は8日だとしているものもあるが、明らかにロココ盤やDR盤などと同じ演奏。
演奏でいえばやはり私はこの6月20日盤が好き。
RCL3334 はこの演奏の最もオリジナルに近い録音に感じられ、没後30年企画として発売された当初その音質の良さから52年12月8日盤ではないかといわれたことがあった。低域に中心をおく音質だが、明瞭度も高い。
RVCが発売したLPシリーズでは、この他53年VPOグレイト・51年NWDRブラ1が高音質という評価が多い。
独協会盤は若干ノイズ処理が多く明瞭度に欠けるが聞き良い音質。
M&ACD1117 はノイズが気にならない音質だが生々しさに大きく欠ける。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu14.htm#19500620
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c10
11. 中川隆[-14161] koaQ7Jey 2020年1月25日 13:32:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-998]
1950年
31 Aug. 1950 VPO Salzburg Fes.(private archive)
Beethoven:Sym.No.3
●8月31日 バッハ/ブランデンブルク協奏曲3番,5番 ベートーヴェン/英雄 VPO ザルツブルク音楽祭 private archive
CD: DR920018('92)KICC2345(94/01)EMI5674222(00/08)TOCE3703(00/10)WFSG TMK102196('00)GrandSlamGS2014(06/10=only No5)
CD/PR(Sym): EMI5674222(00/08)TOCE3735(00/10)
2000年8月この日の公演全曲目が英EMIから発売、英雄の初出盤となった。
半世紀を経てやっと聞くことができたが、バッハの録音状態は以前の音質に「漂白剤をかけた程度」とつぐ氏。バッハは独フ協会からも15日のStrawinskyとカップリングで正規盤が登場したが元のテープが悪くEMIとは好みの問題程度の差。
英雄の音質ほうがバッハより若干明快な程度。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu14.htm#19500114
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c11
12. 中川隆[-14160] koaQ7Jey 2020年1月25日 13:39:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-997]
1952年
19 Jan. 1952 RAI Roma Orc. RAI Roma studio(Auditorium del Foro Italico)
Beethoven:Piano Con.No.4 & Sym.No.3
●1月19日 ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4&英雄 RAIローマ放送響 スカルピーニ(P) RAIスタジオ RAI収録
LP/PR(Sym): OlympicOL8120-7('75?)
CD: King(JP)KICC2292('93)
▼RAIローマ響との一連の録音は3月のトリノ録音と比べれば音質良好。
ステレオ録音ではないかとされる CetraLPも米Olympicと同様「テープから保存用にコピーされたパデローニという放送用ディスク」からの復刻。
STEREO と明記された FE5 の田園や桧山氏がステレオではないかとする FE6 のエロイカは「疑似ステ」と思われる。
ただし音の明瞭さはCetraが優る。
音質は、運命/英雄/田園の順。
Pconは音質的にドロップアウトが多く、演奏もあまり良い状態とは思えない。
運命は47年のものと比較すると冷静に曲を解釈した好演だが、英雄の演奏に見られるように枯れていない「巨匠らしさ」をベートーヴェン交響曲で味わえる最後の録音。
[Scarpini Furtwangler by YouTube Search]
https://www.youtube.com/results?search_query=Scarpini+Furtwangler&page=&utm_source=opensearch
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c12
13. 中川隆[-14168] koaQ7Jey 2020年1月25日 14:49:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-996]
Beethoven: Symphony No. 3, Furtwängler & VPO (1952)
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
Rec. 26-27 November 1952
▲△▽▼
1952年
●11月26、7日 ベートーヴェン/英雄 VPO ムジークフェライン EMIスタジオ録音
LP/PR: ALP1060(53/09)
CD: EMI7630332('89)ToshibaTOCE7530-4(91/12)TOCE8437(94/08)
▼このあたりのスタジオ録音から現在に通じるハイファイ音がきかれる。
英雄は2度目のスタジオ録音(初回は47年SP盤)だが、全スタジオ盤の中でもっとも充実した演奏。
50年の第7もこのくらいの音質を持っていれば(つまり、この時再録音していれば・・)と悔やまれる。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c13
2. 中川隆[-14176] koaQ7Jey 2020年1月25日 15:17:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-995]
小野寺まさるさんは悪質な嘘ばかり言っていますね。
そもそも現時点でもアイヌ人は北海道社会の底辺の人間で、大学にも行けないし、所得も遥かに低いのです。アイヌ人が日本人と区別できないとか、日本人に完全に同化しているというのは悪質な嘘です。 本当にアイヌが日本人化しているのなら所得水準も北海道道民と同じでないとおかしいのです:
2015/05/12 - 北海道アイヌ生活実態調査
アイヌ世帯の平均年収は355.8万円、「年収なし」を除くと369.2万円である。100万円ごとの年収区分では、回答のあった2,903世帯のうち、「200万円以上300万円未満」が567世帯(19.5%)ともっとも多く、「100万円以上200万円未満」が432世帯(14.9%)、「300万円以上400万円未満」が409世帯(14.1%)、「400〜500万円未満」が280世帯(9.6%)、「100万円未満」が195世帯(6.7%)で続いている。年収500万円以上の世帯は550世帯(18.9%)、「年収なし」の世帯は92世帯(3.2%)であった。
なお、厚生労働省大臣官房統計情報部による『平成25年国民生活基礎調査』によれば、北海道の平均年収は473.5万円で、もっとも構成比率の高い年収区分は「200万円以上300万円未満」であり、全国の平均年収は537.2万円、構成比率の高い年収区分は「200万円以上300万円未満」となっている(表4)。世帯年収を年代別でみると、「年収なしから200万円未満」の世帯は、世帯主が「30歳未満」の年代層において14世帯(25.0%)、「60歳〜70歳未満」の年代層に223世帯(37.0%)、「70歳以上」の年代層に177世帯(56.0%)と多くなっている。世帯主が現役世代であっても、「年収なしから200万円未満」の世帯が「30歳〜40歳未満」において47世帯(21.1%)、「40〜50歳未満」において96世帯(18.3%)、「50〜60歳未満」において156世帯(19.8%)と各年代層において約20%を占めている。
アイヌ民族の大学進学率は、1990(平成2)年頃から増加に転じてはいるものの、一貫して低い水準であり、もっとも進学率が高かった2005(平成17)年でも27.1%(補正値では21.1%)と、全国平均の5分の3程度となっている。また、1970(昭和45)年頃から1990年頃までは、全国平均が伸びているなかでアイヌ民族の平均は同水準で推移しており、事実上不平等が拡大していたことがわかる」。
また、アイヌ民族の高校進学、大学進学について、以下の特徴が指摘されている。@ 進学者が増えたにもかかわらず、中途退学する者が多い。高校進学者のうち、中退した者は12.9%に達している。1999(平成11)年の高校中退率が全国平均で2.1%、北海道で1.9%であったのに比べるときわめて高い数字であるといえる。また、大学進学者の中退率は20.3%であり、「在学中」の者を母数から除いた30歳未満の中退率は23.2%まで増える。2007(平成19)年度の私立大学中退率は2.7%であり、アイヌの大学生が中退する可能性は、全国平均の9倍に達している。A 高等学校の定時制に通う者が多い。高校進学者のうち12.8%が定時制高校に進学している。もっとも、アイヌ子弟の定時制高校への進学者は急激に減少しており、30歳未満では2.3%である。2008(平成20)年における全高校生に占める定時制高校生の割合は3.2%であり、わずかではあるものの全国平均を下回っている。
https://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2015/05/20150512_ochiai_report.pdf続きを読む
3. 中川隆[-14175] koaQ7Jey 2020年1月25日 15:20:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-994]
アイヌ系住民というのは、自分がアイヌ人だとわかると差別・迫害されるので、日本人に成りすましたアイヌ人と日本人のハーフの事で、日本で10万人います。混血が進んでいない純粋に近いアイヌ人も2万人存在して、DNA鑑定で日本人とは遺伝子が全く違うのがわかっています:
国立科学博物館の神沢秀明研究員らは、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析
東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、
北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。
縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。
__
江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた[33]。
現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。
2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人[34][14]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。
1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[35]。この結果を裏付ける他の研究はない。
北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された[34]。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる[14]。 日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると1992年に報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある[36]。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキが樺太アイヌの女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔は日本にいる。
2017年の調査では、道内のアイヌ人口は約1万3000人となっている。これは2006年の2万4000人から急激に減少しているが、これは調査に協力している北海道アイヌ協会の会員数が減少したことと、個人情報の保護への関心の高まりから、調査に協力する人が減っていることが挙げられ、実際の人数とは合致しないと考えられている[37]。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/432.html#c3
14. 中川隆[-14180] koaQ7Jey 2020年1月25日 16:02:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-993]
Beethoven "Symphony No 3" Furtwängler Wien 1952 Live
Wilhem Furtwängler "Live in Vienna"
Wiener Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler, conductor
Wien, 30.XI.1952
▲△▽▼
1952年
29 Nov. 1952 VPO Musikverein
Beethoven:Sym.No.1 & 3
●11月29日 ベートーヴェン/交響曲第1&英雄 ムジークフェライン Rot-weiss-Rot収録VPO所蔵
CD/PR(No1): Nuova Era013.6305('89?)Virtuoso 2697.162('89)ArchipelARPCD0122(03/05)Andante4988(02/09=miss date!)
Net: andante93('02=miss date!)
Net/PR(No3): andante94('02)
CD/PR(No3): VeneziaV1017(02/03)
andante 29/11/52 concert(realaudioが必要)
30 Nov. 1952 VPO Musikverein
Beethoven:Sym.No.1&3
●11月30日 ベートーヴェン/交響曲第1&英雄 マーラー/さすらう若人の歌 VPO ベル(Br) ムジークフェライン Rot-weiss-Rot(ORF)収録VPO所蔵
LP/PR(Sym1): CetraFE33('83?)
CD: M&ACD711('89?)EmblemE-F4002('94)TAHRA FURT1076-7(02/12)M&ACD1117(03/02)ArchipelARPCD0114(03/05)
CD/PR(Sym3): Nuova Era013.6314('89)Virtuoso269.7182('89)TAHRA FURT1076-7(02/12)ArchipelARPCD0121(03/05)
>>It is said Nuova Era(013.6305=Sym.No.1 recorded 29 Nov.) is different from the others on audience noise.
▼後で述べるWeb上の real audio の存在から収録日に疑問が出てきた。
29日も私的な録音ながら英雄とベト1のテープが存在するという。
30日英雄Nuova Era盤は FJHS氏によれば「鑑賞にまったく支障ない音」で、TAHRA盤はさらに「かなり改善している」という。
29日の英雄は未発売だがWeb上の andante-site94(realaudioが必要)にその日付の録音が存在する。
ただし劉邦氏、URHS氏によれば Nuova Era013.6314(30日録音)と同一で現時点では29か30日いずれかの英雄が未発売となっている。この日の演目は収録日に疑問が残る。
音質はデジタルデータのため一概に比較できないものの andante の方が上質という意見が多い。
VeneziaV1017(02/03)は andante-site94 と同等の音質。
Archipel盤も古びた音色ながら比較的良好な音質。
# EMI new release "art CD(5 67496 2)" anounced recording date is 11/24.26-8(No.1&3), 12/1-3(No.4), 11/24.25.12/1(No.6).
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c14
15. 中川隆[-14179] koaQ7Jey 2020年1月25日 16:25:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-992]
Furtwängler Eroica most lively! Special transfer of Beethoven 3, Berlin Philharmonic Dec. 8, 1952
Wlhelm Furtwängler, conductor
The Berlin Philharmonic Orchestra
Recorded Live on December 8,1952
at Titania-Palast, Berlin
▲△▽▼
1952年
7 Dec. 1952 BPO Titania(SFB)
Beethoven:Sym.No.3
●12月7日 ヒンデミット/世界の調和 ウェーバー/魔弾序曲 ベートーヴェン/英雄 BPO ティタニア SFB収録
LP/PR(No3): Rococo2050('73?)DiscocropRR529('73?)WFSG F666.848M('79?)WFSJ WFJ1('79?)Columbia(JP)OP7508RC('78?)OW7818BS('81?)King(JP)KIJC2023-4('89?)
CD: M&ACD520('84)Crawn(JP)PAL1023('88)DR930065('93)HossanaHOS02(99/01)TAHRA FURT1036(99/06)
Beethoven:Sym.No.3
●12月8日 ヒンデミット/世界の調和 ウェーバー/魔弾序曲 ベートーヴェン/英雄 BPO ティタニア RIAS収録
LP/PR(No3): CetraLO530('75?)
CD: King(JP)K35Y42('85)HUNT CDWFE363.1('91)RodolpheRPC32522-4('95)TahraFURT1008-11('94)
>>>DR's CD derived from original tape?
▼TAHRAから正規盤が発売され終止符が打たれたはずの英雄の録音日については50年6月20日の項参照。他の2曲も含めてこの12月7-8日の収録日には今だ解決されない問題がある。
7日英雄 DR盤は楽章間の客席ノイズも収録され、板おこしでもなく、比較的良好な音質。
CrownPalletePAL1023('88)はさらにオリジナルテープを感じさせる高音質という。
また、比較的良好な音質でHossannaからも99年初に出たが、CDではパレットが「一番まとも(AMURO氏)」という。
THARA から99/06正規盤が発売されたが音質は期待はずれ。
現状では日独両協会LPの音質がベスト。
特に日本では東芝製の日フ盤の評判がよいが、この7日の録音は元々の音質が良くないため世間で言われるほど飛躍的に協会盤がいいとは思えない。協会LPで聞けば元のテープが劣化し音質が均一化されてないことが分かり、市販盤が平準化するために音質を劣化させてしまっているのもうなずける。
8日英雄の CetraLP は 12/7録音と表記。
HUNT/ArkadiaCD は12/3録音と表記。
いずれも1楽章後半部(トランペット強奏ミス修復以降)でEMIスタジオ盤が使われている可能性がある。
発売当時は TAHRA の音質が評判よかったが−オリジナルが劣化しているのだろう−宇野本でも指摘されているように後半になるにしたがって音質は落ちてくる。
この日の公演の全ての演目には録音日があやしいものが多く、今後さらなる調査が必要だ。
>>>TAHRA said RVC RCL3334('84=LP) is the same as TahraFURT1008-11('94=CD). But I think Tahra'sCD is the same as CetraLO530('75=LP). Almost all of Japanese LPs & CDs have the right date.
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu16.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c15
16. 中川隆[-14178] koaQ7Jey 2020年1月25日 16:35:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-991]
1953年
26 Aug. 1953 Lucerne Fes. Orc.(private arc.)
Beethoven:Sym.No.3
●8月26日 シューマン/マンフレッド序曲 ベートーヴェン/英雄 シューマン/交響曲第4 ルツェルン祝祭管 ルツェルン音楽祭 Private archive(W.Staempfli所蔵=audite以前に発売のもの) バーゼル・スイス放送局(audite)
CD/PR: SWF961-2('96)ElaborationELA904-5('97)M&ACD1018(98/03)Audite91441(KIGC-27=17/12)
▼1993年仏フ協会総会ではじめて公表された録音。
Prof.J.Staempfliがバーゼル・スイス放送をエアチェックしていたという録音は、53年としては音質に不満が残りドロップアウトも多いものの、晩年は枯れた演奏が多い巨匠としては両曲共相当に燃えており、この録音の価値は高い。
シューマンはともかく英雄の52年BPO盤で枯れた演奏を見せていたのは「本当の巨匠」ではなかったとすら思わせる貴重な録音。
96年初出の仏フ協盤に続いてM&Aから98年市販盤が登場。これを「正規盤」とする意見もあるが実態は不明。M&Aは協会盤とは全く別のルートから入手したテープを使っている−としている。SWF盤は英雄の4楽章終結部にラジオ音が混入しているが、M&A盤は修復されている。
そして2017年12月、放送局のオリジナルマスターが発見され「マンフレッド序曲」が audite から初出。英雄とシューマン4番も初めてオリジナルから聞くことができるようになった。開演前の拍手やインターバルを含めた完全版。
________
4 Sep. 1953 VPO MunichDutchMusium(Bavarian Radio)
Beethoven : Sym.No.3
●9月4日 ベートーヴェン/エグモント序曲・交響曲第4・英雄 VPO ミュンヘン・ドイツ博物館 バイエルン放送所蔵
LP/PR(Ove): CetraFE50('85?)AT07-08('85?)
CD: M&ACD792('89)
CD/PR(No3): EMI CZS5628752(04/06)
▼51年ロマンティックや52年ブラ2などミュンヘンで行われたすべての録音にいえることだが、マイクがオケから遠く、聴衆ノイズは鮮明だが楽器の音質が悪すぎる。これはホールの影響なのだろうか。
英雄についてはオルセン以降、没後50年までテープの存在を示す資料がなかった。ところがEMIのグレートコンダクターシリーズの一環として、バイエルン放送のクレジット付きの正規初出盤で2004年に出現。
録音・演奏とも直前のルツェルン盤を上回る熱演。
このCDが出るまで、録音の存在が確認できなかったのは、WF&VPOエロイカで版権を持つEMIが巨匠の死後、比較的早い時期からテープを確保していたとの推測が成り立つ。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu18.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c16
17. 中川隆[-14177] koaQ7Jey 2020年1月25日 16:44:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-990]
フルトヴェングラーのエロイカ
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-m.htm#wf
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィル----1944年12月19,20日、Musikvereinssaal
マグネットフォン放送録音
TAHRA FURT1031(写真左)。
FURT 1034/39の戦時中録音集にも収録。
演奏時間:15:34, 17:35, 6:32, 12:42, 計52:43。
1953年、米ウラニア社から発売され、フルトヴェングラー自身の訴えによって発売が中止され幻と化した、という有名な“ウラニアのエロイカ”である。
今やいろんな所から発売されているが、ある程度まともな音源ということで初めて私が入手したのはBAYER 100.002であったが、これは既に入手困難になっている。今はTAHRA盤が入手しやすく、また音質も良い。
私見だが、演奏としてはそれほど特別扱いすることはない演奏だと思う(などと言ったらバチあたりだろうか?)。別にけなしているのではなくて、フルトヴェングラーの英雄はどれも素晴らしい、という意味なのだが....
2011年、TAHRAからSACD hybrid盤もリリースされた(FURT 2008, 写真右)。ますます音質もよくなっている。
ウィーン・フィル----1947年11月10,11,12,17日、Musikvereinssaal、HMVによるSP録音
TAHRA。FURT 1027。
新星堂から復刻盤が出た時に入手しそこなってしまったので、TESTAMENT社から発売されるのを待っていたのだが、1999年になってTAHRAが復刻してくれた。終楽章のSP最後の面がピッチがやや高くなってしまっている(CDでは終楽章10:06以後)。
この年5月にベルリンの指揮台に復帰した後、夏にはルツェルン音楽祭に出演、そして48-49年シーズンに入り、精力的な活動を再開した頃の録音である。これと同じ11月にブラームスの第1番もVPOとスタジオ録音しており、それはTESTAMENT社からCD化されている。
このTAHRA盤がSP時代からのマニアの方々にとってうれしかろうと思われるのは、余白に、以前東芝EMIから非売品8cmCDとして世に出た「幻のテイク5」が収録されていることであろう。→詳しくはこちら。
なお、その非売品8cmCDには、1948年11月12日のストックホルム・フィルとの「レオノーレ第3」のリハーサル風景も入っていた。
ベルリン・フィル----1950年6月20日、Titania Palast、ライヴ
TAHRA。FURT1030(写真左)。RIASによる録音。
(それ以前に、M&A CD 711 でも入手していた。)
演奏時間:15:55, 17:39, 6:17, 12:07, 計51:59。
1952年夏に体調を大きく崩す(それがきっかけで難聴になる)以前の貴重なライヴ。
古典的なフォルムは崩れないが、ここぞというところでの追い込みは下の52年盤とは違う。
またこの盤は下の1952年12月録音2つと比べると、この盤はピッチが低く収録されている。冒頭和音を聴き比べると全然違う。にもかかわらず、こちらのほうが若干所用時間が短い。ということは、フルトヴェングラーのこの曲の演奏としては最もテンポが速い演奏だったはずである。
2009年発売、auditeレーベルからのRIAS録音集(21.403)にも収録されている(写真右)。
ウィーン・フィル----1950年8月31日、ザルツブルク音楽祭閉幕演奏会ライヴ
EMI。ザルツブルク音楽祭エディションとして2000年に初リリース(写真左)。
演奏時間:16:07, 16:53, 6:20, 12:43, 計52:07
輸入盤2CDで、カップリングが、同日演奏のブランデンブルク協奏曲第3番・第5番である。音源は「Kopien aus Privatbesitz」と表記されている。プライヴェート音源からのCD化だが、聴きやすい音質である。
2004年、ORFEOからザルツブルク録音集8枚組C409 048Lを入手(写真右)。EMI盤は譲渡した。
演奏はかなり素晴らしい。第1楽章のコーダの加速が急で、そのあたりから燃焼度が俄然高まってくる。第2楽章の弦の粘り、第3・4楽章の生気あふれる演奏は、このころがフルトヴェングラーの戦後の全盛期頂点だったことを示すものである。
ローマRAI交響楽団----1952年1月19日、ローマ、ライヴ
ANDROMEDA。同年のRAI録音集6枚組ANDRCD 5010。16:40, 17:24, 6:34, 12:47。
ウィーン・フィル----1952年11月26,27日、Musikvereinssaal
EMI。全集盤スタジオ録音。
演奏時間:16:04, 17:16, 6:30, 12:12, 計52:16
あらゆる意味で「規範」となる名演。音質も最高で、第2楽章など泣ける。
写真は2012年末発売のシングルレイヤーのSACD国内盤BOX内の1枚。Reference盤同様に第1番とカップリング。
ウィーン・フィル----1952年11月30日、
Musikvereinssaal、ライヴ
TAHRA FURT1076/7(写真左)。
15:44, 17:52, 6:53, 12:06。
この日の全ブログラム(第1番、さすらう若人の歌)を収録している。
2012年、「英雄」のみでSACD Hybrid盤が出た(写真中央、FURT 2011)。
さらに同年、ORFEOからもウィーン・ライヴ録音BOX(C834 118Y、写真右)が出た。
ベルリン・フィル----1952年12月7日、Titania Palast、ライヴ
TAHRA FURT1018。SFB録音。
演奏時間:15:42, 18:01, 6:23, 12:26, 計52:34。
演奏については次の翌日の録音とあわせて記す。
ベルリン・フィル----1952年12月8日、Titania Palast、ライヴ
TAHRA FURT1008/11(写真左)。
「運命」「田園」「グレイト」などとカップリングの没後40年記念4枚組。
演奏時間:16:18, 18:49, 6:31, 12:46, 計54:36
前日のよりも格段に音質がよいが、やや残響成分が付加されているようである。
しかし、不自然さはない。
2000年末に、TAHRAが「残響付加無し、24bitリマスター盤」4枚組FURT1054/57を出したのを入手。上の従来盤とはだいぶ印象が異なる。
2009年発売、auditeレーベルからのRIAS録音集(21.403)にも収録された(写真右)。
この2日連続の録音の違いの大きさほど、フルトヴェングラーが「即興の人」だったことを示す証拠はないだろう。
演奏時間だけみても結構な差がある。フルトヴェングラーは11月末に上のEMI録音及びライヴでウィーン・フィルとこの曲をみっちり演奏してきたばかりである。にもかかわらず、オケを手兵のベルリン・フィルに変えてのコンサート初日の7日のコンサートの神経質さは何なのだろう。推移の達人と呼ばれた彼がテンポを変える時に、こんなにも「手探り」でやっていることに驚いてしまう。ところがその翌日8日の演奏は、まるでEMI全集盤のようにすべてがうまく滑らかに移行していくのだ。
しかし、この7日の演奏が失敗作というわけではない。むしろその神経質ぶりが緊張感を感じさせてくれて、うまくいったようにみえる8日盤よりも名演に聞こえるからおもしろい。(ブラームス第4番の1948年10月22日盤は24日盤と比べて、神経質さが失敗につながってしまった例であったが。)
ルツェルン祝祭管弦楽団----1953年8月26日、ルツェルン、Kunsthaus、ライヴ
TAHRA。FURT 1088/9(写真左)。
同日のシューマンの第4番とカップリング。他に、1951年の第7番第2楽章リハーサル風景や、EMIへのブラームスV協も収録されている。
audite。91.441。SACD hybrid(写真右)。2019年、同日演奏のマンフレッド序曲(初出)も含む2枚組が出た。
ウィーン・フィル----1953年9月4日、ミュンヘン、ライヴ
EMI。2004年6月、GREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURYシリーズ5 62875 2。
このCDでは、場所が「ヘルクレスザール」と表記されているが、この日はドイツ博物館コングレスザールでの演奏のはずである。
同日の「エグモント序曲」と(不所持だが)「第4」はオルセン番号が割り当てられているが、この「英雄」はTAHRAのディスコグラフィにも載っていない。しかし海賊盤ではかなり前から出ていたようだ。当盤はバイエルン放送の録音から初めて正規CD化されたものであるが、音質はややこもった感じがする。
しかし演奏は、第1楽章コーダの追い込みもすばらしく、続く第2楽章の雰囲気も実に良い。
演奏時間16:08, 17:23, 6:40, 12:40。このタイムは1年前のスタジオ録音とほとんど同じだ。
この2日後にはエジンバラで同じプログラムを2日続けて演奏している。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-m.htm#wf
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c17
18. 中川隆[-14176] koaQ7Jey 2020年1月25日 16:48:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-989]
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」 変ホ長調 作品55
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3.htm
1802年ころから作曲開始。1804年12月、ロブコヴィッツ侯爵邸で非公開初演。1805年4月7日、アン・デア・ヴィーン劇場で初演。
ベートーヴェンは、フランス革命の中から出現した英雄ナポレオンにこの曲を献呈しようとして、清書スコアの表紙に「ボナパルトへ。ルイジ・ヴァン・ベートーヴェン」という献辞を書いで準備していた。しかし、ナポレオンが皇帝に即位したという報を聞いて、その献辞をペンでぐしゃぐしゃに消してしまい(表紙を引きちぎったというのは誤り)、その下に新たに「ある英雄の思い出をまつる」曲としてイタリア語で「シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)」と記した。
はるか後、ナポレオンがセントヘレナ島で亡くなったという報を聞いて、「私は彼の没落を予言していた」と言ったのは、第2楽章の葬送行進曲のことを指すと言われている。(しかし下に述べるように、むしろ第1楽章のコーダが「没落・死」に該当するのであって、それを受けて第2楽章が葬送行進曲になっているのだ、と理解したほうが理にかなっている。)
演奏史上の決定盤は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの全集中の録音であろう。
ただし、以下の解説にのべたとおり、この曲の従来のイメージは、ベートーヴェンの意図に反していると思われるので、アーノンクールまたはガーディナーの全集録音をもって決定盤とする時代が来ている。
この曲は、第1楽章コーダで、トランペットのテーマが
と高らかに演奏されるのが「英雄」らしさ、とされていたが、それはヴァインガルトナーの改訂である。(MIDI)
実際の楽譜では、次のようになっている。(Tp.のみのMIDI)
トランペットは1回目の途中で早くも脱落し、その後は木管数本(フルート、オーボエ、クラリネット各2)のみがテーマを8分音符で演奏する。(最もテーマがわかりやすいオーボエのみ譜例をあげておく。)
→全合奏のMIDIファイル(若干簡略化)でも聴いてみてください。
左にトランペット、右にフルート、オーボエを配置しました。
これをモダン楽器の大オーケストラで演奏すると木管が弦の嵐の中に埋没してしまう。(ショルティの70年代の全集盤では木管をイコライザ処理していたと記憶している。)やはり、楽譜通り聴くためにはオリジナル楽器派のほうが良い。
もちろん過去の偉大な巨匠たちは、ヴァインガルトナー改訂版で演奏している。しかし、フルトヴェングラーは次のような言葉を残してもいる。
「ベートーヴェンにおいては、フルート1本で全オーケストラに対抗しなくてはならない時がある。」
おそらく、アーノンクールなどの演奏を聴いたら、フルトヴェングラーも納得してくれるのではなかろうか。(もちろんテンポについてはいろいろ言うだろうが。)フルトヴェングラーが楽譜通りに演奏したら、おそらく、ここのところで、あのラッキョ頭を振り振り、口からシューシュー言わせて木管に気合いを入れただろう、と想像する。
「バルヴ機構のない金管では自然倍音列しか出せないため、ベートーヴェンは金管楽器のメロディを中断せざるを得なかった」という問題がある。「第9」第4楽章冒頭のトランペットなどはその例だろう
(→「版以前の問題」のページへ)
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/edition/before-ed.htm
しかしこの「英雄」第1楽章コーダは、それに似て非なるものである。なぜなら、譜例の赤い矢印の音は、ナチュラルトランペットでもちゃんと出せる −つまり凱旋のファンファーレを1回はちゃんと鳴らすことができる − からである。ベートーヴェンはそれをあえて尻切れにして、別の効果を狙っているのだ。
有名な逸話によれば、ベートーヴェンは、ナポレオンがセントヘレナ島で死んだというニュースを聞いて、「私は彼の行く末を、すでに音楽で予言していた」と言ったらしい。で、これは普通、第2楽章の葬送行進曲のことだ、と考えられている。しかし、アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナーなどの演奏を聴けば、そうでないことは明らかだ。
第1楽章コーダで「英雄ナポレオン」は突撃の最中に射たれて落馬・戦死する(=Tpの中断)。だが、その屍を乗り越えて「フランス国民軍」は進撃するのである。つまり、「英雄の出現は歴史的事件のきっかけにはなるが、英雄だけで歴史を語ることはできない」という真理をベートーヴェンは見事に描いたのである。(ここで「戦死」を描き、それを承けての第2楽章・葬送行進曲となるわけである。
「凱旋」に続く「葬送」では筋がつながらない。)
これは「絶対音楽」的考え方からすれば邪道な解釈かもしれない。しかしベートーヴェンは、初めナポレオンに捧げるためにこの曲を書きあげ、ナポレオン戴冠の知らせを受けてそれをやめたにしろ、改めて「ある英雄の思い出に捧げるシンフォニア・エロイカ」と標題をつけているのだ。よって何かしらのイデーを表現したものと考えるほうが正当であろう。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c18
19. 中川隆[-14175] koaQ7Jey 2020年1月25日 17:06:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-988]
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」変ホ長調 作品55 モノラル録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-m.htm
全集中のものも含め、所有する全録音を掲載する。
この時代には、第1楽章コーダのトランペットを楽譜どおりに吹かせる指揮者は皆無であった。
この2日後にはエジンバラで同じプログラムを2日続けて演奏している。
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
1949年11月28日・12月5日、
全集BOXに含まれる録音
RCA。大部分1951〜52年の録音である全集中、第2の一部と並んで1949年録音であり、
TOSCANINI COLLECTIONシリーズの全集BOX(BVCC-7003/7)では確かに「古いかな」と感じられた。
しかし、1998年末に2CD×3セットの、「LIVING STEREO」シリーズと同じリマスター方式で発売されたものでは、最初の2つの和音が以前の全集とは全く違う充実した響きが聴ける。
1953年12月6日、カーネギー・ホールでの放送用ライヴ録音
RCA。60271-2-RG。モーツァルトの40番とカップリング(写真左、譲渡済み)。
LP末期にはこれがレギュラーで出ていて、何度も聴いた。
リマスタリングされないものかと思っていたら、2008年にXRCD化された(JM-M24XR09、写真右)。
1939年10月28日、8Hスタジオ録音
RCA。K2リカッティングされた1000円の国内限定盤。
NBC響結成直後の放送用録音によるベートーヴェン・チクルスの1つ。
カップリングされた「レオノーレ序曲第3番」も11月4日の録音なので、そのチクルスで演奏されたのだろう。
1945年9月1日、VJデー(対日本勝利記念日)のライヴ
M&A。VEデーの「運命」とカップリング。
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エーリヒ・クライバー指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ
DECCA。1950年5月録音。
DECCA LEGENDSシリーズで96kHz 24bitリマスターされた輸入盤467 125-2(写真左、カップリングは53年「運命」)。
当盤では、第1楽章提示部リピート無しで、13:57というタイム。
のちクライバーのDECCA録音6枚組(写真右)にも収録。
ウィーン・フィル
DECCA。1955年、ムジークフェラインでの録音。輸入盤414 626-2。
こちらは、第1楽章提示部をリピートして16:54だが、提示部3:00なので旧盤とテンポ感は変わりなし。
クライバーのDECCA録音6枚組を入手したので古い単品盤は譲渡した。
シュトゥットガルト放送交響楽団
DOREMI。1955年12月31日、ライヴ録音。(同オケのジルベスター・コンサートか?)
DECCAへのスタジオ録音よりもゆっくりとしたテンポである(第1・2楽章とも17分超)。音質はまずまず。
カップリングはBPOとの戦前のSP復刻で、コリオラン序曲(1930 スプラフォン、音質悪)、アイネ・クライネ(1932 TELEFUNKEN)。
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ハンス・クナッパーツブッシュ指揮
ウィーン・フィル
ORFEO。1962年2月17日、ムジークフェラインでのライヴ。
1954年1月17日の第7、PC第4、コリオラン序曲とカップリング2枚組。
ブレーメン・フィル
TAHRA。TAH 217。1951年5月9日ライヴ。
この録音は、終楽章に録音テープに障害があるため、発売予定が発表された後、一度中止になったところを、日本からの要望で発売が決定されたものである。しかし聴いてみると障害などなさそうな感じである。
ミュンヘン・フィル
TAHRA。TAH 294。1953年12月17日ライヴ。
以前キングから国内盤が出ていたが、ついにTAHRAが正規音源から発売。
Golden Melodram盤とも同一録音である(GM 4.0040,3CD、これも手放した)。
ベルリン・フィル
プライザー。1943年SP録音復刻。はっきり言って「普通すぎる」。
後年のブワーッとした感じがない。
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カール・シューリヒト指揮
ベルリン・フィル
DG。1941年9月27,29日、グラモフォンによるSP録音。
15:39, 15:14, 4:27, 11:08
DG百周年のベートーヴェン・エディションの最終巻「歴史的録音集」で持っている。
(以前、新星堂からCD化されていたSGR6001/05に収録されていたのと同一録音である。)
シュトゥットガルト放送交響楽団
アルヒフォン。1952年2月29日、ライヴ録音。
13:50, 15:29, 5:47, 10:19
同年9月にスタジオ録音した「コリオラン」とカップリング。
パリ音楽院管弦楽団
EMI。1957年12月18,20,23日、サル・ワグラム。モノラル録音。全集。
14:11, 15:39, 5:33, 11:06
ウィーン・フィル
ORFEO。1961年8月23日、ザルツブルク祝祭大劇場におけるライヴ録音。
15:07, 15:37, 5:38, 11:48
2000年秋にリリースされたモノラル録音である。カップリングがStölzelのコンチェルト・グロッソというバロック音楽なのは珍しい。
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その他のモノラル録音
ブルーノ・ワルター指揮シンフォニー・オヴ・ジ・エア(旧NBC交響楽団)
M&A。
1957年2月3日、カーネギー・ホールでのトスカニーニ追悼コンサートのライヴ。
ワルターとトスカニーニの間柄がしのばれる名演。
以前、ワルター協会からLPが出ていた時には、最期の拍手がすぐ止んでしまっていた。そして、「これはワルターが拍手を押しとどめたのだ」と解釈されていた。
しかし「M&A CD-1010」では大拍手が続いているのは、どういうわけなのであろう? と思っていた。
2009年、新たに「M&A CD-1201」(写真、2007年発売)という2枚組を入手した。
これはトスカニーニ追悼コンサート全体を収録したもので、ワルターの「英雄」の他、
ミュンシュ指揮の「海」、モントゥー指揮の「エニグマ変奏曲」が入っている。演奏もこの順序だったようだ。こういうプログラムだったとは初めて知った。
このCDを聴くと、演奏後におこった大拍手はたしかにワルターによって押しとどめられていることがわかる。また「海」のあとの拍手も手拍子1回ですぐ抑えられている。「エニグマ」のあとには拍手無しのホールの様子がしばらく収録されている。 よって、やはり「M&A CD-1010」の大拍手のほうがどこかから貼り付けたものである、ということになりそうだ。
なお、当CD2枚目は「エニグマ」のあとの余白に、シンフォニー・オヴ・ジ・エアが指揮者無しで演奏収録した「くるみ割人形」組曲、「ローマの謝肉祭」序曲、「マイスタージンガー」前奏曲が収められている。1954年9月21日ステレオ録音である。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
audite。1953年9月8日、ティタニア・パラストにおけるライヴ録音。14:38,17:37,5:52,12:29。
この日の演奏会は、カラヤンが戦後初めてベルリン・フィルを指揮したものである。
カップリングは57年の第9で2枚組。2008年リリース。
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フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団
EMI。1961年2月5日、SFB Sendesaalでのライヴ録音。
GREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURYシリーズ輸入盤に同日演奏の「レオノーレ第3番」とともに収録されている。
全く恐るべき演奏である。
17:12, 19:06, 7:05, 13:10。
このテンポはフルトヴェングラー以上に遅い。
クナが意外に速いので、おそらくこの曲のもっとも遅い演奏と言えるのではなかろうか。
もちろんだからといって締まりがないわけではない。晩年のフリッチャイを代表する名盤と言って良いだろう。第1楽章コーダの問題のトランペットが抑え気味なので、まるでスコア通りに演奏しているかのように聞こえるのも良い。
なお、この2枚組のその他の収録曲は、デュカス「魔法使いの弟子」、コダーイ「ガランタ舞曲」(VPO,Salzburg)、ショスタコーヴィチ交響曲第9番、ヒンデミット「ヴェーバーの主題による交響的変容」、ヨハン・シュトラウス「芸術家の生涯」、モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」序曲。いずれもDGではなく、RIASもしくはSFBの放送用録音である。
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フェリックス・ヴァインガルトナー指揮ウィーン・フィル
EMI。Columbia SP録音。1936年5月22〜23日、Musikverein,Wien (LX 532-537)
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ウィレム・メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ
M&A。CD-1005(5CD)。1940年4月14日、ライヴ録音。
チクルスの完全ライヴ全集中のもの。
旧PHILIPS全集では同じチクルスライヴを使用していたが「英雄」だけはTELEFUNKENのSP録音を使用していた。確かにこのライヴは、最初の2つの和音の音量が低いなど、録音上の問題がある。しかし表現の一貫性はこちらが上だ。
ウィレム・メンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ
TELEFUMKEN。1940年11月11日、SP録音。
OPUS蔵レーベルから良質のSP復刻盤OPK2015が出ている。
またDECCAから旧PHILIPS発売録音15枚組BOXが出ており、その中のベートーヴェン全集では、「英雄」のみこのSP録音が収録されている(写真)。
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ギュンター・ヴァント指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団・合唱団
TESTAMENT。1956年録音。
2枚組で、65年ステレオ録音の「ミサ・ソレムニス」とカップリング。
フランスのレコード頒布クラブ「クラブ・フランセ・デュ・ディスク社」への録音である。
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オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア
EMI。1955年録音。
GREAT RECORDINGS OF THE CENTURYシリーズでART処理。
のちのステレオ録音全集とはだいぶ違う。
第3楽章以外の3つの楽章でそれぞれ1分近く所要時間が短い。
カップリングはこれもモノラル録音のレオノーレ序曲第1番・第2番である。
フランツ・コンヴィチュニー指揮シュターツカペレ・ドレスデン
Berlinクラシック。1955年録音。
良い演奏である。16:16, 17:42, 6:21, 11:46。
長らく「ゲヴァントハウス管との全集録音とは別のモノラル盤だが音質良好」などと書いたままだったが、あらためてCDケースを見たらオケはDSKの誤りであった。
で、さらによく見ると「この録音は、東ドイツのETERNAレーベルによる最初のLPレコードとして1955年に発売されたものである。当CDのジャケットはそのLPのものを再現した。」とある。そんなわけで、1955年が録音年とは限らない。(録音データの記載はない。)
ちなみに、ETERNAは国営会社ドイツ・シャルプラッテンの持つレーベルの1つであり、別会社というわけではない。コンヴィチュニLGOのベートーヴェンやシューマンの全集は、ドイツ・シャルプラッテンとPHILIPSの共同制作だが、東ドイツ内ではETERNAレーベルだったようだ(Berlin ClassicsのCDにもETERNAと表記されている)。
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パウル・ファン・ケンペン指揮ベルリン・フィル
PHILIPS。1951年5月26-28日録音。
第3楽章のトリオ冒頭のホルンが出てくる前に長い間をあけるのはクナッパーツブッシュと同じである。
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ヘルマン・シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
WESTMINSTER。全集中のもの。1953年10月録音。
14:42, 15:38, 5:52, 12:25
このモノラル全集盤では第1楽章コーダでヴァインガルトナーの改訂通りトランペットが最後まで主題を吹いている。またテンポも速めではあるがマトモである。同レーベルの1958年ステレオ盤と聴き比べるとおもしろい。
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ヴィットリオ・デ・サバタ指揮ロンドン・フィル
DECCA。1947年3月録音だが音質良好。
カップリングは「ローマの謝肉祭」「悲しきワルツ」「ヴァルキューレ騎行」
2017年末、サバタ没後50周年で、戦前のポリドール(DG)録音、戦後すぐのDECCA録音をまとめた4枚組BOX(写真右)でも入手。
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フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団
RCA。1954年録音。
「弾丸ライナー」的演奏だけの人ではないということが、この重厚な音を聴いて初めてわかった。
ステレオ録音の「コリオラン」「フィデリオ」両序曲とカップリング。
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イーゴリ・マルケヴィチ指揮シンフォニー・オヴ・ジ・エア(旧NBC交響楽団)
DG。1956年、DGのアメリカでの初録音。
するどい切れ味!
第1楽章コーダは、トランペットを旋律を8分音符連打で吹かせる、という折衷様式。
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ヘルマン・シェルヒェン指揮ウィーン交響楽団
TAHRA TAH 283/6。1950〜51年の「Ultraphon,Supraphon」録音集。
第2番・第4番、モーツァルトなどとのカップリング4枚組。
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ヘルマン・アーベントロート指揮ベルリン放送交響楽団
TAHRA。1954年2月13日、ベルリン国立歌劇場ライヴ。
オイストラフとのV協やチェコ・フィルとの「合唱」とのカップリングの3枚組。
音質は良いが、ちょっとデッド気味。演奏は意外と締まりのあるものになっている。
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エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル
ERATO。ムラヴィンスキー12枚組。1968年10月31日、モノラル・ライヴ録音。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-m.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c19
20. 中川隆[-14174] koaQ7Jey 2020年1月25日 17:19:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-987]
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」変ホ長調 作品55 ステレオ録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-s.htm
全集中のものも含め、所有する全録音を掲載する。
以前、「第1楽章コーダを楽譜どおりに吹かせた先駆者はモントゥー(コンセルトヘボウ、PHILIPS)である」と書いていたが、2001年秋に入手したシェルヒェンのウェストミンスターへの1958年ステレオ再録音(ウィーン国立歌劇場管弦楽団)が、楽譜通りの演奏が聴ける最古の録音のようである。
なお、カイルベルトの録音もトランペットは楽譜通りのように聞こえる。(録音年不詳)
また、以下には掲載していないが70年代前半録音のショルティ&シカゴ響の旧全集盤も楽譜通りである。私はそのCDを学生時代に持っていて、「これが楽譜どおりなのか」とはじめて意識させられた盤であった。しかしこの録音は、木管がトランペットに負けないようにイコライザ処理されていて、ちょっと不自然な感じがしたのもよく覚えている。(晩年にショルティは結構オリジナル派の影響を受けていたはずで、80年代のデジタル録音全集でもおそらく楽譜どおり吹かせているはずだ。)
__________
クラウス・テンシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団
Profil。1979年7月3-6日、ハンブルク、北ドイツ放送スタジオ10、ライヴ録音。
14:42,17:25,6:06,12:19。
カップリングは「コリオラン」序曲。
HMVのページにはライヴ録音と書いてあったが、ジャケットにはライヴと書いてない。場所・期間からしてもライヴではないのは明らか。聞く限り聴衆ノイズも感じられないので「放送用録音」だろう。
しかし演奏はまるでライヴのような燃える演奏だ。こういう熱い演奏は、最近は滅多に聴けない。
__________
ヨゼフ・クリップス指揮ロンドン交響楽団
EVELEST原盤。キング国内盤SACD Hybrid(2015発売)。
1960年1月、ロンドン、ウォルサムストウ・アセンブリー・ホールでの録音。
14:50, 12:49, 5:55, 11:23。
第1楽章はリピート無しである。意外なのは第2楽章の速さだが、正しい意味で行進曲となっている。
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クラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団
accentus。Blue-ray。2013年8月16-17日、ルツェルン文化会議センターでのライヴ収録。
18:13、16:56、6:21、12:17、計53:57。
ベルリン・フィルとのベートーヴェン全集ではオリジナル系の演奏に影響されていたアバドが、ここでは久々に重厚な音を出している。
プログラムは、ブラームス「悲劇的序曲」、シェーンベルク『グレの歌』〜間奏曲、山鳩の歌。そしてこの英雄、というものである。「山鳩の歌」では藤村美穂子が歌っている。
アバドはこの翌年早々1月20日に亡くなるわけだが、少なくともこの演奏の段階ではそんなことは全く感じられない。
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カール・シューリヒト指揮フランス国立放送管弦楽団
Altus。1963年5月14日、シャンゼリゼ劇場でのステレオ・ライヴ録音。
パリ音楽院管との全集がモノラルだっただけに、このステレオ録音はうれしい。
2枚組で当日のプログラム全曲が収録されている。シューマン「マンフレッド序曲」、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(グリュミオー)。
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シルヴァン・カンブルラン指揮南西ドイツ放送交響楽団
GLOR。2009年2月14日、フライブルク、コンツェルトハウスでの録音。
カップリングは「レオノーレ序曲第1番」である。
前任者のギーレンは、意外にも版の問題には無頓着で、特にこの曲に関しては第1楽章コーダでトランペットに最後まで主題を吹かせていた。しかし、カンブルランは、ちゃんとトランペットに途中で消えてもらっている。ただ全体としてベーレンライター版かどうかはわからない。
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ヘルムート・ミュラー・ブリュール指揮ケルン室内管弦楽団
NAXOS。2003年10月10-11日録音。
第1・2番につづくベートーヴェン録音第2弾。「プロメテウス」「コリオラン」「エグモント」の序曲3曲(04年11月)とカップリング。
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カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィル
DG。OIBP化。1978年録音。彼の全盛期。
遅いテンポだが、近年ソニーに録音するようになってからのような異様さはない。第1楽章提示部をリピートしている。20:34, 17:20, 6:32, 13:04。
シューマン「マンフレッド序曲」とカップリング。
2011年、LAPO録音集6枚組でも入手。そのDisk1は上のOIBP盤と同じカップリングである。おそらくリマスタリングも同じか?(PCで再生するとOIBP盤のジャケット写真がMediaPlayerに表示される。)
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カール・ベーム指揮ベルリン・フィル
DG。国内盤OIBP化。1961年録音。ベームの全盛期の名演。
同時期のBPOとの第7やブラームス第1同様、音とテンポに締まりがある。
「コリオラン」序曲とカップリング。
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ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィル
DECCA。1958〜59年録音。
19:18, 16:28, 5:35, 12:34。
2001年春、DECCA LEGENDSで「運命」「第7」とともに2枚組となった(写真左)。
いずれも「指環」と並行して録音されたものである。
カルショウのプロデュース、ゾフィエンザールの素晴らしい響きは古びることはない。
吉田秀和氏が、「世界の指揮者」の中でこの「英雄」をとりあげて、ショルティの「劇場的」な感覚について述べている。
2012年8月、シングルレイヤーのSACD国内盤で「ジークフリート牧歌」とカップリングでも出た(写真右)。
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フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィル
DG。1958年録音。ステレオ録音で非のうちどころのない名演である。
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クラウス・テンシュテット指揮ウィーン・フィル
Altus。2CD。1982年8月29日、ザツルブルク祝祭大劇場におけるライヴ録音。
このコンビの一期一会の記録。
14:56, 17:56, 6:38, 13:09。
2枚組で同日に演奏されたマーラーの交響曲第10番アダージョとカップリング。
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カール・シューリヒト指揮ベルリン・フィル
TESTAMENT。SBT2 1403。1964年10月8日、フィルハーモニーでのライヴ録音(ステレオ?)。
同日の「プラハ」「マンフレッド序曲」とカップリング2枚組。ブランデンブルク・ラジオ放送原盤の素晴らしい掘り出しものである。
「プラハ」がさっと流した感じの演奏なのに対し、この「英雄」はかなりがっちりとしたドイツ的演奏になっている(16:13, 16:56, 5:59, 11:56)。
管楽器はカラヤン軍団の音色だ。音はステレオ表記だが「モノラルに少し横の広がり感がある程度」である。
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クラウス・テンシュテット指揮ロンドン・フィル
EMI。1991年9月26日、10月3日、
ロイヤル・フェイティヴァル・ホールにおけるライヴ録音。24bitリマスター国内盤。
第1楽章リピートなしで15分、当然コーダはトランペットが最後までテーマを吹く。第2楽章はフルトヴェングラー張りの16:58。終楽章の盛り上がりもすばらしい。
なぜかスタジオ録音の「はげ山の一夜」とカップリング。
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クルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
PHILIPS。1992年10月、新ゲヴァントハウスにおける録音。
「ペータース版による初録音全集」にもかかわらず、第1楽章のコーダのトランペットはヴァインガルトナーの改訂の通りである。
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ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団
ヘンスラー。2002年8月30日、シュトゥットガルト・リーダーハレ・ベートーヴェンザールにおける「ヨーロッパ音楽祭」ベートーヴェン・チクルスのライヴ録音。
ベーレンライター版による演奏。
15:46,12:18,5:46,9:56。
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サイモン・ラトル指揮ウィーン・フィル
EMI。2002年4〜5月、ムジークフェラインにおけるライヴ録音。
デル・マー校訂のベーレンライター版による全集である。
16:21, 15:14, 6:02, 12:07。
問題の第1楽章コーダ部分はホルンのリズム強奏によってもの凄い勢いがある。葬送行進曲や終楽章は演奏スタイルの違いを超えて、ウィーン・フィルの伝統が感じられる感動的名演になっている。
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ヘルマン・シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団
WESTMINSTER。1958年5月録音。
14:33, 13:25, 5:25, 10:21。
モノラル全集を録音したあと「田園」とこの曲のみ再録音したものである。2001年にウェストミンスターがドイツ・グラモフォン傘下に入ったため、OIBP化された輸入盤471 241-2で、その「田園」とカップリングで発売された。
モノラル全集盤と比べると、第1楽章はタイム差はさほどでもないのに、もの凄くテンポが前のめりに感じられる。また、コーダでは楽譜通りトランペットの主題が途中で欠落している。第2楽章は2分速くリズムも弾力性があり「行進曲」として実用的な演奏になっている。(この第2楽章は、所持していないが65年のルガーノ盤ではカタログのデータによれば16分以上かかっている。)
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ルドルフ・ケンペ指揮ベルリン・フィル
EMI。輸入盤CDZ7 62623 2。1959年9月3〜5日、グリューネヴァルト教会での録音。16:41, 17:31, 6:15,12:38
この第1・2楽章の遅いテンポ表記につられて買ってしまったものである。(後のミュンヘン・フィル全集盤はややこれより速い)
1957年録音と表記されているが、「クラシックプレス」第4号のBPOディスコグラフィによれば上記のデータが正しい。
TESTAMENTの12枚組SBT12 1281にも収録されている。(こちらは正しく59年録音と表記。)
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ルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィル
EMI(IMG Artists)。
1974年5月22日、スメタナ・ホールでのプラハの春音楽祭ライヴ録音。
16:20, 17:28, 5:34, 12:39。録音状態が良い。
2003年に出たGREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURYシリーズ2枚組で出た。
他に「ロマンティシェ」「ダフニスとクロエ第2組曲などのライヴ録音が収録されている。
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オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
EMI。1959年10-11月録音。
ART処理した輸入盤分売6枚で全曲を購入してしまった。
なお、この全集に先だってEMIにはモノラルで「英雄」「運命」「第7」を録音していたらしい。
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ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
ソニー。1957年2月22〜23日録音。吉田秀和氏絶賛の全集。
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ピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィル
DECCA 440 627-2(2CD)。1957年録音。
第1楽章コーダは、このVPO盤ではヴァインガルトナー改訂版で演奏している。
コンセルトヘボウとは楽譜通りにやっているから、ここはVPOの伝統に妥協したのだろう。
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シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団
RCA。1957年録音。
「英雄・運命・第9」収録の2枚組廉価盤で聴いていた時は録音が薄っぺらな感じがして楽しめなかった。
しかし、2002年夏にXRCDシリーズで出たのを入手(写真)。いったい今まで聴いていたのは何だったのだろう、と言いたくなるほどに音質が向上しオケの音が分厚くなった。これなら聴ける!
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ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
ソニー。1958〜59年録音。輸入盤の20ビット・リマスター盤が発売された時に買い換えた。
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ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮チェコ・フィル
スプラフォン。1959年録音。
国内廉価盤のリマスターが丁寧でないためか、ややヒスノイズが目立つが、オケの音色は大変に重厚である。チェコ・フィルがドイツのオケに聞こえる。
アンチェル指揮の「レオノーレ第3」とカップリング。
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フランツ・コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
Berlinクラシック。1959〜61年、ライプツィヒ、ベタニア教会での全集録音。
以外にも第1楽章のリピートを行っている。
19:40(R3:33), 15:45, 6:06, 11:24。
これより前に、シュターツカペレ・ドレスデンと55年頃にモノラル録音を残している。
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ヨゼフ・カイルベルト指揮ハンブルク国立フィル
TELDEC。
第1楽章コーダでトランペットは楽譜通りだが、木管に何かダブらせているようでもある。
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ルネ・レイボヴィッツ指揮ロイヤル・フィル
CHESKY。1961年録音。分売5枚。
「運命&第2」はPHCF-5231で国内盤としても出ていて、それを聴いて「ギーレンより30年前にこんな録音があったのか」とビックリして他のも輸入盤で入手したのである。このレーベルの録音も素晴らしい。
ただし、「第9」を聴くとよくわかるが、テンポについては速めの指定通りなのに、オクターヴ音を上げたり、金管を重ねたりしているところもあるのは「時代の制約」と言えよう。この点で「楽譜忠実度」はトスカニーニとほぼ同じである。
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ピエール・モントゥー指揮コンセルトヘボウ
PHILIPS。1962年録音。
全集でのVPO盤と異なり、第1楽章コーダでトランペットを楽譜通り途中欠落の形で演奏させている。
モダン楽器のフルオーケストラで、ここを楽譜通り木管だけで演奏して、なおかつ力強さに欠けることがない、というのは大変な手腕であると思う。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
DG。1962年11月録音。
14:46, 17:06, 5:47, 12:20
DG100周年記念のBEETHOVEN EDITIONでOIBP化された全集。カラヤン壮年期の名演。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
DG。1977年録音。
13:28, 16:27, 6:10, 11:36
カラヤンBPOの2回目の全集中のもの。全盛期のカラヤンの輝かしさ。
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ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘン・フィル
EMI全集。DISKY復刻CD。1972年4月16〜19日、ミュンヘン、ビュルガーブラウケラーにおける録音。
15:18, 16:00, 5:45, 12:10
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ラファエル・クーベリック指揮ベルリン・フィル
DG。1971年10月録音。
同レーベルとつきあいのある様々なオーケストラが聴けるおもしろい全集。
99年11月、この「英雄」のみAMSI処理された国内盤で単売された。
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カール・ベーム指揮ウィーン・フィル
DG。1972年9月、ムジークフェラインでの録音。全集中のもの。
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レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
DG。1978年2月4〜6日、全集ライヴ録音。
第1楽章はリピートして17:40と快速だが、第2楽章は17:34とかなり遅い。
シングルレイヤーSACD国内盤を入手したので、それ以前に入手したディスクは譲渡した。
並行して収録されたUNITELの映像もDVDで持っている。
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オトマール・スイトナー指揮シュターツカペレ・ベルリン
DENON。ドイツ・シャルプラッテンとの共同制作全集。
1980年6月、東ベルリン、キリスト教会での録音。
第1楽章コーダでは、トランペットは1フレーズ目は音程は楽譜通りオクターヴ下げているものの長くのばして吹いている。2フレーズ目は木管が聞こえるのでおそらく楽譜通りと思われる。冒頭のリピートも行っている。18:37, 15:01, 5:26, 11:06。
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ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団
RCA。1985年、ハンブルク、フリードリヒ・エーベルト・ハレでのDHM全集録音。
2001年にBMGが24bit-96kHzリマスターした2枚組×3セット分売を入手。
第1楽章リピートして18:00。冒頭2連打を堅く締まりすぎとも思える音で始め、その後も特に力こぶを入れることなく展開していく。弦のキザミの上で管楽器が演奏する時に弦の音量を手加減しないので管が目立たなくなってしまうこともあるのだが、そうした人工的処理を最初から拒絶している演奏なのだ。当然ながらコーダは楽譜通りトランペットが途中で欠落する。第2楽章は14:39と巨匠指揮者にしてはもたれないテンポになっている。
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ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団
インターコード(EMI発売)。1987年1月録音。
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セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル
EMI正規発売第3弾(最終)。国内盤10枚組BOX。1987年4月12,13日ライヴ。
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朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
私が所有しているのは、1991〜92年録音のキャニオン盤である。
「英雄」の第1楽章コーダのトランペットの扱いが中途半端なのが残念。
若杉弘指揮ザールブリュッケン放送交響楽団
ARTE NOVA廉価盤。1993年録音。なかなか遅いテンポで聴かせる。
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ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン
TELDEC。1999年5月〜7月、旧東ドイツ放送局ホールでの録音。
第1楽章コーダではトランペットをヴァインガルトナー改訂で鳴らしている。(ただしあまり大きな音量にはしていないところに葛藤が感じられないわけでもない。)
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クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル
DG。1999〜2000年録音。
第1楽章の最後は、きちんとトランペットを途中欠落させている。だが、この部分は金管を遠目に木管を近めにした録音のようであり、これでは実演で果たしてどう聞こえているのかということが想像しにくい。
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映像
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団
NHK。DVD。1960年5月4日、内幸町にあった旧NHKホールでのライヴ。
モノクロだが、音声はラジオ第1放送と第2放送を同時に使用したステレオ放送(立体放送と称していた)のものを用いている。
客席には当時の皇太子夫妻が映っている。冒頭、「君が代」「星条旗よ永遠なれ」が演奏される。「英雄」およびそのあとの「ダフニス第2組曲」の演奏直前、ミュンシュが指揮台に登ったあとに、ラジオ放送の曲目紹介が会場内にも流れる。(ミュンシュは早く演奏を始めたい様子だが、一応我慢してアナウンスが終わるのを待っている。)
この「英雄」は、吉田秀和氏が「世界の指揮者」の中で紹介している演奏だ。以下、その文章を引用する。
その演奏の透明度といったら、本当に「スコアを目の前に見ているような」演奏だった。(中略)ことに終楽章のヴァリエーションときたら、それはもう鮮やかとも何とも、どんな声部にもぐりこんでも、バスの主題的楽想の姿が、まるで水をきれいにとりかえたばかりの小さな池の中を泳ぐ真赤な金魚か何かみたいに、耳に入ってくるのだった。(中略)1970年、セルが来て大阪でやった「エロイカ」にもひどく感動した私だが、その時でもこんなことはなかった。
いや、こういうと誤解を招きそうだ。ミュンシュの時は、実は、その透明さを極めた「エロイカ」には、私はあんまり感心しなかったのである。
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クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル
TDK。DVD。2001年2月9日、聖チェチーリア音楽院ホール。アバドへのインタビュー付き。
デル・マー校訂ベーレンライター版での演奏だが、第1楽章コーダで、トランペットもしくは他の金管が少し余計に主題を吹いているように聞こえる気がする。
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レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィル
DG, UNITEL。1978年2月、ムジークフェライン収録。DVD。
全集録音と並行して行われたビデオ収録である。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル
SONY(テレモンディアル)。LD・DVDをへて、2019年にBlurayで発売されたのも入手。
1982年4月30日。ベルリン・フィル創立100周年記念コンサートのライヴ。
カラヤンとともに黄金期を作ったBPOの猛者たちのものすごい演奏。コンマスは、ミシェル・シュヴァルベとトマス・ブランディス、管楽器もライスター、コッホとそろっている。
客席には、カラヤン夫人と令嬢の他、西ドイツのシュミット首相や、当時西ベルリン市長だったのちの大統領ヴァイツゼッカーの顔も見える。
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ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・フィル
東芝EMI。1997年5月1日、ヴェルサイユ宮殿王室歌劇場でのBPOヨーロッパ・コンサート。LD
音量をおとした静かなパッセージの処理に、フルトヴェングラーを意識していることが聞き取れる。
同日演奏された、モーツァルトのピアノ協奏曲第13番、ラヴェル「クープランの墓」も収録。
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ラファエル・クーベリック指揮ベルリン・フィル
DG。UNITEL原盤DVD。1967年3月5-13日、UFAスタジオでの収録。
2007年リリースの「クーベリック・ポートレート」というタイトルでの2枚組DVDで、他にモーツァルト「プラハ」「ロマンティシェ」(VPO)、ベートーヴェン第2&レオノーレ3(ACO)を収録している。
画像もリマスタリングされて鮮明だ。コンマスはブランディスとシュピーラー、コントラバスにはツェペリッツ、ヴィオラには土屋、..他にもカラヤン時代の主力メンバーが皆、若い姿で映っている。(ライスターは末席に座っていてほとんど吹いている所が映らない。オーボエ・ソロがコッホかどうか確信が持てない。こんなに太っていたっけ?)一方、フルトヴェングラー時代からのかなり年配の人もまだ残っていたことがわかる。実際、カラヤンとの全盛期を迎えていたはずなのだが、この演奏は相当硬派なものに仕上がっている。
クーベリックは9つのオケを振り分けてのDG全集録音でも同オケとこの曲を録音している(1971年)。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-s.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c20
21. 中川隆[-14173] koaQ7Jey 2020年1月25日 17:22:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-986]
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」変ホ長調 作品55 オリジナル派の録音
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-org.htm
全集中のものも含め、所有する全録音を掲載する。
何と言っても「楽譜どおりの演奏」の意味するところを知らしめられたのはアーノンクール盤であった。
各楽章の所用時間を記載しておく(CDに記載されているもの)。なお当然のことながら、彼らは皆、第1楽章のリピートをしている。
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クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オヴ・エンシェント・ミュージック
オワゾリール。1985年8月録音。オリジナル楽器全集の草分けである。
17:47, 14:57, 6:07, 11:10
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ロジャー・ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
EMI。1987年10月録音。
15:17, 12:31, 5:43, 10:02
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フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
PHILIPS。1987年11月録音。
18:22, 13:09, 5:35, 12:06
今はBOXでも出ているが、私はコツコツと分売で買っていた。第4楽章のおもしろいテンポ処理あり。
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フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
PHILIPS。1987年11月、コンセルトヘボウでのライヴLD。
古楽器団体にとっては広い会場であると思われるが、演奏家たちの気迫が伝わってくるよい映像ソフトである。終楽章のフガート部分のラストをアッチェレランドして終えるのも、ブリュッヘンの指揮姿を見ていると自然に聞こえる。
2015年8月、Blu-rayで復活した。
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フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
ショパン協会。
2005年9月3日、ワルシャワ・フィルハーモニー・コンサートホールでのライヴ録音。
ブリュッヘンが第1回「ショパンと彼のヨーロッパ」国際音楽祭に招聘された時のライヴである。
カップリングは2013年8月25日、ヴィトルト・ルトスワフスキ・ポーランド放送コンサート・スタジオでのクルピンスキ(1785-1857)「モジャイスクの戦い」。2014年8月13日に亡くなったブリュッヘン最期の指揮録音である。
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ニコラウス・アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団
TELDEC。1990年7月3日、グラーツ、シュテファニエンザールでのライヴ録音。15:53, 14:35, 5:37, 11:27
トランペットのみナチュラル管を用い、あとは普通のモダン楽器のオケである。
若いメンバーからなるオーケストラが、先入観なしでアーノンクールの指揮に反応している。
第1楽章コーダでの、トランペットのテーマが途中で切れて木管だけになる効果がこれほどハッキリした演奏はない。
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ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク
ARCHIV。1993年3月、Snape, Maltings、(DECCAがブリテンの録音に使用した所だ),Live。
15:34, 12:41, 5:32, 10:42
1994年度レコード・アカデミー大賞受賞盤。BOX(5CD)で購入。今は分売になっている。
ベーレンライター新全集の内容を先取りした演奏となっており、同全集の校訂者ジョナサン・デル・マーの解説が掲載されている。しかし、ガーディナー自身が最終的には判断している。
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ジョルディ・サヴァール指揮コンセール・デ・ナシオン
AUDIVIS。1994年録音。
15:16, 12:42, 5:25, 10:49
サヴァールは他の曲を録音する様子がないようである。
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チャールズ・マッケラス指揮ロイヤル・リヴァプール・フィル
EMI。1994年9月9,10日、マンチェスター、New Broadcasting Houseでの録音。15:37, 13:00, 5:19, 10:42
楽器はすべて「現代楽器」である。演奏も、オリジナル派的アプローチという点では後から出たジンマン盤ほどでもない。しかし、ベーレンライター新全集の校訂者ジョナサン・デル・マールの解説が掲載されており、同全集の内容を先取りした演奏となっている。
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デイヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
ARTE NOVA。1998年5月録音。
15:34, 12:58, 6:15, 10:22
「モダン楽器によるベーレンライター新全集版による世界初録音」と記載。
ところどころ木管のソロに、バロックのアリアのようにかなり自由な装飾を許しているのは、本全集の特徴であり、評価がわかれるところであろう。たとえば「英雄」第2楽章の装飾は耳障りだ。「英雄」はまた、第1楽章で弦楽パートが木管に遠慮して音量を抑えるところがあり不自然でもある。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven3-org.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c21
13. 中川隆[-14172] koaQ7Jey 2020年1月25日 17:29:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-985]
<極めて特異な政治手法!>「桜を見る会」考 味方なら「いい思い」敵なら「冷や飯」 安倍政治の本質を可視化 内田樹氏(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/20/senkyo269/msg/221.html
2020年を迎えた。「めでたさも中くらいなり」どころか、今年も例の「桜を見る会」の暗雲が永田町を覆いそうである。疑惑は大小、数あれど、せっかくの新春、巨視的に考えたい。思想家の内田樹さん(69)に「戦後日本」「近代市民社会」という文脈でこの問題を読み解いてもらった。【吉井理記/統合デジタル取材センター】
「自民党政治の中でも極めて特異な政治手法」
――新年らしい晴れがましいテーマのインタビューをしたかったのですが、残念ながらおめでたくない桜を見る会について、です。
◆え。20年はどうなる、とかのインタビューじゃなかったかな。
――違います。この「桜」問題、どう見ていますか。
◆安倍晋三首相の、戦後日本の自民党政治の中でも極めて特異な政治手法が、この桜を見る会で可視化されたと思います。
――というと?
◆自民党が長期にわたって与党でいられたのは、イデオロギー政党であるよりは、広範な国民の欲求を受け入れる国民政党を目指してきたからです。できるだけ多くの国民の支持を得たいという希望を捨てたことはない。そのためには、野党とも妥協する。国論を二分するような政策的対立はできるだけ避けようとしてきた。
自民党政治の根底は「国民同士の敵対避ける」信念
所得倍増を訴える演説をする池田勇人氏=大阪市北区の市中央公会堂で1963年9月21日撮影
――昨年死去した改憲論者の中曽根康弘元首相も、在任中は改憲論を封印していたことを思い出します。
◆自民党の調整型政治の根底にあったのは「国民同士が敵対するような事態は何としても避けなければならない」という信念だったと思います。国民は統合されていなければならない。国論が二分されるような状況が長く続くと、国力は衰微する。戦後日本で国論の分裂が極限に達したのは1960年の日米安全保障条約改定の時です。当時は安倍首相の祖父・岸信介氏が首相。戦後史的にも例外的な事態でした。ですから、その後に登場した池田勇人首相は政治的対立を避け、国民全体が政治的立場にかかわらず共有できる目標として「所得倍増」を掲げたのです。経済成長の受益者には右も左もありませんから。
――池田氏によって高度成長のレールを敷き、国民の各界各層からそれなりの支持が集まる国民政党のイメージが形成されました。
◆池田政権は60年安保後のとげとげしい空気を鎮めるために「寛容と忍耐」というスローガンを掲げました。異論に対しても寛容であれ、と。岸内閣の下で激しく対立した国民間の和解を説いたのです。そして、池田内閣のこの姿勢は国民に広範に支持された。このような融和的な態度が、自民党が戦後長期にわたって与党であり続けた理由だと思います。それ以後も、自民党政権は国民の一部を「敵」とみなして排除するような態度は自制してきました。ところが、ここに安倍晋三政権が登場した。
日米安全保障条約の調印を終え羽田空港に帰着、メッセージを発表する岸信介首相(中央、当時)=羽田空港で1960年1月24日撮影
安倍政権は「意図的に国民を分断することで政権の浮揚力を得ている」
――安倍政権はそれまでと違う、と。
◆まったく違います。郵政民営化を強行した小泉純一郎政権は対話的な政治家とは言えませんでしたが、圧倒的な支持率がバックにあった。だから、国の根幹にかかわる変更を断行したにもかかわらず、それが国論を二分するというかたちにはならなかったのです。安倍政権が小泉氏らと決定的に違うのは、国論を二分し、意図的に国民を分断することで政権の浮揚力を得ているという点です。今の小選挙区比例代表並立制という選挙制度なら、有権者の30%のコアな支持層を固めていれば、残り70%の有権者が反対する政策を断行しても、政権は維持できることが分かったからです。
――なるべく国民の多くの、というそれまでの自民党のテーゼとは全く違いますね。
◆そういうことです。これまでの自民党政権はウイングを広げて、支持者を増やすことが政権安定の基本だと考えていた。でも、安倍政権は違います。この政権は支持者を減らすことをいとわないからです。70%の有権者が反対している政策でも、コアな支持層が賛成するなら強行する。味方を厚遇し、喜ばせ、政敵の要求には「ゼロ回答」で応じる。そういうことを繰り返すうちに、有権者たちは「自分たちが何をしても政治は変わらない」という無力感に侵されるようになった。その結果、有権者の50%が投票所に行く意欲を失った。低投票率になれば、コアな支持層を持つ自民党が圧勝するということが過去7年で繰り返されてきた。
「桜を見る会」で招待者にあいさつして回る安倍晋三首相。公費で開かれた会には大勢の支援者が招かれた=東京都新宿区の新宿御苑で2017年4月15日、竹内紀臣撮影
「縁故政治は国民を敵と味方に二分する」
――なるほど。だんだん見えてきました。桜を見る会では、公費で開かれる行事に、自分の支持者・後援者を招いていたことが判明した。コア支持層を厚遇したということですが、森友・加計学園問題でも、縁故政治のような行政の私物化が疑われています。
◆そうです。安倍政権は意図的に縁故政治を行っているわけですけれど、それが倫理の問題ではないことに注意すべきです。
――単純に「長期政権のおごり」とか「緩み」とだけ分析するのは間違いだ、と?
◆単なる「おごり」や「緩み」ではありません。縁故政治は日本国民を敵と味方に二分するために意図的に仕組まれていると思います。味方になれば「いい思い」ができ、敵に回れば「冷や飯を食わされている」。そういう分かりやすい仕組みを安倍官邸は作り上げた。それが続けば、「どうせなら、いい思いをする側につきたい」という人も出てくるし、冷や飯を食わされている側は次第に無力感に侵される。
――形式的には選挙を経ていても、政権中枢やその周辺、エリート党員だけが特権を享受できるどこかの独裁国家のようです。
◆僕の知る限り、過去の自民党にはここまで露骨に味方の縁故政治を行い、敵を排除した政治家はいません。スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットが書いているようにデモクラシーというのは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ことが本義ですが、安倍政権は反対者は決して統治機構に加えないという「反民主主義」を実践して、結果的にそれが政権を安定させた。
思想家の内田樹さん=神戸市東灘区の「凱風館」で2019年12月27日、吉井理記撮影
「50%が棄権してくれるなら、半永久的に権力を握り続けられる」
――世論調査では支持政党に自民党を挙げる人はだいだい30%、昨年の参院選では、比例で自民党に投票したのは有権者の17%ほどでした。
◆それでも今の選挙制度で、有権者の50%が棄権してくれるなら、半永久的に権力を握り続けられるんです。だから、30%のコアな支持層だけを気遣う政治をしていればいい。第1次政権(06〜07年)で失敗したのは、あちこちに「いい顔」をしようとしたせいです。その失敗から学んだのが、敵と味方を切り分けて、味方はちやほやする、敵はたたくという反民主的な手法です。
――日本だけの出来事とも思えません。
◆世界的に見て、デモクラシーは危機にひんしています。日本だけではありません。トランプ氏の米国も、プーチン氏のロシアも、習近平氏の中国も、エルドアン氏のトルコも……。どこでも国民を敵味方に分断することを恐れない政治家が成功を収めている。健全な民主主義が機能している国を見つけるほうが難しいくらいです。
「国家も株式会社と同じようにすればいいと考える人が増えてきた」
――背景にあるのは?
◆経済のグローバル化が進み、国民国家が解体過程に入っていることです。多様な政治的立場をそれぞれが参酌し、全員が同程度に不満足であるあたりを「落としどころ」にするというのがデモクラシーの骨法ですが、そんな手間のかかることはもう誰もやりたがらない。変化の激しい時代ですから、合意形成に時間をかけたくないのです。それよりは誰か1人に権限を丸投げして、その人に決めてもらえばいい。そういうふうに考える人が増えてきた。国家も株式会社と同じように経営すればいい、と。最高経営責任者(CEO)が経営方針を決め、従業員はそれに従う。トップに逆らうものは排除され、イエスマンが重用され、経営の適否はマーケットが判断する。そういう「株式会社みたいな仕組み」が最も効率的で、合理的だと信じる人たちが市民のマジョリティーを占めるようになった。そんな社会にはデモクラシーが生き延びるチャンスはありません。
安倍政権の退陣を求めて国会前に集まった人たち=東京都千代田区で2018年4月14日午後5時23分、丸山博撮影
――私たちも桜を見る会の問題を指摘すると、「いつまで『桜』をやっているんだ」とか「ほかにもっと大事なものがある」といった批判、時には「サヨク」とか「反日」という罵倒めいた言葉を投げられる時があります。
◆そうだと思います。今の日本人の多くは、生まれてから一度も民主主義的に運営されている組織に身を置いたことがないからです。家庭も学校も部活もバイト先も、彼らが知っているのは非民主的なトップダウン型の組織だけです。だから、CEOなどトップが従業員に何ひとつ諮らずにすべてを決定する仕組みに対して、さしたる違和感がない。だから、安倍首相のやり方を見ても「うちの社長と別にやっていることは変わらない」という感想しか持たないのでしょう。社長に黙って従うのが当然だと考えるように、権力者を批判することは「越権行為」だと思っている。一介の市民が首相や大臣相手に文句を言うのは「分際をわきまえない許されざる不敬な行為」だと思っているのでしょう。
「首相は自分の支持者と勝利を祝う『祝賀イベント』と思っていた」
――首相はCEOのような立ち位置にいるから、一市民が文句を言うのはおかしい、黙って自分の「分」に収まってろ、ですか。従順というか……。
◆思っている以上にそういう人が増えてきたように思います。だから今回の桜を見る会のように、権力者が公金を使った行事に自分の支持者を招待し、供応することがどうして悪いのか、分からない。権力者は努力してその立場にいるのだから、好きにすればいいと思っている人が少なからず存在する。そういう人たちが自分のことを「リアリスト」だと思っている社会ですから、国力がここまで衰微するのも当たり前だと思います。
インタビューに応じる内田樹さん=神戸市東灘区の「凱風館」で2019年12月27日、吉井理記撮影
――確かに「総理主催の行事なんだから誰を招くかは総理の自由だ」という声もありました。
◆昨年の桜を見る会のあいさつで、安倍氏は「皆さんとともに政権を奪還して7回目の『桜を見る会』」と言いました。本来なら自分とは政治的立場が違う人たちも多数招かれているはずなのに、その可能性を勘定に入れていない。首相はこの集まりを自分の支持者たちと選挙の勝利を祝う「祝賀イベント」だと思っていたのではないでしょうか。公人は反対者を含む集団全体を代表しなければならないという政治の基本が分かっていない。
「『反対者との気まずい共生』がデモクラシーの本質」
――「みなさん」と「『みなさん』ではない人たち」の二者択一しかない。
◆安倍首相は株式会社の経営者のやり方を国政に適用したという点で画期的だったと思います。経営者の目標は当期利益を上げ、株価を維持することです。時価総額を高めることが株式会社の存在目的だからです。安倍政権は株価維持に全力を尽くしてきましたが、それは株価が下がらない限り、職を失うことはないということを知っているからです。
――しかし?
◆ここに落とし穴があるんです。会社が潰れても、株券が紙くずになるだけです。従業員は他の職場を探せばいい。その会社がやっていた仕事も、他の会社が代替するでしょう。でも国は、そうはいかない。潰れたらおしまいです。代わりの国をどこかから持ってくることはできませんし、国民にはこの国土以外に行くところがない。株式会社の目標は利益を上げることですが、国民国家の目標は存続することです。日本列島に住む1億2600万人が、とにかく食えるようにすること、国土と国富を守り、次代に受け渡すこと。国の存在理由は尽きるところそれだけです。あらゆる政策は「それは日本国民が食えて、尊厳を持って生活することの存続に役立つかどうか」を基準に適否を判断すべきであって、それ以外のことはどうでもいいんです。
東京都議選で自民党候補者への支持を訴える安倍晋三首相。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」という発言も飛び出した=東京都千代田区のJR秋葉原駅前で2017年7月1日午後5時3分、藤井達也撮影
――株式会社の仕組みを国に持ち込むのはあり得ない、と。でも会社のCEOと従業員の分断のように、安倍政権や支持する人たちと、政権に懐疑的であったり、批判したりする人たちの間には、すでに埋めがたい分断があるように思えます。永田町の住人には想像もつかないくらいに……。
◆そう。そこをどう橋渡しするか。僕も安倍政権について、いろいろ批判する。すると「要するにあなたは安倍さんが嫌いなだけでしょ」といった反応が返ってくる。「敵だから批判する」というふうにしか考えない。逆もまたしかり。選挙で野党候補の応援演説をすることがあるんですが、ぼそぼそと「反対者とともに統治する」というようなことを言っても聴衆は盛り上がらない。でも「安倍政権を打倒しよう」というようなシンプルなことを言うと、一気に盛り上がる。話を単純な敵味方の対立に落とし込むとウケる。でも、「敵を倒せ」はデモクラシーじゃない。
――デモクラシーは、反対者をも包摂していかなければならない。
◆そうです。和解なくして、デモクラシーは成り立たない。「反対者との気まずい共生」がデモクラシーの本質なんです。立憲デモクラシーは、王制や貴族制などより政体として出来がいいと僕は思っていますから、何とかしてこれを守りたい。でも、分は悪いんです。刃物を振り回している人をハグするようなものです。「敵対も分断も辞さず」と言っている人たちに「そういうことをすると国力が衰微しますから、何とか仲良くやりましょうよ」とお誘いするのですから、まことに迫力がない。でも、デモクラシーが生き延びるためには、「デモクラシーなんか要らない」という人たちとも手を携えてゆくしかない。これこそ「寛容と忍耐」かもしれませんね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/629.html#c13
2. 中川隆[-14171] koaQ7Jey 2020年1月25日 17:48:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-984]
2020年01月25日
ハワイでホームレス激増 大阪の15倍 ビーチに200人が居住
http://www.thutmosev.com/archives/45815972.html
大阪はホームレスが多いが、ハワイはその20倍の比率
引用:http://scottsharick.files.wordpress.com/2009/11/20091119-_dsc3639.jpg
ハワイでホームレス激増
日本人に人気の観光地ハワイで2015年10月に非常事態宣言が発令されたが、その原因はなんとホームレスが増えすぎたからでした。
当時ハワイ州全体では7600人以上のホームレスがいて、子ども440人を含む3800人は公的支援を受けていませんでした。
日本で最もホームレスが多い大阪府は人口882万に対してホームレス1100人、日本全体では5000人が存在しています。
比較すると日本全体より多いホームレスがハワイ州だけにいる事になり、アメリカ全体では40万人近いと考えられている。
アメリカでは約1000人に一人がホームレスで、日本全体は1万8000人に一人がホームレスです。
日本のホームレスは2002年に2万5千人を超えピークになったが、その後減り続けて5千人程度になりました。
日本ではホームレスの支援施設への収容や生活保護給付、簡易宿泊所への収容などが進んで急速にホームレスを減らしました。
全米で最もホームレスが多いのはカリフォルニアで11万人、ニューヨークで8万人のホームレスが生活しています。
ハワイは全米で最もホームレスの人口比率が多く非常事態を宣言し、ホームレス支援施設を整備しました。
ハワイの路上生活者は増加傾向
2019年1月調査ではオアフ島の路上ホームレス数は、昨年の2,145人から2,401人に12%増加しました。
オアフ島の避難所に住むホームレスの数は、2,350人から1,910人に減少しました。
2018年1月時点のハワイ州全体のホームレス人口は6,530人で、2017年の7,220人より減少しました。
日本や大阪では路上やテント生活者だけをホームレスに数えているので、路上生活者の比較では大阪1100人、ハワイ2400人と2倍程度です。
ハワイの人口は142万人で大阪は882万人なので、人口比では大阪は8018人に1人、ハワイは592人に1人が路上ホームレスです。
日本では物乞い行為は違法だがアメリカでは合法なので、観光客にお金を要求する人も多い。
ワイキキビーチ近くには200人ものホームレスが居住し、観光客にまとわりついている。
ハワイ州はホームレスが多いのを観光客には隠していて、当たり前だがPRビデオには登場しない。
ハワイにホームレスが多い理由は、物価が高い事と温暖な気候だと言われています。
物価高と温暖な気候
日本でも寒い地域でホームレスは少なく、暖かい地域の大都市ほど多い傾向が見られます。
ハワイの冬の最低気温は18度で夏の最高気温31度とあまり変わらず、非常に過ごしやすいので、路上で寝ていても大丈夫です。
ハワイは暖かいというので米本土の自治体では、ホームレスを追い出すために、ハワイへの片道切符を渡しているそうです。
もう一つの理由はハワイの物価が高いことで、離島なのであらゆる物に輸送費が掛かっています。
野菜とか果物が沢山とれそうな気がしますが、ハワイで取れるのはサトウキビくらいで、野菜も本土から運んでいます。
ハワイの物価は米本土より3割高く日本より高い、それなのにハワイの労働賃金は観光業中心なので、本土より安いのです。
ハワイの世帯収入は実は$86,000(1000万円以上)もあるのだが、一部の超富裕層が居るために高い数字が出ている。
実際の成人男性の年収は300万円から400万円なので、男性一人の収入で妻子を養う事はできず、ドロップアウトする人が多い。
ハワイは有名な観光地なので不動産価格が高く、従って家賃も高く古い1ルームで10万円以上はします。
ホームレスで居たほうが楽
ホノルル市内では100万ドル(1億2000万円)で家を買うのは不可能だとされています。
多くの労働者は収入の半分を家賃に使い、それでも払えないのでホームレスになっています。
ハワイ(アメリカ)では低所得者用に住宅がほぼ無料のような値段で提供され、フードスタンプが支給されています。
その人たちは家を提供してもらったり、フードスランプを貰うためにわざと働かず、低所得者に止まろうとします。
日本でも同じですが、生活保護を受給するためには収入があってはならない訳で、だから働かないのです。
フードスタンプを使うとスーパーの買い物の値段が10分の1になるので、僅かなお金で豪華な食事ができる。
一定以上の収入にならないために、週一日しか働かない人が多く、支援はホームレスを減らす役にたっていません。
ロサンゼルス市も2015年に一時非常事態宣言を出したが、路上生活者が2万5000人と全米で最も多い。
アメリカでは1%の富裕層の資産が90%の下位の資産合計を上回っていて、貧困者は増え続けています。
http://www.thutmosev.com/archives/45815972.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/803.html#c2
129. 中川隆[-14182] koaQ7Jey 2020年1月25日 19:55:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-983]
車中泊生活ブームが日本到来か、欧米発「バンライフ」の魅力と現実
ダイヤモンド編集部,塙 花梨 2020/01/25 06:00
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/車中泊生活ブームが日本到来か、欧米発「バンライフ」の魅力と現実/ar-BBZiTJO?ocid=ientp
車中泊をしながら全国を旅する欧米発のライフスタイル「バンライフ」が話題となっている。時間や場所を問わずに働ける仕事をしながら、全国各地にある車中泊スポットで寝泊まりする自由なカルチャーは、若い世代のみならず、中高年にも人気だ。日本のバンライフ市場について、バンライフを「移動する家=可動産」ととらえてシェアリングビジネスをするスタートアップ企業と、実際に車中泊をしている夫婦バンライファーたちに聞いた。(ダイヤモンド編集部 塙 花梨)
「VANLIFE(バンライフ)」という言葉を知っているだろうか。
車を移動手段だけでなく、ベッドや生活用品を乗せることで“移動できる生活拠点”とし、時間や場所にとらわれずに全国を旅しながら暮らすライフスタイルのことだ。
日本ではまだ耳なじみがない人も少なくないが、欧米では数年前から広がりを見せており、インスタグラムで「#vanlife」と検索すると、なんと650万件(2020年1月時点)もの投稿がある。そのどれもが、マイカーをDIYで居心地の良い空間に作り替え、旅を満喫している写真ばかりだ。
加熱する車中泊ブーム
かつては車中泊といえば、宿泊するお金がない旅行者の手段というイメージが強かった。しかし、欧米を中心に広がったバンライフは、SNSでの投稿も相まって「自由でおしゃれなライフスタイル」として捉えられるようになり、若者の心をとらえた。
PCさえ持っていれば場所を問わずに働けるという仕事のスタイルも増えたことで、日本でも気軽にバンライフを楽しむ“バンライファー”たちが続々と増えている。自分たちの生活を発信するバンライフユーチューバーが現れたり、カルチャー誌でも特集が組まれていたりと、本格的なブームが到来する日は近そうだ。
また、2020年1月24日からは、テレビ東京で車中泊をテーマにしたドラマ「絶メシロード」がスタートした。ごく普通のサラリーマンが週末に車中泊をしながら、絶滅寸前の絶品メシを探して旅をするというストーリー。この主人公同様、平日はオフィスで働く会社員でも週末限定でバンライフを楽しむケースも多い。
このように20代30代の若年層が、自由な生活を求めてバンライフを始めるケースだけでなく、中年層が家族と一緒に楽しんだり、リタイア後の時間に旅をして過ごしたりと、世代問わず人気が高いのも特徴だ。
移動する家“可動産”としての可能性
日本でじわじわと広がりを見せるバンライフムーブメントに目をつけたのが、スタートアップ企業・Carstay(カーステイ)だ。
代表取締役の宮下晃樹氏は、過去に外国人の日本ガイドをするNPO団体を立ち上げ、1000人以上の外国人をガイドした経験から、地方を活性化できるサービスを作りたいと考え、2018年6月にCarstayを起業した。2019年4月に、ライフタイムベンチャーズ及び原田大作氏(メルカリの新規事業責任者)から約3000万円の資金調達を実施している。
車を「不動産ならぬ“可動産”のプラットフォームとして考えている」という宮下氏。2019年1月に、全国各地に点在する駐車場や空き地を車中泊・テント泊スポットと、滞在先を探す旅行者をマッチングするサービス「Carstay」をリリースした。バンライファーが土地の管理者・所有者に滞在費を支払うことで、スポットに宿泊・滞在ができるというものだ。
また、昨年4月から日本だけでなく訪日外国人もターゲットにした多言語バンライフメディア「VANLIFE JAPAN」を立ち上げた。さらに、2020年2月には車中泊可能な車を持っているユーザーが共用(バンシェア)できるサービス「VAN SHARING」も開始予定だ。今後は、バンライフ向けにカスタマイズした自動車が投資の対象となる“可動産取引”が成り立つ未来まで見据えている。
「時間もお金もかけずに拠点を増やせるバンライフ。多様な働き方や自動運転が浸透すれば、想像以上に広がると考えています。使い方次第で、動くオフィスにも移動型コミュニティにもなるでしょう。空きスペースができてしまうリスクもないので、民泊ならぬ、“バン泊”マーケットが来ると思っています」(宮下氏)
長期滞在できる車中泊スポットを増やす
しかし、バンライファーたちが不自由なく暮らせる仕組みは、まだ整っていないのが現状だ。
バンライファーの多くは道の駅やサービスエリアを活用しているが、実は法的にはグレーゾーンなのだ。国土交通省の公式ホームページによれば、道の駅は休憩施設のため、駐車場など公共空間で宿泊目的の利用はNGだが、交通事故防止のため24時間無料で利用できる施設でもあるので、「仮眠はOK」としている。
そのため、バンライファーは建前上はあくまで「仮眠」として、道の駅やサービスエリアを利用しているのだ。中には食器類をトイレで洗ったり、駐車場スペースで洗濯物を干したりするなど、一部マナーを守らないバンライファーも問題にもなっている。
「カルチャーの流行が先行していますが、滞在場所や保険制度などの最低限の生活ができるインフラ整備と、バンライフに対する周囲の人々の理解が追いついていません。早く受け皿を作らないと、バンライファーたちが地方に滞在した際にマナーの悪い人間だと誤解されてしまう可能性がある。また、バンライファー自身も、旅の途中で身体も心も落ち着かせることのできる滞在拠点がないと、バンライフ疲れを引き起こしてしまう。きちんとお金を払って、貸す側も借りる側も気持ちよく活用できるスポットを増やしています」(宮下氏)
Carstayは全国各地にある駐車場や土地の持ち主と交渉して、車中泊可能なスポットを増やしている。2020年1月時点で、全国に約140のスポットが存在する。
近くにトイレがあれば車中泊は可能なので、寺院や神社、城など、通常ならば夜は滞在できないような文化財の駐車場にも交渉し、マッチングを実施。また、車中泊スポットと一緒にその地域ならではの体験(ダイビングや洋上パーティー、果物狩りなど)ができるツアーもサイト内に登録されている。
さらに、古民家の駐車場を車中泊スポットすることで、長期滞在可能な施設をつくる試みも実施している。地方の空き家や空いたスペースを利活用できること、より地域に密接した体験ができることから、「空き家問題や地方創生につながるメリットもある」と宮下氏は説明する。
夫婦バンライファーに聞く車中泊生活の苦楽
実際に、車中泊生活している夫婦バンライファー2組に話を聞いた。
1組目は、昨年10月からバンライフを開始した夫婦ブロガー・ゆうすけさんとちあきさんだ。夫婦ともども勤めていた会社を辞め、トヨタのハイエースで全国を旅しながら、車中泊に関するブログ「ミチトライフ」を運営し生計を立てている。
夫のゆうすけさんは「もともと2人で『キャンピングカーで全国を旅してみたいね』と話していたのがきっかけ。結婚するときに挙式のコンセプトを考えていて、バンライファーになる道を見つけた」のだと言う。
彼らが寝泊まりする車の特徴は、ほとんど家から持ち出した家具や収納を使っていることだ。ハイエースの後部座席に収納ボックスを載せ、その上に木材を敷いてベッドのマットレスを乗せている。バンライフのために購入したのは後部座席の窓に付けている断熱材とカーテンを掛けるフックだけだ。
妻・ちあきさんは、「車に寝泊まりすることにはすっかり慣れました。自分の部屋のような感覚で、帰ってくるとほっとするし、今では実家に帰ってもハイエースで寝たくなるほど」と笑う。
料理道具や衣類など、なんでも日常使う物は手の届く範囲にあるため、家にいるよりも便利だと言う。逆に不便なのは、水回りの確保とゴミ捨てで、特にできるだけ水を使わずに料理するのには慣れが必要だそう。
2組目の夫婦は、ウェブデザイナーの菅原拓也さんとライターの恵利さんだ。それぞれの仕事をリモートでこなしながら、「えりたく夫婦」としてユーチューバーもしている。
彼らは、スズキの軽自動車ハスラーで旅をしている。寝るときは運転席から後部座席まですべて倒して、車内全体がベッドに様変わりする構造になっている。夫の拓也さんによれば「ここまで狭い環境でバンライフをしているのは、バンライファーの中でもかなり珍しい」らしい。
もともとアドレスホッパーだった2人は、定住場所を持たずに移動する生活を続ける中で出会い結婚した。今では、愛犬も交えてバンライフをしている。
「前職はスタイリストをしていたので、服やメイク道具をたくさん持っていましたが、この生活をすると決めて整理しました。今では洋服は4パターンくらいしかありませんが、不思議と物欲はありません。飽き性なので、同じ場所にずっといるより移動する生活の方が性に合っているんです。さすがにもう少し広い車に替えたいですけどね(笑)」(恵利さん)
また、拓也さんはCarstayを利用して「車中泊のできるスポットのありがたみを実感している」と言う。
「各地に気兼ねなく滞在できる拠点があるとすごく助かります。常に動いていると疲れるので。あとは、車中泊スポットにはバンライファーが集うので、人とのつながりができるのがうれしいです。普通なら出会えない人と親しくなれるのが旅の醍醐味ですから」(拓也さん)
これだけ聞くと、バンライフは自由で楽しそうだが、リアルな生活は日々の積み重ねであり、もちろん楽しいことばかりではない。
「生活自体が新鮮なのは最初の1カ月くらいで、すぐに慣れてしまいます。毎日必ず、泊まる場所やお風呂を探さないといけないのは、結構大変。また、いくら仲の良い夫婦でも、四六時中一緒にいて逃げ場がないと、しんどくなることもあります。私たちはこの生活を始めてから1年ほど経ちますが、これまで何度も大きな喧嘩をしました。だからこそ、1人になれる時間がすごく大事なので、銭湯に行くとお互い4時間くらいは出てきませんね」(恵利さん)
若者の「車離れ」解消にもつながる
Carstay代表の宮下氏は、若者が続々とバンライフに乗り出すことで「新しい車の需要が生まれるのではないか」と主張する。
「移動手段としての車というよりは、家や秘密基地のような感覚に近い。自分たちで工夫して居心地の良い居住空間に改造するのも面白いので、若い世代の車離れが進む中で、バンライフが一石投じられたらうれしい」(宮下氏)
実際、車を居住空間として考えるトレンドは、数字としても出ている。2019年7月に一般社団法人日本PV協会が発表したキャンピングカー業界の調査では、国内のキャンピングカー保有台数は11万台を超えており、販売総額は年々増加傾向にあるのだ。
時間や場所もとらわれずに、好きな場所で自由に働ける時代だからこそ、都心で働くビジネスマンにとっても、旅をしながら働く生活は遠いものではない。IターンUターンや企業誘致だけでなく、バンライフも地方を盛り上げる1つ切り札になるだろう。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/車中泊生活ブームが日本到来か、欧米発「バンライフ」の魅力と現実/ar-BBZiTJO?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c129
ベートーヴェン 『交響曲第8番』
クナッパーツブッシュは、フルトヴェングラーやトスカニーニと比べても才能が全然違いますね:
Knappertsbusch Symphony No. 8 in F Major, Op. 93 Berlin Philharmonic Orchestra 1952
Conductor: Hans Knappertsbusch
Orchestra: Berlin Philharmonic Orchestra
1952年1月29日、イエス・キリスト教会での放送用録音。
▲△▽▼
Knappertsbusch Symphony No. 8 in F Major, Op. 93 Munich Philharmonic Orchestra 1956
Conductor: Hans Knappertsbusch
Orchestra: Munich Philharmonic Orchestra
1956年10月18日、ルガーノでのライヴ
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No. 8 - Bayerisches Staatsorchester/Knappertsbusch (1959)
Bayerisches Staatsorchester
HANS KNAPPERTSBUSCH, cond.
Recording: Kongreßsaal des Deutschen Museums, München, 14 December 1959
▲△▽▼
Beethoven "Symphony No 8" Knappertsbusch 1960
NDR Symphony Orchestra
Hans Knappertsbusch, conductor
Hamburg, 14.III.1960
▲△▽▼
▲△▽▼
交響曲第8番 ヘ長調 作品93
1814年2月27日、交響曲第7番などとともに初演。
7番のほうに人気が集中したのに対しベートーヴェンは「聴衆がこの曲(8番)を理解できないのはこの曲があまりに優れているからだ」と語ったという。
ベートーヴェンの交響曲の中では比較的小規模で、従来の古典的な形式に則っているが、独創的な工夫と表現にあふれている。
なお、ベートーヴェンの 9曲の交響曲のうち、この曲のみ誰にも献呈されなかった。
編成
初演は木管楽器が倍で、楽譜には無いコントラファゴットが 2本も追加されるなど大編成で演奏された。
楽譜
第8番は初演パート譜(ベートーヴェンが現場で指示した修正が残っているかも知れない)がティンパニ・パートなど断片的にしか残っていないため、資料状況は第7番ほど良くない。しかしシュタイナー社による初版がベートーヴェンの交響曲では初めてスコアとパート譜の両方出版されるなど、第7番との共通点が多い。
自筆スコアが今日まで残っている。第1、2、4楽章がベルリンに、第3楽章はクラクフにある(分割された理由は第7番参照)。既述通り初演ではコントラファゴットが追加されていたが、初演に使われたパート譜が失われているので実際にどのような音が演奏されたのか詳細は不明(出版譜にも採用されていない)。コントラファゴットは10年後の交響曲第9番で個性的な方法で使用されることになる。
初演用のパート譜から集成されたスコア(第3楽章の部分だけベルリンにある)に基づいて版下用の筆写スコアをアントン・ディアベッリが新たに作成。出版前に校正刷りをベートーヴェンがチェック出来たのも第7番同様交響曲では初めての事である。12ページ分しか残っていないが、ベートーヴェンの修正指示があるので意向を知る手がかりとなる。
19世紀後半にブライトコプフ社から旧ベートーヴェン全集を出版されて以来、1世紀以上旧全集版(または部分的に改訂された版)が演奏されて来た。
今日でも間違いなく重要な楽譜資料であり演奏にテキスト上の大問題があるわけではないが、全資料を網羅する今日の編集体制とは異なり特定のスコア資料を重用する傾向があるため、テキストが見直された。20世紀末ベーレンライター社からジョナサン・デル・マー(Jonathan Del Mar)校訂の原典版が、21世紀に入ってブライトコプフ社からもペーター・ハウシルト校訂の新原典版も出版された。ボン・ベートーヴェン研究所の編纂、ベルンハルト・アッペル校訂(児島新の他界により引き継いだ)による新ベートーヴェン全集版がヘンレ社から刊行される予定もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第8番_(ベートーヴェン)
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2008/10/28 ベートーヴェン 交響曲第8番 の話
以前 「第九」 の話をしたときに ベートーヴェン の 「不滅の恋人」 について書いたけど、 それは 「第九」 にとってあくまでも一つの要因に過ぎない。
※以前のお手紙(2008/10/4)はこちら
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio200810.htm#fromsachio20081004-Beethoven-symphonyNo9
しかしこの交響曲8番に関しては 「不滅の恋人」 との思い出が詰まった個人的な曲だ。
「不滅の恋人」 とは ベートーヴェン の死後に発見された熱烈なラブレターの中で ベートーヴェン が書いた相手に対する呼び名で、 今だに誰なのかは確定していないが最近の研究ではアントニーア・ブレンターノ夫人 であるというのが通説になってる (不滅の恋人は夫のいる夫人だったため ベートーヴェン の死後も秘密が徹底して守られたのだ)。
1812年の7月にその恋人と秘密でボヘミアに温泉旅行をするがその時の思い出が詰まってるのが "8番"だ。
その旅行の前後で、恋人が妊娠したことを知らされ、その喜びに溢れて書かれたのが1楽章と言われる。
イギリスに留学して ベートーヴェン に隠し子がいたという話を聞いたときは腰を抜かしそうになったが、ベートーヴェン は恋人とイギリスに移住することまで考えていたらしい。
喜びに溢れる生命力いっぱいの1楽章。ベートーヴェン の人生で最も幸せだったときの音楽だ。
続いて2楽章もまるで恋人と散歩してるようにうきうきしてる。
専門的な話になるが同じ8分音符や16分音符の音の長さを短くしたり長くしたりして、効果的にその気分を表現してる。
3楽章のトリオでは2人にとって思い出のメロディをホルンが奏でる。
そのメロディは ベートーヴェン のスケッチ帳には郵便馬車のぎょ者のポストホルンのメロディと但し書きがつけられている。
ベートーヴェン は彼女とボヘミアでおちあう前に毎日手紙でやりとりをしていたが、このポストホルンのメロディを聞くたびに彼女から手紙が来た! とわくわくしてたのかも知れないし(あたり前だけど、当時は電話もなく手紙が唯一の連絡手段だったのだ!)、 そして2人で散歩してるときに何度も耳にしたメロディかもしれない。
4楽章はまるで何か急いでるようだ。
ボヘミアで恋人とおちあうために急いで馬車を走らせてる様子かも知れない。
ベートーヴェンはこの温泉旅行の直後リンツで"8番"を完成させるが、その間に突然2人は破局する。ベートーヴェンは絶望的な言葉を日記に書き残している。
4楽章の後半で、音楽が不安気に進行した後、強烈な和声進行と苛立ちのように音楽が発展し最後は聞き方によってはやけくそのように終わるのは その破局が原因なのかもしれない。
この"8番"はもちろん純粋に音楽的な素晴らしい要素でいっぱいだが
ベートーヴェンの個人的な想いが最も詰まってる交響曲であるのもまた事実だろう。
「第九」 を書き上げた後も、ベートーヴェンは自分が一番好きなのは"8番"と言っていたし
この"8番"だけは誰にも献呈していない。
また交響曲完成後もベートーヴェンは珍しくまったく初演をしようとしなかった。
それはこの 8番 は人に聞かせるために作曲したのではないということだ。
「不滅の恋人」? アントニーア・ブレンターノ (1780-1869)
ブレンターノ夫妻とベートーヴェン(39歳)が出会ったのは1810年。
夫フランツはフランクフルトの銀行家でベートーヴェンの経済的後援者となった。ベートーヴェンはブレンターノ家を度々訪れ家族と過ごし、 時には病気がちで伏せる事の多かったアントニーアを隣室からピアノを奏で慰めることも。オーストリア伯爵家の一人娘アントニーアが、 イタリア系豪商の家に嫁ぐも家に馴染めず、また夫は仕事に忙しく家を開けがちで心を病んでいたと言われている。
ベートーヴェンの晩年の傑作と言われる、ピアノソナタ第30番〜32番はアントニーア献呈するために書かれたとも言われ、30番(1820)は娘マキシミリアーネに献呈されている。
詳しくは、ベートーベン研究家の
青木やよひさん の論文
http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/aoki01.pdf
を御参照下さい。 <管理人>
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio200810.htm#fromsachio20081028-Beethoven-symphonyNo8
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html
1. 中川隆[-14187] koaQ7Jey 2020年1月25日 21:52:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-984]
一方、こっちが正統的な世紀の名盤です、洗練度と気品が他の指揮者とは全然違いますね:
ワインガルトナー
Beethoven - Symphony n°8 - Vienna / Weingartner
Wiener Philharmoniker
Felix Weingartner
Studio recording, Vienna, 25 & 26.II.1936
▲△▽▼
Felix Weingartner - Beethoven - Symphony No.8 - 1927
Royal Philharmonic Orchestra
▲△▽▼
Felix Weingartner (1863-1942): Beethoven: Symphony no.8 in F op.93 (R. 1923)
R.27-11-1923
& Felix Weingartner: "Der Sturm": Entr'acte
R.28-11-1923
London Symphony Orchestra: Felix Weingartner
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c1
2. 中川隆[-14186] koaQ7Jey 2020年1月25日 22:03:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-983]
ワインガルトナーよりは大分落ちるけど、その亜流の演奏として人気が有ったのが
イッセルシュテット ベートーヴェン「交響曲第8番」ヘ長調 1969年
ハンス・シュミット・イッセルシュテット 指揮、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c2
3. 中川隆[-14185] koaQ7Jey 2020年1月25日 22:12:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-982]
続き
イッセルシュテット ベートーヴェン「交響曲第8番」ヘ長調 1969年
Wiener Philharmoniker
Hans Schmidt-Isserstedt
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c3
4. 中川隆[-14184] koaQ7Jey 2020年1月25日 22:43:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-981]
SP時代にワインガルトナーの第八番の対抗馬とされていたのが メンゲルベルク
Mengelberg - Beethoven : Symphony No.8 - Allegretto Scherzando (1927)
Amsterdam Concertgebouw Orch.
recorded 10 June, 1927
transfer from U.K.Columbia 80s / L-1973(AX-2844)
▲△▽▼
Beethoven “Symphony No 8” Willem Mengelberg, 1938
__
Amsterdam, Concertgebouw Orch.
recorded November 9, 1938
transferred from Jpn Telefunken 78s - 43601/2(023663/5)
▲△▽▼
Beethoven “Symphony No 8” Willem Mengelberg, 1940
Mengelberg Willem
Royal Concertgebouw Orchestra
▲△▽▼
Beethoven Symphony No.8 Willem Mengelberg 1943
Mengelberg Willem
Royal Concertgebouw Orchestra
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c4
5. 中川隆[-14183] koaQ7Jey 2020年1月26日 02:23:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-980]
SP時代にはトスカニーニ信者が多かったですね、
第八とは水と油だけど、確かに颯爽としてカッコイイよね:
Beethoven, Symphony No. 8 - Toscanini, NYPh, 1936
Arturo Toscanini
New York Philharmonic-Symphony Orchestra
Live, New York, Carnegie Hall
March 8th, 1936
_____
The 1939 Beethoven Cycle: Symphony No 8 Toscanini/NBC
Arturo Toscanini, conductor
The NBC Symphony Orchestra
Recorded November 25, 1939
in Studio 8-H, Radio City, NY
________
Beethoven: Symphony No. 8, Toscanini & NBCso (1952)
Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra
Rec. 10 November 1952, at Carnegie Hall, in New York
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c5
6. 中川隆[-14182] koaQ7Jey 2020年1月26日 02:34:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-979]
シューリヒト 1957
Beethoven - Symphony n°8 - OSCC / Schuricht
Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire, Paris
Carl Schuricht
Studio recording, Paris, 7 & 10.V.1957, at Salle Wagram, in Paris
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c6
7. 中川隆[-14181] koaQ7Jey 2020年1月26日 02:42:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-978]
ピエール・モントゥー指揮ウイーン・フィル(1960年録音/DECCA盤)
昔から定評のあるSイッセルシュテット盤はウイーン・フィルの魅力溢れる名盤ですが、モントゥー盤では更に古き良きウイーンの味わいを聴くことが出来ます。
何と言っても、当時のウイーン・フィルの室内楽的な演奏が魅力です。あたかもコンツェルトハウス四重奏団がシンフォニーを演奏してくれているようです。弦も木管も柔かく鄙びた音色が本当に素敵です。
誰かがモントゥーはウイーン・フィルとは相性が悪かったようなことを書いていましたが、とんでもない話です。
Beethoven “Symphony No 8” Pierre Monteux ・ Wiener Philharmoniker, 1960
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c7
8. 中川隆[-14180] koaQ7Jey 2020年1月26日 02:48:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-977]
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管(1963年録音/CBS盤)
マールボロ音楽祭でのライブ演奏です。
それにしても86歳のカザルスの指揮と言ったらどうでしょう。
1楽章から誰よりも速いテンポで情熱が爆発しています。この人の魂は少しも老いたりしないのですね。
2、3楽章も速めのテンポですが、表情が実に豊かで生き生きしています。終楽章は速さは普通ですが、音の激しさに圧倒されます。臨時編成オケの音は少しも洗練されていませんが、これこそは魂の音楽家カザルスの真骨頂です。
Beethoven Symphony No.8 in F - Pablo Casals (1963 Live)
Marlboro Festival Orchestra
Conductor: Pablo Casals
July 14, 1963, Marlboro, Vermont
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c8
9. 中川隆[-14179] koaQ7Jey 2020年1月26日 02:51:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-976]
Wilhelm Furtwängler Composer INDEX 1
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu08.htm
このコーナーでは、主要な作曲家・作品別にフルトヴェングラーのディスクを掲載します。特に「スタジオ録音」と記載のないものはすべてライヴ録音です。
Beethoven:Sym.No.8
1)48/11/13 StockholmPO Stockholm
2)53/04/14 BPO Titania
3)54/08/30 VPO Salzburg Fes.
▼32/12/20にBPOと2・3楽章の録音があるが未発売。
▲どれも8番にはしっくりこないが、1)の2楽章の「か細さ」が昔を思い起こさせるようで好き。
>>>>>My Best is 1)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c9
10. 中川隆[-14178] koaQ7Jey 2020年1月26日 03:09:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-975]
Beethoven - Symphony n°8 - Stockholm / Furtwängler
Stockholms Konsertföreningens orkester
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Stockholm, 13.XI.1948
▲△▽▼
1948年
13 Nov. 1948 Stockholm Phil. Stockholm konserthus(Swedish Radio)
Beethoven:Sym. No.8
●11月13日 ベートーヴェン/レオノーレ3番 交響曲第7 & 8 ストックホルムpo ストックホルム・コンサートホール スウェーデン放送収録
LP/PR(No8 & Ove.): UnicornWFS5('72)Fonogram(JP)SETC7501-7('75=miss data)
CD: EMI CDH7630342('89) ToshibaTOCE3720/22(00/08)
>>EAB80003 is my unforgetable LP.
I like No.8 of this LP. 2nd movement give me sweet memories.
▼私がきいたWFの最初の1枚がこのユニコーン原盤の東芝盤(EAB80003='72LP=このページの最初で私が持っているレコード=使用している原盤のマトリクス番号もWFS5と同じ)。
中学1年のとき('73)、私がカラヤンの運命やアンチェルの新世界に平凡に感動していたとき、すでにWFに夢中になっている早熟なO君という同級生がいた。初の第8をO君は、私に見せびらかすように中学校に持ってきて見せてくれた。当時、WFなど名前しか知らなかった私が、この古いディスクからダビングしたLPを聞かされても全然感動なんてしなかった。O君は中学2年の終わりには親御さんの転勤で大阪に行ってしまった。私が、WFに夢中になるのは高校1年からだが(44年の英雄参照のこと)、そのきっかけを作ってくれたキーパーソン(人生の転機)としてのO君はいまどこで何をしているのだろう。
そういうこともあって演奏は昔を思い出させてくれる「か細さ(特に2楽章)」が好きで私にとっては忘れられないもの。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu12.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c10
11. 中川隆[-14177] koaQ7Jey 2020年1月26日 03:20:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-974]
Wilhelm FURTWÄNGLER conducts Beethoven - Symphony No. 8 LIVE (1953)
Wilhelm Furtwängler conducts Ludwig van Beethoven - Symphony No. 8
April 14, 1953 live at Titania-Palast
Orchestra: Berliner Philharmoniker
▲△▽▼
1953年
14 April 1953 BPO Titania (SFB)
Beethoven:Sym.No.8
●4月14日 ベートーヴェン/交響曲第8 第7 R・シュトラウス/ティル BPO ティタニア SFB収録
LP/PR(No8): DiscocropRR413('74?)
CD: DG415666-2('86)POCG3789(97/08)
>>Fontana Japan FCM53('73) and MRF50('69?=USA) is copy of Cryuitans's LP(EMI)
▼Fontana FCM53('73)の53年録音というLPの信憑性をめぐってさわがれたいわく付きの演奏も現在ではEMI盤(私はセラフィムのLPでこのクリュイタンス/BPO盤を愛聴している)とは別演奏(take)のクリュイタンス指揮というのが定説になっている。
録音はいかにも53年らしく鈍重に仕上げてあるが、このフォンタナ盤(CDはCrawnPalettePAL1026)が示していたと思われるこの4/14の演奏ではやはり問題となった 1楽章提示部の反復はされていなかった。
巨匠のベト8 をめぐっては50年ACOとの共演の際の聴衆なしの放送録音もあると伝えられたこともあった。FCM53の解説では「占領地域で働いていた米人がホンモノだと言うには確証があるはず」とか「これだけの名演奏なのだから巨匠の記録に数えてもよいのではないか」という趣旨の意見が載っているが、そういう確証のない意見がディスコグラフィーの混乱の元となる。
またこのニセ53年盤ベト8の初出盤となった米MRF50('69?)の制作者であるMaurice R.Fuggette は同年RAI響とのリングの私家盤で有名だが、Columbia(JP)OZ7520(77/01)の小林利之氏の解説によれば「彼はマフィアの抗争で死亡した」という。
なおメロディアでもWFの録音として33M10-37145-6として発売されている。
1969年9月16日にアメリカでWFの録音として放送されたという。
なおこの日Dr.ErwinKrollとの対談のテープもある。(日フ協WFJ2-3)
7番の演奏は、48年にくらべれば当然物足りないが、他の指揮者とは比べ物にならないほど感動的なもの。なおこの演奏ではDG1楽章4分12秒付近に「金管の音はずし」の修復跡があり、52年2月ブラ1や51年ブル4とともにDGの「編集」について議論があった。
8番のこの演奏に関しては、偽WFとして使われたクリュイタンスの演奏の方が、shin-pにはしっくりくる。巨匠には2番の方をもっと晩年まで演奏して、よい録音で残してもらいたかった。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu18.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c11
12. 中川隆[-14176] koaQ7Jey 2020年1月26日 03:50:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-973]
Furtwängler Vienna Philharmonic Orchestra Beethoven : Symphonie No. 8 (1954)
Wilhelm Furtwängler
Vienna Philharmonic Orchestra
▲△▽▼
1954年
30 Aug. 1954 VPO Salzburg( Rot Weiss Rot=ORF)
Beethoven : Sym.No.8
●8月30日 ベートーヴェン/交響曲第8&大フーガ&第7 VPO ザルツブルク音楽祭 RWR収録 ORFザルツブルク&VPO所蔵
LP/PR(No8): CetraLO530('78)
CD: OrfeoC29392(93/07)
▼大戦後ウィーンの占領区にあった米の放送局Rot-Weiss-Rotの録音。
交響曲はORF音源の正規盤を出している Orfeoから93年にORF所蔵のテープを使った正規盤が出た。
No8は、これまでのCetra=King盤に比べれば音質は向上しているが、楽章間ノイズがNo7とNo8で一致する部分があり編集臭濃厚。
53、4年のザルツブルク音楽祭では巨匠の提案でステージ左右にセットした3本ずつのマイクを通じて76cm/2chで娘婿のアルフレド・クンツ氏が録音したと[参考資料@]桧山氏が述べている。75年頃旧Rot-Weiss-Rot放送からVPOとORFにマスターテープが返還された−とDG盤の解説にある。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu19.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c12
13. 中川隆[-14175] koaQ7Jey 2020年1月26日 03:53:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-972]
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベートーヴェン 交響曲第8番
ストックホルム・フィル----1948年11月13日、Live
EMI。全集に収録。3種中最も荒れ狂っており、また最も音質が悪い。
2019年にはWEITBLICKからストックホルム・フィルとの全録音集としても出たのを入手。
ベルリン・フィル----1953年4月14日、Live
DG。OIBP国内盤は同日の第7とカップリング。この演奏が一番良い。
2004年、没後50周年記念6枚組ORIGINAL MASTERSシリーズ477 006-2にも収録(写真左)。上記国内盤は譲渡した。
2011年、生誕125周年でシングルレイヤーのSACDも発売された(写真右、これも第7番とカップリング)。
ウィーン・フィル----1954年8月30日、ザルツブルク、Live
ORFEO。同日の第7とカップリングの単品C293 921B(譲渡済み)。
のち、2004年にザルツブルク録音集8枚組C409 048L(写真)も入手。こちらにはさらに同日のもう1曲「大フーガ」も収録されている。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven8.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c13
14. 中川隆[-14174] koaQ7Jey 2020年1月26日 13:23:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-971]
フランツ・シャルク
Beethoven "Symphony No 8" Franz Schalk
___
Wiener Philharmoniker
Franz Schalk, Conductor
12.& 13.IV.1928
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html#c14
24. 中川隆[-14173] koaQ7Jey 2020年1月26日 13:30:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-970]
フランツ・シャルク
Franz Schalk conducts Beethoven:Symphony No.5
___
Wiener Philharmoniker
Franz Schalk, Conductor
26.& 28.X.1929 & 27.I.1930
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c24
25. 中川隆[-14172] koaQ7Jey 2020年1月26日 14:14:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-969]
クナッパーツブッシュのベルリン 1943
Musikstadt Berlin Knappertsbusch tour of Europe, 1943.
Hans Knappertsbusch conducts Beethoven.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html#c25
クナッパーツブッシュのベートーヴェン 『交響曲第7番』
クナッパーツブッシュは演奏について云々する前に、深い森に包まれた幽玄なドイツの音が出せる唯一の指揮者なのですね:
Symphony No. 7 in A Major, Op. 92 (Berlin State Opera Orchestra)
Conductor: Hans Knappertsbusch
Orchestra: Berlin State Opera Orchestra
REC: 19 November 1929
▲△▽▼
Knappertsbusch Symphony No. 7 in A Major, Op. 92 (1948 Munich Philharmonic Orchestra)
Hans Knappertsbusch
Munich Philharmonic Orchestra
REC : 1948.12.25
▲△▽▼
Beethoven "Symphony No 7" Hans Knappertsbusch (1954 Wiener Philharmoniker)
Wiener Philharmoniker
Hans Knappertsbusch, Conductor
1954
▲△▽▼
▲△▽▼
交響曲第7番イ長調作品92は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1811年から1812年にかけて作曲した交響曲。リズム重視の曲想から現代においても人気が高く、演奏される機会が多い。
第5番や第6番におけるさまざまな新たな試みの後に、再び正統的な手法による交響曲に回帰した作品である。
ワーグナーは各楽章におけるリズム動機の活用を指して、この曲を舞踏の聖化(Apotheose des Tanzes)と絶賛している。その一方で、ウェーバーは「ベートーヴェンは今や精神病院行きだ」との言葉を残し、ワインガルトナーは「他のいかなる曲よりも精神的疲労を生じさせる」と語っているなど、音楽家からの評価は様々である。
作曲は1811年から1812年にかけて行われ、初演は、1813年12月8日、ウィーンにて、ベートーヴェン自身の指揮で行われた。同じ演奏会で初演された『ウェリントンの勝利』の方が聴衆の受けはよかったとされるが、それでも初演は成功であり、第2楽章はアンコールを求められた。
演奏時間
古楽やピリオド楽器の研究の影響がベートーヴェンの演奏にまで影響し始める以前の、伝統的なモダン楽器による演奏では第1・3・4楽章のすべての繰り返しを含むと約42分とされる。
ただし、すべての繰り返しが行われる演奏は少なく、その結果40分弱の時間で演奏されることが多かった。カラヤン/ベルリン・フィルなどでは35分を切る時間で演奏されている。
近年は、かつては「速すぎる」と考えられていたベートーヴェンのメトロノーム指示と作曲当時の演奏習慣を尊重する傾向が強まり、全て繰り返しを行っても40分を切る演奏も増えている。
編成
第3番のような拡張されたホルンのパートはなく、第5番や第6番のようにピッコロやトロンボーンを動員することもなく、第9番のような合唱はもちろん使用されていない。また書法も第3番や第9番に比べて明瞭であり、古典的な管弦楽といえる。
第8番の初演で一緒に演奏された際は、木管楽器が倍、弦楽器はヴァイオリン各18、ヴィオラ14、チェロ12、コントラバス7、さらに出版譜に無いコントラファゴットも2本加わるという当時としては巨大な編成であった。
曲の構成
古典的な交響曲の形式に従うが、緩徐楽章(第2楽章)では通例「遅く」などと指定されるところを「やや速く」と指定されている。また、全曲を通してリズムが支配的であり、快い速度で全曲を駆け抜けていく。
第1楽章
Poco Sostenuto-Vivace イ長調 4分の4拍子[注 1] - 8分の6拍子 序奏付きソナタ形式(提示部反復指定あり)。
トゥッティで四分音符が強く奏され、オーボエがソロで奏でる。そして、16分音符による長大な上昇長音階が特徴的な序奏の後、付点音符による軽快なリズムの音楽が始まる。第1主題はフルートの楽しげなソロによって提示される。そこから付点音符の動機が全曲を通して反復されるため第2主題との対比は少ない。軽快なリズムが主題部展開部再現部すべてを支配しておりワーグナーの評が示す通りである。展開部は弦と管の対比応答が目覚ましい。コーダでは22小節に渡って持続される低弦によるオスティナートが、混沌としたままppからffまでを導き、最後に、弦と管が応答を繰り返したのち一体化し終結になだれ込む。曲を締める音は主音のド(イ音)ではなく第3音のミ(嬰ハ音)である。
途中弦楽器が弾く主和音(ラド#ミ)と木管楽器の下属和音(レファラ)が並走する285小節は19世紀末から転調の誤りと捉えて修正される事があり、20世紀初期に出版されたオイレンブルクやペータース社のMax Unger校訂版スコアでも小節後半で弦楽器の音程を修正している。
第2楽章
Allegretto イ短調 4分の2拍子 複合三部形式。
初演時に聴衆から特に支持された楽章。シューマンはこの主題を基に変奏曲を遺しているし、ワーグナーはこの楽章をさして「不滅のアレグレット」と呼んでいる。複合三部形式の主部は変奏曲の形式であり、かたくなに同音が反復されつづける静的な旋律でありながらも、和声的には豊かに彩られている。最初の三小節でホルンと木管が奏でる印象的な和音のあとに、弦楽器で主題が奏でられ、その後に哀愁を帯びたオブリガートが絡む変奏が続く。後半をリピートした主題を弦楽器の低音の提示を含めて四度演奏し、最後に全楽器によるフォルテに至るのは第九の歓喜の旋律の提示展開と同じである。
「アレグレット(少し速く)」は、この曲の全楽章の中では最も遅い速度設定である。
第3楽章
Presto, assai meno presto ヘ長調(トリオはニ長調) 4分の3拍子 三部形式。
形式的には三部形式となっているものの、トリオは2回現れ、ABABAの型になっている。最初のスケルツォ部分のみ反復指定が為されている。コーダでは第9番の第二楽章と同様にトリオが短く回想される。
第4楽章
Allegro con brio イ長調 4分の2拍子 ソナタ形式(提示部反復指定あり)。
熱狂的なフィナーレ。第2楽章同様、同一リズムが執拗に反復され、アウフタクト(弱拍)である2拍目にアクセントが置かれている(現代のロック、ポップスにおけるドラムスの拍子のとり方と同じである)。
第1主題は後年の資料研究からアイルランドの民謡「ノラ・クレイナ」の旋律からとられたとされている。この第1主題は主和音ではなく属七の和音で始まる。第1楽章同様、コーダでは低弦によるオスティナートが演奏される。
121小節(※それまでの括弧を通しでカウントしない場合)から第一括弧を5小節間弾いた後のリピートについては不備があり、初版、旧全集版含む19世紀中の出版譜では5小節と13小節のどちらに戻るか示されていなかった。
20世紀に入ると5小節にサイズの小さい"S"、第一括弧の125小節には"Dal Segno"を補う事が通例となり、ベーレンライター版では資料に存在しない事を一層明確にするため、これらの記号は括弧で括られている。
新しい楽譜
自筆スコアは現存しており、ポーランドのクラクフ・ヤギェウォ図書館に収蔵されている[注 2]。これは戦前ドイツに有ったものが第2次大戦の際に戦火を避けて疎開させられ、ドイツの敗戦後ポーランドに接収されたためである。初版は1816年シュタイナー社から交響曲では初めてパート譜とスコアの両方が出され、シュタイナーで校正を担当していたピアニストでベートーヴェンから「悪魔」と呼ばれたアントン・ディアベッリ(悪魔とは"Diabolus Diabelli"というベートーヴェンがよく使った語呂合わせ)が出版用筆写スコアを準備した。それまでの交響曲に比べて第7番に関する資料はベートーヴェン自身が修正したものが多く残っており、ベートーヴェンが書きたかった/避けたかった稿態を知る手がかりとなる。
20世紀末に残存する原典資料の点検が行われ、ベーレンライター出版社がジョナサン・デルマーの校訂で、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社もペーター・ハウシルトの校訂で新しい原典版を出版した。また将来ボンのベートーヴェン研究所が編纂する新ベートーヴェン全集版(校訂はエルンスト・ヘルトリヒ。当初は交響曲第5 - 6番を校訂した児島新が引き続き担当する予定だったが、死去により引き継いだ)も、ベートーヴェンの生誕250年となる2020年にヘンレ社から刊行予定。資料が多いため、どの資料を重視するかによって譜面は変化する。2社が出した原典版も、ほぼ同じ資料に拠りながら、相違点がある。
ブライトコプフ社の旧ベートーヴェン全集の版(エディション)は、出版されて以来一世紀以上にわたって多くの指揮者/団体が使用してきたが、第2楽章の最後のヴァイオリンパート[注 3]にアルコの指示がある。その部分の少し前から続くピチカートからアルコに切り替えるものであるが、エーリヒ・クライバー、カルロス・クライバーなど一部の指揮者はピチカートのまま弾かせている。これは自筆スコアを参照した結果、掻き消され見にくい当該部分(ベートーヴェンによって自筆スコアの当初の案を抹消した上に書き直された)をアルコ無しと判断したからとみられる。同じ部分についてブライトコプフ社の新版(ハウシルト校訂)は同社の旧版と同じだが、ベーレンライター新版(デルマー校訂)では原典資料(自筆スコア〜筆写スコア〜初版)で一致した稿態として、275小節のアルコを276小節に移している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第7番_(ベートーヴェン)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html
1. 中川隆[-14171] koaQ7Jey 2020年1月26日 15:21:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-967]
ワインガルトナー
Beethoven:Symphony#7 - Weingartner & Royal Philharmonic Orchestra (1927)
Royal Philharmonic Orchestra
Ludwig Van Beethoven:Symphony#7 in A Major-Opus 92-Felix Weingartner Conducting The Royal Philharmonic Orchestra.In Four Movements on 10 sides of 78 rpm records-recorded in 1926 !Warning!Unedited Direct Playback From 78's With Side-Breaks! Lane Audio Research
▲△▽▼
Beethoven Symphony No 7 in A Op. 92 Weingartner (1936 Vienna Philharmonic Orchestra)
___
Vienna Philharmonic Orchestra
Felix Weingartner, conductor
Recorded: Grosser Musikvereinsaal, Vienna 24th to 26th Feb. 1936
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c1
52. 中川隆[-14170] koaQ7Jey 2020年1月26日 15:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-966]
2020年01月26日
アメリカ人の半数が預金ゼロ 富裕層が冨の半分を独占
1%の富裕層の資産だけが増え、他の人は貧しくなった
引用:http://crazyhorsebangkok.files.wordpress.com/2012/05/incomegrowth1980-2000top1bottom99.jpg?w=529
アメリカ経済はGDPなど国全体の統計では日本より遥かに好調で、バブル崩壊後の平均成長率は日本の2倍に達しています。
だが実態を見ると成長したのは富裕層だけで、90%の大衆は30年前より貧しくなっている。
アメリカ人の6割が預金10万円以下
アメリカは日本と比べて経済が順調で、高い成長率を維持し、羨ましく見える事が多い。
例えば最近数十年間のアメリカの経済成長率は年3%を超えているが、日本は最近20年間は1%程度に過ぎません。
リーマンショックはアメリカが震源地なのにほとんど打撃を受けず、日本は無関係なのにまだ立ち直っていません。
だが国のトータルで考えると絶好調のアメリカも、個人個人で見ると悲惨な数字が浮かび上がってきます。
例えば2014年には上位1%の富裕層の冨が、下位90%の冨を上回ったと発表され、人々に衝撃を与えています。
この数字は二通りの意味に受け取ることが出来、一つ目は単純にそれだけアメリカは豊かだという見方ができる。
二つ目は富裕層が貧困者のお金を奪っているという見方で、年々この可能性の方が強まってきています。
アメリカ人の60%は預金が1000ドル以下しかなく、40%の人は預金ゼロになっています。
オバマ大統領が2期目の当選を果たした2012年の大統領選で、わずか5人ほどの資産家が選挙資金の80%を出したと報道されました。
この数字がどれほど確かなのか知りませんが、話半分だとしても、大統領を決めているのは数人の資産家なのだと分かる。
こうした選挙への富裕層の関与は国中のあらゆる選挙に及んでいて、町議会議員といえども富裕層の支援が無いと当選は困難です。
富める富裕層と貧しい国
この結果、困った事に最上位富裕層の多くは、1ドルも税金を支払っていません。
国外に活動拠点があったり、慈善事業の資金運用をしている事になっていたり、とにかく富裕層ほど納税しないのです。
2011年のデータですがアメリカ(連邦)の税収入が2.1兆ドルに対して、連邦支出は3.8兆ドルでした。
わざわざ連邦と書いたのは、アメリカでは「州」などの自治体や民営化された事業が多いからで、全体ではもっと悪いと推測できます。
これらの数字は現在も大きく変わっていない筈なので、この時よりもっと悪化している筈です。
日本は「国の借金」を毎月、毎日のように役所が数えて「国の借金時計」まで造っているが、アメリカ全体の借金は非公開です。
ブッシュ(2代目)の頃から時々断片的に数字を公表するようになりましたが、それらはどれも悲惨で、見るに耐えません。
例えばブッシュ時代のアメリカの公的債務は4000兆円以下とされたが、現在は5000兆円台とされています。
ここで一つの疑問が起きると思いますが、国にそんなに借金があるのに、どうして富裕層は金持ちなのか?
国に借金があれば公債を発行して誰かから借金している状態で、富裕層がアメリカ政府にお金を貸しているのです。
米中央銀行FRBはアメリカ政府が破産しないように、大量のドルを発行し、政府は大量の公債を発行しました。
これを手にしたのが富裕層で、彼らの資産の大半が実は、アメリカ政府などの借金です。
日本でも富裕層の資産だけが急上昇している
引用:https://www.nri.com/~/media/Images/jp/news/2014/141118/1.gif
日本はアメリカより貧しいか
日本人の個人資産は1800兆円ですが、アメリカ人は7000兆円も持っています。
為替レートの変動があるので、この日米差は4割くらい簡単に変動し、正確な比較はあまり意味を成しません。
だが一人当たりの個人資産で見ても、アメリカ人一人は日本人一人と同等以上の資産を持っています。
因みに経済的には「誰かの資産は他の誰かの債務」なので、日本もアメリカも、資産と同じ負債(借金)を誰かが持っている。
日本の場合は国などが借金1100兆円を持っているそうですが、アメリカも誰かが『7000兆円』の借金を隠し持っています。
政府の借金が1100兆円という聞き飽きた数字は、国全体では意味が無いのが分かります。
仮に国の借金をゼロにしたら、その分日本の個人資産が1100兆円減るか、個人債務や企業債務が1100兆円増えるからです。
アメリカと同じ事で「国の借金=個人資産」なのでした。
日本の個人資産の半額の900兆円は60歳以上の高齢者が握っていて、反対に20代の個人資産はほぼ「ゼロ」でした。
さらに「資産−借金」で見ると、プラスなのは50代以上だけで、40歳以下の全ての世代でマイナス資産でした。
日本は40代以下の人には、夢も希望も無い貧困国なのだと分かります。
40代以下が成人したとき、日本は既にマイナス成長だったので、資産を築くなど不可能だったのです。
野村総研によると日本の富裕層の定義は「資産1億円以上」で人数は「約127万人」なので人口の1%に近い。
富裕層が保有している資産総額は200兆円(2017年)で日本の個人資産の11%を占めています。
アメリカでは1%の富裕層が個人資産の30%から40%を持っているので、それよりはかなり少ない。
だが日本の富裕層の個人資産は毎年10%以上増えていて、これはズバリ「国の借金」が個人の富裕層の資産になっています。
アメリカも日本も、国の借金が増えるほど富裕層の資産だけが増え、大衆は貧しくなるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/45550047.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c52
2. 中川隆[-14169] koaQ7Jey 2020年1月26日 16:27:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-965]
リヒャルト・シュトラウス
Richard Strauss (1864-1949): Beethoven: Symphony No.7 RESTORED R.1926
Staatskapelle Berlin
DG。1926年録音。ポリドールのSP原盤からの復刻。
同年のフルトヴェングラーの「運命」初録音と同じ機器での録音で音がイマイチ。
加えて、録音上の制約のため、第4楽章を第242小節から第415小節まで174小節もカットしている。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c2
国会で桜問題しか取り上げない日本の野党はまともだった
国会で法案の中身が議論される事は少なく、政府のスキャンダルの追及に野党は明け暮れています。これをして「くだらない野党」とか「無力な野党」と揶揄する人がネトウヨに限らず大勢居ます。しかし、これが少数派の野党に精一杯の抵抗だという事を知っている国民は少ない。 「多数決が正義」の国会で野党は「時間闘争」しか対抗手段を持たない
「民主主義」は単純に言ってしまえば「多数決」が全てです。国会で多数派の与党は、審議などせずとも強硬採決によって、どんな法律も成立させる事が出来ます。
しかし、それでは「数による独裁」となってしまうので、形だけでも国家で与野党が充分に法案について話し合って採決するというポーズを取ります。法案の内容を審議した所で、最後は「数の力」で法案は成立してしまいます。国民も「充分内容を審議した」と納得してしまいます。
そこで、少数派の野党は「時間切廃案」という「時間闘争」で抵抗するしか手が有りません。
本来、時間稼ぎは法案の内容の審議であるべきですが、国民はこんな細かい事に興味はありません。国民を見方に付けない限り「審議は充分尽くされた」として採決に持ち込まれてしまいます。だから野党は「国民が興味を示し易いスキャンダル」で審議時間を使い尽くし、「強硬採決を許さない空気を醸成」して、法案をまとめて「時間切れ廃案」に持ち込む「時間闘争」を常套手段にしています。
■ 国会は既に法案の中身を審議する場では無くなっている ■
そもそも日本の国会は法案の中身を審議する場では無くなっています。その理由は「議員が勉強不足」だから。
日本の法律は「議員立法」が少ない事は皆さんもご存じだと思います。法律の多くは「閣法」です。「閣法」は、内閣が閣議決定して国会に提出される法案の事です。
1) 官僚が法案の雛形を作る
2) 自民党内の政務調査会の部会で法案の内容が審議される(利権の調整)
3) 自民党の「総務会」で法案の内容が検討される(さらなる利権の調整)
4) 国会への法案提出が閣議決定される
5) 国会内の委員会で法案が審議される(野党との調整)
6) 法案が本会議に提出され、審議後に採決される
自民党は「政治主導」の名の元に小泉政権時代から国会議員の国会での自由な裁量を制限して来ました。議員は国会で自民党が提出した議案に反対すると、次の選挙で党の公認が得られなくなるのです。だから、現在の国会議員は「数合わせ」に過ぎないのです。
当然、国会議員の質も低下します。かつては政策に精通した議員も多く居ましたが、現在では「選挙で勝てる議員」が「良い議員」です。世襲議員で後援会の基盤がしかかりしていたり、或いは話題性があって当選が見込める人が党の推薦を受け易くなります。
かくして国会で法案の中身を審議出来る議員が居ない、いえ必用無くなったのです・・・。
イギリス議会にしても、アメリカ連邦議会にしても、民主主義は形骸化しており、民主主義の理想とは大きくかけ離れた物になっていますが、日本の国会の形骸化はその最たるものかも知れません。「民主主義」が本当に機能する為には「理知的で公平な国民」が必須ですが、実際には国民は「利己的な集団」に過ぎません。結果的に民主主義を国民の手に委ねると国家は滅亡します。だって、税金払う人、居なくなりますから・・・。
「民主主義」は近代政治が生み出した「妥協案」ですが、様々な手段を使って「民主主義を制約」する事で機能して来ました。日本の国会システムも、長い年月をかけて作られた「妥協案」の一つです。
国民から見ると「理解不能」な国会システムですが、これも先人の知恵(と欲望)の結晶と思えば、評価する点もあるのかも知れません。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/439.html
35. 中川隆[-14168] koaQ7Jey 2020年1月26日 17:43:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-964]
ASHIDAVOX「6P HF1」16cm アルニコ・フルレンジ・スピーカー を落札してみた
投稿日 : 2019年1月1日
https://radio.erx.jp/ashidavox%E3%80%8C6p-hf1%E3%80%8D16cm-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-%E3%82%92/
なんだかんだ言いながら相変わらずスピーカーを買い続けている私ですが…
今回は私にとって初めての日本製です。
1.1960年代 日本製 ASHIDAVOX「6P HF1」
2.16cm フルレンジ
3.アルニコマグネット搭載
試しに落札してみた
世界最高峰の幻のロクハンと言われ、ネットで凄く評判が良いみたいだし、単品出品だったし、大幅補修品だったし、試してみるには良いチャンスだったので落札してみた。
届いたのがこれで、確かに何処にでも有る様な安っぽい見栄えのしないユニットだが、フレームにはサビやクスミも無くとても綺麗な良品だった。
ヤフオクの写真で大幅補修を見ていたので驚かないが、まるっと一周エッジ周りを補修してある。
補修はプロの手によるものとの説明があったが、確かに綺麗にしっかり補修されている。
基本的に補修はコーン紙裏側から行われているので表面上はそれ程見苦しくない。
センターキャップ周りのデコボコは、コーン紙裏側に接着されたボイスコイルのリード線によるもので ASHIDAVOXでは良く有る様なので問題無し。
全体的にコーン紙は綺麗な状態を保持している。
これは、裏に塗った補修剤が染み出して表に現れたもので、とても綺麗な補修と言える。
センターキャップはヘコミも無く綺麗な状態。
補修の様子を裏から見るとこんな感じでガッツリ補修してある。
補修剤は何を使っているのか不明で、ベタベタせず乾燥しているが、決して硬くなく弾力がある。
その為、オリジナル状態の様な訳には行かないが、エッジは固着せずに動ける状態にある。
別な角度からの写真で、結構補修剤はしっかり塗布されているが、それでもエッジは動いている。
一体どんな補修剤をつかっているのだろう?
固着しないので「木工ボンド」ではなさそうだし、透明色なので「DBボンド」でもなさそう。
とっても良さげな補修剤の様で、私も知りたい位だ。
もしご存知の方がいらっしゃったら是非教えて下さい。
コルゲーションダンパー周りもとっても綺麗。
おなじみの ASHIDAVOXらしい超薄いフィックスドエッジの半透明ぶり。
補修剤が透明なのでこれを見る事が出来たけれど、こうでなくっちゃ!
逆に ASHIDAVOX宿命のエッジやコーン割れを気にして使うよりは、この様に補修して有る方が長持ちしそうで使い易いかも知れない位だ。
まとめ
早速、いつもの様に裸で転がして聴いてみた。
んんっ!?
あれ、なんで?
裸のままなのに、やけに低音が出てて、下手な箱に入れた様に鳴っている。
補修剤のせいで本来よりエッジの動きは悪い筈なのにだ。
まっ、私の場合は小音量再生なので多少エッジの動きが渋くても問題ないのかも。
へぇ〜、いい音やん。
ヤバイ、これ、気に入っちゃったかも。
では、また〜♡
コメント
ponta246zg 2019年1月2日 at 09:33
え・・・また買っちゃったんすか(笑笑)フィリップス買ってしまったからハードル上がってませんか?(笑)
廃人 2019年1月2日 at 09:51
ASHIDAVOXがあまりに評判が良い様なので、
今回ばかりは本当に試聴の為だけに買ってみました。
裸での試聴なので実際の所は判りませんが、
確かに素晴らしい音がするユニットです。
試聴が終わって満足したので資金繰りの為に
ヤフオクに出品して元の環境に復帰します。
匿名 2019年1月14日 at 15:17
こんにちは、フィリップス好きの匿名です(汗。
あの後、とある方に無理を言って同じフィリップスのアルニコを入手しました(滝汗。
エッジの修復材なのですが、比較的入手しやすさからユタカメイクのBE-1が有名ですね。
国産の謀ユニットのレストアしている方々には定番の修復材の如く拝見いたします。
今年も楽しみに見させて頂きます。
廃人 2019年1月14日 at 15:41
フィリップス好きさん、こんにちは!
なるほど「ユタカメイク BE-1」…
初めて聞いた素材なので調べてみましたが、
これ、確かに良さそうですね。
今回の AHIDAVOXの補修にガッツリ使っていたので、
仕上がりがどんな風になるのか知る事も出来、
結構弾力があり、見た目にも透明で違和感少ないです。
これを適当に水で薄めて使えば弾力度も調整出来そうだし、
色も3色有る様で使い易そうですね。
https://radio.erx.jp/ashidavox%E3%80%8C6p-hf1%E3%80%8D16cm-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC-%E3%82%92/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/956.html#c35
3. 中川隆[-14167] koaQ7Jey 2020年1月26日 18:16:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-963]
メンゲルベルク
Beethoven Symphony No.7 Willem Mengelberg 1936
Concertgebouw Orchestra, Willem Mengelberg
▲△▽▼
Beethoven “Symphony No 7” Willem Mengelberg, 1939
▲△▽▼
Beethoven “Symphony No 7” Willem Mengelberg, 1940
Concertgebouw Orchestra, Willem Mengelberg
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c3
4. 中川隆[-14166] koaQ7Jey 2020年1月26日 18:46:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-962]
トスカニーニ
Toscanini's Best Beethoven Recording! Symphony No 7 (1936) NYP
Arturo Toscanini,conducting
The Philharmonic-Symphony Orchestra of New York
Recorded April 9-10, 1936 at Carnegie Hall, New York City
▲△▽▼
The 1939 Beethoven Cycle: Symphony No 7 Toscanini/NBC
Arturo Toscanini, conductor
The NBC Symphony Orchestra
Recorded November 18, 1939
in Studio 8-H, Radio City, NY
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No. 7, Toscanini & NBCso (1951)
Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra
Rec. 9-10 November 1951, at Carnegie Hall, in New York
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c4
5. 中川隆[-14165] koaQ7Jey 2020年1月26日 18:56:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-961]
ブルーノ・ワルター
Beethoven, Symphony No 7 in A major op 92 (Walter) rec. 1947
New York Philharmonic Orchestra
Bruno Walter, conductor
Recorded in New York, 1947
▲△▽▼
Beethoven - Symphony n°7 - NYP / Walter
New York Philharmonic
Bruno Walter
Studio recording, 12.III.1951
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No. 7, Walter & ColumbiaSO (1958)
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 1, 3, 12 February 1958
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c5
6. 中川隆[-14164] koaQ7Jey 2020年1月26日 19:15:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-960]
カール・シューリヒト
Carl Schuricht conducts Beethoven Symphony No. 7 - BPO 1937
Carl Schuricht - Berlin Philharmonic Orchestra
Polydor 67162-67166
nov. 12. 1937
Venue: Berlin, Hochschule für Musik (Raum I)
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No. 7, Schuricht & PCO (1957)
Carl Adolph Schuricht (1880-1967), Conductor
Paris Conservatoire Orchestra (Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)
Rec. 11-12 June 1957, at Salle Wagram, in Paris
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c6
7. 中川隆[-14163] koaQ7Jey 2020年1月26日 20:05:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-959]
オットー・クレンペラー
Beethoven, Symphony No.7, Otto Klemperer, The clandestine STEREO recording, 1955
Philharmonia Orchestra
Otto Klemperer
Studio recording, London, 5-6.X & 17.XII.1955
▲△▽▼
Beethoven "Symphony No 7" Otto Klemperer Suisse Romande 1957
Orchestre de la Suisse Romande
Otto Klemperer, conductor
Victoria-Hall, Genève 06.III 1957
▲△▽▼
Beethoven - Symphony No 7 - Klemperer, PO (1960)
The Philharmonia Orchestra conducted by Otto Klemperer
Recorded at Kingsway Hall, London, on 25 October, 19 November & 3 December, 1960
▲△▽▼
BEETHOVEN Symphony No.7 OTTO KLEMPERER New Philharmonia Orchestra 1970
Otto Klemperer (conductor)
New Philharmonia Orchestra
Royal Festival Hall
London 1970
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c7
8. 中川隆[-14162] koaQ7Jey 2020年1月26日 20:32:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-958]
パブロ・カザルス
Beethoven: Symphony No. 7 op 92 (P. Casals, Marlboro Festival Orchestra, 1969)
Pablo Casals Marlboro Festival Orchestra 1969.8.2 Live.
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管(1969年録音/CBS盤)
マールボロ音楽祭管というのはアメリカの音楽祭の為の臨時編成ですが、この時のメンバーにはヴァイオリンには後にイムジチのコンマスになるピーナ・カルミレッリや潮田益子、チェロには元ブッシュSQのヘルマン・ブッシュなどの凄いメンバーが参加しています。
カザルスはこの時既に92歳ですが、魂の演奏家だけあって非常に力強く感動的な演奏をしています。およそ「洗練」というには程遠いサウンドなのですが、最近の機能的なオケの音に慣れ親しんだ方にこそ是非聴いて貰いたい演奏であり音楽です。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c8
9. 中川隆[-14161] koaQ7Jey 2020年1月26日 20:54:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-957]
カルロス・クライバー
Beethoven, Symphony No. 7 (Kleiber) 1976
Wiener Philharmoniker, Carlos Kleiber, 1976
▲△▽▼
Beethoven - Symphony No.7 Carlos Kleiber Bayerisches Staatsorchester 1982
Bayerisches Staatsorchester (Orchestre d’Etat de Bavière)
Carlos Kleiber
Live performance in 1982
▲△▽▼
Carlos Kleiber Beethoven Symphonies 4&7 Concertgebouw orchestra Amsterdam 1983
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No.7 / C.Kleiber Bayerische Staatsorchester (1986 Movie Live)
Carlos Kleiber
Bayerische Staatsorchester
1986.5.19 Tokyo. Japan Live
▲△▽▼
カルロス・クライバー指揮
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven7.htm
ウィーン・フィル
DG。1975〜76年録音。
演奏としては下のACOとの映像のほうがより生き生きとしている。
「運命」とセットでOIBP化(写真左)。
2009年3月に「運命・第7」のカップリングSACD Hybridを入手した(写真右)。
また2010年にシングルレイヤーのSACD国内盤も出ていたが、それに気づいたのは2011年末のことだったので、限定盤ということもあってHMVでは入手不可だった。しかしラッキーなことにAmazonでは運良くまだ在庫があったので入手できた。(ジャケットデザインは同じ。)
2014年初め、「運命・第7」のカップリングのBlu-ray-audio Discを入手。同年にはDGに録音した全交響曲録音がセットでBlu-ray-audio Discになった(写真右)。
バイエルン国立管弦楽団
ORFEO。SACD Hybrid。
1982年5月3日、バイエルン国立歌劇場での「カール・ベーム追悼」アカデミー・コンサートのライヴ録音。
あの不滅の名演の第4番と同日の演奏である。
プログラム構成を考えれば下記ACO盤と同じく、たぶんこの第7番のほうがあとに演奏されたはずである。その最後の拍手は、聴衆があっけにとられたのか、かなり間があいてからパラパラとなり始め、その後ブラボーの嵐となっていく。かなりエキサイティングな演奏であることは確かである。残念ながら録音がそれを100%捉えきっているとは言い難いが、リリース前提ではない録音だったのだろうから仕方ない。(ミスも第4番以上に目立つところもある。)
そのうち第4番とカップリングで1枚になるのだろうか?
コンセルトヘボウ管弦楽団
PHILIPS。1983年ライヴ。第4番とカップリング。LD。
CDよりも躍動感にとむ超名演!とにかくクライバーの指揮は「見たい」。
彼の死後、DVD化されたので購入。5.1チャンネル・サラウンドにも切り替えられる。また、LDではA面に第7・B面に第4が収録されていたが、DVDではコンサートの曲順通り第4・第7の順で収録されている。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c9
10. 中川隆[-14160] koaQ7Jey 2020年1月26日 20:58:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-956]
フルトヴェングラーのベートーヴェン 『交響曲第7番』
Wilhelm Furtwängler Composer INDEX 1
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu08.htm
このコーナーでは、主要な作曲家・作品別にフルトヴェングラーのディスクを掲載します。特に「スタジオ録音」と記載のないものはすべてライヴ録音です。
Beethoven: Sym.No.7
1)43/10/31-11/03 BPO Berlin Phil.(RRG)
2)48/11/13 StockholmPO Stockholm
3)50/01/18-9 VPO Musikverein(EMI Studio)
4)53/04/14 BPO Titania
5)54/08/30 VPO Salzburg Fes.
▼51/08/15にルツェルンでの2楽章リハーサルの録音がある。
▲これだけはいくら戦前ものでも 1)以外なし。
>>>>> My Best is 1)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c10
11. 中川隆[-14159] koaQ7Jey 2020年1月26日 21:43:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-955]
Beethoven - Symphony n°7 - Berlin / Furtwängler 1943
Berliner Philharmoniker
Wilhelm Furtwängler
Live recording, Berlin, 31.X.1943
▲△▽▼
1943年
●11月3日 3 Nov. 1943 BPO Philharmony (RRG=Melodiya=SFB/Pcon=DDR)
Beethoven:Sym.No.7 交響曲第7 (o-89)
LP/PR: MelodiyaD27779-80('71) SWF7105(72/02) UNI WFS8(72/03) Columbia(JP)DXM151UC('72)
CD: PAL1024(87/03) MEL10 00713('93) SWF941('94) TOCE3733(00/08) OpusKuraOPK5002(03/11) SWF941R('04) Berliner Philharmoniker KKC5952(18/12)
▼特にベートーベン第7の2楽章を聞いてほしい。寄せて打つ波のように「悲しみ」がこみ上げてくる。戦後の'50年VPOスタジオや 53年BPOの演奏では決して味わうことのできない胸にしみる弦の音色である。
演奏会で聴衆に戦時下の「ほっと」できるひとときを与えているときもWFは、アウシュビッツのようなところで支配者たちが何をしているかを考えていたかも知れない。
第7演奏評(WFこの1枚) 終楽章の冒頭に欠落があり、初期のメロディアはそのまま、MelodiyaCD,RCDは他の演奏で差し替え、DGなどは繰り返しを流用している。
録音状態はメロディアが明快だが、2楽章は、なぜか音質が落ちてドングリの背比べとなる。
Melodiya CD, RCD の差し替え部分についてshin-pは、当初疑われた WFの50年VPO盤ではなく、ベームBPO盤(1958年録音)ではないかと思う。
蔵盤や Serenade盤はストレートに初期メロディア盤を音化した評判のよいCD。
蔵盤は若干電気的ノイズが気になる。
shin-pは未聴だが、会議室の長野S氏FJHS氏加藤氏の書き込みによるとSWF941Rは「ノイズカットが大胆」で「残念な出来」という。
SWF941は、メロディア CD同様比較的良好な音質だったが。楽章ごと音質に違いがあり第2楽章は42年3月の可能性もある。BPOプロデュースのRRG録音集では、この2つの収録日を併記している。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu05.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c11
12. 中川隆[-14158] koaQ7Jey 2020年1月26日 22:03:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-954]
Symphony No. 7 in A Major, Op. 92: IV. Allegro con brio (1948 Stockholm Philharmonic Orchestra)
Conductor: Wilhelm Furtwangler
Orchestra: Stockholm Philharmonic Orchestra
▲△▽▼
1948年
13 Nov. 1948 Stockholm Phil. Stockholm konserthus(Swedish Radio)
Beethoven:Sym.No.7
●11月13日 ベートーヴェン/レオノーレ3番 交響曲第7 & 8 ストックホルムpo ストックホルム・コンサートホール スウェーデン放送収録
LP/PR(No7): DiscocorpRR505(75?)
CD: M&ACD793('89) KingJapanKICC2110(90/12)
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu12.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c12
13. 中川隆[-14157] koaQ7Jey 2020年1月26日 22:19:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-953]
Beethoven: Symphony No. 7, Furtwängler & VPO (1950)
Wilhelm Furtwängler (1886-1954), Conductor
Vienna Philharmonic Orchestra
Rec. 18-19 January 1950
▲△▽▼
1950年
18/19 Jan. 1950 VPO Musikverein (EMI studio Version=SP)
Beethonen: Sym. No.7
●1月18、19日 ベートーヴェン/交響曲第7 VPO ムジークフェライン EMIスタジオ録音
Matrix:2VH7180-1A/81-1A/82-1A/83-1A/84-1A/85-1A/86-1A/87-1A/88-1A/89-1B
SP/PR: DB21106-10(51/09)
LP: RCA LHMV1008(52/08) ToshibaXLP5005('64)
CD: SinseidoSGR8002(94/03)ToshibaTOCE7530-4(91/12)TOCE3724(00/06)EMI(Italy)5.74173.2('00)EMIJapanTOGE11003(11/01)
>>>SGR 8002 is copy of Japanese collecter's SP.
▼50年初EMIへの一連の録音は、SP片面分ごとにテープで収録し製盤したと思われる。
曲によって現在もオリジナルテープが残っているものと LP製作時一本のテープにマスタリングしたもの、さらにオリジナルテープが消去され SP原盤から板おこししたテープしか残ってないものがある−とshin-pは思っていた。
しかし、2011年SACDが発売された際の→[EMIアビイロード・スタジオ エンジニア インタビュー(フルヴェングラーSACD)]では、
「EMIがテープ録音を始めたのが1949年9月で、このベト7のテープ録音(30インチ/秒)は実験的なもので、ディスクカッティング方式と並行して行われ、ひとつのテイクは4〜5分であった」ことがコメントされている。
さらに「2つの方式で録音されたものを比較の上、未使用のテープを使用した」と言及しており、いままでのLP用マスターが金属原盤からのものである可能性も浮上した。
ベト7は、LP時代 1月25、30、31日録音となっていたが、原盤番号から上記日付が正解のようだ。
はじめからテープをマスターとして再録されたものに比べると音質的にかなり落ちる。
'94年春、日本のコレクターが所有するSP盤から直接ダビングしたCDが新星堂(SGR8002=制作は東芝=余白には1月31日収録のジークフリートの葬送行進曲)から発売された。
これにはLP初出 RCA盤以降、テープに編集された際、第4楽章に混入したと思われる女性の声は入っていない。SP以外の確認されている全てのLP/CDで「女性の声」は収録されている。
2000年の東芝新巨匠全集の特典盤にもSP復刻の終楽章が収録されている。(BCD-0052=00/06/21非売品)
ただし、テープに編集され現在市販されているものは針音がまったく気にならないが、このSP復刻盤は音そのものはクリアなものの、針音に埋もれてしまうところもある。
またブライトクランク化されたものは音像がぼやけてしまっている。
EMI盤はCDも同様のもやついた音質(特に3楽章)で、1/31のワーグナーのようにTESTAMENT に何とかしてもらいたかったのだが−2011年、新しいテープマスターから SACD がEMIから発売された。
これらのEMIの録音は、まず金属盤作成用マスターをテープで収録した後、テープから金属盤を作成しSP盤を作った。
さらに LPや CD は金属盤をスタジオで空間的に再生させて、その音をマイクで拾ってテープに録音し、マスターにしたとimamura氏は述べている。
確かに、LP以降のディスクに「女性の声」が混入していることは、それだとつじつまが合う。
この第7の「ゴボゴボ音」は初期のテープから来るノイズだという。
shin-pは針音のないところから、すべてSP片面ごとにテープで収録し、LP用に1本のテープに編集した「女性の声」入りのテープが現在のCD用マスターとして使われていると思う。
平林氏推薦の東芝TOCE7530-4(91/12)はSP片面用に収録したテープの継ぎ目と音質差がくっきりわかるほど明瞭。
「古ぼけた録音」というイメージを一新した伊EMI5.74173.2('00)は、原テープのマイナス部分をイコライジングでカバーし発売当時(2000年)は最も音質がよいと思われていたCD。
EMIJapanからSACD盤TOGE11003(11/01)が、これまでのテープとは別のテープを使ったとアナウンスされて発売されたが、3楽章の音像乱れの改善や若干の音質向上はあるものの「女性の声」はかすかに収録されており、以前のテープと同じ過程でバックアップとして作られたテープである可能性が高い。
それでも現時点(2013年)でのファーストチョイスは、新しいマスターから製版されたこの高価な SACD盤となる。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu14.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c13
14. 中川隆[-14156] koaQ7Jey 2020年1月26日 22:46:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-952]
Wilhelm FURTWÄNGLER conducts Beethoven - Symphony No. 7 LIVE (1953)
_____
April 14, 1953 live at Titania-Palast
Orchestra: Berliner Philharmoniker
▲△▽▼
1953年
14 April 1953 BPO Titania (SFB)
Beethoven:Sym.No.7
●4月14日 ベートーヴェン/交響曲第8 第7 R・シュトラウス/ティル BPO ティタニア SFB収録
LP/PR(No7): WFSG F666624-5('75?)
CD: DG415666-2('86)POCG3789(97/08)
▼ 7番の演奏は、43年にくらべれば当然物足りないが、他の指揮者とは比べ物にならないほど感動的なもの。
なおこの演奏ではDG1楽章4分12秒付近に「金管の音はずし」の修復跡があり、52年2月ブラ1や51年ブル4とともにDGの「編集」について議論があった。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu18.htm
1953年4月14日のDG盤と協会盤は同じ物か?
今週のshin-p9/21に掲載しているようにキング(日フ協会盤?)とDGの演奏の違いについてHS氏が金管が音をはずしていることについて−
「金管楽器をバランス的に故意に弱めて不明瞭にしている様な気がします。」
という見解のメールをいただきました。またDGの1楽章4分12秒付近のテープ編集らしきものはオリジナルスでは確認できないと述べておられます。
shin-pHPでは52年2月のブラ1と同じくキング盤、DG盤、協会盤とも同じ演奏ながら過去のDG盤は演奏上のキズを編集で修正しており、オリジナルスでもなお4楽章に編集が見られるもののよりオリジナルテープの音に近づいたと結論づけます。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu10.htm#dg
DGの編集版について
昨年(1997年)秋、shin-pは家を改装中に出てきた83年頃にNHK-FMから録音した53年のベト7キング盤(協会盤?)のエアチェックテープをきっかけとして、DGが行っている「編集」について疑問を持つようになった。
さらに赤壁氏の情報によるとベト8も「1楽章の提示部が終わったところで、クラリネットだけがリピートするものと間違えて冒頭に戻りかかっていたはずなのに、DG盤では見事(?)に取り除かれて、あとには不可思議な残響が挿入されています。」という。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu20.htm#dg
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c14
15. 中川隆[-14155] koaQ7Jey 2020年1月26日 22:56:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-951]
1954年
30 Aug. 1954 VPO Salzburg( Rot Weiss Rot=ORF)
Beethoven:Sym. No.7
●8月30日 ベートーヴェン/交響曲第8&大フーガ&第7 VPO ザルツブルク音楽祭 RWR収録 ORFザルツブルク&VPO所蔵
LP/PR(No7): KingJapanK22C137(80?)OrfeoC29392(93/07)
▼大戦後ウィーンの占領区にあった米の放送局Rot-Weiss-Rotの録音。
交響曲はORF音源の正規盤を出しているOrfeoから93年にORF所蔵のテープを使った正規盤が出た。
7番 Laudis CD は53年グレイトで魅せたコレクターズアイテムともなっているRVC(Laudis原盤)「WF最高録音」に比べて信じられないほど劣悪な音質。
53、4年のザルツブルク音楽祭では巨匠の提案でステージ左右にセットした3本ずつのマイクを通じて76cm/2chで娘婿のアルフレド・クンツ氏が録音したと[参考資料@]桧山氏が述べている。
75年頃旧Rot-Weiss-Rot放送からVPOとORFにマスターテープが返還された−とDG盤の解説にある。
43年や53年盤ではゆっくりしたテンポで悲しみを浮き上がらせていた第7のアレグレットだが、巨匠にはもはや残された時間は少なかったのだろう−速いテンポで淡々と進めている。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/shin-p/furu19.htm
16. 中川隆[-14154] koaQ7Jey 2020年1月26日 23:01:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-950]
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベートーヴェン 『交響曲第7番』
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven7-m.htm
ウィーン・フィル----1950年1月、スタジオ録音
EMIの全集中の1枚。しかしここで紹介したいのは新星堂の企画CD(SGR 8002)である。
実は、1950年のこの演奏のオリジナル録音は、通常のSP録音方式であるラッカー盤(ワックス盤)へのカッティング録音ではなく、SP1面分ずつの短いテープに録音して編集した後、SP原盤が作られたのだという。その後、その最初のテープは処分され、SP原盤もLP用テープが1952年に作られたあと廃棄されてしまった。
ところが、その1952年LP用テープ作成時に、第4楽章3分すぎあたりに女性の話し声などの雑音が混入してしまい、以後世界各地で発売されたこの演奏は、ずっとその雑音とともにある。
このことはEMI自身も当初から承知していたようで、1956年に日本におくられてきたマスターテープにも「雑音混入」と記されていたらしい。
で、このことを近年「レコード芸術」誌上である読者が指摘したのをうけて、新星堂は、未使用に近いSPレコードを使用して、雑音が混入していないマスターテープを新たに作成しCD化したのが、この企画なのである。
(しかし、これすらも最初のテープからSP原盤をつくる時に発生したテープヒスノイズだけは免れないのである。)
オリジナルこまぎれテープ(1950年録音・編集、廃棄)
↓
SP金属原盤(1950年作成、1952年廃棄)→SPレコード→ここからCD化
↓
LP用テープ(1952年作成、雑音混入)→以後のLP・CDの音源
2004年夏、TAHRAから発売されたフルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル録音集4枚組FURT 1084/7(写真右)にも、この録音が収録されている。よく聴くと上記ノイズが入っていないので、これもSPから復刻したようである。新星堂盤はとっくの昔に入手不能だし、何よりも同時期録音(すなわち同様の録音方式)の第4番も良好な音質で復刻されているので、この4枚組はおすすめである。
2005年、日本のDeltaからもSP復刻盤が出た(DCCA 0011)。これは同時期録音の「未完成」および翌年のケルビーニの「アナクレオン」序曲も復刻している。
2009年にはopus蔵からもSP復刻された(OPK 2068)。
2011年1月、フルトヴェングラー生誕125周年でSACD Hybrid国内盤が出た。これには「これまでに未使用の1950年1月にウィーンのオリジナル・セッションで録音されたテープが発見されたのでそれを使用した」とわざわざ特記してある。さては上記で処分されたとされていたオリジナル細切れテープが発見されたのか、と大変期待したのだが、実態は全く違い、ノイズ入りのLP用テープでしかなかった。何と今まではLP用のオリジナル・テープすら使用していなかったということになる。でもまぁ、Reference、ARTよりは音は良いような気がする。
翌2012年末、シングルレイヤーのSACD国内盤3枚組BOXでも入手した(写真左)。SACD部分は同じマスターなので、Hybrid盤は人に譲った。
_____
ベルリン・フィル----1943年11月3日、LIVE
DG。マグネットフォン録音。
ソ連からドイツに返還されたデジタル・コピー・テープからCD化したものである。
オリジナル・テープでは第4楽章第1小節が欠落しているが、再現部の音でつぎはぎしてある。
メロディア盤も出ているが持っていない。TAHRAの戦時中録音6枚組に収録されていないのはやはり欠落のせいだろう。
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ストックホルム・フィル----1948年11月13日、ストックホルム、LIVE
WEITBLICK。2019年発売、ストックホルム・フィルとの全録音集(4CD)。
戦後、大病する前のこの曲のライヴ録音はこれだけである。大変躍動感がある演奏である。
同日演奏の第8番(=EMI全集)、レオノーレ序曲第3番も収録されている。序曲は前日のリハーサルも収録されている(以前入手した非売品8cmCDよりも収録時間が長い)。
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ルツェルン祝祭管弦楽団----1951年8月15日、Luzern、第2楽章リハーサル
TAHRA。FURT 1088/9。「ルツェルンにおけるフルトヴェングラー」と題された2枚組。
49年HMV録音のブラームスV協、53年ライヴのシューマン第4・英雄などが収録されている。
このリハーサル風景は、学生時代にFMをエアチェックして聴いていた。CD化されて非常に懐かしい気がする。この感動的な楽章をフルトヴェングラーがいかに細かい事まで注意して演奏しているかがよくわかる。よってリハーサルだが名盤!
残念なのは、この日に行われた本番の演奏の録音が残っていないことだ。ちなみにこの日は、「魔弾の射手」序曲とこの第7の間に、なんとバルトークの「管弦楽のための協奏曲」が演奏されたのである。聴きたかった!
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ベルリン・フィル----1953年4月14日、Titania Palast、LIVE
DG。OIBP国内盤は同日の第8とカップリング。
2002年発売のORIGINAL MASTERSシリーズ6枚組輸入盤474 030-2にも収録(写真左)。上記国内盤は譲渡した。
2011年、フルトヴェングラー生誕125周年ということでシングルレイヤーのSACD(写真右)も発売された。カップリングは同日の第8番。
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ウィーン・フィル----1954年8月30日、Salzburg Festspiel、LIVE
ORFEO。同日の第8とカップリングの単品C293 921B(譲渡済み)。
のち、2004年にザルツブルク録音集8枚組C409 048L(写真)も入手。こちらにはさらに同日のもう1曲「大フーガ」も収録されている。
この演奏を聴く限り、3ヶ月後に亡くなってしまうなんて信じられない。
http://classic.music.coocan.jp/sym/beethoven/beethoven7-m.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html#c16
「chousenは植民地ではなかった」は悪質な嘘
chousenは植民地ではなかった説について
言葉の意味をすり替えて言論を破壊しごまかすのは、「いつものやり口」です。@ 当時の日本政府当局も植民地として扱った
A 定義上も植民地である
B 学問の世界において通説である
2015年、愛知県のさる大学で行われた司書講習において、講師が「日本によるchousenの植民地支配」にふれたところ、休憩時間中に聴講者の誰かが横車なクレームを入れたらしく、次の時間でその講師が「正しくは併合でした、植民地だったと間違った事を言って申し訳ありません」と言わされる事故がありました。 間違ってなどいません。植民地期のchousenは、日本の植民地でした。 が、よりによって大学という場所で、このような馬鹿馬鹿しいほど誤ったクレームがまかり通る事態は深刻です。
「あれは植民地支配だった」と自信をもって貫き、お馬鹿なネトウヨクレームは軽く一蹴できるよう、ざっくり材料を揃えてみることにします。1、当時の日本政府当局も植民地として扱った 実は「chousenは植民地ではない」論は1930年代後半から戦後にかけて散発していました。終戦前のものは同化政策のプロパガンダとして、戦後は言い訳として。
しかし、下記に見る通り、当の日本政府自身が植民地扱いしていたのです。事例は山ほどあります。
[1]. 条約上、植民地として扱った 植民地等を別扱いにする条約を結ぶ際、chousenや台湾を植民地として別扱いにしています。
一例として、1935年批准の「海上に於ける人命の安全の為の国際条約」を見てみましょう。 左は第62条です。
「…本条約をその殖民地、海外領土、保護領又は宗主権もしくは委任統治の下にある地域の全部またはいずれかに適用することの希望を宣言することを得」
「右宣言なき限り、本条約は右いずれの地域にも適用せられざるべし」
とあります。
chousenが淡路島や八丈島のように日本の「固有の領土」なら、この宣言とは無縁です。 しかし、日本政府はこの第62条に基いてchousenなどにこの条約を適用すると宣言している事が、枢密院の1935年3月13日議事録でわかります。 これでもchousenが植民地でなかったというのなら、海外領土、保護領、宗主権もしくは委任統治の下にある地域、のどれかでなくてはなりませんが、当の外務省は植民地と認識していました。
この宣言書は、外務省の 『条約ノ調印、批准、実施其他ノ先例雑件』 に 『帝国植民地ニ適用法ノ通告案』として載っています。
また、この先例集には『帝国植民地名ノ欧文』という項目もあり、「chousen」が記載されています。
[2]. 政府会計上も植民地 当時の日本帝国政府は、chousen総督府の予算を「植民地会計」に含めています。
左は大蔵省 『昭和財政史資料第3号第5冊』 に収録の 『各植民地大正14年度歳出整理案(特別会計)』(1924年:画像不鮮明のため、強めの鮮明化処理をしています)。
右は日本銀行調査局 『第七十回帝國議會に提案さるヽ昭和十二年度豫算綱要』 (1937年)。[3]. 殖民地要覧 (内閣拓殖局、1920年) 「植」の字が「殖」になっていますが、古い綴りというだけで意味は変わりません(混在しつつ、時代を下るにつれ「植」に移行しています)。
下に見る通り、植民地領有の沿革は韓国の併合だと明記しています。「併合したから植民地」なのです。
[4]. 大蔵省編纂の法令集 (1919年) 左の画像は『官有財産関係法令』という法令集のものです。
「殖民地に於ける法令」として、chousenの法令を収録しています。
[5]. 農林省の統計書 (1930年〜) 農林水産省の前身である農林省は、家畜衛生統計という統計書を出していました。
1930年発行の第6次版から、この本に「植民地に於ける家畜伝染病関係統計表」が記載されており、chousenの統計が含まれていました。
下の画像は1943年に発行した第17次版のものです。
[6]. 軍も植民地扱い あまり大きな画像を貼り付けると画面が大きくなり過ぎるのでリンクだけにしますが、関東軍が1925年に出した『植民地の中等学校以上へ現役将校配属の時期に関する件』という文書が残っています。この3ページ目にchousenが対象として記されています。 ここまでのご紹介で物足りない方は、国立公文書館アジア歴史資料センターや国会図書館デジタルコレクションで、キーワード「chousen」「植民地」で検索されると、他にもたくさん見つけられます。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/440.html
皇族自体が売国奴だというのがわかってないね
日本を二等国にした反日売国奴の平成天皇
謝罪に取り憑かれた平成天皇 平成30年の悪夢
国家元首が自国の悪口を言いふらすとどうなるか、天皇は理解していなかった天皇は謝罪が良い事だと思っていた2019年5月に平成から令和に元号が変わり、そのとたんに日本は韓国に対して冷たくなりました。それまでは韓国が何を言ってきても、ただひたすら謝罪してお金を払っていたのに、人が変わったようになった。6月には韓国への制裁を予告し、7月に入ると半導体素材3品目優遇措置撤廃、ホワイト国除外を打ち出した。
日本政府は第3弾や第4弾も検討中で、韓国が日本側が求める国際法の遵守に応じなければ発動する構えです。確かに韓国は国連安保理の北朝鮮制裁決議に違反して北に密輸しているし、日本から輸入した軍需物資を勝手に転売している。だがその手の事は過去70年間ずっとやってきた事で、今年始めたわけではありません。
また韓国は日米の反対を無視してロシアから弾道ミサイル技術を購入し、九州や西日本まで届くミサイル数百発を保有している。さらに韓国は過去に何度か核開発を試みたことがあり、核兵器開発を目指していたのは公然たる事実です。また韓国軍は日本を標的として自衛隊に対抗する軍艦や戦闘機を配備し、北朝鮮ではなく日本を仮想敵国としている。
これも70年前からそうだったのであり、竹島を侵略した時から変わっていないだけです。韓国がやっている事は70年間変わっていないのに、日本側の姿勢だけが今年に入って激変した理由が何かある筈です。日本が変わった原因は天皇の代替わりで、今まで天皇の存在によってできなかった事を、令和になったから日本政府はできるようになった。平成悪夢の30年が始まった。今から30年前の平成元年、昭和天皇が崩御して平成になったが、この瞬間から日本は「謝罪外交」を始めました。中国にも韓国にも北朝鮮にもロシアにも欧米にも、とにかく誰にでも謝罪して過去の戦争を詫び、お金を払ってきました。象徴的な事件が1992年(平成4年)の天皇訪中で、当時中国は天安門事件で世界から経済制裁されていたので、全世界が驚きました。
天皇は頼まれてもいないのに自分の意志で中国を訪問し、過去の戦争に謝罪して帰ってきました。これで中国への経済制裁は有名無実になり、90年代の高度成長が始まり、日本から中国へお金と技術が流出していきました。韓国へも同様にお金と技術と人が流れていき、天皇は「これで過去の謝罪ができた」と喜んでいました。
だが天皇の謝罪によって日本からお金、技術、人材、様々な権利が流出し、日本経済崩壊の原因を作った。日中や日韓が経済問題で対立しているのに、天皇がしゃしゃり出てきて談話などで「すべて日本が悪いです」「日本は最悪です」と言ってしまう。乖離が表面化したのは安倍内閣で、終戦の日に首相は「日本の戦争被害」を訴えているのに、天皇は「日本が侵略した国々の被害」しか言わない。
とうとう天皇はヘソを曲げて退位してしまったのだが、もう30年早く退位してくれたら日本の没落はなかったでしょう。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/441.html
ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
Beethoven - Symphony n°6 - Vienna / Walter
________
Wiener Philharmoniker
Bruno Walter
Studio recording, Vienna, 17 & 18.XII.1936
▲△▽▼
Beethoven: Symphony No. 6, Walter & PhiladelphiaO (1946)
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Philadelphia Orchestra
Rec. 10 & 12 January 1946
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Beethoven: Symphony No. 6, Walter & ColumbiaSO (1958)
Bruno Walter (1876-1962), Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 13, 15, 17 January 1958
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交響曲第6番 ヘ長調 作品68は、ドイツ古典派の作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年 - 1827年)が1808年に完成させた6番目の交響曲。
作曲者によって『田園(ドイツ語: Pastorale)』の標題が付されている。
古典派交響曲としては異例の5楽章で構成されており、第3楽章から第5楽章は連続して演奏され、全曲及び各楽章に描写的な標題が付けられるなど、ベートーヴェンが完成させた9つの交響曲の中では合唱を導入した交響曲第9番と並んで独特の外形的特徴を持つ[2]。 また、徹底した動機展開による統一的な楽曲構成法という点で、前作交響曲第5番(作品67)とともにベートーヴェン作品のひとつの究極をなす[3]。
標題について
第6交響曲は、ベートーヴェンの交響曲の中で標題が記された唯一の作品である。ベートーヴェンが自作に標題を付した例は、他に「告別」ピアノソナタ(作品81a)などがあるが、きわめて珍しい。とくにこの第6交響曲は、ベルリオーズやリストの標題音楽の先駆をなすものと見られている[4]。
標題は、初演時に使用されたヴァイオリンのパート譜にベートーヴェン自身の手によって「シンフォニア・パストレッラあるいは田舎での生活の思い出。絵画描写というよりも感情の表出」と記されている[2][5][4]。
また、各楽章についても次のような標題が付されている[6]。
「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」
「小川のほとりの情景」
「田舎の人々の楽しい集い」
「雷雨、嵐」
「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」
これらの標題は楽譜以外にも認められ、1808年12月17日付『ウィーン新聞』に掲載された初演演奏会の予告には「田舎の生活の思い出」という副題が見られる。ベートーヴェンが使用していたスケッチ帳にも同様の記述があり、「性格交響曲(Sinfonia caracteristica) あるいは田舎の生活の思い出」とされ、「シンフォニア・パストレッラ」は音による絵画的描写ではなく感情の表現であることが強調されている[5]。
ベートーヴェンが「絵画的描写ではなく感情の表出」と強調したことについては、以下の理由が挙げられている。
ひとつには、ベートーヴェン自身の理想主義的な作曲理念からのものであり、模倣のための模倣である描写語法を安易なものとして退け、音楽的脈絡や全体的構成の中で不可欠かつ必然性を持たせること、言い換えれば、描写語法のより高い次元での用法をめざしたのである[5]。
スケッチ帳に書かれた「性格交響曲」についても同様であり、この言葉は創作者の世界観を表す純音楽という意味で用いられている。ベートーヴェンは、「誰でも田園生活の考えさえあれば、多くの説明がなくとも、作者の意とするところを自ら考えることができる」といって標題を詳しくすることを避けた[7]。
もうひとつは、ベートーヴェンの作曲当時までによく書かれていた自然描写音楽へのアンチテーゼである[5]。 その典型的なものとして、ベートーヴェンより少し早い世代の作曲家ユスティン・ハインリヒ・クネヒト(1752年 - 1817年)に15の楽器のための『自然の音楽的描写』(1784年)という標題音楽があり、この作品の5つの楽章は本作とほとんど同じ標題を持つ[7]。 また、クネヒトには『雷雨によって妨げられた牧人の喜びのとき』(1794年)というオルガン作品もあった。
ベートーヴェンがこれらの作品を知っていたかどうかについては現在まで確認されていないものの、田園交響曲との標題内容との一致から、ベートーヴェンがこれらの先行作品を意識していたことはほぼ確実と考えられている[5]。
ベートーヴェンは田園を好み、ウィーンでは近郊を歩き回り、夏には田舎に生活して大自然に親しんだ。彼のスケッチ帳には
「森の中で―自分は幸福だ―樹々は語る―汝を通して―おお神よ―なんと素晴らしい……」、
「どの樹もみな自分に語るではないか。聖なるかな。聖なるかな。森の中は恍惚たり」
などと書き付けてある。日本の音楽評論家門馬直衛は、こうした心情を音楽で語ったのがこの第6交響曲であるとする[1]。
作曲時期
1807年暮れからスケッチが開始され、第5交響曲がほぼ完成した後の1808年初春から1808年初秋にかけて作曲された[8]。
従来、交響曲第5番と第6番は同時期の作曲と見られていたが、ベートーヴェンのスケッチ研究の成果によって、両者の作曲時期はそれほど重なっていないことが明らかにされている。
第6番のスケッチは、主として1808年初頭から同年9月ごろまでにベートーヴェンが使用していた「パストラール・シンフォニー・スケッチ帳」で確認できることから、実質的な作曲時期は1808年春からの約半年間である。
一方、同スケッチ帳には第5番のスケッチはまったく現れておらず、第5番は前年の1807年中に筆が進められ、1808年の初頭には仕上げに入ったものと考えられる[8]。
過去の研究では、19世紀の音楽学者グスタフ・ノッテボーム(1817年 - 1882年)によって、第6交響曲のスケッチは1806年に始まり、翌1807年夏ごろから本格的に取りかかり、1808年に仕上げに入って同年6月ごろ完成とされていた[9]。 こうした事情から、これまで『田園』交響曲に対する見方は『運命』交響曲との比較論が中心で、両曲の性格の相違が強調される傾向にあった。例えば、『運命』での極度の精神的緊張、創造力の爆発的な噴出に対して、ベートーヴェン自身が精神的バランスを維持するための創造形式が『田園』である、といった見方である。しかし、このような情緒的解釈は、交響曲様式の革新性において第5番に劣らない本作の意義を見落としかねない[10]。
なお、1803年6月ごろから1804年4月ごろまで使用していた「ランツベルク6」と呼ばれるスケッチ帳に第6番の主題のわずかな萌芽を見ることができる。1807年7月から8月にかけて使用された「ハ短調ミサ・スケッチ帳」にも第6番第1楽章の主題に発展する原形が見られるが、これらはすべて断片的であり、本格的な創作は「パストラール・シンフォニー・スケッチ帳」使用期と見られる[8]。
初演・出版
1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場において、ベートーヴェン自身の指揮によって初演[1]。 第5交響曲やピアノ協奏曲第4番、合唱幻想曲などとともに演奏された。このとき、本作は「第5番」とされ、現在でいう第5番が「第6番」となっていたが、1809年に出版されたパート譜では現在の番号となっている[11]。
ロプコヴィッツ侯爵、ラズモフスキー(en:Andrey Razumovsky)伯爵に献呈された[12][注 1]。 1809年5月に管弦楽パート譜、1826年5月に総譜が、ともにライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社より出版された[12][1]。
楽器編成
ピッコロ 1(第4楽章のみ)、フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2
ホルン 2、トランペット 2(第3楽章〜第5楽章)、トロンボーン 2(アルト、テノール)(第4楽章と第5楽章)
ティンパニ(第4楽章のみ)
弦5部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)[8]
前作第5番と比較すると、コントラファゴットが使用されず、トロンボーンは3管から2管に減少しているものの、通常の2管編成に加えてピッコロやトロンボーンが使用されており、これらの楽器の定着化と楽器編成の拡大が推し進められている[13]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第6番_(ベートーヴェン)