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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100358
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[リバイバル3] youtube で聴く世界の名曲 中川隆
8. 中川隆[-14699] koaQ7Jey 2019年11月10日 20:56:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1801]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

iPhoneとAndroidスマホの世界で皆様にお役に立れるソフトを作るような気持ちを引き締めて精一杯頑張ります。

YouTubeから動画、音楽をMP3、MP4に変換して、iTunesにダウンロード、iPhoneに同期して何時でも楽しめます。では、次の記事はYouTube からiTunesに音楽をダウンロード・保存する方法をご紹介します。

最終更新日:2019年10月16日

ネットワーク接続するだけでYouTubeから大好きな音楽を聴き、または動画を楽しむことができます。ネットワーク接続する必要があるので、iPhone/iPad/iPodなどでWi-Fi接続せずにYouTube音楽を聴くことができないでしょう。事前でYouTubeの音楽をiTunesにダウンロード・保存して、iPhone/iPad/iPodに入れたい人は多いと思います。

しかし、YouTube からiTunesに音楽をダウンロードすることができますか?また、お気に入りのミュージックをYouTube からiTunesに保存するには、どうしますか?そこで、今回はYouTubeからiTunesに音楽を保存する方法をご紹介します。

YouTubeからiTunesに音楽をダウンロードする方法

Step 1、Googleブラウザを開き、検索欄で「 onlinevideoconverter」を入力して、OnlineVideoConverter.comにアクセスします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 1
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 1

Step 2、YouTubeで好きな歌のビデオを探して、URLをコピー&貼り付けます。ここで「小さな恋のうた」を例にします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 2
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 2

Step 3、音声ファイル形式を設定することもできます。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 3
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 3

Step 4、音声の質を設定して、「スタート」をクリックします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 4
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 4

Step 5、しばらく待って、動画の処理が終わったら、「ダウンロード」をクリックします。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 5
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 5

Step 6、ダウンロードが完了すると、「小さな恋のうた」をiTunesへ直接移行することができます。

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 6
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする 6

これで、YouTubeからの音楽をiTunesに移行されました。また、iTunesからお使いのiOSデバイスへ転送するには、こちらの記事をご参考ください:iTunesからiPhoneに曲を入れる2つの方法


この方法は違法ダウンロードを助長しているものではありません。自己責任で著作権法に違反しない音楽や動画の保存にご利用してください。違法ダウンロードに対する罰則は2年以下の懲役または200万円以下の罰金、またはこれの併科です。

YouTubeの曲をiPhone/iPad/iPod touchにダウンロードできるツール

もし、YouTubeからダウンロードした曲をお使いのiPhone/iPad/iPod touchへコピーしたいなら、iOSデバイス向けのデータ転送ソフト – AnyTrans for iOSをおススメします。iPhone/iPad/iPodとパソコン/iTunesの間でデータを自由自在に転送することができます。iTunesの代借ソフトと言えます。また、このソフトは以下の特性があります:
•iPhone/iPad/iPodに既存の音楽や他のデータが上書きされない
•iPhoneとiTunes・PCの間で曲を双方向転送可能
•転送前、プレビュー&選択できるので、必要な音楽だけを移行可能
•音質とサイズも変わらない
•操作簡単で、初心者も手軽に利用できる

さて、今すぐAnyTrans for iOSをダウンロードして無料体験しましょうか?

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ウイルス検査済み


動画・音楽を選択してダウンロード
動画・音楽を選択してダウンロード

最後に

以上はYouTubeの音楽をiTunesに保存する方法です。動画変換ツールは OnlineVideoConverterだけでなく、ほかの実用なツールもあります。もしタウンロートした曲をデバイスに転送したいなら、AnyTrans for iOSをお勧めします。今すぐAnyTrans for iOSをダウンロードして体験しませんか?また、YouTube動画を無料でiPhone/PCにダウンロードすることもできますよ。
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/742.html#c8

[リバイバル3] youtube で聴く世界の名曲 中川隆
9. 中川隆[-14707] koaQ7Jey 2019年11月10日 21:00:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1809]

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/742.html#c9
[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
40. 中川隆[-14742] koaQ7Jey 2019年11月10日 21:38:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1844]

ありえない! 日本人がフランスのスーパーで驚いたこと5選 〜袋詰め用の台はどこ?〜 2019/11/10
http://www.msn.com/ja-jp/travel/news/%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%88%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%81%a7%e9%a9%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a85%e9%81%b8-%e3%80%9c%e8%a2%8b%e8%a9%b0%e3%82%81%e7%94%a8%e3%81%ae%e5%8f%b0%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%93%ef%bc%9f%e3%80%9c/ar-BBWxg1B?ocid=ientp#page=2

ローカルなお土産探しが楽しい、海外のスーパーマーケット。しかしながら、生活のための買い物となると、それはもう・・・一苦労! できれば行く回数を減らしたいと思ってしまうほど。フランス在住者が現地のスーパーで感じることや、驚いたことをお伝えします。

レジ袋に商品を詰める作業台がない


スーパーのレジの様子。商品をカゴから出し、会計前に自分で並べる© On Air Co., Ltd. 提供 スーパーのレジの様子。商品をカゴから出し、会計前に自分で並べる

コンビニサイズの小規模な店舗は別として、普通のスーパーや郊外の大型スーパーでは、なんとレジ袋に商品を詰める作業台がありません。

ベルトコンベアからザザザッと流れてくる商品(※会計前に自分で並べた商品)を、レジの脇で細々と、そしてマッハの勢いで袋に詰めるしかないのです。たくさん買い物をしたときなど、会計時のスピードが追いつかず、次のお客さんの商品が流れてくることも(トホホ・・・)。

待ち時間が長い


© On Air Co., Ltd. 提供

(C)Premier Photo /Shutterstock.com

大型スーパーの肉や魚、チーズ売り場などで、買い物をする際に気をつけなければならないのが、チケットを入手すること。チケットの番号順に呼び出され、その場で欲しいものをお願いするシステムになっています。肉屋や魚屋が、スーパー内にあるというイメージでしょうか。

チケット制の魚売り場 © On Air Co., Ltd. 提供 チケット制の魚売り場  (C)sweetsholic 

金曜の夕方や土曜には長蛇の列ができていることも多いので、待ち時間に20分以上かかることも! それでも、健気に待っているお客さんが多いのは、フランス人の食に対するこだわりの強さ・・・と言える気がします。

ちなみに肉でも魚でも、パックに入っているものであれば、日本のスーパーと同じく並ぶ必要はありません。

野菜や果物は量り売り


野菜や果物の重さをはかるデジタルスケール© On Air Co., Ltd. 提供野菜や果物の重さをはかるデジタルスケール

(C)sweetsholic 

多くのスーパーでは、野菜や果物が量り売りになっています。欲しい分をデジタルスケールに乗せて、タッチパネル式のスクリーンで、例えばトマトやマッシュルームなどを選んでタッチ。「トマト500g」などと書かれたバーコードが印刷されるので、アイテムを袋に入れて、バーコードを貼り付けます。

当地で暮らし始めた当初はこの仕組みが分からず、あたふたしていました。

間違いだらけ!


© On Air Co., Ltd. 提供

(C) Pack-Shot / Shutterstock.com

会計ミス、チラシで特売と謳っているにも関わらず特売価格になっていない、レジの打ち間違い、などは日常茶飯事。

レジの打ち間違いというのは、"クロワッサンを3つ買ったのに4つ買ったことになっている"、あるいは"2つ"になっているなど。1つしか買っていないはずの商品が、2回スキャンされていたことも! フランスで暮らし始め4年経った今では、驚きやイライラを通り越え、単純ミスの多さにいつも呆れています・・・。会計後のレシートは要確認。

レジ袋の無料配布なし


当地では3年ほど前から、使い捨てタイプの無料レジ袋は廃止になっているため、レジ袋の無料配布はありません。つまり、レジ袋は有料。買い物に行く際のエコバッグは、必須アイテムです。


日本とは勝手の違うフランスのスーパー。野菜はひとつひとつ重さを量り、肉や魚を買うために並び、レジでの袋詰めに悪戦苦闘、おまけにレシートの確認までしなければならないなんて・・・! 当地での買い物は、体力勝負です。
http://www.msn.com/ja-jp/travel/news/%e3%81%82%e3%82%8a%e3%81%88%e3%81%aa%e3%81%84%ef%bc%81-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%81%a7%e9%a9%9a%e3%81%84%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a85%e9%81%b8-%e3%80%9c%e8%a2%8b%e8%a9%b0%e3%82%81%e7%94%a8%e3%81%ae%e5%8f%b0%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%93%ef%bc%9f%e3%80%9c/ar-BBWxg1B?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c40

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
82. 中川隆[-14795] koaQ7Jey 2019年11月10日 22:19:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1897]

328名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:09:58.84ID:lK3Y379i

Evgeny Kissin & Yuri Bashmet - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PlMQsGVpTqM

Evgeny Kissin & Yuri Bashmet at concert, 2011

Brahms
Sonata for viola and piano in E flat major, Op. 120 No. 2

329名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:17:33.05ID:lK3Y379i

ブラームス: 弦楽五重奏曲 第2番 ト長調 作品111 アルバン・ベルク四重奏団 1998 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qc7f1_2_oU4

アルバン・ベルク四重奏団 Alban Berg Quartett 1998年4月5日
ハリオルフ・シュリヒティヒ(ヴィオラ)Hariolf Schlichtig, viola
Brahms : String Quintet, Op.111

______

Johannes Brahms String Quintet in G major Op.111, Amadeus Q. - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1VhA_hrVQBI

Amadeus Quartet
Cecil Aronowitz, Viola II
Rec.: 1967

_____

Budapest String Quartet - Brahms Quintet in G Op.111 (再復刻) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ua5Sjir0cuc

J. Roismann - A. Schneider - I. Ipolyi - M. Schneider
2nd Viola ; Hans Mahike
transferred from JPN Victor 78s / JH-1-3(2D-1271/3, 1280/2)

_____

Brahms Quintet No. 2 In G Major Budapest String Quartet (1958) LP - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KfwEjPcmutA

Cello – Mischa Schneider
Viola – Walter Trampler
Viola – Boris Kroyt
Violin – Alexander Schneider, Joseph Roisman

330名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:17:37.60ID:lK3Y379i

ブラームス: 弦楽五重奏曲 第2番 ト長調 作品111 アルバン・ベルク四重奏団 1998 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qc7f1_2_oU4

アルバン・ベルク四重奏団 Alban Berg Quartett 1998年4月5日
ハリオルフ・シュリヒティヒ(ヴィオラ)Hariolf Schlichtig, viola
Brahms : String Quintet, Op.111

______

Budapest String Quartet - Brahms Quintet in G Op.111 (再復刻) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ua5Sjir0cuc

J. Roismann - A. Schneider - I. Ipolyi - M. Schneider
2nd Viola ; Hans Mahike
transferred from JPN Victor 78s / JH-1-3(2D-1271/3, 1280/2)

_____

Brahms Quintet No. 2 In G Major Budapest String Quartet (1958) LP - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KfwEjPcmutA

Cello – Mischa Schneider
Viola – Walter Trampler
Viola – Boris Kroyt
Violin – Alexander Schneider, Joseph Roisman
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c82

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
83. 中川隆[-14821] koaQ7Jey 2019年11月10日 22:46:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1923]

332名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:31:41.92ID:lK3Y379i

Brahms - Piano Quintet op.34 - Busch - Serkin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uEe7punlI6s

Busch String Quartet (Adolf Busch - Gösta Andreasson - Karl Doktor - Hermann Busch)
Rudolf Serkin
Studio recording, 13.X.1938
________

Sonata for 2 Pianos in F Minor, Op. 34b (Live) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CIguO5HNZNQ
https://www.youtube.com/watch?v=SBsc0vyfyZE
https://www.youtube.com/watch?v=Fqk5ruccAWA
https://www.youtube.com/watch?v=u9mX3gEddD8

Piano: Lilya Zilberstein
Piano: Martha Argerich
___

Sonata for 2 Pianos in F Minor, Op. 34b - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AopxJOjr6CE
https://www.youtube.com/watch?v=WNEUrAD6voc
https://www.youtube.com/watch?v=hOMQYVRVf30
https://www.youtube.com/watch?v=MZha3TwEN1c

Piano: Martha Argerich
Piano: Alexandre Rabinovich

333名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:40:43.05ID:lK3Y379i

Glenn Gould - [Brahms] Rhapsody, Op. 79, No. 1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UpZgY7zPROY
https://www.youtube.com/watch?v=SNQ0ywuRRD0
_____

Johannes Brahms - Rhapsody in G minor Op.79 No.2 - GLENN GOULD - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AZZwmhjY6VE
https://www.youtube.com/watch?v=MIid1PJlYbg
_____

Brahms - Rhapsodie No.1, Op.79 (Martha Argerich) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NcgOp-2T05A

Recording : 1960 in Hannover, Beethoven-Saal

___

Brahms - Rhapsodie no.2, Op.79 (Martha Argerich) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=LId7GyalXD4

Recording : 1960 in Hannover, Beethoven-Saal

334名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 22:44:38.57ID:lK3Y379i

Complete tapes of Glenn Gould in the studio recording Brahms Rhapsodies Op.79 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FypVVO5uVkQ

"Recorded in 1982 in New York City, the following tapes constitute the entire Brahms Rhapsodies sessions. These were to be Gould's last piano recordings."

______

Glenn Gould - Brahms Ballades - New York, 1982 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=X9Ui65P2-DA

______

Glenn Gould plays Brahms (best pieces from 10 Intermezzi for Piano) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=j-rF98HSKNc
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c83

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
84. 中川隆[-14883] koaQ7Jey 2019年11月10日 23:32:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1985]

337名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 23:31:45.51ID:lK3Y379i

Piano Trio No. 2 in C Major, Op. 87 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=foFR0R5Tku4&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg
https://www.youtube.com/watch?v=-erjcIdTGCo&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=VMv1XEER_Qw&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=3
https://www.youtube.com/watch?v=MtuKCvoSTn0&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=4

Artist: Dame Myra Hess
Artist: Joseph Szigeti
Artist: Pablo Casals
Composer: Johannes Brahms
______

Piano Quartet No. 3 in C Minor, Op. 60 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZC3jEDsd9Nc&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=5
https://www.youtube.com/watch?v=3dWhW07TspI&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=6
https://www.youtube.com/watch?v=IpLRI7HSsYc&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=7
https://www.youtube.com/watch?v=NCTW35TXB38&list=OLAK5uy_k9PFNcVh0MpqJ73jya8j1mCYJ0v2VG6mg&index=8

Artist: Dame Myra Hess
Artist: Joseph Szigeti
Artist: Milton Katims
Artist: Paul Tortelier
______

Brahms Horn Trio, Sonata No. 2 - Joseph Szigeti, M.Horszowski, John Barrows (UK 1961 LP) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=r_-T2_cQYto

Composed By – Brahms
Horn – John Barrows
Piano – Mieczyslaw Horszowski
Violin – Joseph Szigeti
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c84

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
85. 中川隆[-14900] koaQ7Jey 2019年11月10日 23:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2002]
338名無しの笛の踊り2019/11/10(日) 23:47:34.81ID:lK3Y379i

Szigeti Brahms Violin Sonata No.1(r.1951) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KdNbh0qNBDU
_____

Joseph Szigeti plays Brahms Violin Sonata No.3, Op.108 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_a7xAdgctlE

Egon Petri, piano
Recorded in 1937
______

Szigeti plays Brahms Sonata no. 3 in D Minor, op. 108 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZCEnXsvZPxQ

Joseph Szigeti, violinist
Mieczyslaw Horszowski, pianist
______

Joseph Szigeti - Brahms Violin Sonata Nr.3 Op.108 - Adagio (1946) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OjOb9je6M3Y

Piano acc. by Leonid Hambro
transfer from Jpn Columbia 78s / SW-12(XCO-35392)
recorded in 1946
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c85

[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
86. 中川隆[-14908] koaQ7Jey 2019年11月10日 23:58:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2010]

YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c86

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
335. 中川隆[-14907] koaQ7Jey 2019年11月11日 00:20:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2009]
15号台風で浮上した森田健作・千葉県知事<本澤二郎の「日本の風景」(3490)<仕事しない、出来ない、無教養の悪徳俳優崩れ>
https://ameblo.jp/honji-789/entry-12543689917.html

2019-11-09 14:14:47 honji-789のブログ

<仕事しない、出来ない、無教養の悪徳俳優崩れ>

 ともかく腰を抜かしてしまった。仕事をしないのだ。したくてもできないのか。経歴を調べると、教養のない俳優崩れである。たとえ民主主義社会とはいえ、彼が手を出してはならない世界だ。千葉県民のためにはなれない人間であることがわかる。差別ではない。人それぞれ役割がある。知事としての識見がなければ、やってはならない。県民がかわいそうだ。かくいう筆者も、現在はそんな一人である。即刻辞任して、公給を返上しなければ、罷免のための行動を起こすほかない、と多くの県民が思い始めている。

<141日もさぼって何をしているのか?利権アサリ?>

 しばらく東京で暮らしていたこともあって、千葉県政について無関心を決め込んでいた。「どうしてタレント崩れなどを知事にしたのか」と10年前には頭をひねったことはあろうが、それ以上の関心を持たなかった。

 週刊文春には頭が下がる。知事として年間141日も休んで県庁に出てこなかったという。つまり学生だと「さぼった」ことになる。落第だ。進級できない。ところが、森田知事は違った。それでも3回も当選している。

 自業自得の千葉県民ではあるが、それにしてもひどい。森田は悪党である。「都知事時代の石原慎太郎レベルかそれ以上」と誰もが悔しがる。

 9・9の15号台風の時も。そこで、ようやく週刊誌が取材を開始した。というよりも、たった一人の善良な県庁職員の内部告発と思われる。

 「県庁に出てきても、せいぜい昼前に引き上げる。数時間しか知事室にいない」というのだ。こんなずぼらな知事を、県庁職員や千葉日報・千葉テレビと朝日・読売・毎日の新聞が「お目こぼし」をしていたのか。ジャーナリストには、このことが不思議でならない。

 年中政府専用機を乗り回して、海外にばら撒き行脚をしている安倍のほうが、まだ勤務成績は良い。森田の利権アサリかもしれない。その事情の一つを確かめることができた。

<芝山の超高級大豪邸写真にため息が出た!>

 一度一部改装したたものの、50年ほど前に借金200万円、自己資金100万円で建てた家に住んでいる者の、嫉妬で目が狂っているわけではない。

 昨日、初めてネットに登場した悪党知事の自宅と称する超大豪邸にため息が出てしまった。芝山町に建てられたものだ。写真週刊誌の記者も気付かなかったものか、これも不思議だ。

 頑丈な門の背後には、まるでロスかフロリダあたりで見られるような、うっそうたる大木が豪邸を隠している。ヘリに乗って上空からでないと、全貌を撮影することは困難であろう。

 「マフィアかやくざの親分が住むような頑丈な豪邸」と表現する友人は、テレビ報道で見たという。「ソフトバンクの孫正義宅と比べても、遜色のない森田邸」とも。ともかく圧倒されてしまった。

 いうところの芝山御殿の建設収支も公開させると、もっとすごい話題が飛び出すかもしれない。利権アサリは本当か?

<あっぱれ安倍顔負けの秘密主義は「巡査の息子」?>

 安倍内閣を操っている極右組織の「日本会議」の全貌を、大半の国民も議会人・言論人も知らない。国粋主義の本丸ゆえに、徹底して秘密主義を貫いている。

 いつだれが秘密の扉を開けるか、に関心が移っているが、森田の秘密主義も相当なものである。彼の豪邸を知っている県民は少ない。県庁内も。県幹部はどうだろうか。時には豪邸会議もしているはずだから、当然、漏れてくるはずだが、漏れなかった。

 15号台風が来なければ、森田の秘密はずっと継続したかもしれない。ほとんど仕事をしない知事のことも、豪邸のことも、彼が「巡査の息子」で、ろくろく勉強をしなかったことなど。そして都知事に次ぐ高給取りであることも。

 行政は県庁幹部任せ、それを10年もしてきたこと、ということは「利権アサリ専門」ということか。疑惑だらけである。

<県議会が不健全でまともではない理由は県民の民度ゆえ>

 新聞を読んでいない家には「ちば県議会だより」という議会広報紙は届かない。知り合いの知恵を借りて、直接自宅に郵送する方法をとった。二日前に「ちば県民だより」と共に、議会広報紙も届いた。

 そこに千葉県議会の会派別議員数が出ていた。また驚いてしまった。定員94人のうち、自民党は53人だ。立憲民主党10人、初めて知る千葉民主の会9人、公明党8人、共産党がたったの2人である。

 巨大与党が森田を支援しているのである。自公合わせると、房総ならぬ暴走行政=悪政が表面化することになる。

 9・9大災害を受けての9月定例県議会は、紙面を見る限り「おざなり」もいいところだ。15号台風に対する深刻・真剣な議論を感じない。2面に質問と答弁の記事を載せてはいるが、答弁者が不明。森田ではないのだろう。

 こんな千葉県議会の様子を見ていると、永田町のいい加減な野党追及も仕方ないのかもしれない。余談だが、県民だよりに広告が載っていた。これも驚きである。財政難なのか?まるで子供議会を見ているような錯覚にとらわれてしまった。

 1万トン以上の放射能汚染物資を水源地に投棄したことを、誰も質問・追及していないようなのだ。情けない、本当に悲しい千葉県であろうか。

2019年11月9日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)


http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c335

[リバイバル3] ドイツ OCTAVE社の真空管アンプ 中川隆
1. 中川隆[-15014] koaQ7Jey 2019年11月11日 08:39:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2116]
大阪ハイエンドオーディオショウ 2019 フューレンコーディネート OCTAVE Jubilee 300B B - YouTube





大阪ハイエンドオーディオショウ 2019 フューレンコーディネート OCTAVE Jubilee 300B C - YouTube





OCTAVE Jubilee 300B 850万という価格にも驚いたが、細身の音が少し気になった。
価格に見合わない音だと思うし、実物はやや小さく、今回の印象では正直なところパッとしない。
300Bらしく透明感があって、OCTAVEの色付けは真空管アンプの中ではもっとも少ない。
JJの300Bを使っていたが動作中も300B真空管の点灯がほとんど見えない。
KT88/6550を使ってきたアンドレアス・ホフマンというエンジニアが、
日本の300B人気の需要に応えるべく作りましたという感じがする。こうした高価格な

真空管アンプはKT88/6550を使って低域の迫力とダイナミズムがある製品がやはり映えると思う。





OCTAVEは間違いなく一流のブランドだが、料理人の腕前に依存するところがあるのだろう。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/946.html#c1
[近代史3] ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか? 中川隆
87. 中川隆[-15022] koaQ7Jey 2019年11月11日 08:49:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2124]

348名無しの笛の踊り2019/11/11(月) 08:10:39.16ID:6YxBe1vB

ここでモーツァルト、モーツァルトと騒いでるクルクルパーに教えてやるけど

音楽家がモーツァルトを高く評価するのは、モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いた事が無いからなのです。

毎日朝から晩まで楽器の練習してたら、ブルックナーとかベルクを聴く時間も体力も無くなるからね

ピアノやフルートの初心者でも弾けるのはモーツァルト位だから
それでモーツァルトはファンが多いんだな

そもそも音大の学生は音楽なんか全然知らないよ
朝から晩まで楽譜と睨めっこしないといけないから、高級な音楽を聴く時間なんかないんだ

だから音大の学生はモーツァルトみたいな初心者向け音楽しか知らないんだ
ウェーベルンとかショスタコーヴィッチなんか学校で教材にしないから誰も聴いていない

349名無しの笛の踊り2019/11/11(月) 08:11:37.60ID:6YxBe1vB

音大生が音楽を知らない理由

「彼らには決定的に時間が足りない」のじゃないかと思います。

「人様が演奏しているのなんか聴いている暇があったら練習しなくてはいけない」のだと。

「1日でも練習をサボったらそれが聴衆にわかってしまう」と言ったのは、ピアニストの誰だったか・・・。晩年のホロヴィッツだったかもしれません。

卑近かつ低次元な話で申し訳ありませんが私も30代末から十数年間ピアノ教室に通いつつ練習していましたが趣味とはいえ発表会の前、数か月は余暇はすべて練習に費やしました。(それにしては「ヘボ」でしたが)

そんな私でも「一日でも練習をサボったら、二日分後退してしまう。」と脅迫観念に囚われたものです。

ましてや、プロともなれば1曲を仕上げるのに、数か月いや年単位でしかも1日じゅう寝食を忘れて練習が必要でしょう。そのプレッシャーたるや如何ほどのものか・・・。想像するだに恐ろしい。

350名無しの笛の踊り2019/11/11(月) 08:13:26.68ID:6YxBe1vB

たしか内田光子さんだったと思いますが「1日8時間は」とインタビュー記事にあったような記憶が・・・。

でも、この辺のプロ事情は文献などで貴兄の方がよほどお詳しいことと推察いたします。

また「音楽家」がiPODの音に”いい音ね”って簡単に感激するのは実は彼らなりのリップサービスで真意は「プロでないあなたたちこそ音楽をほんとうの意味で楽しんでいるのね!」ってことでしょうか。

私も先生から「生徒さんこそいろんな音楽を知ってて楽しんでるのよね〜」ってマジで言われたことがあります。

そうなんです!彼らは自らが演奏するジャンル以外の音楽に関しては無知であることを強いられているのです。

しかも、最も多感な時期にず〜っと。これも「決定的に時間が足りない」からでしょう。

また「彼らは客席でどう聞こえるかはあまり気にしていない」も、たぶん違うような気がします。

彼らの関心事はただただ「自分の演奏が聴衆にどう聞こえ、かつ訴えかけるのか」では、無いでしょうか。

何しろそれが「プロがプロたる所以」なのですから・・・。

ここでも「一日でも練習をサボったら聴衆にバレてしまう」という苦悩に満ちた告白が思い起こされます。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html#c87

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
24. 中川隆[-15021] koaQ7Jey 2019年11月11日 09:23:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2123]

2019年11月11日
大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)に所収されています。

公式サイト
http://paleoasia.jp/

にて本論文をPDFファイルで読めます(P11-16)。
http://paleoasia.jp/wp-content/uploads/2019/04/B01_Annual-Report218.pdf


この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 アイヌ民族・文化の形成過程は、日本列島だけでなくアジア北東部を対象とする歴史学や人類学にとって主要な研究課題の一つとなっています。この問題に関しては、これまで考古学・歴史学・民族学・自然人類学などさまざまな分野において取り組まれてきました。アイヌ民族の起源に関しては、縄文時代の集団に直接的にさかのぼり、アイヌ民族は北海道「縄文人」の「直系」で「純粋な子孫」である、というような説が、一般層に浸透しているだけではなく、学界でも一定以上の支持を得てきました。しかし、こうしたアイヌ民族・文化の起源に関する言説は、遺伝学や自然人類学などにより今では否定されています。中世併行期の北海道には、遺伝的にも文化的にも異なる系統の集団によって担われていた、擦文文化とオホーツク文化が並存していました。これらの文化の考古資料の性格はひじょうに異なり、それぞれの担い手の集団も遺伝的に異なっていた、とすでに1930 年代には指摘されていました。そのため、これらの異系統集団・文化が、中世併行期以降のアイヌ民族・文化の形成にどのように関連しているのか、注目されてきました。

 本論文はこうした点を踏まえ、おもに考古学と民族誌のデータを用いて、アイヌ民族・文化の形成過程を検証しています。具体的には、擦文文化とオホーツク文化が次の中世併行期のアイヌ民族・文化の形成にどのような関係・貢献を果たしたのか、ということです。本論文はとくに、中国大陸や本州以南など外部社会からの影響によって引き起こされた擦文文化とオホーツク文化の接触・融合により、中世併行期のアイヌ文化が形成されてゆく過程に焦点を当てています。それにより、これまで往々にして縄文文化・時代から直接的かつ単線的に説明されてきたアイヌ民族・文化の形成史を再検討し、新たな展望を提示する、というわけです。本論文は、こうした視点が同時に、狩猟採集社会における二つの異系統集団の接触・融合を理解するための事例研究にもなるだろう、と指摘しています。

 北海道の時代区分は、縄文時代までは本州・四国・九州を中心とする「本土」と大きな違いはありません。大きく変わるのは「本土」の弥生時代以降で、北海道は続縄文時代と区分されます。その後の北海道は、擦文文化とオホーツク文化の並存期を経て、中世アイヌ期→近世アイヌ期→近現代と移行います。ただ本論文は、中世以降の「アイヌ期」という用語について、アイヌ民族・文化が中世になって形成された、と誤解させかねず、これは考古学上の用語の問題にすぎず、中世アイヌ期の前後で人間集団に明確な断絶はなく、むしろ遺伝学や自然人類学ではその間の連続性が確認されている、と指摘しています。

 北海道と「本土」の歴史的展開の違いについて本論文は、さまざまな要因の関与のなかで生起しているため、単一要因で容易に説明できないものの、基本的には自然生態環境の違いや近隣社会との関係に起因する、と概括的にまとめています。ただ本論文は、北海道史の最大の特徴として、近代になって開拓移民が押し寄せるまで、社会や文化は「本土」の多数派集団とはエスニシティを異にするアイヌの人々によって担われていた、と指摘します。しかし、アイヌは無文字社会だったので、自らの歴史を記録することはありませんでした。そのため北海道の時代区分は、基本的に考古学などの調査研究に基づいて構築されたものです。

 上述のように、中世アイヌ期の前後で、人間集団の連続性が指摘されています。しかし本論文は、少なくとも物質文化の側面では、数多くの大きな相違が確認できる、と指摘します。上述のように、中世アイヌ期の前には、擦文文化とオホーツク文化という考古資料の大きく異なる2文化が並存し、それぞれの担い手は遺伝的系統が異なっている、と指摘されています。そのため、遺伝的にも文化的にも系統を異にする擦文文化とオホーツク文化が、次の中世アイヌ期の形成にどのように関係しているか、ということが重要な研究課題となります。

 擦文文化は、紀元後700〜1200年頃に北海道と本州北端に分布していました。その生計戦略は、続縄文文化から引き継がれた狩猟・漁撈・採集と一部粗放的な穀物栽培に基づいていた、と推測されています。擦文文化の出土遺物組成に関しては、石器の出土量と器種がひじょうに乏しい、と指摘されています。こうした特徴の背景については、主要な道具が石器から鉄器に代わっていた、と推測されています。じっさい、擦文文化の遺跡からは、刀子(ナイフ)や縦斧・横斧などの鉄器が出土しています。ただ、これらの鉄器は擦文文化集団そのものが生産したのではなく、本州以南の地で生産された移入品と推測されています。擦文文化集団は、続縄文文化に系譜がたどれる在地系の人々によって主に構成されており、現在のアイヌ民族の直接の祖先である、と広く認識されています。ただ、その文化複合は、本州北部の強い影響や類似性が認められることから、本州北部からの集団移住が同文化の形成に関与していた可能性も指摘されています。

 オホーツク文化は、北海道だけでなく日本列島でも最も独特な文化の一つです。オホー ツク文化は、紀元後600〜1000年頃にサハリン南部・北海道北東部沿岸・千島列島に分布していました。その生計戦略に関しては、顕著な特徴として海浜での漁撈や海生哺乳類の狩猟、また沿岸域に形成される集落や居住パターンなどがから、徹底した海洋適応に基づいていた、と想定されています。オホーツク文化の出土遺物組成は、擦文文化と比較すると、石 器・骨角器・金属器などの多様な原材料から製作された、さまざまな道具一式から構成されています。またオホーツク文化でも、自から製作したわけではないものの、数種類の鉄器が使用されていました。これらの鉄器は、アムール川流域の大陸側で生産され、北方経路からサハリン経由で導入されていた、と推測されています。さらに、この経路に関しては、鉄器にとどまらず、数々の文物や情報などをオホーツク文化にもたらしていた可能性が指摘されています。オホーツク文化集団は、擦文文化を含む北海道在来の人々とは遺伝的系統が異なる、と推測されています。オホーツク文化集団の系統に関しては、形質的・遺伝的特徴から、アムール川流域やサハリンのアジア北東部集団との近縁性が指摘されています。そのため、オホーツク文化に関しては近年まで、アイヌ民族・文化の形成には直接関係がない、との認識が定着していました。

 擦文文化とオホーツク文化は、700〜900年頃に北海道で並存していましたが、それぞれ異なる生活圏に分布し、基本的には相互交流などの接触関係はひじょうに限定的でした。しかし、10世紀頃に両文化は急激に接触融合していきます。また、こうした接触融合は、北海道の東部と北部で別々に進展した、と考古資料から確認されています。本論文は、資料的にも豊富で研究の蓄積が進んでいる、トビニタイ文化と考古学的に設定された北海道東部の事例に焦点を当てています。トビニタイ文化は、オホーツク文化が擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、最終的に擦文文化に吸収・同化されていく移行段階と推定されています。たとえば、トビニタイ文化集団は、最初期のトビニタイ土器を、オホーツク文化の製作技術を用いて、擦文式土器の模様・装飾・器形を模倣して製作していましたが、最終段階ではその技術を完全に習得し、擦文式土器そのものとしか判断できないものを製作するようになります。同様の現象は、住居構造や道具組成などでも確認されています。これらの事例から、トビニタイ文化は、最終的には少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになります。

 一方、擦文文化の側には、オホーツク文化と接触融合し、トビニタイ文化を形成する証拠や動機は確認されていません。そのため、トビニタイ文化は、オホーツク文化側が積極的に擦文文化に同化吸収された過程と想定されています。遺伝学でも、考古資料から導かれたオホーツク文化集団の擦文文化集団への同化吸収が確認されており、現在のアイヌ民族はオホーツク文化集団の遺伝子を相当な割合で継承している、と明らかになっています(関連記事)。北海道東部におけるオホーツク文化と擦文文化の接触融合が起きた理由として、環境変動や政治社会的影響などが提示されています。しかし、そうした仮説の大部分は、具体的かつ充分な考古学的証拠に基づくものではない、と指摘する本論文は、考古資料から両文化の接触融合の要因を検証できる対象として、トビニタイ文化の鉄器を挙げています。

 まずトビニタイ文化の鉄器に関しては、その形態的特徴に基づいて、オホーツク文化から擦文文化に類似するものに置換した、と指摘されています。つまり、トビニタイ文化における鉄器の供給源は、アムール河流域を中心とする北方経路から、本州以南からの南経路に移行した、と推測されます。またオホーツク文化の分布圏は、本州以南の鉄器供給経路と直接的には接していないため、擦文文化を介して鉄器を入手していたと推測されます。もしそうだったなら、北海道東部のオホーツク文化集団は、日常生活を営む上で不可欠な鉄器の安定供給を確保するため、擦文文化との関係性の構築が不可避となり、両文化集団の接触融合が進んだ、と考えられます。こうした接触融合は、オホーツク文化の期間よりも遥かに多くの量の鉄器をトビニタイ文化集団に安定的に供給し、その結果として、日々の社会生活を維持するために不可欠な道具のほとんどを石器から鉄器に置き換えることができた、と推測されます。

 こうした歴史展開を踏まえると、北海道におけるオホーツク文化集団もまた、アイヌ文化形成の潮流に関与している、と理解できます。なぜならば、「原アイヌ期」とされる擦文文化期から中世アイヌ期への移行は、「本土」における交易ネットワークと地域分業への統合過程に起因すると想定されるからです。つまり、遺伝的・文化的に擦文文化集団と異なる系統とされるオホーツク文化集団の消長もまた、アイヌ文化形成の展開のなかの一潮流に統合される、という理解が可能となるわけです。

 本論考は最後に、アイヌ文化形成におけるオホーツク文化の役割について考察しています。オホーツク文化のなかには、中世以降のアイヌ文化形成において重要な関与を果たし、現在までのアイヌの文化遺産として引き継がれている要素が少なからず指摘されています。その最も顕著な事例の一つとして、イオマンテと呼称されるクマの送り儀礼が挙げられます。この儀礼は、アイヌ社会において最も重要な文化的実践とみなされています。しかし、現在まで擦文文化には、クマ送り儀礼の痕跡と言えるような考古資料はきわめて限定的にしか確認されていません。これに対してオホーツク文化の遺跡からは、クマなど動物の送り儀礼に関連すると推察される遺物や遺構が数多く検出されています。この他、アイヌ民族・文化の言語や象徴実践などにも、オホーツク文化に由来すると推察される痕跡が少なからず指摘されています。

 こうした事例から、オホーツク文化集団は、遺伝的にも文化的にもアイヌ民族・文化のもう一つの源流である、と理解できます。この見解は、従来、縄文文化・時代から直接的かつ単線的に語られてきたアイヌ集団の歴史に対する再考と新たな展望を開くものとなるだろう、と本論文は指摘します。さらに本論文は、資料的に限定された先史考古学にとっても、時間的に限定された民族誌調査にとっても、アプローチが困難な異系統集団の接触・融合の仮定と要因を追究する上で、擦文文化とオホーツク文化は有用な参照事例となるだろう、との見通しを提示しています。


参考文献:
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16


https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c24

[近代史3] ドイツはハイテクや IT に弱く、労働者は世界一働かない
ドイツはハイテクや IT に弱く、労働者は世界一働かない

2019年11月10日
ドイツ経済の後退、生産性の高さは一転してハンデに変わる


ドイツが誇る自動車産業だがハイテクやITに弱く、労働者は世界一働かない


画像引用:https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcTq8RMUGx-WKHSnuihCiGXUKeo4-NiYCQSpUR0c19fXsFJlVrYD

日本並みに低成長のドイツ

欧州経済、とりわけドイツ経済は健全なのか危機に陥ろうとしているのか、専門家の間でも見方が分かれています。

国際通貨基金(IMF)はドイツ経済が景気後退入りし、緊急対策の準備を整えるよう警告しました。

ドイツの経済成長率は19年4月から6月がマイナス0.1%、7月から9月までは出ていないがマイナス予想がされている。




2四半期連続マイナス成長がリセッション(景気後退)なので、ドイツは既に後退期に入った可能性が高い。

IMFは19年のドイツ経済成長率を0.5%、20年は1.0%と予想したが、18年の1.5%成長から大幅ダウンとなる。

IMFの成長率予想で日本は19年が0.9%、20年は0.5%なのでドイツは日本並みという事になる。


中心国ドイツの停滞によって欧州全体の経済活動も停滞し、EU全体では19年は1.1%、20年は1.2%と予想されています。

フランスの4月から6月成長率は+0.2%で7月から9月は+0.3%、このペースが1年間続くと年1%の経済成長となる。

マイナスでないだけドイツより良いが、こちらも低成長率が定着しています。


ブレグジットで揺れるイギリスは4月から6月成長率が-0.2%、7月から9月は+0.6%だった。

これは日本の消費税の時と同じく前期に減った反動で増えたもので、平均すると半年で+0.4%、1年間で0.8%の成長ペースになる

EU平均より成長率が高いのは東欧の途上国で、主要国は平均より低い数値にとどまった。

ドイツの労働者は世界一怠け者になった

日本が0.5%しか成長できないのは消費増税、イギリスはブレグジットと理由がはっきりしているが、ドイツはなんでしょうか。

今までの10年程度ドイツは輸出を背景に好景気が続き、特に自動車は貿易黒字の半分近くを稼ぐなど稼ぎ頭でした。

ドイツは西ドイツが東ドイツを吸収して統一し、さにユーロ統一でアメリカに匹敵する「国内市場」が創出した。


国内市場なのでいくら輸出しても関税がかからず、通貨高で苦しむことも無くなりドイツの輸出は絶頂期に達した。

だが10年以上もこうしたEU内輸出を続けたおかげで、需要は満たされて東欧諸国もドイツ製品ばかり輸入しなくなった。

ドイツが得意とする輸出品は自動車など20世紀型の重厚長大型商品だけで、ハイテクに弱くITを苦手としている。


自動車はEVや自動運転が注目されているが、EVのバッテリーは日韓中、自動運転ソフトはアメリカに依存している。

ドイツのIT企業など聞いたことが無いし、ハイテクと言っても金型をプレスするような工場が多い。

つまりドイツは20世紀型産業では強いが21世紀の主流であるハイテクITは苦手です。


日本がデフレやブラック労働にあえいでいる間、ドイツは世界一労働時間が短く時給では世界一高収入になった。

日本の工場が週60時間労働としたらドイツ工場は40時間くらいしか働いておらず、ドイツ人はこれを当たり前だと思っている。

2016年のドイツの労働時間は平均6時間で日本は7.5時間、これはドイツの生産性の高さと大絶賛されたが、別な言い方をすると世界一怠け者になった。


こんな事が可能なのはドイツの輸出産業が強かったからだが、良い時代は終わりドイツが苦しむターンが予想される。

マイナス成長になったのに労働者が世界一働かないのでは、再生は厳しい道のりになるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/81441437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/709.html

[リバイバル3] 投資損失でも自己破産はできる 常識は嘘だらけ

2019年11月11日
投資損失でも自己破産はできる 常識は嘘だらけ
http://www.thutmosev.com/archives/41159135.html

自己破産できる、できないの中間として「一部免責」などがある

引用:http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/2/2/222a3ba4.jpg


投資で負けても自己破産できず免責は認められない、これは常識として定着しているが間違いです。

原則として全額は認められないが、裁判官の裁量によってほとんど認められることも、一部免責もある。


投資で負けたら自己破産できない?

投資で儲けた人も損をした人もいると思いますが、統計的に投資は9割の人が損をして、利益を得るのは1割以下だそうです。

その分「勝ち組」の人は投資資金を何倍も、あるいは何十倍にも増やせるのですが、負けた人はどうなるのでしょうか。


証券会社などに預けたお金が減るだけなら良いのですが、追証で借金になったり、そもそも借金で投資した人も居ます。



実社会で作る借金は徐々に増えていくか、段階を踏んで増えますが投資の借金は、ある日払いきれない借金を背負います。

例えば年収300万なのに追証数千万円を請求された人が実際に居て、しかも珍しくもありません。

FXとか先物などレバレッジを掛ける投資は、僅かな変動で損失が大きく膨らみます。


例えば10倍のレバレッジ(倍率)を掛けていたら10%の値動きで、資産の100%を失います。

FXをレバ10で運用していて1ドルが10円も逆に動いたら、証拠金はゼロになっている筈です。

そして多くの人は、ポジションを支える為に追加入金をし、その為にサラ金から借金をします。


全財産を失ったという現実を認めたくないので、相場が元に戻ったら、損失が帳消しになる可能性を残したいのです。

ですが相場は非情なので、借金をしてポジションを支えている人を必ず強制決済に導きます。

まるで相場自身が邪悪な意思を持っているかのように、困っている人に対しては、必ず逆方向に行きます。


そして結局、払いきれないほど多額の借金だけを残して投資を終える事になります。

さてそれからどうするべきなのでしょう?


投資で多額の借金を背負うのは珍しくないので、そうした人がネットの相談室で相談をする事が多い。

ネット相談室ではネットを見ている人が回答するようになっていて、法律に詳しい人も、まったくの素人回答者も居る。

投資の借金を減額したい、あるいは自己破産したいという相談には、必ず「投資で自己破産はできない」と回答されている。

投資の負けは自己破産できる

根拠としては「破産法252条1項の免責不許可事由」の中に上げられている、自己破産が認められない事例に含まれている。

「浪費又はとばくその他の射幸行為をしたことによって著しく財産を減少させ,又は過大な債務を負担したこと」

投資や投機は射幸行為に該当するので、裁判所は免責を認めないというのが「認められない派」の主張です。


調べてみると確かに投資での自己破産は認められないし、免責は降りない『事になっている』

『事になっている』というのは現実には免責が認められているし、自己破産は出来ているからです。

理屈と現実の違いというか、法律では「裁量免責」の余地が裁判所に与えられていて、「裁判官が判断して良い」という事です。


投資で本来は免責されないのだが、その借金の為に生活が破綻していて、到底払える金額ではないとき認められるのです。

裁判官の「裁量」なので認められたり認められなかったりするが、多くの場合は債務の大幅な減額が認められる。

例えば年収300万なのに1000万の借金になった時、「800万を減額して200万だけ払いなさい」などの決定が出される。


これを「一部免責」と言って法律で定められて居ないので、一般に知られておらず、出来ないものと思われている。

証券会社や金融業者はこんな免責があるのは不都合なので、なるべく知られないように隠しています。

弁護士も悪く言えば業者とグルなので、こうした免責がある事を宣伝したりはしない。


そして都市伝説のように「投資の借金は免責されない」という定説が一人歩きしました。

自己破産制度はサラ金騒動で有名になり利用する人が増えましたが、まだまだ「破産は悪い事」という常識が日本にはある。


リスクを負って失敗して破産するのは、ある意味資本主義では必ず起こる事で、必ずしもその人の責任という訳ではない。
http://www.thutmosev.com/archives/41159135.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1017.html

[リバイバル3] 無痛で安らかに1分で確実に死ねる『サルコー(Sarco)』と名付けられたマシンが完成した 中川隆
44. 中川隆[-15020] koaQ7Jey 2019年11月11日 11:41:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2120]
>>17
>相場や事業に失敗して返せなくなっても自殺する必要は無いよ

に追記

2019年11月11日
投資損失でも自己破産はできる 常識は嘘だらけ
http://www.thutmosev.com/archives/41159135.html

自己破産できる、できないの中間として「一部免責」などがある

引用:http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/2/2/222a3ba4.jpg


投資で負けても自己破産できず免責は認められない、これは常識として定着しているが間違いです。

原則として全額は認められないが、裁判官の裁量によってほとんど認められることも、一部免責もある。


投資で負けたら自己破産できない?

投資で儲けた人も損をした人もいると思いますが、統計的に投資は9割の人が損をして、利益を得るのは1割以下だそうです。

その分「勝ち組」の人は投資資金を何倍も、あるいは何十倍にも増やせるのですが、負けた人はどうなるのでしょうか。


証券会社などに預けたお金が減るだけなら良いのですが、追証で借金になったり、そもそも借金で投資した人も居ます。

実社会で作る借金は徐々に増えていくか、段階を踏んで増えますが投資の借金は、ある日払いきれない借金を背負います。

例えば年収300万なのに追証数千万円を請求された人が実際に居て、しかも珍しくもありません。

FXとか先物などレバレッジを掛ける投資は、僅かな変動で損失が大きく膨らみます。


例えば10倍のレバレッジ(倍率)を掛けていたら10%の値動きで、資産の100%を失います。

FXをレバ10で運用していて1ドルが10円も逆に動いたら、証拠金はゼロになっている筈です。

そして多くの人は、ポジションを支える為に追加入金をし、その為にサラ金から借金をします。


全財産を失ったという現実を認めたくないので、相場が元に戻ったら、損失が帳消しになる可能性を残したいのです。

ですが相場は非情なので、借金をしてポジションを支えている人を必ず強制決済に導きます。

まるで相場自身が邪悪な意思を持っているかのように、困っている人に対しては、必ず逆方向に行きます。


そして結局、払いきれないほど多額の借金だけを残して投資を終える事になります。

さてそれからどうするべきなのでしょう?


投資で多額の借金を背負うのは珍しくないので、そうした人がネットの相談室で相談をする事が多い。

ネット相談室ではネットを見ている人が回答するようになっていて、法律に詳しい人も、まったくの素人回答者も居る。

投資の借金を減額したい、あるいは自己破産したいという相談には、必ず「投資で自己破産はできない」と回答されている。

投資の負けは自己破産できる

根拠としては「破産法252条1項の免責不許可事由」の中に上げられている、自己破産が認められない事例に含まれている。

「浪費又はとばくその他の射幸行為をしたことによって著しく財産を減少させ,又は過大な債務を負担したこと」

投資や投機は射幸行為に該当するので、裁判所は免責を認めないというのが「認められない派」の主張です。


調べてみると確かに投資での自己破産は認められないし、免責は降りない『事になっている』

『事になっている』というのは現実には免責が認められているし、自己破産は出来ているからです。

理屈と現実の違いというか、法律では「裁量免責」の余地が裁判所に与えられていて、「裁判官が判断して良い」という事です。


投資で本来は免責されないのだが、その借金の為に生活が破綻していて、到底払える金額ではないとき認められるのです。

裁判官の「裁量」なので認められたり認められなかったりするが、多くの場合は債務の大幅な減額が認められる。

例えば年収300万なのに1000万の借金になった時、「800万を減額して200万だけ払いなさい」などの決定が出される。


これを「一部免責」と言って法律で定められて居ないので、一般に知られておらず、出来ないものと思われている。

証券会社や金融業者はこんな免責があるのは不都合なので、なるべく知られないように隠しています。

弁護士も悪く言えば業者とグルなので、こうした免責がある事を宣伝したりはしない。


そして都市伝説のように「投資の借金は免責されない」という定説が一人歩きしました。

自己破産制度はサラ金騒動で有名になり利用する人が増えましたが、まだまだ「破産は悪い事」という常識が日本にはある。


リスクを負って失敗して破産するのは、ある意味資本主義では必ず起こる事で、必ずしもその人の責任という訳ではない。
http://www.thutmosev.com/archives/41159135.html  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#c44

[近代史3] 沖縄 首里城火災 _ 琉球人は何をやっても いい加減、無責任で「ゆすりとごまかしの名人」 中川隆
74. 中川隆[-15019] koaQ7Jey 2019年11月11日 11:53:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2119]

廃藩置県や台風で荒れた首里城 戦前の写真公開「また復元できる」 県立博物館・美術館が講座
沖縄タイムス社 2019/11/11
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%bb%83%e8%97%a9%e7%bd%ae%e7%9c%8c%e3%82%84%e5%8f%b0%e9%a2%a8%e3%81%a7%e8%8d%92%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%a6%96%e9%87%8c%e5%9f%8e-%e6%88%a6%e5%89%8d%e3%81%ae%e5%86%99%e7%9c%9f%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%80%8c%e3%81%be%e3%81%9f%e5%be%a9%e5%85%83%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%82%8b%e3%80%8d-%e7%9c%8c%e7%ab%8b%e5%8d%9a%e7%89%a9%e9%a4%a8%e3%83%bb%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%8c%e8%ac%9b%e5%ba%a7/ar-BBWymJ8?ocid=ientp#page=2


1933年ごろに撮影された首里城。「沖縄神社拝殿正面」という題名が付いている© Okinawa Times 1933年ごろに撮影された首里城。「沖縄神社拝殿正面」という題名が付いている

 県立博物館・美術館学芸員講座「映像・写真記録の沖縄」が9日、那覇市の同館であり、戦前の首里城の写真12点を含む資料が紹介された。首里城火災を受け、急きょ首里城関連の写真が増やされ、参加者約90人は時折驚きの声を上げながら見入っていた。

 同館では戦前や終戦直後、日本復帰前後の映像フィルム390点、写真数千点を所蔵している。

 その中から首里城関連では、廃藩置県後、荒廃した明治後半の首里城が写った「坂元商店発行の絵はがき」、昭和初期に台風で瓦が損壊した首里城正殿が写った「沖縄神社拝殿正面」、「沖縄神社拝殿背面」(いずれも阪谷良之進資料)など、貴重な写真12点が紹介された。

 講座を担当した外間一先学芸員は「当時の記録があったおかげで首里城は復元できた」と写真の価値を再評価し、「復元できたのだからもう一度できるという希望がある」と語った。

 講座ではそのほか、明治、大正、昭和初期、終戦直後、日本復帰前の沖縄の風景や人々の暮らしの様子も紹介。ウルトラマンシリーズの脚本家、金城哲夫さんが1975年に製作した17分の映像のほか、首里城跡にあった琉球大学や龍潭の写真もあり、参加者からは昔の風景を懐かしむ声も上がった。

 参加した宮城吉通さん(77)=那覇市首里久場川=は「終戦直後、壊れた石垣の間を通って首里城跡に行ったことを思い出した。すごい写真が残っているので、これからも見られるようになってほしい」と話した。

 首里城関連の資料は、19日から同館で始まる琉球王国のグスクおよび関連遺産群世界遺産登録20周年記念特別展「グスク・ぐすく・城」でも展示する予定。


同じく33年ごろに撮影された「沖縄神社拝殿背面」。台風の影響などで屋根の一部が崩れている(いずれも阪谷良之進資料)© Okinawa Times 同じく33年ごろに撮影された「沖縄神社拝殿背面」。台風の影響などで屋根の一部が崩れている(いずれも阪谷良之進資料)

戦前の首里城の写真に見入る参加者ら=9日、県立博物館・美術館© Okinawa Times

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%bb%83%e8%97%a9%e7%bd%ae%e7%9c%8c%e3%82%84%e5%8f%b0%e9%a2%a8%e3%81%a7%e8%8d%92%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%a6%96%e9%87%8c%e5%9f%8e-%e6%88%a6%e5%89%8d%e3%81%ae%e5%86%99%e7%9c%9f%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%80%8c%e3%81%be%e3%81%9f%e5%be%a9%e5%85%83%e3%81%a7%e3%81%8d%e3%82%8b%e3%80%8d-%e7%9c%8c%e7%ab%8b%e5%8d%9a%e7%89%a9%e9%a4%a8%e3%83%bb%e7%be%8e%e8%a1%93%e9%a4%a8%e3%81%8c%e8%ac%9b%e5%ba%a7/ar-BBWymJ8?ocid=ientp#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/703.html#c74

[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
10. 中川隆[-15018] koaQ7Jey 2019年11月11日 15:59:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2118]

ブルックナー

Anton Bruckner, Rondo c-minor for string quartet, Ruysdael Quartet






Anton Bruckner (1824 - 1896)

Rondo c-minor for string quartet (1862)

Ruysdael Quartet

Joris van Rijn, Violin
Jacobien Rozemond, Violin (not on the photo)
Gijs Kramers, Viola
Jeroen den Herder, Cello

From the CD First Steps, Cobra 0032
Recorded at MCO Studio1, Hilversum, The Netherlands, April 2006


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c10
[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
11. 中川隆[-15017] koaQ7Jey 2019年11月11日 16:00:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2117]

ブルックナー

A. Bruckner: Fantasie G major, 1868, with G. Hemetsberger





Gottfried Hemetsberger plays A. Bruckner: Fantasie G major (1868)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c11
[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
12. 中川隆[-15016] koaQ7Jey 2019年11月11日 16:04:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2116]

ブルックナー

Anton Bruckner (1824-1896): Erinnerung. Andreas Fischer, Piano




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c12
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)

ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)

Berg Violin Concerto To the Memory of an Angel Kyung Wha Chung Solti - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=GDlOGHPR9R8
https://www.youtube.com/watch?v=vVD9SXZLml0
https://www.youtube.com/watch?v=2hdJ4ZTJKoU
https://www.youtube.com/watch?v=sPdtr_zvj1U

Kyung Wha Chung
Sir Georg Solti Chicago Symphony Orchestra
September 3, 1984
_____


ベルク: ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」 クレーメル 1984 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=evW1Cmta9RA

ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス指揮 バイエルン放送交響楽団
____


Berg Violin Concerto (1936) Krasner-Webern - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=yjVTClpoDk4

Louis Krasner, violin Anton Webern, conductor BBC Symphony Orchestra
Recorded live May 1, 1936 at a private concert.


▲△▽▼

吉田秀和 著「私の好きな曲(新潮社)」より
アルバン・ベルク:ヴァイオリン協奏曲
 だが,ここでは,そういうことも一切,考慮からはずしてヴァイオリン協奏曲をあげることにする。それは,私が,この曲の中に秘められた慰めの限りのない優しさと,終曲,特にコーダにおけるヴァイオリン独奏の,まるで澄みわたる青空のはるか遠くまでのびて,消えてゆくような孤線の筆紙につくしがたい美しさに,ほかのどこにもない「鎮魂の響き」をきくからである。
https://blogs.yahoo.co.jp/pocg1005jp/31279956.html


▲△▽▼

アルバン・ベルク「或る天使の思い出に」−−この世で一番美しい音楽   西岡昌紀
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/513.html

投稿者 西岡昌紀 日時 2011 年 7 月 19 日 21:34:12: of0poCGGoydL.


1978年の事と記憶します。


NHK(教育テレビ)で或る音楽会の演奏が放送されて居ました。


NHK交響楽団の演奏会で、指揮者が誰だったかは忘れてしまひましたが、或るヴァイオリン協奏曲の演奏がそのテレビ番組で放送されたのを、もしかすると、途中からだったかも知れませんが、私は、見て居ました。


その曲の最後の部分で、NHKのテレビカメラが、そのヴァイオリニストの表情と姿を映し出すのを見ながら、何と深い表情だろう、と思った事が今も忘れられません。


それは、本当に深い表情でした。そして、その深い表情と共に、そのヴァイオリニストが奏でるその曲の終はりの箇所に、私は、本当に、打ちのめされる感動を与えられたのでした。


その曲を聴いたのは、それが最初ではなかったと記憶します。しかし、とにかく、その静かな、子守唄が消えて行く様な、そのヴァイオリン協奏曲の終はりの部分に私は打たれ、今も良く、その映像を思ひ出します。


そのヴァイオリニストの名は、ギドン・クレーメル。そして、そのヴァイオリン協奏曲は、アルバン・ベルク(Alban Berg, 1885〜1935)のヴァイオリン協奏曲でした。

* * * * * * * * *

昨日(7月18日(月・祝))、私は、東京のサントリー・ホールで開かれた、東京都交響楽団の演奏会で、このベルクのヴァイオリン協奏曲を聴きました。この曲を演奏会で聴くのは久し振りでした。


アラン・ギルバートが指揮する東京都交響楽団と、このヴァイオリン協奏曲を共演したおは、ドイツのヴァイオリニスト、ペーター・ツィマーマン(Peter Zimmermann)でした。初めて聴くヴァイオリニストでしたが、素晴らしい演奏でした。


大分以前から、私は、ベルクのこの曲は、この世で一番美しい音楽だと思ふ様に成りました。昨日も、その素晴らしい演奏を聴きながら、その思ひを深くしましたが、この曲には、或る悲劇的な言はれが有ります。


それは、次の様な逸話です。(昨日の演奏会でのパンフレットより引用)

---------------------------------------------


「私がいなくなっても、きっと大丈夫、お母さんは、なんだって平気で乗り越える人じゃない」そう言って、18歳のその少女は息を引き取った。母の心の痛みは癒えることがなかったという。
 少女の名は、マノン・クロービウス(1916−35)。作曲家グスタフ・マーラーの妻アルマが、マーラーの没後に結婚した建築家クロービウスとの間にもうけた子だ。小児麻痺にかかり、1年以上も苦しみぬいた末の死だった。その「天使のように美しい」(指揮者ブルーノ・ワルター談)少女を、アルバン・ベルク(1885〜1935)もたいそう愛し、1935年4月訃報に接すると、創作中のヴァイオリン協奏曲をマノンに捧げることに決めた。
 そしてそれは、夏には完成する。だが、衝撃的なことに、同年12月24日、ベルク自身も逝ってしまう。享年50。天使のためのレクイエムは、自らのためのそれともなってしまった・・・。
 そもそも、この曲に着手したのは、ある「外注」がきっかけだった。注文主は、アメリカのヴァイオリニスト、ルイス・クラスナー(1903〜95)。折しも、ナチスの台頭により、急進的な作風のベルクへの風当たりが強まり始めていた頃のことだ。報酬も悪くない。ならばということで、オペラ≪ルル≫の創作を中断し、これを書いたのだった。
 最初期のスケッチから、ベルクの反ナショナリズムのメッセージを読み取る研究者もいる。また、ベルクが愛した別の女性たちへの暗示が作品にひそんでいるとの見方もある。

(後略)


松木達也「曲目解説」(都響スペシャル(2011年7月17日・18日)
パンフレットより)


---------------------------------------------

ベルクがこの曲が書いた経緯には、この様な悲劇が有りました。しかし、ベルクが、マノンと言ふ少女の死を悼んで、この曲を作曲したのは事実としても、私は、それ以外に、何かが有ったのではないか?と思はずに居られないのです。上に引用した松木達也氏の解説でも少しだけ触れられて居る様に、私は、この曲には、何か、その少女の死を悼む感情以上の何かが隠されて居る様な気がして成らないのです。


それは、もちろん、ベルク以外の誰にも分りません。しかし、私は、いつの頃からか、この曲には、ベルクが、誰にも語れなかった自身の秘密の記憶が隠されて居ると思ふ様に成りました。そして、この曲を聴く度に、その私の確信は、深まるのです。


二十代の頃から、この曲を繰り返し聴いて来ましたが、その秘密は、永遠の謎です。しかし、昨日は、この曲の、美しい、静かな、子守唄が消えて行く様な、あの旋律を聴いて居て、この曲が、大震災で命を落とした人々の為に書かれた曲である様な錯覚を覚えました。

平成23年7月19日(火)   西岡昌紀


-------------------------------------------------
(以下は、5年前の8月6日に、私がこの曲について書いた文章です。)
            

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2-%E5%AE%A4%E5%86%85%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2-%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%8E%B2%E5%AD%90/dp/B00005HHMZ/ref=sr_1_2?s=music&ie=UTF8&qid=

ベルクのヴァイオリン協奏曲にこめられた感情と追憶, 2006/8/6
By 西岡昌紀


レビュー対象商品: ベルク:ヴァイオリン協奏曲&室内協奏曲 (CD)


 ベルクのヴァイオリン協奏曲は、この世で一番美しい音楽ではないだろうか?この曲には、『或る天使の思ひ出に』と言ふ副題が付けられて居る。その「天使」とは、ベルクが親しかったアルマ・マーラーの娘で、1935年に交通事故により、19歳で他界したマノンと言ふ少女を意味して居る。ベルクは、親しい友人の娘が、突然この世を去った事に心を痛め、この副題を付けた。しかし、私には、この副題には、同時に別の意味が含まれて居たのではないか?と言ふ気がしてならない。−−それは、私だけの思ひではない様で、昔の恋人への思ひがこめられて居るのではないか?等、様々な考察が為されて居る様である。−−だが、真実は、ベルクにしか分からない。音楽は、作曲家が、自分の心の秘密を隠す場所なのだから。(私は、ベルクは、売春婦に恋をした事が有るのではないか?と想像する事が有る。もちろん、全くの想像である。しかし、この曲には、そんな人に語れぬ深い感情と追憶がこめられて居る気がするのである。)
 私が、今までに聴いたこの曲のCDで一番好きなのは、このCDである。もう一つ、パールマンと小澤征爾によるCDも素晴らしい。しかし、パールマンの音は明るい。渡辺玲子さんの音色には、明るさを抑えた深さが有る。−−その明るさを抑えた音色が、この曲の孤独と憂愁を、どれだけ深く、聴く者の心に伝えてくれる事か。−−作曲されて70年以上が経ったが、この曲の美しさは、なお十分知られて居ない。この曲の真価が理解され、更に多くの人々に愛される為に、私は、このCDを推薦する。

(西岡昌紀・内科医/広島に原爆が投下されて61年目の日に)
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/513.html

▲△▽▼

149名無しの笛の踊り2016/11/19(土) 09:46:24.34ID:tmdKQYR/

ベルク、ヴェーベルン、シェーンベルクなどを知ったかぶりして能書き言う奴はナルシストばかり
本当は何も分かっちゃいない
どうだ、オレは凄いだろう、と見栄をはりたいだけの馬鹿


150名無しの笛の踊り2016/11/19(土) 09:55:43.30ID:g2vs4Zcn

その三者って1世紀近く前の人間だぞ。
見栄に使われるというより、クラヲタなら聴いていなければ恥ずかしい部類。

151名無しの笛の踊り2016/11/19(土) 16:37:06.55ID:bfPFd+1l

他人にわかって自分にわからないものがある
という事実を受け入れられない人なんでしょうw

152名無しの笛の踊り2016/11/19(土) 20:38:01.17ID:mivALqOd

最初は俺って凄いだろう、かも知れないけど、
新ウィーン楽派の3人はクラオタの間でさえかなり受けが悪いので
そんな意識もやがて消えて無くなる

ひっそり、大切に聴いてる人が多いと思う


385名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 01:05:35.03ID:uhaZ+Y8Y>>386

ベルクのピアノソナタをグレン・グールドが弾いてる動画があるけどこんなわけのわからない曲を思い入れたっぷりに弾いちゃってばっかじゃねーのって思う


386名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 07:30:57.96ID:hkABoMsq
>>385
お引き取りください

387名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 10:36:20.52ID:wCOf7txz>>390

ベルクほど理路整然と書かれていて分かりやすい作曲家もそういないんだけどなあ
思い込みで聴くと難しく聴こえるんだねえ

388名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 11:13:02.88ID:KpRHwS9n

耳が出来てないと鳴ってても聞こえないものってあるんだよな
俺もそれで悩むがw


389名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 11:15:25.08ID:MaaQQ7F9

わけのわからない = 難しい という自分に都合のいい解釈をするわかりやすい人だねー


391名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 12:27:05.62ID:wCOf7txz>>393

クラシックを聴くのに、たかだか20世紀前半の曲も理解できないとか、そんな人はハイカルに親しむ資格すらないと思う。
ガイジに理解しろと言うのも酷だけど。


393名無しの笛の踊り2018/10/23(火) 12:50:14.45ID:hkABoMsq
>>391
でもさ、オーケストラの定期公演なんかでシェーンベルクの変奏曲なんて入ってると、
露骨に入りが悪かったりするからね
ただ、ベルクのピアノソナタはぎりぎり調性音楽だけどね
あの曲の楽譜、ちゃんとロ短調でシャープ2つの調号書いてあるのに、
何故かほとんどのFisとCisの音の前に律義に個別にシャープつけてるという訳のわからんことになってる


404名無しの笛の踊り2018/12/05(水) 16:49:44.51ID:R3dsP+uz>>405

単なる自分の好き嫌いをドヤ顔で自慢するような奴は現代音楽は聞かないほうがいい
他人の迷惑になるだけだ


405名無しの笛の踊り2018/12/05(水) 17:39:30.65ID:iqR7FbNW
>>404
自慢?
ところでベルクのヴァイオリン協奏曲は泣けるね
ヴォツェックあたりは正直何が何やらよく見えないところもあるけど、
このコンチェルトはそんなことはなくて全てが胸に染みわたる


422名無しの笛の踊り2019/01/09(水) 08:02:59.22ID:851hU/nI

抒情組曲くらいしか知らん

423名無しの笛の踊り2019/01/09(水) 13:12:31.87ID:eCqBgxNS
>>422
だまされたと思ってバイオリン協奏曲聴いてみてくれ
泣けるよ

288名無しの笛の踊り2017/12/28(木) 22:32:15.69ID:ZPtfvC05>>289>>291

ヴァイオリン協奏曲は名曲だし
ベルクはいいよ
録音で良いから聴いてもらいたい


289名無しの笛の踊り2017/12/29(金) 08:33:17.69ID:tHdDg4+P
>>288
素直に同意
最初は誰の録音でもいいと思う
名曲中の名曲というか、人生に影響を及ぼす力さえ感じるよ

424名無しの笛の踊り2019/01/18(金) 20:22:06.58ID:7YAZn2ee

ヴァイオリン協奏曲のコラールは心に沁みる
あのような曲を書いてもらえたアルマの娘は幸せ者

シェーンベルクとベルクはモダンなのに、ロマン派の甘くて豊満な残り香がただようからすこ
これがヴェーベルン(現地ではヴェーバーンというらしいけれど)になると(初期作品を除いて)辛口になる


434名無しの笛の踊り2019/04/01(月) 20:29:56.73ID:2vd+rhVd>>443

ピアノソナタの弦楽六重奏曲ヴァージョンくるおしいほどすこ
むせかえるような花の薫りさえ感じられますよ〜感じる感じる

Alban Berg - Piano Sonata in B minor Op. 1 (Transcription for String Sextet by Heime Müller) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=17uPhYnDG38

Alban Berg (1885-1935) Piano Sonata in B minor Op. 1 (1907)
Transcription for String Sextet by Heime Müller (2003)
Artemis Quartet
Members of the Alban Berg Quartet
Virginclassics, 2006


33名無しの笛の踊り2016/09/09(金) 20:45:23.17ID:VcjZ3o9y

不思議なのは、ベルクの曲は何故あんなに官能的なんだろう?


34名無しの笛の踊り2016/09/09(金) 20:47:38.20ID:VcjZ3o9y

官能的で、それでいて貴族的で上品


36名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 02:38:06.67ID:M2Rx0rWC

息の長い旋律を感じる

436名無しの笛の踊り2019/04/04(木) 20:22:22.79ID:eXSc9qQz

作品1からいいのがいいよな

437名無しの笛の踊り2019/04/04(木) 22:29:10.73ID:odxbzyO9

初期の七つの歌
作品1の前から既に名曲

438名無しの笛の踊り2019/05/09(木) 21:44:53.99ID:TW/+qwKk

青年時代に作曲した歌曲もいい。


440名無しの笛の踊り2019/05/13(月) 20:39:06.98ID:+EWEiiWe

この人の自筆譜を見ると、JSバッハやショパンのそれのように美しくて感動する


458名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 18:19:40.44ID:cfEd57pT

鰤から歌曲全集が出るよ!

Berg Complete Songs - Brilliant Classics
https://www.brilliantclassics.com/articles/b/berg-complete-songs/


459名無しの笛の踊り2019/11/09(土) 21:32:45.19ID:Q0Zha4cp

少年時代の歌曲が75曲もあったのか
これがほとんどを占めているのも凄いな

40名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 08:48:36.71ID:u7btCDEE

逆説的になるが、ベルクの声楽曲は清楚で澄みきった声で歌ってほしい
声自体が華やかで色っぽすぎると、あまりにも性的になってしまうので

41名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 08:50:27.40ID:u7btCDEE

前衛音楽そのものにそういう傾向があるかもしれない

42名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 08:51:35.36ID:u7btCDEE

初期作品は色っぽく歌っても映えるけれど


94名無しの笛の踊り2016/10/20(木) 23:29:46.28ID:Ii+ng3KF>>95

割と武満とか近いと思うんだけど、いかがでしょう?


95名無しの笛の踊り2016/10/20(木) 23:38:39.33ID:rMi4sK6g
>>94
色気が全然違うと思うんだけど
タケミツにもむせ返るような色気が求められる曲もあるのかしら


96名無しの笛の踊り2016/10/21(金) 02:17:34.91ID:eHNhS3U3

色気というか影響関係は強いから名前は挙がるよね

97名無しの笛の踊り2016/10/21(金) 02:52:04.34ID:4MVqNgA8
>>95
武満の最初期、メシアンを知る前の作品と言われる「2つのレント」の1番目の曲は特にベルク風だと言われる
でも、あまりそうは聞こえないんだけどな

あと、個人的な感想だけど、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲なんかはバルトークに加えベルクの影響もあると思う
でもこちらもあまり色気は感じないかな
むしろ水野修孝なんて人とかかな、近いのは


341名無しの笛の踊り2018/05/12(土) 21:04:22.07ID:+qHPn9VF>>342

クラシックの迷宮の武満徹カンタータディアローグ回でルルっぽいモチーフが出てきてギョッとした

342名無しの笛の踊り2018/05/13(日) 00:01:59.38ID:aOE7aQXV
>>341
初期の武満はメシアンと並んでベルクからの影響も大きかったというね


343名無しの笛の踊り2018/05/21(月) 21:45:07.49ID:hzdoPuNZ>>345>>349

武満徹ってどの曲もみんな同じじゃん
「弦楽のためのレクイエム」一曲あれば他は聞かなくていいよな

157名無しの笛の踊り2016/11/20(日) 07:22:50.02ID:i+BT/273

一般的にはベルクが一番甘やかで抒情的であるとみなされているようだけれど、
この人の音楽、本質的にはたいへんドライで辛口だと思う

※嫌いと言っているわけではありません、寧ろ一番好きです


302名無しの笛の踊り2018/02/27(火) 02:46:57.04ID:QY54+8hW

現代音楽でまともに聞けるのはベルクだけだな
中期以降のシェーンベルクとかウェーベルンとかましてやシュトックハウゼンなんて到底音楽とは呼べない代物だ


325名無しの笛の踊り2018/04/19(木) 10:18:40.30ID:sL5OCvQc

雰囲気は嫌いじゃないけどなんとなく少し頭おかしいかなぁって感じ
まぁ現代曲の人だしね


326名無しの笛の踊り2018/04/19(木) 10:38:26.76ID:hcNC+V1b

19世紀生まれの人の曲が今どき現代曲というのはちょっとなあ


327名無しの笛の踊り2018/04/19(木) 10:42:21.87ID:sL5OCvQc

んー、かといって後期ロマン派でもないしのぉ
雰囲気的に現代曲といっていいんじゃまいかねぇ


328名無しの笛の踊り2018/04/19(木) 10:51:30.51ID:hcNC+V1b
>>327
後期ロマン派の次はもう現代なの?
ちゃんと新ウィーン楽派とか、無調音楽だとか、表現主義だとか、名前があるじゃん
それと、ベルクは非常にロマン派につながる音楽書いた人だと思う

329名無しの笛の踊り2018/04/19(木) 11:19:41.26ID:Whabhyte

そりゃまあ、19××年からは現代音楽です!みたいなわけにはいかないからな。
1920年頃から後のストラヴィンスキーやヒンデミットなどに比べれば、ベルクに限らず
シェーンベルクもヴェーベルンもロマン派とのつながりは強い。

330名無しの笛の踊り2018/04/19(木) 12:16:24.98ID:NJDxrso1

やっぱり未だに12音イコール現代みたいな発想はあるんじゃないの
結局人間の情感に訴えてくるジャンルではないし


332名無しの笛の踊り2018/04/21(土) 00:21:17.11ID:ZJiaT3ij

口ずさめないもんな
当時は100年後にはポピュラー音楽になってるとすら言われていたそうだが

333名無しの笛の踊り2018/04/21(土) 08:45:50.11ID:/Kblx6cf

ベルクは現代曲だよな
バナナはおやつに入らなくてもベルクは現代曲だよ


22名無しの笛の踊り2016/09/08(木) 22:58:33.44ID:by8+iGvp

ベルク派
シェーンベルク派
ウェーベルン派(いない?)


8名無しの笛の踊り2016/09/07(水) 17:48:29.29ID:ryaiVUAP

よくわかる日本の新ウィーン楽派受容

・基本的にシェーンベルク派とベルク派で分かれる
・だがウェーベルンが一番という人はいない
・にも拘わらずマイノリティーを気取って、よく理解もしてないのに
ウェーベルンを推す一派が存在する

9名無しの笛の踊り2016/09/07(水) 19:44:25.04ID:XJ1sX+S5

声楽で素晴らしい業績を残したのは、ベルク
シェーンベルクとヴェーベルンの声楽曲はいまいち


12名無しの笛の踊り2016/09/07(水) 19:48:15.99ID:ryaiVUAP

いや声楽曲は皆素晴らしいよ
ルルもモーセとアロンも第二カンタータOp.31も
まあ強いて言えばモーセとアロンが最強だな


320名無しの笛の踊り2018/04/12(木) 20:27:18.74ID:n5kvPqo4

シェーンベルクとベルクは単独スレが何度もたっているのに、
ヴェーベルンは彼ひとりではスレが立たないかなしみ


321名無しの笛の踊り2018/04/12(木) 20:46:36.68ID:ojfxE1cG

シェーンベルクスレは落ちたままじゃね?
ヴェーベルンスレはゲソ板にはまだあるが過疎ってるな


60名無しの笛の踊り2016/09/13(火) 19:55:59.95ID:W6aJFRfC>>62>>67

俺の感じではベルク派とヴェーベルン派は結構居るが
シェーンベルク派は少ない
俺は3人とも好きだけどな


62名無しの笛の踊り2016/09/13(火) 20:38:10.63ID:glXDx3OS
>>60
シェーンベルクは12音になる前、更に言えば調性で書いてた頃のあの素晴らしさがあるので、
どうも12音の作曲家としてはいまいちに感じるんだよね
ただ、例外はワルシャワの生き残り
あれは本当に凄い作品だと思う

>>61
ピアノソナタこそベルクの原点
あのうねうねと調性の煮え切らない作品なのににシャープを2つ調号に設定し、
なおかつほとんどのfis,cis音にわざわざ音符の前に個々にシャープをつけるというまどろっこしい書き方してる
聞きやすい作品じゃないけど、やみつきになる要素があるなあ


64名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 12:17:08.46ID:KEqWudeE

ベルクもウェーベルンも技術の限りを尽くして
凄く繊細な世界を描いてくれるから好きだ

65名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 12:33:40.98ID:pFmPypmZ
>>57
ベルクは駄作が一曲もないのが凄いよね
モーツァルトやベートーヴェンだってゴミみたいなつまらん曲もあるのに
もっともモーツァルトもベルク位推敲して書いてたら全部が傑作揃いだっただろうけどw


66名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 13:20:15.81ID:eqBTTry3
>>65
このレベルまで磨き抜いてから作品を出す人って、ベルクとウェーベルンの他には、
ショパン、ラヴェルくらいかな。

67名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 15:15:09.19ID:La8hCeKa
>>60
浄夜もピエロも良いと思うが、それが20年代以後の作品を否定する理由にはならんな
まあシェーンベルクの音楽は愛想が悪いのはたしかだが

とはいえベルクも、3つの管弦楽曲の第3曲とか室内協奏曲のフィナーレとかは
一向にわかった気にならない

394名無しの笛の踊り2018/11/12(月) 05:05:30.63ID:Q8I4HZFU

ベルクって50歳で亡くなってるんだな
ヤバくね?

395名無しの笛の踊り2018/11/21(水) 19:44:16.28ID:a5LsSnlQ

アルテンベルク歌曲集だいすこ
作品4であんな作品を書けるなんて、ベルクは何という才能の塊なのだろう


418名無しの笛の踊り2018/12/25(火) 01:15:47.14ID:KyvsZKWa

やっぱりモーツァルトやベートーヴェンに比べると作品数が圧倒的に少ないな
ハマったと思ったらもう新たに聴く曲がないわ


419名無しの笛の踊り2018/12/31(月) 13:24:56.63ID:M7Hnn4gv

すごい遅筆だよな


420名無しの笛の踊り2018/12/31(月) 17:31:02.43ID:bW3Ly8+k

その代わり物凄く凝ってる


421名無しの笛の踊り2019/01/01(火) 01:08:17.67ID:8faxKUc1

貧乏ゆえ数々の雑用に追われ作曲が進まなかった
師匠も兄弟子もそうだった


47名無しの笛の踊り2016/09/12(月) 02:01:13.40ID:bh5YNviW

クラシック最後のメロディの天才


50名無しの笛の踊り2016/09/12(月) 13:15:34.34ID:3FGgV/qD>>53

20世紀最高の作曲家だが、作品が少なすぎる。
あと20曲あれば評価はもっと違っていた。


57名無しの笛の踊り2016/09/13(火) 19:15:46.30ID:glXDx3OS>>65

こんなスレが出来てたんだ
ベルクは大好きだな
抒情組曲、2つのオペラ、ピアノソナタ、クラリネットとピアノの小品、
室内協奏曲、そしてヴァイオリン協奏曲

どれをとっても天才の刻印があるように思う
でも、ひとつだけあげるとしたらヴァイオリン協奏曲かな
バッハのコラールが出てくるところで泣く

63名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 09:55:54.29ID:LT1FiVnr

某有名なアバズレの娘(こいつもアバズレ)にちょっかい出して
アバズレにこてんぱんに怒られている可哀相なベルク

43名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 08:53:20.69ID:u7btCDEE

ベルクってお手伝いさんに娘を産ませているけれど、
妻との間には子供いなかったよね?

287名無しの笛の踊り2017/12/28(木) 18:38:14.67ID:ZvS0TyM6

メイドさんとの間に生まれた娘のアルビーネは里子に出して結局会えずじまいだったんだっけ
かわいそう
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1473159439/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html

[文化2] アルバン・ベルク「或る天使の思い出に」−−この世で一番美しい音楽   西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-15015] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:10:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2114]

ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/513.html#c1
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
1. 中川隆[-15014] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:12:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2113]

ベルク ヴァイオリン協奏曲



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c1
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
2. 中川隆[-15013] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:28:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2112]


ベルク ピアノソナタ




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c2
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
3. 中川隆[-15012] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:29:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2111]

ベルク ピアノソナタ



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c3
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
4. 中川隆[-15011] koaQ7Jey 2019年11月11日 19:43:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2110]

ベルク ルル組曲

berg Lulu Suite - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ih5CxewXU5c
https://www.youtube.com/watch?v=NLXbloXbsX4
https://www.youtube.com/watch?v=xRFiTzS6e44
https://www.youtube.com/watch?v=ApD6wmUeNpE
https://www.youtube.com/watch?v=kfiYF1s-XN8


Berg: Lulu-Suite; Altenberg-Lieder; 3 Pieces for Orchestra Op.6

Lulu's Song · Margaret Price
Claudio Abbado
London Symphony Orchestra
Released on: 1971-01-01
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c4

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
5. 中川隆[-15010] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:09:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2109]

ベルク:《抒情組曲》からの3章 [弦楽合奏版1928] カラヤン 1973 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W_gSHnk2Pyw


Herbert von Karajan 1973年9, 11月
Berliner Philharmoniker

Berg : Three Pieces from the "Lyric Suite" Version for string orchestra ; 1928
2. Andante amoroso 6:38
3. Allegro misterioso 3:27
4. Adagio appassionato 7:08

_____


Alban Berg- Lyric Suite - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=crLFn2muMm4&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC
https://www.youtube.com/watch?v=5a1mwUAZLaE&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=qD9RgfXP9n8&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=3
https://www.youtube.com/watch?v=UEKdQX1xxoI&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=4
https://www.youtube.com/watch?v=ehZhPRwLzqs&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=5
https://www.youtube.com/watch?v=kVFaB_XyJW8&list=PLpyZ2hyfYerNvIVAcboAbf7eG-pTlMPdC&index=6


Performed by the Alban Berg Quartett
____


Alban Berg Lyric Suite For String Quartet (1925-1926) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uYIMRXkyJ10

Alban Berg
Lyric Suite for string quartet (1925-1926)

Allegretto gioviale 00:00
Andante amoroso 03:09
Allegro misterioso – Trio estatico 09:26
Adagio appassionato 12:43
Presto delirando – Tenebroso 19:05
Largo desolato 24:00

Juilliard String Quartet
Robert Mann, violin
Earl Carlyss, violin
Samuel Rhodes, viola
Claus Adam, cello

Live recording: Ascona, August 24, 1970

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c5

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
6. 中川隆[-15009] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:13:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2108]

ベルク: 弦楽四重奏曲 作品3 アルバン・ベルク四重奏団 1974 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uJy5mWJlmU8


Berg : Streichquartett Op.3
1. ラングザーム Langsam 9:21
2. メーシゲ・フィアテル Mäßige Viertel 9:48

Alban Berg Quartett, Wien April.1974

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c6

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
7. 中川隆[-15008] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:20:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2107]

ヴォツェック

Berg - Wozzeck - Carlos Kleiber 1970 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JA8r5c567X0
https://www.youtube.com/watch?v=WoUUTe-mzoI
https://www.youtube.com/watch?v=7ujBRCGdSRI
https://www.youtube.com/watch?v=9nXWiimZJcc
https://www.youtube.com/watch?v=-5vPSQyCWp4
https://www.youtube.com/watch?v=qti3_NgXicU
https://www.youtube.com/watch?v=x_whQUs9wpQ


Munich, Nationaltheater
27 November, 1970 - Live Recording

Bavarian State Orchestra & Chorus

Marie: Wendy Fine
Wozzeck: Theo Adam
The Drum Major: Fritz Uhl
The Captain: Georg Paskuda
The Doctor: Jieth Engender
Margret: Gudrun Wewezow
Andres: Friedrich Lenz
The Fool: Walter Carnuth
First Artisan: Max Proebstl
Second Artison: Carl Hoppe
Marie's Child: Narika Krauth
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c7

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
8. 中川隆[-15007] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:22:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2106]

ヴォツェック


Rare Carlos Kleiber Berg Wozzeck Fragment - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_oCBTslT1Pc
https://www.youtube.com/watch?v=soRTezlvv_Y


WDR Symphony Orchestra
Wendy Fine: Soprano
(1972)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c8

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
9. 中川隆[-15006] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:32:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2105]

ベルク

Diana Damrau; Sieben frühe Lieder; Alban Berg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rXzzcmEy3cw

Diana Damrau--Soprano
Stephan Matthias Lademann--Piano
Salzburger Festspiele
LIVE; 2005

____


Berg - Sieben frühe Lieder - Jessye Norman-Pierre Boulez - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bE85ldyYfZM

Recorded live at Suntory Hall, Tokyo, 19 May 1995
London Symphony Orchestra
Jessye Norman, soprano
Pierre Boulez, conductor

____


Anne Sofie von Otter The complete 7 frühe Lieder with piano (Berg) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=g8cxKPRGFIs


Berg, Alban (1885-1935) 7 frühe Lieder (1905-08):

I. Nacht 00:00
II. Schilflied 04:34
III. Die Nachtigall 06:42
IV. Traumgekrönt 09:11
V. Im Zimmer 11:45
VI. Liebesode 12:48
VII. Sommertage 14:41


Anne Sofie von Otter -mezzosoprano
Bengt Forsberg -piano


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c9

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
10. 中川隆[-15005] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:41:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2104]

ベルク


ALBAN BERG. CHAMBER CONCERTO. BAREMBOIM, BOLEZ, ZUKERMAN - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bfCat_Kp2cU

_____


Alban Berg - Chamber Concerto - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9f0fGxarvGM

Alban Berg (1885 - 1935) - Chamber Concerto, for piano, violin, and 13 wind instruments (1923 - 1925)

I. Thema scherzoso con variazioni [0:00]
II. Adagio [9:45]
III. Rondo ritmico con introduzione [24:45]

Oleg Kagan, violin
Sviatoslav Richter, piano
Chamber Ensemble of Moscow Conservatory, Yuri Nikolaevsky (1977)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c10

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
11. 中川隆[-15004] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:45:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2103]

ベルク ルル


Alban Berg, LULU, Act 1 sc 2. Stratas, Tear, Mazura. Boulez, Chereau. ENGLISH SUBTITLES







CAST:
Teresa Stratas (Lulu)
Robert Tear (Painter)
Toni Blankenheim (Schigolch)
Franz Mazura (Dr Schoen)
Kenneth Riegel (Alwa)

Orchestra of the Paris Opera
conductor: Pierre Boulez
Director: Patrice Chereau.

The black subtitle-band at foot of screen was in the original issue (no English subtitles).

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c11
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
12. 中川隆[-15003] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:48:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2102]
ベルク ルル


Alban Berg LULU, Prologue. Stratas, Mazura, Riegel, Nienstedt. Boulez, Chereau. ENGLISH SUBTITLES - YouTube




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c12
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
13. 中川隆[-15002] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:53:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2101]
ベルク ルル


berg Lulu - Act 2 - Wenn sich die Menschen ... Du kannst mich nicht dem Gericht - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fm3Y91lrzyA


Berg: Lulu / Act 2

"Wenn sich die Menschen" ...

"Du kannst mich nicht dem Gericht" ·

Teresa Stratas · Hanna Schwarz · Yvonne Minton · Kenneth Riegel · Franz Mazura

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez

Berg: Lulu

℗ 1979 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
Released on: 2000-01-01



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c13

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
14. 中川隆[-15001] koaQ7Jey 2019年11月11日 20:56:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2100]

ベルク ルル

Alban Berg - Lulu, act 1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HalTMlAUho8


Alban Berg - Lulu, opera in three acts, act 1

Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c14

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
15. 中川隆[-15000] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:01:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2099]
ベルク ルル

berg Lulu - Act 2 - Sie glauben nicht - Könntest du dich für heute nachmittag - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fC1amKC0O2I


Berg: Lulu / Act 2
"Sie glauben nicht" - "Könntest du dich für heute nachmittag"

Teresa Stratas · Yvonne Minton · Franz Mazura

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez

Berg: Lulu

℗ 1979 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin

Released on: 2000-01-01



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c15

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
16. 中川隆[-14999] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:05:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2098]

ベルク ルル

berg Lulu - Act 2 - Hü, kleine Lulu - O Freiheit! Herr Gott im Himmel! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yRVOVO80w40


Berg: Lulu / Act 2

"Hü, kleine Lulu" - "O Freiheit! Herr Gott im Himmel!"

Teresa Stratas · Kenneth Riegel · Toni Blankenheim · Gerd Nienstedt
Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c16

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
17. 中川隆[-14998] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:07:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2097]

ベルク ルル

berg Lulu - Act 2 - Sein Vater! ... Du Kreatur, die mich durch den Strassenkot - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KmffNznymRY


Berg: Lulu / Act 2

"Sein Vater!" ... "Du Kreatur, die mich durch den Strassenkot"

Teresa Stratas · Yvonne Minton · Kenneth Riegel · Franz Mazura · Gerd Nienstedt
Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c17

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
18. 中川隆[-14997] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:09:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2096]
ベルク ルル

Alban Berg - Lulu, act 3 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0dpSN9Bc15s

Alban Berg - Lulu, opera in three acts, act 3
Orchestration of the third act completed by Friedrich Cerha

Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c18

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
19. 中川隆[-14996] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:11:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2095]
ベルク ルル

Alban Berg - Lulu, act 2 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aMvHhJNFOVk


Alban Berg - Lulu, opera in three acts, act 2

Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c19

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
20. 中川隆[-15013] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:18:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2112]

アルバン・ベルク ルル
ピエール・ブーレーズ指揮 パリ・オペラ座管弦楽団


Alban Berg - Lulu, act 1 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HalTMlAUho8

Alban Berg - Lulu, act 2 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aMvHhJNFOVk

Alban Berg - Lulu, act 3 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0dpSN9Bc15s


Lulu - Teresa Stratas
Gräfin Geschwitz - Yvonne Minton
Eine Theater-Garderobiere, ein Gymasiast, ein Groom - Hanna Schwarz
Der Medizinalrat, Schigolch, der Polizeikommissär - Toni Blankenheim
Der Maler, ein Neger - Robert Tear
Dr. Schön, Jack - Franz Mazura
Alwa - Kenneth Riegel
Ein Tierbändiger, Rodrigo - Gerd Nienstedt
Der Prinz, der Kammerdiener, der Marquis - Helmut Pampuch

Orchestre de l'Opéra de Paris
Pierre Boulez


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c20

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
21. 中川隆[-15012] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:41:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2111]

アルバン・ベルク ルル組曲

Pierre Boulez & Chicago Symphony Orchestra Alban Berg, Debussy & Stravinsky








From the Cologne Philharmonic Hall, Germany (2000)

Chicago Symphony Orchestra
Pierre Boulez - conductor
Christine Schäfer - soprano

0:57 Alban Berg - Lulu-Suite (1934) for soprano and great orchestra
(excerpt)

21:02 Claude Debussy - Le Jet d’eau (1907) for soprano and orchestra

28:33 Claude Debussy - Trois Ballades de Villon (1910) for soprano and orchestra
28:33 No. 1
33:30 No. 2
37:40 No. 3

42:05 Igor Stravinsky - The Firebird (1912) for great orchestra (complete ballet music)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c21
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
22. 中川隆[-15011] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:43:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2110]

ベルク: 抒情組曲 ブーレーズ 1974 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Hvht0RyB9jM


Pierre Boulez 4 March. & 21 Dec.1974
New York Philharmonic

Berg : Lyric Suite
第1楽章:アンダンテ・アモローソ 5:37
第2楽章:アレグロ・ミステリオーソ;トリオ・エスタティコ 3:30
第3楽章:アダージョ・アパッショナータ 5:56

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c22

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
23. 中川隆[-15010] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:46:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2109]

ベルク

Berg - Drei Orchesterstücke - BBC SO - Boulez 1967 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sszSkAYCpqU


Alban Berg
Drei Orchesterstücke op.6

I. Präludium. Langsam
II. Reigen. Anfangs etwas zögernd - Leicht beschwingt
III. Marsch. Mässiges Marschtempo

BBC Symphony Orchestra
Pierre Boulez
Studio recording, London, 22.III.1967
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c23

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
24. 中川隆[-15009] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:49:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2108]

ベルク ピアノソナタ

Mitsuko Uchida Works of Schoenberg, Berg, Webern - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=a1SA1-DvvI0


Arnold Schoenberg (1874-1951)
Klavierkonzert, op.42
1. I. Andante (“Life was so easy”)
2. II. Molto allegro (“Suddenly hatred broke out”)
3. III. Adagio (“A grave situation was created”)
4. IV. Rondo: Giocoso (“But life goes on”)

Anton Webern (1883-1945)
Variations, op.27
5. Sehr massig
6. Sehr schnell
7. Ruhig fliessend

Arnold Schoenberg
Drei Klavierstücke, op.11
8. I. Massig
9. II. Massig
10. III. Bewegt

Sechs kleine Klavierstücke, op.19
11. I. Leicht, zart
12. II. Langsam
13. III. Sehr langsam
14. IV. Rasch, aber leicht
15. V. Etwas rasch
16. VI. Sehr langsam

Alban Berg (1885-1935)
Klaviersonate, op.1
17. Piano Sonata

Mitsuko Uchida, piano
The Cleveland Orchestra
Pierre Boulez, conductor
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c24

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
25. 中川隆[-15008] koaQ7Jey 2019年11月11日 21:53:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2107]



Berg - Der Wein (Dorothea Roeschmann)





From the Salzburg opening concert, 2011. Vienna Philharmonic, Pierre Boulez.


____



Alban Berg Der Wein  アルバン・ベルク 管弦楽伴奏歌曲「ワイン」

 昨日ワイン(シャンパン)の記事を書きながら、ワインを歌った歌曲を探したところ、結構大作がありました。ボードレールの詩にベルクが作曲したオーケストラ伴奏による演奏会用アリア「ワイン」。「ワインの魂」、「愛する二人のワイン」そして「孤独者のワイン」という3編の詩に曲をつけていますが、一連の一つの作品として中断することなく演奏されます。

 ペトルッチ(IMSLP)のサイトにはピアノ伴奏譜が公開されています。ドイツ語の歌詞とともにボードレールのオリジナルの歌詞でしょうか、フランス語の歌詞も記されています。動画サイトには複数の音源が公開されています。私が見た限りではいずれもソプラノと管弦楽のオリジナル編成の様で、ピアノ伴奏版や男声によるものは見つけていません。梅丘歌曲会館のサイトでは3編の詩それぞれについて、ドイツ語の歌詞とその日本語訳と、ボードレールのフランス語歌詞とその日本語訳とが紹介されています。

 なんと言ってもベルクの作品ですから現代音楽の範疇にどっぷり入っている作風です。正直美味しいワインを飲みながら聞こうと思う曲ではありません。現代音楽の一つの作品を繰り返し聞いていると、だんだん飽きてしまう曲もありますが、この曲はその魅力が徐々に判って来る曲だと思います。酒を謳った管弦楽伴奏作品と言えばマーラーの「大地の歌」がありますが、ベルクのワインはマーラーの「大地の歌」の一つの楽章に匹敵する歌と言う事はできると思います。マーラーの「大地の歌」を意識した作品???としてはツェムリンスキーの「抒情交響曲」がありますがやや中途半端な作品に留まっている印象があります。ただ普通の人が普通に聞く分にはツェムリンスキーの「抒情交響曲」の方が普通に聞き易いでしょうね。

 ベルクの「ワイン」を自宅のオーディオで聞きながら酒を飲むと言う状況は正直思い浮かびません。この曲はあまり大きくない音楽専用ホールでの生演奏を、作品と対決するかのごとき姿勢で聴くのが一番良さそうです。ホールのホワイエにワインや他の酒を提供するバーがあったとしても、少なくとも「ワイン」を聞き終わるまでは素面でいるだろうと思います。
https://blog.goo.ne.jp/kawaikanta/e/2631d5615dad6ed953d3ae4307887402


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c25
[リバイバル3] マイナー真空管を使った真空管アンプは、その真空管が手に入らなくなったら不燃ゴミになる 中川隆
3. 中川隆[-15007] koaQ7Jey 2019年11月11日 23:59:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2106]
管球アンプも色々使ってきた - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1248b952198c0b2304b564b5c2ec4c16

真空管アンプも色々使って来た。上写真の物は英国のオールド球を使ったアンプ。現在オリンパスシステムの中域(#375用)に使っている。手持ちの管球アンプの中でも最高の音質だと思う。

このアンプは6L6ppアンプ。現在は出力管をGE6550にしてRCA箱システムの低域用に使っていたが、昨年Tr型アンプと入れ替えた。現在は予備機でストック。

ちょっと珍しいアンプで6RA7ppパワーアンプ。6RA7は小さい球ながらしっかりした低音が出るアンプであった。LUXMAN製だが、予備球が手に入らず処分した。

6L6ppパワーアンプ。6L6の球は英国製、米国製と色々試して見たが、メーカーでかなり質感が変わる。上の写真では6L6のメタル管を使っていた。

こちらも6L6ppパワーアンプ。6L6はGECのKT66と互換性が有る。GEC:KT66の予備球を探したが、お値段と綺麗な球が少なく、予備球の確保で諦めて手放した。

こちらは6L6(KT66)のシングルアンプ。なかなか良い音のするアンプであった。特にALTEC#614箱(604-8G)との組み合わせでは、前段管のNH4の艶やかさが出ていい塩梅だった。球の種類が多くなると「予備球」を増やさないといけないので、6L6やKT66クラスの球を使うアンプはすべて処分した。予備球のストックは「半ば死んだお金」である。増えすぎると管理も大変である。まだ他にも管球アンプは買ったが、使わないアンプは置き場所を取るので処分した。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1248b952198c0b2304b564b5c2ec4c16
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/961.html#c3

[近代史3] 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 中川隆
29. 中川隆[-15006] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:10:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2105]

2019年11月11日
女性天皇は天皇の権威を損なうか? 過去の女性天皇



記録に残る最初の女性天皇は神功皇后だが、女性天皇という制度がなく即位していない


画像引用:https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcQiEow1ocWMBGs5QyN3h61MBCACdQI0Y7WHM9bNRe0LKRSfRc1s

最悪の女性天皇、孝謙天皇とは

新天皇が即位して次の天皇は誰かということから、再び女性天皇の是非の議論が活発になっている。

現在の天皇に息子はなく娘の愛子内親王のみなので、皇位継承1位は弟の秋篠宮親王が「皇嗣」に就いている。

2位は秋篠宮家の長男である悠仁親王、3位は譲位した上皇の弟である常陸宮親王となった。



年齢から言って次世代の天皇は悠仁親王だが、天皇の娘である愛子内親王や、秋篠宮家の2人の姉も居る。

現在の法律では天皇は男子に限るとされているが、それは現在の法律で過去にはそうではなかった。

「天皇は男子に限る」としたのは実は日本政府や明治政府ではなく、ある事件がきっかけで天皇家自身が禁じました。


事件を起こしたのは46代孝謙天皇(48代称徳天皇と同一人物)で最初に即位したのは718年でした。

この頃まだ武士はなく平城京で天皇や貴族による律令政治が行われ、天皇から貴族へ実際の権力が移動していました。

孝謙天皇の父は45代聖武天皇で側室との間に男子があったが、地位が低かったのと早世したため男子の後継ぎがいなかった。


孝謙天皇は史上初めて未婚女性として皇位継承1位になり、皇太子に即位して父がなくなると天皇に即位しました。

孝謙天皇は718年産まれなので皇太子になった738年に20歳、天皇に即位した749年には31歳でした。

当時の状況から考えて天皇に即位したときはもう子供を産んで世継ぎを残す可能性はなくなっていたでしょう。

女性天皇禁止時代

そのせいなのか孝謙天皇はヒステリー気味で好悪の情が激しく、お気に入りの男子だけを宮廷に集めて嫌いな人を近づけなかった。

またいじめが大好きで下女に酷いあだ名をつけて、大勢でからかったなどの逸話も残されている。

孝謙天皇の宮廷はホストクラブのようになり、批判が高まって遠縁の淳仁天皇に譲位した。


だが孝謙天皇は実質的に淳仁天皇を支配し、6年後に退位させて48代称徳天皇として復帰してしまう。

再び宮廷はホストクラブ政治に逆戻りし、世継ぎや皇太子の指名を拒否したため孝謙天皇没後に空位になってしまった。

770年8月4日没後に藤原氏や公家が中心となって協議し、10月23日に光仁天皇が即位した。


孝謙天皇は人を人と思わないような所があり、お気に入り以外の人物を貶めるのが大好きだったので、死を惜しむ人はいなかったようです。

もう女性天皇はこりごりだ、絶対ダメだという事になり、以降1200年以上の間天皇は男子に限るとされてきました。

江戸時代の1740年に117代後桜町天皇が即位したが、これには特殊な事情がありました。


異母弟の桃園天皇が21歳でなくなり息子の後桃園天皇はまだ4歳だった事から、桃園天皇の生前指名によって即位した。

当時徳川幕府と朝廷の対立が深刻だったため、幼い皇太子の難を避けるため、公家衆が姉に中継ぎを依頼したと言われている。

後桜町天皇自身も天皇職に熱心ではなく、孝謙天皇同様生涯結婚せず子を残さなかった。


女性が皇太子や天皇になる事で婚期を逃し、後継ぎがないまま崩御するのを懸念し、この後女性天皇はより厳しく禁止された。

女性天皇全盛時代もあった

女性天皇は子孫を残さないこととヒステリー気味で好悪の情が強いなどが禁止された理由だが、女性天皇全盛時代もあった。

最初の女性天皇はあの聖徳太子時代の33代推古天皇で、皇太子だった甥の聖徳太子の活躍もあり大成功した。

十七条憲法を創設したり、当時の超大国隋に遣隋使小野妹子が「日出処天子」の国書を送ったことなどで知られている。


推古天皇・聖徳太子の2代後が35代皇極天皇で、天智天皇や天武天皇の母で舒明天皇の妻でした。

皇極天皇時代に実際の政治を行ったのは息子の中大兄皇子(天智天皇)で、推古天皇・聖徳太子の関係に近い。

中大兄皇子(天智天皇)は大化の改新や百済滅亡後の白村江の戦いで知られ、この時代に今日の「日本国」という概念が作られたとされている。


最初の2人の女性天皇が大成功だったので、第33代推古天皇から48代称徳天皇まで(推定西暦600年頃から764年)までが女性天皇全盛期となりました。

この間即位した16回のうち8回が女性、重祚(何度も即位する事)が2回あったので人数としては6人が女性だった。

その前にも22代の後に飯豊天皇、14代の後に神功皇后が天皇として政治を行ったが、天皇は男性に限るとされていたので正式な即位はしなかった。


33代推古天皇が正式に即位したのは偶然で、弟の32代崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されてしまい、蘇我馬子に請われて史上初めて女性天皇として即位した。

男子の天皇だと崇峻天皇の二の舞になるというので、実質的には権限のない女性のほうが安全という理由でした。

こうして神功皇后から117代後桜町天皇までを見ると、女性天皇は男子の世継ぎが居ない場合の選択肢だった。


一人娘とか弟や息子が幼いなどの理由で女性が天皇に指名され、男子の有力後継者が居る場合に即位した例はない。

すべての女性天皇に共通しているのは生父または生母が天皇の家系で、天皇の血縁者でないと天皇になれない。

また先代の天皇が「娘を天皇にする」と宣言した場合、周囲が反対しても次の天皇は娘になっている。


今後どうなるかですが、天皇が愛子親王を次の天皇に指名すると、実際にそうなる可能性は高い。

また愛子親王が結婚して男子を産み、孫を指名したり愛子親王が中継ぎ天皇になって相続する可能性もある。

秋篠宮悠仁親王に相続する場合も秋篠宮親王が中継ぎ天皇になる訳で、どうなるかは結局天皇自身が決めるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/81449793.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/316.html#c29

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
26. 中川隆[-15005] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:33:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2104]
アルバン・ベルク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF


アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年2月9日 - 1935年12月24日)は、オーストリアの作曲家。

アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残した。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。

ベルクはウィーンで富裕な商家の子供として生まれた。幼い時から音楽や文学に興味を抱き早熟な少年時代を送る。15歳の時、父が没した頃から独学で作曲を試みるようになる。この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていた[1]。

1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒルとの間の私生児の父となり、翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図るなど10代後半の私生活は波瀾に彩られたものだった。

1904年、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まる。ベルクはギムナジウム卒業後、公務員となるが作曲活動に打ち込むためわずか2年で辞職し、ウィーン国立音楽院へ。

1907年、「4つの歌曲」Op.2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾る。

1908年7月23日、宿痾の病となる喘息を発病、この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成を彩る事になる。

1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われており、ベルクの周辺では気位の高い女性として知られていた。

1912年、「アルテンベルク歌曲集」Op.4を完成するも師シェーンベルクの反応は色よいものではなく、この歌曲集の完全初演はベルクの死の17年後まで持ち越される。

1914年、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェック」の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽のオペラの作曲を始めたが、この年に第一次世界大戦が勃発、翌年から兵役に服する事になり作曲が不可能になったが、1917年になって休暇を与えられ、歌劇「ヴォツェック」 OP.7の作曲再開に踏み切った。「ヴォツェック」の完成はその5年後の事である。

「ヴォツェック」完成後、シェーンベルク50歳の誕生日に献呈するべく、ピアノ・ヴァイオリン・13管楽器のための室内協奏曲に取り組むも50歳の誕生日には間に合わず、1925年に完成する。

その同じ年に歌劇「ヴォツェック」がベルリン国立歌劇場でエーリヒ・クライバーの指揮によって初演された。初演にあたって34回ものオーケストラ練習と14回のアンサンブル練習が行われ、分奏を含めると総計150回の練習が行われたという。ベルクと指揮者は激しい批判に晒されるが、この作品によってベルクの作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。この年、プラハ訪問中に知り合ったハンナ・フックス=ローベッティーンとの不倫関係が始まり、この関係から「抒情組曲」という音楽的果実が実る事になった。

1928年、フランク・ヴェーデキントの戯曲「地霊」および「パンドラの箱」に基づく歌劇「ルル」の作曲に取り掛かるも、翌年には「ルル」の作曲を一時中断、演奏会用アリア「ワイン」を作曲した。

「ヴォツェック」の成功によって順調であるかに見えたベルクの作曲家人生は、1933年のナチス・ドイツ政権発足によって暗転する。師シェーンベルクと共に(ベルクはユダヤ人ではないが)ベルクの音楽も「退廃音楽」のレッテルが貼られ、ドイツでの演奏が不可能になる。

1935年、アルマ・マーラーと彼女の2番目の夫ヴァルター・グロピウスとの娘でベルクも可愛がっていた、マノン・グロピウスの訃報に接し、「ルル」作曲の筆を再び置いて、ベルクとしては異例の速筆でヴァイオリン協奏曲を書き上げる。しかし、協奏曲完成の直前に虫刺されが原因で腫瘍ができ、これが悪化、手術を受けるも敗血症を併発しこの年の12月24日に50年の生涯を閉じた。

未完のまま遺された「ルル」は完成していた2幕までと「ルル組曲」の抜粋という形で初演されたが、未亡人ヘレーネは補筆を禁じ、3幕の形での「ルル」(フリードリヒ・ツェルハ補筆版)初演はヘレーネ没後の1979年にパリのオペラ座にて行われた(パトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮)。ヘレーネがここまで頑なになったのは、第二次世界大戦後にショイヒルの子と会ったこと、ベルクとハンナとの不倫を知ったことによる夫への反感から情報をコントロールしようとしたことが原因とされる[2]。

主要作品


「ベルクの楽曲一覧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

7つの初期の歌曲
ピアノ・ソナタ Op.1
弦楽四重奏曲 Op.3
アルテンベルク歌曲集 Op.4
管弦楽の為の3つの小品 Op.6 (1914年 - 1915年/1929年改訂)
歌劇「ヴォツェック」 OP.7 (1925年初演)
室内協奏曲 (1923年 - 1925年)
抒情組曲 (1925年 - 1926年)
ヴァイオリン協奏曲 (1935年)
歌曲集「私の両眼を閉じてください」
管弦楽伴奏歌曲「ワイン」
歌劇「ルル」(1928年 - /未完成)

編曲

フランツ・シュレーカーの歌劇《はるかなる響き》のヴォーカルスコア(1911年)
アルノルト・シェーンベルクの《グレの歌》のヴォーカルスコア(1912年)
シェーンベルクの《弦楽四重奏曲第2番》の後半2楽章(同上)
ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c26

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
27. 中川隆[-15004] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:38:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2103]

ウィーン 音だより (3) ベルクとウィーン
http://www.takashi-sato.jp/reading/h16_berg.html



こちらもウィーン生まれの代表的な作曲家ながら、ベルクにはシューベルトほどの人気があるわけではなく、ゆかりの旧跡として残っている場所も多くありません。 アルバン・ベルク・ヴェーク(アルバン・ベルク通り)の名は、ベルクが生涯の大半を過ごした13区・ヒーツィングの小道に付けられていました。


「新ウィーン楽派」と「十二音技法」

ベルクが音楽史の中で属している「新ウィーン楽派」と、彼らが採用した作曲システム「十二音技法」について、まずは簡単に解説しておきましょう。


シェーンベルク

「新ウィーン楽派」は、オーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクと、その弟子たちが形成した集団のことで、 ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの「ウィーン古典派」に因んだ名称と考えられています。 代表的な作曲家はシェーンベルク自身と、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクの3人だけです。

バロック以降、300年にわたって西洋音楽を支えてきた「調性」という概念はロマン派の成熟とともに揺らぎ、次第に飽和・行き詰まりの様相を見せるようになります。 ヴァーグナーの「トリスタン」に代表されるように、拡大され、不明瞭なものとなっていった調性が、表現の進歩とともにやがて崩壊に向かうのは歴史の必然でした。 シェーンベルクや同世代の作曲家たちは、こうして「無調」に到達します。しかし、無調の音楽というのはそう簡単に作れるものではありません。

調性は、いわば音楽を束ねてきた「輪ゴム」のようなものでした。輪ゴムが劣化して緩くなり、ついに切れてしまうと、 それまで輪ゴムによって秩序立てられてきた音楽はバラバラになってしまい、「無意味な音の羅列」になりかねない。 シェーンベルクは、調性に代わる新たな「輪ゴム」(秩序)を、無調の音楽に持ち込まなければならないと考えました。

調性音楽においては、1オクターヴの中にある12の音のうち、7つの音が「音階」を形成し、そのうちの1つは「主音」、主音の完全5度上の音は「属音」などと、 それぞれに特別な機能(役割)を与えられます。重要な役割を付与された音は、その音楽の「主役」として何度も登場し、 それ以外の音は主役に従属する「脇役」になる。シェーンベルクはこうした音と音との主従関係に注目して、調性に代わるシステムを考案しました。


・ 1オクターヴの中の12の音の中に「主役」や「脇役」を設けず、すべての音の登場回数を均一化する。

・ 12の音を1回ずつ使った「基本音列」を設定し、「基本音列」のヴァリアントによって音楽を構成していく。


ヴェーベルンの「協奏曲」作品24の基本音列

これが「十二音技法」の基本的なアイディアです。

西洋音楽をラディカルに変革し、「調性の崩壊」を招いた張本人と目されることもあるシェーンベルクですが、 本人はバッハやベートーヴェンから脈々と続くドイツ音楽の後継者を自認しており、あくまでドイツ音楽が今後も優位を保っていくための正統的な進歩を目指していました。 ドビュッシーやストラヴィンスキーなどが伝統に反抗することで無調に達したのとは、正反対の道のりだったのです。


青年期まで

ウィーン中心部、ベルクの生家があった場所

アルバン・ベルクは1885年2月9日、ウィーンの中心部で生まれました。父は書籍や美術品の店を経営しており、芸術的な素養のある母のもと、 ベルクとその兄弟たち(兄2人と妹1人の4人兄弟)は、文化的で裕福な生活を送っていました。 一家に職業音楽家はいませんでしたが、ベルクは妹とピアノを連弾したりして音楽に親しみ、14歳頃から作曲を試みるようになります。 作品の多くは歌曲で、書き上がると家庭内で披露されました。

そんな幸せな日常が暗転したのは1900年のことでした。父が心臓発作で急死してしまったのです。残された一家は経済的に逼迫しました。 精神的ショックからか、15歳のベルクは7月23日に持病となる喘息の発作を起こします(一説には1908年の7月23日)。 以降、ベルクは「23」を運命の数字と定め、自らを表す数として作品の中で暗示的に使用しました。

不幸は続きます。1902年には一家の別荘で雇っていたメイドの女性を妊娠させてしまい、ベルクは私生児アルビーネの責任を負う証書を書かされました。 学業の成績も低迷し、精神的に追い詰められたベルクは自殺未遂に至ります。

しかし音楽の創作はこの間も絶えず行われ、140曲もの歌曲が独学で書かれました。兄がそのうちの数曲を密かにシェーンベルクに見せたことから、ベルクの運命は変わります。 若者の才能を認めたシェーンベルクは、一家の財政状況を鑑みて、ベルクを無償で弟子に取ることを決めたのでした。 1904年、ベルクが学校を卒業し、役所の会計士見習いとして働き始めた年のことです。


作曲家としてのあゆみ

シェーンベルクは、ベルクの声楽曲への偏愛や、ナイーヴで人間的な感受性をすぐに見抜きましたが、それだけではいずれ行き詰まると考え、器楽も対等に扱えるように、厳格で秩序だった技術的訓練を施しました。 15歳で実父を亡くしたベルクにとって、シェーンベルクは人生に導きを与えてくれる新しい父でした。 1911年にシェーンベルクがウィーンを離れたことで修行期間は終わりますが、シェーンベルクはそれからもことあるごとに、ベルクの音楽や生活に口を出し続けました。 ベルクは恩師を心から尊敬しつつも、その保護者気分に幾分うんざりしてもいたようです。

ヴェーベルン

1905年に母方の遺産を引き継いだことで、一家の経済状況は安定し、ベルクも役人見習いの仕事を辞めて音楽の勉強に専念することができるようになりました。

ウィーン音楽院に入学した彼は、同じくシェーンベルクの弟子だったアントン・ヴェーベルンと出会います。 理知的でヴァイタリティに溢れ、師の信頼を勝ち得ていたヴェーベルンは、繊細で病弱なベルクとは正反対の性格の持ち主でしたが、それにもかかわらず二人は生涯の親友となりました。

マーラー

ベルクの学生時代の最大のスターはマーラーでした。ウィーン国立歌劇場の総監督として辣腕をふるう姿に心酔したベルクは、 終演後の楽屋に押し入ってマーラーの指揮棒を強奪するという蛮行に出ています。マーラーの死後、ベルクはその未亡人アルマや、 アルマの次の夫である彫刻家のヴァルター・グロピウスとも親交を結びました。

ベルクは持ち前の感受性と教養の高さから、あらゆる芸術分野に精通していましたが、ウィーンっ子らしくサッカー観戦に熱狂するような一面も持ち合わせており、 また彫りの深い顔立ちで、仲間内では美男子としても有名でした。


妻ヘレーネ

1907年にベルクはオペラ歌手のヘレーネ・ナホヴスキと出会い、猛烈な恋に落ちます。ヘレーネの母は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人で、 ヘレーネは皇帝の庶子と噂されていました。自身と同じように高い教養と理想を持ったヘレーネとの結婚は、 彼女の父の反対によりなかなか実現しませんでした。この頃作曲されたピアノ・ソナタ作品1、弦楽四重奏曲作品3をはじめとする初期の重要な作品には、 この苦しく激しい愛の情熱が表れています。

2人は1911年5月3日にようやく結婚し、郊外のヒーツィングに居を構えました。ベルクは自宅を離れる日には毎日妻へ手紙を書き、忠誠と愛情を示し続けました。


CD「ウィーン 音だより」に収録されているピアノ・ソナタ作品1は、シェーンベルクのもとでの学習の総仕上げとして書かれた「卒業作品」です。 作曲時期は明確にはわかっていませんが、1909年頃に完成したと考えられ、1910年、ベルクの記念すべき作品1としてベルリンのリーナウ社から自費出版されました。 表紙に印刷されている独特の丸文字は、作曲者自身がデザインしたもので、彼の美的なセンスが発揮されています。

ベルクは当初、多楽章形式の伝統的なソナタを構想していましたが、第1楽章を完成させたところで行き詰まりました。 シェーンベルクに相談したところ、「それならば、君はもう言うべきことを全部言ってしまったのだ。これで終わりにしてはどうか」とアドヴァイスされ、結局単一楽章のソナタとして完結しました。

半音階や全音音階、4度音程の多用によって調性感は極めて曖昧にされていますが、一応はロ短調をベースにしています。 拡大され尽くした調性とは対照的に、ソナタ形式の構造は明瞭に造形されており、提示部には古典派風の繰り返し記号まで付けられています。 詳しい分析はここでは割愛しますが、モティーフを徹底的に、とりわけ対位法的に操作していく方法はベートーヴェン以来のソナタの伝統を受け継ぐものです。 しかし全体を覆う爛熟した響きは悲劇的、かつ頽廃的な雰囲気を纏っており、伝統と革新が交錯する世紀末ウィーンの空気を色濃く反映した作品といえるでしょう。

出版の翌年1911年に弦楽四重奏曲作品3や、ヴェーベルンの新作などとともに初演され、騒動を巻き起こしたと伝えられています。 ベルクが生前に出版したピアノ独奏曲はこの1曲のみです。


13区・トラウトマンスドルフガッセ27番地のベルク夫妻の住居


シェーンベルクの門を離れ独り立ちしたベルクでしたが、作曲家としてのスタートはなかなか軌道に乗りませんでした。 シェーンベルク門下生の発表会以外に作品披露の場はなく、その発表会でさえも、聴衆の罵倒と暴動で警官が呼ばれるような始末でした。 保守的なウィーンの聴衆の、現代音楽に対する風当たりは厳しいものでした。

“ ドイツ、フランス、イタリアで、私の音楽への関心が生じてきたらしいことを感じますが、オーストリアでは全く反対です。 シェーンベルクの主宰する「私的音楽演奏協会」を除いては、ウィーンでたとえ1曲でも私の作品が演奏される場所はありません。 「ピアノ・ソナタ」ですら演奏されないのです。
(1920年、エドゥアルト・エルトマンから自作の交響曲を献呈されたことに対する感謝状より)

第一次世界大戦が始まると、召集されハンガリー国境に配属されますが、病弱な身体は軍隊の生活に耐えられず、すぐにウィーンの大本営に戻されました。 開戦当初は愛国心に燃えていたベルクでしたが、自身の体験を通して戦争の悲惨さと無意味さを痛感するようになります。

戦争が終わると、シェーンベルクの設立した「私的音楽演奏協会」の代表に任命されました。 ウィーンで現代音楽を演奏し、人々を啓蒙するために、この協会は理想的な組織でした。 聴衆の拍手は禁じられ、演奏が充分なレヴェルに達していないと見なされれば発表は取りやめられました。 ベルクはこの演奏会の企画や運営に深く関わり、彼のいくつかの作品の初演もここで行われましたが、依然として成功へのきっかけをつかむことはできませんでした。

作曲家としての成功を半ば諦めたベルクは音楽ライターへの転身を図り、実際に音楽雑誌に記事を投稿したりしていますが、 そこでは彼の優れた文筆力と分析家としての手腕が発揮されています。


「ヴォツェック」の成功

完全な無調のスタイルを手中に収めたベルクの創作態度は実に丁寧なもので、1作を書き上げるのに何年もかかるのが常でしたが、 ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェク」のオペラ化には、実に構想から8年もの歳月が費やされました。 従軍や「私的音楽演奏協会」の役職による中断を挟みながら、少しずつ書き進められたオペラ「ヴォツェック」は、1922年に完成しました。

貧しい下級兵士ヴォツェックは金のために人体実験の被験者となって精神を病み、内縁の妻の不倫を知って錯乱、彼女を刺殺し、自らも溺死する…という救いのない筋書きに、 ベルクは無調様式を駆使した濃密な音楽を付与していきました。そこには、自らの過酷な従軍体験も反映していたに違いありません。

アルマ・マーラー

依頼を受けて書かれたのではない「ヴォツェック」は、上演の見込みはなかったものの、若い作曲家を支援していたアルマ・マーラーの援助を受けて自費出版されることとなりました。 これが功を奏し、ベルクの運命は好転し始めます。

1923年4月にはウィーンのウニフェルサル出版社と独占契約を結び、過去も含めてすべての作品が同社から出版されることになります。 8月にはザルツブルクの国際現代音楽祭で弦楽四重奏曲作品3が演奏され、新聞で賞賛されました。

「ヴォツェック」も、意気盛んな指揮者たちの注目を集めていました。ヘルマン・シェルヒェンはオペラの一部を抜粋した組曲を委嘱、 この「組曲版」は1924年にフランクフルトで初演され話題となります。全曲の上演は1925年12月14日、ベルリン国立歌劇場で行われました。 指揮を執った若き芸術監督エーリヒ・クライバーはかねてからこの作品の真価を見抜いており、「職を賭す」覚悟で初演に臨みました。 保守層からの反発はあったものの、結果的に作品は大成功を収め、ベルクは40歳にしてビッグネームを勝ち得ます。 ヨーロッパ各地での上演に招かれては聴衆の喝采を浴び、出版社からの収入は月給制となり、自動車や別荘を買うなど、 「成功者」としての生活がベルクを待ち受けていました。


ハンナ・フックス

転機のベルクはまた、新たな熱愛の対象をも手にすることになります。 プラハに住む友人のヘルベルト・フックスを訪ねていったベルクは、あろうことかその妻ハンナと熱烈な恋に落ちたのです。

妻ヘレーネへの忠実な手紙は以降も書き続けられましたが、その言葉は実は空虚なもので、ベルクはその後の生涯を通してハンナだけを愛し続け、その愛情こそがインスピレーションの源でした。 ハンナは、アルマ・マーラーの後の夫となるフランツ・ヴェルフェルの妹でもありました。ヘレーネはこの不倫関係にうすうす感づいていたようで、仲を取り持ったアルマは後々までヘレーネの恨みを買うこととなります。

ハンナへの愛から生まれた作品は弦楽四重奏のための「抒情組曲」で、運命の数字「23」、自身とハンナの頭文字をはじめ、 譜面には2人にしかわからない秘密の暗号が大量に書き込まれました。その妄想的なまでの情熱を、ハンナ本人がどう受け止めていたのかはよくわかりません。

この頃からベルクは、師シェーンベルクの開発した十二音技法を、自らの創作に採用し始めますが、その手法は独特で、ある意味ではシェーンベルクの理念に反するものでした。

シェーンベルクは十二音技法を実践するにあたって、聴き手に調性を感じさせないよう、三和音や音階など従来の調性音楽に使われていた音型を避けるようにして音列を組む、という規則を設けました。 ベルクはこれを意図的に無視して、伝統的な調性音楽と十二音技法との折衷を目指したのです。

もうひとりの弟子ヴェーベルンが、十二音のシステムを更に推進する急進的な作風を見せたのに対し、ベルクはあくまでも耳に心地よい音楽を求め続けました。 ウィーン人らしい保守性を、ベルクは捨て去ることができなかったともいえるでしょう。


「ルル」と晩年

「ヴォツェック」が成功すると、ベルクはすぐに次のオペラの構想を練り始めます。原作に選ばれたのは魔性の女「ルル」を主人公にしたフランク・ヴェーデキントの戯曲でした(「地霊」と「パンドラの箱」)。 出会った男を次々に虜にし、破滅に追いやるルル。ベルクにもまた、ルルの魔力が降りかかったのかもしれません。

「ルル」の作曲が進むにつれて彼の周囲ではトラブルが多発し始めます。ナチスの台頭によって、ユダヤ人のシェーンベルクを頂点とする新ウィーン楽派への弾圧が激しくなり、 シェーンベルクは1933年にアメリカに亡命。ベルクに批判的だった保守派の評論家たちの声はますます大きくなり、「ヴォツェック」の上演は途絶え、収入も激減します。 ベルクの健康状態も、今までになく悪くなっていきました。



マノン・グロピウス

1935年4月、ヴァルター・グロピウスとアルマ・マーラーの娘、マノンが18歳の若さで他界します。女優を目指していたこの美少女をとりわけ可愛がっていたベルクは、 アメリカのヴァイオリニスト、ルイス・クラスナーから委嘱されていたヴァイオリン協奏曲を、マノンの追悼に捧げることにしました。 ベルクの作品としては異例の速さで書かれたこの協奏曲は、モーツァルトの「レクイエム」やマーラーの晩年の作品と同じように、作曲者自身の死が近いことをを予感させるものでもありました。

ヴァイオリン協奏曲を完成させ「ルル」の仕上げにかかっていたベルクは、夏の間に背中にできた虫さされが悪化し、年末に重体となります。 運命の日、12月「23日」の夜を何とか持ちこたえたベルクは、翌24日の未明、敗血症で息を引き取り、自宅の近くのヒーツィング墓地に葬られました。50歳でした。

ヒーツィング墓地のベルク夫妻の墓

遺作となった「ルル」は、最終幕が未完のまま残されました。アメリカにいたシェーンベルクや、 ヴァイオリン協奏曲の初演の指揮を執ることになっていたヴェーベルン(盟友の死にショックを隠しきれず、リハーサルの後急遽降板)に補筆の依頼が舞い込みますが、誰も首を縦に振ろうとしませんでした。

そうこうするうちにヘレーネ夫人の態度が硬化し、ベルクの全作品の管理を徹底するとともに「ルル」の補筆を全面的に禁止しました。 死後に訪ねてきた私生児アルビーネの存在を知ったことや、ハンナ・フックスとの不倫関係など、ヘレーネの中では亡き夫に対する複雑な感情が渦巻いていたのでしょう。 ヘレーネはそうしたネガティヴな事実を隠蔽すべく、情報をコントロールしようとしたのです。彼女は夫からの大量の書簡を発表しましたが、原文は公開されず、 ヘレーネの「口述」に基づくもので、その信憑性には疑問がもたれています。

ヘレーネの死後、その遺言に逆らってウニフェルサル社がウィーンの作曲家フリードリヒ・ツェルハに「ルル」の補筆を依頼していたことが明らかになりました。 晩年のヘレーネが設立した「アルバン・ベルク財団」は即座に法的措置を執りましたが、最終的に第2幕までと第3幕の補筆版を分けて発表する、ということで合意しました。 補筆版はピエール・ブーレーズの指揮により1979年に上演されました。

慎重に、そして緻密に作品を創造していったベルクは、極めて寡作な作曲家でしたが、その作品のどれもが人類のかけがえのない遺産として高く評価されています。 死後40年以上を経て日の目を見た完成版「ルル」も、「ヴォツェック」と並んで世界の歌劇場の人気レパートリーとして定着しています。


[参考文献]
・アルバン・ベルク ―生涯と作品―(フォルカー・シェルリース著、岩下眞好・宮川尚理訳、泰流社)
・Alban Berg, A Research and Information Guide (Bryan R. Simms, Routledge)
・Alban Berg Bildnis im Wort (Willi Reich, Die Arche)

http://www.takashi-sato.jp/reading/h16_berg.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c27

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
28. 中川隆[-15003] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:51:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2102]

私の両眼を閉じてください


『私の両眼を閉じてください』(ドイツ語: Schliesse mir die Augen beide)は、アルバン・ベルクがテオドール・シュトルムの同一の詩に曲付けした2つのリートである。『私の両の瞼を閉ざして下さい』等の日本語訳題もある。


Schliesse mir die Augen beide
mit den lieben Händen zu!
Geht doch alles, was ich leide,
unter deiner Hand zur Ruh.

Und wie leise sich der Schmerz
Well' um Welle schlafen leget,
wie der letzte Schlag sich reget,
füllest du mein ganzes Herz.

私の両目を閉じてください、
その愛しい両手で!
そうすれば全てが、私の苦しみは
あなたの手の中で眠るのです。

そして、悲しみが静かに
波を打って眠りに付く時には、
その最後のひと寄せが打ち寄せるとき、
あなたは私の心の全てを満たしてくれます。

1907年に作曲したハ長調の歌曲(4分の5拍子)と、十二音技法によって作曲された1925年の歌曲の2つがあり、前者は(作曲当時)未来の妻となるべきヘレーネ・ナホフスキーに、後者はウニヴェルザール出版社の創立25周年記念に、それぞれ献呈されている。

1925年版は、ベルクの十二音技法が初めて本格化した楽曲であり、ここに使われた音列は、1926年の『弦楽四重奏のための抒情組曲』に再利用された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AE%E4%B8%A1%E7%9C%BC%E3%82%92%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84

▲△▽▼


1907年版

Hermann Prey - Schliesse mir die Augen beide - Alban Berg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hA00s2kqq04

Alban Berg, Schliess mir die Augen beide

Baritone: Hermann Prey
Piano: Michael Krist

Recording: Phonogram GmbH, Munich, October 1975


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berg Schliesse mir die Augen beide (1925) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5z98t_-DnYc

Margaret Marshall · Geoffrey Parsons
1925年版
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c28

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
29. 中川隆[-15002] koaQ7Jey 2019年11月12日 00:57:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2101]

ベルク アルテンベルク歌曲集


Renée Flemming Alban Berg - Lieder Op. 4 Altenberg Lieder (Lucerne Festival, Claudio Abbado) - YouTube






Live recording from the Lucerne Festival, 2005

Lucerne Festival Orchestra
Claudio Abbado - conductor
Renée Fleming - soprano

Alban Berg - Songs Opus 4 "Altenberg-Lieder"
Five Orchestral Songs after Texts from Postcards by Peter Altenberg

1:05 I. Seele, wie bist du schöner
3:34 II. Sahst du nach dem Gewitterregen den Wald
4:34 III. Über die Grenzen des All
6:11 IV. Nichts ist gekommen
7:34 V. Hier ist Friede

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c29
[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
30. 中川隆[-15001] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:03:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2100]

ベルク アルテンベルク歌曲集

Alban Berg - Five Orchestral Songs Altemberg-Lieder - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=q6g9zzPhkOU
https://www.youtube.com/watch?v=MxwLrL5zEMA
https://www.youtube.com/watch?v=ZeC6eQuyjzM
https://www.youtube.com/watch?v=8PfrCp_4LRY
https://www.youtube.com/watch?v=XJO_Letoai8


Alban Berg, Five Orchestral Songs "Altemberg-Lieder", Op. 4.

Margaret Price, Soprano.
Claudio Abbado, Conductor.
London Symphony Orchestra.
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c30

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
31. 中川隆[-15000] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:08:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2099]

ベルク編曲 ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)

新ウィーン楽派編曲によるヨハン・シュトラウス2世:ワルツ作品集
皇帝円舞曲,南国のバラ,酒・女・歌,他
ボストン・シンフォニー・チェンバー・プレーヤーズ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W1FO_SZJrsQ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c31

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
32. 中川隆[-14999] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:27:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2098]
ベルク編曲 ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)


J. Strauß- Wein, Weib und Gesang, arr. Alban Berg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lLoVdUiyO20


Mario Hossen, Violin
Kristina Hinova, Violin
Zsofia Holyevac, Viola
Lilyana Kehayova, Violoncello
Andres Anazco, Piano Alfredo
Ovalles, Harmonium
CD Souvenir de Vienne 2014
_____


Johann Strauss II Wein, Weib und Gesang, op. 333 (transcr. Berg) - Riccardo Caramella Ensemble - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HjKHFgKznfc


Wein, Weib und Gesang, op. 333
Transcription by Alban Berg (1885 - 1935) for string quartet, harmonium & piano (1921)
Introduktion (Andantino) -- Allegro moderato -- Maestoso - Walzer 1 - Walzer 2 - Walzer 3 - Walzer 4 -- Schluss


Riccardo Caramella Ensemble

Quartetto Voces:
Bujor Prelipcean, violin
Anton Diaconu, violin
Ion Stanciu, viola
Dan Prelipcean, cello

Fabio Luz, harmonium
Riccardo Caramella, piano

live concert, Auditorium Rai, Torino, 1987
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c32

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
33. 中川隆[-14998] koaQ7Jey 2019年11月12日 01:49:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2097]
ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》原曲


Zubin Mehta, Wiener Philharmoniker - Wein, Weib und Gesang, Walzer, Op. 333




___


J. Strauss II Wein, Weib und Gesang, Op.333 - YouTube
Berliner Philharmoniker · Herbert von Karajan
https://www.youtube.com/watch?v=d5aqmqxLWo4

_____


Wein, Weib und Gesang, Op. 333 - YouTube
Wiener Philharmoniker/Herbert von Karajan
https://www.youtube.com/watch?v=czkGB_bnAuc

_____

J. Strauss II Wein, Weib und Gesang, Op. 333 (Live) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HjpxeyyShnI


Wiener Philharmoniker · Willi Boskovsky
New Year's Day Concert In Vienna
Released on: 1979-01-01

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c33
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽なのか?

ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」_ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽なのか?


Pierre Boulez conducts Anton Webern - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Anton+Webern+Pierre+Boulez++


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松浦晋也‏ @ShinyaMatsuura

ピエール・ブーレーズがけちょんけちょん。でも説得力はある。

[野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」] http://ooipiano.exblog.jp/17114030/

かつてブーレーズ自身が怒れる若者として「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」とアジっていたことを考えると時の流れを感じる。
https://twitter.com/shinyamatsuura/status/138564932429029376


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2011年 11月 20日
ブーレーズとは何だったのか ――― 野々村 禎彦
https://ooipiano.exblog.jp/17114030/

c0050810_6173838.jpg 音楽史から切り離された独自の道を歩んできた(それこそ「前衛」の名にふさわしいという見方もあろうが)クセナキスと、音楽史に翻弄されてきた(後半生で開き直ったことも含めて)リゲティ。ふたりの作曲家の歩みを振り返るのは、作品を十分に聴いていればさほど難しくはない。だが、ブーレーズの場合はそうはいかない。どの戦後音楽史のテキストにも彼が作曲活動を旺盛に行っていた時期のことは詳しく書かれており、彼の歩みがそのまま「音楽史」の一部になっているように見える。それをまとめ直すだけの作業には殆ど意味はない。それが、彼は「現代音楽の保守本流」だったということである。


作曲家=指揮者=音楽教育者=音楽行政官。まず、この肩書きから検討しよう。各々の仕事の高い水準は日本でも十分実感できる。指揮者としての録音は言うまでもなく、作曲作品の録音や譜面も手に入りやすい方で、論文集や講義録も邦訳されている。Ircam所長としての仕事は、専属団体アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)が80年代から90年代半ばにかけて(ロンドン・シンフォニエッタの活動が飽和してからアンサンブル・モデルンが台頭するまで)20世紀音楽演奏を支え、ブーレーズ時代に開発された音響合成ソフトMAXが今日でもジャンルによらず標準的であることを挙げれば十分だろう。


教育者及び指揮者としての区切りは1963年。この年に最初の論文集『現代音楽を考える』を出版し、コレージュ・ド・フランスで講義を始め、フランス国立放送管との《春の祭典》の録音が高く評価され、《ヴォツェック》のフランス初演を指揮した。他方、作曲家としての主要作品は、1961年に《構造II》を完成させ、翌1962年に《プリ・スロン・プリ》全曲が最初に出揃った時点でほぼ出尽くした。これ以降の作品は、ブーレーズ特集のような企画公演以外ではあまり取り上げられない。またこれ以前は、バロー劇団やドメーヌ・ミュジカルで指揮者修行に励んでおり、作曲に加えて音楽教育にまで時間を割く余裕はなかった。作曲家=指揮者見習いから指揮者=音楽教育者への転身。

すなわち彼は、才能に任せて片っ端から引き受けるタイプではなく、能力の限界を見極めて優先順位を付けてゆくタイプ。世界の一流オーケストラの指揮を始めたら、作曲活動は副業になった。Ircam所長就任時も同様で、実際に仕事を始める前までにBBC交響楽団とニューヨークフィル(NYP)の音楽監督を辞している。Ircam所長職自体は役人仕事だとしても、彼の場合はEIC音楽監督を兼任し、研究所のために作曲することも求められていた。大型コンピュータを用いたリアルタイム音響合成システム4Xの一般公開のために書かれた《レポン》は、所長就任以前の《リチュエル》以来の大作で、この作業に刺激されて《デリーヴ》などの派生作品が生まれ、《ドメーヌ》のアンサンブル版を4Xシステムのために全面改稿した《二重の影の対話》も完成させ、《プリ・スロン・プリ》《カミングスは詩人である》の管理された偶然性部分を確定させ、補筆も行った。

c0050810_6193479.jpg 本気で作曲に取り組むと(《レポン》がそれだけの作品かどうかは別にして)創作意欲が湧いてくるのはいかにもだが、若かりし頃の彼がそうだったように、どんなに忙しくても湧いてしまうのが本来の創作意欲ではないか? 例えばアイヴズの代表作は、保険会社の創業者=副社長として事業を拡大する激務のさなかの週末に書かれている。《レポン》に取り組む直前のブーレーズの作曲活動は《ノタシオン》のオーケストレーションという明らかに不毛な作業だった。《レポン》祭り後は再び作曲頻度が落ち、Ircam所長を退職してからも、力を割いたのは指揮活動だった。もっとも、今回のオファーは音楽監督ではなく、ベルリンフィル、ウィーンフィル、シカゴ響、クリーブランド管など世界の超一流オーケストラを作品に応じて使い分け、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、バルトーク、マーラー、新ウィーン楽派という得意レパートリーを網羅的に録音する巨匠待遇であり、NYP時代には団員のサボタージュの結果としか思えない録音も散見されたことを思い出すと、そちらを優先してしまうのは音楽家として当然かもしれない。


とはいえ、Ircam所長退職後にブーレーズは晴れて指揮者=作曲家になり、そうして書かれた作品が《内挿節》や《日めくりの一頁》ということになるわけだが…どうしてこうなった? まず、作曲家のピークは思いの外短く、10年続けば一流、15年続けば超一流と言ってよい。シェーンベルクですら開店休業状態が長く、霊感にあふれていたのは1906〜13年(室内交響曲第1番〜幸福な手)、1927〜32年(弦楽四重奏曲第3番〜モーゼとアロン)、1946〜50年(弦楽三重奏曲〜現代詩篇)の計約15年にすぎない。それがブーレーズの場合は1946〜62年だったとしても恥じることはない。また、ブーレーズ絶頂期の数少ない汚点はミュジック・コンクレートを用いた作品であり、彼のアキレス腱が電子音楽にあることは明らかだ。器楽的発想から逃れられないのだ。《レポン》以降にデジタル電子音響と関わるようになっても、何も変わっていない。4Xシステムも器楽的な発想で設計されているが、そこで自動生成される装飾音型を「未来の音楽」だと誤認し、作曲にフィードバックさせてしまった結果が彼らしからぬ近作なのだろう。

残る問題は、ブーレーズは果たして「現代音楽」の人なのか? 指揮者として見ると、極めて疑わしい。先に挙げたように、彼が得意レパートリーとする作曲家はことごとく19世紀末〜20世紀前半のモダニズムを代表する人々であって、現代の作曲家ではない。作曲家=指揮者は自作を振っていれば良いという考え方もあろうが、ベリオ、シュトックハウゼン、アルフテル、ペンデレツキをはじめ、多少なりとも指揮の心得のある作曲家はみな自作は振るもの。作曲家でもあるギーレンがB.A.ツィンマーマンを絶対的なレパートリーにしていたように、自作以外にも現代レパートリーを持っていなければ「現代音楽の指揮者」とは呼べない。ブーレーズは、ドメーヌ・ミュジカルやEICの音楽監督時代には多くの作品を初演しているが、それは仕事として処理していただけで、音楽史に残る作品で初演したのはクセナキス《エオンタ》とリゲティのヴァイオリン協奏曲程度。いわゆる一流オーケストラが取り上げるのは現代音楽でも評価が確立した作品であり、委嘱するのも序曲代わりの小品になりがち。音楽史に残る作品を初演するのは現代音楽祭のレジデントオーケストラを務めるヨーロッパの放送オーケストラの役割、という構造はもちろんあるが、シェルヘンがクセナキスを発掘したような役割を果たす余地はあったはずだ。


そもそも彼は現代音楽の作曲家なのか? これも定義しだいかもしれない。20世紀に生まれ、戦後に活躍した作曲家という定義ならもちろんそうだし、総音列技法や管理された偶然性を主導したのだから言うまでもない、という見方も妥当ではある。だが、このような前衛技法の導入は、果たして20世紀前半のモダニズムと質的に異なるのだろうか。ケージ流の偶然性ならばさすがに違うが、管理された偶然性はルバートのようなものだと彼自身述べており、大編成作品ではデメリットの方が大きいとして、後年に選択の余地がない形に改訂している。結局、その程度のものだったということだ。リゲティが示唆していたように、総音列技法は後期ヴェーベルンの亜流に過ぎないという見切り方も可能だ。少なくともブーレーズが指揮活動中心に乗り換えた60年代初頭は、それまでモダニズム一筋で歩んできた作曲家たちが岐路に立った時期である。例えばシュトックハウゼンの場合は、総音列技法は《クラヴィア曲第10番》、電子音楽は《コンタクテ》でピークを迎えた。そこで彼は引き返さず、即興的要素を含むライヴエレクトロニクスの制御にまで「音列」概念を拡大し、20世紀後半最大の音楽的達成のひとつである自由即興音楽との境界領域に近づいてゆく。ミュジック・コンクレートを探求してきたフェラーリの場合は、具体音を抽象的に構成するシェフェールの理論をひっくり返し、具体音の意味性を全面的に利用する、孤独だが豊穣な道をこの時期に歩み始めた。彼らに限らず、この時期にモダニズムの彼方を独力で見出した作曲家たちは、前衛の時代が過ぎても探求を止めなかった。

「現代◯◯」の定義に関しては、現代美術を参照するのが示唆的だろう。20世紀前半のモダニズムは、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチ、クレーらの抽象絵画を生んだが、彼らの作品が現代美術にカウントされることはない。現代美術は、あくまで戦後米国の抽象表現主義から始まる。『クレーの絵と音楽』という幸福な本の中で閉じたブーレーズの美学がどちら側に属するのかは明らかである。
https://ooipiano.exblog.jp/17114030/

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ヴェーベルン:作品番号付き作品全集 ブーレーズ、他(3CD)
https://www.hmv.co.jp/news/article/1308040003/

ブーレーズが成し遂げた最上の成果が刻まれたアナログ時代の超名盤『ヴェーベルン作品全集』が、マスターズ・ボックスに登場します。1967年から1972年にかけて録音され、1979年に4枚組LPで発売されて以来ウェーベルン作品の鑑賞には不可欠とされている精緻な名演ぞろいのボックスです。

 すべての作品番号付き作品が番号順に収録され、後期ロマン派風様式から、無調を経て12音技法へと変遷してゆく過程を音として体験することができます。ヴェーベルン自身が指揮するシューベルト『ドイツ舞曲』の歴史的録音も収められています。
 ベルリンのb-sharpスタジオでリマスタリングをおこない、マスターテープに忠実で伸びやかなサウンドを実現。なお、このセットにはブックレットは付いておりません。(SONY)

【収録情報】ヴェーベルン

Disc1
・管弦楽のためのパッサカリア Op.1
・軽やかな小舟に乗って逃れよOp.2
・『第7の環』による5つの歌曲 Op.3
・5つの歌曲 Op.4
・弦楽四重奏のための5つの楽章Op.5
・管弦楽のための6つの小品 Op.6
・ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 Op.7
・2つの歌曲 Op.8
・弦楽四重奏のための6つのバガテル Op.9
・管弦楽のための5つの小品 Op.10
・チェロとピアノのための3つの小品 Op.11
・4つの歌曲 Op.12

Disc2
・4つの歌曲 Op.13
・6つの歌曲 Op.14
・5つの宗教的な歌 Op.15
・ラテン語のテキストによる5つのカノン Op.16
・3つの宗教的民謡 Op.17
・3つの歌曲 Op.18
・2つの歌曲 Op.19
・弦楽三重奏曲 Op.20
・室内オーケストラのための交響曲 Op.21
・四重奏曲 Op.22
・3つの歌曲 Op.23
・9つの楽器のための協奏曲 Op.24
・3つの歌曲 Op.25

Disc3
・眼の光 Op.26
・ピアノのための変奏曲Op.27
・弦楽四重奏曲 Op.28
・カンタータ第1番 Op.29
・管弦楽のための変奏曲 Op.30
・カンタータ第2番 Op.31
・弦楽四重奏のための5つの楽章Op.5(弦楽合奏版)
・バッハ:音楽の捧げものより6声のリチェルカーレのオーケストレーション

 ヘザー・ハーパー(S)
 チャールズ・ローゼン(P)
 アイザック・スターン(Vn)
 グレゴール・ピアティゴルスキー(Vc)
 ジョン・ウィリアムス(G), 他
 ジュリアード弦楽四重奏団
 ジョン・オールディス合唱団
 ロンドン交響楽団
 ピエール・ブーレーズ(指揮:監修)

 録音時期:1967〜1972年
 録音方式:ステレオ(アナログ/セッション)

・シューベルト:ドイツ舞曲集(ウェーベルン編)*

 アントン・ヴェーベルン(指揮)
 フランクフルト放送管弦楽団*

 録音時期:1932年
 録音方式:モノラル(アナログ/ライヴ)*
https://www.hmv.co.jp/news/article/1308040003/


HMV ウェーベルン全集 ユーザーレビュー

poo さん | 東京都 投稿日:2013/10/28
かつての20bitマスタリングのCDBOXに比べて格段に美しく瑞々しい音質に向上しています。やや大らかなグラモフォンの新録音に比べて、このSONYの旧盤は集中力・緊張感の高さ、音色の多彩さで優れています。もちろん歴史的名盤。


カズニン さん | 東京都 投稿日:2013/10/20
非常に新鮮な音質です。演奏は見事です。ウェーベルンが面白く鑑賞できます。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BC%881883-1945%EF%BC%89_000000000020730/item_%E4%BD%9C%E5%93%81%E7%95%AA%E5%8F%B7%E4%BB%98%E3%81%8D%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%85%A8%E9%9B%86-%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%80%81%E4%BB%96%EF%BC%88%EF%BC%93%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_5510634


アマゾン ウェーベルン全集 カスタマーレビュー
鹹 2015年3月20日 5つ星のうち4.0

気力・体力ともに充実していた時期のピエール・ブーレーズが録音・監修したウェーベルンの出版作品全集。

出版されていない発掘作品まで含めるとなると、ブーレーズがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団等と作った新盤を買うほうがいいのだが、ウェーベルンが納得した作品の全集となれば、こっちのほうがすっきりとした選曲で潔い。

また、ブーレーズの演奏も、こちらの全集のほうはロンドン交響楽団との共演だから、天下のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に及ばないと予想されるが、さにあらず。演奏自体はこちらのほうが端麗辛口の味わいがある。

室内楽ではジュリアード弦楽四重奏団、チャールズ・ローゼン、グレゴール・ピアティゴルスキー等、懐かしい名手が多数参加し、歌曲でも往年のヘザー・ハーパーや、ポーランドの近現代音楽の歌姫として知られたハリーナ・ウコムスカ(ルコムスカというのは、実は正しくない)等が名を連ねる。CBSが集められる限りのドリーム・チームで、彼らの威信にかけて録音されたものなので、未だに古さを感じさせない。ブーレーズとしても会心の仕事だったに違いない。
余白に、ウェーベルン自身が指揮したシューベルトの舞曲集のアレンジが付録として収められているのが心憎い。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%85%A8%E9%9B%86-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3/dp/B00MQSBCWO

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アントン・ヴェーベルン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3

アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。ウェーベルンとも書かれる。

シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開した。このため、生前は顧られる機会がほとんどなかったが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、世界的に多くの作曲家に影響を与えた。

オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれる。ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭で、正式の名はアントン・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Ernst von Webern)であるが、作曲者自身はミドルネームを公式には使わず、1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)、貴族のみに許された"von"を姓から外した。

父親は成功した鉱山技師として、オーストリア帝国各地を転々としており、このためヴェーベルンは少年時代をグラーツやクラーゲンフルトなどに過ごす。音楽を愛好する家庭環境に育ち、1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事し、ハインリヒ・イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》に関する論文を提出して学位を得た。古楽のポリフォニー様式への関心が、後のヴェーベルン自身の作風に大きな影響を与えていよう。

1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続け、1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって独立を許された。シェーンベルク門下のベルクは、その後のヴェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしている。音楽家として独立してからは、イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハなどで指揮者として活動し、それからウィーンに戻った。第一次世界大戦後は、シェーンベルクを輔佐して私的演奏協会を設立。1922年から1934年までウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、BBC交響楽団にも定期的に客演を続けた。盟友ベルクが1935年に急逝すると、遺された《ヴァイオリン協奏曲》のイギリス初演で指揮を執った。その模様は、初演のヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、2度にわたってCDに復刻されている。

1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ヴェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先であるウニヴェルザール出版社の編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺されたのである。


作風

ヴェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。ピエール・ブーレーズが監修・指揮したヴェーベルン全集のCDは、作品番号のない作品を含めてさえ、ディスク6枚分で間に合っている[1]。しかしながらヴェーベルンの後進への影響は大きく、とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚であった。後期作品は十二音技法が使われ、密度の薄い音響体と冷たい情感が特徴的だが、緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど、トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできる。これがブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えている。一方、ケージは、ヴェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえて、「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」という趣旨の発言をしている。ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず、秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで十二音技法に精通するようになってからは、ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの晩年様式を開花させていった。

ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ヴェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。それでもなお、次のような特徴を挙げることができる。
あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど、非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用(管楽器のフラッタータンギングや弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)

シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)である。構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、個性的になっている。また、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせるものがある。パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にヴェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(たとえば《交響曲》や《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。

作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でヴェーベルンは無調を用いている。無調期の作品では、《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や、《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが比較的よく演奏される。《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって極限にまで短く凝縮された音楽は、《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになる。十二音技法を用いた最初の例は、《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)で、これ以降の作品はすべて十二音技法で作曲された。器楽曲でその最初の例は、《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)である。つまり《弦楽三重奏曲》は、12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みといってよい。《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れ、《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、簡素な明瞭さが現れるようになる。

ヴェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでおり、12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ、3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられている。ヴェーベルン作品の統一感はそこにあるが、しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されて、一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。

ヴェーベルンの最後の作品群は、作曲様式における新たな発展の可能性を暗示している。たとえば、親交を結んでいた女性詩人ヒルデガルト・ヨーネ(ドイツ語版)の詞による2つのカンタータは、以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しており、所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、響きの密度はいくぶん濃密である(ヴェーベルンの晩年の声楽作品は全て彼女の詞による(他には作品23、25、26がある))。音列作法はより単純で、盛期作品に認められる音列の内的な動機的連関は見いだされない。突然の不幸な事故死により、ヴェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを見定めることは、誰にもできなくなった。図形による作曲も考案していたと伝えられるが、証拠は残っていない。


エピソード

フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後、聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまった[2]。
ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていたが、リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電し、ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後にした。亡き友のことを思い出し、練習できるような状態ではなかったのであった[3]。
新ウィーン楽派の中心3人のうちで、唯一のカトリック[4]。しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもあり、作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されている。
ナチス政権への親近感から、弾圧されながらも亡命の道を選ばなかった。「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」とすら考えていたらしい。晩年は親しい神父に、「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」と語って驚かれた。

作品一覧

詳細は「ヴェーベルンの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

シェーンベルクに入門する前後に独力で書かれた初期作品は、後期ロマン主義音楽の様式を採っている。これらは生前には出版されず、そのため作品番号さえ付けられなかった。それにもかかわらず、研究者ハンス・モルデンハウアー(1906年 - 1987年)によって公開され、出版されると、現在しばしば演奏・録音されるヴェーベルン作品となった。大管弦楽のための牧歌《夏の風の中で Im Sommerwind 》(1904年)や《弦楽四重奏のための緩徐楽章》(1905年)がその代表であり、後者にはブラームスの影響が見られる。

 作品番号つきの作品 
管弦楽のための《パッサカリア》作品1 (1908年)
無伴奏合唱曲《軽やかなる小舟にて逃れよ》作品2 (1908年、詩:シュテファン・ゲオルゲ)
Der Siebente Ringによる《5つの歌曲》作品3 (1907-08年)
シュテファン・ゲオルゲによる《5つの歌曲》作品4 (1908-09年、ピアノ伴奏独唱曲)
弦楽四重奏のための《5つの断章》作品5 (1909年)
管弦楽のための《6つの小品》作品6 (初版:1909-10年、改訂版:1928年)
ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7 (1910年)
リルケの詩による《2つの歌曲》作品8 (1910年)
弦楽四重奏のための6つのバガテル 作品9 (1913年)
管弦楽のための《5つの小品》 作品10 (1911-13年)
ピアノとチェロのための3つの小品, 作品11 (1914年)
4つの歌曲 作品12 (1915-17年)
4つの管弦楽歌曲 作品13 (1914-18年)
6つの歌曲 作品14 (1917-21年、編成:歌手、クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、チェロ)
5つの宗教的歌曲 作品15 (1917-22年、室内楽伴奏)
ラテン語詩による5つのカノン 作品16 (1923-24年、編成:ソプラノ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの宗教的民謡 作品17 (1924-25年、編成:歌手、ヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの歌曲 作品18 (1925年、編成:歌手、E♭管クラリネット、ギター)
2つの歌曲 作品19 (1926年、編成:混声合唱、チェレスタ、ギター、ヴァイオリン、クラリネット、バスクラリネット)
弦楽三重奏曲 作品20 (1927)
交響曲 作品21 (1928年)
四重奏曲 作品22 (1930年、編成:ヴァイオリン、クラリネット、テナー・サクソフォーン、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩集による3つの歌 作品23 (1934年)
協奏曲 作品24 (1934年、編成:フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌 作品25 (1934-35年)
混声合唱と管弦楽のための《眼の光Das Augenlicht 》作品26 (1935年、詩:ヨーネ)
ピアノのための変奏曲 作品27 (1936年)
弦楽四重奏曲作品28 (1937-38年、BACH主題による作品)
ソプラノ独唱、混声合唱と管弦楽のための《カンタータ第1番》作品29 (1938-39年)
管弦楽のための変奏曲 作品30 (1940年)
ソプラノ独唱、バス独唱、合唱と管弦楽のための《カンタータ第2番》作品31 (1941-43年)

 作品番号なしの作品 

チェロとピアノのための2つの小品(1899)
声とピアノのための3つの詩(1899?1902)
声とピアノのための8つの初期歌曲集(1901?1903)
Ferdinand Avenariusによる3つの歌(1903?1904)
《管弦楽のための牧歌『夏風の中で』》 Bruno Willeの詩による大オーケストラのための作品(1904)
弦楽四重奏のための《緩徐楽章(Langsamer Satz)》(1905)
弦楽四重奏曲(1905)
ピアノのための小品(1906)
ピアノのためのロンド(1906)
弦楽四重奏のためのロンド(1906)
Richar Dehmelによる5つの歌(1906?1908)
ピアノ五重奏曲(1907)
Stefan Georgeによる4つの歌(1908-1909)
オーケストラのための5つの小品(1913) Op.10に関連したFriedrich Cerha校訂版、1971年出版
声とオーケストラのための3つの歌(1913?1914)
チェロソナタ(1914)
ピアノのための《子供のための小品》(1924)
ピアノのための小品(メヌエットのテンポで)(1925)
弦楽三重奏のための小品(1925)

編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)
F.シューベルト『ドイツ舞曲』(1932):1824年作曲の同名のシューベルトの作品のオーケストラ編曲[5]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html

[リバイバル3] 日本郵政グループ株(日本郵政、ゆうちょ銀行、かんぽ生命)を買ったらこういう目に遭った 中川隆
3. 中川隆[-14997] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:00:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2095]
ゆうちょ銀、認知症高齢者に高額外貨保険販売…歪んだ郵政グループの構造的問題
https://biz-journal.jp/2019/11/post_127570.html
2019.11.12 文=編集部 Business Journal


 日本郵政・長門正貢代表執行役社長(ロイター/アフロ)


 日本郵政グループの転落が著しい。かんぽ生命での大規模な不適切営業を端緒に、同グループのゆうちょ銀行の投資信託商品の不適切販売も発覚するなど、常軌を逸した事態になっている。一連の報道では過剰なノルマが一因とされ、日本郵政はかんぽ生命の保険商品販売におけるノルマ廃止を表明するなど、対応に追われている。

■指導不足による営業社員の認識不足が原因?

 同行と日本郵便は9月13日、「投資信託の不適切な取扱いに関する社内調査結果および今後の対応について」と題するプレスリリースを発表した。70歳以上の高齢者に対する不適切な販売行為の社内調査結果の概要と、今後の再発防止策を以下のように公表した。

「ゆうちょ銀行および日本郵便は、窓販開始(2005年10月)以降、全ての高齢のお客さまに対して、投資信託の個別商品の理解状況等を確認するため、購入に係る申込受付前に管理者による承認を実施してきたところです。

 その後、日本証券業協会から高齢顧客への勧誘による販売に係るガイドライン(2013 年10 月)の考え方が示されて以降は、勧誘前に状況を確認し、勧誘すべきでないお客さまは勧誘しないとの趣旨を踏まえ、高齢のお客さまに対して、申込受付前に加えて、新たに勧誘前にこの観点からの管理者承認を行うことを社内規則に追加していたにもかかわらず、この取扱いを多数怠っていたというものです。

【調査結果】

       違反件数(割合※1) 違反店・局数(割合※2)

ゆうちょ銀行  17,700 件(43%)  213 店(91%)

日本郵便    1,891 件 (7%)   187 局(12%)

※1 調査対象の高齢者対面取引件数に対する割合

※2 投資信託取扱店舗数に対する割合

 発生原因・背景としては、ゆうちょ銀行、および日本郵便本社の指導不足による営業社員(管理者含む)の認識不足等があり、社員のコンプライアンス意識を向上させるために、研修、マニュアルの改正等にゆうちょ銀行、および日本郵便が全社を挙げて取り組んでまいります」

■認知症の高齢者に外貨建て保険販売

 一方、ゆうちょ銀行の内部資料を入手した西日本新聞は今月5日、『認知低下70代に1億円保険 ゆうちょ銀 家族抜き、取り消しも拒否』と題する記事を掲載した。

 同記事では、「79歳の母が500万円の外貨建て保険を契約していた。認知症の母にそのようなリスク商品を販売するのは違法ではないか」「貯金の手続きに行ったら強引に投資信託の話をされ、訳も分からないまま契約に至ってしまった」などという被害者の声を紹介。投資信託や外貨建て保険契約で高齢者から苦情が多数寄せられていることを明らかにした。

 また、「未曽有の低金利が続く中、同行は元本割れのリスクがある金融商品の販売強化を打ち出すが、現場の行員は『営業目標を達成するため、一部で顧客の意に沿わない販売が行われている』と証言する」として、ゆうちょ銀行の内幕を明かしている。

■持株比率が業務範囲に影響

 経済ジャーナリストの森岡英樹氏は一連の不祥事の背景に関して、次のように解説する。

「この問題の背景には、日本郵政グループの構造的な問題があります。日本郵政グループは持ち株会社の日本郵政の傘下にかんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便の3つの子会社を置く体制になりました。ちなみに米国でも民営化はされましたが、郵便業務だけは国営のままです。日本の場合、日本郵便を含めあまりに大きな組織になってしまったため、組織としての矛盾が生じています。

 現在、国は日本郵政の株を持ち、日本郵政がゆうちょ銀行の株をもっているという構造です。国は少しずつ持ち株比率を下げるため、株の売却を進めています。ここで問題になってくるのが、日本郵政が保有するゆうちょ銀、かんぽ生命の持株比率が50%を下回らないと、両社の業務範囲は自由(新規業務は登録制に移行)とならないことです。新規業務を行う際、郵政民営化委員会の許認可を得なければなりません。

 そうした状況下にもかかわらず日本郵政は上場しました。国としては少しでも売却時の株価を上げたい。このことが日本郵政グループ経営陣のプレッシャーになっています。この株の売却益は東日本大震災などの復興財源になる予定で、ある意味『おしりが決まっている財源』のため必要額を確保することが至上命題になっています。

 かんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便には民営化後もユニバーサルサービスとして全国一律で同質のサービスを提供することが求められています。新規事業を自由に行えず、しかも地理的、経済的な要因を加味したスタイルをとることもできない中で、確実に利益を上げなければいけないため、無理な営業につながっている懸念があります。

 また、子会社3社には民間から経営者を招聘しましたが、その手足となるのは民営化前から勤めている元公務員の社員です。売上増進のため、高いノルマを課し、歩合給の割合を引き上げました。このインセンティブにより、稼げる人と稼げない人との間には大きく差がつくことになりました。つまり業績不振だと年収の大幅な減額を招く可能性があるのです。

 トップがいくら指導しても、現場は収益を上げる事業のノウハウを積み重ねてきたわけではないのです。また元公務員だった職員らは、ある意味でまじめにノルマを達成しようと無理な営業をかけてしまっているのだろうと思います。

 しかも、銀行や保険業界など異なる業界からグループ3社のトップに就任した経営陣間のコミュニケーション不全も深刻です。現在発生しているさまざまな不祥事に関して、各社の経営陣はお互いに責任を回避しようとしています。国などが経営陣を刷新しようとしても、前述のように明らかに困難な業務であることがわかりきっているので、後任に手を挙げる人はいないでしょう」

 ゆうちょ銀行と日本郵便が示した改善策は「不足したしていた指導を営業社員に行う」ということだが、効果はあるのだろうか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/981.html#c3

[リバイバル3] 保険会社に騙されるな 中川隆
34. 中川隆[-14996] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:00:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2094]
ゆうちょ銀、認知症高齢者に高額外貨保険販売…歪んだ郵政グループの構造的問題
https://biz-journal.jp/2019/11/post_127570.html
2019.11.12 文=編集部 Business Journal


 日本郵政・長門正貢代表執行役社長(ロイター/アフロ)


 日本郵政グループの転落が著しい。かんぽ生命での大規模な不適切営業を端緒に、同グループのゆうちょ銀行の投資信託商品の不適切販売も発覚するなど、常軌を逸した事態になっている。一連の報道では過剰なノルマが一因とされ、日本郵政はかんぽ生命の保険商品販売におけるノルマ廃止を表明するなど、対応に追われている。

■指導不足による営業社員の認識不足が原因?

 同行と日本郵便は9月13日、「投資信託の不適切な取扱いに関する社内調査結果および今後の対応について」と題するプレスリリースを発表した。70歳以上の高齢者に対する不適切な販売行為の社内調査結果の概要と、今後の再発防止策を以下のように公表した。

「ゆうちょ銀行および日本郵便は、窓販開始(2005年10月)以降、全ての高齢のお客さまに対して、投資信託の個別商品の理解状況等を確認するため、購入に係る申込受付前に管理者による承認を実施してきたところです。

 その後、日本証券業協会から高齢顧客への勧誘による販売に係るガイドライン(2013 年10 月)の考え方が示されて以降は、勧誘前に状況を確認し、勧誘すべきでないお客さまは勧誘しないとの趣旨を踏まえ、高齢のお客さまに対して、申込受付前に加えて、新たに勧誘前にこの観点からの管理者承認を行うことを社内規則に追加していたにもかかわらず、この取扱いを多数怠っていたというものです。

【調査結果】

       違反件数(割合※1) 違反店・局数(割合※2)

ゆうちょ銀行  17,700 件(43%)  213 店(91%)

日本郵便    1,891 件 (7%)   187 局(12%)

※1 調査対象の高齢者対面取引件数に対する割合

※2 投資信託取扱店舗数に対する割合

 発生原因・背景としては、ゆうちょ銀行、および日本郵便本社の指導不足による営業社員(管理者含む)の認識不足等があり、社員のコンプライアンス意識を向上させるために、研修、マニュアルの改正等にゆうちょ銀行、および日本郵便が全社を挙げて取り組んでまいります」

■認知症の高齢者に外貨建て保険販売

 一方、ゆうちょ銀行の内部資料を入手した西日本新聞は今月5日、『認知低下70代に1億円保険 ゆうちょ銀 家族抜き、取り消しも拒否』と題する記事を掲載した。

 同記事では、「79歳の母が500万円の外貨建て保険を契約していた。認知症の母にそのようなリスク商品を販売するのは違法ではないか」「貯金の手続きに行ったら強引に投資信託の話をされ、訳も分からないまま契約に至ってしまった」などという被害者の声を紹介。投資信託や外貨建て保険契約で高齢者から苦情が多数寄せられていることを明らかにした。

 また、「未曽有の低金利が続く中、同行は元本割れのリスクがある金融商品の販売強化を打ち出すが、現場の行員は『営業目標を達成するため、一部で顧客の意に沿わない販売が行われている』と証言する」として、ゆうちょ銀行の内幕を明かしている。

■持株比率が業務範囲に影響

 経済ジャーナリストの森岡英樹氏は一連の不祥事の背景に関して、次のように解説する。

「この問題の背景には、日本郵政グループの構造的な問題があります。日本郵政グループは持ち株会社の日本郵政の傘下にかんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便の3つの子会社を置く体制になりました。ちなみに米国でも民営化はされましたが、郵便業務だけは国営のままです。日本の場合、日本郵便を含めあまりに大きな組織になってしまったため、組織としての矛盾が生じています。

 現在、国は日本郵政の株を持ち、日本郵政がゆうちょ銀行の株をもっているという構造です。国は少しずつ持ち株比率を下げるため、株の売却を進めています。ここで問題になってくるのが、日本郵政が保有するゆうちょ銀、かんぽ生命の持株比率が50%を下回らないと、両社の業務範囲は自由(新規業務は登録制に移行)とならないことです。新規業務を行う際、郵政民営化委員会の許認可を得なければなりません。

 そうした状況下にもかかわらず日本郵政は上場しました。国としては少しでも売却時の株価を上げたい。このことが日本郵政グループ経営陣のプレッシャーになっています。この株の売却益は東日本大震災などの復興財源になる予定で、ある意味『おしりが決まっている財源』のため必要額を確保することが至上命題になっています。

 かんぽ生命、ゆうちょ銀行、日本郵便には民営化後もユニバーサルサービスとして全国一律で同質のサービスを提供することが求められています。新規事業を自由に行えず、しかも地理的、経済的な要因を加味したスタイルをとることもできない中で、確実に利益を上げなければいけないため、無理な営業につながっている懸念があります。

 また、子会社3社には民間から経営者を招聘しましたが、その手足となるのは民営化前から勤めている元公務員の社員です。売上増進のため、高いノルマを課し、歩合給の割合を引き上げました。このインセンティブにより、稼げる人と稼げない人との間には大きく差がつくことになりました。つまり業績不振だと年収の大幅な減額を招く可能性があるのです。

 トップがいくら指導しても、現場は収益を上げる事業のノウハウを積み重ねてきたわけではないのです。また元公務員だった職員らは、ある意味でまじめにノルマを達成しようと無理な営業をかけてしまっているのだろうと思います。

 しかも、銀行や保険業界など異なる業界からグループ3社のトップに就任した経営陣間のコミュニケーション不全も深刻です。現在発生しているさまざまな不祥事に関して、各社の経営陣はお互いに責任を回避しようとしています。国などが経営陣を刷新しようとしても、前述のように明らかに困難な業務であることがわかりきっているので、後任に手を挙げる人はいないでしょう」

 ゆうちょ銀行と日本郵便が示した改善策は「不足したしていた指導を営業社員に行う」ということだが、効果はあるのだろうか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c34

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
34. 中川隆[-14995] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:31:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2093]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c34

[近代史3] ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 中川隆
13. 中川隆[-14994] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:32:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2092]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html#c13

[近代史3] ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか? 中川隆
18. 中川隆[-14993] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:32:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2091]
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/680.html#c18

[近代史3] 「即位の礼」の各国参列者の顔触れに見る“皇室外交” 中川隆
10. 中川隆[-14992] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:02:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2090]

[2019.11.11放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NdF7Tx_33gM


今週のテーマは『「即位の礼」に見る、日本の国力の激しい凋落。』です。


平成の30年間にわたってアメリカから徹底的に搾取され続け、それに対してろくに戦おうとしなかった腰抜けの日本人。いくら歴史と伝統を誇る日本の皇室とはいえこの程度の扱いになってしまう、ということでしょうか。。核武装による自主独立が急がれます。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/659.html#c10

[リバイバル3] 苗場スキー場 中川隆
71. 中川隆[-14991] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:31:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2089]

▲△▽▼


越後湯沢のリゾートマンション|リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/res/3875-3924/


3900 匿名さん 6日前

某紙の投稿欄に、80歳で「自然豊かな地方の」マンションに移住した父が結局施設に入り子供がマンションを売却しようとしたが4年かかったというのがあった。
年間かなりの管理費固定資産税がかかり施設の費用と併せて大変だったそうな。

タダ同然で買えて管理費等も年金で賄えるなら湯沢あたりのリゾマンで老後を過ごすのもいいかと思っていたが、最後はこのように子供に迷惑をかけるのであれば躊躇してしまうね。


3903 匿名さん 5日前

現状でも、ある程度の値段がついて動きがあるマンションと、タダ同然でも全然動かないマンションがある。動いてる物件ならそれこそ安価にすればすぐ売れるだろう。
この辺を区別せずに「湯沢のリゾマンは」で一緒くたに論評してもあまり意味はないからな。買う人間はそこを見ろよ、という話じゃないかね。安さだけに釣られたらそりゃ処分は大変だろうさ。

3907 匿名さん 4日前
>>3903
だよね

10万円でもなかなか売れない物件は手放すのも大変だと思う。
将来売却の予定があるなら、売れにくい物件を買うべきじゃないよね

3909 匿名さん 4日前

管理費と固定資産税があるから10万と言ってもその年だけでも安くても50万の出費。何か大きな変化、例えばスキースノボブームがまた来て裕福な外国人が大挙してやって来るとか、デフレから脱却してまたバブル景気が起きるとか、非正規労働が廃止され若者の所得が倍増するとか、そういう変化がなければ現状は続くだろうね。税収に頼ってるはずの町は全く無関心で町のステイタスを上げる方策もない。外国人ユーチューバーが越後湯沢に来る動画があって期待して見てたら、一歩も駅から出ずぽんしゅ館だの土産屋だけで終わってた。

雑然とした温泉街も廃墟並みの商店街も観光以前の問題だね。普通の町より劣ってる。



3911 匿名さん 3日前

相続放棄しても、該当不動産が処分される迄は、管理責任がついてまわるので、利用できなくなった上、経費はかかる。
市は該当不動産を処分する気なんてないだろから、**の様に、被相続人を苦しめる。
売れない物件を買うと、子供や孫に未来永劫まれるよ。

3914 匿名さん 2日前
>>3909
うちの実家地域(田舎)もあんなもん。

湯沢は寂れた田舎町のお手本のような町並みに、リゾマンが立ってる感じ。

冬はスキーがあるからいいけど、雪のない季節は本当に雰囲気が無いよね。
湯沢高原に上れば観光感あるけど、町全体としては寂れっぷりがヤバイ

駅の近くにコンビニがあるのが救い。このレベルの観光地だとコンビにすらないケースもあるからね・・・

ヤマシンさんとか素敵なお店もあるけど、全体としては観光地レベルがかなり低い。


そんな残念な湯沢町だけど、リゾマンを買ったことに後悔は無いし満足もしてる。
観光できる町では無いけれど、これからも楽しくリゾマンを利用できると思う。
一般家庭でも購入できる価格帯だし、荷物置けるの便利!
車一台買い足す値段で購入維持できるんだよ?町のしょぼさは眼を瞑れるよ。
観光できる町になってくれるならそりゃ嬉しいけどねー

3915 匿名さん 2日前

>>3914 匿名さん
こ▲△▽▼こを開発した西武は、今、秩父や飯能とかに力を入れているみたい。


3916 匿名さん 1日前

私の場合、むしろ観光地であったならばマンションは購入していなかったと思います。何もないがあるから湯沢に魅力を感じています。冬より夏の湯沢が好きです。手付かずの自然に溢れていて、気取らない田舎町の風情が大好きです。おしゃれなカフェなんかより、地元の野菜や特産品を購入できる大型の直売所が出来たらいいなぁと思います。


3917 匿名さん 1日前

世田谷区と提携?してる田舎の 川場村が田舎を売りにした田舎だけど、
ちゃんと都会民に媚びてて好きだ。
湯沢に来る途中にインター下りてちょっと遊ぶのに丁度いい川場村ね!

観光に対する努力をしてても、都会から来る人のニーズがわかってないとズレた事して寒いだけじゃん。
川場村はニーズがわかってる。役場の人間がヤリ手なのか、コンサル入れたのかはわからんけど。

私は手付かずの自然より、整備された自然が好きだから、川場村くらいの自然が心地いいかなー。

湯沢は交通の面では川場村に勝ってる。
子供が喜ぶ川もあるし、
やり方によっては化ける町だよね。

(お手入れされた自然は不自然で苦手な人も居ると思うから あくまでも私の意見)


3920 匿名さん 1日前

道路なら
苗場と四万温泉もつなげて欲しい。
もちろん、冬は閉鎖でいいから。

あと7キロだか8キロ程度作ればつながるらしいじゃん
ここまで出来てるならつなげないとモッタイナイ


3921 ご近所さん 22時間前

353号ですね。三国スキー場が閉鎖しちゃって、もう計画もされないのでしょうね。


3922 匿名さん 15時間前

国道となると国かな。
プライマリーバランスの黒字化とやらのためにムダだと決めたのかなw
通れば行き来も増えて観光も活性化するはずだよね。
財政健全化とか言い出した無知な人のせいで全てが停滞だね。

3923 匿名さん 5時間前

357かぁ。峠越えの難工事になるし、トンネルにしても莫大な予算がかかる。四万温泉じゃそうまでして苗場側からのアクセスがそれほどあるとも思えないがなぁ。

3924 匿名さん 2時間前
>>3923
あと10キロくらいならつなげようよー。と、簡単に思ってしまったけど、
言われてみると峠の工事は大変そうですね。

湯沢から17号三国峠と中之条経由で草津に行くと2時間弱。
仮に苗場ー四万温泉が開通したとして、四万温泉経由で草津にいけても15分程度の短縮にしかならないかもしれない・・・

たった15分ならば17号を使って草津に行くべきかも・・・


353の峠がどれほど険しいものなのかを調べていたら、面白いHPを見つけました。

https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505

大正4年以前には、四万温泉ー苗場に道があったそうです。
牛車も通れて宿場もあったらしいのに、宿場の跡が見つからないそうで、ロマンを感じます。

このHPの関係者が踏破した古道を横取りして整備して353にすれば安く出来るんじゃ・・・牛車や昔の一般人が利用した道なら険しくなさそう!
と、一瞬思ったけど、わずかな利用者のたった15分の短縮のためにHPの人達のロマンを横取りして
何十億だか何百億の金もかけて
環境破壊するのはリターンに見合わないから、353号は無くてもいいかもしれない

ちゃちゃっと簡単に開通して、1時間くらい短縮できるならやって欲しいけど15分じゃなぁ…

https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/


四万温泉から新潟への古道探検 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=PD1_74JVqPY&feature=emb_title


四万温泉から新潟への街道跡 地図
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/maoutain.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/img20171112_16125942.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/kinone.jpg

古道再発見の探検隊 – 四万温泉から新潟への街道跡2017年11月12日
四万温泉や周辺の山登り, 四万温泉や群馬県のこと
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505


いまは、奥四万湖で行き止まりの四万温泉ですが、その昔は新潟方面に抜ける街道筋の温泉地でもあったそうです。

四万温泉の古老の方々からもそんな言い伝えを聞いていたので、その道を再発見しようと、4年前(2013年)の11月に引き続き、2度目の探検隊を組みました。

今回は、稲包山の登山道から入り、途中で尾根から下り、古道跡まで行き、そこから古道を新潟方面へ登りました。

微かに残った道跡。
道なき道を藪漕ぎで進み、滑落の危険と背中合わせの道を進みました。


最初は余裕タップリしでしたが・・・

ほとんどの道中は深い笹薮の中


何箇所もあった、沢越えではかなり危険な思いも・・・


かなり怖くてハードな道のりでしたが、4年前の第一回目の探検のあと、営林署のSさんがひとりで何度も山に入り、入念に下調べしておいてくれたので、なんとか古道を踏査できました。


新潟県境の尾根にたどり着き一安心


11月上旬なのに霧氷が


今回の踏査マップ

4年前と今回の調査を合わせて、この街道の全貌がかなり見えてきました。


営林署Sさんのまとめた資料

この道(木の根宿古道と(仮)で呼びます)は、四万温泉の日向見から四万川・木の根宿沢沿いを登り新潟県境の三坂峠を経て湯沢町の浅貝に至るルートだったようです。

色々な古文書や古地図にその存在が記載されているのですが、大正4年発行の地図を最後に地図からは消えてしまっています。


大正4年発行の地図

四万温泉在住の折田さんがまとめてくださった資料によると、すでに10世紀には木の根宿古道が使われていたようです。


折田さんによる年表

新田義貞が挙兵の折(14世紀)、新潟側の同志がこの道を通って参戦した。
木の根宿(きのねしゅく)という宿場があり遊女もいた(須川記)
新潟の上杉氏がここを往来した記録も残る

など、興味深い記載がたくさん残っています。

さらに、中之条町歴史民俗資料館(MUSEE)の「世のちり洗う四万温泉」図録にも、この古道の往来について簡単にまとめた記事があります。


中之条町歴史民俗資料館提供

坂上田村麻呂が通過したと言われる、国府 – 渋川 – 中之条 – 四万 – 木の根宿 – 浅貝への木の根宿通りの奥州故道・・
「元慶の乱」(878年)、出羽で起こった乱の鎮静のため上野国の兵の出動経路

などが書かれています。

実際に歩いてみたり地図を辿ってみたりすると、木の根宿古道は、登山が目的のいまの稲包山のルートとは異なり、なるべくアップダウンの少ない、牛馬も通りやすい位置にルートが設定されていたことがわかります。

今回木の根古道を歩いてみて、道のありがたさを身を以て体感しました。

普通の登山道 >> 木の根宿古道 >> ただの笹薮

本当に微かではありますが、残っている道跡を歩くのが、全く何もない笹薮の中を歩くのよりどれだけ楽だったことか、そして整備されている登山道の楽チンさといったら最高でした。

営林署のSさん以外は、木の根宿古道を制覇した人はいないので、次のチャンスには、日向見から新潟まで全て古道を歩いてたどり着いてみたいと思いました。

また、文献(吾妻郡誌)に、

木の根宿趾
澤田村大字四萬の山中にあり。此地往古越後との交通路ありし頃、人家點々略宿状をなせりといふ。

と記載のある、木の根宿の跡地遺跡もいつの日か発見してみたいと思います。

協力してくださる、大学の登山部や探検部の方いらっしゃいませんか?
お気軽にお声がけくださいね。

今回の調査の様子を上毛新聞が記事にしてくれました。

上毛新聞記事

(以下引用)
奥四万湖から三坂峠を越えて新潟県に続く「木の根宿古道」(約10キロ)を、中之条町の観光団体の関係者が5年がかりで踏査した。複数の文献に古道沿いにあると記されながら、場所が確認されずにいる謎の宿場町「木の根宿」の跡地は発見できなかった。今後も宿場跡の調査を続ける一方、山岳ルートとしての活用法を探る。

 調査したのは、奥四万湖近くの秋沢橋から稲包山の中腹を抜け、新潟県境の三坂峠を越えるルート。尾根や沢、滝を進む難コースで、クマザサなどが生い茂り登山者が立ち入れない状態になっている。四万温泉協会と同町観光協会が、登山ルートやトレイルランコースへの活用を視野に2013年に調査を始め、今年11月にようやく終了した。

 木の根宿古道はかつての主要道で、沼田藩主だった真田家の家臣、加沢平次左衛門が主家の興亡をまとめた戦記物「加沢記」に登場するなど複数の文献に記載がある。江戸時代の猿ケ京関所開設に伴い通行禁止となったが、新潟への抜け道として利用されたと伝えられる。

 古道沿いに木の根宿があったとされ、1934(昭和9)年に吾妻山岳会が跡地を発見したと「群馬県吾妻郡誌追録」に記されている。「木の根宿に花魁おいらん屋敷があった」との伝承も残る。ただ、写真はなく、その後の調査で跡地の場所は確認できていない。

 同町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」の山口通喜館長は「木の根宿古道は軍事などを目的に古くは平安時代から使われ、利用する一般人も多かった。今回の調査で宿場町跡は確認できず残念だが、踏破する価値がある」と話す。

 調査に参加した同町観光協会の原沢香司さんは「近くにぐんま県境稜線トレイルが整備されるので、連携した活用法を検討したい」、四万温泉で旅館を経営する柏原益夫さんは「山岳トレイルが人気なので、四万温泉の魅力に一つにできたら」と話している。
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/775.html#c71

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
556. 中川隆[-14990] koaQ7Jey 2019年11月12日 12:33:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2088]
越後湯沢のリゾートマンション|リゾートマンション・リゾートホテル・別荘掲示板
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/res/3875-3924/


3900 匿名さん 6日前

某紙の投稿欄に、80歳で「自然豊かな地方の」マンションに移住した父が結局施設に入り子供がマンションを売却しようとしたが4年かかったというのがあった。
年間かなりの管理費固定資産税がかかり施設の費用と併せて大変だったそうな。

タダ同然で買えて管理費等も年金で賄えるなら湯沢あたりのリゾマンで老後を過ごすのもいいかと思っていたが、最後はこのように子供に迷惑をかけるのであれば躊躇してしまうね。

3903 匿名さん 5日前

現状でも、ある程度の値段がついて動きがあるマンションと、タダ同然でも全然動かないマンションがある。動いてる物件ならそれこそ安価にすればすぐ売れるだろう。
この辺を区別せずに「湯沢のリゾマンは」で一緒くたに論評してもあまり意味はないからな。買う人間はそこを見ろよ、という話じゃないかね。安さだけに釣られたらそりゃ処分は大変だろうさ。

3907 匿名さん 4日前
>>3903
だよね

10万円でもなかなか売れない物件は手放すのも大変だと思う。
将来売却の予定があるなら、売れにくい物件を買うべきじゃないよね

3909 匿名さん 4日前

管理費と固定資産税があるから10万と言ってもその年だけでも安くても50万の出費。何か大きな変化、例えばスキースノボブームがまた来て裕福な外国人が大挙してやって来るとか、デフレから脱却してまたバブル景気が起きるとか、非正規労働が廃止され若者の所得が倍増するとか、そういう変化がなければ現状は続くだろうね。税収に頼ってるはずの町は全く無関心で町のステイタスを上げる方策もない。外国人ユーチューバーが越後湯沢に来る動画があって期待して見てたら、一歩も駅から出ずぽんしゅ館だの土産屋だけで終わってた。

雑然とした温泉街も廃墟並みの商店街も観光以前の問題だね。普通の町より劣ってる。

3911 匿名さん 3日前

相続放棄しても、該当不動産が処分される迄は、管理責任がついてまわるので、利用できなくなった上、経費はかかる。
市は該当不動産を処分する気なんてないだろから、**の様に、被相続人を苦しめる。
売れない物件を買うと、子供や孫に未来永劫まれるよ。


3914 匿名さん 2日前
>>3909
うちの実家地域(田舎)もあんなもん。

湯沢は寂れた田舎町のお手本のような町並みに、リゾマンが立ってる感じ。

冬はスキーがあるからいいけど、雪のない季節は本当に雰囲気が無いよね。
湯沢高原に上れば観光感あるけど、町全体としては寂れっぷりがヤバイ

駅の近くにコンビニがあるのが救い。このレベルの観光地だとコンビにすらないケースもあるからね・・・

ヤマシンさんとか素敵なお店もあるけど、全体としては観光地レベルがかなり低い。


そんな残念な湯沢町だけど、リゾマンを買ったことに後悔は無いし満足もしてる。
観光できる町では無いけれど、これからも楽しくリゾマンを利用できると思う。
一般家庭でも購入できる価格帯だし、荷物置けるの便利!
車一台買い足す値段で購入維持できるんだよ?町のしょぼさは眼を瞑れるよ。
観光できる町になってくれるならそりゃ嬉しいけどねー


3915 匿名さん 2日前

>>3914 匿名さん
ここを開発した西武は、今、秩父や飯能とかに力を入れているみたい。


3916 匿名さん 1日前

私の場合、むしろ観光地であったならばマンションは購入していなかったと思います。何もないがあるから湯沢に魅力を感じています。冬より夏の湯沢が好きです。手付かずの自然に溢れていて、気取らない田舎町の風情が大好きです。おしゃれなカフェなんかより、地元の野菜や特産品を購入できる大型の直売所が出来たらいいなぁと思います。


3917 匿名さん 1日前

世田谷区と提携?してる田舎の 川場村が田舎を売りにした田舎だけど、
ちゃんと都会民に媚びてて好きだ。
湯沢に来る途中にインター下りてちょっと遊ぶのに丁度いい川場村ね!

観光に対する努力をしてても、都会から来る人のニーズがわかってないとズレた事して寒いだけじゃん。
川場村はニーズがわかってる。役場の人間がヤリ手なのか、コンサル入れたのかはわからんけど。

私は手付かずの自然より、整備された自然が好きだから、川場村くらいの自然が心地いいかなー。

湯沢は交通の面では川場村に勝ってる。
子供が喜ぶ川もあるし、
やり方によっては化ける町だよね。

(お手入れされた自然は不自然で苦手な人も居ると思うから あくまでも私の意見)


3920 匿名さん 1日前

道路なら
苗場と四万温泉もつなげて欲しい。
もちろん、冬は閉鎖でいいから。

あと7キロだか8キロ程度作ればつながるらしいじゃん
ここまで出来てるならつなげないとモッタイナイ


3921 ご近所さん 22時間前

353号ですね。三国スキー場が閉鎖しちゃって、もう計画もされないのでしょうね。


3922 匿名さん 15時間前

国道となると国かな。
プライマリーバランスの黒字化とやらのためにムダだと決めたのかなw
通れば行き来も増えて観光も活性化するはずだよね。
財政健全化とか言い出した無知な人のせいで全てが停滞だね。

3923 匿名さん 5時間前

357かぁ。峠越えの難工事になるし、トンネルにしても莫大な予算がかかる。四万温泉じゃそうまでして苗場側からのアクセスがそれほどあるとも思えないがなぁ。

3924 匿名さん 2時間前
>>3923
あと10キロくらいならつなげようよー。と、簡単に思ってしまったけど、
言われてみると峠の工事は大変そうですね。

湯沢から17号三国峠と中之条経由で草津に行くと2時間弱。
仮に苗場ー四万温泉が開通したとして、四万温泉経由で草津にいけても15分程度の短縮にしかならないかもしれない・・・

たった15分ならば17号を使って草津に行くべきかも・・・


353の峠がどれほど険しいものなのかを調べていたら、面白いHPを見つけました。

https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505

大正4年以前には、四万温泉ー苗場に道があったそうです。
牛車も通れて宿場もあったらしいのに、宿場の跡が見つからないそうで、ロマンを感じます。

このHPの関係者が踏破した古道を横取りして整備して353にすれば安く出来るんじゃ・・・牛車や昔の一般人が利用した道なら険しくなさそう!
と、一瞬思ったけど、わずかな利用者のたった15分の短縮のためにHPの人達のロマンを横取りして
何十億だか何百億の金もかけて
環境破壊するのはリターンに見合わないから、353号は無くてもいいかもしれない

ちゃちゃっと簡単に開通して、1時間くらい短縮できるならやって欲しいけど15分じゃなぁ…

https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/


▲△▽▼


四万温泉から新潟への古道探検 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=PD1_74JVqPY&feature=emb_title


四万温泉から新潟への街道跡 地図
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/image/3924/0/
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/maoutain.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/img20171112_16125942.jpg
https://www.kashiwaya.org/blog/wp-content/uploads/2017/11/kinone.jpg


古道再発見の探検隊 – 四万温泉から新潟への街道跡2017年11月12日
四万温泉や周辺の山登り, 四万温泉や群馬県のこと
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505


いまは、奥四万湖で行き止まりの四万温泉ですが、その昔は新潟方面に抜ける街道筋の温泉地でもあったそうです。

四万温泉の古老の方々からもそんな言い伝えを聞いていたので、その道を再発見しようと、4年前(2013年)の11月に引き続き、2度目の探検隊を組みました。

今回は、稲包山の登山道から入り、途中で尾根から下り、古道跡まで行き、そこから古道を新潟方面へ登りました。

微かに残った道跡。
道なき道を藪漕ぎで進み、滑落の危険と背中合わせの道を進みました。


最初は余裕タップリしでしたが・・・

ほとんどの道中は深い笹薮の中


何箇所もあった、沢越えではかなり危険な思いも・・・


かなり怖くてハードな道のりでしたが、4年前の第一回目の探検のあと、営林署のSさんがひとりで何度も山に入り、入念に下調べしておいてくれたので、なんとか古道を踏査できました。


新潟県境の尾根にたどり着き一安心


11月上旬なのに霧氷が


今回の踏査マップ

4年前と今回の調査を合わせて、この街道の全貌がかなり見えてきました。


営林署Sさんのまとめた資料

この道(木の根宿古道と(仮)で呼びます)は、四万温泉の日向見から四万川・木の根宿沢沿いを登り新潟県境の三坂峠を経て湯沢町の浅貝に至るルートだったようです。

色々な古文書や古地図にその存在が記載されているのですが、大正4年発行の地図を最後に地図からは消えてしまっています。


大正4年発行の地図

四万温泉在住の折田さんがまとめてくださった資料によると、すでに10世紀には木の根宿古道が使われていたようです。


折田さんによる年表

新田義貞が挙兵の折(14世紀)、新潟側の同志がこの道を通って参戦した。
木の根宿(きのねしゅく)という宿場があり遊女もいた(須川記)
新潟の上杉氏がここを往来した記録も残る

など、興味深い記載がたくさん残っています。

さらに、中之条町歴史民俗資料館(MUSEE)の「世のちり洗う四万温泉」図録にも、この古道の往来について簡単にまとめた記事があります。


中之条町歴史民俗資料館提供

坂上田村麻呂が通過したと言われる、国府 – 渋川 – 中之条 – 四万 – 木の根宿 – 浅貝への木の根宿通りの奥州故道・・
「元慶の乱」(878年)、出羽で起こった乱の鎮静のため上野国の兵の出動経路

などが書かれています。

実際に歩いてみたり地図を辿ってみたりすると、木の根宿古道は、登山が目的のいまの稲包山のルートとは異なり、なるべくアップダウンの少ない、牛馬も通りやすい位置にルートが設定されていたことがわかります。

今回木の根古道を歩いてみて、道のありがたさを身を以て体感しました。

普通の登山道 >> 木の根宿古道 >> ただの笹薮

本当に微かではありますが、残っている道跡を歩くのが、全く何もない笹薮の中を歩くのよりどれだけ楽だったことか、そして整備されている登山道の楽チンさといったら最高でした。

営林署のSさん以外は、木の根宿古道を制覇した人はいないので、次のチャンスには、日向見から新潟まで全て古道を歩いてたどり着いてみたいと思いました。

また、文献(吾妻郡誌)に、

木の根宿趾
澤田村大字四萬の山中にあり。此地往古越後との交通路ありし頃、人家點々略宿状をなせりといふ。

と記載のある、木の根宿の跡地遺跡もいつの日か発見してみたいと思います。

協力してくださる、大学の登山部や探検部の方いらっしゃいませんか?
お気軽にお声がけくださいね。

今回の調査の様子を上毛新聞が記事にしてくれました。

上毛新聞記事

(以下引用)
奥四万湖から三坂峠を越えて新潟県に続く「木の根宿古道」(約10キロ)を、中之条町の観光団体の関係者が5年がかりで踏査した。複数の文献に古道沿いにあると記されながら、場所が確認されずにいる謎の宿場町「木の根宿」の跡地は発見できなかった。今後も宿場跡の調査を続ける一方、山岳ルートとしての活用法を探る。

 調査したのは、奥四万湖近くの秋沢橋から稲包山の中腹を抜け、新潟県境の三坂峠を越えるルート。尾根や沢、滝を進む難コースで、クマザサなどが生い茂り登山者が立ち入れない状態になっている。四万温泉協会と同町観光協会が、登山ルートやトレイルランコースへの活用を視野に2013年に調査を始め、今年11月にようやく終了した。

 木の根宿古道はかつての主要道で、沼田藩主だった真田家の家臣、加沢平次左衛門が主家の興亡をまとめた戦記物「加沢記」に登場するなど複数の文献に記載がある。江戸時代の猿ケ京関所開設に伴い通行禁止となったが、新潟への抜け道として利用されたと伝えられる。

 古道沿いに木の根宿があったとされ、1934(昭和9)年に吾妻山岳会が跡地を発見したと「群馬県吾妻郡誌追録」に記されている。「木の根宿に花魁おいらん屋敷があった」との伝承も残る。ただ、写真はなく、その後の調査で跡地の場所は確認できていない。

 同町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」の山口通喜館長は「木の根宿古道は軍事などを目的に古くは平安時代から使われ、利用する一般人も多かった。今回の調査で宿場町跡は確認できず残念だが、踏破する価値がある」と話す。

 調査に参加した同町観光協会の原沢香司さんは「近くにぐんま県境稜線トレイルが整備されるので、連携した活用法を検討したい」、四万温泉で旅館を経営する柏原益夫さんは「山岳トレイルが人気なので、四万温泉の魅力に一つにできたら」と話している。
https://www.kashiwaya.org/blog/?p=11505

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c556

[近代史3] 世界の男女平等幻想 富裕層95%男性、女性は金持ちになれない

2019年11月12日
世界の男女平等幻想 富裕層95%男性、女性は金持ちになれない


北欧の女性閣僚、平等な部分だけが紹介され、北欧の女性に労働以外の価値が認められていないのは隠されている


引用:http://blog-imgs-52.fc2.com/1/0/r/10rank/20120805002827279.jpeg


日本でも女性の地位向上が言われているが、いつも一過性のブームで終わり、総理が変わると無かった事にしている。

アメリカや欧州の女性先進国の実態はどうなのだろうか


女性は自分の力では富裕層になれない

アメリカは男女平等にうるさい国だが、不都合な統計もある。

全米の富裕層を調べた調査では、上位0.1%の富裕層のうち95%が男性だった。


5%の女性の多くは配偶者や両親の資産を受け継いだものだった。

自分で稼いだ金で富裕層になった女性が、ほとんど居なかったのが分かる。

この数字は世界的に見ても変わらず、スイスUBSと、シンガポールのウエルスXが共同で調査した結果にも現れている。


調査では2013年の世界の3000万ドル以上(約30億円)の資産を持つ富裕層を調べた。

全世界の人類の平均年収は100万円にも満たないので、これは超富裕層である。

富裕層の全資産総額は27兆7700億ドルで、男17万5730人に対し、女2万3505人なので女性の割合は12%だった。


資産を築いた方法を見ると、男性の職業は金融・財閥・製造・不動産・技術者などに対して、女性の職業1位は無職で以下金融業などが続く。

会社(や社会的)地位については男性は組織のトップや主要な地位が多く、女性は株主、組織の会長が多く、以下は社長などが続いている。

女性の富裕層の大半は、親か夫の資産を受け継いだのだと分かる。


この調査では自力で成り上がった人は男性が70%、女性が33%だったと結論付けている。

親の資産があったが、自分の力で増やした人を含めると、自力だけで富裕層になったのは女性の19%に過ぎなかった。

つまり自力で金持ちになった女性富裕者は、約20万人のうち全世界でたった4465人しか居なかった。


これは調査した人数の中ではこうだったという事で、実際にはもっと多く居るのでしょうが、それにしても少ない。

そして富裕層の定義になる金額を上げるほど、女性の比率は低くなる傾向がある。

逆に貧困層など社会の階層が低くなるほど、女性のほうが収入が高くなる傾向も見られる。

まあ極端に言えばホームレスのほとんどが男性なわけで、勤労意欲を無くすと男は弱い。

欧州の男女平等の現実

上場企業役員に占める女性の割合は、米国が12%、フランスが18%なのに対し、日本は3.9%となっています。

日本企業の管理職に占める女性の割合が10%に満たない企業が81.1%で、50%以上がゼロだった。

欧州は女性の地位向上に熱心で、フランスは上場企業役員の50%を女性にするよう法律で義務付けた。


欧州で最も進んでいるとされるのが北欧で、ノルウェーが特に有名です。

ノルウェーは首相と財務相が女性であり、経済界連合や労組連合のトップも女性が就任している。

上場企業の取締役会における女性の割合を40%以上にするよう義務つけている。


だが現実はこうした外から見える数字と大きく違っているとされている。

上場企業は女性役員40%を達成するため、役員の4割を社外取締りにし、権限のない女性役員を4割雇いました。

まあ役員会議に出席してお茶を飲んでいて給料が貰えるので、良い身分かも知れない。


推定によるとノルウェーで現実に会社の経営に関わっている女性役員は6.4%で、他の約35%は『名義貸し』の女性役員だった。

そしてこの規制を逃れる為に、非上場化した企業が3割も存在した。

この結果ノルウェーの企業は一種の共産主義的なモラル崩壊が起きていると言われている。


不幸な事にEUでは欧州全体でこの制度を義務化しようとしている。

北欧の多くの国は国会議員や地方議員、閣僚に女性当選ノルマを課している。

例えば大臣の50%が女性でなければならないと定められていたり、それが恒例になっていたりする。


だが北欧が男女平等にしたのは、理想に燃えていたからではなく、元々は女性の地位が非常に低かったからです。

まず北欧では主婦というものが存在せず、必ず労働をしなければならなかった。

これは旧ソ連の影響を強く受けて、社会主義国家の「労働せざる者は食うべからず」という思想に基づいている。


家の中で食事を作るのは労働ではないから、専業主婦は禁治産者のような扱いであった。

労働をしても20世紀以前の社会は結局力仕事が多いわけで、女性の評価が低かった。

だから女性側の不満が非常に強くなり、もっとも早く男女平等に取り組む必要があった。


北欧の人に専業主婦について聞いてみれば、浮浪者と同じようにしか考えていないのが分かる。

一方日本では専業主婦は女性の理想の一つでした。

離婚率が非常に高いのと相まって、北欧の女性には労働する以外の生き方とか、選択肢は存在しない。


専業主婦の地位が安定している国ほど、男女平等にする理由が乏しく、遅れているとされている。
http://www.thutmosev.com/archives/31673872.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/712.html

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
1. 中川隆[-14989] koaQ7Jey 2019年11月12日 14:36:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2085]

20世紀の大作曲家はウェーベルンもブーレーズもマーラーもリヒャルト・シュトラウスも名指揮者だった

Berg Violin Concerto (1936) Krasner-Webern - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=yjVTClpoDk4


アルバン・ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》"To The Memory of an Angel"

Louis Krasner, violin
Anton Webern, conductor
BBC Symphony Orchestra

Recorded live May 1, 1936
at a private concert.

アルバン・ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》は1935年8月11日に完成された。
おそらくベルクの最も有名な作品であり、なおかつ最も演奏回数に恵まれた作品である。
「ある天使の思い出に」(Dem Andenken eines Engels)の献辞が付されているが、ときにこれが副題のように看做されることもある。


ヴァイオリニストのルイス・クラスナーによって依嘱された。ベルクは初めてこの依嘱を受けた時、オペラ《ルル》に取り組んでおり、しばらく協奏曲は手付かずのままであった。しかし、アルマ・マーラーがヴァルター・グロピウスともうけた娘マノン・グロピウスが、18歳という若さで急死する。ベルクはマノンを可愛がっていたため、この訃報を知ると、オペラをいったん脇にのけ、クラスナーから委嘱されていた協奏曲を「ある天使の想い出に」ささげるものとして作曲にとりかかった。

《ヴァイオリン協奏曲》の作曲は非常にはかどり、2〜3ヵ月で脱稿したが、虫刺されから敗血症を起こしたベルクは、この作品が自分自身へのレクイエムになるであろうこと、そしておそらく《ルル》を完成できないであろうことを察知した。

ベルクは1935年12月24日に急逝し、《ヴァイオリン協奏曲》はベルクが最後に完成させた作品となった。したがってベルクは、本作の演奏に接することができなかった。


初演

世界初演:1936年4月19日、国際現代音楽協会バルセロナ大会。ルイス・クラスナーの独奏。

アントン・ウェーベルンが指揮の予定であったが、亡き友のことを思い出してしまったウェーベルンは、練習すらまともにできず、逐電してヘルマン・シェルヘンに事後を託した。


英国初演:1936年5月1日、ロンドン。招待者のみの非公開演奏。

独奏者はやはりクラスナー。アントン・ヴェーベルン指揮、BBC交響楽団。

アセテート盤に録音され、クラスナーにより保管されていた。後にCDに復刻された音源の出典でもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c1

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
35. 中川隆[-14988] koaQ7Jey 2019年11月12日 15:50:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2084]

ベルクは 1902年には一家の別荘で雇っていたメイドの女性を妊娠させてしまい、ベルクは私生児アルビーネの責任を負う証書を書かされました。 学業の成績も低迷し、精神的に追い詰められたベルクは自殺未遂に至ります。


63名無しの笛の踊り2016/09/14(水) 09:55:54.29ID:LT1FiVnr

某有名なアバズレの娘(こいつもアバズレ)にちょっかい出して
アバズレにこてんぱんに怒られている可哀相なベルク

43名無しの笛の踊り2016/09/10(土) 08:53:20.69ID:u7btCDEE

ベルクってお手伝いさんに娘を産ませているけれど、
妻との間には子供いなかったよね?

287名無しの笛の踊り2017/12/28(木) 18:38:14.67ID:ZvS0TyM6

メイドさんとの間に生まれた娘のアルビーネは里子に出して結局会えずじまいだったんだっけ
かわいそう
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1473159439/

▲△▽▼


「火夫―ある断章」 DER HEIZER (1913年 5月)
フランツ・カフカ Franz Kafka
原田義人訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49859_41919.html


 十六歳のカルル・ロスマンは、ある女中に誘惑され、その女とのあいだに子供ができたというので、貧しい両親によってアメリカへやられたのだが、彼がすでに速度を下げた船でニューヨーク港へ入っていったとき、ずっと前から見えていた自由の女神の像が、まるで突然強まった陽の光のなかにあるように見えた。剣をもった女神の腕がまるでつい今振り上げたばかりのようにそびえ、その姿のまわりにはただようような風が吹いていた。

「あんなに高いぞ!」と、彼は自分に言い、まるで船を去ることを考えないような様子で、彼のそばを通り過ぎていく荷物運搬人たちがいよいよ数を増していくのに押されて、だんだんと舷側の手すりまでいってしまった。

 航海中に一時的に知合いになった一人の若い男が、通りすがりにいった。

「ほう、まだ降りる気がないのかい?」

「もう準備はすんでいますよ」と、その男に笑いかけながらカルルはいって、自分がたくましい青年なものだから、自慢げにトランクを肩に担いでみせた。しかし、ステッキを少し振りながらもうほかの人びとと去っていくその男のほうを見ていたとき、自分の雨傘を下の船室に忘れてきたことに気づいて驚いた。彼はあまりありがたそうには見えない一人の知人に、ちょっとトランクの番をして下さい、と頼んで、帰りに道をまちがえないようにあたりの様子を見廻してから、急いで立ち去った。下へ降りていって、近道になるはずだった一つの通路がはじめて遮断しゃだんされているのを発見して、困ったことになったぞ、と思った。この遮断はおそらく船客全員を下船させることと関係があるらしかった。そこで、あとからあとから曲りくねった廊下を通り、書きもの机が一つだけぽつりと置いてある人のいない部屋を一つ通って、つぎつぎにつづく階段を骨折って探していたが、この道はただ一、二度だけ、それもいつも大ぜいの仲間と歩いただけだったので、ほんとうにすっかり道に迷ってしまった。途方にくれてしまい、だれにも会わないし、ただたえず頭の上に千人にも及ぶたくさんの人びとの足音が聞こえ、遠くのほうからすでに停止した機関の最後の音がまるで息のように聞こえてくるだけなので、よく考えてもみないで、うろつき廻ったあげくにいきどまりになった任意の小さなドアをノックし始めた。

「開いているよ」と、なかから叫ぶ声がした。そこでカルルはほんとうにほっと息をつきながらドアを開けた。

「なぜそんなに気がちがったみたいにドアを打つんだね」と、一人の大男が、カルルのほうをほとんど見ないでたずねた。どこかの天窓からは、船の上のほうでとっくに使い古されたような陰気な光がこのみすぼらしい船室へ射しこんでいた。この船室にはベッドと棚と椅子とその大男とが、まるで貯蔵品のようにぴったり並んで立っていた。

「道に迷ってしまったんです」と、カルルはいった。「航海中は全然気がつかなかったけれど、恐ろしく大きい船ですね」

「そうさ。あんたのいうとおりだ」と、男はいくらか誇らしげにいいながらも、小さなトランクの錠前を扱うことをやめなかった。両手でくり返しその錠前を押えては、錠のぱちりと下りる音をじっと聞いているのだ。

「まあ、入んなさい!」と、男はさらにいった。「まさか外に立っているわけにもいくまいからね」

「おじゃまじゃないですか」と、カルルはたずねた。

「ああ、どうしてじゃまになんかなるものかね」

「あんたはドイツ人ですか」と、カルルはたしかめようとした。ことにアイルランド人によってアメリカへ着きたての者たちがこうむるおそれのある危険について、いろいろ聞かされていたからだった。

「そうだよ、そうだよ」と、男はいった。

 カルルはまだためらっていた。すると男は不意にドアの取手をつかみ、ドアを素早く閉めるとともにカルルを引きこんでしまった。

「通路からのぞかれるのが、我慢できなくてね」と、男はまたトランクの仕事にかかりながら、いった。「だれでもあそこを通っては、のぞきこんでいきやがる。それに我慢できる者なんてほとんどいないだろうさ」

「でも通路には全然人がいませんよ」と、カルルはいった。ベッドの柱に押しつけられて窮屈そうに立っている。

「うん、今のところはね」と、男がいった。

「だが、その今が問題じゃないか。この男とは話がむずかしいぞ」と、カルルはひそかに思った。

「まあ、ベッドの上に横になんなさい。そこは場所があるからね」と、男はいった。

 カルルはできるだけうまくはって入り、はじめに飛びこんでやろうとして失敗した試みを大きな声で笑った。だが、ベッドに入るやいなや、叫んだ。

「しまった、ぼくはトランクのことをすっかり忘れていた!」

「どこに置いたのかね」

「上のデッキですよ。知っている人が番をしてくれています。ところでなんという名前の人だったかな?」そして、母親が旅行のために上着の裏につけてくれた隠しポケットから一枚の名刺を取り出した。「ブッターバウムだ。フランツ・ブッターバウムだ!」

「そのトランクはとても大切なもんですかい?」

「むろんですよ」

「それならなぜ知らない人にあずけたりなんかするのかね」

「下へ雨傘を忘れたんで取りにきたんですが、トランクをひきずって下りたくはなかったものだから。おまけに道に迷ってしまったんです」

「ひとりかね? つれはいなさらないのかね?」

「ええ、ひとりなんです」

「おそらくこの男を信用したほうがいいのだろう」と、こんな考えがカルルの頭をかすめた。「すぐにこれよりもいい友だちが見つかるものでもないし」

「で、トランクも失くしてしまったわけだね。雨傘のほうはわかんないがね」そして、男はまるでカルルのことが今ではただ一つの自分の関心事となったといわんばかりに、椅子に腰を下ろした。

「でも、トランクはまだ失くなったわけじゃないと思いますよ」

「そう思ううちがしあわせでさあ」と、男はいって、短くて濃い黒い髪の毛をごりごりかいた。「船では、港々でしきたりがちがうんでさあ。ハンブルクではあんたのブッターバウムはきっとトランクの番をしていただろうが、ここではきっとトランクも傘も両方ともあとかたもないだろうよ」

「それじゃあ、すぐ上へいかなくちゃならない」と、カルルはいって、どうやって出ていけるのか、とあたりを見廻した。

「まあ、ここにいなさるんだな」と、男はいって、片手で手荒なくらいに胸を突いてベッドへ押しもどした。

「どうしてです?」と、カルルは腹立たしげにたずねた。

「意味がないからさ」と、男はいった。「ちょっとしたら、わしも行くよ。そのときいっしょにいこう。トランクが盗まれていたら、どうしようもないし、その人が置きっ放しにしておいたなら、船がすっかり空っぽになれば、それだけ見つけやすいわけだ。傘だってそうさ」

「船の上のことはよく知っているんですか?」と、カルルは不信をこめてたずねた。船が空になったら自分の品物がいちばん見つけやすいだろう、というふだんならば納得のいく考えが、隠れた難点をもっているように思われた。

「だって、わしは火夫でさあ」と、男はいった。

「あんた、火夫さんですか!」と、まるでそのことがあらゆる期待を超こえていたようにうれしそうに叫んで、肘ひじをついてその男をもっと近くながめた。

「ぼくがスロワキア人といっしょにいた船室のすぐ前にのぞき窓がついていて、そこから機関室が見えましたよ」

「そうだ。わしはそこで働いていたんだ」と、火夫はいった。

「ぼくは前から機械のことに興味があったんです」と、カルルは一定の考えの筋道をたどりながらいった。「で、もしアメリカにこなければならなかったなら、きっと将来は技師になったことでしょう」

「いったい、なぜこなければならなくなったんだい?」

「いや、どうも!」と、カルルはいって、その話は手を振って拒んだ。そうしながら、告白しないことも大目に見てもらいたいというように、微笑して火夫の顔をじっと見た。

「何かわけがあるんだね」と、火夫はいったが、その言葉でその理由を話すようにと要求しているのか、それともそれを拒もうとしているのか、はっきりはわからなかった。

「今では火夫にだってなってもいいんです」と、カルルはいった。「両親にとっては、ぼくが何になったってどうでもいいんですから」

「わしの職があくよ」と、火夫はいって、それを十分に意識しながら両手をズボンのポケットに突っこみ、しわくちゃな、革のような、鉄色のズボンに包まれている脚をベッドの上に投げ出して、ながながとのばした。そこでカルルはもっと壁のほうによらなければならなかった。

「船をやめるんですか」

「そうだよ。わしらはきょう出発するんだ」

「いったい、なぜなんです? 気に入らないんですか?」

「そうだな、いろいろ事情があってね。気に入るとか入らんとかいうことでは、いつでもきまるもんじゃないさ。ともかく、あんたのいうことはもっともで、わしには気に入らなくもあるさ。あんたはきっと、火夫になることをまじめには考えてはいないんだ。そんなことならいくらでも手軽になれるだろうよ。だから、わしはきっぱりとやめろというね。ヨーロッパで学問するつもりだったのなら、なぜここでも学問しようと思わないんだね? アメリカの大学はヨーロッパのより比べものにならぬくらいいいんだぜ」

「そうかもしれません」と、カルルはいった。「でも、学問するための金がほとんどないんですよ。昼間はどこかの店で働き、夜は勉強して、ついにドクトルになり、たしか市長かなんかになった、っていうような話をだれかの本で読んだことがあるけれど、それには大変な忍耐が必要でしょうね? ぼくにはその忍耐が欠けているんじゃないか、と思うんですよ。その上、ぼくはそれほどいい生徒じゃありませんでした。学校をやめることも、ぼくには実際それほどつらくはなかったんです。それからここの学校はきっともっときびしいでしょうからね。英語はほとんどできないんです。およそここの人たちは外国人にひどく偏見をもっていると思いますね」

「あんたもそれをもう経験したんですかい? そうか、そりゃあいい。それならあんたはわしの相棒だ。いいかね、わしらはドイツ船に乗っているわけだ。ハンブルク=アメリカ航海の船だ。それなのになぜわしらはこの船でドイツ人ばかりじゃないのかね? なぜ機関長はルーマニア人なのかね。機関長はシューバルっていうんだ。こいつが信じられんことだ。このならず者がドイツ船でわしらドイツ人をしぼり上げているんだ。いったいあんたは――」ここで息切れがして、手をゆらゆらと振った。「わしが、文句のための文句をいっていると思うかね。あんたにはなんの力もないし、自分自身がすかんぴんの若者だということはわかっているさ。だが、これじゃあ、あんまりというもんだ!」そして、テーブルの上を拳こぶしで何度かたたき、たたきながらも眼を拳から離さないでいる。「わしはとてもたくさんの船で働いた」――そして彼は二十ばかりの名前を立てつづけにまるで一語のように並べた。カルルは頭がすっかり混乱してしまった。「それでずばぬけた働きぶりを見せて、ほめられた。船長たちの趣味に合った働き手だったんだ。一つの貿易帆船に二、三年もいたこともある」――それが彼の生涯の絶頂であるかのように、立ち上がった。「それがこのボロ船じゃあ、万事が規則ずくめでできているし、洒落気しゃれけひとつあるじゃない。この船じゃあ、わしはなんの役にも立たない。いつもあのシューバルのじゃまばかりして、なまけ者で通っている。海へおっぽり投げられたってしかたがない。給料はお情けでもらっている。こういうんだよ。わかるかね。わしにはわからんね」

「そんなことをいわれて黙っている手はありませんよ」と、カルルは興奮していった。彼は自分が船の不確かな床の上にいて、未知の大陸の岸にいるのだ、という感情をほとんど失くしてしまっていた。こうやって火夫のベッドの上にいて、そんなにも気がおけない思いがするのだった。「で、船長のところへいきましたか? 船長のところであんたの権利を主張したんですか」

「まあ、出ていってくれ。ここから出ていってもらいたいな。ここにいてもらいたくないね。わしのいうことも聞いていないで、わしに忠告しようっていうんだから。どうしてわしが船長のところへいかなきゃならないっていうんだい?」そういうと、疲れたようにまた腰を下ろし、両手のなかに顔を隠した。

「この男にはこれよりいい忠告はしてやれないのだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。そして、ばかばかしいと思われるような忠告をこんなところでやっていないで、むしろトランクを取りにいくべきだった、と思った。父親があのトランクを永久に譲ってくれたとき、「どのくらい長くこれを失なくさないでいるかな?」と、冗談にたずねたのだった。そして、この貴重なトランクはおそらくもうほんとうに失くなってしまったのだ。それでもただ一つよかったと思うことは、父親がいくら調べようと思ったところで、彼の現在の状態を知るわけにはいかないということだった。ただ、彼がこの船でニューヨークまできたということだけしか、船会社は父親に教えることができない。だが、トランクのなかの品物をほとんど使わなかったことが、カルルには残念だった。たとえばシャツを着換えることがずっと前に必要だっただろうに。つまり、当をえないところで余計な節約をしていたわけだ。今、これからの人生の門出にあたっては清潔な身なりで登場すべきところを、汚れたシャツを着た姿を見せなければならないのだ。そのほかの点では、トランクを失くしたことはそれほどまずいことではなかったろう。というのは、彼が身につけている服は、トランクのなかにあるのよりもいいのだ。トランクのなかのは、ほんとうはただ間に合せの服で、母親が出発のすぐ前につくろわなければならなかったものだ。今、思い出したのだが、トランクのなかにはヴェロナのサラミ・ソーセージが一本入っていた。これは、母親が特別の贈物としてトランクに入れてくれたものだが、ほんの少ししか食べられなかった。航海のあいだ、まったく食欲がなくて、三等船室で配給されるスープで彼には十分すぎるくらいだった。だが、あのソーセージはもっていたかった。そうすれば、あれをこの火夫にやることができたろう。というのは、こういう連中は何かちょっとしたものをつかませると、すぐ味方につけることができるのだ。そのことは父親から教えられていた。父親は葉巻をわけてやることによって、商売の上で自分とかかり合いのある下っぱの社員たちを手に入れていた。今、カルルが贈物にできるものとしてもっているのは、金だけだった。だが、たといトランクはおそらく失くしてしまうということになっても、金にだけはさしあたり手をつけたくなかった。ふたたび彼のもの思いはトランクにもどっていった。そして、もし今このトランクをあんなに容易にもち逃げされるくらいなら、なぜその同じトランクを航海のあいだあんなに注意深く気をつけていて、それを見張るためにほとんど夜も眠れないくらいだったのか、さっぱりわからなかった。彼は航海中の五晩の夜を思い出した。そのあいだじゅう、彼の左側の二人目に寝床をもっていた小柄なスロワキア人が自分のトランクを狙ねらっていると、たえず疑いをかけていたのだった。このスロワキア人はただ、カルルがついに弱ってしまってちょっとのあいだこっくりこっくり眠るのを待ち受けているのだった。昼間いつももてあそんだり練習したりしていた長いなわを使って、トランクを自分のところへたぐりよせようというわけだ。昼間はこのスロワキア人はひどく罪がないように見えるのだが、夜になるやいなや、ときどき寝床から起き上がって、悲しげな顔つきでトランクのほうを見るのだった。カルルはこうしたこといっさいをはっきりと見わけることができた。というのは、船内規則では禁止されているにもかかわらず、いつでもあちこちで渡航者としての不安から小さな蝋燭ろうそくをつけていて、移民案内社のわかりにくい案内をなんとか呑みこもうとしているのだった。こういう蝋燭が近くにあればカルルは少しはうとうとすることができたが、その火が遠くにあるとか、まっ暗だとかいうときには、眼を開けていなければならなかった。この努力が彼をほんとうに疲れさせてしまった。そして、今となってみると、こんな努力もおそらくまったく無用だったのだ。このトランクをもち逃げしたブッターバウムのやつ、いつかどこかで出会うようなことがあったら、ただではおかないぞ!

 ちょうどそのとき、その部屋の外の遠くのほうで、これまでの完全な静かさを破るように子供の足音のような小さくて短な音が鳴り響いた。その音は響きを強めながら近づいてきた。それは男の人たちの静かな行進だった。通路が狭いのだから当然な話だが、その人たちは一列になって歩いているらしかった。武器の鳴るようなかたかたいう音がした。ベッドのなかで、トランクとスロワキア人とについての心配から解放されて、すんでのことに眠りこもうとしていたカルルはびっくりして起き上がり、火夫をつついて彼の注意を向けようとした。というのは、行列の先頭がちょうどドアのところにまで達したらしかった。

「あれは船のバンドだよ」と、火夫はいった。「上のデッキで演奏を終えて、荷づくりにいくんだ。これで全部すんだと。これでもう出かけられる。さあ、こないか!」

 火夫はカルルの手をつかみ、最後の瞬間にベッドの上の壁から額ぶちに入ったままの聖母像を取り、それを胸のポケットに突っこんで、自分のトランクを手に取ると、カルルとともに急いで船室を出た。

「これからわしは事務室へいき、係の人たちにわしの考えをいおう。もうお客さんはいないから、遠慮していることはないんだ」

 このことを火夫はいろいろな言いかたでくり返し、歩きながら足で横に払って通路を横切っていくねずみを踏みつけようとした。ねずみはもう十分間まに合うところまで達していたのだが、ただもっと素早くその孔あなに飛びこんでいった。火夫はおよそ動作ののろい男だった。というのは、長い脚をもってはいるものの、その脚があんまり重すぎるのだ。

 二人は料理場の一画を通っていった。そこでは二、三人の汚ないエプロン姿の――彼女たちはわざと汁をかけたのだ――女の子たちが、大きなバケツのなかで食器を洗っていた。火夫はリーネとかいう女の子を呼んで、腕を女の腰へ廻し、色っぽくたえず男の腕に身体を押しつけてくるその女をつれて少しばかり歩いた。

「今、給料が出るぜ。いっしょに、こないかい?」と、火夫はいった。

「なぜあたしがいく必要があるのさ? それよりお金をこっちへもっておいでよ」と、女は答え、男の腕をするりと抜けて、逃げ去った。

「そのハンサムな子、どこから見つけてきたのさ?」と、女はきいたが、もう返事なんかしてもらおうと思っているのではなかった。仕事を中断していた女の子たちみんなの笑い声が聞こえてきた。

 二人は先へ進んで、一つのドアのところへきた。そのドアの上には小さな前びさしがついていて、そのひさしは小さい金ぬりの女神像の柱に支えられている。船の設備にしてはほんとうにぜいたくに見えた。カルルは、気づいたのだが、このあたりへ一度もきたことがなかった。おそらく航海中は一、二等の船客たちの専用の場所だったのだろう。ところが船の大掃除を前にした今では隔ての壁がみんな取り外されたのだ。事実、ここへくるまでに二、三人の男たちに出会ったが、みんな箒ほうきを肩に担いでいて、火夫に挨拶したのだった。カルルは船の設備がりっぱなのに驚いた。三等船室ではむろんそんなことはほとんどわからなかったのだ。通路に沿って電線が張られてあり、小さなベルの音がたえず聞こえた。

 火夫はうやうやしくドアをノックして、「入りたまえ」という声がしたとき、かまわずに入れと手でうながした。カルルも入ったが、ドアのそばに立ちどまっていた。部屋の三つの窓の前には海の波が見えた。その楽しそうな動きを見ていると、カルルの胸は高鳴った。まるで五日のあいだ海をたえず見ていたのではなかったようだった。大きな船がたがいに進路を交叉し、その重みが許すだけ打ちつける波に身をまかせていた。目を細くすると、これらの船がただその重みだけでゆれているように見える。マストには細いけれど長い旗が掲げられてあり、それらの旗は航海によってちぢんでしまっていたが、それでもときどきゆれ動いていた。おそらく軍艦からだろうが祝砲が聞こえてきた。あまり遠くないところを通り過ぎていくこうした軍艦の一隻の砲身が、その鋼鉄の被いの反射光で輝き、安全でなめらかだが水平とはいかない航行に愛撫されるように軽くゆらいでいた。小さな船やボートは、少なくともドアのところからは、遠くにしか見られなかったが、大きな船のあいだのぽっかりあいた水面に乗り入れていた。だが、そうしたすべての背後にニューヨークの町が立っており、その摩天楼の何十万という窓でカルルを見ていた。実際、この部屋にいると、自分がどこにいるのか、わかるというものだ。

 円テーブルに三人の人が坐っていた。一人は青い船員の制服を着た高級船員であり、ほかの二人は港務局の役人で、黒いアメリカの制服を着ていた。テーブルの上には、高く積み重ねられたさまざまな書類がのっていて、それらを高級船員がまず手にしたペンでざっとたどり、それから二人の役人に手渡すのだ。役人のほうは、あるいは読んだり、あるいは抜き書きしたり、あるいは書類鞄に入れる。そうでないときには、ほとんどたえず歯で小さい音を立てているほうの役人が、同僚に口授して何か調書に書き取らせている。

 窓ぎわの書きもの机には、背中をドアのほうに向けて、小柄な男が一人坐っている。この男は自分の前のどっしりした本棚のなかに頭の高さに並べられてある大きな二つ折り版の書類を扱っていた。その男のそばには、蓋を開けた、少なくともはじめ見ただけでは空からのように見える小型金庫が置かれていた。

 二番目の窓の前には何も置いてなく、いちばんながめがよかった。ところが、第三の窓の近くには二人の紳士が立って低い声で話していた。一人のほうは窓のそばによりかかっている。この人もやはり船員の制服を着ていて、短剣のつかをいじっていた。この人が話している相手の人は、窓のほうを向いて、ときどき身体を動かすと、相手の胸を飾っている勲章の列の一部分が見えるのだった。この人は私服を着て、細身の竹のステッキをもっていて、そのステッキは両手で腰のところにしっかり当てているため、やはり短剣のように突き出ていた。

 カルルは、こうしたすべてを見るだけのひまがなかった。というのは、すぐ給仕が彼ら二人のほうに近づいてきて、お前なんかここにくる人間じゃないんだというような目つきをして、いったいなんの用か、と火夫にたずねた。火夫は、たずねられたのと同じように低い声で、会計主任さんとお話ししたいのだ、と答えた。給仕は、自分としてはそんな願いはききかねるというふうに手を振って拒んだが、それでも爪先で歩いて、円テーブルを大廻りして避けて二つ折り版をもっている人のところへいった。この人は――はっきりと見えたのだが――給仕の言葉を聞いて身体を硬直させたが、ついに自分と話したいといっている男のほうを振り向いて、きびしく拒絶の意味をこめて、火夫に向かい、そしてまた念を押すため給仕に向っても、手を振って見せた。すると給仕は火夫のところへもどってきて、何かを打ち明けるような調子でいった。

「すぐ部屋から出ていきなさい!」

 この返事を聞いたあとで、火夫はカルルを見下ろした。まるで、この男こそ無言で自分の悩みを訴えるべき相手だといわんばかりの様子だった。カルルは前後の見さかいもなく出しゃばっていき、部屋を横切って足早に歩いていった。そのため高級船員の椅子をかすかにかすめるほどであった。給仕は彼をつかまえようとして両腕を拡げ、毒虫を追うように身体をかがめて走ったが、カルルのほうが先に会計主任の机に達した。そこでは主任は、給仕がこの男をつれ去るだろうと考えて、しっかりした態度を保っていた。

 むろんすぐに部屋全体が活気を帯びた。テーブルに坐っている高級船員は飛び上がった。港務局の二人の役人は、静かに、しかし注意深くながめている。給仕は、すでに偉い人たちが関心を示すようになったところでは自分の出る幕ではない、と思って、引き下がってしまった。ドアのそばの火夫は、自分の助けが必要となる瞬間を緊張して待ち構えている。会計主任はとうとう安楽椅子に坐ったまま大きく右旋回した。

 カルルは、これらの人びとの視線にさらされることをちっともためらわずに、例の隠しポケットをごそごそ探して、旅券を取り出した。そして、これ以上自己紹介するかわりに、その旅券を開いたまま机の上に置いた。会計主任はこんな旅券はどうでもいいと考えているらしかった。というのは、二本の指でそれをわきへどけたのだ。するとカルルは、まるでこの手続きが満足すべき結果で終ったとでもいうように、旅券をまたポケットにしまいこんだ。

「失礼ですが申し上げます」と、カルルは語り始めた。「ぼくの考えによるとあの火夫さんに不当な扱いが加えられたんです。この船であの人の上にいるのはシューバルとかいう人です。あの人自身は、すでにたくさんの船で(あの人はあなたにそれらの船の名前をみんな申し上げることができますが)完全に満足すべき勤めをしました。勤勉で、仕事のことを大切に考えています。たとえば貿易帆船ほどに勤めが法外にむずかしいわけでないこの船で、なぜあの人がどうもしっくりいかないのか、ほんとうにわかりません。だから、あの人の昇進を妨げ、あの人の真価がみとめられることをだめにしているのは、ただいわれのない悪口にすぎないのかもしれません。そうでなかったら、この人はかならずや真価をみとめられないでいるはずがないのです。ぼくはこの件についてただ一般的なことだけを申しました。あの人の特別な苦情についてはあの人からあなたに自分で申し上げることでしょう」

 カルルはこの演説でここにいるすべての人に呼びかけたのだった。事実、みんなも聞いていたし、会計主任が正しい人間だというのよりも、みんなのなかにだれか正しい人間が一人いるということのほうがいっそうありそうに思えるのだった。さらに、彼がこの火夫に出会ったのはほんのついさっきのことだ、ということは抜け目なくいわないでおいた。ともかく、もし彼が今いる場所からはじめて見た例の竹のステッキをもった紳士の赤ら顔に当惑させられなかったならば、もっとうまく話すことができただろう。

「その話は一語一語みんなほんとうです」と、まだだれもたずねないし、まだだれもおよそ彼のほうを見もしないのに、火夫はいった。火夫のこの早まりすぎた行動は、もし例の勲章をつけた紳士が(そのときカルルにわかったのだが、ともかくこの人が船長だった)火夫のいうことを聞こうという気にすでになったらしいのでなかったならば、大きな失策だったことだろう。つまり、その人は手をのばして、火夫に向って叫んだのだった。

「こっちにきたまえ!」

 その声は、一撃で話をつけようとして断固とした響きをもっていた。今はいっさいが火夫の態度にかかっていた。というのは、彼の件の正しさに関しては、カルルは少しも疑ってはいなかった。

 ありがたいことに、火夫がすでに世間をいろいろ渡ってきたことが、この機会に示された。非の打ちどころなく落ちついて、小さなトランクから最後の一つかみで一束の書類と一冊のメモ帳とを取り出し、それをもって当然のことのように会計主任をまったく無視して船長のところへ歩みより、窓わくの上に証明書類を拡げた。会計主任には、自分からそこへ出かけていくよりほかに方法がなかった。

「この男は有名な不平屋でして」と、会計主任は説明のためにいった。「機関室によりも会計にいることのほうが多いんです。この男はあのおとなしい人間のシューバルさえもすっかり絶望させてしまったのです。どうかお聞き下さい!」それから火夫のほうに向きなおっていった。

「君の厚かましさもほんとうに度を越しているよ。君はこれまでに何度、支払い部屋からほうり出されたんだ。君のようにまったく、完全に、例外なく不当な要求をやるなら、そんな扱いを受けるのがあたりまえさ。君は何度、そこから会計課へかけこんだのかね。シューバルが君の直接の上役なのだから、君は下役としてあの人とだけで話をつけるように、って何度おだやかに言い聞かされたのかね。それなのに今度は、船長さんがいられるとこんなところにまでやってきて、船長さんをわずらわすことを恥じないで、君のくだらない訴えの代弁者としてこんな子供みたいな人までつれてくることをちっともはばからないんだからね。こんな子供さんなんか、私はおよそこの船ではじめて見るんだがね!」

 カルルは、無理に自分を抑えて、飛び出すことはひかえていた。だが、すでに船長もそこへきていて、こういった。

「まあ、この男のいうことも一度聞いてやろうじゃないか。あのシューバルはどのみち、ゆくゆくは私に対してはあまりに自分勝手なことをやるようになるだろう。といっても、君の有利になるようにこんなことをいったつもりじゃないのだが」

 終りの言葉は火夫に向っていったのだ。彼がすぐ火夫のために尽力するわけにいかないのは当然すぎることだったが、いっさいは順調に進んでいるように見えた。火夫は説明を始め、最初からシューバルを「さん」づけで呼んで自分を抑えていた。会計主任のいなくなった机のところで、カルルはどんなによろこんでいたことだろう。彼はただなぐさみのために手紙秤ばかりを何度も手で押えつけていた。――シューバルさんは不公平です! シューバルさんは外国人にえこひいきします! シューバルさんは火夫たちを機関室から出して便所掃除をさせました。これはけっして火夫のやるべき仕事じゃありません!――一度などは、シューバル氏の腕前さえもあやしいものだというようなことがいわれた。それはほんとうにもっているよりも、むしろ見かけだけのものだ、というのだ。ここのところで、カルルは力をこめて船長を見つめた。まるで自分が船長の同僚であるかのように親しげな調子であった。これもただ、火夫のいくらかまずい表現法によって船長が火夫にとって不利なような影響をこうむることを避けようとしたのだった。ともかく、いろいろの話からもほんとうのところは聞き取ることができなかった。そして、船長はまだ、今度は火夫の言い分を最後まで聞いてやろうという決意を眼に浮かべて、前を見ていたけれども、ほかの人びとはじりじりしてきた。そして、火夫の声はまもなく無制限に部屋を支配しなくなった。そのことはいろいろなことを心配させた。まず最初に、私服の紳士は竹のステッキを動かし始め、低くではあるが、はめこみの床をたたいている。ほかの人びとはむろんときどきそちらを見やった。港務局の役人たちは、急いでいるらしく、また書類を手に取って、まだいくらか気が散っているようではあるが書類を調べ始めた。高級船員は自分の机をまた身近かによせた。勝ち目があると信じている会計主任は、皮肉まじりに深い溜息をもらしてみせた。ただ給仕だけはみんなが襲われているむら気に取りつかれずにいるように見えた。そして、偉い人たちのあいだに置かれた哀れな男の苦しみに一部分同感して、カルルに向って真顔でうなずいて見せる。まるでそんな表情によって何かを説明しようとしているかのようだ。

 そうしているうちに、窓の前では港の風景がつぎつぎとくりひろげられた。一隻の平たい貨物船が、ころがり出さないように妙なふうに積み重ねられた樽たるの山をのせて、この船のそばを通り過ぎていった。そのためにこの部屋はほとんどまっ暗になってしまった。小さなモーターボートが、もしカルルにひまがあったらよく見ることができただろうが、舵のところにまっすぐに立った男の両手の動きに従いながら一直線に疾走していく。奇妙な形をした浮遊物がときどきじっとしてはいない水面からひとりでに浮かび上がっては、すぐまた波をかぶって、驚いている視線の前で沈んでしまう。遠洋航海の汽船のボートは、懸命に漕こいでいる水夫たちによって進められていくが、船客でいっぱいだ。船客たちはボートのなかで、押しこめられたままになって、静かに、期待にみちて坐っているが、何人かは移り変っていく光景を見ようとして頭を廻さないではいられない。終わることのない動き、落ちつくことのない水によって途方にくれている人びとと彼らの仕事との上に移された落ちつきのない動揺だ!

 だが、いっさいは急ぐように、はっきりするように、くわしく述べるように、と警告しているのだ。ところが、火夫は何をやったのだろうか。なるほど汗を流して話してはいる。窓の上の書類はふるえる両手ではもうずっと前から支えていることができなくなっていた。四方八方からシューバルに関する不平が彼に流れてきている。そのどれもが彼の考えによれば、このシューバルを完全に葬り去るのに十分だ、というのだ。ところが、彼が船長に示すことができたのは、すべてのことをごちゃまぜにした悲しむべき混乱だけだった。竹のステッキをもった紳士は、さっきから天井に向ってそっとパイプをふかしている。港務局の二人の役人はすでに高級船員を自分たちの机につかまえ、相手をまた離しそうには見えない。会計主任は明らかにただ船長が落ちつき払っているために口をはさむことをひかえているのだ。給仕は気をつけの姿勢でいつでも火夫に関する船長の命令に従おうと待ち構えている。

 そこでカルルはもう何もしないままでいることができなかった。そこでゆっくりと船長たちのほうに歩いていき、歩きながらそれだけ素早く、どうやったらいちばんうまくこの一件に口を出していくことができるだろうか、と考えてみた。もうほんとうに潮時しおどきだった。もうほんの少したったら、彼らは二人でうまく事務室から飛び出すことができるのだ。船長はいい人らしいし、それにちょうど今、カルルにはそう思われたのだが、自分が公正な上役であることを示そうとする何か特別の理由があるのだ。だが結局のところ、船長は徹底的に弾ひくことができる楽器ではないのだ。――そして火夫は、なるほど限りなく憤っている内心からではあるが、まさにそういうものとして船長を扱っているのだ。

 そこでカルルは火夫に向っていった。

「もっと簡単に話さなくちゃ。もっとはっきりわかるように。船長さんは、あんたがお話ししているようでは、もっともと思っては下さらないですよ。船長さんが機関士たちや伝令係たちの名前とか洗礼名とかまでご存じで、あなたがそんな名前を言いさえすれば、すぐにだれのことかおわかりになるものですかね。あんたの苦情を整理して、まずいちばん大切なのを申し上げ、ほかのは一段下のものとして申し上げるんですね。そうすればおそらく、たいていのことはただいうことももう必要じゃなくなるでしょう。あんたはぼくにはいつだってあんなにはっきりと話して聞かせたのに!」もしアメリカでトランクを盗むやつがいるなら、ときどきはうそをついてもいいわけだ、と彼は自分のうその弁解のために考えた。

 これが役に立ったならばいいのに! もう遅すぎたんじゃなかったか。火夫は知っているカルルの声を聞くと、なるほどすぐに話を中断はしたが、男としての名誉を傷つけられたこと、恐ろしいさまざまな思い出、現在の極端に苦しい立場、こういったことのために涙を流し、その涙にすっかり曇ってしまった彼の眼ではすでにカルルをうまく見わけることができなくなっていた。今になってからどうして――カルルは今黙っているこの男を前にして、無言のうちにこのことを見抜いていた――、今になってからどうして突然、彼の話しかたを変えることができよう。火夫にとっては、いうべきことはみんないってしまったのに、少しもそれをみとめてはもらえないように思えるし、また一面では、まだ何もいっていないのだが、さらにすべてのことを聞いてくれと今は求めることができないように思えてもいるのだ。そして、こうしたときに、さらに自分のただ一人の味方であるカルルが口を出してきて、自分は教訓を与えようとする。ところが、教訓のかわりに、いっさいが、いっさいがもうだめなのだ、と教えているのだ。

「窓からなんかながめていないで、もっと早くここへくればよかった」と、カルルは自分にいって、あらゆる希望の綱は切れたということを示す合図に、火夫の前で顔を伏せ、両手でズボンのぬい目のところをたたいた。

 ところが火夫はそれを誤解して、きっとカルルの態度に何か自分に対するひそかな非難を嗅かぎ出したのだろう。そして、その非難をカルルに思いとどまらせようという善意の意図から、自分の行為の仕上げといわんばかりに今度はカルルと口論をし始めた。円テーブルの人たちは、自分たちの重要な仕事のじゃまをしているこんな無益なさわぎにさっきから腹を立てていたし、会計主任はだんだんと船長の忍耐が理解できなくなって、今にも爆発しそうになっていた。給仕はふたたび紳士がたの仲間に入って、火夫をけわしい目つきでじろじろ見ていた。最後に竹のステッキをもった例の紳士は、船長もときどきは親しげな視線を送っていたのだが、もう火夫に対してすっかり冷淡になってしまっていた。それどころか嫌気がさしてしまい、小さなメモ帳を取り出して、どうもまったく別な用件をあれこれ考えているらしく、メモ帳とカルルとのあいだに眼をあちこちと移していた。

「わかっていますよ、わかっていますとも」と、カルルはいった。彼は今では自分に向けられた火夫の長広舌を避けようと骨を折っていた。それでもあらゆる争いの合い間にまだ火夫に対する友情の微笑を忘れてはいなかった。

「あんたのいうことはもっともだ。正しい。ぼくはそれを疑ったことは一度もありませんとも」彼はなぐられることを恐れるあまり、火夫の振り廻している両手をとめたかった。とはいえ、もっとしたいことといえば、火夫を片隅へ追いこんで、ほかのだれにも聞かれないように、一こと二こと、低い声でなだめる言葉をささやいてやる、ということであった。ところが、火夫はまったく羽目をはずしていた。カルルは今ではもう、火夫はせっぱつまれば絶望的な力を振りしぼってここにいる七人の男たちを征服するかもしれない、などということを考えて、その考えから一種のなぐさめをくみ出し始めてさえいるのだった。とはいっても、書きもの机の上には、そこをちょっと見ただけでわかるのだが、電気装置のたくさんの押しボタンのついた台があった。それに手をかけ、ただ簡単にそれらのボタンを押しさえすれば、敵意をもつ人間たちであふれている通路が縦横に通じているこの船全体に暴動をひきおこすことができるのだ。

 そのとき、あんなに無関心であった竹のステッキをもった紳士が、カルルに近づいてきて、ひどく高い声ではなかったが、火夫のどなり散らしている叫び声を圧してはっきりわかるように、「いったい、君はなんていう名前ですか」と、たずねた。この瞬間、まるでだれかがドアのうしろでこの紳士の発言を待っていたかのように、ノックする音がした。給仕は船長のほうを見た。船長はうなずいた。そこで給仕はドアのところへいき、ドアを開けた。ドアの外には古いカイゼル服を着て、中肉中背の男が立っていた。その外見からいうとほんとうは機関の仕事に適してはいなかった。だが、これがシューバルだった。ある種の満足を表わしているみんなの眼で、カルルはこの男がシューバルだということに気づかなかったとしても(船長さえ満足の気持からのがれてはいなかった)、火夫の様子でそれとわかって驚かないわけにはいかなかっただろう。なにしろ火夫は、力のこもった腕に拳をしっかと固めて、まるでこの固めた拳こそいちばん大切なものであり、そのためには自分の生命のすべてを犠牲にする覚悟でいるように思われるのだった。そこに彼の力のすべてがこもっていて、また彼の身体をおよそきちんと起こさせている力もその拳にこもっていた。

 こうして敵が現われたわけだが、礼装を着てこだわりなく元気で、わきの下に帳簿を抱えている。おそらく火夫の賃金表と労働報告書とであろう。そして、一人一人の気分をまず何より先にたしかめようとしていることをひどく露骨に顔に出して、順を追ってみんなの眼をながめていた。七人ともすでに彼の味方であった。というのは、船長はさっきは彼に対してある文句をもっているか、あるいはただそれを口実としているかしたのであるが、火夫が自分に対して害を与えたあとの今となっては、おそらくシューバルを非難することはほんの少しでもないように見えた。この火夫のような男に対しては、いくらきびしい扱いをしても十分ということはないのだ。そして、もしシューバルに対して非難すべきものがあるならば、それは彼が火夫の反抗心をこれまでのうちに打ち破ることができず、そのために火夫がきょうはあえて船長の前にまで現われるにいたったという事情そのものであった。
 ところでおそらくこう考えることもできた。火夫とシューバルとの対立は、上級の法廷を前にして表われるような効果を、この人びとを前にしてもきっと表わさないではいないだろう。というのは、シューバルがいくらうまくよそおうことができたところで、しかしそれを最後までもちこたえることはできないにちがいなかった。彼の悪がほんの少しひらめいただけでも、それをこの人たちにはっきりと見させるのに十分だろう。その手はずを進めてやろうとカルルは思った。彼はこれまでについでながらここにいる一人一人の洞察力どうさつりょく、弱点、気まぐれなどを知っていた。そして、この観点からいうと、これまでここで過ごした時間はけっしてむだではなかったわけだ。火夫がもっと事態に応じるだけの才覚をもっていたらよかったが、しかしこれは完全に闘争能力をもたないように見えた。もし彼にシューバルを向かい合わせたら、きっとこいつの憎い頭蓋骨ずがいこつを拳でたたくことはできただろう。しかし、ほんの一、二歩だけでもシューバルの[#「シューバルの」は底本では「シュバールの」]ほうに向って自分から進んでいくことは、きっとほとんどできなかったろう。シューバルが自分から進んでやってくるのではなくとも、船長に呼ばれて最後にはやってこないわけにはいかないという、ひどくやさしく予想できることを、カルルはなぜ予想しなかったのだろう。カルルと火夫との二人が実際にやってしまったように、救いがたいほど手ぶらで、いとも簡単にドアがあるところへ入るなどというのではなく、なぜカルルはやってくる途中、火夫とくわしく戦闘計画を相談しておかなかったのだろうか。いったい火夫はものをいうことができるだろうか。これはいちばんうまくいった場合だけに行われるのではあるが、もしくわしい訊問が行われるとしても、その場合に必要なイエスやノーを火夫はいえるだろうか。火夫はそこに突っ立っている。両脚を開いて、膝は不安定であり、頭は少しばかり上げている。開いた口を通って空気が出入りしていて、まるで胸のなかにはその空気を使う肺がないかのようだ。

 とはいえ、カルルはおそらく故郷にいるときは一度もなかったほど、力強く、頭もさえているように感じられた。彼が外国でりっぱな人たちを前にして善のために闘い、まだ勝利をもたらすまでにはいたっていないにしても、もう最後の征服の準備が完全にできているのを、彼の両親がもし見ることができたならば、なんといったことだろう。両親は彼についての意見を修正するだろうか。自分たちのあいだに彼を坐らせて、ほめてくれるだろうか。彼らにとても従順な彼の眼のうちを一度は、一度は見入るだろうか! これはどうもたしかとはいえない問いだし、またそんな問いを提起するのにはまったく不適当な今の瞬間なのだ!

「私がやってきたのは、火夫が私の不正直さということを何か非難しているからです。料理場のある女の子が、この男がここへやってくるところを見かけた、と私に言いました。船長さん、並びにみなさん、私はどんな非難でも、私の書類を使って、あるいは必要の場合にはドアの前に立っている偏見のない公平な証人たちの陳述によって、否定し去る用意があります」シューバルはこう語った。

 これはなるほど一個の男のはっきりした話ではあった。聞き手たちの顔つきに表われた変化によると、彼らは長い時間かかってはじめて人間の声をまた聞いているのだ、と思うことができるだろう。むろん彼らは、このりっぱな話にさえもいろいろ欠陥があるということに気づいてはいなかった。なぜ彼が思いついた最初の具体的な言葉が〈不正直さ〉というものなのだろうか。おそらく、彼の国民的偏見などということではなくて、非難はこの点に向けられなくてはならなかったのではないだろうか。料理場の女の子が火夫が事務室へいく途中だったのを見て、シューバルはそれを聞くとただちになんのためにいくのかわかったというのか。彼の頭をそんなに鋭敏にしたのは、彼自身の罪の自覚ではないのだろうか。そして、彼はすぐ証人たちをつれてきて、しかもその証人たちが偏見がなくて公平だというのか。ぺてんだ、ぺてん以外の何ものでもないのだ! それなのに、この人たちはそれを黙って聞いており、その上にそれを正しい態度とみとめているのか。なぜ料理場の女の子の報告から彼がここにつくまでのあいだに、疑いもなくひどく時間がかかったのか。その目的はただひとえに、それによって火夫が要領をえない話でこの人たちを疲れさせ、そのためにこの人たちが明晰めいせきな判断力を失ってしまう、ということを狙ねらったのだ。この人たちの明晰な判断力こそ、何よりもシューバルが恐れなくてはならないものなのだ。彼はきっとすでに長いあいだドアのむこうに立っていたのであり、あの人のどうでもいいような質問から考えるのに、火夫がもうやられてしまった、と期待できる瞬間になってやっとドアをノックしたのではなかったろうか。

 いっさいは明らかであった。そして、シューバルによっても意に反してそういう事情が述べられたのだった。だが、ほかの人たちに対してはもっと別なふうに、もっとわかりやすく教えてあげなければならない。彼らは目をさましてやることが必要なのだ。だからカルル、急ぐんだ、証人たちが現われ、いっさいをうその洪水でわからなくしてしまう前に、少なくとも今の時間を十分に利用するんだ。

 だが、そのとき船長は手で合図してシューバルを黙らせた。シューバルはその合図を受けるとすぐに――というのは、彼の一件がほんのしばらくのあいだ中断されたように見えたからだった――わきへどいて、早くも彼の味方についた給仕と低い声で話し始めた。そして、火夫とカルルとのほうに横眼を使ったり、まことに確信ありげな手の動作をしたりしないではいなかった。シューバルはこうやってこのつぎの大演説の練習をやっているらしかった。

「この青年に何かおたずねになろうとされたのではありませんか、ヤーコプさん?」船長はみんなが黙りこくっているなかで、こう竹のステッキの紳士に向っていった。

「そうですとも」と、紳士は小さくうなずきながら、船長が気をきかせてくれたことに感謝していった。それからもう一度、カルルに向ってたずねた。

「君はいったいなんていう名前だね?」

 こんなしつっこい質問者というこの突発事を早く片づけることがこの重大な本筋と関係ありと考えたカルルは、彼の習慣となっているように旅券を見せて自己紹介するとなると、まずはじめにその旅券をポケットのなかから探さなければならないので、そんなことはやめてしまい、ただ手短かに答えた。

「カルル・ロスマンです」

「それじゃあ」と、ヤーコプと呼ばれたこの人はそういって、ほとんど信じられないといったふうに微笑しながら、あとしざりした。船長も、会計主任も、高級船員も、そればかりか給仕さえも、カルルの名前のために度はずれな驚きをはっきりと示した。ただ港務局の二人の役人とシューバルとだけが、無関心といった態度をとっていた。

「それじゃあ」と、ヤーコプ氏はくり返して、いくらかこわばった足取りでカルルのほうへ近づいてきた。「それなら、私はお前の伯父のヤーコプで、お前は私の甥おいだ。さっきから、そんなことは少しも知らなかった!」そう船長に向っていうと、つぎにカルルを抱いて接吻した。カルルは無口のまま、すべてされるままになっていた。

「あなたのお名前は?」と、カルルは身体をゆるめられたと感じたあとで、なるほどうれしそうにではあるが、まったく無感動にたずねた。そして、この新しいできごとが火夫に対して及ぼすだろうと思われる結果を予測しようと努めた。

「これはあなたにとっての大変な幸運ですよ」と船長はいった。船長は、カルルの紳士に対する質問によってヤーコプ氏という人物の品位が傷つけられたと思ったのだった。ヤーコプ氏は窓に向って立っていた。自分の興奮した顔をほかの人びとに見せなくてもすむように、ということらしい。そして、その上、顔をハンカチで軽くたたいている。「あなたに伯父様として名のられたのは、上院議員エドワルト・ヤーコプ氏です。これからは、おそらくあなたのこれまでの期待とはちがうことでしょうが、輝かしい将来があなたを待っています。今この最初の瞬間のうちにそのことを呑みこもうとなさい。そして、しっかりしなさい!」

「ぼくはなるほどアメリカにヤーコプという伯父さんをもってはいます」と、カルルは船長に向っていった。「でも、ぼくが聞きあやまったのでなければ、ヤーコプというのはこの上院議員さんの姓でしたね」

「そうですよ」と、船長は期待にみちていった。

「ところで、ぼくの伯父さんのヤーコプは、ぼくの母の兄ですが、洗礼名がヤーコプっていうんです。で、姓はむろん母のと同じはずですが、母は旧姓ベンデルマイヤーっていうんです」

「みなさん!」と、窓ぎわで気をとりしずめていた場所から元気よくもどってきた上院議員は、カルルの説明に関連して叫んだ。港務局の役人を除いて、みんなが笑い出した。ある者は感動しているようであり、ある者はどういうつもりなのかわからなかった。

「ぼくのいったことは、けっしてそんなに滑稽なことではないのに」と、カルルは思った。

「みなさん」と、上院議員はくり返した。「みなさんは、私の意志とみなさんご自身の意志とに反して、つまらぬ家庭の一幕に立ち会われているわけです。そこで私としては、みなさんにご説明申し上げないわけにはいきません。というのは、私の考えますところでは、ただ船長さんだけが」――こういうと、二人はたがいに目礼を交わすのだった――「事情をすっかりご存じなのです」

「今のところぼくはほんとうにどの一ことにも注意して聞かねばならないぞ」と、カルルは自分に言い聞かせ、ふと横をながめると火夫の姿に生気がもどり始めているのをみとめて、よろこんだ。

「私は長年にわたるアメリカ滞在のあいだに――この滞在という言葉はむろんここでは一人のアメリカ市民にとってはぴったりするものではないのですが。なにしろ私は真底からアメリカ市民でありますから――、で、長年にわたり、私はヨーロッパの親戚とはまったくつながりをもたずに暮らしていました。その理由は、第一のはここで申し上げるにふさわしいものでなく、第二の理由をお話しすることは、私にとってあまりにも迷惑なのです。おそらく私の甥にそれを語ってやらなければならないときがくると思いますが、そのときのことが心配なくらいです。話すときには、残念ながらこの子の両親とその一族とについて率直な言葉を語ることが避けられないでしょう」

「これはぼくの伯父さんだぞ、疑う余地はない」と、カルルは自分に言い聞かせ、耳を傾けていた。「おそらく名前を変えたのだろう」

「私の甥は今では両親から――事の真相を示す言葉を使うことにしましょう――あっさり捨てられたのです。ちょうど、猫がしゃくにさわると、ドアの前に投げ出されるようにです。私の甥が何をやってこんなふうに罰を受けたのか、私はとりつくろって申すつもりはありません。しかし、甥のあやまちは、それを申しただけですでに十分弁解になる理由を含んでいるようなたぐいのものなのです」

「これは聞く価値があるぞ」と、カルルは考えた。「でも、伯父さんがあれをみんなに話すのは困るぞ。ところで、伯父さんはあれを知っているはずはないんだが。いったい、どこから聞いたんだろう?」

「つまり」と、伯父は語りつづけ、ちょっと身体を傾けて前に踏んばっている竹のステッキにもたれた。それによって実際、この件から不必要ないかめしさを取り除くことに成功した。そうでなければこの件はきっとそんな不必要にまじめな調子を帯びたことだろう。「つまり、甥はヨハンナ・ブルマーという女中に誘惑されたのです。これはおよそ三十五歳ほどの女です。この〈誘惑された〉という言葉で甥の気を悪くさせたくはないのですが、ほかの同じようにぴったりした言葉を見つけ出すことは困難なのです」

 すでに伯父のかなり近くへ歩みよっていたカルルは、この話の与えた印象をこの場にいる人びとの顔から読み取ろうとして、このとき振り向いてみた。だれも笑う者はなく、みんな忍耐強く、まじめそうに聞いていた。結局のところ、最初の機会が生じたというときに、上院議員の甥のことを笑うわけにはいかないのだ。むしろ、火夫がほんのちょっとではあるがカルルにほほえみかけたといえたかもしれない。だが、これは第一に彼が新しい生気を取りもどしたしるしとしてよろこばしいことであり、第二にはもっともなことでもあった。なぜなら、実際カルルはあの船室で、今ではこんなにもひろまってしまったこの件を極秘にしておこうとしたからだった。

「ところでこのブルマーが」と、伯父は語りつづけた、「甥の子供を生みました。じょうぶな男の児で、洗礼のときヤーコプという名をつけられました。疑いもなく不肖ふしょうこの私を頭においてのことであります。この私のことは、甥がきっとただまったくさりげなく話しただけだと思われますが、それでさえその女の子に少なからぬ感銘を与えたにちがいありません。幸いなことに、と私はいわないわけにまいりません。というのは、両親は養育費の支払いとか自分たちの身にまで及ぶそのほかのスキャンダルとかを避けるために――私は強調しておかねばなりませんが、あちらの法律も、また両親のそのほかの事情も知りません――、で、養育費の支払いとスキャンダルとを避けるために、彼らの息子、つまり私の甥をアメリカへ運ばせたのです。ごらんのとおり、こんな無責任きわまる不十分な支度しかしてやらずにです。それゆえ、この子は、もしこのアメリカにかろうじて生き残っている神意のしるしと奇蹟とがなかったならば、自分の身ひとつをたよりにしなければならず、きっとたちまちのうちにニューヨーク港の裏町のどこかで零落したことでしょう。もしその女中が私宛ての手紙、しかもそれは長いことあちらこちらとさまよっておとといやっと私の手に入ったのですが、その手紙のなかで一部始終を知らせ、それに甥の人相のことや賢明にも船の名前も添えて書いてよこさなかったならば、そんなことになったかもしれません。もしみなさんを面白がらせるつもりならば、その手紙の二、三の箇所を」――といって、伯父はこまかな字で書かれた大きな二枚のレターペーパーをポケットから取り出し、それを振って見せた――「ここで朗読することもできるでしょう。この手紙はきっと効果があるでしょう。つねに善意からではあるが、いくらか単純なずるさと、子供の父親である甥に対する大きな愛情とをもって書かれているからです。だが、事情を説明するために必要である以上にみなさんを面白がらせるつもりはありませんし、また甥を迎えるにあたって、おそらくまだ残っている甥のいろいろな感情を傷つけるようなことをやりたくもありません。甥は、もしそうしたいなら、すでに彼を待っている部屋の静けさのなかでこの手紙を読んで、それを知ればいいのですから」

 だが、カルルはその女中に対してなんらの感情も抱いてはいなかった。いよいよ遠くへ退いていく過去の、ひしめき合う思い出のなかで、その女は台所で戸棚のそばに坐っている。その棚の板の上に両肘をついている。彼が父親のために水を飲むコップを取りにとか、母親に頼まれたことをやるためにとかでときどき台所へいくと、女は彼をじっと見るのだった。ときどきは台所の戸棚のわきで変な姿勢で手紙を書いており、カルルの顔を見て霊感を引き出すのだった。ときどきは片手で両眼を被っていた。そういうときは、いくら彼女に呼びかけても、彼女の耳にはとどかなかった。ときどきは台所のわきの自分の小さな部屋でひざまずいて、木の十字架に祈っていた。そういうときには、カルルはただおずおずしながら、通りすがりに少し開いているドアのすきまを通して女の姿を見るのだった。ときどきは、台所で走り廻って、カルルが彼女の道をふさぐと、魔女のように高笑いしながら、跳び下がった。ときどきは、カルルが入っていくと、台所のドアを閉めて、カルルがどいてくれと要求するまで手でドアの取手を押えていた。ときどきは、カルルが全然欲しくもない品物をもってきて、無言でそれを彼の両手のなかに押しつけるのだった。ところが、あるとき、「カルル」といって、思いがけないその呼びかけにまだ驚いている彼を、しかめ面をして溜息をもらしながら自分の小さな部屋へつれこみ、部屋に鍵かぎをかけた。

 女は絞め殺さんばかりにカルルの首に抱きつき、服を脱がせてくれと頼みながら、自分のほうでも実際に彼の服を脱がせ、ベッドの上に寝かせた。まるで今からは彼をだれの手にもやらず、この世の終りまで、なでいつくしみたいといわんばかりだった。「カルル、おお、あたしのカルル!」と、女は叫び、彼をながめて、彼を所有していることをたしかめようとするかのようだ。

一方、彼のほうは何一つ眼に入らず、女が特別彼のために積み重ねたらしいたくさんの暖かいかけぶとんのなかで不快に感じていた。それから女は彼により添って寝て、彼の秘密を何か聞きたいといったが、彼が何もいうことができないので、冗談でなのか本気なのかわからないが怒って、彼の身体をゆすり、耳をあてて心臓の鼓動を聞き、同じように聞いてみろといって自分の胸をさし出した。ところが、女はカルルにそうさせることができないと、自分の裸の腹を彼の身体に押しつけ、手で彼の両脚のあいだを探った。あんまりいやらしいので、カルルは頭と首とを枕から振りはずしてしまった。それから女は、腹を二、三度彼に向って押しつけた。――カルルには、まるで女が自分自身の一部であるような気がした。おそらくこの理由から恐ろしくみじめな気持に襲われたのだろう。女のほうから何度も何度もまたのあいびきをせがまれたあとで、カルルは泣きながら自分のベッドへもどった。これだけのことだったが、伯父はそれから大きな物語をつくり出すことを心得ていた。で、その女中が伯父のことを考えて、伯父に彼の到着を知らせたというわけだった。じつにいいことをやってくれた。自分としてもきっとその女にいつかむくいてやるだろう、と伯父はいった。

「で今、私がお前の伯父かそうでないか、お前の口からはっきり聞こう」と、上院議員は叫んだ。

「あなたはぼくの伯父さんです」と、カルルはいって、彼の手に接吻し、そのかわりに額に接吻してもらった。「あなたに会って、ぼくはとてもうれしいです。でも、ぼくの両親が伯父さんについて悪いことだけ話していると思うなら、まちがいです。でも、それは別問題としても、あなたの話にはいくらかのまちがいが入っていました。つまり、実際には万事がそんなふうに起ったのではありません。けれども、伯父さんはほんとうにこのアメリカからでは事柄に十分な判断を下すことは無理です。それに、このみなさんにあまり関係はない件のこまかな点で少しばかりまちがったことを教えられても、そうたいして害にはならないと思います」

「よくいった」と、上院議員はいって、明らかに同感を示している船長の前にカルルをつれていき、たずねた。「私はすばらしい甥をもっているでしょう?」

「甥御おいごさんとお知合いになれまして、私は大いによろこんでいます」と、船長はただ軍隊の訓練を受けた人たちだけがやるようなお辞儀をしながらいった。

「こうした[#「「こうした」は底本では「こうした」]めぐり合いの場所を提供できましたことは、本船の光栄とするところです。しかし、三等船客としての航海はきっとひどかったことでしょう。しかし、どなたが乗船しておられるかわかりませんのでね。ところで、われわれは三等の人たちの航海をできるだけ楽にしてあげるように、ありとあらゆることをやっています。たとえば、アメリカ船よりもずっと多くのことをやっております。けれども三等の航海をたのしみにするということまでには、なんといってもまだいたっていません」

「ぼくにはちっとも悪いことなんかありませんでした」

「甥にはちっとも悪いことなんかなかったそうですぞ」と、上院議員は大きな声で笑いながらいった。

「ただトランクだけはどうも失くして――」と、いいかけて、起ったこと、まだやることで残っていることをみんな思い出しながら、あたりを見廻し、この場にいる人たちがみな黙って尊敬と驚きとのために彼に視線を注いでいるのをながめた。ただ港務局の役人たちの様子には、彼らの自己満足しているきびしい顔から見抜くことができる限りでは、こんなに工合の悪いときに自分たちがやってきたと残念がっているのが見られた。そして、今自分たちの前に置いてある懐中時計のほうが、彼らにはどうもこの部屋のなかで起っていること、そしておそらくこれからなお起こるかもしれないことよりも重要であるらしかった。

 船長のあとで自分の関心を表わした最初の人物は、奇妙なことに火夫だった。

「心からお祝いを言いますぜ」と、彼はいって、カルルの手をにぎった。それによって相手をみとめているというようなことを言い表わそうとしたのだった。つぎに同じ言葉で上院議員に向かおうとしたとき、上院議員は火夫がそれによって自分の分を超えたことをやろうとしているといわんばかりに、あとしざりした。火夫もすぐにやめてしまった。

 ところが、ほかの人びとも今はやるべきことがわかったとみえて、たちまちカルルと上院議員とのまわりにさわぎを起こした。そこで、カルルはシューバルからさえ祝いの言葉をかけられ、それを受け、その礼を述べた。ふたたび静けさが立ちもどったなかで、最後の番で港務局の役人たちがやってきて、英語で二語だけいったが、これが滑稽な印象を与えた。

 上院議員はすっかり上機嫌で、よろこびを完全に味わいつくすため、どうでもいいようなことを思い出し、ほかの人びとにも思い出させようという気になっていたが、それはむろんすべての人びとによって我慢して聞かれただけではなく、関心をもって受け入れられた。そこで彼は、女中の手紙のなかに書いてあったもっともいちじるしいカルルの人相の特徴を、きっとあとでちょっと使うことになるだろうと思ってメモ帳に書き入れていたのだ、といってみんなの注意を喚起した。ところで、彼はさっきの火夫の我慢できないおしゃべりのあいだに、ただ気をそらすためだけの目的でメモ帳を取り出し、むろん探偵式にいえば正しくはない女中の観察点をカルルの外見と遊び半分に結び合わせようとしたというのだった。

「私の甥はこんなふうに見られているんですよ!」と、彼はもう一度祝いの言葉を受けたいと思っているかのような調子で話を結んだ。

「火夫はこれでどうなるでしょう?」と、カルルは伯父の最後の話がすむと、たずねた。彼は、自分の新しい立場では、なんでも思ったことをいってもいいのだと考えた。

「火夫はあれにふさわしいようになるだろう」と、上院議員はいった。「それに、船長さんがよいと思われるようになるだろうよ。もう火夫のことは十分だし、十分すぎると私は思うね。ここにおられるみなさんもきっと私のこの意見に賛成されるだろう」

「正義に関する件においては、そんなことは問題じゃありません」と、カルルはいった。彼は伯父と船長とのあいだに立っていたが、おそらくこのような位置に立っていることに影響されて、決定を自分の手中ににぎっているように思った。

 それにもかかわらず、火夫はもう自分のために何も望んでいないらしかった。両手を半分ズボンのバンドに突っこんでいた。彼が興奮して動いたためにそのバンドは模様のついたシャツの片はじといっしょに外へ見えていた。そんなことは少しも彼の気にはならない。彼は自分の悩みをすっかり訴えてしまったのだから、自分が身につけている一つ二つのぼろを見られたってかまわないし、追い出されたってかまわないのだ。ここでは階級のいちばん下の給仕とシューバルとの二人が、自分を追い出すというこの最後の好意を果たしてくれるものと、彼はすっかり思いこんでいた。そうすればシューバルは気が落ちつくだろうし、もう会計主任がいったように絶望なんかすることはないだろう。船長はルーマニア人ばかりを雇うことができるだろう。船じゅうどこででもルーマニア語が話されることになるだろう。そうすればおそらくいっさいがもっとよくなるだろう。火夫が会計課でおしゃべりすることはもうないだろう。ただ自分の最後のおしゃべりだけをかなりなつかしい思い出のうちにとどめることだろう。なぜなら、上院議員がはっきりと断言したように、自分のおしゃべりが甥を認知する間接のきっかけとなったからだ。ところでこの甥はさっき何度も自分のために役に立ってくれようとした。だから、伯父との再会に際して自分が役立ったことに対する礼はもうずっと前にあらかじめすませてあったようなものだ。そこで火夫には、今何かをカルルから要求するなどということは全然思いつかなかった。それに、カルルが上院議員の甥であろうと、とうてい船長ではないのだ。ところで、船長の口からは最後にひどい言葉が吐き出されるだろう――こんな自分の考えを追って、火夫は実際にもカルルのほうを見ないように努めていたが、残念ながら自分の敵だけがいるこの部屋では、カルル以外に彼の眼を休める場所がなかった。

「事態を誤解してはいけないね」と、上院議員はカルルに向っていった。「おそらく正義に関する問題であろうが、同時に規律の問題でもあるのだ。両方とも、そしてことに後者はここでは船長さんの判断にまかされているのだ」

「そうだ」と、火夫がつぶやいた。それに気づき、それがわかった者は、奇妙な微笑をもらした。

「だが、船長さんはその上、ちょうどニューヨークに到着したばかりで、信じられないくらいたまっているにちがいない公務をもっていられるのだよ。だから、もう私たちが船を去る潮時だ。余計なことをしてまだ何かまったく不必要な首の突っこみかたをやって、二人の機関士のつまらぬけんかを大事件にしないためにだな。ともかくお前のやりかたはすっかりわかる。だがそれだからこそ、急いでお前をここからつれ去る権利が私にあるというものだ」

「すぐあなたがたのためにボートを下ろさせましょう」と、船長はいった。カルルが驚いたことに、疑いもなく伯父の自己謙遜けんそんと見られる言葉にほんの少しでも異を立てることをやらないのだ。会計主任はあわてて書きもの机のところへいき、船長の命令をボート係に電話で伝えた。

「時間が迫っているんだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。「でも、みんなを侮辱することなしでは、ぼくは何もすることができないぞ。だが今は、伯父がやっとぼくを見つけたんだから、伯父を見捨てるわけにはいかない。船長はなるほど礼儀正しいけれど、でもそれだけのことだ。規律のこととなると、船長の礼儀正しさも忘れられてしまう。伯父はたしかに心からああ船長に話したんだ。シューバルとは話したくない。あの男に握手の手を渡したことも残念なくらいだ。そして、ここにいるそのほかの連中はみんなくずだ」

 そして、こんなことを考えながらゆっくりと火夫のほうへ歩いていき、その右手をバンドから取って、自分の手のなかにもてあそびながらおさめていた。

「どうしてあんたは何もいわないんです?」と、彼はたずねた。「どうしてみんな黙って受け入れているんです?」

 火夫は、いうべきことをどう言い表わしたらいいのか探しているように、額にしわをよせた。それからカルルの手と自分の手の上に眼を落していた。

「あんたは不当な扱いを受けているんですよ。この船のだれよりもね。それはぼくもちゃんと知っているんだ」

 そして、カルルは火夫の指のあいだに自分の指をさし入れたり抜いたりした。火夫のほうは、いくらよろこんだってだれも自分のことを悪く取ることがないだろうと思われる歓喜に襲われたように、輝く眼でまわりを見廻している。

「でも、あんたは自分の身を守らなくちゃいけない。イエスとノーとをはっきりいわなくちゃいけないんですよ。そうでないと、人びとは真相が全然わからないんだから。ぼくのいうことを聞くって、約束して下さいよ。だって、ぼく自身はいろいろな理由から、もう全然助けてあげることができないだろうと思うんです」

 それから、カルルは火夫の手に接吻しながら、泣いた。そして、ひびだらけの、ほとんど血のかよっていないようなその手を取って、自分の両頬に押えつけた。まるで思いきらなければならない宝のようだった。――ところが伯父の上院議員が彼のそばへきて、強制の様子はほんの少ししか見せなかったが、彼を引っ張っていった。

「火夫がお前の心に魅入ったらしいね」と、伯父はいって、意味ありげな面持おももちでカルルの頭越しに船長のほうを見やった。「お前はひとりぽっちだと感じていたんだ。そのときお前は火夫を見つけたんで、今はあの男に感謝しているんだ。それはまったく感心なことだよ。でも、もう私のために、あまりやりすぎないようにするんだ。お前の地位を理解することを学ばなければいけないぞ」

 ドアの前でさわぎが起った。叫び声が聞こえ、まるでだれかが乱暴にドアへぶつけられたようであった。いくらか荒れ狂った様子で一人の水夫が部屋に入ってきた。そして女中のエプロンを身体に巻きつけていた。

「外にたくさんいますよ」と、その男は叫んで、まだ人ごみのなかにいるかのように肘ひじであたりを突くような恰好をした。とうとう正気に返って、船長の前で敬礼しようとしたが、女中のエプロンに気がつき、それを引きはがして床に投げ、叫んだ。

「まったく不愉快だ。女中のエプロンなんか巻きつけやがって」

 だが、靴のかかとを音を立てながら合わせ、敬礼した。だれかが笑おうとしたが、船長はきびしい口調でいった。

「だいぶいい機嫌のようだね。だれが外にいるのかね?」

「私の証人たちです」と、シューバルは歩み出ながらいった。「彼らの不穏当なふるまいはどうかお許しのほどを。水夫たちは航海を終えると、ときどき気ちがいのようになるんです」

「すぐなかへ入れてくれ」と、船長は命令し、すぐ上院議員のほうへ振り向くと、親しげにだが口早にいった。「上院議員さん、どうか甥御さんとごいっしょにこの水夫のあとをついていって下さい。この男があなたがたをボートへご案内します。親しくあなたさまとお知合いになれまして、大変うれしく、また大変光栄であることを、まず最初に申し上げなければなりません。いずれ近く機会を得まして、アメリカの商船事情についての私たちの中断されました話をまた取り上げることができますように望みます。そのときもまた、きょうのように愉快なやりかたで中断されることを望みます」

「今のところは、この甥で私には十分ですな」と、伯父は笑いながらいった。「ご親切に心からお礼申し上げたいと思います。どうかご機嫌よう。それに、まったくありえないことではありませんが、私たちは」――ここで彼はカルルを心から抱きしめた――「つぎのヨーロッパ旅行のときには、おそらくかなり長いあいだ、あなたとごいっしょになれるでしょう」

「そうなったら、どんなに心からうれしく思うことでしょう」と、船長はいった。二人の紳士はたがいに握手し、カルルはまだ黙ったまま、ちょっと船長に手をさし出しただけだった。というのは、船長はもう十五人ぐらいの水夫たちにかかりきりになっているのだった。彼らはシューバルの指揮下にいくらか当惑はしていたが、音高く部屋に入ってきたのだった。水夫は上院議員にお先に失礼しますといって、彼とカルルとのために人ごみを押しわけた。二人はお辞儀する水夫たちのあいだを通ってたやすく出ていくことができた。とにかく善良なこの連中はシューバルと火夫との争いを冗談で、その滑稽さが船長の前でもやまないのだ、と考えているらしかった。カルルは彼らのあいだに料理場の女の子のリーネをみとめたが、この女はカルルに向って陽気にまばたきの合図をしてよこしながら、水夫が投げ捨てたエプロンを身体に巻きつけていた。それは彼女のものだったのだ。

 その水夫につづいて二人は事務室を出て、小さな通路へ曲っていった。その通路をいくと、一、二歩で小さなドアの前に出た。そこから短い階段が彼らのために用意されたボートへ通じていた。案内役の水夫はたちまちひと跳とびでボートのなかへ飛び下りたが、ボートのなかの水夫たちは立ち上がって、敬礼した。上院議員がカルルに、用心して降りるようにといましめると、カルルはいちばん上の階段の上ではげしく泣き出した。上院議員は右手をカルルの顎あごの下にあて、左手でしっかと自分の身体に押しつけて、彼の身体をなでた。こうして二人はゆっくり一段一段と降りていき、しっかと抱き合ったままボートに入った。上院議員はカルルのために自分の真向いにいい席を探し出した。上院議員の合図で水夫たちは本船からボートを突き離し、すぐ力いっぱいに漕ぎ始めた。船から一、二メートル離れるやいなや、カルルは自分たちが今、会計課の窓が向いている側にいることに気づいた。三つの窓はどれもシューバルの証人たちに占められており、彼らはひどく親しげに挨拶し、合図していた。伯父さえも答礼した。一人の水夫は、規則正しい漕ぐ手を休めないままで投げキスを送るという芸当をやって見せた。ほんとうに、火夫なんかもういないかのようだった。カルルは、伯父の膝に自分の膝をほとんどつけんばかりにして、伯父の眼のうちをじっとながめた。この人がいつかあの火夫のかわりになることができるだろうか、という疑いが彼の心に起った。伯父のほうもカルルの視線を避けて、彼らのボートをゆさぶっている波のほうに視線を投げていた。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49859_41919.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c35

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
2. 中川隆[-14987] koaQ7Jey 2019年11月12日 16:15:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2083]

ウェーベルン 編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)


J.S. Bach Musical Offering, BWV 1079 (Orch. Anton Webern) - Fuga (Ricercata) a 6 voci - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UUECC4IGVAw

Berliner Philharmoniker · Pierre Boulez

___


Anton Webern - Fuga (Ricercata) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2cLALT09Y0M

Fuga (Ricercata) a 6 voci for orchestra (arr. from Bach's Musical Offering), (1935)

London Symphony Orchestra
Pierre Boulez


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c2

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
3. 中川隆[-14986] koaQ7Jey 2019年11月12日 16:32:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2082]

バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」原曲

J.S. Bach Musical Offering, BWV 1079 - Ricercar a 6 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kHOKUrrjfX4
https://www.youtube.com/watch?v=4eC55SLk_zE

Stuttgarter Kammerorchester · Karl Münchinger
1977 Decca Music Group Limited

____


Karl Richter Musical Offering, BWV 1079 Ricercar a 6 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9ED9oJ2VYLc


▲△▽▼

Bach The Musical Offering, Richter (1963) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=z4oOJ8PX4nM
https://www.youtube.com/watch?v=IErSt6kOwRE

(00:05) 1. Ricercar (A 3)
(05:28) 2. Canon Perpetuus Super Thema Regium
(06:02) 3. Cannons Diversi Super Thema Regium
(12:47) 4. Fuga Canonica In Epidiapente
(14:45) 5. Ricercar A 6
(21:29) 6. Canon A 2 (Quaerendo Invenietis)
(23:41) 7. Canon A 4
(26:08) 8. Trio Sonata
(45:58) 9. Canone Perpetuo

Aurèle Nicolet (1926-2016), Flute
Otto Büchner (1924-), Violin
Kurt Guntner (1939-), Violin
Siegfried Meinecke, Viola
Fritz Kiskalt, Cello
Hedwig Bilgram (1933-), harpsichord
Karl Richter (1926-1981), harpsichord & Conductor

Rec. January 1963


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c3

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
66. 中川隆[-14985] koaQ7Jey 2019年11月12日 16:43:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2081]

富士山で死亡は47歳男性 動画配信中に滑落か
[2019年11月12日12時40分]


富士山で登山しながらインターネット動画を配信中に滑落したとみられ、須走口の7合目付近(標高約3000メートル)で発見された遺体について、静岡県警御殿場署は12日、身元は東京都新宿区、無職塩原徹さん(47)と判明したと明らかにした。死因は滑落による損傷死。

同署などによると、塩原さんは「ニコニコ生放送」という動画配信サービスを利用。10月28日に動画をライブ配信しながら1人で登山していて滑落したとみられる。動画には塩原さんが滑落する様子が写っており、視聴した人から110番があった。

県警はヘリコプターを出動させるなどして捜索し、同30日に山小屋から南に約800メートルの地点で遺体を発見し、収容した。富士山は閉山期間中だった。(共同)
https://www.nikkansports.com/general/news/201911120000321.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c66

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
4. 中川隆[-14984] koaQ7Jey 2019年11月12日 18:16:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2080]
ベルクの編曲作品
F.シューベルト『ドイツ舞曲』(1932):1824年作曲の同名のシューベルトの作品のオーケストラ編曲


6 German Dances, D. 820 (arr. A. Webern) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=K6avxpj2LSg

Conductor: Anton Webern
Orchestra: Berlin Radio Orchestra
Historical Recordings (1932, 1940)

____

Anton Webern- German Dances (After Schubert D820) Pierre Boulez-Berlin Philharmonic - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BPs62L-s3bg

https://www.youtube.com/watch?v=tDtRP-1ZMXI
https://www.youtube.com/watch?v=Zh9BANKDk68

Berliner Philharmoniker · Pierre Boulez
Released on: 1995-01-01


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c4

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
6. 中川隆[-14982] koaQ7Jey 2019年11月12日 18:36:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2078]

カラヤン ベルリン・フィル

Berlin Philarmonic Orchestra - Herbert von Karajan, conductor.
1974 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin


Webern Passacaglia Opus 1 - Karajan - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9VMIhkU_XpQ

Webern - Six Pieces for Orchestra (Karajan, BPO) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3TS1RULaoNU

Webern - Symphony Op. 21 (Karajan, BPO) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=iUXyOueTVmk



▲△▽▼


Second Viennese School Orchestral Works [ H.V.Karajan Berlin-PO ] (1972~74) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=di1CNU91rjk


1. Schoenberg "Pelleas und Melisande" (00:00)
2. Schoenberg "Variation for Orchestra" (43:25)
3. Schoenberg "Verklarte Nacht" (1:05:51)
4. Webern "Passacaglia for Orchestra" (1:35:39)
5. Webern "Six Pieces for Orchestra" (1:47:51)
6. Webern "Symphony" (2:00:51)
7. Berg "Three Pieces for Orchestra" (2:11:08)
8. Berg "Three Pieces from the 'Lyric Suite" (2:42:14)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c6

[近代史3] ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い) 中川隆
36. 中川隆[-14981] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:03:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2077]

カラヤン ベルリン・フィル
Berlin Philarmonic Orchestra - Herbert von Karajan, conductor.
1974 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin

Berg 3 Pieces for Orchestra, Op.6 - 3. Marsch (March); von Karajan-Berlin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WVMx0n836u8


___


Alban Berg Lyric Suite - Karajan - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RF9urI6Z6Bk

2. Andante amoroso
4. Adagio appassionato


▲△▽▼


Second Viennese School Orchestral Works [ H.V.Karajan Berlin-PO ] (1972~74) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=di1CNU91rjk


1. Schoenberg "Pelleas und Melisande" (00:00)
2. Schoenberg "Variation for Orchestra" (43:25)
3. Schoenberg "Verklarte Nacht" (1:05:51)
4. Webern "Passacaglia for Orchestra" (1:35:39)
5. Webern "Six Pieces for Orchestra" (1:47:51)
6. Webern "Symphony" (2:00:51)
7. Berg "Three Pieces for Orchestra" (2:11:08)
8. Berg "Three Pieces from the 'Lyric Suite" (2:42:14)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html#c36

[近代史3] 日本人のルサンチマンは公務員に向かう

日本人のルサンチマンは公務員に向かう


2019年11月12日
【室伏謙一】公務員叩きは日本の土台の破壊につながる

 最近非正規公務員の惨状に世の関心が集まっています。非正規公務員とは、地方公務員であって、読んで字の如く正規雇用ではない公務員のことであり、身分保障はなく、雇用期間も有限で、給与等の待遇面でも正規雇用の公務員に大きく劣っています。雇用期間が有限というと、研究職等の任期付公務員というものがありますが、こちらの方は待遇は正規と同等か、場合によっては正規よりも給与面において優っていることもあります。まあ基本的にはある程度の経験や専門的知見を持っている人材が、就くものなので、その点からしてそもそも異なるわけですが。それから、非常勤の公務員というものがあります。非正規公務員はこれの場合が多いのですが、審議会等の委員も非常勤の公務員に分類されます。後者の場合は他の職があっての非常勤ということであり、大学の教員やシンクタンクの研究員、企業の幹部等が就くことがほとんどであり、前者とは全く異なります。

 さて、補足説明が長くなってしまいましたが、なぜ非正規公務員なるものが誕生したのでしょうか。それは、地方公共団体における行財政改革の推進と公務員の定数削減で必要な部門に必要な数の正規の公務員が配置できなくなったからです。端的に言って、地方公共団体における緊縮財政の結果ということです。「無駄の排除」とか「身を切る改革」とかいった言葉が踊っていましたが、要は単なる予算の削減です。もっとも、地方公共団体は公債(地方債)を発行できますが、当然のことながら通貨発行権はありませんから、いくらでも公債を発行できるわけではありません。したがって、必要な歳出に対して歳入が不足する分については国に面倒を見てもらう必要があるわけですが、地方財政についても「健全化」が叫ばれ、それが制度化されるようになってからは、国が面倒を見るお金、地方交付税交付金は減らされてきており、京大の藤井聡先生の計算によると、安倍政権下ではなんと1.1兆円も削減されました。

 その一方で、国は行財政改革を進めろだの、民営化を進めろだの、PPP/PFIを積極的に活用・導入しろだの、更なる緊縮を迫ってきました。そうした中で槍玉に挙げられ、まるで生贄のように集中砲火を浴び続けてきたのが、公務員でした。そうした時に言われたのは、「公務員の数が多すぎる」、「無駄な公務員が多い」、「公務員は仕事をしていない」、「公務員の給与が高すぎる」といったもの。

 結論から先に言えば、これらの主張の全てに根拠はありません。日本の人口1,000人当たりの公務員数は、主要先進国中最低です。(つまり、日本は既に小さな政府になってしまっているということです。)無駄な公務員が多いというのなら、なぜ非正規公務員が必要なのでしょうか?今回の台風による被災においても、関係部門の公務員数が足りないことが問題になりました。そもそも何を根拠に「無駄」と言っているのでしょうか。往々にしてイメージだけで言っているのではないでしょうか。仕事をしていないということについてもまたしかり。そもそも公務員の仕事についてどれだけ知り、理解した上で言っているのでしょうか。これについてもイメージだけ、それも全く根拠のない、誰かが勝手に作って独り歩きしてしまっているイメージに基づいてそう言っているのではないでしょうか。給与についてもまたまたしかりです。

 こんなふうに根拠もなくただなんとなく、イメージだけで公務員叩きをやり、緊縮財政の推進に手を貸して、その結果として必要な部門に必要な人員がいなくなり、技術やノウハウの継承も難しくなり、公務員の士気も下がり、有能な人材が公務員を目指さなくなって大損するのは、他でもない自分たちです。それはまるで、自分の住む家を支える土台を、なんとなくのイメージで叩き壊そうとするようなもの。いい加減根拠なきイメージや先入観から自らを解放して、正しい情報に基づいて、公務員というもの役割や価値を見直していくべきでしょう。

 私自身、公務員制度改革や定数削減の旗振り役の官庁にいましたし、民間企業に転職後も、公務員の数が多いであるとか仕事をしていないであるとか、民間に任せた方がいいといったことを信じ、民営化や官業の民間開放、PPP/PFIの導入推進を後押ししていました。したがって、騙されたり乗せられたりしてしまうのも無理からぬことです。しかし、過ちを改むるに憚ることなかれ、です。
https://38news.jp/economy/14909
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/713.html

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
7. 中川隆[-14980] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:20:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2075]

グレン・グールド


Glenn Gould plays Webern Variations Opus 27 - YouTube




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c7
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
8. 中川隆[-14979] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:22:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2074]

グレン・グールド

Glenn Gould - Webern, Concerto for 9 Instruments op. 24 (OFFICIAL) - YouTube





As host and performer, Gould outlines the music of the 20th century and combines it with the ideas and art of the period.
In this part of the programme "Music In Our Time - Part 4: The Artist as Artisan" Glenn Gould explores the „Concerto for 9 Instruments op. 24" by the austrian composer and conductor Anton Webern (1883-1945). Gould is supported by the canadian conductor Boris Brott. Remember to subscribe to stay up to date with all new releases on the channel.

00:00 Introduction by Glenn Gould
05:48 I Etwas Lebhaft
08:32 II Sehr Langsam
11:21 III Sehr Rasch

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c8
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
9. 中川隆[-14978] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:24:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2073]
ウェーベルン


4 Interpretations of Webern's Variations for Piano Op 27 Variation 1
(Gould, Pollini, Rosen, and Uchida) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=V2R0Rq55-tc


Four pianists play the first variation from Webern's Variations for Piano Op 27. In order:

Glenn Gould (195?)
Maurizio Pollini (1976)
Charles Rosen (197?)
Mitsuko Uchida (2000)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c9

[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
10. 中川隆[-14977] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:27:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2072]
グレン・グールド


Glenn Gould - Schoenberg, Suite for Piano op. 25 (OFFICIAL) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=N7O_3q-ZttQ





As host and performer, Gould outlines the music of the 20th century and combines it with the ideas and art of the period.

In this part of the programme "Music In Our Time - Part 3: New Faces, Old Forms" Glenn Gould explores the „Suite for Piano op. 25" by the austrian-american composer Arnold Schoenberg (1874-1951). Remember to subscribe to stay up to date with all new releases on the channel.

00:00 Introduction by Glenn Gould
05:07 IV Intermezzo

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c10
[近代史3] ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽… 中川隆
11. 中川隆[-14976] koaQ7Jey 2019年11月12日 19:30:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2071]

グレン・グールド


Glenn Gould Plays Gibbons Byrd Schoenberg Webern Berg - YouTube









Gibbons, Orlando, 1583-1625. Lord of Salisbury pavane.

4:00 Byrd, William, 1542 or 1543-1623. Galliards, keyboard instrument, MB 32b.

5:52 Schoenberg, Arnold, 1874-1951. Suites, piano, op. 25.Intermezzo

9:40 Webern, Anton, 1883-1945. Variations, piano, op. 27.

14:52 Berg, Alban, 1885-1935. Sonata, piano, op. 1.

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html#c11
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの?

アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの?

Schonberg “Verklärte Nacht” Karajan & BPO, 1974 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=S7QnkAYfkTw

Arnold Schönberg Pelleas und Melisande, Op. 5 (Karajan, Berliner Philharmoniker) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gjlbpgu7N-s

Schonberg “Variations for Orchestra, op 31” Herbert von Karajan & Berliner Philharmoniker, 1974 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=U7E71qNXEJc


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Second Viennese School Orchestral Works [ H.V.Karajan Berlin-PO ] (1972~74) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=di1CNU91rjk


1. Schoenberg "Pelleas und Melisande" (00:00)
2. Schoenberg "Variation for Orchestra" (43:25)
3. Schoenberg "Verklarte Nacht" (1:05:51)
4. Webern "Passacaglia for Orchestra" (1:35:39)
5. Webern "Six Pieces for Orchestra" (1:47:51)
6. Webern "Symphony" (2:00:51)
7. Berg "Three Pieces for Orchestra" (2:11:08)
8. Berg "Three Pieces from the 'Lyric Suite" (2:42:14)

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Schoenberg Gurre 1988 08 08 Berlin Abbado - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=b3QKoFMuMGs

8-8-1988 Philharmonie Berlin
Arnold Schönberg Gurrelieder
European Community Youth Orchestra; Gustav Mahler Jugendorchester; Enrst Senff Chor Berlin; Philharmonischer Chor Berlin; Wiener Jeunesse Chor
Claudio AbbadoClaudio Abbado

Jessye Norman (Sopran)
Brigitte Fassbaender (Mezzosopran)
George Gray (Tenor)
Helmut Wildhaber (Tenor)
Hartmut Welker (Bariton)
Barbara Sukowa (Sprecherin)

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若い頃のシェーンベルクはブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。ブラームスとヴァーグナーという異なる傾向を結びつけるような音楽を書いた点はツェムリンスキーと共通している。

初期は『ペレアスとメリザンド』や『浄められた夜』など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。

『室内交響曲第1番』は後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。

これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。

1900年から書き始められ1911年に完成した『グレの歌』は、巨大な編成と長大な演奏時間をもち、カンタータ、オペラ、連作歌曲集などの要素が融合した大作である。しかし、基本的な構想は1901年までに書かれているため、音楽的には『ペレアスとメリザンド』などと同様後期ロマン派の様式となっており、ある意味、後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえる。しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7


マーラー(1860年7月7日 - 1911年5月18日)と シェーンベルク(1874年9月13日 - 1951年7月13日)の関係

マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。

彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。

前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モル(英語版)が男を押さえ込んだ。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた。

後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った。

「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている。

ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC#%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82


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アルノルト・シェーンベルク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874年9月13日 - 1951年7月13日)は、オーストリアの作曲家・指揮者・教育者。 調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られる[1]。アメリカに帰化してから1934年以降は、「アメリカの習慣を尊重して」[2]"ö"(o-ウムラウト)を"oe"と表記したSchoenbergという綴り[3]を自ら用いた。アメリカでは「アーノルド・ショーンバーグ[4]」と呼ばれた。

父シャームエル・シェーンベルク(Sámuel Schönberg 1838年 - 1889年 [1])は代々ハンガリーのノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で、靴屋を営んでいた。母パウリーネ・ナーホト(Pauline Náchod 1848年 - 1921年)もボヘミア(現・チェコ)プラハ出身のユダヤ人であった。

ウィーンにて生誕。初めはウィーン人らしくカトリックのキリスト教徒として育てられる。8歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶ。15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。その後作品を発表し始めたころに彼の余りにも前衛的な態度のため、激怒した聴衆によってウィーンを追い出され、ベルリン芸術大学の教授に任命される時、プロテスタントに改宗、その後ナチスのユダヤ政策に反対して1933年、ユダヤ教に再改宗している。


無調への試み

若い頃の彼はブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。ブラームスとヴァーグナーという異なる傾向を結びつけるような音楽を書いた点はツェムリンスキーと共通している。

初期は『ペレアスとメリザンド』や『浄められた夜』など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。『室内交響曲第1番』は後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。1900年から書き始められ1911年に完成した『グレの歌』は、巨大な編成と長大な演奏時間をもち、カンタータ、オペラ、連作歌曲集などの要素が融合した大作である。しかし、基本的な構想は1901年までに書かれているため、音楽的には『ペレアスとメリザンド』などと同様後期ロマン派の様式となっており、ある意味、後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえる。しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられる。

1908年、弦楽四重奏曲第2番(1907年〜1908年)のソプラノ独唱付きの終楽章と、歌曲集『架空庭園の書』(1908年〜1909年)で初めて無調に到達した、とされることも多い。 1909年に書かれた『3つのピアノ曲』op. 11や『5つの管弦楽のための小品』op. 16、モノドラマ『期待』op. 17では、多少調性の香りを残していたが、無調の様々な可能性が試みれられた。『6つの小さなピアノ曲』op. 19(1911年)で、調性をほぼ完全に放棄するに至った、とする見解もある。これらの実験から傑作歌曲集『月に憑かれたピエロ』(ピエロ・リュネール)が生まれる。

『月に憑かれたピエロ』は『期待』の成果を更に推し進めて生み出されたと言ってよいかも知れないが、着想などは更にユニークである。ラヴェルやストラヴィンスキーに影響を与え、前者が『マラルメによる3つの歌』を、そして後者が紀貫之の短歌等による『日本の3つの抒情詩』を作るきっかけとなった。そして後のブーレーズらにも影響を与えた傑作である。物語の朗唱を室内楽で伴奏をするという方法が、かつてなかったとは言えないまでも、これほどにまで高められた作品は皆無で、またかつて無い効果をあげた伴奏の書法も全くユニークな傑作であった。

ただ、時代は無調の音楽に対する準備が出来ていたとは言えなかった。ストラヴィンスキーの『春の祭典』で大騒ぎとなるような時代で、無調の音楽は一部のサークルの中だけのことであった。ウィーンの私的演奏会で聴衆が怒り出してパニックになったり帰る人が続出したのは当然であった。しかし、指揮者のシェルヘンなどが積極的にこれらの音楽を後押しし、演奏してまわったことで、シェーンベルクなどの音楽が受け入れられるようになっていく。

同じ頃、弟子のアルバン・ベルクは『クラリネットとピアノのための5つの小品』op. 5や『管弦楽のための3つの小品』op. 6などで、無調(あるいは拡大された半音階主義)の作品を発表し、アントン・ヴェーベルンも師シェーンベルクにならって『6つの小品』op. 6を書いているが、シェーンベルクはバランス感覚に優れ、ベルクはより劇的で標題性を持ち、ヴェーベルンは官能的なまでの音色の豊穣さに特徴があり、明確な個性の違いがあるのは興味深い。

12音音楽の確立

1910年代後半、シェーンベルクは大作『ヤコブの梯子』に挑むが、第一次世界大戦で召集されたためにその他の多くの作品と共に未完のままに終わった。同じ頃、弟子のベルクは歌劇『ヴォツェック』Op.7を完成する。シェーンベルクらと始めた無調主義による傑作オペラの登場である。無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に、無調という方法に、調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるようになっていった。それが12音音楽であった。

12の音を1つずつ使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。

この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが、全曲12音技法で書かれた『ピアノ組曲』op.25(1921年〜1923年)の「プレリュード」(1921年7月完成)である。作品番号では『5つのピアノ曲』op.23(1920年〜1923年)が先立っているが、12音技法による第5曲「ワルツ」は1923年2月の完成とされている。ヴェーベルンも1924年、『子どものための小品』の中で12音音列を使った作品を書き、ベルクもすぐにその技法を部分的にとり入れた。

ただし、12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えない。ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、シェーンベルクより2年ほど前にトローペと言われる12音の音列による作曲法を考案している。1919年にハウアーが作曲した『ノモス』は、最初の12音音楽と見なされている。この年、シェーンベルクはこの作品を自身の演奏会で紹介しているが、ハウアーが12音音楽の創始者であることに固執したこともあり、シェーンベルクと、その理解者でベルクの弟子でもある哲学者・音楽学者のテオドール・アドルノの2人から酷評される。また、1930年代のナチスの台頭により退廃音楽家として排斥され、戦後に再評価されるまで全く忘却されてしまったこともあり、ハウアーが1920年代に果たした役割が過小評価されていることは否めない。

弟子のヴェーベルンが音楽をパラメータごとに分解してトータル・セリエリズムへの道を開き、形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、シェーンベルクは無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲している。また初期の無調音楽は部分的には機能和声で説明できるものが多く、マーラーやツェムリンスキーなど高度に複雑化した和声により調性があいまいになっていた後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置する。

厳格でアカデミックな(ただしかなり偏った解釈でもあった)教育方針は古典作品の徹底的なアナリーゼを基礎としていた。12音技法の開拓後はリズム、形式面で古典回帰が顕著で、彼自身も新古典主義との係わりを避けることは出来なかった。

美術をはじめとする芸術一般にも興味を持ち相互に影響した。シェーンベルクの描いた表現主義的な『自画像』は(メンデルスゾーンなどと同じく)画家としての才能も示している。ロシアの画家カンディンスキーはシェーンベルクのピアノ曲演奏風景をそのまま『印象・コンサート(1911年)』という作品にしている。

亡命と晩年

ナチス・ドイツから逃れて1934年にアメリカに移住する。移住後も南カリフォルニア大学(USC)とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて教育活動を精力的に行い、弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソンなど、アメリカ現代音楽を代表する作曲家も含まれる。(アメリカでの教育活動は、アメリカの音楽教育に大きな革新をもたらしたが、反対にある種「後遺症」ともいうべき偏ったアカデミズムが長く根付くこととなった。) USCには彼の名をちなんだリサイタルホールを擁する「アーノルド・シェーンバーグ研究所」(Arnold Schoenberg Institute)があり、UCLAには彼の生前の功績をたたえ、記念講堂が建造されているが、実際のアメリカのシェーンベルクの家財道具などにアメリカでは管理費などの寄付が全く集まらず、母国のオーストリアがすべて輸入して引き取り、現在ウィーン市にシェーンベルク・センターとして情報の公開に多大の寄与をしている。

移住後は、『室内交響曲第2番』『主題と変奏』などの調性を用いた先祖帰りの作品も作曲しているが、大半が旧作の完成か、アメリカの大学の委嘱などで学生でも演奏ができるように書いた作品である。

また、他界する直前まで合唱曲『現代詩篇』を作曲していたが、未完に終った。戦後始まった第1回ダルムシュタット夏季現代音楽講習会からも講師として招待されたが、重い病気のためキャンセルした。

1951年7月13日、喘息発作のために、ロサンゼルスにて死去した。76歳。故郷ウィーン中央墓地の区に葬られており、墓石は直方体を斜めに傾けた形状である。


主な作品

詳細は「シェーンベルクの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7


歌劇

期待 op.17(1909)
幸福な手 op.18(1908-1913)
今日から明日まで op.32(1928-1929)
モーゼとアロン (1930-1932、未完)

管弦楽曲

交響詩「ペレアスとメリザンド」 op.5(1903/1913、1918改訂)
室内交響曲第1番 op.9(1906/1923改訂/1914、1935管弦楽版)
室内交響曲第2番 op.38(1906-1916、1939-1040)
5つの管弦楽曲 op.16(1909/1922改訂/1949小管弦楽版)
浄められた夜 op.4 (1917、1943弦楽合奏版)
管弦楽のための変奏曲 op.31(1926-1928)
映画の一場面への伴奏音楽 op.34(1929-1930)
組曲ト長調(弦楽合奏)(1934)
主題と変奏 op.43a(吹奏楽版:1943)/op.43b(管弦楽版:1944)


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 op.36(1934-1936)
ピアノ協奏曲 op.42(1942)

室内楽曲

浄められた夜 op.4(弦楽六重奏版:1899)
弦楽四重奏曲第1番 ニ短調 op.7(1905)
弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 op.10(1907-1908/1929弦楽合奏版) ※ソプラノ独唱付き、調性から無調への過渡期の作品
弦楽四重奏曲第3番 op.30(1927)
弦楽四重奏曲第4番 op.37(1936)
弦楽四重奏曲第5番(断片)
弦楽四重奏、五重奏、七重奏、三重奏の数々の断片
弦楽三重奏曲 op.45(1946)
鉄の旅団(1916)
セレナード op.24(1920-1923)
クリスマスの音楽(1921)
管楽五重奏曲 op.26(1923-24)
7楽器の組曲 op.29(1924-1926)
ヴァイオリンのためのピアノ独奏付き幻想曲 op.47(1949)

ピアノ曲

3つのピアノ曲 op.11(1909)
6つのピアノ小品 op.19(1911)
5つのピアノ曲 op.23(1920-1923)※無調から12音への過渡期の作品
ピアノ組曲 op.25(1921-1923)
ピアノ曲 op.33a(1928)
ピアノ曲 op.33b(1931)

独唱曲

月に憑かれたピエロ(ピエロ・リュネール) op.21(1912)
2つの歌 op.14(1907-1908)
架空庭園の書 op.15(1908-1909)
心のしげみ op.20(1911)
4つのオーケストラ歌曲 op.22(1913-1916)
ナポレオンへの頌歌 op.41(1942)

合唱曲

地上の平和 op.13(1907)
グレの歌 (1900-1911)
ヤコブの梯子(1917-1922、未完)
4つの混声合唱曲 op.27(1925)
3つの風刺 op.28(1925)
6つの無伴奏男声合唱曲 op.35(1929-1930)
コル・ニドレ op.39(1938)
ワルシャワの生き残り op.46(1947)
千年を三たび op.50a(1949)
深き淵より op.50b(1950)

編曲
チェロ協奏曲ト短調(モンの協奏曲による)(1912)
チェロ協奏曲(モンのチェンバロ協奏曲による)(1932-1933)
弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(ヘンデルの合奏協奏曲op.6-7による)(1933)
バッハ:コラール前奏曲BWV631の管弦楽編曲(1922)
バッハ:コラール前奏曲BWV654の管弦楽編曲(1922)
ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の室内楽編曲(1925)
バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調BWV552「聖アン」の管弦楽編曲(1928)
ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(1937)
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲の室内楽編曲(10人編成)

著作

ここでは日本で出版されたものを紹介する。
『和声学 第1巻』(山根銀二訳、「読者の為の翻訳」社、1929) 第2巻が出版されたかは不明。
『作曲法入門』(中村太郎訳、カワイ楽譜、1966)
『和声法』(上田昭訳、音楽之友社、1968、新版1982)
『作曲の基礎技法』(G.ストラング、L.スタイン編、山県茂太郎、鴫原真一訳、音楽之友社、1971)
『音楽の様式と思想』(上田昭訳、三一書房、1973) 1950年にアメリカで出版されたStyle and Ideaからの抄訳。
『対位法入門』(山県茂太郎、鴫原真一訳、音楽之友社、1978)
カンディンスキーと共著『出会い――書簡・写真・絵画・記録』(J.ハール=コッホ編、土肥美夫訳、みすず書房、1985)
『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』(上田昭訳、ちくま学芸文庫、2019)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
1. 中川隆[-14975] koaQ7Jey 2019年11月12日 20:48:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2069]

シェーンベルク編曲
ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(1937)


Brahms orch. Schoenberg Piano Quartet No. 1 in G minor Op. 25 (1861 orch. 1937) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZAhrIt6Rd0I

Performed by the London Symphony Orchestra conducted by Neeme Järvi.


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ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲第1番 - YouTube
サイモン・ラトル指揮BPO
https://www.youtube.com/watch?v=xANZT4GdyMg
https://www.youtube.com/watch?v=Yppkz1DQFsw
https://www.youtube.com/watch?v=wLOpvIiu09g
https://www.youtube.com/watch?v=225xKAM9McM

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ブラームス/シェーンベルク ピアノ四重奏曲第1番 の原曲


Piano Quartet No. 1 in G Minor, Op. 25 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H47HIgpeNfE
https://www.youtube.com/watch?v=6zort-YrOqM
https://www.youtube.com/watch?v=C-ZhWhF-itc
https://www.youtube.com/watch?v=wqORoyQ3mgA

Artist: Adolf Busch
Artist: Hugo Gottesmann
Artist: Herman Busch
Artist: Rudolf Serkin



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c1

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
2. 中川隆[-14974] koaQ7Jey 2019年11月12日 20:50:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2068]

ブラームスの「交響曲第5番」?


ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。

シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。

そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。

シェーンベルクはウィーンで正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれた。しかし宗教的には自由な環境で育つ。1898年、24歳の時にプロテスタントに改宗する。同化ユダヤ人となってウィーンでの社会的地位を改善するためであったが、ウィーンで勢力の強いカトリックは選択しなかった。その後、シェーンベルクはウィーンやドイツ・ベルリンで活動を続ける。しかしユダヤ的なものへのこだわりはシェーンベルクの中でくすぶり続け、「ドイツ人」を追われた1933年、亡命の経由地パリでユダヤ教に改宗する。

しかし、ドイツ時代のシェーンベルクは、自分を偉大なドイツ音楽の継承者だと信じて疑わなかった。このことは次の言葉からも推し量る事ができよう。「ドイツ民族の魂から生まれた、外国の影響を全く受けていない私の音楽は、ラテンやスラヴ民族の覇権の期待に最も効果的に対抗し得る芸術の実例である。」(1931年、エッセイ「国民音楽」より。)偉大なドイツ音楽の伝統を受け継いだその自分を放り出したナチスに対して、シェーンベルクは憤懣やるかたないことだったろう。アメリカの地で、シェーンベルクは快適な環境を容易には見つける事ができずにいた。ましてや、ヨーロッパで苦労の末獲得した作曲家としての名声や尊敬など、ここ新世界アメリカでは御伽噺でしかなかい。

そんな中での「ブラームスの交響曲第5番」という言葉は、例えそれが編曲に対しての言葉であっとしても(アメリカの聴衆にはこの作品のメロディがブラームスのものだと気付かない者もいたが)、シェーンベルクは決して悪い気はしなかったであろう。

その昔、ブラームスの交響曲第1番は初演された当時「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ばれた。偉大なベートーヴェンの伝統を受け継ぐもの、という意味を込めてである。これを踏まえると、シェーンベルクはここにおいて、ベートーヴェン−ブラームスと続くドイツ音楽の系譜の中に位置付けられる存在となったのである。そしてこの編曲以降、シェーンベルクの作品には《コル・ニドレ》や《ワルシャワの生き残り》《現代詩編》など、ユダヤ的な作品がより目立った位置を占めるようになる。このブラームスのピアノ四重奏曲の編曲は、シェーンベルクのドイツ的なものからユダヤ的なものへの転回点の時期に位置する作品であるといえるかもしれない。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-sinphonie-5


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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 シェーンベルク編曲版
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet

〈未完成〉との間を繋ぐ鍵としての『ハンガリー・ジプシーの音楽』

1828年に31歳で早世したシューベルトと、5年後の1833年に生れたブラームス。その接点が、1880年代にブライトコプフ社が刊行したシューベルト全集で、ブラームスが交響曲の巻の編纂を担当したことにあるのは拙著『交響曲の名曲・1』で述べたとおりだ。しかし1822年前後に作曲されたまま眠り続け1865年に初演された〈未完成〉と、それより前の1861年に完成・初演されたブラームスの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉との関係をひもとくのは一筋縄ではいかない。鍵は『ハンガリー・ジプシーの音楽』にある。


以前ハンガリーの指揮者I.フィッシャーがN響に客演して『ハンガリー音楽特集』を指揮した際に〈未完成〉が入っていたので、その理由について質問を受けたことがある。しかし、これは音楽映画『未完成交響楽』をご存じの世代には説明を要しないことであろう。そこではハンガリーの貴族エスタルハージ家の令嬢との恋の破局が、第3楽章以下を破棄させた原因として描かれていたからだ。史実を自由に取捨選択してロマンティックなフィクションを創作した古典的音楽映画にクレームをつけるなら、例えば、最晩年に作曲されることになる〈菩提樹〉が既に歌われている等、幾らでもできるが、シューベルトが高名な貴族の音楽教師として雇われてハンガリーのツェレスに赴いたのは事実(但し令嬢は、まだ12歳だったのだけれども)。そして〈未完成〉にハンガリー・ジプシーの音楽を思わせる主題が登場するのも明らかなのだ。

第1楽章が始まって直ぐオーボエとクラリネットがユニゾンで吹く主題@がそれ(以下ジプシー関係の譜例は、比較し易いようにイ短調に移調してある)。ついでに言うと、こうした単旋律を木管で呈示する場合、普通は一つの楽器のソロの方が推奨される。違う楽器2本のユニゾンだと音程が合いにくいからだが、シューベルトが敢えてリスクを犯したのはハンガリー・ジプシーの使う木管楽器の土臭い音色を、ダブル・リードのオーボエとシングル・リードのクラという異種の混合色で真似しようという意図があったからだという説もある。

brahms pq fig01

Aがハンガリー・ジプシーの短音階とされるものだが、@の↓のミ♭あたりが、クラシック音楽の一般的な短音階とは違って『こぶしを効かせた』感じとなる。これを半音高いミ・ナチュラルで演奏してみれば、この音が〈未完成〉の哀調を帯びた雰囲気の鍵を握っていることがお分かり頂けることだろう。

brahms pq fig02 03

ジプシー音楽はウィーンでも聴けたはずであり、シューベルトがツェレスで初めて接したということにはならないと思われるので、シューベルトの場合、時系列的な前後関係まで深追いしても意味はないが、ブラームスの場合は直接の伝授者がはっきりしている。17歳の時に知り合ったハンガリーからの亡命ヴァイオリニスト、レメーニだ。その成果が35歳の1868年に〈ハンガリー舞曲集〉として発表されたのはご存じのとおりだが、それより前に初演されて大成功を収めたハンガリー・ジプシー系の作品がある。それが他ならぬ、この〈ピアノ四重奏曲・第1番〉なのだ。

1861年にクララ・シューマンのピアノ他で行なわれた初演は、特に第4楽章が聴衆から最も喝采され、友人の大ヴァイオリニスト、ヨアヒムもこのフィナーレ楽章を絶賛したという。Bがその主題。この場合音程そのものは普通の旋律的短音階なのだが、6小節目(↓)で高く跳ね上がるあたりが民俗的だ(普通ならオクターヴ下になるはず)。

パソコンがフリーズしてしまったおかげで、この原稿は03年のニューイャー・コンサートを観ながら打っているのだが、アーノンクールが〈ハンガリー舞曲第5番〉をブラームスが一番気に入っていたというライヒェルトの編曲で演奏している。その中で最も目立った特徴は、主部の終わりで、旋律線が通常よりオクターヴ高く跳躍すること。この『裏返った』強調こそは、Bの6小節目と同じで、ブラームスがジプシー風と感じていたポイントの一つに他ならないのではあるまいかと、改めて実感した次第。フィナーレ楽章中間部のチェロに出てくる短調の主題Cなどは、ジプシーの嘆きそのものと言っても過言ではなく、理屈っぽい説明は不要だろう。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/brahms-piano-quartet


交響曲をどう終わらせるか。ベートーヴェンの重圧。

ハイドンが100曲以上も交響曲を書き、モーツァルトも40曲を超えたのに、ベートーヴェンが9曲しか残さなかったのは後の交響曲作曲家にとって大きなプレッシャーとなった。数の少なさではなく、作曲家が芸術家としての全能力を注ぎ、思想的な主張まで折り込んだ選りすぐりの傑作として交響曲を位置づけなければならなくなったからだ。そのためブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャーク等は、古典派の時代だったら交響曲としてもおかしくない内容の曲を、〈セレナード〉や〈組曲〉として発表することになる。シューベルトがロ短調交響曲を未完成のまま残した理由を、そうしたあたりに求める学者も少なくない。

シューベルトは6曲の未完成交響曲を残しているが、そのうちの5曲は〈6番〉を作曲した19歳より後に集中している。楽想は幾らでも湧いてくるのから、素材は直ぐに出来てしまうのだが、それを纏めあげてベートーヴェンに較べて見劣りしないような4楽章仕立ての大交響曲として仕上げるのが至難の業だったからだ。ロ短調の〈未完成〉の場合は、第1楽章からトロンボーンを使うのに加え、最初から大衆音楽としてのジプシーの要素を導入するなど、ベートーヴェンを越えようとする新機軸を採用して意欲満々で前半2楽章を書き終えたものの、その着地の仕方に手こずり、仕切り直し的に再挑戦したハ長調の〈グレイト〉で、一応、一つの解答を見出したところで神に召されたのである。

ブラームスの場合も2曲のピアノ協奏曲を、その内容の重厚さから『ピアノ独奏付きの交響曲』と呼ぶこともあるし、例えば〈交響曲第5番〉になるはずがヴァイオリンとチェロの〈二重協奏曲〉になったように、交響曲として着想した素材を、結局は違う形の曲に仕上げたケースも多い。

ブラームスは43歳の1876年に完成・初演した〈1番〉を含めて4曲しか交響曲を残していないのだが、シェーンベルクの堂々たる編曲でお聴きになれば、それより15年前に初演されたこの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉こそは、2曲の〈セレナード〉よりも『幻の交響曲』に相応しいことを実感されるに違いない。シェーンベルクは、冗談めかして「ブラームスの〈5番〉」と呼んでいたそうだが、原曲の成立年代を考慮するなら、ブルックナー風に〈0番〉とする方が似合いではあるまいか。しかしその場合に引っ掛かる可能性があるのが、ジプシー音楽風のフィナーレなのだ。

フィナーレを締め括る『ジプシーの音楽』による熱狂

シェーンベルクは長さや構成は原曲を尊重して、オーケストレーションだけに仕事を限っているので比較し易い。もし仮にブラームス自身が同様の試みを行なったとしたら、色彩は比べ物にならないくらい地味になったに違いないにしろ、シェーンベルクの編曲版と同じく原寸大の交響曲的な大作が出来上がったのは間違いないのだ。もし、それを〈交響曲第1番〉として発表したなら、当時の批評は、前半3楽章の北ドイツ的な重厚さを認めつつも、新進気鋭の若手が力及ばず、第4楽章で「大衆音楽へ擦り寄った」として批判した可能性が強い。

我々が、こうしたフィナーレにそれほど違和感を感じないのは、既に後の〈ハンガリー舞曲集〉の編曲者としてのブラームスを知っていることも大きい。更には、チャイコフスキーの交響曲〈第4番〉やドヴォルジャークの〈8番〉等、民俗音楽的・民衆音楽的な要素を打ち出したフィナーレを結論とする交響曲が歴史的に承認されてしまってから後の耳で聴いているという事実も忘れてはなるまい。

結局ブラームスは、交響曲の終楽章としては4曲とも構成的に凝った『芸術音楽』として誰からも後ろ指を差されないフィナーレを書いたわけだが、このシェーンベルク編曲版を体験すると、血気盛んだった20代に、こうした舞曲的な乗りで最後にエネルギーを開放するタイプの交響曲 -- ベートーヴェンの〈7番〉やメンデルスゾーンの〈イタリア〉を継承してバッカス的な熱狂で終わるタイプのシンフォニーを発表しても良かったのではと思えるのだ。少なくとも筆者は、シェーンベルクの優れた編曲に感謝しつつ、後の4曲に比すべき本格的な交響曲として演奏するつもりである。

話を〈未完成〉に戻そう。一頃〈未完成〉を完成させようという試みが真剣になされ、作曲を公募するコンクールさえ行なわれたこともある。それをブラームス=シェーンベルクによる〈0番〉的な解答から遡って考えてみると、シューベルトの場合も、ハンガリー・ジプシー的なフィナーレ楽章という選択肢もあり得たのではないかという気がしてくる。今回この2曲が並んだのは偶然の賜物だが、〈未完成〉の『幻のフィナーレ楽章』という観点から、想像を巡らすのも一興であろう。
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シェーンベルクの編曲と楽章の解説
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この編曲はナチスを逃れてロサンジェルスに定住することになったシェーンベルクに、同様の境遇で同地にいた指揮者クレンペラーが提案することで実現した。チェロやヴィオラを弾いて原曲を知り尽くしていたシェーンベルクは、ブラームスの構造をいじることなく、オーケストレーションのみに徹して編曲を行なったが、ピッコロ&バス・クラリネット、コールアングレといったブラームスの使わなかった管楽器を含む3管編成で打楽器をマーラーの交響曲ばりに総動員したために、極めて色彩的なスコアとなっている。編曲は1937年、初演は翌38年5月7日にクレンペラーの指揮によってロスで行なわれた。その時のエピソードとして、この編曲を無調・12音技法の雄シェーンベルク自身の新作と勘違いしたロスのマネージャーが「なぜ人が『シェーンベルクにはメロディが無い』と言うのか私には分からんね。あの曲は、とてもメロディックなのに」と評したことが知られている。

第1楽章 アレグロ、ト短調、4/4拍子、ソナタ形式。

第1主題はDとEからなる。ブラームスは〈4番〉の第3楽章で、こうした双頭主題を上下に重ねて同時に出すといった芸当を見せるが、ここではDが終わったらEをという普通の形。しかし再現部ではE→Dと逆にして古典派的・図式的なシンメトリーを避けるように工夫し、全体がストーリー風に発展してゆくロマン派的な展開を選択。第2主題はFとその変容Gで、苦悩を内に秘めた第1主題群に対して、若者らしく積極的に進む意志が感じられる。

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20代のブラームスはシューマンによってヨーロッパ楽壇に華々しく『天才出現』と紹介されたものの、翌年そのシューマンが入水自殺を図り、やがて精神病院で没するという悲劇を目の当たりにした。これが23歳の1856年のこと。子供達を育てながらピアニスト・作曲家として活躍する未亡人クララ・シューマンに対する想いは生涯に亙って続くが、当時は極めて熱いものがあった。この楽章には、そうした『シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)』時代の青年作曲家の心の嵐と諦念が刻印されている。

第2楽章 "インテルメッツォ(間奏曲)" アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ハ短調、9/8、三部形式。

インテルメッツォと題されてはいるがシューマン風な短いエピソードではなく、実質的にはかなり規模の大きなスケルツォ楽章。但しベートーヴェン的な哄笑や諧謔とは無縁で、主部はむしろ歌謡的。ブラームスは〈交響曲第2番〉の第3楽章で、牧歌的な主部に軽快なトリオを挟む『逆スケルツォ』を実践しているが、この楽章はその原型か。第1楽章の嘆きを継承したような暗い主部Hに、突然、光が差し込んだかのような軽快なトリオ(アニマート、変イ長調)Iが挟まれている。

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このIは5小節の変則的なメートリクを採用しているだけでなく、その中にシューマン→ブラームス楽派のDNAとも言うべきヘミオラのリズム・パターン(タイを使った2小節単位の3拍子)を含んでいるのが重要。メンデルスゾーン風のスケルツォの飛翔感にペンタゴン的な5角形の車輪を与えたようなこのトリオは、一見、ごく普通の走馬灯のように見えるが、実は、全曲中で最も過激な実験精神を秘めた箇所なのだ。後の〈ハイドンの主題による変奏曲〉の最後で5小節周期のパッサカリアを採用しているが、このトリオはテンポが速いぶん、リズム的な要素がマジカルに浮き上がってくる。

主部に戻った後のコーダは、トリオの陽光を回想しハ長調で結ばれる。

第3楽章 アンダンテ・コン・モート、変ホ長調、3/4、三部形式。

前楽章のコーダで予感されたように、ここで楽章としては初めて長調に転ずる。この楽章はオーケストラ化によってシンフォニックなスケールを獲得し、本格的な緩徐楽章としての訴えかけが一段と強まった。この主部J全体は〈交響曲第2番〉を走行試験的に先取りしているのだが、コーダでその原主題が、正に〈2番〉そのままの姿で現示されるあたりは、ブラームス・ファンにとって聞き逃せないポイントの一つであろう。

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付点リズムを特徴とする経過的エピソードを経て飛び込む中問部(アニマート、ハ長調)Kは、シェーンベルクがギャロップ風のリズムを打楽器群によって強調したために、騎馬軍団が走り抜けてゆくようなイメージが一段と鮮明になっている。

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第4楽章 "ロンド・アラ・ツインガレーゼ(ジプシー風のロンド)" プレスト、ト短調、2/4、ロンド形式。

シェーンベルクがこの楽章のジプシー風の性格を強調しているのは、冒頭のBの伴奏音型の弦に弓の木部で叩く奏法を要求して、ハンガリー・ジプシーの楽器チンバロン(棒状の撥で弦を叩くピアノの原型となる楽器)を模していることでも明らかだ。更に重要なのは、この楽章の舞曲的なエネルギーを謝肉祭的な熱狂へと開放するために、木琴、鉄琴、タンバリンといったブラームスが使わなかった打楽器群を総動員して、原色的なオーケストレーションを施していることだ。

シェーンベルクは第1楽章ではブラームスの渋い響きを尊重しているのだが、楽章を追うごとに色調を自らの時代の方に引き寄せ、このフィナーレで近代兵器としてのオーケストラのパレットを全開するのである。

3小節周期の乗りの良いメートリクを特徴とするBに対して、無窮動的なLは、祭のざわめきを感じさせるが、シェーンベルクがそこに原曲にはない不協和音によるハロウィン的なギャグを仕込んでいるあたりも聞き物だ。

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中間部でテンポが緩んで、Cを交えた新たなクープレに入るあたりは〈ハンガリー舞曲・第1番〉や〈5番〉と似たパターン。コーダ直前のカデンツァは、ストコフスキーを思わせるオルガン風な響きと、ソロ群の対比が鮮烈な効果を上げる。コーダのストレッタ(追い込み)もオーケストラ化による筋肉強化、特に金管群の音色旋律的な格闘が興奮を一段と煽り、舞曲的な熱狂が臨界に達したところで締め括られる。
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[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
3. 中川隆[-14973] koaQ7Jey 2019年11月12日 21:26:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2067]
シェーンベルク編曲
ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の室内楽編曲(1925)


新ウィーン楽派編曲によるヨハン・シュトラウス2世:ワルツ作品集
皇帝円舞曲,南国のバラ,酒・女・歌,他
ボストン・シンフォニー・チェンバー・プレーヤーズ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W1FO_SZJrsQ

____


Johann Strauss II :Emperor Waltz(arr. Schoenberg)/Gidon Kremer and Friends - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UgfuWFA0hFs

Flute :Irena Grafenauer
Clarinet:Eduard Brunner(1939ー2017)
Violin:Gidon Kremer・Isabelle van Keulen
Viola :Tabea Zimmermann
Cello :Boris Pergamenshchikov(1948-2004)
Piano :Oleg Maisenberg
1989.5.12 Tokyo
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strauss Emperor Waltz, arranged by Schoenberg for chamber ensemble. - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fKs0BJRAmy4

Strauss: Emperor Waltz, chamber arrangement by Schoenberg, performed by Mistral April 8, 2017
www.MistralMusic.org
_____

Johann Strauss II - Emperor Waltz arr. Schoenberg - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vVc_6tP-jVU


Johann Strauss II - The Emperor Waltz, op. 437 (arr. Arnold Schoenberg)

Tulsa Camerata - February 24, 2011
Cascia Hall Performing Arts Center
Tulsa, OK

John Rush, flute
David Carter, clarinet
Liza Villarreal, violin
Phil Wachowski, viola
Krassimira Figg, violoncello
Allyson Eskitch, piano

audio recording by James Plumlee

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c3

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
4. 中川隆[-14972] koaQ7Jey 2019年11月12日 21:33:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2066]

ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の原曲


1. Januar - Kaiser Walzer - Emperor Waltz
- Vienna Philharmonic Orchestra cond. Bruno Walter - 1938 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wANtIjI8hT8
https://www.youtube.com/watch?v=2Z1DOwzKZ8k

___

Emperor Waltz, Op. 437 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Y1abciW5WE0
https://www.youtube.com/watch?v=RTRLRGqnJ50

指揮:ブルーノ・ワルター
コロンビア交響楽団
録音:1956年3月22〜23日



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c4

[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
5. 中川隆[-14971] koaQ7Jey 2019年11月12日 22:35:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2065]

シェーンベルク編曲
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲の室内楽編曲(10人編成)


Debussy-Schoenberg Verein Prélude à l'après-midi d'un faune - Salastina Music Society - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MvrzwZvCXo0


Kevin Kumar and Maia Jasper, Artistic Directors & Violins
Meredith Crawford, Viola
Yves Dharamraj, Cello
Geoff Osika, Double Bass
Benjamin Smolen, Flute
Ariana Ghez, Oboe
Chris Stoutenborough, Clarinet
Scott Dunn, Piano
Grace Chung, Keyboard
with soprano Elissa Johnston filling in on percussion
_____

DEBUSSY - SCHÖNBERG (Transcrição) - Prélude à l'aprés-midi d'un faune - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=58Wcouog-8s


Orquestra Bachiana Brasileira
Solistas: Marcelo Bomfim, Flauta
Jorge Postel, Oboé, Marcos Passos, Clarineta
Tamara Ujakova, Piano, Elisa Wiermann, Harmonio
Direção e Regência: Ricardo Rocha

▲△▽▼

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲の原曲

Debussy - Prelude à l'après-midi d'un faune - Leningrad - Mravinsky - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9LpkGXLgPBo
https://www.youtube.com/watch?v=kbff0ll4RTQ

Leningrad Philharmonic Orchestra
Evgeny Mravinsky
Live recording, Moscow, 28.II.1965

________

Claude Debussy, Prélude à l'Après-midi d'un faune - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bYyK922PsUw
https://www.youtube.com/watch?v=zInZfeEj-4Q

Charles Dutoit 1989年5月
Orchestre symphonique de Montréal
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c5

[近代史3] イギリスはどうやってインドの綿工業を壊滅させたのか

イギリスはどうやってインドの綿工業を壊滅させたのか

産業革命発祥の地で日本の「投資」を考える
2019-11-13 三橋貴明


 本日は リーズを発ち、マンチェスター、リバプールと移動します。いよいよ、産業革命発祥の地へと入っていくわけです。


 ご存知の通り、産業革命は、イギリス東インド会社がインド産キャラコの輸入ビジネスを拡大し、危機に陥った毛織物業者を中心に、


1.生産性向上のための投資(技術投資、設備投資、人材投資)が進んだ

2.設備投資などの資金について、銀行が万年筆マネーで貸し出すことが可能だった


 と、二つの条件が満たされた結果、連合王国(イギリス)で始まりました。


 産業革命は、連合王国に驚異的な生産性向上をもたらし、世界の覇権国へと導きます。

【世界の工業生産に占める各国の相対的なシェア(%)】

http://mtdata.jp/data_67.html#taikoku

『1860年。世界の人口の2%、ヨーロッパの人口の10%を占めるに過ぎないイギリスが、近代産業において世界の生産能力の40−45%、ヨーロッパのそれの55−60%を所有していたとみられている。(Crouzet, Victorian Economy)』
 
 ちなみに、1860年頃の連合王国の世界に占めるシェアは、鉄生産が53%、石炭生産50%、原綿消費50%、工業製品貿易シェア40%に達していました。


 東インド会社がキャラコを連合王国に持ち込まず、市場開拓をしなければ・・・。
 イギリス毛織物業者らが、技術開発や設備投資で「インド人労働者よりも安く作る」を目指さなければ・・・。
 イギリスで「金融」が発展しておらず、金貨銀貨の商品貨幣の社会で、業者らが設備投資の資金調達が困難だったら・・・。


 いずれのケースでも、産業革命は時期が遅れたか、あるいは他国で始まったのではないでしょうか。

『(キャラコについて)もっとも安いものがインドで買える。イングランドでだったら、1シリング(=12ペンス)ほどの労働や作業が、そこでは2ペンスでなされる。イングランドの労働の価格はインドの労働の価格よりずっと高いから、英国で完成織物を製造することは経済的ではない(1700年頃の史料)』

 当時の英印の人件費の差は、6倍。現在とは異なり、連合王国の産業主が簡単に資本(工場)をインドに移すことは困難でした。


 というわけで、連合王国の発明家、企業家たちが、インドの低人件費に勝つために「投資」を行ったのです。結果、イングランドで「インドよりも安く」綿製品を生産することが可能になります。

 もちろん、話はビジネスサイドにはとどまりません。

 まずは、国家としてインド産キャラコの輸入禁止という保護貿易を推進(キャラコ禁止法)。

 産業革命で十分に生産性が上がったならば、インドに押しかけ、

「自由貿易やろうぜ」

 と、自国の綿製品をインド市場に雪崩れ込ませました。結果、それまで綿布産業で繁栄を極めていたインドのダッカ、スラート、ムルシダバードなどの街は貧困化の一途をたどり、当時のイギリスのインド総督が、

「この窮乏たるや商業史上にほとんど類例を見ない。木綿布工たちの骨はインドの平原を白くしている」

 と嘆くに至ります。


 1882年、インドは綿布の関税を「撤廃」させられ、完全な自由貿易の国になります。というか、させられます。


 12年後、インド財政が危機に陥り、英国製品に対し3.5%の関税がかけられます。それに対し、連合王国は関税の保護効果を無くすために、同率の国内消費税をインド製品に課したのです(相殺消費税)。インドの綿布業者は、

「いかなる国の経済史においても類をみない利己的な政策」

 と、批判しました。

 前置きが長くなりましたが、事実上の産業革命発祥地、マンチェスターとリバプール(マンチェスターで生産された綿製品が、リバプールに運ばれ、輸出されたのです)に行ってきます!


 連合王国が産業革命で発展したのは、ある意味で「資本主義」に忠実だったためです。もちろん、エゴイスティックな政策(キャラコ禁止法、インド支配と自由貿易の強制など)もありますが、

「需要が拡大している状況で、生産性向上の投資を行った」

 が故に、連合王国は物凄い勢いで「覇権国」になったのです。これは、資本主義の基本です。


 経済の五原則、その1.

「国民経済において、最も重要なのは「需要を満たす供給能力」である。」
 でございますよ。

『MMTをめぐる議論で欠けている「供給力」の視点 完全雇用をめざす「就業保証プログラム」問題

 内外で議論の最先端となっている文献を基点として、これから世界で起きること、すでに起こっているにもかかわらず日本ではまだ認識が薄いテーマを、気鋭の論客が読み解き、議論する「令和の新教養」シリーズ。

 前回、経済評論家で株式会社クレディセゾン主任研究員の島倉原氏が監訳をつとめた『MMT現代貨幣理論入門』を基に、MMTの概要を解説した。

 今回は、同氏と中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、柴山桂太(京都大学大学院准教授)の気鋭の論客4人が、同書をめぐって徹底討議する。(中略)

◆「投資は供給力を増やす」

中野:40%はともかく、たとえ財政支出過多が理由でインフレが起きたとしても、そう長くは続きません。理由の1つは財政民主主義です。よく「増税や歳出削減をするのは国民が嫌がるから」と言うけれども、国民はハイパーインフレも嫌がりますので、高インフレを放置する政権は見切りをつけられてしまう。

 財政支出過多によるインフレが続かないもう1つの理由は、「投資は供給力を増やす」という事実です。

 供給に対して需要が増えて需給ギャップが広がるとインフレになるのだけれども、民間の設備投資でも公共投資でも、投資は供給力を増やすために行われます。

 だから投資した瞬間には需要が増えても、それからしばらくすると設備が稼働して供給が増えるので、時間差で需要を追い上げることになる。供給が需要を追い続けているかぎり、一定以上のインフレにはならず、一方で経済の規模は拡大してゆく。これを「経済成長」と称するわけです。

 ただしMMTはその名のとおり「貨幣理論」であるせいか、投資による供給の拡大についてはちゃんと議論されていないように思う。

柴山:MMTでは、完全雇用を実現する政策として「就業保証プログラム」を推奨していますね。それによって失業は減りますが、供給力が増えるかどうかはわからない。
中野:供給の分析が不十分というのはケインズの理論の欠陥でもあったんです。僕はMMTをめぐる議論に欠けているのはこの視点だと思っています。MMTを批判する人たちは供給力の議論を欠いたまま、目先の需要の増減だけ考えて、「財政支出増でインフレが起きる」という議論をしている。(後略)』

 日本の場合、防災投資の拡大は必須ですが(これに反対する人、います?)、財務省の飼い犬たちは、

「政府が公共投資や防災投資を増やしても、人手不足でキョウキュウセイヤクガー」
 と、人手不足を理由に持ち出し、財政拡大を否定しようとします。


 いや、日本の土木・建設の供給能力が、長年の公共投資削減、一般競争入札化などの構造改革で毀損したのは確かですが、それを「そのまま」にしておいていいんかい! 世界屈指の自然災害大国で。現在、そして将来の国民が死ぬんですよ。


 現在の日本が採るべき道は明らかです。


 まずは、MMTでも何でも構わないので、日本に財政的な予算制約がないことを理解する。安藤先生ではないですが、

「ボクは財政健全化を重視する派だけど、『今』は財政拡大が必要だよな〜」
 
 と、緊縮派の国会議員が逃げを打つのでもいいです。別に、謝罪も賠償も要求しません。


 その上で、日本の毀損した土木・建設の供給能力を引き上げる、具体的には民間企業の投資を引き出すために、長期の防災インフラ整備、交通インフラ整備の計画を打ち出すのです。


 今後十年、毎年、インフラ整備の予算積み増しが予算として確定しているならば、土木・建設企業が本気で投資拡大に乗り出し、将来の日本国民が救われます。


 無論、現在の日本国民も防災インフラに守られ、交通インフラの上で生産を拡大し、豊かになることができる。


 つまりは、日本は複数年度予算をコミットした「国土計画」を復活させなければならないのですが、この種の「各国の事情」に応じた供給能力拡大については、確かにMMTでは語られないというか、無理でしょう。MMTにより予算制約から解放された上で、あくまで各国の「政治」が自国のための投資、供給能力拡大政策を決定しなければならないのです。


 日本に必要なのは、長期の予算をコミットする「国土計画」です。国土計画を復活させよう!
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12544623469.html

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植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は
ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳


ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/0601/hasan45/msg/253.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/715.html

[リバイバル3] 高配当銘柄を買うとこういう目に遭う _ JT 日本たばこ産業 (2914) 中川隆
11. 中川隆[-14970] koaQ7Jey 2019年11月13日 09:23:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2063]

加熱式タバコ大国日本。電子タバコ規制強まる中で「加熱式」は大丈夫なの?
古川 雅子 2019/11/13
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急激に普及している加熱式タバコは、リスクが小さいというイメージが広がっているが……。© 撮影:今村拓馬急激に普及している加熱式タバコは、リスクが小さいというイメージが広がっているが……。
従来の紙巻タバコとは異なる、新しいタイプのタバコのリスクに注目が集まっている。

10月には科学雑誌『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』オンライン版に、電子タバコから出る煙のような蒸気からの肺がん発症リスクを示唆する論文が掲載された。

さらに同月、電子タバコと関連がある呼吸器系の疾患と診断された患者の肺が、有毒な化学物質を吸い込んだときに似た状態になっているという調査結果が「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に掲載された。こうした動きから、アメリカではトランプ大統領が電子タバコの禁止に言及するに至った。

一方で、日本で普及しているのは電子タバコではなく「加熱式タバコ」だ。クリーンなイメージで販売されている「加熱式タバコ」なら安全なのか?

世界で規制される「電子タバコ」


海外で規制が強まる電子タバコ。アメリカではトランプ大統領が禁止を表明した。© REUTERS/Amr Abdallah Dalsh 海外で規制が強まる電子タバコ。アメリカではトランプ大統領が禁止を表明した。
世界各国で電子タバコの販売を禁止する動きが広がっている。

9月にトランプ大統領は、フレーバー付きの電子タバコを禁止すると表明。米大手スーパーのウォルマートも、アメリカ全土で電子タバコの販売を中止すると発表した。

さらに、ニューヨーク州やミシガン州が一部の電子タバコの販売を禁止。ついにはCDC(アメリカ疾病予防管理センター)が、電子タバコの使用と関連した肺損傷とみられる症状の患者が1080人に達し、一連のアウトブレーク(集団発生)における死者は18人に上っていると発表した(10月1日時点の数字)。

また、インドでも、電子タバコの販売や輸入が禁止されている。

日本で販売されているのは、「加熱式タバコ」と呼ばれる。ここでは「電子タバコ」と合わせて「新型タバコ」として、従来の紙巻タバコと区別して表記する。

電子タバコと加熱式タバコは呼称こそ違うが、筒状で発熱する電子デバイスを使用したり、煙のような「エアロゾル」 (気体中に浮かぶ微小な液体・個体粒子の総称。ベイパーとも呼ばれる)を発生させたり、見た目や使い方も両者は似ており、一般には区別がつきにくい。新型タバコから発生するエアロゾルは、無害な水蒸気ではなく、有害成分を含むミストだ。

日本で加熱式タバコの「IQOS(アイコス)」を販売しているフィリップ・モリス・ジャパンと、「Ploom(プルーム)」を販売している日本タバコ産業(JT)それぞれに、まずは海外で話題の「電子タバコ」にまつわる規制強化の動きやリスクについてどのような認識を持っているか問い合わせた。

フィリップ・モリス・インターナショナルのメディカル部門からは以下の回答がきた。


「アメリカ疾病管理予防センター(CDC)、アメリカ食品医薬品局(FDA)による調査に関する一連の報道で触れられているのは電子タバコであり、加熱式タバコIQOSとは異なる製品。IQOSは加熱式タバコシステムで、溶液を加熱するのではなく、(実際の)たばこ葉が入ったスティックを加熱するデバイスです」

JTの回答は以下だ。


「弊社の Ploom 製品(プルーム・テック/プルーム・テック・プラス/プルーム・エス)は電子タバコではなく、 加熱式タバコ。電子タバコはタバコ葉を使用せず、香料を含む液体(リキッド)を電気加熱し、 発生する蒸気(ベイパー)を愉しむ製品。

一方、加熱式タバコはタバコ葉を使用したタバコ製品です。そのため、アメリカで問題となっている電子タバコとはそもそも異なる製品」

これらの回答に対し、長年にわたりタバコ対策の研究に従事する、医学博士で大阪国際がんセンターがん対策センター疫学統計部副部長の田淵貴大氏はこう指摘する。


「『電子タバコと加熱式タバコは違います。今、アメリカで問題になって健康被害で訴えられているのは電子タバコの方です』といった説明は、タバコ会社の思惑通りに世論を誘導するための決め台詞でしょう。

中身は違うものですとアピールしたいのでしょうが、電子タバコと加熱式タバコには多くの共通点があり、特にプルーム・テックは電子タバコと非常によく似た製品です。さらに言うと、世界的には、むしろ電子タバコよりも加熱式タバコの方が有害だと考えられています」

田淵氏は根拠の一つとして、欧米のタバコ対策専門誌の論文にそれぞれの製品による発がんリスクが推定されており、発がんリスクが大きい順に、“加熱式タバコ>電子タバコ”と書かれていることを挙げた。

「加熱式タバコ」が日本でブレークした理由


「日本は世界で唯一の『加熱式タバコ大国』になった」(田淵氏)という。© 撮影:今村拓馬「日本は世界で唯一の『加熱式タバコ大国』になった」(田淵氏)という。
そもそも、日本では「ニコチン入り」の電子タバコは厚生労働省管轄の「医療品医療機器等法(薬機法、旧薬事法)」により規制されており、公には販売されていない。国内に流通するのは、法的な規制が十分でない、ニコチンを含まない電子タバコ製品だ。

一方で、加熱式タバコのIQOSはパイプタバコに該当する「タバコ製品」として、たばこ税を管轄する財務省が、世界のどこよりも早く認可した。

まず2014年に日本の一部の都市限定で販売を開始。2016年には世界で初めて日本が「全国的に」IQOSを販売している国になった。同年10月時点で、世界シェアの96%を占めていたという(ユーロモニター調査)。

ではなぜ、日本では「加熱式」が簡単に販売されたのか?

田淵氏は、こう指摘する。


「今までにも販売されたことのある電子式のタバコ製品と同様、『たいして売れず、社会への影響力はさほど大きくないだろう』という読みだったのではないか」

ところが実際には日本でブレークし、品薄状態になった時期もあった。 田淵氏の研究グループによる調査では、 2015年から2017年にかけて、加熱式タバコ(IQOS)を 30日以内に使用、つまり「現在使用している」人の割合は、0・3%から3・6%に増えていた。2年間に10倍以上の伸びだ。

一方、日本以外の国では、「2018年初頭から規制を強化したシンガポールのように、この未知のタバコ製品は危険だとして、あわてて加熱式タバコを禁止した国もあるくらい」(田淵氏)なのだという。だからこそ、


「従来の紙巻タバコとはかなり違うタイプの製品であり、安全か否かの確認が不十分な段階で、国として販売を許可してよかったのか?判断するには時期尚早ではなかったか?」

と田淵氏は疑問を投げかける。

新型タバコでもニコチン依存に


IQOSの広告には「有害性成分の量が約90%低減」と注意書きに記されているが、誤解を生みかねない。© 撮影:今村拓馬 IQOSの広告には「有害性成分の量が約90%低減」と注意書きに記されているが、誤解を生みかねない。
さらに問題なのは、加熱式タバコには害がないと誤解させるようなプロモーション活動を展開している点だと、田淵氏は指摘する。健康に及ぼす影響の可能性について、先述の2社はこう回答した。


「1. 紙巻タバコから完全にIQOSに切替えると、紙巻タバコを吸い続けたときに比べ、健康リスクの低減が見込まれます。

2. IQOSは紙巻タバコと比較し、有害性成分の量が平均で95%低減されています」(フィリップ・モリス)

「当社の加熱式タバコから発生するタバコベイパー(編集部注:エアロゾル) について、WHO が健康へのリスクの観点から含有量の低減を優先して推奨している9つの健康懸念物質がどの程度含まれるのかを調査したところ、従来の紙巻タバコのタバコ煙に比べて、大幅に低減されておりました。

プルーム・テック:99%以上、プルーム・テック・プラス: 99%以上、プルーム・エス:90%以上」(JT)

これに対し、田淵氏の指摘はこうだ。


「広告物に『9割以上低減』と大きな文字で書かれていたら、健康にほぼ害がないと誤解してしまう。実際には、発がん性物質など多くの種類の紙巻きタバコと共通の有害物質が加熱式タバコからも検出されている。

複数の研究機関による分析結果をまとめた論文では、紙巻タバコと比較して、有害物質のうち減った物質もあれば、減っていない物質もあり、さらには加熱式タバコの方が多くなっている物質もあった。一律に低減されているわけではありません。さらに、加熱式タバコにはニコチンは多く含まれますから、ニコチン依存はどちらにせよ維持されます」

「未知の物質による有害性も懸念材料の一つ。最近海外から出た論文では、ニコチン入りの電子タバコを実験動物に吸わせ続けたら、電子タバコの成分で肺がんになると報告されました。電子タバコでも発がんリスクが指摘されていますが、 2018年に出されたタバコ規制の専門誌 『Tobacco Control』の論文によれば、 加熱式タバコからは電子タバコよりも多量の発がん性物質が検出されています 」

なお、消費者へのリスク提示について、両社の方針はこうだ。


「私たちは、加熱式タバコには紙巻タバコの喫煙に伴う健康へのリスクを低減させる可能性があると考えていますが、 加熱式タバコがリスクの低減された製品であることを結論づけるにはさらなる研究が必要であり、評価を進めています。

またIQOSにリスクがないわけではなく、IQOS専用たばこスティックには、喫煙関連疾患の主要因ではないものの依存性のあるニコチンが含まれます、とお伝えしています」(フィリップ・モリス)

「加熱式タバコ(T-vapor: プルーム・テック/プルーム・テック・プラス/プルーム・エス)には、タバコ葉を使用しています。

このため、加熱式タバコの使用には健康へのリスクが伴います。私たちは、当社の加熱式タバコをリスク低減が証明された製品としての有力な候補として捉え、期待を寄せていますが、現時点では『リスクが低減された製品である』と断言したり、訴求したりするに足る科学的証拠は揃っていません。そのため、『害が低減されている』という内容ではなく、あくまで『健康懸念物質が低減されている』という調査結果をお客さまにお伝えしております」(JT)

実際フィリップ・モリス・インターナショナルは、IQOSをリスク低減製品(Modified Risk Tobacco Product)として販売できるよう、アメリカのFDAに申請し続けているが、現在においても認められていない。

これまでの審議でFDAの専門委員は9人中8人(1人は棄権)が「IQOSに切り替えても、病気になるリスクは減らない」と判定している。しかし、IQOSはリスク低減製品としてではなく、「一般のタバコ製品」として2019年4月にアメリカ国内での販売が認可され、10月からアトランタでの販売が開始されている。

受動喫煙のリスクをどう考えるか


「加熱式タバコ大国となった日本は時代に逆行している」と田淵氏は警鐘を鳴らす。© 撮影:今村拓馬「加熱式タバコ大国となった日本は時代に逆行している」と田淵氏は警鐘を鳴らす。
ここにきて、日本で新型タバコを吸う人が急増している。田淵氏が厚生労働科学特別研究事業の一環で2018年に実施した調査からは、日本の成人の約10%もの人が新型タバコを吸っているとわかった。

興味深いのは、日本で加熱式タバコがブレークした理由について、JTのマーケティング部門の責任者が、2017年に掲載されたBloomberg記事で下記のように分析している点だ。
法律上の規制で国内で電子タバコが出回っていない。
他国と比べて日本人が周りに配慮する風潮がある。
ガジェット(電子機器)好き。

2018年には改正健康増進法が可決され、日本社会も「受動喫煙を防止する社会」への転換期にある。2020年には五輪開催国として、国際化の波にもさらされる。「まだまだ受動喫煙の対策は不十分」との声も聞こえてくる。

田淵氏は、受動喫煙防止の観点からも、「加熱式タバコ大国」の現状に警鐘を鳴らす。


「他人に配慮するからこそ、空気を読む国民性だからこそ、マナーに配慮したガジェットなんだと擦り込まれてしまう可能性があります。紙巻タバコの煙がモクモクしている環境に比べれば、確かに受動喫煙に関しては加熱式タバコの方がましかもしれません。

しかし、これまでは子どもや家族への害に配慮して家や車の中でタバコを吸わなかったお父さんが『加熱式ならいいか』と吸い始めたり、『加熱式OK』のレストランが増えたりしています。日本社会はある意味、時代に逆行しています。これだけ加熱式が増えてしまったのは日本だけであり、大きな問題だと思っています」
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e5%8a%a0%e7%86%b1%e5%bc%8f%e3%82%bf%e3%83%90%e3%82%b3%e5%a4%a7%e5%9b%bd%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%80%82%e9%9b%bb%e5%ad%90%e3%82%bf%e3%83%90%e3%82%b3%e8%a6%8f%e5%88%b6%e5%bc%b7%e3%81%be%e3%82%8b%e4%b8%ad%e3%81%a7%e3%80%8c%e5%8a%a0%e7%86%b1%e5%bc%8f%e3%80%8d%e3%81%af%e5%a4%a7%e4%b8%88%e5%a4%ab%e3%81%aa%e3%81%ae%ef%bc%9f/ar-BBWEMsk?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/976.html#c11

[リバイバル3] 水道料金「月額2万円」時代へ? 値上げと地域格差拡大の背景 中川隆
24. 中川隆[-14969] koaQ7Jey 2019年11月13日 10:01:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2062]
財務省が下水道料金への公費削減や値上げを提言 水道民営化への地ならし

政治経済2019年11月13日

 財務省が自治体の下水道事業について、公費投入を削って使用料値上げを促す方針を明らかにした。同時にコスト削減のため、事業運営の広域化をおし進める方向も示した。安倍政府は民営化を進めるための改定水道法(昨年12月成立)を10月1日にこっそり施行したが、下水道事業を手始めに公費負担を絞りこみ、水道事業全体に民間企業参入を広げていく地ならしに着手している。


 財務省は6日、財政制度等審議会(財務相の諮問機関)・財政制度分科会で「公営企業改革」について提言した。そこで「下水道事業の費用負担に関する基本原則は“雨水公費・汚水私費”(雨水の処理は公費で賄うが人工的に生み出された汚水は使用者が負担する)」であるにもかかわらず、「汚水処理に要する費用を使用料で賄っている割合(経費回収割合)は平均でも7割程度」と指摘し「基本原則が貫徹されているとは言い難い」と批判している。


 そして「経費回収割合を引き上げるための一つの方法は、汚水処理に要する費用の抑制」と主張し「広域化・共同化への取組を着実に進めるべきだ」と提言している。


 さらに各地方自治体が汚水処理費に見合う使用料値上げへ踏み切ることを促すため「一般会計等からの繰入れ(公費投入)を抑え、受益と負担の対応関係を明確化させる」ことも明記した。下水道事業に関する公費負担については「真に必要な範囲に限定されているか、使用料引き上げへの意欲を削ぐものとなっていないかといった観点から検証が必要」とし、公費負担額算出基準の見直しにも言及した。それは下水道事業の公費負担額を引き下げ、使用料値上げと下水道事業の広域化によって収益が上がる構造をつくり、民間企業や外資参入を促進する施策の一環にほかならない。


 安倍政府が昨年12月に成立を強行した改定水道法は、水道施設を自治体が保有したまま民間事業者に運営権を売りとばす「コンセッション方式」の導入が柱である。従来の「業務委託」は、水道施設を自治体が所有し、自治体が委託料を払って部分的な業務を民間企業に任せる方式で、民間企業が得る利益は限られていた。また施設ごとの民間企業が所有する「JR型の民営化」は、自然災害で施設が破損すれば巨額な復旧費が欠かせないというリスクがある。

 こうした営利企業が参入を渋る要因をみなとり除いたのが「コンセッション方式」である。それは水道施設を使って自由にもうけることを参入企業に認め(水道料金はみな企業の収入になる)、大規模災害で水道施設が破損すると、その復旧費は地方自治体(税金)にかぶせる仕組みである。

水道料金に「役員報酬」も加算

 実際に厚労省が9月末に発表した「水道施設運営権の設定に係る許可に関するガイドライン」は、コンセッション方式について「地方公共団体が水道事業者」という位置づけを維持したまま「水道施設運営権」のみ民間事業者に「設定できる」と明記した。


 そして自治体側が担当する業務と民間業者が担う業務について次のようにすみわけしている。


【自治体が担う業務】(水道事業の全体方針の決定・全体管理)
▽経営方針の決定
▽議会への対応、条例の制定
▽認可の申請・届け出
▽供給規定の策定
▽危機管理に関する重要な意思決定
▽給水契約の締結、国庫補助の申請
▽水利使用許可の申請
▽指定給水装置工事事業者指定


【民間企業(外資含む)が実施可能な事業】
●水道施設の整備・管理
▽水道施設の更新・大規模修繕・増築
▽水道施設の運転管理・維持・点検
▽給水装置の管理
▽水質検査
●営業・サービス
▽料金の設定・徴収
▽水道の開栓・閉栓
▽利用者の窓口対応
●危機管理
▽災害・事故等への対策
▽応急給水・応急復旧
▽被災水道事業者への応援


 またコンセッション導入後の水道料金設定については「役員報酬」も原価として算出する方向が明るみに出ている。これまで水道料金原価といえば「人件費、薬品費、動力費、修繕費、受水費、減価償却費、資産消耗費、公租公課、その他営業費用の合算額」などだったが、新たに水道事業参入を目指す外資や営利企業の役員報酬を保障するために、水道料金の値上げを可能にする規定は施行段階にきている。10月に施行した改定水道法も「適正な原価に照らし公正妥当な料金」としていた改定前の料金規定が「健全な経営を確保することができる公正妥当な料金」に変わっている。


 さらに「費用分担」の項では「被害が大規模で事業運営へ多大な影響がある等、水道施設運営権者が合理的な経営努力を行ってもなお負担しきれないと考えられるものは原則として水道事業者等」と規定した。これは大規模な災害が起きれば水道事業者である自治体に復旧費をみな押しつけるという内容だ。日頃は営利企業が水道施設を使って利益を上げるため無制限の水道料金値上げを認め、大規模災害が起きればその復旧費はみな自治体負担(税金)にかぶせるという制度である。


 こうした水道民営化に向けた地ならしが国主導で進行している。それが下水道事業の公費負担削減や使用料値上げの動きとなって表面化している。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/14192
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/908.html#c24

[リバイバル3] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
30. 中川隆[-14968] koaQ7Jey 2019年11月13日 11:53:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2061]

宇野功芳氏について
2016 JUN 23 東 賢太郎

僕がクラシックを聴き始めてまず基礎的な知識を仕入れたのはレコード芸術という月刊誌だった。多彩な評論家のレコード評を読みながらなるほどそういうものかと覚えていったから実用的な教科書みたいなものだった。

文章を読むのは入門には有益だ。クラシック音楽は楽譜と同じぐらいに言葉によって存立している。百年も二百年も前に作られて以来、数多の人が投げかけた無尽蔵の感嘆詞や文章の集積、集大成がそれをクラシックたらしめているといって過言ではないだろう。

だから我々は名曲を耳だけでなく評論という形で目からも覚えることができる。そのほうが記憶は強化できるのだ。ワインといっしょで、世間ではどういうものが三ツ星なのかを知って自分の耳で覚える。今度は別な演奏をその記憶と照らし合わせてみる。それが圧倒的に速い方法であることは僕だけでなく多くの友人が実証している。

レコ芸の論者はいろいろ個性的な方がおられた。評論家は商売なのにコマーシャリズムを見下す大木正興さんの評論の立ち位置は微妙だったが、あの硬派な権威主義とアカデミズム、一刀両断のスタンスには有無を言わせぬものがあった。原稿料で食ってもそれが自分の美学を揺るがすことはないという頑とした矜持は当時の僕にはどこか知的で格好良くもあった。あれはさすが美学科だ。

仏文科の吉田秀和さんは月評は書かない、彼はむしろ音楽に博識の文人、文学者だが、東京帝国大学という官僚養成学校の欧州文明文化の翻訳・解釈に根差した教養がご両人ともベースにあるのは同じだろう。僕は大木さんのスタンスの方が肌に合い、彼のドイツ礼賛と米国蔑視は徹底していたものだからその影響ももろにかぶった。第2外国語がなんとなくドイツ語になったのはそのせいだし、後に米国留学してもそれがなかなかぬけずに困ったものだ。

東大色濃厚のご両人に対し先日他界された宇野功芳さんはリベラルで主情的で正直のところやや軽く見ていた。ただ、他の先生たちよりも文章がわかりやすくお堅いクラシックを大衆芸能みたいにイメージさせる強みは絶大で、聞く前から聞いた気にさせてくれる。大木さん、吉田さんだと知らない自分が恥ずかしい風になるが、宇野さんは文章と一緒に聞いている気分になってくるので読んで抵抗がない。これは才能だと思った。

とくに宇野さんを見直したのは、自分で指揮をされるのを知ってからだ。音楽=教養というのは変だと思い始めていた頃で、そういうスタンスで教わったから自分は音楽の授業が嫌いだったのだと気がついたのがきっかけだ。プレーヤーの言葉、評論こそ読みたいものだと思い至るようになっていたから、指揮者でもある宇野さんのそれに謙虚になった。

彼の演奏を聞いてみると、趣味はまったくあわないが評論内容とは言行一致しており、自分丸出しでやりたい放題のすがすがしさが気に入った。なるほど音楽は「するもの」だと思い、ピアノを練習しスコアをじっくり読み始めたのはそこからだ。だから僕は六法全書より楽理書のほうが詳しくなった。これは彼のおかげといえる。

caplanその路線でいうなら、米国の経済誌インスティテューショナル・インベスター社の創業者ギルバート・キャプラン氏はあこがれの人だった。音楽教育は受けていないが偏愛するマーラー交響曲第2番「復活」のみを専門に振る指揮者として著名であり、私財で購入したマーラー自筆譜を元にした新校訂版「キャプラン版」での録音をウィーン・フィル(!)とドイッチェ・グラモフォンに行っているスーパー素人である(右)。

指揮は習う必要があるので時間がない。そこで向かったのがシンセサイザーによるMIDI録音・演奏だ。91年ごろで当時そんな機具を買うのは専門家だけだった。やってみるとこちらも時間を要したが十分の満足感があった。全パートを耳で合わせながら弾くのだからオーケストラのスコアがわかるようになったが、それよりもそれをやることでピアノがもう少し弾けるようになったのが助かった。それで未完成やエロイカや悲愴交響曲の一部を弾いたりしながら、楽譜上の数々のことが腑に落ちた。

すると、だんだん他人の演奏や評論は興味がなくなり、スコアだけ見ていてイマジネーションをふくらませて、「答え合わせ」に他人のを聴くということになった。実際にシンセで録音してから誰かのCDを聞くとどういうわけかそっちもシンセ録音に聞こえてきて(耳がそういう処理をしてしまうようだ)、もちろんその刹那は自分の演奏のほうが良いと思っていた。いまそれを聴くと不遜なことだったと恥じ入るばかりだが。

そうこうしてふりかえると、もう大木氏や吉田氏や宇野氏のような聴き方をしていない自分になっていた。それがドイツ駐在の40才あたりだ。だからフランクフルトにいた3年間は、ドイツの森を歩きワーグナーの楽劇を知り、ベートーベンやメンデルスゾーンやシューマンやブラームスと同じものを食べて同じ空気を呼吸して、家にいる間は四六時中シンセ音楽作りに没頭して音楽の聴き方に決定的な転換点がもたらされた、僕の人生にとってもメルクマールとなる3年間だった。

そんなことをしながら初めて現法の社長という仕事をやったというのも嘘のようだが、自画自賛になるが必死にやって成果も出した。充実した手ごたえが残っているし、38才の小僧が会社のおかげで成長もさせていただいた。実は東京で辞令が出た時に、ドイツへ行くのが不服で会社を辞めようかと考えた。そうしなかったのはそこまでの自信も勇気もなかったからだが、今となると大正解だった。シンセで多大な時間を食ったからもっと子供と遊んでやればよかったと申し訳ないが、音楽とは僕にとってそこまで犠牲を払った特別なものだ。

宇野さんが演奏家だなと思うのはシューリヒト、クナッパーツブッシュの評価の文章だ。彼は即興性、自発性を重視しており、カチッとした枠組みをつくるハンガリー系や人工的、紋切型は嫌いだという顕著な傾向がそこに読み取れるが、自分がスコアをどう読むかに照らして評価しているというベースがあるというのは大切だと思う。教養主義の美学でなく実践的、現場的で自己流の美学だが、僕は今はそのほうが共感を持てるようになっている。

音楽は好き嫌いでいい。というかそれしかない。「名曲だから聴きましょう」はない。僕がブログにするのも楽譜までもちだすのも、知識をひけらかすためでなく、その曲がその箇所がメシより好きだからであって、その箇所を自分の手で音にしたいために何時間もピアノやシンセで格闘したからだ。こういう風になったのは多分に僕流のことなのだろうが、「クラシックを聴く」流儀にはこんなにケッタイなのもありだ。自分の好きなようにやればいいし、かくあるべしなんて決まりは一切ないということだ。

ここに至るまでの里程標として多くの演奏家や評論家の方々のお世話になったが、宇野さんにはその中でも「自分でする」という大事なスタンスを教えていただいた。ご冥福をお祈りしたい。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2016/06/23/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E6%B0%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html#c30

[近代史02] LPの音をSPの音に変える魔法のスピーカ タンノイ オートグラフ _ 2流オケの音もウイーン・フィルの響きに変える奇跡 中川隆
139. 中川隆[-14967] koaQ7Jey 2019年11月13日 12:32:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2060]
どうも気になる「タンノイ」さんのオークション - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年11月13日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/df629ef2aeef7672918cc942f559d86a


「タンノイ」といえば英国を代表するクラシック向きのスピーカーとしてよく知られていますよね。

もし知らない方がいるとすれば、それはこの世界では「潜(もぐ)り」です(笑)。

日本でも根強い人気があって、クラシック・ファンであれば購入時に候補として一度は俎上に乗せると言っても過言ではあるまい。

自分もその例に漏れない。しかし、実際に購入してはみたものの、そのタンノイさんに不満を感じだしたのにそれほど時間はかからなかった。

なにしろ低音域はボンヤリしているし、グッドマン系に比べると中高音域はやたらに硬いしヴァイオリンの音色もイマイチ。

まあ、人それぞれだけどね(笑)。

オーディオに限っては思い切った「行動派」なので、ボックスだけは少しの改良に留めてそのまま活用することにし、中身のユニットについてはそっくり入れ替えた。

ただし、黙っておけばいいものをときどきブログでタンノイさんの否定的な面を強調したりするもんだから、途端に該当記事の「共感バナー」のアクセスが減少気味になるのに気付いている(笑)。

このブログの読者の中には「タンノイ使用者」が多い現実に改めて気付かされるが、何といっても(このブログの)取り柄は「自分の思ったままに書く」ことだけなので怯むつもりはまったくない。

とはいえ、「雉も鳴かずば撃たれまいに」の感はたしかにある(笑)。

そういう状況のもとで、ずっと昔のタンノイさんのモデルについてはある種の憧憬をいまだに持っている。

たとえばユニットにとって一番大切な「マグネット」でいえば「シルヴァー」「レッド」「ゴールド」あたりのもので、とても透明感に優れ、しなやかな中低音域に恵まれているのが素敵。

お値段次第によって”あわよくば手に入れたい”という色気はまだ捨て切れていない。

そういう中、このほど興味深い出品物が二つあった。

まずは、箱の方から。

解説には、「タンノイ 12インチ用 オートグラフエンクロージャ Utopia製 ペア の出品です。同時出品しておりますモニターシルバーを取り付けていたエンクロージャです。ユートピア社により、オリジナルを忠実に12インチ用にスケールダウンされたものです。」

素人の工作ではまず無理ともいえる豪華な箱に大いに食指をそそられる。

そして、中に容れる肝心のユニットはもはや幻の存在とも言っていい「モニター・シルヴァー」である。

   

解説では、「タンノイ モニターシルバー 12インチ LSU/HF/12L ペア の出品です。センターキャップが装着されていないので、おそらく希少な初期型のユニットかと思います。

コーン紙の状態は、撚れやピンホールも無く良い状態かと思います。出品に当たり、音出し確認を行いましたが、ビビリも無く問題の無いことを確認しました。ネットワークはおそらくオリジナルと思われます(購入時に販売店より聞いています)が、カバーの欠品と当方の浅学のため断言出来ません。」

ちなみに、口径38センチの「モニターシルヴァー」と「コーナーヨーク」(オリジナル)の箱のセットを持っている知人の話によるとペアで「180万円」で手に入れたとのことだった。

   

今回は口径「12インチ」(30センチ)だから、やや小ぶりになるが自分の好みでは「38センチ」よりも「口径30センチ」の方がスケール感では劣るものの音声信号に対する応答性に関しては上。

したがって願ったりかなったりの出品物だが、スペースの関係で箱の方はちょっと厳しい。

問題はユニットである。最後まで注目していたところ、最終落札価格は「601、000円」(10日夜)なり。

ちなみに箱の方は「102,000円」だった。合計すると「703,00円」になる。安ッ!

「ウェストミンスター」を持ってなければ参戦したんだけどなあ(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/df629ef2aeef7672918cc942f559d86a
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/494.html#c139

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
67. 中川隆[-14966] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:15:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2059]

富士山頂から700m、高速で岩などに衝突し続けたか…配信中滑落
読売新聞 2019/11/13 09:51

積雪がみられる富士山(12日夕)© 読売新聞積雪がみられる富士山(12日夕)

 静岡県警は12日、10月30日に富士山の7合目付近(標高約3000メートル)で見つかった身元不明の遺体について、東京都新宿区西早稲田の塩原徹さん(47)と判明したと公表した。状況から十分な装備をせずに冬の富士登山を強行していたとみられる。今回のように7〜9月の開山期以外に登って遭難するケースは後を絶たず、県や県警は安易な入山を控えるよう呼びかけている。

 御殿場署などによると、塩原さんは、10月28日午後、自らが富士登山する様子を動画撮影し、インターネットに生配信していた際に、滑落したものとみられる。その時とみられる動画では、男性が実況中継をしながら雪山をゆっくりと歩き、「滑る」と叫んだ瞬間に滑落する様子が映っていた。

 ネット上はすぐに騒然となり、静岡、山梨両県警に通報があった。県警の山岳遭難救助隊は2日後に雪に埋もれた状態の遺体を発見した。身元を特定できる所持品がないほか、遺体の損傷が激しかったこともあり、身元の割り出しに時間がかかったという。

 塩原さんの遺体は、衣服もぼろぼろの状態だった。山頂付近から700メートルにわたって高速で滑落し、岩などに体を衝突させ続けたとみられる。署の幹部は「冬の富士登山ができるような装備ではなく、軽装だったようだ」としている。

 県警地域課によると、富士山静岡県側での閉山期の山岳遭難の件数は、2013年以降、9〜19件で推移し、1〜6人が死亡している。今年も10月31日現在で、今回の遭難を含めて7件発生している。13年1月には登山経験のない若い女性2人が、普段着にスニーカーで富士山に入った。体調不良で自力下山ができなくなり、山岳遭難救助隊が救助した。

 県警などは、閉山期の登山を控えるよう呼びかけているものの、「自己責任」の登山が黙認されているのが現状だ。世界文化遺産として13年に登録されたことを機に、観光スポットとしての人気も高まっており、外国人の入山も多い。このため県などは、冬場の登山の危険性を周知するパンフレットなどを配布している。

 閉山期に登る理由は、海外の山々に挑む登山家の訓練や、周囲に人がいない富士山を楽しむことなど様々だ。富士宮市小泉の登山用品店「ATC Store」の芦川雅哉店長(48)は、「SNSなどで(冬季の)富士登山の様子を目にする機会が多くなった」と指摘する。そのうえで、「十分な装備をしていたとしても、滑落してしまえば遮る木もなく、止まることがない。夏と違って周囲に助けてくれる人もいない」と危険性を訴えた。

 県警山岳遭難救助隊の坂上雅信副隊長は、「冬の富士山は特に風が強く、経験者でも非常に危険だ。夏と冬の富士山は完全に別物で、閉山期の登山は自粛してほしい」と呼びかけている。
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%af%8c%e5%a3%ab%e5%b1%b1%e9%a0%82%e3%81%8b%e3%82%89%ef%bc%97%ef%bc%90%ef%bc%90%ef%bd%8d%e3%80%81%e9%ab%98%e9%80%9f%e3%81%a7%e5%b2%a9%e3%81%aa%e3%81%a9%e3%81%ab%e8%a1%9d%e7%aa%81%e3%81%97%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%81%9f%e3%81%8b%e2%80%a6%e9%85%8d%e4%bf%a1%e4%b8%ad%e6%bb%91%e8%90%bd/ar-BBWFcp0?ocid=ientp#page=2
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c67

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
77. 中川隆[-14965] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:25:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2058]
>>73 に追記

音場の再生について 2 GRFのある部屋 2019年 11月 13日
https://tannoy.exblog.jp/30894180/


始めてSD05で鳴らした時のGRFの音には驚きました。自分の部屋にオーケストラが現れたからです。二階席の一番前からオーケストラを見下ろすように聴いているように、目の前にオーケストラが出現したたのです。なにより驚いたのは、オーディオ装置では、難しいとされたヴィオラやチェロの音が浮かび上がってきたことです。内声部の音や、センター部分の弦楽器、木管楽器がはっきりと聞こえます。音が立体的になり、弦楽器群が確かに複数の楽器の「群」として厚みを持って聞こえます。


その厚みと、中声部の充実がオーケストラ再生に、実在感を与えていたのです。そのような音は今まで聴いたことがありませんでした。そして、弦楽器の弓を動かす、擦過音が細かく再生され、音にリアリティが表れます。弦楽器のユニゾンがこんなに綺麗だったとは、本当に驚きました。そして、オーケストラの奥から響いてくるティンパニーや大太鼓の深い響きが、実在感を増したのです。


どうして、急にこのような音になったのか、私なりに考えてみました。先のNFBがないので、音に特有の音が乗らず、CDやレコード本来の音が、そのまま再生されてきたのです。すると、GRFから発生した逆起電力が、アンプに戻らず、信号が一方通行で流れて、本来持っている音がそのまま素直に出たのですね。石田さんが提唱されていた、FOB =Feeling of Beingの通り素直な音が出たおかげでしょう。


しかし、周波数特性が素直になっただけで、このような音場が出現するとは思えません。石田さんにもいろいろ尋ねて、出てきた答えが、ステレオでは一番大事なクロストークの特性が、全く違うと言うことでした。昔から、本格的にステレオを再生するには、電源的に左右が繋がってしまう、ステレオアンプでは、筐体内部でのクロストークが増えて、お互いの音を打ち消されるので、正確なステレオ再生が難しいと言われてきました。その為、私自身も、パワーアンプはモノラルアンプを二台使っていました。マッキントッシュの2500もサウンドパーツの6550ppもモノラル仕様でした。ステレオアンプですと、雄大な音の広がりが欠けるからです。

f0108399_10165453.jpg


最初にSD05を繋いだとき、左右のセパレーションが悪く、やはりステレオアンプでは、雄大なスケールが出ないと思っていました。その旨を石田さんに伝えると、そうでは無い、左右のクロストークがほとんど無いから、今まで打ち消されていたセンター部分の音が聞こえて、一見セパレーションが悪く聞こえているだと言われました。


ん?


セパレーションがよく聴けるステレオの音の方が、クロストークが発生している?


SD05の中では、左右の信号は、出力用パワートランジスターの直前まで、デジタル信号なので、アンプ内で通常起こっている左右の音が混同が無い、との説明でした。だから、中央部分の音が消されないので、真ん中からも、センター寄りの右も左も音が聞こえてくるのだと。オープンリールテープの様に、しっかりと左右のセパレーションが確保されているから、中央部分からも音が薄くならず、しっかりと定位して聞こえてくるのだと言われました。

f0108399_11301921.jpg


しばらく、聞き込んで行くと、その意味がだんだん解ってもくると。スタジオでのモノラル録音を左右に振り分けたタイプの、ステレオでは、その効果が解らないとも、昔の自然な2チャンネルで録音されたコンサートホール音が入っている、初期の録音(1967年頃まで)であれば、充実したオーケストラ音が聞こえるはずだと言われました。


何よりも大事なのは、Jazzやポピュラーとは違って、コンサートホールの音は、そのホール特有の音が、音楽を構成しているという当たり前の事実だったのです。よく、昔からのオーディオマニアの人達が、言われるツイーター自身から音がきこえるのではなく、SP位置が消えて、その背後から音楽だけが鳴るという状況が本当だと気がついたのです。


幸いだったのは、GRFの特異なキャビネット構造にもありました。部屋のコーナーに置いて、45度内向きに置かれ、両方のSPで前方に音軸を揃えて聞くという方式が発見を容易にしたのです。左右の内向き角度や、壁から距離を左右対称の部屋で追求していくと、ヴォーカルのこえが中央から聞こえてきます。CDで、左右バランスをしっかり合わせて、レコードに調整すると、たとえば森進一や越路吹雪の声が、中央に浮かび上がります。その時、アームのインサイドフォースキャンセラーを0.1gも動かすと、その声の位置が10センチほど動くのです。


その実験は、訪れていただける方々に何度もお聴かせして、針の形状やアームセッティングの微妙さを聞いていただいています。その微妙な音の変化も、モノラルアンプにして、左右を分けないとその差が解りませんでした。


私は、昔からPHILIPSレーベルのアムステルダム・コンセルヘボウのレコードが好きでした。ハイティンクが余り人気の無い80年代の頃から、今思うと信じられないぐらいの安価で、買い求めていました。そのレコードが、コンセルトヘボウの会場で鳴っているように、私の部屋でなり始めたのです。
https://tannoy.exblog.jp/30894180/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c77

[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
68. 中川隆[-14964] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:32:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2057]

雪山から滑落すると人間はこんなに無力にすごいスピードで落ちていくらしい



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c68
[リバイバル3] 富士山登山を「ニコ生」中継中に滑落か 救助隊が捜索 中川隆
69. 中川隆[-14963] koaQ7Jey 2019年11月13日 14:34:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2056]

2019 3 19 かぐら 衝撃の光景



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1012.html#c69
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
6. 中川隆[-14962] koaQ7Jey 2019年11月13日 16:57:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2055]
シェーンベルク編曲
ヘンデルの合奏協奏曲 op.6-7 による弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(1933)


Schoenberg Concerto for string quartet & orchestra (part 1, 2) "Filarmonica" - quartet



"Filarmonica"-quartet, Novosibirsk Philharmonic orchestra, Mikhail Granovsky.

_____

Arnold Schoenberg, Concerto for String Quartet & Orchestra in B Flat Major After Handel's HWV 325 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YREryvw9XPg

Arnold Schoenberg, Concerto for String Quartet & Orchestra in B-Flat Major (After Handel's HWV 325)

1. Largo – Allegro
2. Largo
3. Allegretto grazioso
4. Hornpipe. Moderato

Quatour Diotima
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
Michael Gielen, conductor

______

Arnold Schoenberg (after Handel) Concerto for string quartet and orchestra (1933) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2qJ1KN1pVIU

A 'free transcription' of Handel's Concerto grosso in B-flat major Op. 6, No. 7

I. Largo. Allegro
II. Largo
III. Allegretto grazioso
IV. Hornpipe. Moderato.

Performed by the Lenox Quartet and the London Symphony Orchestra conducted by Harold Faberman.


▲△▽▼

ヘンデルの合奏協奏曲 op.6-7 の原曲

Händel Concerto Grosso op 6 No 7 Busch Chamber Players - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=P5Yxgogqxfc
https://www.youtube.com/watch?v=TXZeZ-gI2Cg

Concerto Grosso op 6 No 7 in B flat Major by Georg Friedrich Händel
1. Largo
2. Allegro
3. Largo e piano
4. Andante
5. Hornpipe
The Busch Chamber Players
II.1946

_____

Karl Richter Concerto grosso op 6 No 7 Händel - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZLFLgMG6rYM

Concerto grosso op 6 No 7 in B Major by Georg Friedrich Händel
Larghetto
Allegro
Largo e piano
Andante
Hornpipe
Münchener Bach Orchester
Karl Richter, conductor






http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c6
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
7. 中川隆[-14961] koaQ7Jey 2019年11月13日 17:23:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2054]
シェーンベルク編曲
バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調 BWV552「聖アン」の管弦楽編曲(1928)

Jacek Kaspszyk conducts Bach-Schoenberg's Prelude and Fugue in E-flat major BWV 552



0:31 Preludium/Prelude
9:28 Fuga/Fugue
Jacek Kaspszyk - dyrygent/conductor
Orkiestra Filharmonii Narodowej/Warsaw Philharmonic Orchestra
recorded at Warsaw Philharmonic Concert Hall, November 20, 2015

_____

Schoenberg Prelude and fugue in E flat major, Bach - Ozawa BSO - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=32JjEib8drM
https://www.youtube.com/watch?v=MPscpDG1vF0

Ozawa: Boston Symphony Orchestra
Released on: 1992-01-01

_____


Bach-Schoenberg - Prelude and Fugue BWV 552 (Arr. for large orchestra) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=O_R7M0vDLn8

Prelude and Fugue BWV 552 for Organ
arr. for large orchestra by Arnold Schoenberg (1874-1951)

Sinfonieorchester des Norddeutschen Rundfunks conducted by
Michael Gielen
Live recording Funkhaus Hannover des NDR, 29.01.1979

_____

Bach ( Arr. Schoenberg) Praeludium & Fugue St Anne BWV 552-
BBC Philharmonic- Slatkin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RDADGE44i_o

▲△▽▼

バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調 BWV552 の原曲

Helmut Walcha Bach Praeludio et Fuga pro organo pleno BWV 552 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=a-Gwt1ODRgs
https://www.youtube.com/watch?v=lZUULI_DcsI

_____

Karl Richter - Organ Works - Prelude & Fugue In E-Flat - BWV 552 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6ggecv8ImBs
https://www.youtube.com/watch?v=Qkj0GO_a3r8




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c7
[近代史3] アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの? 中川隆
8. 中川隆[-14960] koaQ7Jey 2019年11月13日 18:09:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2053]
シェーンベルク編曲
バッハ:コラール前奏曲 BWV631 の管弦楽編曲(1922)
バッハ:コラール前奏曲 BWV654 の管弦楽編曲(1922)



Bach arr. Schoenberg Choral Preludes (Horenstein) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jSt7bomfySw

Bach arr. Schoenberg

1) Schmücke dich, o liebe Seele
2) Komm, Gott, Schöpfer, Heiliger Geist

Berlin Philharmonic Orchestra
Nicolai Graudan, cello
cond. Jascha Horenstein, 1929

____

J.S. Bach - Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist BWV 631 (Schoenberg) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DhhLH6E3dX8

Johann Sebastian Bach (1685-1750) - Prelude aus dem Choral "Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist" BWV 631, in einer Orchestrierung von Arnold Schoenberg

Houston Symphony Orchestra
Christoph Eschenbach - Dirrigent
____

J.S. Bach - Schmücke Dich, O liebe Seele, BWV 654 (Schoenberg) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CKo4tcD6W50
Johann Sebastian Bach (1685-1750) - Prelude aus der Choralkantane "Schmücke dich, O liebe Seele" BWV 654, in einer Orchestrierung von Arnold Schoenberg

Houston Symphony Orchestra
Christoph Eschenbach - Dirrigent
Desmond Hoebig - Cello solo

___________

Bach-Schoenberg - 2 Choral Preludes (Arranged for Orchestra) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XfjpXFs91VY

Two Choral Preludes arranged for orchestra by Arnold Schoenberg(1922)

1. Schmücke dich, o liebe Seele BWV 654
2. Komm, Gott Schöpfer, heiliger Geist BWV 667

Sinfonieorchester des Norddeutschen Rundfunks conducted by Michael Gielen
Live recording Funkhaus Hannover des NDR, 29.01.1979
https://www.youtube.com/watch?v=XfjpXFs91VY

____

J.S. Bach orch. Schoenberg Two Chorale Preludes, arranged for orchestra (orch. 1922) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rFOtvGTSd_k


I. Chorale prelude on Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist BWV 631 00:00-02:20
II. Chorale prelude on Schmücke dich, o liebe Seele BWV 654 02:20-08:01

Performed by the Philharmonia Orchestra conducted by Robert Craft.

▲△▽▼

バッハ:コラール前奏曲 BWV631、BWV654 の原曲

J. S. Bach - Chorale-Prelude Komm, Gott Schöpfer, Heiliger Geist BWV 631 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BKWcI7OR4_o

from Orgel-Büchlein
Ton Koopman, Organ

___

Bach - Choral Prelude ''Schmücke dich, o liebe Seele'' BWV 654 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NqSEPo6twLI

Ton Koopman, organ

____

J. S. Bach “Organ Works” (Helmut Walcha) 27 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=i-w15xmbrBY

“18 Chorales, BWV 651-668, ‘Leipziger Chorale’”

1) Fantasia super Komm, Heiliger Geist, Herre Gott, BWV 651
2) Komm, Heiliger Geist, Herre Gott, BWV 652
3) An Wasserflussen Babylon, BWV 653
4) Schmucke dich, o liebe Seele, BWV 654
5) Trio super Herr Jesu Christ, dich zu uns wend, BWV 655
6) O Lamm Gottes, unschuldig, BWV 656
7) Nun danket alle Gott, BWV 657
8) Von Gott will ich nicht lassen, BWV 658
9) Nun komm, der Heiden Heiland, BWV 659
10) Trio super Nun komm, der Heiden Heiland, BWV 660
11) Nun komm, der Heiden Heiland, BWV 661
12) Allein Gott in der Hoh sei Ehr, BWV 662
13) Allein Gott in der Hoh sei Ehr, BWV 663
14) Trio super Allein Gott in der Hoh sei Ehr, BWV 664
15) Jesu Christus, unser Heiland, BWV 665
16) Jesus Christus, unser Heiland alio modo, BWV 666
17) Komm, Gott Schopfer, Heiliger Geist, BWV 667
18) Vor deinen Thron tret ich hiermit, BWV 668



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html#c8
[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
211. 中川隆[-14959] koaQ7Jey 2019年11月13日 19:13:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2052]
英語民間試験問題にみる高等教育の貧困 公的支出削り受験ビジネスに 2019年11月13日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200

 全国の高校・大学の教員や受験生たちが中止を求めていた英語民間試験について、文科省は1日、2020年度からの導入を見送り、24年度実施をめざして今後一年かけて再検討すると発表した。延期されたとはいえ、根本問題はまだなにも解決されていない。逆に今回の問題をつうじて、日本政府の高等教育に対する政策が世界のなかでいかに貧困であるか、本来国の将来の担い手を育てる事業として貧富にかかわりなく平等に保障されるべき高等教育がビジネスの対象にされ、それによっていかに若者が食いものにされているかという現実が浮き彫りになっている。記者座談会で論議してみた。


 A 萩生田文科相が英語民間試験の実施延期を発表したのは1日の朝で、この日は当事者の高校2年生がシステムのID登録を開始する日だった。


 高校の教員たちはみな、以前から延期と制度の見直しを求めていたし、現場をひきずってでも強行しようとする文科省に憤りを語っていた。それでも受験生のために、前日まで一人一人のIDのチェックに細心の注意を払っていた。「延期はよかったが、まだ何も解決していない」と、気持ちは複雑だ。

現場の受けとめは複雑 「一から再検討を」

 A 大学入学センター試験にかわって2020年度から始まる大学入学共通テストは予定通りおこなわれるし、そのなかではじめて実施される国語の記述式問題はベネッセの子会社が61億円で落札し、1万人のバイトを雇って採点する。そのことにも不安がある。入試改革は「ゼロベースで一から再検討せよ」という声は強い。


 B 文科省は来年1月、30年近く実施されてきた現在の大学入試センター試験を廃止し、再来年から、つまり今の高校2年生から大学入学共通テストにかえる。同時にその前段で、今問題になっている英語の民間検定試験の受検を義務づけた。これと連動して指導要領も変える。


 英語民間試験は、これまでのセンター試験の英語の「読む」「聞く」に加えて「書く」「話す」の4技能を評価するために導入するのだという。全国に50万人以上いる受験生は来年4月から12月までの間に、英語民間試験を本番2回まで受けることができ、そのうち成績のいい方を大学受験に使う。再来年の1月16、17日が大学入学共通テストとなり、その後2〜3月にかけて希望する大学の試験となるが、そのさい英語民間試験の成績が出願資格となったり、受験の成績に加点されたりする。出願資格になると、英語が苦手な子はその時点で門前払いとなる。


 問題は、この4技能を評価する英語試験の実施と採点、結果公表を、文科省が民間事業者に丸投げしたことだ。

 C 昨年6月には大学の研究者たちが試験の中止を求める請願を国会に提出し、全国高等学校長協会も7月と9月、試験の延期と制度見直しを求める要望書を文科相に提出した。萩生田文科相が格差拡大を容認する「身の丈」発言をおこなった直後には、当事者である高校2年生が共通テストの中止を求める署名を開始し、数日間で4万筆が集まった。国立大学協会が全受験生への実施を決定したものの、この試験を受験には使わないと表明する大学が次次にあらわれ、9月末で国公立大のうち約3割が態度を決めかねていた。


 高校生や教員たちが問題にしているのは、第一に、家庭の収入や住んでいる場所によって格差が生まれることだ。それ自体が教育の機会均等に反している。下関市内のある高校教員は「高校に通わせるだけでも必死な家庭が増えているのに、出口まで高額なお金が必要になる。それで子どもたちの将来を左右してはいけない」といっている。


https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200


 英語民間試験を受けるには、1回につき5800〜2万5850円と高額の検定料がかかるし【図1参照】、受検回数に制限はないのだから、何度もウォーミングアップができる家庭とそうでない家庭とで大きな差が生まれる。そのうえ都会と地方では、受検機会に差がありすぎる。山口県では英検とGTECしか受けられないと思われるが、その他の試験を福岡県や広島県に受けに行くと、離島の子など1泊か2泊が必要となるし、交通費と宿泊費が大きな負担だ。都会が圧倒的に有利なのだ。


 第二に、民間事業者に丸投げして試験の公平、公正が担保されるのかという問題がある。文科省は民間英語試験に6団体7種類の検定試験を指定しているが、ビジネスでの活用を目的としたもの、資格・検定試験として国内で長く使われてきたものなど、それぞれ目的が違うし、難易度にも大きな幅がある。たとえばTOEFLは英語圏(とくに北米)の大学への留学希望者が、必要な英語能力を習得しているかどうかの評価を受けるもので、扱われる内容は北米の大学や生活に関するものが多いという。このようにそれぞれ測ろうとする能力が違う複数のテストを同時に実施して、受験生の選抜に使うことに根本的な間違いがある。


 異なる英語民間試験の成績を比べるために、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)を基準にして文科省の作業部会が強引に「対照表」をつくったが、それには科学的な裏付けがないというのが専門家の意見だ。ある大学の英語教員は、五〇b走のタイムと立ち幅跳びの成績を比べて体力の優劣を決めることができないように、GTECと英検の成績を比べて英語力の優劣を決めることはできないといっている。

 A それを一緒くたにして大学受験に使うというのだからひどい話だ。しかも短期間に50万人の答案を採点しなければならないので、大量に学生のアルバイトを雇うといっている。文科省が「採点ミスがあれば業者の責任」といって責任を回避していることにも現場の教員は怒っている。


 D そしてこの英語民間試験のために、高校の現場が振り回されることになる。今回、数カ月前になっても試験会場も日程も発表されないことが大混乱を引き起こしたが、実施されると民間事業者の出す参考書中心の授業に変質しかねないし、運動会や文化祭といった学校行事や、各運動部の大会日程なども見直しが必要になる。

楽天社長ら介入し一転 民間に丸投げ決定

 B 今回の大学入試改革にかかわった大学教員は、英語民間試験の決定過程に重大な問題があると指摘している。入試改革が本格化するのは安倍内閣になってからだが、当初、文科省が招集した高大接続システム会議(大学の学長らで構成)では、民間に丸投げせず、現在のセンター試験と同じ方式でやるという最終答申を206年3月に出していた。ところがそのわずか5カ月後、文科省は一転して民間検定試験の活用をいい出した。


 実はそれには伏線がある。安倍内閣発足直後から経済同友会で楽天社長・三木谷浩史が「TOEFLなどの民間試験の活用」を主張し、2014年には文科省の有識者会議が「センター試験の英語試験を廃止し、英語の資格・検定試験に替える」との報告をおこなった。このときの文科大臣が受験産業との関係が取り沙汰される下村博文だ。この民間試験ありきが押し切ったわけだが、三木谷はこの有識者会議のメンバーにも入り、2017年7月に民間試験の導入が決まってまもなく、楽天は英語教育事業を立ち上げている。また、有識者会議の傘下の協議会にはベネッセと英検の担当者が入っていた。


 C 異なる英語民間試験の成績を比べる「対照表」を作成した、文科省の作業部会の審議自体が非常に不透明だ。これも大学の教員が暴露しているが、この作業部会は、実施団体として審査される側の民間試験事業者の代表者5人と、民間試験の開発に携わった研究者3人で構成されていた。つまり成績の評価にとって決定的な「対照表」が、実証データにもとづく根拠も、英語教育関係者の経験にもとづく根拠もなにもないまま、当事者を含めた官民一体でつくられ、異なる試験の評価をつなぎあわせてつじつまをあわせただけのものだった。


 E 現場の教師は生徒のために英語の力、また総合的な学力をつけさせようと奮闘している。一方民間の英語産業は、ビジネスチャンスを拡大して利益を上げるために参入しようとし、文科省がそれに奉仕している。双方は相いれないものだ。


 そもそも入試の運営と受験対策とを同一の民間企業がやること自体、弊害が大きい。民間企業が利益を増やすためにテストの仕様を変更し、そのための問題集やセミナーを新たに売り出したり、蓄積した受験生のデータを使って新たなビジネスを展開することも可能になるからだ。水道など公共インフラの民営化が問題になっているが、今回の英語試験の市場化が、共通テスト全体、ひいては英語教育本体の市場化につながることを専門家は心配している。


 A ビジネスのために受験生が食いものにされ、貧乏な家庭の子弟は大学で勉強する機会そのものを奪われかねない。これは日本の未来にとって大きな損失だ。ただでさえ少子化の世の中で、金持ちの子弟しか大学に行けなくなったらどうなるか。過去を振り返ってみても、苦学生が爪の先に火を灯すようにして勉強し大成した例は多い。


 B 今回の英語民間試験にとどまらず、貧富にかかわりなく平等に教育を受けることができるという教育の機会均等が、日本社会では大きく損なわれている。義務教育である小・中学校でも父母負担が大きいことが問題になっているが、高等教育ではとくにひどい。


 大学進学率が50%をこえた日本で、子どもを大学に通わせることは親にとって大きな経済的負担だ。学費が諸外国に比べてもあまりにも高いからだ。国公立大学の授業料は、1969年には年間1万2000円で、入学金などを含めた初年度納入金はあわせて1万6000円だった。それが50年後の現在、授業料は53万5800円となり、初年度納入金は学部によっては90万円近くになる。この間の物価上昇率は3倍なのに、学費は45倍という異常さだ。


 それは、政府が高等教育に予算を回さないからだ。ヨーロッパでは次代の担い手を育てるために大学教育無償の国は多い。高等教育の公的負担割合を見ると、OECD平均で公的負担70%、家計負担21%だが、日本の場合は公的負担35%、家計負担51%と、世界的に見てもダントツで高等教育の家計負担が大きい。


 C これは日本学生支援機構が調べた学生生活調査(2016年)で、国立か私立か、自宅か下宿かを区別しない平均額だが、大学生の年間支出(学費+生活費)は188万4200円。大学院に進んで、修士課程だと176万300円、博士課程になると225万700円となっている。つまり大学4年間で800万円近くが必要となるし、大学院を修了して研究者になろうと思えば9年間で2000万円近い金が必要になる。それが一家庭にのしかかるのだから大変だ。あまりに金がかかりすぎるので、この十数年間で大学の理工系院生の数が半減したという調査もある。科学技術立国を支える博士の卵がいなくなっているわけだ。


 A 一方、勤労世帯の平均年収は、1990年代以降減り続けている。親の仕送りを期待できないし、バイトに明け暮れていては勉強がままならない。だから学生たちは奨学金に頼らざるを得ない。


 日本の奨学金事業は日本学生支援機構(JASSO)が金額の9割を占めるが、その利用者が急増している。2002年度が67万人だったのに対し、206年度は131万人と、全学生の4割が奨学金を借りている。しかも、JASSOの奨学金には返す必要のない給付型はなく、すべて返済が必要な貸与型で、その貸与型にも無利子(第一種)と有利子(第二種)があるが、第二種の有利子が2000年以降、急速に伸びている【図2参照】。有利子の方がより高い金額を借りられるからのようだ。

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200


 一人当りの合計借入金の平均は、無利子の場合237万円で、有利子の場合は343万円。つまり社会人になる門出で、一人が数百万円の借金を抱えているわけだ。それを十数年から20年かけて、毎月約2万円ずつ支払わなければならない。JASSOの総貸出残高は9兆円だという。


 B 日本の奨学金制度が諸外国と比べていかに貧困かを見ないといけない。世界的には低学費、あるいは学費無償と、返さなくてよい給付型奨学金の二つが高等教育政策の柱となってきた。その国の科学技術や文化水準を維持し、高めるために、大学で必要な資金は公的に供給するという考えからだ。


 ところが日本の場合、給付型奨学金の比率はOECD諸国のなかで最低で、ほとんどが貸与型だ【図3参照】。つまり奨学金とは名ばかりで、サラ金と変わらない教育ローンなのだ。夫婦あわせて返済総額1200万円、毎月の返済額6万円を抱え、出産・子育てをあきらめたという話がある本に出ていた。


 E しかも今、日本の労働環境は劣悪だ。就職したものの、非正規の不安定な低賃金労働であったり、苛酷なノルマと長時間労働のブラック企業で転職せざるを得なくなったり、またはそのなかで本人が病気になって仕事ができなくなったりすると、たちまち奨学金の返済は行き詰まる。


 返済が滞ると、電話での督促に始まって、3カ月後には個人情報がブラックリストに載ってローンが組めなくなり、4カ月後には債権回収専門会社に回収業務が委託され、9カ月後には裁判所に申し立てをし、給料差し押さえなどの強制執行に進む。JASSOがとった法的措置は年間1万件に迫り、強引なとり立てで自己破産になった人が年間600人にのぼるという報告もある。


 D そこにはJASSOの奨学金が、投資家に安定した利益をもたらす有利な投資先になっているという事情がある。有利子の第二種奨学金の財源は、返還金に加えて、民間の銀行や投資家からの投資で成り立っている。だからJASSOは、96%という高い回収率を売りにして投資を促すが、それが無理なとり立てによる悲劇を生んでいる。若者たちが金融資本の餌食にされている。


 A 将来、社会に出て有用な仕事をするために、大学に進学して学びたいという意欲を持った若者がいるのに、そこに国が必要な金を回さず、次世代の育成を放棄し、それどころかビジネスの食いものにしてはばからないという本末転倒した事態が進行している。それがいかに彼らの無限の可能性をつぶし、国の未来をつぶす馬鹿げたことであるかだ。


 JASSOの総貸与残高が9兆円、国立大学86校と私立大学約600校の授業料はあわせて年間約3兆円だという。アメリカのためにF35など高額な兵器を買うのをやめ、オリンピックやリニア新幹線などの無駄な事業に国家予算を湯水のように注ぎ込むのをやめるなら、奨学金の返済をチャラにし学費を無償にすることは可能だ。意欲のある若者を育てる環境を整備する方が日本の未来にとってはるかにいいことははっきりしている。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c211

[近代史3] エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年) 中川隆
1. 中川隆[-14961] koaQ7Jey 2019年11月13日 21:48:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2054]

戦艦ポチョムキン

監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ

今年2005年からちょうど100年前の1905年といえば、第1次ロシア革命が勃発した年です。

その1905年6月に、ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵号」で水兵達がストライキを起こしました。

この事件を題材として、モンタージュ技法の創始者で有名な映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインが1925年に発表したのがこの作品です。


発表された当時はサイレントムービーでした。つまり、音声によるセリフがなく、音楽もついていなかったのです。

のちに何人かの作曲家がこの映画に音楽をつけていますが、当時のソ連当局による共産主義のプロパガンダ(政治宣伝)に最も合致したものが、ドミトリー・ショスタコーヴィチが作曲した交響曲の断片をつぎはぎして作られた当版(1976年サウンド完全復元版)です。かつてドイツによる検閲でカットされた部分も復元されているそうです。

映画音楽について書いた某評論家の本の中に、『主として(ショスタコの)交響曲第5番が使用されているほか、第4、7、10、11番からも用いられています』とありました。

静かな図書館の中でこの記述を読んだ私は、「エッ、エ〜!?」と口に出してしまうところでした。

というのも、作品中でショス7なんぞ、どこにも使われていないんです!これは違います!誤植としか考えられません!

7番ではなくて、8番ですよ!‥‥‥いいですか?あとの曲は確かに合っていますよ。私もDVDを再度見直して確認しましたから。

ただし、映像の方につい夢中になって音楽を忘れていなければの話ですが。

まあ、それはともかく、この『戦艦ポチョムキン』、映像と音楽が見事にはまっているんですよ!

中でも特筆すべきは「オデッサの階段」で、逃げ惑う民衆に向かって軍隊が一斉射撃するシーンです。

もちろん、モンタージュの技法が駆使された映像もそれだけで十分すばらしいものなのですが、そこで使われている第11番の第2楽章の危機迫る迫力、まさに映像とピッタリなんです。

犠牲になった子供を抱きかかえた母親が「お願いです、撃つのをやめてください‥‥」と嘆き叫んだときに、それまでの音楽がやむ、この静寂に包まれるこのタイミングが恐ろしいほど一致しているんです。

だって、何を隠そう、この交響曲第11番は、副題に“1905年”とつけられているんですよ!

そしてさらに、演奏の質も最高なんですよ。私が見たDVDには、演奏者についてクレジットされていないようなので断定しかねますけど、ムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルの演奏でほぼ間違いないと思います(第5番4楽章の284小節目の特徴的な音型を聞けば、ムラヴィンスキーの演奏だと判断することができます)。

ただ、ムラヴィンスキーはショスタコの交響曲に関しては第5番より前の交響曲を録音していないので、第4番はコンドラシン指揮(1962年、モスクワフィル)の演奏を使っています。

おまけとして、ショスタコの交響曲第何番の第何楽章が『戦艦ポチョムキン』の、どのあたりで用いられているのかを、以下、順に並べておきます。


第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部

第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章

第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章

第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から

第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで

と、だいたいこんな感じでした。

http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/264.html#c1

[近代史3] エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年) 中川隆
2. 中川隆[-14960] koaQ7Jey 2019年11月13日 21:55:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2053]


戦艦ポチョムキン - オデッサの階段(字幕) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ord-n_yPfR0





音楽

Shostakovich: Symphony No. 5 in D Minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic & Yevgeny Mravinsky

Symphony No. 4 in C Minor, Op. 43: Symphony No. 4 in C Minor
Gunther Herbig, Saarbrucken Radio Symphony Orchestra

Symphony No. 11 in G Minor, Op. 103, "The Year 1905"
Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky





戦艦ポチョムキン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9573925
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574091
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574208


ショスタコーヴィチがどんな時代に生きて、その音楽がどのように利用されたか。そんな背景を知っておくと、彼の音楽をもっと興味深く聴けるようになる…かもしれません。 /ソビエト連邦 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(神父役で出演)。1925年公開。オリジナルのネガは失われたが、1976年に各地のポジフィルムより映像を再構成し、ショスタコーヴィチの音楽を付けて復元された。(

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/264.html#c2
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは
誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは



戦艦ポチョムキン - オデッサの階段(字幕) - YouTube



音楽
Shostakovich: Symphony No. 5 in D Minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic & Yevgeny Mravinsky


Symphony No. 4 in C Minor, Op. 43: Symphony No. 4 in C Minor
Gunther Herbig, Saarbrucken Radio Symphony Orchestra


Symphony No. 11 in G Minor, Op. 103, "The Year 1905"
Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky




第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部


第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章


第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章


第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から


第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで


http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
1. 中川隆[-14959] koaQ7Jey 2019年11月13日 22:09:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2051]

戦艦ポチョムキン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9573925
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574091
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574208


ショスタコーヴィチがどんな時代に生きて、その音楽がどのように利用されたか。そんな背景を知っておくと、彼の音楽をもっと興味深く聴けるようになる…かもしれません。 

ソビエト連邦 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(神父役で出演)。1925年公開。オリジナルのネガは失われたが、1976年に各地のポジフィルムより映像を再構成し、ショスタコーヴィチの音楽を付けて復元された。
___


戦艦ポチョムキン
監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ

今年2005年からちょうど100年前の1905年といえば、第1次ロシア革命が勃発した年です。

その1905年6月に、ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵号」で水兵達がストライキを起こしました。

この事件を題材として、モンタージュ技法の創始者で有名な映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインが1925年に発表したのがこの作品です。


発表された当時はサイレントムービーでした。つまり、音声によるセリフがなく、音楽もついていなかったのです。

のちに何人かの作曲家がこの映画に音楽をつけていますが、当時のソ連当局による共産主義のプロパガンダ(政治宣伝)に最も合致したものが、ドミトリー・ショスタコーヴィチが作曲した交響曲の断片をつぎはぎして作られた当版(1976年サウンド完全復元版)です。かつてドイツによる検閲でカットされた部分も復元されているそうです。

映画音楽について書いた某評論家の本の中に、『主として(ショスタコの)交響曲第5番が使用されているほか、第4、7、10、11番からも用いられています』とありました。

静かな図書館の中でこの記述を読んだ私は、「エッ、エ〜!?」と口に出してしまうところでした。

というのも、作品中でショス7なんぞ、どこにも使われていないんです!これは違います!誤植としか考えられません!

7番ではなくて、8番ですよ!‥‥‥いいですか?あとの曲は確かに合っていますよ。私もDVDを再度見直して確認しましたから。

ただし、映像の方につい夢中になって音楽を忘れていなければの話ですが。

まあ、それはともかく、この『戦艦ポチョムキン』、映像と音楽が見事にはまっているんですよ!

中でも特筆すべきは「オデッサの階段」で、逃げ惑う民衆に向かって軍隊が一斉射撃するシーンです。

もちろん、モンタージュの技法が駆使された映像もそれだけで十分すばらしいものなのですが、そこで使われている第11番の第2楽章の危機迫る迫力、まさに映像とピッタリなんです。

犠牲になった子供を抱きかかえた母親が「お願いです、撃つのをやめてください‥‥」と嘆き叫んだときに、それまでの音楽がやむ、この静寂に包まれるこのタイミングが恐ろしいほど一致しているんです。

だって、何を隠そう、この交響曲第11番は、副題に“1905年”とつけられているんですよ!

そしてさらに、演奏の質も最高なんですよ。私が見たDVDには、演奏者についてクレジットされていないようなので断定しかねますけど、ムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルの演奏でほぼ間違いないと思います(第5番4楽章の284小節目の特徴的な音型を聞けば、ムラヴィンスキーの演奏だと判断することができます)。

ただ、ムラヴィンスキーはショスタコの交響曲に関しては第5番より前の交響曲を録音していないので、第4番はコンドラシン指揮(1962年、モスクワフィル)の演奏を使っています。


おまけとして、ショスタコの交響曲第何番の第何楽章が『戦艦ポチョムキン』の、どのあたりで用いられているのかを、以下、順に並べておきます。


第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部

第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章

第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章

第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から

第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで

と、だいたいこんな感じでした。
http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c1

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
172. 中川隆[-14958] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:24:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2050]
気象庁 現在の雪(解析積雪深・解析降雪量)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/snow/jp/#zoom:4/lat:39.164821/lon:142.866780/colordepth:normal/elements:snowd


気象庁は13日午後4時から「雪」に関する新しい形の情報提供を始めました。
積雪量が地図上に1時間ごとに表示され、おおまかな分布が把握できるようになりました。

気象庁によりますと、これまで積雪の深さについてアメダスの積雪計による観測値を数字で提供していましたが、今後は地図上の約5キロ四方の格子内の平均値が1時間ごとに表示されるようになるため、積雪のおおまかな分布を把握できるようになります。

降雪量についても現在までの3時間降雪量、12時間降雪量など選んだ時間ごとに確認できるようになりました。

降雪量予測もこれまでは最大で2日先までしか予測できませんでしたが、3日先まで予測できるようになりました。

さらに山形、福島、新潟、富山、石川、福井の6県で顕著な降雪が確認されて今後も継続すると見込まれる場合に「短時間の大雪に対して一層の警戒を呼び掛ける情報」を発表するということです。これらの情報は気象庁のホームページで公開されています。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c172

[リバイバル3] 急増する山岳遭難 中川隆
10. 中川隆[-14957] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:25:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2049]
気象庁 現在の雪(解析積雪深・解析降雪量)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/snow/jp/#zoom:4/lat:39.164821/lon:142.866780/colordepth:normal/elements:snowd


気象庁は13日午後4時から「雪」に関する新しい形の情報提供を始めました。
積雪量が地図上に1時間ごとに表示され、おおまかな分布が把握できるようになりました。

気象庁によりますと、これまで積雪の深さについてアメダスの積雪計による観測値を数字で提供していましたが、今後は地図上の約5キロ四方の格子内の平均値が1時間ごとに表示されるようになるため、積雪のおおまかな分布を把握できるようになります。

降雪量についても現在までの3時間降雪量、12時間降雪量など選んだ時間ごとに確認できるようになりました。

降雪量予測もこれまでは最大で2日先までしか予測できませんでしたが、3日先まで予測できるようになりました。

さらに山形、福島、新潟、富山、石川、福井の6県で顕著な降雪が確認されて今後も継続すると見込まれる場合に「短時間の大雪に対して一層の警戒を呼び掛ける情報」を発表するということです。これらの情報は気象庁のホームページで公開されています。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/792.html#c10

[リバイバル3] スキーに行こう _ 年取っても できるスポーツはスキーだけ 中川隆
77. 中川隆[-14956] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2048]
気象庁 現在の雪(解析積雪深・解析降雪量)
https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/snow/jp/#zoom:4/lat:39.164821/lon:142.866780/colordepth:normal/elements:snowd


気象庁は13日午後4時から「雪」に関する新しい形の情報提供を始めました。
積雪量が地図上に1時間ごとに表示され、おおまかな分布が把握できるようになりました。

気象庁によりますと、これまで積雪の深さについてアメダスの積雪計による観測値を数字で提供していましたが、今後は地図上の約5キロ四方の格子内の平均値が1時間ごとに表示されるようになるため、積雪のおおまかな分布を把握できるようになります。

降雪量についても現在までの3時間降雪量、12時間降雪量など選んだ時間ごとに確認できるようになりました。

降雪量予測もこれまでは最大で2日先までしか予測できませんでしたが、3日先まで予測できるようになりました。

さらに山形、福島、新潟、富山、石川、福井の6県で顕著な降雪が確認されて今後も継続すると見込まれる場合に「短時間の大雪に対して一層の警戒を呼び掛ける情報」を発表するということです。これらの情報は気象庁のホームページで公開されています。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/773.html#c77

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
2. 中川隆[-14955] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:42:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2047]

レーニン(1870年4月22日 – 1924年1月21日) の時代のロシア


ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、革命直後から内戦の時期にかけてレーニンが政敵に対して使っていたテロルの実態が明らかになると、レーニンは単なるスターリンの先駆けにすぎないのではなくスターリンと同等の独裁者として評価されることが多くなった。

レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c2

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
3. 中川隆[-14954] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:57:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2046]

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作


1、武力行使によるレーニンの二段階クーデター説

 1、レーニンの二段階クーデター

 内戦の基本原因は、ソ連共産党公式の従来説=外国軍事干渉と白衛軍ではなく、1918年1月18日憲法制定議会武力解散と、5月13日食糧独裁令の2つである。ロイ・メドヴェージェフとニコラ・ヴェルトは、ソ連崩壊後の秘密資料やアルヒーフ(公文書)を発掘・研究して、それを論証した。ソ連崩壊後のデータによって、公認ロシア革命史観も大逆転し、崩壊した。それとともに、レーニンの大量殺人データも次々と発掘され、レーニン評価も、180度転換しつつある。その一つがクーデター説である。

 第1段階クーデター説。1917年11月7日は、プロレタリア社会主義大革命などではなく、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった。11月7日の直前までに、労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力が、ペトログラード・クロンシュタット・モスクワなど大都市における実質的な力関係として、国家権力を掌握しつつあった。

 クーデターについて、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。十月にケレンスキー臨時政府を倒したのは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエル等のソヴィエト内社会主義4政党とアナキストが中心勢力で、その性格は革命である。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。このレーニンの行為は、革命ではなく、事実上の権力を掌握しつつあった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。ただ、クーデター1カ月後の1917年12月から3カ月間だけ、左翼エスエルとの連立政権が続いた。

 第2段階クーデター説。1918年6月14日全ロシア中央執行委員会からのエスエル、メンシェヴィキ追放と、各級の全ソヴィエトからも追放する決定は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪と党独裁権力樹立クーデターだった。6月14日だけでなく、このクーデターは、4月29日全ロシア中央執行委員会における、穀物徴発による農民への内戦宣言、5月13日食糧独裁令と労働者食糧徴発隊組織と一体のものになっている。レーニンによる内戦仕掛け宣言とソヴィエト権力簒奪という第2段階クーデターこそ、その暴挙にたいして、1920夏から21年の全階層総反乱を引き起こした決定的な原因となった。レーニンによるソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪のクーデター過程については、下記ファイルで、7期に分けて検討した。

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』ソヴィエト権力簒奪の第2段階クーデター

 ここでいう二段階クーデターとは、11月7日実質的に、あるいは、6月14日完全に国家権力を掌握し、支配階級となったソヴィエト・社会主義諸勢力・政党内部において、レーニンが武力で、多くの社会主義党派ならなるソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁政権に強行移動させたことを指す。現在のロシア歴史学会では、クーデター説が基本になっている。資本主義ヨーロッパでも、その見解が主流になってきつつある。日本においてだけは、この説がまだ市民権を得ていない。

 日本では、加藤哲郎一橋大学教授が「クー」としている。coup(クー)は coup D'etat(クーデター)と同じ意味である。中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしているが、そこではクーデターという用語は使っていない。その問題に関して、中野教授から次の内容の手紙を頂いた。「宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。」

 2、「平和=戦争終結」要求への犯罪的な裏切り

 レーニンは、権力奪取前、平和=戦争離脱・終結を力説した。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦の東部戦線において、ロシアだけが単独離脱した。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらした。

 ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13日に、布告「食糧人民委員部の非常大権について」、いわゆる「食糧独裁令」を発令した。レーニン・政治局の目的は、2つあった。第1は、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の武装徴発隊を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓状態を克服することだった。第2は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化するという、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開クーデター政策だった。

 レーニン・政治局にとって、プロレタリア独裁国家の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていた。彼らには2つの選択肢があった。1)、崩壊した経済の中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、2)、強制を用いるのかである。彼らはツアーリ体制打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選んだ。この驚くべき無知、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、ソ連崩壊後のロシア革命史研究のほとんどの文献が一致している。その証拠をいくつか挙げる。

 (1)、スヴェルドロフの発言。「一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた共同意思だった。

 (2)、レーニンの発言。「一九一八年四月二十九日、全ロシア中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」(『共産主義黒書』P.74)。レーニンのいう「小地主」とは、土地革命をした80%・9000万土地持ち中農のことである。それは、権力奪取6カ月後に、レーニンが土地持ち中農9000万人に仕掛けた宣戦布告だった。

 (3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。「わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)

 (4)、トロツキーの発言。「我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)。

 (5)、カール・ラデックが1921年に書いた文。「彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』P.74)

 (6)、食糧人民委員ツュルーパの5月9日の会議言明。「即座に武器を手にしてだけ穀物を受け取ることができる…。われわれは農村ブルジョアジーにたいする戦争を考えている」(梶川伸一『飢餓の革命』P.279)。ツュルーパの5月12日の官報談話。「われわれは農村に武装部隊を派遣するだろうし、それらは武器で富農に穀物を販売させるだろうし、これは、犠牲者と死にもの狂いの抵抗が出る戦争である」(梶川伸一『飢餓の革命』P.277)。

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年食糧独裁令

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』農民反乱の分析

 レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパら政治局全員が、「村に内戦の火をつける」ための食糧独裁令を仕掛けたのは、どういう性質を持つのか。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員35万人という「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦だった。市場経済廃絶軍は、党員だけでなく、チェーカー28万人、赤軍550万(1920年)という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、赤色テロルを行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開した。市場経済回復・実現軍は、土地革命を自力で成し遂げた80%・9000万農民とともに、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストという全他党派が参加した。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びた。それは、他党派にとって、レーニンの第4回目クーデターとなった。

 これは、5連続クーデター説に基づく歴史解釈である。第2回クーデターは、カデット機関紙、ブルジョア新聞の閉鎖命令、第3回は、ボリシェヴィキが敗北した憲法制定議会の武力解散をしたクーデターである。第5回クーデターは、下記にのべる6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定である。レーニンによるソヴィエト権力簒奪・党独裁の5連続クーデターにたいして、労働者・農民・兵士と全他党派が猛反対し、総決起した。

 3、内戦発生時期と原因説の大逆転

 しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する重大な問題がある。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の資料に基づいて、内戦の基本原因の一つを、ボリシェヴィキの食糧独裁令にあったとの新説を発表した。いわゆる内戦の勃発期日は、5月25日のチェコ軍団の反乱開始日である。それを導火線として、コルチャークなど白衛軍との内戦、外国干渉軍との戦争が広がった。

 ところが、上記6人の農民との内戦開始演説・発言時期は、4月29日から数日間の第4回全ロシア中央執行委員会、および、5月13日「食糧独裁令」発令前である。それは、チェコ軍団・白衛軍との内戦勃発の26日も前だった。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』において、4月29日議事録を発掘し、メドヴェージェフの新説を追認・証明した。梶川伸一は、膨大なアルヒーフ(公文書)によって論証した。内戦を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実となった。それこそ、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策となった。レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパこそが、5月13日、食糧独裁令発令によって、80%・9000万農民にたいする穀物・家畜収奪の内戦を開始したのである。食糧独裁令内容とその後の詳細は、農民ファイルで書いた。

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 こうして、レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」「土地・平和・パン」という4つの公約を実行せず、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択したことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待を裏切った。ボリシェヴィキ支持率が急落したのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅と怒りに転化したからである。

 食糧独裁令とソヴィエト権力簒奪・党独裁権力樹立クーデターは、ボリシェヴィキ支持率を一気に下落させた。しかし、白衛軍がいた。白衛軍とは、外国軍事援助に全面依存した旧帝政復活目標の反革命勢力である。彼らは、農民の土地革命も全面否定していた。土地を手に入れた農民や、社会主義を望んだ労働者・兵士たちは、文字通りの反革命軍に敵対し、たたかった。1918年5月25日チェコ軍団反乱から1920年夏までの白衛軍との戦闘中は、複雑な二重の内戦となった。(1)レーニンが4月29日全ロシア中央執行委員会で宣言し、白衛軍との内戦よりも26日間も前に仕掛けた80%・9000万農民にたいする食糧独裁令強行の内戦と、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦である。

 4、クーデター政権の根本的に誤った路線への全階層総決起・反乱

 白衛軍が鎮圧され、それとの内戦が基本的に終結した1920年夏以後、労働者・農民・兵士と全他党派は、共産党独裁・ソヴィエト権力簒奪クーデター政権にたいして、経済的要求とともに、自由で平等な新選挙を求める要請行動に総決起した。

 食糧独裁令とは、マルクスの根本的に誤った机上の空論である市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論をロシアに具体化した路線だった。1917年5月以降の土地革命の嵐によって、農村共同体内部で土地分配を平等にした農村は、地主・富農(クラーク)・貧農はなくなり、ソ連全農村の構成がほとんど中農に変化していた。1918年6月11日貧農委員会の組織法令は、80%・9000万農民の心理と、土地革命後の農村実態にまったく無知なレーニンらの認識からの空論で、その方針は、半年ももたず、瓦解した。今度は、さらなる無知から、農民が生産した穀物・家畜を「軍事・割当徴発」した。それは、チェーカー、赤軍、共産党員労働者を使った、暴力による穀物・家畜収奪路線だった。それは、全土で土地革命農民の死に物狂いの抵抗・反乱を引き起こしただけでなく、ロシアの農業生産をも破壊した。

 その誤った農民の生産物収奪作戦にたいして、80%・9000万農民全員が抵抗し、そのため、都市部における飢餓がますます深刻化した。全土で、労働者が飢餓解決の経済要求で立ち上がった。その要求は、直ちに、自由で平等なソヴィエト新選挙要求やレーニンによって破壊されたソヴィエト民主主義復活などの政治的要求にエスカレートし、経済要求と結合した。

 この歴史的経過は、梶川伸一『飢餓の革命』『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』の2著書・1210頁が、ソ連崩壊後の膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘して、証明した。その結論として、彼は、「労農同盟が成立している」というのは、レーニンのウソであるとし、公認ロシア革命史の根本的見直しを提起している。ただ、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターから食糧独裁令発令までの6カ月間、80%・9000万農民は、土地革命を事後承認したレーニンの政策を支持していた。その間は、労働者と農民との政治的軍事的同盟としての労農同盟レベルではないが、農民によるボリシェヴィキ政権支持の平和的関係があった。それを意図的に公然と破壊し、農民にたいする食糧独裁令の内戦を仕掛けたのは、レーニンの側だった。

 レーニンは、それらの経済・政治要求と平和的要請行動にたいして、平和的交渉や妥協を全面拒絶した。党独裁政権とその路線に抵抗、批判、反乱する階層にたいし、彼らを白衛軍と同列において、一律に、反革命・人民の敵・富農(クラーク)レッテルを貼りつけた。白衛軍は、まさに反革命勢力である。しかし、労働者・農民・兵士たちや社会主義他党派は、ソヴィエト内の革命勢力であり、ソヴィエトにおける飢餓解決と民主主義復活を要求している国民で、反革命などではない。レーニンは、反革命レッテルを恣意的に拡大し、大量殺人をするという犯罪的誤りを強行した。

 5、レーニンの最高権力者期間の算定問題

 ただ、このファイル・テーマとの関係で、レーニンの最高権力者期間の算定問題がある。彼の脳卒中発作は3回ある。

 第1回発作は、1922年5月26日である。回復すると、彼は、下記の「反ソヴィエト」知識人数万人の追放・強制収容所送りを「作戦」と名付け、直接指揮した。

 第2回発作は、1922年12月16日である。その発作によって、最高権力者としての活動という面では、再起不能となった。そして、党大会への手紙といくつかの短文を口述筆記で残した。その内容レベルの評価はいろいろある。しかし、それらは、はっきりいって、党大会や共産党運営にたいして、何の効果も挙げ得なかった。よって、私(宮地)は、彼の最高権力者期間を、第2回発作までの5年2カ月間と算定する。

 1917年11月7日は、レーニンの第1段階クーデターだった。労働者・農民・兵士ソヴィエトは、レーニンが4つの公約を全面的に実行するものと信じ、6カ月間、クーデター政権を支持し、平和的関係を続けた。しかし、(1)1918年4月29日全ロシア中央執行委員会による農民への内戦開始宣言、(2)5月13日「食糧独裁令」発令と労働者穀物徴発隊・貧農委員会による内戦の具体的戦術開始、(3)6月14日全ロシア中央執行委員会、および、すべての各級ソヴィエトからの社会主義他党派エスエル、メンシェヴィキ追放決定という一連の暴挙は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターだった。それ以降、労働者・農民・兵士とクーデター政権は、決定的な対立関係に突入した。レーニンが自国民大量殺人をした最高権力者期間は、1918年5月13日から、1922年12月16日第2回発作までの4年7カ月間となる。

 その間、彼は、下記9つの(表)にあるように、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪をし、党独裁クーデター権力に執着し、一貫して、ロシア革命勢力内部におけるボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいして、「反革命」という詭弁レッテルを貼りつけ、大量殺人を続けた。クーデターによる権力奪取の6カ月後、ボリシェヴィキは、県庁所在地ソヴィエト19/30で惨敗した。政権崩壊危機に直面したレーニンは、一挙に変質し、絶対的権力者としての絶対的腐敗が始まった。彼は、権力のための権力者に転落した。最高権力者として生き残るには、あらゆる詭弁とウソを使い、共産党秘密政治警察チェーカー28万人によって、大量逮捕・大量殺人を続けるしかなかった。

 1918年4、5月から22年にかけて、レーニンという人物がしたことと、その人間性をどう考えたらいいのか。ボリシェヴィキ党員作家ザミャーチンは、ゴーリキーとともに、ソ連文壇の中心で活動していた。その中で、彼は、モスクワ・ペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット総決起とレーニンによる皆殺し対応、共産党秘密政治警察チェーカーの手口を全体験した。同時期・同現場で、その直接体験をSF小説化した作家は、ザミャーチンしかいない。ソ連崩壊後、彼のレーニン認識を再確認するとどうなるのか。

 レーニンは、自ら、「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンを創って、キャンペーンを展開した。上記全体の誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した、最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。

説明: 説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image004.jpg

『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その

禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、

自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆

者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(299頁)

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

 彼は、一度も、自分の労働で収入を得たことがなかった。スイス長期亡命者だった。行政経験は皆無だった。ドイツ政府・軍部の政治的軍事的思惑と合致したお陰で、ドイツ軍封印列車に乗って、1917年4月フィンランド駅に到着した。亡命からの帰国後、わずか7カ月間で、ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを強硬に主張し、ロシアの絶対的一党独裁権力を手に入れた。ボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいする詭弁、ウソ、殺人指令文書執筆、殺人督促電報などの行政業務は、その経歴のレーニンの精神を蝕んだ。ヴォルコゴーノフは、『レーニンの秘密』で、彼の精神的そううつ病症状を詳述している。山内昌之は、その解説において、革命家と政治家との矛盾に病んだレーニンの人間性をさらに分析している。

    山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−

 第3回発作は、1923年3月10日だった。以後、口述筆記も不可能になった。死去は1924年1月21日、54歳だった。


2、レーニンの大量殺人総合データ (表1〜9)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm


 3、大量殺人数推計の根拠と殺人指令文書27通

 これは、(表9)の推計に関する根拠である。殺人数については、白衛軍との内戦犠牲者700万人と、レーニンによる大量殺人最低数の数十万人とを区別することが難しい。これらの数字は、諸データや文献を検討し、白衛軍との内戦犠牲者を除いた数字である。殺人根拠の決定的データとして、各階層にたいするレーニンらの大量殺人・追放指令文書27通を載せる。それによって、ファイル全体が長くなる。しかし、その文書を読まなければ、なかなかレーニンの数十万人殺人犯罪事実を理解し、納得することができない。ただ、ソ連崩壊後に発掘され公表された文書だけである。証拠隠滅・焼却文書や現在も隠蔽中の文書は、かなりあると推定される。殺人・追放指令文書は、通し番号を付ける。もちろん、レーニンは、最高権力者・人民委員会議議長として、これらの文書すべてに直接関与している。

 当初の文書は19通だった。その後、8通を加えた。追加した〔殺人指令文書〕No.は、農民7、コサック10、労働者11・12、チェコ軍団14、知識人18・19、他党派24である。


(表10) 殺人指令文書27通

 〔殺人指令文書〕27通は、それぞれ〔小目次〕の文中に載せた。一方で、その通し番号を(表)にしておく。これらの指令を発したレーニンという大量殺人革命家の人間性をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。


知識人の数万人は、追放と強制収容所送りである。他党派の百数十万人は、労働者・農民と重複する人数を含む。ここには、1921・22年の餓死500万人、内ウクライナの餓死100万人を入れていない。それが、レーニンによる政策的餓死殺人をどれだけ含むのかについては、関係資料がまだ未発掘である。ランメルは政策的餓死殺人を250万人としている。レーニン、トロツキー、スヴェルドロフ、トハチェフスキーらが、コサックやタンボフ反乱農民にたいして、すべての穀物・家畜を没収して、大規模な餓死殺人政策を行ったことは、ソ連崩壊後のデータによって、証明されている。

 単純総計をすれば、レーニンの大量殺人数は、百数十万人になる。ただ、発掘されたデータから見て、最低数十万人を殺害したことは間違いない。しかも、殺人指令レッテルのすべては、レーニンが意図的にでっち上げた詭弁とウソだったことが、ソ連崩壊後に判明した。レーニンという人間が、マルクス主義革命家であったことは事実である。しかし、27通の〔殺人指令文書〕を克明に検証すれば、レーニンという人物は、「反民主主義者、反人道主義者」という大量殺人型革命家だったことが、浮き彫りになる。この規定は、「反ソヴィエト」知識人として追放された哲学者ベルジャーエフがしたものである。

 1、反乱農民の数十万人殺害

 タンボフ、西シベリア、マフノの3大反乱だけでも、反乱農民の部隊は14万人いる。とくに内戦が基本的に終了した1920年夏から1921年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家畜の収奪による餓死の恐怖とも合わさって、反乱が激化し、36県が戦争状態になった。118件または数百件を合計すれば、反乱参加者は、百数十万人から数百万人になる。レーニンは、その内、数十万人を裁判なし射殺、革命裁判所による48時間以内の死刑、毒ガス使用による殺戮、人質、強制収容所送りなどの手法によって、農民を殺した。

 反乱農民数十万人殺害の別の根拠を挙げる。メドヴェージェフが公表したデータによるボリシェヴィキ側の死者からの逆算である。農民反乱の武力鎮圧過程において、食糧人民委員部10万人以上が死亡し、赤軍兵士171185人が死亡した。合わせて27万人以上が死んだ。正規の武装をした共産党独裁権力側がそれだけ死んだのである。反乱農民側の殺害・人質・強制収容所送りの人数がそれより少ないことはありえない。この逆算式から見ても、レーニンが、9000万農民のうちで、政権側の死者27万人をはるかに超える数十万人を殺害したことは明白である。これらの細目データは『農民』ファイルで書いた。

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 〔殺人指令文書1〕、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令

 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)のデータである。彼の直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」である。それは、レーニンの手書きの手紙だった。同一指令内容が、梶川『飢餓の革命』(P.547)にもある。ただ、岩上著の日付は「8月18日」になっているが、梶川著の日付にした。梶川氏から「この日付は、モスクワで1999年に発行された『レーニン・知られざる文書』でも確認できます」というメールをいただいた。

 「ロシア連邦ソヴィエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン

 一九一八年八月十一日

 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ

 同志諸君!

 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。

 二、彼らの名前をすべて発表すること。

 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。

          あなたのレーニンより

 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。」(P.307)

 〔殺人指令文書2〕、1918年8月20日、「富農の人質」指令

 2つのデータを載せる。まず、梶川『飢餓の革命』の資料である。

 「戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対して頻繁に人質(заложник)が利用された。八月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物があるのに、搬送することができないのは最低の不面目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(ГАР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。それに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではなく、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つように、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張ることである。そのような指令(「人質」を指名すること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出されている」(Ленинский сборник.xviii.c.145−146.)と述べている。」(P.548)

 この経過について、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』が、さらに詳しく書いている。

 「テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員のA・D・ツュルーパに、『すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである』という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。

 すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にした。『私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせるためである』。

 そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いている。『この地域での富農(クラーク)と自衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』。」(P.376)

 〔殺人指令文書3〕、1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措置の報告」督促電報

 梶川『飢餓の革命』に、この「電報」が載っている。

 「手本を示さないペンザ県執行委にレーニンは八月二九日に繰り返し打電した。五郷のクラークの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかについて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはきわめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰を一掃する必要がある(Ленинский сборник.xviii.c.209.)」(P.547)

 〔殺人指令文書4〕、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令

 1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時に、タンボフ県の農民反乱始まった。反乱農民は、最大時5万人になり、300組織に広がった。梶川伸一は、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大なアルヒーフ(公文書)を使って、反乱原因・経過を詳細に分析している。そこでのレーニンの指令を引用する。

 「九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。わが状態は悪化している(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェーカー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約された。

 二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。『タムボフ県について。注意を払うように。一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか』。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖獗を醜悪の極みとして、タムボフ県のぼんくらなチェーカー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への彼の焦燥感の表現であった。二月になると抑圧的措置が強化され、匪賊的村が焼き討ちされた。」(P.604)

 〔殺人指令文書5〕、1921年6月11日、タンボフ農民への「裁判なし射殺」指令

 以下は、『レーニンの秘密・下』にある「アントーノフの反乱」鎮圧経過である。

 「一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲列車三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個があった。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ごと焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜はとらないことになっていた。反乱の指導者アントーノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度抵抗を試みようとしており、ボリシェヴィキを数カ月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月、彼はチェーカーに密告され、一カ月後、彼の兄弟とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時間あまりそこにこもっていたが、軍隊が小屋に火を放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺された。引きつづいて軍隊が、アントーノフを助けたと見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑した。」(P.160)

 その鎮圧前に、レーニンは、この農民反乱にたいして、大量の人質政策をとり、モスクワに送らせた。そのデータも、『レーニンの秘密・下』にある。

 「一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長のヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこう書いている。「現在、モスクワの拘置所には、タンボフ県からの大勢の農民が入れられています。アントーノフの一団が一掃される前に、身内のために人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収容所には五六人、セミョーノフには一三人、コジュホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が二九人、十七歳以下の若い人が一五八人、十歳以下が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼろをまとい、身体の半分は裸という惨めな状態でモスクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子供たちはごみの山をあさって食物を探しています……政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼らの故郷の村への送還を請願いたします。」

 政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を貸さなかった。」(P.158)

 6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令した。これは、『レーニンの秘密・下』の「レーニン秘密・未公開資料」によるものである。その文をそのまま引用する。

 「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること。

 政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。」(P.158)

 〔殺人指令文書6〕、1921年6月12日、毒ガス使用によるタンボフ農民の絶滅命令

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次のように認めている。

 「ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だが今度は国が土台まで破壊されていた。工場は操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去っていった。農業生産は半減した。だが農民は、ただぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再び武器を取って立ち上がり始めた。ロシア中央部ではエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率いられたタンボフの反乱、すなわちアントーノフの反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初めて軍は兵器庫から化学兵器を取り出し、使用した。」(P.125)

 ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』で公表した。

 「一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くした。

 六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。

 敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。

(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること。

 体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、似たような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。」(P.135)

 〔殺人指令遂行報告7〕、1921年7月10日、タンボフ県匪賊抑圧政策の人質・公開処刑報告

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 「タンボフ県匪賊抑圧政策に関する全権五人委員会議長報告 1921年7月10日

 クドリュコフスク郡の掃討作戦は、以前匪賊の一味をかくまったオシノフカ村から、6月27日に開始された。わが抑圧部隊にたいする農民の態度は、ある種の不信感をもって特徴づけられる。農民は森の匪賊どもを通報することなく、質問にたいしては何も知らないと答えた。われわれは40人の人質をとらえ、村に戒厳令をしき、村の住民に匪賊と隠匿武器を引き渡すために2時間の猶予を与えた。村人は集まって相談し、いかになすべきか躊躇していたが、しかし積極的に追い出し作戦に協力するとは決しなかった。

 きっと彼らは、人質を処刑するというわれわれのおどしをまじめにとらなかったのだろう。猶予時間が過ぎたので、われわれは21人の人質を村人の集まる前で処刑した。全権委員、共産主義者の目の前で、慣例にしたがって形式にのっとり、一人ひとりを銃殺によって公開処刑にしたことは、農民に衝撃的な印象を与えた……

 カレーフカ村に関しては、その地理的情況から、匪賊の一味にとって恵まれた場所になっていた……委員会はこれを地図から抹消することに決定した。全住民は赤軍勤務者の家族を除き、移動させられ、その財産は没収された。赤軍勤務者の家族はクルドウーク村に移され、匪賊一味の家族の、没収された家に住まわせた。いくつかの価値ある品−窓枠、ガラス製品、木製品等々−を回収したあと、村の家々に火が付けられた……

 7月3日、われわれはボゴスロフカ村の作戦を開始した。ここの農民ほど頑固で、組織化された者は、前に出会ったことがまずない。これらの農民と言い争っていると、若い者も年取った者も、異口同音に驚いたふうでこう言うのだった。

 「わしらのところに匪賊だって? まさか、そんなことを考えなさるなんて、とんでもない! 一度くらい近くを通るのを見たことはあったかもしれねえが、匪賊だなんて思ってもみませんでした。わたしどもはだれにも悪いことはせず、静かに暮らしとりますだ。なんにも知りません。」

 われわれはオシノフカでも同じ処置をした。人質を58人とった。7月4日にわれわれは第1グループの21人を公開処刑し、翌日には15人処刑した。しかし匪賊ども60家族、約200人を退治することはできない。最終的にわれわれは目的を達し、農民は強制されて匪賊狩りと隠匿武器の探索に出発した……

 上記諸村の掃討は7月6日に終了した。作戦は見事成功し、その影響は近くの2郡を越えて響いている。匪賊どもの降伏が相次いでいる。

                     全権五人委員会議長 ウスコーニン。(注)」(P.128)

 (注)、ダニ一ロフ、シヤーニン『タンボフ県における農民反乱1919〜1921年』218頁

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』食糧独裁令の誤りと農民反乱

 2、脱走兵・兵役忌避逃亡者十数万人から数十万人を銃殺・殺害・人質

 1919年の公式統計だけで、脱走兵1761000人と徴兵逃れ917000人がいた。その合計は2668000人である。他年度の統計は出ていない。1918年5月の食糧独裁令以後に、徴兵制と内戦が始まった。1920年11月に内戦は完全に終結した。その3年間を単純計算すれば、266.8×3年=800.4万人になる。赤軍の正規軍化による最大規模は500万人だった。80%農民国家において、徴兵者の80%も農民兵だった。

 レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方では白衛軍との戦争に当て、(2)内戦になっていない他地方では、軍事=割当徴発制の穀物・家畜収奪政策と反乱農民鎮圧作戦に使った。1920年夏以降のタンボフ県、西シベリア、ウクライナにおける3大農民反乱や36県での農民との戦争状態にたいする武力鎮圧に、全面的に赤軍を使い、裁判なし射殺や毒ガス使用による反乱農民の殲滅、殺戮作戦に使った。

 徴兵後、働き手を奪われた家族も穀物・家畜を、等しく軍事・割当徴発によって収奪され、餓死の危険が迫った。レーニン・トロツキーは、農民出身の兵士にたいして、反乱農民を殺す任務を負わせた。白衛軍とたたかうのならともかく、同じ農民を殺す軍隊は、彼ら80%を占める農民出身兵士にとって、犯罪的存在でしかない。脱走兵と徴兵逃れが大量に出るのは当然だった。トロツキーは、彼らにたいして、犯罪・腰抜けというレッテルを貼りつけた。1921年の公式統計での赤軍兵士銃殺は4337人である。4337×3年=銃殺した兵士13011人になる。

 レーニンは、徴兵逃れの農民狩りを指令し、チェーカーと赤軍に大々的に行わせた。彼は、それを「捕獲」と名付けて、捕獲数を報告させていた。その捕獲作戦に抵抗する農民を大量に殺し、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を人質に捕えた。彼らが出頭しなければ、見せしめに人質を殺害した。その殺人と人質、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴兵逃れのうちで、最低でも十数万人になる。

 別の算出根拠もある。『飢餓の革命』(P.16)にある1920年8月のチェリャビンスク県だけの報告である。兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲という公式統計である。

 4項目452人÷7340人=6.15%となる。脱走兵・徴兵逃れ800.4万人×6.15%=約49万人になる。機械的な計算式だが、約49万人を監獄、矯正収容所、強制労働、銃殺にしたことになる。

 〔殺人指令文書8〕、1918年8月30日、トロツキーの脱走兵銃殺命令

 これは、ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』(朝日新聞社、1994年)の文書である。

 「プロレタリアート独裁にたいする確信は、トロツキーをして国内戦時代における軍事テロの主要な推進者のひとりとした。手元に、一九一八年八月三十日にトロツキーが署名した命令がある。

 命令第三一号  赤軍および海軍へ  反逆者および裏切り者が労農赤軍にもぐり込み、人民の敵に勝利をもたらそうとしている。その次が、略奪兵と脱走兵である……。昨日、東部戦線第五軍野戦軍法会議の判決により二〇人の脱走兵が銃殺された。真っ先に銃殺に処せられたのは、その任せられた部署を放棄した指揮官やコミッサールであった。ついで負傷兵のふりをした臆病な嘘つきが銃殺された。最後にこれからの戦闘で自分の犯罪的行為を償うことを拒否した脱走兵が何人か銃殺された。労農赤軍の勇敢なる兵士諸君万歳! 略奪兵に破滅を。裏切り者の脱走兵に死を。  軍事人民委員  トロツキー。(注162)」(P.402)

 (注162)、マルクス・レーニン主義研究所党中央文書保管所、フォンド325、目録1、資料40、ファイル27

 3、コサック身分農民30〜50万人殺戮、強制移住による餓死殺人

 コサック身分農民は、440万人いた。彼らは、帝政時代から軍事的義務とひきかえに、土地利用で一般農民より優遇されていた。内戦中は、「白いコサック(白衛軍側)」と「赤いコサック(赤軍側)」とに分かれ、それぞれが流動的に入れ替わった。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は、ショーロホフが『静かなドン』において、農民兵士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、リアルに描いている。

 9000万農民の土地革命後、レーニンは、コサック優遇措置を廃止し、一般農民と同じにした。コサック騎兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性を持っていた。それにたいして、レーニンと政治局は、コサックにたいしてだけ土地革命農民なみの権利・権限をも剥奪し、『農民』ファイルの極秘指令「赤色テロル」を先制的に仕掛けた。これは、メドヴェージェフの言うように、極めてひどい誤りであるだけでなく、ロシア革命にたいする犯罪行為だった。レーニンとスヴェルドロフは、未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたのである。

 レーニンの一方的なコサック抹殺の先制テロルにたいして、コサック騎兵集団が総反発して、対赤軍の反乱を起したのは当然だった。レーニンとコサック反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼは、30〜50万人のコサックを戦闘、虐殺、餓死で殺し、あるいは強制収容所送りにした。トロツキーは、反乱したコサック村の家族をシベリアに徒歩で強制移住させ、その穀物没収した上での死の行進手法により、数千人を餓死させた。

 1920年10月、生き残ったコサック騎兵3万人は亡命した。政治局は、自分の馬と別れ難いので亡命を断ったコサックを、すべて銃殺するか、強制収容所送りにした。これにより、ソ連各地のコサック領地に住むコサック身分440万農民は離散した。亡命者たちの一部は、有名なコサック合唱団を作り、コサックの歌と踊りを世界に広めた。

 スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。それにより、440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。これらの詳細を、植村樹・元NHKモスクワ特派員が『ロシアのコサック』(中央公論社、2000年)で書いている。

 〔殺人指令文書9〕、1919年1月21日、コサックへの赤色テロル指令

 この日付は、『共産主義黒書』のものである。メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』は、2月となっている。メドヴェージェフの文をそのまま引用する。

 「一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋までに内戦を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるのである。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。

 反乱の原因はドン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなものであった。

 各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。

 一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴィエト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをおこなうこと。中間コサックに対してはソヴィエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること。

 二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆる農産物に適用される。

 三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。

 四、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。

 五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。

 六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。

 七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。

 八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に準備すること。

 ロシア共産党中央委員会。(党中央アルヒーフ、ЦПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216)

 二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。二月のスヴエルドローフ指令が実施されたのはコサックの州なのである。この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いにたけており、大、小の村落で動員を短時間におこない、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することができるのである。この状況で「非コサック化」と大量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招き、南部戦線の安定だけでなく、革命の運命をも脅威にさらすことになるのである。現にドン上流地域で始まった反乱を鎮圧することは出来なかった。ドン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し、対コサックのために投入され、たいていは大急ぎで編成された兵団をことごとく打ち破った。このおかげでデニーキン軍は十分に態勢を整え、一九一九年五月、強力な攻撃を開始することができたのである。六月末までにデニーキン軍はウクライナのほぼ全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコフを、六月三十日にはツァーリンを放棄した。」(P.121)

 〔殺人指令文書10〕、1920年10月23日、オルジョニキッゼのコサック解体命令

 これは、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』にある。

 もっとも手っ取りばやいコサック解体の方法は、コサックの村を破壊して、すべての生存者を収容所送りにすることだった。ボリシェヴィキ指導者の一人で、当時北カフカス革命委員会の議長だったセルゴ・オルジョニキッゼの文書の中には、一九二〇年十月末から十一月初めにかけて展開された作戦の一つの資料が含まれている。

 十月二十三日、セルゴ・オルジョニキッゼは以下のような命令を下した。

 「一、カリノフスカヤ村を完全焼却すること。

 二、エルモロフスカヤ村、ロマノフスカヤ村、サマシンスカヤ村、およびミハイロフスカヤ村の全住民を立ち退かせ、住民の家と土地は、ソヴィエト権力に常に愛着を示してきた貧農とチェチェン人に分配すること。

 三、上記諸村の十八歳から五〇歳までの全男子を列車に乗せ、見張りを付けて、重度の強制労働を行なわすべく、北方へ強制移住させること。

 四、女・子ども、老人を退去させること。ただし、もっと北の他の村に居住する許可を与えること。

 五、上記諸村の住民の全家畜と全財産を徴発すること。(注1)」

 三週間後、オルジョニキッゼあての報告は、以下のように作戦の展開を述べている。

 「カリノフスカヤ村−全村焼却。全住民(四二二〇人)は強制移住または退去。

 エルモロフスカヤ村−全住民排除(三一二八人)

 ロマノフスカヤ村−一六〇〇人強制移住。一六六一人移住待ち。

 サマシンスカヤ村−一〇一八人強制移住。一九〇〇人移住待ち。

 ミハイロフスカヤ村−六〇〇人強制移住。二二〇〇人移住待ち。

 このほか、一五四両の食糧輸送車がグローズヌイに向けて出発しました。強制移住がまだ完了していない村では、まず初めに白軍と緑軍の家族と、最後に反乱参加者の家族が移住させられました。移住させられなかった者の中には、ソヴィエト体制のシンパ、赤軍兵士・役人・コミュニストの家族がいます。強制移住作戦の遅れは、もっぱら車両の不足からきています。作戦のために送られてくる列車は、一日平均たった1編成でした。強制移住作戦を完了するために、さらに三〇六車両の追加が緊急に要請されます。(注2)」

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/131/11

 (注2)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/123/15

 これらの「作戦」は、どのように行なわれたのだろうか? 残念ながらこの点については、我々にはいかなる正確な資料もない。わかっているのは、「作戦」は長引き、最終的に移住者はしばしば極北地方ではなく、その後も相次いだように、近くのドネッ炭田の方へ送られたということである。一九二〇年末の列車の状況からして、数量的に把握するのは難しい……それでも、諸方面から見て、一九二〇年のコサック解体の「作戦」は、十年後のクラーク撲滅の大「作戦」の前ぶれであった。連帯責任といい、列車による強制移住のやり方といい、経理の問題といい、移住者を受け入れる場所が準備されていなかったことといい、移住者を強制労働に使うという考えにおいて、このように言えよう。

 ドンとクバンのコサック地域は、ボリシェヴィキに反抗したために、多大の犠牲を払わされた。最も信頼できる評価によると、三〇〇万足らずの全人口中、一九一九〜一九二〇年に殺されたり、強制移住させられたりしたものは、三〇万から五〇万の間であった。(P.109〜111)

 4、山猫ストライキ労働者の逮捕10000人、即時殺害500人

 ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーが、1921年2月、全市を赤軍・共産党員軍・クルサントゥイ軍で包囲し、ストライキ工場をロックアウトした上で、10000人のストライキ労働者とボリシェヴィキ党員を逮捕した。そのうち、ストライキ指導者500人を拷問死、銃殺で即座に殺した。これは、V・セルジュとボリシェヴィキ指導者ダンの証言である。残りの9500人にたいする措置のデータはない。チェーカーは、残りの全員も銃殺する方針だったが、ゴーリキーとセルジュが、銃殺だけは止めた。

 この直前に、モスクワで全市的山猫ストライキがあり、それも鎮圧された。しかし、モスクワ・チェーカーによる12人銃殺、1000人逮捕という『黒書』データ以外は、現時点で分からない。

 モスクワとペトログラードの山猫ストライキ労働者にたいする〔殺人指令文書〕は、あるはずだが、まだ発掘されていない。

 ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。『ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった』。

〔殺人指令文書11〕、1918年5月31日、ジェルジンスキーのストライキ労働者銃殺指令

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 政治面では一九一八年春の独裁の強化はすべての非ボリシェヴィキ系新聞の最終的発禁、非ボリシェヴィキ系ソヴィエトの解散、反対派の逮捕、多くのストライキの粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年の五〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラトフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソヴィエトは、武力で解散させられた。弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派を逮捕したのである。(注1)」

 反対派が勝利した町に自分の信頼する協力者を送ったジェルジンスキーは、一九一八年五月三十一目、トヴェーリへ派遣した全権のエイドゥークに、自分の命令を実行するにあたってなにより有効な武力行使について、次のように単純率直に書いている。

 「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、『社会主義』めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを張って、ソヴィエト権力に対して陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。市のブルジョワに対しては特別の支援を頼むがいい。彼らを調べ上げよ。もし彼らが動きだしたら、このリストが役立つだろう。我々の地方チェーカーがどんな構成員からなっているか、わたしに聞いてくれ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ。わたしは経験から、少数の断固とした人間で情況を変えることができるということを学んだ。(注2)」

 反対派の掌握したソヴィエトを解散し、一九一八年六月十四日にソヴィエトの全露執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員を排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ペトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は労働者の食料要求デモに発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人の死者がでた。同日、エカチェリンブルク近郊のべレゾフスキー工場では赤衛軍によって十五人が殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに土地のチェーカーによって十四人が即座に銃殺された!(注3)

 一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラーヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ‐タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで多くの労働者のデモが流血の中で鎮圧された。運動の抑圧において土地のチェーカーの役割がますます強くなったことは「コミッサロクラシー〔委員官僚制〕」に奉仕する「新オフラナ(帝政時代の政治警察)」という言葉やスローガンが労働者間で使われる頻度が多くなったことでも証明される。(P.76)

 (注1)、V.Brovkin,op.cit,p220-225(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)

 (注2)、RTsKhIDNI(ロシア現代史文書保存研究センター)、17/6/384/97-98

 (注3)、Novaia Jizn,1er juin 1918,p4(『新生活1918年6月1日』)

 〔殺人指令文書12〕、1920年1月29日、レーニンの第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報

 レーニンや共産党最高指導部は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けた。ウラルの労働運動が高まっていた。それが不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送った。

 「Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしているという…伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係しているとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュを大衆処刑で処置しないことに驚いている」。『黒書』(P.99)

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

 5、クロンシュタット水兵・労働者・住民を殺戮、銃殺、収容所送りで殲滅

 クロンシュタット・ソヴェトは、1905年革命、1917年二月革命、10月レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターにおいて、もっとも先進的役割を果した。トロツキーが称賛したように「革命の栄光拠点」だった。そこが、なぜボリシェヴィキ一党独裁政権にたいして、自由で平等な新選挙要求を突きつけ、平和的要請に決起したのか。15項目綱領の要求内容と鎮圧経過については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、および私(宮地)の『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』が分析している。

 コトリン島住民45000人中、水兵10000人と労働者4000人のほとんどが殺された。判明しているのは、『共産主義黒書』にある「四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判決を受け、六四五九名が投獄された」ことである。8000人が氷結したフィンランド湾を渡って、フィンランドに逃げた。レーニンは、恩赦すると騙して、彼らを帰国させた。そして、全員を逮捕し、強制収容所送りにした。しかし、彼らは、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。

 生き残ってソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年、P.55)で次の事実を記している。一九二一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。

 レーニンは、クロンシュタットの平和的要請にたいして、「白衛軍の将軍の役割」と、真っ赤なウソをついた。農民・労働者・兵士の総反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、反革命の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記(表)のようになるのは必然だった。

 〔殺人指令文書13〕、1921年3月5日、トロツキーの最後通牒、雉子のように撃ち殺す

 この最後通牒は、クロンシュタット反乱関係の全文献に載っている。ヴォーリン『クロンシュタット1921年』から載せる。

 「次の日の三月五日に、トロツキーはクロンシュタットへの最後通牒を発した。それはクロンシュタットヘラジオを通じて伝えられたし、また代表を送ることに関するふたつの電報と同じ号の「イズヴェスチヤ」にも発表された。当然、代表を送る件についての交渉もすぐぶちこわしになった。ここにトロツキーの最後通牒の全文がある。

 労農政府は、クロンシュタットおよび反逆している戦艦に対して、ただちにソヴィエト共和国の権力に服従すべき命令を出した。それに従って私は、社会主義の祖国に対して反旗をひるがえすものすべてに、即刻、武器を放棄するよう命ずる。強情に抵抗しつづける者は武装を解除されて、ソヴィエト当局へひきわたされるであろう。逮捕された執行委員とその政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降服するものだけが、ソヴィエト共和国の慈悲にあずかり得るであろう。

 同時に私は武力をもって暴動を鎮圧し、反徒を平定すべき命令を発する。平和な民衆がうけるかもしれない損害の全責任は、反革命反徒にあるであろう。これが最後の警告である。

                   共和国革命軍事委員会議長 トロツキー

                   最高司令官 カーメネフ」

 この最後通牒につづいて『お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ』というトロツキーの指令が出された。」(P.91)

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応

 6、チェコ軍団帰国途中の武装解除と銃殺命令、軍団の抵抗と反乱

 レーニンは、1917年11月7日、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに成功した。政府は、1918年3月3日、ドイツとブレスト講和条約を結び、ロシアだけが、第一次世界大戦から単独離脱した。ロシア国内にチェコ人の捕虜・投降兵士からなるチェコ軍団が4.5万人残っていた。政府は、彼らを武装させたままで、シベリア鉄道でウラジオストックから帰国させることにした。その帰国途中で、1918年5月25日、レーニン・トロツキーは、突如方針転換をした。彼らは、白衛軍ではない。武装したチェコ軍団4.5万人の反乱は、白衛軍との内戦勃発・拡大の引金になった。ただ、その26日前の4月29日、レーニンらは、全ロシア中央執行委員会において、自らが80%・9000万農民にたいする内戦を仕掛ける戦争開始宣言をしていた。これ以後、内戦は、(1)レーニンが仕掛けた農民との内戦、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦という2種類の内戦期間に突入した。

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、この命令文書を載せた。この詳細な経過は、彼が分析している。

  〔殺人指令文書14〕、1918年5月25日、トロツキーによる武装解除・銃殺命令

 残念なことに、こうした状況の中でソヴィエト政権は、正当化できないほど残酷な行動をとり始めた。モスクワから軍団の移動路線へ、次のような恐るべき電報が送られた。

 「軍事人民委員命令

 モスクワより五月二十五日二十三時。サマーラ、ペンザからオムスクまでの鉄道沿線のすべてのソヴィエトヘ。

 全ソヴィエトは責任をもって速やかにチェコスロヴァキア人の武装解除をおこなうこと。鉄道路線内で武装が発覚したチェコスロヴアキア人はその場で銃殺すること。一人でも武装している者がいた場合、その輸送列車編隊は下車させ、軍事捕虜ラーゲリへ収容すること。地方軍事コミッサールは本命令を速やかに遂行する義務を負う。いかなる遅滞も恥ずべき裏切り行為と同義であり、違反した者は厳罰に処する。武器を引渡しソヴィエト政権に従う誠実なチェコスロヴァキア人に対しては、兄弟として過し、あらゆる援助を与えること。本命令を全チェコスロヴアキア輸送列車編隊に読み聞かせ、チェコスロヴアキア人と接する全鉄道員に通知すること。……

 軍事人民委員L・トロツキー。(注108)」

 (注108)、B・マクサコフ、A・トルクノフ『シベリアにおける内戦の記録』、国立出版所、1926年、57頁

 この命令の内容は、単に残酷であっただけではない。遂行不可能なものでもあった。ソヴィエト政権には、チェコスロヴアキア人を武装解除する力はまったくなかったからである。軍団の兵士たちが自発的に武器を手渡すと考えることなど、ばかげたことであった。異国にいて、そこで起こっている事件についてあまりよく判らず、様々な「徒党部隊」からの攻撃を懸念していた兵士たちは、武器を、安全を確保しつつ帰国を実現するための保証と見なしていたからである。軍団の一般兵士の気分は一変し、五月二十六日から軍団部隊とソヴィエト部隊との個々の衝突は、反乱へと拡大していった。チェコスロヴアキア軍はほとんど抵抗にあわず、シベリアとウラルの主要都市とヴォルガ地方のかなりの部分を占拠した。この地域全部のソヴィエト権力は打倒され、軍事コミッサールとボリシェヴィキ党の指導者は銃殺された。(P.106)

 7、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害と教会財産没収

 これは、岩上安身『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)に載った。この経過、内容とデータは、『聖職者』ファイルで分析した。聖職者・信徒らは、精神的にはともかく、具体的な反革命運動に加担していなかった。この大量殺人指令と殺戮は、コサック農民への赤色テロルに次いで、レーニンが、第2回目の未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたものだった。

 〔殺人指令文書15〕、レーニンの教会財産没収、聖職者銃殺指令極秘手紙

   1922年3月19日付手紙全文 1990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表

 「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員政治局員のためのX・M・モロトフヘの手紙

 一九二二年三月十九日

 極秘 写しは絶対にとらないこと。政治局員各自(カリーニンも同様)意見は直接、文書に書きこむこと。 レーニン

 シューヤ(訳者注=イワノヴォ州にある市)で起こった事件は、すでに政治局の審議に附されてはいますが、事件が全国的な闘争計画に沿ったものである以上、断固たる処置をとる必要があると思われます。三月二十日の政治局会議に自ら出席できるかどうかわかりませんので、手紙で自分の考えを述べます。シューヤの事件は、最近ロスト通信が各新聞社宛に掲載を目的とせずに流した、例のペトログラードにおいて、極右が教会財宝没収令に対し抵抗の構えをみせているとするニュースと関連づけてとらえるべきです。

 今度の件と、新聞が書いている宗教界の教会財産没収令に対する態度や我々が知っているチーホン総主教の非合法なアピールを比べると、極右聖職者達がこの時期を狙って我々に戦いを挑むことが、きわめてよく練られた計画であることが判明します。極右聖職者の主要メンバーで構成する秘密会議で、この計画が練られ、決定されたに違いありません。シューヤの事件は、この全体計画の単なる一片にすぎません。

 思うに、我々に対し、勝ち目のない徹底抗戦で向かってくるとは、敵の大きな戦略的誤りです。むしろ我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でなければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならない)のです。今こそ、農民のほとんどは我々に味方するか、そうでないとしても、ソヴィエトの法令に力ずくの抵抗を試みるひと握りの極右聖職者と反動小市民を支持できる状況にはないでしょう。

 我々はいかなることがあっても、教会財産を断固、早急に没収しなければなりません。それによって数億ルーブル金貨の資金が確保できるのです(修道院や大寺院の莫大な財産を思い出して下さい)。この資金がなくては経済建設をはじめとする、いかなる国家的事業も、またジェノアで自己の見解を貫き通すこともありえません。ルーブル金貨数億(もしくは数十億)の資金を手に入れることは是が非でも必要なのです。それが首尾よくできるのは今だけです。状況を見てみると、後からでは成功しません。絶望的な飢餓のときを除いては、農民大衆が、たとえ教会財産没収闘争で当方の完全勝利が自明だとしても、我々に好意的態度を示したり、せめて中立でいてくれるという保証はないのです。

 ある賢明な作家が国家的問題に関して、『一定の政治目的を達成するために残酷な手段を必要とする場合は、思いきった方法で、きわめて短時間に行なわなければならない。残酷な手段を長期にわたって用いれば大衆が耐えられないだろう』と述べていますが、まったくそのとおりです。さらにこの考えは、反動宗教界に残酷な手段でのぞむとなると、ロシアの国際的立場が、とりわけジェノア以後、政治的に不合理かつ危険の多いものとなるだろうということで裏づけされます。今、反動宗教界に対する我々の勝利は完全に約束されています。また国外のエスエルやミリュコフ派など主要な敵も、我々が今この時期、飢餓に際して迅速かつ容赦なく反動宗教界を弾圧するなら、もはや我々に抗することはできないでしょう。

 それゆえ、私は、今こそ極右聖職者達に徹底的かつ容赦ない戦闘を挑み、彼らが今後、数十年にわたって忘れることのできないような残忍な手段で抵抗を鎮圧すべきだという、疑う余地のない結論に達しました。この計画を実施に移すための作戦を私は次のように考えています。

 いかなる措置を採るときも公的には同志カリーニンのみが登場し、同志トロツキーは印刷物にしろ公衆の前にしろいかなる形であれ姿を現わしてはならない。政治局の名ですでに出された没収の一時停止に関する電報は変更しない。この電報は、敵にあたかもわれわれが逡巡しており、威嚇に成功したと思わせるので好都合である。

 シューヤには全ロシア中央執行委員会、もしくは他の中央政府機関から最も精力的で、分別のある敏腕な者を一人(数人より一人がよい)、政治局員の一人が口頭で指示を与えて派遣する。そして、この指示は、それによって彼がシューヤで、現地の聖職者、小市民、ブルジョアを全ロシア中央執行委員会の教会財産没収令に反対する実力抵抗に直接または間接にかかわったかどで、できるだけ多く、少なくとも数十人以上逮捕するものとする。

 任務終了後、彼はただちにモスクワに来て、自ら、政治局全体会議か、それを代表する二名の政治局員に報告を行なう。この報告にもとづいて政治局は司法当局に細かい、これも口頭の指令を出す。それは飢餓救援に抵抗するシューヤの暴徒に対する裁判が迅速に行なわれ、シューヤと、できればそれ以外にもモスクワや他の教会都市の最も影響力ある危険な極右を非常に多数、必ず銃殺刑にして終わるようにするためである。

 チーホン総主教自身には、明らかに、この奴隷所有者どもの暴動の頭目ではあるが、手を出さないほうが、賢明だと思う。彼に関してはGPU(ゲーペーウー)に秘密指令を出して、この時の対外関係をすべて、できるだけ正確かつ詳細に洗い出させること。そして、それをジェルジンスキーとウンシュリフト自らが毎週、政治局に報告するようにすること。

 党大会において、この問題にかかわるすべてないしは、ほとんどすべての代議員とGPU、司法人民委員部の主要職員からなる秘密会議を設けること。富豪の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行なう。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない。

 この措置が迅速かつ滞りなく実行されることを監視するため、当の大会すなわち秘密会議で特別委員会を指名し、そこに同志トロツキーとカリーニンを必ず加えること、そしてこの委員会の存在は絶対公表せず、委員会指導下の作戦はすべて委員会の名によらず、全ソヴィエトと全党の名において行なわれること。富豪の大寺院、修道院、教会でこの措置を実行するときは特に責任感の強い優秀な職員を配すること。

 一九二二年三月十九日  レーニン

 同志モロトフヘの依頼、この手紙を各政治局員から今日中に回覧し(写しはとらず)、読了後、手紙の主旨に同意か反対かを書き込んで、ただちに秘書に戻すよう、とりはからって下さい。

 一九二二年三月十九日  レーニン」(P.289)

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

 8、「反ソヴェト」知識人の国外追放・強制収容所送り数万人

 これも『知識人』ファイルで書いた。これは、レーニン第1回発作による「12×7」の計算ができなかった直後からの、レーニン直接指令によるボリシェヴィキとその同盟者以外の知識人解体措置だった。それまでのロシア文化の破壊行為だった。これは、レーニンの第3回目の「大量予防殺人=肉体的排除」である。この大量予防殺人を細かく、個々の知識人名までリストアップし、肉体的排除遂行をしている最中の1922年12月に第2回発作が起き、彼の政治活動が終った。

 〔追放指令文書16〕、1922年5月19日、知識人追放指令の秘密手紙

 ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・第10章「法は成熟する」(新潮社)の冒頭で、次のレーニン全集に掲載されている「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せた。よって、これは「レーニン秘密資料」ではない。その個所をそのまま引用する。

 「銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みられた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ)いた思いつきを、ただちに五月十九日付の手紙の中に結実させた。

 『同志ジェルジンスキー! 反革命を援助している作家や教授たちを国外へ追放する問題について。このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろう……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置しなければならない。これのコピーをとらずに、政治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする』(「レーニン全集」第45巻、P.721)

 この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的なことから当然である。ソヴィエト・ロシアにおける切り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧ロシアのブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていたのであり――彼らに対する最善の処置はその腐った思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出すこと以外にはなかった。

 同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキーが八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされた。」(P.360)

 〔追放指令文書17〕、1922年6月、レーニンの「反ソヴィエト」知識人追放指令

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次の「レーニン秘密資料」を公開した。これは、L・コーガン「精神的エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題』(8号、1993年)で最初に掲載された。

 「一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの指令メモの一つにはこう書かれていた。

   ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。

 積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々。

   F・ジェルジンスキー」(P.134)

 この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書いていない。しかし、期日を推測させる文言がある。それは。「(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する」である。この文言は、5月26日第1回目発作以後の追放の督促・継続指令である。

 〔追放指令文書18〕、1922年9月5日、ジェルジンスキーの知識人追放督促指令

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せている。

 一九二二年九月五日、ジェルジンスキーは自分の補佐のウンシュリヒトに次のように書いた。

 「同志ウンシュリヒト! インテリゲンツィア追い出しの件に関しては、事態はまだ手工業的だ! アグラーノフが出立してから、もはやこの分野で有能な人間はいない。ザライスキーは少し若すぎる。早く仕事するためには、同志メンジンスキーがこの件を担当しなければならないだろうと思われる……ちゃんと計画をたて、それを定期的に訂正・補足することが不可欠だ。すべてのインテリゲンツィアをグループとサブ・グループに分類すべきだ。

 一、作家。

 二、ジャーナリストと政治家。

 三、経済学者(これはサブ・グループ分けが必要だ)。(a)財政専門家、(b)エネルギーの専門家、(C)運輸の専門家、(d)小売業、(2)協同組合の専門家、等

 四、技術専門家(これもサブ・グループ分けが必要だ)。(a)技師、(b)農学者、(C)医者、その他

 五、大学教授、およびその助手等々。

 これらの紳士方に関する情報はすべて我々の部局の中『インテリゲンツィア』部によって総合されなければならない。知識人一人ひとりの書類が我々のところにあるべきだ……我々の部の目的は単に個人を追放したり逮捕することでなく、専門家に対する全般的政策を念入りに作ることだということをいつも心に止めておかねばならない。すなわち、彼らを身近に監視し、対立させ、彼らを単に言葉のうえだけでなく、行動においてソヴィエト権力を支持するよう仕向けるのである。(注1)」(P.139)

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、76/3/303

 〔追放指令文書19〕、1922年9月5日の数日後、レーニンの知識人掃討・浄化指令メモ

 これも、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』にある。

 数日後レーニンはスターリンにあてて長いメモを書き、その中でマニアックな詳しさで、すべての社会主義者、知識人、自由主義者その他の「紳士方」をロシアから「決定的に掃討」することを再び論じた。

 「メンシェヴィキ、人民主義的社会主義者、カデット等の追放の問題について。わたしが出立する前に始まっていたこのやり方がまだ必ずしも完了していないので、いくつかの問題を提起したいと思う。すべての人民主義的社会主義者を根こそぎにするよう決定したか? ぺシェホーノフ、ミャコーチン、ゴルンフェリトその他はどうだ? わたしは彼らが皆追放されるべきだと思う。彼らはエスエルより危険だ。なぜならもっとずる賢いからだ。

 それからボトレーソフ、イズゴーエフ、そして『エコノミスト』の連中(オーゼロフその他多くの輩)も。メンシェヴィキのローザノフ(狡猾な医者)、ヴィグドルチク(〔別名〕ミクロまたはその類いの名)、リユボーフィ・ニコラエヴナ・ラドチェンコと、その娘(二人はボリシェヴィズムの最も危険な敵だと言われている)、N・A・ロシコープ(彼は追放されるべきだ。度し難い。)……マンツェフ=メッシング委員会がリストを作成し、これら何百人かの紳士どもは容赦なく追放されるべきだろう。

 我々はロシアを徹底的に浄化しよう……『作家の家』の全作家と、(ペトログラードの)『思想の家』の思想家も。ハリコフはくまなく捜査しなければならない。あそこは外国だから、そこでなにが起こっているのか、我々はなにも知らない。市はエスエルの裁判が終わる前に、素早く徹底的に浄化されなければならない。ベトログラードの著述家と作家を処理してくれたまえ(彼らのアドレスは『新ロシア思想』一九二二年第四号三七ページと個人編集者リストの二九ページに載っている)。これは超重要だ!(注1)」(P.139)

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、2/2/1338

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 9、カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルの絶滅

 1917年7月時点で、エスエル党員100万人、メンシェヴィキ党員20万人がいた。(表)において、この粛清人数を(カッコ)つきにしたのは、他の階級、階層の殺人数と重複しており、独自の数値を推計できないからである。ただ、スターリンの粛清により、これら百数十万人の全党員が、亡命した者以外、一人残らず殺された。

 〔殺人指令文書20〕、1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ」閉鎖措置

              1917年11月28日、カデット党員逮捕の布告

 革命政府(人民委員会議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニンの強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ」、その他のブルジョア新聞を反革命活動の理由で閉鎖した。さらにその翌日、「出版にかんする布告」を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じた。

 布告発令前の全ロシア中央執行委員会では、左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も、それに猛反対した。武装蜂起による死者は、双方合わせて10数人だけだった。レーニンも「テロルなど問題にならなかった」と認めていた。たしかに、臨時政府内のカデット閣僚5人が、コルニーロフの反乱を契機に辞任したのは事実である。しかし、ソ連崩壊後の資料によっても、レーニンのレッテル「コルニーロフの反乱にカデット党が加担したから」という事実はない。それは、レーニンのウソである。それは、レーニンによる権力奪取と同時の先制攻撃としてのブルジョア階級からの言論出版の権利剥奪政策だった。すべての他党派、知識人が、それを言論・出版の自由への弾圧として、強烈に反対、批判した。この問題については、大藪龍介が、詳しい分析をしている。

    大藪龍介『国家と民主主義』カデット機関紙「レーチ」、他新聞閉鎖措置の誤り

 レーニンは、カデットを「ブルジョア自由主義」として、法律の保護外とした。反革命行為がなくても、ブルジョア階級とブルジョア政党のあらゆる人権剥奪を当然とした。その全文をスタインベルグが『左翼社会主義革命党』に載せている。

 「我々左翼社会革命党は、その布告の中に、一般情勢によっては正当化されえない政治的ヒステリー症状の現れを見てとった。略式の大量逮捕令は、革命の日常的な煽動と混乱の中では、特に罪を犯さずともカデットであるという単にそれだけの理由で、国中の誰もがカデット党員を迫害し逮捕し危害を加えることができる、ということを意味していた。次に、この命令の全文を掲げよう。

 革命に対する内乱の指導者たちの逮捕に関する布告

 カデット党の執行機関のメンバーたちは、人民の敵として逮捕され、革命法廷で裁判に付されることになる。カデット党が革命に敵対する内乱と繋りを有していることに鑑み、彼らを特別監視の下に置くべき義務を、地方の各ソヴェトは負う。この布告は、即刻実施に移されるものとする。ペトログラード、一九一七年一一月二八日、午後一〇時三〇分。この布告は、レーニン、トロツキー、アヴィロフ、メンジンスキー、ジュガシヴィリ・スターリン、ドゥイベンコその他により署名された。」(P.54)

 〔殺人指令文書21〕、1918年6月、チェキスト党集会での法令可決とレーニン指示

 これは、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』にある。これは、9000万農民と全他党派の強烈な反対を押切って、レーニンが1918年5月食糧独裁令による穀物・家畜収奪路線に転換した時期だった。「農村に内戦の火をつける」というレーニン、スヴェルドロフ、トロツキーらの貧農委員会方式にたいして、ロシア全土で農民反乱が勃発し始めた。それがいかに誤った政策だったかの詳細は、『農民反乱』ファイルで書いた。

 「チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動していた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択される三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつかの法令が可決された。『君主主義者−カデット、右派エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導者たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名簿をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮官……から目を離さないこと。目立った、明らかに有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺すること』などである。たとえば、バスマチ運動指導者は決して見逃すことなく、ただちに革命裁判にかけ、死刑の適用を考えることと中央アジア局に命令している。

 チェーカーの問題についてレーニンの肩入れは、『監禁、監視などは徹底的に行なうこと(特設仕切り壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した、二重、三重のチェック・システムなど』、ごく基本的な技術面にまで及んでいる。こうした言葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門家のものである。彼はジェルジンスキーに、『逮捕するなら夜が好都合』とまで書いている。」(P.381)

 〔殺人・追放指令文書22〕、1918年8月9日、レーニンによる銃殺と追放指令

 ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』のデータである。

 「「ニージニ=ノヴゴロド・ソヴィエトヘ  ニージニでは明らかに白衛派が反乱を準備中である。全力をあげて、独裁権を持つ三人委員会をつくり、ただちに大衆的テロを加え、兵士を泥酔させる数百人もの売春婦や、旧帝政将官などを銃殺するか、町から追い出すべきである……。一刻も猶予してはならない……。全力をあげて行動し、大がかりな家宅捜索をせよ。武器保有の罪は銃殺にすべし。メンシェヴィキや動揺分子はどしどし追放せよ……。  一八年八月九日  あなたのレーニン」

 恐ろしい言葉である。民主主義、ヒューマニズム、正義を守るとした革命前の約束はどこへいってしまったのか? こうした電報は沢山ある。」(P.516)

 〔殺人指令文書23〕、1918年9月3日、内務人民委員ペトロフスキーの電報命令

 これは、スタインベルグ『左翼社会主義革命党』にある。

 「九月三日の朝、内務人民委員ペトロフスキーは、次のような電報による命令をすべての地方ソヴェトに発した――。『感傷と逡巡には直ちに終止符が打たれねばならぬ。地方ソヴェトに判明している限りの反革命的社会革命党員は即刻逮捕すること。資本家と将校団から多数の人質を確保せよ。白衛集団に於いて僅かな抵抗もしくは動きが見受けられた際には略式大量銃殺刑で直ちに鎮圧せよ。地方執行委員会は率先して事に当るべし……大衆的テロルの発動に際しては躊躇、懐疑は無用である』。政府の最高機関がこのような言葉で語っているとすれば、その執行機関、その地方機関の行動は推して知るべしであろう。そして事実、中央執行委員会の布告が未だ警告にとどまっているのに、地方では既に復讐が開始されつつあったのである。」(P.133)

 〔殺人指令文書24〕、1921年2月28日、ジェルジンスキーのメンシェヴィキ、エスエル逮捕命令。21年4月、レーニンのメンシェヴィキ、エスエル逮捕・銃殺命令

 これは、ニコラ・ヴェルトが、『共産主義黒書』に載せた。

 すでに一九二一年二月二十八日に、ジェルジンスキーはすべての地方チェーカーに以下のように命じていた。

 「(一)、すべての無政府主義的、メンシェヴィキ的、エスエル的インテリゲンツィア、とりわけ農業と食糧調達部門の人民委員部で働いている役人をただちに逮捕すること。(二)、この活動開始後、工場で働いていて、ストライキやデモを呼び掛ける可能性のあるすべてのメンシェヴィキ、エスエルおよびアナキストを逮捕すること。(注4)」(P.124)

 (注4)、V.Brovkin,op.cit,p400(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)

 一九二一年三月からのネップの導入は、抑圧政策の緩和どころか、穏健な社会主義の活動家の一層の抑圧を招いた。この弾圧は彼らが経済的「新政策」に反対する危険からではなく、むしろ長いこと彼らがこの政策を唱えてきて、その分析の正しさと洞察力を示したからであった。「自称であれ、僧称であれ、メンシェヴィキとエスエルの唯一の居場所は――とレーニンは一九二一年四月に書いている――それは牢獄である。」

 数カ月後になっても社会主義者がまだあまりにも「活動的」なのを見たレーニンは、「もしメンシェヴィキとエスエルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ!」と書いた。一九二一年の三月から六月の問に二〇〇〇人以上の穏健な社会主義の活動家やシンパが逮捕された。メンシェヴィキ党の中央委員会の全委員が投獄された。シベリア流刑で脅迫された彼らは、一九二二年一月にハンストを始めた。ダンとエコラエフスキーを含む十二人の指導者が国外追放になり、一九二二年二月ベルリンに到着した。(P.124)

 〔殺人指令文書25〕、1921年6月、社会革命党とメンシェヴィキ組織を壊滅させる国家的作戦

 ヴォルコゴーノフが『七人の首領』(朝日新聞社、1997年)で、ロシア中央文書保管所から発掘した文書を載せた。

 「同盟者として十分可能性のあったメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)は、たちまちのうちに、容赦なく一掃された。それも政治的にだけでなく、肉体的にも抹殺された。

 昨日の友、同盟者、ほぼ同じ信念の持ち主だった人たちが、僻地へ追いやられたり、強制収容所(ラーゲリ)に放り込まれたり、刑務所に閉じ込められたり、国外に追放されたしりした。レーニンは、こうした迫害や弾圧で中心的な役割を果たした。彼の文書やメモ、決裁、報告書は、ひとの目的だけを追い求めている。すなわち、ボリシェヴィキと異なった世界観をもつロシアの社会主義者たちを、いかに絶滅するか、ということであった。

 一九二一年六月、レーニンの指示にもとづき、ウンシュリフトは政治局にこう報告している。

 『全ロシア非常委員会(ヴェー・チェーカー)は、まず第一に、社会革命党・メンシェヴィキの組織を、個々の非合法活動家たちと同様に、組織の指導者もすべて見つけだし、壊滅させるために徹底的な作業を続行するよう提案する。党の指示にもとづき、国家的規模の大々的な作戦を展開しなければならない……』(225)

 レーニンは同意した。まもなく政治局は、このウンシュリフトの報告にもとづいて、メンシェヴィキを「僻地」に追放する措置を強化することを決めるとともに、国外追放とすることにも反対しなかった(226)。」(P.155)

 (注225)、最新史料研究ロシア中央文書保管所、フォンド二、目録一、資料二四四七二、ファイル一

 (注226)、同文書保管所、フォンド二、目録二、資料六四一、ファイル一

 〔殺人指令文書26〕、1922年5月15日、17日、レーニンによる銃殺刑の範囲拡大とテロル指令

 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島1』にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第42巻、P.586)に載っている。5月17日手紙は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)にある。

 「五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキにいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出されたばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑を規定していた。これは満足すべきものではなかった。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた(その中には、第六九条による宣伝および煽動…特に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは主要な結論を司法人民委員にこう説明した。

 『同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェヴィキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これらの活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけねばならないと思う』(傍点はレーニン)

 銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ)これにすぎるものはない!(国外に追放された者は多かったろうか?) テロとは説得の手段である。このことも明白だろう!

 だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解することができなかった。彼にはおそらく、この定式をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのようにとらえたらいいかわからなかったにちがいない。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけるようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。

 『同志クルスキー! われわれの会談を補うものとして、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおくる……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおもう。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい(狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命題を公然とかかげるということがそれである。

 法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広く定式化しなければならない。なぜならば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を与えるだろうからである。

        共産主義者のあいさつをおくる    レーニン』

 私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわしい。

 この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンのこの世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺言の重要部分であるという点で特に貴重である。この手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さな書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨終の床となった場所であった。」(P.342)

 10、飢饉死亡者500万人

 これを(カッコ)つきにしたのは、レーニン・政治局の(1)意図的政策による餓死者数と、(2)天災要因が基本の飢饉死亡者数との区別が、現時点での研究では不明確だからである。飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人は、ほぼ定説になっている。ランメルは、そのうち、(1)意図的政策による餓死者数を250万人としている。

 これらには、天災の要因が当然ある。しかし、レーニンは、1918年5月から1921年3月までの2年10カ月間にわたる過酷な食糧独裁令を強行した。とくに1918年11月からの「軍事=割当徴発」制による一方的な穀物・家畜収奪路線は、全農民と国民を餓死寸前に追い込んだ。一方、それは、ソ連全土で、9000万農民の農業経営意欲を喪失させ、農業経営を縮小・崩壊させた。これは、まさに、レーニンのマルクス社会主義青写真に基づく、根本的に誤った市場経済廃絶路線だった。その誤りを主要な原因とし、餓死寸前の状況に、天災が重なって、500万人が飢え死にした。

 レーニンが、コサックや「存在しない富農=余剰穀物のある農民」にたいして、穀物をのこらず没収せよ! と指令したように、3大農民反乱地方、36県の農民との戦争状態地方、数百件の反乱地域にたいして、その武力鎮圧・殺戮、毒ガス使用だけでなく、それらの鎮圧後、報復として穀物の完全没収をさせて、意図的に餓死させるという飢餓の殺人政策を採ったことが考えられる。しかし、それは、「レーニン秘密資料」6000点の完全公開と飢饉史の研究が進まないと分からない。

 11、総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人

 レーニンが殺した自国民数は、これらのデータを単純合計すれば、百数十万人になる。これは、白衛軍との戦争における死者700万人を除く数である。意図的な飢餓殺人を合わせれば、数百万人を殺した。しかし、最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない。「レーニン秘密資料」6000点が全面公開されれば、この推計もさらに正確になる。以上のデータは、現時点における公表資料範囲内での近似値である。

 その大量殺人を遂行した社会主義国家暴力装置の中心部隊は、レーニン直属下のチェーカー委員長ジェルジンスキーとチェキスト28万人だった。チェーカー創設目的と実質的な共産党秘密政治警察28万人への異様な拡張目的の一つが、ソ連崩壊後に判明してきた。それは、〔殺人指令文書13〜18〕と〔殺人指令文書19〕にあるように、レーニンが、自由主義政党カデット絶滅だけでなく、ソヴィエト内の社会主義政党エスエル、メンシェヴィキをも殲滅し、ソヴィエト権力簒奪をし、共産党独裁政権を樹立することを、最初から企んでいたということである。何人かの研究者が、それを指摘している。

 〔殺人指令文書27〕、チェーカー創設とその組織、チェキスト

 チェーカーとは、十月革命後の1917年12月20日に設立された(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)のことである。それは、最初のソヴィエト政治警察で、1923年にGPUになり、1954年からKGBになった。のち投機取締が加えられるなど、名称には異同がある。革命直後の反革命派の動きや革命に反対する公務員のサボタージュを取締、革命法廷へ引き渡すことなどを任務とし、人民委員会議(内閣)に直属する機関として発足した。議長はジェルジンスキーで、委員会メンバーは8人だった。中央機関の設立に引き続き、18年には地方、運輸部門、軍隊内などにもチェーカーが創設された。当初この委員会は直接懲罰行動をとらず調査活動を主とするものとされたが、内戦と干渉戦争が本格化する中で、裁判所の決定なしに逮捕・投獄・処刑などを行いうるようになった。

 この設立決定の内容は、一度も公表されなかった。ただ、メンバーの一人ラツィスが、1922年2月10日「イズヴェスチヤ紙」で引用し、判明した。その内容は、ジャック・ロッシ『ラーゲリ・強制収容所注解事典』(恵雅堂出版、1996年)にある。

 「同委員会を反革命運動・怠業取締人民委員会議付属全露非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:

 (1)、誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動と怠業の企てと行動を監視し、これを撲滅すること。

 (2)、全ての怠業者と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。

 (3)、委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:1)情報部、2)組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局部、3)取締部。委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、怠業(サボタージュ)その他、右翼エスエル、怠業者(サボタージュ参加者)、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵のリスト公表などが講じられる。

 全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。」(P.41)

 人民委員会議は、議長にジェルジンスキーを任命した。「人民の敵」というレッテルは、スターリンからではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半後から、正式に使い始めたのである。

 左翼エスエルの司法人民委員スタインベルグによるジェルジンスキー報告メモ抜粋

 「本委員会は新聞・雑誌、サボタージュ、立憲民主党員、右派社会革命党員、破壊工作者およびストライキ参加者に対しとくに注意を払う。

 本委員会に属する抑圧的措置は以下のごとくである。財産没収、住居からの強制退去、配給券の取り上げ、人民の敵のリストの公表等。

 決議 本案を承認する。本委員会を、反革命、投機およびサボタージュと闘う全ロシア非常委員会と称する。公布」

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』

 4、ソ連崩壊後の発掘データによるレーニン像の大逆転

 〔小目次〕

   1、大量殺人指令における詭弁とウソの天才

   2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家

   3、大量殺人犯罪型社会主義者?

 1、大量殺人指令における詭弁とウソの天才

 私(宮地)の判断では、ソ連崩壊後に公開された「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)を見るかぎり、『農民』『労働者』『クロンシュタット水兵』『聖職者』『知識人』『赤色テロル』ファイルで分析したように、大量の赤色テロルにおいて、レーニンの側に正当性がまったくない。

 大量殺人指令において、レーニンが貼りつけたレッテルは、すべてレーニンの詭弁・ウソであったことが、ソ連崩壊後に判明した。とりわけ、「反革命」「富農(クラーク)」「反ソヴィエト」というレッテルの意図的な拡大解釈と、それをソヴィエト革命勢力である労働者・農民・兵士や社会主義他党派に貼りつけた手口は、まさにレーニンの思想犯罪といえる。革命勢力内部における大量殺人犯罪を、共産党秘密政治警察チェーカーとチェキスト28万人に遂行させる前提として、レーニンはその詭弁によって、チェーカーを殺人集団に変質させる思想教育犯罪を行った。レーニンは、権力奪取・権力簒奪クーデターの天才であるが、同時に、詭弁とウソの天才でもあったことが、ソ連崩壊後のデータによって証明されてきた。

 白衛軍と旧帝政勢力は、たしかに「反革命」である。しかし、労働者・農民・兵士によるレーニン路線への抵抗・反乱・異論は、レーニンの食糧独裁令による収奪と、その根底にあるマルクスの根本的に誤った社会主義青写真の市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論にたいする正当なものだった。レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターと食糧独裁令に反対・反乱した勢力は、二月革命以来のソヴィエト革命勢力であり、「反革命」などではない。レーニンは、意図的にその2つの勢力にたいする規定を混同させた。そして、恣意的に、「反革命」という概念を拡大解釈し、革命勢力内部の批判・反対者や他党派を「反革命」勢力とでっち上げるという詭弁を使って、大量殺人犯罪を続けた。

 個々の具体的な指令・命令・布告を見ても、それらがいかに誤りであったのかは、上記や他ファイルで論証した。ましてや、上記3件の予防的大量殺人にいたっては、完全な犯罪である。よって、(表)の数字の性格は、「レーニンの大量殺人」「レーニンが殺した」という日本語以外に適切な言葉がない。

 2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家

 レーニンの思想・理論とレーニン像にたいして、さらに鋭い痛烈な、突っ込んだ見方も成り立つ。以下のレーニン評価は、ヴォルコゴーノフ、ニコラ・ヴェルト、マーティン・メイリアや、ソ連崩壊後の多くの研究者たちが、共有しつつある。ロシア国内では、モスクワ国立歴史古文書大学学長アファナーシェフを初め、これが基本的になってきた。もっとも、ザミャーチンは『われら』において、先駆的で、もっとも痛烈な「レーニン=恩人=殺人者」規定を、1921年当時に行った。日本では、ここまで辛口のレーニン評価をする研究者はまだ出ていない。

    アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』レーニンがしたことへの根源的批判

 レーニンは、ボリシェヴィキ一党独裁政権樹立とその路線・政策を、マルクス主義社会主義青写真に基づく絶対的真理と信じていた。むしろ、それを絶対的真理として狂信するレベルの人間になって、1917年4月にドイツ軍封印列車に乗って帰国した。彼が創作した前衛党=共産党こそ、マルクス主義型社会主義の真理を体現し、実現できる唯一の政党である。それだけでなく、共産党とは、暴力革命・武装蜂起による権力奪取をなしうる軍事的政治的な鉄の規律によって鍛えられた軍事組織でもある。党中央決定の無条件実践を遂行する軍事的中央集権制の前衛党でなければ、真の「革命」を成し遂げ、科学的社会主義国家を確立することは不可能である。さらに、スイス亡命中、パリ・コミューンの敗北経験を徹底的に研究し、胸に刻み込んだ。それは、暴力革命で権力奪取をしたら、反革命勢力にたいするプロレタリア独裁=その生存権も奪う赤色テロルなしには、プロレタリア革命は挫折するという一面的な歪曲した狂信だった。

 ロシアにおいて社会主義を名乗る政党は多い。しかし、それらの政党との連立政権によっては、マルクス主義型社会主義を実現することは絶対にできない。なぜなら、メンシェヴィキは、ヨーロッパ型の改良主義政党であり、エスエル・左翼エスエルは、ロシア農民を土台とした社会主義構想の政党だからである。アナキストも、社会主義を名乗るが、中央集権国家を否定するので問題外である。いずれも、マルクス主義政党ではない。一国には一前衛党しか存在できない。いくら、社会主義を名乗っていても、それらの政党は、マルクス主義の真理を認識し、体現することができない。もちろん、ボリシェヴィキ支持率が低い時期には、臨時連立政府を倒すために、一時的に連立政権構想も語った。しかし、その秘めた本心は、最初から、共産党一党独裁権力だった。

 11月7日、ついに、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターのチャンスが到来した。そして、一党独裁権力奪取に成功した。真の社会主義国家・経済体制を確立するために、共産党以外の社会主義他党派を、全ロシア中央執行委員会や各級の全ソヴィエトから追放するだけでなく、その政党組織と全党員を逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放という手段によって、ロシアの政治社会から絶滅しなければならない。すべての社会主義他党派・党員の絶滅と、党独裁型社会主義実現とは、完全に一体の「革命」事業である。

    ダンコース『奪われた権力』レーニンによる社会主義他党派絶滅思想

 絶対的真理を体現している世界観政党・共産党だけが、唯一の「革命」勢力である。よって、共産党とその路線にたいして、批判・抵抗・反乱をする労働者・農民・兵士は、「反革命」勢力に転落した人民の敵となる。なぜなら、彼ら反対者は、異論・批判というレベルではなく、科学的真理にたいして、非科学的思想を社会に撒き散らすという駆除すべき害虫だからである。害虫や反革命者を肉体的政治的に抹殺するのは、全共産党員の正当な任務である。他党派と同じく、11月7日レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに参加・協力した者といえども、共産党に背を向けて、批判・抵抗・反乱を始めた者たちにたいして、皆殺し対応をするのは、当然の「革命」防衛という崇高・神聖な義務である。レーニンは、このような狂気の信念に基づいて、上記27通の〔殺人指令文書〕を発令した。未発掘指令文書や電報を合わせれば、百数十通になるはずである。

 これらが、ソ連崩壊後に発掘されたデータに基づくレーニン評価となってきている。

 3、大量殺人犯罪型社会主義者?

 このレーニン像が事実となると、別の疑問が生まれる。

 数十万人を殺したレーニンとは、一体何者であったのか。彼の人間性をどう考えたらいいのか。このような大量殺人を指令した人間は、はたして社会主義者を自称できるのかという根源的な疑問である。それとも、20世紀ロシアという特殊環境が、レーニンという大量殺人犯罪型社会主義者を産み出しえたのか。もちろん、レーニンだけでなく、共産党政治局全員が同一の思想・理論で武装していた。日本共産党を含めコミンテルン型共産党は、そのマルクス・レーニン主義思想で、世界中に生まれ、社会主義世界体制を作った。

 19世紀資本主義の実態は、マルクス・エンゲルスら多数の社会主義者を育んだ。しかし、それらは、思想・理論の段階で、実験段階に至らなかった。レーニンらボリシェヴィキだけが、マルクス主義社会主義青写真を世界で最初に実験する革命家になった。74年間に及ぶ実験の惨憺たる結果は、ユートピア思想の逆変種として、マルクス主義が、大量殺人犯罪型社会主義者という逆ユートピア革命家を生産したことを証明した。

 実験の結果、マルクス・エンゲルスも、『空想から科学へ』ではなく、空想的社会主義者だったことが判明した。レーニンは、その空想的社会主義理論を、2段階クーデターとチェーカー28万人という国家暴力装置を駆使して、数十万人の自国民を殺害しつつ、実験をするチャンスを手にした。彼にとって社会主義一党独裁権力こそすべてとなった。

 マルクスは、史的唯物論によって、資本主義から社会主義への発展が歴史的法則と断言した。その社会主義経済体制は、市場経済廃絶・貨幣経済廃絶になるとした。その政治体制は、プロレタリア独裁となるべきとした。それは、旧支配階級の権利を生存権を含めて剥奪するとし、大量逮捕・大量殺人システムを示唆・是認した。世界中の「マルクス主義革命」家たちが、それが、真理であり、法則であると信じて、熱狂した。

 レーニンは、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪クーデターを成功させた。彼とボリシェヴィキにとって、2段階クーデター政権が、絶対的真理の実験であるからには、支持率がいかに低下し、総反乱が勃発しようとも、政権交代という選択肢はありえなかった。根本的に誤った経済・政治路線にたいする総反乱の中で、党独裁権力を維持するには、社会主義他党派や批判・反対の労働者・農民・兵士の大量殺人を続けるしかなかった。そして、最初からの秘めた計画通り、ロシアにおける社会主義他党派殲滅の「革命」事業を、共産党秘密政治警察チェーカー体制によって遂行した。4年7カ月間の過程で、彼は、権力のための権力者に変質していった。絶対的権力者としてのレーニンは、歴史の法則どおり、絶対的に腐敗した。

 5、おわりに―レーニン批判の理由と視点

 一体、なぜ、私(宮地)は、このような人間を、無批判的に信奉したのか。その上、25歳から40歳まで、15年間も、彼の神話の伝導に専従しえたのか。その間、私は、彼の論文や公式の業績、多数のロシア革命史、ほとんどのソ連文学作品をむさぼり読むだけでなかった。民青地区委員長をやり、愛知県党の半分の党勢力を占める名古屋中北地区常任委員・5つの全ブロック責任者=現在の5つの地区委員長を歴任し、組織内の民青同盟員や共産党員に、彼の神話の伝導を行った。その面で、著作・論文によって、レーニン讃美を行ってきた学者・研究者のしたこととは、やや性質が異なる。

 それは、社会主義革命の理想に燃えた世界的時流に乗っただけなのか。1960年安保の入党世代なので、スターリンの犯罪は知っていた。しかし、レーニンの大量殺人犯罪をまるで知らなかった、あるいは、彼とスターリンの犯罪封印の策謀によって知らされなかった、ということですませられるのか。レーニン批判のHP他8ファイルと同じく、このファイルも、私自身の自己総括、自己批判の書でもある。今回で、レーニン批判ファイルは、(関連ファイル)にあるように、9つになった。

 なぜ、そんなにレーニン批判にこだわるのかと、友人知人からもよく聞かれる。もはや、『Good Bye Lenin』の時代になったから、そんな作業は無意味ではないかとも言われる。また、メールなどでも、何通も、すごい執念ですねと感心される。執念と見なされると、やや抵抗も感じるが、その通りかもしれない。そこで、長々と、いくつものレーニン批判を書く「執念」の根拠をのべる。

    ドイツ映画紹介HP『Good Bye Lenin』

 9つのレーニン批判ファイルを書いた理由は、2つある。

 第一、私の日本共産党体験とそこからくるレーニン批判である。

 私は、専従時代に、「21日間の監禁査問」を受けた。これは、1961年綱領が決まって以来、公表された中で、最長の不法監禁・共産党による精神的拷問事件だった。さらに、党中央批判にたいする不当な専従解任をされた。「日本共産党との裁判」という国際共産主義運動史上で前代未聞の民事本人訴訟によって、共産党一専従が共産党中央委員会を訴えた。共産党は、私が憲法の裁判請求権を正規に行使したことを理由として除名した。さらに、反党分子であるとして、さまざまな政治的社会的排除活動を仕掛けた。

 これらについて、私は、それが、日本共産党の党内犯罪であり、かつ、驚くべき反憲法犯罪であると規定している。それは、私にたいする共産党の政治的社会的殺人だった。その殺人犯罪者は、宮本顕治・不破哲三・上田耕一郎・戎谷春松の4人である。そこから、私は、共産党という組織は、なにか根本的におかしいという疑惑を深めた。党中央批判をしたことを本質的理由として、将棋の駒のように使い棄てられた共産党専従は、様々な証言による推定で数百人いる。彼らは、ほぼ全員が泣き寝入りした。1989年から91年の東欧・ソ連10カ国崩壊が、その疑惑の真相を、レーニンにまで遡って、とことん追究する必要があるという執念を成長させた。私は60年安保入党なので、スターリン崇拝時期を経ていない。日本共産党批判は、そのままストレートに、その根源であるレーニンへの批判と直結した。私への宮本・不破・上田らによる政治的殺人体験は、レーニンらによるロシア革命勢力数十万人への肉体的政治的殺人データと直接つながった。

    『日本共産党との裁判第1部〜8部』共産党の党内犯罪と反憲法犯罪

 第二、レーニンの大量殺人犯罪事例にたいする強烈な怒りである。

 9つのファイルに書いたレーニンの大量殺人犯罪データは、真実だと確信している。それにたいする怒りは、同時に、大量殺人事実とその〔殺人指令文書〕を、ソ連が崩壊するまで、完璧なまでに隠蔽してきたレーニンへの怒りと二重になっている。その犯罪を隠蔽・封印してきた者は誰なのか。スターリンは、『レーニン全集』を編纂したとき、都合の悪い文書を「レーニン秘密資料」6000点として、分離・封印した。しかし、〔殺人指令文書〕にあるように、レーニン自身が、「極秘」「複写をとるな」「(聖職者全員銃殺はトロツキーの任務だが)トロツキーの名前を出すな」などと、隠蔽を指令している。

 ただし、ソ連崩壊後、日本において、レーニンにたいする対応は、3種類ある。

 (1)、私のレーニンにたいする怒りの度合いは、彼の思想・理論を絶対的真理と信仰し、専従として15年間も、その宗教的伝導をしたという彼とロシア革命史に私がのめり込んだレベルに反比例しているともいえる。ただ、ここまで、レーニンの大量殺人犯罪を告発しているのは、現在のロシアとヨーロッパに比べて、日本においてまだ少数派である。なぜなのか。

 (2)、『Good Bye Lenin』と悟りきって、彼と絶縁した方が、あんたの精神衛生上いいのではないか、という人もいる。しかし、それを言う人は、ロシア革命史やレーニンと、ほどほどに付き合ったレベルではないかとも思う。

 (3)、一方、私のレーニン批判を聞くと、レーニン崇拝の立場から、逆の強烈な拒否反応を露骨に示す人もいる。日本には、日本共産党批判・スターリン批判では一致しても、レーニン批判となると、感覚的にまるで受け付けないレベルのレーニン信奉者はかなりいる。その人たちは、ソ連崩壊後に発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データを知らないのか、それとも、それらを反共宣伝として一蹴する姿勢を堅持する「革命」家なのか。

 レーニン批判の視点は、逆説のロシア革命史である。

 ただ、その時期を、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間に限定している。その内容は、公式のソ連共産党史、公認のレーニン讃美伝の否定だけではない。ソ連崩壊後に出版されたロシア革命史・レーニン評価において、発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データをほとんど無視する著作・論文への否定でもある。

 また、逆説のロシア革命史といっても、その視点は特殊である。今回を含め、9つのファイルは、多くの歴史書にあるような客観性・総合性を目的としていない。それは、二月革命以来のロシア革命勢力でありながら、レーニンに「反革命」とでっち上げられ、無実の罪で殺害・銃殺・強制収容所送りをされた数十万人の労働者・農民・兵士と社会主義他党派党員の側に立って、ロシア革命史を逆説的に分析するという視点である。殺された数十万人のロシア革命勢力の立場から、ソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪クーデターによって、ソヴィエト権力を共産党独裁権力に変質させたレーニンの犯罪を検証するものである。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c3

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
4. 中川隆[-14953] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:00:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2045]


ロシア革命|100年後の真実




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c4
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
5. 中川隆[-14952] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:08:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2044]
2018.12.08
戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(1/3)

 ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。


 ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。


 こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。


 そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。


 アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。


 ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)


 また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)


 アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。


 その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。


 シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。


 ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。


 ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)


 当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。


 軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。


 その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。


 1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。


 当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。


 ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。


 二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。


 結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。


 ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。


 結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。


 しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
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[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
6. 中川隆[-14951] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:09:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2043]

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c6

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
7. 中川隆[-14950] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:12:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2042]
右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c7

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
8. 中川隆[-14949] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:20:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2041]

ソ連の歴史




















http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c8
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
9. 中川隆[-14948] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:22:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2040]
ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


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【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405

筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405

ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。

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ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。

大粛清ー犠牲者70万人以上

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ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。

1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。

ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

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1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。

ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。

独ソ開戦ー犠牲者?

horocaust

ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。

しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

holocaust2

ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。

抵抗の果てに

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戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。

同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c9

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
10. 中川隆[-14947] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:40:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2039]

ドイツやソ連に占領されるとこうなる:

ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


▲△▽▼


『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


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カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c10

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
11. 中川隆[-14946] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:51:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2038]

そして、超天才ショスタコーヴィチの人生はこうなった


宇野功芳

クラシック作曲家の三大ネクラは、ブラームス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチではあるまいか。それでもチャイコフスキーの場合は、泣き節が大げさな上、メロディーが甘美なので深刻さが減じているが、救われないのはショスタコーヴィチだ。後期の弦楽四重奏曲を聴いてごらんなさい。もう、生きていくのがいやになる。


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ショスタコーヴィチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日 - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名である。

シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重苦しい雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』[1]が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」というイメージも加わった。

略歴

1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれる。
1915年 春、両親に連れられて初めて劇場を訪れ、オペラ(リムスキー=コルサコフの《サルタン王の物語》)を観る。夏には母親から初めてのピアノのレッスンを受ける。秋、シドルフスカヤ商業学校に入学。作曲も始める。
1916年 グリャッセール音楽学校に入学。
1917年 2月、街路上で同年配の少年が警官に殺害されるのを眼前で見る。同月、グリャッセールのところへ通う興味を失ってしまう。
1918年 秋、ローザノヴァにピアノを師事。(1917年とも)
1919年 第108労働学校が閉鎖。ユストニナ校に転校。秋、ペテルブルク音楽院に入学。グラズノフに師事する。
1921年 ユストニナ校を中退。
1922年 父が死去。
1923年 音楽院のピアノ科を修了。夏休みを利用した結核療養のために訪れたクリミアで、初のピアノ・リサイタルを開く。
1924年 11月、映画館「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏のアルバイトを始める
1925年 作曲科の修了にともない、音楽院を卒業。修了制作として交響曲第1番を作曲。
1926年 5月16日、交響曲第1番初演。秋、音楽院の大学院課程に進学。
1927年 1月、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場。
1928年 メイエルホリド劇場の音楽部長として1月から3月まで務める。
1930年 バレエ音楽「黄金時代」完成し、レニングラードで初演。失敗する。
1931年 バレエ音楽「ボルト」完成し、レニングラードで初演。同じく失敗する。
1932年 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を彼女に献呈。8月、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。
1933年 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。ピアノ協奏曲第1番初演。
1934年 レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。
1936年 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1月)とバレエ「明るい小川」(2月)に対するプラウダ批判。5月30日、長女ガリーナ生誕。
1937年 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。交響曲第5番初演(11月21日)。この成功により名誉を回復。
1938年 5月10日、長男マクシム生誕。
1939年 ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。
1940年 5月、労働赤旗勲章受章。ピアノ五重奏曲がスターリン賞を受賞。
1941年 交響曲第7番を作曲。翌年の初演は成功を収め、同年アメリカでも演奏された。レニングラード音楽院教授を辞任。
1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与。
1943年 3月、モスクワ音楽院教授に就任。国歌コンクールに参加。
1946年 ピアノ三重奏曲第2番がスターリン賞第2席を受賞。12月、レーニン勲章受章。
1947年 2月、レニングラード音楽院教授に復職。同月、作曲家同盟レニングラード支部の支部長に選出。10月、ロシア共和国人民芸術家の称号を授与。ロシア共和国最高議会代議員に選出。
1948年 ジダーノフ批判。9月、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任。
1948年 3月、世界平和文化科学会議出席のため渡米(ニューヨーク)。
1949年 オラトリオ「森の歌」作曲・初演。
1950年 「森の歌」がスターリン賞第1席を受賞。10月、ソヴィエト平和擁護委員会の委員となる。11月、世界平和会議出席のためワルシャワ入り。
1952年 「革命詩人の詩による10の詩曲」がスターリン賞第2席を受賞。12月、世界平和会議出席のためウィーンへ。
1953年 交響曲第10番作曲、初演(12月17日)。6月、文化代表団の一員としてオーストリアに派遣される。
1954年 交響曲第10番に関する討議会(いわゆる第10論争)が作曲家同盟で開かれる。8月、ソ連人民芸術家の称号を授与。9月、国際平和賞受賞。12月、妻ニーナ死去。同月、スウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に選出される。
1955年 東ドイツ芸術アカデミーの準会員に選出される。11月、母ソーフィヤ死去。
1956年 1月、サンタ・チェチーリア芸術アカデミーの名誉会員に選出される。9月、レーニン勲章受章。
1957年 春に開かれた第2回作曲家同盟大会において作曲家同盟初委員長となる。交響曲第11番がレーニン賞受賞。
1958年 オックスフォード大学より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。国際シベリウス記念賞受賞。9月、右手の麻痺(後に脊椎性小児麻痺であることが判明)で入院。
1959年 9月、米国務省主催による文化交流プログラムでワシントンで開催されたソヴィエト祭に、ソヴィエト代表団の一員として派遣される。メキシコ音楽院名誉教授の称号を受ける。
1960年 2月、再び右手の治療のため入院。10月、息子マクシムの結婚式で転倒、右足を骨折、入院。作曲家同盟第1書記に任命。
1961年 9月、ソビエト共産党員となる。12月、入党と引き替えにレニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰する。交響曲第4番初演(12月30日)。
1962年 交響曲第13番作曲、初演。ソヴィエト連邦最高会議代議員に選出される。第2回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。6月、右手の治療のため三度入院。 月、イリーナ・スピーンスカヤと再婚。11月、ゴーリキー市で行われたコンサートで「祝典序曲」を指揮。
1963年 ユネスコ国際音楽評議会名誉会員に選出。
1964年 バシキール自治共和国人民芸術家の称号を受ける。
1965年 心臓病の悪化で入院。ソヴィエト芸術学名誉博士の学位を授与。
1966年 5月、生誕60周年記念演奏会出演後、心筋梗塞を起こし入院。第3回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。8月、イギリス・ロイヤル・フィルハーモニック協会金賞受賞。10月、レーニン勲章受章。社会主義労働英雄の称号を授与。
1967年 3月、オーストリア共和国名誉銀記章授与。9月、右足骨折で入院。
1968年 5月、シャルル・クロ記念フランス・レコード協会1等賞受賞。ロシア共和国作曲家同盟理事に選出。《ステパン・ラージンの処刑》がグリンカ賞受賞。世界平和擁護委員会の委員に選出。
1969年 交響曲第14番作曲、初演。ウィーン・モーツァルト協会がモーツァルト記念メダルを授与。
1970年 クルガンのサナトリウムで8月まで療養生活を送る。ベートーヴェン生誕200年祭のソヴィエト連邦実行委員会委員長に就任。8月、治療のため再入院。11月、《ソヴィエト民警の行進》がソヴィエト文学・芸術コンクール1等賞受賞。フィンランド作曲家協会名誉会員に任命。
1971年 3月、第24回共産党大会代議員を務める。9月、2回目の心筋梗塞で入院。10月革命勲章受章。
1972年 5月、東ドイツ友好の星金賞受賞。7月、聖トリニティー大学より名誉音楽博士の学位を授与される。スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1973年 デンマーク・ゾンニング基金名誉賞受賞。6月、ノース・ウェスタン大学より芸術名誉博士の学位を授与。8月、サハロフ非難書簡に署名。姉マリア死去。ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1974年 男声合唱曲《忠誠》、弦楽四重奏曲第14番がグリンカ賞受賞。ソ連邦最高会議民族ソヴィエト〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。
1975年 4月、フランス芸術アカデミーの名誉会員となる。最後の作品「ヴィオラソナタ作品147」完成。7月、体の不調を訴え入院。8月4日に再入院の後、8月9日、ソ連の首都モスクワの病院にて肺がんで逝去。8月14日、ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬される。

詳細

1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノ。1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された。

1920年代後半から1930年代前半にかけては、アルバン・ベルクやダリウス・ミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。特にピアノ協奏曲第1番ではジャズに、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではベルクの歌劇『ヴォツェック』などに触発された内容となっている。

しかし、1936年に歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判(プラウダ批判)を受け、自己批判を余儀なくされる。そのような状況下、批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判後、新たに作曲された交響曲第5番以降は、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「社会主義リアリズム」-「形式において民族的、内容において社会主義的」 - の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、交響曲や室内楽曲を多く作曲。

中でも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲や、友人の突然の死を悼んだピアノ三重奏曲第2番、独ソ開戦直後から書き始められた交響曲第7番「レニングラード」が有名である。

1948年、ソビエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判(「ジダーノフ批判」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た。

一方、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。

1953年にスターリンが死ぬと、第9番以降、ジダーノフ批判以後は書かれていなかった交響曲(第10番)を約8年ぶりに発表。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。

1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残した。特に、当局の締め付けが和らいだスターリン死後から1960年代前半までのいわゆる「雪解け」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、交響曲第4番やヴァイオリン協奏曲第1番といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ。

特にこの時期を代表する作品が弦楽四重奏曲第8番と交響曲第13番の2曲である。

弦楽四重奏曲第8番(1960年)では、曲の大半で自作の引用を大々的に行うほか、ドイツ音名の自分のイニシャル「DSCH」の音列を中心主題の素材として用い、自身へのレクイエムとした。また、交響曲第13番(1963年)は、ナチによるユダヤ人の大虐殺を、ウクライナの谷底バビ・ヤールで起こった実際の事件を取り上げて告発。共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求されるなどの事件もあったが、1930年代、1940年代のような厳しい批判にはほとんど晒されることもなく、音楽には一切手が加えられず現在でもショスタコーヴィチの代表作として聴かれている。また、60代を過ぎた1960年代半ば以降は、透明で熟達した技法の深化がみられる『ミケランジェロ組曲』やヴァイオリンソナタ、ヴィオラソナタなどのほか、十二音技法やトーン・クラスターを導入した『A・ブロークの詩による7つの歌曲』や交響曲第14番などで前衛的な作風へのアプローチを再び試みるなど、死の直前まで意欲的に作曲を続けた。ショスタコーヴィチの最晩年を代表する作品には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした交響曲第15番(1972年)、すべての楽章をアダージョとし、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』からの引用もみられる弦楽四重奏曲第15番(1974年)、死の1か月前に完成し、ショスタコーヴィチの「白鳥の歌」とも呼ばれる、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作ヴィオラソナタ(1975年)などがある。

ショスタコーヴィチはピアニストとしても活躍した。卓越したテクニックを有し、音楽院を卒業してからは作曲家になるかピアニストになるか真剣に悩んでいたほどである。第1回ショパン国際ピアノコンクールにソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選したほか、2曲のピアノ協奏曲や『24の前奏曲とフーガ』など、自作の初演・録音も多数行なった。しかし、後年は脊椎性小児麻痺の影響で右手が不自由となり、ピアノを弾くことが出来なくなった。また大のサッカー好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。サッカーの審判の資格も持っていた。

作風

ショスタコーヴィチの作品には、J.S.バッハのフーガ、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、マーラーの交響曲、ベルクの和声語法や引用法などの影響が見られ、オーケストレーションはあまり楽器の音色を混ぜない原色配置である。原則としてショスタコーヴィチの音楽は調性音楽の範囲内にあるが、無調的な主題を用いることも多く、最晩年には十二音技法を自分なりに消化した独自の音列技法やトーンクラスター等の前衛技法を用いたりしている。戦争や生死などをテーマとした重い作品が多い一方、交響曲第9番やジャズ組曲のような軽妙な作品も多く作曲している。

一般に作風の変化の境界点は、以下の項目に分けられる。

初期・前衛的な作品群


作品1 - 作品46(1919年 - 1936年) 少年期から音楽院入学以前の極初期は除き、ショスタコーヴィチの作風は、前衛的な音楽から出発したといってよい。例えば、交響曲第1番の冒頭では、グラズノフに和声の変更を指摘されていた。「前衛的」と最もはっきりとわかる初期の作品としては、『弦楽八重奏のための2つの小品』(作品11)、ピアノソナタ第1番(作品12)、格言集(作品13)、そして交響曲第2番(作品14)がある。しかし、『タヒチ・トロット』(作品16)や映画音楽『新バビロン』(作品18)以降は、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽の影響も受けることとなる。この分野の傑作としてはバレエ『黄金時代』(作品22)、劇音楽『条件付の死者』(作品31)、ピアノ協奏曲第1番(作品35)などがあるが、枚挙に暇がない。交響曲第4番(作品43)の第3楽章の中間部は、明らかに軽音楽の影響が濃厚である。ショスタコーヴィチの、新ウィーン楽派に影響を受けたという意味での「前衛音楽」としての最後の作品は、管弦楽のための『5つの断章』(作品42)である。この作品は、交響曲第4番同様発表が控えられ、初演が行われたのは1965年になってからである。ゴーゴリの短編に取材したオペラ『鼻』(作品15)は、彼自身交流のあったメイエルホリドの斬新な舞台演出の影響を受け、古典形式を基本としながらも、ベルク、クルシェネクら同時期の作品を参考にしたきわめて前衛的な作風で発表当時から賛否両論を巻き起こす問題作となり、次作のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(作品29)とともに彼の初期作品のピークとなる。初期はロシア音楽の伝統を受け継ぎながら最新の音楽を取り上げるなど機智と独創性に富んだ作風であったが、ムツェンスク郡のマクベス夫人』がスターリンの怒りを買い、折からの粛清が絶頂期にあることも鑑み、前衛色は失われていった。

社会主義リアリズム

作品47 - 作品92(1936年 - 1953年) 第4番のような前衛性を控えた交響曲第5番(作品47)は初演後に「社会主義リアリズムのもっとも高尚な理想を示す好例」と評価された[2]。この時期のショスタコーヴィチが音楽を担当した映画は「社会主義リアリズム」に基づいたテーマのものばかりで、ロシア革命を主題としたものが多い。例えば、ノンポリの学生が革命の理念に目覚め、社会主義的に成長する姿を描いた『マクシム三部作』(『マクシムの青春時代』作品41、『マクシムの帰還』作品45、『ヴィヴォルグ地区』作品50)、ロシア革命の英雄チャパーエフの活躍を描いた『ヴォロチャーエフ砦の日々』、暗殺されたキーロフを髣髴とさせる人物が主人公の『偉大な市民』2部作(作品52、55)、ロシア革命におけるレーニンとスターリンの活躍を描いた『銃を取る人』(作品55)、ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた『忘れがたき1919年』(1952年、作品89)である。第二次世界大戦の勃発後はピアノ五重奏曲(作品57)や交響曲第8番(作品65)、ピアノ三重奏曲第2番(作品67)などこの路線から離れた作品もいくつか残している。しかし、1948年に「ジダーノフ批判」が出てからは、オラトリオ『森の歌』(作品81)や映画音楽『ベルリン陥落』(作品82)、『革命詩人の詩による10の詩曲』そしてカンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、再び意識したように「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品を残している。この時期の作品としては交響曲第8番などの他に、歌劇『賭博師』や、ヴァイオリン協奏曲第1番なども、社会主義リアリズムの路線からは離れた作風であると評価されることが多い。


ユダヤ音楽への傾倒

ショスタコーヴィチの作曲家としての「ユダヤの音楽」への関心が明らかな最初の作品は ピアノ三重奏曲第2番 (1944年)といわれていた[3][4]。もちろんショスタコーヴィチはユダヤ人ではなかったが、マーラーへの興味をはじめとし、1936年には、プラウダ批判によって、自分の悲運をユダヤ人のそれに沿って象徴するものと考えるようになった[5]。1937年の交響曲第5番第3楽章にはユダヤ音楽の要素が表れそれは交響曲第3番(1929年)からのユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律の引用でもある[6] また交響曲第7番(1941年)第1楽章のクライマックスなどにはクレズマー旋律が使われている[7]。音楽院の愛弟子でレニングラード攻防戦で戦死したユダヤ人、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作(1944)を行ったこともある。作品にユダヤ音楽の主題が使われているのは歌曲集『ユダヤの民俗詩から』(1948年)、 ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)、24の前奏曲とフーガ(1951年)、 プーシキンの詩による4つのモノローグ(1952年)である[8]。 ピアノ協奏曲第2番(1957年)第2楽章 交響曲第9番(1945年)フィナーレの後半には、ユダヤ人には「それ」としてハッキリ分かる形でユダヤ音楽が引用されているという。弦楽四重奏曲第8番(1960年)には、ピアノ三重奏曲第2番最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されている。その他の作品では交響曲第13番 (1962年)、また 交響曲第15番 (1971年)最終楽章での交響曲第7番の引用にユダヤ音楽のテーマを見出せる[9]。 ショスタコーヴィチの周りには、例えば親しい友人に作曲家のミェチスワフ・ヴァインベルク、俳優ソロモン・ミホエルスなどユダヤ人は多かったし、このほかオーケストラの団員にもユダヤ系は多かった。


スターリン死後

作品93 - (1953年 - ) 1953年3月5日、スターリンが死んだ。独裁者の死は、ソヴィエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」の音列も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「雪どけ」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」されたのもこの頃だ。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。

「雪どけ」後

ブレジネフ時代になり、国内では締め付けが強まるが、ショスタコーヴィチ自身の生活は安定し数々の栄誉に包まれるなど、音楽活動を続ける環境はスターリン時代と比べ格段と恵まれていた。相変わらず体制に迎合した作品もあるが、作風は芸術性が高まり、七楽章の弦楽四重奏曲第11番(1966年)・マーラーの『大地の歌』の影響を受けた声楽つきの交響曲第14番(1969年)。豊かな響きと緊張感漂う映画音楽『リア王』(1970年)などの意欲作を相次いで発表した。とくに『ブロークの詩による七つの歌曲』(1967年)と弦楽四重奏曲第12番(1968年)においては十二音技法に挑戦するなど、その研究心は衰えなかった。

最晩年になると、作風も哲学風で研ぎ澄まされた独特の透明感が支配的となる。交響曲第15番(1971年)、弦楽四重奏曲第14番(1973年)・弦楽四重奏曲第15番(1974年)では過去の作品からの引用が顕著になるが、そこにはすでに健康の衰えを感じ、死を意識した作曲者の思いが見え隠れする。それは政治に翻弄された波瀾万丈の人生を振り返り、達観したかのような感を受ける。また「ミケランジェロの詩による組曲」(1974年)では、自身の芸術の総括をルネサンスの芸術家に譬えたものとして評価されている。


作品

「ショスタコーヴィチの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

ショスタコーヴィチの創作の中心は、交響曲と弦楽四重奏曲にあった。これらのなかでも特に有名なのが、交響曲第5番、第7番、第10番と弦楽四重奏曲第8番である。また歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』 は古今のオペラの傑作の一つとされる。


交響曲

交響曲第1番 ヘ短調 作品10(1925年)
交響曲第2番 ロ長調 作品14「十月革命に捧ぐ」(1927年)
交響曲第3番 変ホ長調 作品20「メーデー」(1929年)
交響曲第4番 ハ短調 作品43(1936年)
交響曲第5番 ニ短調 作品47(1937年)
交響曲第6番 ロ短調 作品54(1939年)
交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」(1941年)
交響曲第8番 ハ短調 作品65(1943年)
交響曲第9番 変ホ長調 作品70(1945年)
交響曲第10番 ホ短調 作品93(1953年)
交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」(1957年)
交響曲第12番 ニ短調 作品112「1917年」(1961年)
交響曲第13番 変ロ短調 作品113(1962年)
交響曲第14番 ト短調 作品135(1969年)
交響曲第15番 イ長調 作品141(1971年)


弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49(1938年)
弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68(1944年)
弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73(1946年)
弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83(1949年)
弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92(1952年)
弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101(1956年)
弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108(1960年)
弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110(1960年)
弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117(1964年)
弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118(1964年)
弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122(1966年)
弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133(1968年)
弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138(1970年)
弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142(1973年)
弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144(1974年)

弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)


管弦楽曲・吹奏楽曲

スケルツォ第1番 嬰ヘ短調 作品1(1919年)
主題と変奏 変ロ長調(1922年)
スケルツォ第2番 変ホ長調(1924年)
タヒチ・トロット(1928年)
E・ドレッセルの歌劇『コロンブス』のための2つの小品(1929年)
ジャズ・オーケストラのための第1組曲(1934年)
5つの断章(1935年)
ジャズ・オーケストラのための第2組曲(1938年)
荘厳な行進曲(1941年)
バレエ組曲第1 - 4番(1950年 - 53年)
祝典序曲(1954年)
ノヴォロシースクの鐘(1960年)
ロシアとキルギスの主題による序曲(1963年)
交響詩「十月革命」(1967年)
交響的哀悼前奏曲(1967年)
ソヴィエト民警の行進曲(1970年)
インターヴィジョン(1971年)
「緑の工場」のための序曲
2つの前奏曲(アルフレート・シュニトケ編曲)


協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35(1933年)
ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102(1957年)
ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99)(1948年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129(1967年)
チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107(1959年)
チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126(1966年)

室内楽曲

弦楽八重奏のための2つの小品 作品11(1927年)
チェロ・ソナタ ニ短調 作品40(1934年)
ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57(1940年)
ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8(1923年)
ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67(1944年)
ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134(1968年)
ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147(1975年)
弦楽四重奏のための2つの小品(1931年)
ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)
チェロとピアノのためのモデラート
3つのヴァイオリン二重奏曲
ハープ二重奏のためのポルカ 嬰ヘ長調
3つの小品


オペラ

鼻(1928年)
ムツェンスク郡のマクベス夫人(1934年)Op.29
カテリーナ・イズマイロヴァ(1963年) - 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版。Op.114
賭博師(1941年)
大きな稲妻
オランゴ(1932年)


オペレッタ
モスクワ・チェリョームシキ(1958年)Op.105

合唱曲

オラトリオ「森の歌」(1949年)
カンタータ「わが祖国に太陽は輝く」(1952年)
混声合唱のための無伴奏合唱曲十の詩曲(1951年)
バラード「ステパン・ラージンの処刑」(1964年)
反形式主義的ラヨーク

声楽曲

日本の詩人の詞による6つの歌 作品21(1928年) オーケストラ伴奏版あり
プーシキンの詩による4つのロマンス 作品46 オーケストラ伴奏版あり
歌曲集「ユダヤの民族詩より」 作品79 オーケストラ伴奏版あり
レールモントフの詩による2つのロマンス 作品84
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による4つの歌曲 作品86
プーシキンの詩による4つのモノローグ 作品91
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による5つのロマンス 作品98
スペインの歌 作品100(1956年)
風刺 作品109(1960年)
自作全集への序文とその序文についての短い考察 作品123
アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲 作品127
マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲 作品143 オーケストラ伴奏版あり
ミケランジェロの詩による組曲 作品145 オーケストラ伴奏版あり


バレエ音楽

黄金時代(1930年)
ボルト(1931年)
明るい小川(1935年)
お嬢さんとならず者(1962年)

映画音楽

新バビロン 作品18(1929年)
女一人 作品26(1931年)
黄金の丘 作品30(1931年)
呼応計画 作品33(1932年)
司祭とその下男バルダの物語 作品36(1935年)
愛と憎しみ 作品38(1934年)
マクシムの青年時代 作品41(1935年)
女友達(1935年)
マクシムの帰還(1937年)
ヴォロチャーエフの日々(1937年)
ヴィボルグ地区(1938年)
友人たち(1938年)
偉大なる市民第1部(1937年)
銃を取る人 作品50(1938年)
偉大なる市民第2部 作品55(1939年)
おろかな子ねずみ 作品56(1939年)
コルジンキナの冒険 作品59(1940年)
ゾーヤ 作品64(1944年)
素朴な人々(1945年)
若き親衛隊 作品75(1948年)
ピロゴーフ(1947年)
ミチューリン 作品78(1948年)
エルベ河の邂逅 作品80(1948年)
ベルリン陥落 作品82(1949年)
ベリンスキー(1950年)
忘れがたき1919年(1951年)
偉大な川の歌・ユニティ 作品95(1954年)
馬あぶ 作品97(1955年)
第1軍用列車(1956年)
5昼夜 作品111(1960年)
ハムレット 作品116(1964年)
生涯のような1年(1965年)
ソフィア・ペロフスカヤ 作品132(1967年)
リア王 作品137(1970年)
永遠の使者
戦艦ポチョムキン(この映画のために曲が作られたわけではなく、1976年の復刻時に既存の交響曲が使用された)
チェリョームシキ


劇付随音楽 全10作品

南京虫 作品19(1929年)
射撃 作品24(1929年)
ルーレ・ブリタニア 作品28(1931年)
ハムレット 作品32(1932年)
スペインにサリュー 作品44(1936年)
人間喜劇 作品37(1933年 - 1934年)
リア王 作品58a(1941年)
母国 作品63(1942年)
ロシアの川 作品66(1944年)
勝利の春 作品72(1946年)

ピアノ曲

5つの前奏曲(1921年)
3つの幻想的な舞曲(1925年)
2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調(1925年)
ピアノ・ソナタ第1番(1926年)
10の格言集(1927年)
ピアノ・ソナタ第2番(1943年)
24の前奏曲(1933年)
子供のノート(1944年)
陽気な行進曲(1949年)
24の前奏曲とフーガ(1952年)
2台のピアノのための小協奏曲(1954年)
グリンカの主題による変奏曲(1957年)

編曲作品

ドメニコ・スカルラッティの2つの小品 作品17
ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」の管弦楽編曲 作品58
ムソルグスキー 歌劇「ホヴァーンシチナ」の管弦楽編曲 作品106
ムソルグスキー 歌曲集「死の歌と踊り」の管弦楽編曲
A.ダヴィデンゴの2つの合唱曲の管弦楽編曲 作品124
ロベルト・シューマン チェロ協奏曲 イ短調の編曲 作品125
ストラヴィンスキー 詩篇交響曲の4手ピアノ用編曲
リムスキー・コルサコフ 私はほら穴で君を待っていたの管弦楽編曲
チシチェンコ チェロ協奏曲第1番の再オーケストレーション
ヨハン・シュトラウス2世 「ウィーン気質」の編曲
ヨハン・シュトラウス2世 「観光列車」の編曲
オネゲル 交響曲第3番 典礼風の4手ピアノ用編曲
ベートーヴェン 蚤の歌の管弦楽伴奏用編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第8番 悲愴の第2楽章の管弦楽編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番の第1楽章の管弦楽編曲
マーラー 交響曲第10番の4手ピアノ用編曲
シューベルト 軍隊行進曲の管弦楽編曲
ロシア民謡「ヴォルガの舟歌」のオーケストレーション

自作の編曲

歌劇「鼻」のピアノ編曲
交響曲第3番のピアノと声楽用編曲
バレエ「明るい小川」よりモデラート
主題と変奏 作品3のピアノ用編曲
交響曲第4番の2台ピアノ用編曲
交響曲第10番の2台ピアノ用編曲

その他の作品

兵士(1917年頃)
森の中にて
自由の讃歌
ソヴィエト讃歌
国歌(ソヴィエト連邦)
赤軍の歌(アラム・ハチャトゥリアンとの共作)
ポルカ
4つのワルツ
平和の鳥
儀式用行進曲
2つのマズルカ
我が祖国の栄光を歌う

創作ジャンルは宗教音楽以外のほぼ全てにわたる。労働歌で1917年から1944年の間ソヴィエト連邦国歌でもあった『インターナショナル』の管弦楽編曲もある。

著作

本人の著書と称されているものが、日本では2冊出版されている。ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークの手による『ショスタコーヴィチ自伝――時代と自身を語る』(ラドガ出版社訳 ラドガ出版社〔発売:ナウカ〕、1983年)である。前者は、はじめは1979年にアメリカ、ドイツで出版されたもので、ショスタコーヴィチの評価をめぐって論議を巻き起こした。発表された当初からソビエト作曲家同盟などのほかローレル・フェイのような西側の音楽学者からも偽書である疑いが投げかけられ真贋については議論があった[1]。詳細は「ショスタコーヴィチの証言」を参照。

後者は1980年にソ連で刊行された。「自伝」とあるが、正確には、ショスタコーヴィチが生前にさまざまな媒体に発表した文章などを年代順にまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際には、別人が書いていたのだ」と主張している。すべての記事はソビエト体制下では公式見解として発表されたものである。

ショスタコーヴィチはさまざまな人物と頻繁に手紙をやりとりしており、数冊が出版されている。邦訳書は2006年現在、存在しない。とりわけ有名なのは、音楽学者イサーク・グリークマンと行われた書簡集である。1993年にロシアで出版されたもので、英訳されている (Story of a Friendship, trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。

2006年9月25日、ショスタコーヴィチ生誕100周年を記念し、ショスタコーヴィチと公私共に親友だったイワン・ソレルチンスキーとの往復書簡が出版されている。これは、イワンの息子であり音楽学者のドミトリーが編纂した書籍。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーが知り合った1927年から、ソレルチンスキーが急逝した1942年までにやりとりされた、現存するほぼすべての書簡が掲載されている。

なお子息2人(ガリーナとマクシム)による、多くの写真を交えた回想証言『わが父ショスタコーヴィチ』(田中泰子訳、音楽之友社、2003年)が出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c11

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
12. 中川隆[-14945] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:55:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2037]

宇野功芳

「ここ何年かで日本はもとより、世界のオーケストラが格段にうまくなった。
複雑に音が入り組んだマーラー、ショスタコーヴィチの交響曲には以前にも名盤が存在したが、指揮者の解釈はともかく、オーケストラの性能は十分とはいえなかった。
今ようやく、作曲者の意図した音が細大漏らさず、出てくるようになった気がする」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO92976910Z11C15A0000000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c12

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
13. 中川隆[-14944] koaQ7Jey 2019年11月14日 05:31:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2036]

平林遼(指揮者)

ショスタコーヴィチ 解説 交響曲第1〜15番 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ECi1eJLgNeQ


ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 解説 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XzF8q6q_sMA
https://www.youtube.com/watch?v=AZC-HUVnpv0
https://www.youtube.com/watch?v=MzGKkKgJWTs
https://www.youtube.com/watch?v=WTzqSDPKXTc


ショスタコーヴィチ ロシアとキルギスの主題による序曲 解説 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6naFbMeh008


ショスタコーヴィチの交響詩《十月》詳細解説/Symphonic poem October by D.Shostakovich - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RrlviGz2Z-w

平林遼(指揮) @ryo_hirabayashi

広上淳一、ロリン・マゼール等各氏に師事 。
2019年第4回ニノ・ロータ国際指揮者コンクール「聴衆賞」・ファイナリスト(最高位次点) 。第1回イタリア国際指揮者コンクール「第3位」。2015-2017 ベルリン。第1回リッカルド・ムーティ・イタリアン・オペラ・アカデミー最終選考招聘。
東京音大指揮科卒。
https://twitter.com/ryo_hirabayashi?lang=ja


平林 遼 指揮者 未来の音楽研究所 音楽哲学・音楽思想
https://www.ryohirabayashi.com/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c13

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
14. 中川隆[-14943] koaQ7Jey 2019年11月14日 06:23:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2035]
2006.08.19 明るい!?ショスタコーヴィチ
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060819/1156002386

クラシック作曲家の三大ネクラは、ブラームス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチではあるまいか。
それでもチャイコフスキーの場合は、泣き節が大げさな上、メロディーが甘美なので深刻さが減じているが、救われないのはショスタコーヴィチだ。
後期の弦楽四重奏曲を聴いてごらんなさい。もう、生きていくのがいやになる。
(講談社現代新書『新版・クラシックの名曲・名盤』宇野功芳著より引用)

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日-1975年8月9日)は、「社会主義」ソヴィエト連邦を象徴する作曲家だ。

体制と理想との間で悶え苦しんだ作曲家ショスタコーヴィチ。

「社会主義」という理想と裏腹に、ソヴィエト社会は密告社会だった。

ショスタコーヴィチの作品は、「社会主義」リアリズムの路線に沿った作品であると国家よりお墨付きを与えられたり、反対に、作品によっては、ブルジョア的、退廃的であると批判された。

史上最悪の独裁者の一人であるスターリンの指導の下、生命の安全すら危惧された境遇で、その恐怖は計り知れない。

体制と理想の間で悩み苦しみながら、社会的な制限の中で、最大の理想を追い求めた音楽家がショスタコーヴィチだ。


私はショスタコーヴィチという作曲家にとても興味がある。

彼の人生は、国家と体制が個人の内面にまで入り込んできた時代を象徴するように思え、その作品は、特殊な状況下における人間の孤独な内面の戦いを暗示しているように思えてならないからだ。

彼の作品がネクラであるのは当然のことで、逆に明るかったりしたら、現在、彼の膨大な作品を私たちが楽しむこともできないはずだ。


◇  ◇  ◇


ショスタコーヴィチ:ジャズ音楽集
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000EMH7VY/ushinabesquar-22/

アーティスト: シャイー(リッカルド),ショスタコーヴィチ,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団,ブラウティハム(ロナウド),マスーズ(ペーター)

1. ジャズ組曲 第1番 第1曲 : ワルツ
2. ジャズ組曲 第1番 第2曲 : ポルカ
3. ジャズ組曲 第1番 第3曲 : フォックストロット
4. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第1楽章 : Allegretto
5. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第2楽章 : Lento
6. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第3楽章 : Moderato
7. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第4楽章 : Allegro con brio
8. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第1曲 : 行進曲
9. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第2曲 : リリック・ワルツ
10. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第3曲 : 第1ダンス
11. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第4曲 : 第1ワルツ
12. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第5曲 : 小さなポルカ
13. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第6曲 : 第2ワルツ
14. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第7曲 : 第2ダンス
15. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第8曲 : フィナーレ
16. タヒチ・トロット(二人でお茶を) 作品16

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ジャズ組曲第2番 第3曲 第1ダンス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=71nw5r3n9iQ
リッカルド・シャイー指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

Shostakovich Jazz Suite Riccardo Chailly - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Jazz+Suite++Riccardo+Chailly

Royal Concertgebouw Orchestra · Riccardo Chailly

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ショスタコーヴィチ: ジャズ組曲 ヤンソンス 1996 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VxpPokL863U
https://www.youtube.com/watch?v=EhUqLuoy4zs

マリス・ヤンソンス指揮 Mariss Jansons 8, 9, 11 March.1996
フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra
Shostakovich : Jazz Suite No.1

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そんなネクラなショスタコーヴィチが、明るい作品を残している。

それが、ジャズ組曲だ。

このCDには、第1番と第2番が収録されているどちらも名曲だ。

中でも「プロムナードオーケストラのためのジャズ組曲第2番」のワルツ。

この曲は、スタンリー・キューブリックの遺作・映画『アイズ・ワイド・シャット』のテーマとして使われた。

優雅な旋律。まるで舞踏だ。

禁欲的な曲に収まりきらない、そこから溢れ出る退廃の香り。

ソヴィエト体制の下で、交響曲第5番を作曲した同じ作曲家とは思えないほど、この曲にはロマンティシズムが溢れている。

ショスタコーヴィチという人物、その音楽性には興味が尽きない。

その世界はどこまでいっても深淵だ。


◇  ◇  ◇


トルストイ『戦争と平和』の冒頭。

19世紀のナポレオンのロシア侵攻という歴史的事件をむかえる貴族社会の様子が描かれている。

来るべき戦争に対してもどこか他人事な社交界の空気。

トルストイの描写はとても精緻で、優雅な社交界の姿が目に浮かぶ。

この曲を聴いて連想されるのはそんな空気だ。

時代はだいぶ違うが、一言で言うと、「ロシア的」という言葉に尽きると思う。


「ソヴィエト連邦」を象徴する作曲家、ショスタコーヴィチの音楽に「ロシア」の残り香が感じられる。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060819/1156002386

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c14

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
15. 中川隆[-14942] koaQ7Jey 2019年11月14日 06:40:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2034]



ショスタコーヴィチ「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」作品16
2015 MAR 3 1:01:01 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/03/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e3%80%80%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%92%e3%83%81%e3%83%bb%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e4%bd%9c%e5%93%81/


「タヒチ・トロット」(Tea for Two、二人でお茶を)は懐かしい。この原曲はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家ヴィンセント・ユーマンスがNo, No, Nanette(ノウ、ノウ、ナネット)という作品の挿入歌として作って大ヒットした。

このコメディーの筋はなかなか面白い。金持ちの娘ナネットはブロードウェイの舞台に立ちたい。そこに2万5千ドル出せば恋人のトニーが曲を書いてキミを主演女優にするよという話が来る。そこでナネットは遺産管財人の弁護士に2万5千ドルを出すようかけ合うが、遺産は伯父さんが1929年の大恐慌ですってしまっていて実はもうない。弁護士はそこで「48時間キミがYesを言わなかったら出そう」という賭けにでる。何をきかれても No, No といい続けたナネットはそれで誤解を招いて大騒動になりトニーを取るか芝居を取るかになってあきらめ、めでたしめでたしというあらすじだ。

しかし作曲されたのは1925年だから大恐慌のくだりはあとづけなんだろう。Tea for Twoは曲が先にできていて、それにとりあえず作詞家が歌詞を即興でつけて、後で直そうと言っていたら結局そのままになってしまったそうだし、上演しながら作っていくというスタイルだった。ちなみに19世紀ヴィクトリア朝の英国で紳士が淑女を午後のお茶に誘い”Tea for two“と注文 するのがプロポーズするサインだったそうで、和訳の「二人でお茶を」はちょっと変だ。「紅茶ふたつ!」だ。

「48時間、Noを言い続ける」というのをぱくったのだろうか、ショスタコーヴィチの交響曲第1番を初演した指揮者のニコライ・マルコが自宅で彼にこれを聞かせ、「キミが1時間以内に記憶だけでこの曲を編曲することはできない(つまりNo)に100ルーブル賭けよう」と勝負を挑んだ。そうしたら22才のショスタコーヴィチはそれを45分(40分説もあり)で管弦楽スコアにしてしまい、賭けに勝ったとされる(作り話という説もあるが)。1927年のことだ。

これをどこで覚えたのか、僕は記憶がないが、ショスタコーヴィチのを聴く前に知っていたことは間違いない。ジャズ、ポップシンガーなど数えきれないほどの人がフィーチャーしているから確証はないが、このドリス・デイの歌がそうだったかな?という感じだ。




変ニ長調が長3度上のヘ長調に転調するのも斬新だが、いきなりサブドミナントで入るのがとてもおしゃれだ。こういうのはおかたいドイツ音楽じゃない、フランスのシャンソンの家系という感じで大好きだ。

ショスタコーヴィチがこれをちょいちょいと編曲したのがこれだ。こっちは変イ長調だ。気に入ったのか「タヒチ・トロット」という別名にして堂々と作品番号までつけている。今だったらコンプライアンス問題になってるな、大らかな時代だったんだ。




https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/03/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e3%80%80%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%92%e3%83%81%e3%83%bb%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e4%bd%9c%e5%93%81/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c15
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
16. 中川隆[-14941] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:05:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2033]

2013.05.20 ショスタコーヴィチ再入門
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20130520/1369061625


井上道義さんとサンクトペテルブルク響のショスタコーヴィチの演奏会を聴いて以来、ショスタコーヴィチの音楽が頭から離れない。


私は昔、クラシック音楽を聴きはじめたすぐ後にショスタコーヴィチに夢中になったが、その後、ベートーヴェンやブルックナーなどの、ドイツ・オーストリアのクラシック音楽を聴くようになって、ショスタコーヴィチから離れてしまっていた。井上道義さんはショスタコーヴィチの魅力について「複雑なところ」とインタビュー記事で明快に答えていた。先日の演奏会後のスピーチでは、「昔は嫌だなあと思っていたが、なぜか夢中になった」とマイクを握りしめた。その後、全曲演奏会という破天荒なプロジェクトを成功させるまで至り、いまでは彼のプログラムの中心にある。


クラシック音楽を聴き始めたころ、私は、ショスタコーヴィチの作品に特有の独特で謎めいたメロディが好きだった。


そこで今夜のブログは、これからショスタコーヴィチを聴いてみたいという人のことも意識しながら、過去に夢中になった楽曲を紹介し、これから聴いてみたい曲を挙げることで、再びショスタコーヴィチに接近していく自分の記録としたい。


■舞台管弦楽のための組曲(ジャズ音楽集)

私が最初に夢中になったように、ショスタコーヴィチの入門にはまずこの音楽が良いと思う。 理由は「聴きやすい」点。ジャズ 音楽集としてCDが発売されている。舞台管弦楽のための組曲の第2ワルツは映画『アイズ・ワイド・シャット』でもテーマ曲として使用されたポピュラーな楽曲で、哀愁漂う名曲である。哀愁の漂う曲でありながら、この曲を際立たせているのは、知的で謎めいている点だ。ショスタコーヴィチの作曲家としてのポテンシャルの異様な高さを物語る名曲である。

ショスタコーヴィチ:ジャズ音楽集
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000EMH7VY/ushinabesquar-22/

Shostakovich Jazz Suite Riccardo Chailly - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Jazz+Suite++Riccardo+Chailly

アーティスト: シャイー(リッカルド),ショスタコーヴィチ,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団,ブラウティハム(ロナウド),マスーズ(ペーター)



■交響曲第7番

2番目に聴くなら、交響曲が良い。ショスタコーヴィチの交響曲を初めて聴くなら、もっともポピュラーな5番ではなくて、7番が良いと思う。圧倒的な音の洪水に溺れる。今回、7番をもう一度聴いてみて、改めて、凄まじい曲だと思った。この密度の音楽。普通ではない。芸術にとって当り前なことが保障されない体制、自由に作品を書くことが許されないソ連という特殊な環境で、こんな巨大な作品を書いたショスタコーヴィチは異才という他ない。


Shostakovich Symphony No.7 in C major - Gergiev - Mariinsky Theatre Orchestra - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fXmxFTLT0j0

I. Allegretto (00:00)
II. Moderato (poco allegretto) (28:23)
III. Adagio (43:25)
IV. Allegro non troppo (1:03:19)

Mariinsky Theatre Orchestra
Valery Gergiev, conductor

August 21, 2006
Berwaldhallen, Stockholm





■交響曲第5番

もちろん5番も素晴らしい。日本では時に『革命』という標題で呼ばれるが、この「革命」というのはまったく根拠のない標題で、この名前を聴くと、違和感がすごい。そんな標題で呼ばないでほしいと個人的に思っているが、そんな私の違和感に配慮することなく、かなり頻繁に使用されている。

Evgeny Mravinsky conducts Shostakovich Symphony no. 5 - video 1973 - YouTube


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Shostakovich Symphony No 5 Yevgeny Mravinsky Tokyo 1973 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dDil02N31uI

Leningrad Philharmonic Orchestra
Tokyo, 26.VI.1973
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Shostakovich - Symphony n°5 - Leningrad - Mravinsky Vienna 1978 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZSJKq2zvsEM

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Vienna, 13.VI.1978

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Mravinsky - Shostakovich Symphony No.5 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sh936XImR_o

Mravinsky - Shostakovich Symphony No. 5 in D minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic Orchestra
1983.11.20, Minsk Philharmonic Hall



■弦楽四重奏曲

かなりディープである。音楽史的にはベートーヴェンの同ジャンルと並ぶ傑作とされている。はっきり言ってとっつき辛い。難解であるがテンションは異常に高い。私も挑戦したが、作品群の輪郭すらつかめていない。しかし無人島にひとつ持っていくなら、案外こういうCDなのかもしれない。これから末永く付き合っていきたい。

Shostakovich Emerson String Quartet - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich+Emerson+String+Quartet

Borodin Shostakovich String Quartet - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Borodin++Shostakovich++String+Quartet




■ヴァイオリン協奏曲第1番

ヴァイオリン協奏曲の傑作のうちの一つ。ベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲とは全く違った匂いを放つ傑作。超絶技巧を要する難曲だが、それが癖になる。例えば、ヒラリー・ハーンのような優れたヴァイオリニストが弾くと、一流アスリートの人間離れした身体能力を目にするような感じがする。


Hilary Hahn - Shostakovich Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor - YouTube


Hilary Hahn, violin - Berliner Philarmoniker
Mariss Jansons, Conductor
Shostakovich: Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor
Recorded live at the Suntory Hall, Tokyo, 26 November 2000

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shostakovich Violin Concerto No.1 in A minor - Hahn - Chailly - Royal Concertgebouw Orchestra - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4J_kyHTbQcM

Hilary Hahn, violin

Royal Concertgebouw Orchestra
Riccardo Chailly, conductor

January 11, 2002
Grote Zaal, Concertgebouw, Amsterdam



■交響曲4番

7番や5番に次いでポピュラーなのは10番だが、4番がすごい。音的には7番のような感じだが、メッセージはもっと不可解で、マーラー的にドロドロした魑魅魍魎の世界。4番がマーラー的で、5番がベートーヴェン的。6番は「田園」的。7番は音の洪水で、8番は深刻。まっすぐ進化していないところがショスタコーヴィチの魅力の一つであると最近思っている。

shostakovich Symphony No.4 In C Minor, Op.43 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Symphony+No.4+In+C+Minor%2C+Op.43++++Myung+Whun+Chung



■交響曲全集

ショスタコーヴィチの交響曲は、5番のようにポピュラーな曲がある一方で、とっつき難いものが多い。15番などは最後の交響曲にふさわしく凄い曲だが、聴きやすい曲とは言えない。また、声楽入りの1113〜14番などもそうで、メッセージ性が強く、そのメッセージというのもソ連体制下で書かれたものなので、21世紀に生きる私はこの辺りは、いままで敬遠してきた。しかし聴かずに済ますのは勿体ない。現時点での私のショスタコーヴィチ再入門はこのあたりである。全集は様々な指揮者が取り組んでいる。きっと聴き飽きることはない。一生ものだ。


ショスタコーヴィチ:交響曲

Mravinsky Shostakovich Symphony - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Mravinsky++Shostakovich++Symphony++

Gergiev Shostakovich Symphony - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Gergiev++Shostakovich++Symphony


■その他の名曲について

あとは、ピアノ協奏曲第1番、チェロ協奏曲(2曲)、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が著名だが、私はほとんど知らない。弦楽四重奏、交響曲全集を聴き終えたら、そのあたりに取り組んでみたいと考えている。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20130520/1369061625

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c16
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
17. 中川隆[-14940] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:47:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2032]

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47
2014 NOV 4 0:00:38 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/



交響曲第5番についてまずお断りしておく必要があります。僕はこの曲の第4楽章が嫌いであり、第3楽章までしか聴かない者だということです。

ではどうしてここに登場させるのかというと、第1楽章の後半と第3楽章ラルゴがショスタコーヴィチの書いた最も美しく上質の音楽に属するものだからです。特に後者はベートーベンの9番とブルックナー7番以降のそれとともに交響曲の緩徐楽章の最高傑作と思います。それゆえに5番は捨て去ることができないのです。

この曲との付き合いは自分としては古く、72年ですから高2のときに新宿のアカネヤで買ったLP(後述)がなれ初めです。どうしてこの曲を選んだかは忘れましたが、帯に記されていた「革命」というニックネームから何となくというところだったでしょうか。聴いてみてよくわからず、第1楽章がえらい暗いなという印象ぐらいでした。

それが我慢して何度か聴いているうちに、さっき大嫌いと書いた第4楽章が好きになり(!)全曲を閑があればかけるほど気に入ってしまったのです。そうやって入門したショスタコーヴィチをあれこれ知るうちに、だんだんそれが安っぽく思えてきた。彼の音楽にそういう性質は潜んでいるのですが、あの楽章は特に作曲家に嘲笑され踊らされている気になってきてしまいました。

彼の音楽は楽想、楽器法にマーラーの影響を強く感じます。この5番でいえば第2楽章がそれですし、4番の第3楽章ラルゴの出だしはマーラー節そのものです。マーラーはシニカルな人で音楽で自分の人生の軋轢や不幸をあぶりだして、いたぶるみたいなところがある。自虐的な私小説を思わせます。何か苦味のあるものが無数の矢のように飛んでいる(そこが苦手なのです)。

マーラーでは自分という内側に向いていたその矢が、ショスタコーヴィチの場合は外に向いている。そう感じます。私小説ではなく、もっとパブリックなものとして。それが「ヴォルコフの証言」なる書物に示唆されている体制への反抗のようなものかどうかはともかく、マーラーと同様にシニカルであり、場合によってはもっと攻撃的なものだったり、聴き手の予想をふっとはぐらかす後退だったりもします。

ヴォルコフの真偽不明の本の出現によって第4楽章コーダのテンポがどうあるべきかという議論が出ましたが、それはたいして意味がないように思います。僕はコーダ云々など以前に、この大言壮語の楽章の存在自体が本音とは遠い気がするのです。作曲者が本気で書いてスターリン体制への反抗と睨まれ発表が頓挫した交響曲第4番を思い起こして下さい。こんな安物の音楽をまじめに書くような男が書く音楽ではないことはあまり異論が出ないのではないでしょうか。



ということで僕は家では第3楽章ラルゴまでしか聴きません。終楽章がブルックナー9番のように未完成であったと思えばいいのです。4番も静かに消える第3楽章ラルゴで終わりです。それならば5番の印象は大きく変わり、掛け値なしの名交響曲になります。



petrucciに楽譜がないのでお示しできませんが、第1楽章の第2主題、ハープの和音と弦の葬送風リズムの部分のこの世のものと思えぬ妖しげな和声変化、ブルックナーの7番にそっくりなフルートに続いて不気味に轟くピアノの低音が導き出す展開部の有機的な主題の複合、コーダに入るあたりから漂う言葉にならない神秘感、最後のチェレスタ!ここはベートーベン第九の第1楽章コーダの高みに至っているとさえ思います。天才とは恐ろしいものです。

第3楽章の神々しさは筆舌に尽くしがたく、血の出るような弦の不協和音の軋み、2番目のヴァイオリン主題の凍てつく大気に虹がかかるような和音の素晴らしさ、ハープの部分に続く主題の和音変化!神品です。弦のトレモロに乗ってオーボエ、クラリネットが吹く主題は冷たく濁った黄泉の水に咲く蓮の花のようです。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の第3楽章の神秘世界は5番の蓮の花あたりとそっくり。7番をおちょくったバルトークもこの第3楽章は認めたと考えて不思議ではないでしょう。最後はハープのハーモニクスで悲歌となります。なんて凄まじい音楽だろう。

この後にあの粗野で音楽的にも不出来な第4楽章が来るという神経は許容しがたく、作曲者の音楽的良心も許容していなかったと固く信じます。だからここでおしまいです。体制側はこの曲を称賛し、ショスタコーヴィチは満場の大喝采だった初演後に「フィナーレを長調のフォルテシモにしたからよかった。もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか。考えただけでも面白いね」と語ったそうです。

終楽章冒頭の4度のティンパニはR・シュトラウスのツァラトストゥラ、上に跳ね上がる主題は英雄の生涯を連想します。バカ殿を喜ばす「英雄の鼓舞」として格好の小道具です。安っぽい弦のマーチ主題にけばけばしいトランペットの伴奏がつく所は殿の顔をうかがっての嘲笑、その先の騒がしくもあほらしい太鼓連打、コーダのから騒ぎでとどめのヨイショ。要するに将軍様むけのフィナーレだったと僕は信じております。



キリル・コンドラシン / モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団


Shostakovich Symphony no 5 in D minor op 47 (Kirill Kondrashin) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=bDzLRiU7wc4&feature=emb_title

Conductor : Kirill Kondrashin
Moscow Philarmonics Symphony Orchestra




前述のとおり僕はこれのLPを高2の時に買い、いたく気に入って暗記するほど聴きました。そのバイアスがあるかもしれませんが、音楽の核心をがっちりとつかまえてテンポと強弱を伸縮させた非常に説得力のある快演と思います。ちなみにコンドラシンが初演した4番はさらに大変な名演であります。腕達者なオケが剛柔とりまぜた敏感な反応を見せ、ffのトゥッティのカロリーはとても高く音が濁らない。しかも肝心の第1,3楽章の神経にふれてくるような繊細さと神秘感はこれが最高のもののひとつです。第4楽章まで聴く前提で書きますと、主部が素晴らしいテンポでコーダは古典的に大きめの減速となり、聴き慣れたせいもあるでしょうが僕には唯一耐えられるものです。




ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

Shostakovich Symphony No. 5 (Haitink) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YS4dcZ90fN0





もうひとつ、この指揮者とオケのものは何を聴いても品格が高い。85年にロンドンで購入。初めてCDというものを買った物の一つ で、やはり懐かしい演奏ですが、久々に聴きなおしてみて感服です。ロシア風のけばけばしさや初演時のすさんだ空気とは無縁。第2楽章にすら漂う気品、第3楽章のppの弦の和声の室内楽のような美しさなど、純音楽的アプローチの最高峰であります。では迫力不足?とんでもない。とにかくオーケストラが抜群にうまく重量感も力感も満点、ハイティンクがいつもながらで余計なことは何せず必要なことに足しも引きもしない。何かとんがったことを有難がる方には物足りないでしょうが、名曲とは音楽自体が立派なのですからそんなものは何もいらない。そういう事を教えてくれる録音です。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c17
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
18. 中川隆[-14939] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:53:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2031]

「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/

「スターリン弾圧を生き延びた名画」という副題の番組。革命後のロシアで行われた暴挙は人間の残虐さと無知蒙昧をさらけだしたが、テロリズムのニュースのさなか、100年たった今も人は変わっていないことに暗澹たる思いがある。

イオセブ・ジュガシヴィリ(通称ヨシフ・スターリン)の所業は今のロシア人はどう評価しているのか。ウラジーミル・ウリヤノフ(通称ウラジーミル・レーニン)なる物理学者の子がひいたレールの上をグルジアの靴職人の子スターリンが爆走した。シベリアに抑留され銀行強盗と殺戮を重ね、ロシア革命という天下取りのプロセスはどこか三国志の曹操を思わせる。

しかし100年前はまがりなりにも政権の正統性に神でも民衆でもなくイデオロギーが関与する余地があったことは注目に値する。神と暴力とメディアによる大衆扇動よりはずっと知性の裏付けがある。しかし知性も殺戮の道具になれば同じことだ。チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」といった。


Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn
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面白かった。中央アジア・ウズベキスタンのオアシスの町ヌクスの美術館にあるイーゴリー・サヴィツキー(1915〜1984)が集めた数千点のロシア・アバンギャルドの絵画の話である。スターリンによる芸術へのテロリズム。僕は音楽の側面しか見ておらず絵は無知だが、暴挙で消されかけサヴィツキーの情熱によってヌクスで命脈を保った1910−30年頃の絵のパワーは素人目にも圧倒的だ。


Uz_Kurzin_Capital
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このクルジンの「資本家」のインパクトは今も強烈だ。資本主義に生きる自分を描かれたような気がする。クルジンはクレムリンを爆破しろと酔って叫んだかどで逮捕され、シベリアの強制収容所送りとなった。


ルイセンコの「雄牛」。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/uz_lysenko_bull-2/


凄い絵だ。痛烈な体制批判のメタファーと考えられている。一目見たら一生忘れない、ムンクの「叫び」(1893年)のパンチ力である。この画家の生涯についてはつまびらかになっていないというのが時代の暴虐だ。


ストラヴィンスキー、シャガール、カンディンスキーら革命でロシアを出た人たちの芸術を僕らはよく知っているが、彼らの革新性にはこうした「巣」があったことは知られていない。ストラヴィンスキーの何にも拘束されず何にも似ていない三大バレエは、このアヴァンギャルド精神とパリのベルエポックが交わった子供だったのではないか。プロコフィエフの乾いたモダニズムは「西側の資本主義支配層の堕落した前衛主義」に聞こえないぎりぎりの選択だったのではないか。


Uz_Korovay_Dyers
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この「巣」を総じて「ロシア・アバンギャルド」と呼ぶ。アバンギャルドはフランス軍の前衛部隊のこと(英語だとヴァンガード)だが、転じて先進的な芸術運動をさすようになった言葉だ。

「何物にも屈せず、何物も模倣せず」をテーゼとする。

これらの画家たちはカンバスの表の面に体制を欺く当たり障りない風景画や労働讃美の絵などを描き、裏面に自分のステートメントを吐露した真実の絵を描いて「何物にも屈せず」の精神を守っR_Smirnov_Buddhaたそうで、それを「二枚舌」と呼んでいる。


これはショスタコーヴィチを思い出して面白い。

「ヴォルコフの証言」なる真偽不詳の本が出版され第5交響曲の終楽章コーダをどう演奏するかの論争があった。ハイティンクやロストロポーヴィチがその意を汲んだテンポでやったが、あれは偽書だからムラヴィンスキーのテンポが正しいのだという風な議論だったように記憶する。

僕の立場は違う。「証言」が偽書であろうとなかろうと、皮相的な終楽章はあの4番を書いた作曲家の「二枚舌」にしか聞こえない。スコアの裏面に真実のステートメントをこめた楽譜が書いてない以上、コーダのテンポなど解決策でもなんでもなく、あの楽章は演奏しないという手段しかないと思う。同じ意味で僕は7番はあまり聴く気がしない。


「何物にも屈せず、何物も模倣せず」。このテーゼはなんて心に響くのだろう。別にアバンギャルドという言葉を知って生きてきたわけではないが、このテーゼはささやかながら僕個人が子供時代から常にそうありたいと願ってきた生き方そのものを鉄骨のような堅牢さで解き明かしたもののような気がしてならない。若い頃のピエール・ブーレーズがそうだったし、彼の録音が自分の精神の奥深いところで共鳴したのはそういうことだったのかもしれないと思う。

僕は芸術家ではないが、ビジネスをゼロから構築していくのはアートに通じるものがある。その過程がなにより好きであって、うまくいくかいかないかは結果だ。これから何年そんな楽しいことが許されるのかなと思うと心もとないが、心身健康である限り思い切りアバンギャルドでいこうと、ロシアの無名画家たちの絵に勇気をもらった。

有名であったり無名であったりすることの真相はこんなに不条理なものだし、そういうことをひきおこす人生という劇だって、いくら頑張った所でどうにもつかみどころのないものだ。だったらアバンギャルドするのが痛快で面白い。屈して、模倣して、大過がない、そんな人生ならやらないほうがましだ、改めてそう思う。
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[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
19. 中川隆[-14938] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:02:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2030]

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)
2017 SEP 8 1:01:27 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/08/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac4%e7%95%aa-%e3%83%8f%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8143/

2017年9月 6日(水) 19:00 東京芸術劇場
指揮=ヤツェク・カスプシク
ヴァイオリン=ギドン・クレーメル

ヴァインベルク:ヴァイオリン協奏曲 ト短調 作品67 (日本初演)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第4番 ハ短調 作品43

紀尾井町のオフィスで火急の案件が電話で飛びこんできて、没頭していたら19:00の開演に間に合いそうもないことに気がついた。焦ってタクシーに飛び乗って電話の続きだ。「10分前あたりに着きそうです」なんて言われてやれやれと思ったら間抜けなことに「サントリーホール」と運転手さんに指示しており、完全にそう思い込んでいたのを降りてから気がついた。まいったぞ、またタクシーで池袋へ急行だ。しかしよかった、4番は間に合った。

4番は134人の大編成の難曲でなかなか聴けない。家の装置で大音量で再生してもピンとこない箇所が数々あり、そこがどう鳴るべきかずっと気になっていた意中の音楽である。東京芸術劇場のアコースティックはこの大管弦楽には好適で、前から6列目だったがほぼマストーンと分厚い管楽器の混濁がなく、第1楽章の弦のプレストによるフガートの明晰さも圧倒的だった。総じて、非常に素晴らしい演奏で指揮のカスプシク、読響に心から敬意を表したい。

4番をショスタコーヴィチは1番と考えていたふしがある(1−3は習作だと)。マーラー1番の引用が各所にあるのはそのためだろうか。第1楽章のカッコーはすぐわかるが第3楽章冒頭は巨人・第3楽章であり、コントラバスが執拗に繰り返すドシドソラシドは巨人・第2楽章でありどきっとする。木管の原色的な裸の音や金管・打楽器のソリステッィックな剥き出しの用法など全曲にわたって管弦楽法は大いにマーラー的だ。

1936年1月から2月にかけてオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が「プラウダ批判」にあいショスタコーヴィチは4番の初演を見合わせた。プラウダ批判とはソ連共産党 中央委員会機関紙『プラウダ』による、プレスの体裁を纏った「将軍様」スターリンの検閲機関である。いまの北朝鮮を想像すればいい。ということはこの曲には将軍様のご機嫌を損ねて自身や家族の命を危うくする何物かがこめられていたはずだ。その何物かは隠喩であって賢明な聴衆には伝わるが愚鈍な政府はわからないと思慮したのが、情勢が変化して意外にそうではないという危惧が作曲家の心に警鐘を鳴らし始めたと考えるのが筋だろう。

ではそれは何か?私見だが、巨人は自己の作曲の第1幕の、そして第3楽章の終結はスターリン圧政による「死」の暗示ではないだろうか。虐殺の死臭漂う中での皮肉な門出。運命への怒り、哄笑とシニカルな抗議。プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが拒絶した結末がこのスコアになっていると僕は思う。引用されるカルメンの闘牛士も魔笛のパパゲーノも、お考えいただきたい、女の死であり道化の首つり自殺の暗示なのではないか。将軍様を「死神の道化」にしたものだ。彼は忖度して作品を曲げることはしなかったが、そのかわり、演奏を撤回した。芸術家としての矜持を僕は称賛したい。それはあたかもフィガロの結婚を書いたモーツァルトに重なるものとして。

何よりの死の暗示は第3楽章の終結、全曲のコーダとなるチェレスタの部分である。カスプシクの含蓄ある指揮によって、僕はここのコントラバスとティンパニの心臓が脈動するような音型がチャイコフスキーの悲愴交響曲の終楽章コーダから来ていることを確信した。その直前、金管のファンファーレが強烈な打楽器の炸裂で飛散する部分で死を象徴する楽器であるタムタム(銅鑼)の一撃があることも悲愴と同じである。それはチャイコフスキーの死を飾る音楽であった。自身のデビュー交響曲を死で飾る境遇を彼は音楽の常識ある人だけにわかる隠喩でこう表現したのではないか。

そして、さらに4番の終結部ではマーラー9番の悲痛なヴァイオリンの高域による終結が模倣される。マーラーは悲愴の低音域による死を高音に置換しているが、ショスタコーヴィチはここで両者を複合してメッセージをより強固とし、より天国的で透明だが死体のように冷たくもあるチェレスタによる昇天で自己を開放している。この終結を導く主調のハ短調に交差するシ・ラ・ド(バスクラ)、ソ・ド・ファ#(トランペット)の陰にレがひっそりと響き、悲愴の「ロ短調」が半音下の複調で亡霊のように浮かび上がるのを聴くと僕はいつもぞっとする。トランペットはツァラトゥストラを模しており、そのハ長調対ロ長調の隠喩である凝りようはおそるべしだ。最後のチェレスタの、雲の上に浮上する、ハ短調とは不協和なラ、レが魂の天界への望まざる飛翔のように感じられる。

どこといって悲しい短調の旋律やストーリーがあるわけでもないのに、演奏が終わると心は何処からかやってきた重たい悲嘆に満ちていて、涙がこぼれ、僕は拍手は控えてただただこうべをたれて合掌していた。何という素晴らしい音楽だろう。4番はショスタコーヴィチの最高傑作である。1−3番を習作と見れば、仮面をつけていない彼の唯一の交響曲でもある。僕が5番は聴くが、第3楽章までしか聴かない理由を分かってくださる方はおられるだろうか?終楽章はモランボン楽団の行進曲なのである。スターリンは死んだが、彼はもう4番の世界に戻ることはできなかった。そして、最後と悟った15番に、4番の精神を受け継いだあの不可思議な終結を持つ引用に満ちた謎の交響曲を書いたのである。

この曲の真実を抉り出した演奏はこれをおいてない。ショスタコーヴィチは親友だった(と思っていた)ムラヴィンスキーに初演を依頼したが断られる。理由は不明だが危険を察して逃げたとしたら親友は策士でもあったのだろう。コンドラシンが初演を引き受けたことに隠された思想的共鳴があったかどうかも不明であるが、後に西側に出たことからもその可能性があると思料する。初演したモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の楽想の咀嚼と共感は深く、未聴のかたはまずこれで全曲を覚えることをおすすめする。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/08/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac4%e7%95%aa-%e3%83%8f%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8143/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c19

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
20. 中川隆[-14937] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:10:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2029]

ショスタコーヴィチの4番×チョン・ミュンフン
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20080517/1211029757

ショスタコーヴィチの交響曲の魅力は何かというと、屈折したものとか、鬱屈したものとか、「芸術的な感性を率直に爆発させていない部分」を噛み砕いていく楽しみがある点。暗号を解読するようでもあり、スルメを噛むようでもある。


これはショスタコーヴィチ全盛期がソ連という、自由がない特殊な時代・特殊な体制下にあったからだが、ごく普通の人間だったら、危険な作品を書かずに、簡単に政治体制に迎合してその中に組み込まれてしまったと思う。ヘタレでなかったというか、精神的に強靭な人だったのだ。


そんな、決してとっつきやすいとはいえないショスタコーヴィチの交響曲の中で、私は4番などはよく聴く方で、何も考えずにドライブする時などにCDをかけている。


爆発するオーケストラ(第1楽章冒頭と第3楽章冒頭はともに凄い迫力だ)。咽ぶような弱さ。アイロニー。パロディ。晦渋。雑音。不協和音。「声なき声の集合のような」傑作で、こうした音楽の圧倒的な存在感を耳にすると、気持ちが静かになってくるというか、不思議に心が澄んでくるのだ。


曲は長大な第1楽章と第3楽章が短い第2楽章を挟む、全3楽章構成になっており、マーラーからの影響も言われるなど、様々な工夫を凝らしたモダンな作品となっている。続く交響曲第5番が「暗」から「明」へと至り、勝利でフィナーレを迎える古典的な交響曲であるのと対照的である。

Shostakovich Symphony No.4 In C Minor, Op.43 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Symphony+No.4+In+C+Minor%2C+Op.43++++Myung+Whun+Chung

Philadelphia Orchestra · Myung Whun Chung
Released on: 2002-01-01


このCDは、第4番のみの収録で全3曲しか入っていないが、密度は濃い。情報量がものすごい。チョン・ミュンフンが生み出す、凄まじい音の洪水。音量は大体これくらいだろうなという予測のリミットをどんどん超えて、更新していく。オーケストラのあおり方、扇情的な音楽作りという点で、この人の右に出る指揮者はいないだろう。名人集団のフィラデルフィア管が、ヒステリックなまでに叫び、啼く。それでも崩れない。巧さも聴かせる。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20080517/1211029757
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c20

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
21. 中川隆[-14936] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:16:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2028]


2006.08.20 「深刻」ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060820/1156096568


今日もショスタコーヴィチ。

なんだか、このブログはまったく世の中の流れを無視して書いていますね。

読んでいただいてる方々、お付き合いいただきありがとうございます。


さて、今日は交響曲。

ショスタコーヴィチの代表作にして、交響曲史上の傑作のひとつでもある交響曲第5番について。

5番。

クラシックファンにはよく知られていることですが、5番目の交響曲には傑作が多いのです。


例えば、

ベートーヴェンの第5は、日本では『運命』として知られているし、

チャイコフスキーの5番、

ブルックナーの5番、

マーラーの5番、

プロコフィエフの5番、

シベリウスの5番、

など、傑作揃いです。

5番を代表作とする作曲家はとても多いのです。

このように重なると、偶然として片付けられず、数の魔力とも呼びたくなります。


◇  ◇  ◇


さて、ショスタコーヴィチの交響曲第5番です。

「深刻」としかいいようのない曲ですが、彼の作品のなかでは比較的聴きやすい曲です。


ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)
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音楽之友社の『ショスタコーヴィチ』にも書いてありましたが、

ショスタコーヴィチと、ソ連共産党との関係は極めて難しいものだったようです。

作曲家の芸術的な理想と創造力。

きちんと「社会主義」的な作品を書いているか監視する国家。

昨日も書いたように、彼は厳しい制限の中での理想を追い求めました。

こうした「鬱屈」、「屈折」こそ、ショスタコーヴィチの特色だと思いますし、作品の魅力だと思います。


◇  ◇  ◇


この曲は形式は古典的な四楽章形式です。

最終的に、ベートーヴェンの第5番交響曲のように、勝利で終わる曲なのですが、そこに至る道筋が何とも非常にグロテスクです。

また、フィナーレの最後の勝利にしても、唐突に訪れる感が否めません。

このフィナーレを、「強制された歓喜」ととるか、「勝利」ととるか、作曲家自身の言葉を見てもはっきりせず、現在でも解釈が分かれているそうです。


私はこのフィナーレは、「パロディ」に見えます。

マスコミを通じて見えてくる「他国の政治」は、当然、大真面目でまた深刻なのが理解できるのですが、「パロディ」としか言いようがないときがあります。

しかし、音楽は大変に素晴らしく、そんなことを考えさせる余裕もなく進行していきます。

バーンスタイン指揮のものなど他にも名演揃いですが、この曲を初演したムラヴィンスキーの指揮のものが一番、私は厳しくて好きです。

ムラヴィンスキーのタクトは団員にはとても恐ろしく、まるで鞭を連想させたかもしれません。第四楽章の圧倒的なスピード感には悪魔が乗り移っているのではと思います。

でも、こんな厳しい演奏を日常的に聴いていたんでは体が持ちません。だいたいは、ハイティンク指揮か、ゲルギエフ指揮のものを、i-podに入れて持ち歩いています。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060820/1156096568

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c21

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
22. 中川隆[-14935] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:31:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2027]


Dmitry Shostakovich - Symphony No. 5 in D minor, Op. 47
Orchestre de Paris, Paavo Järvi
January 2015



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N響 パーヴォ・ヤルヴィを聴く
2015 FEB 15 1:01:27 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/15/%ef%bd%8e%e9%9f%bf%e3%80%80%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a9%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f/


9月からN響主席になるパーヴォ・ヤルヴィの指揮でシベリウスVn協(庄司紗矢香)とショスタコーヴィチ交響曲 第5番であった。

庄司紗矢香は僕自身こんなにほめていて

( 庄司紗矢香のヴァイオリン)、
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/02/18/%e5%ba%84%e5%8f%b8%e7%b4%97%e7%9f%a2%e9%a6%99%e3%81%ae%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3/

ライブで聞くのは初めてで期待があった。一方シベリウスは僕にとってこういう曲であって

( シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47)、
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/03/22/%e3%82%b7%e3%83%99%e3%83%aa%e3%82%a6%e3%82%b9-%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3%e5%8d%94%e5%a5%8f%e6%9b%b2%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/


さてどうなるかというところだった。そこに書いた通り「女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手」であるのだが、意外にもそうでないのはほっとした。

結論を言うとちょっと残念。そこに書いた欠点の方は健在であったが美質の方が消えている。あのブラームスを弾いていた彼女にしてはぜんぜん音楽に入れておらずどこかかみ合わない。ヤルヴィの指揮はオケのパースペクティブが明確で風通しが良いのが長所だが、この曲では木管が裸で聴こえたり急な起伏が分裂症気味に聞こえ、第1楽章はただでさえ分裂気味なスコアがそのまま鳴っている感じで庄司の音楽性とマッチしてない。それが原因だったのだろうか。

第2楽章はまだ若いのだろう、あのワーグナー和音の前のモノローグは何なのか彼女は知らないかもしれない。これは良い演奏を聴きすぎている。美点を書いておくとG線までエッジのはっきりした大きな音で鳴っており、ツボにさえハマれば聴衆を圧倒する力のあるヴァイオリニストということはわかった。

ショスタコーヴィチは良かった。僕は5番とはこういうスタンスで付きあってきた

( ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/


解説を読むとベンディツキーという人による作曲家が熱愛したエレーナにまつわる「愛と死」のテーマ、カルメンからの引用について触れられている。注意して耳を傾けたがどこがハバネラなのか全く不明であった。15番の例もあるからそうなのかもしれないが僕はこの曲に女の影など聞かない。あるのは重く湿って不気味にリズミックな軍靴の響きへの絶望的な恐怖だ。

プラウダ批判の恐怖がなければ彼は4番を発表してこのような平明な調性音楽を書くことはなかっただろう。その恐怖の対象がいかに凶暴で理性を逸脱した野獣のものだったか、それは平民はおろかロマノフ王家全員惨殺のむごたらしさを見ればわかる。この5番に隠された自我の屈折はそれに目をつぶってはわからないと思う。

今日の第3楽章は最高のもののひとつ。(第1楽章も好演だったがコーダの最も大事なppのところで大きな咳やセロファンのシャラシャラが入ってしまった)。第2楽章のチェロの激しいアタックはマーラー演奏の影響を感じる。終楽章はスネアドラムが軍靴の響きを告げて冒頭主題が回帰してからあんまりテンポが変わらない。これは非常に納得である。

コーダはムラヴィンスキーに似るがやや速く、彼が微妙に減速するところもそのまま行く。大太鼓が入ってからはほとんどの人が減速するがそれもしないのはスヴェトラーノフに近い。このやり方は葬列を思わせるが戦車の行軍でもあり、作曲家の意図だったかどうかはともかく重量級のインパクトがある。バーンスタインやショルティのように快速で入って2回も大減速をする安芝居は勘弁してほしい。

N響をこういう風に鳴らす指揮者は少ない。だいたいが功成り名を遂げたおじいちゃんを呼んでくるわけで、あと何年生きてますかという老人の棒に憧れの欧州への畏敬をこめてついていけば首にならないという公務員みたいなオケだ。一人の音楽監督が強大な人事権でばっさりということがない。あらゆる業界、そんなので世界一流になれるほど世界は甘くない。悪く言えば名曲アルバムのオケみたいになりかねない。ヤルヴィは全権を渡してリードさせればいい仕事をしそうな面構えだ。

ところでN響はコンマスも替わるらしい。誰であってもいいが客としてはただひとつ、ヴァイオリンセクションがいい音を出せる人にしていただきたい。なお今春から読響定期も聴いてみることにした
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/15/%ef%bd%8e%e9%9f%bf%e3%80%80%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a9%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c22
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
23. 中川隆[-14934] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:47:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2026]

Shostakovich Symphony No.7 'Leningrad' - Paavo Järvi




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N響定期を聴く(ショスタコーヴィチ 交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」)
2017 SEP 18 13:13:52 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/18/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2-%e7%ac%ac7%e7%95%aa-%e3%83%8f%e9%95%b7%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8160%e3%80%8c%e3%83%ac/


パーヴォ・ヤルヴィ / N響のこれが土曜日の18時にあって、14時試合開始の広島カープが優勝しそうなものだからそのままTVにかじりつくか迷った。結局ショスタコーヴィチに操を尽くして出かけたら楽勝と思ったカープは最下位ヤクルトに逆転負けを喫していて、逆の選択をしていたら痛恨になるところだった。

7番レニングラードはベートーベンにおける7番の位置づけだと思う。彼はマーラーに習って番号を意識していて、死にたくないので9番は軽めに書いて15番まで生き延びた。ベートーベン7番はどうも苦手でライブで心から良いと思ったのはヨッフムとサヴァリッシュと山田一雄ぐらいだが、レニングラードも同様路線の音楽で生まれ故郷の市民を鼓舞しようと書いた。このブログに書いた部分は繰り返さない。


読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)
2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/




ショスタコーヴィチはスターリン政権に反抗したり忖度(ソンタク)したり面従腹背したりの複雑な人で、レニングラード市民戦では従軍志願までしているから親祖国(亡命しない)、反ナチ(もちろん)、反スターリン(言えない)の3つの座標軸上でいつも最適解を模索した(余儀なくされた)作曲家だった。プロとして目指す道は4番が示唆していて、しかしスコアが散逸してしまったことが象徴するほどその路線は約束されていないものだったのだ。気の毒でならない。

4番の発表を断念して書いた5番は1−3楽章が面従腹背、終楽章がソンタクという分裂症気味な作品になってしまったが、全曲のコンセプトごと見事にソンタクというまとまりのある作品が7番である。軍人の低脳ぶりを馬鹿にしまくった「戦争の主題」、それをナチに向けたと偽装してスターリンにも向けていたという解釈が出てきているがそれは不明だ。もしそうだったなら上出来だ、なんといってもスターリン賞1席を受賞してしまうのだから。彼は作曲中にその候補に挙がっていることを意識もしていた。

バルトークはプリミティブにわざと書いたその主題にいったんは驚きライバルでもあったから皮肉って自作に引用したが、だんだん高潮して弦合奏になるとルール違反の並行和音の伴奏が付いてくる。戦争にルールはないわけで、こういう含意がプリミティブな頭脳から出るはずがないこれは偽装だと確信しんだろう。息子ペーテルは同じ戦争の被害者として反ナチについて共感もあったと著書に記しているが反スターリンだったかもしれない。ショスタコーヴィチがメリー・ウィドウを引用した可能性は否定できないが、バルトークがそうしたとする説は誤りと彼は書いている。

この日のN響はヤルヴィが連れてきたミュンヘン・フィルのコンマス、ヘルシュコヴィチが非常にうまく、合奏でも彼の音が際立って聴こえたほどで(これはおかしなこと、他がそろってないか楽器なのか音量なのか)、とにかくもう格が違う。なぜヤルヴィがわざわざ呼んできたかわかる。それでも第1ヴァイオリン群としては普段よりもずっと良い音を奏でたのであって、弱音のユニゾンの美しさは絶品であった。ヤルヴィの意図は遂げられたと納得すると同時に、コンマスがいかに影響力が絶大かを確信した。

ということで聴かせどころは弦が多い、というより、弦が弱いとブラバンの曲のようになってしまう7番を存分に賞味させていただいた。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/18/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2-%e7%ac%ac7%e7%95%aa-%e3%83%8f%e9%95%b7%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8160%e3%80%8c%e3%83%ac/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c23
[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
24. 中川隆[-14933] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:51:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2025]

読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)
2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/

指揮=エイヴィン・グルベルグ・イェンセン
ピアノ=アンドレアス・シュタイアー

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453
ショスタコーヴィチ:交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」

読響は芸劇のマチネに何年か通ったが7,8年ご無沙汰だった。だいぶメンバーが変わっているようだ。

モーツァルトの17番は第3楽章の主題が飼っていた「ムクドリ」の歌ったメロディだったことで有名だが、きくたびにムクドリはどこまで歌ったのだろうと気になって困る。ミファソッソッソードーぐらいか?そのあとのシシドドレレの装飾音がピヨピヨ聞こえるからこっちもかな?

普段はハープシコードを弾くシュタイアーはモダン・ピアノを弾いた。でも、もしモーツァルトが生きてたら間違いなくそれを選んだろうしオケも現代のサイズにしただろう。もし彼が自演したらどんな風に17番をやるんだろう?そんなことを思ってしまう演奏であった。

1784年に書いた6曲のピアノコンチェルトのうち14番と17番は弟子のバルバラ・フォン・プロイヤーにあげているが彼女の父はザルツブルグ宮廷のウィーンでの代理人だったのが意味深長だ。その父の家とカントリーハウスで両曲はバルバラ嬢のピアノで演奏されたという記録がある。

ある文献によると演奏した部屋の推定サイズは14番が50u(15坪)、17番が100u(30坪)とある。僕のオフィスが21坪だからイメージできるが、これはかなり小さい。特に14番でオーボエ2、ホルン2、ファゴットはその程度の空間では相当な音量で響いたはずだ。

17番はそれにフルート、ファゴット(もう1本)が加わっているのでやはり木管の音量的プレゼンスは変わらないだろう。しかも第2楽章はそれらが活躍するようスコアリングされている。その傾向は24番でさらに顕著になるが、弦5部の人数がカルテットに近かったとみるとオケ全体の音量バランス、そしてオケとフォルテピアノのバランスは現代のイメージとかなり違うということは重要だ。

そのことは作曲時点で「私自身これまでの作品の中で、この曲を最高のものだと思います」と評したピアノと管楽のための五重奏曲K.452の存在を想起させる。私見では声楽アンサンブルを思わせ、フルートを欠きクラリネットが入っている(この時点で!)ことがモーツァルトの音響趣味をうかがう手がかりとして見のがせない。

そういう関心はサントリーホールでは無縁のことだ。シュタイアーの演奏は多少の即興をまじえながらも遊び過ぎのない硬派なものでまずは楽しめた。アンコールはソナタかな思ったらk.330の第2楽章だった。うまい人が弾くとモーツァルトはいい音を置いてるなあとつくづく感じ入る。

偏見ではないつもりだが僕はショパン弾き、リスト弾き、バッハ弾きのモーツァルトはそれだけで聞く気にもならない。それらは畢竟テンペラメントの問題だ。彼の曲は「モーツァルトみたいな四大元素の組合せの人」しかうまく弾けない何かをどうしようもなく秘めていて、聴く方だって、それに合う合わないはある。モーツァルトは名曲だが、ベートーベンがそうであるような意味での天下の名曲というとやや違和感があるように思う。

ショスタコ7番は家であまり聞かない。第1楽章の小太鼓に乗ったテーマが好きでないからだ。しかしこれは侵攻してくるナチス・ドイツを「おちょくった」カリカチュアで、11番の終楽章の野卑なテーマに通じる精神で書かれたものというのが僕の理解だ。インテリ左翼が右翼の稚気を見下す感じを内包するイノセントな主題だ。

これが好きな方には無礼をお許しいただきたいが、この部分を延々と聞いていると、人生の大事な時間をこんなものにつき合わされているわびしい無益さこそが戦争の無益さ及びそれに蹂躙された祖国の運命の悲哀を辛辣にアピールする巧妙な設計と聞こえる。ショスタコーヴィチの抑圧されたシュプレヒコールが屈折した重層的なユーモアと風刺感覚によってやむなくこの形を取って噴出したものでもあると思料する。

そうだとすれば、この曲は彼の精神史における政治闘争が生み出した芸術ということであり、政治はパブリックなものだがその衝動はすぐれてプライベートなものだ。つまり私小説であるという点で、非常にマーラーに接近したものである。彼がマーラーを好んで引用したり、ある部分はマーラー的ですらあるのは、決して故なきことではない。

11番の稿に書いたが、バルトークが管弦楽のための協奏曲でこれをおちょくったという説には組しない。むしろ7番がナチスをカリカチュア化した精神を、揶揄を強調する方向での若干のデフォルメを加えて輸入したものと解する。敬意はないが同調はあると見る。証拠はない。ただバルトークもナチスに祖国を追われ、そういう性向のある人でもあったと僕は解しているからだ。

読響のヴァイオリンセクションは気に入った。高音のユニゾンのピッチの整合もハイレベル。ヴィオラ、チェロも中音域が良く、総じて弦は満足度が高い。管はまちまちだが好演であった。

43才のノルウェー人指揮者エイヴィン・グルベルグ・イェンセンについては何の知識もないが、曲を大局的に適確につかみ骨太にまとめあげる才能を感じる。細かい部分の造り方の巧拙はこの曲ではわからないが、小さくまとまってないのがいい。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c24

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
25. 中川隆[-14932] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:05:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2024]

2006.12.01 ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20061201/1164985242

」ショスタコーヴィチの交響曲第7番は、第二次世界大戦の真っ只中、ナチスドイツに包囲されたレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で作曲された。


「レニングラード包囲戦」をモチーフとしているこの作品は「レニングラード」と呼ばれている。


ショスタコーヴィチは、ソヴィエト社会主義を代表する作曲家だ。


ソヴィエトの「社会主義」が理想化されて語られていた時代もあったが、現実にはその「社会主義」は「理想社会」とは程遠かった。

実際は密告社会で、国家が個人の内面にまで踏み込んでくる社会だ。


国家による監視の目をかいくぐって、自由を制限された特殊な状況下で理想を描いたのがショスタコーヴィチだった。


交響曲第7番「レニングラード」は、東西冷戦期には、「ファシズムVS社会主義」、「資本主義VS社会主義」という闘争(と勝利)を描いたものとして理解されていたが、現在ではより広い意味で、「戦争を描いた作品」として聴かれている。


◇  ◇  ◇


以前に第5番をこのブログで書いたことがあったが、


「深刻」ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entries/2006/08/20

第7番もとにかくすごい迫力の曲だ。


第一楽章の「戦争の主題」がすごい。


ラヴェルのボレロのように、曲の進行とともに参加する楽器が増えていく。

控えめだった音量も次第に増大していって大音量となる。


この中で小太鼓の音が、まるで銃声のように響き渡る。


ダダダダダッダダダダダッ。


これは銃撃戦だ。


侵攻する部隊。銃撃。報復。応酬。


荒廃する都市。避難・逃亡する市民。


そんな光景が浮かんできて驚く。


戦慄。

恐怖が戦争映画のBGMのように迫ってくる。


全曲を通して聴きどころ満載のこの曲だが、私はこの「戦争の主題」の小太鼓が凄いと思う。

悲劇的で破滅的な人間の争いをこれほど鮮明にイメージできる曲を私は他に知らない。


◇  ◇  ◇


こういう曲を自宅で聴きたい時ってどんな時だろう?と考えると唸ってしまう。

大植英次 大阪フィル ショスタコーヴィチ:交響曲第7番

___


Shostakovich Symphony No.7 in C major - Gergiev - Mariinsky Theatre Orchestra - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fXmxFTLT0j0

I. Allegretto (00:00)
II. Moderato (poco allegretto) (28:23)
III. Adagio (43:25)
IV. Allegro non troppo (1:03:19)

Mariinsky Theatre Orchestra
Valery Gergiev, conductor

August 21, 2006
Berwaldhallen, Stockholm

___


大植英次氏の指揮・大阪フィル演奏のCDはライブ盤であることが信じられないほどのクオリティ。ドイツ風の重々しい演奏。大フィルの演奏能力はこんなに高かったのか!と唸る。ゲルギエフ盤は音のレンジが広く、華麗さも感じられる。どちらもこの曲の凄さを十分に感じさせてくれるCDだ。


私は、この第7番「レニングラード」に、現代の戦争をイメージする。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20061201/1164985242
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c25

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
26. 中川隆[-14931] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:16:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2023]


2009.01.21 ヤンソンス&コンセルトヘボウのショスタコ 7
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20090121/1232532016

マリス・ヤンソンスがロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ(RCO、以下コンセルトヘボウ)を振ったショスタコーヴィチの7番を時々聴いている。


Symphony No. 7 in C Major, Op. 60, Leningrad - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=zU4KjoF_X74
https://www.youtube.com/watch?v=HQRE6lOTMp4
https://www.youtube.com/watch?v=LkLBdxD5nKE
https://www.youtube.com/watch?v=WRu2U6W5feQ

最近、通勤時間が長くなったのに加え、地下鉄に乗らなくなり騒音が少なくなって、それほどボリュームを上げなくても音が聞こえやすくなったので、常にiPodを携えてクラシックを満喫しながら通勤している。


その時その時の気分によって聴く音楽は変わり、心身疲労困憊した時にはモーツァルトを聴きたくなり、焦りがあるときにはなんとなくバッハが合う。年末に第九を聴きたくなるのも心理だし、真夏にブラームスやシベリウスは似合わないような気がする。


聴く音楽の選択は、気候、天候、あるいは気分によるところが多い。


ショスタコーヴィチの多くの交響曲は、晦渋なところや難解なところ、ギスギスしたところなどがある反面、古典的な調和の中に音楽が収まっているという、複雑な旨みを持っていて、聴いた後には、この作曲家の交響曲でなかったら得られないような独特の満足感がある。


あまり共感が得られないかもしれないが、7番や8番などの悲劇的な交響曲は、満員電車に揺られるときなど、殺伐とした気持ちの時になぜかぴったりと気持ちにフィットする。


◇  ◇  ◇


マリス・ヤンソンスという指揮者は多彩なレパートリーを誇り、ベートーヴェンだってブラームスだってマーラーだって、かなり高いレベルでこなす非常に器用な指揮者だが、もっとも相性が良いのはシャスタコーヴィチではないかと私は勝手に思っている。


ヤンソンスによるショスタコーヴィチというと、5番はウィーンフィルと、8番はピッツバーグ響とというふうに、曲ごとにオーケストラを変えて、十数年がかりで完成させた交響曲全集が評判になった。


全集の中の、レニングラードフィルとの7番はこれまた凄まじい熱演だったが、本盤、2006年録音の、コンセルトヘボウとのコンビでの演奏はまた違った良さを持っている。全集を完成させて肩の荷が下りたのか、より客観的に、空中から戦場を俯瞰するようなスタンスで、7番のテーマである「戦争の悲劇」が語られている。


触れれば火傷するようなバチバチ火花が散るような部分はなくなって、大らかでスケールが大きくて、日常的にはこちらの方が親しめるのではないだろうか。さらに、録音の質もすばらしくて、現在のコンセルトヘボウの音の良さを満喫できる。弦はうっとりするくらいに豊潤な音色で、しっかり揃っている。管楽器も抜群に巧い。金管も打楽器も決して騒がずに、節度のある熱演を見せる。


ヤンソンスの円熟した音楽作りとコンセルトヘボウの余裕が感じられる一枚である。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20090121/1232532016
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c26

[近代史3] 社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由 中川隆
27. 中川隆[-14930] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:42:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2022]

2019年11月14日
中国「独身の日」過去最高でも消費は増えない仕組み

独身の日が増えた分は他の日に買い控え、実店舗売り上げが減っている


画像引用:アリババ、「独身の日」5億人利用で過去最高の4.2兆円 伸びは最低水準に | ビジネス | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2019/11/1111113.php

消費じゃないものを消費に含める中国経済

中国は11月11日にネットバーゲン「独身の日」を迎えアリババは過去最高の384億ドル(約4兆1000億円)を売り上げました。

2018年の独身の日アリババ売り上げは307億ドル(約3兆3000億円)だったので約25%増となり、前年の27%増に匹敵する伸びでした。

2018年は業界全体で5兆円を売り上げたのでアリババと同じ増加率だったとすると2019年は6.25兆円になります。



ところが独身の日にこれだけ売ったのに2018年の中国個人消費は1桁増にとどまったと見られています。

前提として日本政府が発表する消費とは最終消費で、個人消費(家計消費)を意味しています。

小売店や業者が仕入れた金額を消費とは呼ばないが、中国の統計は企業や政府や公的機関の買い物を含めている。


そんなのは消費じゃないと日本の経済学者が怒っても、中国は共産主義なので通用せず謝罪を要求されるだけです。

例えばネットで商品を仕入れて別の業者に転売し、転売を繰り返して最後に最終消費者が1万円で買ったとします。

資本主義国では1万円だけが消費だが、中国式経済では転売を繰り返した分も「消費」なので2倍ぐらいに増えます。


これが中国の消費経済の中身で、爆買いとか言っても転売を繰り返しているだけなので、実は消費ではありません。

2018年に中国のネット通販売上高は消費全体の22%という統計があり、2018年のネット消費は122兆円で消費全体では556兆円だったと推測される。

ネット消費の122兆円は多くが個人消費で、消費全体の556兆円は企業や政府や公的機関を含む金額と思われます。

怖すぎる中国ネット消費の結末

日本の個人消費は約300兆円、ネット通販市場は約15兆円で、アメリカの50兆円以上より少ないが世界3位グループとなっている。

中国のネット消費額が突出して多く、その代わり実店舗の個人消費額は約330兆円なので、人口が10分の1の日本の約300兆円と大差ない。

中国の消費者は安い「独身の日」にまとめ買いし、他の日は買い控えるのでネット消費全体の伸び率は独身の日よりかなり低い。


さらにネットで消費する分実店舗の売り上げが減っているので、トータルで均してみると消費の伸びは1桁に過ぎない。


1月から9月の個人消費が8.2%増なのにネット売上高は前年比16.8%増、ネット売り上げの中でも独身の日だけが25%増で他の日は10%台にとどまっている。


実店舗の売り上げ減少とネット売り上げ増加がリンクしているので、消費全体の伸びは8%に過ぎない。


さきほど書いたいい加減な「消費」調査を考慮すると、個人消費の実態は8.2%増よりもっと低い。

中国でネット消費が活発なのは「つけ払い」が効く理由が大きく、ほとんどの中国人はVISAやマスターなどのクレジットカードを持っていません。


代わりに中国ではアリババやテンセントが信用スコアに基づいたネット融資をしていて、審査なしで年収の数倍も貸してくれます。


実際には購入履歴や個人情報を勝手に収集して審査しているが、申し込み手続きすら省略しているので審査していないように感じる。

購入した分は後で請求が来るが、明日の事は明日考えるのが中国人なので、今日の買い物を楽しめばそれでいい。


こうして膨らんだ家計債務が膨大な不良債権になりつつあるのだが、政府は消費が増えるので取り締まっていない。


中国には自己破産制度がなく借金は永久に消えないし、それどころか親戚一同の連帯責任なので取りっぱぐれがない。

仮に本人が夜逃げしても親戚の連帯責任なので資産を没収して回収できる仕組みです。
http://www.thutmosev.com/archives/81468056.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html#c27

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
27. 中川隆[-14929] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:17:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2021]

ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/

ヒットラーにしてもスターリンにしても国威発揚に音楽を使った。ムッソリーニにそういう話はないのはオペラでは戦闘モードが萎えてしまうからか。その点、ドイツ、ロシアの音楽はその適性があったのだろう。

スターリンはショスタコーヴィチ(1906−75)にベートーベンのような交響曲第9番を期待していた。1945年、おりしも第2次大戦は有利な戦局であり、その「第9」は5月の戦争終結記念式典に演奏されるかのタイミングで作曲が進み政府の期待も盛り上がった。しかしなぜか完成は遅れて8月となり、さらに困ったことに、壮大な交響曲ではなく軽妙洒脱な軽いタッチの曲だったのである。

肩すかしを食らい、自身を揶揄されたと解したスターリンは激怒し、ジダーノフ批判(中央委員会による前衛芸術の検閲統制)によってショスタコーヴィチは窮地に追いやられたとどこにも書いてある。窮地?そんな甘いものじゃない。ボスの怒りがバックにあるのだからジダーノフは何の言いがかりをつけてでも簡単に彼を殺すことができたということである。

僕がショスタコーヴィチの音楽の論評にいつも違和感を覚えるのはこの殺される恐怖にフォーカスの甘いものばかりだからだ。音楽をやったり愛したり研究したりする人々が権力闘争に疎いのかどうか僕は知らないが、会社の昇進、ポスト争い程度の話であれ大組織の中は血みどろの戦いなのである。他人に生殺与奪権を握られると怖い。まして生命の危険となれば、ソクラテスのような人間でもない限り泰然とできるほうがよほど不思議である。ピアノばかり弾いて育った彼がそんな生き地獄に耐性を持ち合わせていたとはとても思い難い。

フルシチョフのスターリン批判にこういう記述がある。

「1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち98名が処刑された。党大会の代議員全体1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた反革命の罪状は、その大半が濡れ衣であった」

スターリンに「NO」を言うことは、すなわち「死」を意味したのである。34年にこれを目の当たりにした彼が翌年書いたのが問題作となった交響曲第4番であり、その初演は差し止めとなって2年後の37年に書かれたのがあの第5番なのである。濡れ衣であろうが何であろうが血の雨は簡単に降ったという彼の恐怖と正面から向き合わずに5番をどうのこうのと論評しても仕方ない。


「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/


ここに書いた先輩世代の非業の画家たちに比べ、同世代のムラヴィンスキー(1903−88)や息子世代のロストロポーヴィチ(1927−2007)らは世渡りをうまくやってポスト・スターリン世代の英雄になった。しかし彼ら演奏家は他人の作品を音にして聴く者を喜ばすエンターテイナーである。自分を喜ばそうとする者を普通は処刑などしない。しかしその作品のほう、つまり真実のステートメントを発しないと芸術家として生きていけない、畢竟、自分自身をさらけ出す運命にある画家や作曲家の「恐怖」は度合いが違ったと考える方が自然な視点と思う。

そのふたりだけでなく多くの演奏家たちが後世になって「ショスタコーヴィチの真実」を語ったり弁護したり主張したりしている。彼らの演奏がスタンダードとされ、その言葉が現代の論評のテキストの一角をになっている。しかし命をかけて自画像を公表している本人からすれば、安全な所にいた人たちがエールを送ってくれたところでスタンドの応援団みたいなものだったろう。外野席か内野席かの違いぐらいはあったかもしれないが、グラウンドで戦っている人にとっては同じことだ。同時代人のムラヴィンスキーは問題含みの4、9、13、14番だけは巧みに逃げて振らなかった。非難するのではない、彼だって殺されないために必死だったということだ。

だからそれから8年間もショスタコーヴィチは交響曲を書かなかった。そして1953年、ついにスターリンが死んだ。その年に満を持して発表した交響曲第10番はそれなりの大交響曲となり自信作でもあった。ところがこれまた賛否両論を巻き起こしてしまうのである。作曲中に宿敵は死んだ。自身の名を暗号化した「DSCH音形」が前半は現れず後半になって頻出する。それが隠蔽された彼なりの喜びであったかどうかはともかく、それがばれてそう解釈されてしまったかもしれない。ポスト・スターリン政権はそれを口実に自分を殺すかもしれない。

暗号化。これはシューマンが愛妻の名を織り込んだのとやっている行為は同じだが、そんなメルヘン世界とはほど遠い。メルヘンに見えるものがあったとすれば推理小説作家が犯人を見抜かれないようにちりばめるひっかけ(ミスディレクション)の類だと解釈してそう人が悪いと思われる道理もないだろう。なにせ本音を見抜かれたら待っているのは「粛清」なのである。

しかし必ず後世が本音を発見してくれる。その時は自分も安全な所、つまりお墓のなかだ。ヴォルコフの証言にある「交響曲は私の墓碑銘である」という彼の言葉なるものは交響曲はダイイング・メッセージだよということであって、ヴォルコフの嘘であったとしてもそれなりに迫真性を感ずるものだ。

彼がその10番騒動の4年後に書いた第11番ト短調「1905年」作品103はソビエト連邦の最高栄誉である「レーニン賞」を与えられているのは注目されるべき事実である。その4年後にやはりロシア革命を題材として作曲された第12番はなんと「レーニン交響曲」とタイトルを付す計画であった。これは56年になされたニキータ・フルシチョフによる前掲のスターリン批判に呼応したものであることは疑いないだろう。そこで西欧は体制プロパガンダに堕落したとして作曲家の評価を下げてしまうのである。

第11番はロシアの共産主義運動の発端をなし、1917年のロシア革命のルーツともなった1905年の血の日曜日事件を描いた曲である。首都サンクトペテルブルグで行われた労働者によるロマノフ朝皇宮への平和的な請願行進に対して政府軍が発砲、数千人といわれる死傷者を出した惨事である。

余談だがこの事件は1月9日で、同年9月5日にロシアは日本との戦争に負ける。そして1917年のロシア革命でロマノフ朝は崩壊、第1次大戦に参戦はしたがドイツにこっぴどくやられる。それはそうだ、このとおり本丸がそれどころではなかったのだ。これはやはり日本に負けた清国が1911年に辛亥革命で崩壊したのとほぼ軌を一にする。日本は2つの共産主義大国を生む誘因となったといえる。

さらに余談になるが、先週ベラルーシでウクライナ停戦調停に出てきたロシア、ドイツ、フランスこそ、日清戦争の戦後処理で遼東半島の日本への割譲にいちゃもんをつけてきた(三国干渉)連中なのである。我々にはウクライナは遠いが、彼らにとって極東は近いのだ。我々はロシア史をもっと知る必要があるだろう。

交響曲第11番に戻る。この曲は無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂とも、革命讃美の政権プロパガンダともいわれる。正反対の解釈であり両立はしない。ショスタコーヴィチの政治的立ち位置は当然ながら隠蔽されているのでどっちかという判断は誰もできない。

この曲のアトモスフェアを喚起する力は非常に大きい。第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる。こんなめざましい効果のある開始はなかなか思い当たらない。マーラーの1番の高いa音がピンと張った空気を漂わせるのが近いがあちらは清澄な森だ。こちらは血の匂いがする。

バルトークのピアノ協奏曲第2番第2楽章を思わせる静寂な神秘感があたりを覆うが、それは無慈悲で非人間的なもののメルクマールとして背景を支配しており、そこに低音のフルート重奏による聖歌のような虚ろな長調の旋律がぽっかり浮き出る。ふと人間的なものに出会った効果は絶大だが、深い悲しみをたたえているのが心に刺さる。

ミュートしたトランペット・ソロが遠くから響く。これは軍楽隊の合図のトランペットを即座に想起するが、吹いているメロディーは高音で半音階で徘徊する。これに僕はいつもチャイコフスキー4番の第1楽章で第1主題の現れる直前の所を思い出す。やがてやって来る凄惨な運命を暗示しているのも4番と似る。

第2楽章には1951年作曲の自作、無伴奏混声合唱曲「革命詩人による10の詩」作品88の第6曲「1月9日」が使われる。これだ。


Shostakovich - Ten Poems, op. 66, no. 6 The Ninth of January - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=c5ji8-6Z9cM&feature=emb_title


この女声にまたカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」(1936年)の一節が聞こえてしまう。とんでもない、あれは「生」の、はたまた「性」の音楽だろう?でも聞こえるのだ。もっといえば第3楽章の最後に連打される最後の審判のようなトランペットとティンパニ、あれはホルストの惑星の「火星」(1916年)そのものだ。どちらもこの11番(1957年)よりはずっと前の曲だ。

この曲の第2楽章ほど群衆を銃撃で殺戮するシーンをリアルに描いた音楽はないだろう。銃撃が止んで急にあたりを支配する静寂はまことに残虐であり、映画音楽にすれば客を圧倒するリアリティに満ちている。セミョン・ビシュコフがBPOを振った素晴らしい演奏でこの楽章(15分23秒〜)の銃撃部分をお聴きいただきたい。

Shostakovich Symphony No.11 in G minor op.103 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xgCjw714IYE&feature=emb_title


Shostakovich Symphony No.11 in G minor op.103

1. Palace Square. Adagio 00:00
2. Ninth of January. Allegro -- Adagio 15:23
3. Eternal Memory. Adagio 33:45
4. Alarm. Allegro non troppo - Adagio -- Allegro 46:00

Semyon Bychkov
Berliner Philharmoniker

あまりに生々しくて放送禁止になるかというレベルであり、撃っている方が「官軍」かというとロマノフ朝の軍なのだから微妙である。軍を含む政治体制をボルシェビキが乗っ取ったと見れば官軍ではある。レーニン賞が出ているのだから政権はそう解釈したに違いない。しかしこの残忍な楽章をはさみこんでいる静謐な第1,3楽章は、革命歌の引用というミスディレクションの迷彩の中で深い祈りの響きをたたえている。

私見では第4楽章は存在そのものが迷彩であり、この交響曲は第4番で犯したミスの補修であった第5番のレプリースであろう。

ロシア革命を賛美する。それはレーニンの肯定であり、レーニンが切ろうとして果たせなかったスターリンの否定であり、尊い革命への契機を提供した労働者たちへの鎮魂にもなるのである。そして何より、それが彼の身の安全を永年保証する護符になったことは言うまでもない。

ところがまだ裏がある。第4楽章の冒頭主題は革命歌「圧政者らよ、激怒せよ」である。交響曲の主題でこれほど無教養で野蛮であり、よって共産党独裁政権のテーマソングとして好適なものは類例がない。あえて同格をひとつあげよといわれれば5番終楽章の主題ということに相成ろう。それを意図して使っているショスタコーヴィチの計略を感じる。政府を嘲弄し、「体制翼賛になりすます偽計」の裏に入れ子構造の偽計を凝らしている。この手口は5番と同じだ。

では果たして、真実が体制翼賛でないなら「無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂」なのだろうか。僕はどうもそんな単純なものではないような気がしてならない。

この曲に一貫して感じる作曲家の視線は「血の日曜日事件」を過ぎ去った歴史として眺めるものだ。血のにおいの残る広場に立って慟哭するという姿とは遠い。これを映画音楽と見下す人がいるが、それは言い過ぎだが大きく的外れではない。あえていうなら「ローマ三部作」でのレスピーギの視線が近いだろう。

第4楽章はひとしきりの銃撃と大暴れが続くと、粗暴なドラの一発で静かになりイングリッシュホルンが切々と慕情を歌う。この楽章のチープな戦場劇画風の雰囲気は三部作のうちで最も品格を欠く「ローマの祭り」そのものだ。彼は半世紀前の虐殺事件をコロッセウムでライオンと死闘した剣闘士を見るような目で眺めている。

この11番と、同じく表面は体制翼賛にきこえる12番は、10番騒動の始末と同時に本当に書きたかった13番「バビヤール」へつなぐための2本立ての間奏曲でもあった。13番は今話題のウクライナにいたユダヤ人をナチスが虐殺した事件を主題にし、ソ連にもある反ユダヤ主義を浮き彫りにする問題作である。12番の翌年に書かれたが、彼が2年連続で交響曲を発表したことはこれを除いて一度もない。そして案の定、13番は初演にかけてまたまた大問題を発生させるのである。

ちなみにやはり切れ者であったバルトークが管弦楽のための協奏曲で7番の第1楽章主題をパロディーにしている。対抗心とされ僕もそう信じていたが、米国に亡命して自由の身にはなったがアメリカンに囲まれ決して幸せではなかったバルトークは、7番の愚鈍な主題をあそこに挿入したショスタコーヴィチに何らかの共感もあったかもしれないと最近は思うようになっている。交響曲第13番第2楽章にはバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」第3楽章の旋律が引用返しされている。

ではそういう窮地にいなければ彼は何を書いたんだろう?

思い出すのは佐村河内のゴーストライター 新垣隆氏の言葉だ。調性音楽なんて書いたら業界から締め出されてもう生きていけません、だから実をいうと楽しんで書きましたと彼は言った。ショスタコーヴィチは「体制翼賛派である自分」という別人のゴーストライターとして、自分の墓碑銘である交響曲を最後はそれなりに楽しんで書いたのではないだろうか?死ぬまで嘘をばれずにつけば、あなたはそういう人として埋葬されるのだ。

ああいうことでもなければ書かなかった調性のある交響曲を作曲した新垣隆氏。同じくそういうことでもなければ書かれなかったショスタコーヴィチの5番や11番。彼が最後に書いた15番などは他人の作品の引用とパロディーだらけで、いまもってどういう曲なのかつかみかねる。その謎の仮面こそ彼が終生仕方なくつきとおした嘘の象徴ではないか。墓碑銘としてこんなに格好のものはないだろう?彼にそう問いかけられているような気がする。

録音については僕は10種類ぐらいしか知らない。この作曲家に関しては楽譜までひもといて探究してみようという微細な関心はあまりおきないからだ。そう思ってネットを見たら大勢のショスタコファンのかたが多くの演奏を語り、熱いメッセージを書き込んでおられる。日本のクラシックの聴き手は懐が深い。僕はコンドラシン、ハイティンク、バルシャイを好んでいるが色々な意見と聴き方がある。ぜひそちらをご覧いただきたい。

キリル・コンドラシン/ モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

Shostakovich Symphony 11 (complete) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kBEwf_zdrnw&feature=emb_title


Moscou Philarmonic
condoctor :Kirill Kondrashine

I. The Palace Square (Adagio) 0:00
II. January The Ninth (Allegro) 12:32
III. Eternal Memory (Adagio) 30:00
IV. Tocsin (Allegro Non Troppo) 40:32

すべてを見抜いているような深みのある第1,3楽章、震撼するほど鮮烈な虐殺シーンを描ききる第2楽章、一度聴いたら忘れない演奏でコンドラシン(1914−81)は墓碑銘を読み取っていたのだろうと思う。「プラウダ」批判で発表できなかった交響曲第4番を25年後に、そして2大問題作のもうひとつ13番を62年に初演し(ムラヴィンスキーは逃げた)、結局西側に亡命したがその3年後にアムステルダムで客死した。すぐにKGBに暗殺されたのではないかと噂がたった。そんな曲を書いた方が殺されなかったのが不思議である。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c27

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
28. 中川隆[-14928] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:21:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2020]

ラザレフのショスタコーヴィチ交響曲第11番を聴く
2015 MAR 21 13:13:51 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/21/%e3%83%a9%e3%82%b6%e3%83%ac%e3%83%95%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%82%92/

ショスタコーヴィチ

ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102                               交響曲第11番ト短調作品103

ピアノ イワン・ルージン                                      指揮  アレクサンドル・ラザレフ指揮                              日本フィルハーモニー交響楽団

2015年3月20日 サントリーホール

交響曲第11番が僕の最も好きなショスタコーヴィチのひとつであることはブログに書いた。


ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/


そこに「第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる」と書いた。ライブだとそこの冷たい大気まで感じるリアルさで、やがて始まる皇帝軍の一斉射撃の凄まじさはこれが虐殺シーン以外の何ものでもないことを思い知らされる。

ラザレフはだいぶ前にチャイコフスキー5番などを読響で聴いただけだったが、もう長いこといろんなものを聴いたが演奏の良し悪しは初めの1音でほぼわかる。この日は日フィルの弦楽器群から素晴らしい音を引出しておりヴィオラ、コントラバスが好演、ヴァイオリンもこのホールでの最高の質感を保ったことは称賛に値する。

ソロ・トランペットも好演。管楽器は総じてレベルが高かったがイングリッシュホルンの高い方がほんのちょっと上がりきらなかったかな。打楽器も好演だったが特にバスドラの効かせ方が良かった。この音とコンバスが重層的な基調低音を作ることでオケ全体に見事な立体感が出ていた。こういうことは指揮者のセンスの賜物だ。

協奏曲は息子の19歳の誕生日に書いたこの曲は第2楽章などショスタコーヴィチと思えぬ優しい曲想だが聴きごたえがあった。軽め薄めに彩られた管弦楽法が楽しく、イワン・ルージンのピアノも軽め強めのタッチの弾き分けとグラデーションがみごとで、アンコールのプロコフィエフの第7ソナタ第3楽章も聴きごたえがあった。

大変に素晴らしいショスタコーヴィチを聴かせていただき大満足である。どちらもベルリンやロンドンにそのまま持っていって何の遜色もない名演だ。日フィルはほとんど聴いていなかったが、実力を認識した。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/21/%e3%83%a9%e3%82%b6%e3%83%ac%e3%83%95%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%82%92/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c28

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
29. 中川隆[-14927] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:23:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2019]

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番 変ロ短調「バビ・ヤール」
2019 OCT 10 13:13:12 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/10/10/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac13%e7%95%aa-%e5%a4%89%e3%83%ad%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93/

屋久島で助けた若いイスラエル人にもらったペンダントを自室の壁に掛けている。あれはもう5年前になるのか。羊に見えるが、ヘブライ語の “H” をかたどったユダヤのお守りだそうで、どうして H なのかは思い出せないが、「これはあなたを幸福にします」と真剣なまなざしでいった彼女の顔と言葉は忘れない。

キエフを占領したナチス・ドイツ親衛隊が、2日間で33,771人の女子供を問わないユダヤ人と、ウクライナ人・共産党員・ジプシー・ロマらを虐殺したのが、ウクライナ(キエフ)にあるバビ・ヤール峡谷であった。どういうきっかけだったか、だいぶ前にこの写真を見たときの衝撃は失せようがない。人間が犯したあらゆる罪でも最も悪魔に近い、鬼畜でも済まない、鬼だって畜生だってこんな卑劣、残酷なことはしない、呪って地獄に落とすべき所業だ。

1992年にドイツに赴任した。正直のところあまりうれしくなかった。フランクフルトの街のそこかしこでドイツ語を聞いた時に、まず心に浮かんだのは、これがモーツァルトのしゃべっていた言葉かということでもあったが、ナチスもそうかという暗澹たる気持ちのほうが多めだったのを思い出す。家を借りることに決めたケーニヒシュタインは、たまたまユダヤ人の街だった。ドイツ人には申し訳ないが、その文化、音楽は言うに及ばず哲学、思想、自然科学、法学において最も尊敬に値する国ではあるのだけれど、2年半住んで良い思い出をたくさんいただいたのだけれども、それでもどうしても「それ」だけは意識から消せないまま現在に至っていることを告白しなくてはならない。これだけドイツ音楽を愛し、それなしには人生成り立たないほどなのに、このアンビヴァレント(ambivalent)な相克は僕を内面で引き裂いている。

ナチスのホロコースト犠牲者は600万人とされるが、スターリン時代のソビエト共産党による国民、党員の粛清者は少なく見積もっても2000万人といわれる。ユートピアは死体の上に築かれるものらしい。その体制下に作曲家として生きたショスタコーヴィチがそのひとりにならなかったのは作品を見る限り奇跡としか思えないが、彼には音楽を書くと同等以上のインテリジェンスがあった。交響曲でいえば5番から本音を巧妙に封じ込める作法に転じ、時に大衆にもわかるほど明快に共産党への社会主義礼賛を装って、しかしアイロニーとシニシズムの煙幕の裏で鋭い批判と反逆の目を光らせる。表向きの迎合はスターリン死後の11,12番で犬にもわかる域まで振れ、その反動がいよいよまごうことなき “言葉” を伴った音楽で、本音の暴露と思われて仕方ない体裁で世に問われたのが第13番である。

13番は1962年、僕が小2の時の作品だ。まさにコンテンポラリーだが、最も舞台にかかることの少ないひとつだ。当然のこととして政府が監視、干渉し、Mov1の歌詞書き直しを命じ、初演を委嘱されたムラヴィンスキーが理由は定かではないが逃げ、コンドラシンが振った。劇場の聴衆は熱狂をもって支持した。海外初演はオーマンディーが振った(歌詞はオリジナルで)。フィラデルフィアの楽屋で「日本が大好き」と言ってくれた彼もユダヤ系米国人だ。まず彼の録音を聴いたが、よくわからなかった。僕はまだ若かった。今になって悟ったことだが、「バビ・ヤールに記念碑はない」と始まるこの曲は、世界の聴衆の脳裏にそれを建立して刻み付ける試みであり、エフゲニー・エフトゥシェンコの詩に託して語った作曲家自身の墓碑銘であると思う。

バス独唱とバス合唱は暗く重い。Mov1の曲想も沈鬱である。Mov2は一転、悪魔のブルレスケだ。Mov3「商店で」女たちは耐える、Mov4「恐怖」恐怖は死んでも偽善や虚偽がはびこる新たな恐怖がやってくる、Mov5「出世」私は出世しないのを、自分の出世とするのだ!音楽は旋律があり無調ではないが、鼻歌になるものでもない。4番でモダニズムに向かおうとしていたショスタコーヴィチがもし違う国で活躍できたなら13番目の交響曲はどうなったか、誰も知る由はないが、彼がどんなに不本意であったとしてもこれはあるべきひとつの帰結であり、彼の生きる意志と精神の戦いのドラマとして聴き手の心を痛烈に揺さぶる。Mov4まで、聴衆は尋常でない重みの暗黒と悲痛と諧謔と嘲笑を潜り抜け、Mov5に至って初めて運命の重力から解放される。Vn、Vaソロの天国の花園と鳥のさえずりがなんと救いに聞こえることか。チェレスタとベルが黄泉の国の扉を開け、全曲は静かに幕を閉じる。くどいほどの隠喩に満ちた怒りのメッセージと、田園交響曲から連綿と続く救済のメッセージの交差は現代の眼で見れば何ら新奇ではないが、彼ほどの人間がこんな手法に閉じ込めねばならなかった「なにものか」の重さは痛切だということが、それをもってわかる。ぜひ、上掲の写真をもういちど御覧いただければと思う。

昨日は初めてライブを聴いて、この交響曲は「理解」しようと思っても難しいのだと気づいた。エフトゥシェンコの詩は平明で、そこで起こっていたことを推察させるには充分だ。それをショスタコーヴィチが題材としてなぜ選び取ったかもである。「なにものか」を「時代の空気」と書くのはあまりに軽薄で情けないが、それを彼はこういう音楽に託したという意味での空気(アトモスフィア)ではあリ、彼の境遇ではそれを呼吸せずに生きることは能わなかった。アートは芸術家の心の奥底にある何らかの五感、感覚を通した衝動が生むものだとすれば、ここでの衝動は特異だ。しかし、それは、モーツァルトが危険を冒して書いた「フィガロの結婚」に比定できないでもなく、聴くものに「何かを読み取ってくれ!」という強いメッセージを包含しているように思う。ただ、ショスタコーヴィチのほうは、読み取るも何もあまりにあっけらかんとあからさまであって、彼ほどの頭脳を持った男にして何がそんなことをさせたのかの方を読み取りたくなってしまうという点で、13番は特異な音楽であると思う。

娑婆に戻ろう。きのうはCSファイナル初戦の巨人・阪神と迷った自分がいた。クラシック音楽と野球とどっちが大事なんだという問いに答えるのが僕ほど難儀だという人はほとんど存在しないのではないかというのが長年日本国に暮らして経験的に得た結論だ。犬好きと猫好きは違うが、両立することもある。しかし、こっちは、平明な水準ならともかく、そういう人は見たことがない。所詮は道楽の話だ、どうでもいいとも思うが、僕はそういうことを仔細に観察する手の人間であって、もはやリトマス試験紙になるかと思うほどに両者の人種までが違うと結論するしかないし、酸性でもアルカリ性でもある自分というものがわからなくなる。

これが5番や7番だったら確実に東京ドームに現れていたからけっこう微妙な裁定になるが、13番はなかなか機会がなく抗し難かった。まずハイドンを前菜にしたのは正解で、結果として、13番の重さを中和してくれたように思う。94番、何度聴いても良い曲だなあ、最近はますますハイドンに惹かれている。Mov1の提示部でVaに現れる、まさにハイドン様にひれ伏す瞬間である対旋律をテミルカーノフは2度とも指示して浮きだたせた。もうこれだけで先生わかってるね、さすがだねだ。

彼は13番初稿を作曲家の前で振っているが、コンテンポラリーをオリジナルな形で聴いておくのは大事だ。こうして何度も上演を重ねて、解釈は固まっていくから、千年の単位で物を見るなら我々はそのきわめて初期の過程をwitnessしたことになる。音楽が表すものが美ではなく、怒りである。音楽はそういうものをも伝えることができるという稀なる体験だった。

指揮=ユーリ・テミルカーノフ
バス=ピョートル・ミグノフ
男声合唱=新国立劇場合唱団(合唱指揮=冨平恭平)

ハイドン:交響曲第94番 ト長調「驚愕」
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番 変ロ短調「バビ・ヤール」

(サントリーホール)

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/10/10/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac13%e7%95%aa-%e5%a4%89%e3%83%ad%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c29

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
30. 中川隆[-14926] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:29:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2018]

マーラーの墓碑銘
2017 SEP 10 12:12:03 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/

「私の墓を訪ねてくれる人なら私が何者だったか知っているし、そうでない人に知ってもらう必要はない」と語ったグスタフ・マーラーの墓石(右)には名前しか刻まれていない。作品が語っているし、わからない者は必要ないということだ。去る者追わずの姿勢でも「やがて私の時代が来る」と宣言した堂々たる自信は畏敬に値する。

冒頭の言葉の墓をブログに置き換えて死にたいものだと思う。昨今、一日にのべ 2,000人ものご訪問をいただくようになってきてしまい、普通はなにか気の利いたサービス精神でも働かせるのだろうが僕にエンターテイナーの才能はない。何者か知っている方々だけが楽しんでくださればそれ以上は不要だ。

マーラーがスコアに「足音をたてるな」と書いたぐらい、僕は部下への指示が細かくてしつこかったと思う。理由は信用してないからだから言わない。しないと何をすべきかわからない人にはなぜかを説明するが、そういう人は得てしてそうしてもわからない。より平易にと親切心で比喩を使うと、主題転換の方に気を取られてますますわからなくなる。よって面倒なので、自分でやることになる。

マーラーを聴くと、そこまで僕を信用しませんか?それって、そこまでするほど重要なことでしたっけとなる。そして部下も僕をそう嫌ってるんだろうなと自省の念すら押し付けられて辟易し、音楽会が楽しくもなんともなくなってしまうのだ。ボヘミアンを自称したコンプレックスを断ち切ってウィーンの楽長まで昇りつめたエネルギーの放射と自信はすさまじいが、灰汁(あく)を伴う。

ショスタコーヴィチはマーラーの灰汁を彼自身のシニシズムと混ぜ合わせてスターリン将軍様に見せる仮面に仕立ててしまった賢人である。革命後の1920年代より一貫して第一線に立ち続けることができた芸術家は彼以外にほとんどいない。招かれざる個性だったがその陰に隠れた怒りのくどさも格段で、仮面がだんだん主題にすらなる。交響曲第13番は「バビヤールには墓碑銘がない」と始まるが、「私の交響曲は墓碑銘である」と語ったショスタコーヴィチの墓には「DSCH音型」(自分の名の音名)の墓碑銘がある。


https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/mahler2/
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/shostako/


僕は自分の音楽史の起源にある下のブログを書いていて、ネルソン・リドルのスコアに偶然かどうかDSCH音型があるのに気づいた(hが半音低いが)。


こういう、人生になんら影響のないことに気が行って、気になって眠れなくなるのをこだわり性格という。こだわりには人それぞれの勘所があって万事にこだわる人はまずない。芸術家はすべからくそれであって、そうでない人の作品にこだわりの人を吸引する力などあるはずがない。

例えば僕は猫好きだが子猫はつまらないし毛長の洋ものは犬ほど嫌いだから猫好きクラブなど論外である。生来の鉄道好きだが、勘所は線路と車輪のみでそれ以外なんら関心がないから今流の鉄オタとは遠い。原鉄道模型博物館に感動してこのブログを書いたのはわけがある。


車輪のフランジへのこだわりは書いた通りだが、書いてないのは「音」だ。線路と車輪は普通は安価で錆びず持ちがいいステンレスで済ますが継ぎ目を車輪が通過するカタンカタンの音が軽い。原信太郎氏は原音にこだわって鉄を使っているのである。そんなことは普通の客は気にしないし気づきもしないだろうが、僕のような客は気にするのだ。

バルトークの息子ペーテルが書いた「父・バルトーク」(右)に「なぜレールの継ぎ目で音がするの?」とカタンカタンのわけを質問したくだりがあって、父は線路と車輪を横から見た絵を描いて(これが実に精密だ!)、音の鳴る原理を克明に息子に説明しているのである。原信太郎氏はこれを見たかどうか、もし見たなら同胞の絆と膝を打ったに違いない。僕はバルトーク氏も原氏も直接存じ上げないが、心の奥底のこだわりの共振によってそれを確信できる。上掲ブログはあえてそう書かなかったが、それが2014年、3年半前の僕だ。いま書くとしたらぜんぜん違うものができていただろう。

原氏のこだわりの類のものを見ると、大方の日本人はこれぞ匠の技だ、我が国のモノづくりの原点だとなりがちだ。そうは思わない。ヨーロッパに11年半住んでいて、精巧な建築物、構造物、彫刻、絵画、天文時計などジャンルに数限りないこだわりの物凄さをたくさん見たからだ。クラシックと呼ばれる音楽もその最たるもののひとつだ。僕は洋物好きではない、精巧好きであって、それは地球上で実にヨーロッパに遍在しているにすぎないのである。

さて、マーラーの墓から始まって僕のブログはレールの継ぎ目の話にまで飛んでしまう。計画はなく、書きながらその時の思いつきを打ち込んでいるだけだ。アンタッチャブルは出るわ猫は出るわで常人の作文とも思われないが、こういう部分、つまり主題の脈絡なさ唐突さ、遠くに旅立つ転調のようなものがマーラーにはある。そして僕は、それが嫌だからショスタコーヴィチは好きでもマーラーは嫌いなのである。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c30

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
31. 中川隆[-14925] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:37:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2017]
「どれを聴く?」迷ったら→井上道義・ショスタコーヴィチ交響曲 コメント 2007.11.01
https://www.michiyoshi-inoue.com/2007/11/_6.html


僕は今回の全曲演奏会で、できれば解説とか予備知識なしに、または
あってもそれを一回捨てて、彼の作品そのものに触れていただきたいのです。
                 ――「月刊ぶらあぼ」2007.11月号より

*「音楽はアートだ!真実をえぐる響き 井上道義的ショスタコーヴィチ世界 《井上道義の目》」 より*

(1)アヴァンギャルドの時代 交響曲第1番〜第3番

【交響曲第1番ヘ短調作品10】  2007.11.3.sat 17:00~
[ショスタコーヴィチの全ての爆発を確認する]
 19歳の、すでにそれまで4年間家族の経済を支えてきたしっかりした少年の
模範的卒業作品。しかし、ここそこに彼の才能の爆発、以後の彼自身の心の支えになる
独自の響き、形、性格が隠れている。彼は天才だが遅咲きのほう、ピアノを始めたのは
9歳なのだ。あなたの息子も、今からでも遅くないかも。

【交響曲第2番 ロ短調 作品14 「十月革命に捧ぐ」】  2007.11.3.sat 17:00~
[集団の中で住む場所を探す]
曲の後半サイレンが鳴るまでは、まるでフォービズム、ある時代のピカソのよう。
午後の授業のベルを聞くまでに遊ぶ奔放な少年の心の中を見るようだ。人は、集団に入れば
その中で自分の住む場所を見つけねばならない、どちらも人間の存在の表裏を形づくる世界だ。
強制とか自由とかの問題ではない。

【交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」】  2007.11.3.sat 17:00~
[ハプニングアートの時代を30年先取り]
 音の抽象画を狙ったと思える形式のはっきりしない作曲法、見方によってはオノ・ヨーコなどの
ハプニングアートの時代を30年先取りか。言語が音楽に突然社会的実用品として割り込み、
「レーニン」と叫ぶ。聴くほうも演奏するほうもプライバシー侵害を感じるような違和感。
今で言えばテレビコマーシャルの割り込みといえそうな終結部。


(2)批判との闘い 交響曲第4番〜第6番

【交響曲第4番 ハ短調 作品43】  2007.12.1.sat 17:00~
[正真正銘大傑作!]
 正真正銘大傑作。これを書いた後ショスタコーヴィチが粛清されても彼は永遠に名を残しただろう。
しかし上手く生きてくれてよかった。 ここに彼の全てがあり、誰もなしえなかった交響曲の巨大な
20世紀のモニュメントだ。男の音世界はこれだ。誰だ! クラシックは、女子供のすることだと
言ったり、私はクラシック音楽がわかりませんとか言う腰抜けは?

【交響曲第5番 ニ短調 作品47】  2007.11.4.sun 15:00~
[抽象画家の描いた肖像画]
 私事ですが長年、振りたくなかった作品です。10代のころ日比谷公会堂でひどい演奏を
聴いてしまったからか、或いはほとんどの指揮者が、終楽章で乱痴気騒ぎをするばかり
だったからかもしれない。でもあるとき楽譜を真面目に見てから考えが変わった。誰にでも
判りやすい形式で、繰り返しの多い古典的方法で、自分の音楽を型にはめてみたのだ。
すでに売れている抽象画家なのに街角で町の人々の肖像画を書いたようなもの。そしたら
黒山の人だかりになったのだった。

【交響曲第6番 ロ短調 作品54】  2007.11.4.sun 15:00~
[ショスタコーヴィチの「田園交響曲」]
 「大袈裟」が嫌いな人はまずショスタコは6番から聴けば良い。ベートーベンの田園とは
違うが、平和な曲だ。日比谷で聴いて公園散歩…ソヴィエト時代のロシアに生まれなくて
良かったとか思って…ふふふ、幸福ですか?


(3)戦争の時代 交響曲第7番〜第9番

【交響曲第7番 ハ長調 作品60 「レニングラード」】  2007.11.10.sat 17:00~
[オフザケと狂気は全く逆を向いている]
 私がショスタコに真に「はまった」のはこの第1楽章を「フザケタボレロ…」と
思った20年前。一昨日の感じです。オフザケと狂気は全く逆を向いていることを知った。
父や母が戦争の話をしたがらないわけもわかり始めた頃だ。
 人間は弱く、知らないうちに少しずつ狂気=戦争というに蝕まれるのだろう。心せよ!!
 7番が初演された頃、レニングラードでは都市封鎖で毎日3000人が死に、飲む水も
十分になかった。日比谷公会堂では大本営発表を信じていた人々が、クラシック
コンサートに通い2日に1回は行われていた。アメリカ生まれの私の育ての父は英語に
堪能であるというだけで日本ではスパイ扱い。耐えられずフィリピンに移住、母も
(いわく、「あこがれの軍艦!」に守られ)船で彼の後を追った頃だ。数年後、日比谷公会堂は
米軍による空襲での遺体置き場となる。

【交響曲第8番 ハ短調 作品65】  2007.12.9.sun 15:00~
[本当の芸術は材料なぞ何でも良い]
 戦争交響曲とも言われる。本当の芸術は材料なぞ何でも良いのだ,材料そのものを
表現したって芸術とはいえないのだから。その逆も真なりだがね。どんな戦いの中にも
素晴らしい興奮と生きる現実の喜びが人に与えられているではないか。ふふふ。

【交響曲第9番 変ホ長調 作品70】  2007.11.18.sun 15:00~
[人民の期待?を軽くうっちゃる喜び]
 楽しい、面白い、ユーモアがある、やさしい、でも崩れない品位があり、交響曲1番の
ようでもあり、まるでハイドンのシンフォニーのようで、演奏者も楽しめる。
サッカーの好きなショスタコ、意外と恋愛も多かったショスタコの、確信犯的な
おもちゃの兵隊のような凱旋フィナーレ、人民の期待?を軽くうっちゃる喜び=ショスタコの
真骨頂。ははは。


(4)体制の中から 交響曲第10番〜第13番

【交響曲第10番 ホ短調 作品93】  2007.11.11.sun 15:00~
[誰が自分を完全に説明できますか?]
 彼は作曲界の長嶋、イチロー、松井。人は彼を材料に色々書き、言う。しかし彼は
彼の心と頭から出る音形を楽譜に書きとめようとしているだけで、彼自身にだって
その出所がわからない事だってあるのだから。
誰が自分を完全に説明できますか?

【交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[凍るようなロシアの長編小説]
 良い演奏ならばこの曲はまるで時間を越えて凍るようなロシアの長編小説、
長編歴史映画を見るような音絵巻だ。交響曲の世界は素晴らしい。殺されることなく
2つの革命(第12番とともに)を経験できるのだから…。平和の時代に生きる事への
罪の感覚が芽生えさえするのが恐ろしい。

【交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[何が起こっても何も変わらない「世界」]
 この曲の中に音楽の流れをせき止める音が数回出てくるが、何の関係もない音形
なのでロシア語の堪能な一柳さんに聞いてみた。数日して「スターリン」と読めると
聞いた。なるほど! 彼が出てくればすべては止まる。息の根が止められる。
最終楽章は革命の後の「何も変わらない黄昏のような朝焼け」さ。それは我々も
知っている。政権が変わっても首相が代わっても何も変わらない「世界」を。
でも誰にでも希望は与えられている。この曲が15曲の中で一番出来が悪いと
いう人が多いらしい。本当か?まあ聴いてください。

【交響曲第13番 変ロ短調 作品113 「バビ・ヤール」】  2007.11.11.sun 15:00~
[イソップ的世界からの鉄槌]
 名曲! ロシア語の詩は字幕で出します。飛んで跳ねるイソップの世界に身を隠し、
ユダヤ人差別を、身近なこととして偽善的な庶民へも突きつける内容。
日本にも差別はあるがそれをここまで赤裸々に音楽化しようとした勇気ある作曲家は
いない。彼はそれをあのソヴィエトの中でやった真の命知らず。
その上ムラヴィンスキー独裁の頃のレニングラードフィルハーモニーの団員は
その事実を公に出来なかったがユダヤ人がとても多かったのだから・・・・・
暴走族や町の落ガキ達に聞かせたい。


(5)終の境地 交響曲第14番、第15番

【交響曲第14番 ト短調 作品135】  2007.11.18.sun 15:00~
[死とは生きること]
 宗教、神による癒しも拒否し、安心も捨てて、死と対峙するとは自信に満ちた
ショスタコも行き着くところまで極まっている。死とは生きること。死がなければ
生はないのだから。ローレライの魔女は自分に魅入られて死んだ。人は何によって
生かされ何によって死ぬか? それを見つければその人の一生は完全だ。
人にとって当の自分の人生以外に価値あるものは何だろうか? 答えは? 愛とか言うのですか?

【交響曲第15番 イ長調 作品141】  2007.12.9.sun 15:00~
[名曲は、いかようにも変貌するもの]
 この曲は指揮者によってどのようにも変貌する。名曲とはそんなもの。怖い。
愛する?新日フィルと心中。

https://www.michiyoshi-inoue.com/2007/11/_6.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c31

[リバイバル3] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
31. 中川隆[-14924] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:39:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2016]

宇野功芳指揮新星日響のワーグナー「指環」オーケストラル・ハイライト(1993.4.15Live)を聴いて思ふ2018年8月30日
https://classic.opus-3.net/blog/?p=26807


そういえば宇野功芳さんが亡くなって早2年が経過する。

晩年は、その筆の勢いというか、かつてのキレがなくなってしまい、とてもがっかりだったけれど、例えば1980年代初頭、「レコード芸術」誌上で繰り広げられた福永陽一郎さんとのムラヴィンスキー論争などは、現在では考えられないほどの互いの持論の主張と反論の応酬であり、今思い出しても読者である僕たちが熱くなるほど激しいものだった。

当時、オイロディスクからリリースされた「ウィーン芸術週間のムラヴィンスキー」と題するLP4枚組セットについて、冒頭いきなり「エフゲニー・ムラヴィンスキー。この名前は私にアレルギーをおこさせる」と、まずは福永さんが気炎を吐いた。

今度のアルバムについても、宇野さんが「現役指揮者の中で唯一人の天才」なんて持ち上げるものだから、何だか気おされてしまって、かえって味気なくなってしまいそうだったが、1978年のライヴ録音というから、ひとつのオーケストラの常任指揮者としての在任記録も、オーマンディと並ぶ長距離不倒走者というわけだし、この際、心をあらためてジックリ耳をかたむけてみたのだ。
〜「レコード芸術」1981年4月号P200

この謙遜というより何とも慇懃な言い様に、右も左も分からない高校生ながら(当時宇野派の僕は)呆れ返らざるを得なかった。
福永さんは、シューベルトもブラームスも異様な演奏だとして数多の言葉を駆使してこき下ろし、ショスタコーヴィチについては「凄い」と賞讃しながらも感情の枯渇を指摘、さらにチャイコフスキーに至っては「評価のしようがないほどナンセンスな演奏だ」と取りつくしまがない。挙句は「蕁麻疹が出た」という有様だから僕は言葉も出なかった。

さすがの宇野さんも、これには反論の筆を執った(福永陽一郎氏のムラヴィンスキー論に反論する)。

具合が悪いのは、福永さんが、この演奏のすばらしさ、指揮者の表現力、統率力、オーケストラの能力を口を極めて絶讃し、その個性を好む趣味の人を貶すつもりはないが、ご自分は蕁麻疹が出た、といわれていることであろう。ムラヴィンスキーに対するアレルギーに、理由などはほとんどない、その拒絶反応には説明のしようがない、というのでは、これは好き嫌いの問題であって、話にならないのである。好きでも嫌いでも、良いものは良い、悪いものは悪い、というのが批評の鉄則であり、福永さんが、自分は批評家ではない、といわれても、それは通らないと思う。
〜「レコード芸術」1981年7月号P130

いかにも正論の宇野節炸裂に欣喜雀躍。
さらに宇野さんは次のように福永さんを責め立てる。

もう一つの大問題は、福永さんがムラヴィンスキーの実演を一度も聴いたことがない、という事実だ。凡庸な演奏というものは、時にマイクを通した方が良く聴こえる場合もあるが、天才の芸術になればなるほどマイクには入り切らない。
〜同上誌P130

この後も宇野さんはムラヴィンスキーの演奏の凄さを、手を変え、品を変え、訥々と論じられている。そして記事の最後を次のように締められているのである。

それにしても、福永さんがムラヴィンスキーのシューベルトやブラームスを《ロシアなまり》と称しているのには抵抗がある。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーやショスタコーヴィチを本場物だから、という理由で高く評価するのが間違いであるように、この指揮者にロシアなまりなど、ありはしない。それこそ彼の個性なのである。福永さんは、ムラヴィンスキーの演奏を「自説でしかない」とけなされているが、演奏というもの自体が、本来自説でしかないのではあるまいか。ぼくが思うに、現代の指揮者たちは自分を語ることから遠ざかっているように思う。
〜同上誌P131

演奏というものが本来自説でしかないという言葉に膝を打つ。
その通り、宇野さんも、自身がオーケストラを指揮するようになってから、自説以外の何ものでもない個性的な演奏を繰り広げた。そしてまた、(ムラヴィンスキーとは次元が違うとはいえ)彼の演奏も録音にはなかなか入り切らなかった。

「ワーグナーには小細工をしてもはじまらない。いかにオーケストラを鳴らし、雄大なスケールを表出するかだけだ」と挑戦したワーグナーの管弦楽を中心に組んだコンサートでも、宇野さんはその録音を発売することにとても躊躇したというのだから興味深い(示導動機が鮮明さを欠き、響きに立体感が乏しいという理由かららしい)。しかし、その演奏は当然とても個性的なもので、今となっては残していただけて良かったと思えるもの。

ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」よりオーケストラル・ハイライト
・「ラインの黄金」〜ワルハラ城への神々の入場
・「ワルキューレ」〜ワルキューレの騎行
・「神々の黄昏」〜夜明けとジークフリートのラインへの旅
・「神々の黄昏」〜ジークフリートの葬送行進曲
・「神々の黄昏」〜ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲
宇野功芳指揮新星日本交響楽団(1993.4.15Live)

悠久を思わせる遅いテンポで奏される「ワルキューレの騎行」は、細部まで見通すことのできる絶品。そして、「神々の黄昏」からの3つのシーンの、時間と空間を超えた魔法の妙。特に「葬送行進曲」での地の果てから蠢き、轟く音響の有機性に驚くばかり(さぞかし実演ではすごい音が発せられたのだろうと思う)。あるいは終曲の、「生への歓呼の動機」と「ワルハラの動機」の上に、「愛の救済の動機」が顔を出し、音が三層に重なり合う場面の神々しさ。

ワーグナーが自筆総譜の最終ページに書き込んだ言葉はこうだ。

1874年11月21日、ヴァーンフリート荘にて完成。もう何も言うまい!
〜日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P140

文字通り言葉がない。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=26807
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html#c31

[リバイバル3] 宇野功芳 ブルーノ・ワルターと我が音楽人生 中川隆
32. 中川隆[-14923] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:44:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2015]


ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏最終日 そして宇野功芳氏の訃報
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html


 2016年6月16日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏最終日を聴いた。最後まで緊張感あふれる素晴らしい演奏だった。

 曲目は、前半に11番と13番、後半に14番と15番。親しい人が死に、自分の死が近づいていることを意識する時期のショスタコーヴィチの陰鬱で複雑な感情が描かれる曲。ショスタコーヴィチが信頼し、彼の弦楽四重奏曲を初演してきたベートーヴェン・クァルテットのメンバーの死を追悼する意味の含まれる曲が多く、それぞれの楽器の使い方が曲により異なる。

パシフィカ・クァルテットはそれらの曲の複雑な表情を実に鮮烈に、しかも緊張感にあふれて再現した。強い音の表現がみごと。四人の息もぴったり。やはり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を連想する。独特の境地とでもいうか。ただ、とりわけ第1番に関しては、私にはまだまだ理解できないと思った。中学生だったか高校生だったかのころ、初めてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いて途方に暮れた時のことを思い出した。まだまだショスタコーヴィチに関して、私の修行が足りないということだろう。

いずれにせよ、私はショスタコーヴィチについては交響曲よりも室内楽のほうにずっとひかれることを改めて感じた。交響曲は大衆を意識し、ソ連当局を意識するので、内面そのものでなく、あれこれと政治的な言い訳を加えたり、韜晦を加えたりといった余計なものがたくさんある。が、室内楽にはショスタコーヴィチの屈折した内面がそのまま表れる。そこが最高におもしろい。とりわけ、弦楽四重奏曲を最初からずっと聞いていくとその人生の軌跡が見えてくる。しかも、このパシフィカ・クァルテットはそれを最高の生々しさで描いてくれる。

このような最高の企画をしてくれている横浜楽友会に感謝。

といいつつ、鶴見に通って4日間ショスタコーヴィチを聴くというのはなかなかつらい。このところ食欲がなく気が晴れない(といいつつ、一昨日は銀座三越のレ・ロジェ・エギュスキロールで実においしいフランス料理を食べたが)のはショスタコーヴィチの気分を引きずっているからのような気がしてならない。

なお、数日前、ショスタコーヴィチ連続演奏に通っている間に音楽評論家の宇野功芳氏死去の報道に接した。私は高校生、大学生のころ、氏に非常に大きな影響を受けた。その後、氏のあまりに断定的な表現、芸術に順位をつけるような考え方に反発し、私にとって最も嫌いな評論家になっていた。しばしば氏の批評に腹の立つことがあった。だが、CDを聴き、自分なりに感想を抱いた後、宇野氏の評を読むと、私の感想とそっくり同じであることに驚くことも多かった。

5、6年前、一度、出版関係者の紹介で話をする機会(ベストセラー作家であり、クラシック音楽好きで、音楽関係の著書も数冊あると私は紹介された)があり、率直に私の思いをお話しすると、「宇野功芳と対決するという本でも出しませんか。いつでも受けて立ちますよ」といわれた。ちょっと考えたが、音楽に対する知識でとうてい氏に及ぶわけはないと思ってあきらめた。今となってはよい思い出だ。合掌。


コメント


宇野さんはここ数年過去に自分の言った言葉の数々に囚われてしまったようにかんじられました。音楽を聴くときに言葉に囚われることの悲劇というのを、自分は過去ある演奏者の方から直接聞いたことがあります。それをふと思い出してしまいました。
投稿: かきのたね | 2016年6月19日 (日) 03時24分



幻に終わった宇野功芳氏との対決本、もしできていたら、面白い本になったかもしれませんね。読者も参加できたら(投稿か何かの方法で)、私も一言くらいは参加したかも‥と思ってしまいました。
投稿: Eno | 2016年6月19日 (日) 18時12分



かきのたね 様
おっしゃる通りですね。確かに、あのように断定的な言い方をすると、のちに考えが変わったり、別の視点で聴き返してみたりしたとき、前言を翻すのが難しくなってしまいますね。ある意味で自分の成長を自分でとどめてしまうことになるかもしれません。しかも、氏の場合、以前と矛盾したことを書くと鬼の首を取ったようにあげつらうアンチも多かったようですし。あのような文体も一つの芸だったとは思いますが、ご自分へのマイナス面のあったのでしょう。
投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 21時58分


Eno様
宇野氏の追悼本として、そのような本の企画をどなたか考えてくれませんかねえ。それがもっとも宇野氏にふさわしい本になるように思います。多くの投稿者が一つのオマージュとして宇野氏への批判をするような本です。私も一人の投稿者として加わりたいですね。

投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 22時07分
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/529.html#c32

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
32. 中川隆[-14922] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:48:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2014]

トリオ・ワンダラーのベートーヴェンとパシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ 2016年6月11日
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-846f.html


 2016年6月9日、三鷹芸術文化センターでトリオ・ワンダラーによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲全曲演奏の二日目、第1・3、変ホ長調WoO38、「仕立て屋カカドゥの主題の夜変奏曲とロンド」、第7番「大公」を聴いた。トリオ・ワンダラーはこれまでナントと日本のラ・フォル・ジュルネで何度も聴いてきたが、実は私はどうもよさがわからない。雑な気がしてしまう。が、強く薦める人がいたので、再び聴いてみた。だが、やはり印象は変わらなかった。

 もう少しじっくりと演奏してほしい気がしてしまう。意味なく速く、せわしげに演奏しているような気がしてならない。第三番の作品1−3のハ短調の曲も、あの若きベートーヴェンの人生に対する鬱積が伝わらない。「大公」も凛とした気品が伝わらない。私がこれらの曲に求めるものとは違うものをこのトリオは表現しているのだろう。「やはり、私にはよくわからない団体だ」ということを再認識した。

 翌6月10日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲連続演奏の初日、第1・2・7・3番の演奏を聴いた。これは素晴らしかった。ショスタコーヴィチの醍醐味を味わった。

 サルビアホールで聴いたのは初めてだった。鶴見駅からすぐのところにある100名を少し超すくらいの規模のホールだが、音響面に優れているように思った。このホールで室内楽を聴くのはとても贅沢だ。

 パシフィカ・クァルテットは1994年結成の弦楽四重奏団。もっと若いのかと思っていたら、今や中堅といえそう。アンサンブルがびしりとあって実に見事。時々テンポを動かすが、テンポの揺れが指揮者なしで完璧に行われるのは小気味いいほど。しかも、それが音楽の流れに沿っているので、まったく不自然ではない。音楽の表情も豊かで、完璧なアンサンブルによってショスタコーヴィチ特有のヒステリックといえるような激しい高揚が展開される。人生のやるせなさ、激しい焦燥、怒り、生そのものの激しい衝動。そのようなものが目の前で繰り広げられる。この団体の凄さだけでなく、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の素晴らしさも改めて知ることができた。第3番は素晴らしい名曲だと思った。

 実は、とても忙しい。たまたまいくつかの仕事の締め切りが重なってしまった。しかも、コンサートや芝居、オペラなどに立て続けに行く予定。そんなわけで、今日はこれ以上文章を書く時間的余裕がない。このくらいにしておく。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-846f.html


パシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ第2夜・第3夜 圧倒的演奏!
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ea0f.html


 2016年6月13日・14日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏の第2夜と第3夜を聴いた。本当に素晴らしい。パシフィカ・クァルテットの名前はこのたび初めて知った。こんなすごい弦楽四重奏団がいたなんて!

 完璧なアンサンブル。リリックな部分、ロマンティックな部分、絶望的な部分、うつうつとした部分、躁の部分がとても自然に、しかもメリハリが付けて演奏される。その多くの部分に心を奪われ、時に胸を締め付けられる気持ちになり、時に叫びだしたい気分になる。音楽の中に音楽そのもののドラマがあり、それが余すところなく表現される。しかも、余計なものは含まれていないのを感じる。だからこそ、いっそう魂を揺さぶる。

 私は特にショスタコーヴィチ好きというわけではない。交響曲に関していうと、どちらかというとやや苦手な曲が多い。20年近く前、ボロディン弦楽四重奏団の全集CDを見つけて購入し、その凄まじい演奏に圧倒されて以来、室内楽曲には魅力を感じてきたが、本当のことを言うと、ボロディン四重奏団の全集も通して聴いたのは2、3回だと思う。ショスタコーヴィチの曲を聴くと、胸がいっぱいになって続けて聴きたい気持ちが起こらない。そんなわけで、今回も、初めて聴いたに等しい曲も何曲かあった。

 しかし、そうであったとしても、今回のパシフィカ・クァルテットの演奏には驚嘆する。ぐさりぐさりと心に突き刺さってくる。私はとりわけ第2日(6月13日)の第8番と第3日(6月14日)の第9番と第12番に感動した。音によって作りだされる複雑な人間の魂の世界に揺り動かされた。

 100人くらいしか客の入らないサルビアホールで独り占めするのがあまりにもったいない。世界最高レベルのクァルテットだと思う。最終日が楽しみだ。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ea0f.html

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏最終日 そして宇野功芳氏の訃報
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html


 2016年6月16日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏最終日を聴いた。最後まで緊張感あふれる素晴らしい演奏だった。

 曲目は、前半に11番と13番、後半に14番と15番。親しい人が死に、自分の死が近づいていることを意識する時期のショスタコーヴィチの陰鬱で複雑な感情が描かれる曲。ショスタコーヴィチが信頼し、彼の弦楽四重奏曲を初演してきたベートーヴェン・クァルテットのメンバーの死を追悼する意味の含まれる曲が多く、それぞれの楽器の使い方が曲により異なる。

パシフィカ・クァルテットはそれらの曲の複雑な表情を実に鮮烈に、しかも緊張感にあふれて再現した。強い音の表現がみごと。四人の息もぴったり。やはり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を連想する。独特の境地とでもいうか。ただ、とりわけ第1番に関しては、私にはまだまだ理解できないと思った。中学生だったか高校生だったかのころ、初めてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いて途方に暮れた時のことを思い出した。まだまだショスタコーヴィチに関して、私の修行が足りないということだろう。

いずれにせよ、私はショスタコーヴィチについては交響曲よりも室内楽のほうにずっとひかれることを改めて感じた。交響曲は大衆を意識し、ソ連当局を意識するので、内面そのものでなく、あれこれと政治的な言い訳を加えたり、韜晦を加えたりといった余計なものがたくさんある。が、室内楽にはショスタコーヴィチの屈折した内面がそのまま表れる。そこが最高におもしろい。とりわけ、弦楽四重奏曲を最初からずっと聞いていくとその人生の軌跡が見えてくる。しかも、このパシフィカ・クァルテットはそれを最高の生々しさで描いてくれる。

このような最高の企画をしてくれている横浜楽友会に感謝。

といいつつ、鶴見に通って4日間ショスタコーヴィチを聴くというのはなかなかつらい。このところ食欲がなく気が晴れない(といいつつ、一昨日は銀座三越のレ・ロジェ・エギュスキロールで実においしいフランス料理を食べたが)のはショスタコーヴィチの気分を引きずっているからのような気がしてならない。

なお、数日前、ショスタコーヴィチ連続演奏に通っている間に音楽評論家の宇野功芳氏死去の報道に接した。私は高校生、大学生のころ、氏に非常に大きな影響を受けた。その後、氏のあまりに断定的な表現、芸術に順位をつけるような考え方に反発し、私にとって最も嫌いな評論家になっていた。しばしば氏の批評に腹の立つことがあった。だが、CDを聴き、自分なりに感想を抱いた後、宇野氏の評を読むと、私の感想とそっくり同じであることに驚くことも多かった。

5、6年前、一度、出版関係者の紹介で話をする機会(ベストセラー作家であり、クラシック音楽好きで、音楽関係の著書も数冊あると私は紹介された)があり、率直に私の思いをお話しすると、「宇野功芳と対決するという本でも出しませんか。いつでも受けて立ちますよ」といわれた。ちょっと考えたが、音楽に対する知識でとうてい氏に及ぶわけはないと思ってあきらめた。今となってはよい思い出だ。合掌。


コメント


宇野さんはここ数年過去に自分の言った言葉の数々に囚われてしまったようにかんじられました。音楽を聴くときに言葉に囚われることの悲劇というのを、自分は過去ある演奏者の方から直接聞いたことがあります。それをふと思い出してしまいました。
投稿: かきのたね | 2016年6月19日 (日) 03時24分

幻に終わった宇野功芳氏との対決本、もしできていたら、面白い本になったかもしれませんね。読者も参加できたら(投稿か何かの方法で)、私も一言くらいは参加したかも‥と思ってしまいました。
投稿: Eno | 2016年6月19日 (日) 18時12分

かきのたね 様
おっしゃる通りですね。確かに、あのように断定的な言い方をすると、のちに考えが変わったり、別の視点で聴き返してみたりしたとき、前言を翻すのが難しくなってしまいますね。ある意味で自分の成長を自分でとどめてしまうことになるかもしれません。しかも、氏の場合、以前と矛盾したことを書くと鬼の首を取ったようにあげつらうアンチも多かったようですし。あのような文体も一つの芸だったとは思いますが、ご自分へのマイナス面のあったのでしょう。
投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 21時58分

Eno様
宇野氏の追悼本として、そのような本の企画をどなたか考えてくれませんかねえ。それがもっとも宇野氏にふさわしい本になるように思います。多くの投稿者が一つのオマージュとして宇野氏への批判をするような本です。私も一人の投稿者として加わりたいですね。

投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 22時07分
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c32

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
33. 中川隆[-14921] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:59:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2013]
パシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ

String Quartet No. 8 in C Minor, Op. 110 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ql0JzzflED0
https://www.youtube.com/watch?v=zS-eJ6_WWa4
https://www.youtube.com/watch?v=ZJLTyzl-fVo
https://www.youtube.com/watch?v=_4kPd3nW0Fk
https://www.youtube.com/watch?v=ryDeqqUvs44

Ensemble: Pacifica Quartet
Composer: Dmitry Shostakovich
Released on: 2011-09-06
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c33

[近代史3] 誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは 中川隆
34. 中川隆[-14920] koaQ7Jey 2019年11月14日 18:44:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2012]

ショスタコーヴィチ(1906-1975) プロフィール
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/biography/


「わたしの交響曲は墓碑である」という例の『証言』の中の言葉に色々な意味で象徴されるショスタコーヴィチの音楽と生涯への価値観の変質は、今もって盛んな議論や推論、研究、演奏解釈によって再認識過程の最中にあるとも言えますが、作品によってはすでに演奏年数も75年に及び、伝統と新たな解釈の対照がごく自然におこなわれてきているとも言えそうです。

 圧政と戦争の象徴でもあったソビエト共産主義社会の中に生き、そして逝ったショスタコーヴィチの音楽は、最も20世紀的な音楽のひとつとして位置付けられており、没後四半世紀以上を経た現在では録音点数も増えて、音による鑑賞&検証も比較的容易になりました。以下、彼の生涯を簡単にご紹介しておきます。

 作曲家、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日午後5時、ペテルブルグに誕生します。父親はポーランド系で度量衡検査院主任、母親はペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストで、ドミトリーは9歳から母親にピアノを習い始めて異常なほどの上達ぶりをみせ、さらに作曲にも大きな関心を示し、『自由の賛歌』(ピアノ曲)を書きあげます。同年、私立の学校とグリャッセルの音楽学校という二つの学校に通い出したショスタコーヴィチは、1917年、二月革命で警官が子供を殺害するのを衝撃を受け『革命の犠牲者の行進曲(葬送行進曲)』(ピアノ曲)を作曲。

 1919年、ペトログラード音楽院に入学し、母の師でもあったロザノヴァにピアノを、シテインベルグに作曲を師事します。画家、クストーディエフとも交流を持ち、有名な肖像画が書かれているのもこの頃のこと。作曲活動も活発になり、ピアノ曲のほか、未完に終わったオペラ『ジプシー』や、オーケストラ伴奏歌曲、R=コルサコフ作品のオーケストラ編曲もおこなっています。1922年、父親が亡くなり、ショスタコーヴィチ家の経済状態は貧窮に陥りますが、グラズーノフが手をさしのべてくれたおかげで学業を続けることができました。

 翌1923年にはピアノ科を修了、映画館で解説ピアニストとして働き始めます。この頃、ショスタコーヴィチの結核の症状が悪化し、クリミヤ半島に転地療養することになりますが、同地ではタティアナ・グリヴェンコという同年齢の少女と恋に落ち、5年間に150通の恋文が書かれたほか、ピアノ三重奏曲第1番が献呈されています。1925年には作曲科を修了。卒業作品、交響曲第1番作品10のニコライ・マリコによる初演は大成功を収め、ソヴィエトだけでなく西欧でも演奏されてショスタコーヴィチの名を一躍世界に広め、これが作曲家としての本格的なデビューになったといえるでしょう。

 1926年春、新設された大学院に入学したショスタコーヴィチは交響曲第1番の成功にも関わらず、ピアニストとしての実力の高さからも進路を決めあぐねていました。翌1927年1月には第1回ショパン・コンクールに参加しますが、急性盲腸炎のためいつも通りには弾けず、結局、第1位にはレフ・オボーリンが選ばれてショスタコーヴィチは特別賞を受賞することになります。

 受賞後、新作のピアノ・ソナタ第1番作品12を各地で演奏する一方、同年3月末には国立出版所音楽部門から、その年の秋に控えた十月革命10周年記念式典で演奏される交響曲の作曲を委嘱されたことは、当時の不安定な立場を物語るかのようです。同年にはさらに前年に出会ったソレルティンスキーの影響でピアノ組曲『アフォリズム』作品13を書き上げ、大胆なオペラ『鼻』作品15にも着手。この時期の作風がショスタコーヴィチ自身の変化に伴ってさまざまに変貌していることを伝えてくれますが、これには当時のモダニズムにあふれかえっていた社会情勢の影響も見逃すわけには行きません。

 同じ1927年の8月から9月、ショスタコーヴィチはレニングラード近郊のデッツコエ・セロのサナトリウムで盲腸炎手術後の休養をとっていましたが、同地で工業大学の物理の学生、ニーナ・ヴァルザルと出会い、のちの結婚へと繋がって行きます。この年の暮れにはスターリンによる独裁体制も始まりました。

 1928年、オペラ『鼻』完成。上演をめぐって知り合った著名な前衛演劇人メイエルホーリドの家に住み込み、彼の劇場の音楽を担当。翌1929年には、高名な詩人マヤコフスキーの知己を得『南京虫』の音楽を作曲。また、交響曲第3番『メーデー』作品20も書き上げ、さらにバレエ『黄金時代』作品22に着手。ほかに劇音楽『射撃』作品24、ドレッセルのオペラ『コロンブス』のための間奏曲と終曲作品23も書かかれています。

 秋には演奏会形式で『鼻』の初演がおこなわれ、モダニズム派の形勢が不利だった時代ということもあり、ロシア・プロレタリア音楽協会から酷評を受けることに。ちなみに、『射撃』はプロレタリア側組織、労働青年劇場との関わりから生まれた作品。この頃からすでにショスタコーヴィチの音楽と政治の関係は複雑だったようです。同年末、レニングラード音楽院大学院を卒業。

 1930年1月、マールイ劇場で『鼻』初演。さらに同月、交響曲第3番『メーデー』が初演され、3月にはバレエ組曲『黄金時代』が初演。5月には労働青年劇場との共同作業で音楽を担当した演劇『処女地』の上演が開始され、10月には『黄金時代』がバレエとして上演されます。同じ年、ショスタコーヴィチは、労働青年劇場の機関誌『プロレタリア音楽家』にプロレタリア音楽を熱烈に支持する発言を寄せています。

 なお、前年(1929年)の初めから翌1931年の暮れにかけては、のちのショスタコーヴィチの言葉によれば「『実用』作曲家として過ごした時期」であり、1930年には『処女地』のほか、映画音楽『女ひとり』を書いています。とはいえ、この年はもっぱら、前半の初演の多さと、傑作『ボルト』、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の作曲に着手したことで知られており、現在の認識ではむしろ充実した年という判断が主流です。

 1931年、バレエ『ボルト』作品27完成。その他、劇音楽『ハムレット』、『支配せよ、ブリタニア!』、『条件付きの死者』、映画音楽『黄金の丘』(組曲版も)、弦楽四重奏のための2つの小品、『緑の工場』のための序曲を作曲。

 1932年、ニーナ・ヴァルザルと結婚。組曲『ハムレット』(前年の劇音楽から)、映画音楽『呼応計画』、声楽付き交響詩『カール・マルクスから我々の時代へ』、『チェロのためのモデラート』、『大きな稲妻』作曲のほか、ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』を4手ピアノに編曲。また、24の前奏曲の作曲にも着手し翌1933年に完成しています。

 1933年、レニングラード市オクチャーブリ区議会議員に選出。ピアノ協奏曲第1番作品35、劇音楽『人間喜劇』作曲。

 1934年、歌劇『ムツェンスク群のマクベス夫人』初演。大成功を収め、翌年1月にはロジンスキーによってアメリカ初演もおこなわれています。ジャズ・オーケストラのための第1組曲、チェロ・ソナタ、バレエ『明るい小川』、映画音楽『司祭とその下男バルダの物語』、『愛と悲しみ』、『マクシムの青年時代』、『女友達』作曲。妻・母とともにドミトリエフ小路のアパートに転居。嫁姑の確執からか、妻ニーナが病気がちになり保養所で過ごす時間が増加。

 1935年、管弦楽のための5つの断章作品42を作曲したほか、交響曲第4番に着手。バレエ『明るい小川』初演。その他、黄金時代からのポルカをピアノ独奏用に編曲。前年に入居したアパートを母親名義にし、妻とキーロフ大通りのアパートに転居。妻妊娠。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/biography/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html#c34

[近代史3] 天皇一族だけでなく日本人の大人の幼児化も進行している 中川隆
53. 中川隆[-14919] koaQ7Jey 2019年11月14日 18:52:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2011]

あおり運転をする人の卑屈な日常 2019/11/14


逮捕時の状況を楽しむ宮崎容疑者。(AFLO=写真)© PRESIDENT Online 逮捕時の状況を楽しむ宮崎容疑者。(AFLO=写真)

宮崎容疑者はアドレナリンジャンキー

2019年8月、茨城県の常磐自動車道で起きたあおり運転殴打事件。県警は監視カメラから容疑者を全国指名手配し、傷害・強要容疑で住所不定の宮崎文夫容疑者(43)と同乗者の女を逮捕した。この事件は、被害者の車載カメラに暴行の映像が残っていたこともあり、世間で大きな話題となった。宮崎容疑者は新東名高速道路でも同様のあおり運転をした容疑など、余罪が多くあると見られている。このような過激なあおり運転をする人間にはどのような特徴があるのだろうか。精神科医の樺沢紫苑氏はこう分析する。

「逮捕時の映像を見る限り、あおり運転をしている際も、逮捕される際も、その状況を楽しんでいるように見えました。私の作った言葉にアドレナリンジャンキーという言葉があります。これこそ、まさにアドレナリンジャンキーの症状と言っていい。アドレナリンは、本来自分が死に陥りそうになったときに平常時以上の力を発揮する効果をもたらす分泌物のこと。格闘技ではアドレナリンが出ると痛みを感じにくくなり、戦闘意欲が高まることが知られています。宮崎容疑者は、危ない運転に快楽を見出しすぎる、アドレナリンが出た状態にあったと思われます」

感情が一時的に増幅

樺沢氏によれば、宮崎容疑者は怒りの感情が一時的に増幅され、その勢いであおり運転や暴力を振るった可能性が高いという。

「ただし、アドレナリンは一瞬で分泌され、約6秒でピークの値から下がるといわれています。つまり、カッとなっても10秒だけ深呼吸して時間の経過を待てば、事態を冷静に見つめ直すことができる。彼にはそれができなかったのでしょう」

激昂している人というのは、自らが怒っているという自覚が持てない。それがもっとも問題だという。

「怒りを鎮めるための効果的な対策は、怒りを自分で認識すること。『いま自分は怒っている』と客観視できれば、一時的な感情で極端な行動に走ることはなくなります。例えば、シリコンバレーを中心に今流行っているマインドフルネス(瞑想)は、自らの感情を自覚する行為です。いま自分は楽しい、いま自分は落ち込んでいるなどと自覚できれば、感情をコントロールできます」

また、樺沢氏によると、宮崎容疑者は怒りの感情を抑えられない病を患っている可能性も否定できないという。

「怒りが爆発しやすい、間欠爆発症という病気があります。いくつかの診断基準があるのですが、宮崎容疑者は、あおり運転と怒りのトラブルを繰り返していたことから、その特徴を備えている可能性もあります」

さらに、こうしたアドレナリンジャンキーの場合、日常生活の中でも自動車の運転はトラブルを招く可能性が高いと樺沢氏は指摘する。

「よく、車に乗ると性格が変わる人がいますが、それは車が自分に全能感・万能感をもたらしやすいからです。車はスピードや方向など自分でコントロールできる領域が大きいので、卑屈だったり、自己肯定感が低い人は相手に悪気がなくても、割り込みをされたと思い込みやすい。クルマを体の延長線のように捉えていると、自分が邪魔されたように勘違いしやすいのです」

では、自己肯定感を高めるためにはどのようにすればよいのだろうか。

「人からほめられるだけでなく、自分で自分をほめるのも自己肯定感の向上につながります。いまの自分でいいじゃないか、追い越されてもいいじゃないかと考えることです」

最後に、万が一、自らがあおり運転被害に巻き込まれた場合は、どのように対処すればいいのだろうか。

「何より相手の挑発にのらないこと。感情は伝染します。自分まで怒ってしまうと相手の怒りは増幅してしまう一方なのです。それを避けるために、相手がどれだけ怒っていても、必ずゆっくり話しましょう。ゆっくり話す行為は、副交感神経が優位に働き、深呼吸と同じ効果があります」

売られた喧嘩は買わない。それがアドレナリンジャンキーから自らの命を守る最大の策である。
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%81%82%e3%81%8a%e3%82%8a%e9%81%8b%e8%bb%a2%e3%82%92%e3%81%99%e3%82%8b%e4%ba%ba%e3%81%ae%e5%8d%91%e5%b1%88%e3%81%aa%e6%97%a5%e5%b8%b8/ar-BBWJ1W5?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/120.html#c53

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
17. 中川隆[-14918] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:13:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2010]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

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全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

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クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

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この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


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これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

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スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

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これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

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先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

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自作DACもこんな念の入りようでした。

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14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

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翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

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サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

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前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c17

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
20. 中川隆[-14917] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:14:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2009]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

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全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

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歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

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クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

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この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


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これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

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スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

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これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

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先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

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自作DACもこんな念の入りようでした。

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14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

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翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

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サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

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前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c20

[リバイバル3] ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ 中川隆
41. 中川隆[-14916] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:15:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2008]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

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この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

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スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

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これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

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先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

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自作DACもこんな念の入りようでした。

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14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

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翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

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サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

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フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html#c41

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
129. 中川隆[-14915] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:17:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2007]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

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全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

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この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

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スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

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先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


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自作DACもこんな念の入りようでした。

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フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c129

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
38. 中川隆[-14914] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:19:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2006]


2019年08月25日
松本オーディオの会、ドイツオーディオ事情、新先生、サウンドパーツ
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603


サウンドパーツの水谷代表主催で長年続けておられる松本オーディオの会にお誘いいただけて参加させていただきました。

いろいろと収穫が多かったので、順番に紹介いたします。

内容はこのようです。

フォト


全体的に、水谷代表が予め発表を選別なさっているためか、LEVELの高い作品ばかりで、どれも販売も出来そうな音質でした。

今回使われたスピーカーはサウンドパーツがフランスからユニットを輸入されて、アッセンブルされている励磁型のスープラボックスという現代スピーカーです。

フォト


歯切れのよい、ダイナミックないい音がしますので一度聴いてみてください。
個人的にはこの2ウェイで十二分で、これも京都の寺院に納められるそうです。

当地でKLANGの会を主催されて、管球王国にドイツ・クラングフィルムの歴史を連載されている当地の小林さんが20日かけてドイツ、フランスのオーディオマニア宅を訪問したり、クラングフィルムなどのスピーカーを仕入れてこられたそうです。

そこで出会ったドイツオーディオマニア邸の一部の写真です。

フォト


クラングフィルムのオイロパ・クラルトンをステレオでお使いのお宅です。

フォト


この写真だけでも驚きますが、実はこれはシステムのごく一部。
左右にそれぞれこのホーンが帯域を替えてさらに2本づつ、計6本の威容です。


フォト


これだけでも立派ですけど、これは大型ホーンスピーカーの裏側にまわって2段のドライバーウーハーを写した写真にも驚くばかりです。


ドイツではアインシュタインも、オクターブも、アバンギャルドもぜんぜん流行っていないそうです。アジア向けではないかと言われていました。
むしろアキュフェーズからTRIO時代までの日本トランジスターアンプが人気とはうれしいやらなにやら。

真空管も過去の性能の悪い製品との見方で、スピーカーはこのような戦前のものでも、アンプは日本のトランジスターアンプが多いそうです。
国民性からは理屈的に高性能であることが認識出来ないと使わないのだとか。


管球王国 新先生のステレオ誌マークオーディオユニットを使った自作スピーカー。

フォト


フォト


フォト


フォト


スピーカーはいなばの「猫カツオ」という餌の箱です。

フォト


これに送り出しはDAP、アンプはAmazonで7千円程度の中国デジタルアンプで十二分だそうです。

フォト


フォト


フォト


フォト


先生は最近はWestern Electricや真空管に固執することなく、柔軟に楽しまれているそうです。
このスピーカーがまたいい音で、SP盤の電気復刻をDSDレコーディングしたものから、現代音源まで違和感なく聴かせてくれました。
吸音材はコピー用紙がいいそうです。


これらは今回の自作品。

フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


フォト


自作DACもこんな念の入りようでした。

フォト


フォト


フォト


14時から開催の松本オーディオの会は懇親会を挟んで23時過ぎまで盛り上がりました。

フォト


翌日は松本市のロイヤルオーディオに寄って、こんなスピーカーユニットそのものを自作する催しを見たり

フォト


サウンドパーツの水谷代表邸に寄って、音質に納得出来ない平蔵の自作300Bプッシュプル真空管アンプを手直しいただいてとてもよい音質になりました。

フォト


フォト


前段のWE310の動作ポイントの定数にミスがあって、電圧が足りなかったことと、コンデンサーを国産からヴィシェイにして抜けのよい、力感溢れる、ダイナミックな音になりました。

水谷代表からも、「これなら松本オーディオの会に出してもおかしくない音質!」と太鼓判をいただけました。

最近思うのですが、餅屋は餅屋。
アンプはその道のプロに。ルームチューンはそのチューングッズ材を開発されている方に実際に部屋に来ていただいて聴いてチューニングいただくなど、専門専門の知識、経験をお借りした方が早く、確実だということを学びました。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1972742603
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c38

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
14. 中川隆[-14913] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:28:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2005]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c14

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
158. 中川隆[-14912] koaQ7Jey 2019年11月14日 22:29:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2004]

JBL15インチウーハー さようなら! ダイナミックオーディオ マラソン試聴会
2019-11-08
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html


ダイナのマラソン試聴会のワーストシステムです。

https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387804.html
https://ameblo.jp/tiromie/image-12543334568-14634387850.html

このJBL15インチウーハー、いずれもボーボー言っているだけで最悪に聞こえました。

遅い!尾は引くは、ボンつくは、膨らむは、エッジはないは!

いいところが一つもありません。

川又店長が出されたヒロアコースティックの低音などとは真逆の反面教師のような低域楽器の表現です。

もう会場で店員さんが言われた「JBL15インチウーハーに憧れってありますね!」なんて、相当の高齢者か、明治以降に西洋音楽が入るまで、低音の音階を現す楽器がなく、だから低音音痴と言われる日本人特有では?

元ドラマーからも、ベースはピッチの変化でリズムを表現するのに、このピッチの変化が聴こえてこないのですから、リズム聴こえずどうしようもないな!という感じです。

3万の入門用ベースでも300万のフェンダーベースでもベースの音色は同じとしか聴こえない

シングルヘッドかオイル含浸のダブルヘッドか、バスドラムのヘッドの張り調整、口径選択などのドラマーのチューニングも全く不明になる解像度(ボケ)です。

この手のを設置しているジャズ喫茶が寂れる一方も仕方ないですね。

現代スピーカーでも、アレイスピーカーでのPA領域でも15インチ(38p)、18インチ(46p)ウーハーなんてサブウーハー帯域の100Hz以下でしか使っていませんね。

比喩がわかりやすいと言われたたとえでは、今の20cm未満の軽量で分割振動しない新素材などのウーハーからは見るべきところのない、聞き所のないウーハーユニットですね。トロくて、スピードがないのですよ。車でいえばダンプカーですね。

まだ瀬川冬樹氏や菅野沖彦氏の悪影響が続いているのでしょうか・・・・
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html



2019年11月14日
マラソン試聴会で印象が変わった小型で安いスピーカー


JBL15インチウーハーが入ったシステムはマラソン試聴会での個人的ワーストとしました。
https://ameblo.jp/tiromie/entry-12543334568.html

逆に意外なほどよくて、この上のこちらより印象よく聞こえたのがこの真ん中のメーカーの最小の小型2ウェイでした。

アンプはたしかLINNのネットワークプレーヤー内臓のデジタルアンプで鳴らしておられた記憶です。

川又ルームで聴いたこちらのウィルソンしかり。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961870482&owner_id=8290003

どうも、ローエンドまで伸ばしたとしても、もたつく、膨らむ低音が出るくらいなら、あっさりとローエンドを諦めた小型2ウェイの方が低音楽器の音色、表現がわかりやすいのですね。

レコーディング、マスタリングモニターのメインが小型2ウェイというのもよくわかります。

友人に譲って、長野県県庁内の喫茶室で鳴らされている小型2ウェイのソナス・ファベール/ガルネリ・オマージュなんか、今聴いても、なかなかの低音楽器の姿を示しています。



コメント

mixiユーザー2019年11月14日 02:42

JBLは4343の頃から低音がドロンとして、他のユニットとのバランスが悪いと感じていたけれど、ステサンは「パワーアンプのドライブ能力が云々」というだけで、ホンマかいな?と思っていましたが、今でもドロンとしたまま進化してないのですね。もう、設計者の個性ととらえた方がいいのかな?


mixiユーザー2019年11月14日 02:51

> mixiユーザー 

日本でしか売れないそうです。低音音痴の日本人を見越して、低音の量だけあれば質はいいや!なんでしょうか冷や汗

mixiユーザー2019年11月14日 02:53
> mixiユーザー 

他に興味深かったことが、世界の頂点のハイスピードな低音のトップエンドスピーカーを聴いてしまうと、B&W800D3のそれはすでに遅いと感じてしまうことです。これもウーハーが大きすぎるような気がします。
https://open.mixi.jp/user/8290003/diary/1973651735

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c158

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